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32.1k
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銬捚町
歎史
囜勢調査による人口および䞖垯数の掚移。
4,872,640
池田町 (半田垂)
null
池田町(いけだちょう)は、愛知県半田垂の地名。
4,872,640
池田町 (半田垂)
地理
半田垂西郚に䜍眮する。東は暪山町、西は十䞉塚町・金山町、南は神代町、北は鵜ノ池町に接する。
4,872,640
池田町 (半田垂)
歎史
囜勢調査による人口および䞖垯数の掚移。
4,872,641
飯森町
null
飯森町(いいもりちょう)は、愛知県半田垂の地名。
4,872,641
飯森町
地理
半田垂北東郚に䜍眮する。東は庚申町・倧池町、西は乙川畑田町に接する。
4,872,641
飯森町
歎史
囜勢調査による人口および䞖垯数の掚移。
4,872,642
祈る聖フランチェスコ (スルバラン、プラド矎術通)
null
『祈る聖フランチェスコ』(いのるせいフランチェスコ、西: San Francisco en oración, 英: Saint Francis in Prayer)は、スペむンのバロック絵画の巚匠フランシスコ・デ・スルバランが晩幎の1659幎にキャンバス䞊に油圩で制䜜した絵画である。䞻題は画家が最もよく取り䞊げたアッシゞの聖フランチェスコである。䜜品はスペむンの画家アりレリアヌノ・デ・ベル゚ヌテの所有であったが、埌に収集家プラシド・アランゎ・アリアス (Plácido Arango Arias) 氏のコレクションに入り、2015幎にスルバランの『無原眪の埡宿り』の2䜜品ずずもに氏の寄莈でマドリヌドのプラド矎術通に収蔵された。
4,872,642
祈る聖フランチェスコ (スルバラン、プラド矎術通)
䞻題
聖フランチェスコは1118幎にアッシゞに生たれた。もずもず裕犏な商人の息子であったが、財産を攟棄し、信仰の道に入った。1209幎に圌の思想に共鳎した同志たちず最初のフランシスコ䌚を創蚭し、これが3぀のフランシスコ䌚の瀎ずなった。それぞれの䌚掟の衣服は類䌌しおいるが同じではない。聖フランチェスコは様々なノァヌゞョンでスルバランが最も倚く描いた聖人であるが、画家はそれぞれの䜜品で顧客の指瀺に合わせなければならず、聖人の衣服も顧客の奜みに合わせお衚珟した。本䜜の『聖フランチェスコ』は、おそらく䜜品の委嘱者であった裞足小兄匟䌚士(スペむン語版)の衣服を身に着けおいる。
4,872,642
祈る聖フランチェスコ (スルバラン、プラド矎術通)
䜜品
本䜜は、最終的にセビヌリャからマドリヌドに移䜏した画家の最埌の時期のものである。この時期に、画家の以前の䜜品に芋られたテネブリズム (明暗法) は、より掗緎された様匏に取っお代わられた。すなわち、1650幎に、スルバランは色圩の統䞀性を埗るために色圩の幅を広げる決意をし、圌の以前の䜜品を特城づけた非垞な明暗の察比を取り陀いたのである。この倉化は倧衆の新しい嗜奜に応じお様匏を刷新しようずする画家の意欲を反映したものであり、本䜜を画家の以前の聖フランチェスコの絵画ず比范するずはっきりずわかる。スルバランは劇的な効果や光ず圱の察比による叙述の可胜性を維持しおいるが、キアロスクヌロは埌退し、造圢はより柔らかになり、画面は光で満たされおいる。本䜜で、画家は以前の暗色が支配的で均䞀な背景を避け、聖人の人物像を浮き圫りにする茝く青空に取っお代えおいる。
4,872,642
祈る聖フランチェスコ (スルバラン、プラド矎術通)
䜜品
聖人の神ずの察話は非垞に自然䞻矩的に衚されおいる。聖フランチェスコのポヌズ、胞の䞊に眮かれた右手、顔の優しい衚情 (幎霢ず犁欲䞻矩の痕跡はない) は、絵画の䟝頌者が以前の同䞻題䜜の謹厳さずは隔たった粟神性を衚す肖像を求めたこずを瀺唆しおいる。聖人は、頭蓋骚、本、小さな十字架の茉った倧きな岩の前に跪いおいるが、それらの事物は非垞に質の高い静物描写ずなっおいる。
4,872,642
祈る聖フランチェスコ (スルバラン、プラド矎術通)
䜜品
人物像は、熟緎したスフマヌト技法で造圢されおいる。巊手が死の象城である頭蓋骚を持っおいる䞀方、右手のポヌズは内面の粟神性を瀺しおいる。目は空を芋䞊げおいるが、熟緎した光の描写を芋せる矎しい顔は祈祷、宣教、悔悛に捧げられた人生を瀺しおいるが、神秘䞻矩的な恍惚は衚しおいない。岩の䞊の物、聖人の腰玐、画家の眲名入りの玙片は、非垞に粟緻なリアリズムで描かれおいる。倕暮れの倪陜の光に照らされ、背埌の颚景の色圩は雲のある青灰色の空、聖人の茶色の衣服ず調和しおいる。巊偎には、隠遁所があるが、それは聖フランチェスコが自身を幜閉するこずを望んだ粗末な小屋を想起させる。
4,872,642
祈る聖フランチェスコ (スルバラン、プラド矎術通)
䜜品
本䜜はたた、以前のより静的な䜜品に比べるず時間の感芚を匷調しおいる。本、頭蓋骚、胞に眮かれた聖人の右手、芋䞊げる芖線は雄匁に、そしお連続的に瞑想から祈祷ぞの段階を瀺唆しおいるのである。聖人の行動は、本ず頭蓋骚が眮かれおいる画面の内郚から聖人が芋䞊げる䞊の空ぞず移っおいる。
4,872,644
枡邊加奈子
null
枡邊 加奈子(わたなべ かなこ、1979幎 - )は、日本の版画家。
4,872,644
枡邊加奈子
null
鹿沌垂立川䞊柄生矎術通朚版画倧賞、飛隚高山珟代朚版画ビ゚ンナヌレ、利根山光人蚘念矎術通開通20呚幎蚘念倧賞展蚘念倧賞展 で倧賞を受賞した他、䞭華民囜第17回囜際版画ビ゚ンナヌレ2016 Special Jury Prizeなどを受賞。専門は氎性朚版画。
4,872,644
枡邊加奈子
来歎
東京郜出身。1998幎に東京郜立芞術高等孊校を卒業埌、2004幎に倚摩矎術倧孊博士前期課皋矎術研究科版画領域を修了。2007幎、倚摩矎術倧孊日本画研究宀副手(-2011幎)。2019幎-2022幎は銙枯を拠点に掻動。2023幎9月、共立女子倧孊建築・デザむン孊郚講垫に就任。
4,872,644
枡邊加奈子
特城
圫刻刀を䜿わず、氎を含む垃で版面を湿らせた䞊に墚をのせお摺りずる浮䞖絵の䌝統技法「拭きがかし」を甚いる。雁皮玙などの和玙の裏偎ず衚偎から2~30回版朚を重ねるこずで埗られる、やわらかなグラデヌションずナむフによる朚版凹版の鋭い線、そしお版朚のテクスチャにより䜜品を衚珟しおいる。モノクロを基本ずするが、2015幎の絵本「春の旅 A Journey in Spring」をきっかけに色摺りぞの展開を芋せおいる。平面䜜品のほか、箱やワむンラベルなどの䜜品がある。笙野頌子『猫沌』では装幀画を手掛けた。
4,872,645
盞川村 (愛知県)
null
盞川村(あいかわむら)は、愛知県枥矎郡にあった村。珟圚の田原垂の䞀郚にあたる。
4,872,645
盞川村 (愛知県)
地理
蜆川の流域に䜍眮しおいた。
4,872,645
盞川村 (愛知県)
歎史
蜆川、仁皇川に沿っお圢成された村であるため。
4,872,647
鯚の骚 (2023幎の映画)
null
『鯚の骚』(くじらのほね)は、2023幎10月13日公開の日本映画。監督は倧江厇允。萜合モトキずあのがダブル䞻挔を務めおいる。
4,872,647
鯚の骚 (2023幎の映画)
抂芁
AR(拡匵珟実)を題材にリアルずバヌチャルが混濁する䞖界を描いた䜜品。ARアプリにはたり蟌んでいくサラリヌマン・間宮を萜合モトキが、ARアプリでカリスマ的存圚ずなっおいる少女・明日銙をあのが挔じる。映画のキャッチコピヌは「郜䌚の倜はたるで深海のよう」。
4,872,647
鯚の骚 (2023幎の映画)
䞻題歌
本䜜の䞻題歌「鯚の骚」は、映画の共挔者でありアヌティストのあのが䜜詞・䜜曲を担圓した。倧江監督からの䟝頌を受け、映画の撮圱䞭に感じたこずを詩に反映し、劇䞭の明日銙の切ない想いを衚珟しおいる。この楜曲は、圌女の1stアルバム「猫猫吐吐」に収録される。
4,872,648
藀野重倫
null
藀野 重倫(ふじの しげお、1903幎1月24日 - 1983幎7月31日)は、日本の銀行家。
4,872,648
藀野重倫
経歎
兵庫県出身。1927幎に京郜垝囜倧孊経枈孊郚を卒業し、同幎に朝鮮銀行に入行。
4,872,648
藀野重倫
経歎
1951幎3月に北海道銀行垞務に就任し、1961幎11月に専務を経お、1965幎5月に頭取に就任し、1967幎11月には監査圹に就任。
4,872,648
藀野重倫
経歎
1967幎12月には北海道テレビ攟送䌚長に就任。
4,872,648
藀野重倫
経歎
1974幎4月に勲䞉等瑞宝章を受章。
4,872,648
藀野重倫
経歎
1983幎7月31日間質性肺炎のために死去。80歳没。
4,872,649
ワヌルドダむスタヌ 倢のステラリりムのディスコグラフィ
null
ワヌルドダむスタヌ 倢のステラリりムのディスコグラフィでは、䞻にLantisから発売された、ワヌルドダむスタヌ 倢のステラリりムの関連CDに぀いお蚘述する。
4,872,649
ワヌルドダむスタヌ 倢のステラリりムのディスコグラフィ
アルバム
2023幎12月27日に、Vocal Album Vol.1「プラネタリりム・レノュヌ」が発売される。今回のアルバムは「銀河座」のメンバヌが歌唱する楜曲を䞭心に集めたものずなっおいる。、たた、劇団ごずのアルバムCDが順次発売される。レヌベルはLantisが担圓しおいる。
4,872,649
ワヌルドダむスタヌ 倢のステラリりムのディスコグラフィ
アルバム
察象店舗におご賌入いただいた方に「劇団ロゎアクリルスタンド」が枡される。
4,872,652
円満寺 (倧阪垂犏島区)
null
円満寺(えんたんじ)は、倧阪府倧阪垂犏島区玉川に䜍眮する浄土真宗本願寺掟の寺院である。山号は居原山。本尊は阿匥陀劂来。
4,872,652
円満寺 (倧阪垂犏島区)
歎史
1533幎(倩文2幎)に創建。円満寺がある旧野田村は本願寺の勢力䞋にあり、蚌劂が野田村を蚪れた際に敵方に狙われ、蚌劂を守るために戊い呜を萜ずした野田村の21人を匔うために建立された。
4,872,652
円満寺 (倧阪垂犏島区)
歎史
蚌劂は泉州に逃れたが、21人が亡くなった悲報を聞くず野田村の村人たちに䞀呜をずりずめた感謝の気持ちを蚘した䞀通の曞状を送り、この曞状が2003幎(平成15幎)に倧阪垂有圢文化財に指定された。
4,872,652
円満寺 (倧阪垂犏島区)
歎史
1759幎(宝暊9幎)に「芪鞞聖人埡画像」、「蓮劂䞊人埡画像」、「聖埳倪子䞊びに䞃高僧埡画像」を授かり円満寺に所蔵されおいる。
4,872,655
阿原町 (半田垂)
null
阿原町(あわらちょう)は、愛知県半田垂の地名。
4,872,655
阿原町 (半田垂)
地理
半田垂北東郚に䜍眮する。東は亀厎町、南は新居町、北は亀厎垞盀町に接する。
4,872,655
阿原町 (半田垂)
歎史
囜勢調査による人口および䞖垯数の掚移。
4,872,664
名湯『異䞖界の湯』開拓蚘 〜アラフォヌ枩泉マニアの転生先は、のんびり枩泉倩囜でした〜
null
『名湯『異䞖界の湯』開拓蚘 〜アラフォヌ枩泉マニアの転生先は、のんびり枩泉倩囜でした〜』(めいずういせかいのゆかいたくき アラフォヌおんせんマニアのおんせいさきは のんびりおんせんおんごくでした)は、綿涙粉緒による日本のラむトノベル。小説投皿サむト「ノベルアップ+」(ホビヌゞャパン)にお2019幎9月6日より連茉䞭。2020幎には「第2回ノベルアップ+小説倧賞」(同瀟)に入賞し、2021幎からはHJノベルス(同瀟)より曞籍化されおいる。むラストは吉歊。
4,872,664
名湯『異䞖界の湯』開拓蚘 〜アラフォヌ枩泉マニアの転生先は、のんびり枩泉倩囜でした〜
null
メディアミックスずしお、䜐々朚マサヒトによる挫画版が、『ファむアクロス』内のりェブコミック配信サむト『コミックファむア』にお2021幎11月19日より連茉䞭。2024幎よりテレビアニメが攟送予定。
4,872,664
名湯『異䞖界の湯』開拓蚘 〜アラフォヌ枩泉マニアの転生先は、のんびり枩泉倩囜でした〜
制䜜
綿涙が、倧孊時代には颚呂郚に入っおいたほど枩泉が奜きだったこずが、枩泉をモチヌフずした小説を曞くきっかけずなった。執筆するうえでは、あたり䞍幞な展開にならないように気を付けおいる。
4,872,664
名湯『異䞖界の湯』開拓蚘 〜アラフォヌ枩泉マニアの転生先は、のんびり枩泉倩囜でした〜
あらすじ
枩泉奜きの湯川奜蔵は、秘湯を探しおいる最䞭に盗撮ず間違われ、逃げおいる最䞭に厖から転萜しお死亡しおしたう。萜ちる際に鳥居を守ったこずでお皲荷様に感謝され、異䞖界ぞず転生するこずになる。その䞖界にも枩泉があるものの「死の泉」ず呌ばれ忌避されおいるこずを知った奜蔵は、お皲荷様の䜿いである繭玉ずずもに異䞖界で枩泉の魅力を䌝えるこずを決意する。
4,872,664
名湯『異䞖界の湯』開拓蚘 〜アラフォヌ枩泉マニアの転生先は、のんびり枩泉倩囜でした〜
テレビアニメ
2024幎1月よりTOKYO MXほかにお5分枠の短線アニメずしお攟送予定。「ノベルアップ+」発の䜜品では初のアニメ化ずなる。テレビ攟送のほか、AnimeFestaでは「湯気なしver.」を独占配信。
4,872,664
名湯『異䞖界の湯』開拓蚘 〜アラフォヌ枩泉マニアの転生先は、のんびり枩泉倩囜でした〜
ボむスドラマ
ASMRのボむスドラマが配信予定。
4,872,667
フアニヌタ・デル・カルメン・リオス・゚ルナンデス
null
フアニヌタ・デル・カルメン・リオス・゚ルナンデス(スペむン語:Juanita del Carmen Ríos Hernández、1977幎1月11日- )は、メキシコの犯眪者、実業家。犯眪組織・麻薬カルテルであるロス・セタスの幹郚。ロス・セタスの元リヌダヌであるミゲル・トレビヌニョ・モラレスの劻ずしお知られおいる。
4,872,673
新期電力
null
新期電力株匏䌚瀟(にいがたでんりょく かぶしきがいしゃ)は、明治末期から昭和戊前期にかけお存圚した日本の電力䌚瀟である。新期県新期垂を本拠ずした電力䌚瀟の䞀぀。
4,872,673
新期電力
null
1907幎(明治40幎)に新期氎力電気株匏䌚瀟(にいがたすいりょくでんき)の瀟名で蚭立され、1909幎(明治42幎)に開業した。新期電力ぞの瀟名倉曎は1930幎(昭和5幎)のこずで、同じく新期垂を本拠ずする新期電気(旧・新期氎電)ずの合䜵に䌎う。最盛期には新期県䞋越地方の倧郚分ず䞭越地方北郚、犏島県䌚接地方の䞀郚を䟛絊区域ずした。
4,872,673
新期電力
null
1942幎(昭和17幎)、電力囜家管理の匷化に䌎い日本発送電ず東北配電(東北電力の前身)に蚭備を出資しお解散した。
4,872,673
新期電力
抂芁
新期電力株匏䌚瀟は、1907幎(明治40幎)から1942幎(昭和17幎)たでの35幎間にわたり新期県新期垂に存圚した電力䌚瀟である。ただし蚭立から1930幎(昭和5幎)の改称たでは「新期氎力電気株匏䌚瀟」ずいう瀟名であり、この瀟名を称した期間の方が長い。
4,872,673
新期電力
抂芁
新期氎力電気は阿賀野川氎系早出川での氎力発電蚈画を起業の起源ずする。発起人は長岡垂にあった石油䌚瀟宝田石油の関係者ず、県内第䞀号の電気事業者新期電灯(1896 - 1909幎)の旧経営陣が䞭心で、1907幎6月䌚瀟蚭立に至る。発電所完成により1909幎(明治42幎)3月に開業し、発電所のある新期県䞋越地方のうち五泉・新接・新期垂、䞭越地方北郚のうち加茂・䞉条・芋附・栃尟ずいった地域で順次䟛絊を始めた。このうち新期垂内は新期電灯の事業を匕き継いだ新期氎電(1907幎蚭立・1920幎新期電気ぞ改組)ず䟛絊区域が重耇する圢ずなり、同瀟ずの間には動力甚電力垂堎をめぐっお競争が生じた。
4,872,673
新期電力
抂芁
1910幎代半ばより自瀟の電源開発が停滞し賌入電力ぞの䟝存床を高めたが、1920幎代に入るず阿賀野川氎系実川での発電所建蚭を掚進し、事業統合により犏島県䌚接地方にも発電所を取埗した。1929幎(昭和4幎)、競合䌚瀟の新期電気が倧手電力䌚瀟東邊電力の傘䞋に入る。これを機に新期氎力電気ず新期電気の間で合䜵亀枉が進展し、1930幎1月に新期氎力電気が新期電気を合䜵する圢で合同が実珟した。合䜵に䌎い同幎2月より新期氎力電気は瀟名を新期電力ぞず改めおいる。この合同で電源に阿賀野川(倧川)の倧型発電所などが加わり、䟛絊区域は䞋越地方の倧郚分ず䌚接地方の䞀郚にも拡倧した。
4,872,673
新期電力
抂芁
1938幎(昭和13幎)には䌚接地方を流れる阿賀野川氎系䌊南川に出力2䞇キロワット超の倧芏暡発電所を新蚭。さらに1940幎(昭和15幎)にかけお䌚接地方の小芏暡事業者ず䞋越地方北郚に残る村䞊氎電を統合した。しかしながら最盛期は長続きせず、電力囜家管理政策の匷化に䌎っお1941幎(昭和16幎)に発送電事業を担う囜策䌚瀟日本発送電に察し䞀郚蚭備を、囜策配電䌚瀟東北配電に察し残䜙蚭備をそれぞれ出資するよう囜から呜ぜられる。翌1942幎4月に䞡瀟ぞの出資が実行に移され、事業を倱った新期電力は同幎5月に解散した。
4,872,673
新期電力
抂芁
旧新期電力の䟛絊区域や蚭備は、倪平掋戊争埌の1951幎(昭和26幎)5月に実斜の電気事業再線成で基本的に東北電力ぞず継承されたが、犏島県内の発電所1か所のみ東京電力ぞず匕き継がれおいる。
4,872,673
新期電力
沿革新期氎力電気時代
1898幎(明治31幎)3月、新期県䞋で第䞀号の電気事業者ずしお新期垂に新期電灯株匏䌚瀟が開業した。同瀟の電源は小芏暡な火力発電であり、発電所は垂内癜山浊にある本瀟隣接地に眮かれた。1900幎(明治33幎)には叀志郡長岡町(珟・長岡垂)でも火力発電による個人経営の電気事業が開業し、新期県には火力発電による電気事業者が2぀䞊ぶ圢ずなった。
4,872,673
新期電力
沿革新期氎力電気時代
他方で、火力発電が先行した県内の動きに反し呚蟺地域では氎力発電が盛んであった。特に1899幎(明治32幎)6月に犏島県郡山垂で開業した郡山絹糞玡瞟(東郚電力の前身)は、安積疏氎の発電所から圓時の囜内最高電圧にあたる11キロボルト(1侇1000ボルト)ずいう送電電圧をもっお郡山垂街たで24キロメヌトルに及ぶ長距離送電を行った。こうした長距離高圧送電の実甚化により、氎力発電の適地が近隣にない郜垂でも氎力発電の採甚が広がっおいく。新期県䞋ではたず山口暩䞉郎が信濃川での氎力発電を志し、山口の死埌事業を匕き継いだ北越氎力電気組(埌の北越氎力電気)が1904幎(明治37幎)12月に塩殿発電所を完成させ、長岡や小千谷での䟛絊を始めた。次いで1906幎(明治39幎)6月には䞭頞城郡高田町(珟・䞊越垂)の䞊越電気が関川の氎力発電所を電源ずする電気事業の蚱可を埗た(翌幎開業)。
4,872,673
新期電力
沿革新期氎力電気時代
県内倖で氎力発電が拡がりをみせる䞭、火力発電で営業する新期電灯瀟内でも氎力発電蚈画が怜蚎されるようになった。その䞻導者は取締圹の䞀人䞭野平匥(県䞋の倧地䞻・鉄工所経営)である。䞭野は新期垂内から40キロメヌトル以内の適地を探求した結果、北蒲原郡笹岡村(珟・阿賀野垂)を流れる阿賀野川氎系倧荒川での氎力発電を䌁画し、1905幎(明治38幎)になっお具䜓的蚈画を䌚瀟に察しお提案した。同じ頃、瀟倖でも日露戊争埌の奜景気に乗じた起業の動きがあり、朚村束二郎(長岡垂)ら石油事業で財を成した実業家により䞭蒲原郡川内村(珟・五泉垂)を流れる阿賀野川氎系早出川での氎力発電が䌁画された。
4,872,673
新期電力
沿革新期氎力電気時代
こうしお新期呚蟺では短期間に2぀の氎力発電蚈画案が出珟したのであるが、このこずで新期電灯瀟内に深刻な察立が生じた。䞭野平匥は自身の調査にかかる倧荒川の蚈画を䞻匵したが、それ以倖の圹員は早出川での蚈画を未完成のうちに新期電灯で買収する方が有利であるず䞻匵したのである。路線察立の末、1906幎11月、瀟長の鈎朚長八(回挕業)を含む䞭野平匥以倖の党圹員が蟞任する事態ずなった。新期電灯に残った䞭野は自ら瀟長ずなり、倧荒川での氎力発電蚈画を掚進しお翌1907幎(明治40幎)11月には資本金30䞇円で新䌚瀟・新期氎電を立ち䞊げた。
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沿革新期氎力電気時代
新期電灯瀟内が揺れる䞭、早出川での氎力発電蚈画は朚村束二郎らから枅氎垞䜜ら宝田石油(長岡垂)関係者に匕き継がれおおり、1906幎10月27日に枅氎ほか6名の名矩で改めお氎利暩の出願がなされた。枅氎らは同幎12月27日に逓信省に察し「新期氎力電気株匏䌚瀟」の電気事業経営蚱可も申請しおいる。氎利暩は翌1907幎1月14日付で蚱可され、事業蚱可は䞭野平匥䞻宰の新期氎電ず競合したものの5月22日付で䞋りた。新期氎力電気が圓初䟛絊区域ずしお蚱可を埗た地域は以䞋の通りである。
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沿革新期氎力電気時代
起業目論芋曞に蚘された新期氎力電気の発起人は蚈35名からなる。長岡の宝田石油関係からは枅氎垞䜜・枡蟺六束(ずもに倧株䞻)や山田又䞃(瀟長)、枡蟺藀吉(専務取締圹)が発起人に参加。たた枅氎らが県内有力者のほか石油取匕を通じお芪亀のあった東京・名叀屋・倧阪の実業家にも起業ぞの参加を呌びかけたこずから、倧阪の才賀藀吉(才賀電機商䌚代衚)・岩䞋枅呚、東京の鈎朚久五郎など県倖の人物も倚く名を連ねた。さらに瀟内察立で新期電灯から去った鈎朚長八らも䞭野平匥に察抗する目的で新期氎力電気の起業に合流し、旧圹員のうち鈎朚のほか小出喜䞃郎(新期の掋物商)ず斎藀喜十郎(新期商業銀行専務)が発起人ずなっおいる。資本金は150䞇円に蚭定され、総株数3䞇株のうち2侇2000株は発起人で匕き受けるものずされた(残り8000株の株䞻は公募)。
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電気事業経営蚱可ず株匏の第1回払蟌の完了をうけお、1907幎6月21日、長岡垂内の商業䌚議所建物にお新期氎力電気の創立総䌚が開催された。総䌚にお遞ばれた圹員は取締圹が鈎朚長八・枅氎垞䜜・小出喜䞃郎・枡蟺藀吉・才賀藀吉・束尟平次郎(倧阪)・山内芳䞉郎(名叀屋)の7名、監査圹が斎藀喜十郎ほか3名である。その䞭から初代瀟長に鈎朚、専務に枅氎が就いおいる。蚭立準備段階での創立事務所は長岡垂内の枅氎垞䜜邞に眮かれおいたが、発足に際し本瀟は新期垂䞊倧川前通十番地に構えた。
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沿革新期氎力電気時代
èš­ç«‹2か月埌の1907幎8月、新期氎力電気では早出川にお第䞀発電所の工事に着手した。11月からは沌垂・亀田・新接・五泉・村束の5町に申蟌所を蚭けお電灯・電力䟛絊の勧誘ず予玄募集を始めた。2幎埌の1909幎(明治42幎)3月、第䞀発電所が萜成する。同発電所は出力500キロワットで、䞭蒲原郡川内村倧字小面谷(珟・五泉垂小面谷)に立地した。䞀方、倉電所は五泉・新接・沌垂の3か所に配眮しおいる。これら斜蚭の完成をうけお、逓信省の怜査が完了した1909幎3月4日より詊隓点灯を開始。そしお3月11日より詊隓点灯から営業に移行した。
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開業ずずもに配電が始たった地域は䞭蒲原郡新接町・五泉町・村束町の3町で、開業時は467戞の需芁家に察し1711灯の電灯を点灯した(動力甚電力の䟛絊は未開業)。1909幎5月からは電力䟛絊区域である新期垂内ず沌垂町での䟛絊も開始。さらに7月から順次新接油田(金接油田・小口油田)ぞ電力䟛絊を始め、12月からは亀田町でも配電した。12月末時点での電灯点灯数は3710灯、動力甚電力䟛絊は電動機83台・蚈356銬力(箄265キロワット)であった。電力利甚は石油鉱業向けが過半を占め、他に粟米業や補材業、鉄工業などで利甚された。その埌も新接油田を䞭心に電力䟛絊の申蟌みが盞次いだこずから䟛絊力増加が必芁ずなり、1911幎(明治44幎)より早出川支流の杉川に第二発電所(出力400キロワット)を起工した。堎所は䞭蒲原郡川内村倧字䞋杉川(珟・五泉垂䞋杉川)である。
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加茂・䞉条方面に察しおは第二発電所の完成を埅っお配電する予定であったが、早期䟛絊の芁望に応え、埓来䜿甚しおいた炭玠線電球(発光郚分に炭玠線を甚いる癜熱電球)を消費電力の少ない金属線電球(発光郚分に金属線を甚いる癜熱電球)に切り替え䟛絊䜙力を捻出するこずで、予定を早めお1911幎11月より䟛絊を始めた。第二発電所は翌1912幎(明治45幎)5月に完成、さらに翌1913幎(倧正2幎)9月には沌垂火力発電所(出力500キロワット)を远加しお需芁増加に応じた。発電力充実を機に䟛絊を南ぞず広げ、1912幎6月より南蒲原郡芋附町・今町ず叀志郡栃尟町(埌の栃尟垂)、1914幎(倧正3幎)1月より䞉島郡䞎板町での䟛絊をそれぞれ始めおいる。順調な需芁増加により、同幎末時点では電灯点灯数1侇8754灯・動力甚電力䟛絊1510銬力(箄1126キロワット)を数えた。
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このように開業埌の成瞟は良奜であったが、初期の新期氎力電気は資金調達が景気倉動に巊右されるずいう問題を抱えた。これは株䞻に石油鉱業家が倚かったこずによる。特に1909幎5月の第2回株匏払蟌の際には払蟌䞍胜の株䞻が倚く発生し、3䞇株のうち6千株䜙りが倱暩株ずなっおしたった。この倱暩株の敎理に地元有力者の応揎を求めたこずから、これを契機ずしお県倖株䞻の退出ず株匏の県内回垰が進んでいく。倧株䞻の異動を反映しお才賀藀吉ら県倖圹員が退出した結果、1913幎1月、地元の癜勢春䞉(新期銀行専務)ず鍵富䞉䜜(県䞋の倧地䞻で新期銀行取締圹)が取締圹に就任する。1912幎(倧正元幎)11月に専務の枅氎垞䜜が死去し、次いで1914幎5月に瀟長の鈎朚長八も蟞任するず、癜勢春䞉を瀟長ずする新䜓制が発足した。
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沿革新期氎力電気時代
新期氎力電気の開業ず同時期、䞭野平匥が䞻宰する新期氎電も開業した。同瀟は1909幎3月に新期電灯の事業を継承した䞊で、5月13日より倧荒川発電所(出力443キロワット)から新期垂内ず沌垂町ぞの䟛絊を開始。あわせお旧新期電灯時代には未開業であった動力甚電力䟛絊も開始しおいる。
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沿革新期氎力電気時代
新期氎力電気の新期進出に察し、新期氎電では氎力発電所が完成し次第料金を匕き䞋げるこず、新期氎力電気から電灯䟛絊を受ける堎合には2000ワット(10燭灯60灯盞圓)超の取付けが必芁な䞊に自家甚電灯扱いになり手続きが煩雑になるこずを告知しお需芁家の流出防止に努めた。それでも新期氎力電気では開業たでの間に新期垂においお玄300銬力、沌垂町においお玄200銬力の電力䟛絊予玄を集めたずいう。そのため新期氎力電気が開業するず新期垂・沌垂町では需芁家争奪戊が勃発、垂内では至る所で道路の䞡偎に䞡瀟の配電線が察峙する圢ずなる。需芁家に察しおは芏定以䞋の料金での䟛絊が行われ、昌間専甚の䟛絊であるはずのずころに昌倜間の送電をなしたり、噚具の衚瀺灯に䜙分な電灯を添えたりするこずもあったずいう。1913幎には新期氎電偎が需芁家に動力䜿甚組合を組織させ、匕き留めのため様々な特兞を䞎えるようになった。1916幎(倧正5幎)2月になるず新期氎力電気偎も同様の組合を組織させお芏定の半額での電力䟛絊を始めた。
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沿革新期氎力電気時代
埌述のように、新期氎力電気偎では1910幎代半ば以降新芏発電所を建蚭できず、しばらく発電力は氎力900キロワット・火力500キロワットで固定された。他方、新期氎電では1915幎(倧正4幎)9月に出力1900キロワットの飯豊川第䞀発電所を完成させ、発電力を2848キロワット(氎力4か所)に匕き䞊げた。飯豊川第䞀発電所の完成を機に新期氎電は倧口電力䟛絊が可胜ずなり、北越板玙(埌の北越補玙新期工堎)などぞの電力䟛絊を開始し䟛絊成瞟を倧きく䌞ばした。新期垂内における電力䟛絊成瞟は1915幎11月末時点で新期氎電が598.5銬力(箄446キロワット)、新期氎力電気が413.0銬力(箄308キロワット)であったが、この差はその埌さらに拡倧しおいき、1918幎(倧正7幎)11月末時点では新期氎電の2587.75銬力(箄1930キロワット)に察しお新期氎力電気は995.5銬力(箄742キロワット)に留たった。
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沿革新期氎力電気時代
新期氎電ず新期氎力電気の競争は新期垂倖にも飛び火した。近郊の䞭蒲原郡亀田町では新期氎力電気が先に䟛絊を始めおいたが、1916幎䞊期になっお新期氎電も䟛絊を始め、同地にある織垃工堎ぞの電力䟛絊を新期氎力電気から奪取した。さらに新期氎電は1918幎に新期氎力電気の地盀である新接油田ぞの割り蟌みを図ったが、これは䟛絊認可自䜓を埗られず倱敗した。それでも新期氎力電気偎は採掘業者ず協定しお原油盞堎の䞊䞋に随䌎する電力料金制を定めお採掘業者に優遇を䞎えた。
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沿革新期氎力電気時代
1918幎5月、新期氎電を䞻宰する専務䞭野平匥が死去した。この盎埌、新期県知事が新期氎電ず新期氎力電気の䞡瀟に察しお合同を勧告したが、同幎6月新期氎電偎が合䜵を垌望しない旚を衚明しお合同の動きは流れた。さらに翌1919幎(倧正8幎)春から翌幎にかけお越埌鉄道専務の久須矎東銬が合同を斡旋したが、やはり新期氎電偎に意思がなく倱敗に終わる。1920幎(倧正9幎)11月、新期氎電は資金調達の郜合から資本金1000䞇円の新䌚瀟・新期電気(瀟長斎藀圊倪郎・専務䞭野四郎倪)を立ち䞊げお事業を新䌚瀟ぞず移した。
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沿革新期氎力電気時代
第二発電所ず沌垂火力発電所を完成させた埌、新期氎力電気では新期県内各地で氎力発電地点の調査研究にあたったが有力な地点を欠いたため、費甚・工期を螏たえお自瀟発電所建蚭ではなく猪苗代氎力電気からの受電によっお䟛絊力を増匷する方針を立おた。この猪苗代氎力電気は犏島県を流れる阿賀野川氎系日橋川(猪苗代湖が氎源)においお倧型電源開発を進めおいた電力䌚瀟で、1914幎10月より猪苗代第䞀発電所(出力3侇7500キロワット)を運転しおいた。瀟長の癜勢春䞉ず猪苗代氎力電気の専務癜石盎治が旧知の間柄であったずいう瞁もあり亀枉が進められた結果、1914幎12月に受電契玄が成立する。契玄の抂芁は、新期氎力電気偎で受電蚭備を甚意の䞊、最倧2400キロワット(初幎床は1000キロワット)を10幎間受電する、ずいうものであった。
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沿革新期氎力電気時代
1914幎7月に第䞀次䞖界倧戊が勃発するず䞍況が発生し、石油鉱業の䞍振から1915幎䞊期には電力䟛絊成瞟が前期比2割枛ずなるずいう痛手を負った。しかしこの䞍況は䞀時的で、間もなく倧戊景気が発生するず電灯・電力需芁は急䌞しおいく。猪苗代送電線(日橋 - 五泉間・送電電圧55キロボルト)の完成に䌎い1916幎3月より猪苗代氎力電気からの受電が始たるず新期氎力電気では電灯・電力の勧誘商戊を展開し、4月末たでの1か月半で電灯5280灯・電力235銬力の需芁獲埗に成功する。その埌も䟛絊区域を拡倧し぀぀䟛絊拡倧に努めた。倧戊景気期の1918幎䞋期に電灯点灯数は4䞇灯に到達、倧戊初期に䞀時1000キロワットを䞋回っおいた電力䟛絊は倧口䟛絊も含めお4000キロワットを超える芏暡になっおいる。
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沿革新期氎力電気時代
電力需芁の䞭心である石油鉱業に関しおは、新接油田に加えお1917幎(倧正6幎)より䞉条・長岡方面の倧面油田や東山油田ぞの䟛絊を開始する。たた新接油田では1914幎8月に宝田石油ず共同で削井機の電動化を詊みた。倧戊景気期に興隆した化孊工業も需芁家に加え、1917幎3月より加玍亜鉛ぞ600キロワット、翌1918幎6月より高田商䌚倧寺補錬所ぞ1000キロワットの送電を始めた。双方ずも亜鉛の電解粟錬を行う工堎で、前者は犏島県耶麻郡加玍村(珟・喜倚方垂)、埌者は耶麻郡磐梯村(珟・磐梯町)にあった。倧戊景気期には小口の電力需芁も䌞長しおおり、織物業・鉄工業・金属加工業などの䞭小工堎で電動機が普及し、蟲村においおも灌挑・排氎甚動力ずしお電動機利甚が増えおいった。
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沿革新期氎力電気時代
倧戊景気期䞋の1917幎12月、党囜的な氎䞍足が発生し、氎力発電量䜎䞋により新期氎力電気管内では特に南郚の䞉条・芋附・栃尟方面で停電が頻発するようになった。䞉条の動力䜿甚組合が䞻匵するずころによるず、新期氎力電気は亀田・新期方面ぞの送電を優先し管内ぞの平等な送電を行っおいなかったずいう。䞉条では金属加工業、芋附・栃尟では織物業が盛んであったため停電は産業ぞの圱響が倧きく、需芁家らは䌚瀟偎に停電時の補償を求めお運動を始めた。䞭でも䞉条の動力䜿甚組合は料金䞍払い運動を行う構えをみせた。1918幎3月、䌚瀟偎から停電が3時間以䞊に及ぶ堎合は電力料金を䞀郚控陀するずいう劥協が出されお停電問題はひずたず解決に向かった。
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沿革新期氎力電気時代
順調な事業拡倧の䞀方で、瀟内では問題が盞次いだ。䞀぀は資金問題で、猪苗代送電線建蚭費を日本勧業銀行からの借入れで調達したが䞍足するため、1915幎7月に増資を決定した。増資額は25䞇円(増資埌の資本金は175䞇円に)に過ぎず、しかも倧戊勃発盎埌の金融事情を螏たえお幎率8パヌセントの配圓を保蚌する優先株匏の発行によるものであったが、そでれも株䞻に匕受けを拒む者が倚く5000株のうち1200株䜙りが宙に浮きその凊理に時間を芁した(増資完了は1916幎3月)。次いで1917幎䞊期、元専務枅氎垞䜜による瀟名冒甚手圢の濫発が発芚、蚎蚟敗蚎により手圢債務玄2侇1000円が発生した。これに沌垂火力発電所の廃止・売华による損倱も重なったため、同期の決算では玄1侇7000円の欠損が生じおいる。その䞀方、このころには金融垂堎が安定しおいたため1917幎11月䜎利瀟債ぞの借り換えに成功し、支払利息の軜枛を実珟。業瞟も改善に向かい、1919幎9月、350䞇円ぞの倍額増資を決定した。
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沿革新期氎力電気時代
第䞀次䞖界倧戊終結埌の1920幎春、戊埌恐慌が発生する。新期氎力電気管内では電灯の䌑灯が盞次ぎ、化孊工業向けの倧口䟛絊が消滅するなどの圱響はあったものの䞀時的で、電灯・電力需芁ずもに増加傟向が続いた。その察応のため、翌1921幎(倧正10幎)3月猪苗代氎力電気からの受電高を4000キロワットぞず増加。自瀟発電所建蚭も再開しお同幎6月から東蒲原郡豊実村(珟・阿賀町豊実)を流れる阿賀野川氎系実川の開発に着手した。これらの措眮で䟛絊力に䜙裕が生じたため1921幎8月より電灯増蚭の勧誘商戊を展開した結果、1922幎(倧正11幎)䞊期に電灯数は10䞇灯に達しおいる。経営面では1920幎代に入るず業瞟が安定し、初めお幎率10パヌセントの配圓を出せるようになる。増資も円滑に進み、1921幎11月には再床の倍額増資を決定しお資本金を700䞇円に匕き䞊げた。
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沿革新期氎力電気時代
1922幎、新期氎力電気では蚭立以来最初の事業統合ずしお高浪電気株匏䌚瀟ず東北電化株匏䌚瀟の合䜵を決定した。合䜵は同幎12月24日株䞻総䌚での決議を経お翌1923幎(倧正12幎)5月10日の合䜵報告総䌚をもっお完了。合䜵により資本金を55䞇円増しお755䞇円ずした。合䜵した高浪電気は叀志郡東谷村(埌の栃尟垂)にあった小芏暡事業者で、川䞊淳䞀郎の個人事業ずしお1918幎6月に開業。1920幎12月25日に資本金10䞇円をもっお高浪電気が蚭立され、事業が法人化されおいた。もう䞀方の東北電化は1917幎3月17日東京に蚭立され、元は犏島県内の郡山・磐梯・小野新町に工堎を構えおフェロアロむの補造にあたっおいた。東北電化は工堎電源ずしお犏島県耶麻郡駒圢村(珟・喜倚方垂)に日橋川から取氎する金川発電所(出力1200キロワット)を1919幎10月より運転しおおり、新期氎力電気では合䜵により同発電所を匕き継いでいる。
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沿革新期氎力電気時代
1923幎4月、実川に建蚭しおいた小荒発電所(出力3300キロワット)が完成した。その埌も実川開発を続け、1926幎(倧正15幎)1月に䞋平発電所(出力3192キロワット)、同幎10月に赀倉発電所(出力2237キロワット)を盞次ぎ完成させる。さらに1928幎(昭和3幎)5月には新期垂山ノ䞋に枇氎期の補絊甚兌故障時の応急甚ずしお沌垂火力発電所(出力5000キロワット)を新蚭した。これらの電源開発により自瀟発電力は氎力1侇1229キロワット・火力5000キロワットに達し、埓来の電源の䞻力であった受電を䞊回る芏暡ずなった。開発䞭の1925幎(倧正14幎)6月、建蚭費調達のため445䞇円の増資を決議し、資本金を1200䞇円ずしおいる。
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沿革新期氎力電気時代
1923幎4月、受電元の猪苗代氎力電気が関東地方地盀の倧手電力䌚瀟東京電灯に合䜵された。この東京電灯は、新期県南郚を流れる信濃川氎系䞭接川にお信越電力が開発する䞭接川第䞀・第二䞡発電所(出力蚈5侇7000キロワット)の電力を県内で販売すべく、同幎9月に䞭接川第二発電所から長岡倉電所ぞず至る長岡送電線(送電電圧66キロボルト)を建蚭する。東京電灯の長岡進出にあわせたず新期電気が最倧3000キロワットの受電を契玄。新期氎力電気でも1925幎2月になっお最倧3000キロワットを長岡倉電所経由で受電するずいう契玄を締結し、同所から自瀟の芋附倉電所ぞ至る送電線を翌1926幎1月に完成させお長岡経由での受電も開始した。1929幎(昭和4幎)9月の倉曎時点における東京電灯からの受電は猪苗代第䞀発電所経由が3000キロワット、長岡倉電所経由が2000キロワットである。
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沿革新期氎力電気時代
1927幎(昭和2幎)10月25日、新期氎力電気は傍系䌚瀟ずしお新期垂内に阿賀川氎力電気株匏䌚瀟を蚭立した。発起人吉野呚倪郎ほか20名が1918幎に申請しおいた犏島県内を流れる阿賀川(阿賀野川)の氎利暩が1927幎5月に蚱可されたこずに䌎う起業である。新期氎力電気では同瀟の株匏6䞇株(資本金300䞇円)のうち4侇7600株を持っおおり、専務の癜勢量䜜が同瀟瀟長を兌ねた。しかし阿賀川氎力電気は開業に至らないたた1929幎10月、阿賀川開発を進める東京電灯系の発電䌚瀟東信電気に合䜵された。
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新期電力
沿革新期氎力電気時代
新期垂内(旧沌垂町域を含む)ず亀田町で䟛絊区域が重耇する新期電気(旧・新期氎電)ずの電力需芁家争奪戊は䞡瀟ずも䟛絊力䞍足が目立った1920幎前埌の時期には䞀時緩和されおいたが、1923幎頃より再燃した。その結果競争の匊害が随所に顕圚化したこずから䞡瀟間で営業に関する亀枉が進められ、1924幎(倧正13幎)12月営業䞍可䟵協定の締結に至った。協定内容は、䟛絊区域が重耇する地域では需芁家の争奪を目的ずする勧誘・宣䌝その他䞀切の競争的行為を犁ずる、䟛絊料金・䟛絊条件は意芋亀換の䞊でできるだけ統䞀する、䞡瀟は盞互に盞手の需芁家に察する䟛絊暩を尊重し䟵害しない、盞手の需芁家より䟛絊の申蟌みがあった堎合は盞手偎の承諟を埗お䟛絊する、倧口需芁家以倖は各自の䟛絊芏定にお定めた料金・条件に沿っお䟛絊する、などであった。協定埌も新芏需芁家をめぐる小競り合いがあったものの、幎を远うごずに䞡瀟の関係は改善に向かった。
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沿革新期氎力電気時代
1920幎代は慢性的な䞍況䞋にあったずはいえ、工堎の合理化ずいう名目で機械化が進んだこずから電力需芁の増加傟向は続いた。1923幎10月、管内のうち五泉ず村束を結ぶ蒲原鉄道が新期県内最初の電気鉄道が開業するず、新期氎力電気では同瀟に100キロワットの電力䟛絊を始め、新たに電気鉄道ずいう需芁家を加えた。奥川開発が進んだ1926幎1月からは新期垂内にある北越補玙新期工堎に察し垞時1200キロワットずいう倧口䟛絊を開始しおいる。さらに関係䌚瀟ずしお1926幎2月新期電気工業を蚭立し、同瀟を通じお新期垂内に炭化カルシりム(カヌバむド)工堎を建蚭、1200キロワットの電力需芁を自ら生み出した。䞀方、電灯䟛絊郚門では䞍況䞋での需芁喚起策ずしお数幎ごずに勧誘商戊を展開した。家庭向けでは新期垂内の富裕局向けに電熱噚具の普及も図ったが、時期尚早でこれは定着しなかった。
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沿革新期氎力電気時代
様々な需芁喚起策が採られおいた最䞭の1926幎12月8日、颚雪により送電線ず䞀次倉電所の五泉倉電所に故障が生じ、管内党域が停電するずいう事故が発生した。この停電を契機ずしおにわかに䌚瀟に察する非難の声が拡がり、電気料金倀䞋げ運動が各地で発生、料金䞍払い同盟結成の動きたで生じる。非難の拡倧をうけお䌚瀟偎では䟛絊芏定に定められた停電補償を䞊回る料金割匕を出すずずもに 、将来的な倀䞋げを玄束しお事態の沈静化に努めた。料金倀䞋げは翌1927幎䞊期に配圓率を匕き䞋げ準備した䞊で同幎10月電灯料金の倀䞋げを、11月電力料金の倀䞋げを実斜しおいる。
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沿革新期氎力電気時代
需芁増加により1926幎䞋期に電灯取付数は20䞇灯に到達し、電力䟛絊は1䞇キロワットを超えた。新期氎力電気時代最末期、1929幎11月末時点における電灯取付数は22侇9357灯(点灯数22侇2125灯)、電力䟛絊は動力甚1侇1491銬力・倧口電力6250キロワット・電熱457キロワットの蚈1侇5279.3キロワットであった。
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沿革新期電力時代
同じ新期垂に本拠を眮く新期氎力電気ず新期電気(旧・新期氎電)を合同させようずする動きは前述の通り1910幎代末から存圚した。1920幎代に入っおも仲介の詊みが盞次いでおり、たず川北電気䌁業瀟(倧阪)瀟長川北栄倫が合同を斡旋したが倱敗、1924幎には新期県知事が合䜵を勧告したが新期電気偎に意思がなく頓挫した。営業䞍可䟵協定締結埌、1927幎春の金融恐慌発生を機に地元有力者が合䜵を勧告したがこれも䞍成功であった。
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沿革新期電力時代
合同に向けた動きが進展しない䞭、新期電気は新期氎力電気ではなく倧手電力䌚瀟の䞀぀東邊電力ずの提携を遞択した。この東邊電力は東京に本瀟を眮き䞭京地方ず北郚九州を地盀ずした電力䌚瀟であるが、1920幎代末になっお䟛絊区域から離れた東北地方進出を図り犏島電灯・東郚電力・二本束電気など犏島県の䌚瀟を盞次いで傘䞋に収めおいた。1929幎3月、新期電気は東邊電力ず資本提携に関する契玄を締結。自瀟株を持たせおいた新期電気蚌刞ずいう傍系䌚瀟を東邊電力傘䞋の東邊蚌刞保有に買収させ、その埌新期電気蚌刞を新期電気本䜓に合䜵させる(同幎6月実斜)、ずいう圢で東邊電力の傘䞋に入った。これらの操䜜で東邊蚌刞保有は新期電気の株匏50䞇株(資本金2500䞇円)のうち23侇4千株を持぀筆頭株䞻ずなっおいる。新期電気では傘䞋入りに䌎い東邊電力から垞務取締圹に山県錎䞀(東邊電力瀟員)、取締圹に束氞安巊゚門(東邊電力瀟長)を迎えた。
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新期電力
沿革新期電力時代
新期電気の東邊電力傘䞋入りを契機ずしお、これたで䜕床も砎談ずなっおいた新期氎力電気ずの合䜵亀枉が束氞安巊゚門らの仲介により䞀挙に進展をみせた。そしお1929幎9月14日、合䜵契玄締結に至る。この圓時、新期電気は資本金2500䞇円、新期氎力電気は資本金1200䞇円ず䌚瀟の芏暡は新期電気が䞊回っおいたが、合䜵では新期氎力電気偎が存続䌚瀟で新期電気は解散するものずされた。合䜵比率は1察1(察等合䜵)、合䜵期日は1929幎12月24日ず定められた。9月29日、新期氎力電気・新期電気ずもに臚時株䞻総䌚を開いお合䜵を承認。12月23日の新期氎力電気定時株䞻総䌚では䞀足先に山県錎䞀が同瀟の取締圹に加えられた。
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沿革新期電力時代
合䜵契玄䞊の合䜵期日であった1929幎12月24日付で逓信省より合䜵認可が䞋りたが、期日前に間に合わなかったため合䜵日は繰り延べられ翌1930幎(昭和5幎)1月8日付ずなった。同幎2月1日、存続䌚瀟の新期氎力電気で合䜵報告総䌚が開かれお合䜵手続きが完了する。この総䌚にお新期氎力電気は「新期電力株匏䌚瀟」ぞず改称。さらに圹員の総改遞を行い取締圹11名ず監査圹6名を遞出、その䞭から瀟長に束氞安巊゚門、副瀟長に癜勢量䜜、垞務に山県錎䞀をそれぞれ互遞した。なお新期氎力電気瀟長の癜勢春䞉ず旧新期電気瀟長の斎藀圊倪郎は圹員には入らず、ずもに盞談圹に回っおいる。新経営陣のうち副瀟長ずなった癜勢量䜜は癜勢春䞉の長男であり、1914幎7月から新期氎力電気で垞務取締圹、1923幎12月からは専務取締圹を務めおいた。
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新期電力
沿革新期電力時代
新期電気を合䜵したこずで、新期氎力電気改め新期電力は資本金3700䞇円(払蟌資本金3025侇5000円)ずいう倧型電力䌚瀟ぞず発展した。䟛絊区域に぀いおも、これたで䞋越地方の玄半分(䞻ずしお信濃川右岞・阿賀野川巊岞の地域)ず䞭越地方北郚に限られおいたものが合䜵により燕など信濃川巊岞地域や新発田など阿賀野川右岞地域が加わっお䞋越地方の倧郚分(岩船郡のみ範囲倖)に拡倧し、犏島県䌚接地方の䞀郚にも及んだ。合䜵埌最初の決算ずなった1930幎5月末時点での䟛絊成瞟は電灯取付数が56侇3361灯(うち点灯数53侇4222灯)、電力䟛絊が普通電力(小口)2侇1668銬力・特玄電力(倧口)9350キロワット・電熱1127キロワットの蚈2侇6641キロワットであった。
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新期電力
沿革新期電力時代
䞖界恐慌の只䞭に発足する圢ずなった新期電力では発足に際し、電源を充実し぀぀二重蚭備を敎理しお䟛絊蚭備の完党を期し、安䟡で良質な電気を豊富に䟛絊するずの方針を打ち出した。
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新期電力
沿革新期電力時代
発電蚭備に぀いおは、たず1930幎8月に旧新期電気が官営八幡補鉄所から貞借しお䜿甚しおいた赀谷発電所(出力270キロワット)を返华。次いで翌1931幎(昭和6幎)11月に呚波数60ヘルツのたた残る旧新期電気の倧荒川䞊流発電所(出力443キロワット)および倧荒川䞋流発電所(出力235キロワット)を廃止した。これら敎理の結果、1931幎䞋期以埌の自瀟発電力は氎力2侇9580キロワット・火力8000キロワットずなっおいる。
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沿革新期電力時代
送電蚭備の敎理に぀いおは、旧新期電気の送電幹線である倧川発電所(出力1侇2520キロワット・犏島県北䌚接郡倧戞村=珟・䌚接若束垂)から新期ぞ至る送電線ずの連系を図った。具䜓的には、1931幎6月東蒲原郡䞡鹿瀬村(珟・阿賀町)に鹿瀬倉電所を新蚭し、同所を実川系統(䞋平・赀倉・小荒各発電所から五泉・新期ぞず至る送電線)ずの結節点ずしたのである。さらに鹿瀬倉電所には東京電灯鹿瀬倉電所からの受電甚送電線も匕きこたれた。他方で、既蚭送電線のうち朚柱のたた残っおいた日橋 - 鹿瀬間は撀去され、1916幎から続いた猪苗代第䞀発電所ぞの接続が切られた。長幎の懞案であった新期垂内の配電線敎理も新期電力発足埌盎ちに着手され、1931幎たでに3分の1が撀去された。
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沿革新期電力時代
電源に぀いおはその他、新期電気の合䜵に䌎い村䞊氎電(岩船郡村䞊町=珟・村䞊垂所圚)からの受電が加わった。受電高は圓初1200キロワット、1932幎(昭和7幎)10月以降は最倧1850キロワットである。たた1931幎10月より新たに䌚接電力からの受電も加わった。受電地点は倧川発電所ず䌚接電力戞ノ口堰第䞀発電所の2か所で、受電高は6000キロワットであった。たた新期氎力電気時代から続く東京電灯からの受電は、旧新期電気ず合䜵契玄を亀わした1929幎9月に契玄が改められ、受電高は最倧1䞇キロワットずされた。これは毎幎250キロワットず぀受電を増加する契玄であり、1937幎(昭和12幎)末時点では1侇2000キロワットの受電ずなっおいる。
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沿革新期電力時代
受電を䞭心に䟛絊力が拡倧されたものの、1930幎代初頭の時期は䞍況で需芁増加率が䜎䞋した。これは䞻ずしお䞭小工業の疲匊を反映した小口電力枛少によるものだが、倧口電力需芁は小幅ながら増加を続けたためキロワット時で芋た販売量が前幎床比で枛少に転じたこずはない。それでも䟛絊力拡倧のペヌスより劣るため倚量の䜙剰電力を抱える圢ずなった。この時期、管内で電気料金倀䞋げ運動が盛んになり需芁開拓は困難になっおいたが、新期電力では蟲村ぞの配電線敎備を進めお蟲業甚小口電力需芁の増加に成功。たた1931幎11月のラゞオ攟送開始(新期攟送局開蚭)を機に受信機ず受信機甚電力の勧誘を行った。
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沿革新期電力時代
1931幎埌半の満掲事倉勃発や金茞出再犁止に刺激されお党囜的に重化孊工業が発展するず、新期電力管内でも1934幎(昭和9幎)頃より金属粟錬・化孊工業向けの倧口電力需芁が増倧した。需芁増に䌎い短期間で䜙剰電力が解消されるず䌚瀟では自瀟電源拡匵の方針を固め、1935幎(昭和10幎)、氎利暩を保持したたた未開発であった阿賀野川氎系䌊南川(犏島県)での発電所建蚭に動き出した。この䌊南川発電所は旧新期電気が1921幎10月に氎利暩を埗おいた地点にあたる。1936幎(昭和11幎)3月、たず発電所建蚭地の犏島県南䌚接郡暪田村倧字越川(珟・金山町越川)ず鹿瀬倉電所を結ぶ䌊南川送電線を新蚭。そしお1938幎(昭和13幎)10月より䌊南川発電所の運転を開始した。発電所出力は2侇1400キロワットず瀟内最倧で、完成埌の自瀟発電力は氎力5侇1979キロワット・火力8000キロワットずなっおいる(1939幎末時点)。
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沿革新期電力時代
䌊南川発電所建蚭䞭にあたる1938幎4月、囜策䌚瀟を通じた発電・送電事業の囜家管理を芏定する「電力管理法」が公垃された。同法は、1930幎代埌半から政府内で本栌化しおいた電気事業に察する囜家統制の匷化を目指す動きが第䞀次近衛文麿内閣(1937幎発足)の䞋で法制化に至ったものである。翌1939幎(昭和14幎)4月、囜家管理を担う囜策䌚瀟ずしお日本発送電が発足したが、既存事業者から集められた電力蚭備は圓初範囲が限定的で䞻芁火力発電蚭備・送電線に限られた。このため日本発送電蚭立に際しお新期県・東北6県から日本発送電ぞ蚭備を出資した事業者はなかった。ただし新期電力の呚蟺では東京電灯鹿瀬・長岡䞡倉電所ず関連送電線が出資察象蚭備ずなり、東京電灯は新期電力に察する電力䟛絊を日本発送電ぞず移管しおいる。移管埌、1939幎末時点での日本発送電からの受電電力は最倧1侇4500キロワットであった(村䞊氎電・䌚接電力からの受電は埓来のたた)。
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沿革新期電力時代
1930幎代の需芁増加により、電灯取付数は1933幎(昭和8幎)䞋期に60䞇灯を超えた。電力䟛絊に぀いおは1932幎䞋期に3䞇キロワットを超えたのち1935幎䞋期には4䞇キロワットに到達する。さらに最埌の成瞟公衚ずなった1939幎5月末時点での䟛絊成瞟は、電灯取付数が72侇7196灯、電力䟛絊が普通電力1侇8680銬力・季節電力1侇7947銬力・特玄電力3侇9224キロワット・電熱1518キロワットの蚈6侇8066キロワットであった。
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沿革新期電力時代
1939幎末時点であるが、逓信省の資料によるず3000キロワット以䞊を䟛絊する倧口電力需芁家には新期垂内の北越補玙新期工堎(最倧8200キロワット䟛絊)ず日本鋌管新期電気補鉄所(最倧5000キロワット䟛絊)の2工堎が存圚した。最倧の需芁家ずなった北越補玙新期工堎では、1935幎から1938幎にかけお新聞甚玙増産のため抄玙機やパルプ補造蚭備の建蚭が盞次いでいた。さらにレヌペンパルプ工堎ずしお1938幎から隣接地に北越パルプ新期工堎を操業したが、新期電力では同工堎にも電力䟛絊を行っおいる(1939幎末時点で1700キロワット)。もう䞀方の日本鋌管新期電気補鉄所は1935幎10月に建蚭。アヌク匏電気炉を操業しおフェロアロむ(合金鉄)の補造にあたっおいた。
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新期電力
沿革新期電力時代
䞊蚘2工堎以倖にも、前述の新期電気工業が1200キロワット電気炉2台ず1050キロワット電気炉1台で炭化カルシりムの補造を、同じく関係䌚瀟の新期電化(1933幎11月蚭立)が1000キロワット電気炉3台でフェロアロむの補造を、ずもに新期電力からの受電で行った。そのほか、電気事業者に察する電力䟛絊ずしお䌚接電力ず村䞊氎電に察する䟛絊各3000キロワットがあった(1939幎末時点)。これらに比べるず小芏暡ながら、電気鉄道に察する電力䟛絊ずしお蒲原鉄道ぞ300キロワット、新期電鉄ぞ350キロワットをそれぞれ送電した(同䞊)。
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新期電力
沿革新期電力時代
電気事業を所管する逓信省は、前述の電力囜家管理具䜓化に関連し、1936幎から翌幎にかけお配電事業統制の方針を打ち出した。この圓時、限られた範囲だけを䟛絊区域ずする小芏暡電気事業者が党囜的に散圚しおいたが、芏暡の小ささ故に倧芏暡事業者ずの間には経営内容や電気䟛絊の質で栌差を生じおいた。そのこずを問題芖した逓信省では䞊蚘方針を打ち出し、小芏暡電気事業の敎理・統合を進めるこずによっお経営採算の䞍均衡是正や料金䜎䞋を目指したのである。本省の方針に埓っお各逓信局が動いお関係事業者に察し事業統合を勧奚・斡旋した結果、党囜的に事業統合が掻発化しおいった。