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Intel 80386
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80386用に改良されたOSとして以下が登場した。
80386搭載PCは「高額」とは言っても、当時隆盛していたRISCワークステーション等よりは大幅に安価であったため、より大規模なシステムで利用されていたUNIXなどの32ビットOS環境をこれら安価なパーソナルコンピュータに移植する試みが、80386の登場によって始められた。1988年には当時既にSPARCプロセッサを搭載するSUN-4を製造販売していたサン・マイクロシステムズがSUN386iと称する、SUN OS 4.0の386対応版を搭載するワークステーションを発表し、低価格であるだけでなく、当時のSPARC搭載機では困難であった、MS-DOS環境とSUN OS環境の共存を制限付きながら可能とするなど、当時のRISCプロセッサ搭載機にはない新しい機能についての提案を行った。その後、386BSD(後のFreeBSDおよびNetBSD)やLinuxなど、今日の代表的なPC-UNIX系環境の移植やビルドが始められたが、その理由や動機は、80386の登場によってパーソナルコンピュータがこれらの近代的な32ビットオペレーティングシステム環境を実現するだけの機能や性能を持ちえるに至ったからに他ならない。2000年代末にはWindowsがOS市場の殆どを占めたことに加え、PC-UNIXが伝統的なUNIXと同等の機能と信頼性を備えたことで、80386から始まったIA-32を利用した方が圧倒的にコストパフォーマンスが高くなったため、ハイエンド用途やレガシーソフトウェアの利用を除いてIA-32がSPARCを駆逐するにまで至っている。
80386で実装された32ビット命令(のちのIA-32命令)は、登場から30年以上が経過したが、上位互換を保ったCPUがインテルから提供され続けている他、AMD、VIAが発売しているx86系のさまざまな互換CPUにおいても継承され続けており、多くのパーソナルコンピュータと多くのサーバで採用され続けている。80386の命令アーキテクチャは、ARMアーキテクチャと並び、これまでに最も普及した命令アーキテクチャと言える。80386以降のIA-32プロセッサでは基本命令の追加はあまりなく、MMX、SSE、SSE2、SSE3などのSIMD命令の追加が主であった。
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小林賢太郎
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小林 賢太郎(こばやし けんたろう、1973年4月17日 - )は、日本の劇作家、演出家、元コメディアン、元パフォーマー。スタジオコンテナ所属。
静岡県生まれ 神奈川県横浜市旭区出身。多摩美術大学版画科卒業。
1996年に大学の同級生、片桐仁とコントグループ「ラーメンズ」を結成。脚本・演出・出演のすべてを手がける。演劇プロジェクト「小林賢太郎プロデュース公演(K.K.P)」、パントマイム・マジック・イラスト・映像などを駆使して構成されるソロパフォーマンス「POTSUNEN」、コント集団「カジャラ」など、劇場を中心に活動を重ねる。また2009年から2019年まで、年に一度『小林賢太郎テレビ』(NHK BSプレミアム)にてコントを披露していた。ほか、小島淳二との映像製作ユニット「NAMIKIBASHI」、升野英知(バカリズム)との大喜利ユニット「大喜利猿」、田中知之 (Fantastic Plastic Machine) との音楽ユニット「SymmetryS」としての活動も行っていた。
2020年に芸能界からの引退を表明し、ラーメンズとしての活動は事実上終了した。現在は劇作家および演出家として活動している。
1996年、片桐仁とともにラーメンズを結成。
1999年から2004年まで『ヤングマガジンアッパーズ』(講談社)に『鼻兎』を連載していた。
2002年、自ら脚本・演出を手掛ける演劇プロジェクト「小林賢太郎プロデュース公演 (KKP)」 を立ち上げた。
2005年、ソロコントプロジェクト「POTSUNEN」を立ち上げた。2012年には、初の海外公演(パリ・モナコ)を果たす。
2007年度、舞台演劇情報誌の「演劇ぶっく」にて、演劇ランキングと俳優ランキング第1位を獲得。2010年、2012年度には俳優ランキング第1位を獲得した。
2009年から2019年まで『小林賢太郎テレビ』(NHK BSプレミアム)が、年に1度放送された。
2013年、『ボクらの時代』(フジテレビ)に出演。長年の友人であるバカリズムの熱烈なオファーにより、約10年ぶりの民放テレビ出演を果たした。バカリズム、いとうせいこうと共に鼎談を行った。
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小林賢太郎
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2009年から2019年まで『小林賢太郎テレビ』(NHK BSプレミアム)が、年に1度放送された。
2013年、『ボクらの時代』(フジテレビ)に出演。長年の友人であるバカリズムの熱烈なオファーにより、約10年ぶりの民放テレビ出演を果たした。バカリズム、いとうせいこうと共に鼎談を行った。
2014年9月、『孤独のグルメ Season4』(テレビ東京)の最終話にて初めてテレビドラマに役付で出演した。同年に放送された『小林賢太郎テレビ6』に松重豊が出演したことがきっかけとなった。
2016年、新作コント公演「カジャラ」を立ち上げた。
2017年10月17日、自身の著作物の管理やライブ運営及びマネジメントを行う事務所「スタジオコンテナ」を設立・移籍。それに伴いトゥインクル・コーポレーションの所属タレントページからラーメンズが削除され、現在は片桐仁のみが掲載されている。また、ラーメンズ、POTSUNEN、演劇プロジェクトなどそれぞれの公式サイトも小林の個人サイトに一元化される。
2020年11月16日をもって芸能界の全ての表舞台から引退した、と同年12月1日にトゥインクル・コーポレーションから発表された。同社によれば、芸能界引退後も執筆活動など裏方としての活動は継続されるとのことである。小林はこの引退を「肩書きから『パフォーマー』を外した」と表現し、理由の一つとして足を悪くしてしまったことを挙げている。
2021年1月5日、noteにて有料の定期購読マガジン「小林賢太郎のノート」を連載開始。
同年10月29日公開予定のドキュメンタリー映画『場所はいつも旅先だった』に、朗読で参加する。
2021年7月14日、五輪組織委員会は、東京オリンピック・パラリンピックの開会式と閉会式の「式典コンセプト」を発表。小林は開会式・閉会式のクリエイター役職一覧で1番手に名を連ね、肩書は事実上トップの「ショーディレクター」とされた。
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小林賢太郎
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同年10月29日公開予定のドキュメンタリー映画『場所はいつも旅先だった』に、朗読で参加する。
2021年7月14日、五輪組織委員会は、東京オリンピック・パラリンピックの開会式と閉会式の「式典コンセプト」を発表。小林は開会式・閉会式のクリエイター役職一覧で1番手に名を連ね、肩書は事実上トップの「ショーディレクター」とされた。
ところが7月21日夜、コアマガジンが発刊する『実話BUNKAタブー』が自身の公式Twitterアカウント上でラーメンズ時代のコントを一部切り抜き紹介。コントの中で使用している発言を問題視した。さらに元ハフポスト編集長、高橋浩祐がYahooニュースに寄稿したことにより、ツイートは広く拡散され、インターネット上で騒動となった。問題とされたのは、1998年5月発売のビデオソフト『ネタde笑辞典ライブ Vol.4』に収録されたコント。NHKの教育番組『できるかな』をパロディにし、「ノッポさん」に扮した小林と「ゴン太くん」に扮した片桐は、あり得ない題目を採用しようとして却下されるという例えで「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」というフレーズを使用していた。このため、小林の人選は、差別反対を掲げるオリンピック憲章に抵触する可能性があると指摘された。同日(日本時間22日)、ホロコーストの記録保存や反ユダヤ主義の監視を行う非政府組織「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が声明を発表。22日午前2時、中山泰秀副防衛大臣は自身のTwitterを更新。Twitterの一般利用者から騒動の報告を受け、自ら同団体に連絡を取ったと述べた。
組織委員会は21日深夜から22日朝にかけて対応を協議。開会式前日にあたる22日の午前、小林を解任した。同日、小林は組織委員会を通して謝罪コメントを発表している。
2020年作品までは兼出演(「二人舞台」「カラフル忍者いろまき」を除く)
脚本、演出、美術、出演:小林賢太郎
※コンビでの出演作はラーメンズの項を参照のこと。
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司馬遼太郎
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司馬 遼󠄁太郎(しば りょうたろう、1923年〈大正12年〉8月7日 - 1996年〈平成8年〉2月12日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。位階は従三位。本名は福田 定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷に遼󠄁(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」からきている。
大阪府大阪市出身。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。『街道をゆく』をはじめとする多数の随筆・紀行文などでも活発な文明批評を行った。
1923年(大正12年)8月7日、大阪府大阪市南区難波西神田町(現在の浪速区塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。
1930年(昭和5年)、大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草立葉小学校)に入学。性格は明るかったが、学校嫌いで、悪童でもあったようである。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めていた。また、当時の少年たちには特別ではなかったのであるが、大陸の馬賊に憧れていた。後に戦車隊の小隊長となることでこの夢は結実した。
1936年(昭和11年)、私立上宮中学校に進学。入学後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける。3年生から松坂屋の横の御蔵跡町の図書館に通うようになり、大阪外国語学校卒業まで本を乱読するようになる。古今東西のあらゆる分野の書物を読破し、しまいには釣りや将棋などの本まで読んだという。阿倍野のデパートでは吉川英治の宮本武蔵全集を立ち読みで読破した。いつも立ち読みばかりするので頭にきた売り場の主任が「うちは図書館やあらへん!」と文句を言うと、「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから...」と言ったそうである。また、半ば趣味として山登りを好み、大阪周辺の名山は大抵踏破している。高等学校への受験に際して、家計の都合で私立学校への進学は許されず、官立のみと父親から釘を刺されていた。
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司馬遼太郎
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1939年(昭和14年)、中学生だった司馬にも日中戦争や第二次世界大戦が影を落としており、上宮中学の配属将校から学校教練を受けている。ある日の教練の、配属将校による当時の日本軍の主力小銃三八式歩兵銃の説明で、「よその国の小銃は機関銃のように連発式になっているが、日本軍の三八式歩兵銃はボルトアクション式のライフルであり、一発ずつしか撃てない、しかし、よその国はバラバラと撃てるが、これでは心が入らない。わが国のほうが心に念じ、一発必中になって狙えるからいい」との説明があったと著作に記述し、これが司馬少年の心に強く印象付けられたとされている。しかし、1939年に「機関銃のように連発式」の自動小銃が正式採用されていたのはアメリカ軍のM1ガーランドだけで、これも1939年の初めにはまだ7,715丁しか生産されておらず、数の面では製造開始年は三八式歩兵銃と変わらないボルトアクションライフルのスプリングフィールドM1903小銃が主力小銃であり、1941年12月の真珠湾攻撃による日本とアメリカの開戦時には、508,000丁(日産2,000丁)の大量発注も行われていた。また、ドイツ国防軍のKar98k、イギリス軍のリー・エンフィールド、ソ連労農赤軍のモシン・ナガン M1891/30など、当時の列強国の主力小銃は三八式歩兵銃と同じボルトアクションライフルで、これらの小銃は第二次世界大戦が終わるまで各国歩兵の主力装備として運用されており、日本軍の小銃だけが時代遅れのボルトアクションだったというのは事実誤認である。
司馬少年は学校が嫌いで、図書館と本屋さえあれば人間はそれでいいと考えていたが、仕方なく通学し学校で社会訓練を受けているうちに、中国人と朝鮮人に好感を抱くようになった。好きになった理由は、「彼らは非常に人間というものを感じさせた」からであったとしている。やがて、司馬にとっての恩人である中国と戦争をしている日本が嫌いであるという感情が芽生えることになった。しかし、それは実際は日本も大好きという感情の裏返しであるアンビバレンスな状態であったと自己分析している。
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司馬遼太郎
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1940年(昭和15年)に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格。1942年(昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校(現在の大阪大学外国語学部モンゴル語専攻)に入学。入学時に校内食堂で上級生が新入生に催す歓迎会では、上級生が木刀、竹刀を振り回し下駄を踏み鳴らして『こらーっ!』と怒鳴りながら入り、訓辞や軍歌指導を行なった。その際に司馬は見事なガマの油売りを一席やったが、これは彼の性格の明るさを表す一端である。当時の学生の大半がそうであったように語学が嫌いで、早稲田大学の中国文学に鞍替えしようかと考えたこともあった。しかし読書は依然として好み、ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。2年上に庄野潤三(英語学科)、1年上に陳舜臣(印度語学科)、同期に赤尾兜子(中国語学科)らの「創作グループ」がいたが、その輪には加われなかった。当時の司馬は、色白でふっくらした童顔であったが、旧制高校に憧れて下駄履きで登下校したという。教室へは「オース、オース」と声をかけながら入り、生徒間で人気があり人が集まる中心にいた。授業でもよく発言をした。食事はよく食べ朝飯を5杯おかわりするのが常であった。「中庸の徳」が座右の銘であったという。
1943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現:小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。軍隊内ではかなり珍しい「俳句の会」を興し、集合の合図には一番遅れて来た。翌44年4月に、満州四平の四平陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。戦車学校では文系であったために機械に弱く、ある時に戦車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれー」と悲鳴が聞こえたので駆けつけると、コードが戦車に触れて電流が流れていた。手斧でコードを断ち切り、事なきを得たという。司馬は、軍隊生活になかなか馴染めず、訓練の動作にも遅れが目立ち、同期生のなかでも戦車の操縦はとびきり下手であったが、「俺は将来、戦車1個小隊をもらって蒙古の馬賊の大将になるつもりだ」などと冗談を言うなど、笑みを絶やさない明るい性格で同期生たちの癒しになっていた。
部隊で一緒だったのが石濱恒夫であり、石濱と司馬はこの時以来、司馬が亡くなるまで親交が深かった。
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司馬遼太郎
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部隊で一緒だったのが石濱恒夫であり、石濱と司馬はこの時以来、司馬が亡くなるまで親交が深かった。
戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転属したが、成績の悪かった者はそのまま中国に配属になり、これが生死を分けた。卒業後、満州国牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。翌1945年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。
敗戦にショックを受けた司馬は「なんとくだらない戦争をしてきたのか」「なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろう」との数日考えこみ、「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」という思いが、後の司馬の日本史に対する関心の原点となり、趣味として始めた小説執筆を、綿密な調査をして執筆するようになったのは「昔というのは、鎌倉のことやら、室町、戦国のころのことである。やがて、ごく新しい江戸期や明治時代のことも考えた。いくら考えても昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようには思えなかった」と考えた終戦時の司馬自身に対する「いわば、23歳の自分への手紙を書き送るようにして小説を書いた」からであると述懐している。復員後は直ちに図書館通いを再開する。
戦地からの復員後、生野区猪飼野東五丁目8にあった在日朝鮮人経営の新世界新聞社に大竹照彦とともに入社。1946年(昭和21年)、ふたたび大竹とともに新日本新聞京都本社に入社。同僚に青木幸次郎がいた。このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産、産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。入社して1か月も経たない1948年(昭和23年)6月28日午後、福井地震が発生し、その日のうちに福井の取材に行く。同年11月、歌人川田順の失踪事件を取材。
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司馬遼太郎
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翌年大阪本社に異動。1950年(昭和25年)の初夏に京都の岩屋不動志明院に宿泊し奇っ怪な体験をする。同年に金閣寺放火事件の記事を書いた(真っ先に取材に訪れた記者の一人とされる)。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫、貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。このことは後年の自筆の回想記(多く『司馬遼󠄁太郎が考えたこと』に所収)に記されている。その後文化部長、出版局次長を務めた。文化部時代の同僚に廓正子がいる。
同年に大阪大学医局の薬剤師と見合いにより最初の結婚。1952年(昭和27年)に長男が誕生するが、1954年(昭和29年)に離婚。長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。この結婚及び、誕生した息子のことは、当時は一切公表されなかったが、司馬の死後の新聞報道により明らかになっている。
1955年(昭和30年)、『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を発表。この作品は本名で発表したが、このほかにも「饅頭伝来記」など数作本名で発表した作品があるといわれる。さらに、当時親しくなっていた成田有恒(寺内大吉)に勧められて小説を書くようになる。1956年(昭和31年)5月、「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞に応募(「司馬遼󠄁太郎」の名で投稿)、海音寺潮五郎の絶賛を受け同賞を受賞し、出世作となる。また、寺内とともに雑誌『近代説話』を創刊した。『近代説話』『面白倶楽部』『小説倶楽部』に作品を発表し続け、1958年(昭和33年)7月、「司馬遼󠄁太郎」としての初めての著書『白い歓喜天』が出版される。当時は山田風太郎と並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。さらに「梟のいる都城」(のち『梟の城』に改題)の連載を開始。
1959年(昭和34年)1月、同じ産経新聞記者の松見みどりと再婚。12月に大阪市西区西長堀のアパートに転居。同じアパートに南海ホークス時代の野村克也がいた。『大坂侍』『梟の城』を発表。1960年(昭和35年)、『梟の城』で第42回直木賞を受賞、翌年に産経新聞社を退職して、作家生活に入る。
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司馬遼太郎
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1959年(昭和34年)1月、同じ産経新聞記者の松見みどりと再婚。12月に大阪市西区西長堀のアパートに転居。同じアパートに南海ホークス時代の野村克也がいた。『大坂侍』『梟の城』を発表。1960年(昭和35年)、『梟の城』で第42回直木賞を受賞、翌年に産経新聞社を退職して、作家生活に入る。
初期は直木賞を受賞した『梟の城』や『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、時代・伝奇小説が多い。忍者を主人公にした作品が多く「忍豪作家」(五味康祐ら「剣豪作家」にちなむ呼び名)とも呼ばれた。また、初期数編が西アジアを主要舞台としている点も(当時としてはなおのこと)異色でありながら、後年の創作へは(エッセイ等では同地への強い関心を維持しつつも)引き継がれなかった。推理小説も書き、『豚と薔薇』『古寺炎上』があるがあまり得意ではなくこの2作にとどまっている。
だが、1962年(昭和37年)より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』、1963年(昭和38年)より『国盗り物語』を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を本格化させた。この辺りの作品より、作者自ら、作中で随筆風に折込解説する手法が完成している。1964年(昭和39年)には、終のすみかとなる布施市下小阪(現在の東大阪市)に転居した。近所には付近の大地主であり上宮中学からの同級生の山澤茂雄がおり終生交流が続いたの(「近所の記」)ちに「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と記している。1966年(昭和41年)、菊池寛賞を受ける。その後も『国盗り物語』に続き、『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を上梓した。
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司馬遼太郎
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1971年(昭和46年)から、紀行随筆『街道をゆく』を週刊朝日で連載開始した。1972年(昭和47年)には明治の群像を描いた『坂の上の雲』の産経新聞での連載が終了。また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』(日本芸術院恩賜賞)に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。1970年代中期から80年代にかけ、明治初期の『翔ぶが如く』や、『胡蝶の夢』、江戸後期の『菜の花の沖』、戦国期の『箱根の坂』などを著し、清朝興隆の時代を題材にした『韃靼疾風録』を最後に小説執筆を止める。「街道をゆく」や、月一回連載のエッセイ『風塵抄』、『この国のかたち』に絞り、日本とは、日本人とは何かを問うた文明批評を行った。
1981年(昭和56年)に日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者となり、1993年(平成5年)に文化勲章を受章した。このころから腰に痛みを覚えるようになる。坐骨神経痛と思われていたが、実際は直接の死因となる腹部大動脈瘤であった。それでも「街道を行く 台湾紀行」取材の折に、当時台北で台湾総統だった李登輝との会談「場所の悲哀」を行ったり、「街道を行く」取材で青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続ける。また、晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった。
1996年(平成8年)1月、「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え、連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、大阪市中央区の国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院、2日後の2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去した、72歳。同日は「菜の花忌」と呼ばれている。死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆「濃尾参州記」は未完となった。親族・関係者による密葬を経て、3月10日に大阪市内のホテルで「司馬遼󠄁太郎さんを送る会」が行われ、約3,000人が参列した。法名は、「遼󠄁望院釋淨定」。政府から従三位を追賜された。
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司馬遼太郎
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翌年に司馬遼󠄁太郎記念財団が発足し、司馬遼󠄁太郎賞が創設された。2001年(平成13年)に、東大阪市の自宅隣に司馬遼󠄁太郎記念館が開館。司馬遼󠄁太郎記念室がある姫路文学館では毎年8月7日の生誕日に、ゆかりのゲストを迎えて「司馬遼󠄁太郎メモリアル・デー」を開催している。また、NHK大河ドラマ原作となった作品数は最も多く、「21世紀スペシャル大河ドラマ」(後にNHKスペシャルドラマと変更)と称する『坂の上の雲』を含めると7作品である。
歴史小説家としてはW・スコット以来の人物中心主義の流れを汲んでおり、筆名からも直接には司馬遷『史記』列伝の形式を範にした作家でもある。
特徴としては、基本的に登場人物や主人公に対して好意的であり、作者が好意を持つ人物を中心に描く。それによって作者が主人公に対して持つ共感を読者と主人公の関係にまで延長し、ストーリーの中に読者を巻きこんでゆく手法をとることが多い。また歴史の大局的な叙述とともにゴシップを多用して登場人物を素描し、やや突き放した客観的な描写によって乾いたユーモアや余裕のある人間肯定の態度を見せる手法は、それまでの日本の歴史小説の伝統から見れば異質なものであり、その作品が与えた影響は大きい。「余談だが......」の言葉に代表されるように、物語とは直接関係ないエピソードや司馬自身の経験談(登場人物の子孫とのやりとりや訪れた土地の素描)などを適度に物語内にちりばめていく随筆のような手法も司馬小説の特徴の一つであり、そこに魅了されている読者も多い。
評論家の川本三郎からは「一平二太郎」(藤沢周平、司馬遼󠄁太郎、池波正太郎)の一人として、「大人の日本人男子」の嗜みとして読むべき作家と評されている。
そのユニークな文体は、のちに、渡部直己や清水義範のパスティーシュの対象になったり、あるいは酒見賢一『後宮小説』のようにリスペクトした作品が現れたりした。
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司馬遼太郎
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評論家の川本三郎からは「一平二太郎」(藤沢周平、司馬遼󠄁太郎、池波正太郎)の一人として、「大人の日本人男子」の嗜みとして読むべき作家と評されている。
そのユニークな文体は、のちに、渡部直己や清水義範のパスティーシュの対象になったり、あるいは酒見賢一『後宮小説』のようにリスペクトした作品が現れたりした。
作品中の人物の内面描写にはそれほど深入りしないため“浅薄である”とされたり、長編では主題が破綻しているとの批判がある。しかし多くの登場人物を一筆書きにしながら物語を展開してゆく司馬の手法においては、ある程度仕方のないことという反論もなされる。特に内面描写を避けることは、人間を外部から把握し単純化(典型化)して示す18世紀ヨーロッパ小説や漢籍の史書の影響によるところが大きく、「典型としての人間」か「典型からそれようとする内面描写か」という問題は、小説の流儀の問題(18世紀型小説か、19世紀型小説か)であると捉える見方もある。長編の構成力が弱いことも指摘され、前述した「余談だが...」といった言葉で話が脇道にそれることもあるように、たとえば丸谷才一の「全体の五分の三あたりのところから雑になる」「最初の伏線が後半で生かされない」という評がある。ただし、こうした「雑さ」「とりとめのなさ」が磨かれた結果、様々な人物が次々に登場し、ゴシップを振りまいては消えてゆくというグランド・ホテル形式の小説として成功していると評される作品もある(例:『ひとびとの跫音』)。
作家としての後半期は、小説創作から遠ざかり、随想や文明批評などを主としたが、合理的思考を掲げて具体的な考証による歴史評論を進めていった。
司馬が収集した資料については、戦記『レイテ戦記』の著者大岡昇平が、司馬の著作『殉死』への評論を通じ、司馬の歴史小説に対し「時々記述について、典拠を示してほしい、と思うことがある」「面白い資料だけ渡り歩いているのではないか、という危惧にとらえられる」と苦言を呈している。
司馬は新しい視点と斬新な描写で彼自身の歴史観を作って日本社会に広く影響を与えた国民的作家であると言われており、死後においても司馬の影響力は大きい。
司馬の作品はベストセラーかつロングセラーとなり、また多くが映像化された。
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司馬遼太郎
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司馬は新しい視点と斬新な描写で彼自身の歴史観を作って日本社会に広く影響を与えた国民的作家であると言われており、死後においても司馬の影響力は大きい。
司馬の作品はベストセラーかつロングセラーとなり、また多くが映像化された。
昭和の歴史について、著書「この国のかたち」のなかで「明治の夏目漱石が、もし昭和初年から敗戦までの“日本”に出逢うことがあれば、相手の形相のあまりのちがいに人違いするにちがいない」と述べている。
歴史作家司馬は、1968年に小説『坂の上の雲』の連載を開始した頃から、自分の戦時中に学徒動員により予備士官として戦車第1師団戦車第1連隊に配属された経験を顧みて、次の時代小説ではノモンハン事件を取り上げようと考えて取材を開始した。ノモンハン事件を選んだ理由としては、この国境紛争が司馬の人生に大きな影響を与えたからとしている。
司馬は他にも「私どもの部隊の先祖(といってもわずか四、五年前の先祖だが)がこの凄惨な戦闘に参加し、こなごなにやられた」など、たびたび、自分の所属した戦車第1連隊がノモンハン事件に参戦していたと著作やエッセーに記述しており、司馬のもし自分が5年前に戦車第1連隊に配属されていたら無残な戦死を遂げたかも知れないという思いも、ノモンハン事件への強い拘りに繋がったとする指摘もあるが、実際にノモンハン戦に投入されたのは、司馬が配属された戦車第1連隊ではなく戦車第3連隊と戦車第4連隊であった。
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司馬遼太郎
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司馬は、防衛庁戦史室を訪ね協力を取り付けて、段ボール1箱分のノモンハン事件に関する防衛庁戦史室秘蔵資料の提供を受けるなど 、50歳代の10年に渡ってノモンハン事件のことを取材、調査しているが、その取材の過程で、「もつともノモンハンの戦闘は、ソ連の戦車集団と、分隊教練だけがやたらとうまい日本の旧式歩兵との鉄と肉の戦いで、日本戦車は一台も参加せず、ハルハ河をはさむ荒野は、むざんにも日本歩兵の殺戮場のような光景を呈していた。事件のおわりごろになってやっと海を渡って輸送されてきた八九式中戦車団が、雲霞のようなソ連のBT戦車団に戦いを挑んだのである」「(日本軍の戦車砲は)撃てども撃てども小柄なBT戦車の鋼板にカスリ傷もあたえることができなかった、逆に日本の八九式中戦車はBT戦車の小さくて素早い砲弾のために一発で仕止められた。またたくまに戦場に八九式の鉄の死骸がるいるいと横たわった。戦闘というより一方的虐殺であった」「ソ連軍は日本軍の前に縦深陣地を作って現れた。(日本軍は縦深陣地を理解しておらず)全兵力に近いものを第一線に配置して、絹糸一本の薄い陣容で突撃した。日本軍はあたかも蟻地獄に落ちていく昆虫のような状態に置かれた」などと考え、「その結果、日本はノモンハンで大敗北し、さらにその教訓を活かすことなく、2年後に太平洋戦争を始めるほど愚かな国であり、調べていけばいくほど空しくなってきたから、ノモンハンについての小説は書けなくなった」などと、知人の作家半藤一利に後日語り、「日本人であることが嫌になった」とノモンハン事件の作品化を断念した経緯がある。
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司馬遼太郎
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しかし、日本軍の八九式中戦車は第2次ノモンハン事件の中盤には既に日本内地に帰還しており、事件のおわりごろになってやっと戦場に到着したとする司馬の認識は事実誤認であり、また、1939年7月3日のハルハ川東岸での戦いで、日本軍の戦車第3連隊とソ連軍第11戦車旅団がノモンハン事件最大の戦車戦を行ったが、ソ連側の記録で確認できる、同日正午に開始された戦車戦では、八九式中戦車がソ連軍のBT-5を3輛撃破したのに対して、八九式中戦車の損失は2輌(ソ連軍は4輌撃破を主張)であり、互角以上の戦いとなっている。その後に戦車第3連隊はソ連軍の速射砲や戦車が配置された陣地を強攻し、ソ連軍戦車32輌と装甲車35輌を撃破したと報告している(ソ連側の記録は不明)。そもそも、ノモンハン事件においては、日本軍の戦車と装甲車の損失は35輌(うち八九式中戦車は16輌)であったのに対し、ソ連軍の損失は397輌(うちBT-5とBT-7は216輌)とはるかに大きく、八九式中戦車がソ連軍戦車に一方的に撃破されたというのも司馬の事実誤認である。
また、ノモンハン事件の戦闘で、敵軍陣地を強攻して大損害を被ったのは、日本軍よりむしろソ連軍であり、ソ連軍大攻勢時にフイ高地やノロ高地などに日本軍が構築した陣地を強攻して大損害を被っている。井置栄一中佐率いる第23師団捜索隊が守ったフイ高地について、井置は速射砲陣地に予備陣地を4~5個程構築し、砲撃のたびに陣地変更して敵の攻撃をかわす巧妙なつくりするなど、逆に縦深陣地を作り上げて強攻してきたソ連軍に大損害を与えている。司馬の認識とは異なり、ソ連軍がノモンハンで多用したのは、縦深防御ではなく縦深攻撃であり、8月の大攻勢時に威力を発揮し、第二次世界大戦でさらに進化し1944年6月に開始されたバグラチオン作戦がその集大成となったとされている。
司馬はソ連軍がほぼ損害を受けていなかったと思い込んでいたように示唆されているが、日本軍歩兵が一方的に殺戮されたという説は、司馬がノモンハン事件の取材を進めていた1960年~1970年代には明らかでなかったソ連軍の情報が公開されるに従い否定されている。
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司馬遼太郎
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司馬はソ連軍がほぼ損害を受けていなかったと思い込んでいたように示唆されているが、日本軍歩兵が一方的に殺戮されたという説は、司馬がノモンハン事件の取材を進めていた1960年~1970年代には明らかでなかったソ連軍の情報が公開されるに従い否定されている。
司馬は戦後に長野県上山田温泉で温泉宿を経営していた歩兵第26連隊長須見新一郎元大佐と知り合った。連隊長解任の経緯から軍中央の参謀に不快感を抱いていた須見は、参謀を「悪魔」と罵倒するほどであり、昭和軍部に批判的であった司馬と意気投合している。須見は明確に日本陸軍の作戦用兵に対しては批判的であり、司馬の小説の構想にうってつけの人物であったため、司馬は須見を主人公のモデルとして小説を書こうと決めて、熱心に上山田温泉通いをしていた。1974年の文藝春秋正月号で司馬は参謀本部元参謀で伊藤忠商事の副社長だった瀬島龍三と対談し、それが記事となったが、須見は、エリート参謀であった瀬島に対して「あのインチキめ」と腹立たしく思っており、その瀬島と対談した司馬に対して「あんな不埒な奴にニコニコと対談し、反論せずにすませる作家は信用できん」と激高し、以後の取材は一切受ける気はないとする絶縁状を送り付けたため、司馬はノモンハン事件の小説が書くのが困難となってしまった。のちに司馬はこの時を振り返り「もしぼくがノモンハンを書くとしたら血管が破裂すると思う」と述べた。
モンゴル研究者の佐々木健悦は、司馬の歴史認識は上からの視点で、ノモンハン事件が書けなかったのは司馬の知的怠慢と知的不誠実さだと批判したうえに、モンゴル憲法についての記載も間違っていると指摘した。
歴史学者の秦郁彦は、司馬がノモンハン事件の小説を書けなかった理由として、下記の4点をあげている。
司馬は戦車隊予備士官だった経験により、日本軍の戦車についても強いこだわりを持っており、著書やエッセーで幾度となく取り上げている。自分の戦車隊予備士官時代の話を、同じく司馬原作のテレビドラマ「梟の城」の後番組としてテレビドラマ化を目指していたが、撮影困難として挫折した経緯もある。
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歴史学者の秦郁彦は、司馬がノモンハン事件の小説を書けなかった理由として、下記の4点をあげている。
司馬は戦車隊予備士官だった経験により、日本軍の戦車についても強いこだわりを持っており、著書やエッセーで幾度となく取り上げている。自分の戦車隊予備士官時代の話を、同じく司馬原作のテレビドラマ「梟の城」の後番組としてテレビドラマ化を目指していたが、撮影困難として挫折した経緯もある。
司馬は戦車第1連隊に配属され満州牡丹江で訓練を受けたが、連隊は本土決戦準備のため栃木県佐野市に移動した。そこで司馬は今後の人生の方向性を左右するような強烈な体験をすることになる。ある日、上陸してくる連合軍への邀撃作戦について説明するために大本営から将校が訪れて、戦車第1連隊の士官を集めた。一折り説明を受けたのちに司馬がこの将校に質問をしている。
司馬はこの大本営将校の話を聞いて、民衆を守るのが軍隊ではなく、民衆の命よりも軍のほうが大事なのかとショックを受けて、「こんな愚かな戦争を日本人はどうしてやってしまったのか」との問いが司馬の最大の疑問となっていき、その謎を解くために書かれたのが後の小説群であった。つまり、この戦車第1連隊での体験が小説家司馬遼太郎の原点とも言える。昭和史研究で著名な半藤一利のように、出版業界で歴史畑を長く扱ってきた者が(司馬の担当者であった事もあり)この発言を信じて、帝国陸軍批判の材料とする者もいる。「恐ろしい言葉です。逃げてくる無抵抗な民衆を、作戦の邪魔になるから「ひき殺していけ」と言う。それを軍を指揮する「大本営参謀」が言ったというのです。しかも、司馬さんの質問に答えてたんですから、また聞きとか、伝聞とかではないんです。名前まではさすがに出されていませんでしたが、わたくしには当時の参謀本部作戦課の秀才参謀たちのいくつかの顔が思い浮かんできました。」などと、推測を交えた記述がなされている。
しかし、この司馬の体験談は幾度も司馬の著作や発言に登場するが、登場当初からは内容が変遷している。このエピソードが初めて司馬の著作に登場するのは「中央公論」1964年2月号の「百年の単位」であるが、このときの記述によれば、質問したのは司馬ではなく連隊の「ある将校」になっており、回答したのは「大本営少佐参謀」とより具体的になっている。
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司馬遼太郎
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しかし、この司馬の体験談は幾度も司馬の著作や発言に登場するが、登場当初からは内容が変遷している。このエピソードが初めて司馬の著作に登場するのは「中央公論」1964年2月号の「百年の単位」であるが、このときの記述によれば、質問したのは司馬ではなく連隊の「ある将校」になっており、回答したのは「大本営少佐参謀」とより具体的になっている。
この時の少佐参謀は、同席した司馬や質問した連隊将校を睨みすえることもなく自然に「轢き殺してゆく」と答えたとされているが、司馬自身が小説家としての原体験となったと自認している重大事件について、司馬自身が質問したことを忘れるはずがないという指摘もある。
そして司馬が没する前年の1995年の鶴見俊輔との対談では、それまで大本営の少佐参謀や将校とされていた発言者が、同じ戦車第1連隊の大尉となっている。
また、この問答の存在自体に当事者から疑念が呈されている。軍事史研究家土門周平(本名近藤新治)(元戦車第二十八連隊中隊長)は「あの話は、われわれの間で大問題になったんです。司馬さんといっしょの部隊にいた人たちに当ったけれど、だれもこの話を聞いていない。ひとりぐらい覚えていてもいいはずなのですがね。」「当時、戦車隊が進出するのには、夜間、4なり5キロの時速で行くから、人を轢くなどということはまずできなかったですよ。」と述べている。当時の日本軍は連合軍の戦闘爆撃機による空襲が最大の脅威であるため、大規模な移動は戦闘爆撃機の作戦が制限される夜間に行うとする「夜間機動作戦」が原則であったが、予備士官ながらも戦車小隊長であった司馬は、戦車第1師団司令部から各所属連隊の示達されていた「夜間機動作戦」をついて知らずに「かれら(避難民)を轢き殺さない限り作戦行動はとれない」と思い込んでいたことになる。土門はこの件で一度司馬と対談する機会があったという。企画した雑誌は「朝日ジャーナル」であったが、その席で土門は「なんであんなことを言うのか。あの参謀は私の先輩だし、あなたの周りにいた将校も誰ひとりそんな発言は聞いていない」と問いただすと、司馬はにやりと笑って「近藤(土門)先生は学者ですなぁ」とひとことだけ答えたという。土門はその言葉を司馬の「私は小説家だから」という意味の発言ではないかと考えたが、結局このときの対談はお蔵入りとなり記事となることはなかった。
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司馬遼太郎
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1973年に戦車第1連隊第5中隊の元中隊長西野堯大尉を会長として、満州時代の駐屯地名を冠した「石頭会」という戦友会が発足した。司馬は妻女とともに京都で開催された第一回目の会合に出席して「私は西野さんの言うことならなんでも聞きます。西野さんの大事な体温計割っちゃったからな」と挨拶して一同を笑わせている。その後加入した西野と同期の宗像正吉大尉が、あるときの二次会で思い切って司馬に「轢いてゆけ」発言の真偽をただしてみたところ、司馬からは「宗像さん、新品少尉が大本営参謀とサシで話ができると思いますか」「私は小説家ですよ。歴史研究家ではありません」「小説というものは面白くなければ、読者は離れてしまいます」と語り、作家の「創作」だったことを明かしたという。
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自分が乗った九七式中戦車については、「同時代の最優秀の機械であったようで」「チハ車は草むらの獲物を狙う猟犬のようにしなやかで、車高が低く、その点でも当時の陸軍技術家の能力は高く評価できる」「当時の他の列強の戦車はガソリンを燃料としていたのに対し、日本陸軍の戦車は既に(燃費の良い)ディーゼルエンジンで動いていた」と評価する一方で、その戦闘能力については「この戦車の最大の欠点は戦争ができないことであった。敵の戦車に対する防御力もないに等しかった」と罵倒するなど愛憎入り混じった評価をしているが、九七式中戦車はノモンハン事件、日中戦争、太平洋戦争初期には、開発コンセプトに沿った歩兵支援用主力戦車としての活躍を見せている。ノモンハン事件の教訓もあって、主砲を一式四十七粍戦車砲に換装し対戦車攻撃力が強化された九七式中戦車改は、当時の参戦各列強国の水準に大きく立ち遅れていたが、ルソン島の戦いでは、第2戦車師団に配備された同車が、アメリカ軍の主力戦車M4中戦車やM3軽戦車を撃破するなど一定の戦果を挙げて、アメリカ軍の戦訓広報誌『Intelligence Bulletin』にて「もっとも効果的な日本軍戦車」との評価もうけている。また、中国大陸では対戦車能力に乏しい中国軍相手に活躍し、大戦末期の1944年4月に開始された大陸打通作戦では97式中戦車改が主力の第3戦車師団が、1944年5月のわずか1か月で1,400kmを走破、湯恩伯将軍率いる40万人の中国軍を撃破する原動力になったが、同車を含む師団の参加戦車255輌のうちで戦闘で撃破された戦車はわずか9輌であった。九七式中戦車の活躍を見ていた中国共産党の軍隊東北人民自治軍は、日本の降伏ののち、九七式中戦車改を接収すると、自軍の兵器として使用、功臣号と名付けられた九七式中戦車改は国共内戦で大活躍しながら生存し、現在も中国人民革命軍事博物館に展示されているなどの活躍を見せている。
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司馬遼太郎
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一方で九七式中戦車の前の日本軍主力戦車八九式中戦車に対しては、その戦績への事実誤認も含めたところで、罵倒されていることが多く、司馬が戦車について語った小説新潮連載の「戦車・この憂鬱な乗物」というエッセーで「B・T・ホワイト著湯浅謙三訳の『戦車及び装甲車』という本は世界中のその種の車の絵図と初期の発達史が書かれているが、悲しいことに日本の八九式中戦車については一行ものせていないのである。ノモンハンであれほど悲劇的な最期を遂げながら、その種の国際的歴史からも黙殺された」と司馬は述べているが、司馬のいう『戦車及び装甲車』という本はブレイン・テレンス・ホワイト著『Tanks and Other Armored Fighting Vehicles, 1900 to 1918』の和訳であり、本の題名通り、1918年の第一次世界大戦までの戦車や戦闘車両に関する書籍で、1929年(皇紀2589年)に制式採用された八九式中戦車は対象外であった。また、世界の多数の戦車を所蔵し、戦車の歴史を見ることができるアメリカのアバディーン戦車博物館に八九式中戦車も展示されている。
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戦車第1連隊の元中隊長であり、戦後にAIU保険の役員となった宗像は、秦郁彦からの司馬はなぜ日本軍の戦車の悪口を言い続けたのか?という質問に対して「彼は本当は戦車が大好きだったんだと思います。ほれ、出来の悪い子ほどかわいいという諺があるでしょう」と答えている。司馬自身も戦車に乗っている自分の姿をよく夢に見ているが、その夢の内容を「戦車の内部は、エンジンの煤と、エンジンが作動したために出る微量の鉄粉とそして潤滑油のいりまじった特有の体臭をもっている。その匂いまで夢の中に出てくる。追憶の甘さと懐かしさの入りまじった夢なのだが、しかし悪夢ではないのにたいてい魘されたりしている」と詳細に書き残しており、戦車に対する司馬の愛着を感じることができる。また、戦車兵であったという軍歴も否定的には捉えておらず、戦友会にも「無防備の裸で付き合える」として、積極的に出席していたほか、文藝春秋の編集者として多くの有名作家と面識のあった中井勝との会話で、司馬は作家井上靖が従軍時代の兵科が何であったかを中井に尋ね、中井が「輜重輸卒でしょう」と答えると、司馬は「そうや、よう知っとるねえ」とまんざらでもない表情になったという。司馬は新聞記者の大先輩で文壇では格上で頭があがらなかった井上が、兵科として旧日本軍では軽く見られがちだった輜重兵であったのに対して、戦車兵の自分のほうが上であったという稚気っぷりな自負心を持っていたと、司馬のまんざらでもない表情を見て中井は思ったという。
のちに、戦車第1連隊で司馬と戦友であった宗像らは日本の戦車部隊発祥の地の久留米基地(現在は陸上自衛隊久留米駐屯地)にかつてあり、戦後に進駐軍に破壊された「戦車之碑」再建しようと奔走したが、再建の目途が立ったときに、碑文の起草を司馬に依頼したところ、司馬は二つ返事で承諾し、下記の碑文を送った。
その後20年 戦い日多く 戦域はひろがり ひとびとはこの車輛ともに生死し 昭和20年 その歴史を閉じた 世々の価値観を越えて事実は後世に伝えらるべきものであるために その発祥を記念し この地に生き残れる者が相集い 死せしひとびとの霊を慰めつつ 戦車の碑を建てる
昭和49年5月 旧戦車兵有志980余名
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司馬遼太郎
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その後20年 戦い日多く 戦域はひろがり ひとびとはこの車輛ともに生死し 昭和20年 その歴史を閉じた 世々の価値観を越えて事実は後世に伝えらるべきものであるために その発祥を記念し この地に生き残れる者が相集い 死せしひとびとの霊を慰めつつ 戦車の碑を建てる
昭和49年5月 旧戦車兵有志980余名
こうした司馬の戦車に対する思いを感得していた戦車第1連隊の戦友たちは、宗像が一度問いただした以降は敢えて「大本営参謀の来隊は見た者も聞いた者もいないよ」などと口にすることはなかった。
司馬の作り上げた歴史観は、「司馬史観」と評される。
その特徴としては日清・日露戦争期の日本を理想視し、(自身が参戦した)太平洋戦争期の日本を暗黒視する点である。人物においては、高評価が「庶民的合理主義」者の織田信長、西郷隆盛、坂本龍馬、大久保利通であり、低評価が徳川家康、山県有朋、伊藤博文、乃木希典、三島由紀夫である。この史観は、高度経済成長期に広く支持を集め、ポスト高度成長期になると新自由主義や自由主義史観の流行にのって読まれた。
しかしこのような歴史観は都合が良すぎるという指摘がある。左派からは歴史修正主義の土台になった、右派からは自虐史観の土台になったとして、それぞれ批判されることがある。また乃木希典を愚将として描いていることは、福田恆存や福井雄三により批判されている(詳しくは乃木希典#評価を参照)。
晩年の司馬は土地の公有を主張する、「庶民的」な田中角栄を嫌悪するなど主張が変化しており、日本文学者の助川幸逸郎は、司馬史観は高度経済成長期の思想で、バブル景気とその崩壊後の時代には視点が無かったのではないかと述べている。
より学究的な立場からは、実証性の面からも批判されることがある。歴史家の鈴木眞哉は司馬史観には多くの盲点があるとして具体的な例を挙げて批判をしている。
『竜馬がゆく』『上総の剣客』の剣豪森要蔵は、参考文献『會津戊辰戦史』『七年史』の誤記もあった。白河地区を調査した結果、森親子が白河口の雷神山で戦死、板垣退助が見たなどはありえない。その後、多くの作家の作品に御前試合は語られていない。2022年、森要蔵の行動記録『会津人群像No44』「剣豪森要蔵の真実」池月映(歴史春秋社)が発表された。
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司馬遼太郎
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『竜馬がゆく』『上総の剣客』の剣豪森要蔵は、参考文献『會津戊辰戦史』『七年史』の誤記もあった。白河地区を調査した結果、森親子が白河口の雷神山で戦死、板垣退助が見たなどはありえない。その後、多くの作家の作品に御前試合は語られていない。2022年、森要蔵の行動記録『会津人群像No44』「剣豪森要蔵の真実」池月映(歴史春秋社)が発表された。
読者が多く影響力が強いために、作品に描かれているのがそのまま史実と受け取る読者も少なくないが、作品の多くはあくまでも大衆小説であり、小説とするために史実を意図的に変えているもの(例・「池田屋異聞」において山崎烝の先祖が奥野将監という事実は存在しない。また、常城家の出である大高忠兵衛の先祖が大高忠雄と書かれている)や、根本的に架空のストーリーも含まれている。
代表作『竜馬がゆく』で坂本龍馬による罵倒語として数ヶ所「ちょうりんぼう(馬鹿め)!」との表現を用いた。この記述が1983年9月16日、京都新聞夕刊の広告欄における伏見銘酒会の「銘柄クイズ」に引用されたのを機に問題視され、司馬は部落解放同盟から糾弾を受けた。このとき、司馬だけではなく、京都新聞やKBS京都放送、コピーの下請け制作を依頼した電通京都支局、さらには電通本社までが突き上げを受けている。
司馬に対する糾弾会は、1983年12月12日、京都の部落解放センターで開かれた。司馬は「知らなかった自分が恥ずかしい」と釈明し、「土佐弁では『ちょうりんぼう』は単なる罵倒語になっていると思っていた。被差別者が『長吏』と呼ばれていたことは古くから知っていた。日本語を考え続けているつもりながら、長吏とちょうりんぼうがつながっていることに気付かなかったことは、限りなく恥ずかしい」と述べた。
この事件の後、問題の箇所は「ばかめ!」と改められて刊行が続いている。
※は、後に文庫(他社・新編も含め)で再刊。他に新書判(講談社ロマンブックス)などで再刊がある。
(単行本・文庫本の合計:出典『ダカーポ』2005年9月7日号(第567号)、65頁)
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和月伸宏
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和月 伸宏(わつき のぶひろ、1970年5月26日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。東京都生まれ、新潟県長岡市(旧越路町)育ち。愛称は「ワッキー」など。血液型はA型。
『週刊少年ジャンプ』で『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』、『武装錬金』などを連載。現在は『ジャンプスクエア』で活動。妻は小説家の黒碕薫。
1987年、新潟県立長岡高等学校在学中に「ティーチャー・ポン」で第33回手塚賞佳作を受賞しデビュー(西脇伸宏名義)。同期受賞者に出口竜正がいる。高校卒業後上京し、次原隆二、高橋陽一、小畑健らのアシスタントを務める。
1994年、『週刊少年ジャンプ』に「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」を連載。1996年にテレビアニメ化された。
2001年、『週刊少年ジャンプ』に「GUN BLAZE WEST」を連載。
2003年、『週刊少年ジャンプ』に「武装錬金」を連載。2006年にテレビアニメ化された。
2007年、『ジャンプスクエア』にて「エンバーミング-THE ANOTHER TALE OF FRANKENSTEIN-」を連載。
2017年、『ジャンプスクエア』10月号より「るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-」の続編である「北海道編」の連載を開始。だが2017年11月21日に和月が児童買春・ポルノ禁止法違反(単純所持)容疑で書類送検されたことを受け、連載は12月4日発売号より休載することとなった。2018年2月27日、略式起訴により罰金20万円が言い渡された。2018年、『ジャンプスクエア』7月号より連載が再開。
対戦型格闘ゲーム『サムライスピリッツ』シリーズ (SNK) のファンであり、『るろうに剣心』もその影響を受けている(サムライスピリッツの風間火月の影響を受けた戌亥番神など。特に牙神幻十郎に強い思い入れがあり、維新志士時代の志々雄真実の風貌や斎藤一の牙突のポーズや台詞各所でインスパイアを受けている)。後年、同ゲームシリーズのディレクターと知人であるという縁で、『サムライスピリッツ零』で一部のキャラクターデザインを担当することとなった。またアメリカン・コミックスのファンでもあり、それをモチーフにしたキャラクターデザイン(『X-メン』シリーズのアポカリプスと『るろうに剣心』の鯨波兵庫など。単行本の『登場人物製作秘話』より)も多い。
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和月伸宏
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単行本の余剰ページに、登場人物のデザインやモチーフなどを詳細に記述したおまけをつけることがある。関係者からは少々苦い顔をされつつも、「読者サービスと作品へのより深い理解を兼ねたものである」と語っている。
「エンタテイメントの基本は笑顔とハッピーエンド」という持論を持っている。『るろうに剣心』の後半の展開に関してヒロインの神谷薫を殺すかどうかで悩んだが、「薫が死んだら、心からの笑顔もハッピーエンドもなくなってしまう」という理由で薫を生存させる展開にしたという。
和月の作品にはすべて、自分の名前が入った捺印を押している。この印は『るろうに剣心』の連載が始まった際、当時友人だった妻が中国旅行のときに祝いにと作ってきてくれたもの。和月はこれを「世界で一つしかなく、自分の漫画家人生に欠かせない大事なもの。もしもこれを無くしたら漫画家を辞めろということではないのか?」かと語っている。
一番好きな漫画は『ブラック・ジャック』(手塚治虫)。その他影響を受けた作品として『ドラえもん』・『パーマン』(藤子・F・不二雄)・『タッチ』(あだち充)・『ウイングマン』(桂正和)・『エイリアン通り』・『CIPHER』(成田美名子)・小畑健の一連の作品・『ジョジョの奇妙な冒険』 (荒木飛呂彦)・『幽☆遊☆白書』(冨樫義博)を挙げている。
テレビアニメではアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』にも一時期影響を受けており、『るろうに剣心』の作中で『新世紀エヴァンゲリオン』の登場人物をモチーフにしたキャラクターを登場させている(雪代巴など)。旧劇場版については、「演出等は参考になるが、作った人が作品や登場人物を愛していない」と批判的であった。
アクションゲームが好きで『バーチャロン』や『ライジング ザン』にハマっていたこともある。バーチャロンに関しては『るろうに剣心』(IN THE BLUE SKY)『武装錬金』(FADE TO BLACK)で、ゲーム中に使われているBGMの名前を拝借してサブタイトルに使ったことがある。ただし、ゲーム操作そのものは、CPU相手でも苦戦する等あまり強くないようである。ヘビーユーザー向けに強くなりすぎたゲームにも、ゲーム初心者の立場から苦言を呈したことがある。現在は以前ほどゲームをすることがなくなったと『るろうに剣心』の完全版の付録で語っている。
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和月伸宏
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ロックバンド・アンジーのファンで、ヴォーカルの水戸華之介をデザインモチーフにしたキャラクターを『るろうに剣心』に登場させている(悠久山安慈)。また大槻ケンヂおよびその所属バンド筋肉少女帯のファンでもあり、作中にも影響が多く見られる。『メテオストライク』では作中でラジオから筋肉少女帯の楽曲名が流れており、『武装錬金』では作中の台詞や用語に大槻の小説『ステーシー 少女ゾンビ再殺談』や筋肉少女帯の歌詞フレーズ、曲名、大槻に関係したバンドの名前などが多く引用されている。
『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』時代のアシスタントから人気作家を輩出し、その結束力の高さもあって「和月組」と呼ばれている(もっとも和月本人はこの呼び方を嫌っている)。彼らがアシスタントを離れた後にも単行本の作者コメントにその名前がしばしば見える。本人は彼らの師匠というより同士であると思っており、『週刊少年ジャンプ』の巻末コメントなどでも、かつてのアシスタントを「○○先生」と呼んでいる。
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エニックス
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株式会社エニックス(英: ENIX Corporation)は、かつて存在した日本のゲームメーカー、出版社。2003年(平成15年)4月1日に同業のスクウェアと合併し、スクウェア・エニックス(法人としては現在のスクウェア・エニックス・ホールディングス)となった。以下ではこの旧エニックスについて解説する。
1975年9月22日、福嶋康博により公団住宅の情報誌を発行する出版社「営団社募集サービスセンター」として創業。紆余曲折を経て、1982年に子会社としてエニックスを設立し、パソコンソフト業界に参入。大々的なプログラムコンテストを開き、翌1983年に一挙に13本のソフトを発売した事で一躍知名度を上げる。
1984年10月に任天堂と提携し、ファミリーコンピュータ用のソフトを提供することが決定。1985年7月に家庭用ゲーム機市場に参入。1988年に発売した『ドラゴンクエストIII そして伝説へ...』は社会現象とも呼ばれるほどのヒットを記録、エニックスはゲームメーカーとしての地位を確固たるものとした。なお、社内にはドラクエシリーズ専門の部署である「ドラクエ課」が存在した(現スクウェア・エニックス第9開発事業部)。
1990年、収益の安定を図るために出版ビジネスに進出。翌1991年に創刊した『月刊少年ガンガン』は、15年近く月刊漫画雑誌の創刊で成功といえるものがないという逆風の中、一定の成功を収め、その後、数多くの派生誌を生んだ。
かつては映像ソフト製作とゲームソングやアニメソングの制作も行っていた。自社レーベル『PLENTY SAMAN』(プレンティーサマン)として発足、販売網はパイオニアLDCに委託。スクウェア・エニックスに合併後、映像ソフト製作とアニメソング事業を撤退するが、ゲームソング事業は継続中である。
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エニックス
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かつては映像ソフト製作とゲームソングやアニメソングの制作も行っていた。自社レーベル『PLENTY SAMAN』(プレンティーサマン)として発足、販売網はパイオニアLDCに委託。スクウェア・エニックスに合併後、映像ソフト製作とアニメソング事業を撤退するが、ゲームソング事業は継続中である。
社名の「エニックス」は、世界初の汎用デジタルコンピュータと言われる「ENIAC(エニアック)」と不死鳥「PHOENIX(フェニックス)」をあわせた造語である。なお、ドラクエシリーズのヒットにより日本有数のゲーム会社とも言われたが、エニックス自体は開発機能を持たないゲームパブリッシャーである。前述のプログラムコンテスト以降、主にコンテストで新人を発掘するという手法が取られ、定期的にゲームのコンテストが開かれていた。この路線は出版ビジネスに進出した際にも踏襲され、多くの新人を発掘している。合併してスクウェア・エニックスになった現在でも、旧エニックス系の流れを汲む作品の開発は外部へ委託されている。
2002年11月26日にスクウェアとの合併契約書が締結されたが、2003年1月10日にスクウェア筆頭株主の宮本雅史が合併比率に不満を持っているとの報道がなされ、1月14日に合併比率がエニックス1:スクウェア0.81からエニックス1:スクウェア0.85に変更された。
1982年に第1回を開催(同年12月20日締め切り)。賞金総額300万円(最優秀賞100万円)というのが最大の売りであり(当時の同様のコンテストは賞金は30万前後が普通)、後のゲーム界を担う人材を発掘した。300本近くの応募作の中から、13本がパソコンソフトとして実際に販売された。天才マイコン少年として一部で知られていた中村光一をスターダムに押し上げ、堀井雄二との出会いのきっかけとなったことから、『ドラゴンクエスト』シリーズ開発史の最初の舞台として描かれることが多い。なお堀井はコンテストの紹介記事を「週刊少年ジャンプ」に執筆したライターという立場であったにもかかわらず、プログラミングを独学して勝手に応募してきたという。
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エニックス
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年2回開催される漫画家募集企画。1995年に「エニックス21世紀マンガ大賞」としてスタート(1995 - 99年:全9回)し、2000年に「新世紀マンガ大賞」と改名(2000 - 02年:全6回)。2003年から「エニックスマンガ大賞」となり、スクウェアとの合併に伴い2004年の第3回より「スクウェア・エニックスマンガ大賞」と改名され現在に至る。
最高位となる大賞受賞者として、桜野みねね、戸土野正内郎、有楽彰展、荒川弘、大高忍などを輩出した。
1998年に行われた、アニメーション関連のクリエイター募集企画。アニメ企画部門、アニメ声優部門、アニメシナリオ部門、メカデザイン部門の4部門があり、出崎統、野沢雅子、藤川桂介の3名が審査を行った。
1998年12月31日に応募が締め切られ、1999年3月12日付の朝日新聞および『月刊少年ガンガン』ほかエニックス刊行各誌で発表された。声優部門の受賞者には野川さくら、今井麻美、早水リサ、雛野まよ(現・榊原ゆい)がいる。
(いずれも過去)
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フォーミュラ1
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フォーミュラ1(Formula One、英語発音: [ˈfɔːrmjulə ˈwʌn] フォーァミュラ・ワン)は、モータースポーツのカテゴリの1つであり、その世界選手権を指す場合もある。略称はF1(エフ・ワン)。
F1世界選手権 (FIA Formula One World Championship) は、国際自動車連盟が主催する自動車レースの最高峰であり、代表的なモータースポーツとして知られている。年間の観客動員数は400万人を超えており、ヨーロッパを中心に世界中で人気を獲得している。競技は4輪の1人乗りフォーミュラカーで行われている。
フォーミュラ1における「フォーミュラ(formula)」とは、全参加者および参加車両が準拠しなければならない一連の「規定」を意味している。F1に出場する車両には、タイヤ・シャシー・エンジン等々、あらゆる部分に技術的な規定(テクニカルレギュレーション)があり、これに反する車両は出走が認められない。また、走行中のマナーなどの取り決め(スポーティングレギュレーション)もあり、違反した場合にはレース中のピットレーン通過強制やスターティンググリッド(レース開始時の順番)降格などのペナルティを課せられる。ヨーロッパ・アジア・南アメリカ大陸・北アメリカ大陸を中心に世界各国を転戦し、各レース毎の順位によって与えられる点数「チャンピオンシップ・ポイント」の総計によってチャンピオンを決定する。
F1は戦間期にヨーロッパ各地で盛んに行われていたグランプリ・モーターレーシングをその起源とする。(F1世界選手権の歴史#F1誕生)F1ドライバーズ選手権の構想は1930年代末にはすでに話し合われていたが、第二次世界大戦の勃発によってその実現は見送られた。戦後、1950年にイギリスのシルバーストン・サーキットでF1世界選手権の最初のレースが開催された。
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F1は戦間期にヨーロッパ各地で盛んに行われていたグランプリ・モーターレーシングをその起源とする。(F1世界選手権の歴史#F1誕生)F1ドライバーズ選手権の構想は1930年代末にはすでに話し合われていたが、第二次世界大戦の勃発によってその実現は見送られた。戦後、1950年にイギリスのシルバーストン・サーキットでF1世界選手権の最初のレースが開催された。
F1世界選手権はグランプリと呼ばれる複数のレースによって構成されるシリーズである。国々を転戦する興行一座という例えから、F1は「グランプリ・サーカス(Grand Prix circus)」の異名で呼ばれることもある。F1初年度である1950年シーズンには、全7戦のうち6戦がヨーロッパで開催された。唯一のヨーロッパ域外のレースはアメリカでのインディアナポリス500(インディ500)であったが、これは世界選手権としての体裁を整えるためにF1シーズンに組み込まれていた側面が強かった。その後、1957年までレースの大半がヨーロッパ地域でのレースで行われていた。1960年をもってインディ500はF1から除外され、1959年から並行開催されていたアメリカGPに一本化された。
初年度のカレンダーに含まれていたイギリスグランプリとイタリアグランプリの2レースは、1950年から2022年現在まで毎年継続して開催され、同じく含まれていたフランスとベルギーも休止を挟みつつも、2022年も開催されている(フランスは2023年のグランプリカレンダーから除外された)。またハンガリーグランプリは、1986年の初開催から休止や開催地変更もなく30年以上継続開催されている稀有な例となっている。
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1999年にマレーシアGPが新規開催されると、それに続く形でいくつかの国家がF1GPの誘致に動き、2004年以降新規開催国でのレースが増加した。しかし、2008年にF1史上初のナイトレースとして開催されたシンガポールGP のように長期開催国の1つになった例もあった一方、長期開催の契約を結びながらも中途での休止や打ち切りを強いられたレースもあった。2010年初開催の韓国GPは2016年までの開催契約を結んでいたものの、資金難を克服できず2013年のレースをもって撤退した。同様に、2011年初開催のインドGPにも金銭的問題が浮上し、2年間の開催契約を残したまま2013年を最後に休止され、以後復活していない。
エンジンがV6ハイブリッドターボとなった2014年以降の時代には、権威主義的政治体制を有する国家(アゼルバイジャン、ロシア、ベトナム等)の政府が潤沢な公的資金でレースを誘致・開催する例が多く見られる。また、F1はアジア地域への関心を高めており、その背景としてアジアではレース開催料が高額となり多くの収入が得られることや、未開拓のファン層が存在することなどが指摘されている。
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だが、V6ハイブリッドターボの時代に長期開催していた国が中止や開催継続が危ぶまれる例が出現している。F1全体での観客動員数が増加傾向にある一方で、FOMが要求するレース開催料が依然として高額であるため、一部の主催者は財政的に苦しんでいる。その動きの象徴となったのがイギリスGPであり、2016年と2017年に3日間で約35万人を集客したにもかかわらず、サーキット側が公的援助なしで高額の開催費用を負担する必要があり存続の危機に立たされていた。そのため、2017年シーズン中にイギリスGPとイタリアGPは開催料の減額を求める姿勢の一環として契約破棄条項を発動し、再交渉が不発に終われば、2019年を以て両国でのF1開催が終了する予定にまで追い込まれていた。最終的にはイギリス(シルバーストン)側の利益を保護する内容の契約が成立したため、継続となったが、この時の運営者であるリバティメディアはロンドンでの市街地コースとしての開催や新規開催国の存在を根拠に契約の終了も辞さない構えであったため、一時はイギリスGP終了が最も現実的になった時期でもあった。 一方でかつて1国で2つのGPを開催するほどの人気を博していたドイツでは、資金難であったうえ、外部からの支援を得られなかったため、2015年と2017年にF1が開催されない事態に陥った。また、開催数ではイギリスとイタリアに次ぐフランスグランプリ も2008年を最後に開催が中止され、その後2018年まで復活しなかった。 このうち、1999年から継続開催され、長期開催国の一つとなっていたマレーシアGPは、2017年をもって開催を終了した。また、契約更新を何年するかの交渉や判断の予定を念頭に開催しているGPも少なくない。実際に、2018年に復活したドイツGPは同年7月の時点では後述のマイアミGPが開催される予定であったため、開催に関する交渉が失敗したことも影響し、2019年の開催は行われない予定 となっていたが、マイアミGPが2019年は開催されないこととなったため、再交渉を経て9月に2019年のみの開催契約が結ばれることとなった。
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その一方でコース運営者の負担が仮に解決したとしても、2018年などの全21戦という数字はすでに限界というチームの声も少なくなく、むしろ開催数の方に課題が生じつつある。1960年代には年間10戦前後だったF1世界選手権レースの開催数は、1970年代には平均で年間14戦前後に増加。1980年代から1990年代にかけては年間16戦前後で安定して推移した。21世紀に入るとレース開催数は徐々に増加。特に2016年には史上最多の年間21戦に達し、2017年こそ全20戦だったが、2018年は全21戦開催となり、2019年も21戦開催が承認された。
リバティメディアは今後年間25戦にまでカレンダーを拡大する意向を示しているものの、レース開催数の増加に伴う様々な負担増にドライバーを含む関係者は懸念を表明しており、年間15-18戦程度の開催に回帰することを望む声 や年間22戦以上の開催には懸念を示す声も多い。そのため、当面の間は最大21戦で推移すると思われていたが、2018年11月にベトナムGP開催が決定。さらに2019年5月にはオランダGPの復活も決定したため、2020年は22戦以上の開催の可能性が浮上した。当初2019年までの開催契約を結んでいたGPのうち3つが終了することが濃厚であったため、新規開催国はあるものの21戦以下で収まると思われていた。だが、結果的に消滅するのは1つのみとなり、2019年の全21戦に1つ追加される形となった。それでも、参戦中のチームは開催数変更について合意。その結果、2020年は全22戦開催となる予定だったが、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により多数のグランプリが中止に追い込まれ、最終的に開催数としては全17戦の開催となった。2021年はサウジアラビアGPが既存のカレンダーに追加され、2020年の暫定カレンダーよりも多い全23戦の開催が予定されたが、この年も新型コロナの影響で多数のグランプリが中止に追い込まれ、カタールGPなどの追加で全22戦の開催となった。開催数増加を受け、2020年以降についてはプレシーズンテストの実施日の変更と日程削減、さらにインシーズンテスト廃止を決定した。しかしこの措置は、マシンに慣れる時間が大幅に減少することから、ルーキーやチームを移籍したドライバーにとって厳しいものとなった。
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各レース毎の順位によって与えられる点数「チャンピオンシップ・ポイント」の総計によってチャンピオンが決定される。シーズン終了時に獲得ポイントの最も多い選手が「ドライバーズ・ワールド・チャンピオン」として認定される。同様に、獲得ポイントが最も多い車体製造者(コンストラクター)は「コンストラクターズ・ワールド・チャンピオン」として認定される。過去には有効ポイント制を採用していた事もあった。
強力なターボ・エンジンと自然吸気 (NA) エンジンが混走した1987年には自然吸気エンジン搭載車のみでのチャンピオンシップが制定され、それぞれドライバーに与えられる「ジム・クラーク・カップ」、コンストラクターに与えられる「コーリン・チャップマン・カップ」と呼ばれたが、翌1988年、ターボ・エンジンの燃費規制が厳しくなり自然吸気エンジンとの戦力差が縮小され、1年限りで廃止された。
金曜午後に2回、土曜午後に1回、計3回の練習走行が設けられる。2007年に金曜日のフリー走行の時間が60分から90分に拡大されてから、以降はフリー走行に関する変更は行われていなかったが、2021年は金曜日のフリー走行の時間がそれぞれ60分間に短縮された。各マシンは過去のセッティングデータに基づいて開催サーキットの特性にある程度合わせて持ち込まれるが、実際に走行することによってドライバーの意見を反映させて微調整を繰り返す。また、参戦初年度のドライバーが過去に未体験のサーキットを走る場合、コースの習熟の意味も含まれている。2006年まではチーム独自のテスト走行の実施が許されていたが、2007年からコスト削減の名目で年間テストの走行距離の指定を皮切りに、チーム独自のマシンテストに制約がかかるようになり、2010年に開幕戦以降のシーズン中のチーム独自のテストが事実上禁止された。それ以降は、パフォーマンスの追及の観点から少しでもコース上での実走のテストを経験すべく、その代わりにフリー走行をマシンテストの場として利用したり、新しいパーツの評価を行ったりする場として活用せざるを得ない傾向にある。
土曜午後に行われる。各車が一定時間内で自由に走行を行い、1周の最速タイムを競い合う。
2006年からは『ノックアウト方式』でスターティンググリッドを決定する。2019年は、20台が参加し以下のように進行する。
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土曜午後に行われる。各車が一定時間内で自由に走行を行い、1周の最速タイムを競い合う。
2006年からは『ノックアウト方式』でスターティンググリッドを決定する。2019年は、20台が参加し以下のように進行する。
Q3で最速タイムを記録した者はポールポジションとなり、以降は各セッションのノックアウト順で整列する事になる。ただし、フリー走行等でのトラブルにより予選Q1に出走しない車両がある場合は、強制的にQ1の最下位扱いとして進行し、台数に応じてQ1のノックアウト者を減らす。
また、以下のような理由でペナルティを課されグリッド降格になる場合があるため、必ずしも予選結果順にスタートするとは限らない。
また、予選後、セッティング変更などを行うと予選の結果にかかわらずピットレーンスタートとなる(正確には決勝出走の際、マシンの仕様が予選終了時と異なるものになった場合を指す。そのため、外見上ではウイングの変更などが一例だが、PUの性能の違いといった部品単位の仕様が異なる場合、基本はそれが適用される)。 さらに2011年からは107%ルールが再導入されており、予選Q1のトップタイムに対し自身のベストラップが107%より遅いドライバーは審議対象になり、出走許可が出なければ予選落ちとなる ものの、「例外的な状況」という名目でグリッドに並ぶケースが多く、出走不可になったケースは2012年オーストラリアグランプリにおけるHRTの例が最後となっている。
なお、タイムはマシンに搭載された無線装置により1/1,000秒単位まで計測される。まれに1/1,000秒まで同タイムのケースが見られるが、その場合には先にタイムを出したドライバーから上位グリッドに着く。 だが、ノックアウト方式が導入された影響で、中下位チームが自力でフロントロー入りすることが難しくなっている。ただし、グリッドペナルティの影響で結果的にフロントローを獲得した例や雨天での予選(ウェットコンディション)で波乱が起きることもあるが、全体で見ればまれな出来事となっている。
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2021年4月に同シーズンの第10戦イギリスGP、第14戦イタリアGP、第20戦サンパウロGP(ブラジル)の計3戦でスプリント予選レースを行うことが決定した。2021年は本来のタイム計測によるノックアウト方式の予選を金曜日の午後に行い、その結果をスプリント予選レースの順位として認定。従来の予選がある土曜日の午後に、レース距離約100kmのスプリントレースを行い、そのスプリントレースの順位が決勝のスターティンググリッドとして扱われる仕組みとした。しかし、この年はスプリント予選レースが行われるGPに関してはポールポジションの扱いが変わることへの批判や実施したことによっていくつかの問題が表面化。それらも含む様々な思惑によって、一時は2021年限定のイベントになるという推測も報じられたが、2022年も第4戦エミリア・ロマーニャGP、第11戦オーストリアGP、第22戦サンパウロGPの計3戦でそれを行うことが決定。ただし、内容について変更され、この年はスプリント予選レースの正式名称は「スプリント」へ変更。スプリントの結果で決勝のスタート順が決まる点は変わらないものの、それが実施される各GPのポールポジションは金曜日の予選での最速のドライバーに与えられ、スプリントの結果の入賞の対象が変更されるなど、内容面に関して変更が行われた。
日曜午後に行われる決勝は、原則的に305kmをサーキットの一周の距離数で割ったものの小数点以下を切り上げた周回数で争われる。また、レースが2時間を超えた場合は、その周回で打ち切られる。また、レース自体の時間が2時間を超えなくても途中赤旗中断があった場合、レーススタートから中断時間を含めて3時間(2021年より)を超えた場合、その周回で打ち切られる。例として、2012年シンガポールグランプリでは2時間ルールが適用されるレースとなったため、2時間を超えた後にラップリーダーがコントロールラインを通過すると同時にチェッカーが振られ、この時の周回数で終了。この際は予定周回数より2周少ない結果となった。ただし主催者判断で、レース時間のカウントを一時止めることも可能で、結果として中断も含んだ実際のレース時間が3時間を超えることもある。
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例外として、モナコグランプリは市街地コースで行われることによる体力的・精神的負担などを考慮し、また平均速度が極端に遅く(他コースより60km/hほど遅い)競技時間が長くなってしまうことから、1967年から約260kmで争われている。また、ドライコンディション時に(セーフティカーラン等を伴わずに)レース時間が2時間を超えて終了したコースについては、翌年から周回数を減らして行われる。
レース展開だが、レース開始時刻となったら、まずフォーメーションラップが開始される。ただし、フォーメーションラップ中のトラブルの発生や雨天などでレース開始に適さない状況に遭遇した場合、フォーメーションラップが追加される場合もある。もしその追加のラップが行われた場合、レースの規定周回数からその分が減算されることとなる。そのラップは基本的には1周で終わり、全車指定のグリッドの位置に静止する。そして、シグナルのサインに合わせてスタートを切り(スタンディングスタート)、規定の周回数を最初に走破したドライバーが優勝となる。
その後の順位は走破した周回数とその時間により決まる。すなわち優勝者と同じ周回を走りきったドライバー、その次に1周遅れのドライバー、2周遅れ...という順で、それぞれの中で先にゴールしたドライバーから順位がつけられる。途中リタイヤして、最後まで走り切れなかったドライバーも「全体の9割以上の周回を走っていれば」周回遅れとして完走扱いになる(例...60周で行われるレースなら54周以上走っていたら完走扱い)。そのため、1996年モナコグランプリのように、チェッカーを受けなかったのに入賞というケースも出ることがある。
レース後のリザルトによって、チーム・ドライバーにはチャンピオンシップポイントが加算される。2010年からのルールでは上位10台にポイントが順位に応じて加算され、10位以上は「入賞」となる。また、2019年からはファステストラップ記録者が10位以内に入賞した場合に限り、同じく1ポイントが加算される。
2016年よりファンとの関わりを増やすために、決勝レース中のインターネット投票による「この日最も印象的であった」ドライバーを選出するシステムが導入された。これはチャンピオンシップには直接関係はしないが、選出されたドライバーはレース後に賞を受け取ることになる。
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2016年よりファンとの関わりを増やすために、決勝レース中のインターネット投票による「この日最も印象的であった」ドライバーを選出するシステムが導入された。これはチャンピオンシップには直接関係はしないが、選出されたドライバーはレース後に賞を受け取ることになる。
レース中はタイヤ交換などのためにピットに入る(ピットイン)。ピットで可能な作業は時代によって異なり、タイヤ交換の他にマシン微調整や破損したウイングの交換などを行うことができる。2009年まではレース中の給油が解禁されていた年もあったが、2010年からレース中にピットに入り給油することは完全に禁止されている。ただし、タイヤに関しては2007年からはレース中に2種類のドライタイヤを使用することが義務づけられたため、レース中のタイヤ交換が最低1回は必要となり、タイヤ無交換作戦は事実上禁止されたが、悪天候によりウェットコンディションが宣言され決勝レース中にレインタイヤ(インターミディエイトタイヤまたはウェットタイヤ)を使用した場合にはこの制限はない。それでもタイヤの摩耗や天候の変化へ対応する関係でピットインは必須となっていたが、2021年トルコグランプリでは雨天でのレースとなったため、その規定が適応外となり、その結果、エステバン・オコンがタイヤ無交換作戦によって10位入賞を達成。タイヤ無交換(ピットストップなし)のドライバーが入賞を記録したのは1997年モナコグランプリのミカ・サロ以来24年ぶりとなる。また、このピット作業の最速記録は、2023年カタールGP(カタールグランプリ (4輪))にてマクラーレン・F1が記録した1.80秒となっている。
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セッション中に規定違反の行為(フライング、アンフェアなブロック行為、ピットレーンでの速度違反等)を犯したドライバーにはスチュワード(競技審査委員会)からペナルティが与えられる。決勝レース中の違反に対する一般的なペナルティは、5秒間もしくは10秒間の「タイムペナルティ」、時速80kmの制限速度でピットレーンを通過しなければならない「ドライブスルーペナルティ」(約20秒~30秒程度のタイムロス)、ピットに戻り10秒間静止してからコースへ復帰することが義務付けられる「ストップ&ゴーペナルティー」(約30秒~40秒程度のタイムロス)となり、先頭のペナルティからだんだんと重くなっていく形となる。深刻な違反と判断された場合、レース中なら黒旗失格(レース旗#黒旗参照)の適用、レース後なら失格と同時にレース順位からの除外や次戦出場停止を含む厳罰が与えられることもある。
タイムペナルティを与えられた場合、レース中にピットで静止してペナルティを消化する例もあるが、それはストップ&ゴーペナルティーとは異なる。後者は「レース中にペナルティを消化してコースへ戻ることが義務付けられる罰則」であり無視した場合は失格の対象となる。一方で、前者は「ペナルティ裁定が下ってからレース終了までの間に一度もピットストップを行わない場合は、レース結果に該当タイムを加算」とされている。2007年以降「レース中のタイヤ交換が最低1回必要」な関係上、スタート時のタイヤで走行中にタイムペナルティを受けた場合、事実上タイヤ交換時にその消化が義務付けられる形となる。また、1回目のタイヤ交換後にタイムペナルティを受けた場合、再びタイヤ交換を行う場合はその消化が義務付けられる形となるが、規定のタイヤ交換の義務は終えているため、そのままレースを終えても失格にはならないが、その場合「レース後のタイムに加算される形」となるため、各ドライバーのタイム差次第では順位の変動が起きる可能性が高い。ただし、残り3周を切る時点またはレース終了後に前述の裁定が下った場合、レース終了後のタイム加算という形でペナルティを消化する形となる。
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そのうえで、違反を犯したドライバーにはスチュワードの判断で「ペナルティ・ポイント」が与えられる場合もあり、累積12ポイントに達した場合には1戦の出場停止となる。一方で、ペナルティの運用に対しては一貫性がないという批判も存在する。
自動車に関する技術の進歩とマシンの高速化による危険性の増加にともない、F1のレギュレーションは大小さまざまな変更がなされている。特に1994年サンマリノグランプリで起きた2件の死亡事故以後は、安全性向上のためのレギュレーションが多く施行された。この流れのレギュレーション変更には、主にスピードの低下を狙ったものと安全設備の設置を義務付けるものとがある。また、2000年代に入ってからは高騰したマシン開発費を抑制するための改定がたびたび施行されている。
2023年のフォーミュラ1では以下のコンストラクターがエントリーしている。
現代のF1カーはカーボンファイバー製シャシーに、内燃機関(エンジン)とエネルギー回生システム(ERS)を組み合わせた「パワーユニット(PU)」を搭載する。2022年の規定では車体重量は最低798 kg(タイヤ・ドライバー込み、燃料は除く)とされており、最低重量を下回った場合には失格となる。PUのエンジンは排気量1.6リッターのV型6気筒シングルターボエンジンと規定されており、ERSによるパワー追加は最大120 kW (161 hp)に制限されている。2018年1月時点の推定では、エンジンとERSの合計最高出力は約950 hpに到達していた。
F1カーは前後のウイングや車体底面で発生するダウンフォースを利用してタイヤを路面に押し付けることで旋回速度を高めており、コーナリング時の横方向のGフォースは最大で6.5 G以上に達する。2017年に導入された技術規定では前後のウイング拡大などによってダウンフォースが大幅に向上し、多くのサーキットでそれまでの最速ラップタイム記録が更新されたが、一方で後方乱気流の発生量も増加したため、後続車は前を走る車に接近した際にダウンフォースを大きく失うこととなり、その結果レース中の追い抜きが困難になった。この問題への対応として、2022年規定のF1カーでは車体底面のグラウンド・エフェクト構造によってダウンフォースの大半を発生させる設計が導入され、ウイングへの空力的依存度が低下した。
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F1カーはカーボンファイバー複合材のブレーキディスクを使用しており、制動距離は非常に短い。2017年には、急減速の多いモンツァ・サーキットでの減速Gは平均で5.5 Gに達していた。2014年以降はPUのエネルギー回生を行うためにブレーキ・バイ・ワイヤ(BBW)が導入され、ブレーキング時に電子制御が介入している。一方で、現行規定ではアンチロック・ブレーキ・システム(ABS)やトラクションコントロールシステム(TCS)等のドライバー補助を目的とした制御装置は禁止されている。
追い抜きを容易にするため、2011年からはドラッグリダクションシステム(DRS)と呼ばれる可変リアウィング機構が全車に導入されている。また、2018年シーズンからは全F1マシンに「Halo」と呼ばれる頭部保護デバイスの装着が義務付けられている。
現在ではF1の競技車両は4輪のオープンホイール・カーでなければならないと規定されているが、過去に出走したF1カーにはタイヤがフェンダーで覆われている車両(メルセデス・ベンツ・W196)や6輪の車両(ティレル・P34)も存在した。
F1は自動車メーカーの実験場としても機能しており、いくつかの成果は市販車にも応用されている。近年ではデロイトのようなデータ分析を得意とする企業との提携も行われている。
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現在ではF1の競技車両は4輪のオープンホイール・カーでなければならないと規定されているが、過去に出走したF1カーにはタイヤがフェンダーで覆われている車両(メルセデス・ベンツ・W196)や6輪の車両(ティレル・P34)も存在した。
F1は自動車メーカーの実験場としても機能しており、いくつかの成果は市販車にも応用されている。近年ではデロイトのようなデータ分析を得意とする企業との提携も行われている。
かつては他のカテゴリー同様、1社のシャシーを複数のチームが使用することもあったが、現在ではコンコルド協定において、知的所有権を含め、過去2年のうちに参戦した他チームのシャシーを使用できないよう規定された。そのため、F1はフォーミュラカーの選手権としては唯一、全チームがオリジナルのシャシーを使用している。独自にシャシーを開発・製造するためには莫大な費用がかかり、2014年シーズンには中位チームでも年間1億2000万ドルを出費していた。ケータハムF1チームやマノーF1チームのように近年新規参入したものの数年以内に破産に追い込まれたコンストラクターも存在している。参戦中のチームも財政的な問題を抱えており、2018年のフォース・インディアは長年課題となっていたチームの資金問題が遂に限界に達し、同年7月に破産申請。2018年第13戦ベルギーGP以降の参戦が不可能という状況になった(チームは投資家により救済され、いくつかの交渉を経て第13戦以降も参戦可能となった)。1977年から参戦している歴史あるウイリアムズも、2018年のマシン開発失敗に起因する低迷で資金難に陥り、2020年9月にアメリカの投資会社「ドリルトン・キャピタル」に買収され、ウイリアムズ家の家族経営が終わりを迎えた。
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開発予算の格差を背景として、V6ハイブリッドターボ時代になってからは、上位チームと中位以下のチームのマシンの性能差が非常に大きくなってしまい、特に2017年シーズン以降は上位3チーム 所属のドライバーが表彰台を独占することが慣例化してしまっている。F1の運営陣も、(中小規模チームのマシンに上位進出のチャンスがなく)レース結果が容易に予測できるものになっている現状を改善する必要があることは認めている。2021年以降は、全チーム共通の予算制限と開発費の一角を占める風洞も前年のチームランキングに応じて風洞の利用時間が指定される仕組みが導入された。
市販車への技術応用という名目においても、2020年以降世界的な低炭素社会やカーボンニュートラルへの対応として、ガソリン車の販売禁止と電気自動車へ移行の流れが出来つつあるなかで、ガソリンエンジン開発に多額の費用をかける理由が失われたなどと主張し、好調であっても撤退する企業(ホンダ)が出ている。
F1レースに出走するためには、FIAが発給するモータースポーツライセンスの最上位クラスである「スーパーライセンス」を所持していなければならない。各F1チームは1シーズン4人までのドライバーをレースで起用することができる。最大4人のレースドライバーに加え、グランプリ週末金曜日の練習走行(P1・P2)では各セッション2人までの追加ドライバーを出走させることができるが、それらの追加ドライバーは最低でも「フリー走行限定スーパーライセンス」を所持している必要がある。2015年までも下位カテゴリーの経験の必要性が言及されていたが、2001年のキミ・ライコネンのように、F1マシンで指定距離を走行したドライバーであれば、個別の審査を経てライセンスが発給されることもあった。ただ、時代が進むにつれ、ドライバーの低年齢化が著しく進み、2014年にはマックス・フェルスタッペン(トロ・ロッソ)が史上最年少の17歳でF1のフリー走行をこなし、翌年フェルスタッペンはレギュラー契約を結んでF1デビューを果たした。
その後、FIAはスーパーライセンスの発給規定を厳格化することになり、2016年以降は
が明記され、他にも数多くの条件に該当する必要がある方針へ変化した(詳細はスーパーライセンス、マックス・フェルスタッペンを参照)。
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その後、FIAはスーパーライセンスの発給規定を厳格化することになり、2016年以降は
が明記され、他にも数多くの条件に該当する必要がある方針へ変化した(詳細はスーパーライセンス、マックス・フェルスタッペンを参照)。
前述の通り、2016年以降スーパーライセンスの発給資格を満たしていることが絶対条件となったため、かつてのような18歳未満のドライバーはいかなる特例をもってしてもF1への出場はおろか、リザーブドライバーとしての登録やテストドライバーとしてフリー走行のみに参加することすら認められなくなった。過度な低年齢化や経験不足によるデビューの抑制の評価する声もあるものの、1991年にミハエル・シューマッハがF1へスポット参戦する形でF1デビューした事例や2001年にジェンソン・バトンがウィリアムズのドライバーとしてフル参戦した事例は、この基準の場合、認められていなかったことになるため、ポイントで左右される仕組みに関しては見解が分かれている。
多くのF1チームはレギュラードライバーが参戦できない場合の代役、およびマシン開発の担当者として「リザーブドライバー」や「テストドライバー」を任命しているが、F1のテスト制限が進んだ現在では彼らの主な役割はドライビングシミュレーター上での作業となっている。その関係でフリー走行もテスト的な役割を担わなくてはいけなくなってしまったため、リザーブドライバーがフリー走行のみ参加して経験を積むということは困難になっており、技量維持のためフォーミュラEといった別カテゴリーへ参戦している事例も少なくない。実際、2020年度にはセルジオ・ペレスが新型コロナウイルスの影響で欠場することになった際、チームは登録していたリザーブドライバーではなく、前年にF1のレギュラーシートを喪失していたニコ・ヒュルケンベルグを急遽起用している。
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カーナンバーについては、1996年から2013年までは前年のポイントランキングに基づいてチーム毎に割り振りされていたが、2014年以降はF1に参戦するドライバーは自らのカーナンバーを2から99までの数字(永久欠番である17を除く)から自由に選択することができ、選択された数字はそのドライバーのキャリアを通して固定されたカーナンバーとなる。カーナンバー1は専用ナンバーとして現役のドライバーズチャンピオンに与えられるが、チャンピオンは自分が選択した固定ナンバーを使い続けることも可能である。
シーズン中、各ドライバーのヘルメットは同一のデザインを使用し続けなくてはならないが、ドライバーのホームレース(もしくはチームのホームレース)やモナコGPなど、特別な1戦でのみはそれに合わせた特別仕様のデザインが許されている。ただし、基本1回限りとされているヘルメットのデザイン変更だが、これには抜け穴があり、「シーズン中に申請されたデザイン変更が許可される回数は1回限り」だが、ドライバー側が「無許可でデザイン変更した場合」であっても、それを理由に罰せられたことはなく、厳密には形骸化している。実際、2018年のベッテルはすべてのレースにてロゴの位置や文字のフォントの変更などの最初に発表したデザインから大きく逸脱しない程度のデザイン変更を毎戦加えて出走した。そのため、デザイン変更の規定に矛盾が生じつつあったが、2019年ロシアGPにてトロロッソのダニール・クビアトがヘルメットのデザイン変更を申請したのだが、その権利をイタリアGPで使用していたことを理由に却下された件をきっかけに批判が殺到。ただ擁護するなら、時のレギュレーションに従ってFIAは却下したのだが、いわゆる規定の矛盾が問題視された。その結果、2020年からはドライバーヘルメットのデザイン変更の回数制限が撤廃されることとなった。
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ペイドライバーとは、資金の持ち込みと引き換えにチームとの契約を確保するドライバーの俗称である。「金でシートを買った」などと揶揄されることも多く、ペイドライバーというだけで正当に評価されないことも少なくない。ただ、実際のところ、ほぼすべてのドライバーが(金額の差はあるが)自身のスポンサーをチーム加入時に持ち込んでおり、他にもドライバーの活躍を受け、その母国の企業が後から支援してくれるケースもある。そのため、個人スポンサーに限れば、レーシングスーツやヘルメットに掲載しており、マシンにも小口スポンサーとして何らかのロゴが掲載されていることが主流である。
他にもレギュラードライバーにはある程度実績・実力のあるドライバーを起用しつつ、ペイドライバーはテストまたはリザーブドライバーとして契約することで戦績と資金調達を両立するチームも少なからずあり、この種のペイドライバーはテストやフリー走行にだけ出現する事が多い。そのため、本来の定義でもある「持参金を持ち込むことを条件に契約する」ドライバーという意味合いより、狭義の意味合いでもある「目立った実力・実績を持っておらず知名度が低い」のに「(資金的に苦しいチームへ)極端に高額な資金を持ち込んで契約する」ドライバーが「ペイドライバー」として扱われることが多い。
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また2015年には「ペイドライバーが、より高額な資金を持つ別のペイドライバーにシートを奪われる」という事態も発生した。これはザウバーに契約を破棄されたギド・ヴァン・デル・ガルデの告訴により発覚したものである。ガルデは1度は契約を結んだにもかかわらず、ザウバーがマーカス・エリクソン、フェリペ・ナッセと契約を結んだため、押し出される形で失ったシートの返還を求め告訴し、裁判で勝訴した。最終的にはガルデがザウバーからの違約金を条件に出走を諦めることで和解したが、一時は2つの枠に3人のドライバー(ヴァン・デル・ガルデ、エリクソン、ナッセ)が存在するという混乱を生んだ。更には前年からの契約期間が残っていたエイドリアン・スーティルも似た経緯で同年のシートを喪失していたことが判明し、スーティルの場合は賠償金の支払いのみを求めて裁判で勝訴している。なお、この4人がどのような順番及び内容で契約していたのかは不明であり、一説ではエステバン・グティエレス、ジュール・ビアンキとも契約を結んでいたとされる(詳細は「ザウバー#ドライバー多重契約騒動」を参照)。
ザウバーの件は極端な例だが、モータースポーツは大口スポンサーがいないチームからすれば、常に資金に悩むことも少なくなく、中小プライベーターがペイドライバーをうまく利用するのは一般的なことである。実際、過去のシーズンを見れば、今は亡きジョーダン・グランプリは、1993年は資金不足などの影響もあり、1台のマシンを5人のドライバーがドライブした形となった経歴があり、後述のハースF1チームもそれに該当する。 また、下位カテゴリーのF2に目を向ければ、持参金でシートが左右されるのは有名な話である。一例を挙げるなら、アレクサンダー・アルボンは資金不足により2018年のF2参戦を断念しかかっていたが、DAMSと交渉して1戦毎の契約を条件に参戦することに成功。アルボン側も第3戦バクーで初優勝して実力をアピールしつつ、後押しとして資金をかき集めてフル参戦の契約に切り替える交渉をして、その結果、フル参戦の契約が成立してそのまま最終戦まで戦った経歴を持つ。
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新型コロナウイルス感染症の世界的流行による影響によって一部のF1チームは急激な資金難となり、ハースF1チームは時のレギュラードライバー(ケビン・マグヌッセンおよびロマン・グロージャン)を放出してでもニキータ・マゼピンらを起用せざるを得ない状況まで追い込まれていた。現にチームのコメントでも、マゼピンの起用は彼の資金が決め手の一つになったことも事実上認めていた。だが、2022年も彼の参戦が予定されていたのだが、2022年2月下旬に勃発したロシアのウクライナ侵攻により、ハースは当時のチームのタイトルスポンサーのウラルカリとの契約見直しを迫られ、最終的にウラルカリとの契約を解消。これに伴いマゼピンはシーズン前テストに参加していたにもかかわらず、同年のシートを失った。他にも、ベネズエラ政府のバックアップ及びPDVSAからバックアップを受けていたマルドナドは2016年も参戦予定であったが、ベネズエラの石油価格の下落による経済・政治情勢が不安定なことによりPDVSAがシート料を払うことができずチームとの契約が破談し、そのままシートを失った例もある。
実際にペイドライバーとして扱われながらも好走を見せたドライバーも少なからずおり、以下は活躍したペイドライバーの一例。
ヨーロッパで始まった最高峰自動車レースのF1は、ヨーロッパにおいては非常に大きな関心を集めるスポーツの一つである。TV視聴者が最も多い国として南米のブラジルがイタリアと並んで挙げられるなど、F1はヨーロッパのみならず世界的に見ても人気のあるスポーツと言える。その一方で、世界最大級の市場であるアメリカではインディカーやNASCAR等が台頭していることもあり、人気があるとは言えず、一時期「不毛の地」とも揶揄された。世界的なF1中継の有料放送化を背景に、2018年には過去10年間でF1の視聴者総数が41.3%減少したことが報道されており、他にも一部の強豪チームが勝利を独占している状態が近年のF1の人気低下につながっているとの指摘もある。
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現にV6ハイブリッドターボ時代になってから表彰台入りしているのは、シーズンを通して上位3チーム 所属のドライバーが独占することが慣例化しており、2014年から2016年までの間は3チーム以外のドライバーが表彰台に上がったレースが各シーズンで数戦あったが、2017年と2018年に限っては、上位3チーム以外の表彰台入りしたのは計41戦中2戦だけという状況であった。2019年以降は上位3チーム以外のドライバーが上がったレースが数度あるようになったが、そのレースは上位3チームのリタイアやトラブルが発生した波乱のレースによる混戦の結果であり、そのチーム以外が自力でその3チームを打ち破って表彰台に上がるというのは非常に困難となっており、ゴールまでにある程度の結果が予測できる状況になってしまっている。また、エンジン使用制限に伴うペナルティの影響で予選の価値が低下している面 もあり、レギュレーションの問題がF1の人気低下を招いている面もある。
そのため、この状況にドライバーからも不満の声が上がっており、チャンピオン経験者で言えば、フェルナンド・アロンソが「デビュー時に比べコース上での戦いが非常に少なくなった」とコメントし、2019年5月に時のフェラーリのドライバーであったセバスチャン・ベッテルが「メルセデスが圧勝を続ける現在のF1は退屈でつまらない」と皮肉交じりのコメント をしている。また、前述のペイドライバーの一人、セルジオ・ペレスは2019年5月に「現状は単なるチームのチャンピオンシップとなってしまっている」「ドライバーの腕よりマシンの性能でレースが確定する」と言い切っており、ドライバーたちも不満を抱えている状況である。その一方でNetflixやSNSによる新規ファンの流入も起きており、F1の人気低下に関しては見解が分かれている。
2018シーズンのF1世界選手権の現地観戦者数は、全21グランプリで合計409万3,305人と2017年と比較して7.83%増加しており、F1側は人気が回復傾向にあるとの認識を示している。リバティ・メディアはF1人気復活のために、マイアミグランプリを含めた1国複数回グランプリ開催の実現に向けて動いている。
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2018シーズンのF1世界選手権の現地観戦者数は、全21グランプリで合計409万3,305人と2017年と比較して7.83%増加しており、F1側は人気が回復傾向にあるとの認識を示している。リバティ・メディアはF1人気復活のために、マイアミグランプリを含めた1国複数回グランプリ開催の実現に向けて動いている。
初期の車体塗装はチーム国の「ナショナルカラー」にスポンサーのロゴを掲示する程度であった。しかし1968年にロータスが新たにスポンサーとなったインペリアル・タバコ社の製品のパッケージと同じカラーリングとしたロータス・49を出走させ話題となったことで伝統が破られた。これ以降はレイノルズやフィリップモリスなどタバコ企業が広告効果を狙ってスポンサーに名乗りを上げ、自社製品のパッケージと同じカラーに塗装したマシンを多数出走させていた。しかし、1990年代からはタバコ広告の規制が始まり、2005年8月以降は、欧州連合域内でのタバコ広告が全面的に禁止されたことに伴い、シーズン中に一部のチームではタイトル・スポンサーの変更などが行われた。その後、世界中でタバコブランドとその商品名の広告は、多くの規制がかかるようになり、イギリスの規制は厳格なものとなっている。一方で欧州以外の地域では、喫煙の危険性について警告する内容の表記の義務化の徹底のように条件付きでの広告の宣伝活動を禁止したわけではなく、欧州以外のGPではタバコ会社がスポンサーをする広告の掲載は時の判断となっている面もあり、各GPのエントリーリストやマシンのスポンサー枠を細かく見れば、タバコに関連する広告の記載は結果的に存続している。実際、フェラーリと関係の深いスポンサーであるフィリップモリスは、規制によってF1マシンの広告が不可能になりながらも関係を継続。2018年10月からMission Winnowというタバコとは関係のないプロジェクトの宣伝という名目でフェラーリのマシンのスポンサー枠として復活している。
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1990年代からのタバコ広告の規制の始まりと入れ替わるように、2000年代から情報通信業に分類される会社がチームのスポンサーとして参入しており、タイトルスポンサーという点で言えば、2007年にはボーダフォンがマクラーレンのタイトルスポンサーに就任。AT&Tは2001年からスポンサー活動をしていたが、この年からウィリアムズのタイトルスポンサーに就任した。また、2010年にはセキュリティソフトウェアの開発がメインの会社であるカスペルスキーがフェラーリとのパートナーシップを締結し、2013年には公式ITセキュリティプロバイダーとして認定され、2013年からはカスペルスキーの広告がウェアやマシンに記載されるようになった。これら以外にもその分類にあたる会社がスポンサーの規模の大小はあるものの参入しており、2021年にはコグニサント (Cognizant) がF1チームのタイトルスポンサーに就任したことをはじめ、この年はオラクルなどのIT企業が多数参入。データ分析など自社の技術でサポートする新たなスポンサー形態が広まっている。
2020年代に入ると、これまでファン獲得に苦戦していたアメリカにおいて、動画配信サービスなどの急速な普及やNetflix製作のドキュメンタリー番組『Formula 1: 栄光のグランプリ』の大ヒットが追い風となり、若年層を中心にファンの獲得に成功。2023年シーズンは41年ぶりにアメリカ国内で計3回のレース(アメリカGP・マイアミGP・ラスベガスGP)が開催されることが決定している。
1983年からホンダがF1へ復帰したことをきっかけに関心が集まり、1987年に中嶋悟が日本人初のフルタイムF1ドライバーとしてデビューすると、鈴鹿サーキットで初開催された1987年日本GPや1988年のマクラーレン・ホンダの誕生、さらにはバブル経済で多数のジャパンマネーがF1に流れたことをきっかけにF1の人気は熱狂ともいえる時代を迎えることとなった。
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1983年からホンダがF1へ復帰したことをきっかけに関心が集まり、1987年に中嶋悟が日本人初のフルタイムF1ドライバーとしてデビューすると、鈴鹿サーキットで初開催された1987年日本GPや1988年のマクラーレン・ホンダの誕生、さらにはバブル経済で多数のジャパンマネーがF1に流れたことをきっかけにF1の人気は熱狂ともいえる時代を迎えることとなった。
1992年にホンダが撤退したことや1994年にその人気の中核を担っていたアイルトン・セナの死、さらにはバブル崩壊により、その熱気は終わりを告げたものの、フジテレビ系『F1グランプリ』による地上波無料放送での中継がその動向に左右されることなく継続していたこともあり、ある程度の人気は維持、現に日本GPの総入場者数は上昇傾向となって2006年には歴代最高の入場者数を記録することとなった。
しかし、2006年に人気の柱の一つとなっていたミハエル・シューマッハの引退も含め、来場者数は2006年を境に下降線を辿り始め、2008年の日本グランプリの総入場者数が鈴鹿サーキットで初開催された1987年の総入場者数を下回り(ただし、2007年と2008年は富士スピードウェイでの日本GP開催なため、一概に比較できない面もある)、目に見える形で人気にも陰りが出始めた。
それに追い打ちをかけるように日本GPの冠スポンサーだったフジテレビが2009年を以て降板したうえ、地上波中継も2011年を以て打ち切られ、経済の悪化から、トヨタやホンダも次々とF1から撤退し、それにともない日本人ドライバーや企業が2012年を最後に事実上消滅したため、F1へ関心を集める要素が減ってしまったことも日本国内の人気低迷に拍車をかけた。
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それに追い打ちをかけるように日本GPの冠スポンサーだったフジテレビが2009年を以て降板したうえ、地上波中継も2011年を以て打ち切られ、経済の悪化から、トヨタやホンダも次々とF1から撤退し、それにともない日本人ドライバーや企業が2012年を最後に事実上消滅したため、F1へ関心を集める要素が減ってしまったことも日本国内の人気低迷に拍車をかけた。
その影響は、サーキットの運営状況にも影響しており、鈴鹿サーキットが事実上日本GPのコースとなっているが、2010年から冠スポンサーが不在となり(2016年のみエミレーツ航空が冠スポンサーとなった)、資金面でも厳しい状況となったが、2018年にホンダが冠スポンサーとなったこともあり、減少傾向に歯止めを掛ける事に成功した。2019年は令和元年東日本台風(台風19号)の影響で土曜の開催を見合わせたため過去最低の12万2000人に減少したが、この年レッドブル・ホンダの活躍や山本尚貴がフリー走行1回目に出走したこともあり、金曜、日曜ともに観客数は増加し、人気向上に期待が掛かっていたが、翌年にはコロナ禍とホンダF1撤退発表が起きた。コロナ禍により2020年と2021年は2年連続で開催が中止された。
しかし、3年振りの開催となった2022年は角田裕毅の存在と、ホンダのF1との関係継続もあり20万人の観客数を記録。翌年2023年は22万2000人を記録。2007年以来最多となる観客数であった。また2012年以来初めて決勝日に10万人以上が訪れ、日本でのF1人気はある程度の回復を見せた。さらに2023年日本GPの冠スポンサーをレノボが務め、サーキットの資金面に後押しとなった。
各年毎の結果は下記囲み内のリンクを参照。
また、各グランプリの年別の勝者などについては、F1選手権レースの一覧から各グランプリ別の記事を参照。
原則として1つの国で開催されるグランプリ (GP) は1シーズン中1回だけ(1国1開催)と定められている。通常開催名は「国名+グランプリ」で表されるため、これらの例外では以下のような「別名」を使用していた。
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各年毎の結果は下記囲み内のリンクを参照。
また、各グランプリの年別の勝者などについては、F1選手権レースの一覧から各グランプリ別の記事を参照。
原則として1つの国で開催されるグランプリ (GP) は1シーズン中1回だけ(1国1開催)と定められている。通常開催名は「国名+グランプリ」で表されるため、これらの例外では以下のような「別名」を使用していた。
1997年は1国2開催がスペインGPとヨーロッパGP、ドイツGPとルクセンブルクGP、イタリアGPとサンマリノGPの3例行われた。 極端な例としては、1982年にアメリカで「アメリカ西GP」(ロング・ビーチ)・「アメリカ東GP」(デトロイト)・「ラスベガスGP」(ラスベガス)という1国3開催が行われた。
しかしながら、FIAは2007年以降は1国1開催の原則を徹底する方針を示しており、同年から2014年までドイツGPはニュルブルクリンク(2007年、2009年、2011年、2013年)とホッケンハイム(2008年、2010年、2012年、2014年)で交互開催されたが、2015年はニュルブルクリンクの財政難により中止となった。2008年からスペインのバレンシアで行われたヨーロッパGPも2012年で終了し、2013年よりスペインでのF1開催はカタロニアのみとなった。2016年にヨーロッパGPがアゼルバイジャンで初開催された際にその名称が復活したが、翌2017年からはアゼルバイジャンGPに名称を変更している。
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また、2007年の日本GPが富士スピードウェイで開催されることが決まると鈴鹿サーキットが別名称での開催継続を要請したものの、原則もあってカレンダーから外れた。なお、鈴鹿サーキットに限らず、イモラでのサンマリノGP開催もこれを受けて2006年の開催を最後にカレンダーから外れている。FOAのバーニー・エクレストンは、2007年および2008年は富士スピードウェイで日本GPを開催し、2009年以降は鈴鹿と富士で隔年開催することを発表していたが、富士のF1撤退に伴い、2010年も鈴鹿で開催されることとなった。2018年までは鈴鹿サーキットでの日本GP開催の契約は結ばれていたものの、観客減少の影響 で2019年以降の開催は厳しい状況であった。そんななか、2018年からリバティメディアにF1の運営権が代わったことに伴い再交渉が実施され、その結果、2018年8月31日に、2021年までの開催継続が決定したと発表された。
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リバティメディアによりF1そのものが買収されてから配信体制が一新されたことに伴い、一国一開催も破棄することを以前から公言していた。実現性が高いのはアメリカでの2レース開催であり、テキサス州オースティンでのGPに加えてマイアミ市街地レースが新規開催されるものと見られていた。その後、現地のマイアミ市がF1開催を承認し交渉が始まったため、早ければ2019年10月にマイアミグランプリが開催され、その方針が実現する可能性があった。だが、地元住民からの反対もあり2019年からの開催は断念。そのため、2020年以降の開催を目指していたが、マイアミ市委員会が当初の計画案を否決してしまったため、計画を一から見直すこととなった。また、2020年は新規開催国が増えた ように、1国複数グランプリ開催を実行するためのハードルが上がりつつある。しかし、計画の見直しにより、開催地をNFLマイアミ・ドルフィンズの本拠地ハードロック・スタジアム周辺に変更され、マイアミGP開催を促進する同チームの経営陣とリバティメディアとの交渉が進展し、同地での開催に原則合意した。2021年のアメリカGPの開催はオースティンで行う意向であったものの、政治的支援や市議会の承認が必要だが、2021年からマイアミGPが開催される実現性が高まった。ただし、新型コロナウイルス感染症の世界的流行によってこの計画自体が一旦中断されたが、後述の通り、2022年からマイアミGPの開催が決定している。
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その一方でコロナウイルスの影響で当初計画されていた2020年の開催スケジュールが事実上破綻。その関係で当初の計画の2020年3月からのシーズン開幕ができなくなり、スケジュール見直しの過程で1国複数グランプリ開催の案が浮上。同年6月にコロナウイルスに対応した新スケジュールが発表され、7月に開幕戦が行われることや1国複数グランプリ開催が含まれたスケジュールであることが発表され、最終的には12か国での全17戦のスケジュールのうち4か国で1国複数グランプリが開催されることとなった。また、2020年12月に発表された2021年のスケジュールの内容の段階では、1国複数グランプリ開催が組み込まれていなかったため、2020年のみの限定版という位置づけになる思われていた。ところが、2021年もコロナウイルスの影響を受け、それに伴うスケジュール変更が行われたため、2021年も1国複数グランプリ開催のスケジュールが実施されることとなった。また、2021年4月に後述のマイアミGPの開催が正式に決定したため、2022年から1国複数グランプリ開催のスケジュールが臨時で導入される形ではなく、正式な計画として導入されることが決定している。
今後、選手権に追加されることが決定しているレース
F1選手権への追加の検討が一度でもなされたレースイベントは以下。
F1を代表するグランプリの1つであり毎年世界中のセレブリティーが訪れることでも有名なモナコグランプリをはじめ、各グランプリに「Formula One Paddock Club」と呼ばれる特別観戦エリアが設定されている。「Formula One Paddock Club」は、各国の有力者や文化人などのいわゆる「セレブリティー」が訪れるなど、単なるスポーツ観戦の枠を超えた上流階級の社交場の1つとして提供されている。
この事は、F1がヨーロッパの文化や社交に根付いていることを象徴しているのみならず、最低でも50万円を超える高い入場料金が設定されている上、その多くがF1に多額の資金を注入している自動車メーカーやスポンサー向けに提供されていることから「多額の資金が投下され、商業化が進む近年のF1を象徴している」という指摘もある。
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この事は、F1がヨーロッパの文化や社交に根付いていることを象徴しているのみならず、最低でも50万円を超える高い入場料金が設定されている上、その多くがF1に多額の資金を注入している自動車メーカーやスポンサー向けに提供されていることから「多額の資金が投下され、商業化が進む近年のF1を象徴している」という指摘もある。
Formula One Administration(FOA)との世界独占契約に基づく公式ゲームと、契約なしに作られた非公式ゲームがある。
2023年現在は地上波での中継は行われておらず、CS放送及びインターネット配信のみが行われている。いずれも有料で配信されている。
「フジテレビNEXT」で全戦生中継(金曜フリー走行、土曜フリー走行、予選、決勝)で放送している。フジテレビのスタジオにいる実況アナウンサーともう2人の解説者(森脇基恭や川井一仁など)と共に中継を行っている。
スポーツライブ配信サービス「DAZN」で全戦生中継(金曜フリー走行、土曜フリー走行、予選、決勝)を行っており、さらにオンボードカメラ映像や下位カテゴリのF2やF3(旧GP3)の各セッションと決勝の生中継配信と関連番組の配信も含めて、サッシャや小倉茂徳、中野信治などの実況・解説で日本語で中継を行っている。なお、PCやスマートフォンのみならず、テレビでの観戦も可能である。
1976年のF1世界選手権イン・ジャパンと1977年の日本GPをTBSが中継し、その後1986年までは、TBSがダイジェスト形式で放送を行っていた。また、カーグラフィックTV(当時はテレビ朝日、後のBS朝日)でも全戦をダイジェスト形式で放送を行っていたこともある。
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1976年のF1世界選手権イン・ジャパンと1977年の日本GPをTBSが中継し、その後1986年までは、TBSがダイジェスト形式で放送を行っていた。また、カーグラフィックTV(当時はテレビ朝日、後のBS朝日)でも全戦をダイジェスト形式で放送を行っていたこともある。
1987年から日本GPが復活することや中嶋悟のフルタイム参戦に伴い、フジテレビは日本GPのみを中継できる権利を購入しようとFIAにかけあった。しかし、FIAの放映権販売の方針として、一つのグランプリだけを売ることをせず、すべてのグランプリの放映権を一括で購入させる方式をとっていた。そのため、フジテレビはある意味においてはやむなく独占中継権を取得した。放映権料は30億といわれた。同局はその際、日本GPの冠スポンサー(名称は「フジテレビジョン日本グランプリ」)にもなり、23年間冠スポンサーを継続したが、リーマンショックに端を発した不況の煽りを受け、2010年冠スポンサーの座を辞した。
1991年の日本GPは日曜日の20時からというゴールデンタイムにテレビ放送され、バブル景気下における未曾有のF1ブームの上に、日本人初のレギュラードライバーの中嶋悟の最後の日本GP、セナとマンセルのタイトル争いといった要素が影響し、すでにレース終了から5時間以上が経ってからの録画中継という形にもかかわらず、20.8%(中部地域では27.4%)の高視聴率をマーク。裏番組であるNHKの大河ドラマとほぼ同じ視聴率を上げ、関係者を驚かせ、日本のF1ブームを象徴する出来事となった。
1987年から25年放送されてきた地上波放送がスポンサーの減少などの理由で終了し、BSフジでの放送に移行されることになった。CS放送(フジテレビNEXT)での全セッション生中継はそれまでと同様に継続された。
2014年、インターネット視聴サービス「フジテレビNEXT smart」でも生中継を開始。地上波(関東ローカル)で数戦ごとにまとめたダイジェスト番組が放送された。
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1987年から25年放送されてきた地上波放送がスポンサーの減少などの理由で終了し、BSフジでの放送に移行されることになった。CS放送(フジテレビNEXT)での全セッション生中継はそれまでと同様に継続された。
2014年、インターネット視聴サービス「フジテレビNEXT smart」でも生中継を開始。地上波(関東ローカル)で数戦ごとにまとめたダイジェスト番組が放送された。
1976年の富士スピードウェイでのF1日本初開催時の決勝の模様はTBSが午後3時から録画映像で放送する予定だったが、スタート順延のため結果的に初のTV中継にして初の生中継となった。しかし1987年に鈴鹿サーキットに移って以降は、F1と同じくフジテレビ系列が放送する日本中央競馬会の日曜日のメインレースと時間帯が重なるため生中継ができず、日本国外では生中継が行われながら開催国では同日夜のゴールデンタイム・プライムタイムでの録画放送しか見られないと言う状況が長年続いていた。1994年のパシフィックGPが日本国内開催のF1グランプリレースとして初めてフジテレビ系列で生中継されたが、この時はレーススタート時間が12時30分であったことで、中央競馬中継とのバッティングが避けられることによって実現したものであった。しかしその後も長く、日本国内開催のF1グランプリレースが地上波で生中継されることはなかった。
2005年に、フジテレビが放送を開始して初めて日本GPの地上波生中継が実現した。ファイナルラップでマクラーレンのキミ・ライコネンがルノーのジャンカルロ・フィジケラを追い抜くという、1位と2位の逆転劇があったことなどにより平均視聴率10.3%(関東地区)とまずまずの結果を残したことから2006年以降も地上波生中継が継続された。
2007年9月30日の日本GPは日本中央競馬会のGI競走スプリンターズステークスと重なることからどうなるか注目されたが、日本GPの生中継は13時10分 - 15時15分(最大延長15時35分まで)となり、レギュラーの競馬中継時間と一部重なることになるが、F1・競馬両レースを生中継するにはほぼ問題ないスケジュールとなった。しかし日本GPが雨の影響でレース時間が延長になり、15時35分までF1が中継され、トップ3記者会見のカット、また競馬もパドックや本馬場入場のカットなどの影響があった。
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2009年もGIスプリンターズステークスと重なったが、スプリンターズステークスの発走時刻を通常のGI発走時刻より5分遅く15時45分とすることで回避が図られた。
2010年は日本GPのレーススタート時刻が15時に変更され、中央競馬中継(みんなのKEIBA)と時刻が被ることとなったが、中央競馬中継のための規約の関係上、みんなのKEIBAを放送休止にはできないため、日本GPは16時からの録画放送に変更となった。
海外グランプリではカナダGPやブラジルGPなど南北アメリカで開催されるレースが時差の関係から生中継されていたが、1992年のメキシコGPとカナダGPは生中継ではなく、月曜朝(録画放送)・月曜深夜(ダイジェスト)の2回放送されていた。また、1999年と2006年のオーストラリアGPが生中継で放送されている(2006年は残り3周あたりから生中継)。ヨーロッパにおいて開催されるレースは、レース時間が日本におけるゴールデンタイム、プライムタイムと重なり、その時間帯に相応しい高い視聴率が望めないために地上波での生中継は行われることはなかった。
CS放送は全戦生中継(金曜フリー走行、土曜フリー走行、予選、決勝)で、地上波とは別の実況・解説者にて放送という形態をとった。今宮純や川井一仁が現地のスタジオで、フジテレビのスタジオにいる実況アナウンサーともう一人の解説者(森脇基恭・熊倉重春・小倉茂徳など)と共に中継を行った。(2018年現在では一部のグランプリ以外は現地でなくフジテレビのスタジオに実況アナ・全ての解説者が揃うという形態)なお音声切り替えにより、解説、実況のない現地の音声のみで楽しむことができる。
2016年 - 2022年のアジアでのF1放映権をFOXスポーツが獲得しており、日本でF1中継が継続されるかが注目されたが、2016年2月にフジテレビが放映権を獲得したと発表した。しかし、FOXからの購入というかたちでの獲得だったため、契約上BSフジでの放送は不可能になり(ただし、日本GPのみBSフジで録画放送された)、中継はCS放送のみとなった。
2023年2月23日に、2025年までの放映権を獲得したことが発表された。
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フォーミュラ1
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2023年2月23日に、2025年までの放映権を獲得したことが発表された。
インターネットでの中継配信は2013年にソフトバンク傘下のTVバンクとイギリスのZume Motor Racingが「Formula 1 on Zume」としてパソコン及びiPad向けに2013年7月よりサービスを開始、国際映像だけでなくオンボードカメラやピットレーンの映像も切り換えられる形で提供していたが、2013年シーズン限りでサービスを終了した。2015年までは「フジテレビNEXTSmart」単独契約でも試聴可能だったが、2016年からは前述の放映権の変更に伴い、CS契約者のみがネットでも見られる形に変更されている。
2016年8月からは、イギリスのスポーツライブ配信サービス「DAZN」の日本でのサービスを開始。F1の全セッション及びオンボードカメラ映像、下位カテゴリのF2、F3の生中継配信と関連番組の配信を日本語で実施している。ChromecastやAir Stick 4Kといったキャストデバイスを使えば、テレビ画面で視聴することも可能である。
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ナス科
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ナス科(ナスか、学名:Solanaceae)は、双子葉植物綱キク亜綱ナス目(クロンキスト体系)の科の1つ。115属2678種からなる大きな群である。ナスに加え、ジャガイモやトマトなど多くの有用植物が属している。
熱帯から温帯にかけて、世界では115属2678種ほどがあり、その多くはナス属に分類される。ナスやトマト、ジャガイモなどが属するナス属、トウガラシやピーマンなどが属するトウガラシ属、タバコなどが属するタバコ属、チョウセンアサガオなどが属するチョウセンアサガオ属、ホオズキなどが属するホオズキ属、ペチュニアなどが属するペチュニア属などが知られている。多くは一年草もしくは多年草、低木の木本がある。葉は互生し単葉だが、まれに複葉のものもある。花は両性花で放射相称で、花冠が5裂するのが特徴。ピーマンやトマトを輪切りにすると、5つに分かれているのが確認できる。雄ずいは5本あり、花冠裂片と互生して花筒につく。葯は2室で、先に孔が開くか縦裂する。子房は上位で2室で花の中線に対して斜めになり、膨れた中軸胎座に多数の倒生または半倒生胚珠をつける。漿果あるいは蒴果をつける。種子には胚乳がある。アルカロイドを含み薬用になるものもあれば、有毒なものもある。
ナスやトマト、トウガラシ、ピーマンなど果実を食用にする種が多く、ほかにジャガイモのように塊茎を食用とするもの、タバコのように嗜好品として栽培されるもの、ホオズキやペチュニアなど観賞用に栽培されるものなど、利用の幅は広い。また、一般に特有のアルカロイドを含むために、多様な生理作用をもつ。これらは薬用や香辛料として用いられる場合もあるが、一般には強い刺激性や毒性を持つ。なお、食用とされる作物では品種改良により可食部にはアルカロイドが含まれないが、ジャガイモの芽・茎(ソラニン)や未熟なトマト(トマチン)などのように非可食部は有毒である場合がある。
かつて、ナス科の植物はデザイナーフーズ計画のピラミッドで2群に属しており、2群の中でも最下位のアブラナ科の植物の1つ上の4位に属するが、癌予防効果のある食材であると位置づけられていた。
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オブジェクト指向
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オブジェクト指向(オブジェクトしこう、英: object-oriented)は、ソフトウェア開発とコンピュータプログラミングのために用いられる考え方である。元々は特定のプログラミングパラダイムを説明するために考案された言葉であり、その当時の革新的技術であったGUI(グラフィカル・ユーザーインターフェース)とも密接に関連していた。明確な用語としては1970年代に誕生し、1981年頃から知名度を得て、1986年頃からソフトウェア開発のムーブメントと化した後に、1990年頃にはソフトウェア開発の総合技術としての共通認識を確立している。ソフトウェア開発における一つの標語のような扱い方もされている。
オブジェクトとは、プログラミング視点ではデータ構造とその専属手続きを一つにまとめたものを指しており、分析/設計視点では情報資源とその処理手順を一つにまとめたものを指している。データとプロセスを個別に扱わずに、双方を一体化したオブジェクトを基礎要素にし、メッセージと形容されるオブジェクト間の相互作用を重視して、ソフトウェア全体を構築しようとする考え方がオブジェクト指向である。
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オブジェクト指向
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オブジェクトとは、プログラミング視点ではデータ構造とその専属手続きを一つにまとめたものを指しており、分析/設計視点では情報資源とその処理手順を一つにまとめたものを指している。データとプロセスを個別に扱わずに、双方を一体化したオブジェクトを基礎要素にし、メッセージと形容されるオブジェクト間の相互作用を重視して、ソフトウェア全体を構築しようとする考え方がオブジェクト指向である。
オブジェクト指向(object-oriented)という言葉自体は、1972年から80年にかけてプログラミング言語「Smalltalk」を開発したゼロックス社パロアルト研究所の計算機科学者アラン・ケイが、その言語設計を説明する過程で誕生している。本人の述懐によると、大学院時代のケイがプログラミング言語「Simula」に感化されて日夜プログラミング・アーキテクチャの思索に耽っていた1967年頃、今何をしているのかと尋ねてきた知人に対して「object-oriented programmingだよ」とその時の造語で答えたのが原点であるという。このオブジェクト指向が知名度を得るようになったのは1981年頃からであり、当時の著名なマイコン専門誌BYTEによるSmalltalkの誌上紹介が契機になっている。オブジェクト指向の中でケイはメッセージングという考え方を重視していたが、世間の技術的関心はクラスとインスタンスの仕組みの方に集まり、オブジェクト指向の解釈はケイの考えとは異なる方向性で推移していった。クラスを初めて導入した言語はSimulaの1967年版だったので、こちらも後付けでオブジェクト指向の源流に位置付けられることになった。Simulaに結び付けられたオブジェクト指向と、Smalltalkで提唱されたオブジェクト指向の性格は全く異なるものだったので、後のオブジェクト指向の解釈に数々の齟齬を生じさせている。1983年に計算機科学者ビャーネ・ストロヴストルップがSimulaをモデルにした言語「C++」を公開し、このC++が人気を博した事や、Smalltalkでも実際の開発に対応するためにSimulaスタイルの継承などの機能が取り入れられたことで、オブジェクト指向プログラミングはSimulaスタイルの方で認識されるようになった。
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オブジェクト指向
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1986年からACM(計算機協会)がOOPSLA(オブジェクト指向会議)を年度開催するようになり、オブジェクト指向はコンピュータサイエンスの一つのムーブメントになった。OOPSLA初期のチェアパーソンは、Smalltalkが生まれたゼロックス社パロアルト研究所のフェローが務めることが多かった。Smalltalkは正確にはプログラミング言語とGUIフレームワークを合わせた統合開発運用環境であり、ゼロックスAlto機上のOSまたはミドルウェアとして制作されていた。ゼロックスAltoはGUIを初めて汎用的にサポートしたコンピュータとOSであり、かのスティーブ・ジョブスを啓発してMacintoshのモデルになったことはよく知られている。1980年代前半のコンピュータ界隈は、CUI(キャラクタ・ユーザーインターフェース)からGUI(グラフィカル・ユーザーインターフェース)への過渡期であったので、すでにプログラミングパラダイムとGUIデザイン理論をミックスさせていたオブジェクト指向は、その当時における次世代的なソフトウェア開発技術になり得るものとして関心を集めていた。
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オブジェクト指向
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また別の背景としては、1970年代からの主流である構造化開発が拡張を続けていた中で、様々なデータ構造図やデータフロー図の技法およびデータモデリングの手法がやや乱立気味になっていたという事情があり、その見直しを兼ねて一からの仕切り直しによるソフトウェア開発技術の標準化(standardization)を図りたいとする産業界や計算機科学界の思惑もあった。オブジェクト指向はそのためのスローガンとしても最適であった。こうした経緯から技術的以外の意味も与えられたオブジェクト指向は同時にバズワード化することにもなっている。構造化開発が機能を中心にして機能とデータ構造を個別にデザインする段階的詳細化を基礎にしていたのに対し、オブジェクト指向はデータと機能を一つにまとめたobjectをソフトウェアデザインの中心にした上でエドガー・ダイクストラ発案の抽象データ構造及びバーバラ・リスコフ提唱の抽象データ型を基礎にしていた。これは前述のSimulaスタイル由来である。オブジェクト指向開発(object-oriented development)という言葉を最初に引用したのは、1986年のソフトウェア技術者グラディ・ブーチであったとされる。その最初の活用対象になったのは、データベース開発とオペレーティングシステム開発およびユーザーインターフェース設計であった。
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OOPSLAの開催と連動してまずオブジェクト指向設計(OOD)とオブジェクト指向分析(OOA)が立ち上げられた。これは構造化開発のSDとSAに倣っていた。1980年代後半からOOPSLA界隈の識者たちによって様々な分析メソッドと設計メソッドが発表されるようになった。この分析/設計メソッドから導出される概念モデルを、形式的にチャート化ないしダイアグラム化するという作業がモデリングであり、構造化開発でも機能モデルやデータモデルや実体関連モデル(ER図)などが存在していたが、抽象化を尊ぶオブジェクト指向開発では特にこのモデリングが重視されたのが特徴である。1988年のオブジェクト指向システム分析(OOSA)、1990年からのCoad&Yourdon法、1991年のBooch法とオブジェクトモデル化技法(OMT)、1992年のオブジェクト指向ソフトウェア工学(OOSE)、1993年のフュージョンメソッドとMartin&Odell法といった数々のオブジェクト指向方法論(object-oriented methodology)によるモデリング手法が発表され、いずれも形式言語化されていたのでオブジェクト指向では、モデリング言語とプログラミング言語が並んでソフトウェア開発の両輪になった。
1990年前後から認知されるようになったオブジェクト指向方法論とは、要求分析・概念設計・モデリング・プログラミングといった一連の工程を総括的に形式化した理論体系であり、ソフトウェア開発の総合技術としてのオブジェクト指向を体現していた。1994年にモデリング言語をプログラム設計に直接適用したGOFデザインパターンが初回発表された。Booch法とOMTとOOSEの考案者(スリーアミーゴス)は、後のIBMブランドになるラショナルソフトウェアで合流して統一モデリング言語(UML)を制作し、1995年のOOPSLAで初回発表した。オブジェクト指向はソフトウェア開発工程の分野にも広がり、モデル駆動工学、ドメイン固有言語、リファクタリング、アジャイルソフトウェア開発といった数々のトピックもOOPSLAから誕生している。IBMラショナルはオブジェクト指向開発工程フレームワークを標榜するラショナル統一プロセスを2003年に公開した。
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1989年にはIBM社、Apple社、ヒューレットパッカード社、サンマイクロシステムズ社、アメリカン航空などの11社がコンピュータ産業共同事業団体OMG(Object Management Group)を設立した。その主な目的は、企業システムネットワークの基盤になる分散コンピューティングを構築するための分散オブジェクト設計の標準化を図ることであった。ここでのオブジェクトもデータとメソッドの複合体と定義されていた。1991年に分散オブジェクトの規格パラダイムとなるCORBAが発表された。1997年にOMGの標準モデリング言語はUMLに策定された。モデリングの形式体系化に力を注いでいたOMGはモデル駆動工学のメソッド確立を進めて、2001年にモデル駆動アーキテクチャを発表している。
1989年に発表された「User Interface A Personal View」という記事の中でアラン・ケイは、Smalltalkのオブジェクト指向性は大変示唆的であると前置きした上で、そのプログラミング言語でのOOPと、そのGUIフレームワークでのOOUIを照応させながらこう述べている。これは人とコンピュータの対話形式としてのオブジェクト指向に沿ったものになっている。1970年代から80年代にかけてのオブジェクト指向は、GUI(グラフィカルユーザーインターフェース)と半ば表裏一体で扱われていたという技術史背景がある。
これは認知心理学のアフォーダンスにつながる考え方と解釈されている。その説明の中でケイは、Smalltalkプログラミングを抽象シンボル舞台と形容しており、GUIフレームワークを具象ユーザーインターフェース舞台と形容している。前者の抽象シンボル舞台では、我々は最初にオブジェクトの名前(識別子)をコーディングし、次にそのオブジェクトが実行する「なにか」を伝えるメッセージをコーディングすることになる。後者の具象ユーザーインターフェース舞台では、我々は最初に操作する対象(アイコン)を選択し、次にその対象が提供する「なにか」のメニュー欄を表示選択することになる。この双方を踏まえた上でケイはこう結論している。
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80年代前半までのオブジェクト指向はプログラミングとGUIの融合思想と言った方が適当であり、オペレータがプログラミングでカスタマイズした結果をGUIビュー環境でほぼ同時に確認できるという特性は、コマンドライン実行とキャラクタ文字環境が当然であった時代において革新的であった。プログラミングはコンピュータとの潜在的な対話であり、GUIは顕在的な対話であると形容されている。長じてアイコン選択とメニュー処理を適宜に連携させるGUIの考え方をプログラミングにも応用したものが、後述のオブジェクトとメッセージ式になっている。
1992年にACMからプログラミング言語史編纂の一環として執筆を依頼されたアラン・ケイは、翌93年の「The Early History Of Smalltalk」でオブジェクト指向の原点としてのSmalltalkについて解説している。冒頭の序章で設計理念が説明され、第一章から第三章まではその着想元になったバロースB5000、Sketchpad、Simula、Flex machine、LISPなどの技術史が記され、第四章から第六章まではSmalltalkの開発史が綴られている。ここでは序章から特徴的な要点のみを抜粋する。
再帰構成すなわち再帰の概念は、後続文にも繰り返し登場している。もっとも再帰は一般知識であり、例えばジョン・マッカーシーもLISPの設計をrecursive functions of symbolic expressions and their computation by machine.(記号式の再帰関数群と機械によるその計算)と概略していた。メッセージ交換は、徹底的な疎結合および情報隠蔽(英語版)を示唆している。
ケイが理想とする計算の総体可能性の反対である劣化要素への分割とは、いわゆる型システムの導入を指している。他の論考でもケイは特に静的な型システムに対して否定的な見解を示していた。
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ケイが理想とする計算の総体可能性の反対である劣化要素への分割とは、いわゆる型システムの導入を指している。他の論考でもケイは特に静的な型システムに対して否定的な見解を示していた。
ここでのモナドはObjectの情報隠蔽を示唆しており、イデア論はクラスのインスタンス化を示唆している。ただし、クラスもまたメタクラスのインスタンス化とするような哲学は、非実用的であったと言及されている。Objectを再帰構成するMetaobjectによる拡張性と、機能注入の視点から継承を再解釈したMix-inによる拡張性は重視されており、それらを初めてアプローチしたCLOSのMetaobject Protocolを、ケイは1997年のOOPSLAでOOPへの最も深い洞察と評している。Objectがモナドで言う”窓のない部屋”であるのに対して、Metaobjectは”部屋のない窓”であり、窓の向こう側にある部屋の中の窓の向こう側に~という風に、他者との繋がり(縁)で左右される自己対象を表現していた。
第四章では、Smalltalkの言語仕様が六つに概略されている。
2, Objects communicate by sending and receiving messages (in terms of objects).
3, Objects have their own memory (in terms of objects).
4, Every object is an instance of a class (which must be an object).
5, The class holds the shared behavior for its instances (in the form of objects in a program list).
この和訳は以下のようになるが、ここでは長い説明を避けて特徴的な要点のみを解説する。
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5, The class holds the shared behavior for its instances (in the form of objects in a program list).
この和訳は以下のようになるが、ここでは長い説明を避けて特徴的な要点のみを解説する。
(2)は様々に解釈されるが、コミュニケーションするオブジェクトは、プロセスやアクターとしての性格が強くなる。(3)の記憶は簡単に言うとフィールドやプロパティや属性であるが、オブジェクトの振る舞いを制約するための私的環境を示唆している。(4)は、クラスもまたメタクラスのインスタンス化であるという再帰構成を示唆している。(5)の振る舞いは簡単に言うとメソッドであるが、LISPのフォームリストに似たオブジェクトとして保持されることを示唆している。(6)は、式内のオブジェクトはその時の並べられた順序によって、いずれもがコントローラ(関数式)になり、いずれもがそれへのメッセージ(引数)になることを示唆している。
2003年にアラン・ケイはオブジェクト指向の貢献でチューリング賞を受賞し、知人から改めてオブジェクト指向の意味を尋ねられたケイは以下のようにメール返信している。このメールは60年代末からの構想をさり気なく簡潔にまとめたものとしてしばしば引用される。ここでは文章順に各要点を抜粋していく。
上記はケイ本来のオブジェクトの在り方を述べたものであり、特に解説はしない。
ここでプログラムからデータを取り除きたいという考えが提示されている。
ここでの代数は、プロセス代数か、プログラミングに適用した代数的構造とも解釈できる。
メッセージングは造語に近く、メッセージパッシングに類似の概念であり、ただのリモートプロシージャコールとは異なることが明言されている。ステートプロセスは、データとコードの一元化概念であり、これも造語である。遅延バインディングは、シンボルと実体の結合をランタイムで決定する概念である。
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ここでの代数は、プロセス代数か、プログラミングに適用した代数的構造とも解釈できる。
メッセージングは造語に近く、メッセージパッシングに類似の概念であり、ただのリモートプロシージャコールとは異なることが明言されている。ステートプロセスは、データとコードの一元化概念であり、これも造語である。遅延バインディングは、シンボルと実体の結合をランタイムで決定する概念である。
ここで抽象データ型に対しての、非データ手順(non-data-procedure)というワードが登場する。振る舞いを通してデータを扱うというデータ抽象の概念を、更に抽象化したものが非データであり、代数学で言う写像だけでデータを表現するという概念を指している。これにケイの生物学専攻を背景にしたバイオ/ネット(bio/net)なる考えが加えられている。
非データ手順(non-data-procedure)に関連付けられるものとしては、代数的構造、圏論の射や関手の構造、Futuresとpromises(英語版)、ポイントフリースタイル(英語版)、プロセス代数、アクターモデル、自由モナドなどが挙げられる。
ここで歴史に戻る。1970年前後になるとソフトウェア危機としても語られるプログラム規模拡大に対応するために、サブルーチンとデータをまとめたプログラムモジュールという機能が登場した。それと同時期の1967年にオルヨハン・ダールらはクラスという機能を備えたSimula67を開発し、1969年からエドガー・ダイクストラは抽象データ構造という概念を備えた構造化プログラミングを提唱した。1974年からIBM社中心の研究者たちが構造化分析/設計と総称される技法を発表し、構造化プログラミングはこちらに取って代わられた。1972年からアラン・ケイはメッセージングという概念を備えたオブジェクト指向を誕生させている。オブジェクト指向は後にクラス・パラダイムにマウントされている。
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オブジェクト指向
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構造化設計は、サブルーチン複合体とデータ構造を扱っている具象データ(concrete data)技術である。Simula発のクラスとダイクストラ発の抽象データ構造は、プログラムモジュールにカプセル化・継承・多態性を備えて抽象体として扱おうとする抽象データ(abstract data)技術である。そしてアラン・ケイ本来のオブジェクトとは、プログラムモジュールを生物学と代数学の観点から再解釈した非データ(non data)技術であった。構造化開発は1980年代までの主流であり、続けてオブジェクト指向が主流になったが、現在においてもクラスをただのデータとメソッドの複合体として扱っているようなオブジェクト指向は、構造化開発と大差ないものになり「具象データ」から「抽象データ」への思考転換の難しさを物語っている。モジュールの抽象化が提唱され始めたのは1970年代であったが、同時期にアラン・ケイは「抽象データ」を更に抽象化した「非データ」を構想していた。
Q&AサイトのQuoraで「1966~67年のオブジェクト指向という造語を発したアラン・ケイに誰かが影響を与えていたのか?」という質問に対して本人がこう回答している。ここでのキーワードである”rotation”は「一つのコンピュータはどこかのコンピュータができることをできる、相互通信によってあらゆる規模の計算を表現できる」を意味する。
The foolish part is that “object” is a very bad word for what I had in mind — it is too inert and feels too much like “data”. Simula called its instances “processes” and that is better.“Process-oriented programming” would have been much better, don’t you think?(愚かしいこのオブジェクトは僕の考えを表現するのにとても悪い言葉だった。不活性的でデータを過剰に意識させたからだ。Simulaはプロセスと呼んでいた。こっちがよかったな。プロセス指向プログラミングの方がずっと良かったと思わないかい?)
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アントニオ・ヴィヴァルディ
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アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi, 1678年3月4日 - 1741年7月28日)は、現在はイタリアに属するヴェネツィア出身のバロック音楽後期の著名な作曲家の一人、ヴァイオリニスト、ピエタ院の音楽教師、カトリック教会の司祭。興行師、劇場支配人でもあった。多数の協奏曲の他、室内楽、オペラ、宗教音楽等を作曲。現代ではヴァイオリン協奏曲『四季』の作曲者として広く知られている。
ヴェネツィアに生まれ、オーストリアのウィーンで没した。サン・マルコ大聖堂付きオーケストラのヴァイオリニストで理髪師の父ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィヴァルディからヴァイオリンを学ぶ。10歳より教会附属の神学校に入るとともにサン・マルコの見習いヴァイオリニストになり、13歳で父の代理を務める様になる。15歳で神学校に入学し、25歳で司祭に叙階された。赤毛であったことから、「赤毛の司祭」Il Prete Rosso(イル・プレーテ・ロッソ)と呼ばれるようになった。
司祭になった年までに全12曲の『トリオ・ソナタ集』作品1を出版し、在俗司祭となってヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院 のヴァイオリン教師に就く。後に楽器演奏全ての指導者「マエストロ・デ・コンチェルティ(maestro de concerti / de'concerti)」として、多くの器楽曲と、後には宗教曲もピエタに提供し、リハーサルと指揮をする義務を負った。一方、オペラ作曲家としての名声も次第と揺るぎないものになり、ヴァイオリン、ヴィオラ・ダモーレ、ヴィオラ・アッリングレーゼの卓越した演奏家としての演奏旅行の他、オペラ上演のためにヨーロッパ各地を回った。彼の残した作品は死後長らく忘れられた存在であったが、20世紀に入り多くの作品が再発見され、再評価されることになった。
現在確認できている作品は、四季をはじめとして600を超える協奏曲、改作や共作、パスティッチョを含めて50数曲のオペラ(ほぼ総てがオペラ・セリアで、現存するのはその内20数曲、ヴィヴァルディ自身は「94のオペラを作曲した」と書簡に記している)、73のソナタ、等の室内楽曲、シンフォニア、オラトリオ(現在自筆譜が残っているのは勝利のユディータのみ)、宗教音楽(モテットなど)、カンタータ、など多岐に渡る。
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アントニオ・ヴィヴァルディ
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現在確認できている作品は、四季をはじめとして600を超える協奏曲、改作や共作、パスティッチョを含めて50数曲のオペラ(ほぼ総てがオペラ・セリアで、現存するのはその内20数曲、ヴィヴァルディ自身は「94のオペラを作曲した」と書簡に記している)、73のソナタ、等の室内楽曲、シンフォニア、オラトリオ(現在自筆譜が残っているのは勝利のユディータのみ)、宗教音楽(モテットなど)、カンタータ、など多岐に渡る。
シャルル・ド・ブロスに「写譜屋が写譜を行っている間に、協奏曲の全パートを作曲できる」(「イタリア書簡集」1739年の手紙より)と豪語していた彼は速筆の多作家であり、記号や用語の簡略化を多用した崩し書きの筆致は自筆譜で確認できる。時代楽器で演奏すると全楽章が4分半で終わってしまう協奏曲(RV 138)もあり、これを凌ぐ短い協奏曲(RV 161)も存在する。
ヴィヴァルディは特に急・緩・急の3楽章を持ち、主に第1楽章において全奏による繰り返しと独奏楽器による技巧的なエピソードが交替するリトルネッロ形式をもつ独奏協奏曲の形式を確立した人物として知られる。ただし実際にはヴィヴァルディが独奏協奏曲の考案者というわけではなく、ジュゼッペ・トレッリらはヴィヴァルディ以前に独奏協奏曲を書いているが、ヴィヴァルディの作品は国際的に有名になり、多くのドイツの作曲家がヴィヴァルディの形式で協奏曲を書くようになった。古典派の協奏曲はヴィヴァルディなしには考えることができない。
ヴィヴァルディは書こうと思えば高度に対位法的なフーガなどの音楽も書くことができたが、より直感的で透明な音楽を主に書いた。この親しみやすさによって第二次世界大戦後のバロック・ブームはヴィヴァルディの再発見という形で進められた。
ヴィヴァルディはヴェネツィア派のヴァイオリニストとしても、18世紀前半のイタリアのヴァイオリン界に重要な役割を果たしており、運指法や運弓法に新生面を開いた。
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アントニオ・ヴィヴァルディ
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ヴィヴァルディは書こうと思えば高度に対位法的なフーガなどの音楽も書くことができたが、より直感的で透明な音楽を主に書いた。この親しみやすさによって第二次世界大戦後のバロック・ブームはヴィヴァルディの再発見という形で進められた。
ヴィヴァルディはヴェネツィア派のヴァイオリニストとしても、18世紀前半のイタリアのヴァイオリン界に重要な役割を果たしており、運指法や運弓法に新生面を開いた。
その一方でヴィヴァルディの作品はどれも同じという批判的な意見もあり、たとえばルイージ・ダッラピッコラは「600曲の協奏曲を作曲したのでなく、1曲を600回作曲したにすぎない」と言ったとされる。イーゴリ・ストラヴィンスキーも、おそらくダッラピッコラの言葉によって「同じ形式をあんなにくりかえしくりかえし作曲できた、退屈な男にすぎない」と言っている。皆川達夫は、ダッラピッコラの言葉は「いいすぎ」であり不適当としつつも「個人の好み」として「ヴィヴァルディの音楽の品のなさが耐えられない」と述べている。しかし、彼らの発言が記録された1955年から1972年では、ヴィヴァルディの新鮮な古楽器復興は全く行われていない。ヴィヴァルディの時代は演奏会に対して厳粛に耳を傾けるという聴取は行われていなかった。
通常リオム番号(RV番号)で楽曲が整理されるが、この他にパンシェルル番号(P番号)、ファンナ番号(F番号)が存在する。
協奏曲の独奏のために用いられた楽器の種類と組み合わせの多彩さでも知られ、大量のヴァイオリンのための協奏曲だけでなく、チェロ、リュート、テオルボ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、ヴィオラ・ダモーレ、マンドリン、オーボエ、フルート、ピッコロ、シャリュモー(クラリネットの前身)、バソン/ファゴット、トランペット、トロンボーン、ホルン、オルガン等同時期の作曲家としては格段に多様である、これはピエタの運営委員会が《合奏の娘たち》に珍しい楽器を演奏させて演奏会の希少性を高めるためにヴィヴァルディに求めたことでもあるが、ヴィヴァルディはオーボエやバソンといった管楽器、チェロ、オルガンといった伴奏用の楽器にもヴァイオリンがほぼ独占していた独奏楽器の地位を与え、ピエタの娘たちに演奏させた。
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アントニオ・ヴィヴァルディ
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1678年3月4日、イタリア・ヴェネツィアのカステッロ区に生まれる。誕生日は長らく不明であったが、20世紀になって、当時の洗礼記録が教区教会で発見された。瀕死の状態で生まれたため、助産婦が仮の洗礼を授け、2ヶ月後の5月6日に生家の目と鼻の先にあるサン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会で正式な洗礼を受けた。このことは、ヴィヴァルディの生まれながらの病弱さを示しているとするものと、当日にヴェネツィアを襲った大きな地震によるものという2つの見方がある。
父親のジョヴァンニ・バッティスタは、理髪師兼町医者(当時の理髪師は簡単な外科医でもあった)として家計を支えていたが、同時にヴァイオリンの才能に恵まれ、1713年発行のヴェネツィア旅行案内のパンフレットには息子アントニオと並んで名ヴァイオリニストとして紹介されるほどであった。1685年にサン・マルコの楽長になったジョヴァンニ・レグレンツィらとも親交があり、同年にサン・マルコ大聖堂のヴァイオリニストに選ばれると共に、レグレンツィを代表とする音楽家組合の創設メンバーのひとりになった。同じブレシア出身で高名なオペラ作曲家だった副楽長のカルロ・フランチェスコ・ポッラローロとも親交があったと見られ、その後劇場付きのヴァイオリニストも務めるようになる。1676年に仕立屋の娘カミッラ・カリッキヨと結婚し、初めて生まれた男子に、ヴェネツィア生まれの長男として代表的な「アントニオ」と、3月4日を祝日とする聖人ルキウス1世から「ルーチョ」の洗礼名を与える。妻はアントニオの他に夭逝した子も含めて男の子5人、女の子5人を授かるが、彼らの中から音楽家は誕生しなかった。幼少時から父親のもとでヴァイオリンに習熟すると共に、父親の幅広い音楽仲間から作曲法などを学ぶ。レグレンツィとポッラローロのほか、サン・マルコのオルガニストでのちの楽長になるアントニオ・ロッティや首席ヴァイオリニストのジョルジョ・ジェンティーリ、1699年までサン・マルコのチェリストを務めていたアントニオ・カルダーラ、ポッラローロの息子で1702年から父の任務を引き継ぎ、ロッティの後任の楽長になったアントニオ・ポッラローロなど、さまざまな音楽家がヴィヴァルディに影響を与えていたと考えられている。
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アントニオ・ヴィヴァルディ
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庶民階級のヴィヴァルディが、やがて世に出て、さまざまな階級の人と引け目なく交わるには、聖職者になるのがもっとも確実な方法だった。1688年、10歳で当時サン・マルコ大聖堂とサン・マルコ広場を挟んで向かい合って建っていたサン・ジェミニアーノ教会付属学校に入学し、その頃サン・マルコの見習いヴァイオリニストになる。12歳で父と共演し、13歳で劇場ヴァイオリニストの仕事をする父の代理をしばしば務めるようになる。1693年、15歳で剃髪し、1699年、21歳で下級叙階を得て、1700年、22歳で助祭となり、翌1703年の3月25日に、25歳で司祭に叙階される。彼は「赤色」に因むRossi(ロッスィ)の綽名で呼ばれた父親と同じく赤い髪であったために、「赤毛の司祭」Il Prete Rosso(イル・プレーテ・ロッソ)と呼ばれた。
司祭の叙階を得た1703年、ピエタの音楽教師となる9月までの間に、『トリオ・ソナタ集』作品1をイタリアの出版社ジュゼッペ・サーラから出版する、この曲集はアルカンジェロ・コレッリの『作品1』から『作品4』と同じ様式の3声のソナタで、当時の流行に沿ったものであり、1700年に出版されたコレッリの作品5『12のヴァイオリン・ソナタ集』同様、12曲目がスペイン舞曲の《ラ・フォリア》を主題とした曲になっていた。この曲集は、父と同じブレーシャ出身のヴェネツィア貴族アンニーバレ=ガンバーラ伯に献呈され、出版費用も伯爵が負担した。この曲集は1705年に出版社の費用負担で再版された(従来はこの版が初版と見做されていた)ことから、十分な販売実績を示し、それがヴィヴァルディが音楽家への道を目指す理由になったとも考えられる(作品1は1712~1713年にアムステルダムで、1715年にパリで再版されている)。
従来ヴィヴァルディは、生まれつき喘息と思われる持病があり、特に司祭としてミサの説教に立っている時に発作が起こると、ミサの続行が困難と成ることがたびたびあり、同年9月にはミサを挙げることを免除され、平服の在俗司祭となったと本人の手紙で主張され、そう考えられていたが、実際は司祭の職務を免れるための方便だったとも推測されている。
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アントニオ・ヴィヴァルディ
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従来ヴィヴァルディは、生まれつき喘息と思われる持病があり、特に司祭としてミサの説教に立っている時に発作が起こると、ミサの続行が困難と成ることがたびたびあり、同年9月にはミサを挙げることを免除され、平服の在俗司祭となったと本人の手紙で主張され、そう考えられていたが、実際は司祭の職務を免れるための方便だったとも推測されている。
在俗司祭となった9月、1346年設立という由緒あるピエタ慈善院付属音楽院 でヴァイオリンの教師として教鞭を執り始めた。キリスト教会が行う慈善事業の一環として、捨て子の養育を目的に建てられた慈善院は、才能のある女子に対して音楽教育も盛んで、ヴェネツィア共和国にはピエタをはじめ、インクラービリ、メンディカンティ、オスペダレットの4つがあり、附属の音楽院が併設されていた。また1704年にはヴィオラ・アッリングレーゼ(Viola all'inglese)(フランス語版)(「イングランド式ヴィオラ」の意味、Lyra viol (英語版)と推測されるが諸説ある。ヴィオラ・ダ・ガンバと同じく脚で支える弦楽器でヴィオラ・ダモーレのように共鳴弦を持つ)も教えている。1703年以降から1740年にかけて、教師として、また作曲家として器楽曲から声楽にいたる幅広い分野の作品を提供し、そのリハーサルを行なう雇用関係を断続的に持った。
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アントニオ・ヴィヴァルディ
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ヴィヴァルディは1708年の11月から、イタリアの出版社アントニオ・ボルトリのカタログにヴァイオリン・ソナタ集の出版広告を掲載していたが、まだ献呈先は存在しなかった。その後1708年の12月29日に、デンマーク=ノルウェーの王フレデリク4世がヴェネツィアに上陸する。フレデリク4世は翌日の午前11時にはピエタを訪問して宗教音楽会に臨み、ガスパリーニの代役としてヴィヴァルディが指揮する娘たちの歌と演奏を聴いた。フレデリク4世はヴェネツィア各所で催される音楽界や舞踏会に臨席し、ピエタにもたびたび足を運んだ。ヴィヴァルディとボルトリはこの機を逃さず、空欄だった献呈先にフレデリク4世の名を記し、国王が帰国する1709年の3月6日までに、12曲すべて出版してフレデリク4世に手渡した。出版を急いだためか、この時のボルトリ社発行の出版譜には作品番号が付されておらず、1710年頃にアムステルダムの出版社エティエンヌ・ロジェから『ヴァイオリン・ソナタ集 作品2』として再販されている。しかしフレデリク4世が帰国する前の1709年の2月24日の年末の会議(ヴェネツィア共和国の暦はローマ暦の名残で3月から1年が始まる)で、僅差の投票の結果ヴィヴァルディとピエタ音楽院との契約が更新されなかった。
その後1711年の9月、ヴィヴァルディはピエタ音楽院に全会一致の投票で復帰する。同年に「作品3」として『調和の霊感』が、アムステルダムの出版社エティエンヌ・ロジェから出版され、ベストセラーとなる。作品3はトスカーナ大公コジモ3世の継嗣、フェルディナンド・デ・メディチへ「フェルディナンド3世」の敬称で献呈されている。この称号はフェルディナンドが大公位を継いだ際に名乗るはずのものであったが、父コジモ3世が長命を保ったため、実際に用いられることはなかった。
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アントニオ・ヴィヴァルディ
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1713年に、ピエタ音楽院でヴィヴァルディの先任の音楽指導者の「マエストロ・ディ・コーロ(Maestro di Coro)」だったフランチェスコ・ガスパリーニ(Francesco Gasparini,1668-1727)が長期休暇を取ってローマに赴き、そのまま辞職する。後任が決まるまで、音楽院はヴィヴァルディに宗教曲の作曲も依頼する。同年にオペラの処女作『離宮のオットーネ(Ottone in Villa)』(RV 729)がヴィチェンツァの劇場で初演される。
この時期、基本的に音楽院の音楽教師という立場にいながら、作曲家としてのヴィヴァルディの名はヨーロッパ中に広がり始めていた。これは、生命力のほとばしりを感じさせる瑞々しい曲想のみならず、合奏協奏曲から更に進んだ独奏協奏曲のスタイルを確立していったためと考えられる。同時代のドイツ人音楽家ヨハン・ゼバスティアン・バッハも少なくとも筆写譜の形でヴィヴァルディの楽譜を入手していた。各地で公演されたオペラも次第に彼の名を高めて行った。
1713年以降、ヴィヴァルディはヴェネツィアのサンタンジェロ劇場をベースにオペラの作曲に精力的に取り組み始め、1714年の『狂気を装うオルランド(Orlando finto pazzo)』(RV 727)を皮切りに、1718年までの間に10曲を上演して人気を博した。ピエタ音楽院では1716年からは正式に「マエストロ・デ・コンチェルティ」の称号をピエタから与えられていた。1717年後半から1720年までの3年間はヴェネツィアを去り、ハプスブルク家領となったマントヴァの総督、ヘッセン=ダルムシュタット方伯フィリップに宮廷楽長として奉職し、同地で3作ものオペラを上演する。1723年7月にピエタの理事会はヴィヴァルディに対してピエタ音楽院のために協奏曲を月に2曲提供すること、旅行中は楽譜を郵送すること、リハーサルを2回ないし3回ほど指導する契約を交わした。音楽院にとってヴィヴァルディは大切な人材であり、必要不可欠な人物でもあった。
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アントニオ・ヴィヴァルディ
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この間における作品群は、1712年-1714年ごろに「作品4」として『ラ・ストラヴァガンツァ』と題する12曲のヴァイオリン協奏曲集が、ヴィヴァルディの弟子でヴェネツィア貴族のヴィットール・デルフィーノを献呈先として出版されている、1714年に作曲したオラトリオ『ファラオの神モイゼ』(RV 643,紛失)が同年に初演される。また1716年に現存する唯一のオラトリオ『勝利のユディータ』が初演される。1716年からはロジェの娘ジャンヌの下で、献呈先を持たない出版作品集、『6つのソナタ 作品5』、『6つのヴァイオリン協奏曲 作 品6』、『12の協奏曲 作品7』が出版されている。
また1716年から1717年に、ザクセン選帝侯兼ポーランド国王フリードリヒ・アウグスト1世の宮廷ヴァイオリニストで、後にコンサート・マスターとなり、ドイツ随一のヴァイオリニストとの評価を得るヨハン・ゲオルク・ピゼンデルが師事しており、ヴィヴァルディは彼と彼の所属するザクセン公の宮廷楽団(シュターツカペレ・ドレスデン)のためのヴァイオリン協奏曲やソナタ、シンフォニア等の楽曲を少なからず作曲した。ピゼンデルがドレスデンに持ち帰ったそれらの楽譜は現在のドレスデン州立図書館に保存され、ヴィヴァルディ研究の重要な資料となっている。
ヴィヴァルディは書簡の中で、ヨーロッパの各都市を旅行したことを述べており、この書簡で窺えるように、この時期はほとんど旅行に費やしている。1723年から1724年にかけてローマを訪れ、同地で3曲のオペラを上演した。1724年には、ローマ教皇(おそらく同年5月に教皇に選出されたばかりのベネディクトゥス13世)に二度謁見し、その御前で演奏したとも述べている。
1725年9月12日には、9月5日に挙式されたフランス国王ルイ15世とマリー・レグザンスカの結婚式を祝うため、駐ヴェネツィア・フランス大使ジャック・ヴァンサン・ランゲ伯爵が主催したヴェネツィアでの祝宴でヴィヴァルディのセレナータ『グロリアとヒメネオ』(RV 687)が上演された。
1726年に再びサンタンジェロ劇場の作曲家兼興行主となり、この年のオペラ《テンペラーのドリッラ》で歌手のアンナ・ジローがヴィヴァルディのオペラで初めて主演を務めた。ヴィヴァルディはその後1739年まで断続的に劇場の興行に携わる。
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アントニオ・ヴィヴァルディ
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1726年に再びサンタンジェロ劇場の作曲家兼興行主となり、この年のオペラ《テンペラーのドリッラ》で歌手のアンナ・ジローがヴィヴァルディのオペラで初めて主演を務めた。ヴィヴァルディはその後1739年まで断続的に劇場の興行に携わる。
1727年に作品9『ラ・チェトラ』を出版、神聖ローマ皇帝カール6世に献呈する。1728年にトリエステでカール6世自身に謁見する機会ができ、手書きの協奏曲集を「ラ・チェトラ」として献呈する。皇帝と親密になったヴィヴァルディは、多額の金品とパトロンの証の金鎖付きのメダリオンを賜った。
1730年と1731年に、ヴィヴァルディはオペラを上演するためプラハに向かった。1732年から1737年まで、イタリアの各都市でオペラの上演と興行活動を行った。
上記以外のこの時期の作品群では、1724年頃に『四季』を含むヴァイオリン協奏曲集『和声と創意への試み』が「作品8」としてロジェの後を継いだミシェル=シャルル・ル・セーヌから出版された。1729年には、音楽史上初めてのソロのフラウト・トラヴェルソ(フルートの前身)のための協奏曲集が、『6つのフルート協奏曲』作品10として出版される。また生前出版された楽譜としては最後となる『6つの協奏曲』作品11と『6つの協奏曲』作品12のヴァイオリン協奏曲集が出版される。1937年にはパリの出版社マダム・ボワヴァンから「作品13」として『忠実な羊飼い』が出版されたが、これはニコラ・シュドヴィルによる偽作であった。1740年頃にはパリのル・クレール社からチェロ・ソナタ集が出版されたが出版経緯は不明である。また12月には「メルキュール・ド・フランス」紙からチェロ・ソナタ集の出版広告が掲載されたが、実際に出版された可能性は低いと考えられる。
長年の活躍によりオペラ作曲家としてイタリア本土と諸外国で名声を得ていたが、本国ヴェネツィアでは地元出身の新星バルダッサーレ・ガルッピや、ヴェネツィア貴族の養子となったヨハン・アドルフ・ハッセに代表されるナポリ楽派のオペラが人気を博し、ヴィヴァルディ名義のオペラ作品に対する評価に翳りが見え始める。また、1736年から教皇領フェラーラでのオペラ興行を準備していたが、1737年11月16日に当地を管轄する枢機卿にフェラーラへの入境を禁止されるトラブルに見舞われ、損失を被る事となる。
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1738年1月7日に開催されたアムステルダムの王立劇場設立100年記念の音楽祭に音楽監督として招待され、音楽祭のプロデュースとオーケストラの指揮を行う。その後ピエタの音楽指導者の職を辞すも、ピエタ音楽院の求めにより作品の供給は1740年のウィーン行の直前まで続いた。
1740年、ザクセン選帝侯の継嗣フリードリヒ・クリスティアン公爵がヴェネツィアを訪問し、ピエタ他各慈善院で盛大な音楽会が催され、一番手となるピエタでの3月21日の音楽会では、宗教曲の挿入曲としてヴィヴァルディの作品が演奏された。ヴィヴァルディはピエタから協奏曲3曲(RV 540, 552, 558)とシンフォニア1曲(RV 149)の代金15ドゥカーツ13リラを受け取り、更にザクセンの王子アウグスト3世 (ポーランド王)に曲を献呈することで報奨を受け取ったと考えられる(献呈された曲は1741年にドレスデンで出版された)。その後手持ちの楽譜20曲を70ドゥカーツ23リラで売却したヴィヴァルディは、予てから予定していたウィーンでのオペラ興業を決心する。同年秋にグラーツで自作の公演を行ったあとの足取りは不明だが、ウィーン到着後一番のよき理解者であり最も力のあるパトロンだったカール6世が10月20日に崩御し、オーストリア国内は1年間喪に服すことになったのである。服喪期間中はすべての興業が禁止されたため、予定していたオペラ『メッセニアの神託』が上演できなくなった。当時は出演者から大道具に至るまで興行主が後で清算する形でオペラの準備が行われていたので、おそらく大変な借財を抱え込むことになったと思われる。さらに、カール6世の娘マリア・テレジアが帝位を継いだためにオーストリア継承戦争が勃発し、国内の雰囲気も戦争一色となり、老大家に一瞥を与えるゆとりも関心も貴族たちにはなかった。
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アントニオ・ヴィヴァルディ
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失意のうちに体調を崩したと思われるヴィヴァルディは、ヴェネツィアに帰国することもかなわず、1741年7月28日にケルントナートーア劇場が用意していた作曲家用の宿舎にて、63歳で死去した。死因は体内の炎症または腫瘍と診断されたが詳細は不明である。夏季であったこともあり、旅行者のための簡素な葬礼の後、遺体は翌日、病院付属の貧民墓地に埋葬された。この墓地は1783年に取り壊され、現在はウィーン工科大学の構内になっている。オペラのほうは、ウィーンの新聞の広告欄に「故ヴィヴァルディ氏作曲」と張り出されて、翌1742年に当初の予定通りにケルントナートーア劇場で上演された。
ヴィヴァルディは作曲家としてもヴァイオリンのヴィルトゥオーソとしても、同時代において高い評価を受け、多大な収入を得たこともあった。ルイ=クロード・ダカンも著作の中で「アルカンジェロ・コレッリに匹敵するのはヴィヴァルディの『四季』のみ」と書いている。ところが18世紀末から19世紀末にかけて、ヴィヴァルディはイタリアでは全く顧みられず忘れ去られた。フランスでは『四季』、特に『春』は人気曲としての地位を保ち、1775年にジャン・ジャック・ルソーによってフルート独奏曲に編曲されたりもしたが、それもフランス革命で終わりを告げられた。19世紀末になり、ヨハン・ニコラウス・フォルケルらによってバッハが再評価されるとその生涯が調査され、その作品にヴィヴァルディの楽曲を編曲した箇所が複数発見された。
20世紀に入り、アルノルト・シェーリングやマルク・パンシェルルがヴィヴァルディの器楽曲に歴史的意味を見出し、1926年と1930年にはトリノの国立図書館が未発見の膨大なコレクションを入手した。それらはアルフレード・カゼッラやジャン・フランチェスコ・マリピエロらの尽力で整理、校訂が行われ、1939年9月にシエナで開催された「ヴィヴァルディ週間」で〈グローリア〉(RV 589)、〈スターバト・マーテル〉(RV 621)などがカゼッラの指揮で復活演奏され、聴衆の関心も高まることとなった。第二次大戦を経た1949年にリコルディ社が『四季』の楽譜を出版、1951年に録音されたカール・ミュンヒンガー指揮シュトゥットガルト室内管弦楽団のレコードがデッカ社から発売されベストセラーとなり、ヴィヴァルディの作品は完全に復興を果たした。
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アントニオ・ヴィヴァルディ
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パンシェルル以後の研究者としては、ヴィヴァルディの研究で教授資格を取得したオーストリアの音楽学者ワルター・コルネーダー、リオム番号の生みの親、デンマークの音楽学者ペーター・リオム、そして「マンチェスター・ソナタ」の発見者であり、『ニューグローヴ世界音楽大事典』のヴィヴァルディの項目を執筆し、多数の録音媒体の解説書に文章が採用されているイギリスの音楽学者で作曲家のマイケル・トールボットが挙げられる。
イ・ムジチ合奏団は『四季』を1955年に初めて録音し、レコードはこれまでに2500万枚以上という驚異的な売り上げを記録している。21世紀とは異なり、1950年代ではモダンチェンバロとモダン楽器によってヴィヴァルディの作品が演奏されていた。
21世紀はNAÏVE(ナイーヴ)が、精力的にヴィヴァルディの作品をオペラから器楽曲まで体系的に、時代楽器のみで録音している。
小惑星(4330) VivaldiやウェブブラウザのVivaldiは、ヴィヴァルディの名前にちなんで命名された。
次項「作品一覧」、および「ヴィヴァルディの楽曲一覧」も参照のこと
ヴィヴァルディの協奏曲およびソナタのうちのいくつかは存命中に出版されている。
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アントニオ・ヴィヴァルディ
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21世紀はNAÏVE(ナイーヴ)が、精力的にヴィヴァルディの作品をオペラから器楽曲まで体系的に、時代楽器のみで録音している。
小惑星(4330) VivaldiやウェブブラウザのVivaldiは、ヴィヴァルディの名前にちなんで命名された。
次項「作品一覧」、および「ヴィヴァルディの楽曲一覧」も参照のこと
ヴィヴァルディの協奏曲およびソナタのうちのいくつかは存命中に出版されている。
以上の作品の初版は、1、2を除いてアムステルダムのル・セーヌ社から出版されており、ヴィヴァルディがヴェネツィアのみに留まらず、ヨーロッパでも名声を得ていたことがわかる。作品1、2、3、4、8、9はすべて献辞つきで王侯貴族に献呈されているが、献辞のない作品のうちヴィヴァルディの編曲指示のある10を除く5、6、7、11、12の内、幾つかは、出版社がヴィヴァルディの了解を得ることなく出版した可能性が高い。1730年頃を境に、いろいろ制約の多い出版譜ではなく、筆写譜での流布を好むようになった。そのため、円熟期の作品には作品番号が付されていないものが圧倒的に多い。1737年に出版された作品13『忠実な羊飼い』は真作とされていたが、後年の研究でニコラ・シェドヴィルがヴィヴァルディの名をかたって出版したものであることが1998年に判明した。また、1740年頃に出版された6曲のチェロソナタ「作品14」は、真作と確認されているが、作品番号はパンシェルルが暫定的に付したものが定着したもので、近年の古楽器演奏のレコードやCDのタイトルでは用いられないことが多い。また現在では作品7は出版社が12曲セットで出版するために水増しした物が半数以上含まれていると考えられている。
ヴィヴァルディの作品はかなり膨大で、紛失したものや偽作などが多数含まれる。ここでは比較的知られている作品のみ掲載する。
作品10として出版された『フルート協奏曲集』に含まれる楽曲である。
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ゲシュタルト心理学
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ゲシュタルト心理学(ゲシュタルトしんりがく、Gestalt Psychology)とは、心理学の一学派。人間の精神を、部分や要素の集合ではなく、全体性や構造に重点を置いて捉える。この全体性を持ったまとまりのある構造をドイツ語でゲシュタルト(Gestalt :形態)と呼ぶ。
ゲシュタルト心理学は、ヴントを中心とした要素主義・構成主義の心理学に対する反論として、20世紀初頭にドイツにて提起された経緯を持つ。精神分析学や行動主義心理学に比べると、元々の心理学に近いと言える。特にユダヤ系の学者が多かった事などもあって、ナチスが台頭してきた時代に、同学派の主要な心理学者の大部分がアメリカに亡命した(例外的にヴォルフガング・ケーラーのみはバルト・ドイツ人出身)。その後、同学派の考え方は知覚心理学、社会心理学、認知心理学などに受け継がれた。自然科学的・実験主義的アプローチや、全体性の考察に力学の概念を取り入れた事など、現代の心理学に与えた影響は大きい。
日本の研究者では、ケーラーのもとで学んだ佐久間鼎などがいる。言語学者でもあった佐久間は発音にもこだわり、より原語の発音に近い「ゲシタルト」と称した。現在でも、「ゲシュタルト心理学」ではなく「ゲシタルト心理学」という語を用いる研究者もいる。
構成主義・要素主義の立場では、人間の心理現象は要素の総和によるものであり、視覚・聴覚などの刺激には、個々にその感覚や認識などが対応していると考えられている。例えば既知のメロディを認識する過程では、一つ一つの音に対して記憶と対照した認知があり、その総和がメロディーの認識を構成すると考える。
これに対する反論としては、移調した既知の旋律であっても、同じ旋律であると認識出来る事の説明にならないというものがある。一つ一つの音は既知の旋律とは違っていても、移調しただけであれば、実際は同じものであると人は認識できる、というものである。
この事を説明するために提唱されたのが、ゲシュタルト性質という概念である。
ゲシュタルト心理学の最も基本的な考え方は、知覚は単に対象となる物事に由来する個別的な感覚刺激によって形成されるのではなく、それら個別的な刺激には還元出来ない全体的な枠組みによって大きく規定される、というものである。ここで、全体的な枠組みにあたるものはゲシュタルト(形態)と呼ばれる。
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ゲシュタルト心理学
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この事を説明するために提唱されたのが、ゲシュタルト性質という概念である。
ゲシュタルト心理学の最も基本的な考え方は、知覚は単に対象となる物事に由来する個別的な感覚刺激によって形成されるのではなく、それら個別的な刺激には還元出来ない全体的な枠組みによって大きく規定される、というものである。ここで、全体的な枠組みにあたるものはゲシュタルト(形態)と呼ばれる。
例えば果物が書かれた絵を見て、それが線や点の集合ではなく「りんご」であるように見える事や、映画を見て複数のコマが映写されているのではなく動いているように見える事は、ゲシュタルトの働きの重要性を考えさせられる例である。
ベルリン学派に属する M. ヴェルトハイマー、W. ケーラー、K. コフカ、K. レヴィンらが中心的存在である。
ヴェルトハイマーは、人間がゲシュタルトを知覚するときの法則について考察し、以下に挙げるような法則(プレグナンツの法則、law of prägnanz、プレグナンツとは「簡潔さ」の意)を示した。これらは視知覚によるものだが、後の研究で記憶や学習、思考などにも当てはめられる事が判明している。
近接しているもの同士はひとまとまりになりやすい。例えば以下の図では、近接している2つの縦線がグループとして知覚される。離れた縦線同士はグループには成りにくい。空間的なものだけでなく、時間的にも近いものは、まとまって認識されやすい。
いくつかの刺激がある時、同種のもの同士がひとまとまりになりやすい。以下の図では、黒い四角と白い四角のグループが交互に並んでいるように知覚される。白黒、黒白のグループが交互に並んでいるようには知覚されにくい。
互いに閉じあっているもの同士(閉じた領域)はひとまとまりになりやすい。例えば以下の図では、閉じた括弧同士がグループを成すように認識される。〕と〔 同士では、グループとして認識されにくい。
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ゲシュタルト心理学
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いくつかの刺激がある時、同種のもの同士がひとまとまりになりやすい。以下の図では、黒い四角と白い四角のグループが交互に並んでいるように知覚される。白黒、黒白のグループが交互に並んでいるようには知覚されにくい。
互いに閉じあっているもの同士(閉じた領域)はひとまとまりになりやすい。例えば以下の図では、閉じた括弧同士がグループを成すように認識される。〕と〔 同士では、グループとして認識されにくい。
いくつかの曲線になり得る刺激がある時、よい曲線(なめらかな曲線)として連続しているものは1つとして見られる。例えば、「ベン図」(2つの円の一部分が重なった図。数学の教科書などで、集合の解説によく用いられる)では、「円が2つある」と認識され、「欠けた円が2つと、ラグビーボールのような形が1つある」とは認識されにくい。 なお、「よい連続の要因」と似た法則として「よい形の要因」(よい形とは規則的な形を表す)もある。
ドイツの心理学には、ベルリン学派あるいはフランクフルト/ベルリン学派と呼ばれる学派が存在していた。これは主要な心理学者が集っていた二つの大学の名前を指している。マックス・ヴェルトハイマーはプラハ大学で法学を学び卒業した後、ベルリン大学およびヴェルツブルク大学で心理学を研究するようになった。プラハ大学でエーレンフェルスの講義、ベルリン大学でシュトゥンプの講義を聴いた。 ヴェルトハイマーは1912年、運動の知覚に関する画期的な論文『運動視の実験的研究』を発表した。(これはワトソンの行動主義宣言の前年に発表したことになる。)
ヴェルトハイマーによる実験では、当時フランクフルト大学の助手をしていたケーラーとコフカおよびコフカ夫人の3人が被験者となった。細い線と太い線を使うと線が拡張するように見えたり、水平な線[ - ]と45度の線 [ / ]を連続して提示すると線が角運動しているように見えたりした。どちらも実際には物理的には存在しない動きが見えるので、これを仮現運動とかファイ現象と呼んだ。(φは「現象」を意味するドイツ語Phänomenの頭文字)。
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ゲシュタルト心理学
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それ以前、ヘルムホルツやヴントなどは仮現運動の原因として眼球運動との連合を考えたが、それに対しヴェルトハイマーは、真ん中の刺激が左右同時に分かれる刺激図形を実験に用いて、眼球運動は仮現運動の必要条件ではないことを実証した。また、グラーツ学派は「先に感覚があってゲシュタルト質がその感覚データに付与される」と考えていたが、ヴェルトハイマーはそうではなく、最初から感覚のなかにゲシュタルトが組み込まれていると論じた。コフカは後の1935年ゲシュタルトと体制化はほぼ同じ意味であると論ずるようになった。人間は刺激を単純で明快な方向へと知覚しようとする傾向があり、これをヴェルトハイマーはプレグナンツの法則と呼んだ。
ヴォルフガング・ケーラーは、第一次大戦中、アフリカ北西のカナリア諸島のテネリフェ島にある類人猿研究所でチンパンジーを用いた実験を行っていた。チンパンジーが新しい方法で天井から吊り下がったバナナを取ることを観察し、試行錯誤学習に対比して、これを洞察学習と呼び、研究成果を『類人猿の知恵試験』という本にまとめた(1917、1921)。ケーラーはプレグナンツの法則が成立する背景には、それと類似した脳の中枢過程があると考えた。一例を挙げると、ある空間的構造がそのように体験され知覚されるのは脳内の基盤となる過程が機能的に対応しているからだ、としている。このような考え方は心理物理同型説(psychophysical isomorphism)と呼ばれている。
クルト・レヴィンは1930年代にヴェルトハイマーら3人と一緒に研究したことや、ベルリン大学で学位をとった関係でゲシュタルト心理学者のひとりとされている。レヴィンは体験を通じて構造化される空間に興味を示し、それをやがて生活空間と呼ぶようになった。ケーラーが心理物理的な場理論を考えていたのとは対照的に、レヴィンは純粋に心理的な場理論を考えた。これはトポロギー心理学(トポロジー心理学Topologie psychology)との名称で知られるようになった。Topologieとは位相幾何学という意味である。
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ゲシュタルト心理学
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レヴィンはゲシュタルト心理学を人間個人だけでなく集団行動にも応用した。集団内における個人の行動は、集団のエネルギー場、すなわち集団がもつ性質やどんな成員がいるのかといったことなどによって影響を受けると考え、これによりグループ・ダイナミックス(集団力学)を生み出した。このグループ・ダイナミックスはやがて感受性訓練などにも応用され、臨床的分野へと広がっていった。また、レヴィンは、米国に渡ってから政治的・社会的問題にも関心を示し、実践的な方法としてアクション・リサーチを提唱し、社会心理学などにも影響を与えた。
ベルリン学派の主要な4人は全員米国へ渡り、その地で亡くなっている。1933年にドイツでナチスが政権を握るとユダヤ人学者は教壇から追放された。当時15人いたドイツの心理学教授のうち5人が失職した。コフカは米国のスミス大学の教授として、晩年までゲシュタルト心理学の普及に努めた。なかでも1935年に英語で発表された『ゲシュタルト心理学の原理』は網羅的なものであり、ゲシュタルト心理学が知覚の理論にとどまらないことを人々に広く知らしめた。ケーラーはユダヤ人ではなかったが、職場のベルリン大学への政府の介入を嫌い1935年に米国に亡命した。レヴィンは1933年は海外で講義を行うために旅行に出ており、日本からロシアへの旅の途中でナチス政権について聞き、ドイツに戻らず米国に亡命した。
ゲシュタルト心理学はドイツや日本で大きな潮流となった。
米国ではドイツや日本ほどではなかった。というのは主要な用語や概念が英語という外国語ではうまく表現できず、曖昧なものと考えられたことなどが挙げられる。結局ゲシュタルトやプレグナンツという用語も英語ではなくドイツ語のまま使用された。だが、自身をゲシュタルト心理学者と呼ぶ者は少ないものの、ゲシュタルト心理学に接近したエドワード・トールマンがのちの認知心理学の成立に与えた影響や、グループ・ダイナミックスが社会心理学や行動科学の発展に果たした役割を考慮すると、むしろゲシュタルト心理学がアメリカの主流な心理学の流れを変えたのだと言ってもよさそうである。
ゲシュタルトの基本的な概念として、対象を全体として捉えるという事が言える。
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ゲシュタルト心理学
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ゲシュタルトの基本的な概念として、対象を全体として捉えるという事が言える。
例えば音楽は、個々の音を聞いた時よりも大きな効果を与える。図形もまた、中途半端な線や点であっても、丸や三角などそれを見た人間がパターンを補って理解する(逆に錯覚・誤解を引き起こす原因とも言える)。
ゲシュタルト心理学は被験者の人間が感じることを整理分類して、人間の感覚構造を研究した。そのため、図形による印象などの研究が中心であった。
近接や類同の原理が、ラジオボタンの配置等、コンピュータのユーザインタフェース設計へ応用される。またコンピュータによる画像解析(コンピュータビジョン)にも応用されている。
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深見じゅん
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深見 じゅん(ふかみ じゅん、2月19日 - )は、日本の漫画家。長崎県出身、福岡県育ち。血液型はA型。女性。夫は元漫画家の土山芳樹。
1971年、『週刊セブンティーン』に掲載の「17歳の裸婦像」でデビュー。初期は『セブンティーン』で活躍していたが、1980年代以降、レディースコミックに進出、人気作家となる。『BE・LOVE』(講談社)や『YOU』(集英社)で活躍。1991年、『悪女』で第15回講談社漫画賞一般部門を受賞。
代表作は「ぽっかぽか」、「悪女」。両作ともテレビドラマ化されている。
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福本伸行
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福本 伸行(ふくもと のぶゆき、1958年12月10日 - )は、日本の漫画家・漫画原作者。右利き。既婚。
神奈川県横須賀市出身。かざま鋭二のアシスタントを経て、1980年『月刊少年チャンピオン』(秋田書店)連載の『よろしく純情大将』でデビュー。主な作品に『賭博黙示録カイジ』、『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』、『銀と金』、『天 天和通りの快男児』などがある。1998年に『賭博黙示録カイジ』で第22回講談社漫画賞受賞。
幼少時は『パーマン』などの少年漫画を読んで育つ。高校では建築科に進み、本人曰く「勉強は出来ないが不良でもないボーッとした学生だった」という。また、強さに憧れ空手やキックボクシングを経験した。高校卒業後、建設会社に就職して現場監督の仕事に就くも、仕事がつまらないと感じ、何か一発当てようと漫画家を志す。
会社勤めに並行して描いた剣道漫画を講談社に持ち込んだところ、「まずアシスタントをして経験を積んではどうか」と勧められる。そこでアシスタントを募集していたかざま鋭二に頼み込んでアシスタントの内定を取り付け、「長く勤めて資格などを取ると辞められなくなる」と考えて入社後わずか3か月で会社を辞める。アシスタント入りしたものの、器用な絵が描けなかった福本はもっぱら炊事などの雑用を任される。1年半ほどした後に、福本を案じたかざまから「福ちゃんは性格がガサツだから、トラック運転手なんかが向いてるんじゃないかなあ」と諭され、アシスタントを辞めることになる。これらの経緯について、かざまは(自ら認めるほど絵に誉めるところはなかったが)「18歳と若いので可能性に賭けた」「福本はあまりにも使えないからクビにしたけど、(俺より)あいつの方が売れちゃった」と語っている。その一方で、福本は退職時に至るまで手厚く世話をしてくれたかざまに対して感謝の念を語っている。
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福本伸行
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1980年『月刊少年チャンピオン』掲載の『よろしく純情大将』でデビュー。その後、なかなかヒットが出ず、ちゃんぽん店などでアルバイトをし生計を立てつつ、ちばてつや賞などへの応募を続けながら、長く下積みの生活を送る。1983年、『ワニの初恋』で、ちばてつや賞優秀新人賞を受賞。また、バイトも順調でそれなりに稼げていたが、「漫画一本で行くべき」と24歳の時に辞め、退路を断った。この頃使用していたペンネームには、「ふくもと飛火」(とび)というものもある。
投稿時代からデビュー当初は主に人情ものを描いていたが、1980年代は日本経済の景気も良く、ギャンブルをテーマにした漫画が隆盛を極めていたため、仕事が取りやすいという理由でギャンブル漫画を描き始める。1980年代末より『近代麻雀ゴールド』に『天 天和通りの快男児』を連載。この作品は増刷されて福本の初めての人気作品となり、漫画家として名が知られるようになる。
この頃から作品に「ギャンブルもの」が多くなり、『近代麻雀』連載の『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』や、更にアウトローの世界の駆け引きを描いた『アクションピザッツ』連載の『銀と金』で、一躍人気作家となる。
1996年から『週刊ヤングマガジン』に『賭博黙示録カイジ』の連載を開始する。『カイジ』シリーズは2023年現在で通算87巻、2000万部以上を売るヒット作となり、福本の人気を不動のものとした。2005年には『アカギ』が、2007年・2011年には『カイジ』がそれぞれTVアニメ化されている。2007年10月からは『週刊少年マガジン』に『賭博覇王伝 零』を連載開始。2019年5月からは『近代麻雀』に『闇麻のマミヤ』を連載開始。
2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災地への義援金として現金3000万円を寄付し、応援イラストを寄せた。被災地にも自ら訪れ、被災者にサインやイラストを描いている。
2023年6月現在、『週刊ヤングマガジン』誌上で『賭博堕天録カイジ 24億脱出編』、『近代麻雀』誌上で『老境博徒伝SOGA』の2作品を同時に連載中。
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