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クセノポン
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傭兵として参加した東征も、キュロスの戦死によって失敗に終わる。しかし、雇用主と指揮官の死去によってペルシア帝国の真ん中に放り出された傭兵部隊をまとめ、激しい攻撃や自然の猛威を防ぎながらも敵中を脱することができたのは、クセノポンの名采配あってこそだった。
『アナバシス』はギリシア傭兵たちがまとめて小アジアに侵攻したスパルタに雇われることで終わる。クセノポンは、そのままスパルタ軍の一員として活躍したようである。彼の著作『アゲシラオス』を見ると、スパルタ王アゲシラオス2世に心酔していたことが分かる。始めは、スパルタ軍と小アジアを支配するペルシア帝国との戦いであったが、ギリシア本土で反スパルタ陣営の反乱が生じ、コリントス戦争が勃発するにあたり、スパルタ軍の一員であるクセノポンも反スパルタ陣営との戦いに突入することになる。アテナイも反スパルタ陣営に在ったので、コロネイアの戦いにて、とうとうアテナイ軍を敵にまわして戦うはめになってしまった。
このため、クセノポンは当時の敵国であったスパルタに加担して、祖国に弓を引いたということで、アテナイを追放される。それでも、クセノポンはコリントス戦争をスパルタ側として戦い続けた。その功績を讃えられ、アンタルキダスの和約によってコリントス戦争が終結した後に、クセノポンはスパルタからオリュンピア近くのスキルスに荘園をもらって住み、悠々自適の生活を送りつつ、狩猟や著述にいそしんだという。その後情勢が変わってテーバイがスパルタを破ってスキルスを占領したためにクセノポンはスキルスを追われる事になる。だが、皮肉にも今度はテーバイの台頭を恐れたアテナイとスパルタが同盟を結んだために、クセノポンはアテナイ追放から解かれた。しかし、アテナイに帰国したかどうかは定かではなく、スキルスの次はコリントスに移住し、そこでその生涯を閉じた。没年は定かではない。
クセノポンの著作全体は、ギリシア語の模範テキストに多く用いられたため、ほぼ散逸すること無く現代に伝承されている。
師ソクラテスの言行。
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ディオゲネス
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ディオゲネス(希: Διογένης)は、ギリシャ語の男性名。
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エピクロス
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エピクロス(Επίκουρος、Epikouros、紀元前341年 – 紀元前270年)は、快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。エピクロス派の始祖である。
現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えた。
エピクロスはアテナイの植民地であったサモス島に、紀元前341年に生まれた。エピクロスの両親は、アテナイ人入植者であり、父は教師であったが、家族の生活は貧しかった。
当時アテナイ人の青年には2年間の兵役義務があり、紀元前323年エピクロスも18歳の時、アテナイへ上京した。この時アカデメイアでクセノクラテスの、またリュケイオンでテオプラストスの講義を聞いたと言われる。
2年のアテナイ滞在後、エピクロスは家族のもとに戻るが、サモス島のアテナイ人入植者は、アレクサンドロス大王の後継者ペルディッカスによって弾圧され、対岸の小アジアのコロポンに避難していた。コロポンの家族と合流した後、デモクリトス派の哲学者ナウシパネスの門下で学んだと思われる。
紀元前311年、エピクロスはレスボス島で自身の学校を開くが迫害を受け、翌年には小アジア北方のラムプサコスに移り、のちのエピクロス派を支える弟子たちを迎えた。
紀元前307年か紀元前306年には、エピクロスは弟子たちとともにアテナイへ移った。ここで郊外の庭園付きの小さな家を購入し、そこで弟子たちと共同生活を始めた。いわゆる「エピクロスの園」である。このエピクロスの学園は万人に開かれ、ディオゲネス・ラエルティオスは哲学者列伝の中で、この学園の聴講生として何人かの遊女の名前を記録している。
エピクロスはこの後、友人を訪ねる数度の旅行以外は、アテナイのこの学園で過ごした。紀元前270年、エピクロスは72歳でこの世を去った。
「エピクロスの園」は、レスボス島以来の高弟ヘルマルコスが引き継いだ。この学園は、エピクロス学派の拠点としてその後も長くつづき、ガイウス・ユリウス・カエサルの時代には第14代目の学頭が継承していたと言う。
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エピクロス
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エピクロスはこの後、友人を訪ねる数度の旅行以外は、アテナイのこの学園で過ごした。紀元前270年、エピクロスは72歳でこの世を去った。
「エピクロスの園」は、レスボス島以来の高弟ヘルマルコスが引き継いだ。この学園は、エピクロス学派の拠点としてその後も長くつづき、ガイウス・ユリウス・カエサルの時代には第14代目の学頭が継承していたと言う。
エピクロスの自然思想は、原子論者であったデモクリトスに負っている。つまりそれ以上分割できない粒子である原子と空虚から、世界が成り立つとする。
そうした存在を把握する際に用いられるのが感覚であり、エピクロスはこれは信頼できるものだとみなし、認識に誤りが生じるのはこの感覚経験を評価する際に行われる思考過程によるものだとした。
こうした彼の認識論は、後述する彼の倫理学説の理論的基盤となっている。たとえば彼は「死について恐れる必要はない」と述べているが、その理由として、死によって人間は感覚を失うのだから、恐怖を感じることすらなくなるのであり、それゆえ恐れる必要はないといった主張を行っている。このように「平静な心(ataraxiaアタラクシア)」を追求することを是とした彼の倫理学説の淵源は、彼の自然思想にあると言える。
エピクロスは、幸福を人生の目的とした。これは人生の目的を徳として、幸福はその結果に過ぎないとしたストア派の反対である。
倫理に関してエピクロスは「快楽こそが善であり人生の目的だ」という考えを中心に置いた主張を行っており、彼の立場は一般的に快楽主義という名前で呼ばれている。ここで注意すべきは、彼の快楽主義は帰結主義的なそれであって、快楽のみを追い求めることが無条件に是とされるものではない点が重要である。すなわち、ある行為によって生じる快楽に比して、その後に生じる不快が大きくなる場合には、その行為は選択すべきでない、と彼は主張したのである。
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エピクロス
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より詳しく彼の主張を追うと、彼は欲求を、自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア)」を追求することが善だと規定した。こうした理想を実現しようとして開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、その自己充足的、閉鎖的な特性についてストア派から激しく批判されることになった。
このようにエピクロスによる快楽主義は、自然で必要な欲望のみが満たされる生活を是とする思想であったが、しばしば欲望充足のみを追求するような放埒な生活を肯定する思想だと誤解されるようになった。しかしこうした生活については、エピクロス自身によって「メノイケウス宛の手紙」の中で、放埒あるいは性的放縦な享楽的生活では快がもたらされないとして否定的な評価が与えられている。
プラトンとアリストテレス以外の古代ギリシアの哲学者たちの著作は完全な形では現存せず、多くはさまざまな文献に引用された断片のみ後世に伝えられたが、エピクロスも例外ではない。ただし、古代ギリシア哲学者について主要な資料のひとつとなっている、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』は、多くの哲学者について、断片や風説を紹介するにとどまるのに、エピクロスについては最後の章を丸ごと当てて、エピクロスについての評伝と彼が書いたと伝えられる手紙、主要教説を収録している。
岩波文庫に訳された『エピクロス:教説と手紙』は、これに加え、1888年にバチカンの写本から発見された断片と、後の人々がエピクロスの言葉として引用した断片とをまとめて収録したものである。
ポンペイ近郊の遺跡ヘルクラネウムのパピルス荘からは、パピルス断片『自然について(英語版)』が出土した。
彼は「隠れて生きよ」と述べたが、その背景にはマケドニアによる反体制者の処刑、政治活動や思想への弾圧などアテネの不穏な社会情勢があったと言われている。
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芦奈野ひとし
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芦奈野 ひとし(あしなの ひとし、1963年4月25日 - )は、日本の漫画家。神奈川県横須賀市出身。
1994年にアフタヌーン四季賞春のコンテストで四季賞を受賞した『ヨコハマ買い出し紀行』が連載化してデビューし、代表作となった。
スクリーントーンと斜線で陰影を表現したシンプルな画面と、ノスタルジックでのんびりしつつも少し不思議な物語、セリフの少ない独特の間のとりかたを特徴とする。
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松田聖子
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松田 聖子(まつだ せいこ、1962年3月10日 - )は、日本のアイドル・歌手・シンガーソングライター・女優。
所属事務所はfelicia club(フェリシアクラブ)。身長160cm、体重42kg(身長、体重は公式サイト2008年12月25日のデータより)。福岡県久留米市荒木町出身。血液型A型。
日本を代表するアイドル歌手。1970年代を代表するアイドルだった山口百恵が引退すると交代するようにデビュー、まもなくヒット曲を連発しただけではなく、髪型や、後には生き方など、さまざまな面で日本の大衆文化に大きな影響を与えるカリスマ的な存在となった。
1970年代を代表するアイドル山口百恵が引退した年の1980年4月に「裸足の季節」でレコードデビュー。伸びのある歌声で注目され、リリースしたレコードが次々とヒットを記録する1980年代を代表するアイドルとして活動した。類い稀な声質と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい仕草や容姿とが相まって人気を獲得し、トレードマークの「聖子ちゃんカット」と呼ばれるヘアスタイルを模倣した若い女性たちが当の街中に溢れかえった。後に中森明菜と人気を争うようになり、当時を知るファンの間では音楽番組における順位争いや、「聖子と明菜のどちらが好きか」という議論が語り草となっている(中森明菜は、歌番組でこの類の話題が出るとき、「聖子ちゃんのアルバム持ってますよ」とかわしていた。また、歌番組で『白いパラソル』を自己流の振り付けで歌ったり、アルバムで『瑠璃色の地球』をカバーしており、ライバル歌手としてではなく、切磋琢磨する同士としての認識が強かった)。
芸能界が「百恵引退後のアイドル像」を模索する中で、百恵の「実人生とアイドル像を限りなく一致させる」方針とは正反対の「ドレスを着飾ったアイドルの原点」を演じるという方向性を取り、実際に衣装や容姿に自身の主張を通していた(『聖子ちゃんカット』も自身が行きつけの美容室で相談しながら作り上げたものである)。聖子のアイドル像は、百恵の徹底した「脱アイドル」以前にあった「アイドルの原点」を表現する事にあり、これが若者の支持を集めたのではないかと評されている。百恵が引退した1980年10月の時点で、デビュー半年後の聖子は既に「ポスト山口百恵」の筆頭として認知されるに至っていた。
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松田聖子
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出版プロデューサーの但馬オサムは「容姿だけでなく歌の表現力でも1980年代のアイドル歌手としては突出したものを持っていた」と評価しており、歌の下手なアイドルでも通用した「かわい子ちゃん歌手」の時代からの転換を象徴していた。声量に関しても特筆すべきものがあり、初期の楽曲の作詞を手掛けた三浦徳子は初めて聖子の歌声を聴いた時を振り返って「いくらでも声が出るんで驚きました。マイクなんかいらないくらい」とコメントしている。また、三浦が「母音をしゃくりあげるような歌い方」と表現する特徴的な歌唱法は同じく初期の楽曲の作曲を手掛けた小田裕一郎から受けたレッスンの影響によるもので、彼の歌い方にそっくりだという。
聖子を発掘してプロデュースしたCBS・ソニーディレクターの若松宗雄は、聖子の魅力について第一に声質を挙げ、透明感と強さ、その中に娯楽性とある種の知性を感じたと語っている。絶頂期は多忙なスケジュールから曲のレッスンを受ける時間はなく、レコーディング当日に楽曲を聴いて即収録に挑んでいた。プロデューサーからもとにかく勘が良いと言われており、2〜3回デモを聞いただけで曲調を覚えて歌えるようになっていたという。若松は聖子の上げた売り上げを惜しみなく有能なスタッフや新技術へと投入し、オリジナルアルバム「Pineapple」は1982年10月1日には世界初のCDとして発売された50タイトルの中に名を連ねている。1983年発売のアルバム「ユートピア」からデジタルレコーディングが行われるようになり、デジタルレコーディングの先駆者となった。マルチトラック・レコーダーには後にCDマスタリングのスタンダードとなるソニーのPCM-3324が導入され、CD時代を見据えた準備を他のアイドルよりも数年早く開始していた。1983年には過去作品も含めて音質にこだわったCD、マスターサウンドLP、メタルマスターCTが発売された。
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松田聖子
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楽曲の記録としては、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート第1位を獲得した。これはピンク・レディーが当時持っていた9曲連続を大幅に塗り替える記録であり、1980年代当時「アイドル四天王」と呼ばれた南野陽子・中山美穂・浅香唯・工藤静香の1位獲得記録の合計を上回るものであった。この記録は、CDバブルを迎えた2000年に破られるまで11年10か月間保持していた。
デビュー初期の曲は、主として三浦徳子の作詞・小田裕一郎の作曲によるものだったが、6枚目のシングル「白いパラソル」以降は作詞に松本隆が起用され(19枚目のシングル『ハートのイアリング』まで)、作曲家の選択も含め松本のプロデュース色が濃くなっていった。編曲は2枚目のシングル「青い珊瑚礁」から大村雅朗が主体となり、アルバム曲を含めた多くの楽曲を担当した。1980年代の作曲家は財津和夫、松任谷由実(『呉田軽穂』名義)、細野晴臣などニューミュージック系の作家が多かった。こうしたシンガーソングライターの起用について若松は、かつて自身が担当したキャンディーズと吉田拓郎のコラボの成功が念頭にあり、「独創的なシンガーソングライターとアイドルのコラボは予想を超えた新しい世界を生み出す」という判断からだったと述べている。
私生活では、デビュー前から憧れの存在であり数年にわたる交際の末に結婚間近とまで言われていた郷ひろみと破局。その後、すぐに映画で共演した神田正輝との交際が公となり、1985年6月に結婚。翌1986年10月1日に長女・沙也加を出産するなど、話題は尽きなかった。母となり大きな転換期を経た後も変わらずアイドル歌手としてヒットを続けたため、「ママドル」という呼称も生まれた。
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松田聖子
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私生活では、デビュー前から憧れの存在であり数年にわたる交際の末に結婚間近とまで言われていた郷ひろみと破局。その後、すぐに映画で共演した神田正輝との交際が公となり、1985年6月に結婚。翌1986年10月1日に長女・沙也加を出産するなど、話題は尽きなかった。母となり大きな転換期を経た後も変わらずアイドル歌手としてヒットを続けたため、「ママドル」という呼称も生まれた。
1980年代から作詞や作曲を行うことが時折あり、「小さなラブソング」の作詞に始まり、「Canary」、「時間旅行」、「シェルブールは霧雨」などを作曲。この経験が後のセルフプロデュースにつながっていき、1990年代以降は作詞・作曲やアルバムのプロデュースに自ら取り組むシンガーソングライターとしての活動を展開していった。その一環として海外での音楽活動も意欲的に行っており、1990年にSeiko名義で全米デビューを果たした後も日本でのポップス路線と並行してたびたびリリースを続けていた。1996年には、小倉良と共作した「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」が初のミリオンセラーを記録し、自身最大のヒット曲(2022年現在)となった。歌手として円熟味が増した近年では、海外進出時に出会った著名な音楽家との交流を元に全編英語詞のジャズアルバム(『SEIKO JAZZ』、『SEIKO JAZZ 2』)をリリースするなど、新たな一面も見せている。
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松田聖子
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デビューから40年あまり、過激なプライベート報道や様々なバッシングに遭いながらもなお「アイドル」と呼ばれ続けるその活動に敬意を表して「永遠のアイドル」と称されることもあり、『女性自身』や『婦人公論』その他の雑誌、TVなどのメディアにおいて「生き方に憧れる女性有名人」「輝いている女性有名人」「スターだと思う有名人」「永遠のアイドルだと思う有名人」などの好感度アンケートでは常に上位にランクインした。2007年4月9日、「松田聖子的生き方」とそれに共感する同世代の女性たちに焦点を当てたドキュメンタリー番組、NHKスペシャル『松田聖子 女性の時代の物語』が放送され、放送後も『朝日新聞』の天声人語(4月15日付)にもその話題が取り上げられた。大宅壮一文庫創設以来の人名索引総合ランキングでは「松田聖子」が1位(2020年10月)となっており、2位の小沢一郎らを抑えて「日本の雑誌に最も頻繁に登場した著名人」とされている。
1962年3月10日、福岡県久留米市荒木町(当時の三潴郡筑邦町)に、同県柳川市出身で社会保険事務所に勤める公務員(厚生省事務官)の父親と、同県八女市の庄屋出身の母親の長女として、母方の伯母が院長夫人だった高良台病院で生まれた。難産で生まれた時には仮死状態であった。
出生名は蒲池 法子(かまち のりこ)。生家は柳川城の城主だった蒲池氏第16代目蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の三男・蒲池統安の子孫であり、江戸時代には柳河藩12万石(立花家)の家老格だった旧家。家紋は蒲池久憲以来の「左三巴」。8歳上の兄がいる。
幼少期太っていた法子は、「ブタまんじゅう」と呼ばれてからかわれていた。久留米市立荒木小学校卒業後、久留米市立荒木中学校に入学しテニス部に所属。ラケットを忘れた後輩にそっと自身のラケットを差し出す優しさがあり、歌うことが好きで、ラケットのグリップをマイク代わりにテニスコートでキャンディーズの曲を歌っていたという。自宅と同校が隣接しているため、油断して遅刻の常習者となっていた。なお、1997年には同校創立50周年記念に正門を寄贈している。中学時代はスチュワーデスか保母になりたいと思っていた。母親は二重まぶたのはっきりした目なのに自分は一重まぶただったため、母親の目が羨ましかったという(デビュー後の雑誌インタビューによっては、好きな自分の体の部位として目を挙げた事もある)。
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松田聖子
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1977年、4月8日、カトリック系の久留米信愛女学院高等学校に入学する。ジャンパースカートとボレロの制服に憧れ、父親も娘を淑やかなお嬢さんに育てたいという方針でこの高校が選ばれた。キリスト教研究部に入部し、聖書の勉強に勤しむ。行事の度に皆の前で聖書を読む「女神」という役職(各学年で1人ずつ)に選出される。大ファンの郷ひろみのコンサートが福岡で行われる度に観に行き、歌手に憧れるようになる。
高校入学まもない春、福岡開催のテイチク新人歌手オーディションに応募し、桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を歌うが二次審査で落選。8月には第二回ホリプロタレントスカウトキャラバン九州大会にも応募するが書類選考の第一次審査で落選。この時一緒に応募した友人は一次審査に合格したものの大会直前に扁桃腺手術をして歌えなくなったため、法子(聖子)が急遽フォロー役でコンビを組みピンクレディーの曲で出場した。2人は最終審査の5組に残ったが優勝できなかった。
高校2年となる1978年、CBS・ソニーと集英社『セブンティーン』が主催する『ミス・セブンティーンコンテスト』九州地区大会に再び桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を録音したテープを送り予選合格。歌手になりたいという動機以外の応募理由には、優勝特典が「アメリカ西海岸のディズニーランドにご招待」で、「大好きなミッキーマウスに会える」という事と、全国大会のゲスト審査員が憧れの郷ひろみであったからである。そして4月に福岡市民会館で行われた九州地区大会に出場した。
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松田聖子
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しかし、両親には内緒で応募していたため、コンテスト当日は「大好きな歌手に会いに行く」と嘘をつき母親に会場まで車で送ってもらった。母親は法子と別れて買い物に行くが、買い物を終えて会場に入ってみると我が子がステージ上で歌っていて驚いたという。どうせすぐに負けるだろうと思い見ていたが、結果はなんと優勝で全国大会への切符をつかむ事となった。父親にバレると絶対に叱られると考え、帰宅後は賞品のトロフィーを物置に隠し、花束は母親が結婚式帰りの友人に貰った事にして誤魔化した。ただ、全国大会までには話しておかなければと、数日後に打ち明けたが、公務員で厳格な父親は娘の芸能界入りに断固反対。今まで1度も手を挙げた事がない父親が初めて法子の顔をぶった。学校でも「規則なので許されない。どうしても出たいなら退学するしかない」と言われ、シスターの前で泣いたという。結局全国大会は辞退する事となった。一方、決戦大会を視察してこれといった逸材を発見できなかったCBSソニー企画制作部の若松宗雄は、コンテスト事務局に問い合わせて各地区の出場者のデモテープを取り寄せた。プロフィールも写真も無い音声だけの資料を100名分ほどチェックしていた時、九州地区大会で優勝した法子の歌声に衝撃を受け、「この子は絶対に売れる」と確信して別件でプロデビューさせようとスカウトする決意をした。若松は法子の歌声を初めて聴いた時のショックを「まるで夏の終わりの嵐が過ぎたあと、どこまでも突き抜けた晴れやかな青空を見た時のような衝撃でした」と語っている。このときのテープは若松が現在も保管しており、2022年に上梓された「松田聖子の誕生」でテープの写真が公開された。
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松田聖子
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法子の芸能界入りは、学校の規則や父親の反対により既に断念されていたが、諦めきれなかった若松は久留米の実家まで足を運び父親に直談判した。しかし、父親の信念は固く、ここから半年以上の間、法子と若松は父親を説得し続ける事になる。若松が何度も娘と連絡を取り合っている事に見兼ねた父親が、自分を介さない電話のやり取りをやめるよう若松に告げたため、事務所の女性スタッフに友人の振りをして電話を掛けてもらったり、法子の冬休みに東京の親戚の家に行くという口実で直接会うなど工夫を重ねた。法子も近況報告と「絶対に歌手になる」という強い想いを綴った手紙を毎月のように若松へ送り、遂には「お父さんが認めてくれなければ家を出ます」と宣言した。そんな状況が続き、父親もこのまま否定し続けるのは娘にとって良くないのではないかとの考えに至り、「3年で芽が出なければ帰ってくる」という約束でようやく承諾を得る事ができた。そして、1979年1月中頃、父親は若松を呼び出し、法子と両親の4人での食事の場で「若松さんに預けます。あなたに預けますから責任を持って預かって下さい」と念を押して託した。
晴れて歌手を目指す事が決まった法子は、福岡にある平尾昌晃音楽学校に週2回通い、稽古を積んだ。当時の様子として平尾は、「歌手になる事を夢見る子は多いが、その先に自分の成功をイメージできている子は珍しい」と感心したという。若松は所属事務所を探す目的で東京音楽学院九州統括福岡校(渡辺プロ系列)の支部長に声を掛け、法子を紹介している。支部長も法子を気に入り、本社にその旨を伝えていたが、東京の渡辺プロ本社は送られてきたデモテープをあまり重視せず、「この娘はガニ股でテレビ映りが良くない。舞台でも問題がある」との理由で、スタイルの悪いO脚の法子の写真を見て不採用とした。若松は次にプロダクション尾木の尾木徹社長に話を持ちかけたが、これも不採用となった。
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松田聖子
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1979年5月、事務所探しに奔走する若松が次に声をかけたのが面倒見の良い相澤秀禎社長のサンミュージックプロダクションであった。当初は相澤が支持していた新人アイドル候補がいた事もあり一旦は断られるも、何度か交渉を行った結果、翌月に面接を行う事が決まる。6月、相澤を含むスタッフ20〜30人が集まる中で法子のプレゼンテーションが行われた。法子を初めて見た相澤は、田舎から上京してきたばかりで垢抜けず爽やかでもないという印象を持ち、男性スタッフも同様に興味を持たなかった。結局すぐに採用とはならず、やはり若松が何度か話し合いを続けていった所、直接歌唱を聴いた幹部社員で音楽プロデューサーの杉村昌子が熱烈に推した影響もあり、相澤の心が動いて契約に至る。
当時のサンミュージックは、新人アイドルとして売り出す予定の中山圭子に注力していたため、法子がすぐに歌手デビューする予定はなく(翌年にはその方針が変わる事となる)、翌年3月に高校を卒業してから来るのが自然な流れであった。そうして一旦は福岡に戻ったが、1日でも早く歌手になりたかった法子は単身で相澤の自宅を訪れ、高校を中退した事、そして歌手への想いを伝えた。その行動力と熱意に押された相澤は法子を自宅に下宿させる事にした。若松へは母親から電話があり、なるべく早めに動いた方が運気が良い気がするという本人の話を受けて、7月に予定されていた父親の東京出張に合わせて法子も上京する運びとなった。そして、父親と共に5日間ほど東京に滞在して父親だけが帰郷する日、若松を含めた3人はレストランで最後の食事をした。食事の帰り道、法子は寂しさのあまり泣きだしてしまい、見かねた父親が「そんなに悲しいなら一緒に帰ろう」と薦めるが、両親の反対を押し切ってまで来たのだから頑張らねばという想いから、泣きながら「帰りません!」と強い口調で返したという。
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松田聖子
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1979年7月、堀越高等学校に転学する為、面接を受ける事となる。その際、教室の外で待っていた付き添いの若松に、中から出てきた面接官の教師が「あの子本当に歌手としてやっていけるんですかね?」と尋ねてきたという。法子の潜在的な能力を理解していた若松は一言「大丈夫です」とだけ返した。面接の結果は合格で転入が決まった。急な転校によって友人らと離れてしまったので、翌月2日間だけ休みを貰って帰郷し、親しい友人らによって法子のお別れ会が行われた。
相澤は朝のジョギングが日課であり、下宿するタレントも一緒に走るのが恒例となっている。法子も毎朝5時半に起床し、約30分のコースを同行した。そこでタレントとしての心構えや一般常識、マナーから人との関わり方まで色々な事を教えられた。道中、小さな鎮守社に寄って手を合わせるのだが、法子はいつも「毎日、誰よりも厳しいレッスンを積んで努力します」と声に出して拝んでいたという。
プロダクションが用意した「新田明子」と「松田聖子」という芸名から、法子は後者を選んだ。ちなみに「新田明子」は中山圭子の為に考えられてボツになったものだった(中山はそれを法子に告げていなかった)。当初は「新田明子」でほぼ決定の状態であったが、あまりパッとしない印象であり本人も気に入らなかったため、社長の相澤が当時凝っていたという姓名判断に委ねた結果、沖紘子の名付けで「松田聖子」に決まったという説もある。
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松田聖子
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1979年10月、日本テレビ系ドラマ『おだいじに』のレギュラー出演が決定し、女優デビューする事となる。名前を憶えてもらうため、芸名の「松田聖子」がそのまま役名となった。ドラマ内でサンミュージックの先輩でもある太川陽介とのキスシーンがあったが、聖子にとってはそれがファーストキスであったため、シーンを撮り終えた途端に聖子が布団を被って泣き出し、相手役の太川は複雑な心境になったという。11月、ニッポン放送『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』のパーソナリティ「パンチ・ガール」のオーディションに合格し、翌年1月からレギュラー出演開始。この時同番組のスポンサーの平凡パンチからは「スレンダーなので、グラビア映えしない」として一度はノーが出されたが、同番組ディレクターの宮本幸一の強い説得で、平凡パンチの担当部長・編集長とも最後には折れて、同番組への出演が叶ったということがあった。そしてこの頃、歌手デビュー予定のタレントという事で「歌わない歌手 デビュー」と紙面に取り上げられた事がある。
同月、資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMモデルのオーディションを受け、一次審査の面接、二次審査の水着での踊りに合格するが、最終審査のテスト撮影でどうしてもえくぼが出なかったため不合格となる(選ばれたのは、同じく新人タレントの山田由紀子)。これ以前にもアイスクリームのCM出演オーディションを受け落選している。
1980年1月末、NHK総合『レッツゴーヤング』の中のユニット「サンデーズ」のメンバーオーディションを受ける。本来はドラマ『おだいじに』の札幌ロケがこの日まで予定されていたが、1日早く終わったおかげで受ける事ができた。そして翌月、田原俊彦らと共に新メンバーに抜擢される。
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1980年1月末、NHK総合『レッツゴーヤング』の中のユニット「サンデーズ」のメンバーオーディションを受ける。本来はドラマ『おだいじに』の札幌ロケがこの日まで予定されていたが、1日早く終わったおかげで受ける事ができた。そして翌月、田原俊彦らと共に新メンバーに抜擢される。
注力中の所属アイドルの売り上げ不振に頭を悩ませていた相澤は、聖子が出演不合格となった「エクボ」のCM制作サイドに陳情。それによって何とかコマーシャルソングとしての起用が1980年2月に決定し、4月1日にシングル「裸足の季節」で歌手デビューを果たした。なお、相澤は聖子にビジュアル面を期待しておらず、もっぱら歌だけでやって行こうと考えていた為、出演させなかったとも語っている。上述のような様々な要因が重なり偶然にも、1970年代を代表するアイドル山口百恵の引退という、時代の転換期である1980年にデビューする事となった。デビュー時のキャッチフレーズは「抱きしめたい! ミス・ソニー」。
聖子の歌声はタイアップCMによってテレビで頻繁に流れたものの、当初は顔と名前の浸透度が低く、CMに出演した山田由紀子が歌っていると勘違いする人も多かった。山田と2人で行ったCMイベントのサイン会でも聖子の前には誰も並ばず、「あの娘は誰?」という目で見られ悔しい思いをしたと、後に発言している。それから程なくしてテレビの歌番組などに聖子が登場するようになると、その容姿と声量のある魅力的な声が相まって瞬く間に人気が沸騰した。「エクボ」のCMシリーズではその後も「風は秋色」、「夏の扉」などでも歌唱のみの起用が続いた。テレビCMで流れる聖子の歌声を初めて耳にした作詞家の松本隆(後に聖子の楽曲の作詞を手掛ける事になる)は、「彼女の声の質感と自分の言葉がすごく合うような気がした」と直感的に感じたという。
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松田聖子
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デビュー日となる4月1日、日本テレビ『ズームイン!!朝!』に出演し、CBSソニー社員らの声援をバックに告知を行う。同月、NHK『レッツゴーヤング』に「サンデーズ」のメンバーとしてレギュラー出演開始、かつて音楽学校でレッスンを受けた平尾昌晃と共演する。4月末にはフジテレビ『夜のヒットスタジオ』に「裸足の季節」で初登場。7月3日、TBS『ザ・ベストテン』にも「スポットライト」コーナーに第11位として仲の良い岩崎良美とともに初登場した。8月には2枚目のシングル「青い珊瑚礁」で、『ザ・ベストテン』に第8位で初ランクした。「青い珊瑚礁」では編曲に大村雅朗を初めて起用し、以後大村は同郷の聖子を長年支えることになる。
9月、「青い珊瑚礁」で『ザ・ベストテン』の第1位を初めて獲得(オリコンチャートでは最高第2位)。2週連続1位となった9月25日の放送では、「さよならの向う側」で10位にランクインした山口百恵と初共演した。このシーンは70年代と80年代を代表するアイドルの最初で最後の共演となった。同年10月発売の3枚目のシングル「風は秋色」で初めてオリコン第1位を獲得。年末の『第22回日本レコード大賞』では「青い珊瑚礁」で新人賞を受賞。『第31回NHK紅白歌合戦』にもデビュー1年目で初出場した。
伸びのある透き通った歌声と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい振る舞いによって、その人気はうなぎ登りとなった。セミロングのふわっとした女の子らしいヘアスタイルは「聖子ちゃんカット」と呼ばれて全国の若い女性の間で大流行し、翌年1981年の年末に突然、聖子がショートカットになると今度はショートカットが流行り出した。
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松田聖子
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伸びのある透き通った歌声と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい振る舞いによって、その人気はうなぎ登りとなった。セミロングのふわっとした女の子らしいヘアスタイルは「聖子ちゃんカット」と呼ばれて全国の若い女性の間で大流行し、翌年1981年の年末に突然、聖子がショートカットになると今度はショートカットが流行り出した。
小田裕一郎による西海岸風のサウンドに始まり、2年目にはチューリップのリーダーである財津和夫を起用。さらに作詞に松本隆を迎え、「聖子プロジェクト」とも呼ばれる若松・松本・大村を中心とした強力なプロデュース体制が成立する。松本や大村は交流のある大瀧詠一、松任谷由実、細野晴臣、佐野元春、尾崎亜美、大江千里といったニューミュージック系のミュージシャンを次々とシングルの作曲に起用していった。アルバムにおいても杉真理、来生たかお、原田真二、甲斐祥弘、南佳孝、林哲司、矢野顕子、玉置浩二等、錚々たる顔ぶれが質の高い楽曲を多数提供し、山口百恵ですら数万枚であったオリジナルアルバムのセールスをシングル並みの数十万枚に引き上げ、当時のアイドルのアルバムとしては異例のセールスを記録した。
デビュー間もない頃の声量のある力強い声質は酷使によりややハスキーな色合いを帯びていったが、それが大人の魅力となり「赤いスイートピー」、「SWEET MEMORIES」などの代表曲が生まれた。元々B面だった「SWEET MEMORIES」は、ペンギンのキャラクターが印象的なサントリー缶ビールのCM曲だった。使われたのは英語詞の部分で、当初は「歌・松田聖子」のクレジット表記も無かった為、「誰が歌っているのか?」という問い合わせや反響が相次いだ。これは本人がCMに出演しなくても歌声だけで注目を集めたデビュー曲の「裸足の季節」と通じるものがある。その後、歌番組でこの曲が歌われるようになると名曲として広く知れ渡り、多くのアーティストにカバーされるほどの代表曲となった。
こうして作り出された恵まれた楽曲を歌いこなし、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート1位を獲得、山口百恵から松田聖子へとアイドルの頂点は引き継がれた。
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松田聖子
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こうして作り出された恵まれた楽曲を歌いこなし、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート1位を獲得、山口百恵から松田聖子へとアイドルの頂点は引き継がれた。
社長の相澤は、ファンが欲しているものをその場で判断してそれにあった雰囲気作りをする聖子の頭の回転の速さと行動力を評価しており、持ち前の声の良さとプロ根性と共にその「巧妙な自己演出」が松田聖子という歌手を完成させたと語っている。
1985年1月、交際していた郷ひろみ(結婚間近と噂されていた)との破局を発表し、単独で記者会見を行う。「生まれ変わったら一緒になろうねと話し合った」と泣きながら語る一幕は話題となった。その会見からわずか数日後の2月には、映画『カリブ・愛のシンフォニー』で共演していた神田正輝が聖子との交際を認め、4月に婚約を発表。6月に行われた結婚式は、石原プロの俳優陣を含む豪華な面々が参列し、式場周りには多くの報道陣が詰めかけた。続く披露宴では、スター同士のカップルという事で多くの芸能人が招待される非常に派手な催しとなった。司会を務めたのは当時日本テレビアナウンサーの徳光和夫。結婚式・披露宴の独占放送権を獲得したテレビ朝日は、約10時間に亘りこの模様を放送。ゴールデンタイムの平均視聴率は34.9%(ビデオリサーチ・関東地区)を記録した。2日後の6月26日の『夜のヒットスタジオ』では司会の芳村真理が、出演者の郷ひろみに「聖子ちゃん、きれいだったわよ」と言い、郷が「そう...... よかった」とだけ応じる場面があった。その後に郷は「ハリウッド・スキャンダル」と「哀愁のカサブランカ」を熱唱した(「哀愁のカサブランカ」の歌に合わせて、聖子との共演シーンが流される演出がなされた)。
妊娠・出産の準備のため年内での歌手活動休止を発表。年末の『第36回NHK紅白歌合戦』を最後に音楽番組への出演が途切れた。結婚以前のインタビューなどでは、自身の将来について、結婚後は芸能界を引退し主婦業に専念したいという趣旨のコメントも見受けられたが、夫となった神田正輝が「自由に働けば良い」と復帰を容認していた事もあり、ファンの期待に応える形で歌手業を続ける選択をした。
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松田聖子
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妊娠・出産の準備のため年内での歌手活動休止を発表。年末の『第36回NHK紅白歌合戦』を最後に音楽番組への出演が途切れた。結婚以前のインタビューなどでは、自身の将来について、結婚後は芸能界を引退し主婦業に専念したいという趣旨のコメントも見受けられたが、夫となった神田正輝が「自由に働けば良い」と復帰を容認していた事もあり、ファンの期待に応える形で歌手業を続ける選択をした。
1986年10月1日、長女の沙也加を出産。ワイドショーなどのメディアは、退院の様子や娘を抱いてインタビューに応える場面など一挙手一投足を報じた。同年6月、妊娠中にレコーディングしたアルバム『SUPREME』を発売。自身のアルバム作品で最高の売り上げを記録し、年末の『第28回日本レコード大賞』では「アルバム大賞」を受賞した。同番組で久々のテレビ歌唱を果すと、続けて『第37回NHK紅白歌合戦』にも出場した。
1987年4月発売のシングル「Strawberry Time」で歌手業に本格復帰。出産後も以前と変わらぬスタイルで活躍する様子から「ママドル」という呼称も生まれた。聖子がきっかけで生まれたこの言葉はその後も、かつてアイドルだった子持ちの女性タレントを示す言葉として頻繁に使用されるようになった。1988年のアルバム『Citron』はデイヴィット・フォスターによるプロデュースで、シングルの「Marrakech〜マラケッシュ〜」も第1位のヒット作となったが、この曲が『ザ・ベストテン』最後の出演となった。
1989年6月、サンミュージックとの契約満了を機に同社から独立し、8月に個人事務所「ファンティック」を設立した。この独立に関しては、海外進出を狙うレコード会社側と、それを受け入れない事務所側との方針のズレが原因だと言われている。アメリカ行きを決断した聖子は、育ての親である事務所社長の相澤に連絡を取ろうと何度も電話をかけるが、独立にショックを受けていた相澤が電話に出る事はなく、絶縁状態で別れる事となる。
11月、27枚目のシングル「Precious Heart」がオリコンチャート2位止まりとなり、連続1位の記録が遂に途絶えた。
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松田聖子
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11月、27枚目のシングル「Precious Heart」がオリコンチャート2位止まりとなり、連続1位の記録が遂に途絶えた。
1990年、海外進出となるシングル「All the way to Heaven」、「THE RIGHT COMBINATION」、アルバム『Seiko』などを国内外で発売した(1985年にアルバム『SOUND OF MY HEART』で海外進出を目指していたが、芸能活動休止によるプロモーション不足のため中止された)。日本ではあまり報道されていなかったが「THE RIGHT COMBINATION」はカナダで2位とヒットし、結果を残した。11月のシングル「We Are Love」から再び日本に拠点を移して活動。続くシングル「きっと、また逢える...」以降は、作詞だけでなく作曲にも自ら取り組むようになった。1992年のアルバム『1992 Nouvelle Vague』から1998年のアルバム『Forever』まではセルフ・プロデュースが基本となり、全曲の作詞・作曲を自身で行った(作曲の多くは小倉良との共作)。シングルではチャート4位の「きっと、また逢える...」(1992年)、7位の「大切なあなた」(1993年)、12位の「輝いた季節へ旅立とう」(1994年)、5位の「さよならの瞬間」(1996年)などをヒットさせた。
作詞家としては恋愛感情を赤裸々にさらけ出す歌詞、あるいは生き方や気持ちの切り替え方などを含め、非常に前向きな歌詞を書く事が多い。当時の作曲法としては、聖子がイメージしたメロディをピアノや鼻歌などで伝え、共作者の小倉がギターなどで形にするというスタイルだった。「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」のように、同主調や平行調、あるいは属調や下属調などの近親調への転調をアクセントに使う傾向も見られ、これは小倉の特徴でもある。
1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』で6年ぶりに同番組に出場。舞台上に下降したミラーボールの中から登場し会場を沸かせた。翌1995年の『第46回NHK紅白歌合戦』では、ピンクのドレスに熊のぬいぐるみを背負うという出立ちで、「青い珊瑚礁」などを含むメドレーを披露してアイドル性の健在ぶりを見せた。
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松田聖子
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1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』で6年ぶりに同番組に出場。舞台上に下降したミラーボールの中から登場し会場を沸かせた。翌1995年の『第46回NHK紅白歌合戦』では、ピンクのドレスに熊のぬいぐるみを背負うという出立ちで、「青い珊瑚礁」などを含むメドレーを披露してアイドル性の健在ぶりを見せた。
1996年発売の「あなたに逢いたくて〜Missing You〜/明日へと駆け出してゆこう」が久々にチャート1位となる。自身初のミリオンセラーを記録し、最大のヒット曲(2021年現在)となった。この時期には「私だけの天使〜Angel〜/あなたのその胸に」(1997年)など、長女・沙也加への母性愛をテーマとした楽曲もいくつか発表した。
1997年1月、神田正輝と離婚した事を公表。翌1998年5月に、6歳年下の歯科医師と2度目の結婚(2000年12月に離婚)。
1999年のアルバム『永遠の少女』では、11年ぶりに松本隆が作詞を担当し、作曲も聖子以外の作家の作品となった。1997年に亡くなった大村雅朗の遺した楽曲「櫻の園」も収録された。歌手活動20周年を迎えた2000年のアルバム『20th Party』からは再び、自身と小倉良の楽曲がメインとなるが、原田真二も制作に加わり、同年のアルバム『LOVE & EMOTION VOL.1』から2004年のアルバム『Sunshine』までは原田が作曲・プロディースを担当した。その間、海外進出第3弾となったアルバム『area62』もアメリカのインディーズレーベルで発売した。
2005年以降は、鳥山雄司プロディースのアルバム『fairy』を経て、2006年の『bless you』で再び小倉とのコンビとなるが、2007年の『Baby's breath』で初めて作詞・作曲を単独で行ったアルバムを発売。それ以降もセルフ・プロデュースのアルバムがメインとなった。
2001年から2005年ごろは、芸能界デビューした娘の神田沙也加と音楽番組やバラエティ番組でよく共演したり、2005年以降は自身の旧来ファンである著名人とも共演したりした。
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2001年から2005年ごろは、芸能界デビューした娘の神田沙也加と音楽番組やバラエティ番組でよく共演したり、2005年以降は自身の旧来ファンである著名人とも共演したりした。
2006年、年末のディナーショーにてかつての所属事務所サンミュージック会長の相澤秀禎と17年ぶりに再会。ようやく和解できた喜びから、楽屋に駆けつけた相澤の姿を見て号泣したという。翌2007年には聖子からの提案によりサンミュージックと業務提携している。
2011年には、女性アーティストからの楽曲提供は尾崎亜美以来26年ぶりとなる、竹内まりや作詞・作曲のシングル「特別な恋人」がオリコン14位となった。2012年6月に、同世代の大学准教授(歯科医)と3度目の結婚。2015年には、デビュー35周年記念のシングルとして「時間の国のアリス」以来31年ぶりに松本隆と呉田軽穂(松任谷由実)のコンビによる「永遠のもっと果てまで/惑星になりたい」が発売されてチャート11位となった。2016年にはYOSHIKI作詞・作曲のシングル「薔薇のように咲いて 桜のように散って」がチャート6位のヒットとなった。2015年の『Bibbidi-Bobbidi-Boo』から起用された編曲家の野崎洋一が、以降の作品で編曲を担当する事が多い。
2014年2月末、新事務所「felicia club」を設立し「ファンティック」から移籍。
2017年、新たな取り組みとして全編ジャズで構成されたアルバム『SEIKO JAZZ』を発売。2019年には第2弾となる『SEIKO JAZZ 2』を発売した。
2020年、デビュー40周年を迎え、アルバム『SEIKO MATSUDA 2020』を9月にリリース。初期の楽曲を数多く手掛けた財津和夫と37年ぶりのタッグを組んで制作した「風に向かう一輪の花」などを収録。同曲の歌詞の内容はファンへの感謝や自身の人生の回顧と今後の決意となっており、40周年記念における中心的楽曲となっている。
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松田聖子
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2020年、デビュー40周年を迎え、アルバム『SEIKO MATSUDA 2020』を9月にリリース。初期の楽曲を数多く手掛けた財津和夫と37年ぶりのタッグを組んで制作した「風に向かう一輪の花」などを収録。同曲の歌詞の内容はファンへの感謝や自身の人生の回顧と今後の決意となっており、40周年記念における中心的楽曲となっている。
2021年12月18日、一人娘である長女・神田沙也加が札幌市内のホテルの高層階から転落して死去。当日は自身のディナーショーを行なっていたが、聖子の実兄である事務所社長の計らいにより、公演後に状況を知ることになったという。翌19日、所属事務所より「未だこの現実を受け止めることが出来ない状態」にあるとコメントが発表された。同年中に予定されていたディナーショーは全て中止となり、選出されていた『第72回NHK紅白歌合戦』も出場を辞退した。
同月21日、札幌市内の斎場に赴き、一連の式の後に報道陣の前に姿を見せ、沙也加の父で元夫の神田正輝と並んで短い会見を行った。
「ぶりっ子」という呼称は、当時の人気漫才コンビ春やすこ・けいこや山田邦子が、聖子の見せる可愛いらしい仕草や言動がわざとらしいとしてからかったのが始まりで、ラジオ番組などで見せるサバサバした砕けた横顔とのギャップが顕著である事がその要因とされる。また、レコード大賞新人賞を受賞した際に故郷の母親と電話でやり取りをする場面で、顔をしかめて泣き声を上げながらも、涙が明確に見えなかった様子から「うそ泣き聖子」と呼ばれ、「年上や男性、大衆に媚びるのが上手いしたたかな女」と、当時の女性の反感を買っていた面もある。この言葉は当時の流行語にまでなった。また、世間に浸透してその後も長らく使われるようになった事から、流行の発端となった聖子の事を「元祖ぶりっこ」と呼ぶ動きもある。
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松田聖子
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上記のように、本来は否定的な意味合いを含む言葉で、人気者への嫉妬や羨望から来るものが大きい。ただ、彼女がアイドルとして第一線で活躍を続けて実力を示すに従い徐々にそのような意味合いは薄れていき、彼女の人気を盛り立てる要素となっていった。2013年放送のNHK・朝の連続テレビ小説『あまちゃん』第38話では、主人公の母・春子が実在の人物である聖子について、「ぶりっ子って言葉の語源は聖子ちゃんだからね。かわい子ぶっているのに同性に嫌われない。むしろ憧れの対象だったわけ。」と語る場面があった。
実際に大衆から「ぶりっ子」と呼ばれていたのはデビューから数年ほどの間で、それ以降は自身もコントなどで露骨に「ぶりっ子」を演じたり、他人を「ぶりっ子」呼ばわりするなど、ネタとして使用する事も多かった。また、バラエティ番組などで「ガハハ」と声を上げて豪快に笑ったり、トーク時に飾らない言葉で受け答えするなど素の部分を見せた事で逆に共感を得ていった面もある。
1980年代には聖子の髪型を真似た「聖子ちゃんカット」が世間の女性の間で大流行した。後に登場した多くのアイドル達(「花の82年組」と呼ばれる小泉今日子、松本伊代、堀ちえみ、石川秀美など)も同様のスタイルでデビューするなど、この時代の女性達に与えた影響は大きい。聖子自身はそんな「聖子ちゃんカット」流行真っ只中の1981年の暮れにばっさり切り、ショートカットにしている。よって、彼女自身がこの髪型にしていたのはデビュー年の1980年から81年暮までの約2年間だった。聖子がショートカットにした事で追随する後続アイドルたちもまたこぞってショートカットに変え、今度はショートカットブームが訪れた。1982年には「聖子ちゃんず」というそっくりさんユニットまでもが登場し、メンバーそれぞれが聖子ちゃんカットのバージョン違いを披露している。
「ソバージュ」とよばれる1980年代後期から世間で流行したカーリーヘアーも、まだ日本ではそのスタイル名も聞き慣れない1983年頃にいち早く取り入れて披露すると、名前が知れ渡り一気に広まっていく事になる。1984年の秋に映画『カリブ・愛のシンフォニー』撮影用にニューヨークで髪型を変えるまでは、所属事務所近くの美容室『ヘアーディメンション』四谷店が行きつけだった。
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松田聖子
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「ソバージュ」とよばれる1980年代後期から世間で流行したカーリーヘアーも、まだ日本ではそのスタイル名も聞き慣れない1983年頃にいち早く取り入れて披露すると、名前が知れ渡り一気に広まっていく事になる。1984年の秋に映画『カリブ・愛のシンフォニー』撮影用にニューヨークで髪型を変えるまでは、所属事務所近くの美容室『ヘアーディメンション』四谷店が行きつけだった。
1990年代中頃からは、前髪を上げて額を大きく露出させる髪型が多く、彼女を象徴するスタイルとなっている。近年では、髪を下ろした時にワンレングスのロングヘアーになっている場合が多い。
1990年のアメリカでの歌手デビューのために徹底的に英語を学び、CNNのインタビューその他で堪能な英会話力を示し、また2005年の台湾におけるコンサートなどでは北京語も披露している。1990年代後半は歌手デビュー以外にもハリウッドデビューも考え、積極的にオーディションを受けて幾つか端役も得ている。
1998年公開の映画『アルマゲドン』で、日本人観光客の役として数秒ほどのシーンだがカメオ出演を果たしている。
1999年に公開されたキルスティン・ダンスト主演の『わたしが美しくなった100の秘密』という青春コメディーの作品にて、ストーリーに無関係の冒頭のアジア人家族の娘役として登場した。
2010年には、アメリカの人気サスペンスドラマ『BONES』のシーズン5・第15回『魂の伴侶』に、主人公のベストセラー作について取材する為に訪米した「リク・イワナガ」役でゲスト出演した。
デビュー当時は同期である岩崎良美、浜田朱里らと仲が良かったとされ、特に堀越高等学校の同級生でもあった良美とは聖子の結婚後も長く付き合いが続いていたという。浜田朱里とは2022年4月に都内で久々に再会していた事を女性週刊誌で報道された。同じく同期の田原俊彦は番組やCMなどで共演する機会が非常に多く、お互いのファンが心配するほど親密な仲だった。ただ、恋仲という訳ではなく、共に「良き友人であり、良きライバル」だと発言している。他にも、当時同じレコード会社で共演機会も多かった近藤真彦とは昔から交流があり、1988年にはたまたま同じタイミングでニューヨークでの仕事があり、せっかくの機会だから会おうと、お互いのスタッフを交えて食事をした事がある。
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松田聖子
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飲酒の習慣がない聖子は芸能界での交友録も多くはないと云われているが、元夫で神田正輝のゴルフ友達でもあったモト冬樹とは家族ぐるみの付き合いがあり、プライベートでカラオケに行ったり、自宅に招いて食事を振る舞う事もあったという。小柳ルミ子はデビュー当時から40年来の交流があり、聖子の父親からも「ルミちゃん」と呼ばれて信頼されていたという。聖子を妹のように可愛がって今もメールのやり取りやお互いにプレゼントを贈ったりしていると、小柳のブログやインタビューで度々明かされている。
音源が存在したり、関係者が存在を証言している未発表曲として以下のものが確認されている。
歌手デビュー年のセカンド・シングル「青い珊瑚礁」の大ヒットにより、第31回(1980年)に紅白歌合戦へ初出場。その後、第39回(1988年)まで9年連続で出演したが、次の第40回(1989年)は落選した。
それ以降の松田は、紅白歌合戦への復帰と不出場を繰り返すが、第71回(2020年)は女性歌手として、紅白通算24回目の出場と成った。これは紅組歌手で、史上8位タイ記録となる(白組歌手も含めると、歴代19位タイ記録)。第72回(2021年)は選出されたが、出場を辞退した。
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森田まさのり
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森田 まさのり(もりた まさのり、本名:森田 真法、1966年12月22日 - )は、日本の漫画家。滋賀県栗東市(旧栗太郡栗東町)出身。血液型O型。代表作は『ろくでなしBLUES』、『ROOKIES』など。
大宝小学校から栗東中学校に進学、学校の分離によって栗東西中学校を卒業後、守山高校在学中に執筆した作品『IT'S LATE』が手塚賞佳作に入選した。同作の『フレッシュジャンプ』掲載で「森田真法」名義で漫画家デビュー。
高校卒業と同時に漫画家を目指し上京。原哲夫の下でアシスタント活動を行う。『週刊少年ジャンプ』増刊号などに数編の読み切り作品を掲載後、1987年、『BACHI-ATARI ROCK』で『週刊少年ジャンプ』本誌に初掲載。その後、同誌上に1988年から『ろくでなしBLUES』、1998年から『ROOKIES』を連載。2005年からは同誌上で『べしゃり暮らし』を連載したが、体調を崩して休載。週刊ペースでは無理となり、2007年から『週刊ヤングジャンプ』に掲載誌を移して不定期連載となる。
絵のタッチは古くは手塚治虫や藤子不二雄A風であったが、上京時には北条司に近いものであった。そのため上京後はアシスタント志望として北条司の所へ足を運んだがそちらは人手が足りており、紹介されるかたちで原哲夫に師事することになった。
その後アシスタント時代に原哲夫以外にも谷口ジローや池上遼一の作品に感化され、森田の画風は完成していった。アシスタント時代に培った森田の画風の武器は「口」であり、そこだけは誰にも負けないよう、発音通りの口が描けるように頑張ったという。またその他の表現としては、『北斗の拳』においてザコキャラクターがギャグっぽいことを行うシーンがあり、その部分に強い影響を受けたという。
また、高校卒業と同時に漫画家の道へ入ったため、会社組織で働いたこともなければバイトの経験も、果てには合コンの経験すらほとんど無いと言い、このため、森田は描けることと言ったら高校時代までのこと、としている。
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森田まさのり
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また、高校卒業と同時に漫画家の道へ入ったため、会社組織で働いたこともなければバイトの経験も、果てには合コンの経験すらほとんど無いと言い、このため、森田は描けることと言ったら高校時代までのこと、としている。
プライベートではプロ野球球団・阪神タイガースのファンであり、『ROOKIES』の登場人物名は阪神タイガースの選手名から取られている。特にホームラン王・田淵幸一の大ファンである。2014年には阪神とコラボレーションを行い、広告を展開するなどした。なお、ドラマ化に当たって登場人物名を全て巨人選手へ変更する計画が打診されたが、森田はこれを強く断っている。
実家は浄土真宗本願寺派の寺院であり、寺の長男として生まれたため、高校1年の夏休みのときに得度を受け僧籍を得ている。
親には跡を継いでほしいという希望があったが、「大学に行かせたと思って4年だけ東京に行かせてくれ!」「4年で連載を持って有名になるから」と懇願。その活動中にプロ漫画家デビューを果たした。ただし森田は、「4年間で必ず売れる!」と不退転の覚悟で上京しており、実家に戻る気は無かったという。元来は3年で連載を得て、4年で金持ちになる計画であったのだが、計画よりは少々遅れたものの、上京4年目に連載を獲得している。森田はこれは「4年計画」と呼ぶ。
作品『バチあたりROCK』はこの体験が生かされているほか、実家を父親に資料写真として撮影してもらっている。父親は、真面目で為になる宗教漫画を描いてくれると思っていた。現在、同寺は森田が養子を迎え、その養子が跡を継いでいる。
なお、漫画家になった結果、郷土や寺の後を継ぐことを期待してくれていた檀家を裏切るかたちとなり、森田はこの点に後ろめたさを感じていると語るが、その分、郷土である滋賀県のために尽くし、また檀家さんにも自身の活躍を見てもらいたいが檀家さんはあまり漫画を読まないだろう、との配慮から、作品のドラマ化・パチンコ化などの話は積極的に受けている 。また滋賀県は決して琵琶湖だけではなく、赤こんにゃくや近江牛などおいしい食べものもたくさんあるのであるから、誇りを持ってほしい、と語っている。
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森田まさのり
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『ROOKIES』のドラマ化に当たっては、当初は守山高校でロケを希望したが許可がおりず、栗東中学校で行うこととなった。これは、いずれも森田の母校である。なお、校舎や野球部の部室も、栗東中学のそれがモデルである。
漫画以外の活動としては、上述の阪神タイガースとのコラボレーションのほか、2004年にロックバンド175RのCD、『GLORY DAYS』のジャケットにメンバーのイラストを描いたことがある。
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山岸凉子
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山岸 凉子(やまぎし りょうこ、1947年〈昭和22年〉9月24日 - )は、日本の漫画家。北海道空知支庁管内(空知郡)上砂川町出身。北海道札幌旭丘高等学校、北海道女子短期大学(現・北翔大学短期大学部)美術科卒業。名を「涼子」(さんずいの涼)と書くのは誤りで「凉子」(にすい)が正しい。萩尾望都・大島弓子・竹宮惠子らと共に24年組と呼ばれる一人である。
1969年、「レフトアンドライト」でデビュー。1971年から連載されたバレエ漫画『アラベスク』で注目され、1980年から連載された『日出処の天子』は1983年度第7回講談社漫画賞を受賞した。1977年から連載された『妖精王』は1988年にアニメ化。2000年から『舞姫 テレプシコーラ』の連載を開始し、同作で2007年度第11回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。
北海道上砂川町出身の両親の元に生まれる。2歳上の兄と、1歳下の妹がいる。三井鉱山の社員であった父親の転勤に伴い、2歳で函館、小学校3年生で小樽、中学2年生で札幌に転居する。札幌に転居後、母親が大病を患い入院する。
市立札幌旭丘高校2年生のとき、妹がたまたま買ってきた漫画雑誌に掲載されていた里中満智子のデビュー作をみて、自分と同じ年齢の人がデビューしていることに衝撃を受け漫画家を志す。高校3年生のときに母親が死去する。
1968年3月、北海道女子短期大学美術科を卒業、4月からアルバイトを始め、貯めたお金で東京に行き原稿をもって出版社を回る。最後に持ち込んだ『りぼん』編集部の目にとまり、『りぼんコミック』1969年5月号掲載の「レフトアンドライト」でデビューする。1969年10月、上京し、杉並区下井草の四畳半のアパートに入居する。お風呂がなかったため、一駅隣りの鷺ノ宮に住んでいた同郷の大和和紀と忠津陽子と連絡を取り合って一緒に銭湯へ行っていたという。そこで一年少々過ごしたのち、阿佐谷の新築アパートに転居、上京してきた妹も同居するようになった。
1971年からりぼんにて連載開始された『アラベスク』は、少女漫画界初の本格バレエ漫画として人気を得た。1972年秋には萩尾望都、竹宮惠子らと長期の海外旅行に出かけ、ソ連で本場のバレエを鑑賞してきた。
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山岸凉子
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1971年からりぼんにて連載開始された『アラベスク』は、少女漫画界初の本格バレエ漫画として人気を得た。1972年秋には萩尾望都、竹宮惠子らと長期の海外旅行に出かけ、ソ連で本場のバレエを鑑賞してきた。
1974年から花とゆめに場を移して描かれた『アラベスク』第二部では、華麗なイラスト的表現を、また、少女である主人公が大人の女性へと成長する様子を描くなど、当時は前人未到であった手法やテーマを積極的に開拓していった。
妹が婚約したことにより同居生活を解消し、その後、千葉県の我孫子、ひばりが丘と転居、原稿締め切り前の追い込みではアシスタントが8人ほど来て騒がしくなるためアパート住まいでは限界を感じ、1979年に国分寺に2階建ての一軒家を新築する。
1980年、『LaLa』で代表作『日出処の天子』を連載開始する。主人公である聖徳太子が超能力及び霊能力者であり、また生育環境が原因の同性愛者であるという設定は当時センセーションを巻き起こした。1983年度第7回講談社漫画賞を受賞した。
2000年にダ・ヴィンチにて『アラベスク』から約30年ぶりとなるバレエ漫画『舞姫 テレプシコーラ』の連載を開始する。同作で2007年度第11回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞。2011年をもって連載終了した。
2011年ダ・ヴィンチにて『ケサラン・パサラン』の連載を開始、2012年10月号で終了した。2014年に『モーニング』にて、百年戦争を題材としたジャンヌ・ダルクを主人公とした『レベレーション(啓示)』の隔月連載を開始し、2020年10月に完結した。
2016年に弥生美術館にて展覧会「山岸凉子展 「光 -てらす-」 ―メタモルフォーゼの世界―」が開催された。翌年には京都国際マンガミュージアムでも開催された。2019年には生まれてから2歳まで過ごした北海道上砂川町でトークショーを開催した。
漫画の電子書籍版は発売されていなかったが、2021年10月4日にKADOKAWAと講談社から初めて発売されることになった。
(準備中)
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ヘラクレイトス
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ヘラクレイトス(希: Ἡράκλειτος, Hērakleitos、 紀元前540年頃 - 紀元前480年頃? ヘラクリタスとも)は、古代ギリシアの哲学者、自然哲学者。
エフェソスで生まれたとされている。王族の家系に生まれたという説があるが詳細は不明である。父はプロソンまたはヘラコンという。ヘラクレイトスがエペソスの貴族階級に属したことはおそらく間違いがない。政治に関しては民主制を軽蔑し、貴族制の立場を取った。誇り高い性格の持ち主で、友人のヘルモドロスがエペソスの民衆により追放されたことに怒り、政治から手を引いた。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、のちにエペソスの人は国法の制定をヘラクレイトスに委託したが、ヘラクレイトスは友人を追放したエペソスの国制を悪しきものとみて、かかわることを拒否した。そしてアルテミス神殿に退いて子供たちとサイコロ遊びに興じたため、人々が不審に思い理由を尋ねると「おまえたちと政治に携わるより、このほうがましだ」と答えたという。水腫に罹り、医者に見せることを拒んで、自分で治療を試みたが死んだと伝えられる。
著書といわれる『自然について』は現存せず、引用によってのみ断片が伝わる。この書は『万有について』『政治について』『神学について』の三書を総合したものであるともいわれる。
アナクシマンドロスから対立と変化、ピュタゴラスからは調和の考えを受け継いだ(ピュタゴラスに対しては、しかし、いかさま師であると述べている)。
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ヘラクレイトス
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著書といわれる『自然について』は現存せず、引用によってのみ断片が伝わる。この書は『万有について』『政治について』『神学について』の三書を総合したものであるともいわれる。
アナクシマンドロスから対立と変化、ピュタゴラスからは調和の考えを受け継いだ(ピュタゴラスに対しては、しかし、いかさま師であると述べている)。
万物は流転していると考え、自然界は絶えず変化していると考えた。しかし一方で、その背後に変化しないもの、「ロゴス」(λόγος, logos)を見ている。ヘラクレイトスはまたロゴスは「火」(πῦρ, pyr, ピュール)であるといった。変化と闘争を万物の根源とし、火をその象徴としたのである。燃焼は絶えざる変化であるが、常に一定量の油が消費され、一定の明るさを保ち、一定量の煤がたまるなど、変化と保存が同時進行する姿を示している。そしてこの火が万物のアルケーであり、水や他の物質は火から生ずると述べられる。ただし、これらの考え方におけるアルケーの概念は、「万物のアルケーは水である」としたタレスなどのそれとは異なっている。この「生成」の思想は、パルメニデスの「存在」の思想としばしば対立するものとして見られてきた。もっとも、井筒俊彦によれば、実際には同じ事柄(形而上学における根源的な部分)を異なる面から述べているにすぎないという(『井筒俊彦全集1 神秘哲学』参照)。ヘラクレイトスの言葉としては、プラトンが引用している「万物は流転する」(Τα Πάντα ῥεῖ (Ta Panta rhei). "everything flows" )がもっともよく知られているが、実際のヘラクレイトスの著作断片にこの言葉はなく(あるいは失われ)、後世の人が作った言葉であるともいわれる。「同じ河に二度入ることはできない」などの表現にその意味合いが含まれていると思われる(疑義もある)。また、「万物は一である」とも「一から万物が生まれる」とも述べ、哲学史上初めて、「根源的な一者」と「多くの表面的なもの」との関連を打ち出した人物としても注目されている。
その著作の難解さと厭世観から「暗い哲学者」、あるいは、「泣く哲学者」と呼ばれる。また、ヘーゲルなどの思想の源流として、弁証法の始まりを担う人としても考えられている。
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川崎のぼる
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川崎 のぼる(かわさき のぼる、男性、1941年1月28日 - )は、日本の漫画家。大阪府大阪市出身。本名:川崎 伸。血液型O型。代表作は『巨人の星』(原作:梶原一騎)、『いなかっぺ大将』、『荒野の少年イサム』(原作:山川惣治)、『てんとう虫の歌』他多数。
熊本県で絵本作家として活動を行っている。
漫画原作者のかわさき健は実子。KEN名義で原作を担当した『う〜まんぼ!』は親子合作の作品である。
少年時代は、両親の出身地の長崎県に疎開していた。貧困の中、中学卒業後、1957年に『乱闘・炎の剣』(単行本)でデビュー。
さいとう・たかをのアシスタントを経て、貸本漫画界で活躍する。1965年、『週刊少年サンデー』連載『アタック拳』で一般漫画誌に活躍の舞台を移す。その後、『週刊少年マガジン』に連載した梶原一騎原作の『巨人の星』が大ヒットし、国民的知名度を得た。
2003年に妻の故郷である熊本県菊池郡菊陽町へ移住する。以後、熊本県関連のポスター・キャラクターデザインや絵本執筆を中心に活動を行なっており、2010年には阿蘇市の観光PR用キャラクター(ゆるキャラ)『五岳君』と『火の子ちゃん』のデザインを手掛けた。
作画は写実的で肉体的なタッチだが、デフォルメも適度に混ざり、作風も劇画からギャグまで幅広い。『巨人の星』などでは、主要キャラクターは劇画風で、子供やアナウンサー、記者、観客など「その他大勢」的な人物の顔はギャグ漫画風に描かれ、例えば『いなかっぺ大将』の「西一(にしはじめ)」に似た顔もあり、それらが違和感なくおさまっている。
大きな動物は身体がリアルで、顔は擬人化している。しかし、ニャンコ先生のような小猫、小犬は相当デフォルメされている。人物の手の筋肉や骨骼の描写は細かく、身体との比率から見て実際より手(手の甲)が大きく見えることもあり、コマ内では手の描写を多用することで、人物の心の動きや内側を描き出している。また、ゴジラのような怪獣(『風のサンタ』に登場)やヒグマ(『ムツゴロウが征く』に登場)などの描写では、リアリズムとギャグを描き分けるテクニックは確かである。
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川崎のぼる
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『いなかっぺ大将』では、風大左エ門は掲載当初、星飛雄馬のような二枚目顔が基本だったが、早い時期からアニメでおなじみのギャグ顔に移行していった。この作品は本来、風大左エ門の「柔道漫画」という側面もあったが、川崎の『アニマル1』頃からのギャグ的才能が開花し、次第にギャグ漫画へと移行していった。僚友のビッグ錠は、これを見て「やっこさん、始めよったな」とほくそえんだという。
『巨人の星』の作画を『週刊少年マガジン』の編集者から依頼された際には、働きづめでは野球にはほとんど興味がなく、友達との草野球の経験もない、という理由で一度は断っている。後に川崎は、熱狂的な阪神ファンとなっている。
『巨人の星』を『週刊少年マガジン』に、『いなかっぺ大将』を小学館学年誌全般に掛け持ちで執筆していた頃は、1週間に2度ほどしかまともに眠ることはなかったという。締め切りは頑として守る主義であったため、当時の担当編集者も文句が挟めない状態だったらしい。これは間を置かず『てんとう虫の歌』の時期にも受け継がれたため、病床に伏したこともあった。よって、当時の川崎原作のアニメもほとんど観ることはなかったとのことである。
絵が緻密になったのは梶原一騎との仕事ののちと認識され、それ以前は馬場のぼるなどにも影響された、瓢々としたタッチの漫画を主流としていた。少女漫画も手がけたことがある。
水島新司とは、ほとんど同じ時期にデビューした同期みたいな存在だった。
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佐々木倫子
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佐々木 倫子(ささき のりこ、1959年10月7日 - )は、日本の漫画家。北海道旭川市出身、札幌市在住。女性。血液型はAB型。
北海道旭川東高等学校、北海道教育大学教育学部旭川校卒業。1980年『花とゆめ夏の増刊号』(白泉社)掲載の「エプロン・コンプレックス」でデビューした。当初のペンネームは「佐々木規子」で、『ペパミント・スパイ』(花とゆめ1982年9月増刊号掲載)から現在の本名の表記に変更された。
主に白泉社の『花とゆめ』系列誌を中心に活動していたが、『動物のお医者さん』を最後に白泉社から小学館に活動の場を移し、『おたんこナース』以降は小学館の青年誌をメインに活動している。
(括弧内は雑誌掲載年)
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高橋陽一
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高橋 陽一(たかはし よういち、1960年7月28日 - )は、日本の漫画家・経営者。東京都葛飾区四つ木出身。東京都立南葛飾高等学校卒業。元妻は声優の日比野朱里(旧名:小粥よう子)。血液型はA型。
主にスポーツを題材とした作品を執筆している。代表作はサッカーを題材にした作品『キャプテン翼』。
1980年、『週刊少年ジャンプ』において読み切り作品『キャプテン翼』でデビュー。翌年、同作品で連載開始。同作品は人気を博し、1983年にテレビ東京系でアニメ化された。『キャプテン翼』の最初のアニメ化で翼役を演じた小粥よう子(現・日比野朱里)と結婚した。
現在のサッカー選手には『キャプテン翼』に影響された少年たちも多い。
スフィアリーグに参加する芸能人女子フットサルチーム「南葛シューターズ」の監督や葛飾区のサッカークラブチーム「南葛SC」の後援会会長も務め、南葛SCのJリーグ加盟に必要な運営法人の代表取締役も務めている。また、『Road to 2002』では翼がFCバルセロナで入団し活躍することから、2004年2月16日にFCバルセロナ会長から直々に招待され、VIP席で試合を観戦したこともある。また、FCバルセロナのライバルであるレアル・マドリードの会長(当時)からは「なぜツバサをうちのチームに入れてくれなかったんだ」というコメントを受けている。
さらに作中で翼がバルセロナに入団した際、バルセロナのスポンサーであるナイキ社から「翼のスパイクをアディダス社からナイキ社に変更してほしい」という要望を受けたがこれを固辞している。これに関して高橋は、『週刊ヤングジャンプ』誌の取材で「僕はアディダスのファンなので」と語っている。
2006年には漫画家として異例のCM出演に留まらず、翼との共演を果たした。
サッカー以外にもスポーツ全般を好み中学生時代は卓球部に、高校時代は軟式野球部に所属、『エース!』連載中も草野球チームやソフトボールのチームをいくつか掛け持っており、北海道移転前からの北海道日本ハムファイターズのファンでもある。
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高橋陽一
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2006年には漫画家として異例のCM出演に留まらず、翼との共演を果たした。
サッカー以外にもスポーツ全般を好み中学生時代は卓球部に、高校時代は軟式野球部に所属、『エース!』連載中も草野球チームやソフトボールのチームをいくつか掛け持っており、北海道移転前からの北海道日本ハムファイターズのファンでもある。
また、漫画以外でもフランスのプロサッカークラブ、グルノーブル・フット38のイメージキャラクターも手がけている。さらに、イラク復旧活動の際には自衛隊側からの依頼で「イラクの子供に喜んで受け入れてもらうため」に、自衛隊の車両に『キャプテン翼』のキャラクターを描くなど、執筆活動以外の活動も行っている。2009年には、オリンピックの東京招致活動の一環であるメッセージフラッグに、「大空翼」と「若林源三」のイラストとメッセージを書き込んだ。
2011年には女子W杯に出場した日本女子代表の激励のため開催国ドイツに赴く。その際、翼と澤穂希をモデルにした応援キャラクターの『楓ちゃん』を書き込んだ日の丸をチームに寄贈した。その後日本が女子W杯初優勝を果たした際、澤もこの日の丸を身にまとってウイニングランを行っている。
2008年6月18日J2第18節横浜FC対徳島ヴォルティス戦より、横浜FCマッチデープログラム内に『はばたけ蹴太』を全13回計26ページにて連載、雑誌以外の連載物は初となった。
2014年頃、小粥よう子(現・日比野朱里)と離婚。
2015年2月、一般社団法人日本フットゴルフ協会アンバサダーに就任。2018年12月27日、葛飾区名誉区民として顕彰された。
2023年6月、日本サッカー殿堂を受賞した。授賞理由として、上記「キャプテン翼」を通して、多くの少年・少女らにサッカーを普及させ、またこの作品を通してプロのサッカー選手になった選手も多く、日本サッカーの普及に貢献するだけでなく、全世界でもコミックスが全9000万部以上発行を超え、テレビアニメが輸出されており、世界的なサッカー選手を排出するきっかけを作り影響を与えたことが評価された。
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すがやみつる
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すがや みつる (1950年9月20日 - )は、日本の漫画家、漫画原作者、小説家。学位は修士(実践人間科学)(早稲田大学・2011年)。京都精華大学マンガ学部キャラクターデザインコース教授も務めた。
本名は菅谷 充(読みは同じ)。他のペンネームは漫画原作者として鶴見 史郎(ツルミはミツルのもじり)、鷹見 吾郎がある他、本名でも小説家として活動している。静岡県富士市出身。血液型O型。
代表作は、『仮面ライダー』、『ゲームセンターあらし』、『こんにちはマイコン』等。
マイコン、コンピューターゲーム、パソコン通信、実務に関する教養漫画、F1など、時代を先取りした題材をテーマとするが、つねに本格的な流行到来前に新たなジャンルに取り組んでいる。
Amazon Kindle版で多数再刊。
表記の無いものは全て石ノ森章太郎原作作品。
全て菅谷 充名義
「『あらし』のような漫画だけでは、漫画家生命が太く短くて持たない」と考えた事が理由で、地味な描き下ろしを続けた。十何年も増刷を続けたり、一万部売れれば大ヒットのこのジャンルで、十万部をこえた作品もある。下書きだけをした仕事もあるという。
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つのだじろう
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つのだ じろう(本名:角田 次朗〈読み同じ〉、1936年〈昭和11年〉7月3日 - )は、日本の漫画家・心霊研究家。東京府東京市下谷区豊住町(現:東京都台東区下谷1丁目)出身。血液型O型。八人兄弟の次男であり、四弟のつのだたかしはリュート奏者、末弟のつのだ☆ひろはミュージシャン。漫画原作者・ゲームクリエイターのビトウゴウは息子である。
当時の下谷区豊住町で床屋を営む家に生まれ育つ。小学2年生のころ空襲を避けるため一家で福島県に疎開、戦争が終わった中学2年生の時に東京に戻る。新宿区立淀橋中学校(現:新宿区立西新宿中学校)、東京都立青山高等学校卒業。
高校在学中に自宅近くのグラウンドで草野球を観戦していたところ、一方のチームの監督が漫画家の島田啓三であることに気づく。つのだはベンチに押しかけ自作の漫画原稿を島田に見せて無理やり論評を聞き、これをきっかけに師事することとなる。1955年(昭和30年)、『漫画少年』に「新・桃太郎」が掲載され漫画家デビュー。この作品はわずか3ページほどの短編であるが、師である島田から何度も書き直しを命じられ、苦心の末に投稿を許されて掲載されたものだという。
同じく『漫画少年』に投稿していた若い漫画家達と知り合い、そのツテで新漫画党に入党。豊島区のトキワ荘に通う事になる。1958年、『りぼん』連載の『ルミちゃん教室』がヒットししばらくは少女漫画を主に描いていた。1961年、『なかよし』に連載した『ばら色の海』で、第2回講談社児童まんが賞を受賞。その後は少年漫画誌に移りギャグ漫画を描くようになり、『ブラック団』『忍者あわて丸』などで人気を博す。
1971年から梶原一騎原作で描いた空手バイオレンス漫画『空手バカ一代』が大ヒット、以降は劇画調の作品を描くようになる(『空手バカ一代』は連載途中で降板。その経緯については空手バカ一代#作品の周辺を参照)。デビュー間もない頃、東京・両国橋でオレンジ色のUFOを目撃したことをきっかけにオカルトを研究していたつのだはその知識を生かし、1973年に『うしろの百太郎』『恐怖新聞』といった怪奇漫画を立て続けに連載、大ブームを巻き起こしオカルト漫画の第一人者となった。
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つのだじろう
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その他の代表作として、本格派将棋漫画である『5五の龍』、様々な女性達の運命をリアルに描いた『女たちの詩』シリーズなど、TVドラマ化された作品が多数ある。ギャグからシリアスなもの、少年・少女向けから大人向けまでとオールラウンドなジャンルで活躍した。
他、短編など多数。
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北条司
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北条 司(ほうじょう つかさ、本名:北條 司、1959年〈昭和34年〉3月5日 - )は、日本の男性漫画家・実業家。株式会社コアミックス設立者であり取締役、及び関連会社ノース・スターズ・ピクチャーズの取締役。福岡県小倉市(現在の同県北九州市小倉北区)出身。九州工業高校・九州産業大学芸術学部卒。トレードマークはサングラスで、公開されている写真や自画像のほぼ全てが着用した姿となっている。
1980年(昭和55年)に『週刊少年ジャンプ』(集英社)20号に掲載された『おれは男だ!』でデビューし、翌1981年(昭和56年)より開始された『キャッツ♥アイ』で連載デビュー。主に『週刊少年ジャンプ』を始めとした集英社の雑誌で活躍。その後2000年(平成12年)に堀江信彦らと共にコアミックスを設立し、同社が編集を行う雑誌に活動の場を移している。
代表作に『キャッツ♥アイ』・『シティーハンター』など。
建設会社勤務の父親と専業主婦の母親の間の次男として、1959年(昭和34年)福岡県小倉市に生まれ、小学校からは北九州市内の八幡で過ごす。市立泉台小学校・市立高見中学校・私立九州工業高校・九州産業大学と進学し、高校までを北九州市内で、漫画家として上京するまでを福岡県内で過ごす。
物心ついた時には既に絵を描く事が好きで、北条の母の証言によると幼稚園時代には鏡に映った自分の手を熱心にスケッチするなどしていた。また、兄がアニメキャラクター等を模写していたのに対して北条は模写が苦手で、小さな頃からオリジナルの絵を描く事が多かったという。早生まれで体が小さかった事もあり、絵を描く事は北条にとって周りにも誇れる唯一の自己表現手段となっていった。漫画を読むのも好きではあったがテレビの方により夢中になっており、特に漫画に強い思い入れがあったわけではなかった。初めてコマ割りのある漫画を描いたのは小学校1年生の時であったが、これは「『ウルトラQ』よりもおもしろい漫画がある」と友人にホラを吹いたことをごまかすためのものであった。
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北条司
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このように幼少時から絵を描き続けていた北条であったが、小学2年生の時に担任の教師から「子供らしい絵を描け」などと絵をけなされる事件が起きる。北条にとって唯一の表現手段であった絵をけなされるのは自分を全否定されることに近く、この事件が強いトラウマとなって絵を描くことが嫌いになり、目立つことを恐れる暗い少年となってしまう。
以降、北条は小説を大量に読むようになり、特に中学時代はSF小説を読み漁る生活を送る。また学校推薦映画となっていた『ひまわり』(ヴィットリオ・デ・シーカ)を観て衝撃を受け、様々な映画を観るようになる。ただし金がかかるので、映画館で観られるのは月1回程度であり、もっぱらテレビの洋画劇場で放映されたものを観ていた。
中学3年の時に漫画家を目指す友人が出来る。彼がペンを使い本格的に執筆している事に影響を受け、北条も本格的な執筆を始めるようになった。この友人とは別の高校に進学するも交流は続き、彼の呼びかけから漫画の同好会にも参加する。男女織り交ぜた6人で、共同の漫画執筆も始めたが未完に終わっており、この時の体験から自分に毎週漫画を描く漫画家生活は無理だと当時は思っていた。
その後、賞金を目当てに漫画の投稿を始め、金が無くなると新作を描いては投稿するという生活を始める。当初はジャンルを問わずに投稿をしていたが、努力賞でわずかな賞金しかもらえなかったことから、少女漫画への投稿は辞めている。一方で読者としては時おり目についた物を読む程度であり、週刊誌を買うようなことはせず、引き続き映画と小説の方により興味を持っていた。
高校を卒業後、福岡市内の九州産業大学へと進学し下宿生活を始める。大学では芸術学部デザイン学科に進んで広告デザインを学び、映画関係の仕事がしたいと考えていた。漫画は引き続き賞金目当ての投稿を続けており、喫茶店に通うようになったことから漫画もよく読むようになった。
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北条司
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高校を卒業後、福岡市内の九州産業大学へと進学し下宿生活を始める。大学では芸術学部デザイン学科に進んで広告デザインを学び、映画関係の仕事がしたいと考えていた。漫画は引き続き賞金目当ての投稿を続けており、喫茶店に通うようになったことから漫画もよく読むようになった。
金のない下宿生活の中で、手塚賞の賞金が100万円である事を知り、応募を決める。それまでは手塚賞の存在を知りながらも『週刊少年ジャンプ』(集英社)主催である事を知らず、同誌を読んだ事もなかった。ちょうどネームも描かずに一日1ページずつぐらいでなんとなく描きためていた作品があった事から31頁にまとめて投稿。この作品「スペースエンジェル」が準入選となって賞金20万円を手にし、入社一年目だった堀江信彦が担当編集に付く。
その後、描けば金になるとの理由から催促されるままに3編の読切を描き、そのなかの「おれは男だ!」が『WJ』に掲載されて在学中にデビューを果たす。
「F.COMPO」の連載を続ける中、2000年(平成12年)には堀江信彦・原哲夫・次原隆二・神谷明・根岸忠らと共に、株式会社コアミックスを設立。翌年、同社編集の新雑誌を創刊する準備に忙しくなったことから、『F.COMPO』の連載を終了する。そして2001年(平成13年)5月に『週刊コミックバンチ』(新潮社発行)を創刊し、創刊号より『エンジェル・ハート』の連載を開始する。2004年(平成16年)にはコアミックスの関連会社として著作権管理等を業務として設立された株式会社ノース・スターズ・ピクチャーズ(以下、NSP)の取締役に就任している。
2010年(平成22年)のコアミックスと新潮社の契約満了に伴い『週刊コミックバンチ』は休刊となり、コアミックスはNSPと徳間書店と共に後継紙の1つとなる『月刊コミックゼノン』を創刊する。これに伴い「A.H.」は「エンジェル・ハート 2ndシーズン」に改題の上で『ゼノン』に移籍し、2017年(平成29年)7月号まで連載した。
※ 掲載誌の記載がないものは『週刊少年ジャンプ』に掲載。
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北条司
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2010年(平成22年)のコアミックスと新潮社の契約満了に伴い『週刊コミックバンチ』は休刊となり、コアミックスはNSPと徳間書店と共に後継紙の1つとなる『月刊コミックゼノン』を創刊する。これに伴い「A.H.」は「エンジェル・ハート 2ndシーズン」に改題の上で『ゼノン』に移籍し、2017年(平成29年)7月号まで連載した。
※ 掲載誌の記載がないものは『週刊少年ジャンプ』に掲載。
『C♥E』と『C.H.』の成功により、「美女とアクション」が代名詞のようにされていたが、北条本人としては少年誌に求められるものとして「アクションっぽいもの」を取り入れてはいたもののあくまで登場人物の心の流れをメインに描いており、こうした評価は不本意で「アクション作家のつもりはない」と述べている。『C.H.』の次となる連載作品『こもれ陽の下で...』はこうした評価に対する反発として、「美女とアクション」を徹底的に排したものとして始められている。
北条が自身で意識して描いたのは『F.COMPO』が最初ではあるが、『天使の贈りもの』『ファミリー・プロット』『少女の季節 - サマードリーム -』とそれ以前の作品でも家族関係が主題となっている作品は多く、友人より北条の作品の根底的なテーマは「家族愛」であるとの指摘を受けている。
上述の通り「美女」が代名詞となるようにその画力は高く、二階堂黎人は「絵が素晴らしく綺麗であり、セクシーな女性を描くのが得意であり、夜の描写が美しい」とその画力を評価している。
なお2000年に行われたインタビューでは、見出しに「美女の顔はみな同じ?」とされ、北条自身も「美女」については「顔の描き分けは全然していない」と語っている。北条によれば、読者の求める「北条美人」から外れない様に、敢えてそういった手法を採っているとのことである。
■ : 連載作品、■ : 読切作品。
■ : オリジナル、■ : 再出版、■ : 短編集。
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北条司
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なお2000年に行われたインタビューでは、見出しに「美女の顔はみな同じ?」とされ、北条自身も「美女」については「顔の描き分けは全然していない」と語っている。北条によれば、読者の求める「北条美人」から外れない様に、敢えてそういった手法を採っているとのことである。
■ : 連載作品、■ : 読切作品。
■ : オリジナル、■ : 再出版、■ : 短編集。
2010年に北条のデビュー30周年を記念し、北条のキャラクターを他の漫画家が描くトリビュート・ピンナップ企画が『週刊コミックバンチ』で2度行われた。同年の『バンチ』休刊後に後継紙となった『月刊コミックゼノン』では、新たなトリビュートイラストと『バンチ』での企画分のダイジェスト版を収録した『北条司30周年記念特製画集』が付録とされた。以下、この企画で寄稿した漫画家を列挙する。
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年表
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年表(ねんぴょう、英: timeline タイムライン)は、(歴史上の)出来事を年の順(「年月日」の順、「日付」の順)に記載した表のこと。
年表というのは、(日本語では)すでに起きたこと(=「歴史上のこと」)を、起きた日付で排列(配列)した表のことである。
冒頭の条件を満たしていれば年表であるので、年表は多種多様であり、さまざまな種類があり、分類法もいくつもある。
テーマ、つまり何に焦点を当てているかで年表を分類することがある。
表に用いられている手法で分類することもある。(ほぼ)文字ばかりの表 / 視覚的効果も多用した表、といった線引きである。
年表は、教育的な場面でよく用いられる。歴史上の出来事の前後関係や、各時期の傾向、俯瞰的な概略などを、学習者が掴むのに、年表が手助けとなるからである。
特に図で表した年表の場合、出来事の間隔や(戦争や生涯などの)出来事が起きていた時間の長さ、同時に起きていた出来事などを視覚化することが出来る。
年表は歴史の学習で特によく用いられる。それにより、時間とともに変化する感覚が伝わるからである。戦争や社会運動は年表の主題としてよく使われる。また、伝記でも使われる。
年表は自然科学、特に天文学・生物学・地質学の学習者のために使われる。
なお教育者や研究者も、他者を教育するためだけでなく、出来事を整理整頓しなおして自分の理解の助けとするために年表を作ることがある。
英語、ドイツ語、フランス語などの「横書き」が原則の(圧倒的に多い)言語では、結果として縦方向に伸びてゆくように、古い出来事ほど上に、新しい出来事ほど下になるように構成される。
現代の日本語というのは横書きでも縦書きでも書かれるものなので、そういう言語では年表は、横書き時には縦方向に、縦書き時には横方向に伸びるように構成される。日本語では縦書き時には右から左へと書く習慣なので、縦書き時には、古い出来事は右側に、新しい出来事は左側に配置されることが一般的。
各年・各年代を表すページへの年代順の一覧。
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365日
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365日(365にち)は、日と暦に関するページへのメタリンク。365日と閏日(2月29日)について、それぞれ何の日かを調べることができる。
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水木しげる
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水木 しげる(みずき しげる 、本名:武良 茂〈むら しげる〉、1922年〈大正11年〉3月8日 - 2015年〈平成27年〉11月30日)は、日本の漫画家、妖怪研究家、紙芝居作家。
大阪府大阪市住吉区出生、鳥取県境港市入船町育ち。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市の水木通り沿いで経営していたアパート「水木荘」から名付けた。1958年に漫画家デビュー。代表作となる『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。
1922年(大正11年)に大阪で生まれ、鳥取県境港市で育つ。幼少時、神仏に仕える拝み屋の妻でまかない婦として家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)が語り聞かせた妖怪の話に強い影響を受ける。
高等小学校卒業後、画家を目指して大阪で働きながら学ぶ。やがて徴兵年齢に達し1943年に召集され、大日本帝国陸軍軍人として第二次世界大戦下のニューギニア戦線・ラバウルに出征。過酷な戦争体験を重ね、アメリカ軍やオーストラリア軍の攻撃で左腕を失う。一方で現地民のトライ族と親しくなり、ニューブリテン島に残ることも希望したが、周囲の説得で日本へ復員した。
復員後は貧窮により画家の修行を諦め、生活のために始めた紙芝居作家を経て上京。1958年、貸本漫画『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビュー。1960年から断続的に『墓場鬼太郎』シリーズを発表し始める。
1961年、飯塚布枝と見合い結婚。1963年、『悪魔くん』を貸本の東考社から出版。1964年、『ガロ』で商業誌デビュー。
1965年に『テレビくん』で講談社児童まんが賞を受賞し、貸本時代に描いていた『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』といった作品が『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』にそれぞれ掲載され、妖怪を扱った作品により人気作家となった。1966年には『悪魔くん』がテレビドラマ化。
最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年より6度テレビアニメ化されている。
1993年、幼少期を過ごした境港市に町おこしとして水木しげるロードが建設され、2003年には水木しげる記念館が開館した。
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水木しげる
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最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年より6度テレビアニメ化されている。
1993年、幼少期を過ごした境港市に町おこしとして水木しげるロードが建設され、2003年には水木しげる記念館が開館した。
長年の漫画と妖怪文化への功績が称えられ、1991年に紫綬褒章、2003年に旭日小綬章を受章。2007年、『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また1973年に執筆した『総員玉砕せよ!』がアングレーム国際漫画祭遺産賞、米アイズナー賞最優秀アジア作品賞をそれぞれ受賞している。
妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任。
調布市名誉市民、東京都名誉都民、鳥取県名誉県民。2010年に文化功労者にも選ばれた。2013年から『水木しげる漫画大全集』が刊行。
2015年11月30日、多臓器不全により死去。93歳没。
1922年(大正11年)3月8日、大阪府西成郡粉浜村(現在の大阪市住吉区東粉浜)に生まれた。父・武良亮一、母・琴江の次男。水木生誕当時、父親の亮一は、親戚が大阪の梅田駅近くで経営していた印刷会社で働いていた。身重の母親・琴江は夫に会うために鳥取県から来て、大阪で水木を産んだ。父は共同経営者とともに農機具を輸入販売する会社を興す為に、妻子をいったん故郷の鳥取県西伯郡境町入船町(現在の境港市入船町)に帰した。境港に戻った理由は「大阪は空気が汚れていて乳の飲みが悪い」からという。水木が境港に戻った年齢については不明確だが、生後まもなくから2歳までの間とのこと。その後父は事業に失敗して帰郷、一家全員境港に定住する結果となる。
5歳の頃「死」に興味を抱き、3歳の弟を海に突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の妹(大叔母)に「やいと(灸)」をすえられた。
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5歳の頃「死」に興味を抱き、3歳の弟を海に突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の妹(大叔母)に「やいと(灸)」をすえられた。
比較的恵まれた環境で育つが、学校の勉強はできる方ではなく両親が尋常小学校入学を1年遅らせたほどだった。自身も認めるマイペースぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという風変わりな生徒だった。当時「新聞の題字を集める」のが子供たちの間で流行ったが、他の子供が飽きても熱中していた。屁を自在に出すことができ、朝礼のおりに放屁して他の生徒たちを笑わせていた。そんな調子で成績は振るわず体育と図画以外は「総崩れ」だったが、一歳年上で体格が大きかった為に腕っ節は強く明るい性格もあってガキ大将として君臨した。水木の母は学歴を気にする性質であったため教育に熱心で、成績優秀な兄と弟は尋常小学校卒業後は旧制中学校に進学を果たし、勉強そっちのけだった水木も漠然と旧制中学受験を希望したが、進路相談で水木の母は教師から「無理」と即答された。将来への不安を覚えたが、中等教育の予備校でもある無試験の高等小学校に進み、すぐに不安を忘れて遊び回る子供に戻った。高等小学校時代も図画の成績は良く、小学校の教頭の勧めで公民館で授業で描いた絵の展覧会が開かれ新聞に掲載された。学内コンクールでも金賞を何度も取り、鳥取二科展の審査員でもあった先の教頭からは油絵の道具を譲ってもらったりと可愛がられた。
高等小学校卒業後も旧制中学校には進めず、社会に出て働き先を探す為に故郷を離れる事になった。生命保険会社に勤めて神戸に単身赴任していた父を頼りに近畿に移り、親戚の紹介で出生地の大阪に舞い戻った。たった一人でふるさとを離れて働きに出る水木のことを不憫に思う母は、兄や弟と違って要領の悪い次男を心配して「お前はこれからどうなるんだろう」「中学に行く人たちとの差は開くばかりだよ」「務まるかなあ」と嘆いたという。しかし当の水木はほとんど平静で、田舎から都会に出て働くのを楽しみにもしていた。
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大阪では都会の立ち並ぶビルと行き交う人の多さに圧倒され、夜の街の光には「まるで祭りのようだ」と思ったという。谷町(現・大阪市中央区)にあった石版印刷会社の田辺版画社に住み込みで勤務したが、マイペースさから仕事に付いて行けず僅か2ヶ月でクビになった。次は寺田町にある小村版画社に入社したがこれも配達の道順が覚えられず、やっと道を覚えると今度は下町の職人達の手仕事を見物している内に荷物を届けるのを忘れる有り様で、ここもクビになった。その後体調を崩して黄疸の症状が出た為、療養すべく鳥取へ戻る。帰郷後、息子に労働は向いていないと思った父親は好きな絵の勉強に進ませる事にした。水木は「もう職探しはやめて絵の勉強を...」という父の言葉に躍り上がったと回想している。
水木は勉学が苦手な自分の気質を考慮して、様々な美術学校から「試験や入学資格の無い所」を探したという。やがて大阪の上本町で、京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)で学んだ画家の松村景春が設立した精華美術学院という珍しい無試験の美術学校を見つけて入学した。しかし学院は学校というには小さな個人塾のような所で、授業内容も実践的な図案講習会に近かった。立派な画家になるんだと思い詰めて一心不乱に独習を重ねてきた自身の方が、もったいぶって教える先生より技量が上と感じたという。失望から学校に行かなくなり、近所の森や山で時間を潰す日々を送った。
16歳の頃に父が丹波篠山に支店長として転勤し、水木だけを一人暮らしさせるのは不経済という判断から父と丹波篠山の借家に引っ越した。後に母も境港から移り住み、兄と弟は旧制中学の寮に住んでいたので3人暮らしとなった。暫くは篠山から大阪の美術学校に通い続けた。18歳の頃、篠山山中の祠で「不心得者や悪戯をする者を神社で見つけると突然上から落ちてきて脅かす」妖怪・『おとろし』らしきものに出遭ったことがあるという。
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精華美術学院での反省から学校を選び直す事を思い立ち、美術系旧制専門学校である東京美術学校(現・東京芸術大学)で学んで画家になるという夢が膨らんだ。しかし高等小学校卒の水木には旧制専門学校の受験資格はなかったので、まずは旧制中学校を再び目指す事に決め、精華美術学院を退校して大阪府立園芸学校(現・大阪府立園芸高等学校)を受験した。同年の筆記試験は国史(日本史)の一科目だけであり、参考書をほとんど丸暗記して試験に臨んだ。定員50名に対し受験者51名(つまり一人だけが落ちる)という低倍率で、合格すると自信満々で結果すら見に行かなかったが、父が確認すると不合格だった。水木は不合格原因について、面接で「卒業したらどうするんだ」と聞かれ、「満蒙開拓義勇軍に入ります」というのが模範回答だが、旧制中学校卒の資格が目当てであって別に園芸や農業に興味はないと正直に答えたためではないかと推測している。惨めな思いをしたが、父は怒らず「本当に満州行きになったらどうするんだ」と優しく慰めてくれたという。
1940年(昭和15年)新聞配達で働きながら別の学校(日本鉱業学校採掘科)を受験、今度は合格する。しかし例によって専門科目に全く興味が抱けず成績不振且つ欠席が多くなり、半年で退学処分となった。間もなくマイペースぶりから新聞配達もクビになり、大阪の中之島洋画研究所に通った。水木は両親と今後を話し合い、両親から日本大学付属の旧制大阪夜間中学校(現・大阪学園大阪高等学校)への進学を勧められ、同校に入学。昼間には『支那通信』というガリ版新聞を配達する仕事をし、休日には宝塚ファミリーランドの動物園や昆虫館、宝塚歌劇によく足を運んでいた。そうした中、1941年12月に日本がイギリスやアメリカ、オランダとの間に開戦する。
1942年、20歳になった水木は徴兵検査を受け、結果は体は頑健ながら近眼により乙種合格で、補充兵役に編入され現役入営(入隊)はしなかった。だが戦争が激化する中で兵員不足のため召集対象者の枠は広がっていき、やがて自分も召集され入営する可能性が高まっていった。「出征すれば間違いなく死ぬ」と考えていた水木は哲学書や仏教書や聖書などを読み漁った。その中で一番気に入ったのがドイツの詩人ヨハン・エッカーマン『ゲーテとの対話』で、これは戦地にも持っていった。
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21歳の時、召集令状が届き本籍地の鳥取歩兵第40連隊留守隊に入営することとなった。なお、在学していた夜間中学は自動的に退校処分となった(後述)。軍隊生活でもマイペース振りはそのままで、その大胆な態度から風呂で幹部と間違われて古年兵に背中を流してもらったこともあった。
初年兵教育を終え、何をしてもマイペースで行動も鈍く使い道が無いと上官たちからも判断されて喇叭手を命じられるが、これも上手く吹けず罰として連日炎天下の中で広い営庭(連隊宿舎の庭)を何周も走らされることとなった辛さもあって、自ら配置転換を申し出た。
最初は取り合ってもらえなかった(人事係からも、なだめる意味で「しんどいかもしれんが辛抱してやってくれ」と緩やかに諭されてもいた)が、しつこく配置転換を申し出続けたため三度目に曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた。その質問を国内配置についての事と考え、「寒いのが嫌いなので南であります」と答え、九州など国内南部の連隊へ配属になると思ったが、1943年に南方でオーストラリア軍やアメリカ軍、ニュージーランド軍との前線のニューブリテン島ラバウル行きが決定。水木も南方戦線の状況は知っており、その激戦地へ派遣される羽目になって目の前が真っ暗になる程の深い衝撃を受ける、異動命令直後に二泊三日の外泊が許され両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという。
歩兵第229連隊(岐阜県第38師団隷下)は鳥取から門司港へ向かい、日本を出発。その連隊所属となった水木も従わされ、やがてパラオからラバウルまで輸送される。その輸送船はかつて日露戦争で活躍した老朽船の「信濃丸」だった。敵潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後のラバウル派遣部隊は全て途中で沈没させられたため、水木の部隊がラバウルに到着できた最後の部隊となった。軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、内地にいた時から風変わりで役に立たない兵隊として上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた。配属部隊の上官はなぜか茨城県出身者が多く、強い訛り言葉を水木が聞き取れないことも鉄拳制裁の口実にされ、連日上官や古兵たちから理不尽な虐めを受け続ける。
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ニューブリテン島での戦争体験は、後の水木の描いた作品に多大な影響を与えている。軍隊生活と馴染めなかった水木も、所属していた第2中隊中隊長である児玉清三中尉(30歳代後半の材木屋出身の予備役将校)からは、その腕を買われて似顔絵を描く事をよく頼まれ、水木に事あるごとに言いがかりをつけては嬲ることしか考えない上官たちの中で、例外的に水木が個人として優しく接してもらえた人物だった。同様に下士官の宮一郎軍曹や砂原勝己軍医大尉なども数少ない水木に親切に接してくれた上官で、水木が戦後復員して再会してからも交流が続いた人たちだった。
ニューブリテン島ズンゲンの戦いにおいて、日本より数段優れた装備と圧倒的な物量の連合軍の前に、所属する支隊の成瀬懿民少佐(水木の作中では「ズンゲン支隊」とも呼ばれている)は玉砕の命令を出すが、児玉中隊長の機転でゲリラ戦に転じ生命を拾うこととなる。しかし支隊本部の誤った総員玉砕報告に反して生存者が出たことで、児玉は責任を取らされ自決した。
やがて水木は決死隊の兵隊の一人としてバイエンに配属される。出先で上官から指示が出ている最中に居眠りをしていた罰で夜勤の最後の当番を命ぜられ、眠い中で見張りをするも自然の風景に見惚れてしまい上官たちを起こす予定時間を5分ほど過ぎると、その時敵の飛行機から機銃掃射され、水木以外の寝ていた上官たちは瞬時に全滅した。水木は慌てて海に飛び込んで逃げたが、原住民ゲリラに発見され、銃剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、日本兵への捜索隊の追跡を何とかやりすごしつつ奇跡的に生還した。
九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられ、「なぜ死なずに逃げたのか」と詰問され、「死に場所は見つけてやる」と言い捨てられた。これまでは戦場でも何とか朗らかに振舞ってきた水木も、この件で流石に塞ぎこみ、これ以降は虚無主義的な考え方をするようになった。そんな陰惨な日々は続き、マラリアを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく死にかけた。
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追い討ちをかけるように敵機の爆撃で左腕に出血多量の重傷を負い、間の悪いことに血液型も忘れてしまっていたことで上官や仲間からの輸血処置も不可能となり、止血されるが左腕に死斑が出てしまい、延命処置として軍医によって麻酔のない状態(水木自身は意識朦朧で割合痛みは感じた記憶が無いとのこと)で左腕の切断手術を受けるなど、絶体絶命な半死半生の状態へと追い込まれた。
しばらく経過した1945年の初め頃、他の傷病兵と後方に送られる。傷病兵の間では「役立たずになった兵士はまとめてどこかに捨てられる」との噂も立っており、水木も不安だったが、そんなこともなく辿り着いたのはナマレに設置された野戦病院で、治療の傍ら畑仕事などに駆り出された。
最前線に比べれば安全な土地で死の恐怖が和らぐと、島の原住民であるトライ族(英語版)と交流する余裕ができた。他の兵隊の様に威張らない水木を気に入ったトライ族から歓待を受け、水木の側も配給のタバコをお礼に渡すなどしている内に意気投合し、やがて集落の仲間として受け入れられた。軍規違反を承知で理由を付けてトライ族の集落に通い、トライ族の側も水木が再びマラリアで倒れると食料を持って見舞いに来てくれた。事ある毎に自分を罵倒していた上官の大尉からは「あいつは頭がおかしいぞ」と陰口を叩かれたが、先述の砂原勝己大尉が庇ってくれた。
8月25日、部隊長から「日本のポツダム宣言受諾(条件降伏)」についての訓示を受ける。水木も他の兵士達も意味する所が理解できず「戦争に勝ったのか」との囁きが漏れたが、程なく「戦争に負けた」という話だとわかった。軍内では落胆の声が広がったが水木は「生き延びた!」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だった。
カゼル岬にあった連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった。しかし、砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意したという。ただし、これについて砂原は「言った記憶がない」とも述懐している。
1946年3月、24歳の時に駆逐艦「雪風」で浦賀港に入港し、ようやく日本へ復員した。
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1946年3月、24歳の時に駆逐艦「雪風」で浦賀港に入港し、ようやく日本へ復員した。
4年振りに復員帰国できた水木は国立相模原病院(旧・神奈川臨時第3陸軍病院、現在の国立病院機構相模原病院)に入院となり、応急処置だった片腕の本格的手術の順番を待つ。終戦直後の医者や物資の不足で直ぐに順番が回ってこないので、医師からも一旦故郷の境港に戻っても良いと許可を得、帰郷して養生する日々を送った。両親は水木が片腕を失った事を知らなかった為、事実を知った後に母が片腕を使わずに家事をしたり、父が片腕無しでも務まる仕事を調べて「灯台守なんかどうじゃろう」と知恵を絞ったりと、次男の不幸を悲しんでいたという。しかし水木自身は生き残れた喜びと「絵を続けられるかもしれない」という希望を胸に抱き、出征前に目に焼き付けておいた故郷の風景を眺め、清々しい気持ちで過ごせたという。翌年になって治療の順番が回って来る通知を受け、上京して相模原病院で再手術を受けた(麻酔が不足していたため結構な痛みを伴うものだったとのことで、後年に水木は元気な状態へ戻るまで10日程度かかったと述懐している)。
病院直営の染物工場で絵付けの仕事で入院中の生活費を稼いでいたが、雀の涙程度の収入にしかならなかった。手術の前後に他の患者と闇米の買い出しでも生活費を稼ぎ、本格的に闇屋家業で一財産を得ようかと目論んで東北に食料の買い付けに向かった事もあったが、そちらは失敗して「どんな道でもプロになるのは険しい」と反省した。その後病院仲間から誘われて「新生会」という「傷病兵の明るい未来」をスローガンに掲げて様々な事業を考えていた傷痍軍人団体に加盟し、復員兵による廃墟ビルへの居座りや募金活動などに参加した。廃墟ビルへの居座りは東京都から反対されて失敗したが、募金活動は成果を挙げた。しかし、上層部のくだらない内紛で加盟員の離脱が相次ぎ、水木も配給制において政府の許可制である魚屋の資格を申請する成り行きとなり、転職した。予め契約を取った家庭に魚を届ける形式で復員後の生活も一時安定するようになった。この魚屋をはじめる際に元将校の荻洲立兵より「突撃あるのみ」と叱咤激励されてもいる。
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経済的に余裕が出て絵に対する思いも湧き、26歳の時に武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)が学生を募集中と知る。すぐに入学を思い立つが、旧制専門学校であった同校には旧制中学もしくは新制高校の卒業資格が必要だった。水木は件の夜間学校に掛け合ったが、「出征により退校」となっていた事から卒業資格は与えられないと回答された。それでも在学証明書を貰って美術学校に直談判し、特別に入校を許可される。1948年、26歳の時に入学した美術学校は敗戦直後という事もあって学生の服装は古びていて、技術や年齢層も不揃いだったが懸命に学んでいたという。
生活費に加えて学費も稼ぐために、仕事の方は新たに輪タク業を始めるべく、折良く同じ傷痍軍人団体加盟時からの知人で魚売りの相方だった通称「モッちゃん(本名は不詳)」が、水木とは逆に「魚屋を独立開業したいので、良ければ四万円で権利を全て譲って欲しい」と申し出てた好都合なタイミングでもあったので、その希望値四万円で「モッちゃん」に魚売りの権利を完全に売り、それを資金に輪タクを四台購入。一日五百円で貸し出す商売を細やかに始める。また、同時に上京してきた弟と協力して米軍物資の横流しなど当時は半非合法ながら政府から黙認を得ていた闇市商売も続けていた。
学業と仕事に明け暮れたが、商売はやはり素人ゆえに闇市は僅かな儲けしか得られずジリ貧で、輪タクも出だしは近所の住民から好調だったが、やがて大手に押されて下降して行き店閉まいした。学業の方も絵で食べていく事の経済的厳しさを痛感する中で、起死回生を狙って訪ねてきた「新生会」の副会長と二人で東海道募金行脚を挙行するも、あぶく銭しか集まらず、帰りの旅費だけを稼ぐ目標に切り替えて神戸に辿り着いた時には這々の体になりかけていた。結局美術学校は、その数年後に中退した。これが水木にとって最後の学業への試みとなり、「色々な学校に行ったが、結局は高等小学校のみ卒業となった」と回想している。
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先の募金旅行で辿り着いた神戸市の安宿の主人から「この建物をアパートとして買ってもらえんやろか」と購入を持ちかけられた。抵当が付いていたが格安の値段だったので、輪タク業など今までの事業で貯めた資金と足りない分は父に借金して購入した。このアパートが神戸市兵庫区水木通にあった事から「水木荘」と名付け、大家業を始めた。勝手が分からず不動産屋に頼んで募集の広告を掲載した所、水木と同じ変わり者ばかりが入居して家賃収入は捗捗しくなかった。大家業が軌道に乗らず副業を探した29歳の時に紙芝居作家の弟子をしている青年がアパートに入居した。一度は諦めた絵に対する熱意から、その青年にいくつか紹介してもらった紙芝居の貸元に手製の紙芝居を持ち込んで回った。水木曰く「内容がゲイジュツ的」だった為か評価は今ひとつだったが、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていた活弁士の鈴木勝丸が水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用された。夢にまで見た絵に係る仕事に付いたが、紙芝居業は貸元も零細企業で代金の支払いは滞りがちであった。暫くして鈴木が林画劇社から独立して自身の貸元「阪神画劇社」を設立すると水木も引き抜かれて専属作家になった。鈴木が水木の本名(武良茂)を覚えてくれず「水木さん」と間違って呼ぶため、そのまま「水木しげる」をペンネームにした。鈴木の紹介で知り合った人気の紙芝居作家加太こうじの助手なども務めながら紙芝居を描く日々が続いた。
1953年、アパート経営に行き詰まり大家業から手を引き、水木荘を売却して借金を精算。直後に西宮へ引っ越した。BC級戦犯で巣鴨プリズンに拘留されていた兄・宗平が出所したので一家で同居する。紙芝居の専業作家として作品作りに没頭し、少しずつノウハウを掴んで「空手鬼太郎」「河童の三平」など後年の活躍に繋がる作品を制作した。しかしテレビや貸本漫画など他の娯楽に押されて紙芝居業界は急速に衰退していった。紙芝居に見切りを付けて漫画家への更なる転身を決め、1957年に上京して貸本の版元に持ち込みを行った。同じく紙芝居から離れた加太こうじの推薦もあり、兎月書房という小さな出版社から別の作家が書き残した「赤電話」という漫画を完成させる仕事を受注した。
この仕事を無事に終え、1958年に正式なデビュー作として『ロケットマン』を出版し、35歳で貸本漫画家となった。
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この仕事を無事に終え、1958年に正式なデビュー作として『ロケットマン』を出版し、35歳で貸本漫画家となった。
貸本時代初期の水木は主に戦記漫画やギャグ漫画などを中心に制作しており、『飛び出せピョン助』『戦場の誓い』などを兎月書房から刊行した。他にもホラー漫画、SF漫画、ギャグ漫画、少女漫画、時代劇などの多彩なジャンルをさまざまなタッチで描き分けている。作家が他の出版社から作品を出すのを嫌がる傾向があったので「水木しげる以外にも「むらもてつ」「東真一郎」など複数のペンネームを使い分けてもいた。貸本漫画は一冊120ページ程度の作品につき2万5000円から3万円程度の報酬が出版社から支払われることになっていて、当時の国家公務員の初任給が1万足らずで紙芝居が1作200円から1000円であった事の視点では破格の高給だった。ただし、それは毎月作品を採用かつ量産された場合の契約条件であった。遅筆の水木が不慣れだった当初に、一ヶ月で作品を仕上げられる事は殆どなく、完成しても売れる見込みあると判断されなければ出版社が買い取ってくれないか、買い取られても「初回で様子見」として2万5000円未満に下げられた報酬しか支払われなかった。そればかりか初回で売れなければ他の出版社にも不評の噂が回って締め出しを食らうという過酷な業界だった。貸本出版社も零細企業が多く、納入が決まっても紙芝居の貸元同様に代金の支払いが滞ることも頻繁だった。懸命に働いても生活は楽にならず、家賃滞納や質屋通いが続いた。作品が評価されず不遇の生活が続く内に暗く陰惨な作風が強まり、出版社から「作風が暗い」と敬遠されて余計に生活が苦しくなるという悪循環に陥っていった。一時は「水木しげるの名では売れない」と「堀田弘」「竹取おさむ」など勝手に作者名を変更される屈辱も味わった。
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すでに40歳近い水木を心配する両親の強い薦めで、島根県能義郡大塚村(現在の島根県安来市)出身の飯塚布枝と見合いをし、即座に結婚した。間に立ったのは布枝の母の弟で、この叔父の妻の実家が武良家の遠縁だった。結婚する最初で最後の機会と考えた水木は「普通の会社員の二倍稼いでいる」と仲人口で見栄を張って洗練された都会人を装ったが、気が緩んだ拍子に方言を連発してしまったという。見合いから結婚式までわずか5日という異例のスピード婚で、式場は米子の灘町後藤のお屋敷が用いられた。新婚旅行の余裕すらなく大急ぎで東京に戻り、作品制作を再開した。
この頃の水木は戦記漫画が一番の売れ筋であり、兎月書房の貸本用雑誌である『少年戦記』で水木しげる作戦シリーズなどを連載。また、雑誌の編集役も請け負って小松崎茂や坂井三郎らとも交流している。しかし原稿料は出し渋られ、紙芝居業界に続いて貸本漫画業界も衰退して行き、益々生活が苦しくなる。あまりの貧しさに、自宅へやって来た税務署員から「こんなに収入が少ないワケがないでしょう?」と疑われたが、その言いように怒った水木は質札の束を突きつけ「われわれの生活が、キサマらにわかるか!」と税務署員を追い返した。結婚の翌年に長女の尚子(後の水木プロ社長)が生まれた時は真剣に漫画家を辞める事も考えたという。そうした中でかつて紙芝居作家時代に描いた「鬼太郎」を題材にする事を思い付いた。
1960年、兎月書房から『墓場鬼太郎』シリーズの執筆を開始し、第一作となる「幽霊一家」が貸本雑誌『妖奇伝』に掲載された。後年の鬼太郎とは違う紙芝居時代に近い陰鬱な怪奇物に仕上げたが、当初は全く売れず『妖奇伝』も第2号で打ち切りとなった。だが打ち切り後に一部の読者から熱心な連載再開を要望する手紙が届き、倒産間際だった兎月書房は最後の希望を託して『墓場鬼太郎』シリーズの刊行を継続した。これが人気作となり、徐々に水木しげると『鬼太郎』の名が知られていく契機となった。後年に水木は「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが鬼太郎だった」と述べている。
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名が売れ多少強気の姿勢に出られるようになり、『墓場鬼太郎』の原稿料を支払わない兎月書房から三洋社に移籍して『鬼太郎夜話』を刊行した。『鬼太郎夜話』も人気を得たが、三洋社の長井勝一社長が結核で入院して経営が混乱した事で打ち切りになってしまい、既に納入していた5巻目の「カメ男の巻」は原稿自体が行方不明という幻の作品と化した。『鬼太郎夜話』打ち切り後、兎月書房と和解して鬼太郎と共に紙芝居時代の作品である『河童の三平』を漫画化したが、1962年に兎月書房は倒産。以後は佐藤プロや『悪魔くん』を出版した東考社の貸本漫画に活躍の場を移すが、『悪魔くん』は思ったほど人気が出ず全5巻予定が3巻で打ち切りとなった。貸本版の『悪魔くん』は経済的な貧しさから生じた過激な社会風刺に満ちており、「間違っている世の中を倒して革命を起こす」という悪魔くんの思想描写は当時の水木自身の「懸命に働いても貧乏が続く生活」への悲しみと憤りから発したもの。こうして、水木が得意とする妖怪漫画の原型が紙芝居から貸本漫画時代にかけて形作られた。
1964年、病気療養から復帰した長井勝一が新しく漫画雑誌を作り、水木も依頼を受けた。同年9月に現代漫画の源流の一つとなる『月刊漫画ガロ』の第1号が出版され、水木は読み切り短編「不老不死の術」を掲載した。以降ガロで白土三平やつげ義春らと共に看板作家として名を上げた。1965年に講談社はW3事件の影響で「劇画路線」を採用し、水木は『週刊少年マガジン』で「SF物」の連載を依頼されるが、自分の得意分野ではないため悩んだ末に一旦辞退した。しかし半年後、その『少年マガジン』の編集長が内田勝に交代し、作風を限定しない条件へ変更のうえで水木は再度依頼され、今度は執筆を承諾した。貸本時代の絵柄から、「子ども向けのかわいい絵柄」に変えるのは苦労したが、『別冊少年マガジン』に掲載した『テレビくん』が第4回講談社児童漫画賞を受賞し、45歳にして人気作家の仲間入りを果たした。それまでの長い貧乏生活で質屋に入れていた物品は質札3cm分にもなっていたが、ようやく雑誌連載の原稿料ですべて返済でき、なんとか質流れにならず取り戻すことが叶った。ただ、最初に質屋に入れた背広だけは10年経って変形していたため、元の形態に戻そうと外に干したら盗まれてしまったという。
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水木しげる
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講談社漫画賞受賞で急増した仕事に対処するため1966年に水木プロダクションを設立。つげ義春、池上遼一、鈴木翁二らがアシスタント参加したことで、これ以降の水木漫画の特徴である「点描が非常に多い濃厚な背景」を描けるようになった。銅版画を思わせる「絵画的な背景」の前に簡素な線で描かれた「漫画的なキャラクター」が配されるという組み合わせは、水木が発明した独特なものとなっている。水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界が一大妖怪ブームとなる。また民俗学での専門用語でもあった「妖怪」が、さらに広まる経緯ともなった。『週刊少年マガジン』で「大図解」を担当していた大伴昌司も水木の妖怪画に惚れ込み、何度も妖怪についての特集を組んでいる。1970年には連載が11誌に達し、他にテレビやイベントの仕事も引き受けるなど、時間に追われる日々を過ごした。
気侭な人生をモットーとする水木は、どんな状況でも睡眠時間だけは十分に取るが、この時期だけはほぼ徹夜続きで、目眩や耳鳴りの症状も出る程だった。プロダクション設立後は運営経費の捻出にも悩まされ、「漫画では大金持ちにはなれない」と痛感した。まもなく、軍隊時代の恩人で戦後は阪急電車の職員になった宮一郎元軍曹と26年振りに再会。そして二人で戦地を尋ねる旅行に出向く。再訪したニューブリテン島でトライ族の集落も訪れ、久しぶりに牧歌的な生活を見て自身のペースを失っていた事に気付き、帰国後仕事をセーブする。この時期に本人が最も思い出深いと語る戦記漫画『総員玉砕せよ!』を執筆する。
仕事を抑えた事に加えて初期のブームが一段落した1980年代初期には低迷期を迎え、夫人が「自分が働きに出ようか」と提案するほど経済的遣り繰りが厳しくなった。一時は水木も「妖怪なんていないんだ」と言い出すなど自暴自棄になって霊的世界への興味や創作意欲を失うが、次女の悦子が修学旅行で妖怪「目々連」を目撃し、水木は喜んで立ち直った。それから「鬼太郎」を筆頭に、それまで描いた妖怪漫画の度重なる映像化や再放送などで人気が復活し、世代を超えて知名度を得た。連載を減らした時からアシスタントには趣味でもあった妖怪絵巻の制作を手伝ってもらい、膨大な数の妖怪画を蓄積していたが、こうした妖怪に関する考察や資料も作品の再評価に繋がった。
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水木しげる
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ブーム再燃後は『のんのんばあとオレ』『コミック昭和史』など自らが描きたいと思う作品を選びながら執筆するようになり、個性派作家としての人気を確固たるものにした。1991年に紫綬褒章を、2003年に旭日小綬章をそれぞれ長年の漫画家としての活躍を讃えられて受章している。
水木の特異なキャラクターと昭和と戦後漫画の歴史を生きてきたその数奇な人生が知られるようになったことで、水木自身について興味を抱かれる機会も増えた。1993年、幼少期を過ごした出身地鳥取県境港市の町おこしに協力し、水木しげるロードの建設が開始され、2003年に水木しげる記念館の開館によって完成した。同地は鳥取県における観光名所として発展している。2010年、文化功労者に選出される。
90歳を超えてなお新作漫画やエッセイを発表し続けた。晩年の主な作品としては、長年の課題としていた出雲を描いた『水木しげるの古代出雲』、泉鏡花の生涯を漫画化した『水木しげるの泉鏡花伝』、最後の連載漫画となった『わたしの日々』、青年期に戦地まで持ち込んだ『ゲーテとの対話』のうち現代社会に活かせる内容を著した『ゲゲゲのゲーテ』などがある。
また、映像作品では『ゲゲゲの鬼太郎』の実写映画や貸本版『墓場鬼太郎』のテレビアニメなどが実現した。2010年には、妻・布枝の著書『ゲゲゲの女房』がNHK連続テレビ小説としてテレビドラマ化、および映画化されるなど改めて水木の人生に注目が集まった。海外での評価も高まり、フランス・アングレーム国際漫画賞、米アイズナー賞などを受賞している。2011年、東日本大震災について考察した絵を描き、ニューヨーク・タイムズに掲載された。
2013年、自身初の全集となる『水木しげる漫画大全集』が講談社から刊行開始。同年には近況を綴った『わたしの日々』の雑誌連載を『ビッグコミック』誌で開始、90歳を超えて新連載を始めるのは異例の記録となる。
その後も、2015年4月より、93歳で『怪』に小泉八雲の原作に絵をつけた作品である『怪画談』の連載を開始(水木しげる+水木プロダクション名義)。同年12月発売の『怪 vol.0046』に発表された第3回が遺作となった。第4回からは水木プロダクション作品として連載が続けられ、2016年7月発売の『怪 vol.0048』に掲載された第5回で完結した。
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水木しげる
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その後も、2015年4月より、93歳で『怪』に小泉八雲の原作に絵をつけた作品である『怪画談』の連載を開始(水木しげる+水木プロダクション名義)。同年12月発売の『怪 vol.0046』に発表された第3回が遺作となった。第4回からは水木プロダクション作品として連載が続けられ、2016年7月発売の『怪 vol.0048』に掲載された第5回で完結した。
2015年11月11日、東京都調布市の自宅で転倒して頭部を強く打ち、都内の病院に入院した。頭部打撲による硬膜下血腫を治療する為に緊急手術を受け、入院中に頭部打撲は回復したものの、同年11月30日未明に容体が急変し、午前7時18分に多臓器不全のため入院先の東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で死去した。93歳没。
通夜、葬儀・告別式は近親者のみで営まれた。翌年の1月31日には東京・青山葬儀所にて「お別れの会」が開かれ、親交のあった著名人や一般弔問者など約7800人が参列した。
祭壇は水木の短編漫画『丸い輪の世界』をイメージして作られ、周囲には鬼太郎や悪魔くんなどのイラストが並んだ。遺影の下には水木の故郷から見える山や海、左右には太平洋戦争時に出征したラバウルをイメージした花が配され、遺影の前には天皇(当時)からの祭粢料が飾られた。戒名は「大満院釋導茂(だいまんいんしゃくどうも)」。弔辞は野沢雅子、さいとう・たかを、松田哲夫らが読み上げた。
2016年2月、アニメーション産業・文化の発展に寄与したことが称えられ、「東京アニメアワードフェスティバル2016」でアニメ功労部門を受賞。同月には水木の仕事場から未公開の日記が発見され、2017年1月のNHK『クローズアップ現代+』で特集が組まれた。
2016年、東京都調布市は命日の11月30日を「ゲゲゲ忌」と名付け、水木の功績を称えるイベントなどを毎年開催。鳥取県境港では記念品の配布などが行われている。
2017年3月、水木しげるの生涯を回顧する展覧会「追悼水木しげる ゲゲゲの人生展」が東京・松屋銀座で行われ、その後は全国を巡回する。
2018年4月から2020年3月にかけて、『ゲゲゲの鬼太郎』のテレビアニメ第6シリーズが放送。2018年7月には水木しげるロードがリニューアルオープンし、先の『ゲゲゲの鬼太郎』と合わせた記念イベントでは、妻・布枝ら家族も姿を見せた。
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水木しげる
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2017年3月、水木しげるの生涯を回顧する展覧会「追悼水木しげる ゲゲゲの人生展」が東京・松屋銀座で行われ、その後は全国を巡回する。
2018年4月から2020年3月にかけて、『ゲゲゲの鬼太郎』のテレビアニメ第6シリーズが放送。2018年7月には水木しげるロードがリニューアルオープンし、先の『ゲゲゲの鬼太郎』と合わせた記念イベントでは、妻・布枝ら家族も姿を見せた。
2020年の新型コロナウイルス感染症に関連して妖怪・アマビエが話題となり、水木の描いた妖怪画も大きな反響を呼んだ。
2022年7月8日、水木しげる生誕100周年を記念して、六本木ヒルズ展望台東京シティビューにて「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展 ~お化けたちはこうして生まれた~」が開催された。
1966年から『週刊少年サンデー』連載の「ふしぎなふしぎなふしぎな話」で妖怪画を発表し始める。やがて、『週刊少年マガジン』増刊の『日本妖怪大全』を経て、1970年に『水木しげる妖怪画集』を刊行。その後も「妖怪図鑑」の類を多数執筆している。
水木は妖怪を題材にするにあたり、古い文献や絵巻などから多くの伝承や妖怪画を蒐集している。鳥山石燕など古典の画が存在する場合は参考にして描き、「子泣き爺」「砂かけ婆」「ぬりかべ」「一反木綿」など文字や言い伝えの記録のみで古典の画が存在しないものは、水木によって初めて絵として描かれた。そのため文献記録や伝承上で存在しつつも「形」は水木がイメージ創造した妖怪も多数あり、それ以降の日本人が持つ「妖怪」イメージは、水木の作品から大きく影響を受けている。
大衆の中で失われていた多くの妖怪を救ったともされ、水木を妖怪文化の継承者と評す声も多い。一方、創作の可能性も指摘されている出典不詳の妖怪(樹木子など)も何体か描いている。また、2007年8月に、妖怪研究家の湯本豪一が保有する江戸時代の絵巻に描かれた「四角い犬のような妖怪」が、米国ブリガム・ヤング大学の図書館にあるものと符合され、「ぬりかべ」の絵と判明するなど、水木が絵として描いた時点では未発見で、当時は文字で名前や伝承しか記録が無いと判断されていた水木の創作以前の妖怪絵が、水木の執筆以降に新たに発見されている事例もある。1980年代には『水木しげるの妖怪事典』(正・続)、『水木しげるの世界妖怪事典』などを発表。
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1992年に『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行して話題となり、日本の民間伝承上の妖怪への大衆の認知が一段と高まる。1998年からは、1600点以上の妖怪画を収録した『妖鬼化』シリーズが刊行された。
水木の周囲に妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、1995年に世界妖怪協会を設立して会長となる。荒俣宏、京極夏彦、多田克己らが会員となり、「世界妖怪会議」が開催される。1997年からは、世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『怪』(角川書店)が刊行開始。水木も漫画を執筆している。
それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの大泉実成らと、アフリカ・マリ共和国のドゴン族、マレーシアの夢を自由に見られるセノイ族、オーストラリアのアボリジニ、メキシコのインディオたちの村、アメリカの先住民・ホピ族の村など、世界のあちこちに「冒険旅行」と称したフィールド・ワークに行き、各地のスピリチュアル文化に触れて「妖怪を感じて」いる。その際、祭りなどがあるとビデオ撮影や録音をして、自宅で何度も鑑賞している。旅先で購入した仮面なども蒐集しており、自宅などに展示している。
大泉実成『水木しげるの大冒険』によると、マレーシアのジャングルで、現地人に『日本妖怪大全』を見せたところ、「これは知っている」「これも知っている」と、猛烈な反応があった。それらの結果として水木は、「世界の妖怪は1000種類に集約される。世界各地の妖怪はほぼ共通している」という「妖怪千体説」を唱えるようになる。
のんのんばあとは彼が子供の頃、武良家に手伝いに来ていた景山ふさという老婆のことである。当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていた。
景山ふさの素姓について、水木の母・琴江によると「(松江の)士族の娘。貧乏侍。...親父は足軽」という。
ふさは子供たちを集めてはお化けや妖怪や地獄の話をしてくれた。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている。ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。
ふさは水木が小学5年生の時に死去した。
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ふさは子供たちを集めてはお化けや妖怪や地獄の話をしてくれた。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている。ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。
ふさは水木が小学5年生の時に死去した。
幼少時代の彼は自分の名前を正確に発声できず「げげる」と言っていたため、「ゲゲ」があだ名となった。後に水木はそのあだ名が『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルの原点となったと語っている。『のんのんばあとオレ』には、幼少期の水木の様子が生き生きと描かれている。同作品はNHKで実写ドラマとなって放映された。
2015年9月に中四国のTBS系列局とBS-TBSで放送された特番『水木しげる93歳の探検記 〜妖怪と暮らした出雲国〜』では、ふさの出身地でもある島根県出雲地方を訪れた水木が荒俣宏と共に初めてのふさの墓参りを行った。同年11月に水木は死去したため、これが最初で最後の墓参であった。
戦争を主題とする作品も多く描いており、戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語る。2007年(平成19年)8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜』が放送された。
水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。そこでの彼への待遇は最上級のものであり、敗戦後、上官である砂原勝己軍医大尉に現地除隊を申し込むほどだった。砂原は2004年(平成16年)1月28日に逝去したが、1996年(平成8年)7月26日に放送された『驚きももの木20世紀』では晩年の砂原がニューギニアでの水木のことを詳しく語っており、非常に印象深い患者だったことが分かる。水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。
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また、貸本漫画家時代の一時期、戦記ものを集めた雑誌を主宰していたが、熱心な極わずかな購読者を別にすると売り上げはさほどでもなかった。その頃、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的に1944年以降のラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、1945年以降の圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかった。それでも、アドバイスに従い、大戦前期の戦果を挙げた戦闘に取材した漫画も描いたが、題材が敗色濃厚になる末期に移るにつれ、アドバイス通りに売上は落ちていった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた。
『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「近年自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた。片腕を失ったことに対しては「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。
2015年5月、水木が出征前に書いたとされる手記が発見され、文芸誌『新潮』2015年8月号に掲載された。
貸本時代の水木は、出版社や作品などによって複数の名義を使い分けていた。特に自身が編集を任されていた貸本誌では、多数の作家が執筆しているように見せるため、1冊の中で複数の作品を別名義で書き分けていた。
以下は、名義の一覧と簡単な使用歴など。
シリーズ物や、長編作品を中心に記載。
『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』は前述。
他、多数。
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水木しげる
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貸本時代の水木は、出版社や作品などによって複数の名義を使い分けていた。特に自身が編集を任されていた貸本誌では、多数の作家が執筆しているように見せるため、1冊の中で複数の作品を別名義で書き分けていた。
以下は、名義の一覧と簡単な使用歴など。
シリーズ物や、長編作品を中心に記載。
『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』は前述。
他、多数。
「ゲゲゲの鬼太郎」関連作品についてはゲゲゲの鬼太郎#ゲームを、「悪魔くん」関連作品については悪魔くん#ゲームを参照。
『ゲゲゲの女房』がヒットした2010年には『あさイチ』(NHK総合、2010年5月19日)、『ボクらの時代』(フジテレビ、2010年8月15日)などに夫妻で出演。
(鳥取県境港市入船町、東京都調布市)
(鳥取県米子市東倉吉町)
住田氏は近世期中ごろから米子の東倉吉町に居住し、住田屋を号した。衣料、雑貨を営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した。
“本住田屋”の住田善平は、1896年(明治29年)12月 - 1900年(明治33年)12月まで米子町町長をつとめた。善平の長女が武良家に嫁いだ。
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ヨコハマ買い出し紀行
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『ヨコハマ買い出し紀行』(ヨコハマかいだしきこう)は、芦奈野ひとしによる日本の漫画作品。『月刊アフタヌーン』(講談社)において1994年から2006年まで連載された。単行本全14巻、新装版全10巻。
第1作は同誌1994年6月号に読み切りとして掲載(いわゆる第0話)、作者にとってはこの作品がデビュー作でもある。本作品が同年春のアフタヌーン四季賞で四季賞を受賞する。続いて9月号に続編が掲載され、同年12月号からは連載となり、2006年4月号まで掲載された。全140話。物語全体を通して、穏やかな独特の世界を描いていく。
本編の連載終了後、2006年7月号に描き下ろしとして掲載された短編『峠』は、同一の世界を舞台としたものと思われる(時代設定は連載終了時点から数十年後以上と推測される)。
また、ラジオドラマが椎名へきるのラジオ番組で放送され(後にドラマCD化)、二度OVA版が制作されている。
2007年には第38回星雲賞(コミック部門)を受賞した。
「お祭りのようだった世の中」がゆっくりと落ち着き、のちに「夕凪の時代」と呼ばれる近未来の日本(主に三浦半島を中心とした関東地方)を舞台に、「ロボットの人」である主人公初瀬野アルファとその周囲の人々の織りなす「てろてろ」とした時間を描いた作品。
作中の社会状況は、明言はされていないが、断片的な記述を総合すると、地球温暖化が進んで海面上昇が続き、産業が衰退して人口が激減し、人類の文明社会が徐々に衰退し滅びに向かっていることが示唆されている。しかし、その世界に悲壮感はなく、人々はむしろ平穏に満ちた日々を暮らしている。また、詳しくは語られない正体不明の存在も多く、そのまま作中の日常世界に溶け込んでいる。これらの不思議については作中で真相が明かされることはなく、どう解釈するかは読者に任されている。
なお原作終了後に刊行された小説版(著:香月照葉)では、「夕凪の時代」の後に人口はさらに減少を続け、ほぼ滅亡状態となった「人の夜」を迎えた、としている。
各話は、登場人物の私的な日常を軸に展開し、また「ロボットの人」たちが周囲から、「ロボットという事は個性のひとつ」として受け入れられて生活している様子をとらえている。
いずれも、芦奈野ひとし著、講談社の〈アフタヌーンKC〉より発行。
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ヨコハマ買い出し紀行
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なお原作終了後に刊行された小説版(著:香月照葉)では、「夕凪の時代」の後に人口はさらに減少を続け、ほぼ滅亡状態となった「人の夜」を迎えた、としている。
各話は、登場人物の私的な日常を軸に展開し、また「ロボットの人」たちが周囲から、「ロボットという事は個性のひとつ」として受け入れられて生活している様子をとらえている。
いずれも、芦奈野ひとし著、講談社の〈アフタヌーンKC〉より発行。
新装版ではカラーページの再録、ラフスケッチなどの「おまけカット」収録、1冊当りの収録話数を過去の単行本の1.4冊分に増加、表紙の一新(描き下ろし)がなされている。
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証券取引所
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証券取引所(しょうけんとりひきじょ、仏: Bourse、英: Stock exchange)は、主に株式や債券の売買取引を行うための施設であり、資本主義経済における中心的な役割を果たしている。
日本においては、金融商品取引法上の「金融商品取引所」の免許を受けなければ証券取引所としての業務を行えない。(なお「証券取引所」とは言えない金融商品取引所(例:大阪取引所、東京金融取引所)も存在することからもわかるように、金融商品取引所は証券取引所を包含する概念となっている)
経済の発展に欠かせない資金調達と資本運用の双方が効率的に行われるようにするため、株式および債券の需給を取引所に集中させ、流動性の向上と安定した価格形成を図ることがその主な役割である。
日本国内では元来は金融商品取引法(旧証券取引法)で認められた特別法人であったが、株式会社金融商品取引所への移行が進んでいる(→後述の#証券取引所の形態参照)。 なお、証券取引法の金融商品取引法への改正に伴い、日本では法律上「金融商品取引所」と規定されているが、名称又は商号に「取引所」という文字を用いなければならないとされるにとどまるため、各証券取引所においては、東京証券取引所との経営統合に伴い、デリバティブ取引専門取引所に転換した大阪取引所(旧大阪証券取引所)を除いて従来どおりの名称が2015年現在も利用されている。
株式および債券の購入や売却について、一般の投資家(個人投資家、取引所会員証券会社以外の機関投資家)が証券取引所で直接取引を行うことはできず、会員である証券会社を通じて取引を行う(委託売買)か、直接当事者間で取引を行う相対売買で取引することになる。
12世紀頃、フランスにおいて、銀行が代表して農村の債務を、取引し管理する「courratiers de change」と呼ばれるシステムが存在していた。そして、現在でいう株式仲介人(ブローカー)がこういった所で債権の取引きを行っていった。
欧米圏での「証券取引所」の語源であるフランス語の「Bourse」は、13世紀頃にラテン語で「鞄」を意味する「bursa」から派生して誕生したとも言われている。
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証券取引所
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12世紀頃、フランスにおいて、銀行が代表して農村の債務を、取引し管理する「courratiers de change」と呼ばれるシステムが存在していた。そして、現在でいう株式仲介人(ブローカー)がこういった所で債権の取引きを行っていった。
欧米圏での「証券取引所」の語源であるフランス語の「Bourse」は、13世紀頃にラテン語で「鞄」を意味する「bursa」から派生して誕生したとも言われている。
13世紀中頃、イタリア(神聖ローマ帝国)では、ヴェネツィアの銀行員が政府の証券の取引きを行っていたことが知られており、他にはピサ、ヴェローナ、ジェノヴァ、フィレンツェ等でもそれぞれの政府の証券が取引きされていた。
神聖ローマ帝国の領邦にあった北ヨーロッパの貿易都市は12世紀初頭にハンザ同盟を結成した。その一つであるベルギーのブルッヘでは、証券取引業者らが13世紀後半頃に「Van der Beurze」と呼ばれる一族の家で集会を行っていたが、これが1309年に制度化され、「Bruges Bourse」が開催された。 この制度は近隣諸国に広がり、ヘントやアムステルダムなどヨーロッパ中で次々に「Bourse」が開かれていくようになり、「Bourse」は「証券取引所」を意味するようになった。13世紀末までにはリューベックがハンザ都市のリーダーとして認められるようになった。
14世紀にはハンザ同盟とデンマーク王国(ヴァルデマー4世)との戦争が勃発したが1370年にはシュトラルズントの和議が締結された。1388年にハンザ同盟はイングランド商人にも特権を与えるようになった。
1531年にはアントウェルペン証券取引所が世界で初めて証券取引所として建設されヨーロッパの貿易拠点として栄えた。ここでは商品それ自体よりもその受領書、さらに、為替手形、預金証書、各種の公債などの証書が取り引きされていた。
イングランド(エリザベス1世)は1565年、ロンドン王立取引所(当初の呼称は「ブルス」、フランス語: Bourse)を開いた。一方、フランシス・ドレークなどスペインなど他国の海上輸送を妨げる海賊も活動した。
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証券取引所
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イングランド(エリザベス1世)は1565年、ロンドン王立取引所(当初の呼称は「ブルス」、フランス語: Bourse)を開いた。一方、フランシス・ドレークなどスペインなど他国の海上輸送を妨げる海賊も活動した。
株主に企業へ投資させて、その利益と損失を共有する株式会社のシステムはオランダから始まった。1602年にオランダ東インド会社がアムステルダム証券取引所で世界で最初の株券を発行し、有価証券を発行した世界初の会社となっている。
株式組織の取引所は、元々諸外国には存在せず、世界に先駆けて日本で特別に発達したが、太平洋戦争中に一時姿を消した。戦後に、株式組織の取引所が諸外国でみられるようになり、日本でも、再びみられるようになった。
戦時中までの日本における制度では、1875年の株式条例では、取引所の組織は株式会社と規定され、最初に設立した株式取引所が株式組織取引所であった。1887年5月、会員組織化を目的とする取引所条例(ブルース条例)が発布され、取引所は凡て会員組織で経営しなければいけないと定めたが、ブルース条例は、取引所側の猛烈な反対により間もなく廃止され、1893年に会員組織でも株式組織でもよいとする取引所法が発布された。
現在では、証券取引所は金融商品会員制法人(旧称:証券会員制法人)または株式会社でなければ開設できない(金融商品取引法に規定)。金融商品会員制法人とは、金融商品取引業者(証券会社など)を会員とする社団である。以前は全ての証券取引所が証券会員制法人であったが、2001年4月に大証、同年11月に東証、2002年4月に名証がそれぞれ株式会社に組織変更している。過去独立して存在していたジャスダックも株式会社形態であった。
また、近年は私設取引システム(PTS)による取引形態も現れてきた。私設取引システムは1998年12月施行の金融システム改革法で証券会社にその開設と運営が認められたもので、時間外取引市場(主に夜間)として機能している。
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証券取引所
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また、近年は私設取引システム(PTS)による取引形態も現れてきた。私設取引システムは1998年12月施行の金融システム改革法で証券会社にその開設と運営が認められたもので、時間外取引市場(主に夜間)として機能している。
証券取引所では売買立会い時間が定められている。日本の場合、東京証券取引所等の現物立会は9時から15時まで行われる。そのうち9時から11時30分を「午前立会い」(前場)、12時30分から15時を「午後立会い」(後場)と称しており、その間は昼休みである。名古屋証券取引所・福岡証券取引所・札幌証券取引所では15時30分までとなっている。2008年の大納会及び2009年の大発会までは、大発会と大納会は前場のみで後場の立会いは行われなかった。取引の電子化により半日にする意義が薄れたため、2009年の大納会及び2010年の大発会から半日立会いを廃止し、前場・後場共に通常通り取引されている。
東京証券取引所の取引時間は、2011年11月20日までは、前場が9時から11時、後場が12時30分から15時であった。2010年11月10日、東京証券取引所は2011年のゴールデンウィーク明け(同年5月9日)から、同取引所の前場の時間帯を午前9時から11時30分に拡大、昼休みを実質30分短縮することを目指すと発表した。しかし2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う節電対策のため延期され、当初の予定から半年あまり経った2011年11月21日より実施された。
日本の場合、1989年1月までは土曜日(1983年8月以降の第2土曜日は全面休場、1972年頃〜1983年7月および1986年8月以降の第3土曜日は全面休場)にも前場のみ取り引きが行われたが、金融機関の完全週休二日制への移行に伴い、現在は毎週土曜日・日曜日・祝日・振替休日・12月31日〜1月3日は全面休場となっている。
天災・戦争・元首の死去等の国家的事態が発生した場合に、臨時に休場となる場合もある。日本では1989年1月7日の昭和天皇崩御や、1995年1月17日には阪神・淡路大震災のため大阪証券取引所のみ全日休場となったことがあった。
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証券取引所
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天災・戦争・元首の死去等の国家的事態が発生した場合に、臨時に休場となる場合もある。日本では1989年1月7日の昭和天皇崩御や、1995年1月17日には阪神・淡路大震災のため大阪証券取引所のみ全日休場となったことがあった。
2001年のアメリカ同時多発テロ発生の際には、被害を受けたニューヨーク世界貿易センタービル(WTC)近在にあるニューヨーク証券取引所を含め、アメリカのすべての証券(金融)市場が数日間に渡り停止したことがある。
2018年9月6日、札幌証券取引所が北海道胆振東部地震の発生による大規模停電で終日取引を停止した。
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株式
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株式(かぶしき)とは、株式会社の構成員(社員=株主)としての地位(社員権)や権利のことである(通説)。
「株式」という日本語は、独占営業の権を許された集団の成員という意味の「株」と、中世における土地収益権を意味する「式(職)」という語に、その沿革を有する。
英語では見方により呼称が異なる。証券としてはストック(stock)といい、株式会社等の自己資本はエクイティ(equity)という。
通説である社員権説では、株式は株式会社の構成員(社員=株主)としての地位(社員権)をいうとされている。株式会社の所有と経営の分離や株式の債権化に伴い、社員権否認説、株式債権説、株式会社財団説なども唱えられているが、共益権を事実上行使しない株主であっても株式そのものが変質しているわけではないとの指摘がある。
株式を表章する有価証券が発行されることがあり、これを株券という。
世界初の株式会社は1602年に設立されたオランダ東インド会社といわれている。株式は会社に対する権利全体を均等に分けるとともに、多額の出資を行った者には複数の株式の所有を認めることで、権利関係の処理の簡便化と流通の利便を図り大規模な事業での資本の調達を可能にする点に特質がある。
例えば日本の会社の形態には株式会社と持分会社があるが、持分会社における社員権である持分は、各社員の出資額などに応じて不均一な形態をとり得るのに対して、株式は、種類ごとに均一に細分化された割合的な構成単位をとる点に特徴がある。ただし、額面株式(一株の価値が券面額等で表示されている株式)を採用している制度では必ずしも持分均一主義をとらなければならないわけではなく、ドイツでは持分不均一主義がとられている。
もともと株式には額面株式しかなく株式の金額は資本の構成分子を意味したが無額面株式の登場により大きく変容している。無額面株式はアメリカのニューヨーク州で初めて発行が認められた。日本の現行の会社法は無額面株式のみとしており、資本と株式の相関関係は失われ(資本と株式の関係の切断)、株式に資本の構成単位としての意味はなくなっている。
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株式
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もともと株式には額面株式しかなく株式の金額は資本の構成分子を意味したが無額面株式の登場により大きく変容している。無額面株式はアメリカのニューヨーク州で初めて発行が認められた。日本の現行の会社法は無額面株式のみとしており、資本と株式の相関関係は失われ(資本と株式の関係の切断)、株式に資本の構成単位としての意味はなくなっている。
株式会社は、事業で得た利益の一部を原則として出資比率に応じて配当という形で株主に分配する。事業が赤字の場合には無配になる可能性がある。また、廃業したり、経営が破綻して倒産した場合には株式の価値がゼロになることもある。しかし、株主の責任は有限責任であり、会社に多額の債務が残っても株主は出資額以上の損失を被ることはない。一方で、会社を解散した場合、債務をすべて履行してなお資産が残れば、その資産の所有権は株主にあり、原則として出資比率に応じて分配する。
株式の売買取引の際に付けられる価格が株価である。株式の所有によって得られる利益(配当等)を配当収益(インカムゲイン)といい、株式の売買によって得られる利益を売買収益(キャピタルゲイン)という。
会社に対して権利を行使する際に株主名簿上に株式を取得した者の氏名や住所を記載することを要する株式を記名株式、このような記載を必要としない株式(株券の提供・供託や口座簿の振替によらさるもの)を無記名株式という。
日本では2004年の法改正まで株式会社は株券の発行が義務づけられており、1990年以前は記名株式と無記名株式の両方があったがいずれも株券の交付だけで株式の譲渡は可能とされていた。日本の現行法では株券は発行しないことが原則となっており(会社法第214条)、会社と株主の関係は株券の発行の有無を問わず株主名簿の記録によって決することとしており全て記名株式である(会社法第130条)。振替株式については株主名簿の名義書換に関する会社法の特例を定める社債、株式等の振替に関する法律の適用を受ける。なお、日本の会社法では株券を発行している会社でも株式の譲渡に裏書は必要とされておらず、株券上には株主の氏名や住所は記載されない。
ドイツには株主名簿制度がなく無記名株式であり、フランスでも無記名株式である。
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株式
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ドイツには株主名簿制度がなく無記名株式であり、フランスでも無記名株式である。
定款に1株の金額(券面額)の記載があり、それが株券に表示されてある株式を額面株式といい、株券に券面額の記載がない株式を無額面株式という。無額面株式は1915年にニューヨーク州が初めて発行を認めた。
額面株式とともに無額面株式を認めている国にはドイツやフランスがある。
日本では1899年の商法で額面株式のみを認め、1950年の改正商法で無額面株式を導入した。2001年の改正商法により日本では額面株式を完全に廃止して無額面株式に一本化したが、これは主要国では他に例をみない。
一方、イギリスでは特殊な企業形態を除いて無額面株式を発行することは認められていない。
会社の利益の配当や残余財産の分配に際して普通株に優先する株式を優先株、普通株に劣後する株式を劣後株(後配株)という。
日本の会社法では、すべての株式の内容として特別な内容の株式を発行することや(会社法107条)、権利の内容が異なる2種類以上の株式を発行すること(種類株式、会社法108条)が認められている。
株式会社は発行する全部の株式の内容として次の内容を定めることができる(会社法第107条)。
これらは種類株式として設定することもできるが、定款に定められたすべての株式が均一な内容である場合には種類株式ではない。
また、株式会社は次に掲げる事項について内容の異なる二以上の種類の株式を発行することができる(会社法第108条)。
アメリカの模範会社法には優先株や無議決権株式の規定がある。
優先株(Preferred Shares)は利益配当や会社資産の分配のいずれかもしくは両方で普通株に優先する株式である。
無議決権株式(Non-Voting Shares)については多くの州で議決権を有する株式を一種類に限定するか議決権を有しない株式を一種類に限って定めることができるとしている。
株式の発行は、原則として、会社が株主になろうとする者を募集し、申込みを行った者の全部または一部に対して株式を割り当て、これらの者と引受契約を締結する。株式を引き受けた株式引受人は払込義務を生じる。株式引受人は会社設立の場合は会社成立時、新株発行の場合はその効力発生時に株主となる。
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株式
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株式の発行は、原則として、会社が株主になろうとする者を募集し、申込みを行った者の全部または一部に対して株式を割り当て、これらの者と引受契約を締結する。株式を引き受けた株式引受人は払込義務を生じる。株式引受人は会社設立の場合は会社成立時、新株発行の場合はその効力発生時に株主となる。
人々は収益の分配を条件に資本の提供(投資)を勧誘されても、いつでも容易に資本を回収できる手段がない限り投資には応じにくい。株式会社制度では資本の回収を株式の譲渡によって行うことができる。
会社が特定の株式を消滅させる行為を株式の消却という。日本では会社法の制定までは株主が保有する株式を株主が保有したまま消却する強制消却制度があったが、会社法では消却できるのは自己株式のみとなった(株主が保有する株式については取得条項付株式などとすることで会社が株式を取得した上で消却する)。
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株主
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株主(、英: shareholder、stockholder)とは、株式会社の出資者。株主名簿に記名されている個人・法人のこと。持ち株数に応じた権利(株主権)を有するが、同時に有する株式の引き受け価額を限度とする有限責任を持つ。
株主とは、株式会社の株式を保有する者(自然人・法人)のことであり、その結果株主は、その会社があげた利益の一部を受け取ったり、その会社がどのように運営されるかに関して投票(議決)する権利を得ることになる。
さまざまな分類法がある。
ひとつには コモン・シェアホルダー と プリファード・シェアホルダー による分類法がある。
マジョリティ・シェアホルダー は、当該会社の株式の50%より多く所有している株主(日本語の「以上」という用語はくせもので「50%以上」と表現すると50%も含まれてしまうので、しばしば便宜上「51%以上」などと表現する) 。あくまでその会社の議決権の過半数を支配しており、実質上のその会社の(株主や経営者の中では)支配的な存在となる。日本語で「過半数株主」とも。
株主にはさまざまな権利が認められている。 その権利は、おおまかには「キャッシュフロー権」(キャッシュフローに関する権利)と議決権 に分類されている。 米国法でも株主に利益配当請求権や議決権などが認められている。
株式会社は持分会社と異なり、発起人以外の株主(社員)の氏名は定款に記載しない。株式会社は、株主名簿を作成し、株主の氏名又は名称及び住所、株主の有する株式の数、株主が株式を取得した日などを記載し、又は記録しなければならない(121条)。
株主名簿に記載されていることが会社に対して株主の権利を主張するために必要であるが、名義の書き換えを失念したとしても株主としての地位を失うわけではない。
株式会社が株主に対してする通知又は催告は、株主名簿に記載し、又は記録した当該株主の住所(当該株主が別に通知又は催告を受ける場所又は連絡先を当該株式会社に通知した場合にあっては、その場所又は連絡先)にあてて発すれば足りる(126条)。
株式が二以上の者の共有に属するときは、共有者は、当該株式についての権利を行使する者一人を定め、株式会社に対し、その者の氏名又は名称を通知しなければ、当該株式についての権利を行使することができない(106条)。
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株主
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株式が二以上の者の共有に属するときは、共有者は、当該株式についての権利を行使する者一人を定め、株式会社に対し、その者の氏名又は名称を通知しなければ、当該株式についての権利を行使することができない(106条)。
株主は株主平等の原則(109条)により、原則として、持ち株数に応じた権利を有する。
株主権(株主の権利)は学問上、その性質に応じて自益権(直接的な経済的利益の享受を目的とする権利)と共益権(会社経営への参画を目的とする権利で、いわゆる経営参加権)に分類される。自益権はそのすべてが一株でももっていれば行使できる「単独株主権」であるが、共益権には一定数以上の株式を保有している株主でなければ行使できない少数株主権もある。会社法においては株主の権利については、105条その他に規定がある。
株主の責任は、その有する株式の引受価額を限度とする(104条)。
「所有と経営の分離」の原則から、株主は会社の経営から概念上分離される。出資者である株主は、株式を購入するために出資をした金額を超えた責任は負わない。更なる負担を求められることもない。これを「株主有限責任の原則」という。
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経営参加権
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経営参加権(けいえいさんかけん)は、株式会社の株主が持つ権利の一つで、株主総会に出席し、企業の経営の重要な方針についての決議等に参加し、経営の意思決定に関与する権利である。株主総会の議決権が代表的な権利である。
共益権の一つであり、利益配当請求権・残余財産分配請求権などの自益権とともに、株主の権利の双璧をなす。
通常は1株または1単元株につき1票の議決権が与えられる(一株一議決権の原則)が、端株、無議決権株、単元未満株等の株主には議決権が与えられない(会社法308条)。
この権利により、株式には企業を支配できる価値が含まれると考えられ、株式は支配証券であると捉えられている。
権利を行使するためには、原則として、行使する者一人を定め、会社に氏名又は名称を通知しなければならない。
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利益配当請求権
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利益配当請求権(りえきはいとうせいきゅうけん)とは、株式会社の株主が持つ権利の一つであり、企業の利益の分配である配当を受け取ることができる権利である。
日本においては、会社法105条1項1号に規定がある(「剰余金の配当を受ける権利」)。
企業が必ず配当を出さなければならないわけではなく、利益が無い場合や、あっても内部留保を厚くしたいとの経営判断により、無配になることもある(会社法461条などを参照)。配当の有無や金額は一定の要件を充たす場合(459条など)を除き、株主総会の決議によって決定される(452条)。
また、この権利により、株式には企業の利潤の価値が付与されているとみなすことができ、株券が発行されている場合、株券は利潤証券であると考えられている。
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残余財産分配請求権
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残余財産分配請求権(ざんよざいさんぶんぱいせいきゅうけん)とは、会社などの法人の所有者たる株主・持分保有者が、会社の解散時に債務を弁済した後に残る財産に関して分配を請求することができる権利をいう。
日本法の下では、株式会社の株主が有する権利の一つで、会社が解散した際、清算後に残った財産を保有する株式の数に応じて分配される権利をいう(会社法105条1項2号、旧商法425条本文)。ここでいう財産は文字通りプラスの価値を有する財産に限られ、清算の結果、負債が資産を上回ることが明らかになれば分配はなされず、株主個人が会社の負債の返済義務を負うことはない(株主有限責任の原則、会社法104条、旧商法200条1項)。
存続中の会社を現在直ちに解散し清算すると仮定した場合の残余財産の総額を解散価値と呼び、この解散価値を発行済み株式数で除したものが一株あたり純資産 (BPS) である。このように、株式には解散価値に基づく価値があり、株式は物的証券であると考えられている。
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MAJOR
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『MAJOR』(メジャー)は、満田拓也による日本の漫画。『週刊少年サンデー』(小学館)にて1994年33号より2010年32号まで全747話が連載された。同誌2015年15号より続編『MAJOR 2nd』が連載中。2021年11月時点で累計発行部数は5500万部を記録している。
サブタイトルは「DRAMATIC BASEBALL COMIC」。テレビアニメ版のタイトルは『メジャー』とカタカナ表記される。また、各種関連商品では「MAJOR DREAM」と表記される。
『週刊少年サンデー』(小学館)1994年33号より2010年32号まで全747話が連載された、小学館で連載された野球漫画の中でも著名な作品の一つ。
第41回(平成7年度)小学館漫画賞少年部門、第2回(2011年)サムライジャパン野球文学賞ベストナイン受賞。『少年サンデー』連載作品としては、2001年に当時コミックスの巻数としては最多の記録を保持していた『GS美神 極楽大作戦!!』の全39巻を塗り替えた(2017年現在は『名探偵コナン』が最多記録を更新中)。
2014年11月26日から2016年10月19日まで、スマートフォン用コミックアプリの『マンガワン』にてアンコール連載がなされていた。
テレビアニメは2004年から放送が開始され、2010年に第6シリーズまでの全シリーズの本放送が終了した。2008年冬には劇場版が公開された。
主人公である茂野吾郎の半生を描いた作品で、彼の成長とともに所属するチームを情熱で突き動かし、チームが一丸となって目標に向かって前進していくのが、本作の基本的なスタイルである。
「友情」や「努力」といった少年漫画として普遍的なテーマを扱いながら、「家族」「逆境」といった『サンデー』の独自性も出た作品となっている。「逆境」は乗り越えられる主要テーマの一種であるため、吾郎の入団するチームは何かしらの問題を抱えた弱小チームであることが多い。
桑田真澄や井川慶、岩村明憲、田中将大、前田健太ら現役・元プロ野球選手にもファンが多い。
『週刊少年サンデー』2015年15号より、茂野吾郎の息子・茂野大吾が主人公の続編『MAJOR 2nd』が連載中。
MAJORシリーズは内容から以下のように分けることができ、本稿および関連項目においては便宜的にこれを用いる。
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MAJOR
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桑田真澄や井川慶、岩村明憲、田中将大、前田健太ら現役・元プロ野球選手にもファンが多い。
『週刊少年サンデー』2015年15号より、茂野吾郎の息子・茂野大吾が主人公の続編『MAJOR 2nd』が連載中。
MAJORシリーズは内容から以下のように分けることができ、本稿および関連項目においては便宜的にこれを用いる。
作中において、幼稚園編とリトルリーグ編の間には3年、リトルリーグ編と中学編の間には4年の空白がそれぞれある。また、メジャーリーグ編終盤で吾郎が清水にプロポーズしてから8年の月日が経っている。さらに、吾郎と薫の娘いずみ誕生とワールドチャンピオン制覇から7年の月日が経過している。これらの空白期間を除けば、作中で1年から1年半経つと作品の舞台が変わり、新編へと移っているのが特徴である。リトルリーグ編から急に中学編へ飛んだことについて作者の満田は、「この漫画は三船リトルの物語ではなく、吾郎の物語だから」とコメントしている。
本作でストーリーに深く関わる球団は、以下の通り。
ワールドカップ編には実在のプロ野球選手をモデルとした登場人物が多数登場する。このことについて満田は、作品の性質上現実に活躍する選手を無視できなかったとコメントしている。実在の選手をモデルとした登場人物についてくわしくは、MAJORの登場人物#W杯日本代表を参照。
ストーリーは茂野吾郎に主眼が置かれており、基本的にその他の登場人物や集団は主人公とかかわる範囲外でのスポットを当てられることはほとんどない(群像劇とは異なる)。この作風が最後まで一貫したため、吾郎の物語は視点がぶれることなく完結した。メジャーリーグ編終盤に8年の月日が流れ、さらにその後に7年の月日が経過することで、物語の終わりに吾郎は二児の父親となる。連載期間16年の長編ドラマは吾郎の成長を描きながら終局へ向かった。
2004年から2010年までNHK教育テレビジョンにて6シリーズに分けて放送された。
2008年12月13日に映画『劇場版MAJOR メジャー 友情の一球』が東宝の配給により公開された。
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株価
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株価(かぶか、イギリス英語: share prices、アメリカ英語: stock prices)とは、当該の株式に関して、株式市場において実際に約定があった価格のこと。出来値。
なお、「売り注文」または「買い注文」として、売り手や買い手から希望の値段が一方的に提示されたものの、実際には約定に至らない値段のことは「気配値()」と言い、一般に「株価」とは区別されている。
株価は一般に、株式市場が開いている間は、様々なものごとの影響を受けて変動する。基本的には、長期的にも短期的にも、また1日の内でも株価は変動しうる。
株価は一般に、長期的にも、短期的にも、また1日の内でも変動し、様々な値をとる。理論的には売買が成立したすべての価格の数値が株価であり、(現代では、市場のサーバのデータベースに残された記録の形で存在し)大量の数字の羅列となりうるもので、変動を続けるその株価を、数字の羅列を避けて視覚的に表す場合は一般に、複雑に波打ったグラフの形で表現されることになる。
ある1日の株価に焦点を当てた場合は、当該日に市場が開いてから最初に取引された株価は始値()、最後に取引された株価は終値()、立会時間中で最も高い株価は高値()、最も安い株価は安値()と呼ぶ。これら4つの値は四本値()と呼ばれている。
なお、証券取引所内で売買取引をする際の株価を呼び値とも表現する。株価は、呼び値単位を最小単位として変動する。
もともとは株価は上方にも下方にも自由に変動しうるものだったが、株式市場の運営者によっては、「あまりにも急速な変動は好ましくない」「市場参加者にパニックが起きることは防止したほうが良い」などと考え、1日に変動できる株価が一定の範囲に制限している市場もある。この場合の制限が値幅制限で、株価が値幅制限の限界まで暴騰・暴落することをそれぞれストップ高・ストップ安という(ただし、株式が上場された初日において、始値が決定されるまでの間には値幅制限がない)。
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株価
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日本の株式市場における株価の決定方式は、大きく2つに分けることができる。一つは「オークション方式」といい、売買当事者が希望する価格と数量を証券取引所に告げることにより、証券取引所側で約定を行うもので、日本では一般に使用されている決定方式である。もう一つは「マーケットメイク方式」といい、マーケットメイカーとなった証券会社が、確実に成立する気配値を出して売り方と買い方を募るもので、日本ではごく一部の銘柄において採用されている方式である。
株価を動かすような要因を材料といい、直接的に株価に影響を及ぼす内部要因と間接的に株価に影響を及ぼす外部要因がある。
株価変動の内部要因は、株式数の増加や減少などによって株式の需給に直接的に影響するものであり、代表例として、増資、株式の分割、株式の消却、株式の持ち合いの解消、などがある。
一方、株価変動の外部要因は株価の形成に間接的に影響を及ぼしているものであり、会社の内部からもたらされる要因(企業業績の状態、新製品の開発・発表・発売、企業の合併や買収、リストラ、企業の不祥事など)と会社の外部からもたらされる要因(株価指数、金利や為替・物価などの変動、国外での戦争・政変、自然災害の発生など)がある。
株価の形成には様々な要因が絡まっており、そのメカニズムは極めて複雑である。株価決定の最大の要因は企業業績で、好調な企業の株価は上がり、不調な企業の株価は下がるとされているが、実際の相場では、好調な業績が発表されても投資家がこれ以上の成長は期待できない(好材料が出つくした)と判断すれば、売りが優勢となり株価は下落する。反対に業績の悪化が発表されても投資家がこれ以上の業績の低下はない(悪材料が出つくした)と判断すれば、買いが優勢となり株価は上昇する。このように将来の企業業績などを織り込みながら株価が将来を先取りして変動することを株価の先見性という。
金融市場のグローバル化やIT化により世界中の株式市場が連鎖的に反応することも多くなっている。
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株価
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金融市場のグローバル化やIT化により世界中の株式市場が連鎖的に反応することも多くなっている。
株価の変動を、視覚的に把握するための図のことを罫線表(チャート)と呼ぶ。米国ではもともとは主としてスティックチャート(縦長の棒に小さな横線が入ったもの)ばかりが用いられていた。(が、後に日本のローソク足の存在やその利便性がアメリカ人にも広く知られるようになり、米国ではそれも広まった。)日本では、四本値をローソク足(ある期間内で、始値に対して終値が相対的に上げたか下げたかが色で直感的に分かるもの)が最も普及しており、スティックチャートはほとんど用いられない。各国の投資家が株価を上手く予想しようと、ある期間内の四本値だけでなく、前後の値の影響も組み込んだ様々なチャート、テクニカル分析を開発した。例えば「一目均衡表」などである。
特定の市場全体の動向を把握するために、その市場で売買される複数の銘柄の株価を元に算出した値が株価指数である。特に著名なものとしては、米国のダウ平均株価、英国のFTSE100種総合株価指数、ドイツ株価指数などが挙げられる。日本国内市場の指数としては東証株価指数(TOPIX)や日経平均株価(日経225)などが有名である。
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満田拓也
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満田 拓也(みつだ たくや、1965年6月17日 - )は、日本の漫画家。広島県福山市出身。双子座、血液型O型。埼玉県在住。
代表作は『MAJOR』。主にスポーツ漫画を得意とし、作品を掲載している『週刊少年サンデー』(小学館)誌上では「スポーツ漫画の第一人者」と形容されることもある。
『MAJOR』で第41回(平成7年度)小学館漫画賞受賞。
1982年、「蛮勇」で第11回小学館新人コミック大賞少年部門佳作を受賞、同作品でデビュー。
1988年、『週刊少年サンデー』(小学館)にて、バレーボールを題材にした『健太やります!』を連載。同作品の舞台である坂見台高校は、満田の出身高である広島県立福山誠之館高等学校がモデルとなっており、随所にその形跡が見られる。1994年まで連載した。
1994年、『週刊少年サンデー』にて、野球漫画『MAJOR』を連載、16年間続く長編漫画となり2004年にアニメ化されるなど大ヒットとなった。2010年に終了し、単行本は全78巻に及んだ。これは、後に『名探偵コナン』に抜かれるまで少年サンデーコミックス史上最多巻数記録であった。
2011年、『週刊少年サンデー』にて、ボクシングを題材とした『BUYUDEN』を連載した。しかし2014年1月に打ち切りとなり連載は終了した。
現在は『週刊少年サンデー』にて、『MAJOR』の主人公、吾郎の息子である大吾を主人公とした続編『MAJOR 2nd』を連載中である。なお、2018年53号から2019年20号まで、体調不良のため長期休載していた。2021年46号から2022年48号まで体調不良のため再度長期休載となった。
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値幅制限
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値幅制限(ねはばせいげん)とは、株価の異常な暴騰・暴落を防ぐために、株価が1日に変動できる上下の幅を制限するものである。
この値幅制限の上限まで株価が上昇することをストップ高、下限まで下落することをストップ安という。
値幅制限は、証券取引所の役割である適正な株価の形成と、不測の損害からの投資家保護という目的のもと制定されている。
前営業日の終値(特別気配のまま引けた場合は最終気配値)を基準株価とし、この基準株価から1日に変動できる上下の幅を定めている。
値幅制限の具体的な効果としては、ここまでしか株価は上がらない・下がらないというリミッターが機能することにより異常な値動きを物理的に防止する効果と、リミッターが存在する事によって投資家の恐怖心理・過熱心理が和らげられパニック売りなど正常な判断力の失われた取引を抑制する心理的な効果がある。
また、ストップ高・ストップ安のまま取引が引けた場合は、そこで株価を留めたまま1日置くことで過熱した投資家心理をクールダウンさせる効果も持つ。
値幅制限のない証券取引所は、株式の流動性が高まる・IRなどの情報が短時間で株価に反映されるなどの利点を有しているが、その反面、2015年5月20日と6月3日に値幅制限のない香港証券取引所で、一部の銘柄がわずかな時間で60%超の暴落を引き起こすといった一例も発生するなど、株価形成や投資家保護の面で欠点を有している。中でも、ザラ場の値動きに対処することが難しい会社員などの個人投資家は、よりこうした欠点の影響を受けやすく不利益を被る可能性が高い。
現在の日本の証券取引所では全ての上場銘柄に値幅制限が適用されているが、2008年までJASDAQ内に存在したマーケットメイク銘柄においては値幅制限が適用されていなかった。これはマーケットメイカーが適切な気配値を提示するシステムであったためであり、値幅制限に代わり、30%以上の株価変動があった場合に15分間の取引停止となるサーキットブレーカー制度が設けられていた。
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値幅制限
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現在の日本の証券取引所では全ての上場銘柄に値幅制限が適用されているが、2008年までJASDAQ内に存在したマーケットメイク銘柄においては値幅制限が適用されていなかった。これはマーケットメイカーが適切な気配値を提示するシステムであったためであり、値幅制限に代わり、30%以上の株価変動があった場合に15分間の取引停止となるサーキットブレーカー制度が設けられていた。
これは相場の沈静化を促すための手段であったが、実際にはサーキットブレーカー解除後も相場が沈静化しないケースも多く、通常の値幅制限のある銘柄とは比較にならないほどの暴騰・暴落を引き起こす銘柄が続出した。サーキットブレーカー制度はこのような出来高の多くない新興銘柄に対しては満足に機能したとは言えない結果に終わった。
日本では東京証券取引所が2010年初めに新システム「arrowhead(アローヘッド)」の運用を開始したことに伴い値幅制限の改正が行われ、多くの価格帯で値幅制限が拡大された。
この「arrowhead(アローヘッド)」の導入により、ミリ秒単位での高速取引・アルゴリズム取引が機関投資家の手によって行われるようになったが、その結果、昔では見られなかったような株価の乱高下が発生しやすくなっており、小型株・大型株問わず全体として株価の変動幅は以前よりも大きくなっていると見られている。
このようなコンピュータ取引をふまえた近年の株式市場では、値幅制限の重要性は一層高まってきているという見方もある。
制限値幅は原則として下表の通り規定されているが、呼び値単位の切り上げによって規定された値幅よりわずかに大きくなるケースがある。
(例:前営業日に2,991円だった株式がストップ高になると500円高の3,491円となるところであるが、3,000円台における呼び値は5円刻み(TOPIX100構成銘柄を除く)であるため、3,495円の値が付けられ504円高がストップ高となる)
下表の「制限値幅」「最大騰落率」は、上記を考慮しない数字である。
特例として、一定の条件を満たした上でストップ高/ストップ安が2日連続で続いた場合は、値幅制限を4倍とする拡大措置が取られる。
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値幅制限
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下表の「制限値幅」「最大騰落率」は、上記を考慮しない数字である。
特例として、一定の条件を満たした上でストップ高/ストップ安が2日連続で続いた場合は、値幅制限を4倍とする拡大措置が取られる。
以下の条件を満たした上で2日連続ストップ高となった場合、上限値幅のみ4倍に拡大される。逆に、同様の条件を満たした上で2日連続ストップ安となった場合は、下限値幅のみ4倍に拡大される。
拡大措置が発動された日以降は、ストップ値段以外の値段で売買が成立した場合に措置が解除され、翌営業日より通常の値幅制限に戻される。
経営破綻(破産法・会社更生法・民事再生法の申請)や、重大な不祥事により整理銘柄に指定された銘柄は、指定された日の翌々営業日より、下限値幅のみ撤廃する措置がとられる。
この撤廃措置は、最初に約定した日の翌営業日に解除され、通常の値幅制限に戻される。
新規上場銘柄(IPO)においては、上場初日は公募価格を基準価格とし、その基準価格の4倍を上限、基準価格の1/4倍を下限として制限する。
上場初日に初値がつかなかった場合は、その日の最終気配値を基準価格とし、翌営業日も上記と同様の取り扱いとなる。
初値がついた時点で上記の値幅制限は終了し、初値を基準価格とした通常の値幅制限が適用される(翌営業日からではなく、初値がついた瞬間から適用される)。
社会情勢の混乱などで大暴落が予想されるときには、値幅制限の縮小といった臨時措置がとられる事がある。
直近では、アメリカ同時多発テロ事件が発生した翌日の2001年9月12日より3日間、東証の値幅制限が当時の通常値幅の1/2に縮小された。
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呼び値
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呼び値(よびね)とは、主に株式や債券を取引所で取引する際に、意思表示された取引の希望価格のことである。特にいくらで買うという買い注文の呼び値を買い呼び値、いくらで売るという売り注文の呼び値を売り呼び値と表現する。
証券取引所での株取引においては株価に応じた呼び値単位が定められており、この単位より細かい価格の指定はできない。例えば呼び値単位が100円の価格帯では、52,000円の次は52,100円であり、52,050円といった価格では取引できない。
呼び値の刻みはシステムの改良に伴い、呼び値が小さくなる方向へ、変更されてきている。最近では2008年7月22日、2010年1月4日、2014年1月14日、7月22日に改正が行われた。
特に2014年1月14日および7月22日の改正では大規模銘柄であるTOPIX100銘柄(TOPIX Core30銘柄にTOPIX Large70銘柄を加えたもの)に限って変更された(その他の銘柄は変更はなし)。また、7月22日の改正はTOPIX100銘柄の1000円以下の銘柄が10銭単位、5000円以下の銘柄が50銭単位の呼び値という銭単位の呼び値を導入した。
(TOPIX100構成銘柄のみの変更・「その他の銘柄」は変更なし)
(TOPIX100構成銘柄のみの変更・「その他の銘柄」は変更なし)
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配当
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配当(はいとう)とは、金銭等を「割り当てて配ること」あるいは「割り当てて配られたもの」をいう。会社や保険、ギャンブル(賭博)、破産手続、民事執行手続等で用いられる。
企業における配当とは、企業が経営活動の結果として獲得した利益を出資者あるいは株主に分配することをいう。
米国法でも株主には利益配当請求権(Right for receive dividends)がある。distribution (分配) との用語を用いる州法もある (例 : カルフォルニア会社法)。
また、米国法で株主に対して株式が無償発行されるケースには株式分割(stock splits)と株式配当(stock dividends)がある。株式配当は現金の代わりに株主の保有する株式に応じて無償で株式を交付する利益配当である。株式分割も株式配当も追加の払い込みを必要としない。
なお、米国法には資本を取り崩して配当を行う清算配当(liquidation dividends)の制度があり、これは実質的には資本の払戻しにあたる。
日本法では、社員(株主)が利益配当請求権(剰余金配当請求権、105条1項1号、621条1項)に基づいて受け取ることができる利益の分配のことである。株式会社は、その株主に対し、剰余金の配当をすることができる(453条)。配当は、会社の利益を源泉として支払われるものであるため、その内容は一定ではない。赤字で利益のない期や、あっても少なく内部留保を厚くしたい場合には無配、すなわち配当が支払われない場合がある。
原則として配当は株主総会の決議によって決定される(454条1項)。
ただし、以下の場合には、定款で定めることによって取締役会によって配当を決定することが可能である。
株券で支払う株式配当については、日本の会社法では配当財産が現金以外である場合が存在すること(現物配当)を明示的に認めているものの、株式、社債及び新株予約権は対象から除いている(会社法454条1項1号、4項)。かつては現金配当のかわりに株式(新株)自体を配当として株主に配る株式配当があった(実質的には現行法の株式分割に相当する)。なお、日本で額面株式が存在していた時代は、株式の額面額を配当する額面配当と呼ばれるものも存在した。
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Subsets and Splits
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