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アタリショック
マテルやコレコのゲーム機にはサードパーティを防止するプロテクトが施してあった一方で、アタリVCSはプロテクトが施されておらず、ハードメーカーの許認可を得なくてもサードパーティが合法的に低品質ゲームソフトをリリース出来たり、また違法な海賊版が野放しになったことは業界の教訓となった。アタリVCSでは、低品質ではあっても一応は合法的な「クソゲー」の他にも、例えば『カスターズ・リベンジ』(エロゲー)などといった違法なゲームが販売され、全米でニュースとなったためにアタリにまで大量の苦情が来て、これもVCSの評判を落とした一因となった。アタリショックの再来を防ぐため、NESではハードウェアプロテクトが厳しくなり、カートリッジにロックアウトチップが搭載されるようになった(アタリショック以前に発売された日本のファミコンには搭載されていなかったため、日本では「ダビング機」(現代でいうマジコン)などと呼ばれる違法な機器が出回り、違法なエロゲーも出た)また、品質的にも厳しく管理されており、NESではサードパーティ製ソフトに対して任天堂社内で「ロットチェック」と呼ばれる工程が行われ、任天堂の制作ガイドラインに適合しないソフトウェアの販売はできなくなっている。NESのゲームのパッケージには、正規版であることと、高品質であることを証明する「Original Nintendo Seal of Quality 」と書かれたシールが貼られている。
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アタリショック
高品質なゲームを保証するためにサードパーティが年間にリリースできるソフトの数を制限する「Seal of Quality」のシステムは、それでもクソゲーがリリースされたり、ダミー会社を作って作品をリリースする会社が現れるなどの回避例が一部にあったものの(有名な例では、原作者が「クソ」と言い切ったNES版『メタルギア』と、これをリリースしたコナミのダミー会社「ウルトラゲームズ」)、結果としてはNESでは低品質ソフトウェアによる市場崩壊は起こらなかった。一方、海賊版ゲームソフトは、1980年代後半から1990年代にかけて東南アジアや南米で大きな問題となったが、日本やアメリカでは1980年代には著作権法が整備されていたこともあり、プロテクトチップが搭載されていない日本版ファミコンや北米版アタリVCSでも懸念されたほどの被害はなく、違法なエロゲーもすぐに販売が禁止されている。 1985年にはファミコン(NES)のキラーソフトとして『スーパーマリオブラザーズ』が発売され、人気に火が付いた。当初は日本製ゲームが主だったNESも、1987年頃より北米サードパーティが続々と参入し、北米家庭用ゲーム市場は1988年に23億ドル(同年末の日本円で約2875億円)、1989年に50億ドル(同年末の日本円で約7150億円)にまで達し、ようやくアタリショックからの復興が成し遂げられた。 ここまでが、今日言われている「アタリショック=Video game crash of 1983」の概要である。この名称は「ニクソン・ショック」をもじったものである。ただし、アタリショックの評価については「神話」が含まれていることを、ファミコンの設計者である上村雅之が指摘している。
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アタリショック
ここまでが、今日言われている「アタリショック=Video game crash of 1983」の概要である。この名称は「ニクソン・ショック」をもじったものである。ただし、アタリショックの評価については「神話」が含まれていることを、ファミコンの設計者である上村雅之が指摘している。 ファミコン(NES)において低品質ゲームソフトの氾濫=アタリショックの再来を防ぐためとの名目で任天堂の取った強権的なサードパーティ管理方式は、一時的には成功したと考えられ、SNESやNINTENDO 64など、その後に任天堂が発売した全てのゲーム機でおおむね踏襲されている。しかし、その強権的な姿勢がエレクトロニック・アーツやテンゲンといった大手サードパーティとの確執を生み(特にテンゲンとは親会社のアタリをも巻き込んで裁判沙汰となった)、1990年にはこれらのメーカーの支持を受けたセガ・メガドライブがNESやSNESに代わって北米市場シェアを握る結果となり、その後もソニー・プレイステーションなどが北米市場を支配することとなった。 アタリはゲーム機市場でVCSのような人気を得られないまま、アタリ・ジャガーを最後に1996年にゲーム機市場から撤退した。NESの成功以降、北米のゲーム市場は長らく日本製ゲーム機が席巻し、北米のゲーム機市場で人気を得る北米発のゲーム機は2001年のXboxを待たねばならない。 21世紀に入るとアタリショックの記憶は薄れ、「アタリショックは無かった」「ビデオゲームの墓場は都市伝説だ」などと考える者も現れている。そこで2014年4月、Xbox Entertainment Studiosの企画でビデオゲームの墓場が掘り返され、『E.T.』などのカートリッジが実際に発掘された。これに絡めてアタリ関係者にも改めて取材がなされ、ザック・ペン監督によって『Atari: Game Over』として映画化され、11月にXbox Liveで配信された。発掘された『E.T.』のうち一本はアタリショックの証人としてスミソニアン博物館群の国立アメリカ歴史博物館に収蔵されている。
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アタリショック
欧州へのアタリショックの影響はほとんどなかった。Atari VCS市場の崩壊によって一時的に北米ゲーム市場の覇者となったアタリやコモドールのホビーパソコンは、北米ではNESが普及する1980年代後半から1990年にかけて急激に人気を減らしていったが、一方で北米ゲーム市場での成功を足掛かりに欧州で人気を博し、欧州で「ゲームパソコン」として1990年代中頃まで生きながらえることが出来たのが、ある意味で間接的な影響である。 1983年当時、VCSはアメリカからの輸入と言うこともあって高価なため、当時のヨーロッパではあまり普及していなかった。一方、欧州では1982年にイギリスでホビーパソコンのZX Spectrumが発売され、北米でアタリショックが起こった1983年の時点で、「ゲーム用ホビーパソコン」としてヨーロッパ中で爆発的な人気を得ていた。欧州ではNESの発売が1987年と遅く、しかもマーケティングが失敗したこともあり、1990年代初めまでホビーパソコンの時代が続くこととなった。 1990年代、時代遅れとなったはずのAtari 8ビットシリーズも、ZX Spectrumより高性能で16ビット機より安くてゲームが揃っていたため、東欧ではまだまだ人気だった。 日本へのアタリショックの影響もほとんどなかった。当時の日本はVCSはおろかゲーム機自体が一般に広くは普及していなかった。アタリショック後に北米でホビーパソコンのブームが起こった結果、その層の厚さからMSXを筆頭とする日本のパソコンメーカーによる北米ホビーパソコン市場への進出が阻まれたのがある意味で間接的な影響である。北米でアタリショックが起こっていた1983年には、ちょうど日本では家庭用ゲーム機の発売ブームとなり、各社から多数の家庭用ゲーム機が発売されている。最終的にファミコンが人気を独占するが、この時点ではスーパーカセットビジョンやセガ・SG-1000なども日本でそこそこ売れていた。
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アタリショック
北米では1984年から1985年にかけて家庭用ゲーム市場が急激に縮小しているが、日本では1985年にファミコンでキラーソフトとなる『スーパーマリオブラザーズ』が発売され、逆に家庭用ゲーム市場が爆発的に拡大している。しかし当時の任天堂内部ではアタリショックの再来を非常に恐れていたことを当時の任天堂経理部長の今西紘史が証言しており、1986年には確立されるファミコンの厳しいライセンス制度の背景となっている。北米ではアタリ以外の各社が既にゲーム機から撤退した1985年から1986年にかけて、逆に任天堂とセガは北米に進出し、中でも任天堂がアタリショック後の北米家庭用ゲーム機市場をほぼ独占した。 アタリショックを経験しなかった日本では欧米ほどホビーパソコンは普及しなかったが、パソコン用ゲーム市場ではロールプレイングゲーム、シミュレーションゲーム、テキストアドベンチャーゲームのジャンルを中心に多数の作品が生まれ、それらのソフトがゲーム機に移植されることでゲーム機用ソフトの多様性が高まり、ゲーム機の価値が一層増すことになった。 それ以外の地域への影響もほとんどなかった。アタリショック後、1985年には北米の家庭用ゲーム機市場が底を打ち、1986年よりNESの普及が始まるが、一方1986年にはAtari VCSの廉価版(通称 Atari 2600 Jr.)が発売され、アジアや南米では逆にこの頃よりAtari VCSの普及期に入る。
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計算物理学
計算物理学(けいさんぶつりがく、英語: computational physics)は、解析的に解けない物理現象の基礎方程式を計算機(コンピュータ)を用いて数値的に解くことを目的とする物理学の一分野である。 計算物理学では、ナヴィエ・ストークス方程式やマクスウェル方程式のような物理学での基礎方程式を計算機を用いてひたすら数値的に解く、という手法が用いられる。 流体力学でのナヴィエ・ストークス方程式やプラズマ物理学での磁気流体方程式のような微分方程式では、解析解が得られることはきわめてまれであり、理論物理学では多くの場合断熱過程や線形性など近似を用いて物理現象を説明する。 ここ100年ほどの計算機とアルゴリズムの発達によって、大胆な近似を導入しなくても、「数値的に解く」ことで物理量のおおよその振る舞いを調べることが可能となった。この計算機で得た数値的な解から新たな物理現象を発見することがこの分野の目的である。この数値的に解くことは一般には「シミュレーション」などと呼ばれる。 この分野は一般には、理論物理学に属すると考えることができるが、一方で、このような数値的な解析を「計算機実験」と称することもあるように、実験的な側面も存在する。このため、物理学における理論、実験以外の第三の分野として、この「計算物理学」を捉える考え方も存在する。たとえば、さまざまな条件下で基礎方程式を解くことで、新たな現象、効果の存在が示唆されることもあり、理論物理学者はそこから理論モデルを構築する。一方で大規模な実験の前にはほとんど必ずシミュレーションが行われており、実験を行う根拠として数値解析の結果が使われる。
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ML (プログラミング言語)
ML(えむえる、Meta-Language)は、関数型言語のひとつである。現代風の関数型言語としては歴史が古いほうで、型推論機能などを持つが、デフォルトの評価戦略は遅延評価ではなく先行評価で、書き換えが可能なレコード型を持つなど、いわゆる「純粋関数型」でない特徴や機能を持つ。 自動定理証明系において、証明の道筋を関数として記述するためのメタ言語として生まれたという経緯を持ち(#歴史の節を参照)、名前はそのことに由来する。構文はISWIMの影響を受けている。 MLによってプログラマに知られるようになった機能に、型推論がある。これは、明示的に型の宣言を行わなくても、データの利用のされ方から、引数や関数の返す型を自動的に推論してくれる機能である。これにより、プログラマの負担が著しく軽減される。 標準(ないし一方言)としてStandard ML (SML) があり、その実装には、Standard ML of New Jersey(英語版) (SML/NJ) や、東北大学電気通信研究所大堀研究室が開発を進めているSML#などがある。標準以外の仕様の実装としてはOCamlなどがある。詳細仕様は実装ごとに異なっており、各実装での仕様をそれぞれのMLの方言と捉える場合もある。 SMLの詳細とその実装の一覧はStandard MLを参照のこと。 以降の記法や名前はSMLのものである。OCamlなどその他の実装については、SMLと差異があるため各実装の記事を参照のこと。 MLの基本的な演算子は以下の通り MLの関数の定義は と書く。Haskellと同様なパターンマッチングがある。複数のパターンはガード記法 | をセパレータとする。 例として階乗を求めるプログラムを以下に示す。 MLでの関数の評価は関数が定義されたときに行われる。このためMLでは関数定義の順序が無視できない。例として のような関数がある場合は必ず b の方が先に定義されていないといけない。しかしこの場合はお互いを呼ぶような再帰呼び出しの実装が不可能である。そこでMLではそのような関数のために二つの関数を and でつなぐことによってこれを実装することができる。 例を挙げると これは take が与えられたリストの奇数番目の要素を返し、skip が偶数番目の要素を返す関数である。
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ML (プログラミング言語)
のような関数がある場合は必ず b の方が先に定義されていないといけない。しかしこの場合はお互いを呼ぶような再帰呼び出しの実装が不可能である。そこでMLではそのような関数のために二つの関数を and でつなぐことによってこれを実装することができる。 例を挙げると これは take が与えられたリストの奇数番目の要素を返し、skip が偶数番目の要素を返す関数である。 デイナ・スコットの提案したPPLAMBDAという論理体系を利用し、ロビン・ミルナーはLogic for Computable Functions(英語版) (LCF) という証明のチェックや定理の自動証明をするシステムを実装した。1973年に発足したEdinburgh LCFのプロジェクトにおいて、証明の道筋を関数として記述するためのメタ言語として開発されたのが、MLの最初であり、強い型付きの言語として設計された。 Edinburgh LCFとMLは、1975~76年にエディンバラ大学で実装された。特に1980年代以降、汎用プログラミング言語として多数の機能やライブラリが追加されている。 (この節 参考文献『新しいプログラミング・パラダイム』(ISBN 4-320-02493-1) pp. 120-121)
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ガベージコレクション
ガベージコレクション(英: garbage collection、GC)とは、コンピュータプログラムが動的に確保したメモリ領域のうち、不要になった領域を自動的に解放する機能である。1959年ごろ、LISPにおける問題を解決するためジョン・マッカーシーによって発明された。 メモリの断片化を解消する機能はコンパクション(英: memory compaction)と呼ばれ、実現方法によってはガベージコレクションと共にコンパクションも行う仕組みになっている。そのためコンパクションを含めてガベージコレクションと呼ぶ場合もあるが、厳密には区別される。 また、ガベージコレクションを行う主体はガベージコレクタ(英: garbage collector)と呼ばれる。ガベージコレクタはタスクやスレッドとして実装される場合が多い。 「ガベージコレクション」を直訳すれば「ゴミ集め」「ごみ拾い」となる。JISでは「廃品回収」や「ゴミ集め」などという直訳が割り当てられている規格もあるが、一般的な意味での「ゴミ集め」と紛らわしく、プログラミングの分野ではかえって意味が通じなくなるため、ごく一部の学会誌や論文などを除き、実際に使われることはほとんどなく、外来語として各種カナ表記やGCという略記が使われることが一般的である。 従来のメモリ管理では、プログラマがプログラムの実行中においてメモリが必要となる期間を考え、必要となった時点でメモリを確保するコードを記述し、不要となった時点で解放するコードを記述していた。 ガベージコレクションを使用する場合、メモリを確保するコードはプログラマが明示的に記述するが、メモリの解放については明示的に記述する必要がなく、ガベージコレクタが不要と判断した時に、自動的にメモリを解放する。確保したメモリが不要かどうかは、プログラムが今後そのメモリにアクセスするかどうかで決まり、スタックや変数テーブルなどから参照をたどってメモリに到達可能かどうかによって判断される。 ガベージコレクションの機能は、初めからプログラミング言語の言語機能や言語処理系あるいはフレームワークに組み込まれている場合や、外部ライブラリなどによって提供される場合がある。
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ガベージコレクション
ガベージコレクションの機能は、初めからプログラミング言語の言語機能や言語処理系あるいはフレームワークに組み込まれている場合や、外部ライブラリなどによって提供される場合がある。 ガベージコレクションはプログラマが明示的にメモリの解放を行う必要が無いため、以下に示すメモリ管理に関連する陥りやすいバグを回避することができる。 ただしガベージコレクションにおいても、今後使用することのないオブジェクトへのポインタをいつまでも保持しているようなコードでは、いつまでもオブジェクトが解放されず、メモリ不足を起こしてしまう。これは論理的な設計の問題であり、ガベージコレクションを持つ処理系においてもこの種のメモリリークは発生する。 メモリ管理に関するバグを回避する以外に、プログラミングスタイルの選択肢を広げる効果も持つ。型変換などのために一時的なオブジェクトを生成する、マルチスレッドを利用したプログラムでスレッド間でオブジェクトを共有して使用する、といった処理はメモリ確保・解放の処理の記述が煩雑となることが多い。しかし、ガベージコレクションを持つ言語処理系においては煩雑な記述を省略することができ、これらの処理をより自然に記述することができる。 多くの実装では、入れ違いにより誤って到達可能なメモリが不可能と判断されないように、ガベージコレクトが開始されると他の処理を止め、本処理が中断される(Stop-the-world ガベージコレクタ)。CPUを長時間(数百ミリ秒から数十秒)占有することもある。ガベージコレクションの動作タイミングの予測やCPUの占有時間の事前予測などが困難なことから、デッドラインが決められているリアルタイムシステムに使用することは難しい。リアルタイム性を改善したGCとして、インクリメンタルGCやコンカレントGCがある。 ガベージコレクションは、Javaのように言語処理系に組み込まれたものと、C言語のように言語処理系に組み込まれていない物がある。組み込まれていない場合は独自に記述したり、ライブラリを使用することで実現できるものがある。 ガベージコレクションは、プログラム本来の動作とは別に時間のかかる処理である。そこで、ガベージコレクションには本来のプログラムの動作に対して影響が少ないことが求められる。
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ガベージコレクション
ガベージコレクションは、Javaのように言語処理系に組み込まれたものと、C言語のように言語処理系に組み込まれていない物がある。組み込まれていない場合は独自に記述したり、ライブラリを使用することで実現できるものがある。 ガベージコレクションは、プログラム本来の動作とは別に時間のかかる処理である。そこで、ガベージコレクションには本来のプログラムの動作に対して影響が少ないことが求められる。 一般に、デスクトップアプリケーションでは、応答時間を短くするため、ガベージコレクションによるプログラムの停止時間を最小にすることが要求される。また、サーバアプリケーションでは、応答時間よりもスループットを求められることが多く、ガベージコレクションにもスループット性能が高いものが求められる。さらに、機器組み込みアプリケーションでは、機器に搭載されるCPUの能力の低さやメモリ容量の小ささから、リソース消費が小さいものが求められる。また、リアルタイムシステムでは、プログラム動作時間のばらつきを最小にしたいという要求もある。 これらの要求をすべて満たすようなアルゴリズムは存在しないため、さまざまな手法が提案されている。代表的なガベージコレクションアルゴリズムには、以下のものがある。 これらのアルゴリズムは複合して使用することもあり、世代別ガベージコレクションではコピーGCとマーク・アンド・スイープの両方のアルゴリズムを使用している。 また、アプリケーション動作への影響の観点から、アプリケーション動作をすべて止めるストップ・ザ・ワールド方式と、アプリケーション動作と並行して動作するコンカレント方式に分類することができる。 一般論として、高レベルな言語ほどガベージコレクションを言語の標準機能として備えていることが多い。言語に組み込まれていない場合でも、C言語/C++向けのBoehm GCのように、ライブラリとして実装されていることもある。ライブラリベースのアプローチは、オブジェクトの生成と破棄のメカニズムを変更する必要があるなど、欠点もある。 MLやHaskell、APLなどの関数型言語の多くはガベージコレクションが組み込まれている。特に、関数型言語の先駆けとなったLISPは最初にガベージコレクションを取り入れた言語でもある。
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ガベージコレクション
MLやHaskell、APLなどの関数型言語の多くはガベージコレクションが組み込まれている。特に、関数型言語の先駆けとなったLISPは最初にガベージコレクションを取り入れた言語でもある。 Rubyなどといった動的言語も、ガベージコレクションを備えていることが多い(ただしPerl 5やPHP 5.2以前には参照カウント方式のものしかない)。Smalltalk、Java、ECMAScriptのようなオブジェクト指向言語には、たいていガベージコレクションが組み込まれている。C#やVisual Basic .NETなどの.NET言語は.NET Framework/.NET Compact Framework/Monoといった実行環境下において、実装形態に差はあれどいずれもガベージコレクションを利用可能である。特筆すべき例外はC++とDelphiで、それらはデストラクタがその代わりとなっている。 古典的なBASICインタープリタ(N88-BASIC、F-BASICなど)においてもガベージコレクションが備えられており、文字列の連結操作の結果使われなくなった領域を再度BASICが使えるようにする処理が行われた。その処理の間、BASICがフリーズしたかのようになることから、ガベージコレクションが発生しないようにする方法として、文字列の連結を極力行わず、最大文字数が格納できる領域を持った文字列変数に対して MID$、LEFT$、RIGHT$ 関数を使用することで代用することが推奨されていた。
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ガベージコレクション
Objective-Cには参照カウントベースのオブジェクト寿命管理機能が組み込まれており、元々ガベージコレクションはなかったが、AppleのObjective-C 2.0では、Mac OS X 10.5以降に限り保守的な世代別GCベースのランタイムコレクタが使用可能である。ただしiOSではこのGCを利用できない。なお、macOSに関しても、NSGarbageCollectorはOS X 10.8から廃止予定扱いとなり、SDK 10.10を最後に廃止されており、またOS X 10.11を最後にこのGCは搭載されなくなり、macOS 10.12で廃止された。2015年5月以降、Mac App Storeで新規登録/更新されるアプリはGCを使えなくなっている。代替として、自動参照カウント (Automatic Reference Counting; ARC) によるメモリ管理が推奨されている。一方で、GNUstepはBoehm GCを使用している。 Pythonは主に参照カウント方式のガベージコレクションを用いているが、補助的に(伝統的なマーク&スイープとは逆順の探索アルゴリズムによる)世代別GCを併用している。 C++/CLIでは、gcnewで生成したCLIオブジェクトは.NET Frameworkのガベージコレクションにより管理される。 C++/CX(英語版)では、ref newで生成したWindowsランタイムオブジェクトはCOMベースの参照カウントにより管理される。 なお、C言語で参照カウント方式のガベージコレクションを利用する場合、通常煩雑なコーディングを必要とするが、C++では以下のようなRAIIを活用したスマートポインタ(英語版)を利用することで緩和できる。 分散コンピューティング環境では、あるホスト内のオブジェクトだけではなく、リモートホスト上に存在するオブジェクトとメッセージのやり取りが行われることがある。このような環境においてローカルなガベージコレクションと同様、不要なオブジェクトを破棄する手法が分散ガベージコレクションである。リモートホストからの参照状態の検出、通信が切れた場合の処理などローカルホストのガベージコレクションとは異なる課題を解決する必要がある。
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ガベージコレクション
従来のGCは、対象となるメモリ領域がいっぱいになった時に一気にGCを行なうものであり、この方法では、メモリ領域のサイズが大きくなるに従い、GC時間が長くなっていく欠点がある。この問題に対処するために世代別ガベージコレクションが考案された。 世代別GCでは新領域と古い領域にメモリ領域が分けられ、新規に作成されたオブジェクトは、新領域に配置され、新領域がいっぱいになった時点で、新領域内部だけのGCが走る。このGCはメモリ全体に対するGCに比べると当然のことながら低負荷・高速になる。新領域に対するGCを一定回数生き残ったオブジェクトは、古領域に移動し、古領域がいっぱいになった時に、初めて全てのメモリ領域を対象とするFULL GCが行われる。
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任天堂
任天堂株式会社(にんてんどう、英: Nintendo Co., Ltd.)は、日本の代表的なグローバル企業の一社であり、主に玩具やコンピュータゲームの開発・製造・販売を行っている。本社所在地は京都府京都市南区。TOPIX Core30およびJPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ。 1889年に創業した老舗企業で娯楽に関するさまざまな事業を展開している。創業以来、多くの種類の玩具を製作しており、特に花札やトランプは創業初期から現在に至るまで製造、販売を続けている。 1970年代後期に家庭用と業務用のコンピュータゲーム機の開発を開始した。1983年発売の据え置き型ゲーム機「ファミリーコンピュータ」のゲームソフトとして1985年に発売した『スーパーマリオブラザーズ』が世界的にヒットしたことでゲーム機やゲームソフトを開発する会社として広く認知されるようになった。 『スーパーマリオブラザーズ』(マリオシリーズ)の主人公「マリオ」など、任天堂のゲームソフトに登場するキャラクターは世界的に認知されているものが多く、2010年代からはキャラクターIPのゲーム外での活用を進めている。 当時は会社の形態ではないが便宜上「社長」と表記している。 任天堂はハードウェアとソフトウェアの開発を共に手がけるビジネスを展開している。元代表取締役社長の岩田聡は『Game Developers Conference 2011』の講演で、「任天堂は、『ゲーム機は、どうしても遊びたいソフトを楽しんでいただくために仕方なく買っていただくものだ』と考えています。ご存じのように任天堂は、他社製プラットフォーム向けにゲームを提供しません。お客様にいい意味で驚いてもらうためには、自社ハードと自社ソフトをマッチさせることが最も確実な方法だと考えるからです。当社はまず第一にゲームクリエーターであり、その次にハードウェア製造者なのです」と語っている。「ゲーム機は、どうしても遊びたいソフトを楽しんでいただくために仕方なく買っていただくもの」という言葉は山内溥の発言の一つであり、それを引用したものとされる。
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任天堂
ハードウェアに関しては堅牢性と耐久性を重視している。かつてハードウェア開発責任者を務めていた竹田玄洋によると、それは子供ユーザーに配慮したものであり、ゲーム機が壊れてしまったときに「僕が壊した」ではなく、「勝手に壊れた」となってしまう事態を見越したうえでの設計文化ができ上がっているのだという。任天堂ハードウェアの頑丈さを顕著に示す事例として、湾岸戦争で爆撃に巻き込まれたゲームボーイが正常に動作した事例がある。 なお、任天堂名義での外部向け開発はフジテレビジョンの『夢工場ドキドキパニック』(任天堂情報開発本部)ぐらいである。他には『サンリオカーニバル2』も任天堂情報開発本部が担当した外部向け開発作品であり、実際は1990年代初頭に外部向けの開発を専業とした電通との合弁子会社として設立していた「株式会社マリオ」の名義を借りており、同作のパブリッシャーで、サンリオ子会社のゲーム会社であるキャラクターソフトぐらいしか株式会社マリオへの開発依頼が来ず、他には『ハローキティワールド』(パックスソフトニカ)とといったゲームタイトルも株式会社マリオの名義を借りていた。 2000年代中期のニンテンドーDSとWiiの時代からは「ゲーム人口の拡大」を基本戦略として、幅広い年代を対象としたハードウェアとソフトウェアの開発を行っている。岩田聡は2004年の経営方針説明会の中でユーザーのゲーム離れによるゲーム市場縮小の現状と熟練者、初心者間の意識の乖離について触れ、その打開策としてタッチパネルや音声認識機能を搭載したニンテンドーDSを制作して全員が同じスタートラインに立てることを目指したと語っている。なお、近年は「ゲーム人口の拡大」の定義を広げて「任天堂IP(知的財産)に触れる人口を拡大する」とし、後述のようにIPの活用にも注力している。 任天堂は有料追加コンテンツというビジネスを否定していない。代表取締役社長を務めていた岩田の時代では高額課金を誘発する「ガチャ課金」については、一時的に高い収益が得られたとしてもユーザーとの関係が長続きするとは考えていないため、「ガチャ課金」は行わないとしていた。
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任天堂
任天堂は有料追加コンテンツというビジネスを否定していない。代表取締役社長を務めていた岩田の時代では高額課金を誘発する「ガチャ課金」については、一時的に高い収益が得られたとしてもユーザーとの関係が長続きするとは考えていないため、「ガチャ課金」は行わないとしていた。 任天堂は自社を娯楽企業であるとしているが2014年以降は、その娯楽の定義を「QOL(Quality of Life、生活の質)を楽しく向上させるもの」と再定義して事業領域の拡大を目指している。これは自社内だけで完結するものではなく、アイデアを持っているさまざまなパートナーが参加できるようにしたいとしている。 事業の第1弾として「健康」をテーマに掲げている。この事業では「QOLセンサー」という装置を用いる。この装置を用いて睡眠や疲労状態に関するデータをクラウドサーバーに送信し、その分析結果に基づいてQOL改善のための提案がなされる。これを日々続けることで傾向を探り、QOLの向上を目指すことを目的としている。 2016年配信の『Miitomo』より、スマートデバイスでのゲームビジネスを展開している。この事業単体での収益化を実現したうえで、ゲーム専用機事業との相乗効果を生み出して任天堂の事業全体の最大化を目指している。 ゲームアプリの販売方式については「売り切り型」「アイテム課金型」とあるがゲームの種類によって使い分けていくとしている。なお、「アイテム課金型」のゲームについて一般的には「Free to Play(プレイ無料、無料で遊べる)」という言葉が用いられるが、任天堂はゲームの価値を維持したいという観点から「Free to Start(始めるのは無料)」という呼称を用いている。 任天堂にとって、世界で支持される豊富なIP(知的財産)を抱えていることは強みの一つである。以前まではそうしたキャラクターIPをゲーム外で用いることに消極的な立場をとっていたが、2014年以降はその方針を転換して積極的に活用するようになった。 活用例の一つとして、さまざまなゲームと連動させることができるフィギュア「amiibo」の販売を2014年12月より展開している。このamiiboが店頭に並ぶことで任天堂キャラクターの存在感を維持する効果も期待されている。
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任天堂
活用例の一つとして、さまざまなゲームと連動させることができるフィギュア「amiibo」の販売を2014年12月より展開している。このamiiboが店頭に並ぶことで任天堂キャラクターの存在感を維持する効果も期待されている。 また、ユニバーサル・パークス&リゾーツが展開しているテーマパークへの登用、映像コンテンツ化、商品化などさまざまな計画を予定している。 花札、トランプ、かるた(百人一首)、麻雀(麻雀牌)、将棋(将棋盤、駒)、囲碁(碁盤、碁石)の製造、販売を行っている。 上記の玩具のほか、以前にはウルトラハンド、ウルトラマシン(英語版)、ラブテスター、光線銃シリーズ、テンビリオンなどの独自製品や、ルーレット、野球盤、ボードゲーム、ツイスター(ライセンス生産)、組立式コースター、組立ブロック、トランシーバー、ラジコンカー、人形といった玩具を製造・販売していた。 玩具以外では、家庭用綿あめ製造機、ベビーカー「ママベリカ」、簡易コピー機「NCMコピラス」、電気時計、電子楽器、無線式簡易掃除機など多種多様な製品の製造、販売、タクシー、食品事業などの経営も行っていた。 2015年1月、YouTubeにゲーム動画をアップロードした制作者が広告収益を任天堂とシェアできるサービス「Nintendo Creators Program」の提供を開始。YouTubeでは新ガイドラインができるまでは自社のゲーム動画の広告収益は任天堂が付与されていたが、この仕組みにより動画制作者側も利益が得られるようになる。また、ニコニコ動画における同様のサービス「クリエイター奨励プログラム」にも参加している。OPENREC.tvでも任天堂タイトルの動画配信が可能になっている。 2018年11月、任天堂は「Nintendo Creators Program」を終了すると発表。そして新たな任天堂の著作物の利用に関するガイドラインを発表した。 「Nintendo Creators Program」では広告収益を受け取るには動画の審査が必須だったのに対して、新ガイドライン「ネットワークサービスにおける任天堂の著作物の利用に関するガイドライン」は動画の審査が不要で実況できる任天堂ソフトの制限もなくなった。
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任天堂
「Nintendo Creators Program」では広告収益を受け取るには動画の審査が必須だったのに対して、新ガイドライン「ネットワークサービスにおける任天堂の著作物の利用に関するガイドライン」は動画の審査が不要で実況できる任天堂ソフトの制限もなくなった。 新ガイドラインは個人を対象にしているため法人は対象外であるが、YouTuberの事務所(MCN)である UUUMのように包括的許諾をとる所もある。また、タレント事務所に所属するタレントやMCNに所属するYouTuberなどが個人で行う場合はガイドライン対象となるが、業務として投稿する場合はガイドライン対象外となる。 2017年10月、任天堂は海外で盛り上がりを見せているeスポーツの取り組みについて、「ユーザーの関心が広がっており世界的にも広がりを見せていることは認識している。任天堂のゲームを使って『任天堂らしい』と多くの皆様から感じていただけ、勝った方に喜んでいただける、そんな『ご褒美のようなものは一体何なのか』そういうことを考えながらいろんな活動に取り組んできている」としている。現在eスポーツ団体「日本eスポーツ連合」にはさまざまなゲームメーカーが加盟して賞金大会を開いているが、任天堂は加盟していない。 2018年7月、日本野球機構(NPB)がeスポーツに参入し、第2弾で「NPB eスポーツシリーズ スプラトゥーン2」を開催するにあたって任天堂は協力をしている。大会では成績に応じて賞金がもらえる大会ではないが一律参稼手当有りである。他には好成績をあげているプロのスマブラプレイヤーを集めた「スマブラSP 東西リーグ大会(スマッシュボール杯 東西リーグ)」を任天堂公式大会として毎月開催してWeb番組で配信している。賞金は出ないが一律参稼手当有りである。現状は賞金こそ出ないものの優勝商品や一律参稼手当有りという形でのeスポーツ参加をしている。 Wii以降の任天堂のゲーム機には子供にふさわしくないコンテンツの使用を保護者が制限できるペアレンタルコントロール(保護者による使用制限)という機能がある。
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任天堂
Wii以降の任天堂のゲーム機には子供にふさわしくないコンテンツの使用を保護者が制限できるペアレンタルコントロール(保護者による使用制限)という機能がある。 ただ、子供がその機能を設定することなく利用している場合があり、「ニンテンドー3DS」のソフトウェアである『いつの間に交換日記』や『うごくメモ帳 3D』において、一部の子供ユーザーがインターネットでフレンドコードを交換して公序良俗に反する画像をやり取りしてしまう問題が発生していた。こうした事態を受けて任天堂は該当サービスの中止を発表。 任天堂は、ペアレンタルコントロール機能をユーザーに理解してもらえるよう務めるとして、「Newニンテンドー3DS」と「Newニンテンドー3DS LL」において、子供が安心して利用できるよう最初からフィルタリング機能が有効の状態で販売している。解除にはクレジットカードでの認証と手数料30円(税別)が必要となっている(現在は一度解除した人のみ解除可能。)。 2017年3月2日、Nintendo Switch本体と連動してゲームのプレイ状況を管理できるスマートフォン向けの無料アプリ『Nintendo みまもり Switch』(英名:Nintendo Switch Parental Controls)を配信している。 2020年4月24日、ニンテンドー3DSシリーズやWii Uで使用しているニンテンドーネットワークID(以下「NNID」)に約16万件の不正ログインが発生。不正ログインを受けたNNIDから「ニックネーム、生年月日、国 / 地域、メールアドレス」が第三者に閲覧された可能性があるという。また、NNIDを経由したニンテンドーアカウントへの不正ログインも発覚。これに対して任天堂は不正ログインの被害拡大を防止するため、NNID経由でニンテンドーアカウントにログインする機能を廃止。加えて不正アクセスされた可能性のあるNNIDやニンテンドーアカウントに対して順次パスワードリセットを行う措置をとった。今回の不正ログインにより発生した不正購入に対しては、個別に調査した上で購入の取り消しなどの対応を行うという。
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任天堂
一部のメディアやまとめサイトにより、任天堂が公式に発表したわけではない情報を公式のように報じられたり、関係者の発言を歪めた形で伝えられたりすることがある。こうした状況について任天堂はすべてに反応してしまうとデマの拡散につながりかねないため、会社や株主に迷惑がかかると判断した場合に機動的に対応するとしている。また、対策としてインターネットプレゼンテーションNintendo DirectやSNSなどで情報を直接発信する取り組みを行っている。 2012年2月20日、日本経済新聞が報じた記事について岩田はTwitterで、「月曜日に電子版媒体で当社に対する不正確な報道がありました。このようなことが何度か続いていますが文脈を無視して恣意的に言葉を抜き出したり、事実と憶測を混ぜて書いたり、まるでゴシップ誌のような手法を採られていることに驚いています」と言及している。6月5日、日本経済新聞は「『Wii U』にカーナビゲーションや電子書籍などの機能を搭載」という憶測記事を掲載。これに対して任天堂が同日に否定した。 2012年6月8日、朝日新聞の記事の中で岩田がインタビューを受けていないにもかかわらず、任天堂ホームページの動画から岩田の発言部分を抜き出してインタビューのように仕立てて掲載した。これに対して任天堂は朝日新聞に抗議した。朝日新聞は抗議に対して謝罪したとしているが、その時点では記事を訂正せず、2014年9月14日の紙面に任天堂と新聞読者に対する謝罪文を掲載した。 2015年1月、任天堂が開始したサービス「Nintendo Creators Program」について、一部で「YouTubeで同プログラムに登録していない任天堂のゲーム動画は削除される」というデマが広まっていたが、そうした規約はない。2014年5月27日、サービス開始前の任天堂公式Twitterでは「任天堂は以前より、不適切なものを除いて、YouTube上の任天堂の著作物を含む映像を正式に許諾しています」とコメントしている。
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任天堂
2016年10月20日、任天堂が公開したNintendo Switchの紹介動画の中でベセスダ・ソフトワークスのゲームソフト『The Elder Scrolls V: Skyrim(以下「スカイリム」)』の映像を用いた際、すでにベセスダが公式に歓迎のコメントを出していたにもかかわらず、あるまとめサイトは「スカイリム映像、無断使用だった」と報じた。この問題を取り上げたBuzzFeed Japanの取材に対し、任天堂広報は「今回の映像で使用されているゲームはすべて許可をとっております」と、まとめサイトの記事を否定している。10月21日、まとめサイトは捏造を認めて記事を訂正した。
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博物学
博物学(はくぶつがく、Natural history, 場合によっては直訳的に:自然史)は、自然に存在するものについて研究する学問。 広義には自然科学のすべて。狭義には動物・植物・鉱物(岩石)など(博物学における「界」は動物界・植物界・鉱物界の「3界」である)、自然物についての収集および分類の学問。英語の"Natural history" の訳語として明治期に作られた。そのため、東アジアに博物学の伝統は存在しないが、慣例的・便宜的に「本草学」が博物学と同一視される。 自然界に存在するものを収集・分類する試みは太古から行われてきた。自然に対する知識を体系化した書物としては、古代ギリシアではアリストテレスの『動物誌』、テオフラストス『植物誌』、古代ローマではディオスコリデスの『薬物誌』、プリニウスの『博物誌』などがある。 東アジアの本草学は、伝統中国医学における医薬(漢方薬)、または錬丹術における不死の霊薬(仙丹)の原材料の研究として発達した。明の時代に李時珍が書いた『本草綱目』はその集大成とも呼べる書物であり、日本にも大きな影響を与えた。 フランシス・ベーコンは自然史と自然哲学とを対比して、自然史は記憶により記述する分野であると規定、それに対し自然哲学は理性によって原因を探求する分野、とした(『学問の進歩』)。 ヨーロッパの大航海時代以降、世界各地で新種の動物・植物・鉱物の発見が相次ぎ、それを分類する手段としての博物学が発達した。薬用植物・茶・ゴム・コショウなど、経済的に有用な植物を確保するため、プラントハンターと呼ばれる植物採集者たちが世界中に散り、珍奇な植物を探して回った。また動物や鉱物なども採集された。動物の例で言えば、東南アジアのフウチョウなどの標本がヨーロッパにもたらされた。 カール・リンネとジョルジョールイ・ルクレール・コント・ド・ビュフォンはヨーロッパの博物学の発展を促した。 リンネは、動物界、植物界、鉱物界という自然三界の全ての種についての目録作りを自然史と見なした。ビュフォンは『自然史』において、自然三界を体系的に記述しようとした。 1755年にはカントが『天界の一般自然史と理論』を著し、自然史の名のもとに、太陽系の生成についても記述した。
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博物学
カール・リンネとジョルジョールイ・ルクレール・コント・ド・ビュフォンはヨーロッパの博物学の発展を促した。 リンネは、動物界、植物界、鉱物界という自然三界の全ての種についての目録作りを自然史と見なした。ビュフォンは『自然史』において、自然三界を体系的に記述しようとした。 1755年にはカントが『天界の一般自然史と理論』を著し、自然史の名のもとに、太陽系の生成についても記述した。 地質学の領域などで、次第に歴史的な研究が活発化すると、こういった研究については、記述することに重点がある自然史とは区別して考えようとする動きが出てきた。歴史的な考察に力点がある分野を、カントは「自然考古学」とすることを1790年に提唱。だが定着せず、歴史的な分析も含めて、自然史と呼ばれつづけた。 19世紀になると、ラマルクやトレヴィラヌスが「biology(生物学)」という学問名の領域を提案した。これは簡単に言えば、生物に関する自然哲学を意味していた。そして、これは自然史とは異なった分野として独自の方法論を展開するようになった。自然史の領域は領域で、知識の集積が進み、もはやひとりの人間が自然三界の全部について専門的な研究を進めるのは困難な状況になっていった。そして、19世紀後半(主にチャールズ・ダーウィン以降)に入ると学問が細分化し、博物学は動物学・植物学・鉱物学・地質学などに細分化された。そして「自然史」や「博物学」という言葉は、それらをまとめて指す総称ということになっていった。 近年では博物学、自然史という言葉は多義的に用いられており、例えば1958年の日本学術会議によって用いられた表現「(博物学は)いわば、自然界の国勢調査」に見られる理解のしかたがある。動物分類学や植物分類学だけを指すためにこの言葉が用いられることもある。また、アマチュア的な生物研究を指すためにこの言葉が用いられることもある。 博物学の作業としては、自然物の採集とその同定が最初になる。しかしそれと同じくらい、博物学者たちはその分類に情熱を傾けた。採集と分類は科学としての博物学を支える両輪であった。 素朴な分類法はすでに編み出されていた。たとえば動物を「有用な動物-家畜」と「それ以外の動物-獣」に分類する方法など。しかし、これらの分類は人間の都合や、見た目によるものが多く、科学的な分類法としては採用することができなかった。
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博物学
博物学の作業としては、自然物の採集とその同定が最初になる。しかしそれと同じくらい、博物学者たちはその分類に情熱を傾けた。採集と分類は科学としての博物学を支える両輪であった。 素朴な分類法はすでに編み出されていた。たとえば動物を「有用な動物-家畜」と「それ以外の動物-獣」に分類する方法など。しかし、これらの分類は人間の都合や、見た目によるものが多く、科学的な分類法としては採用することができなかった。 自然界にある多種多様のものを分類するために、さまざまな分類法が編み出された。たとえば、人間-高等動物-下等動物-植物-鉱物-火や空気という順に並んでいる「存在の階梯」という分類体系がある。これ以外にも、二分法による体系。三分法による体系など、さまざまな思弁的な分類法が考案された。これらについては荒俣宏著『目玉と脳の大冒険』に詳しい。 一方、生物の分類についてはリンネが形式的には二名法による学名を考案し、分類の基準としては類縁性を元にした自然分類の観点を持ち込んだ。これによって、その後生物における分類学が大きく進んだ。 その後、19世紀後期にダーウィンが『種の起源』を著して進化論を唱える。学会に進化論が認知されるまでにもだいぶ時間がかかったが、やがてそれは科学的な事実として受け入れられるようになった。進化論は必然的に、系統分類(もしくは分岐分類)の分類法を要請する。つまり、類縁性は進化的な近縁性に置き換えられた。生物においては、それ以外の分類法は捨て去られるか、あるいは系統分類に統合されることとなった。 また、非生物の分野でも、分類法の革新があった。元素の発見、化合物の研究が進み、メンデレーエフの周期律表に代表されるように化学的知識が整理されてくると、鉱物を化学物質として研究することが可能になった。
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博物学
また、非生物の分野でも、分類法の革新があった。元素の発見、化合物の研究が進み、メンデレーエフの周期律表に代表されるように化学的知識が整理されてくると、鉱物を化学物質として研究することが可能になった。 さらに化学と物理の発展した20世紀には、分子生物学によって、生物進化の分岐はゲノムの類似性として直接に検討されるようになった。鉱物には化学的組成と結晶構造による分類、岩石には組成・成因による分類が適用されるようになった。以上のような分析手段の獲得によって直接に一般化・体系化が可能になったことにより、博物学の手段であった収集と比較と記述という手法は、生物の種の同定などといった手続きには厳として残るものの(タイプ (分類学) の記事などを参照)、科学のメインストリームとしては博物学はその使命を終えつつある。 現在、博物学は学問分野としては残っていないが、自然科学研究のひとつの方法として博物学的研究というのがある。これは、直接フィールド(野山など)に向かい、動物・植物・鉱物などを収集・同定・分類する研究である。たとえば、牧野富太郎が行った植物研究や、南方熊楠が行った変形菌研究などがその例となる。 またこの分野ではアマチュアの活動も大きい役割を担っている(いわゆる市民科学)。たとえば昆虫などは、各地の昆虫採集好きのアマチュアが新種を発見することも多い。あるいは、野生生物の不思議な特徴や珍しい行動がアマチュアによって発見され、新たな発展が行われた例もある。ヨーロッパでは、博物学的研究の趣味が伝統的にあって、それを楽しむ人は「ナチュラリスト」と呼ばれている。 このように自然科学の基礎として欠かすことのできない手法であったが、現在では生物の分類は目視ではなく分子生物学による分類が主流になり、鉱物の分類も正確な元素同定が簡単に行えることから、現在では科学史のトピックとしての学習や教養科目、個人の趣味としての要素が強くなっている。かつては製薬会社などが、プラントハンターを詳しい調査が行われていない地域に派遣して植物などの収集に努めていたが、シミュレーションや分子合成手法の発達により大規模な調査は下火になっている。
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博物学
天文学の分野でも、スーパーコンピュータを駆使する天体物理学や最先端の物理学による宇宙論など、理学系の分野においてはアマチュアの参加が難しいが、天体観測などアマチュア天文学と呼ばれる分野では、個人で購入できる望遠鏡の高性能化に伴い、彗星や新星の発見が今でも盛んである。 日本では奈良時代以来、本草学に関する書物が読まれており、10世紀には『本草和名』という、本草の和名を漢名と対比した書物が編纂された。 江戸時代には、1607年の『本草綱目』の輸入をきっかけに本格的な本草学研究が興った。この本草綱目を入手した徳川家康もこの年から本格的な本草研究を始めている。林羅山は1612年に『多識篇』を著わし、『本草綱目』を抄出した。以後さらに研究が進められ、『大和本草』(1708年)を著わした貝原益軒や、田村藍水などの著名な本草学者が活動した。1738年には稲生若水が『庶物類纂』を編纂した。小野蘭山らは採薬使として各地の自然物を採集した。藍水門下の平賀源内は、物産会を開いたり、石綿や鉱山の殖産に携わったりした。 江戸時代中後期には、色鮮やかな図譜(図鑑・博物画)の制作も盛んになった。すなわち、魚介類・鳥類・植物などを『~図譜』『~譜』と題した書物にまとめることが流行した。図譜の多くは美術的にも評価が高い。図譜はまた、実在する動植物だけでなく河童などの妖怪を扱うことも多いため、妖怪研究の要素ももつ。図譜は徳川吉宗や増山正賢ら、各地の殿様たちの命令で作られることが多く、ときには殿様自身が制作に携わることもあった。 杉田玄白らによって蘭学が成立すると、ヨーロッパから渡ってきた博物学書の翻訳が行われた(翻訳自体は、その一世代前の野呂元丈がすでに行っていたが、これは一般に広まらなかった)。大槻玄沢や司馬江漢がオランダ渡りの図鑑をいくつか翻訳して公刊した。博物学書の知識は、幕府が危険視するような思想性が薄く実用的な知識でもあったため、積極的に受容され、本草学にも影響を与えた。 江戸時代には、以上のような本草学だけでなく、古典園芸植物の研究や、『詩経』や『万葉集』に出てくる動植物の同定(名物学)も流行した。また、寺島良安が図解百科事典『和漢三才図会』を著したり、木内石亭や佐藤中陵が石の分類体系を構築したり、木村蒹葭堂がイッカクの角を研究したりした。
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博物学
江戸時代には、以上のような本草学だけでなく、古典園芸植物の研究や、『詩経』や『万葉集』に出てくる動植物の同定(名物学)も流行した。また、寺島良安が図解百科事典『和漢三才図会』を著したり、木内石亭や佐藤中陵が石の分類体系を構築したり、木村蒹葭堂がイッカクの角を研究したりした。 日本は島国であり、地形の起伏に富むため、固有種が多い。そのため大航海時代以降、ヨーロッパの学者は日本の動植物の研究を希望していたが、当時日本は鎖国政策を取っていたため入国ができなかった。そのようななかで、わずかにオランダ商人だけが出島への寄港を許されていたので、彼らに混じってやってきた学者たちがいた。代表的なのは「出島の三学者」と呼ばれるケンペル、ツンベリー、シーボルトである。彼らはいずれもオランダ人ではなかった。 この出島の三学者によって、西洋の博物学の手法が日本に紹介された。ケンペルは出島に薬草園を作った。ツンベリーはリンネの弟子であり、多数の植物を採集し、また中川淳庵・桂川甫周らに植物標本の作成法を教授した。シーボルトは動植物のみならず日本の文物を大量にオランダに送った。その中のひとつであるアジサイの一種を、日本での妻タキにちなんで「オタクサ(おタキさん)」と名付けた。 幕末の黒船来航の際には、博物図鑑の大著『アメリカの鳥類』が幕府に献上された。開国後には、ロバート・フォーチュンら多くのプラントハンターが日本に訪れた。 明治に入ってから、伊藤圭介や田中芳男、お雇い外国人のモースらによって、博物学が正式な形で日本に移入された。また、明治以降は上述のアマチュア博物学も盛んになった。とりわけ華族・皇族が博物学に打ち込んだ(昭和天皇#生物学研究、明仁#科学者として)。 以上のような日本博物学史の詳細な研究は、1970年代頃から始まった。初期の主な研究者として、上野益三・木村陽二郎・磯野直秀・西村三郎・荒俣宏らがいる。
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博物学
明治に入ってから、伊藤圭介や田中芳男、お雇い外国人のモースらによって、博物学が正式な形で日本に移入された。また、明治以降は上述のアマチュア博物学も盛んになった。とりわけ華族・皇族が博物学に打ち込んだ(昭和天皇#生物学研究、明仁#科学者として)。 以上のような日本博物学史の詳細な研究は、1970年代頃から始まった。初期の主な研究者として、上野益三・木村陽二郎・磯野直秀・西村三郎・荒俣宏らがいる。 「博物学」の言葉は「Natural history」の訳語として作り出されたものである。英語での意味は、広義には政治学・神学などに対立する自然科学一般を指し、狭義には上で説明した博物学のことを指す。この中間の意味として、「Natural philosophy」すなわち物理学と対立する学問を指すことがある。「自然」の内容がNatural history、形式がNatural philosophyとなるわけである。 Natural historyは、「博物誌」「自然史」「自然史学」などと訳されることもある。 現在、各国の博物館に「自然史博物館」がある。これは「Natural History Museum」の直訳である。この場合の「Natural history」の意味は広義の博物学、つまり自然科学一般を指す。 日本語では「Museum」を「博物館」と訳しているため、「Natural History Museum」を「博物学博物館」とするわけにいかず直訳して「自然史博物館」としたと思われる。ロンドン自然史博物館、スミソニアン博物館の一部である国立自然史博物館、カーネギー自然史博物館などがある。 近年では、日本国内でも「自然史博物館」と名づけられた「Natural History Museum」が増えてきている。
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荒俣宏
荒俣 宏(あらまた ひろし、1947年7月12日 -)は、日本の博物学研究家、図像学研究家、小説家、収集家、神秘学研究家、妖怪評論家、翻訳家、タレント。元玉川大学客員教授、武蔵野美術大学造形学部客員教授、サイバー大学客員教授、京都国際マンガミュージアム館長、日本SF作家クラブ会員、世界妖怪協会会員。 日本大学藝術学部芸術研究所教授なども歴任している。翻訳家としての筆名に団 精二(だん せいじ)を用いていた。また、雑誌『BOOKMAN』における筆名に本野 虫太郎を用いていた。 東京都出身。中学生にして平井呈一に弟子入りし、平井と交流していた紀田順一郎を紹介されさらに兄事した。幻想小説や怪奇小説に魅かれ、野村芳夫と同人誌を発行するとともに、鏡明と国外作品の翻訳に取り組み、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトやロバート・E・ハワードらの作品を手掛けた。「英雄コナン」シリーズの翻訳を通じて、日本に初めてヒロイック・ファンタジーを紹介したことでも知られている。翻訳の過程で生み出された「魔道」や「魔道士」といった訳語は、のちに日本の幻想小説においても広く用いられるようになった。大学卒業後は日魯漁業(のちのマルハニチロ)でプログラマとして勤務する傍ら、旺盛な執筆活動を続けた。小説家として独立後、伝奇小説の「帝都物語」シリーズがベストセラーとなった。著作で陰陽道や風水を取り上げたことから、それらが広く一般に認知されるきっかけとなった。また、博物学についても関心を持ち、「世界大博物図鑑」シリーズを完成させた。そのほか、神秘学や民俗学などにも関心を持ち、特に妖怪研究では水木しげるに師事した。 元来は漫画家志望で、主に少女マンガを描いていた(『漫画と人生』に、萩尾望都ばりの幻想短編漫画が収録されている)。慶應義塾大学在学中、野村芳夫と同人誌『リトル・ウィアード』を刊行した。さらに、紀田順一郎と『怪奇幻想の文学』の編集、翻訳、解説を担当するとともに、鏡明とヒロイック・ファンタジーの翻訳活動を開始した。
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荒俣宏
元来は漫画家志望で、主に少女マンガを描いていた(『漫画と人生』に、萩尾望都ばりの幻想短編漫画が収録されている)。慶應義塾大学在学中、野村芳夫と同人誌『リトル・ウィアード』を刊行した。さらに、紀田順一郎と『怪奇幻想の文学』の編集、翻訳、解説を担当するとともに、鏡明とヒロイック・ファンタジーの翻訳活動を開始した。 1970年、日魯漁業(のちのマルハニチロ)に入社。同年、初の翻訳書となる『征服王コナン』を団精二名義(ロード・ダンセイニに由来)で刊行した。日魯漁業での勤務の傍ら、紀田順一郎と『幻想と怪奇』の編集に携わるとともに『世界幻想文学大系』の監修に携わった。1977年、初の著書である『別世界通信』を刊行した。 日魯漁業を退社後、平凡社の社屋に半ば住み着きつつ『世界大百科事典』の改訂版の編集に参加し、自らも記事、特に各項目の民俗的コスモロジーに関わる記述を執筆したが、同時期に書いた長編小説『帝都物語』が日本SF大賞を受賞し、一躍、小説家としての道を歩み始める。 世界大博物図鑑の資料として博物学の古書を購入し、1億4000万円の借金を背負うが、『帝都物語』により得た印税1億5000万円で返済する。この古書の図版を基に近代初頭の博物学の黄金時代を紹介する多くの手彩色博物学研究書を編集・出版。博物学書ブームを起こした。これらの博物学研究書の多くを平凡社から出版している。このライフワークから「博物学者」と呼ばれる機会が多いが、自ら自然物の収集を手がけて動植物、鉱物等の研究に携わるのではなく、黄金時代の博物学者の残した遺産を収集、研究の対象としている事を考えると、「博物学研究家」あるいは「博物学史学者」と呼ぶ方が的確であろう。名品・珍品収集の為に、ebayを始めとする世界中の様々な競売に参加している。サラリーマン時代、書籍や名品・珍品を購入する為食事は1日1食で(しかもインスタントラーメン)、出勤時に着用するスーツは10年間同じ物1着で通した。また毎日三食饅頭(まんじゅう)だけで過ごし健康を害しかかったこともよく知られる。
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荒俣宏
幼少期の夜逃げの記憶が今でもトラウマとなり、本人の心に深く影と傷を残している。夜逃げ生活の中でよく食べていた魚の缶詰を愛好しておりそれが縁で日魯に入社したという逸話もある。幼少の頃より長身で低身長の同学年のなかでも目立つため上級生によくいじめられた。それゆえ厭世的になり隠居に憧れたり、一般からは外れたマイナーなものに目が行く現在の素養ができた。子供時代より体格がよく恰幅もあったため、相撲部屋からのスカウトを受けた経験もある。 博識ぶりに裏打ちされた活動や、蒐集家としての活動はよく知られている。富士通のパソコンFM TOWNSのCMに本人役で出演したことがある。その博覧強記の人というイメージを生かしてマルチメディア電子図鑑への可能性をアピールする内容で、当時、同社のレギュラーCMタレントだった宮沢りえが図鑑の中の恐竜に扮する趣向であった。また、「博物学者、作家、評論家など、幅広い分野で活躍されるとともに、様々な資料等の蒐集を行われ、現代の『生き字引』にふさわしい博識でもって社会に貢献している」 との理由により、2013年2月2日に水木十五堂賞を受賞している。 神秘学・妖怪研究に於いては水木しげるに師事しており、培ってきた幅広く深い知識量は自身の著作に独特の持ち味を与えるほど。水木の漫画の中では、荒俣をモデルとした怪人物「アリャマタコリャマタ」が登場することがある。この「アリャマタコリャマタ」氏は、出版社に住み着いている作家・博物学者であり、神秘世界に通じ、タイ焼きが大好物。普段は人間の仮面を被っているが、その正体は三つ目の妖怪である、という設定がなされている。 各メディアに登場する機会も増え、自他共に「日本オカルト界に荒俣あり」と認められるまでになった(オカルト番組にも頻繁にキャスティングされる)。ただし、妖怪を含め、オカルト的・神秘的な事項に関しては、興味はあるが、その実在性には否定的立場である(この点で師である水木とは一線を画している)。ある番組で女性タレントが「私はUFOを見たことがあるんです」と発言したところ、「平田篤胤が天狗少年の寅吉を自宅に住まわせ、何年もその言動を観察した」という例を出し、「あなたをじっと何十年も観察すれば、その目撃証言が本当かどうかわかるかもしれません」と切り返した。
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荒俣宏
翻訳活動においては、活動初期にヒロイック・ファンタジーを中心に翻訳し、「魔道」「魔道士」「召喚」「追儺」といった造語を生み出した。 それまで、ごく一部の学者によって学術的に研究されるのみであった風水を、日本で一般向けに紹介し、ブームを生み出したのも荒俣である。 イベントの企画、プロデュースを手掛けることも多く、インターネット博覧会では編集長を務め、2005年日本国際博覧会ではグローバルハウスの監修を担当した。群馬県立自然史博物館での企画展示が評価され、2007年12月26日、長谷川善和とともに科学技術政策研究所により「ナイスステップな研究者」の成果普及・理解増進部門にて顕彰されている。 元々左利きであるが、現在は箸と筆記の際は右手を使っている。また、たびたび目をしばたたく癖もよく指摘されている。身長185cm。戸籍上の誕生日は7月17日である。少年期から様々なジャンルに興味を持ち吸収、その多忙さから予習や復習などの学業に時間が割かれる事が煩わしくテスト一週間前に教科書を丸暗記して凌いだ 。 渾名はマタンゴ。 翻訳活動期に使用していた筆名に団 精二があるが、これはイギリスの幻想作家ダンセイニ卿の名を捩ったものである。 子供の頃の夢は隠居。 幼い頃から海洋生物に興味を持っていた。現在も熱帯魚や死滅回遊魚(海流に乗って水温の低い地域まで流れて来たために冬を越せないで死滅する海水魚)の飼育が趣味。 ビブリオマニア(書籍収集マニア)である。本を買う為に消費者金融に頼った事もある(当時無職だった為融資は断られる)。今まで書籍に費やした費用は約5億円。現在でも毎日本を3 - 4冊読んでいる。また『帝都物語』のヒットによって得た印税1億数千万円のほとんどを古本収集に費やしたという桁外れのエピソードを持つ(本人曰く「古書店丸々一軒分の本を買うのが以前からの夢だった」とのこと)。なお、有名なパルプ・マガジンである「ウィアード・テイルズ」は、学生時代からずっとコレクションし続けているが、著書『パルプマガジン―娯楽小説の殿堂』(2001年)によると、その時点では、まだコンプリートにはなっていないとのこと。
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荒俣宏
極度の甘党としても知られており、「若い頃には深鍋に15杯分の汁粉を作って食べていた」「時間を惜しむあまり普通の食事をせず、代わりに編集者の持参するお菓子が主食状態となっていた」「中華料理屋に行っても杏仁豆腐しか食べない」等の逸話を持つ。夏目房之介は、デッドラインを迎えた荒又が女性編集者の自室を大量のアイスクリーム持参で深夜に訪問、手土産と思って冷蔵庫に入れようとするのを制し、机を借りて原稿を仕上げながら一人で完食し帰っていったエピソードをイラストで描いている(『夏目房之介の学問』)。 妹は漫画家の志村みどり。弟は メガロパ海洋生物研究所 所長の荒俣幸男。親戚に日本カイトフォトグラフィー協会の会長の室岡克孝がいる。 最初の妻は杉浦日向子。結婚当初は『美女と野獣』と比喩された。2人を知る知人は「男勝りな性格の杉浦と女性的な性格の荒俣はピッタリだ」と話したが、結婚生活は半年で破綻し、1年で離婚。 二番目の妻は元JALの客室乗務員だった一般人。妻は美的感覚が変わっており、子供の頃からイボガエルを「かわいい」と思っており、客室乗務員時代は高学歴で顔も良いエリートの乗客にこっそり電話番号を渡されても「好みじゃない」と平気で破り捨てていたという。荒俣と初対面した際に一目惚れし、「この人しかいない!」と猛アタックし、結婚。バラエティ番組で特集された際に、本人は「夫の顔は気持ち悪い。仕事も気持ち悪い。でもそこが大好き。一生ついていく」と満面の笑みで語った。
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PostScript
PostScript(ポストスクリプト)は、アドビが開発している、1984年に発表したページ記述言語。 スタック指向型のプログラミング言語で、様々な計算・処理と共に描画命令を実行することができる。事前にデータをスタックに格納し、後の命令がデータを処理するというモデルで実行される。そのために記述法が逆ポーランド記法で一貫しており、名前は「追伸」の英語「post script」に後置記法といった意味を掛けている。 PostScriptは1985年にApple Computerのレーザープリンター、LaserWriterに採用された。モトローラ68000プロセッサと1.5メガバイトのRAMを搭載したこのプリンターは、プリンターでありながら当時のパーソナルコンピュータと同等の計算能力を持ち、それ自身が PostScript インタプリタを実行してページを生成した。同じ年、ライノタイプによりPostScriptを採用したイメージセッタが発表された。 当時はコンピュータとプリンター間の通信速度の遅さが、印刷物の品質向上のネックになっていた。しかし、プリンター自身に高い計算能力を持たせて、プログラミング言語を実行するという大胆な発想により、一気に問題は解決された。PostScript以前は、伝統的な手法より品質が劣るとされてきた電子印刷が、一気に商業印刷のレベルでも使われるようになり、今日では当たり前になっているDTPが普及するきっかけとなった。 後に印刷以外の用途でも使われ、ワークステーションである「NeXT」は、描画エンジンとしてDisplay PostScriptを採用していた。 今日では、パーソナルコンピュータの性能が上がると同時に、コンピュータ・プリンター間の接続速度が向上したため、個人レベルでパーソナルコンピュータにPostScriptインタプリタを搭載し、生成されたイメージをプリンターに送るということも行われる。 ほとんどは、レーザープリンターに実装されている。「PSプリンター」と呼ばれ、PDFベースとなったMac OS Xより前のMacintoshの標準的プリンターであり、Windowsでも利用されることがあるが、アドビへのライセンス料が高額なためか、価格が数十万 - 百万円以上と一般のレーザープリンターに比べ高価で、専らDTP用途に限られている。
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PostScript
ほとんどは、レーザープリンターに実装されている。「PSプリンター」と呼ばれ、PDFベースとなったMac OS Xより前のMacintoshの標準的プリンターであり、Windowsでも利用されることがあるが、アドビへのライセンス料が高額なためか、価格が数十万 - 百万円以上と一般のレーザープリンターに比べ高価で、専らDTP用途に限られている。 ソフトウェアによる実装では、アドビからライセンスを受けたラスターイメージプロセッサ (RIP) がエプソンなどいくつかのメーカーから自社製プリンターのために販売されていたが、PSプリンターの価格低下もあり、あまり普及していない。なお互換フリーソフトウェアとしてGhostscriptがある。 以下の内容をPostScriptプリンターに送信すると、文字列「Hello World!」が印刷される。 以下の内容をPostScriptプリンターに送信すると、長方形と文字列が印刷される。また、テキストファイルとして保存し、Adobe Illustratorなどで開くこともできる。
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逆ポーランド記法
逆ポーランド記法(ぎゃくポーランドきほう、英語: Reverse Polish Notation, RPN)は、数式やプログラムの記法の一種。演算子を被演算子の後にすることから、後置記法 (Postfix Notation) とも言う。 その他の記法として、演算子を被演算子の中間に記述する中置記法、前に記述する前置記法(ポーランド記法)がある。 名称の由来は、演算子と被演算子の順序がポーランド記法の逆になっていることによる。 例えば、「3 と 4 を加算する」という演算を、一般的に数式の表記に用いられる中置記法で記述すると、以下のようになる。 一方、逆ポーランド記法では、加算を表す演算子 + を、被演算子である 3 と 4 の後(右)に置いて、以下のよう記述する。 逆ポーランド記法による表現は日本語などSOV型の言語の語順とある程度似ており、上式程度であれば「3 と 4 を加算する」とそのままの順序で読み下せる。逆ポーランド記法を使うForthの影響を受けているプログラミング言語Mindでは、「3と 4とを 足す」と書く。 もう少し複雑な例として、中置記法による以下の式は、 逆ポーランド記法で記述すると以下の通りとなる。 つまり、逆ポーランド記法では後で使われる演算子ほど、右に位置することになる(ポーランド記法では逆になり、左に位置する演算子ほど後で使われる)。ちなみに上式を日本語で読み下すと「3 と 4 を足したものに 1 から 2 を引いたものをかけ合わせる」となる。 その他、逆ポーランド記法の特徴として区切り文字の必要性などがあるが、これらについてはポーランド記法と同様のため、そちらの項を参照のこと。 逆ポーランド記法を使えば、式の計算をする(評価)には、先頭からひとつずつ順番に記号を読み込み、その記号が演算子以外であればスタックに値を積み、演算子であればスタックから値を取り出して演算し結果をスタックに積む、という簡単な操作の繰り返しだけでよい。そのため、プログラミング初心者の練習課題として、逆ポーランド記法の電卓を作ることがよく行われる。 前述の手順であれば、スタックに積むのは値(たとえば後述する例では整数値)だけである。もしこれが他の順序だったとしたら、演算子に相当するものを記憶するか、順番に読むだけでは済まず行きつ戻りつするか、などしなければならない。
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逆ポーランド記法
前述の手順であれば、スタックに積むのは値(たとえば後述する例では整数値)だけである。もしこれが他の順序だったとしたら、演算子に相当するものを記憶するか、順番に読むだけでは済まず行きつ戻りつするか、などしなければならない。 プログラミング言語にForthやPostScriptなどのこの記法を採用したものがある。 ヒューレット・パッカード社の電卓(HP-35など)が有名で、他いくつかの電卓(特に関数電卓に採用がある)にもあるが、逆ポーランド記法順による入力方法を採用している電卓がある(近年の関数電卓のような数式入力ではなく、計算機械としてスタックモデルであり、それを直接操作しているという形なので、厳密なことを言うと逆ポーランド記法「順」ということになる)。 (このような動作をベースとしている計算モデルやコンピュータを、スタックマシンと言う) 例題として以下の式を考える。スタックの他に1個のアキュムレータを持つ計算機だとする。 []はスタックの内容。左から右に積む。最初は空である。 このように だけで計算動作が可能である。 スタックトップの直接演算が可能な構造ならば、例えば最初の部分は と簡略化される。
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Mind (プログラミング言語)
■カテゴリ / ■テンプレート Mind(マインド)は、Forthの影響を受けた、(プログラミング言語としては)日本語っぽい自然な見掛け(と主張されている)が特徴であるプログラミング言語で、いわゆる日本語プログラミング言語のひとつである。しかしあくまで「プログラミング言語としては日本語っぽい」ということであり、(時折誤解されているが)自然言語プログラミング(w:en:Natural language programming)言語ではない。 Forthのワードに相当する「単語」の他、全ての識別子に、日本語の文字(かな・漢字・他)が使える。Forthと同様に逆ポーランド記法ベースであるが、逆ポーランド記法と日本語の語順の類似性を活用している。 設計者は現在スクリプツ・ラボの片桐明で、MS-DOS時代には同社の前身のリギーコーポレーションからの販売であった。MS-DOS版は今はフリーウェア扱いになっている。2013年現在、Windows版(商用。評価版ダウンロードあり)とUNIX版(GPL)があり、スクリプツ・ラボが販売・提供している。他に、第三者によりUNIX版をB-right/V(超漢字)で動くようにしたものがある。 また、2012年4月から、2013年現在、Android版の実験が進められている。 外部リンク1のページより、プログラム例を引用する。 このように、基本はForthである。数値以外のほぼ全てに日本語の文字や日本語の記法を使う。たとえば、Forthでは ; である定義の終了が「。」である。以下、Forthと異なる特徴の主なものを挙げる。まず、文字種の違いをトークンの認識に積極的に使う。「12より」を数値の 12 であると認識する。「時刻を得て」のうち識別子として有効なのは「時刻得」であり、平仮名を基本的に無視することで自然な表現を助けている(おそらく助詞か活用語尾のような部分だが、単に字種に基づいて判断しているだけであり、自然言語処理的な扱いにより助詞ないし活用語尾として認識しているわけではない)。なお一方、単語の定義の「〜とは」のように、平仮名がキーワード的に重要な意味を持つ場合もある。
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Mind (プログラミング言語)
Forthと同様に、単語を定義し、それを以降の単語の定義で使用するといったスタイルをとる。すなわち、Mindのプログラムは、Forthと同様に単語の定義の集まりである。また、引数が表面に表れない。他言語のプログラマが最も驚くのはこの点かもしれない。最初は違和感があるが、慣れるとForthと同様に非常に簡潔にプログラムを書くことができる。 インデントなどのレイアウトには見やすさのため以上の意味はない。 同じ外部リンク1のページのある他プログラム例のメイン部分を引用する。 このように、プログラムがそのまま、動作記述のドキュメントとして読めると主張される。 Mindは、従来「日本語プログラミング言語」と主張されたような、既存のプログラミング言語の予約語などを日本語化し、識別子に日本語の文字を使えるようにして、トランスレータを通すようなものとは、日本語プログラミング言語として言語仕様が設計されているという点で、一線を画している(日本語によるプログラミングは、研究レベルでは以前にもある。また、代表的なところでなでしこなど後続も現れている)。 一見すると、自然言語によるプログラミングと誤解されることがあるが、自然言語処理は(その手法を取り入れている部分はあるが)おこなっていない。たとえば基本的にわかち書きが必須であり、Mindのルールに従った分割が必要であることが挙げられよう(日本語の自然言語処理において、わかち書きされていない普通の自然な文字列からの文節の切り分けは一大テーマである。また、膠着語である日本語は、本来的には語順と意味との結びつきは弱く、逆ポーランド記法との類似性は偶々であり、類似しない構文もあることが古くに指摘されている)。自然言語でプログラミングするのではなく、基本的には普通のプログラミングと同じようにコーディングする、手続き型プログラミング言語で、ただしForthのようにスタック指向である。
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Mind (プログラミング言語)
識別子には日本語の文字が使えるが、活用語尾のように見えるひらがなの部分を基本的には無視するという仕様である。これは単純に機械的にやっている。このため、識別子は漢字もしくはカタカナの部分で、識別できるようにしなければならない。ひらがなは無視されるばかりではなく、逆に、単語の定義の「〜とは」のように日本語の助詞に「標識」(言語学の用語)のような意味を持たせている場合もあり、「3から 2を 引く」と「2を 3から 引く」(こちらは標準的でないとされているが)はどちらも日本語としての直感通り 1 になる(Forthとしては、普通ではないと思えるだろう)。 Mindに限らずForth系一般の特徴であるが、プログラミング中はスタックの使用状況を強く意識する必要がある。特に単語(ワード)の呼び出し前後のスタックの変化をつかんでいないと、たちまちスタックの状態を混乱させてしまう。また、プログラムを書く時ではなく読む段においては、表面上一見すっきりと見えるのとは裏腹に、その裏側でスタックの状態がどうなっているのかを把握しなければ、デバッグなどができない。Forthでよくおこなわれている、単語の定義にスタックの状態変化を説明するコメントなどは是非付けたいところだろう。 低水準の操作のための単語もありシステム周りの記述も行なえる。クラシックなForthではあまり一般的でないものを、言語仕様に取り入れている点もあり、局所変数や、四則演算が中置記法で書ける数式表現などがある。 Mindが発表される前に、Fifth86という製品があった。Version5までのMindはFifth86で書かれていた。Forthにはたまに見られるが、Fifthはインラインアセンブラの機能を持っていた。Fifthという名称はForthの次、といったようなものである(Forthは、4番めFourthに由来する)。
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Mind (プログラミング言語)
Mindが発表される前に、Fifth86という製品があった。Version5までのMindはFifth86で書かれていた。Forthにはたまに見られるが、Fifthはインラインアセンブラの機能を持っていた。Fifthという名称はForthの次、といったようなものである(Forthは、4番めFourthに由来する)。 MS-DOS時代のVersion5まではインタプリタ的な対話環境と、コマンドライン版と言語中からも使える(単語「コンパイル」でコンパイルができる)コンパイラがあり、この時代のコンパイラは機械語コードを生成していた。1989年からOS/2への移植(リリースされず)に備え、この時に「Mコード」と呼んでいる中間表現方式を採用した。UNIXに移植したコードネームS6では、コア部分の実装をアセンブリ言語(機械語)からC言語に変更し、同時にコンパイラの出力を機械語出力から環境非依存な中間表現のバイナリコードの出力に変更した。これらは評価版リリースであった。UNIX版のVersion7がプロダクトとしてリリースされ、ソースの多くを共通にしたWindows版も同じバージョン番号系列でリリースした。現在は中間表現を実行するコア部分と、Mindで実装されたコンパイラ、さらにWindows版ではGUI版ランタイムと、それらのフロントエンドのGUI環境を提供している。 ぐるなびの全文検索に2004年5月から使われているスクリプツ・ラボのMindSearchIIはMindで開発をしている。 マイクロソフトウェアアソシエイツから発売されていたMS-DOS向け日本語ワードプロセッサ「キムラ太郎」はMindで実装されていた。(この名前は一太郎と木村太郎の駄洒落) 富士通から発売されていた「FM秘書」のソースコードはMindで記述されていた。また、日本語ワードプロセッサ専用機の『OASYS-30シリーズ』のMS-DOS起動システムには、プログラミング言語としてMindが添付されていた。
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百科事典
百科事典(ひゃっかじてん、羅: encyclopedia)とは、あらゆる科目にわたる知識を集め、これを部門別やアルファベット順・五十音順あるいはいろは順に並べ、解説を記した書物のことである。「百科」と表記されることもある。 広辞苑第七版によれば、百科事典は「学術・技芸・社会・家庭その他あらゆる科目にわたる知識を集め記し、これを部門別あるいは五十音順などに配列し、解説を加えた書物」のことであると定義しており、大辞泉では「人類の知識の及ぶあらゆる分野の事柄について、辞書の形式に準じて項目を立てて配列し、解説を加えた書物」であると定義されている。 「百科事典」の「百科」とはおおむね「さまざまな分野」といった意味である。かつては「百科辞典」とも表記されたが、1931年に平凡社が『大百科事典』を出版し、それ以後「百科事典」の表記が定着した。 「百科全書」(ひゃっかぜんしょ)とも言うが、この呼称はやや古風な呼び方である。特に、後述するフランスの百科全書派の手によるものを指して百科全書と呼ばれることが多い。中国語では「類書」と称するが、これは「百科全書」が正式の表記である。 なお、百科事典を意味する英語: encyclopedia は、ギリシャ語のコイネーの"ἐγκυκλοπαιδεία"から派生した言葉で、「輪になって」の意味であるἐγκύκλιος(enkyklios:en + kyklios、英語で言えば「in circle」)と、「教育」や「子供の育成」を意味するπαιδεία(paideia パイデイア)を組み合わせた言葉であり、ギリシャ人達が街で話し手の周りに集まり聴衆となって伝え聞いた教育知識などから「一般的な知識」の意味で使われていた。 大型百科事典では数十冊もの大部となるが、記述をコンパクトにまとめた一巻本のものもある。非常に大部のものの場合、索引が独立した一巻となっているものも存在する。索引のほか、地図も単独巻として存在させているものがある。 これら以外にも、定期的に刊行される分冊百科が存在する。分冊百科は映画、医薬、英語、日本史、世界遺産など様々なテーマで刊行され、完結時にファイルするとそのテーマの百科事典が成立する。
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百科事典
大型百科事典では数十冊もの大部となるが、記述をコンパクトにまとめた一巻本のものもある。非常に大部のものの場合、索引が独立した一巻となっているものも存在する。索引のほか、地図も単独巻として存在させているものがある。 これら以外にも、定期的に刊行される分冊百科が存在する。分冊百科は映画、医薬、英語、日本史、世界遺産など様々なテーマで刊行され、完結時にファイルするとそのテーマの百科事典が成立する。 百科事典の媒体は2000年頃までは紙の書物(印刷物)が主流であったが、それ以降は書籍以外にも、電子辞書(携帯型の専用装置で内蔵のICに記録されたもの)、CD-ROM/DVD-ROM、メモリーカード、USBメモリ、ウェブとさまざまな形態で登場している。『ブリタニカ百科事典』など本来は紙媒体であった伝統のある百科事典も、現在はWeb上でサービスが展開されていることが多い。初めからWeb専業で展開された百科事典サービスとしては、ウィキペディアが有名なサービスの内の一つである。 百科事典というのは、広辞苑・大辞泉などの説明にもあるように基本的に、さまざまな分野、あるいはあらゆる分野の知識を集めたものである。百科全書派の百科全書や『ブリタニカ百科事典』などもそのような範囲の知識を扱っている。(これが一般的であるが、次に説明するものとあえて区別する時は「総合百科」と呼ばれることがある)。ただし、あらかじめ特定の専門領域に絞ったうえで、その領域内のさまざまな知識を集めた百科事典もある。たとえば『薬学百科事典』、『哲学百科事典』等で、これらの百科事典は「専門百科事典」などと呼ばれることがある。 百科事典の構成・配列方法としては、各項目を分野ごとに分類して編成する方法と、各項目の名称で配列する方法(西欧ではアルファベット順、日本語の百科事典の場合は五十音順など)がある。各項目において、その事典に記事のある単語に印が振られ、相互参照が可能になっている場合も多い。オンライン百科事典においてもそれは変わらず、たとえばウィキペディアでは、内部に記事のある単語にハイパーリンクが付され、相互参照を容易なものとしている。なお、中国語では機械的な配列ができないため、ほとんどの辞書・百科事典が分類配列となっている。
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百科事典
百科事典の項目の立てかたには、おおまかに分類すると大項目主義と小項目主義の二方式がある。大項目主義は、たとえば日本の文学でいうと、「近代文学」など大きなテーマの項目名のもとに、文芸の潮流や著名な作家・作品などについて一つの項目内で概観できるようにまとめたものである。項目は数ページから数十ページにもわたる長大なものになることもある。小項目主義は、「夏目漱石」「芥川龍之介」「自然主義」「吾輩は猫である」など個々の細かいテーマや事物ごとに網羅的に項目を立て、それぞれ別個に簡潔な解説を加えたものである。『ブリタニカ百科事典』の初版は大項目主義であった。一方『ブロックハウス百科事典』は小項目主義の徹底で有名である。 どちらの方式にも一長一短がある。大項目主義では全体を体系的に捉えることができる一方で、特定の作品や作家について調べるには不向きである。小項目主義では個々の項目について調べやすい一方で、全体としてのまとまりに欠ける。ただし、この二つの方式は必ずしも対立するものではない。折衷的な方式(中項目主義)を採る百科事典も珍しくない。利点や欠点は取り上げるテーマにおける向き不向きや編者の立場、利用者の目的等によるところが大きい。 百科事典に掲載された記事は、情勢の変化や新理論の発見などによって常に古くなり、役に立たなくなる危険性が存在するため、定期的な改訂と新版の発行が不可欠となる。ただし、それには多額の資金と労力が必要となるため、容易に行えない。この改訂のコストが、紙の百科事典の多くがオンライン版のものへと移行した要因の一つである。また紙の百科事典の場合、改訂に長い時間を必要とし、新しい情報に対してタイムラグが発生してしまう。これはCD-ROM版も同様である。しかし、オンライン版は内容の変更が即座に反映されるため、紙やCD-ROMに比べて情報の更新が迅速であり、この点はオンライン版の優位性の一つに挙げられる。
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百科事典
古代の百科事典はほとんどが個人の手によるものであったが、18世紀後半には知識の全体量の増大からこのようなことは非常に困難となり、「百科全書」の発行以後は複数の執筆者が専門分野において執筆を行い、それを編集者が編纂して事典に仕立てる方法が主流となった。執筆者は、19世紀前半ごろまでは学界に身を置いていないアマチュアも存在していたが、学問の高度化・専門化に伴いそうしたアマチュアは姿を消し、各分野の学者や専門家が自らの専門分野について寄稿するのがほとんどとなった。知識量の増大と百科事典自体の巻数の増加からこの執筆者の数は一貫して増加する傾向にあり、「百科全書」においては140人ほどだった執筆者は、1911年の「ブリタニカ百科事典」第11版においては1507人にまで増加していた。この傾向はその後も続き、たとえば2007年に発行された平凡社の「改訂新版 世界大百科事典」においては、執筆者数は約7000人に上っている。さらにインターネット上のオープンコンテンツの百科事典においては執筆者の多くは再び専門家ですらなくなり、それに伴って執筆者数も激増した。ウィキペディアにおいては、2022年5月1日の時点で、英語版の登録者数は約4348万人、一か月以内に編集を行ったユーザーだけでも126,197人にのぼる。同日の日本語版のデータは、登録者数が約192万人、一か月以内に編集を行ったユーザーが15,296人である。 一般に「世界最初の百科事典」と呼ばれているのは、フランスのダランベール、ディドロ、ヴォルテール、ルソーらが企画した『百科全書』 (L'Encyclopédie)である。ただし厳密に言えば、それ以前に、百科全書に類似した、様々な分野の知識を集めて項目別に整理した書物が全く無かったわけではないので、それらも含めて解説する。 ヨーロッパではすでに紀元前2世紀頃から古い書物を収集し、その内容をまとめることが行われた。代表的なものにプリニウスの博物誌がある。
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百科事典
ヨーロッパではすでに紀元前2世紀頃から古い書物を収集し、その内容をまとめることが行われた。代表的なものにプリニウスの博物誌がある。 しかし今日のような辞書形式のものは、10世紀末の東ローマ帝国中期「マケドニア朝ルネサンス」の時代に生まれた。皇帝コンスタンティノス7世“ポルフュロゲネトス”はギリシアやラテンの古典から歴史や思想についてのさまざまな話題を集め、統治の参考書として編纂した。この流れでヨハネス1世ツィミスケス(在位969年-976年)の治下にはギリシア語の辞書『スーダ辞典』(スダ)が完成している。現在の百科事典と語義辞書の両方の性格を持ち、現在に伝わるもっとも古いアルファベット順配列による事典と考えられている。『スーダ辞典』には誤伝も見られるが、現在は失われた古代の諸作家の作品の膨大な引用によって、現在でも文献学研究の上で意義を認められている。『スーダ辞典』の編集者の名はスイダス(Suidas)であると長く考えられ、そこから辞典類を指す接尾辞 -das が生じた。(例:イミダス=Imidas) 一方アジアでは、歴史上、百科事典に近いものとしては中国で古くより類書が存在してはいたが、これはまだ用語集的な色合いが強く、本格的なものとしては明の時代の中国に、14部構成・全106巻に及ぶ『三才図会(さんさいずえ)』という図入りの百科事典があり、1607年に完成、二年後に刊行された。日本ではこれに倣い、江戸時代の1712年、寺島良安によって『和漢三才図会』がまとめられた。こちらも図解書で、解説は漢文で書かれた。これらも広義の百科事典と呼べる。なお、(現代の百科事典も現代の世界観の反映だが)これらも執筆された時代の世界観を反映しているので、現代人にとっては空想上のものと見なされる「不死国」「長脚国」などに関する記述も含んでいる。
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百科事典
ルネサンス以後、あまたある知識や語彙を集積した書物が各国において徐々に発行されるようになった。17世紀初頭には、それまで分野別になっていた各項目の配列がアルファベット順に並べられるようになった。これにより、百科事典は編集者の価値観に秩序付けられる概念の関係によらず、アルファベットによる機械的で一律な構成となった。1695年から1697年にはピエール・ベールによって「歴史批評辞典」が書かれた。またイギリスのイーフレイム・チェンバーズが1728年に『サイクロペディア、または諸芸諸学の百科事典』を出版している。サイクロペディアにおいては各項目間の相互参照が初めて導入されており、のちの百科事典に大きな影響を与えた。また、サイクロペディアはそれまでの事典が人文系に片寄っていたのに対し、科学や技術系の記述を大幅に増やしたのも特徴である。 しかし、一般に世界最初の百科事典と呼ばれているのは、フランス革命前夜の1751年に開始された、フランス啓蒙思想運動の一環としてダランベール、ディドロ、ヴォルテール、ルソーらが企画した分冊の『百科全書』(L'Encyclopédie)である。彼らは予約購読者を募り、分冊販売としてそれを刊行した(販売形態は今日よく見られる「月刊○○百科」のようにあるテーマで定期刊行される分冊百科を思わせる)。この企てにより彼らは「百科全書派」と呼ばれている。ただし、それぞれの項目の執筆姿勢などで意見の食い違いが生じ、内紛から離脱者が絶えなかった。
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百科事典
この百科全書の特徴は、「美」、「愛」、「音楽」といった大項目の他に、近代に登場した新しい技術を断面図などを含む絵入りの図解で分かりやすく解説、新知識を広く一般の共有財産にしようとしたことにある。良く知られる項目では、「農機具」、「石炭の露天掘り」、「洗濯船」、「廻り舞台」などがある。これ以後、百科事典という語は知の一切を叙述する企ての異称としても用いられる。代表的な例としてヘーゲルの『エンチクロペディー』(ドイツ語で「百科事典」の意)が挙げられる。また、それまでの百科事典が編集者個人の著作、あるいはその傾向が濃いものであったのに対し、百科全書は名高い一流の学者たちがそれぞれ専門分野において寄稿を行い、それを集積して一つの巨大な事典を作るという方向性を明確に示し、以後百科事典はこのスタイルによって作成されていくようになった。 百科全書の刊行後、これに刺激を受けて各国で百科事典が刊行されるようになった。1768年にはスコットランドのエディンバラにおいて「ブリタニカ百科事典」の刊行が開始され、1796年にはドイツのライプツィヒでブロックハウス百科事典が刊行を開始した。1829年にはフィラデルフィアでアメリカ大百科事典の刊行が始まるなど、19世紀中はアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ドイツなどで百科事典の刊行が行われるようになった。こうした百科事典の編纂はしばしば強力な個性を持つ編纂者によって推進された。たとえばフランスにおいては、ピエール・ラルースが1863年から1876年にかけて「19世紀大百科事典」を刊行したが、これはほぼ自らの一生をかけたものであり、ラルース自身は刊行が完了する前の1875年に死亡した。この19世紀百科事典は彼の名を取ってラルースと呼ばれるようになり、以後もこのラルース百科事典は大規模な百科事典の一つとして長く存続している。 20世紀に入るとさらにそれまで百科事典の刊行されていなかったスペインや日本、イタリアなどの新興国や中小国でもさかんに百科事典の刊行が開始されるようになった。この時期に各国で競って百科事典が刊行されたのは、知の集大成たる百科事典を自国で刊行することによって国威を発揚するといった、国家間の競争の意味合いが存在した。
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百科事典
20世紀に入るとさらにそれまで百科事典の刊行されていなかったスペインや日本、イタリアなどの新興国や中小国でもさかんに百科事典の刊行が開始されるようになった。この時期に各国で競って百科事典が刊行されたのは、知の集大成たる百科事典を自国で刊行することによって国威を発揚するといった、国家間の競争の意味合いが存在した。 近代の日本では、明治の文明開化の時期に西周によって『百学連環』という日本初の百科事典が作られた。他に小中村清矩らの尽力で成立した『古事類苑』がある。1879年、当時の文部省により編纂が開始され、後には神宮司庁が引き継いで1914年に完成された。各時代の事物についての古文献を集成したため、資料的価値が高い。 しかし、西洋式の近代的な百科事典としては、明治末に三省堂から刊行が開始された『日本百科大辞典』(全10巻、齋藤精輔の編纂で1907年刊行開始、1919年完結)が最も早いものである。ついで昭和初期からは平凡社の『大百科事典』(1955年に『世界大百科事典』へ改題)(全28巻、1931年刊行開始、1934年完結)などが発刊された。新たに「辞典」ではなく「事典」という語を作り出して書名に使用したのは、この平凡社のものが最初で、以後「百科事典」という漢字表記が一般化する。さらに昭和期の高度経済成長を経ると1960年代頃には各家庭に分冊の百科事典が置かれているのは珍しい風景ではなくなり、大衆化を果たした。小学館からは、1962年に『日本百科大事典』(13巻、別冊)、続いて1965年に『世界原色百科事典』(全8巻)、さらに1967年には『大日本百科事典ジャポニカ』(18巻、別巻4)が発行された。各社から次々と百科事典が刊行され人々もそれを求めたこの時期を指して、百科事典ブームと呼ぶ。 こうした百科事典は書店の店頭販売だけではなく、セールスマンによる訪問販売も盛んに行われた。1970年前後には、強引な百科事典の販売が社会問題となり、このことがきっかけに夜間訪問の禁止など訪問販売のルールの原型が作られた。この時代、百科事典は実用面よりも応接間の飾りやステータスシンボルとしての役割を果たしていたが、場所を取ることもあり、百科事典ブームが終息した後では大部の百科事典はあまり家庭では歓迎されなくなり、廃棄処分されることが多くなった。
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百科事典
百科事典と比較すれば一つの項目あたりの記述の内容も簡易で文字数も少ないが広く各分野にわたる用語の辞典と呼べる出版物として、1948年に自由国民社から『現代用語の基礎知識』が毎年発行されるようになり、流行・世相をふんだんに取り入れた時代風俗を映す年刊の資料集的なものも市場に現れるようになった。のちに1986年には集英社から『イミダス』が発行され、1989年には朝日新聞社から『知恵蔵』という同コンセプトの年刊資料集が現れ、この三誌が鼎立(ていりつ)するようになったが、『イミダス』『知恵蔵』は、インターネットの普及に伴う販売部数の減少により2007年版をもって紙媒体を廃止し、ウェブ版に完全移行したため、紙媒体のこうした年刊資料集は「現代用語の基礎知識」を残すのみとなっている。その「現代用語の基礎知識」も2020年版からは大幅なリニューアルがなされ、2019年版が1226ページなのに対して、296ページとコンパクト化が図られた。 1983年には、講談社インターナショナルより『英文日本大百科事典(英語版)』が刊行された。同書は、日本を英文で体系的に紹介するものであり、全9巻、英単語数400万語に及び、執筆者は27カ国、1300名以上で、費用はおよそ1500万ドル(出版当時の為替レートで34億円以上)かかった。 1990年以降は、パーソナルコンピュータの普及と大容量光学ドライブ搭載に伴い、百科事典はCD-ROMなどの光学メディアによるコンピュータソフトウェアとしても出回るようになった。当初はこうした動きは弱いもので、1990年には紙の百科事典である『ブリタニカ』の売り上げは過去最高を記録していた。しかし1993年に発売が開始されたマイクロソフトの「エンカルタ」などのCD-ROM版の百科事典の急成長によって紙の百科事典の売り上げは激減し、『ブリタニカ』の売り上げは数年で5分の1にまで減少した。こうした動きに対し、1994年には『ブリタニカ』もCD-ROM版を発売開始するなど、多くの百科事典がこの流れに追随した。しかし、この時点においてすでに百科事典の売り上げは急減しており、結果的にCD-ROM/DVD-ROM版の発行は新規参入者を含めどの発行者にも利益をもたらさなかった。2000年の百科事典全体の売り上げは1990年に比べ10分の1にまで落ち込んでいた。
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百科事典
上記の動きはパソコン同士が有機的にリンクされていない時代からの話であったが、2000年ごろからはインターネットの発達と普及に伴い、ウェブ版も作られるようになってきた。こうしたウェブ版の百科事典はインターネット百科事典と呼ばれるようになり、百科事典の一つの大きな流れとなった。1999年には『ブリタニカ』がウェブ上での無料公開を開始し、『ラルース』などの伝統的な百科事典は書籍と同時にオンライン版を展開するなど、新たな対応に着手した。2005年の段階で、携帯電話・PHSのウェブブラウザでアクセスできる百科事典も存在しており、誰でも、使いたい時に、どこでも百科事典の知識にアクセスできる環境になりつつあった。紙媒体の百科事典は、刊行後時間が経つと時事的な内容に関しては記述が陳腐化してしまいがちであるが、ウェブ版の百科事典では、項目内容の随時更新が可能であり、改訂が容易である。ウェブ版およびCD-ROM等の電子媒体を用いた百科事典は、検索や相互参照機能などの使い勝手が紙製の書籍より一般的に優れている。こうした流れはさらに加速し、2012年には百科事典の代表格であった『ブリタニカ百科事典』が書籍版の発行を取りやめ、ウェブ版へと完全移行することを表明した。また2009年には、朝日新聞社、講談社、小学館、朝日新聞出版の4社が共同で参加各社の百科事典をインターネット上で参照することのできるコトバンクをスタートさせた。
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百科事典
1990年代から多くの百科事典がCD版やウェブ版へと移行するようになったものの、それらの百科事典はいまだ専門家によって執筆・監修され、出版社によって発行される一方向からのものであることにかわりはなかった。しかし2001年に、ジミー・ウェールズとラリー・サンガーによってウィキペディアが設立されると、この流れは大きく変わった。ウィキペディアはそれまでの百科事典とは異なり、「誰でも」執筆や編集に参加できることを特徴とし、実際にこれによってウィキペディアは大きく成長を遂げ、規模としては世界最大の百科事典となった。またこの成功を受け、ウィキペディアのほかにもいくつかの読者参加型のインターネット百科事典が編纂されるようになった。こうした百科事典の新しい潮流のひとつである、ウィキペディアなどの「誰でも」執筆や編集に参加できることを特徴とするプロジェクトに関しては、従来の百科事典のように専門家や研究者が編纂する体系的書物と比較して、信頼性に問題があるとする指摘がある。同時に、多くのサービスが無料で提供されていることから伝統的な出版業者にとって経営上の不利益をもたらすという指摘もなされている。一方で、ウィキペディアの質を擁護する識者の評価もある。 百科事典は「調べる」本であって、「読む」本ではないが、読むことを目的とすることもある。
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アルゴリズム
アルゴリズム(英: algorithm)とは、解が定まっている「計算可能」問題に対して、その解を正しく求める手続きをさす。あるいはそれを形式的(formal)に表現したもの。 岩波国語辞典「算法」に、まず「計算の方法」とした後に2番目の詳細な語義でalgorithmの訳として、 とある。一見では国語辞典らしい平易な日本語で書かれた説明だが、例えば解が無いと無限ループに陥るといったようなものは除外されるし、「アルゴリズムの視覚的表現」としてよく使われるフローチャートのようなもので書いてあっても、基本的操作がはっきりと書いてなければそれはアルゴリズムではない、というわけである。これは、#形式化の節で述べるような、理論計算機科学での「アルゴリズム」の扱いに沿っている。 記録に残る最古のアルゴリズムは、エウクレイデスの原論のものである。その中でも、二つの整数の最大公約数を求めるユークリッドの互除法は、典型的なアルゴリズムとして知られている。 「アルゴリズム」という名称は、現在のイラクのバグダードにおける9世紀の数学者アル=フワーリズミーの名前から来ているといわれている。彼がインド数学を紹介した著作『インドの数の計算法』(825年)が、12世紀にチェスターのロバート(あるいはバースのアデラード)によってラテン語に翻訳され、『algoritmi de numero Indorum アルゴリトミ・デ・ヌーメロ・インドルム』(直訳すると「インドの数におけるアルゴリトミ」)という題で、以後500年間にわたってヨーロッパ各国の大学で数学の主要な教科書として用いられた。この書は、冒頭に「algoritmi dicti(アル・フワリズミーに曰く)」という一節があるので『algoritmi()』と呼ばれていた。 1920〜30年代、計算可能性のための数学モデル(計算モデル)がいくつも提案された(チューリングマシン、帰納的関数、ラムダ計算など)。後にこれらの定義はすべて同等であることがわかり、それらにより同値な概念を「計算可能」とすることが提案された(チャーチ=チューリングのテーゼ、提案者はスティーヴン・コール・クリーネ。なお、チューリングのほうを先とする専門家もいる)。したがって、現在では「これらによって『計算可能なもの』を計算する手続き」をアルゴリズムと呼ぶ。
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アルゴリズム
ここではまず非形式的にアルゴリズムについて述べた後で、停止性など形式的(フォーマル)な議論を続ける。 アルゴリズムはコンピュータが情報を処理する基盤である。すなわち、プログラムは本質的にはアルゴリズムであり、コンピュータが特定のタスク(従業員の給与計算、学生の成績表の印刷など)を(指定された順序で)実行するためのステップをコンピュータに指示する。したがって、アルゴリズムはチューリング完全なシステムで実行可能な操作の並びとみなすこともできる。 アルゴリズムは情報処理と結びついていることが多く、データは何らかの入力源(機器)から読み込まれ、結果は何らかの出力先(機器)に書かれるか、次の処理の入力となるよう保持される。保持されたデータはアルゴリズムを実行する実体の内部状態の一部とみなされる。実際、コンピュータでは状態をデータ構造に保持したりする。 このような計算過程について、アルゴリズムは厳密に定義されなければならず、ありうる全ての状況に適用可能な形で指定される。すなわち、どのような条件のステップでも、ケースバイケースで体系的に扱わなければならず、各ケースの扱い方は明確で(計算可能で)なければならない。 アルゴリズムは明確なステップの明確なリストなので、その計算順序は最も重要である。命令列は、先頭から最後尾に向かって逐次的に実行されるよう記述される。この考え方をより形式的にしたものが制御構造である。 以上の説明は、命令型プログラミングを前提としてアルゴリズムを定式化する場合である。これは、最も典型的な概念であり、タスクを離散的かつ機械的なものとして表すものである。その場合に特有の操作として、変数に値を設定する「代入」がある。これは、直観的にはメモリをメモ帳のようなものとみなすところから生まれた。 これ以外のアルゴリズムの概念化として、関数型プログラミングや論理プログラミングがある。 プログラマは擬似コードなどを使うことが多いが、理論計算機科学での形式的で厳密な議論には計算モデルを使う。もちろん相互に得失があり、必要であれば互いにどちらも使う。 アルゴリズムは最終的に必ず停止しなければならないとする定義もある。というより形式的で厳密な議論では停止するものだけがアルゴリズムである(チャーチ=チューリングのテーゼも参照)。
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アルゴリズム
プログラマは擬似コードなどを使うことが多いが、理論計算機科学での形式的で厳密な議論には計算モデルを使う。もちろん相互に得失があり、必要であれば互いにどちらも使う。 アルゴリズムは最終的に必ず停止しなければならないとする定義もある。というより形式的で厳密な議論では停止するものだけがアルゴリズムである(チャーチ=チューリングのテーゼも参照)。 そのため、そうでないものと呼び分ける必要があることもあり、クリーネは停止性のあるアルゴリズムを「decision procedure for the question」「decision method for the question」「algorithm for the question」とした。停止しない可能性のある手続きについては、クヌースは「computational method」と呼び、クリーネは「calculation procedure」「algorithm」と呼んでいる。 ミンスキーは、(特定の状態から開始された)アルゴリズムの停止性について次のように述べている。 アラン・チューリングが停止性問題として提起したとおり、任意のプロシージャと初期状態が与えられたとき、それが停止するかどうかを判定するアルゴリズムは存在しない(この前半を「任意のアルゴリズムと初期状態が」としてはいけない。この記事の他の部分では完全に混用されているが、この文の後半の「アルゴリズムは」という表現は、必ず停止するもののみを指してそう言っているのだから。せめて1文の中では混用はまずい)。 不完全な(あるいは間違った)アルゴリズムは、次のいずれかの結果となる。 クリーネはこれらをアルゴリズム内で検出してエラーメッセージを返すか、可能ならば無限ループに入らせることを提案した。また、結果が真理値である場合についてクリーネは第三の論理記号「 u {\displaystyle u} 」を使うことも提案している。そうすれば、命題を扱うアルゴリズムで何らかの値を常に生成できるとした。誤った答えを返す問題は、帰納法を使ったアルゴリズムに関する個別の「証明」で解決される。
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アルゴリズム
アルゴリズムには様々な記法があり、自然言語、擬似コード、フローチャート、プログラミング言語などがある。アルゴリズムの自然言語表現は冗長であいまいになる傾向があり、複雑なアルゴリズムや技術的な場面では単独ではほとんど使用されない。擬似コードやフローチャートはアルゴリズムを構造的に表現でき、自然言語のようなあいまいさもほとんどない。プログラミング言語でアルゴリズムを示すこともよくある。 アルゴリズムの記述は、例えばチューリング機械を使ったならば、として次の3つに分類している書籍などがある。 (以上の2つのような内容では、そもそも概要で説明したように「はっきり」していない可能性もあるし、詳細が無ければ無限ループに陥らないことを証明することもできない。従ってそもそも実際には「アルゴリズムを記述」してはいない) 多くのアルゴリズムは、コンピュータプログラムとして実装されることを意図している。しかし、アルゴリズムの実装手段はほかにもあり、電気回路で実装したり、機械で実装したりすることもある。人間が算術を覚えるのも、脳内の神経網にアルゴリズムが実装されたものと見ることもできる。 簡単なアルゴリズムの例として、(整列されていない)有限長の数列(リスト)に含まれる(大きさが一定値以下の整数の)最大の数を見つけ出すアルゴリズムを考える。ここでは、リストに含まれる全ての数を調べる必要があるが、一度に調べらることができるのは1つだけであるとする。ここから得られるアルゴリズムを、日本語で記述すると次のようになる。 次に、プログラミング言語的にやや形式的に記述すると、次のような擬似コードになる(「←」は代入を表し、「return」はその後に記された値を返してアルゴリズムが終了することを意味する)。 入力: 空でない数リスト L、出力: リスト L 内の最大(largest)の数。
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アルゴリズム
次に、プログラミング言語的にやや形式的に記述すると、次のような擬似コードになる(「←」は代入を表し、「return」はその後に記された値を返してアルゴリズムが終了することを意味する)。 入力: 空でない数リスト L、出力: リスト L 内の最大(largest)の数。 あるアルゴリズムの実行に必要な計算資源(時間や記憶領域)の量を見積もることは重要である。そのような量を定量的に求める分析法はアルゴリズム解析と呼ばれ、研究がなされてきた。例えば、上記のアルゴリズムの実行に必要な時間はリストの長さを n {\displaystyle n} とするときO記法を用いて表せば O ( n ) {\displaystyle O(n)} となる。このアルゴリズムでは、(与えられたリスト以外には)常に(その時点での最大の数と、現在見ているリスト上の位置)2つの値だけを記憶しておけばよい。したがって、必要となる記憶領域の量は O ( 1 ) {\displaystyle O(1)} となるが、リストの長さnを記憶して入力として与える場合にはそのための領域も含めるとすると O ( log n ) {\displaystyle O(\log n)} になる。 同じ問題であっても、アルゴリズムが異なれば、必要とする時間や記憶領域の量も異なる。例えば、ソートには様々なアルゴリズムがあり、それぞれ必要な時間や記憶領域の量が異なる。 アルゴリズム解析は計算機科学の一部であり、特定のプログラミング言語や実装を前提とせずに、抽象的に解析を行うことも多いが、特定のプログラミング言語や実装を前提として、具体的に解析を行うことも多い。これは、アルゴリズムの様々な属性に注目した他の数学的分野とも共通する。 アルゴリズムには様々な分類方法があり、それぞれに利点がある。 アルゴリズム分類の1つの方法として、実装手段による分類がある。 別の分類方法として、アルゴリズムの設計方法論やパラダイムで分類する方法がある。それぞれ異なるいくつかのパラダイムが存在する。さらに、個々のパラダイムの中にも様々な異なる形式のアルゴリズムが含まれている。以下に主なパラダイムを挙げる。
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アルゴリズム
アルゴリズムには様々な分類方法があり、それぞれに利点がある。 アルゴリズム分類の1つの方法として、実装手段による分類がある。 別の分類方法として、アルゴリズムの設計方法論やパラダイムで分類する方法がある。それぞれ異なるいくつかのパラダイムが存在する。さらに、個々のパラダイムの中にも様々な異なる形式のアルゴリズムが含まれている。以下に主なパラダイムを挙げる。 科学のどんな分野にも固有の問題があり、効率的なアルゴリズムが必要とされている。ある分野の問題はまとめて研究されることが多い。そのような分類として、探索アルゴリズム、ソートアルゴリズム、マージアルゴリズム、数値アルゴリズム、グラフアルゴリズム、文字列アルゴリズム、計算幾何アルゴリズム、組合せアルゴリズム、機械学習、暗号理論、データ圧縮アルゴリズム、構文解析などがある。 各分野はオーバーラップしており、ある分野でのアルゴリズムの進歩が、時には全く異なる分野での改善につながることがある。例えば、動的計画法は、本来、産業における資源消費の最適化のために発明されたが、現在では様々な分野での各種問題に適用されている。 アルゴリズムは、入力長に対する計算時間で分類される。あるアルゴリズムは入力長に対して線形時間で完了する。また別のアルゴリズムは指数時間以上かかるし、場合によっては完了しないこともある。さらに、問題によっては計算量の異なる複数のアルゴリズムが存在するし、効率的なアルゴリズムが全く知られていない問題もある。問題によっては、別の問題への写像が存在する。以上のようなことから、計算量による分類は、アルゴリズムについてではなく、問題について行うのが適当とされている。つまり、問題を解く最善のアルゴリズムの計算量に基づいて、問題を分類する。
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アルゴリズム
アルゴリズムは計算能力によっても分類される。一般にアルゴリズムは計算能力によって階層的に分類される。「再帰的クラス」とは、全てのチューリング計算可能関数についてのアルゴリズムを含むクラスである。このような階層化によって、計算に必要とされる計算資源(時間とメモリ)を制限できる可能性が生じる。「部分再帰クラス」は、全てのチューリング計算可能な関数を得ることはできない。例えば、多項式時間で実行されるアルゴリズムには多くの重要な計算が含まれるが、チューリング計算可能な関数全体を含むことはない。原始再帰関数で実装されるアルゴリズムのクラスは、別の部分再帰的クラスの例である。 Burgin (2005, p. 24) は、関数を計算するアルゴリズムは有限ステップ後に必ず出力が決定されなければならないという一般的条件を緩めたアルゴリズムの汎用的定義を行った。彼は「超再帰的クラス」を「チューリングマシンで計算可能でない関数を計算可能なアルゴリズムのクラス」と定義した(Burgin 2005, p. 107)。これはハイパーコンピュータの手法の研究と密接に関係している。 アルゴリズム自体は一般に特許化できない。アメリカ合衆国では、抽象概念、数、信号の単純な操作だけから成る請求項は「プロセス」を構成しないとされるので、アルゴリズムは特許化できない。 しかし、アルゴリズムの具体的応用は特許化可能な場合がある。例えば、Diamond v. Diehrのケースでは、単純なフィードバックアルゴリズムを使った合成ゴムの硬化処理が特許として認められた。 データ圧縮アルゴリズムの分野では、ソフトウェア特許が論争の元になることが多く、例えばユニシスのLZWアルゴリズムの特許問題が有名である。 圧縮アルゴリズムで有名な特許問題は他に算術符号も挙げられる。算術符号で取得されている特許の範囲は3点であるとされている。算術符号によって断念されたソフトウェアやファイル形式は多く、代替品が相次いで開発された。 線型計画問題の解法であるカーマーカーのアルゴリズムは日本において特許無効審判がなされたが、2000年12月11日付けで特許庁に当該特許の放棄による特許権抹消の登録が行われたため、最終的に審判が却下された。
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アルゴリズム
線型計画問題の解法であるカーマーカーのアルゴリズムは日本において特許無効審判がなされたが、2000年12月11日付けで特許庁に当該特許の放棄による特許権抹消の登録が行われたため、最終的に審判が却下された。 著作権の観点では、日本において著作権法10条3項にて明示的にアルゴリズムが同法の保護対象外であることが定められている。ただしアルゴリズムを記した文書や、アルゴリズムを実装したプログラムは著作物として保護対象となる(文書やプログラムを通して「アルゴリズムが保護」されるわけではない。つまりこの文章は、アルゴリズムについて書いてあるわけではない)。 アルゴリズム自体が保護される訳では無いが、商標の基準を満たしていればアルゴリズム名称を商標として登録することはできる。ただしアルゴリズム名称はその性質上から通常は一般名詞として通用するものであり、一般名詞と同じ語について商標の基準を満たして商標として登録しても、一般名詞の一般名詞としての(すなわちごく当然の)使用を妨げるという通念に反するような権利の濫用はできないような商標法上の制限があるため、通常の、商品名などを登録した場合と違い権利は制限される。 暗号アルゴリズムには輸出規制されているものもある(アメリカでの例)。
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UNIX
UNIX (ユニックス、Unix、英語発音: [júːniks])は、コンピュータ用のマルチタスク・マルチユーザーのオペレーティングシステムの一種である。公式な商標は「UNIX」だが、商標以外の意味として「Unix」、またはスモールキャピタルを使用して「Unix」などとも書かれる。Unixは1969年、AT&Tのベル研究所にて、ケン・トンプソン、デニス・リッチーらが開発を開始した。現代的なOSの始祖であり、あらゆる後発OSがUNIXで発明・実証された設計を参考にしている。開発開始から半世紀以上に渡る技術の進歩やプロジェクトの変遷により、オリジナルのUNIXのソースコードは既に使われなくなったが、現在でも派生OSの開発は続けられており、特にシステムのバックエンドで動くスーパーコンピュータやサーバ向けの市場では圧倒的な存在感を示している。 当初はアセンブリ言語のみで開発されたが、1973年にほぼ全体をC言語で書き直した。このため、Unixは歴史上、初めて高水準言語で書かれたOSであると言われることがある。 1973年の段階ではPDP-11に依存したコードが多く、移植性は低かったが、その後徐々にPDP-11に依存したコードを減少させ、1978年にInterdata 8/32への移植に成功して以降、徐々に他のプラットフォームにも移植されていった。 2021年現在では「Unix」という語は、Unix標準に準拠するあらゆるオペレーティングシステムの総称でもある。既にUnixシステムは多数の系統に分かれており、AT&Tの開発停止後も、多数の商用ベンダーや非営利組織などによって開発が続けられている。 1970年代から1980年代の初期にかけて、Unixは大学や研究所などの教育機関で広範囲に採用され、特にカリフォルニア大学バークレー校をオリジナルとするBSD系統が誕生した。また Version 7 Unix や UNIX System V の特徴を持つオペレーティングシステムは「伝統的なUNIX」(traditional Unix)とも呼ばれる。
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UNIX
1970年代から1980年代の初期にかけて、Unixは大学や研究所などの教育機関で広範囲に採用され、特にカリフォルニア大学バークレー校をオリジナルとするBSD系統が誕生した。また Version 7 Unix や UNIX System V の特徴を持つオペレーティングシステムは「伝統的なUNIX」(traditional Unix)とも呼ばれる。 2007年に、「UNIX」の商標の所有者である標準化団体のThe Open Groupは、Single UNIX Specificationを完全に満たすと認証を受けたシステムのみが「UNIX」の商標を得られるとした。このためそれ以外のシステムは(ずっと以前から、AT&T版およびBSD以外を指して使われていた用語だが)「Unixシステムライク」または「Unixライク(Unix系)」と呼ばれるようになった。ただし The Open Groupはその呼称を気に入っていない。 現在では多く使われているUnixとしてはmacOS、AIX、HP-UX、Solarisなどがある(いずれも商用)。また認証を受けていないUnix系としてはLinux(派生OSにAndroid他)やMINIX、BSDの派生OS(FreeBSD、NetBSD、OpenBSD、DragonFly BSDなど)がある。 Unixオペレーティングシステムは、サーバやワークステーションだけでなく、携帯機器でも広く使われている。またUnix環境とクライアントサーバモデルは、個々のコンピュータによるコンピュータ処理を、コンピュータネットワークで連係されたコンピュータ処理に変革し、インターネット構築の重要な要素ともなった。 もともとUnixはベル研究所内部の開発プロジェクトであった。1973年のOSに関するシンポジウム以降、このOSはベル研究所外部にも知られるようになる。特に1980年代には、教育機関等でUnixが広がり、ユーザーが自前のツールをその上で作り、それを同僚などと共有する形が定着した。
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もともとUnixはベル研究所内部の開発プロジェクトであった。1973年のOSに関するシンポジウム以降、このOSはベル研究所外部にも知られるようになる。特に1980年代には、教育機関等でUnixが広がり、ユーザーが自前のツールをその上で作り、それを同僚などと共有する形が定着した。 Unixは当初は、MulticsのようなマルチタスクOSではなく、一度に一つのプログラムしか動かせないシングルタスクOSであった。当初はパイプの概念もなかった。その後の発展の中で、徐々に「パイプ」「マルチタスク」などが実装されていった。また、Unixは当初は移植性は低かったが、徐々に特定のプラットフォームへの依存性を減少させ、1978年には、PDP-11以外のプラットフォームで動作するようになった。その後移植が徐々に進み、Unixが動作するプラットフォームが増えていった。
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Multicsで用いられていたコンピュータであるGE-645は約2MBのメモリを有していたが、最初にUnixが動作したコンピュータであるPDP-7は約16KBのメモリしか有していなかった。このため、Unixの実装にあたっては、メモリ上に載せられる機能は制限され、当初Multicsで予定されていた多くの機能を諦めざるをえなかった。また、メモリ上でUnixのカーネルが占める領域を除くと、各種のユーティリティやアプリケーションが使えるメモリは数KBしか残っていなかった。このため、高機能でサイズの大きいアプリケーションを動かすことは不可能であり、単機能で小さいアプリケーションを作成し、それらを順につないでいく方法をとらざるをえなかった。 このような、簡単なプログラムをコマンドラインインタプリタのパイプ等を使ってつないでいくという方法は、単一の多機能プログラムで同等機能を実装するのとは逆の発想である。これらのコンセプトはUNIX哲学という言葉で表現されることがある。しかしながら、Unixの開発者であるトンプソンやリッチーは、Unixの開発にあたって何らかの「哲学」や「開発理念」があったとは語っていない。むしろ、理念が先にあったのではなく、メモリ制約等の現実的問題があり、それに適合するために、そのような方法にならざるをえなかったという側面が強い。 また、商用Unixの中には、単一で多機能なアプリケーションも見られ、"Unix哲学"が一貫してUnixに関するすべての関係者で共有・実現されていたわけでもない。 その後、メモリの低価格化・大容量化によって、Unixは多くの機能を実現することが可能となった。今日のUnixは移植性、マルチタスク、タイムシェアリング方式によるマルチユーザなどを重視して設計されている。Unixでは、「オペレーティングシステム」は主となる制御プログラムであるカーネルと、多数のユーティリティより構成される。カーネルは、プログラムの開始や停止、ファイルシステムの取り扱い、他の多くのプログラムが共用する共通的な「低レベル」のタスク、そして重要なスケジューリングなどのサービスを提供する。これらのアクセスを調停するために、カーネルはシステムへの特権を持ち、システムは「ユーザー領域」と「カーネル領域」に分けられる。
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カーネルの肥大化の潮流を逆転させ、より少ないユーティリティで最大のタスクを実行できるシステムに戻る目的で、マイクロカーネルのコンセプトが登場した。またコンピュータが1つのハードディスクと入出力用の端末から構成されていた時代には、Unixのファイルモデル(ストリーミングデータ)は最適な入出力として働いた。しかし現代のシステムではネットワークや新しい装置が求められ、グラフィカルユーザインタフェースが開発され、ファイルモデルはマウスなどが発生させる非同期イベントの取り扱いのタスクには不適当と判明し、1980年代には非同期入出力やIPCのメカニズムに加えて、ソケット、共有メモリ、メッセージキュー、セマフォなどが追加された。また通信プロトコルなどの機能はカーネルの外に移動した。 Unixは現在では、サーバやパーソナルコンピュータの一部に加え、携帯電話などの組み込みシステムから、メインフレームやスーパーコンピュータなどの一部にも使われている。 Unixの歴史は、1960年代中ごろに、マサチューセッツ工科大学 (MIT)、ベル研究所、General Electric (GE) がGEのメインフレームコンピュータGE-645用にMulticsと呼ばれるタイムシェアリングオペレーティングシステムを共同開発していたことにさかのぼる。Multicsは多くの革新的技術を導入したが、同時に、多くの問題を抱えてもいた。Multics の目指すものに賛同しても、巨大で複雑なものになっていくことに嫌気がさしたベル研究所は、プロジェクトから徐々に距離をおくようになった。 最後までMulticsに関与していたケン・トンプソン等はファイルシステムを担当していたが、設計が行われただけで実装されていない段階であった。トンプソン等は、実際にファイルシステムを実装してみたいと考えた。この作業は、当時ベル研究所内に使われない状態でおいてあったPDP-7を借りて行われた。ファイルシステムが完成すると、それを活用するためのユーティリティを作成していった。こうして、おおむねOSの機能を有するものができあがった。この時点では、OSの開発はベル研究所に認知されたものではなく、彼らの私的な活動であった。研究所からの資金提供はなく、OSには名前も付けられていなかった。
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できあがったOSは、MulticsのようなマルチタスクOSではなく、後のMS-DOSのような、一度に一つのプログラムしか動かせないシングルタスクのOSであった。この特徴から、新しいOSは、ブライアン・カーニハンによって、MulticsのMulti(多数の)をUni(単一の)に変えてUnicsと名付けられた。後につづりがUnixと変更された。このつづりの変更の経緯について、カーニハンは「思い出せない」と言っているが、当時の開発グループ内では比較的年長者であったピーター・ノイマンは「法務上の理由であろう」と語っている。 PDP-7は古いマシンであり問題が多かった。このため、開発グループでは、当時の最新機種であったPDP-11を購入し、その上でUnixが動作するようになった。1971年のUnixバージョン1はPDP-11/20上で動作した。バージョン3までのUnixはアセンブリ言語で開発された。1973年に公開されたバージョン4において、UnixはC言語で書き直された。この時点でのUnixはPDP-11に依存したコードが多く含まれており、移植性は低かった。UnixがPDP-11以外のコンピュータに移植されるまでには5年間を要し、1978年に、Interdata 8/32上で動作するようになった。 ベル研究所ではその後もUnixの改良が続けられ、パイプやマルチタスクなどの機能が追加されていった。これらの、ベル研究所で開発された初期のUnixは、現在ではResearch Unixと呼ばれている。 1970年代末から1980年代初頭にかけて、Unixは学術分野だけではなく産業分野でも使われるようになっていき、HP-UX, SunOS/Solaris, AIX, Xenix等のOSが作られた。 1980年代の末には、AT&T Unixシステムズ・ラボラトリーズとサン・マイクロシステムズが共同でUNIX System V Release 4 (SVR4) を開発した。これは、後の多くの商用Unixの母体となった。
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1990年代には、BSDやLinuxといったUnixあるいはUnix系OSが、コンピュータ・ネットワークを通じて世界中の開発者の協力を得て開発され、人気を得ることになった。2000年には、AppleがUnixに基づいてDarwinというコアに基づくMac OS Xを開発した。 今日、Unixはサーバ、ワークステーション、モバイル機器などで広く使われている。 1980年代後半から始まったオペレーティングシステム標準化の動きはPOSIXとなって結実し、あらゆるオペレーティングシステムの共通のベースラインとなっている。IEEEは主要なUnixシステムに共通する構造からPOSIXを作り、1988年に最初のPOSIX標準を公表した。1990年代初め、よく似た標準化が業界団体Common Open Software Environment (COSE) イニシアティブによって開始され、The Open Groupの管理するSingle UNIX Specificationとなった。1998年、POSIXとSingle UNIX Specificationの共通定義を提供するため、IEEEとThe Open GroupはAustin Groupを立ち上げた。 1999年、互換性を達成するため、いくつかのUnixシステムベンダーはSVR4のExecutable and Linkable Format (ELF) をオブジェクトファイルおよび実行ファイルの標準規格とすることに合意した。これによって、同一CPUアーキテクチャでの各種Unixシステムでバイナリ互換性の大部分が確保されることになった。 Unix系オペレーティングシステム(特にLinux)におけるディレクトリ構成の標準としてはFilesystem Hierarchy Standardがある。 Unixシステムは複数のコンポーネントから成っている。カーネルに加えて、開発環境、ライブラリ群、文書、ソースコードなどが含まれる。Unixは自己完結的ソフトウェアシステムだった。そのため重要な学習ツールとして頭角を現し、幅広い影響を及ぼすことになった。
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Unixシステムは複数のコンポーネントから成っている。カーネルに加えて、開発環境、ライブラリ群、文書、ソースコードなどが含まれる。Unixは自己完結的ソフトウェアシステムだった。そのため重要な学習ツールとして頭角を現し、幅広い影響を及ぼすことになった。 各種コンポーネントを含めても初期のシステムは大きくはなかった。V7 UNIXの場合、全バイナリと全ソースにマニュアルなどの文書を含めても10MB以下であり、9トラックの磁気テープ一本で事足りた。文書を印刷したものも2巻にまとまっていた。 Unixコンポーネントの名前やファイルシステム上の位置は歴史と共に変化している。それでもV7の実装は多くの場合初期の正規な構造と見なされている。 Unixシステムは他のオペレーティングシステムに大きな影響を及ぼした。成功の要因は以下の通りである。 初期の実装では必須とされていたアセンブリ言語ではなく高水準言語で書かれている。先例として Multics や バロース B5000 があるが、このアイデアを一般化したのはUnixである。 当時の他のOSに比べて大幅に単純化したファイルモデルを採用しており、あらゆるファイルを単純なバイト列として扱っている。ファイルシステムの階層にサービスやデバイス(プリンター、端末、ディスクドライブなど)が含まれており、一様なインタフェースを提供しているが、単純なバイトストリームモデルに適さないハードウェア機能にアクセスする場合は、ioctlとモードフラグなどの追加機構を必要とすることがある。なおPlan 9ではこのモデルをさらに推し進め、追加機構を不要にしている。
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Unixはまた、Multicsで導入された階層型ファイルシステムを一般化させた。当時の主要なOSでもストレージを複数のディレクトリやセクションに分割していたが、その階層レベルは固定で、1レベルということが多かった。いくつかの主要OSもMulticsにならってサブディレクトリを再帰的に追加する機能を備えるようになった。DECのRSX-11Mは "group, user" 型階層を採用し、それがVMSのディレクトリに進化した。CP/Mではボリューム単位であってディレクトリ階層がなかったが、MS-DOS 2.0 以降でサブディレクトリが利用可能となった。HPのMPEにおける group.account 型階層や、IBMのSSPやOS/400のライブラリシステムもある。それらシステムがまとめられ、より広範囲なPOSIXのファイルシステム仕様となった。 Multicsはまた、コマンドラインインタプリタを通常のユーザーレベルのプログラムとし追加コマンドを個別のプログラムで提供したが、Unixがその方式を一般化させた。Unixシェルはコマンドの対話的使用にもスクリプト言語としても使える(シェルスクリプト。IBMのJCLのようなジョブ制御専用言語は存在しない)。シェルもOSコマンド群もそれぞれ独立したプログラムなので、ユーザーはシェルを選べるし、自分で書くこともできる。新たなコマンドを追加してもシェルを修正する必要はない。また、Unixの独創的なコマンドライン構文により、パイプでコマンド同士を連結して使用することが可能となった。後のコマンドラインインタプリタの多くはUnixシェルに触発されている。
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Unixの根本的な単純化想定は、ほぼあらゆるファイルフォーマットに改行コードで分割されたASCIIテキストを採用した点である。初期のUnixにはバイナリエディタはなく、システムの設定は全てシェルスクリプトというテキストファイルで行われていた。入出力もバイト単位が基本であり、Record-oriented filesystemとは異なる。ほとんどあらゆるものをテキストで表したことでパイプの有効性が高まり、単純で汎用的なツール群を開発するだけで、それらを連結して複雑な処理が可能となった。テキストとバイトに集中したことで、他のシステムよりもスケーラビリティと移植性が遥かに向上した。その後、テキストに基づくインタフェースは様々に応用可能と判明し、印刷言語(PostScriptやODF)やインターネット・プロトコル・スイート上のアプリケーション層のプロトコル(FTP、SMTP、HTTP、SOAP、SIPなど)に採用されている。 Unixは正規表現を一般化させるのにも一役買っており、今では様々な場面で正規表現が見られる。 C言語はUnix以上に広がり、今ではシステムプログラミングやアプリケーションプログラミングで広く使われている。 初期のUnix開発者らは、モジュール性と再利用性の概念をソフトウェア工学に導入する重要な役目を果たし、「ソフトウェアツール」という考え方を生み出すことになった。 Unixは比較的安価なコンピュータにTCP/IPプロトコルをもたらし、それがインターネットの爆発的な広がりに貢献するとともに、他のプラットフォームへのTCP/IP実装の手本となった。これによりネットワークの実装における多数のセキュリティホールが明らかとなった。 当初からUnixがオンライン文書を揃え、ソースコードへのアクセスを可能にしていたことは、プログラマの期待を高めることにつながり、1983年のフリーソフトウェア運動立ち上げに貢献した。 Unixの主要な開発者ら(およびUnix上で開発されたプログラム群)は、ソフトウェア開発の文化的規範を徐々に確立していき、その規範群がUnixのテクノロジー自体と同じくらい重要で有力なものとなっていった。それをUNIX哲学と呼ぶ。
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Unixの主要な開発者ら(およびUnix上で開発されたプログラム群)は、ソフトウェア開発の文化的規範を徐々に確立していき、その規範群がUnixのテクノロジー自体と同じくらい重要で有力なものとなっていった。それをUNIX哲学と呼ぶ。 UNIXが商用の「閉じた」OSとなっていく中で、現在につながるフリーソフトウェア/オープンソースのムーブメントが勃興し、UNIX同様の操作性と機能を提供するフリーなOSが生み出された。 多くのUNIX系OSがオープンソースで開発されているが、以下に挙げるOSは、ライセンスなどの問題からUNIXとは公称しない。 1983年にリチャード・ストールマンはフリーソフトウェア財団 (Free Software Foundation; FSF) を設立し、GNU (Gnu's Not Unix) プロジェクトを開始した。このプロジェクトの目的は、再配布自由・改変自由なUNIXクローンのOSを作成することであった。このプロジェクトにより、多くのUNIXシステム上で動作するソフトウェア、例えばEmacsやGCC等が作成され、これらソフトウェアは多くのUNIXシステムで使用されるようになった。しかしながら、OSの中核をなす "Hurd" の完成に手間取った(Hurdは現在も開発中)。 1991年にリーナス・トーバルズがLinuxカーネルを開発した。Linuxカーネルの特徴として、POSIXに準拠するように設計されたこと、GNUプロジェクトによって開発された様々なツールが動作するように作成されたこと、またライセンスにGPLが採用されたこと等が挙げられる。その結果、GNUプロジェクトの開発したソフトウェア等と共に、完全フリーのUNIXクローンとして利用されるようになった。有名な商用ディストリビューションとしてかつてRed Hat Linuxが存在し、現在ではRed Hat Enterprise LinuxやSUSE Linux等がある。
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なおLinuxという名称は本来カーネルのみの名称にすぎず、OSとして完成させるための他のシステムの多くはGNUプロジェクトの産物である。そのためFSF側ではOSとしての名称は「GNU/Linux」とすべきだと主張しており、この名称を採用した最も有名かつ完全にフリーなディストリビューションのひとつとして「Debian GNU/Linux」、およびそこから派生した「Ubuntu」などがある。ただし、そのようなディストリビューションの多くは、FSF の唱えるフリーソフトウェアの精神と相容れない仕様を含むものが多いため、FSF からは「不自由」なディストリビューションと見なされている。 Linuxカーネルを利用した派生OSにAndroid他がある。 4.3BSD Network Release 2 (Net/2) に起源を持つのがFreeBSD・NetBSD・OpenBSD・DragonFly BSD・TrueOSのいわゆるBSD系Unixである。FreeBSDは安定性重視、NetBSDは新機能対応と移植性に優れ、OpenBSDはセキュリティを重視し、DragonFly BSDはマルチCPU構成での高性能という特徴を有し、TrueOSはカジュアルユーザにおいて簡単に導入して使えることを目指しており、特にFreeBSDはウェブ・ホスティングなどで標準的に使用されている。 USLとの和解以降これらBSD系UNIXはライセンス問題を排除した4.4BSD-Lite2をベースに移行し、いずれもフリーなOSとなっている。 オープンソース系BSDをベースとした商用OSとしてはAppleの「macOS」が知られており、中核部分を「Darwin」としてソース公開している。 Unixでは、システム時刻の値を1970年1月1日の午前0時0分0秒からの秒数で表しており、これをUNIX時間と呼ぶ。この値のデータ型は time_t で、歴史的に「符号つき long」と定義されている。32ビットのシステムでは、2038年1月19日にこの値が1個の0に31個の1が続く最大値 (0x7FFFFFFF) となり、1秒後には1個の1と31個の0が続く値 (0x80000000) となる。するとシステム時刻は、実装によって(符号ビットを無視するか否かによって)1901年または1970年にリセットされる。
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UNIX
1970年より前の時刻をUNIX時間で表すことは滅多にないため、time_t を符号なし32ビット整数と定義し直すという対策が考えられる。しかし、それでは単に問題を2106年2月7日に遅延させるだけであり、時刻の差を計算するソフトウェアでバグを生じる可能性がある。 この問題に対処しているバージョンもある。例えば、SolarisやLinuxの64ビット版では、time_t は64ビットとなっており、OS自身も64ビットのアプリケーション群も約2920億年間正しく動作する。64ビット版Solarisで既存の32ビットアプリケーションを動作させることもできるが、その場合は問題が残ったままである。一部ベンダーは標準の time_t はそのままにして、64ビットの代替データ型とそれを使用するAPIを別途用意している。NetBSDでは、次のメジャーバージョンである 6.x で32ビット版でも time_t を64ビットに拡張することを決定した。従来の32ビットの time_t を使用しているアプリケーションは、バイナリ互換性レイヤーを作って対応する。 1975年5月、DARPAは、ARPANETで使用するOSとしてなぜUnixが選ばれたのかを詳細に説明するRFC 681を文書化している。評価過程も文書化されている。当時のUnixのライセンス料は教育機関以外には2万ドル、教育機関には150ドルとなっていた。ARPAネットワーク全体でライセンス供与を受けるという提案に対して、ベル研究所はそういった示唆についてオープンだったと記されている。 その中で特に長所とされたのは、以下の点である。 1993年10月、Unix System Vのソースについての権利を保有していたノベルは、登録商標の権利をX/Open(現在のThe Open Group)に移管し、1995年にはUNIX関連事業をSCOに売却した。ノベルが実際のソフトウェアの著作権もSCOに売却したのかについては2006年に裁判となり、最終的にノベルが勝利した。SCO側は控訴したが、2011年8月30日に裁判所が棄却したため、裁判は終結した。
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UNIX
アメリカなどで、登録商標としてのUNIXはThe Open Group が保有している。現在、日本における「UNIX」という商標は複数の区分で登録されており、電子計算機関連においてアメリカン テレフォン アンド テレグラム カムパニーやエックス/オープン・カンパニー・リミテッドの登録もある。 日本では、日本マランツ(現在は合併してディーアンドエムホールディングス)が、電気機器分野でUNIXという名前で先行して商標登録を行なっていたため、UNIXという商標の権利関係がはっきりしていなかったことがあった。このことから、書籍などでの商品名などの登録商標についての断り書き一覧などで「UNIXオペレーティングシステムは,AT&Tのベル研究所が開発し,AT&Tがライセンスしています.」(『Life with UNIX』邦訳版での例)などのように書かれたことがあった。現在も日本マランツは音響機器用に「unix」を使用している。他の国でも同様に分野を限定して同じ商標を別の意味で登録することができ、本棚、インクペン、瓶詰めの膠(にかわ)、おむつ、ヘアドライヤー、食品コンテナなどで登録された例がある。 Single UNIX Specificationに完全に準拠しているとThe Open Groupに認められたシステムだけがUNIXを名乗ることができる。そのため認証を受けていないシステムは「Unix系」と呼ばれる。 The Open Groupは "UNIX" を特定のOS実装ではなく、OSのクラスを指すものと定義している。すなわち、Single UNIX Specificationに準拠しているとThe Open Groupに認められたシステムのみがUNIX 98やUNIX 03といった登録商標を付けることを許されており、そのためにベンダーは認証料と毎年のロイヤルティを支払わなければならない。認証を受けたOSとしては、AIX、HP-UX、IRIX、Solaris、Tru64(かつての "Digital UNIX")、A/UX、macOS、z/OSの一部などがある。
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UNIX
認証を受けていないシステムを表すため、(また、ジャーゴンファイルのUN*Xの項目によれば、商標であることを標示するための「」を避けるために)、「UN*X」のようにグロブ記法を使って表記されることがある。ジャーゴンファイルの記述によれば、法的にはUNIXと書いてもを付けることは強制されないのだが、この記法は広く使われてしまっている(ジャーゴンファイル訳本の『ハッカーズ大辞典』初版にある「逆にアスタリスクを使うと権利侵害になるらしい」という記述は誤訳なので注意)。 The Open Groupは商標の普通名称化を防ぐため、UNIX という語には常に「システム」などの語をつけて使って欲しいとしている。 本来の形は "Unix" なのだが、Unix という形もよく使われている。これについてデニス・リッチーは、Association for Computing Machinery (ACM) の開催した第3回OSシンポジウムにUnixの論文を送る際「troffと新たな組版システムを開発したばかりでスモールキャピタルを印字できることに興奮して、それを使ってしまったため」だとしている。当時の多くのOSは大文字のみで名称を記述するのが一般的だったため、多くの人は習慣的に大文字のみで "UNIX" と記述した。 UnixやUnix系の複数のブランドを総称するため、Unixの複数形が時折使われることがある。最も一般的な複数形は Unixes だが、Unixをラテン語の名詞の第3格変化として扱い複数形を Unices とする例もよく見られる。古英語的に Unixen とする例はまれだが、ときおり見かける。 OSではないが、UNIXに相当する環境を提供するソフトウェア。
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Clean
■カテゴリ / ■テンプレート Clean(クリーン)は、プログラミング言語の一つで、純粋関数型言語である。Haskell とよく似ている。 一意型(英語版)により、参照透過性を保ちつつ、ファイルの破壊的な更新などができる。これは、参照透過性を保つためには値を複製した上で結果として返す必要があるが、その後複製元を二度と使用しない(参照しない)ことが保証できるのであれば、わざわざ複製せずとも直接破壊的に値を更新しても構わない、という考え方に基づく。例えば、変数aに1を加算するには のようにして、以降a2を使用する。もし今後もa = 1という前提で使用するならばこの方法しかないが、そうでなければaは無駄になる。しかし、プログラマはa = 1を二度と使用しないとわかっていても処理系にはわからない。それを処理系に知らせる手段が一意型(一意性型属性)である。処理系がa = 1という定義を二度と使用しないとわかりさえすればa2は不要となり、aを破壊的に更新していけばよい。無論a = 1であることを期待してaを使用すると期待通りに動かなくなるが、それは最初に処理系と交わした約束を破ったということにほかならず、コンパイラの型推論システムはaを一意型に型付けしない。つまり、aの管理はコンパイラの型推論システムが責任を持って行うことになる。
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コンシューマーゲーム
コンシューマーゲーム(英:console game)とは、市販されている家庭用ゲーム機でのプレイを前提として作られるコンピュータゲームを指す用語。「家庭用ゲーム」とも呼ばれる。 コンシューマーゲーム、およびコンシューマーゲーム機とは、消費者(コンシューマー)である個人や一般家庭が直接購入(BtoC)するという意味で名付けられた和製英語で、英語ではそれぞれ「コンソールゲーム(en:console game)」「ゲームコンソール(en:video game console)」と呼ばれる。据え置き型のテレビ接続型ゲーム専用機(テレビゲーム)だけを指す言葉として用いられる場合もあるが、携帯型ゲームも含む場合も多い。企業が購入し運営する形態(BtoB)のアーケードゲーム(業務用向けゲーム)は含まれない。 日本では家庭用ゲーム機市場がパソコンゲーム市場を大きく上回り、アーケードメインの企業からみてコンシューマーからパソコン市場が外れ、1988年設立のコンシューマ・ソフト・グループが業界と消費者向けの新作ゲームのプロモーション展示会を開催したことで若い一般プレイヤーにも存在が知られ、団体名のコンシューマソフトが家庭用ゲーム機向けソフトの意味で広まった。 携帯型ゲーム機のゲームボーイが登場すると「家庭用」という言葉がいまひとつ当てはまらず、電子ゲームというとゲーム&ウオッチとの性能差が大きくいためこれも合わず、同じく携帯型のゲームギアは家庭用に該当し得るため細分化した結果、ゲーム機が携帯型と据置型とで区別されるようになったが、据置型は後から命名されたレトロニムと感じられたとみられ、プレイヤーの多くは家庭用を据置型の意味で使った。そして1990年代から携帯型と据置型、個人と家庭向けをまとめて表す「コンシューマー」が使われるようになった。英語のコンソールゲームと同じ意味で単にコンソールの言葉が広まったのは1990年代後半以降にインターネットが普及し始めてからで、オンラインゲームの人気やXboxなど新しい据置型ゲーム機が登場したことで日本国外のゲーム情報も広まるようになったからであったとみられている。2006年に任天堂が過去のハードで発売されたゲームを配信するバーチャルコンソールが登場したことでマニア以外にも個人、家庭用向けゲーム機をコンソールと呼ぶことが広まった。
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コンシューマーゲーム
以上の挙げた言葉はいずれも何かしら難点があり何でも使えるとはいえず、家庭用ゲーム機は携帯型も含むかどうかで注釈が必要で混同すると考えられ、コンシューマーは単にConsumerと訳すと意味が通じず、Consumer Gameでも別の意味にとれる、コンソールはゲームや英語もよく知らない人には意味が分かり難いのである。 1972年のマグナボックスによる「オデッセイ」が、世界初の「コンシューマーゲーム機」スタイルの市販製品とされている。この当時はゲームソフトをハードウェアに内蔵した機種しかなく、1つのゲーム機では内蔵されたゲームしかプレイできなかった。しかし、アタリの「Atari 2600」に代表されるゲーム機とゲームソフトを物理的に分離し、ゲームソフトをロムカセットで供給することが可能になると、1つの機種でもロムカセットを交換すれば別のゲームをプレイできるゲーム機が登場した。これが大ヒットしたことによりゲームソフトの販売市場が形成され、ゲーム機は爆発的に普及することとなった。 日本では1983年の任天堂による「ファミリーコンピュータ」の影響が大きく、その後も「ゲームボーイ」「スーパーファミコン」と海外でも大成功を収めた。また、コンソールゲームのビジネスモデルも変化し、マルチプラットフォーム化やプラットフォームの枠を越えたクロスプレイも増えた。 ドリームキャストのインターネット(ウェブブラウザ)やPlayStation 2のDVD-Video再生機能が付いていたことをはじめ、デジタルカメラの画像表示などのAV機能を搭載するようになった。ハードディスク搭載DVDレコーダーとしての機能を持つPSXのように、家電製品の色彩を帯びた製品も珍しくなくなった。また、家庭用ゲームはゲーム専用機と呼ばれることもあるが「優れたUIを持つ多機能な総合的なエンタテインメント機器」としても提唱された。欧米ではHuluやNetflixなどセットトップボックスやスマートテレビとして利用された。 主な日本国内で見るゲームソフトの供給媒体と対応ゲーム機としては、以下の通りである。 インターネットインフラの発達に伴い、ダウンロードコンテンツやダウンロード販売、クラウドゲーミングで提供されるストリーミングもある。
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コンシューマーゲーム
主な日本国内で見るゲームソフトの供給媒体と対応ゲーム機としては、以下の通りである。 インターネットインフラの発達に伴い、ダウンロードコンテンツやダウンロード販売、クラウドゲーミングで提供されるストリーミングもある。 広義においては、家電製品でもある。ゲームを含む家電製品のカテゴリーとして、娯楽家電(情報娯楽家電ないしデジタル家庭電化製品とも)という分野がある。電気(→電力)を消費して娯楽を提供する装置であり、家庭内にあるために電気保安上の制約として電気用品安全法の適用対象となっているが、2006年4月からはPSEマークのないものを発売できないという規制が、段階を追って発効されている。
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Classic Mac OS
Classic Mac OS(クラシック マック オーエス)、Mac OS(マック オーエス)、System(システム)は、Appleが開発・販売していたオペレーティングシステム (OS)。1984年、Macintoshと共に登場し、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) の普及に大きく貢献した。 元々はSystem、Mac OSと称されてきたが、Appleは、Mac OS 9までをClassic Mac OSと総称している。なお、現行のmacOS (OS X, Mac OS X) はClassic Mac OSを基盤としたものではなく、NEXTSTEPの技術を基にしている。 当初のMacintoshは、ハードウェアの一部として提供されるToolbox ROM(現在は通常OSで提供される高レベルなAPIを含む)とOSとが、一体化したシステムソフトウェアとして扱われ、Systemと呼んでいた。 Macintosh互換機の登場によりApple自身もMac OSという呼称を使うようになり、System 7.5.1からは起動画面で Mac OSロゴが表示されるようになった。Mac OSという呼び名が通称から正式なものになったのは、1997年1月、Mac OS 7.6がリリースされた時である。互換機の普及とともに、MacintoshのハードウェアとOSを明確に区分する必要が生じたことによる。その後Appleの方針転換により互換機は市場から姿を消したが、Mac OSという名前はその後のAppleのOS製品に引き継がれている。1998年に発売されたiMac以降のMacintoshでは、Toolbox ROMの内容の大半がMac OS側に移されたNew World ROMマシンとなって、ほぼハードウェアから独立したOSとなった。
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Classic Mac OS
ビットマップディスプレイとマウスの利用を前提としていること、オーバーラップするマルチウインドウやメニュー操作、マルチスタイルフォントに代表される WYSIWYG 表示など、ゼロックスで1970年代に研究開発されていた暫定Dynabook環境(SmalltalkをOSとして動作するAlto)の多くを盗んだが、Altoでは3つあったマウスボタンをMacintoshでは1つに限って、操作体系を分かりやすく構築し直した。ファイルシステムやドラッグ・アンド・ドロップのファイル操作、国際化に必要な情報を保存するためのリソースとコードの分離、ファイルとアプリケーションソフトウェア(アプリケーション)との関連付け、データ形式に依存しないクリップボード、プルダウンメニューやゴミ箱を発明するなど、今日でも使われている多くの独自のアレンジを加えることで使い勝手を向上させた。暫定Dynabook環境では部分的に隠れたウインドウの再描画もできなかったが、QuickDrawの実装により、これを実現させた。こうした改良により、GUIというものをコンピュータの世界に広く浸透させた。 Macintoshに追随してマウスが付き始めた他のパーソナルコンピュータでは、アプリケーションごとにGUIのデザインの統一性が全くない時代が長く続いた。これは統一されたインフラストラクチャが存在しなかったことによる点が大きい。一方、Macintosh はインフラの提供にとどまらず、「作法」とでも言うべきヒューマン・インタフェース・ガイドライン(英語版)を定めることで、ひとつのソフトが使えれば、他のソフトも使えるというコンピュータ利用の形態を、パーソナルコンピュータで実現したさきがけとなった。 Mac OSは組版・デザイン・写真・イラストレーションといった分野で好んで利用された。これは、PC/AT互換機では多色高解像度へ満足のいく対応が行われた時期が遅く、それまではMacintoshが事実上唯一の存在であったことが最大の理由である。また、色調管理など多色画像処理に必須とされている機能にも早くから対応しており、完成度の高い WYSIWYG を当初から実現していたことも大きい。
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Classic Mac OS
Mac OSは組版・デザイン・写真・イラストレーションといった分野で好んで利用された。これは、PC/AT互換機では多色高解像度へ満足のいく対応が行われた時期が遅く、それまではMacintoshが事実上唯一の存在であったことが最大の理由である。また、色調管理など多色画像処理に必須とされている機能にも早くから対応しており、完成度の高い WYSIWYG を当初から実現していたことも大きい。 さらにDTPのジャンルに特化したソフトが早くから多く開発・販売されたことが、印刷・出版業界におけるMacの普及に大きく貢献した。アドビシステムズからはPhotoshopやIllustrator、アルダスからはAldus PageMaker(のちにアルダスごとアドビシステムズが買収)、Quark社からはQuarkXPressといった、業務用ソフトウェアがそろっていた。 画像処理を得意とする理由としては、Lisaのためにビル・アトキンソンが中心となって開発したグラフィックルーチンLisaGrafがMacintoshに移植され、 QuickDrawとして初めの機種からROMの状態で搭載された点が大きい。また当初よりある程度先を見て広いメモリ空間を確保しており、いわゆる「640KBの壁」に悩まされていたMS-DOS系システムに比べて大きな画像を扱いやすかったという要素も挙げられる。グラフィックルーチンはMac OS XからPDFをベースとしたQuartzに替わったが、互換性を考慮してMac OS X v10.3まではQuickDraw関連の開発が続行され、Mac OS X v10.4で非推奨となった。 また、サウンド関連の機能が比較的充実していたこともあり(Sound Managerによるところも大きい)、Cubase、Logic Studio、Vision、Digital Performer、Pro Toolsなどのさまざまなソフトや周辺機器(Apple自身も MIDIインタフェースを発売)が発売され、プロのミュージシャンに盛んに利用された。ヤマハやローランドも初心者向けパッケージを発売し、アマチュアの愛用者も多かった。
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Classic Mac OS
デスクアクセサリ (Desk Accessory, DA) は、Systemと呼ばれていた頃のMac OSにおいて、使用中のアプリケーションとは別に起動しておける小物的なアプリケーションのことである。 初期のMacintoshはシングルタスクであったため、別のアプリケーションを使用するには一旦終了させなければならない。これは、搭載していたメモリが少なかったことに起因する。 デスクアクセサリは起動と終了の手間を省くための手段として用意された。わずかなメモリしか使わないため、使用中のアプリケーションとは別に起動しておくことができ、このころのMacintoshには欠かせないものだった。サードパーティーからは小物の位置づけであるにもかかわらず多機能なデスクアクセサリが多数開発された。Mac OSにあらかじめ搭載されていたデスクアクセサリもある。Mac OS 9まで残された「計算機」や「スクラップブック」がそうである。 デスクアクセサリを使用するためには、まず「Font/DA Mover」と呼ばれるユーティリティソフトウェアでシステムにインストールする。インストールしたデスクアクセサリはAppleメニューから起動できるようになる。 System 7でMacが疑似マルチタスクになるとデスクアクセサリは単なる一アプリケーションとなり、Font/DA Moverも姿を消した。Appleメニューはアプリケーションやファイルを起動するためのランチャーとなった。Mac OS 9まではデスクアクセサリのランチャーであったことの名残だということがうかがえる。 ジェフ・ラスキンは1978年後半に普通の一般人をターゲットにした使いやすくて安いコンピュータを目標にMacintoshプロジェクトを立ち上げた。ラスキンは1979年9月にプロトタイプを開発できるエンジニアを探した。リサのチームに所属していたビル・アトキンソンは、その年の上旬に入社していたサービス技術者のバレル・スミスを紹介した。
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Classic Mac OS
ジェフ・ラスキンは1978年後半に普通の一般人をターゲットにした使いやすくて安いコンピュータを目標にMacintoshプロジェクトを立ち上げた。ラスキンは1979年9月にプロトタイプを開発できるエンジニアを探した。リサのチームに所属していたビル・アトキンソンは、その年の上旬に入社していたサービス技術者のバレル・スミスを紹介した。 AppleはMacintoshのコンセプトとして、ユーザーがオペレーティングシステムの存在をなるべく意識しなくても済むことを目指していた。他のOSではOSに対する知識がなければできないような基本的なタスクを、Macintoshではマウスとアイコンの操作により実現できた。MS-DOSなどの当時のOSはテキスト入力形式のコマンドラインインターフェイスを採用しており、これとは一線を画していた。 1981年1月にスティーブジョブズがMachintoshプロジェクトを引き継いだ。LisaとMachintoshのプロジェクトが始まってから3か月後の1979年12月に、ジョブズとAppleのエンジニアたちはXeroxのパロアルト研究所を訪問した。パロアルト研究所で斬新なGUI技術を開発しているとの話をラスキンらパロアルト研究所の元研究者たちから聞いたジョブズは、Appleの株を提供する見返りとして、Xerox Altoの実物と、Smalltalkの開発環境を視察する約束を取り付けた。商品化されたLisaやMacintoshはXerox Altoのコンセプトをベースにしているが、メニューバー、プルダウンメニュー、ドラッグアンドドロップ、ドラッグによるウィンドウサイズ変更などの直感的な操作など、グラフィカルユーザーインターフェイスの要素の大半はAppleが独自に開発した。
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Classic Mac OS
IBM PCには起動テスト (POST) や基本入出力システム (BIOS) のために8KBのROMが搭載されていたが、MacのROMは64KBとかなり大きく、OSのコアとなるコードを格納していた。オリジナルのMac ROMの大半は、Machintosh開発初期メンバーの1人であるアンディ・ハーツフェルドが開発した。天才的なプログラミングのトリックとハッキングにより最適化されたプログラムをアセンブリ言語で記述し、貴重なROMスペースを節約した。彼はROM以外にも、カーネル、 Macintosh Toolbox、複数のデスクトップアクセサリ (DA) も開発した。フォルダやアプリケーションのアイコンは、後にマイクロソフトでWindows 3.0のアイコンをデザインしたスーザン・ケアがデザインした。ブルース・ホーンとスティーブ・キャップスはMacintosh Finderの他にも、たくさんのMacintoshシステムユーティリティを開発した。 Appleはこのマシンを積極的に売り込んだ。発売されるとニューズウィーク誌の1984年11月/12月号で39ページ全ての広告スペースを買い切った。洗練されているが高額な前期種のLisaを売り上げですぐに超えた。AppleはすぐにMacWorksを開発した。これはLisa用のMacintoshエミュレーターで、Macintosh XLとして販売されて開発が終了するまでにSystem 3までのアプリケーションを使用できた。LisaのOSに含まれていた先進的な機能の多くはMachintoshのOSがSystem 7になるまで実現されなかった。 Mac OSの初期バージョンは、モトローラ68000系のMacintoshでのみ動作した。AppleはPowerPCハードウェアを搭載したコンピュータを開発し、OSもPowerPCに移植された。Mac OS 8.1は68000プロセッサ (68040) で動作する最後のバージョンだった。
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Classic Mac OS
Mac OSの初期バージョンは、モトローラ68000系のMacintoshでのみ動作した。AppleはPowerPCハードウェアを搭載したコンピュータを開発し、OSもPowerPCに移植された。Mac OS 8.1は68000プロセッサ (68040) で動作する最後のバージョンだった。 PowerPC G3ベースのシステムより前は、システムのコア部分がマザーボード上の物理ROMに格納されていた。初代Machintoshに搭載されていたRAMはわずか128KBだけで、OSがこれを使い切ってしまわないようにすることがROMを実装した元々の目的だった。またテキストオンリーのコンソールやコマンドラインがなくてもグラフィカルユーザーインターフェイスだけで低レベルな操作ができるように設計されていた。ディスクドライブが見つからないなどのエラーが起動時に生じると、アイコン、ビットマップフォントのChicago、チャイム音、ビープ音などでユーザーに通知した。対照的にMS-DOS機やCP/M機では黒地の等幅フォントでメッセージが表示され、入力としてマウスではなくキーボードが求められた。このような優れた機能をハードに近い低レベルのレイヤーから利用するため、初期のMac OSはマザーボードに搭載されたROMに含まれるシステムソフトウェアに依存する形になっており、これはまたApple純正のコンピュータや、Appleの著作物であるROMを用いた正規の互換機のみでMac OSが動作することを保障するのにも役立った。 複数の互換機メーカーがMac OSを実行できるMacintosh互換機を数年にわたり開発した。1995年から1997年にAppleはMacintosh ROMをPower Computing、UMAX、モトローラなどの企業へライセンス供与した。これらのマシンでは通常はカスタム版のMac OSが動作した。スティーブ・ジョブズが1997年にAppleへ復帰すると互換ライセンスの提供は終了した。
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Classic Mac OS
複数の互換機メーカーがMac OSを実行できるMacintosh互換機を数年にわたり開発した。1995年から1997年にAppleはMacintosh ROMをPower Computing、UMAX、モトローラなどの企業へライセンス供与した。これらのマシンでは通常はカスタム版のMac OSが動作した。スティーブ・ジョブズが1997年にAppleへ復帰すると互換ライセンスの提供は終了した。 Macintosh互換機のサポートはSystem 7.5.1で最初に発表され、オリジナルの起動アイコンであるHappy MacをもとにしたMac OSのロゴが初めて使われた。Mac OS 7.6からは名称をSystemからMac OSに変更した。この名称変更はOSがApple純正のMachintosh専用ではないことを示すために実施された。 Macintoshが最初に採用したMachintosh File System (MFS) はサブフォルダのないフラットなファイルシステムだった。発売直後の1985年にはきちんとディレクトリに対応したHierarchical File System (HFS)に置き換えられた。両者には互換性があった。改良版であるHFS Plus("HFS+"または"Mac OS Extended")が1997年に発表されて1998年に提供された。 DOS、Windows、Unixなどのほとんどのファイルシステムにはフォークが1つだけしかない。一方MFSやHFSにはファイルにフォークが2つある。データフォークには、ドキュメントのテキストや画像ファイルのビットマップなど、他のファイルシステムのファイル内容にあたる情報が含まれる。リソースフォークには、メニュー定義、グラフィック、サウンド、他のシステムのファイル形式に組み込まれるコードセグメントなど、構造化されたデータが含まれる。実行可能ファイルは空のデータフォークを持つリソースのみ、データファイルはリソースフォークのないデータフォークのみとなる場合がある。ワードプロセッサのファイルは、データフォークにテキストを、リソースフォークにスタイリング情報を含めることができるため、スタイリング情報を読めないアプリケーションでもテキストデータを読むことができる。
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Classic Mac OS
一方でこのようなフォークを使った仕組みは他のOSとのデータ共有に問題が生じた。Mac OSのファイルをMacintosh以外のOSにコピーすると、デフォルトではファイルからリソースフォークが失われる。大半のデータファイルは、ウィンドウのサイズや位置など欠落しても大きな支障がない情報しかリソースフォークに保存していないが、実行ファイルはリソースフォークが失われると動作しなくなる。BinHexやMacBinaryなどのエンコード処理により、ユーザーは複数のフォークを1つのデータにしたり、逆に1つのデータから複数のフォークに展開してMac OSで使えるようにしたりできた。 1986年のMacintosh Plusの登場から、1997年にMac OSに名称変更されるまで、Systemのアプリケーション群を日本語表示に対応させ、日本語フォントや日本語入力システム(当初はFEPであり、インプットメソッドではない)を同梱するなど日本市場向けに設計されたオペレーティングシステムを漢字Talk(かんじトーク)と呼称した。 技術の進歩に伴いMac OSも様々な変化を遂げている。その系譜は概ねSystem 6までと、System 7、Mac OS 8およびMac OS 9の3つの時期に分かれる。 Appleは家電製品のようなシンプルなコンピュータを開発することを目指しており、OSとハードを明確に区別していなかった。このためOSの初期バージョンには明確な名前がなかった。ソフトウェアはユーザーから見て、システムファイルと、デスクトップの表示も担うファイル管理ツールのファインダーの2つで構成されているように見える。この2つのファイルはシステムフォルダというラベルが付いたディレクトリに入っている。このディレクトリにはプリンタドライバなどシステムの操作に必要なリソースファイルが含まれている。OSのバージョンナンバーはこれら2つのファイルのバージョンナンバーに基づいている。
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Classic Mac OS
画面は白黒ベースで基本的にシングルタスクのOSであり、QuickDrawの採用により、ハードウェアによるアクセラレーションなしでGUI OS環境を実用的な速度で動作させることができた。ファイルシステムは、初期ではMacintosh File Systemであったが、512KeやPlusに搭載された 128KBのToolbox ROMおよびSystem 3.1よりHFSを採用した。今から見れば非常に貧弱な機能しか持たないが、それでも驚くべきことに初代 MacintoshのToolbox ROMはわずか64KBにおさめられ、128KBのメインメモリ上ですべての機能が動作した(もっとも128KBでは実用上厳しいほどメモリが不足していたため、すぐに512KB モデルへのアップデートが行われた)。当時の限られたハードウェア上で動作させるため性能的には多くの制約があり、メモリを節約するために完全なシングルタスクを前提として設計されたToolbox APIは後のMac OSの発展の足枷となることになる。 これらのバージョンではデスクアクセサリーを除き1度に1つのアプリケーションしか実行できない。Multi-MacやSwitcherなどの特別なアプリケーションシェルを使えば複数のアプリを走らせることが可能だった。見た目が進化している場合はFinderのバージョンナンバーも変更されており、1.x、4.x、5.x、6.xなどのメジャーバージョンアップ時に大きな差がみられた。 Appleは1990年代後半になってこれらの古いリリースにバージョンナンバーを遡及して割り当てた。
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Classic Mac OS
Appleは1990年代後半になってこれらの古いリリースにバージョンナンバーを遡及して割り当てた。 1987年後期にAppleはApple Macintosh System Software Update 5.0のタイトルでパッケージを公開した。49ドルの価格で800KBのフロッピーディスク4枚の形態で販売され、MachintoshのOSが小売販売されたのはこの時が初めてだった。ソフトウェアはユーザーグループやネットの掲示板などでも引き続き無料で配布された。製品の箱にはバージョン 5.0と表記されていたが、このバージョンナンバーは画面のどこにも表示されなかった。4枚のディスクのうち、システムツール1、システムツール2、ユーティリティ1の3枚はいずれも起動可能で、ユーザーは使いたいツールが含まれているディスクから起動できた。例えばプリンタドライバが入っているのはシステムツール2だけであり、Disk First AidやApple HD SC Setupが入っているのはシステムツール1だけだった。これらのディスクにはシステムツールズと書かれていたことから、ユーザーやマスコミはこのバージョンをシステムツールズ5.0と呼ぶことが多かった。 System 5の最も大きな変更点は複数のプログラムを同時に実行できる機能拡張のMultiFinderを搭載したことだった。OSはノンプリエンプティブな設計だった。この設計ではフォアグラウンドアプリケーションが制御を返した時だけバックグラウンドアプリケーションが動作できた。アプリケーションはイベントを処理するためにOSの関数を呼び出しており、OSの関数が勝手に制御を返すようにすることで、既存のアプリケーションの大半は修正せずとも自動的にバックグラウンドのアプリケーションとCPU時間を共有できた。MultiFinderを使用しない選択も可能だった。この場合は複数のアプリケーションを同時に実行できなかった。1990年にInfoWorld誌が実施したテストでは、PCとMacで4つのマルチタスク処理をテストし、MultiFinderを高く評価したが、一方でSystem 6上のMultiFinderを使わないシングルタスク構成と比べてファイルの転送や印刷の速度が半分になったことを指摘した。
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Classic Mac OS
商品パッケージ名称のSystem Softwareのバージョン表記と、Systemファイルのバージョンが(日本語版は漢字Talk のバージョンも)同一になった。System 4までと同じく、画面は白黒ベースで基本的にシングルタスクのOSだが、MultiFinderが用意され、疑似マルチタスク環境が利用できるようになる。32ビットQuickDrawの登場により、24ビットフルカラーが扱えるようになる。TrueTypeが採用され、QuickTimeの登場によりマルチメディアデータを扱う環境が整う。ちなみにSystem 5というバージョンはない。これはSystem 6において、FinderとSystem自体のメジャーバージョンを統一するという方針によるものであった 。2011年にはシステムクロックの表示がリセットされてしまう。最終バージョンは、System 7リリース後に配付されたSystem 6.0.8Lである。 コードネーム:Blue, Big Bang。システム全般が大幅に改良・強化され、Macは本格的なマルチメディア時代に踏み出した。システムが32ビットクリーンになった(機能拡張〈INIT〉ファイル等には24ビットアドレッシングが残ったものもあった)。32ビットQuickDrawやMultiFinderの疑似マルチタスク機能がシステムに全面統合され、QuickTimeも標準で付属するようになった。画面のデザインがカラー化され、ラベル機能など色を生かしたインタフェースが搭載された。多言語対応が始まり、中国語や韓国語など「漢字Talk」として既に対応していた日本語以外のCJKVマルチバイト言語にもMac OSとして対応した、なお漢字文化圏ではあるがMac OSとしての対応であり漢字Talkの名称は用いられていない。仮想メモリの搭載により最大 4GB のメモリ空間にアクセスできるようになり、巨大な画像データや動画ファイルを扱う条件が整う。Open Scripting Architectureの採用によりアプリケーション間通信の機構が整備され、AppleScriptによる自動操作を実現した。ファイル共有やドラッグ・アンド・ドロップの標準化も行われ、その後のMac OSの原型となったバージョンである。 Mac OS 7.6.1
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Classic Mac OS
Mac OS 7.6.1 1996年12月20日のAppleがNeXT買収発表後のWWDC '97で発表されたRhapsody計画(後のMac OS X Server 1.0)を経て、2000年のMacworld Expo/San FranciscoでMac OS X(後のOS X)が発表され、それまでのつなぎとしてシステムの近代化、インターネットへの親和性強化が図られる。Coplandプロジェクトで開発されたもののうち、使えそうな技術から順次採用を進め、半年ごとにマイナーアップデートとメジャーアップデートを繰り返すという方針が発表された。 Mac OS 8.5.1 Mac OS Xへの橋渡しの役割を担ったバージョンであり、アプリケーションパッケージや Carbonlib など、Mac OS Xとの互換性を意識した機能が盛り込まれた。最後のバージョンとなった Mac OS 9.2.xはMac OS直系の到達点として高い完成度を持っている。 なお、Mac OS 9.0はMac OS 9.2.2までアップデートできる。2012年5月現在、日本語版の 9.0.4 へのアップデータは入手可能だが、それ以外はダウンロードページへのリンクが正常に機能しなくなっていて入手不可能になっている。 macOS (当初はMac OS X、2012年から2016年まではOS X)は、Appleの2021年1月時点のMac用OSであり、2001年にClassic Mac OSの後継OSとして登場した。Mac OSのバージョン10として宣伝されていたが、Classic Mac OSとは全く別のOSである。 Classic Mac OSの設計を引き継いだ後継OSはMac OS 9であり、そのさらなる後継は存在しない。Classic Mac OSと異なりUnixベースのOSで、AppleがNeXT社を買収してスティーブ・ジョブズがAppleのCEOに復帰した際に、1980年代後半から1997年までに開発されたNeXTがNeXTSTEPを経てからmacOSになった。macOSはBSDのコードやXNUカーネルも利用しており、そのコア部分はAppleのオープンソースプロジェクトであるOSのDarwinがベースになっている。
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Classic Mac OS
最初はサーバ用OSのMacOS X Server 1.0として1999年にリリースされた。このバージョンから初めてAquaユーザインタフェースが採用された一方で、Classic Mac OSのプラチナスタイルも残されており、部分的にはOPENSTEPの名残もあった。デスクトップ版のMacOS X 10.0が続けて2001年3月24日にリリースされ、Aquaユーザインタフェースがサポートされた。これ以来複数のバージョンがリリースされている。Mac OS Xは2012年にOS Xに、2016年にmacOSに改名された。 従来のMacユーザーの多くがMac OS Xへアップグレードしたが、ユーザーフレンドリーではない部分がある、旧Mac OSの機能が完全に再現されていない、同じハード(特に旧機種)で遅い、旧OSとの互換性が不完全など、最初の数年は批判に晒された。旧Mac OS用のドライバ(プリンタ、スキャナ、タブレットなど)はMac OS Xと互換性がなく、Mac OS Xで古いOS用のプログラムを動かすためのClassic Environmentがきちんとサポートされず、1997年以前のマシンをサポートしておらず、Macintoshユーザーの一部はMac OS Xがリリースされた後も数年間にわたりClassic Mac OSを使い続けた。スティーブ・ジョブズは2002年のWWDCでMac OS 9の葬式を開催してMac OS Xへのアップグレードを人々に促した。 Mac OS XのPowerPC版は旧Macのアプリを動かす互換レイヤーであるClassic EnvironmentをMac OS X 10.4 Tigerまでサポートしていた。元々はブルーボックスのコードネームで開発され、Mac OS Xのアプリケーションとして動作し、Mac OS 9のバージョン9.1以降の実行環境をほぼ再現していた。Mac OS XのCarbon APIに移植されていないアプリケーションをMac OS Xで実行できた。ほぼシームレスに動作したが、ClassicアプリケーションはMac OS 9の見た目のままで、Mac OS XのAquaな外観にはならなかった。
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Classic Mac OS
New World ROMを搭載したPowerPCベースのMacは当初、Mac OS 9.2に加えてMac OS Xを同梱した。Mac OS X 10.4以降からは旧OSがプリインストールされなくなり、旧OSを使いたいユーザーはMac OS 9.2を別途手動でインストールする必要があった。Classic Mac OS用に書かれたアプリケーションで行儀のよいものは新OSでもほぼ動作し、ハードウェアに依存した処理がなく、全てOSを通してハードを操作するソフトウェアだけが互換性を保証された。Mac OS 9はx86で動作しないため、IntelベースのMacではClassic環境を使用できない。
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写真
写真(しゃしん、古くは寫眞)とは、人類史上初めて登場した機械映像である。 英語の “photograph” という語は、イギリスの天文学者ジョン・ハーシェルが創案した。photo- は「光の」、-graph は「かく(書く、描く)もの」「かかれたもの」という意味で、日本語で「光画」とも訳される。“photograph” から、略して「フォト」と呼ぶこともある。 日本語の「写真」という言葉は、中国語の「真を写したもの」からである。 カメラという暗箱の中に、開口部(レンズ)を通じて一定時間の間に入ってくる光によって、外界の像が感光性をもったフィルムの上に自然と描かれていくというシンプルな原理である。 一般に、被写体に光が当たると、その表面の各点において乱反射(光の散乱)が起きる。ピンホールや凸レンズなど(正のパワーを持つ光学系)を利用して、被写体の各点に対応する光線を像面の各点に写像することで、実像が得られる。精密な像を得るために特に写真用に設計された光学系(レンズ系)を俗に写真レンズという。カメラは、以上の光学系に加えてシャッターなどの補助的な機構を備えた暗箱であり、さらに撮像素子によって電子的に像を得たり、乾板や写真フィルムなどの感光材を感光させて潜像とする。銀塩写真では、その後に現像・引き伸ばしなどのプロセスを経て写真(いわゆる「プリント」)が得られる。 銀塩写真の原理も語も以前と何ら変わるものではないが、デジタルカメラの普及以降、レトロニム的に単に「写真」ではなく銀塩写真と明示的に言うこともある。なお、「アナログ写真」という語は撮影から現像、あるいは印刷に関してデジタル技術をほとんど用いないものに用いられる(近年は逆転し、プロセスのどこかでデジタル技術を回避したものをそう呼んでいることもある)。 ハロゲン化銀は光が当たると銀イオンが還元され、金属銀微粒子の核ができる。感光して銀粒子核の潜像となってもそのままでは画像にはならない。感光した部分にある銀はごく少量のため、適当な量まで銀粒子を成長させて可視化する必要がある。これは現像処理で行う。また、感光しなかった部分はそれ以上感光しては困るため、不要な部分のハロゲン化銀は取り除く必要がある。これは定着処理で行う。
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写真
ハロゲン化銀は光が当たると銀イオンが還元され、金属銀微粒子の核ができる。感光して銀粒子核の潜像となってもそのままでは画像にはならない。感光した部分にある銀はごく少量のため、適当な量まで銀粒子を成長させて可視化する必要がある。これは現像処理で行う。また、感光しなかった部分はそれ以上感光しては困るため、不要な部分のハロゲン化銀は取り除く必要がある。これは定着処理で行う。 ハロゲン化銀は感光するとき、波長を吸収する領域が青色に寄っている。そこで可視領域に渡って感光させるために感光色素を用いて本来の吸収波長以外にも反応が起こるように設定する。まず感光色素が光に反応し、色素の電子がハロゲン化銀へ移動することによってハロゲン化銀の直接の感光と同様の変化が成立する。可視的な電磁波の特定の波長領域にのみ感光するようにし、三原色に対応するように感光層を重ねるとカラーフィルムになる。 デジタルカメラやテレビカメラ、ビデオカメラでは、撮像素子として、撮像管などを使ったものでないものは、固体撮像素子を使っている。固体撮像素子は、微小なフォトダイオードが規則的にびっしりと並んだものであり、光子がpn接合に入ると電子を叩き出して電荷が発生するというものである。量子効率は銀塩写真のハロゲン化銀の場合よりもはるかに高いため、高感度である。これを走査して信号として取り出し、AD変換器へ送る。あるいは電子スチルビデオカメラなどではアナログ信号のまま直接FM変調などによって磁気テープ等に記録する。 撮像管の場合は、光電効果による電荷を、磁界ないし電界によって走査される電子ビームによって読み取り、電子信号とする。 写真の感光量は光の量(単位時間あたりの光の量×光が当たった時間)によって基本的に決まる。これを相反則(ソウハンソク)という。ただし、感光量は入射した光の量にどこまでも比例するのではない。未露光部はベースフィルム以上淡色にはならないし、感光するハロゲン化銀は限られているから一定以上の光を当ててもそれ以上濃くならない。したがって、光の入射量と画像の濃さをグラフにするとシグモイド関数のようになる。変化の中間部は直線的であり、この部分の傾きのことをガンマという。
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写真
露光時間が極端に短かったり長かったりする場合には、相反則が成立しないことがある。これを相反則不軌という。カラーフィルムでは色ごとに相反則不軌の状態が異なるため、カラーバランスが崩れる問題がある。短いほうは通常のカメラの、数千分の1秒程度では顕在化しないため通常は気にされることはない。一方長い方は、夜間や天体の撮影で問題になる。1977年ごろには長時間露光時の相反則不軌対策や分光感度を調整した天体撮影用のスペクトロスコピック感光材料が市販されていたほどである。なおフィルムの場合、冷却することで長時間露光時の相反則不軌を低減できることが経験的に知られている。 なお、長時間露光においては相反則不軌とはまた別の問題もある。現在利用可能なオプトロニクスによるデジタルカメラでは、画像に熱雑音と製作不良から発生するランダムノイズが乗る。一部のデジタルカメラでは長時間露出する際のノイズを軽減する機能がついている。非常に長い時間露光する場合、ノイズが最終的な画像に影響しないように撮像素子を低温で動作させる必要がある。天文撮影や科学機器では冷却機構が最初から設計に含まれているものもある。 写真撮影(しゃしんさつえい、英: Photo shoot、フォトグラフィ、英: photography)とは、カメラによって静止画(スチル写真)を記録する行為のこと。 カメラおよびカメラ・オブスクラは撮影機器である。写真フィルムまたは電子的記録カードが記録媒体であるが、ほかの方法がとられることもある。たとえば、光学コピーや乾式コピー(ゼロコピー)は長期的に使用可能な画像を作るが、写真フィルムではなく静電気の移動を使っているため、電子複写(静電複写)という。マン・レイの刊行したレイヨグラフなどのフォトグラムは印画紙に投影された影でできた画像であり、カメラを用いない。スキャナのガラス面に直接撮影対象を置くことによって、電子複写を行うことも可能である。 撮影者は記録媒体を必要な量の光に露出する目的で、カメラとレンズを選択・操作できる(記録媒体として通常は、写真フィルムか固体撮像素子を使う)。 選択・操作の対象には以下のものなどがあると思われる。カメラの操作は互いに関係する。
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写真
撮影者は記録媒体を必要な量の光に露出する目的で、カメラとレンズを選択・操作できる(記録媒体として通常は、写真フィルムか固体撮像素子を使う)。 選択・操作の対象には以下のものなどがあると思われる。カメラの操作は互いに関係する。 フィルム面に到達する光の総量は露出時間、レンズの絞りによって変わる。このうちどちらかを変えれば、露出が変わる。(物理的なシャッターがないカメラであっても)露光時間はシャッター速度で表される。露光時間が1秒より短い場合は通常分子が1の分数で表記され、それはカメラのシャッター速度設定ダイヤルに明記されている場合、秒の逆数で表示されている場合が多い。絞りはF値で表示されているが、これはレンズの明るさを表している。Fは焦点比(focal ratio)のFである。F値がルート2分の1倍になるごとに絞りの直径はルート2倍大きくなり、絞りの面積は2倍になる。典型的なレンズに刻まれたF値は、2.8、4、5.6、8、11、16、22、32などであるが、これは数字が大きくなるごとに光の量が半分になっていくことを意味する。 特定の露出のシャッター速度と絞り値は、さまざまな組み合わせが成立する。たとえば、125分の1秒でF8と500分の1秒でF4では同じ量の光が得られる。当然ながら、どの組み合わせを選んだかは最終的な仕上がりに影響する。シャッター速度の変化は対象とカメラの動き(ぶれなど)の反映の度合いを変える。絞りの変化は被写界深度を変える。 被写界深度は焦点の前後に広がるピントがあっているように見える範囲のことである。たとえば長焦点レンズ(望遠レンズ)を絞りを開いて使用した場合、対象の目には鋭く焦点が合うとき、鼻の頭はピントが合って見えないということが起こる。反対に短焦点レンズ(広角レンズ)を使用し、絞りこんで(絞り値を大きくして)遠距離に焦点を合わせて使えば、対象の目にも鼻にもピントが合って見える写真を撮影することは容易である。
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写真
被写界深度は焦点の前後に広がるピントがあっているように見える範囲のことである。たとえば長焦点レンズ(望遠レンズ)を絞りを開いて使用した場合、対象の目には鋭く焦点が合うとき、鼻の頭はピントが合って見えないということが起こる。反対に短焦点レンズ(広角レンズ)を使用し、絞りこんで(絞り値を大きくして)遠距離に焦点を合わせて使えば、対象の目にも鼻にもピントが合って見える写真を撮影することは容易である。 長焦点レンズを使用し、絞りを開いて近距離に焦点を合わせれば、被写界深度は極端に浅くなる。反対に短焦点レンズを使用し、絞りこんで(絞り値を大きくして)遠距離に焦点を合わせれば、被写界深度は極端に深くなる。絞り値、焦点距離、焦点の位置が同じでも、レンズのF値(絞り開放時のF値)によって被写界深度は異なる。また、レンズのF値が同じでも設計・表記と実際との差などにより被写界深度は異なる。また、十分に小さい絞りを使うとかなり広い範囲にピントを合わせることができる。これはパンフォーカスと呼ばれる。 材質にかかわらず、カメラがとらえた像を最終的な写真作品にするには、何らかの工程が必要である。この工程には現像と焼きつけなどがある。 焼きつけ工程では、いくつかの調整によって結果を変えることができる。こうした調整の多くはイメージキャプチャーなどで行われる調整に似ているが、引き伸ばし機を用いた焼きつけ工程に固有のものもある。大部分はデジタルによく似た調整であるが、大きく異なる効果をもたらすものもある。 調整には次のものなどがある。 100%コットンなどのバライタ印画紙、RCコート紙、水彩紙を応用したインクジェットプリンター用紙(デジタル用)などは独特の風合いがあり、黒や紙の白の発色、色合いはさまざまである。プリンターの高性能化に伴い、デジタルでのモノクロームプリントが多くなった。デジタル写真・デジタル化された写真においては、「カラー」から「モノクローム」への変換は容易である。
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