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彗星
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望遠鏡がなかった時代、彗星の発見はもっぱら肉眼によるものであった。1608年に望遠鏡が発明されると、それによって、肉眼では見えないような暗い彗星を発見することができるようになった。やがて、望遠鏡や双眼鏡を駆使して、彗星の捜索を精力的に行う、コメットハンター(comet hunter)と呼ばれる天文家が現れた。
後述のような自動探査プロジェクトが、電子機器の発達などによって、技術的に可能になった20世紀最末期に至るまで、彗星や小惑星の新発見はこうしたアマチュア天文家に深く依存していた。
20世紀以降に活躍したものを挙げる。より詳細や過去のコメットハンターについては当該項目を参照のこと。
1990年代後半になると、このような状況に劇的な変化が生じた。LINEARやNEATなどといった地球近傍小惑星の強力な自動捜索プロジェクトが相次いで始動し、冷却CCDカメラによって18等や20等などといったきわめて暗い彗星が根こそぎ発見されるようになったのである。北半球で太陽から比較的離れた区域の空は自動捜索プロジェクトによってほとんどの彗星が発見されるようになり、アマチュア天文家などが彗星を発見することは非常に困難になった。また、1996年には太陽観測衛星SOHOが観測を始め、その副産物として、クロイツ群に属する彗星がきわめて多数発見されるようになった。
地球近傍天体捜索プロジェクトなど。以下のプロジェクト名の中には定訳がないものもあるのに注意。
毎年数百個の小彗星が太陽系の内側を通過していくが、そのうち世間一般の話題となるような彗星はきわめて少数である。大体10年に1個前後、あまり夜空に関心がない人でも気づくほど明るくなるような彗星が現れる。そのような彗星はよく大彗星と呼ばれる。
過去には、明るい彗星はしばしば一般市民にパニックやヒステリーを引き起こし、何か悪いことの前兆と考えられた。20世紀に入ってからも、ハレー彗星の1910年の回帰の際に、彗星が地球と太陽の間を通ることから「彗星の尾によって人類は滅亡する」というような風説が広まった。
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彗星
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過去には、明るい彗星はしばしば一般市民にパニックやヒステリーを引き起こし、何か悪いことの前兆と考えられた。20世紀に入ってからも、ハレー彗星の1910年の回帰の際に、彗星が地球と太陽の間を通ることから「彗星の尾によって人類は滅亡する」というような風説が広まった。
この当時、すでにスペクトル分析によって(先述の通り)彗星の尾には猛毒の青酸が含まれていることが知られており、また天文学者でSF作家でもあったカミーユ・フラマリオンは、尾に含まれる水素が地球の大気中の酸素と結合して地上の人々が窒息死する可能性があると発表した。これらが世界各国の新聞で報道され、さらに尾ひれがついて一般人がパニックに陥ったと言われる。日本では、空気がなくなっても大丈夫なようにと、自転車のタイヤのチューブが高値でも飛ぶように売れ、貧しくて買えないものは水に頭を突っ込んで息を止める練習をするなどの騒動が起きたとされているが、世界の終わりを信じた人はごく一部だったと受け取れるような記録もある(いずれにせよ、実際には彗星の尾は地球の大気に影響を及ぼすにはあまりに希薄だった)。
その後も、1990年にはオウム真理教の麻原彰晃がオースチン彗星(C/1989 X1)の地球接近によって天変地異が起ると喧伝したり(石垣島セミナー)、1997年のヘール・ボップ彗星(C/1995 O1)の出現時にはカルト団体ヘヴンズ・ゲートが集団自殺事件を起こした。しかし、ほとんどの人にとっては、大彗星の出現は単に素晴らしい天体ショーである。
さまざまな要素により、彗星の明るさは予測から大きく外れるため、彗星が大彗星になるか否かを予測するのは難しいということはよく知られている。大まかに言うと、もし彗星の核が大きく活発で、太陽の近くを通る軌道で、もっとも明るいときに地球から見て太陽により不鮮明になっていなければ、大彗星になる可能性が高い。しかし1973年のコホーテク彗星 (C/1973 E1) は、これらすべての条件を満たしており、壮大な彗星になると期待されたにもかかわらず、実際はあまり明るくならなかった。その3年後に現れたウェスト彗星(C/1975 V1)は、ほとんど期待されていなかった(コホーテク彗星の予報が大きく外れたあとだったため、科学者が慎重になっていた可能性もある)が、実際は非常に印象的な大彗星となった。
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彗星
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20世紀後半には大彗星が出現しない長い空白期間があったが、20世紀も終わりに近づいたころ、2つの彗星が相次いで大彗星となった。1996年に発見され明るくなった百武彗星 (C/1996 B2) と、1995年に発見され、1997年に最大光度となったヘール・ボップ彗星である。21世紀初頭には大彗星が、それも2個も同時に見ることができるというニュースが入った。2001年に発見されたNEAT彗星 (C/2001 Q4) と2002年に発見されたLINEAR彗星 (C/2002 T7) である。しかしどちらも最大光度は3等に留まり、大彗星とはならなかった。2006年に発見され、2007年1月に近日点を通過したマックノート彗星 (C/2006 P1) は予想を上回る増光を起こし、昼間でも見えるほどの大彗星となった。近日点通過後は南半球でのみ観測されたが、尾が大きく広がった印象的な姿を見せた。
知られている数千もの彗星の中には、とても変わったものもある。エンケ彗星は木星の内側から水星の内側にまで入る軌道を回っているし、シュワスマン・ワハマン第1彗星(29P)は木星と土星の軌道の間に収まった軌道を回っている。土星と天王星の間を不安定な軌道で回っているキロンは、最初は小惑星に分類されていたが、のちに希薄なコマが発見されたため、現在では彗星と小惑星の両方に分類されている。同様に、シューメーカー・レヴィ第2彗星(137P)も小惑星1990 UL3として発見された。近日点、遠日点がともに小惑星帯内にある彗星も複数見つかっており、メインベルト彗星と呼ばれている。
上記のキロンやシューメーカー・レヴィ第2彗星のように、最初は小惑星として発見された天体がのちに彗星だと判明する例が20世紀末以降は増えている。逆に、発見時はわずかながらコマや尾が観測されたが、のちの回帰の際は尾がまったく見られなくなっているアラン・リゴー彗星(49P)やウィルソン・ハリントン彗星(107P/4015)、彗星としての活動が観測されたことはまったくないが、流星群の母天体となっている小惑星ファエトンやオルヤトなどのような例もあり、これらは揮発成分を使い果たした枯渇彗星核だと見られている。その他の小惑星や、惑星の衛星の中にも、軌道や成分などから元は彗星だったと考えられるものがある。
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彗星
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彗星によっては、短時間の間に急激な増光(アウトバースト)を起こすことがある。特にホームズ彗星が2007年10月下旬に起こした大増光は印象深い。2日足らずの間に17等から2等級まで(約40万倍)明るくなり、肉眼でも「明るい星」として容易に見ることができた。その後、この増光で放出されたと思われるダストが球状に広がり、その直径は太陽よりも大きく広がった。ホームズ彗星は一時的に太陽系最大の天体となったのである。1986年に接近したハレー彗星も、後に突然増光が確認されている。これもアウトバーストが原因ではないかと言われている。
記録に残されたもの、残されていないもの問わず、多くの彗星の核が分裂するのが観測されてきた。1846年の回帰の際に2つに分裂し、のちに流星群だけを残して消滅したビエラ彗星(参照)が有名な例である。また、シュワスマン・ワハマン第3彗星(73P)は1995年の回帰時に4個に分裂し、その後さらに分裂(いくつかは消滅)して2006年には30個以上の破片になっていた。このほかにもウェスト彗星、池谷・関彗星、ブルックス第2彗星(16P)など、彗星核の分裂が観測された彗星は数多い。
崩壊・消滅した彗星としては、1994年7月に木星に衝突したシューメーカー・レヴィ第9彗星も有名である(参照)。
1908年のツングースカ大爆発はエンケ彗星の破片が地球に衝突したのではないかとする仮説がある。隕石の落下によって生じるクレーターがまったく見られなかったことから、大気圏に突入した彗星の破片が上空で爆発、蒸発したことによって甚大な被害を及ぼしたのではという見解がある。
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彗星
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崩壊・消滅した彗星としては、1994年7月に木星に衝突したシューメーカー・レヴィ第9彗星も有名である(参照)。
1908年のツングースカ大爆発はエンケ彗星の破片が地球に衝突したのではないかとする仮説がある。隕石の落下によって生じるクレーターがまったく見られなかったことから、大気圏に突入した彗星の破片が上空で爆発、蒸発したことによって甚大な被害を及ぼしたのではという見解がある。
1979年、かつての大彗星から分裂したクロイツ群の彗星が太陽面に接近し、蒸発、雲散霧消する姿が太陽観測衛星P78-1のコロナグラフ:SOLWIND(ソルウィンド)によって観測された。この彗星(C/1979 Q1)は観測した天文学者らの名前からハワード・クーメン・ミッチェル彗星と命名されたが、同衛星がその後も彗星を発見したためソルウィンド第1彗星として広まる。このような事例は数多く起こっており、1995年に打ち上げられた太陽探査機SOHOは、毎年数十個の彗星が太陽に突入するのを観測している。十分に大きな彗星は、近日点通過後も生き延びるという予測があったが、初の事例となったのは2011年のラヴジョイ彗星 (C/2011 W3)である。
彗星自体が変わった性質を持っているものも多い。1961年に観測されたヒューメイソン彗星(C/1961 R1)は、近日点が約2天文単位と遠かったため、それほど明るい彗星ではなかったが、観測ではダストの尾がほとんど見られず、大部分がイオンの尾で構成されていたことが報告されている。また核の直径自体もおよそ30キロと、当時としてはかなり大きい部類に入る彗星でもあった。
彗星はSF作家や映画製作者には人気のある題材であるが、氷の天体と言うよりも燃えている天体のように誤って描写されることも多い。フィクションの中のハレー彗星については、「ハレー彗星」の項を参照。
また、彗星が地球へ衝突する(または衝突しそうになる)という状況を描いた作品も多数存在する。
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自由ソフトウェア
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自由ソフトウェア(じゆうソフトウェア、英語: free software、libre software)とは、ユーザーがどのような目的に対しても実行することを許可し、また、プログラムについて研究したり、変更したり、それを配布したりする自由も認めることを条件として配布されるコンピュータソフトウェアのことである。自由ソフトウェアには、プログラムの対価として支払った価格とは無関係に、ユーザーが(個人で、あるいは、コンピュータプログラマーと協力して)ソフトウェアのコピーを用いて、自身が望むことを(自由ソフトウェアを用いて利益を獲得することを含めて)する自由が存在するということである。コンピュータプログラムが自由であるとみなされる必要十分条件は、本質的には(開発者のみではなく)すべてのユーザーに第一にプログラムをコントロールする権利があるということであるとされる。したがって、ユーザーが所有する装置が「自由」であるためには、プログラムによって何が行われるのかを、ユーザーが本質的にはコントロールできなければならない。
コンピュータプログラムを研究したり変更したりする権利を保証するためには、ユーザーがプログラムのソースコード(これがプログラムの変更を行うために適した形式である)を読むことが可能である必要がある。このことは「ソースコードにアクセスできる」(access to source code)とか「パブリックに利用できる」(public availability)という言葉で言い表されることがよくあるが、フリーソフトウェア財団は、単純にこのような表現を使ってプログラムを考えることに反対している。その理由として、このような表現を使うと、プログラムのコピーを他者に与えなければならないという義務(義務とは権利とは正反対のものである)がユーザーにある、という印象を与える恐れがあることを挙げている。
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自由ソフトウェア
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free softwareという言葉は、自由ソフトウェアの概念が生まれる以前からゆるく使われていたが、リチャード・ストールマンは、彼がGNUプロジェクトを立ち上げたのと同じ1983年から、この言葉を上記で述べたような意味で使うことを促す自由ソフトウェア運動を開始した。GNUプロジェクトは、自由の精神を尊重したオペレーティングシステムを協力して製作するプロジェクトであり、コンピュータの黎明期にハッカーたちの間に存在していた、互いに協力する精神をよみがえらせることを目的としている。
フリーソフトウェア財団は自由ソフトウェアの定義を提示している。ソフトウェアライセンスについては自由ソフトウェアライセンスを参照。
定義に照らして自由ではない、すなわち改造や再配布などに制限が掛かっていたり、ソースコードが開示されていない、無償で利用できるソフトウェアとは異なる概念であり、この場合はフリーウェアもしくは無料ソフトと呼ぶことが望ましいとフリーソフトウェア財団はしている。
逆に定義に従ったソフトウェアであれば、一次的な配布が有償であっても自由ソフトウェアと呼ぶことができる。ただし、前述したように配布が自由であるため、ほとんどの自由ソフトウェアは無償で配布されている。
また、現状強い影響力を持つ定義として、フリーソフトウェア財団の定義の他に、DebianフリーソフトウェアガイドラインとそれをベースにしたOpen Source Initiativeのオープンソースの定義がある。
そもそも、英単語であるフリー (free) は、「自由」と「無料」、双方の意味をもっていて、たんに"free"といっただけでは区別が付かない。これに対し、Free Softwareの概念においては、「自由」と「無料」の違いが大きな意味を持つ。このため、英語圏では、自由のfreeと、無料のfreeを区別するため、無料を示すのに「free as in "free beer"(無料のビール)」、また、自由であることを示すのに「free as in "free speech"(言論の自由)」などという表現がよく使われる。
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自由ソフトウェア
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熟語として記述する際には、"free software"、"Free Software"と区別している。前者がよく言われる"無料のソフトウェア"であり、後者は固有名詞で、リチャード・ストールマンが自由なソフトウェアに対して名づけた"自由なソフトウェア"のことである。最近では本来英語の単語でないものの、「自由」を意味する単語としてラテン語の "libre" を使い "Software libre" のように表すこともある。
フリーウェアを参照のこと。
コンパイルした成果物だけでなく、ソースコードが入手可能であり、さらに、その改変と再配付も自由である必要がある。
フリーソフトウェア財団(FSF)の創始者リチャード・ストールマン(RMS)が、自由に利用し、改変し、再配布することができるという意味でFree Softwareという語を1980年代初頭に作った。この場合、単に無料であるソフトウェアは、"フリーウェア"と呼んで区別する。
ソフトウェアが自由であることを重視するリチャード・ストールマンの立場からは「無料」との混同は避けたいところである。そのため、彼は折に触れてこの区別を強調し、また「日本語にはせっかく2つの意味を区別する言葉があるのだから、Free Softwareではなく自由なソフトウェアと呼んで欲しい」と述べている。
自由ソフトウェアは、著作権を放棄した「パブリックドメインソフトウェア」(PDS)とは異なる。一見矛盾しているように見えるかも知れないが、自由ソフトウェアは(自身が自由であるための手段として)著作権を明確に主張し、そのライセンスの文中で自由を規定するという方法を取っている。
このため、あるソフトウェアが、自由なソフトウェアである場合には、自由であることを、ライセンスで明確に示しており、確認することができる。ライセンスが、例えばGPL、LGPL、GFDL、BSDライセンス、X11ライセンスなどであれば、自由なソフトウェアである。
現在、GNU/Linuxとして知られる自由ソフトウェアのオペレーティングシステムのプロジェクト:GNUを始めるに当たって、作られるソフトウェアの自由を保証するために、自由ソフトウェアの概念を定義した。GNUは自由ソフトウェアのみで構成されるというわけである。
自由ソフトウェアとして認められるライセンスには、二通りある。
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自由ソフトウェア
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現在、GNU/Linuxとして知られる自由ソフトウェアのオペレーティングシステムのプロジェクト:GNUを始めるに当たって、作られるソフトウェアの自由を保証するために、自由ソフトウェアの概念を定義した。GNUは自由ソフトウェアのみで構成されるというわけである。
自由ソフトウェアとして認められるライセンスには、二通りある。
ソースコードが公開されなければ、自由なソフトウェアではない。ソフトウェアを自由に変更・配布することはソースコード無しには極めて困難だからである。
しかし、ソースコードが付属していても、ソースコードを改変したり配布したりする自由が制限されていれば自由なソフトウェアとは言えない。
自由なソフトウェアは、そのソフトウェアが仮に有料で取得されたとしても、それを無料でコピーすることを制限しない。また、同時に、自由なソフトウェアは、それを有料で販売することも制限していない。「自由」には有料で販売する自由、無料でコピーする自由が含まれている。したがって、「有料なので自由なソフトウェアではない」という判断は間違いである。例えばLinuxディストリビューションに有償のものも多いように、自由なソフトウェアを集めてそれらを有償で販売する製品形態は定着してきている。
自由なソフトウェアは、有用なものであれば大抵はそれを無料で配布しようとする者が現れる。勿論、無料で配布することは自由である。その意味では自由なソフトウェアには無料という意味でもフリーなものが多い。
自由なソフトウェアが、永続的に自由であるための概念としてコピーレフトがある。
コピーレフトとは、配布にあたって「配布される人にソースコードを自由に取得・変更・再配布する権利を提供せずにプログラムの再配布をしてはいけない」という制約をつけることで一旦自由ソフトウェアになったソフトウェアは他人の手を経て再配布されても自由ソフトウェアであり続けることを保証する。
この制約の有効性はプログラム著作者の著作権(コピーライト)によって保証されている。rightをleftに置き換えてコピーレフトという語が作られた。
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自由ソフトウェア
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この制約の有効性はプログラム著作者の著作権(コピーライト)によって保証されている。rightをleftに置き換えてコピーレフトという語が作られた。
日本においては、コピーレフトの観念を"永久に無料で更新され続ける"かのようなイメージで語られることがあるが、コピーレフトは、ソフトウェアを"永続的に使う機会を保証する"ために、そのソフトウェアのもとになるソースコードの利用の自由を保証する(させる)だけである。エンドユーザが常に改良されたソフトウェアを使えるかどうかとは無関係である点に注意が必要である。
要するに、私有ソフトウェアは、なんらかの事情で権利主が更新が停止した場合、そのソフトウェアの命脈は文字通りそれまでであるが、コピーレフトであれば、ソースコードを改良する人がいる限り、ソフトウェアの更新も継続される、ということである。逆にいえば、コピーレフトであっても、誰もメンテナンスしなければそのソフトウェアはそのままであるし、実際にそういうソフトウェアは多い。
コピーレフトもまたGNUを始めるに当たって、より自由なソフトウェアを定義するための概念である。GPL/LGPLは、コピーレフトを実現する法的に有効なライセンスで、弁護士の協力の元に作られた。
ソフトウェアに例えて言えば、コピーレフトは「アーキテクチャ」であり、GPLはその「実装」ということになる。つまり、コピーレフトを実現するライセンスにはGPL以外にもあり得る。
コピーレフトやGPL自身が、実社会で動作するコンピュータプログラムのようなもので、天才プログラマのストールマンならではの作品だと言える。自由な社会を作り出すプログラムである。「GPLをあなたのソフトウェア/作品に組み込めばそれは、自由な社会を作り出すために自動的に働き始めますよ」というわけだ。
GNUなどの考え方としては、コピーレフトなライセンスが「自由な世界のソフトウェアは自由を失うことが難しい」という意味で、より自由ということになる。
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自由ソフトウェア
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GNUなどの考え方としては、コピーレフトなライセンスが「自由な世界のソフトウェアは自由を失うことが難しい」という意味で、より自由ということになる。
これに対して、BSDを始めとしたコピーレフトではないライセンスは、「自由なソフトウェアが将来自由を失う可能性があり得る」という意味で、コピーレフトに比べて自由さに欠けるとされる。例えば、BSDライセンスで公開されているソフトウェアを改良して公開するとき、必ずしもソースコードを公開しなくても良い。コピーレフトの考え方によれば、このとき「改良されたバージョンは自由が失われている」とされる。
一方、コピーレフトは「自由であること」が失われないために「自由でなければならない」という制約を付けていると見ることもできる。例えば、コピーレフトなソフトウェアを改造して公開する場合、ソースコードの公開を拒むことはできない。コピーレフトなソフトウェアをBSDライセンスで公開することもできない。この意味で、「コピーレフトは制約が強く、BSDライセンスなどに比べて自由でない」と考える人もいる。
詳しくはGNUプロジェクトの「さまざまなライセンスとそれらについての解説」に自由ソフトウェアとして認められるライセンスの一覧があり、必要に応じて更新されている(日本語版は英語版に比べて更新が遅れるので、最新の情報を得る必要があるときは、英語版を参照のこと)。
Free softwareという言葉は「無料」を連想させるため、一般企業には採用されにくい考えかたであった。この状況を改善させるため、エリック・レイモンドらによって近年オープンソースという語が提案され、広く使われるようになった。オープンソースという言葉には自由の思想が含まれておらず(前述の状況を回避するため意図的に避けられている)、あくまでビジネス上の企業戦略の一つとして紹介された。「ソースコードを公開するとどういうメリットがあるか」が関心の中心である。
オープンソースはソースを取得、変更、再配布できることに注目し、ソフトウェアの自由を維持するためのコピーレフトの概念は含まれていない。
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自由ソフトウェア
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オープンソースはソースを取得、変更、再配布できることに注目し、ソフトウェアの自由を維持するためのコピーレフトの概念は含まれていない。
このような違いから、自由ソフトウェアとオープンソースの立場は別の物として扱われている。形としては、オープンソースは自由ソフトウェアの一部のように見えるが、意味としては全く違うと、リチャード・ストールマンは主張している。逆にオープンソースは、自由ソフトウェアをその一部として含む。
各ライセンスはオープンソースの概念を発表・定義し、推進する団体であるOpen Source Initiativeによる認証を受けることで「オープンソース・ライセンス」を名乗ることができる。しかしオープンソースは流行語になったため独自の解釈による自称オープンソースが複数存在するため問題となっている。
自由ソフトウェアが提唱された当初は批判意見もあり、利用者は研究者や個人に限られていた。
1990年代になると、インターネットの爆発的普及により、自由ソフトウェアに携わる技術者が世界的に増大した。また、ダウンサイジングとオープンシステムの普及により、情報システムにおける標準化とコストの劇的な低下が起こり、相対的にシステム構築や、保守運用のコストの比重が増加した。
このため、自由ソフトウェアを使用し、情報システムの構築、保守運用を行うことで利益を上げるベンチャービジネスが勃興した。 このような企業において独自に行われた、バク修正や機能の追加は、インターネットを通じ公開され、自由ソフトウェアの信頼性向上や高機能化に貢献した。企業も、社会貢献によるイメージアップと、技術力を示すことによる広告効果を期待することよりも、特定の高価な独占ソフトウェアでは利益が独占企業に集中するだけであり、対抗して作られてきた自由ソフトウェアに積極的に開発に携わることにより、利益確保の道を模索している。あるいは、開発、保守の費用負担ができなさそうなソフトウェアを自由ソフトウェアとしてソースコードを公開することより、固定的な費用負担を削減することを目的としている場合もある。
2000年代になると、自由ソフトウェア産業はエコシステムとして機能するようになり、多くの人から産業としての価値を認められるようになった。また、従来からの大企業が自由ソフトウェアに関わることも珍しくなくなった。
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自由ソフトウェア
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2000年代になると、自由ソフトウェア産業はエコシステムとして機能するようになり、多くの人から産業としての価値を認められるようになった。また、従来からの大企業が自由ソフトウェアに関わることも珍しくなくなった。
一方、現在でも自由ソフトウェア開発では、特許などの知的所有権の保護が十分検証されておらず、企業での利用にはリスクがあると批判されることがある。しかし、国際規格などの公開の規格類に適合していれば、特許・知的所有権は規格制定とその後の所定の期間で検証済みとなるため、企業での利用にリスクがあるとは限らない。保守運用で利益を上げることが難しい個人向けソフトウェアでは、有償の自由ソフトウェアの運用は進んでおらず、個人の自己責任での利用が広がっている。また、自由ソフトウェアが入っていることを知らずに利用している場合の方が多くなっている。
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西洋美術史
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西洋美術史(せいようびじゅつし)では、西洋における美術の歴史について概説する。
旧石器時代後期に入った頃より、実生活において有用に機能するとは考えにくい遺物・遺構が見られるようになり、これらを総称して一般的に原始美術/先史美術などと呼称し、西洋美術史においては洞窟絵画や岩陰彫刻(英語版)、丸彫彫刻(英語版)、獣骨などに刻まれた刻線画などがこれに該当する。また、実用品からも動物や魚の骨などを原材料とした器物や石器類などに動物や魚類、木の葉などを写実的に模様化したものが残されており、美術の目覚めを感じさせる。ただし、これらを原始美術と分類し、その地位が確立されたのは20世紀に入ってからである。
古いものはオーリニャック期に生み出されたとされ、フランスの クニャック洞窟(フランス語版)に描かれた山羊の洞窟絵画、スペインのラス・チメネアス洞窟(スペイン語版)に描かれた鹿の洞窟絵画などが知られている。
動産美術としてはブラッサンプイで出土した象牙彫りの女性頭部像がある。人間を表した作品はたいていの場合裸体女性であり、子孫繁殖を祈念した宗教的意味合いが込められていたと推察される。この時代の美術的特徴としては、単純な輪郭線による写実的な表現や生殖機能を強調した表現が挙げられる。ソリュトレ期の洞窟絵画は発見されていないが、マドレーヌ期 に入ると動物の体毛に応じた明暗の使い分けや、肥痩のある輪郭線を使用した表現力の増した洞窟絵画が出現するようになっている。有名なものとしてはラスコー洞窟やアルタミラ洞窟のものが挙げられる。これらの洞窟絵画では野牛、トナカイ、馬、マンモス、鹿などの狩猟対象となった動物のモチーフが主となっていた。
このため、これらの遺例はヨーロッパ大陸を拠点に生活を営んでいた狩猟採集民族の手によって作成されたものであり、彼らにとって重要・貴重なものを対象として造形的に再現したに過ぎず、後年の美術が獲得していった社会的機能は持っていなかったのではないか、あるいは誰かに見せるために描いたものでは無いのではないかと考えられている。
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西洋美術史
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このため、これらの遺例はヨーロッパ大陸を拠点に生活を営んでいた狩猟採集民族の手によって作成されたものであり、彼らにとって重要・貴重なものを対象として造形的に再現したに過ぎず、後年の美術が獲得していった社会的機能は持っていなかったのではないか、あるいは誰かに見せるために描いたものでは無いのではないかと考えられている。
中石器時代には東スペインで興った様々な動物と人間を描いた岩陰絵画(レバント美術)やスカンジナビア半島からロシアにかけて発達した岩陰線刻画(極北美術)が登場した。初期のものには写実的な表現でもって実物大に近い大きさを有しているものも見られるが、時代を追うごとに形像は小型化し、簡略化・形式化が進んでいる。
新石器時代に入ると人類は土器の製作を始め、線状模様が土器表面に描かれるようになった。この時代に洞窟絵画に見られるような絵画的美術が創出されたのかどうかは今となっては不明であるが、『西洋美術史要説』では制作そのものが少なかったのではないかと推察している。また、土地土地によって建設されたであろう木造住居は残されておらず、美術史的な立場からこの時代の建築遺物としては、メンヒル、ドルメン、ストーンヘンジなどといった宗教的な意味を持っていたと考えられる石製構造物のみである。 後世、20世紀あたりになって、原始美術に影響され原始主義(英語版)に繋がる。
ティグリス・ユーフラテス川水域で開花したメソポタミア文明では、原始農耕社会の中で様々な器形とユーモアな装飾モチーフを特徴とする彩文土器の出現が見られた。特にサーマッラー期やハラフ期の彩文土器は従来の幾何学文様に加えて特徴を極端に誇張した動物文様や人物文様などが加わり、社会の広がりと異なる文化との交流を示している。地域的な事情から石材が乏しかったことから大型の彫刻は制作されず、建築文化も煉瓦の使用やアーチ式建築の技法発達が見られた。ここで誕生したメソポタミア美術は、エジプト美術と並んで西洋美術史における始祖とも言える。
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西洋美術史
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紀元前4000年期に入る頃にはシュメール人たちによって神殿を中心とした都市が形成されるようになり、商業の活発化とともに絵文字などの伝達手段が登場するようになった。特にウルク期の中心的役割を担ったエアンナでは陶片によって壁面や柱がモザイク装飾された神殿が登場し、大理石を素材にした丸彫彫刻が数多く制作された。大理石が持つ白い肌触りと柔らかな質感は人間の肉感を表現するのにうってつけであり、素材に大理石を使用するという手段はギリシア美術へと継承された。
ジュムデト・ナスル期(英語版)に入ると礼拝者や聖職者を象ったと思われる立像が制作されるようになり、同時に、政治的指導者の出現によって都市国家としての発展が見られるようになった。制作される美術品は写実的な表現が大きく発達し、素材も多様化して金、銀、ラピスラズリ、貝殻などが用いられるようになった。また、叙述的な表現技法も見られ、戦争などの国家的な出来事も作品モチーフとして取り入れられるようになっている。この時代の彫刻は『エビー・イルの像』に代表されるように、強調された大きな目を有していることに特徴があり、エジプト美術にも影響を与えている。
セム人の侵攻によってアッカド王朝が樹立すると、自然主義的な傾向を有した作品が制作されるようになり、同時に、権力者を称えるような王権美術とでも形容すべき様式の確立がなされた。アッカド王朝滅亡後、ウルクによるシュメール都市国家の統合がなされた頃には都市の再建に伴ってジッグラト(聖塔)が各地に建設され、宗教観の発展とともに建築分野の美術が大きく発達した。ジッグラトは後に続くエジプト美術で建設されたピラミッドの原形となった。
一方、メソポタミア北部のアッシリアでは、バビロニアの占領支配によって固有の文化的発展を遂げ、美術作品においても他の地域にない独自性を有するようになった。トゥクルティ・ニヌルタ1世の時代に入った頃から丸彫彫刻や浮彫彫刻などが数多く制作されるようになり、躍動感のある表現が見られるようになった。
また、地理的な環境と版図の拡がりから不透明ながらもアッシリアの美術はフェニキア美術やギリシア美術に一定の影響を与えたと考えられている。アッシリア帝国滅亡後に誕生した新バビロニア帝国ではネブカドネザル2世の手によって都市整備が進展し、イシュタル門に代表される彩釉煉瓦で装飾された建造物が登場した。
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西洋美術史
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また、地理的な環境と版図の拡がりから不透明ながらもアッシリアの美術はフェニキア美術やギリシア美術に一定の影響を与えたと考えられている。アッシリア帝国滅亡後に誕生した新バビロニア帝国ではネブカドネザル2世の手によって都市整備が進展し、イシュタル門に代表される彩釉煉瓦で装飾された建造物が登場した。
その後、アカイメネス朝によって各地が統治されるようになるとメソポタミア、エジプト、ウラルトゥなどの美術様式を統合したアカイメネス朝美術(英語版)が開花した。特に工芸の分野でその特質は顕著で、金銀象嵌などを駆使した精微な作品が数多く制作されている。
ナイル川流域で興ったエジプト文明は肥沃な大地を背景に大いに発展し、初期王朝時代には古代エジプト美術の原型が誕生した。エジプト美術の初期は メソポタミア美術(英語版)の影響を受けたと考えられている。初期は蛇王の碑などに代表される浮彫彫刻や丸彫彫刻がさかんに制作され、既に技術、様式においてエジプト美術の独自性の原形が垣間見える。
ファラオの神権的権力が確立する古王国時代には葬祭複合体として古代史においても重要な建築物であるピラミッドがギザなどに建立された。なお、従来の墳墓(マスタバ)の概念を取り払い、ピラミッドとして確立を見たのはジェセル王の時代であり、宰相イムヘテプによってサッカラに建立された階段ピラミッドがその嚆矢とされている。壁画においてはメイドゥームの鴨(英語版)など、動植物には写実的で精微な表現を有したものが数多く制作されているのに対し、人像表現は極めて形式的かつ概念的で、上半身は正面向き、下半身は真横からといった形態で表現されていることが多い。 これは、魚や鳥は死者の食料としての役割を担っており、生きの良さが重要だったのに対し、表された人々は王侯に奉仕する労働力として永遠不動の形を要求するというエジプト独特の信仰から来る表現の違いであると推察されている。
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中央集権が瓦解し、中王国時代に入るとアメンエムハト3世の時代に入るまで巨大建造物の造営は見られなくなり、代わってオシリス柱やハトホル柱など、独創的な形式を有する葬祭殿や神殿が出現した。彫刻においては第11王朝期ごろから個性を写実的に捉える傾向を持った新しいテーベ様式が出現し、従来の伝統的なメンフィス様式とともに二大潮流を形成した。しかしながら経済の停滞とともに制作傾向は大型石像彫刻から木製の小像へと変化している。
新王国時代に入ると王権の強化とともにエジプト美術は絶頂期を迎え、アモン大神殿やルクソール神殿など、テーベを中心に各地で大型の造営事業が推進された。とりわけ、第18王朝期には従来の二大潮流の中に豪華な装飾性と色彩主義が加えられ、宮廷美術の新境地を切り開いた。
また、アマルナの地に都を移したアメンホテプ4世が唯一神アトンへの信仰に没頭したことから、この時代に制作された美術作品は自然主義的な傾向が色濃く反映されており、エジプト美術のなかでは異彩を放っている。宮廷美術として型にはめられ、厳格な形式性から解放されたことから、リアリズム表現の技法が大いに伸張した。王女に口付けをするアメンホテプ4世の彫刻画など、人間の感情や情愛をモチーフとした構図が採用され、表情や姿態に誇張的な表現がとられた。
この時代の美術をそれ以外の時代のエジプト美術と区別し、アマルナ美術と呼称する。アマルナ美術は後世のエジプト美術にも大きな影響を与え、ツタンカーメンの黄金マスクなどにおいても、アマルナ美術の内観的な表現様式の名残が見て取れる。
エジプト美術の最大の特徴はその様式の不変性で、三千年に及ぶ悠久の時を経てもほぼ変わることなく一貫していることが挙げられる。こうして連綿と継承された技術はその洗練性を高め、後期には沈浮彫りなどの高度に発達した特殊な技法が誕生している。一方でこうした不変性は社会的・歴史的基盤があって初めて成立する特殊な美術であったこともまた事実であり、ギリシア美術のような影響力を他の美術に与えることはなかった。しかし、末期王朝時代に入ると王国の衰退とともにエジプト美術も因襲的な模倣に終始し、他国からの影響を受けながらその独自性すら失っていった。紀元前332年、アレクサンドロス3世によってエジプト征服がなされると、エジプト美術は形骸化し、ギリシア美術の影響の中に消えていった。
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アーサー・エヴァンズのクノッソス発掘によって、地中海域で最初に開花したとされるクレタ美術(ミノス美術(英語版))の解明がなされた。新石器時代末期から青銅器時代初頭にかけて、キュクラデス諸島などで人体の特徴を簡潔に捉えた石偶や彩色土器、金属器などが制作されている。旧宮殿時代に入ると農業と海上貿易によって都市は経済的に大きく発展し、マリア、クノッソス、アヤ・トリアダなど各地に荘厳な宮殿が造営された。工芸品も数多く制作され、カマレス陶器のような豪華なものも出現している。
紀元前1700年頃に発生した大地震により一時は壊滅の危機に陥るが、新宮殿時代に入るとより複雑で豪華な装飾を持つ宮殿や離宮が建立された。自然と人類を見事に調和させ、自由闊達に描いた壁画が残されており、こうした作風はペロポネソス半島で隆昌したミュケナイ美術へ受容、継承された。紀元前1400年頃に入ってミュケナイ人がクレタ島を征服すると、ミュケナイ美術は最盛期を迎え、後のギリシア建築に大きな影響を与える建造物が複数建築された。 ミュケナイ美術は時代を経るに従って豊かな自然主義的作品から簡素化された装飾モチーフを用いた形式主義的作品へと変遷しており、その理由については明らかになっていない。その後、紀元前12世紀頃のドーリス人大移動を境に衰退期へと移行し、ミュケナイ美術はその幕を閉じることとなった。
紀元前11世紀中ごろ、アテネのケラメイコスからミュケナイ陶器とは異なる特徴を持った陶器が出現した。黒線や水平帯によって区分した装飾帯に波状線や同心円文を配した構築的な装飾を持ったこれらの様式は原幾何学様式と呼ばれ、ミュケナイ美術とは明確に区別されるようになった。
紀元前925年頃になるとこの傾向はより顕著に現れるようになり、紀元前8世紀前半に登場したディピュロン式陶器はメアンダー文、ジグザグ文、鋸歯文、菱形文などを複雑に組み合わせた装飾が配されている。
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紀元前925年頃になるとこの傾向はより顕著に現れるようになり、紀元前8世紀前半に登場したディピュロン式陶器はメアンダー文、ジグザグ文、鋸歯文、菱形文などを複雑に組み合わせた装飾が配されている。
こうした幾何学的な構想は陶器の文様に限らず、テラコッタや青銅小彫刻などにおいても同様の傾向が見られ、動物や人間などの各部位を幾何学的形態に置き換えた後に全体を再構築するという過程を経て制作されており、有機的形態の分析による認識法や、部分均衡と全体調和によるギリシア美術固有の造形理念が見られる。以上のような経緯を経てギリシア美術は確立に至るが、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンが記した『古代美術史』に代表されるように、ギリシア美術こそが西洋美術のはじまりであるとする言説も存在している。
その後、エジプト、アッシリア、シリアの東方から持ち込まれた工芸品を通じて、ギリシア美術における装飾モチーフの表現領域が大きく拡大し、パメルット(英語版)、ロータス、ロゼットなどの植物文やスフィンクスなどの空想動物が用いられるようになった。プロト・コリントス式陶器やコリントス式陶器など、こうした装飾モチーフを利用して制作された作品はギリシア美術の中でも特に東方化様式と呼称し、区別されている。
一方、アテネでは叙事詩や物語への関心が高まったことによりこれらをモチーフとした陶器や彫刻が制作され、これらはやがて神話表現へと昇華していくこととなった。紀元前7世紀に入るとエジプト彫刻の影響で大掛かりな彫刻が制作されるようになり、この頃作られた男性裸体像(クーロス(英語版))は既に両足を前後させて体重を均等に支えるポーズをとっており、ギリシア彫刻としての特徴が見て取れる。
ここまでに培われた表現基盤と技術的要素を背景として紀元前7世紀中盤ごろよりギリシア美術において最も創造力に満ちたアルカイック美術が展開された。人体彫刻はより自然な骨格と筋肉をまとったものへと発展し、神殿建築分野ではこれまでの日干煉瓦や材木に代わって石材が使用されるようになり、アポロン神殿(ドイツ語版)に代表される周柱式神殿が誕生した。紀元前6世紀にはサモスのヘラ神殿やエフェソスのアルテミス神殿など、イオニア式オーダーによるより巨大な神殿が建立されるに至り、これに伴う建築装飾技法が大いに発達した。
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浮彫彫刻では静止像に動性を、運動像に瞬間の静止を表現できるよう試行錯誤が繰り返されるようになり、その過程でアルカイックスマイルなどの立体表現が生み出された。なお、ギリシア美術で好んで使用された素材である大理石の色によってギリシア彫刻の特徴としてその「白さ」が取り上げられることがあるが、制作当時はエジプトから輸入された顔料などを用いて鮮やかな彩色が施されていたことが近年の研究によって明らかになっている。
陶器画の分野ではアッティカがコリントス式陶器の技法を吸収して黒絵式技法を確立し、フランソワの壺に代表されるような、神々や英雄の神話的場面を描出した作品が制作された。アマシスやエクセキアスはこの技法をさらに洗練させ、前者は人間味溢れる神々の姿を、後者は重厚な筆致で崇高な神々の姿を描き出し、神人同形(アントロポモルフィズム)という観念を確かなものとしている。その後、黒絵式陶器画は赤絵式陶器画へと転換していき、より細部にこだわった絵画的な表現がなされるようになった。こうした技法発展の背景は、板絵や壁画といった新しい芸術表現に対する絵画的探究の表れだったのではないかと考えられている。
紀元前5世紀初頭に入ると、ポリュグノトス (en:Polygnotos (vase painter)) やミコン(英語版)といった画家によって「トロイアの陥落」「マラトンの戦い」などの神話歴史画が描かれ、大絵画というジャンルが確立するに至った。四色主義(テトラクロミズム)という制約の下、形像の重複や短縮法といった技法を駆使することによって絵画上に奥行きのある空間表現を試みており、絵画、彫刻におけるギリシア美術の進むべき方向性を示したという意味で特筆すべき存在となった。彫刻分野の作品においては、それまでの直立不動の姿態から支脚/遊脚の概念を取り入れたコントラポストへと変化しており、クリティオスの青年(英語版)やデルフォイの御者像(英語版)などが制作された。
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この時代、ペルシアを撃退し、ギリシア世界の覇権を獲得したアテネは最盛期を迎え、ギリシア美術もそれにあわせてクラシック時代という新しい領域へと突入することとなった。ペリクレスによってアクロポリスの整備が推進され、オリンピアのゼウス神殿やパエストゥムのポセイドン神殿で培った技術にイオニア的な優美さを付加したパルテノン神殿が建立される。彫刻分野ではパルテノン神殿の造営を指揮したフェイディアスによってアテナ・パルテノスの黄金象牙像が制作された他、ポリュクレイトスによって体中線をS字に湾曲させるなどの技法が生み出され、コントラポストの極致が確立された。絵画の分野ではアポロドロスによって空間表現に不可欠な幾何学的遠近法、空気遠近法の融合化を図った作品が制作された。その他、明暗技法に優れた才能を発揮したゼウクシス、性格表現と寓意的表現に優れていたパラシオスなどがギリシア美術における絵画の発展を牽引している。
クラシック時代後期に入ると個人主義が台頭し、美術界においても多大な影響を与えた。彫刻分野ではプラクシテレス、スコパス、リュシッポスが静像に内面性を付加させた表現技法を生み出すとともに、裸体女性像の価値を大きく引き上げることに貢献した。アレクサンドロス3世の宮廷彫刻家としても知られるリュシッポスは肖像彫刻の分野でも優れた作品を残しており、後世ヘレニズム美術(英語版)やローマ美術の彫刻家達に大きな影響を与えた。同じく宮廷画家であったアペレスは明暗法、ハイライト、遠近法を駆使した大絵画を創出し、古代最大の画家と評価されている。
アレクサンドロス3世の死後、ヘレニズム諸王国が出現し経済活動、人口流動が活発化すると美術の産業化が顕著となった。富裕層の市民が住宅を壁画で装飾して彫刻で彩ることが流行化し、古典主義美術の伝統が一時的に途絶えることとなった。こうした現象についてローマ時代の文筆家大プリニウスは「美術は紀元前3世紀第2四半期に滅亡し、紀元前2世紀中頃に復興した」としている。
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アレクサンドロス3世の死後、ヘレニズム諸王国が出現し経済活動、人口流動が活発化すると美術の産業化が顕著となった。富裕層の市民が住宅を壁画で装飾して彫刻で彩ることが流行化し、古典主義美術の伝統が一時的に途絶えることとなった。こうした現象についてローマ時代の文筆家大プリニウスは「美術は紀元前3世紀第2四半期に滅亡し、紀元前2世紀中頃に復興した」としている。
一方、イタリア中部に定着したエトルリア人は、ギリシア美術の影響を受けつつも、独自の宗教観や社会制度を背景に独特の美術文化を形成した。一般にエトルリア美術は東方化様式期、アルカイック期、古典期(中間期)、ヘレニズム期の4つに分類されるが、もっとも繁栄を見たのが紀元前6世紀初頭から紀元前5世紀前半にかけてのアルカイック期130年間である。
都市や建築の遺構は少ないが、ギリシア美術で頻繁にモチーフとされた神話を描いた陶器などが出土している他、墓室壁画においては葬儀宴会、舞踏、競技、狩猟など日常生活に密着したモチーフが好んで選択されており、エトルリア人独自の来世観を保持していたことが伺える。紀元前7世紀から顕現したこうした兆候はヘレニズム期まで継続していた。彫刻分野も遺例が少ないものの、紀元前6世紀末に活躍したウルカ(英語版)はエトルリア人彫刻家として名が知られている特筆すべき人物で、ヴェイオから出土した「アポロン」など、イオニア彫刻の影響を強く受けたテラコッタ像を制作している。
紀元前5世紀初頭の古典期に突入すると政治、経済の衰退と共に美術的活動も新鮮味と活力が失われ、様式的にも停滞した。しかし、ヘレニズム期に入ると来世観に進展が見られ、ウァント(英語版)やカルン(英語版)といった魔神が墓室壁画のモチーフとして選択されることが多くなった。肖像彫刻においては写実性溢れる作品が好んで制作されるようになった。
紀元前509年、エトルリアに従属していた都市国家のひとつであったローマは、共和制を樹立し、周辺都市国家を征服しつつ紀元前4世紀にはエトルリアをもその支配下に置いた。その過程でエトルリア美術の影響は次第に薄れてはいったが、独自の美術を生み出すには至っていなかった。
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紀元前509年、エトルリアに従属していた都市国家のひとつであったローマは、共和制を樹立し、周辺都市国家を征服しつつ紀元前4世紀にはエトルリアをもその支配下に置いた。その過程でエトルリア美術の影響は次第に薄れてはいったが、独自の美術を生み出すには至っていなかった。
紀元前3世紀に入るとサムニウム戦争や第一次ポエニ戦争などの影響により、戦利品として南イタリアのギリシア植民都市から大量の美術品が持ち込まれると、その成熟された美しさに魅了され、第二次ポエニ戦争以降、ローマ下においてギリシア美術ブームが起こった。これによりローマでは従来の伝統的なエトルリア美術と、「外来」のギリシア美術がそれぞれ潮流を成し、社会に氾濫することとなった。ローマ人の需要に応えるべく、創造性には欠けるが様々な様式の彫刻を注文に合わせて制作するネオ・アッテカ派(英語版)と呼ばれる一派が形成され、アウグストゥスの庇護を受けて伸張した。この影響で「アウグストゥスの平和の祭壇」や「プリマポルタのアウグストゥス」といった高度な写実性を有する、洗練された古典主義的な美術品が数多く制作されている。
建築分野では紀元前1世紀前半ごろより、ヘレニズム期のエトルリア美術を基盤としてローマ固有の建築様式を生み出していった。厳格な左右対称性やコリントス式柱頭の多用、内部空間の重視などがローマ建築の特徴として挙げられる。紀元前2世紀前半に建設されたバシリカや紀元前1世紀前半に建築されたコロッセウムなどは、新しい建築ジャンルとしてローマ美術における代表的な建造物としてしばしば取り上げられる。
また、建造物の壁面に描かれた装飾物についてもヘレニズム期の影響を受けるポンペイ第一様式からポンペイ第二様式と呼ばれる装飾法へ移行を果たし、神話的風景画などがさかんに制作された。帝政期に入ると歴代皇帝の事跡を誇示するかのような歴史浮彫が多数制作され、現代ではトラヤヌス帝の記念柱やコンスタンティヌス帝の凱旋門などがその遺構として知られている。
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また、建造物の壁面に描かれた装飾物についてもヘレニズム期の影響を受けるポンペイ第一様式からポンペイ第二様式と呼ばれる装飾法へ移行を果たし、神話的風景画などがさかんに制作された。帝政期に入ると歴代皇帝の事跡を誇示するかのような歴史浮彫が多数制作され、現代ではトラヤヌス帝の記念柱やコンスタンティヌス帝の凱旋門などがその遺構として知られている。
同時に神話的な情景を主たるモチーフとしていた古典主義は衰退し、現実の情景を記した写実主義がもてはやされるようになった。さらに、2世紀中ごろからは主要人物をより強調して表現する傾向が顕著となり、その影響は肖像彫刻などの他ジャンルへも波及した。こうした自然主義の放棄と表現主義の台頭という変遷は、この後のローマ美術がキリスト教美術へと変質化していく過程における重要な転換点として挙げられる。
紀元2世紀末から3世紀はじめにかけて地中海沿岸の各地にローマ美術の流れを汲んだキリスト教美術が誕生した。以降キリスト教美術は1500年以上に渡って東西ヨーロッパにおける美術の中核を担っていったが、キリスト教の誕生から5世紀後半までの美術を初期キリスト教美術と呼称している。313年に公布されたミラノ寛容令まではキリスト教に対して弾圧が繰り返されていたこともあり遺跡、遺品ともに残されているものが少ないが、カタコンベ(地下墓所)の壁画や石棺彫刻といった葬礼美術にその特徴を垣間見ることが出来る。火葬と土葬が併用されていた古代ローマ時代からヘレニズム文化の影響を受けて土葬へと急激に転換したことが、こうした葬礼美術が制作されるようになった要因の一つとされている。キリスト教では偶像崇拝が禁じられていたことから、死後の魂の救済を願って描かれた初期の壁画は、構図やモチーフに異教美術からの積極的な借用が見られるものの、十字架の形を象徴する物やイエス・キリストを意味する魚、よき羊飼いや祈る人といった寓意的な人物など、間接的または暗示的な信仰の表明が示されている。教義が出来上がり、教会体制が整うにつれて新約聖書や旧約聖書に語られている物語がモチーフとして選択されるようになった。
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380年に、テオドシウス1世によってキリスト教が国教として定められると、帝都コンスタンティノポリス、ローマ、アンティオキアなどの各地で大規模な教会堂の建築が実施された。建築様式としてはローマ美術のバシリカから派生したもの(バシリカ式)、ヘレニズム美術の廟墓建築やユダヤ教の記念堂建築の流れを汲むもの(集中式)に大別されるが、いずれも煉瓦造りの質素な外観に対してモザイク装飾を用いた豪華な内観という特徴を持っており、現実的な地上世界と神秘的な死後世界の対照化を試みている。バシリカ式の教会堂としてはローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂が、集中式の教会堂ではラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂が、それぞれこの時代に建築された代表的な例として挙げられる。5世紀に入るとキリスト教美術はローマ美術の古典的な様式から豪華な金地や多様な装飾が施された東方的な荘厳美術へと傾倒していった。
330年、コンスタンティヌス1世により帝都がコンスタンティノポリス(現イスタンブール)へ移されたことがきっかけで美術活動の重心も東方へと移っていった。これによって初期キリスト教美術に古代アジアやサーサーン朝ペルシアの美術的要素が融合し、ビザンティン美術が確立された。ビザンティン美術は15世紀までの長きに渡り、大きな変質なく脈々と一貫性を保ち続け、その特徴は荘厳な様式の中に散りばめられた豪華絢爛な装飾性と、精神性や神秘性を追求した理知的な傾向が挙げられる。ユスティニアヌス1世の第一次黄金時代と呼ばれる時期に建築されたハギア・ソフィア大聖堂は、それまでのバシリカ式と集中式の建築様式を統合し、新しい建築類型を確立させた。また、近東の民族美術の影響で装飾モチーフにも変化が見られ、聖樹や獅子、幾何学文様などの象徴的あるいは抽象的な浮彫装飾が好んで選択されており、人像の表現は激減している。さらに、8世紀に入って聖像論争が勃発して聖像否定派が優勢に立ったことで、こうした傾向はますます顕著となり、造形美術分野は一時的な衰退を余儀なくされた。
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9世紀後半に興ったマケドニア王朝はその版図を拡大し続け、11世紀にはイタリア南部からスラブ諸国にまで及ぶ大帝国となった。この時代に始まった美術界における栄華をビザンティン美術における第二次黄金時代と呼ぶ。ヘレニズム期の古典的な伝統美術が影響力を強め、教会堂建築もオシオス・ルカス修道院などに代表される、集中式を基盤とした装いへと立ち返っている。工芸美術の分野では「パリ詩篇(英語版)」や「ナジアンゾスのグレゴリウス説教集」といった擬古典的な様式を採用した写本装飾などが制作された。その後、マケドニア王朝の滅亡とともにコムネノス王朝が興ると華やかな宮廷美術と、人文主義的な伝統美術が融合した独特の美術が開花した。代表的な教会堂建築としてはダフニ修道院、ネレズィ修道院聖堂(英語版)などがある。13世紀前半には十字軍の略奪と占領などによって再び停滞期に突入するが、パレオロゴス王朝の時代に入るとコーラ修道院に代表される写実的で繊細典雅な様式が花開いた。
11世紀中葉以降、西方における帝国拠点都市を通じて、ビザンティン美術は西欧美術に大きな影響を与え続け、大構図モザイク装飾を採用した教会堂が各地に建立された。
476年の西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン諸族の国家が次々と誕生した。ガリアの地においてもゲルマン民族の手によってブルグント王国が成立したが、5世紀後半にクローヴィス1世率いるフランク王国によって滅ぼされた。クロヴィス1世は都をソワッソンへ移し、ローマ文化を積極的に取り入れ、ローマ帝国の継承者としてメロヴィング朝を興した。こうした経緯によって培われたメロヴィング朝の美術は工芸品分野において優れた技術を見せており、ゲルマン民族特有の豪華な装飾と、ガリア土着の伝統が融合した独特の様式を呈していた。また、近東の修道院制度がイタリアやアイルランドを経てもたらされ、大小様々な僧院が建立されている。写本装飾の分野ではメロヴィング朝特有のメロヴィング体(英語版)の書体とメロヴィング彩飾(英語版)の「鳥魚文」が多用されると同時に、花や鳥を幾何学的に組み合わせた文様なども確認でき、古代の自然主義的表現様式とは一線を画すものが制作されている。7世紀にはケルズの書に代表されるような、サクソン、オリエント、コプトからの影響を受けた複雑な装飾が施されるようになった。
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カロリング朝の時代に入るとカール大帝の手によって学問や芸術の奨励が始まり、美術史的観点において大きな躍進を遂げた。特に彫刻分野においては、北イタリアを中心に発達した組紐文を象徴的に用いた浮彫が各地へ伝播し、後のロマネスク美術の基礎を築いた。写本装飾の分野においてはメロヴィング朝時代に一時衰退した古典的な人像表現が復活し、装飾モチーフとして積極的に使用された。その後、オットー1世によって神聖ローマ帝国が築かれると、西欧文化の主導権を掌握し、文化的傾向の方向性を確たるものとした。
9世紀から10世紀にかけて、ノルマン人やサラセン人などの異教徒の脅威により、カロリング朝はユーグ・カペーへその王権が引き継がれ、フランク王国は事実上の解体をみた。激動する社会情勢の影響を強く受けた西欧美術も同様に再び大きな変革を迫られることとなった。ロマネスク美術は、そうした社会的変動を背景として初期中世美術という基盤を発展させ開花した、11世紀後半から12世紀にかけての西欧美術を指す。
建築分野におけるロマネスク美術の特徴は、重厚な石壁と暗い内部空間に表され、古代バシリカ式建築を基本に添えつつ、東西への方向軸を持った建造物が増加した。これは、聖地巡礼を行う礼拝客の動線を配慮した結果発展した形態であると考えられている。こうした形態を保持する教会堂を巡礼路聖堂と呼び、トゥールーズのサン・セルナン大聖堂(英語版)などがその代表的建造物として挙げられる。この時代、修道院は学問と美術の中心的存在を担っており、各会派は信仰の普及手段として教会堂の建設を推進した。その表現手段は多様で、シトー会派が図像を否定し、質素な美術を奨励したのに対し、ベネディクト会派は豪華な素材を用いて美術の荘厳化に注力した。地方によって同じロマネスク美術建築でも特徴が大きく異なるのは、地域に対する会派の影響度の違いを示している。
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また、後年のゴシック美術の建築と比較して壁面が多く、教会堂の天井や側壁には聖書や聖人伝を題材とした説話的な壁画が描かれた。地方によって細微な違いがあり、もっとも西方的な様式を確立したのはフランスで、その他の地域は大なり小なり東方的なビザンティン美術の要素を取り込んだ壁画が制作されている。イタリアではカロリング朝の伝統を継承しつつも、ビザンティン美術の範例を手本としながら力強い筆致で描かれているのが特徴で、イタロ=ビザンティン様式と呼ばれるこうした大構図壁画は、サン・クレメンテ聖堂(英語版)やサン・タンジェロ・イン・フォルミス聖堂(イタリア語版)などに残されている。スペインでは東方的な色彩とモサラベ美術(英語版)の影響によって、カタルーニャ地方に独特のロマネスク美術が開花した。また、オットー朝の写本工房の影響力がドイツ南部、オーストリア、スイス北部などではイタリア経由でもたらされたビザンティン美術の要素と融合を果たしたロマネスク美術が確立されている。
工芸分野では十字架、装幀板、燭台、聖遺物箱、祭具といった宗教用具がさかんに作成され、古代の浮彫や彫刻技法を復活させたことに大きな意義を見出すことが出来る。こうした丸彫像ではコンクの聖女フォワの遺物像がその先駆けとなった。その他オットー朝の伝統を汲むドイツや北イタリアの諸工房では、象牙や金を素材とした工芸細工が数多く制作され、フランスのリムーザン地方ではエマイユ工芸が発達し、聖遺物箱や装幀などが制作された。また、バイユーのタペストリーに代表される刺繍工芸が盛んになったのもロマネスク美術の特徴といえる。
ロマネスク美術の延長線上に位置付けられるゴシック美術は12世紀半ばごろより始まり、人間的・写実的な表現を特徴とし、ロマネスク美術の象徴的・抽象的な表現とは対照的な様相を呈している。この変革の背景には社会環境の変化が大きな影響を与えたと考えられている。前時代は修道士や聖職者など、限られた人々が文化の担い手であったのに対し、裕福な市民層や大学を拠点とする知識人などの台頭によってその範囲が拡大していったことが、美術の性格を変革させた一つの要因となっている。
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こうした精神を如実に物語っているのが建築分野であり、その先鞭はシュジェールによって行われた1144年のサン=ドニ大聖堂改修工事である。シュジェールは信仰を導く手段として「光」の重要性を謳い、尖頭アーチを用いた肋骨交差穹窿とステンドグラスを嵌め込んだ大窓を組織的に活用することで、新しい建築意匠を創出した。この動きはすぐにサンス、サンリス、パリ、ランなどフランスの周辺都市へ伝播し、同様の意匠を保持する大聖堂が相次いで建立された。さらにはフランス人工匠の手によって国外へも波及し、イギリスのカンタベリー大聖堂など、新規建築や改修時にゴシック建築の様式を取り入れたものが登場している。また、ロマネスク建築の重厚な石造天井は重量的な問題から、自ずと「高さ」に対して限界が見えるようになり、これを解消することを目的とした建築方式が誕生し、広く受け入れられることは必然であったとも言える。
装飾彫刻もこうした動きと連動し、円柱人像などの新しい要素が誕生した。これによって古来以降途絶していた塑像性が復活し、自然な丸みを帯びた人像表現へと発展していく嚆矢となった。また、個々の彫像が採用したモチーフを連関させ、全体としての合理性を持たせるといったことも試行されている。こうした特徴もつ装飾彫刻の代表的なものとしては、シャルトル大聖堂の「王の扉口」(西側正門)などが挙げられる。連関思想は、次第に金属細工や彩色写本といった小型の美術品にも傾向として現出するようになった。
12世紀に入るとゴシック建築を採用した聖堂の建立が本格化しはじめ、内部空間構成と建造物の見事な調和が見られるようになった。ブルージュ、シャルトル、ランス、アミアン、ボーヴェといったフランス各地の大聖堂やイギリスのソールズベリー大聖堂、ケルンのザンクト・ペーター大聖堂など壮大な聖堂が各地に建設されている。特に、世界遺産にも指定されているアミアンのノートルダム大聖堂は、その全長が145メートルにも及ぶ巨大な聖堂である。また、物理的制約から解放されたことで、塔や穹窿は高さに対しても追求がなされるようになった。
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並行して円柱人像の技法も発展し、13世紀に入ると扉口浮彫から丸彫像への移行が見られるようになった。同時にゴシック彫刻の特長とも言えるS字型に捻った姿態、柔和な相貌、流麗な衣襞といった表現が確立し、古典主義的な思想を孕んだ作品が数多く制作された。さらには14世紀初頭にドイツで制作されたピエタの彫像のような凄惨な場面を主題とした彫刻作品も登場し、表現領域の拡張に大きな足跡を残した。
また、色彩芸術の分野ではステンドグラスによる主題表現が代表的で、シャルトル大聖堂の「美しきステンドグラスの聖母」など、12世紀から13世紀にかけて制作された傑作が多数残されている。写本絵画では個人向けの聖書・詩篇集の制作がフランスやイギリスで活発化し、多くの写本画家がパリを拠点に活動を行っている。中でも『ベルヴィル家の聖務日課書』を制作したジャン・ピュセル(英語版)は、フランスの優雅な人物表現とイタリアの空間表現を融合させ、パリ派写本と呼ばれる写本の新しい基準様式を確立させたことで知られる。
イタリアではビザンティン美術の影響が根強く、ゴシック美術の浸透が遅れていたが、ヤコポ・トリーティ(英語版)やピエトロ・カヴァリーニといった大構図壁画家によってビザンティン美術からの脱却が図られるようになり、これを継承したチマブーエやジョット・ディ・ボンドーネ、シモーネ・マルティーニといった画家たちによって段階的に成し遂げられ、後世におけるルネサンスの礎が築かれた。こうした画家の登場した時代を切り出してプロト・ルネッサンス時代と呼称する場合もある。
14世紀に入ると教会の分裂や黒死病の大流行に加えて、百年戦争の影響によって大規模な建築造営が見られなくなった。取って代わるように王侯貴族の邸宅や都市の公共施設といった世俗的な実用建築が行われるようになり、用途や地域に即した分極化が進行した。14世紀後半には骨組の構造が複雑化し、装飾的に入り組んだ肋骨構造や曲線を絡み合わせた狭間造りといった特徴が見られるようになる。ルーアンのノートルダム大聖堂はこの時代の代表的な作例と言える。
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また、絵画は14世紀の後半から芸術において主導的な立場へ昇華した。西欧各地の宮廷に展開された絵画芸術は国際ゴシック様式と呼ばれ、アヴィニョンで興ったシエナ派の流れを汲む、自然観察に基づく正確な細部の描写と豪奢な宮廷趣味を特徴としている。イタリアのピサネロは国際ゴシック様式の代表的な画家であり、『エステ家の姫君の肖像』など、幻想性豊かな作品を制作している。フランスではパリ、ブルージュ、アンジェ、ディジョンなどで国際ゴシック様式が開花し、1355年頃に描かれたとされる『フランス国王ジャン善良王の肖像』は俗人を描いた単身肖像画としては最古のものとして知られている。ディジョンにはフランドル出身の画家や工人が多く住み着き、メルキオール・ブルーデルラム、ジャン・マヌエル、アンリ・ベルショーズといった宮廷画家がフランコ=フラマン派の作品を数多く生み出した。
その他、装飾写本の分野ではネーデルラント出身で写実的な自然描写と精妙な装飾性を有した写本の制作を得意とするランブール兄弟が知られており、『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』はこの時代の写本芸術の最高峰とされている。ランブール兄弟の作品は15世紀のパリ派写本工房へ大きな影響を与えた。
ルネサンスは「再生」を意味するイタリア語 rinascita から派生した呼称であり、古典古代文化の復興という思想のもと、ギリシア美術やローマ美術の復活と自然の美や現実世界の価値が再発見され、人間の尊厳が再認識された時代を指す言葉となった。イタリアの建築家で人文主義者であったレオン・バッティスタ・アルベルティは「意思さえあれば人間は何事も為し得る」という、人間の可能性に絶大な信頼をよせた言葉を残しており、ルネサンス美術の根底に流れる人間中心主義という世界観を見事に表現している。こうした思想は15世紀前半、市民階級がいち早く台頭した都市フィレンツェで芽生えた。
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建築分野ではサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の円蓋設計を手がけたフィリッポ・ブルネレスキの名が挙げられる。ブルネレスキの設計した聖堂は、ゴシック様式の建築からの明確な離脱を示し、バシリカ式聖堂のエッセンスを取り入れつつも調和と秩序を重要視した人間中心的世界観を体現しており、15世紀にフィレンツェで確立されたルネサンス建築の代表的な作例となった。こうした理念はアルベルティへ継承され、その理念を元に執筆された三大著作(『絵画論』『彫像論』『建築論』)は同時代を含む後世の芸術家たちに絶大な影響を与えることとなった。また、古代ローマ建築の実測を行うことで、科学的遠近法を発見したことでも後世に大きな影響を残している。
ブルネレスキの死後はアルベルティが台頭することとなる。フィレンツェから追放された商人の息子であったアルベルティはローマ教皇庁や諸侯の顧問として西欧各地を歴訪しており、こうしたルネサンス様式がヨーロッパ全土に伝播する間接的な貢献をしていたとも言える。15世紀半ばに入り、共和制の理想が鳴りを潜め、豪商が町の政治を取り仕切るようになると、大富豪の市内邸宅(パラッツォ)の建築が相次ぐようになった。ミケロッツォ・ミケロッツィが建設したメディチ家の市内邸宅(パラッツォ・メディチ・リッカルディ)は秩序と安定を志向するルネサンス建築の思想が表現されたパラッツォの代表的な作例である。
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彫刻分野は古代思想の復活という理念が色濃く示された分野であり、ブルネレスキの『アブラハムの犠牲』など、優雅なゴシック彫刻の伝統を打破する力強い人体の把握や細微な写実性を有した作品が数多く登場した。この分野において、国際ゴシック様式からの脱却を試みた最初の彫刻家はオルサンミケーレ聖堂(英語版)の『4人の聖者』などで知られるナンニ・ディ・バンコ(英語版)であると言われている。古代ローマ以降で初めてコントラポストを採用し、オルサンミケーレ聖堂の『聖ゲオルギウス』を発表して頭角を現したドナテッロは、『預言者ハバクク』『ダヴィデ』など古代ローマの作風の復活に心血を注ぎ、ルネサンス彫刻の方向性を決定付けた。特に『ダヴィデ』は二本足で立つ孤立像というジャンルで裸体表現を取り入れたという点において特筆すべき作品となっている。ドナテッロの確立したルネサンス彫刻の様式はその後ヴェロッキオやミケランジェロへ受け継がれていくこととなる。その他、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の『カントリア』を制作したルカ・デッラ・ロッビア、後期ゴシック様式を学びながらも『天国の扉』に見られる透視図法を確立したロレンツォ・ギベルティ、墓碑彫刻や写実的な胸像で新境地を開拓したロッセリーノ兄弟(ベルナルド・ロッセリーノ、アントーニオ・ロッセリーノ(英語版))などが代表的な彫刻家として知られている。
建築や彫刻分野と比較して絵画分野における革新性の確立は若干遅く1420年代前半ごろであり、これは古典古代における手本とすべき遺品がこの当時ほとんど知られていなかったことが影響していると考えられている。1421年にフィレンツェへ移住してきた国際ゴシック様式の画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノが制作した『マギの礼拝』に僅かながらその片鱗を見ることができるものの、空間に対する配慮は乏しく、目新しさはあまり無い状態であった。しかし、マサッチオの登場により、情勢は一変した。ジョット・ディ・ボンドーネがかつて確立した僅かばかりの空間表現に、光の明暗によって量感を表現する手法が融合され、より奥深い空間を手に入れることに成功したのである。
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さらに、ブルネレスキやアルベルティによって合理的な透視図法の理論が構築されると、多くの画家がその刺激を受けて次々と実験的な作品が誕生した。彩色や光の扱い方が拙いながらも透視図法の研究に没頭し、『ジョン・ホークウッド騎馬像』や『サン・ロマーノの戦い』などの作品を発表した国際ゴシック様式の画家パオロ・ウッチェロはその最たる例である。その後、修道僧画家のフィリッポ・リッピ、フラ・アンジェリコらによってマサッチオの様式が取り入れられる。リッピは日常的室内に聖母子を配置したネーデルラント風の絵画を制作した他、人間中心主義を根底に世俗的かつ官能的な聖母や肉感的なイエスなどを描き出している。『受胎告知』などの作品で知られるフラ・アンジェリコは1430年代以降においてマサッチオの空間表現や明暗描写を積極的に取り入れた宗教画を多数制作した。正確な一点透視図法を採用し、聖会話形式(サクラ・コンヴェルティオーネ)の表題を確立したドメニコ・ヴェネツィアーノもマサッチオの影響を受けた画家の一人である。
15世紀後半に入るとフィレンツェで熟成されたルネサンスはイタリアの各都市へ波及していくこととなった。そして、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロやイザベラ・デステといった人文主義的な君主の治世によって、各都市で豊かな文化活動が育まれた。南トスカーナのアレッツォ、およびトスカーナ公国で精力的に作品制作に没頭した数学者で画家のピエロ・デラ・フランチェスカは、15世紀中期における最大の巨匠として知られ、『聖十字架伝説』に代表されるフレスコ壁画の分野では、一切の無駄を排除し、幾何学的とも言える明晰で秩序立った画面を構築している。
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一方、絵画・彫刻双方の主題に「動勢」が取り入れられるようになり、アントニオ・デル・ポッライオーロによる力を孕んだ写実的な筋肉の描写や、ヴェロッキオの『キリストの洗礼』に代表される解剖学的知識を導入した生々しい人体表現を持った作品が登場するようになったのも15世紀後半の出来事であった。また、富の蓄積とこれに伴う趣味の贅沢化によって優美で装飾的な様式を持った作品が流行を来し、サンドロ・ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』に代表される恥美的世界観を表現した作品が生まれている。その他、アンドレア・マンテーニャやジョヴァンニ・ベリーニもフィレンツェ以外に活動の拠点を置いた同時代の画家として知られ、ルネサンスの波及を象徴している。
15世紀末期には教皇分立時代以降沈滞していたローマにおいても、ボッティチェッリ、ギルランダイオ、ペルジーノらによってシスティーナ礼拝堂の壁面装飾事業が行われるなど、ローマ法王主導の下、旺盛な芸術活動が展開された。1492年にロレンツォ・デ・メディチが没し、フィレンツェが禁欲的なジロラモ・サヴォナローラの支配下に置かれたことによってローマの芸術活動はさらに盛り上がりを見せ、16世紀にはイタリア美術の中心地へと発展していくこととなる。
ブルゴーニュ公国に属していた15世紀のネーデルラントでは、毛織物工業の発展と国際貿易の振興によって市民階級の台頭目覚しく、豊かな経済と文化が形成された。特に、フランドル地方で発祥した油彩技法は発色に優れ、精緻な質感描写や視覚的世界のリアルな再現を可能とし、西欧全土へと伝播して今日までの揺ぎ無い地位を確立した。ネーデルラントではこうした背景から初期の北方ルネサンスに該当するものは15世紀の絵画に限定され、建築分野や彫刻分野はあくまでゴシック美術の枠内に留まっていたと考えられている。
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さて、この新しい油彩技法が採用された最初の作品として挙げられるのは、兄フーベルトが着手し、弟ヤンが完成させたファン・エイク兄弟による『ヘントの祭壇画』である。ヤンはフィリップ3世の宮廷画家としてその後も精力的な活動を続け、数々の宗教画や肖像画を制作している。中でも『ニコラ・ロランの聖母』は、室内に視点を設定しつつもテラスの向こう側に透視図法に従った精微な風景を描くことによって、不自然さを感じさせること無く室内と外景の統合に成功した画期的な作品として特筆される。ヤンの空気遠近法を駆使した奥行き感の描写は以後のネーデルラント画派へ受け継がれていき、北方ルネサンスの大きな特徴として取り上げられるまでになった。
同じ頃、トゥルネーで活躍していたロベルト・カンピンは写実的な技法で描かれた日用品の多くにキリスト教の象徴的意味を秘めさせた作品を制作し、こうしたテクニックがカンピンを師事したロヒール・ファン・デル・ウェイデンによって継承された。ウェイデンは肖像画においても卓越した手腕を見せ、1450年に訪れたイタリアでも賞賛を受けている。
その後はヤンやロヒールの技法様式に色濃く影響を受けたディルク・ボウツ、フーゴー・ファン・デル・グース、ハンス・メムリンクらがルーヴァン、ヘント、ブルッヘなどを中心に活躍した。特にファン・デル・グースが作成した羊飼いたちの写実的表現と細微な風景の装飾的な配置が施された『ポルティナーリ祭壇画』は、後にフィレンツェに持ち込まれ、フィレンツェの画家たちに大きな影響を与えた。一方、ヒエロニムス・ボスは同時代の異色の画家として知られ、人間の悪徳とその懲罰という中世的な思想背景をもとに生み出された数多くの怪物や地獄の描写は、やがて到来するシュールレアリスムを予告しているかのように見られている。
同時代のフランスは百年戦争終結後も市民階級の台頭が見られず、宮廷周辺のごく限られた範囲での芸術活動に留まっていた。そのような中、シャルル7世の宮廷画家をしていたジャン・フーケが『聖母子』など、イタリア初期ルネサンスの影響を受けた作品を制作している。しかし、アンゲラン・カルトン(英語版)など、少数の例外を除いてこうした作品は浸透せず、ミニアチュールの制作が主流を占めていた。
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同時代のフランスは百年戦争終結後も市民階級の台頭が見られず、宮廷周辺のごく限られた範囲での芸術活動に留まっていた。そのような中、シャルル7世の宮廷画家をしていたジャン・フーケが『聖母子』など、イタリア初期ルネサンスの影響を受けた作品を制作している。しかし、アンゲラン・カルトン(英語版)など、少数の例外を除いてこうした作品は浸透せず、ミニアチュールの制作が主流を占めていた。
対してドイツの美術はネーデルラント絵画の影響下にあり、シュテファン・ロッホナーやコンラート・ヴィッツなどが活躍した。特に、ヴィッツの『奇蹟の漁獲』は特定可能な現実の景観を描いた最初の作例として良く知られている。15世紀後半に入ると、ミヒャエル・パッハー(英語版)によって雄渾な絵画や細微な彫刻祭壇が制作された。また、新しい分野として版画美術が伸張し、マルティン・ションガウアーの登場で技法はさらに洗練され、後世の巨匠アルブレヒト・デューラーの芸術を育んだ土壌を形成している。
イタリアルネサンスのうち、15世紀末から16世紀初頭にかけての約30年間は特に盛期ルネサンスと呼称し、区別される。これは19世紀に定まった芸術観を背景として、この時代を古代ギリシア・ローマと並ぶ西洋美術の完成期と見做し、それ以前を完成に至る準備段階として軽視していた考え方が根付いたためである。しかし、今日では「初期ルネサンス」「盛期ルネサンス」を比較し、どちらが優れているかといった考え方は改められ、それぞれに特質や魅力が備わっている別個の美術として理解されてきており、その違いを区別するための名称として使用されるようになっている。主たる舞台はユリウス2世の庇護のもとで活気を取り戻したローマと、東方とヨーロッパ諸国を結ぶ貿易で巨万の富を築いたヴェネツィアである。
1470年代から活動をはじめたレオナルド・ダ・ヴィンチは、新しい芸術様式の創始者として活動当時から認識されており、巨匠と呼ぶにふさわしい功績を数多く獲得した。ヴェロッキオを師としてフィレンツェで修行を積んだ後、軍事技師、画家、彫刻家、建築家としてミラノ公の宮廷に仕えたレオナルドは、その多才ぶりを遺憾なく発揮し、多数の作品を後世に伝え、現代に至るまでの芸術家に大きなインパクトを残している。
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1470年代から活動をはじめたレオナルド・ダ・ヴィンチは、新しい芸術様式の創始者として活動当時から認識されており、巨匠と呼ぶにふさわしい功績を数多く獲得した。ヴェロッキオを師としてフィレンツェで修行を積んだ後、軍事技師、画家、彫刻家、建築家としてミラノ公の宮廷に仕えたレオナルドは、その多才ぶりを遺憾なく発揮し、多数の作品を後世に伝え、現代に至るまでの芸術家に大きなインパクトを残している。
絵画では『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などを制作しており、特に『モナ・リザ』に使用された新しい技法であるスフマート(ぼかし)は、画面に新たな統一感をもたらし、人物に精気と神秘的雰囲気を与える技法として西洋絵画の様相を一変させるほどの影響を与えた。また、自然科学の分野では、鋭い観察力と的確な描画力で解剖学や水力学などの研究に先駆的な業績を残したことも特筆すべき事項である。
一方、ギルランダイオに師事したミケランジェロ・ブオナローティは人体における新しい表現様式を確立させ、彫刻、絵画の分野において突出した作品を生み出した。ミケランジェロが制作した『ダヴィデ』はルネサンス全体を通して代表的な作品として知られている。ローマに赴いた後、ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の天井画を手がけ、『創世記』の諸場面やキリストの祖先たちの姿を描き出している。特に『アダムの創造』では超越者と人間アダムの邂逅が印象的なタッチで描かれ、アダムの姿は盛期ルネサンスにおける理想的人間像として高い評価を獲得した。従来、ミケランジェロは色彩の乏しい画家との評価がなされてきたが、『アダムの創造』が洗浄され、その色使いが露になったことで、その評価を覆した作品としても名高い。
また、同じシスティーナ礼拝堂に描かれた『最後の審判』では、悲劇的な装いの中にもヘレニズム彫刻的な逞しさを身に纏ったキリストらの肉体を描き出している。1546年にドナト・ブラマンテの後を継いでサン・ピエトロ大聖堂建築の総監督に任じられるとブラマンテの構想を継承しつつ、新たに円蓋および建物後方部の設計を行っており、古代建築の本質を体現させた。
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また、同じシスティーナ礼拝堂に描かれた『最後の審判』では、悲劇的な装いの中にもヘレニズム彫刻的な逞しさを身に纏ったキリストらの肉体を描き出している。1546年にドナト・ブラマンテの後を継いでサン・ピエトロ大聖堂建築の総監督に任じられるとブラマンテの構想を継承しつつ、新たに円蓋および建物後方部の設計を行っており、古代建築の本質を体現させた。
ペルジーノに師事したラファエロ・サンティは、レオナルドやミケランジェロの業績を巧みに取り入れ、20代半ばの若さで独自の人物表現と画面構成の形式美を確立させ、『アテナイの学堂』に代表されるバチカン宮殿の壁画を制作している。ラファエロが確立した形式美は盛期ルネサンス以降の代表的規範として17世紀から19世紀にかけての多くの画家に影響を与え続けた。
この時代、教会や公共施設による注文以外にも富裕層からの注文による美術品の制作が盛んに行われ、ジョルジョーネの『嵐』に代表されるような周知の物語主題から逸脱した、絵画の感覚的魅力を優先する作品が数多く登場したのも、盛期ルネサンスの特色のひとつと言える。
こうした市場ニーズに呼応してヴェネツィアでは色彩と絵具の塗り方が重要な地位を占めるようになり、デッサンに彩色するフィレンツェの技法に対して色彩で造形するという新しい技法が誕生した。レオナルドのスフマートを取り入れつつ、この技法を確立させたのがジョルジョーネであり、早世したジョルジョーネの後を受け継いで油彩技法のあらゆる可能性を探究したティツィアーノ・ヴェチェッリオであった。
宗教画家・肖像画家としても絶大な人気を誇っていたティツィアーノであるが、『芸術家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリは、ティツィアーノが描いた『エウロペの掠奪』について「近くから見るとわけがわからないが、離れて見ると完璧な絵が浮かび上がってくる」と評しており、近代油彩画の創始者としてしばしば名が挙げられるようになっている。同時に、静的な伝統を持つヴェネツィア絵画にダイナミズムを導入したこともティツィアーノの功績として知られている。
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マニエリスムという言葉は「様式」や「手法」を意味するイタリア語 maniera から来た言葉で、ヴァザーリはこれを「自然を凌駕する高度の芸術的手法」と定義付けた。しかし、17世紀に入った頃より、生み出される芸術は創造性を失い、盛期ルネサンス時代の巨匠たちの模倣に過ぎないと見做されるようになり、否定的呼称として用いられるようになる。その後、21世紀に入って対比評価と切り離され、盛期ルネサンスの特徴であった自然らしさと自然ばなれの調和が崩れ、自然を超えた洗練、芸術的技巧、観念性が存在する作品が登場した盛期ルネサンス後の芸術的動向を指し示す時代様式名として用いられるようになった。
最初にマニエリスムの名が冠されたのは、ルネサンスの古典的調和への意識的反逆と解釈されたヤコポ・ダ・ポントルモやロッソ・フィオレンティーノの作品であった。しかしながら、ミケランジェロの後半期作品をマニエリスムに含める見方や、アーニョロ・ブロンズィーノ、ベンヴェヌート・チェッリーニ、ジャンボローニャのような社会に享受された奇想を指してマニエリスムと呼称する解釈もあり、その範囲や定義は今日なお流動的である。
16世紀初頭は盛期ルネサンスの様式とマニエリスム美術が混ざり合った混沌とした時代であったが、アルプス以北の諸国では比較的早くからマニエリスム美術が受容され、フォンテーヌブロー派による作品が複数残されている。ヴェネツィアでは盛期ルネサンスが他地域よりも持続するが、16世紀後半に入るとティントレットが登場し、その画風にマニエリスムの特徴が見て取れるようになる。その後、ティントレットの影響を受けたクレタ島出身のエル・グレコが、ローマでミケランジェロの芸術に感化され、スペインのトレドでマニエリスム的特徴とヴェネツィア絵画的筆致を融合させた宗教画を作成している。
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一方、パルマではコレッジョがマンテーニャの試みを発展させた、感覚的魅力に溢れた作品を制作しており、その中で導入された明暗対比の強調や、天井画におけるダイナミックな上昇表現などは、後世のバロック美術の到来を予告しているかのような雰囲気を醸している。その他、盛期ルネサンスとバロック美術の橋渡し的な存在となった画家としてはパオロ・ヴェロネーゼがいる。ヴェロネーゼが制作した『レヴィ家の饗宴』は当初、『最後の晩餐』と題していたが、主題と無関係な人物を多数描き込んだ事で異端尋問にかけられ、「美しい絵を作る画家の自由」を主張し、タイトルの変更を余儀なくされた作品として知られている。
建築分野では『建築四書』を著したアンドレーア・パッラーディオの名が挙げられる。パッラーディオが設計したヴィラ・アルメリコ・カプラは古典主義建築の規範を示す作品として19世紀に至るまで国際的影響力を固持した。16世紀後半にはジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ、ジャコモ・デッラ・ポルタによってイエズス会の母教会『イル・ジェズ聖堂』が建てられ、外観正面のデザインや身廊と円蓋下の明暗対比などの構成要素が、バロック美術における聖堂建築の原形となった。
ドイツのデューラーは、15世紀末から16世紀初頭にかけて行った二度のイタリア旅行を通してルネサンス美術の様式と理念を習得し、人体表現、空間表現において理想とされる技法様式をドイツ絵画へ移入しようと試みた。この成果は木版画の分野において、ドイツの伝統的な表出性とイタリアの記念碑性を融合させて制作された『黙示録連作』で体現されている。銅版画の分野ではエングレービング技法を極め、『メランコリア I』や『アダムとエヴァ』といった人文主義的内容の作品、理想的裸体像を持った作品を制作し、ルネサンスの母国イタリアへも大きな影響を与えた。また、油彩画では『4人の使徒』が代表的な作品として知られている。その他、『人体均衡論』などの著述にも注力し、後世の芸術家に大きな影響を与えた。
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線描主体であったデューラーとは対照的に、色彩表現に長けていたマティアス・グリューネヴァルトは『イーゼンハイム祭壇画』などを制作し、ゴシック末期美術の幻想性を継承した特徴を内包している。また、クラーナハ(父)はドイツの森を舞台として古代神話の主題を表現したことで知られている。『ドナウ風景』は西洋美術史上初めて具体的な実景を人間存在抜きで描いた画期的な作品として特筆される。
1517年、マルティン・ルターによって宗教改革の機運が高まると美術活動にも深刻な影響を与え、宗教美術が否定的に見られるようになる。ホルバイン(子)ら宗教画家として活動していた者は次第に肖像画家や宮廷画家へと転向していった。
フランスでは1494年のイタリア遠征でルネサンスの美術に触れたシャルル8世によって多くの建築家が招聘され、王室主導の下建築を中心としたフランスルネサンスが開花する。フランソワ1世の時代にはロワール川流域の城館改修が実施され、ゴシック建築の伝統とイタリアルネサンスの特色が融合された建築物が多数登場した。また、1520年代末にはフォンテーヌブロー城館の改装が始められ、ロッソ・フィオレンティーノ、フランチェスコ・プリマティッチオらを招いて内部装飾を手がけさせた。ここから誕生したイタリアのマニエリスムを体現したロッソらの作品は、フォンテーヌブロー派と呼ばれる宮廷美術様式を生み出す契機になった。その他、ドイツのホルバイン(子)に共通する精緻な様式を確立させたジャン・クルーエ(英語版)、フランソワ・クルーエ父子や、チェッリーニの影響を受けつつもフランス独自のルネサンス彫刻を誕生させたジャン・グージョンなどがいる。
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他方、ネーデルラントの絵画美術は15世紀の段階で成熟し、油彩技法や写実的表現においてイタリアに影響を与える側であったが、盛期ルネサンスを迎えて以降は立場が逆転し、イタリアの美術や古典古代の美術を手本として仰ぐようになった。16世紀初頭に活動したクエンティン・マサイスの画風にはレオナルドのスフマートの影響が見て取れ、ヤン・ホッサールトは古代彫刻風裸体像を描き出している。また、ベルナールト・ファン・オルレイは数学的遠近法、短縮法、複雑な運動表現をネーデルラント美術に取り入れた画家として重要である。こうした、15世紀ネーデルラントの精緻な様式からの脱却と、ルネサンスの壮大な様式への推進を行う者を総じて「ロマニスト」と呼び、こうした傾向自体が16世紀ネーデルラント絵画の特徴のひとつとして挙げられる。
肖像画においてはアントニス・モルが国際的な活躍を果たしたと同時に、ネーデルラント北部の美術活動の活性化に大きく貢献した。デューラーの影響を受けつつも精緻な銅版画を制作したルーカス・ファン・レイデンなどは北部で活躍した代表的な美術家の一人である。さらに、1524年にローマからユトレヒトに戻ったヤン・ファン・スコーレルの影響によってロマニストの活動は北部へも浸透していった。16世紀後半にはプロテスタントの聖像破壊運動などによる宗教的、政治的騒乱が美術活動の発展を妨げたが、16世紀末に登場したコルネリス・ファン・ハールレム、ヘンドリック・ホルツィウスらの活躍により、プラハと並んでハールレムが国際マニエリスムの中心地として栄えた。
16世紀ネーデルラント絵画のもう一つの特徴としては風俗画、風景画、静物画の自立が挙げられる。カタリナ・ファン・ヘメッセンおよびピーテル・アールツェンを嚆矢とするこの傾向は、16世紀初頭のヨアヒム・パティニールによって大きく前進を見る。パティニールは観察と空想から合成された俯瞰図の中に宗教主題の人物を点景として描き表し、人物と背景の関係性の逆転に成功している。その後、ピーテル・ブリューゲルによってこの様式は完成され、後世に多大な影響を残した。『雪中の狩人』はその代表的な作品のひとつである。
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異論はあるものの17世紀の西洋美術時代様式を一般にバロック美術と称する。バロックという言葉の意味については諸説あるが、「規範からの逸脱」を示す形容詞として18世紀末ごろより使用されはじめ、建築を中心とした17世紀の美術に対して否定的な意味で適用された。また、狭義には17世紀美術の傾向の一つという意味で使用され、劇的で奔放な特徴を持つ17世紀の作品に対してのみ適用される場合もある。
この時代、盛期ルネサンスの伝統を受け継ぎつつも、より現実に即した表現が強調されるようになり、時間の概念を取り入れた風俗画、風景画、静物画など、実社会により密着したテーマを選定する様式が確立する。活動の舞台はローマを中心に展開されていたが、18世紀初頭にかけてルイ14世の治世には、フランスが政治面とともに文化面でも中心的役割を果たすようになる。
16世紀後半、イタリアの美術活動はそのほとんどをヴェネツィアに依拠していたが、この状況を打破しようとアンニーバレ・カラッチによって1580年代のボローニャにアカデミア(画塾)が設立される。古代美術と盛期ルネサンス美術の理想性とモデルの写生素描という現実性の融合を試みた追究は広く支持され、ボローニャ派と呼ばれる新しい作風の体現に成功した。また、カラッチは理想化されたローマ近郊の風景の中に聖書の人物を描き込む「古典主義的風景画」を創始したことでも知られている。
カラッチの影響を受け、宗教画の人物を現実的な庶民の姿で描き出したミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの作品は、その斬新な主題の描き方で大きな議論を巻き起こした。冒涜的とみなされ、『聖母の死』の例のように教会に引き取りを拒否される場合もあれば、カラヴァジェスキと呼ばれる狂信的な追従者を生み出す結果にも繋がっており、西欧絵画全体に大きな影響を及ぼした人物の一人であったことは疑いが無い。
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カラッチの影響を受け、宗教画の人物を現実的な庶民の姿で描き出したミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの作品は、その斬新な主題の描き方で大きな議論を巻き起こした。冒涜的とみなされ、『聖母の死』の例のように教会に引き取りを拒否される場合もあれば、カラヴァジェスキと呼ばれる狂信的な追従者を生み出す結果にも繋がっており、西欧絵画全体に大きな影響を及ぼした人物の一人であったことは疑いが無い。
彫刻および建築の分野ではジャン・ロレンツォ・ベルニーニがこの時代の代表的な美術家として名が挙げられる。若くして名声を確立したベリニーニは『聖テレジアの法悦』で現実の光を巧みに取り入れた彫刻と建築を組み合わせた作品を制作している。その他、多くの噴水彫刻の設計にも携わり、ローマの景観を作り変えたと言われるほどの影響を残した。ベルニーニに師事し、終生のライバルでもあったフランチェスコ・ボッロミーニも、独創的な建築表現で名を残した一人である。代表的な建築物としてはサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂があり、絵画や浮彫による装飾を必要最低限に抑え、波打つようなカーブや圧力で歪んでいる様な緊張を感じさせる、特異な壁面構成の効果を引き出すことに成功している。
フランドルではリュベンスの登場により新しい絵画の様式が確立される。10年近くの間イタリアに滞在し、盛期ルネサンスの美術を習得したリュベンスは、ネーデルラントに帰国した後に制作した『キリスト昇架』によって、ヘレニズム彫刻やミケランジェロを想起させる人体表現とカラヴァッジオに見られる明暗法を見事に融合させ、壮麗で活力漲る独自の方式を完成させた。リュベンスはカトリック復興の気運高まる当時の社会背景から多数の祭壇画を制作する一方で各国宮廷に向けた大規模な建築装飾画を創出し、国際的な評価を獲得した。また、晩年にはブリューゲルの伝統を発展させたフランドルの自然を描き出し、風景画の新たな局面を生み出した。
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その他、フランドルを代表する画家としてはアンソニー・ヴァン・ダイク、ヤーコブ・ヨルダーンスなどがいる。リュベンスの助手として出発し、チャールズ1世の宮廷画家として半生をイングランドで全うしたヴァン・ダイクは、優雅で細線な自身の特徴を活かして肖像画の分野において独自性を発揮し、貴族的肖像画の規範を築き上げた。ヨルダーンスは宗教画や神話画を風俗画的観点で描き出すことを得意とし、庶民的な活力溢れる作品を残している。また、17世紀の美術愛好家の蒐集を描き出した「画廊画」という画種も、フランドルの特徴のひとつとして取り上げられる。
16世紀末にオランダ共和国として独立したネーデルラント北部では、国際貿易による経済発展を背景として市民層に向けた作品が大いに発達した。市場競争での勝ち残りをかけた熾烈な技巧発達が見られ、卓越した技術を持った画家を数多く輩出した点は特筆に価する。アムステルダムを活動の拠点においたレンブラント・ファン・レインはその最たる例である。その他集団肖像画や半身像の風俗画を得意としたフランス・ハルス、寓意や諺、民間行事を主題とした作品を描き続けたヤン・ステーン、日常行為に携わる人物を静物画のタッチで捉えて風俗画の新たな境地を開拓したヨハネス・フェルメールなどが代表的な画家として挙げられる。とりわけ、フェルメールは19世紀に入ってその近代性が大いに注目を集め、17世紀最大の画家として評価されるに至った。
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他方、写実的傾向が強まった17世紀のスペインでは黄金時代と呼ばれるほどの美術繁栄がもたらされ、ディエゴ・ベラスケスやフランシスコ・デ・スルバラン、バルトロメ・エステバン・ムリーリョといった巨匠が登場した。ベラスケスはカラヴァッジオの影響著しい活動初期を経てヴェネツィア絵画やリュベンスとの接触によって自身の技法と様式を洗練させ、視覚的印象を的確に捉える新しい描法を編み出し、『ラス・メニーナス』を始めとする多くの作品を誕生させた。スルバランも同じくカラヴァッジオに強く影響を受けたセビーリャの画家であるが、素朴で神秘主義的な様式を確立させ、静物画や宗教画を厳格な筆致で描き上げた。ムリーリョはフランドル絵画に影響を受けた画家で、華麗な色彩で甘美な宗教画を制作するとともに、風俗画においても人気を博した。写実的傾向の推進は下地となったイスラム美術の影響と相俟ってバロック美術が内包する装飾性の強化に繋がり、この時代のスペイン美術の特徴として表されるようになった。スペイン黄金時代美術
フランス絵画では終生をローマで活動したニコラ・プッサン、クロード・ロランが代表的な画家として取り上げられる。ラファエロとカラッチの影響を強く受け、厳格な古典主義様式を確立させたプッサンは『アルカディアの牧人』を筆頭に、古典や神話、聖書の主題を考古学的時代考証を交えて描き出すという理知的な作品の創出に注力した。また、ロランは古典主義的風景画の展開に大きな足跡を残した人物として知られ、ローマ郊外の田園やナポリ湾の風景を理想化して古代の情景として登場させ、過去への郷愁を想起させる詩的風景画を誕生させた。両名の芸術はイタリア、フランスの上流階級層に広く受け入れられ、ルイ14世が設立した王立アカデミーにおいてはラファエロやカラッチとともに規範として仰がれるまでの影響を与えた。一方で建築分野においてはイタリア起源のバロック建築に対して古典主義建築がフランスの様式であるとする考えが広まり、クロード・ペローのルーヴル宮殿を筆頭に古代風様式に基づく建設が各地で行われた。また、ジュール・アルドゥアン=マンサール、ルイ・ル・ヴォー、アンドレ・ル・ノートルらによって造営されたヴェルサイユ宮殿は宮殿建築の範例として大きな影響を与えた。
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1710年代から60年頃までのフランスの美術様式を中心とした時代様式を一般にロココ美術と呼称する。ロココという言葉は、後世の新古典主義時代にルイ15世時代の美術を軽視して呼び始めた事を嚆矢とし、バロック建築における庭園装飾で使用されたロカイユと呼ばれるデザインに端を発する。現代においては該当する時代の美術を判然とロココ美術と呼ぶようになったため、性質や指向の相反する文化現象が同様の名の下に冠されることが美術史的観点から問題となっている。
この時代の美術史を概観すると、建築、絵画において特徴的な発展が見られる。ガブリエル=ジェルマン・ボフラン(英語版)らによって建造されたオテル・ド・スービーズ(英語版)は、白地に金の装飾が施された壮麗な室内はロココ建築の特徴を現す代表的な作例である。17世紀後半にはギリシア美術、ローマ美術への関心が高まり、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって古代風の柱を採用した小トリアノン宮殿が建設された。その他、イタリアの建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージはローマ古代遺跡の壮大さを現し、後世新古典主義やロマン主義に大きな影響を与えたことで知られている。
工芸分野が黄金時代に達したのはロココ美術の大きな特徴で、家具、金工、服飾、陶器などの各分野で質の高い作品が生み出された。ドイツのマイセンが飛躍的進歩を遂げたのもこの時代である。彫刻分野ではジャン=バティスト・ピガール(英語版)、エティエンヌ=モーリス・ファルコネ(英語版)、ジャン=アントワーヌ・ウードンらが活躍したが、主要な領域たりえるには至らなかった。
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工芸分野が黄金時代に達したのはロココ美術の大きな特徴で、家具、金工、服飾、陶器などの各分野で質の高い作品が生み出された。ドイツのマイセンが飛躍的進歩を遂げたのもこの時代である。彫刻分野ではジャン=バティスト・ピガール(英語版)、エティエンヌ=モーリス・ファルコネ(英語版)、ジャン=アントワーヌ・ウードンらが活躍したが、主要な領域たりえるには至らなかった。
絵画におけるロココ美術の始祖はアントワーヌ・ヴァトーであると言われている。フランドル地方出身のヴァトーは、パリでの修行過程において様々なテーマ、様式の美術と接触することで才能が開花した。中期の代表作『キュテラ島の巡礼』に示された戸外での男女の戯れを表現する画題は「雅な宴(フェート・ギャラント)」と呼ばれ、ロココ美術を語る際に不可欠な要素へと昇華し、ニコラ・ランクレやジャン=バティスト・パテルなどによって追随する形で同様の画題作品が発表されるなど、同年代を含む後世の画家に多大な影響を与えた。フェート・ギャラントはポンパドゥール夫人の庇護を受けたフランソワ・ブーシェによって官能性を帯びた雰囲気を醸し出すようになり、ヨーロッパ中へ広まった。こうした画風はロココ美術最期の画家とされたジャン・オノレ・フラゴナールへと受け継がれていくこととなる。一方で市民的な感性では家族的テーマが好まれる時代となり、ジャン・シメオン・シャルダンやジャン=バティスト・グルーズに代表されるような市井の人々の様子を描いた人物画や、中産階級の家庭の一端を描いた静物画などが数多く生み出された。
また、18世紀中ごろより定期的にサロンが開かれるようになり、芸術品が不特定多数の目に触れる機会を持つようになった。これによってドゥニ・ディドロに代表される美術批評の誕生、画商の増加といった社会的傾向が発生し、芸術家とパトロンの関係性に変化が見られるようになったのも時代の特徴を示す出来事として挙げられる。
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また、18世紀中ごろより定期的にサロンが開かれるようになり、芸術品が不特定多数の目に触れる機会を持つようになった。これによってドゥニ・ディドロに代表される美術批評の誕生、画商の増加といった社会的傾向が発生し、芸術家とパトロンの関係性に変化が見られるようになったのも時代の特徴を示す出来事として挙げられる。
一方、イタリアではアレッサンドロ・マニャスコ、ジュゼッペ・マリア・クレスピらによって新しい方向性を持った絵画が生み出された。18世紀に入るとジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロが登場し、白を基調とした明るい天井画や壁画を制作し、重量感を取り去った自由な装飾作品が生まれている。また、イギリスでは大陸美術の輸入により絵画技法が飛躍的に向上したのが18世紀で、19世紀に到来する黄金期の準備段階のような時代となった。代表的な画家としてはトマス・ゲインズバラ、ジョシュア・レノルズなどがいる。
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フランス革命から第二帝政期に至る18世紀から19世紀にかけてのフランスを中心とした美術様式は、一般に新古典主義、ロマン主義、写実主義の3期に分けて考えられている。18世紀前半に火山噴火によって埋没したローマの古代都市ヘルクラネウム、ポンペイが発見されたことにより、古典・古代の美術を自身の規範としようという機運が高まり、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの思想的支柱を得たことでギリシア美術の模倣を尊ぶ志向がヨーロッパ中を席巻する。これは、享楽主義的なロココ美術に反感思想を持つ人々の運動であったとも言われている。その後、ナポレオンの帝政期を経ることでフランスでは帝国の栄光を誇示する美術様式へと変容していき、各国に対する影響力を衰退させる事となった。ナポレオンは絵画を重要なプロパガンダ手段として捉えていたこともあり、皇族の儀式を描いた作品や家族や側近の肖像がなどが大量に制作された。しかし、こうした動きは若い芸術家を中心に焦燥感をもたらす結果となり、主観的な激情に溢れ、社会的矛盾を糾弾するリアリスティックな作品が登場する素地を形成した。同時に、フランス美術の影響力から脱却した周辺各国は国々の歴史や風土に根ざした美術の開花を促進させ、普遍的な古典・古代美術の模倣から国々の特殊性へと関心が移行することとなった。これにより、古典的様式が最良とする考え方は捨て去られ、時と場合に応じた適切な美術様式が選択される折衷主義とも呼べる様式が到来することになった。19世紀中ごろには支配層への不満を募らせた市民社会に対応するかのごとく、社会の現実に目を向け、身の回りの自然を描いた風景画が制作されるようになり、フランス文学とも連動して近代芸術の基調を形成する一大潮流が形作られた。
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建築分野では古代建築遺構の本格的な調査によって建築部位の比例や柱式の決定が討議され、18世紀後半に入ると古代建築を規範とした建物の造営が本格化した。パリのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院を建設したジャック=ジェルマン・スフロ(英語版)は、コリント式の列柱廊を採用し、古代美術の端正で素朴な様式を取り込むことに成功している。また、古典古代建築への関心から幾何学的比例を重視し、ラ・ヴィレットの関門(フランス語版)やアル=ケ=スナンの王立製塩所を創出したクロード・ニコラ・ルドゥーやアイザック・ニュートン記念碑を設計したエティエンヌ・ルイ・ブーレーは、空想的建築という新境地を開拓した。考古学的関心が薄れ、帝国の威信表現が横行するようになると特定の建築様式が重視されることが無くなり、過去の様々な様式の応用によって建築がなされた。マドレーヌ聖堂 、カルーゼル凱旋門、マルメゾン城、ウェストミンスター宮殿などが代表的な建築物として知られている。
新古典主義時代の彫刻分野は規範とする古典古代の作例が充実していたこともあり、重要な美術分野として位置付けられた。イタリアのアントニオ・カノーヴァは代表的な彫刻家のひとりで、古代志向の特徴を忠実に再現した上で近代彫刻の複雑な構成を融合させることに成功し、『アモールとプシケー』などを制作した。カノーヴァと双璧をなしたデンマークのベルテル・トルバルセンはヘレニズム時代の彫刻に強い影響を受け、端正で典雅な作品を発表した。その他、イギリスのジョン・フラックスマンは形態把握と構成を古代彫刻に倣いつつもゴシック美術を彷彿とさせる流麗な作品を発表している。新古典主義以降は材質の変化があらわれ、大理石以外の石材や青銅が好んで用いられるようになった。また、表題も裸体に代わって時代考証を経た服装を纏うようになった。しかし、美術全体で見ると新古典主義以降は絵画の影響強く低調に推移し、エトワール凱旋門の浮彫装飾を制作したフランソワ・リュード、肖像彫刻を数多く制作したダヴィッド・ダンジェ、動物彫刻という異質性が話題となったアントワール・ルイ・バリーら若干名の活躍に留まった。
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絵画分野において、フランスでは1760年代に登場したジョゼフ=マリー・ヴィアンがロココ風のテーマの絵に古代の構図やポーズを借用した作品を発表して人気を博し、新古典主義時代の口火を切った。その後、ドゥニ・ディドロの影響を受けたジャン=バティスト・グルーズによってローマ史を主題とした作品が制作され、1780年代に入るとヴィアンに師事したジャック=ルイ・ダヴィッドが登場して、新古典主義の栄華は頂点に達する。ナポレオン革命期において、「皇帝の主席画家」の称号を得たダヴィッドが残した数多くの作品は後世の多方面に大きな影響を与えた。『ホラティウス兄弟の誓い』『ソクラテスの死』といった物語画はプッサンの影響が強く表われた作品に仕上がっており、『テニスコートの誓い』『マラーの死』などは革命期の視覚的記録として重要な意味を持つ作品として位置付けられている。
次代には優美なタッチで古代の叙情を再現したピエール=ポール・プリュードン、劇的な表現描法を特徴としたピエール=ナルシス・ゲランらが登場し、新古典主義の作風に影響を受けつつもその変容を見ることが出来る。また、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの小説挿絵を担当したアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンは、古典的な形態に強い明暗を加えたことでロマン主義的な要素の萌芽を示した。一方、同時代のナポレオンの肖像画や遠征絵画を制作していたアントワーヌ=ジャン・グロ、ドミニク・アングルらは新古典主義の正当後継者として、色彩に対する線の優位性、静的な構図といった新古典主義の綱領を最後まで保持した画家として知られている。その他、アングルの弟子からはテオドール・シャセリオーが頭角を現し、東洋的主題の作品を制作してロマン主義的資質を示した。
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1819年にはテオドール・ジェリコーが1816年に起きたフリゲート艦メデューズ号の難破事件という時事的テーマを取り上げて『メデューズ号の筏』を発表したことで大きな議論が巻き起こる。ジェリコーの作品は激しいタッチと運動感の描写によって表現され、その非古典主義的なテーマの開拓はロマン主義絵画の先駆者として名が上げられる一因となった。その後、『ダンテの小舟』を描いたウジェーヌ・ドラクロワによって粗いタッチによる動的表現、東洋的主題の採用、色彩の乱舞といったロマン主義絵画の作風が示され、近代絵画の成立に多大なる影響を残した。一方、同世代のポール・ドラローシュはロマン主義的主題を完璧な新古典主義様式で描き出すという移行期ならではの作風で一世を風靡した。エコール・デ・ボザールの講堂壁画はその代表的な作品のひとつである。
以上に挙げたように、19世紀前半のフランスでは文学的、歴史的テーマを描き出した作品が主流となっていたが、バルビゾン派の画家によって自然を的確に捉えた風景画作品が登場したのもこの時代であった。古典主義的端正さを保ちつつ、ロマン主義的な自然愛好的な心情に溢れたテオドール・ルソー、ジャン=バティスト・カミーユ・コローらの風景画は1830年代ごろより写実主義絵画として新たな局面を開くこととなった。1850年前後に入るとオノレ・ドーミエ、ジャン=フランソワ・ミレー、ギュスターヴ・クールベが登場し、写実主義絵画を代表する画家として知られるようになった。1855年、パリの万国博覧会において、私費で個展を開いたクールベは世間に対して攻撃的に写実主義絵画の存在を知らしめ、19世紀後半に誕生する印象主義への潮流を築いた。
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他方、イギリスのロンドンでは、1760年代にベンジャミン・ウエストによって新古典主義的絵画が持ち込まれると、ロイヤル・アカデミーの設立やフラックスマンの活躍などもあり、ローマやパリと並ぶ新古典主義絵画の中心地として栄えた。しかし、古典絵画を規範としつつも伝統に縛られない表現は比較的早くから実践され、ヨハン・ハインリヒ・フュースリー、ウィリアム・ブレイクといった、個性豊かな画家の輩出に成功している。そういった意味では、主題面における絵画の近代化はフランスに先駆けてイギリスで起こったと言って良い。19世紀前半に入るとジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの登場によってイギリス絵画は風景画黄金時代を迎えることとなった。18世紀に流行した地誌的水彩画から出発したターナーは光の表現を追究して油彩、水彩、素描を問わず多数の幻想的な風景画を世に送り出した。ターナーとは対照的に、空と雲の移り変わりを気象学に基づいた知識で精緻に描き出したジョン・コンスタブルの作品は風景画の進むべき方向性を決定的なものとし、19世紀後半の印象主義絵画に大きな影響を与えた。
ドイツにおける新古典主義は1761年、アントン・ラファエル・メングスによって制作された『パルナッソス』にその影響を見ることができるものの、その後は代表的といえる程の画家は輩出されなかった。19世紀初頭に入るとラテン的な形態把握とゲルマン的な内省性を融合させた作品が登場し、他国に無い特異な美術運動が展開された。この運動はカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フィリップ・オットー・ルンゲらによる風景画の発展とフランツ・プフォル、ヨハン・フリードリヒ・オーファーベックらによる人間表現の深化に大別することができる。特にローマに移住した後、ラファエロやデューラーを規範としてキリスト教的作品の創出に注力したオーファーベックらの活動はナザレ派と呼ばれ、後のラファエロ前派に大きな影響を与えた。
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その他、スペインに登場したフランシスコ・デ・ゴヤもこの時代を代表する画家の一人である。1799年に主席宮廷画家の地位に着いたゴヤは、その卓越した画力で戦争や侵略への憎悪を訴えた作品を多数発表した。主観的な情熱を画題とし、作品に託したという点ではロマン主義美術の先駆者であると言える一方、人生の課題を作品に反映させたという点では近代芸術のあり方を示した最初の一人であると言える。
19世紀後半に入ると産業革命の浸透、資本主義社会の発達、科学技術の進歩により都市人口の大幅な増加と階級対立の激化が見られるようになり、社会全体が大きく変動した時代でもあった。このため、美術活動も大きな変革を伴ったのは必然といえる。
建築分野では、シャルル・ガルニエによるパリのオペラ座に見られるような、古典主義を軸としながらも各種建築様式を折衷した建物の造営が主流となり、フランスを中心として高い芸術性を持った建物が各地に作られた。ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクはこの奔流に抗い、機能主義理論を唱えたが、19世紀中には受け入れられず、アール・ヌーヴォーの建築分野において部分的に取り入れられたにすぎなかった。19世紀後半に入ると鉄、ガラス、コンクリート、鉄筋コンクリートといった新しい建材が柱や壁などに大掛かりに用いられるようになった。ジョセフ・パクストンの水晶宮は、初めて大量にガラスを用いた建造物として知られている。また、シカゴ派と呼ばれるアメリカ高層建築の流入も、西洋の建築に大きな影響を与えた。シカゴ派を代表する建築家としてはシュレジンガー・マイヤー百貨店などを設計したルイス・サリヴァンが挙げられる。
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彫刻分野では19世紀後半に入り、民族統一や自由を称える記念碑が公共記念物という形で数多く制作された。特に有名なものとしてはフレデリク・バルトルディの『自由の女神像』、ジュール・ダルーの『共和国の勝利』、ポール・アルベール・バルトロメ(英語版)の『死者の記念碑』などが挙げられる。第二帝政期に入るとジャン=バティスト・カルポーが登場し、『ウゴリーノと息子』『ダンス』『フローラの勝利』など、ロココ美術から受け継いだ優雅な形態とカルポー独自の動態表現を見事に融合させた作品を多数制作し、近代彫刻の父と言われるオーギュスト・ロダンに大きな影響を与えた。アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズに師事したロダンは、イタリアでドナテッロやミケランジェロの作品に触れた後、1877年に『青銅時代』を発表した。『青銅時代』は発表当時、あまりの自然的形態から、モデルから直接型取りしたのではないかと批判を浴びるほどであった。注文彫刻として制作した『カレーの市民たち』では、注文という型にはめられた表現からの脱却を試みている。ロダンは写実表現と劇的な内面表現を融合させることを追究し、終生の大作として『地獄の門』を制作した。その他、19世紀末に活動したドイツのマックス・クリンガーは、1902年のウィーン分離派展で素材の多様性を追求した作品『ベートーヴェン』を発表して大きな成功を収めている。
19世紀に入ると絵画分野では、新古典主義の美学を維持しつつも社会情勢にあわせるかのように、新しい市民社会に適応する様々な表現の獲得をはじめた。ブルジョワジーの趣味を作品に反映させたアレクサンドル・カバネルは、1863年にサロンに出品した『ヴィーナスの誕生』によって絶大な人気を博し、ジャン=レオン・ジェロームは『カエサルの死』に代表されるような、迫真の細部描写と瞬間映像的な場面設定で古代の主題を描きあげた。また、ジュール・バスティアン=ルパージュは印象派の色彩や筆致を取り込んだ自然主義的傾向の作品『干し草』を創出し、第三共和国政府の支持を獲得している。
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ドイツのアドルフ・フォン・メンツェルによって写実的に描かれた『圧延工場』はきわめて珍しい工場労働者を主題とした作品として知られている。メンツェルの例にあるように、農民や労働者といった現実的主題を優れた絵画才能によって描き出す画家が登場し始める。『草上の昼食』で一大騒動を巻き起こした後も、明るい色調と軽快なタッチで現代生活を主題にした数々の名作を生み出したエドゥアール・マネはそうした若い画家たちの中心的存在として躍動し、1865年にサロンへ出品した『オランピア』で、古典的伝統を近代絵画へリンクさせる役割を担った。こうしたマネの姿勢や表現方法は印象派の画家に重要な指針を与えることとなった。また、エドガー・ドガは、オペラ座に集う貴族から底辺社会で生活を営む洗濯女まであらゆる階層の人々の現代生活を深く広く探求して得た主題を、知的な構図と優れたデッサン力で描き出した。特に、引き締まった肉体を持つ女性たちが様々な姿態を提供してくれるバレエの世界に共感を覚え、バレエを主題とした多くの作品を残している。その他、日本の芸術がジャポニスムと呼ばれ、西洋絵画に影響を与えたのも19世紀の出来事のひとつであった。
19世紀後半に入ると、印象派と呼ばれる人々の描いた印象主義絵画が世を賑わすようになった。「印象派」という呼称が誕生したのは1874年のことで、展覧会に出品していたクロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ポール・セザンヌ、ドガ、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーらのスケッチ的な作品の性格をジャーナリストらが揶揄してつけたものに端を発する。中でもモネは印象派グループを作り上げた最も偉大な画家として知られている。印象派の「印象」はモネの作品「印象・日の出」から批評家が揶揄したことから定着した。
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印象派画家は、絵具を用いて光を表現することを追究し、筆触分割や視覚混合といった科学的技法を作品に導入し、日本の浮世絵や写真などからヒントを得た構図の切り取りや大胆な俯瞰といった斬新な発想を取り入れた。こうして制作された多くの作品は西洋絵画を新たな局面へ誘う重要な革新として後年高く評価される一因となった。また、印象派の活動を受けて、その理論をさらに発展させようと1880年代から1890年代にかけて活躍したポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホらは後期印象派と呼ばれ、こちらも美術史における重要な働きを残した。
他方、芸術の卑俗化を嫌悪した芸術家たちによって内的な思考や精神世界、夢の世界を表現することが追究されるようになり、印象主義と並んで19世紀後半における芸術の重要な流れを形作ったのが象徴主義であった。その嚆矢とも言えるのがイギリスで起こったラファエル前派の運動である。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレー、ウィリアム・ホルマン・ハントらによって結成された「ラファエル前派兄弟団」は、ラファエロ以後の絵画を退廃芸術とみなし、それ以前の誠実で理想的な芸術への回帰を主張し、初期ルネサンス時代の絵画に倣った画風で神秘と象徴の世界を描き上げた。その他、象徴主義を代表する画家としてはアルノルト・ベックリン、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ギュスターヴ・モロー、オディロン・ルドンなどが挙げられる。
こうした動きは19世紀末にはベルギー、オランダ、スイス、オーストリアなど全ヨーロッパに拡充し、ユーゲント・シュティール、アール・ヌーヴォーといった世紀末運動と密接な関係を保ちながら20世紀の芸術へと受け継がれていった。
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こうした動きは19世紀末にはベルギー、オランダ、スイス、オーストリアなど全ヨーロッパに拡充し、ユーゲント・シュティール、アール・ヌーヴォーといった世紀末運動と密接な関係を保ちながら20世紀の芸術へと受け継がれていった。
ベル・エポック(良き時代)とは、1900年から第一次世界大戦までの華やかで享楽的な時代を指すフランス語で、静かに忍び寄る戦乱の気配に耳を塞ぎ、束の間の繁栄と平和を享受した時代であった。芸術分野においてはアール・ヌーヴォー(新しい時代)、ユーゲント・シュティール(青春様式)、モダニズム・スタイル(近代様式)といった多彩な芸術運動がヨーロッパ中を席巻し、広い分野で相互交流による美術の追究が行われた。世紀末芸術運動とも称されるこの運動は広範囲に及び、それぞれが独自色を保ちつつも新しさを求めようという共通認識の下に活動を展開していた。代表的な活動グループとしてはウィリアム・モリスを中心としたアーツ・アンド・クラフツ運動、『ルヴュ・ブランシュ』を中心としたフランス芸術家たち、ベルギーの前衛芸術グループ自由美学、『ユーゲント』『パン』を舞台としたドイツ画家グループ、ミュンヘン、ベルリン、ウィーンで相次いで結成された分離派グループなどが挙げられる。中でもグスタフ・クリムトを中心としたウィーン分離派の影響力は強く、オスカー・ココシュカ、エゴン・シーレといった表現主義的傾向を強烈に表した尖鋭画家や、アドルフ・ロースのような「装飾は犯罪である」といった思想を持った芸術家の誕生を促す結果となった。また、表現主義の原点とも言えるエドヴァルド・ムンクやジェームズ・アンソール、フェルディナント・ホドラーといった画家が躍動したのもこの時代である。現代美術のはじまりは、こうした豊かで多様な世紀末芸術の成果を受け継ぎ、乗り越えることによって展開されていった。
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オーギュスト・ペレによる鉄筋コンクリートを用いた建築技法の導入は、構造体としての抵抗力の強さを獲得するとともに自由な造形性を得ることに成功し、20世紀の建築美術は新たな局面を迎えることとなった。新しい建材の特性理解が浸透していくとともに、コンクリートの持つ可能性を引き出した自由な造形性を持った建築物が誕生した。ゆるやかな局面と巨大な屋根を持ったル・コルビュジエのロンシャンの礼拝堂、何の支えも無い部屋が空中に突出しているかのようなフランク・ロイド・ライトの落水荘などは、その代表的な作例として取り上げられる。
建築家の社会的役割が変化したのも20世紀の特色のひとつで、建物の完成のみならず、都市社会における機能性や存在意義についてこれまで以上に配慮が必要となった。ヴァルター・グロピウスが幅広いデザイン教育の機関としてバウハウスを設立したのも、こうした社会的要請を背景にしたものであった。ル・コルビュジエはそうした機能主義を追究した建築家の一人でもあり、こうした流れがミース・ファン・デル・ローエやヴァルター・グロピウスといった機能主義を標榜する建築家の誕生を促した。機能主義建築は合理的形態、規格化、プレファブリケーションを推進し、大量生産と結びつくことで現代的な性格を持つに至った。一方でこうした機能主義建築に機械的な冷徹さを感じ取った建築家は有機的建築を推進した。先に挙げたサリヴァンやライトの他、世紀末建築の巨匠アントニ・ガウディなどもこの流れに含むことができる。
第二次世界大戦によって芸術活動は空白の時間を迎えるが、多くの芸術家がアメリカに亡命したこともあり、戦後はアメリカを中心とした建築活動が展開された。グロピウスやローエをはじめとするバウハウス系の建築家がアメリカで建築教育や設計活動に従事し、現代建築の実験場と揶揄されるほど様々な建築物がアメリカに誕生した。1950年代までは、画一的な建築の普及を目指すバウハウス系建築家がアメリカで大きく活動することによって、彼らの国際様式(モダニズム建築)が世界的なスタンダードとされていたが、次第にこれに反発する動向が見られるようになり、CIAM(近代建築国際会議)の解散も相俟って地域や用途、建築家の感性によってふさわしい造形を決定する個性化の流れが生まれ、大胆な形態の組み合わせを見せるポストモダン建築が登場した。
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20世紀の彫刻は、ロダンの影響を甘受し、脱却するところから始めねばならなかった。画家から彫刻家へ転身し、ダルーのアトリエを通じてロダンと出会ったことでロダンに大きく影響を受けたメダルド・ロッソ(英語版)は、石材からの解放を目論み、素材に蝋や石膏といった伸びのあるものを採用した。蝋を素材とした『この子を見よ』では素材の流動性を生かした表現が見られ、その表面には印象派絵画にも似た光と影の絶妙なコントラストを生み出すことに成功している。ロダンの助手でもあったアントワーヌ・ブールデルは、ロダンの表現力と構想力を受け継ぎつつ、自己の様式確立を追及し、『弓を引くヘラクレス』によって男性的力強さを表現することに成功している。女性像をモチーフとし、健康的で調和の取れた作品を創出したアリスティド・マイヨールは、ブールデルを通じてロダンに高く評価された彫刻家のひとりであるが、その作風はロダンのそれとは明らかに異なった性格を持ち、地中海的伝統を作品に刻みつける事で自己の確立を試みている。初期の作品『地中海』は、古典主義的な落ち着きと調和が見られるマイヨールの代表作のひとつである。マイヨールの作品は後世の彫刻家にも影響を与え、マリノ・マリーニ、アメデオ・モディリアーニといった芸術家の登場を促した。
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西洋美術史
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一方でキュビスムの彫刻は人体の統一性からの脱却を図り、自由奔放な新しい造形表現の獲得に成功している。代表的な彫刻家としてはパブロ・ピカソ、アンリ・ローランス(英語版)、ジャック・リプシッツ(英語版)、オシップ・ザッキンなどが挙げられる。こうした流れを受けてさらにダイナミックな形態のリズムを追究したレイモン・デュシャン=ヴィヨン、ウンベルト・ボッチョーニらが登場し、根源的な形態を追い求めたコンスタンティン・ブランクーシがその後に続いた。ブランクーシはロダンからその才能を見初められ、助手へと誘われた彫刻家のひとりであったが、自身の追い求める表現を実現させるため、あえてその誘いを断っている。 他方で、マックス・エルンスト、ジャン・アルプ、アルベルト・ジャコメッティらによって生み出された作品は、後のダダイスムやシュルレアリスムや幻想絵画(幻想的表現主義)へとつながっていくこととなった。ブールデルから彫刻を学んだジャコメッティはその後、自身もシュルレアリストのグループに参加し、『シュルレアリスム的なテーブル』などの作品を発表した。第二次大戦後、現実との乖離に挫折を覚えたジャコメッティはその作風を大きく変え、戦後のフランス彫刻界において、もっとも高い評価を受けた彫刻家のひとりとなった。
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西洋美術史
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1905年、当時の批評家からフォーヴ(野獣)と呼称された、サロン・ドートンヌに出品された鮮烈な色彩表現を持った一連の作品を創出した画家たちが興した運動であるフォーヴィスムは、20世紀最初の絵画革命と言われている。『ジル・ブラス』紙でルイ・ヴォークセル(英語版)に「原色の狂宴の中にいる野獣たちの集まり」と批判されたように、フォービスムは酷評でもって迎えられたが、多くの画家が伝統に縛られない色彩の自立と感情の解放を求める態度に共感を覚え、この新しい様式に共鳴した。主要なメンバーとしてはアンリ・マティス、ジョルジュ・ルオー、アルベール・マルケ、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドラン、キース・ヴァン・ドンゲン、ラウル・デュフィ、ジョルジュ・ブラックらが挙げられる。スーラら後期印象主義絵画が持つ色彩理論や、ゴッホの原色表現の影響を受けた彼らの共通点は、独自の色彩表現を探究し、色彩の写実的役割からの解放を目指したことにある。しかしながらこの傾向は明確な声明に支えられていなかったこともあり大きな流行には至らず、1905年をピークとして減衰していくこととなった。フォーヴィスムを体現し、体験した画家たちはその後色調や技法を変えつつ、独自の美学を追究しそれぞれの方向性を見出していくこととなった。
フォーヴィスムが誕生した同じ年にエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、エーリッヒ・ヘッケル(英語版)、マックス・ペヒシュタイン、エミール・ノルデらを中心として前衛絵画グループブリュッケがドレスデンで結成された。ドイツ表現主義の第一波とされるこのグループは、強烈な色彩表現を特徴とする点においてはフォーヴィスムと共通していたが、より濃密な絵画を発表している。その他、1909年にミュンヘンで結成された新芸術家同盟は、初期メンバーのフランツ・マルク、アウグスト・マッケ、ワシリー・カンディンスキーらにパウル・クレーが加わることで青騎士へと発展を遂げ、戦後の抽象表現主義につながる大胆な絵画表現を試みる活動を実施している。
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西洋美術史
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その後、ピカソやブラックによって形態と構成における絵画革命キュビスムが推進され、フアン・グリスを加えてモンマルトルを中心に活動を展開した。特にピカソは、90年に渡る長い生涯のなかで絶え間なく絵画の革新と実験を試み、20世紀芸術の方向性に大きな影響を与え続けた。1907年に発表したキュビスムの出発点とも言うべき『アビニヨンの娘たち』では、アフリカの仮面彫刻のようなプリミティブ芸術に影響を受けた大胆なデフォルメと、セザンヌに学んだ知的構成が融合し、それまでになかった新しい絵画世界の実現に成功している。キュビスムは対象を解体して、画面上で再構成するというピカソやブラックが推進した手法もさることながら、同時に創出された新聞などの実物を直接画面に貼付するコラージュという技法が生み出された点も、絵画のあり方を一変させたという点において、後世の芸術家に多大な影響を与えている。ピカソ、ブラック、グリスの他、キュビスムの代表的な画家としてはフェルナン・レジェ、ロベール・ドローネーらがいる。
キュビスムよりやや遅れて結成された未来派は、詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティを中心に活動を展開し、機械文明におけるダイナミズムとスピード感を賛美し、積極的な運動表現を作品に取り入れることを探究した。主なメンバーとしてはジャコモ・バッラ、ジーノ・セヴェリーニ、カルロ・カッラなどがいる。未来派の活動は絵画のみならず、音楽、建築、彫刻など多方面に及び、先に紹介したボッチョーニもその影響を受けた彫刻家として知られている。また、マリネッティがロシアを訪れたことでロシアの前衛芸術の形成にも大きな影響を与えた。ミハイル・ラリオーノフ、ナタリア・ゴンチャロワらによるレイヨニスム、カジミール・マレーヴィチらによるシュプレマティスムといった抽象主義的絵画は、こうした影響の中で誕生していった。シュプレマティスムを推進していたウラディミール・タトリン、アントワーヌ・ペヴスネル、ナウム・ガボらはその後、シュプレマティスムが見出した幾何学的形態の極地から、さらに推し進めた構成主義を推進している。
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西洋美術史
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オランダのピエト・モンドリアンが創始した新造形主義も幾何学的な抽象表現を極めた様式のひとつで、モンドリアンはキュビスムの影響を受け、自然風景を垂直と水平の要素にまで還元し、この単純な構図に色の三原色を組み合わせるという美学に到達せしめた。またモンドリアンは、テオ・ファン・ドースブルフとともにデ・ステイル運動を推進し、絵画にとどまらない幅広い芸術分野に新造形主義の様式を拡大していった。
他方、現代絵画のもうひとつの大きな流れとして、人間の心、未知の世界を探究し表現する幻想絵画がある。形而上絵画はその代表的様式で、中心的人物のジョルジョ・デ・キリコは、長く伸びた影や人気の無い町並みを主題として白昼夢のような郷愁を誘う神秘的かつ不気味な不安を感じさせる作品を生み出している。その不安が現実となるかのように第一次世界大戦が勃発すると、厄災を生み出す社会や文化に対して強い批判を表明する芸術運動が同時多発的に持ち上がった。こうした動きはやがてひとつの大きなうねりとなり、あらゆる既成価値を否定するダダイスムが誕生した。マルセル・デュシャンが展覧会に出品した『泉』と称する便器やひげのあるモナ・リザを描いた『L.H.O.O.Q.』はその最たる例である。彼らはあらゆる方法で価値の転換を試み、過去の芸術や文化の徹底的な破壊と否定を推し進めた。代表的なメンバーとしてはハンス・アルプ、フランシス・ピカビア、マン・レイなどがいる。
第一次世界大戦後にはシュルレアリスムが登場し、ダダイスムによる否定を受けて、非合理の世界を解放することによって新しい価値の創造を目論む動きが始まった。シュルレアリスム運動は詩人アンドレア・ブルトンが1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表したことによって定義の明確化が図られた。芸術分野においてマックス・エルンスト、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、イヴ・タンギーらを中心として展開されたシュルレアリスム運動は、各々の想像力を糧に、夢と現実が矛盾無く世界を構築するような世界(超現実)の実現を目指した。作品制作にあたり、彼らはデペイズマン、オートマティスム、フロッタージュ、デカルコマニーといった新しい技法を次々と考案し、後世に無視できない多大な影響を残した。
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こうした新しい芸術運動が様々に展開される一方で、アンリ・ルソー、ルイ・ヴィヴァン、アンドレ・ボーシャン、セラフィーヌ・ルイといったいわゆる素朴派と呼ばれる素人画家が多く登場してきたことも、現代絵画の変革を伝える重要な要素のひとつである。また、エコール・ド・パリ(例:シャガール、ユトリロ、キスリング、スーティン、藤田嗣治)に代表されるように、特定の運動に加わることなく、自己の世界を表現し続けた画家も数多く存在していたことは忘れてはならない。
1945年、第二次世界大戦が終了すると、戦争の影響を強く伺わせるいわゆる戦後美術が登場した。作品としてはフランシス・ベーコンが描いた『風景の中の人物』、ジャン・フォートリエの『人質』に代表されるような、戦争の悲劇がもたらした人間そのものへの問いかけを含有する悲劇的な様相を表現する傾向にあった。アメーバのような不定形なフォルムと血を連想させる生々しい色彩を用いたヴォルスや、幼児や精神障害者の描く原生芸術を追求し、アールブリュットを提唱したジャン・デュビュッフェなども代表的な画家として挙げられる。フォートリエが表現した厚塗りの具象的な作品はその後、アンフォルメルと呼ばれる表現主義的抽象絵画として1950年以降もてはやされることとなる。こうした作品は、保守派ジャーナリズムや一般観衆から「子供の悪戯描き」と揶揄されながらも感覚に直接訴えかける新鮮な迫力を持った表現形式としてその地位を確立させた。他方で、こうした表現主義的抽象絵画が採った具象的モチーフの拒否を否定することで、現実への復帰を試みたネオダダやポップアートが誕生したのもこの時代であった。
1980年代以降、美術を表現する新しい方法が次々と生み出され、それらが互いに影響を及ぼしあうことにより複雑な美術体系が構築された。ナムジュン・パイクによるビデオ・アート、映画を含めた映像作品も美術作品として定義することが可能であり、現代美術の主要部分を占めるようになったと言って良い。また、シンディ・シャーマンやロバート・メイプルソープなどの写真美術作品や、マリーナ・アブラモヴィッチのような自身の身体を用いたパフォーマンス的な美術作品に代表されるように、様々なメディアを使用した表現形式(メディアアート)が誕生している。
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西洋美術史
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1960年代後半から1970年代にかけて誕生したロバート・スミッソンを嚆矢とするアースワーク(ランドアート)も、そうした多様化した表現形式の帰結のひとつである。自然派と呼ばれた彼らは地球をキャンバスとし、訪れることさえ容易ではない地に作品を直接制作することで、限られた空間からの解放と美術の商業主義からの脱却を試みた。代表的なものとしてはすでにグレートソルト湖の湖中に水没したスミッソンの『螺旋状の突堤』、落雷を呼ぶ金属ポール400本を等間隔に設置し、落雷現象そのものを美術作品として発表したウォルター・デ・マリアの『ライトニング・フィールド』、ストーンヘンジやストーンサークルといった原初的な造形を追及したリチャード・ロングの環状列石作品群などがある。
【概説・入門書】
【画集・辞典】
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ピンポン (漫画)
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『ピンポン』(英語: PingPong)は、松本大洋によるスポーツ漫画。『週刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館刊)1996年第14号より連載が開始、1997年第29号の第55話を以て完結した。神奈川県藤沢市を舞台に、卓球に魅了された5人の高校生によるスポーツアクションや才能を巡る青春が描かれている。単行本は1996年9月に第1巻初版が発売、翌年10月までに全5巻が発売された。2002年に曽利文彦監督、窪塚洋介主演で劇場映画化、2014年に湯浅政明監督によるTVアニメが制作された。
松本大洋は1987年に講談社の『モーニング パーティ増刊』にて漫画家として商業デビューを果たし、1988年より『モーニング』で『STRAIGHT』を発表し、長編連載デビューした。『ピンポン』は松本が小学館へ移籍してから制作され、小学館誌上では『ZERO』『花男』『鉄コン筋クリート』に次ぐ4作目の連載作品である。当初、松本の編集を担当していた人物は非常にスポーツを愛好しており、松本もまた小学生から高校生までずっとサッカーに励むスポーツ少年であった。その点で意気投合していた両者はスポーツ漫画として『ZERO』『花男』を発表した。『ピンポン』の制作以前にはサッカー漫画の構想が立てられていたが、松本は自身が長期の連載をしない性質にあり、試合毎に最低22人が登場するサッカーを描くことは困難と判断し、個人競技を描く方向へ転換した。卓球が題材となったのは、取材のために数多のスポーツを観賞した松本が、競技自体の認知度の割に卓球選手個々に戦型があったり、ラケットやラケットに貼るラバーの種類が多いことなど知られていない面が多く、魅力を感じたためであった。
松本は作品によって絵柄を大胆に変える傾向があり、前作『鉄コン筋クリート』ではフランク・ミラーの様な、白黒でメリハリが強いイラストレーション色の強いタッチであったが、『ピンポン』ではこのタッチは鳴りを潜め、細線を多様した黒味の薄いタッチが採用された。
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ピンポン (漫画)
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松本は作品によって絵柄を大胆に変える傾向があり、前作『鉄コン筋クリート』ではフランク・ミラーの様な、白黒でメリハリが強いイラストレーション色の強いタッチであったが、『ピンポン』ではこのタッチは鳴りを潜め、細線を多様した黒味の薄いタッチが採用された。
神奈川県藤沢市。星野裕(通称ペコ)と月本誠(通称スマイル)は、共にタムラ卓球場で小学生時代から卓球をやってきた幼馴染。ペコは確かな実力を持ちながら己の才能に自惚れ、誰に対しても不遜だった。一方のスマイルは、決して笑わず無愛想で、そんな態度からペコにスマイルと渾名されていた。共に片瀬高校の卓球部へ入ったふたりは、春、県内の辻堂学園学院卓球部へ、上海のジュニアチームから留学してきた孔文革(通称チャイナ)が留学生として雇われたと知る。ふたりは辻堂学院へ偵察に訪れ、チャイナとの対戦にこぎつける。しかしペコはチャイナ相手に1点も獲れず大敗した。続いてチャイナはスマイルへ勝負を持ちかけるが、スマイルはまるで興味を示さなかった。一見すると卓球で勝るのはペコであったが、チャイナはスマイルが抜群の素質を持っているのを見抜いていた。
スマイルの才覚を嗅ぎつけたのはチャイナだけではなかった。片瀬高校の卓球部顧問である小泉丈は、スマイルが才能とは裏腹に勝利への執念が全く無く、真剣勝負でも相手の心情を考慮し、特にペコと試合する際には無自覚に手を抜いていると看破し、彼をさらなる高みへと登らせるべく過酷な指導を試みる。同時期、県内最強と謳われる海王学園高校卓球部の風間竜一(通称ドラゴン)が片瀬へ偵察にやってくる。インターハイ優勝の実力者である風間ですらスマイルの実力を脅威に感じるほどであった。それでも、風間にとってスマイルはあくまでも脅威となりうる存在でしかなく、今度のインターハイでの優勝は確実であると公言する調子だった。
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ピンポン (漫画)
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やがてインターハイ予選が開幕した。ペコ、スマイル、ドラゴン、チャイナ、それぞれ順当に勝ち上がっていく。3回戦でスマイルはチャイナと対戦した。留学生として注目を集めるチャイナの勝利が確実視される中、スマイルはチャイナの実力を初セットで見極め、次のセットからまるでロボットのように正確無比なプレーでチャイナを追い詰める。スマイルの勝利が目前になったところで、チャイナのコーチが「ここで負ければ中国代表への道は閉ざされる」と激昂した。その意味を察知したスマイルは途端に萎縮し、結局、チャイナが勝利を挙げた。その一方で、ペコは準々決勝まで順当に勝ち上がった。準々決勝の相手は、同じ道場出身のもうひとりの幼馴染、佐久間学(通称アクマ)であった。以前はアクマ相手に圧倒的な実力を見せつけていたペコだったが、この対戦では地道な努力を重ねたアクマに終始優勢を握られ、あえなく敗退した。さらに別の準々決勝戦では、チャイナとドラゴンが対戦する。実力者であるチャイナをもってしても、日本国内最高峰に立つドラゴンにはまったく歯が立たなかった。インターハイはベスト4をすべて海王の選手が独占してみせた。
インターハイ予選を終え、全国大会へ進出した海王学園は団体戦の序盤で敗退した。個人戦で優勝を果たした風間は、近年の海王の弱体化を憂い、インタビューにおいて「優勝には月本レベルの人間が必要だ」と失言するほどになっていた。そのスマイルは次の大会へ向けて小泉にさらなる指導を受け、練習試合で県内の実力者を次々倒して名を挙げていた。しかし小泉の過剰なスマイルへの入れ込み、スマイルの独善的な卓球への熱は他の卓球部員との軋轢を生んでいた。ペコはアクマに敗戦したのが堪え、すっかりやる気を失っていた。そんな中で、アクマはドラゴンの発言でスマイルへの敵意をむき出しにして単身片瀬へと乗り込み、スマイルへ試合を申し込む。かつてはアクマが常勝だったが、才能を開花させつつあるスマイルの前では為す術なく敗戦した。地道な努力と対戦相手の研究を重ねたアクマはそれらをもってしても勝てないことを嘆くが、スマイルに「それは卓球の才能がないからだ」と一蹴された。試合を終えて帰宅する途中、アクマは苛立ちから傷害事件を起こし、停学処分と、卓球部の強制退部を余儀なくされた。
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ピンポン (漫画)
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一方で、スマイルの言葉はペコにも突き刺さり、ペコは学校の焼却炉で自身のラケットを燃やしてしまった。すっかり意気消沈した彼を、久々に道場へ訪れたアクマが激励した。ペコは誰よりも才能に恵まれ卓球を愛していると、才能に恵まれずも卓球を愛したアクマは知っていた。一念発起したペコは、道場で指導するオババへ懇願し再び卓球へ向き合う。オババもまた小泉と同時期に活躍していた卓球の名手であった。彼女の指導の元、堕落した基礎体力を取り戻したペコは、オババの息子が指導する大学の卓球部で指導を受ける。バックハンドの弱点をどうにも克服できなかったペコは、ペンラケットの裏へラバーを貼って繰り出す裏面打法を会得し、たちまち秘めていた才能を開花させ、誰もが驚く速度で進化した。
同時期、片瀬へ再びドラゴンがやってくる。今度は正式にスマイルを引き抜こうという魂胆であった。環境という意味では片瀬よりも海王が優れると踏んだ小泉は移籍を推奨した。精神を疲弊させたスマイルは普段のジョギングのコースを外れ途方も無い距離を走った。両親との距離が遠いスマイルが密かに他人との温もりを必要としていると理解した小泉、さらに卓球部の主将を務める大田は、スマイルへ卓球選手としてではなく、人間として歩み寄る。卓球部とスマイルとの間にあったわだかまりは一応は解消された。
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ピンポン (漫画)
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そして、1年が経過し、再びインターハイの季節がやってきた。ペコの初戦の対戦相手は偶然にもチャイナであった。チャイナは1年間で日本に順応し、かつては馬鹿にしていたチームメイトとも打ち解け、実力も当然上昇していた。しかし、ペコは第1セットから前回の対戦との違いを見せつけ、接戦ながらストレート勝ちを決めた。一方、月本は2回戦で海王の副主将である真田と対戦する。ドラゴンには劣るものの国内でも規格外と評される実力者との対戦にもスマイルはまったく怯えず、圧勝してみせた。ドラゴンもまた元来の実力で順当に勝ち上がってゆく。そうしてベスト4へ勝ち上がったのはペコ、スマイル、ドラゴン、そして海王の猫田であった。準決勝で猫田と対戦したスマイルはこれまた圧倒的な結果で勝利して見せた。一方、ペコは急速な成長に比例したオーバーワークが災いし膝に爆弾を抱えていた。周囲から棄権を勧められながらも、ペコは「スマイルが上で呼んでいる」と言う。小学生のころから無愛想でいじめられっ子だったスマイルを助けたペコは、彼らの間でヒーローだった。ところが最近になって、ペコはすっかりやる気を失い、いつしかヒーローの存在感が消えてしまっていた。そのヒーローをスマイルがずっと待っていると、ペコは悟った。
準決勝。ペコはドラゴンにあえなく1セットを先取され、まったく打つ手がなく追い込まれる。しかし試合中、心中でスマイルと会話を交わしたのをきっかけに復活し、まるで遊ぶように大胆で自由な戦型へと変貌、セットを取り返して見せた。ペコのプレーは観客だけでなく、対戦相手であるドラゴンすら歓喜させる面白さだった。長らく強者の重圧、主将としての責任を背負い卓球を憎んですらいたドラゴンは、ペコとの対戦でやがて喜びをあらわにした。試合はペコが勝利した。
決勝戦はオババや小泉や道夫、アクマ・チャイナ・ドラゴンらがどこか嬉しそうに見守る中、共に片瀬高校同士、ペコとスマイルの対戦となった。膝を痛めたペコ相手にスマイルは一切手を抜かない。一方でペコも、傷をまるで感じさせない大胆なプレーで応戦した。その様はただ卓球を楽しむ少年でしかなかった。
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ピンポン (漫画)
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決勝戦はオババや小泉や道夫、アクマ・チャイナ・ドラゴンらがどこか嬉しそうに見守る中、共に片瀬高校同士、ペコとスマイルの対戦となった。膝を痛めたペコ相手にスマイルは一切手を抜かない。一方でペコも、傷をまるで感じさせない大胆なプレーで応戦した。その様はただ卓球を楽しむ少年でしかなかった。
5年が経過した。スマイルは小学校の教諭を目指しながら、道場でジュニアの指導をしていた。そこへ親しい仲となったドラゴンが顔を出し二人は昔を懐かしみながら語り合う。ドラゴンはプロの卓球選手となったが、日本代表から外れ、己を凡庸な選手で終わるかもしれないと憂いていた。アクマは高校生のころから交際していた女性と結婚を決めた。ペコは若くしてドイツのプロリーグへ進出し、人気を集めていた。
※声の記述はアニメ版、演の記述は映画版である
かつては東日本に辻堂ありといわれた強豪校だが、近年は弱体化の一途。中国から選手兼コーチとしてチャイナを招き、起死回生を図る。
その他に、『鉄コン筋クリート』の蛇が藤堂大学の卓球部員として、第32,34,36話でカメオ出演している。
「ピンポン」は1997年、1998年に手塚治虫文化賞の候補に挙げられ、受賞は逃したものの数多くの選考委員から高い評価を得た。
「ピンポン THE ANIMATION」を手がけた湯浅政明は連載当時から本作を愛好していたが、完成度の高さを見てアニメ化には当初後ろ向きだったとコメントしている。
中国出身の映画監督ビー・ガンはピンポンを始めとする松本の作品群から影響を受けたと公言している。
2010年にSANYOから発売されたパチスロ5号機。 ART+ボーナスタイプの機種で、ゲーム数によるゾーン抽選で発動するART「ピンポンボーナス」が特徴。
漫画の連載終了から4年以上が経過した2002年初頭に映画の制作が発表され、同年7月に劇場公開された。
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ピンポン (漫画)
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中国出身の映画監督ビー・ガンはピンポンを始めとする松本の作品群から影響を受けたと公言している。
2010年にSANYOから発売されたパチスロ5号機。 ART+ボーナスタイプの機種で、ゲーム数によるゾーン抽選で発動するART「ピンポンボーナス」が特徴。
漫画の連載終了から4年以上が経過した2002年初頭に映画の制作が発表され、同年7月に劇場公開された。
片瀬高校一年の星野は、将来ヨーロッパに行って卓球で頂点を目指すという夢を持っている。その割には、卓球部の練習はさぼってばかりで、マイペースだ。星野の幼なじみの月本は、幼い頃虐められていたときに、いつも星野に助けてもらった。月本の中では、星野はヒーローであった。星野に卓球を習って、目立たないが卓球の才能を持っている月本は、インターハイチャンピオンの海王学園の風間や、中国のナショナルチームから落ちて日本で再起をはかる孔からも注目されている。しかし月本は卓球は人生の暇つぶしと考えてクールに取り組み、月本を鍛え上げようとする顧問の小泉にも反抗しがちだ。
そしてインターハイ県予選がはじまる。星野は、幼なじみで風間に憧れて海王学園に行った佐久間に破れる。月本は孔を追い詰めるが、情をかけ逆転負けをする。風間に認められたい佐久間は、月本に試合を挑むが完敗、退学し卓球を離れる。一方、卓球をやめようとしていた星野に会い、卓球を続けるように励ます。星野は再起を期して、タムラ卓球のオババのもとで鍛え直す。月本も、小泉と信頼関係を築いていき、特訓をはじめる。
そして翌年のインターハイ予選が始まる。月本は圧倒的な力で決勝に進んだ。星野は孔を下し準決勝に進む。そして膝痛のため、棄権をすすめるオババの忠告を蹴って、月本が待っているからと言って風間と戦う。風間は意地をかけて勝利を目指すが、星野は月本の友情に力を取り戻し風間を下す。死力を尽くした戦いに、風間は幸福を感じていた。月本はヒーローである星野との決勝に臨む。そして星野は月本に勝利し、優勝を果たした。
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そして翌年のインターハイ予選が始まる。月本は圧倒的な力で決勝に進んだ。星野は孔を下し準決勝に進む。そして膝痛のため、棄権をすすめるオババの忠告を蹴って、月本が待っているからと言って風間と戦う。風間は意地をかけて勝利を目指すが、星野は月本の友情に力を取り戻し風間を下す。死力を尽くした戦いに、風間は幸福を感じていた。月本はヒーローである星野との決勝に臨む。そして星野は月本に勝利し、優勝を果たした。
『ピンポン THE ANIMATION』(ピンポン ジ・アニメーション)のタイトルで、2014年4月より6月まで、フジテレビ『ノイタミナ』枠にて放送された。原作の絵をほぼそのまま再現し、アニメーション化させるという試みが行われている。また、作中では、松本が連載時に着想したものの、描写できなかったエピソードが湯浅の手によって多数映像化されている。
また、本作にはあらかじめ脚本はなく、監督の湯浅政明自ら絵コンテから描き始め、そこでセリフ等を決めている。
2015年、東京アニメアワードフェスティバル 2015でアニメ オブ ザ イヤー部門テレビ部門グランプリ受賞。
2014年8月27日にアニメの全11話とサウンドトラックを収録したBOX仕様で発売された。規格品番はANZX-6281(Blu-ray)、ANZB-6281(DVD・完全生産限定版)、ANSB-6281(DVD・通常版)。
『〜ピンポン THE ANIMATION〜 超高速!スマッシュパズル!!』というブラウザゲームが2014年4月11日から提供された。ジャンルは卓球パズル。基本プレイ無料のアイテム課金制。カルチャーによる制作で、Yahoo!モバゲーでの配信。
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衛星
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衛星(えいせい、英語: natural satellite)は、惑星や準惑星・小惑星の周りを公転する天然の天体。ただし、惑星の環などを構成する氷や岩石などの小天体は、普通は衛星とは呼ばれない。
地球の衛星である月が先史時代から存在を知られていた唯一の衛星であるが、コペルニクス以前の天動説では惑星の一つと考えられていた。ガリレオ・ガリレイが木星に発見した4つの衛星いわゆるガリレオ衛星が有史以後発見された最初の衛星である。そしてヨハネス・ケプラーによって地動説が優勢になるなり、ラテン語で従者を意味するsatellesから「衛星」と呼ばれるようになった。
国際天文学連合(IAU)では、2006年に太陽系の惑星の定義を決議したが、衛星の定義に関しては「今後、天文学連合で検討されて決定する見込み」とするにとどまった。ただ、惑星の定義を単純に衛星に転用することは適切でないと考えられており、例えば惑星の定義に含まれる「重力平衡形状(ほぼ球状)を持つ」を条件にすると、これまで衛星と呼ばれていた天体が定義から外れるケースを生じると指摘されている。土星の衛星のヒペリオン(ハイペリオン)は、長軸径が約360km、短軸径が約225km(比は1.6)の太陽系最大の非球形天体である。また、冥王星とカロンのようにサイズが近く、天体間の共通重心が母惑星の表面よりも外側にある場合を、従来のように準惑星-衛星系と考えるか二重天体(二重準惑星)と考えるかも議論になっている。
人間が作った人工天体の場合には天然の衛星(自然衛星)と区別するために「人工衛星」(英: Artificial Satellite) と呼ぶが、これを単に「衛星」と呼ぶことも少なくない。英語では、口語的に "moons" という言葉で、日本語でも「(惑星)の月」という呼び方で、月にかぎらず、各惑星等の衛星全般を指すこともある。
衛星の周りを公転する天体を孫衛星と呼ぶ。天然の孫衛星は現在のところ発見されておらず、一時的に存在できたとしても軌道が不安定であると考えられている。
また、衛星の形成原因は以下の4通りの説が出されている。
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衛星
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衛星の周りを公転する天体を孫衛星と呼ぶ。天然の孫衛星は現在のところ発見されておらず、一時的に存在できたとしても軌道が不安定であると考えられている。
また、衛星の形成原因は以下の4通りの説が出されている。
これらのうち惑星とともに形成された説は惑星に対し質量が相当大きな衛星も存在し得る(ガス惑星と地球サイズの衛星という組み合わせも可能)が、捕捉説は天体が大きくなると惑星の引力で捕捉が困難になるため成立しなくなる他、衝突説は岩石惑星の場合は良いが、ガス惑星の場合衝突で放出されるものの大半が水素やヘリウムといったガスなのですぐに散らばり、大きな衛星形成は困難になるといった違いがある。
また、逆行衛星の場合は捕捉説以外の成因はほぼ不可能で、海王星のトリトンはこうした逆行軌道であることから過去に海王星が捕捉した天体というのが定説となっている。
2023年5月現在、太陽系の惑星を周回する衛星は284個発見されている。また2007年末時点で、そのうち144個に名前がついている。
太陽系の衛星には地球の衛星である月のように主に岩石のみで構成された岩石衛星(岩石型衛星)と、木星以遠の領域にある大部分の衛星のように二酸化炭素主体の氷と岩石あるいは氷のみで構成された氷衛星に分けられる。ただ、氷衛星は太陽系にごくありふれた存在であり、太陽系の衛星で氷をまとっていないのは地球の月と火星の2つの小衛星、木星の衛星イオだけである。
地球はやや特殊なパターンで、衛星が極めて大きいものが1つだけあるという構造であり、月の質量は地球の81分の1に及ぶ。他の惑星の衛星の場合は質量比がはるかに小さく、大きくてもそれが属する惑星の1万分の3程度が普通で、次に大きい海王星に対するトリトンの質量比が約5000分の1である。
衛星の比喩として「衛星都市」、「衛星国家」などの表現も用いられる。
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DAPS
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DAPSとは、データウエストが有する商標である。以下の2つの意味がある。
CD-ROM黎明期の1990年に開発された。
それまでのFM TOWNS用ゲームでは、アニメーションや音楽再生中に同時並行でCD-ROMからのデータ読み込みが出来ない欠点があった。この欠点を克服することから開発された動画エンジンを核に、インタラクティブな機能を付け加えた独自のハイパーテキストのプレイヤーとその開発システム一式である。
割り込みの優先順位等が通常のTBIOSとは変更されたものが付加され、CD-ROMから実メモリ空間にバックグラウンドでDMA転送される様なシステムが構築されていた。また、音声再生や音楽再生もこのルーチン内で処理され、PCM楽器サウンドには非常に良質でコンパクトなデータが使われた。DAPSでは内蔵音源のみでBGMを実現していた。
同社制作の各種ゲームや学校教材で使用された。同社のゲーム『サイキック・ディティクティブ』シリーズや『第4のユニット』シリーズ等では、デジタルペイントされたセル画アニメーションが使用された。
同社独自のビデオキャプチャ機材も開発され、実写映像も利用可能となり、「平成一のファジイ男」という作品の制作を発表した。しかし諸般の事情で制作できず、NHKエデュケーショナル、トッパンが発売した銀河宇宙オデッセイの第2作目で使用された。その後石見銀山や大阪や神戸でロケハンを行ったミス・ディテクティブシリーズ2作品が制作された。
この動画エンジンは同社の手により、CD-ROMを搭載したSUPER CD-ROM・メガCD・PC-9821などの各機種にゲームとともに移植された。なお、他社のソフトで使われることはほとんどなかった。
Windows 3.1や次世代機の時代になると、「Windows時代を見据えての『DAPS For Windows』を完成させつつある(※要約)」とパソコン誌などで表明していたものの、AVIとCinepak、MPEGなどのコーデックの登場により、独自の動画圧縮システムを使用しなくなった。ただし、同社のインタラクティブなゲームには全てDAPSの記載がある。
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DAPS
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Windows 3.1や次世代機の時代になると、「Windows時代を見据えての『DAPS For Windows』を完成させつつある(※要約)」とパソコン誌などで表明していたものの、AVIとCinepak、MPEGなどのコーデックの登場により、独自の動画圧縮システムを使用しなくなった。ただし、同社のインタラクティブなゲームには全てDAPSの記載がある。
PC-9821での作品展開では、同一CD-ROMをFM TOWNSとPC-9821のどちらでも読める仕様であり、「キーディスク」と呼ばれる起動用のフロッピーディスクをそれぞれの機種用に添付しハイブリッド化させた。
ポリゴン画像をリアルタイム表示する「ポリゴンDAPS」なども存在した。これはセルアニメエンジンの流用である。
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シャルル・メシエ
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シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730年6月26日 - 1817年4月12日)は、フランスの天文学者。星雲・星団・銀河に番号を振り、『メシエカタログ』を作った。
ロレーヌのバドンヴィレに生まれる。11歳の頃に父を亡くした。
パリのフランス海軍天文台で、1751年から天文官ジョゼフ=ニコラ・ドリルの助手として働き、航海天文台の事務員となって彗星の発見に没頭。1758年冬から、過去の観測から出現が予報されていたハレー彗星の捜索を始め、翌1759年1月21日に発見、ドリル天文官から表彰を受ける。しかし、それはヨハン・ゲオルク・パリッチュによる発見(1758年12月25日)の1か月後だった。マスコミが未発達のこの時代、1か月遅れの独立発見は仕方がないことではあるが、パリッチュがヨーロッパ中に一躍名を知られるのと対照的に、この発見によっていわれのない誹謗中傷を受けたことからその名を知られることとなる。しかし、この出来事の屈辱をばねとして、彼はより一層彗星探索に没頭するようになっていった。
1760年、ドリルの退官に伴い天文官に就任。彗星発見者としての名声は高まっていき、1764年ロンドン王立協会の外国人会員となる。このころ彗星の捜索の際、彗星と紛らわしい天体が多いことに閉口したメシエは、1764年初めからこうした天体のリストを作り始めた。そして、同年末、18個の自ら発見した天体にそれまで知られていたものを加えた40個 (M1-M40) の天体リストを作成。このとき加えた40番目の天体は二重星だった。その後、1765年におおいぬ座にM41を発見したため、45個にしようと思い立ったメシエは、リストにM42やプレセペ、プレアデスなどの有名な天体を追加した(詳しくは後述)。
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シャルル・メシエ
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1769年、おひつじ座のはずれに大彗星 (C/1769P1) を発見し、プロイセン科学アカデミーの外国人会員の資格を得た。フランス学士院は一介の事務官に学士院会員資格を与えることを渋っていたが、メシエが翌1770年にも彗星(レクセル彗星 (D/1770 L1) )を発見するとさすがに無視できず、同年に科学アカデミーの会員資格を与えた。生涯に発見した彗星は13個に上る(うち一つは助手のピエール・メシャンとの共同発見)。ルイ15世はメシエを「彗星の狩人」と呼んだ。ナポレオンはメシエに勲章を与えた。
1774年に『メシエ天体カタログ』第1巻 (M1-M45)、1781年に第2巻 (M46-M68)、1784年に第3巻 (M69-M103) をそれぞれ発表。
このカタログに掲載された天体をメシエ天体と呼ぶ。たとえば、M31はアンドロメダ銀河を表す。メシエは、カタログの体裁を(末尾の数字を0か5に)整えるため、二重星(M40、現在欠番)や彗星と間違えるはずのない星団(M45など)も入れていた。
後の観測でこれらのメシエ天体には星雲以外に、星団・銀河も多く含むことが判明した。
メシエが使用していた望遠鏡には口径9cmアクロマート屈折望遠鏡や口径15.2cmグレゴリー式反射望遠鏡、および口径19cmグレゴリー式反射望遠鏡などがある。
彼の名誉を称えて月のクレーター(メシエ)、小惑星7359番(メシエ)に彼の名が付けられている。1775年、ジェローム・ラランドによってかんししゃメシエ座(監視者メシエ座)という星座が設定されたことがあるが、現在は用いられていない。
いずれも非周期彗星である。
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ブランコ
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ブランコは、座板を支柱や樹木から鎖や紐などで水平に吊るした構造の遊具。揺動系遊具に分類される。
ブランコはポピュラーな遊具の一つで、公園や小学校の運動場などに備え付けられていることが多い。
鞦韆(秋千、しゅうせん)ともいう。「鞦」「韆」はそれぞれ1文字でもブランコの意味を持つ。「鞦韆」は今でこそブランコの意味を持つが、古くは中国で宮女が使った遊び道具(性具)をさす。現代のブランコとは少し違い、飾りがたくさんついており、遊戯中、裾から足が見えて、皇帝が見ていて運よく夜伽に呼ばれる可能性から艶かしいイメージを持たれていた。北宋の文人、蘇軾の漢詩『春夜』にも鞦韆が出てくることから、性行為の過程を詠んだという解釈もある。唐の玄宗は、鞦韆に「半仙戯」の名を与えたという。
雅語は「ふらここ」。「ぶらんこ」の語源については擬態語「ぶらり」「ぶらん」などから来たとする説や、ポルトガル語の balanço (バランソ、英語のバランス、swing スイングの意もある)、もしくはBlanco(ブランコ、白色)から来たとする説などがある。なお、ポルトガル語版での対応項目タイトルは「Balanço」、フランス語版では「Balançoire」となっている。「ふらんど」「ゆさわり」ともいう。
日本へは古く中国から伝わったとされ、樹木や梁から吊り下げたものであった。嵯峨天皇の詩に詠まれ、『倭名類聚抄』にも記述がみられる。「ぶらんこ」と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからとされる。なお、「鞦韆」が古くは性具を指したことから、日本でも「鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す」(高浜虚子『五百句』)、「女優の鞦韆も下からのぞこう。沙翁劇も見よう。洋楽入りの長唄も聞こう。」(永井荷風「妾宅」)など、性的ニュアンスを込める場合などにあえてブランコではなく「鞦韆」が使用されている例が見られる。
サーカスなどの曲芸には空中ブランコという独特なブランコが使われる。非常に高い位置から2条の紐が降りていて、その先に細長い棒のようなものがあるだけである。一般のブランコの紐を長くし台を極限まで小さくしたものと解してよい。英語では、遊具のブランコは swing、空中ブランコは trapeze と呼ぶ。
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ブランコ
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サーカスなどの曲芸には空中ブランコという独特なブランコが使われる。非常に高い位置から2条の紐が降りていて、その先に細長い棒のようなものがあるだけである。一般のブランコの紐を長くし台を極限まで小さくしたものと解してよい。英語では、遊具のブランコは swing、空中ブランコは trapeze と呼ぶ。
座板を2本の鎖で支柱から吊り下げる構造を持つ最も一般的なもの。通常は単に「ブランコ」というが、関連文献などでは他の種類と区別するため「一方向ブランコ」として類型化されることがある。座板の材質・形状については、木製の板状のもの、金属製の椅子状のもの、ゴムやポリウレタン製で腰まですっぽり覆われるバケツ型のものなどがある。ただ、ブランコについては飛び降り時に他の遊具や安全柵と衝突するなどの原因による事故も報告されており、座面の改善や転落への対策等が必要という指摘がある。
ゴム製のタイヤを3本の鎖で支柱から吊り下げる構造を持つもの。「タイヤブランコ」もしくは「全方向ブランコ」と呼ばれる。
可動部に2人~3人が向かい合って座る構造の4人ないし6人乗りの大型のブランコ。「箱ブランコ」のほか「揺りかご型ブランコ」あるいは「丸ブランコ」などとも呼ばれる。
ただ、可動部の重さ、地面との隙間が狭いこと、指や足を挟む隙間が多いなどの問題点が指摘され、1960年代から頭蓋骨骨折や脳挫傷などによる死亡事故の報告例があった、このようなことから全国的に撤去される例が多くなっている。国土交通省管轄の公園においては、2001年には約13000台設置されていたが、2004年には約3600台にまで減少している。
長い座板の両端を鎖で支柱から水平に吊り下げた構造を持つ遊具。遊動円木についても事故の報告があり、座面の材質や可動部の重さが問題点として指摘されている。
2本の鎖やロープによってぶら下げられた椅子(踏み台)に乗り、振り子の原理を利用して前後に揺らし、踏み台を漕ぐことによって振幅を徐々に大きくすることで振り子運動を楽しんだり高度感を味わったりする。物理学的には、パラメータ励振で説明できる。具体的に言うと、立ち乗りで漕ぐ時には、最下点付近の遠心力が最も大きくなるあたりで立ち上がり、最上点付近の遠心力が小さなところでしゃがむ運動を繰り返している。
以下は一般的なブランコにおける乗り方の例である。
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ブランコ
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以下は一般的なブランコにおける乗り方の例である。
韓国ではブランコはクネ(그네)という。旧暦の5月5日に行われる韓国の端午(朝鮮語版)では、女性がブランコに乗る(クネティギ、그네뛰기)風習がある。
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主要国首脳会議
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主要国首脳会議(しゅようこくしゅのうかいぎ)もしくは先進国首脳会議(せんしんこくしゅのうかいぎ)は、7か国による国際会議である。
日本、アメリカ、カナダ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア及びEUで構成され、メンバーは世界最大の国際通貨基金(IMF)の先進国であり、“最も裕福な自由民主主義国であり、グループは多元主義と代議制政府という共通の価値観に基づいて公式に組織されている”(IMF談)。2018年の時点で、G7は世界の純資産(317兆ドル)の60%近くを占め、世界のGDPの32-46%を占める。また世界人口の10%に当たる約7億7000万人を占める。メンバーはいずれも世界的な大国であり、経済、軍事、外交面で緊密な関係を保っている。
法的・制度的な基盤を持たないものの、国際的に大きな影響力を持っていると考えられており、HIV/AIDS対策、途上国への資金援助、2015年のパリ協定による気候変動への対応など、いくつかの主要な世界的取り組みのきっかけとなったり、先導したりしている。一方で、古くて限られていることや、世界的な代表者が少ないこと、効果がないことなどが批判されている。また、反グローバリズム団体がサミットで抗議活動を行うこともある。
G7は、Group of Seven(グループ・オブ・セブン)の略で、主要7か国首脳会議、先進7か国首脳会議ともいう。
なお、主要国首脳会議(G7サミット)を単に「サミット」と表す場合があるが、英語でSummitは首脳会議のことを意味するため、必ずしも適切ではない。
1998年サミットから2014年のロシアによるクリミア併合までは主要国首脳会議の構成メンバーは以下の8か国であり、G8、主要8か国首脳会議などと呼ばれていた。
上記の8か国の政府の長および欧州連合の欧州理事会議長と欧州委員会委員長が年に1度集まり、国際的な政治的・経済的課題について議論する会合である(その他の国の首脳や国際機関の代表も例外的に出席することがある)。また、それに合わせて数多くの下部会議や政策検討も行われる。ただし、2014年以降、ロシアはその参加資格を停止されている(後述)。
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主要国首脳会議
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上記の8か国の政府の長および欧州連合の欧州理事会議長と欧州委員会委員長が年に1度集まり、国際的な政治的・経済的課題について議論する会合である(その他の国の首脳や国際機関の代表も例外的に出席することがある)。また、それに合わせて数多くの下部会議や政策検討も行われる。ただし、2014年以降、ロシアはその参加資格を停止されている(後述)。
カナダとイタリアが加わる以前は日本、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツの5か国が参加するG5と呼ばれていた。1975年にイタリアが参加し第1回先進国首脳会議が開催されG6となる。その後1976年にカナダが加わり第2回先進国首脳会議が開催されG7となった。現在では首脳や各閣僚による会合は全てG7の枠組みとなっている。カナダ以外の6か国は20世紀前半までの帝国主義時代における列強にあたる。中国はG7を北京に侵攻した八カ国連合軍と揶揄して批判した。
なおロシアの参加によって首脳会議や閣僚会合がG8という枠組みとなっていた時代においても、財務相・中央銀行総裁会議に関してはG7の枠組みで活動していた。そのため一時期は「G7=先進国財務相、中央銀行総裁会議」の略称として用いられていたとされる。
発足時の名称は「先進国首脳会議」。
冷戦下の1973年のオイルショックと、それに続く世界不況に起源を持つ。1973年3月25日、この不況を憂慮したアメリカ財務長官ジョージ・シュルツは、将来の経済的課題を討議する会議を模索するため、西ドイツ・フランス・イギリスからそれぞれ財務大臣(ヘルムート・シュミット、ヴァレリー・ジスカールデスタン、アンソニー・バーバー(英語版))を招集し、ワシントンD.C.で非公式の会合を行った。この時、アメリカ大統領ニクソンは会場としてホワイトハウスを提供し、会合が地階の図書室で開催されたことから、この4か国は「ライブラリーグループ」と呼ばれた。現在のG7財務相・中央銀行総裁会議の前身である。同年秋に開かれた国際通貨基金(IMF)と世界銀行の年次総会の際に行われた非公式会合の場で、シュルツは先の4か国に日本を加えることを提唱し、合意された。
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主要国首脳会議
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1975年、フランスで大統領となったジスカールデスタンは、ライブラリーグループのメンバーに日本を加えた“工業化された4つの主要民主主義国”の首脳をフランスのランブイエに招待し、フランスを含めて5か国で初めての首脳会議を開き、定期的に首脳会議を持つことを提案した。このときの出席者は、主催国(議長国)を持ち回りで交代しつつ年に1回会議を持つことに合意した。こうしていわゆる「G5」が生まれた。しかし、これを不服としたイタリアの首相アルド・モロが第1回会議に乗り込んで来た為、その場でイタリアが追加されG6となる。
しかし、これではヨーロッパに偏る為、翌年のプエルトリコの首都サンフアンでのサミットで米国のジェラルド・フォード大統領の要請によりカナダが参加し「G7」となる。
冷戦の終結に続く1991年の第17回先進国首脳会議(ロンドン・サミット)終了後、旧東側諸国の盟主で、かつてはG7諸国と対立していたソ連(現・ロシア)とサミットの枠外で会合を行うようになった。ロシアは1994年のナポリ会合以降は首脳会議のうち政治討議に参加するようになり、1997年のデンバー会議以降は「世界経済」「金融」などの一部セッションを除き基本的に全ての日程に参加することになった。1998年のバーミンガム会議以降は従来の「G7サミット」に代わり「G8サミット」という呼称が用いられるようになった。さらに2003年のエビアン・サミット以降、ロシアは「世界経済」に関するセッションを含め完全に全ての日程に参加するようになった。一方ロシアは経済力が大きくないなどの理由により、7か国財務大臣・中央銀行総裁会議には完全参加していなかった。
ロシアの参加には米大統領ビル・クリントンの示唆などもあった。これは当時のロシア大統領ボリス・エリツィンに経済改革を進めさせ、また北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大政策に関して中立を保つようにさせるためのクリントンのジェスチャーだった。ロシアは加入当初は経済破綻で貧困状態であったために先進国とは言い難く、一人当たり名目GDPも1999年には1334ドルに過ぎない発展途上国状態であった。このころ、名称が「先進国首脳会議」から「主要国首脳会議」に変更された。
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主要国首脳会議
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他方、2005年2月18日、米上院議員ジョー・リーバーマンとジョン・マケインがロシア大統領ウラジーミル・プーチンによって民主的、政治的自由が確保されるまではG8への参加を見合わせるようにロシアに呼びかけるなどの動きもあった。
当初においては様々な国際的な課題への強い影響力を有していたが、近年では新興諸国の政治的・経済的影響力の上昇に伴う相対的な影響力の低下とともに、形骸化や単なるセレモニー化が指摘されている。一方で、国連総会などの外交官レベルの会議に比べ、主要各国の首脳会議であるサミットは決断力・実行力に格段の優位性をもつほか、拒否権のような制度的問題がなく、国連を補完する意味で一定の役割を果たしているという指摘もある。
2014年3月25日にオランダのハーグで開かれた核セキュリティーサミットとあわせ、臨時のG7サミットが開かれた。その議場において、ロシアのウクライナに対する軍事介入やクリミア半島掌握などを非難したG7の首脳陣は、2014年6月にロシア・ソチで行われる予定だったG8サミットを中止し、会場をベルギーのブリュッセルに変更する決定をした。また同会議において、「ロシアが態度を改め、G8において意味ある議論を行う環境に戻るまで、G8への参加を停止する」という内容のハーグ宣言を発表した。これにより、G8としての活動は事実上停止し、冷戦当時のG7へと戻った。
国際連合や世界銀行のような国際機関とは異なり、条約に基づくものではなく、常設の事務局やオフィスはなく、議長国は加盟国の間で毎年交代し、議長国はグループの優先事項を決定し、主要国首脳会議(サミット)を開催する。サミットの新たなメンバー国を増やすには、全参加国の支持が必要となる。一方、招待国は議長国に権限が与えられている。またメンバー国の間で毎年順番にグループの議長国が回り、新しい議長国は1月1日から担当が始まると考えられている。議長国は一連の大臣級会議を主催し、続いて年の中頃に3日間の首脳によるサミットを行う。また、出席者の安全を確保するのも議長国の役割である。
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主要国首脳会議
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大臣級会議は健康、法務、労働を担当する大臣が集まり、相互のまたは全地球的な問題について議論する。これらのうち最もよく知られたものはG8外務大臣会合、G8財務大臣会合などがある。1994年にはG7の後援の下で、情報化社会の実現に関する特別プログラムが設立された。
G8サミット国や招待国以外でも、特定の分野で参加することができる。例えば2005年6月には、G8は幼児性愛者に関する国際的データベースを立ち上げることに同意され設置されたが、G8以外の国もこのデータベースに参加することができる。またG8は、各国のプライバシーと保安にかかる法律の範囲内でテロリズムに関するデータを集積することにも同意した。同時にG8構成国、およびブラジル、中国、インド(発展途上国で最大の地球温暖化ガスの排出国)の国際科学アカデミーが気候変動に関する共同声明に署名した。この声明は気候変動についての科学的理解はいまや各国が即座に対策を執るには十分に明らかになっており、IPCCの統一見解を明示的に支持するということを強調している。
G8で扱われる課題は議論のある国際的問題であるためG8は非公式な「世界政府」であり、何の関係もない第三世界にまで決定事項が強制されているという非難がアルテルモンディアリストによりしばしばなされる。ちなみにG8の「決議」「決定」「宣言」その他諸々は、国際法上の根拠を何ら持たず、すなわち非参加国に対する拘束力のない“仲間内での取り決め”に過ぎない。
年1回のサミットは、しばしば反グローバリゼーション活動の反対活動の的になる。特に2001年にジェノバで開かれた第27回主要国首脳会議では大規模なデモが行われるなど顕著だった。
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主要国首脳会議
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年1回のサミットは、しばしば反グローバリゼーション活動の反対活動の的になる。特に2001年にジェノバで開かれた第27回主要国首脳会議では大規模なデモが行われるなど顕著だった。
G8参加国は現在、地球規模で深刻な問題となっている地球温暖化や発展途上国での貧困の原因となっていると非難があり、また主要国として問題解決に向けて対処すべきという非難もある。このようにG8諸国が作り出していると非難されている問題について責任を取って闘うよう、G8指導者へさまざまな団体から圧力がかかっている。例えば、ボブ・ゲルドフは2005年7月2日と7日にグローバル・アウェアネス・コンサートであるLive 8を組織しG8指導者に「Make Poverty History(貧困を歴史としよう)」を奨励した。また組織関係者は、G8メンバー国に1992年のリオデジャネイロ地球サミットの「アジェンダ21」で概説されたとおり国家予算の0.7%を海外援助に回すよう提案した。このコンサートは第31回G8サミットと同時になるように計画された。
G7と対立を深める中華人民共和国のイラストレーターの烏合麒麟は、G7加盟国を、義和団の乱で混乱していた北京に軍事侵攻した八カ国連合軍の加盟国に準えて批判した(実際に参加国はほぼ同じ)。また、120年前の衰退し弱体化した中国と現在の中国は全く違う事、120が過ぎても強盗(侵略)の本性は捨て難いなどの批判コメントを記載した。
2005年7月7日、スコットランドでのサミットの初日に50人以上が命を落とし数百人が負傷したと言われるロンドン地下鉄およびロンドン2階建てバス同時多発爆破事件が起こった。この攻撃は、直ちに「ヨーロッパ在住のアルカーイダ秘密グループによるジハード」によるものとされた。この攻撃は西側国家に対し、アフガニスタンおよびイラクでの軍事活動をした場合攻撃を行うとイスラム原理主義者によって犯行の予告が先立ってされていた中で英国が軍事行動に参加したことと関係があるものとされた。G8サミットへ集まった国際的な注目は、おそらく最大限の象徴的な効果のためにテロリストによって増幅された。この打撃は、IOCがロンドンを2012年オリンピック大会の開催地に決定した告知をした直後でもあった。
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主要国首脳会議
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近年はインドや中国などの新興国の急速な経済発展の反面G7の経済力と影響力低下に伴い、世界経済に関してはG7にEUとロシアおよび新興経済国11ヶ国を加えたG20の枠組みで議論される事が多くなっている。
2010年2月5日から6日まで2日間の日程でカナダのイカルイトで開幕したG7の財務相・中央銀行総裁会議では、世界経済の現状について意見交換する夕食会の後、膝詰めで話し合う「炉端対話」が行われ、仏財務相のクリスティーヌ・ラガルドからG7の今後のあり方が提案されたが結論は出ず、継続議論となった。日本からは財務大臣の菅直人と日銀総裁の白川方明が出席した。
現在では、中国の海洋進出やロシアによるクリミア併合などを受けて、法の支配や普遍的価値を共有するG7の結束は高まっている。だが、2017年、国益を重視するドナルド・トランプの米大統領就任により、2019年は初の首脳宣言見送りとなった。
2016年5月31日、外務大臣の岸田文雄(当時)は、記者会見で「G20の台頭」に対して、「G7は特に、自由、民主主義、法の支配、人権と言った基本的な価値観を共有する主要国の枠組みだと思います。」「国際社会が経済も含めて不透明化する中にあって、この枠組の意義、存在感は益々高まっていくのではないか、このように認識しております。」(一部抜粋)と語っている。
2020年6月、同年の開催国にあたる米大統領のドナルド・トランプは、G7の枠組みにオーストラリア、インド、ロシア、韓国を加えてG10またはG11に拡大する意向を示した。新型コロナウイルスの流行を背景に「対中包囲網」という意識もあると見られる。ただし、全G7諸国の承認が条件でありカナダとイギリスはロシアの参加に反対し、ロシアも中国排除の仕組みに意味がないと難色を示した。韓国に関しては中国政府系メディアから「韓国は大した力のない国」と批判され、日本政府からも北朝鮮問題を理由に参加を拒否された。また、EU外相のジョセップ・ボレルは「トランプにG7の枠組みを変える権限など一切ない。」と痛烈に批判している。7月27日には、ドイツもG7の拡大を批判した。2021年、日本政府はG7の拡大に反対すると正式に表明した。
2022年は、ロシアによるウクライナ侵略への対応を目的とし、ウクライナへの支援とロシアに対する経済制裁の議論が活発化した。
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主要国首脳会議
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2022年は、ロシアによるウクライナ侵略への対応を目的とし、ウクライナへの支援とロシアに対する経済制裁の議論が活発化した。
以前は、サミット参加7か国の間でフランス、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ(旧西ドイツ)、日本、イタリア、カナダの順で毎年持ち回り開催されてきた。ロシアが参加するようになってからはイギリスの次にロシアが入り、8か国持ち回りになった。前半3か国が国際連合安全保障理事会の常任理事国であり、後半4か国はそうではない。
1990年代までは開催国の首都などの大都市での開催が多かったが、1990年代末になると反グローバリズム、アルテルモンディアリスム団体の抵抗運動によるデモ活動が頻発。特に2001年のジェノヴァでは大規模なデモに見舞われたことから、以降、警備のしやすい地方都市、保養地での開催が多くなっている。
第1回はフランス、アメリカ、イギリス、西ドイツ、日本、イタリアの6か国首脳によるG6、第2回から第23回までは6か国にカナダを加えたG7、第24回から第39回までは7か国にロシアを加えたG8。西ドイツは1990年にドイツ再統一が起こったため、第17回からは統一ドイツとして出席している。
1998年から2013年まで、G8は以下の8名で構成された。
2014年のクリミア侵攻によってロシア大統領が参加資格停止となったので、それ以降はG7に戻って今日に至っている。
なお第6回のみ日本からは外務大臣大来佐武郎が出席した。サミット直前に内閣総理大臣大平正芳が急死し、大平の後継総理は第36回衆議院議員総選挙、第12回参議院議員通常選挙の衆参同日選挙が終了するまで決定されなかったためである。
太字は議長。
近年では、G8メンバー以外にも様々な政治のリーダーが会合に参加している。どの国家を招待するかについては、基本的にはそのときの議長国の判断による。
例えば中国共産党総書記(中国国家主席)、大韓民国大統領、オーストラリア首相、インド首相、ブラジル大統領、メキシコ大統領、南アフリカ大統領などが招待されたことがある。しかし議長国の一存次第なので彼らは必ず呼ばれるとは限らない。
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主要国首脳会議
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太字は議長。
近年では、G8メンバー以外にも様々な政治のリーダーが会合に参加している。どの国家を招待するかについては、基本的にはそのときの議長国の判断による。
例えば中国共産党総書記(中国国家主席)、大韓民国大統領、オーストラリア首相、インド首相、ブラジル大統領、メキシコ大統領、南アフリカ大統領などが招待されたことがある。しかし議長国の一存次第なので彼らは必ず呼ばれるとは限らない。
このうち韓国大統領、インド首相、オーストラリア首相についてはサミットのメンバーに加えるべきという意見がある。2020年にはこの年のサミット(中止となった)の議長国だったアメリカ大統領ドナルド・トランプが韓国、オーストラリア、インド、ロシアをメンバーに加える構想を打ち出したが、ドイツ、イギリス、カナダ、日本が反対した。2021年のコーンウォールサミットの議長国のイギリス首相ボリス・ジョンソンも韓国、オーストラリア、インドの首脳を同年のサミットに招待するとともに、この3国をメンバーに加えることを提案したが、日本が反対した。
また国際機関の長として、国際連合事務総長や欧州連合の欧州理事会議長および欧州委員会委員長が出席する。このうち欧州理事会議長と欧州委員会委員長はEUを代表してG8の本会合にも参加する。これ以外に経済分野では国際通貨基金専務理事が参加する。
2010年6月25日の拡大会合が行われた。その参加国は次の通りである。
側近達が集まって予備会合を持つことがあるが、こちらは「シェルパ会議」の別名で呼ばれる。サミットが首脳の地位を山頂にたとえることが発端となったことになぞらえ、同行者の意味で随員はシェルパと呼ばれる。シェルパは3名で構成されることが決まっており、日本においては首席シェルパは経済担当外務審議官が務める。
サミットにおいて恒例となった写真撮影では首脳の立ち位置は毎回変化しているが、この立ち位置にはルールがある。
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主要国首脳会議
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サミットにおいて恒例となった写真撮影では首脳の立ち位置は毎回変化しているが、この立ち位置にはルールがある。
中央に開催国(議長国)の首脳を配し、国家元首(大統領)か否(首相)かと在任期間の長い順に議長に近い順に左右に並ぶ(平成年間の日本は首相の交代が多かったため端に位置することが多い。一方で、比較的在任期間の長かった中曽根康弘や小泉純一郎、安倍晋三は中央付近に並ぶこともある)。また、アメリカ合衆国で開催される場合ではこのルールはあまりこだわることはなく、議長であるアメリカ大統領との関係で立ち位置が決まることもあった。
主要国首脳会議がサミットと呼ばれていることから、トップ同士の集まりのことを「サミット」と形容することがある(例:市町村サミット。首長会は普段は全国市長会と全国町村会に分かれている)。
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仮面ライダーV3
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『仮面ライダーV3』(かめんライダーブイスリー)は、1973年2月17日から1974年2月9日まで、NET系列で毎週土曜19時30分から20時(JST)に全52話が放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ作品。
「仮面ライダーシリーズ」の第2作で、前作『仮面ライダー』の直接的な続編。テレビシリーズのほか、劇場版が「東映まんがまつり」の中で公開された。仮面ライダー1号・2号の後を継ぐライダー3号・V3と、ショッカーやゲルショッカーに続く第3の組織・デストロンの戦いを描く。前作の勢いを受け継ぎ、頂点を迎えていた変身ヒーローブームの大きな牽引役を果たした作品であり、主人公の強いキャラクター性とも相まって歴代シリーズ中でも知名度が高い。視聴率も平均で関東20.2パーセント、関西27パーセントを記録したほか、制作局である関西圏の毎日放送ではシリーズ最高視聴率である38パーセントを記録し、その記録はいまだにシリーズでは破られていない。
仮面ライダー1号・2号の活躍によって悪の組織ゲルショッカーは壊滅し、世界に平和が戻ったかに見えた。しかし、生きていたゲルショッカー首領は密かに新組織・デストロンを結成して再び世界征服に乗り出すと、目撃者を容赦なく抹殺していた。
1号こと本郷猛の大学の後輩風見志郎はある夜、デストロンの悪事を目撃したため、命を狙われるようになる。また、そのアジトを見つけた珠純子を助けたため、怪人・ハサミジャガーが風見家を襲撃し、両親と妹は志郎の目の前で殺害される。怒りに燃えて復讐を誓った志郎はそのための力を得ようと1号・2号に自分の改造を願うが、改造人間の悲哀を誰よりも知る彼らに拒否される。しかしその後、志郎はデストロンの罠に落ちた1号・2号を助けようとして瀕死の重傷を負う。1号・2号は彼の命を救うために改造手術を施し、第3の仮面ライダー「V3」として復活させる。こうして、V3とデストロンとの死闘の幕が切って落とされた。
仮面ライダーとその協力者たち。個別に項目の存在するキャラクターの詳細は各項目を参照。
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仮面ライダーV3
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仮面ライダーとその協力者たち。個別に項目の存在するキャラクターの詳細は各項目を参照。
ゲルショッカー壊滅後にショッカー・ゲルショッカーを支配していた首領が新たに結成させた秘密結社。ショッカー、ゲルショッカー以上の戦力と科学力で世界征服を企む。怪人は機械と動植物を融合させた機械合成怪人となり、幾度となくV3を苦しめた。後半はキバ一族・ツバサ軍団・ヨロイ軍団といった世界各地の部族と手を結び、V3と死闘を繰り広げた。各部族が操る怪人たちはショッカー怪人同様に動植物の怪人たちで構成されており、機械合成怪人とともにショッカーやゲルショッカーの怪人はもちろん、(第1話・第2話・第33話・第34話の客演状況から)仮面ライダー1号・2号でさえも苦戦させる能力を持つ。組織のマークはサソリをモチーフにしている。
最終決戦でプルトンロケットによる日本壊滅をたくらむもライダーマンの捨て身の行動で阻止され、さらに最終作戦であるD作戦もV3に阻止される。そして、デストロン本部を急襲したV3により首領は倒されて本部が大爆発を起こし、デストロンは壊滅した。
機械合成怪人とは、ゲルショッカーの合成怪人をさらに発展・改良させた怪人である。生物と道具・武器を掛け合わせた能力を持ち、そのパワーは生物同士を掛け合わせた能力を持つゲルショッカー怪人を大幅に上回っている。体の中に機械があるため、動きが鈍いのが弱点。第13話以降は幹部であるドクトルGの指揮のもと、活動する。
「キバ族」とも。キバ男爵が率いる怪人軍団。全員がキバを持っているのが特徴で機械合成怪人を凌ぐパワーを持ち、V3や1号・2号を苦しめた。ドーブー教を行動原理としており、祈祷や魔術によって怪人たちに力を与える。
「ツバサ族」「ツバサ軍団」とも。ツバサ大僧正が率いる怪人軍団。ほぼ全員が飛行能力を持っているのが特徴であり、空中戦に慣れていないV3を大いに苦しめた。チベットに伝わる密教「まんじ教」が行動原理。
ヨロイ元帥が率いる怪人軍団。「ヨロイ族」や「ヨロイ軍団」とも称される。強固な防御力とパワーを併せ持った怪人が多いのが特徴であり、その多くが鎧のように硬い皮膚を持っている。これまでのデストロン怪人を上回る戦闘力を持ち、V3やライダーマンを苦しめた。
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仮面ライダーV3
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ヨロイ元帥が率いる怪人軍団。「ヨロイ族」や「ヨロイ軍団」とも称される。強固な防御力とパワーを併せ持った怪人が多いのが特徴であり、その多くが鎧のように硬い皮膚を持っている。これまでのデストロン怪人を上回る戦闘力を持ち、V3やライダーマンを苦しめた。
デストロンの主戦力である一般兵士。白いサソリ模様の黒い全身タイツ服と、ドクロをイメージした白い模様の黒いマスクを着用する。他人への変身能力もある。
3.0の視力、100メートルを9.8秒の走力、6倍のジャンプ力など常人の5倍の体力を持ち、ゲルショッカー戦闘員以上の戦力を誇る。
ショッカー時代と同様、デストロンバックルには自爆機能が内蔵されている。キバ男爵配下の戦闘員は上腕部に2本のキバが交差したマークが入っており、トーテムポールへの変身も可能。ツバサ大僧正配下の戦闘員はこの装束の袖に長いフリンジを装着しており、空を飛べる。
マスクの白い縁取りの目の部分が尖っていないタイプの戦闘員もいる。左肩の部分のデザインが通常と異なる戦闘員も存在する。腰にはカッターナイフなどや毒矢、銃などの飛び武器を装着している場合がある。
用済みとなった戦闘員は処刑されたり、怪人などの実験台にされたりする。年齢を問わず能力の高い者はごく普通の男性が改造され、デストロンに拉致された男性が戦闘員に改造・脳改造されるなどして洗脳されている。改造の際には改造液を体内に注射して戦闘員化させるほか、洗脳して戦闘員化させることでデストロンに服従させる。『仮面ライダーV3カード』では、悪の細胞を培養して作り上げた人造人間と記述している。
※参考文献:『仮面ライダー大図鑑(3)』(バンダイ・1991年)、『仮面ライダーV3大全』(双葉社・2001年)
V3役は中屋敷鉄也が主に担当したが、第1話・第2話のみ前作から引き続き1号を演じた。
ライダーマン役はアクション以外の多くを変身前と同じく山口が演じ、アクションでは数名が担当した。
トランポリンは前作ではJACが担当したが、本作品以降は大野剣友会がトランポリンも担当することとなった。
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仮面ライダーV3
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※参考文献:『仮面ライダー大図鑑(3)』(バンダイ・1991年)、『仮面ライダーV3大全』(双葉社・2001年)
V3役は中屋敷鉄也が主に担当したが、第1話・第2話のみ前作から引き続き1号を演じた。
ライダーマン役はアクション以外の多くを変身前と同じく山口が演じ、アクションでは数名が担当した。
トランポリンは前作ではJACが担当したが、本作品以降は大野剣友会がトランポリンも担当することとなった。
『V3』制作当時の生田スタジオは多数の作品を手がけるようになり、監督陣は流動的であった。メイン監督の山田稔は第31話・第32話と第41話・第42話も担当する予定であったが、実際には第27話・第28話を最後に『イナズマン』へと移動した。奥中惇夫は第3話・第4話を担当したのみで『ロボット刑事』へ、前半のローテーションを担った田口勝彦は『どっこい大作』へとそれぞれ移動している。後半は『ロボット刑事』を終えた内田一作と折田至がメインを務めた。
第9話・第10話の脚本は、映画『不良番長』シリーズの監督である内藤誠とその助監督である佐伯俊道が共同執筆した。内藤は息子が仮面ライダーのファンであったことや、テレビドラマ『ゴールドアイ』で宮内洋がゲスト出演した回の監督を務めていたことなどから、プロデューサーの平山亨や阿部征司に執筆を申し出た。
第49話の脚本は助監督の長石多可男が担当した。このストーリーは、長石が他の助監督らと生田スタジオに泊まりこんだ際に酒の席で挙がった話が基になっている。
オープニングとエンディング同様、作・編曲はすべて菊池俊輔。「デストロン讃歌」、「V3のマーチ」、「V3アクション」、「仮面ライダー讃歌」の冒頭には効果音とセリフが入っている。ライダーマンのテーマ「ぼくのライダーマン」は本作品の劇中でも使用されたが、『仮面ライダーV3』のLPレコード(KKS-4076)はすでに発売されていたため、次作『仮面ライダーX』のLPに収録された。
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