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写真
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調整には次のものなどがある。
100%コットンなどのバライタ印画紙、RCコート紙、水彩紙を応用したインクジェットプリンター用紙(デジタル用)などは独特の風合いがあり、黒や紙の白の発色、色合いはさまざまである。プリンターの高性能化に伴い、デジタルでのモノクロームプリントが多くなった。デジタル写真・デジタル化された写真においては、「カラー」から「モノクローム」への変換は容易である。
カラー写真は1800年代にアレクサンドル・エドモン・ベクレルらにより開発が始まった。初期のカラー実験では像を定着させることができず、さらに退色しやすかった。初期の高耐光性のカラー写真は1861年に物理学者のジェームズ・クラーク・マクスウェルによって撮影された。彼は3原色のフィルターを1枚ずつかけて3回タータンのリボンの写真を撮影し、3原色中1色のフィルターをかけた3つのスライドプロジェクタで画像を投影してスクリーン上で合成することにより、撮影時の色を再現することに成功した。しかし、赤色の再現に問題があったうえ(画像では紫を帯びている)、この試みは1890年代になるまで忘れられてしまっていた。
マクスウェルが手法を確立した初期のカラー写真は、それぞれ異なるカラーフィルターレンズを前面に持った3つのカメラを使うものであった。この技法は暗室や画像処理工程に3系統の処理設備を必要とし、カラー用の印画紙がまだなかったため観賞はスライドで見るのにとどまり、実用化までにはいかなかった。当時は必要な色に対する適当な感度を持つ乳剤が知られておらずカラーフィルムを製造することができなかったため、ロシアの写真家セルゲイ・プロクジン=ゴルスキーは3枚のカラー写真乾板を連続して素早く撮影する技法を開発した。
1868年にフランスのルイ・デュコ・デュ・オーロンはカーボンプリントに減法混合を用いることにより初めてカラー写真を紙に定着させることに成功した。この原理は現在も印刷技術に用いられている。
1873年、ドイツの化学者ヘルマン・ヴィルヘルム・フォーゲルによりついに赤と緑に適当な感度を持つ乳剤が開発され、カラーフィルムへの道が開けた。
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1868年にフランスのルイ・デュコ・デュ・オーロンはカーボンプリントに減法混合を用いることにより初めてカラー写真を紙に定着させることに成功した。この原理は現在も印刷技術に用いられている。
1873年、ドイツの化学者ヘルマン・ヴィルヘルム・フォーゲルによりついに赤と緑に適当な感度を持つ乳剤が開発され、カラーフィルムへの道が開けた。
1891年、ルクセンブルクのガブリエル・リップマンは3色干渉によるカラー写真を開発し、この功績により1908年にノーベル物理学賞を受賞した。この技術は実用化こそされなかったものの、現在ではホログラフに応用されている。
1904年、フランスのリュミエール兄弟によって最初のカラー乾板である「オートクローム」が発明され市場に現れた。これは染色したジャガイモのデンプンで作られたスクリーン板フィルターに基づいたもので、ドイツのアグフア(のちのアグフア・ゲバルト)が1916年に染色したアラビアゴムの細粒で作られたフィルターを使用する「アグフア・ファルベン・プラッテン」を発明するまでは市場における唯一のカラー乾板だった。
1930年、アメリカ合衆国のジョージ・イーストマンは100万ドルの賞金をかけてカラー写真の簡易方法を募集した。音楽家のレオポルド・D・マンネス(英語版)とレオポルド・ゴドフスキー・ジュニア(英語版)は、多層乳剤方式のカラーフィルムを考案し応募してコダックに入社、同社の研究陣と協力して1935年、最初の近代的なカラーフィルムである「コダクローム」を発売した。コダックは当初コダクロームを「神と人により創られた」と宣伝していた。日本の最初のカラーフィルムは1940年に小西六写真工業(現・コニカミノルタホールディングス)が発表したコダクロームと同方式の「さくら天然色フヰルム」であり、続いて富士写真フィルムも「富士発色フィルム」を公表している。
1936年にはアグフアの「アグフアカラーノイ」が追従した。アグファカラーノイはIG・ファルベンインドゥストリーにより開発された発色剤を乳剤層に含有させたもので、発色現像が1回で完結されるなどフィルムの処理が大幅に簡略化されていた。コダクロームを除くほとんどの近代的カラーフィルムは、アグフアカラーノイの技術に基づいている。
インスタントカラーフィルムは1963年にポラロイドから発売された。
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1936年にはアグフアの「アグフアカラーノイ」が追従した。アグファカラーノイはIG・ファルベンインドゥストリーにより開発された発色剤を乳剤層に含有させたもので、発色現像が1回で完結されるなどフィルムの処理が大幅に簡略化されていた。コダクロームを除くほとんどの近代的カラーフィルムは、アグフアカラーノイの技術に基づいている。
インスタントカラーフィルムは1963年にポラロイドから発売された。
カラー写真は、スライドプロジェクタで使うための陽画の透過フィルムとして像を撮ることも、陽画の焼きつけを作るためのカラー陰画を作ることもできる。自動プリント機器の登場によって、現在では後者がもっとも大衆的なフィルムである。
感光材料にハロゲン化銀を使用せずほかの材料を使用する写真の総称で写真技術の黎明期から開発が進められ、青写真やジアゾタイプが実用化された。シルバーショック後に脱銀化が加速したが、従来の銀塩写真を置き換える用途においては感度、貯蔵性に劣るといった弱点がある。
広義には、アナログ式の電子カメラである電子スチルビデオカメラや、デジタルカメラによる写真も非銀塩写真の(広義には)一種といえる。なお「電子写真」という語は、普通紙用複写機(Plain Paper Copier)の静電方式、いわゆるゼログラフィを指して以前は広く使われた語であった。
デジタル写真は画像を電子データとして記録するためにCCDイメージセンサやCMOSイメージセンサといった固体撮像素子を用いる。携帯電話などにもデジタルカメラ機能がついているものがある(カメラ付き携帯電話)。デジタル写真を写真と認めない人もいるが、デジタルカメラでとらえた像は見ることもプリントすることもできる。動画撮影や録音など、フィルムカメラにはない機能を持っている機種もあるほか、従来の中判カメラに相当する大きさの撮像素子を持つレンズ交換式デジタルカメラもある。
写真処理施設からの遠隔地で仕事をする新聞記者などのカメラマンにとって、テレビジョンとの競争が激化するにつれ、新聞に載せる画像を短い時間で送付しなければならなくなった。このため遠隔地で仕事をする新聞記者達は一時期小型の写真現像セットと電話線で画像を送るための道具を持ち歩くのが当たり前で、大きな負担となっていた。
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写真処理施設からの遠隔地で仕事をする新聞記者などのカメラマンにとって、テレビジョンとの競争が激化するにつれ、新聞に載せる画像を短い時間で送付しなければならなくなった。このため遠隔地で仕事をする新聞記者達は一時期小型の写真現像セットと電話線で画像を送るための道具を持ち歩くのが当たり前で、大きな負担となっていた。
1981年、ソニーが画像撮影にCCDを使い、フィルムを用いない最初のコンシューマ用カメラ「マビカ」を発表した。マビカは画像をディスクに保存し画像自体はテレビに表示するものであった。次いで1990年にコダックが初の市販デジタルカメラDCS100を発表した。その価格は業務用でもなければ手が出ないものであった。商業的なデジタル写真がこのとき生まれたのである。
2000年代から2010年代にかけて、デジタルの自動露出・自動焦点カメラは一般に広まり、フィルムカメラをほぼ駆逐した。小型化できることからカメラ付き携帯電話など様々なものにカメラが搭載され、2010年代にはカメラの付いたスマートフォンの普及により、廉価なコンパクトタイプのデジタルカメラも市場が縮小した。
写真の性質はフィルムとデジタルで異なるが、共通した観点が存在する。以下、観点をいくつかの性質に分けて紹介する。フィルムとデジタルのどちらが優れているかという議論があるが、すべての観点において一方がもう一方よりも優れているとは言えず、どちらもそれぞれのよさがある。
ここでの再現性は画質とほぼ同義である。写真の画質を判断する基準は多数あるが、分解能、コントラスト、色再現性が骨子と考えられる。ここでは分解能をとりあげる。これについて、その写真が何個の画像セル(ピクセル)で構築されるかで計ろうとする試みがある。
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フィルム写真とデジタル写真を比較するとき、フィルムを撮像素子の画素数に換算するとどの程度かと考えがちだが、何よりもまず両者はあまりに異なる。そのため、フィルムとデジタルで分解能を比較をするのは容易でない。分解能の測定はさまざまな条件に依存する。フィルムの場合、フィルムの寸法・サイズ、粒状性などのフィルムの性能、用いたレンズの性能に依存する。フィルムにはピクセルが存在しないため、フィルムにピクセルが存在するものとして計測した分解能は目安に過ぎない。デジタルカメラではセンサー画像の補間に用いる画像処理アルゴリズム、センサフィルタのバイヤーパターン(Bayer pattern)の効果、記録画質などが関係する。加えて、デジタルカメラの撮像素子や表示装置の画素の配列は、規則正しい繰り返しパターンを持つため、モアレを生じる場合があるが、フィルムの感光粒子は不規則に並んでいるためこのような現象は起こらない。24×36mm(ライカ)判カメラで撮影した写真の解像度評価はまちまちである。たとえば、10メガピクセルという評価がある。より粒子の細かいフィルムを使うと、この数字は上がり、低級の光学系の使用や劣悪な照明や不適切な現像がこの数字を下げることもあり得る。この評価は2007年の最新鋭デジタルカメラはライカ判カメラよりも優れているという評価を含意している。ただし、35mmフィルムは一般消費者向けのフォーマットである。プロ向けフィルムカメラとして中判カメラ、大判カメラがある。これらに先の数値を単純にあてがうと、2007年現在の最新鋭デジタルカメラより優れた分解能を持つことになる。具体的には、6×4.5cm判のフィルム写真は約36メガピクセル、4×5in判は約130メガピクセルである。8×10in判は約540メガピクセルになる。しかし、20メガピクセルや7メガピクセルという評価もある。ライカ判フイルムはISO50クラスの低感度で20メガピクセル相当というのは銀粒子のサイズなどから計算されたものであり、実効的には空間周波数的にみて、色調的・階調的に平坦な特性を有するのはそのおおむね40%程度であり、それ以下の細部描写は空間周波数に比例して劣化してくることから、およそ8メガピクセル程度とみるのが正しい。やはりフイルム感光粒子の並びやサイズの不均一性や分散性・乳剤層の厚みによる焦点のにじみなどの物理的限界からみてもこれは疑いようがないといえる。
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高性能レンズを用い理想的な露出で撮影した現代の超微粒子白黒フィルムの分解能は、30メガピクセル以上のファイルサイズにおいて適当な細かさが得られる。一般消費者向けライカ判カラーフィルムでは12メガピクセル以上に、安価なライカ判フィルムカメラ(コンパクトカメラ)でも8メガピクセル以上に価し得る。
画像の表示に用いる媒体も考慮に入れる必要がある。たとえば、せいぜい2メガピクセル程度のものが主流であるテレビやコンピュータのディスプレイで写真を表示するのみであれば、ローエンドのデジタルカメラで出せる解像度でさえ十分と言える。4×6inのプリントに出力する場合に限っても、デジタルとフィルムの間に知覚できる差はある。出力媒体が大きな広告板なのであれば、高い解像度をもった媒体か大きな判が必要になるだろう。
現在ではまだ、融通性に関してはフィルムがデジタルに勝ると言える。露出寛容度とゴミ・ほこりに対しての比較を挙げる。
露出寛容度は、露出過多または露出不足のネガから良い画像を得る度合いのことである。デジタル画像ではわずかでも露出過多になると、ハイライトが飛んでしまう。露出不足では陰影の細部が失われがちである。しかしフィルム、特にネガフィルムであれば、少々露出過多ないし露出不足のフィルムを使っても、正常の範囲内と言える画像が得られる。
結像面に乗ったちりは、撮影者につきまとう問題である。デジタルカメラのセンサーは固定であり、デジタル一眼レフではちりを除くのが困難である。ただし、一部のデジタルカメラにはイメージセンサーのちりを検知しセンサー上のゴミ・ほこりをある程度除去する機構がついている。フィルムカメラでは画像ごとにフィルムを交換するため、ちりに対処するのは容易である。その代わり、フィルムの現像工程以降でゴミ・ほこりが混入する危険が存在するが、いずれも正しい手順で清潔に扱えばほとんど問題は起きない。
利便性はデジタルカメラが普及した要因の一つである。フィルムカメラでは一連のフィルムを撮影したうえで現像しなければならない。そして現像を終えて初めて写真を見ることができる。他方、ほとんどのデジタルカメラは液晶ディスプレイを備えており、撮った直後に写真を見ることができ、またその場で不要な写真の削除が可能である。
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利便性はデジタルカメラが普及した要因の一つである。フィルムカメラでは一連のフィルムを撮影したうえで現像しなければならない。そして現像を終えて初めて写真を見ることができる。他方、ほとんどのデジタルカメラは液晶ディスプレイを備えており、撮った直後に写真を見ることができ、またその場で不要な写真の削除が可能である。
デジタルカメラの画像はパソコンで加工することが容易である。多くのデジタルカメラは画像を、センサーからの出力を画像に変換せずそのまま保存するRAWフォーマットで保存することができる。適当なソフトウェアと組み合わせれば、最終的な画像に「現像」する前に、撮った写真のパラメータ(シャープネスなど)を調整することができる。記録された画像自体を加工したり書き換えるという選択肢も存在する。
フィルムもスキャニングという工程を経てデジタル化できる。つまり、銀塩写真をデジタル写真に変換できる。
NASAでは、スペースシャトルなどの打ち上げ直前の記録写真の撮影に、現在でも限定的にフィルムカメラを使用している。これは規格外の超大型フィルムを用いて、1枚の遠景写真からボルト1本まで確認できるほどのもので、トラブルが起きた時に写真を検証し、打ち上げ前から異常があったのかどうかを後で確認するために使われている。フィルムカメラではどんなにフィルムが大きくても、露光にかかる時間は大きく変わらないが、デジタルカメラではデータ量に比例して保存に時間がかかる。また、巨大なCCDや、保存装置にかかる電力が増え、バッテリーや冷却装置も含めると機器はさらに大型・重量化してしまう。このため、一人の写真技師が徒歩で数か所から打ち上げ点を撮影するという任務には、デジタルカメラは不向きであった。
同様の欠点は初期の民生用デジタルカメラでもあり、高解像度の撮影をすると、保存に時間をとられてシャッターチャンスを逃したり、バッテリーが減ったりしやすかった。その後の技術革新でこうした問題は改善されてきた。
フィルムが不要なデジタル写真は経済性が高い。かつては記録媒体のぶん高価だったが、価格が下がったことで経済性が高まった。
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同様の欠点は初期の民生用デジタルカメラでもあり、高解像度の撮影をすると、保存に時間をとられてシャッターチャンスを逃したり、バッテリーが減ったりしやすかった。その後の技術革新でこうした問題は改善されてきた。
フィルムが不要なデジタル写真は経済性が高い。かつては記録媒体のぶん高価だったが、価格が下がったことで経済性が高まった。
他方、フィルム写真ではフィルムの取得と画像処理(プリントなど)にコストがかかり続ける。フィルムは撮影直後に画像を見ることができないので、最終的な写真を知ることなく撮影したすべてのフィルムを現像処理するのが通例である。写真の出来に応じて現像するか否かをコマごとに決めることはできない。
フィルムが作るのは一次画像であり、これは撮影レンズを通った情報を含んでいる。オルソクロマチックのように特定の周波数領域に限られた感度またはパンクロマチックの幅広い感度といった違いはあっても、色(波長)によって対象をとらえる点は同様である。現像方法の違いにより最終的なネガやポジに差は出るが、現像が終われば画像はほとんど変化しない。理想的な状態で処理・保存されたフィルムは実質的に100年以上変わらず性能を発揮する。プラチナの化合物によって発色するプリントは基本的にベースの寿命に制限されるのみであり、数百年ほどは持つ。高い保存性を欲するならば調色が必須であるという因襲があった。調色されたプリントの保存性は高い。しかし現在では、調色せずとも保存性を高める薬品が販売されている。
デジタルは保存性について圧倒的に有利である一方、記録媒体の物理的特性の問題がある。コンピュータを中心としたデジタル媒体が登場してから100年も経っていないため、記録媒体の特性はフィルムほどには分かっていない。しかし保存に関して乗り越えなければならない点が少なくとも3つ存在する。記録媒体の物理的耐久性、記録媒体の将来的な可読性、保存に使ったファイルフォーマットの将来的な可読性である。
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デジタルは保存性について圧倒的に有利である一方、記録媒体の物理的特性の問題がある。コンピュータを中心としたデジタル媒体が登場してから100年も経っていないため、記録媒体の特性はフィルムほどには分かっていない。しかし保存に関して乗り越えなければならない点が少なくとも3つ存在する。記録媒体の物理的耐久性、記録媒体の将来的な可読性、保存に使ったファイルフォーマットの将来的な可読性である。
多くのデジタル媒体は長期的にデータを保管する能力はほぼない。たとえば、多くのフラッシュメモリは10年から数十年でデータを失うし、一般的な光ディスクは長いものでも100年程度である(例外あり)。MOなどの光磁気ディスクは保存性の高い記録媒体であるが、将来的な可読性という面で劣る。クラウドストレージなど業者が管理するストレージに任せる方法もあるが、今度はサービス終了の恐れがある。
さらに、記録媒体が長期間データを保持できたとしても、デジタル技術のライフスパンは短いため、メディアを読み取るドライブがなくなることがある。たとえば5.25インチフロッピーディスクは1976年に初めて発売されたものであるが、それを読めるドライブは、30年も経たない1990年代後半にはすでに珍品となっていた。後継の3.5インチフロッピーディスクも、2012年現在、ドライブを装備するパソコンは少ない。Zipは1994年の発売開始後数年で売れ行きが落ち、2007年時点ではメディア・ドライブとも入手困難になっている。
データをデコードできるソフトウェアの存続も関係する。特に複数が並立し、互換性に乏しいRAWフォーマットの問題がある。これらのフォーマットの一部は暗号化されたデータまたは特許で保護された専用データが含まれているが、突然メーカーがフォーマットを放棄する可能性がある。メーカーがRAWフォーマットの情報を開示しないならば、この状況は今後も続く。
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データをデコードできるソフトウェアの存続も関係する。特に複数が並立し、互換性に乏しいRAWフォーマットの問題がある。これらのフォーマットの一部は暗号化されたデータまたは特許で保護された専用データが含まれているが、突然メーカーがフォーマットを放棄する可能性がある。メーカーがRAWフォーマットの情報を開示しないならば、この状況は今後も続く。
デジタル写真におけるこれらのデメリットにも対策がうてる。たとえば、ビットマップ形式、JPG形式、PNG形式など、汎用性の高いファイルフォーマットを選ぶことによって、ソフトウェアがそのファイルを読解できる将来の可能性が増す。また、将来読めなくなるかサポートされなくなる可能性がある記録媒体にデータを保存していたものを、品質を低下させることなく新しいメディアにコピーすることが可能である。このことはデジタルメディアの大きな特徴の一つである。ただし科学文明が崩壊するレベルの事象が起きた場合はデジタル写真は確認不可能となる。
デジタル写真は画像編集ソフトウェアで、フィルム写真では膨大な時間を費やす必要があった、色・コントラスト・シャープネス(輪郭の鋭さ)の調整や、いらないものを消すなどの画像加工を初心者でも簡単かつ即座にできる。フィルム画像の合成は難しい。
逆に言えばデジタル画像は簡単に改変できてしまうため、像の真正性を重視する場合(パスポートや査証の写真など)、フィルムはデジタルよりも好まれる。なお、日本のパスポートには2006年3月よりICチップにデジタル化された顔写真が埋め込まれている。
なお、裁判などの証拠としてデジタル画像を使用することは認められる場合もあるが、アメリカでは21世紀初頭の時点で以下のような条件を満たす必要があるとされていた。
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逆に言えばデジタル画像は簡単に改変できてしまうため、像の真正性を重視する場合(パスポートや査証の写真など)、フィルムはデジタルよりも好まれる。なお、日本のパスポートには2006年3月よりICチップにデジタル化された顔写真が埋め込まれている。
なお、裁判などの証拠としてデジタル画像を使用することは認められる場合もあるが、アメリカでは21世紀初頭の時点で以下のような条件を満たす必要があるとされていた。
どのような経緯で撮影された、並びに提出される前にどのような処置をしたのかも説明する必要があるが、それはデジタルに限らず写真全般に問われる事で、画像修正がある場合、証拠物件として提出する際にその点を注記し、修正前のデータも閲覧できるようにしなければならない。また、捜査官たちは画像を検索できねば捜査に使用できないが、彼らはどのような意味でも証拠に変更を加えることは許されないので、提出物には読み出し専用(リードオンリー)の記憶媒体が望ましい。また、画像のフォーマットを変換するとデータが壊れることがあるので、最終的な画像や提出するプリントは記録するときに使ったオリジナルのフォーマットを使用しなければならない。 実際に裁判で証拠不十分とされた例に、提出されたデータのファイルの保存された日付が「撮影した日の9日後(=撮影後に何かの変更を行っている)」であった理由を撮影者が説明できなかったというものがある。
フィルムカメラ写真のアスペクト比はカメラ・写真フィルムの規格や印画紙のフォーマットに倣う場合が多い。カメラと印画紙の主要なものを挙げる。
デジタルカメラ写真のアスペクト比については次のものが主である。長辺が短辺に比してより長いものから挙げる。以前はパソコンのディスプレイとの整合性から「4:3」の機種が多かった。
DPE店などで「フロンティア」や「QSS」によって印刷される写真の用紙の規格は以下のものなどがある。DPE店の店頭でフィルムから印刷された写真が銀塩写真の限界ではなく、DPE店の(恣意的な)色補正や濃度決定は不適切な場合も多い。
アスペクト比が長辺が短辺に比してより長いものほど写真に緊張感が生まれるとされる。
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DPE店などで「フロンティア」や「QSS」によって印刷される写真の用紙の規格は以下のものなどがある。DPE店の店頭でフィルムから印刷された写真が銀塩写真の限界ではなく、DPE店の(恣意的な)色補正や濃度決定は不適切な場合も多い。
アスペクト比が長辺が短辺に比してより長いものほど写真に緊張感が生まれるとされる。
写真が発明される19世紀以前にも、光を平面に投影する試みは行われていた。写真の起源は、紀元前、古代中国春秋時代の墨子や、アリストテレスの頃から知られていた、ピンホール現象にまでさかのぼる。この現象を利用したカメラ・オブスクラの開発と、像を固定させる化学的処理のプロセスの発見が組み合わされ、写真術が誕生することになる。
画家達は、16世紀頃には立体の風景を平面に投影するために、デッサンの補助具としてカメラ・オブスクラを活用した。これらの初期の「カメラ」は像を定着(写真用語の「定着」ではない)することはできず、単に壁に開いた開口部を通して暗くした部屋の壁に像を投影するだけのもの、つまり部屋を「大きなピンホールカメラにしたもの」だった。18世紀には、銀とチョークの混合物に光を当てると黒くなるというヨハン・ハインリヒ・シュルツェによる1724年の発見をはじめとして塩化銀やハロゲン化銀など銀化合物の一部は感光すると色が変わることが知られており遊戯などに用いられていたものの、これとカメラ・オブスクラなどを組み合わせる発想はなかった。
19世紀初めに、カメラ・オブスクラの映像と感光剤とを組み合わせ映像を定着させる写真の技術は、ほぼ同時に多数発明された。このとき美術は新古典主義とロマン主義の並存する時期であった。また、大勢誕生した中産階級によって肖像画の需要が高まっていた。そして、石版画の技術が新聞図版や複製画などに活用され、広まりつつあった。
現存する世界最古の写真は、1825年にニセフォール・ニエプスが撮影した「馬引く男」(Un cheval et son conducteur)である。
現代の写真処理は1840年から最初の20年の一連の改良を基底とする。ニエプスによる最初の写真のあと、1839年にはダゲレオタイプが発表された。写真の誕生は同年、パリの科学と芸術の合同アカデミーで、科学者のフランソワ・アラゴーによって公式に宣言された。直後にカロタイプも発表された。
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現代の写真処理は1840年から最初の20年の一連の改良を基底とする。ニエプスによる最初の写真のあと、1839年にはダゲレオタイプが発表された。写真の誕生は同年、パリの科学と芸術の合同アカデミーで、科学者のフランソワ・アラゴーによって公式に宣言された。直後にカロタイプも発表された。
写真の普及は肖像写真の流行、1851年の湿式コロジオン法の発明、1871年のゼラチン乾板の発明へと続いた。1884年、ニューヨークのジョージ・イーストマンは紙に乾燥ゲルを塗布する方式を開発し、もはや写真家は乾板の箱や有毒な化学物質を持ち歩かなくて済むようになった。1888年7月、イーストマンの設立したコダックカメラが「あなたはボタンを押すだけ、あとはコダックが全部やります」との触れ込みで市場に参入した。こうして現像サービス企業が登場し、誰でも写真撮影が可能な時代となり、複雑な画像処理の道具を自前で持つことが必要ではなくなった。1901年にはコダック・ブローニーの登場により写真は市場に乗った。1925年、ライカなどの登場で一般性、可搬性(カメラの持ち運びやすさ)、機動性、フィルム交換のしやすさが高まってスナップ写真が広まるなどした。20世紀以降、カラーフィルム(多色フィルム)やオートフォーカス(自動合焦:ただし必ず自動で合焦するわけではない)やオートエキスポーズ(自動露出)が広まった。画像の電子記録も広まっている。
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現在ではデジタルカメラの液晶画面によるインスタントプレビューが可能であり、高画質機種の解像度は高品質の35mmフィルムのそれを越えているとも言われるようになった。コンパクトデジタルカメラの価格は大幅に低下し、写真を撮ることはより容易になった。しかし、もっぱらマニュアル露出、マニュアルフォーカスのカメラと白黒フィルムを使う撮影者にとって、1925年にライカが登場して以来、変わった点はほとんどないとも言える。2004年1月、コダックは「2004年末をもって35mmリローダブルカメラの生産を打ち切る」と発表した。フィルム写真の終焉と受け止められたが、当時のコダックのフィルムカメラ市場での役割は小さなものであった。2006年1月、ニコンも同様にハイエンド機F6とローエンド機FM10を除いたフィルムカメラの生産を打ち切ると発表した。同年5月25日、キヤノンは新しいフィルム一眼レフカメラの開発を中止すると発表したものの、販売するフィルム一眼レフカメラが1機種になったのは2008年になってからであり、2004年1月のニコンの発表以降も4機種ものフィルム一眼レフカメラを供給していた。35mmカメラおよびAPSコンパクトカメラの値段は下落してきた。恐らく直接的なデジタルカメラとの競争と中古フィルムカメラ市場拡大が原因である。
写真の誕生以来、自然科学者などの多くの学者や芸術家が写真に関心を示してきた。学者は写真を記録と研究に利用した。軍隊や警察も偵察、調査、捜査、裁判などのデータ記録に写真を利用する。写真は商業目的でも撮影される。写真を必要とする団体における写真の利用法には、選択肢がある。その団体の誰かが撮影を担当する、外部のカメラマンを雇う、写真を利用する権利を取得する、写真を公募するなどである。
エドワード・マイブリッジは連続写真を使って人間の動きに関する研究(1887年)を行った。それまで人の目がとらえることができなかった一瞬の動きを写し出しており、人々に与えた影響は大きかった。
アメリカでは西部開拓期に写真が導入され、政府公認の西部調査に写真家が派遣され、画家とともに記録を担った。さらにパリでは、セーヌ県知事オスマンの都市改造に伴う歴史記録が写真によってなされている。
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エドワード・マイブリッジは連続写真を使って人間の動きに関する研究(1887年)を行った。それまで人の目がとらえることができなかった一瞬の動きを写し出しており、人々に与えた影響は大きかった。
アメリカでは西部開拓期に写真が導入され、政府公認の西部調査に写真家が派遣され、画家とともに記録を担った。さらにパリでは、セーヌ県知事オスマンの都市改造に伴う歴史記録が写真によってなされている。
また19世紀後半以降撮影された世界各地での探検や人類学的調査や遺跡調査などの記録写真、あるいは天体写真や顕微鏡写真は、人類の知識に変化を与えた。
ジャーナリストは写真を使って、事件や戦争、人の暮らしぶりなどを記録してきた。報道写真の萌芽は写真発明直後のクリミア戦争の戦場記録写真などに現れている。
現在では、スナップ写真を撮ったり、行事や日常の場面を撮影する人も多い。
写真と絵画は本来性質が異なる。しかし、カメラ・オブスクラが絵画のデッサンの補助具として用いられてきたため、写真映像は、文化的に長らく絵画との比較において読み解かれてきた。写真と絵画の関係は、写真の誕生以降、組んず解れつ展開してきた。
ドミニク・アングルなどの画家は写真の再現性に驚いたとされる。ただし、写真は平面的な再現を得意としていても絵画のように空間感や形態感を描き出すことはできない。アングルは表向き写真を批判していながら実際には写真を絵画制作に利用していたのだが、これは彼が伝統的に絵画の根本を支えて来たものがこのように写真に流出しないものであると知っていたからだと考えられる。このことに関して画家のフェルナン・クノップフは光源やライティングをどれほど工夫しても、覆い焼き・焼き込みなどを駆使しても絵画に見られるような卓越したバルール(色価)を構成することはできないといった旨のことを述べている。このことはピクトリアリスムおよびその延長にある写真に或る影を落とす。なお、クノップフは着色写真・着彩写真も手がけており、そこには代表作のバリアントとでも言うべきものも含まれている。写真との関係について言及される画家は他に、エドガー・ドガ、フランシス・ベーコン、ゲルハルト・リヒター、デイヴィッド・ホックニー、チャック・クロース(英語版)などがいる。また、17世紀のオランダの画家フェルメールはカメラ・オブスクラに着想を得ていたといわれる。
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写真術が誕生した最初期、写真と絵画の関係において争点となったのは、肖像のジャンルである。かつて肖像画を持つことは階級の高い者や富裕層の特権だった。しかし、写真が誕生すると、絵画より安価で精緻な描写性を持つことが注目され、肖像写真が社会現象になった。歴史画家ポール・ドラローシュは写真の誕生を受け、「今日を限りに絵画は死んだ」と叫んだという逸話があるように、当時、多くの画家が写真の登場によって職業写真家に転身した。
一方で、写真が絵画より劣るとみなされる場合もあった。ピクトリアリスム運動は絵画の影響を強く受けた活動であり、写真は古くは絵画そのものを期待されていた。ピクトリアリスム運動で、写真家たちは、主題や表現性で絵画を模倣、追随し、写真を芸術として認知させようとした。他方で、鮮明な物の形の記録が写真本来の持ち味であるとしてストレートフォトグラフィも現れた。
現代では画家が写真を制作に使用することを批判する向きもあるが、現代における写真やカメラの使用と、カメラ・オブスクラを昔の画家が用いたこととは、本質的・根本的に事態の質が異なるものではない。そして、写真を制作における図像の基底に用いる画家は多い。一般的に言って、画家などの作家が撮影できる写真は写真家が撮影する写真に比して限定的なものであり、実景よりも平板であるために制作が困難なものになる場合もあるが、写真が本人の制作にとって利用価値が高いならば、作家は臆することなく写真を制作に用いるべきだろう。
写真が芸術かどうかは、しばしば議論されるところである。こうした議論は、写真の初期から存在していた。写真はしばしば「ただの記録技術であり、芸術ではない」という攻撃を受けてきた。単なる画像の機械的生産に過ぎないと主張する者もいる。
20世紀の間に、芸術写真とドキュメンタリー写真の両方が英語圏の美術界とギャラリー業界に受け入れられてきた。アメリカ合衆国では、少数の学芸員が、写真をそうした業界に取り込ませるために生涯をかけた。中でも傑出した学芸員・編集者はアルフレッド・スティーグリッツ、エドワード・スタイケン、ジョン・シャーカフスキー、およびヒュー・エドワードである。
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写真
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20世紀の間に、芸術写真とドキュメンタリー写真の両方が英語圏の美術界とギャラリー業界に受け入れられてきた。アメリカ合衆国では、少数の学芸員が、写真をそうした業界に取り込ませるために生涯をかけた。中でも傑出した学芸員・編集者はアルフレッド・スティーグリッツ、エドワード・スタイケン、ジョン・シャーカフスキー、およびヒュー・エドワードである。
「芸術写真」は1920年代の日本においても最新動向として紹介され、1921年に東京では福原信三が写真芸術社を、それに先立ち大阪では上田竹翁(別名:上田寅之助、箸尾寅之助、竹軒楽人)が次男の箸尾文雄や写真家の不動健治らとともに芸術写真社を興し、雑誌を発行して盛んに宣伝した。東京だけでなく、この時期には大阪も芸術写真の一つの中心地であり、数多くの「写真倶楽部」が活動していた。漫画家の手塚治虫の父親・手塚粲もこうした写真倶楽部のひとつ「丹平写真倶楽部」に参加し、アマチュア写真家として作品を発表していた。
写真を積極的に自らの作品に取り入れる美術家もいる。たとえば日本の場合、森村泰昌は名画の中などに(ときには複数の)自分が「侵入」することで、新たな表現スタイルを獲得している。澤田知子は自動証明写真機で撮影した自分の姿に始まり、セルフポートレイトを駆使した写真活動を展開している。今道子は魚や野菜や衣類を使った造形を写真に収めている。3人ともその活動は「画像の機械的生産」の範囲内かもしれないが、いずれも写真家や美術家若しくは芸術家に含まれている。
写真は対象の選択、対象と撮影者との物理的距離、対象の様態、撮影するタイミングなどによって、撮影者の心や世界に対する態度を反映する。写真は少なくともこの意味で確かに撮影者の創作物であり、表現の手段である。そして同時に印画紙出力などで介在する技術者の手腕の産物でもある。また撮影対象や画像加工技術などにより著作者(創作者)の発想や手腕が写真を確実に芸術(美術:視覚芸術)に属するものといえる。
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写真
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写真は対象の選択、対象と撮影者との物理的距離、対象の様態、撮影するタイミングなどによって、撮影者の心や世界に対する態度を反映する。写真は少なくともこの意味で確かに撮影者の創作物であり、表現の手段である。そして同時に印画紙出力などで介在する技術者の手腕の産物でもある。また撮影対象や画像加工技術などにより著作者(創作者)の発想や手腕が写真を確実に芸術(美術:視覚芸術)に属するものといえる。
しかし、だからといって「すべての写真が絵画や彫刻のような芸術である」ということは記録手段伝達手段としての価値が他の表現手段よりもある(報道写真、Wikipedia向きの写真など)以上、あり得ない。それは「法律や取扱説明書が文芸・文学ではない」ということと同じであり、写真がある程度「中立性」「検証可能性」に耐えられる媒体であるからである。言い換えれば、「写真は芸術に留まらない存在である」ということである。鉛筆で、小説も詩も規則もマニュアルも書けるし、略図も絵も描くことができる。カメラ類も同じような広がりを持つ機能を果たすことができるということである。
現在も情報伝達の手段としての「絵」はあるが、むしろ、写真の発達によって客観性・写実性では写真に一歩譲る絵画が、描き手()の調子の構築、筆致・筆さばきその他で創作者の主観を反映することが望まれる芸術に特化するようになったと解釈できる。
こういった点で、「写真は芸術かどうか」は「落書きの絵が芸術かどうか」という問題とは根本的に異なる。
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弐瓶勉
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弐瓶 勉(にへい つとむ、1971年2月26日 – )は日本の漫画家。男性。福島県郡山市出身。
代表作は『BLAME!』、『シドニアの騎士』。
福島県立郡山北工業高等学校を卒業後、上京し現場監督の見習いや施工図の製図など建築関係の仕事に就くが、組織の一員として働くことに向かないと感じ退職。単身渡米し絵の勉強をしながら1年ほど日本の出版社へ漫画を投稿するもデビュー出来ないまま帰国したが、1995年にアフタヌーン四季賞夏のコンテストで短編作品の『BLAME』が審査員(谷口ジロー)特別賞を受賞。その後、髙橋ツトムの専属アシスタントを5ヶ月ほど経験し、1997年より『月刊アフタヌーン』で長編作品『BLAME!』の連載を開始。
2009年から連載を開始した『シドニアの騎士』では、雑誌連載第2話より用語の説明やあらすじを書いたページが用意された。複数の作品において、「東亜重工」という企業や「奇居子(がうな)」と称される存在をスターシステムなガジェットとして使用している。「東亜重工」は、自身がデザインしたグッズのロゴや、スタンド花の贈り主名、他作家とのコラボレーション企画、自身が関わった有限責任事業組合の名称などに利用している。
海外での評価が高くエンキ・ビラルなどから賞賛を受けている。村上隆によるアート展『「SUPER FLAT」at 渋谷パルコギャラリー』(2000年)にもイラストを出品した。また、単行本『シドニアの騎士』第2巻では椎名誠が帯文を寄せた。
原稿にはコピックマルチライナーと筆ペンを使用(単行本『ABARA』発売時点)。カラー原稿は初期にはアクリルを使っていたが、『BLAME!』中期よりデジタル環境(フォトショップ)に移行した模様。また『BIOMEGA』や『シドニアの騎士』では、作画時の参考資料として登場メカの立体模型を自作している。背景にまで個性を出せるとしてアシスタントは使っていない。
『シドニアの騎士』以降、Twitterのアイコンや自画像にクワガタを使用している。
『シドニアの騎士』第11巻からは赤松健が提唱している同人マークを赤松以外の著作物では初めて付けるなど、常識範囲内の二次創作についても寛容な姿勢を見せている。
『シドニアの騎士』で2015年に第39回講談社漫画賞・一般部門を、2016年に第47回星雲賞コミック部門を受賞。
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弐瓶勉
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『シドニアの騎士』以降、Twitterのアイコンや自画像にクワガタを使用している。
『シドニアの騎士』第11巻からは赤松健が提唱している同人マークを赤松以外の著作物では初めて付けるなど、常識範囲内の二次創作についても寛容な姿勢を見せている。
『シドニアの騎士』で2015年に第39回講談社漫画賞・一般部門を、2016年に第47回星雲賞コミック部門を受賞。
影響を受けた作品として、『AKIRA』、『風の谷のナウシカ』、『攻殻機動隊』、『遊星からの物体X』などをあげている。
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Mach
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Mach(マーク)とは、カーネギーメロン大学のリチャード・ラシッド教授(実際の実装はアビー・テバニアンが中心)らのMachプロジェクトにより開発されたマイクロカーネルタイプのオペレーティングシステム (OS) を言う。名前は「複数非同期通信ホスト」を意味する英語「multiple asynchronously communication hosts」に由来している。
1980年代中頃、アメリカ国防総省高等研究計画局によって開発されていた実験用マルチプロセッサコンピュータ用のOSをアメリカ国防総省に提案、採用されたことにより 1985年からMachの開発は始まった。当初はスーパーコンピュータ・ワークベンチ・プロジェクト(supercomputer workbench project)と呼ばれていた。
当時、米国の研究機関で主に用いられていた 4.2BSD UNIXの設計は、古く効率の悪い仮想記憶機構、マルチプロセッサマシンに対して非効率な構造、移植性の悪い冗長なコードなど、当初のUNIXでは想定していない様々な機能をカーネルに追加したため、非常に見通しの悪い構造となっていた。これを解決することがMachの目的であった。
これらを実現することを目標に開発が行われた。
当初から4.3BSD UNIXと互換であることが決定されていたこともあり、4.3BSDのカーネルソースコードを元に修正を加えることで実装を行った。実際には3.0からがマイクロカーネルであり、Mach 2.5まではマイクロカーネルではない。
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Mach
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これらを実現することを目標に開発が行われた。
当初から4.3BSD UNIXと互換であることが決定されていたこともあり、4.3BSDのカーネルソースコードを元に修正を加えることで実装を行った。実際には3.0からがマイクロカーネルであり、Mach 2.5まではマイクロカーネルではない。
リチャード・ラシッド教授が1991年にマイクロソフトへ移籍した後も1994年までカーネギーメロン大学でMachプロジェクトは続いた。以後、Machの開発はユタ大学のMach 4プロジェクト、Free Software FoundationのHurdプロジェクト、カーネギーメロン大学の ARTプロジェクトなどに引き継がれていった。ユタ大学で Mach 4として分散環境を考慮したスレッドおよびメッセージの改良、Linuxデバイスドライバインターフェースの実装を行った。GNUプロジェクトではこのMach 4をベースに改良を加え、GNU Machとして公開している。ARTプロジェクトでは分散リアルタイムOS実現のため、実時間駆動型スケジューラなどがMach に組み込まれ、Real-Time Machとして公開された。これらの研究開発はMachのみならずBSDにもフィードバックされ、仮想記憶システムを含むいくつかの機能は4.4BSD Liteにも利用されている。
これらのMach生まれの基本概念は、その後のUNIXのみならず、数多くのOSに多大な影響を及ぼした。
この新しいOSの名前をどうするのかという雑談の中で出た MUCK (multiprocessor universal communication kernel) というアイディアを、リチャード・ラシッド教授の同僚のイタリア人 Darlo Giuse がMachと聞き間違えたことに由来する。最終的にはコインの裏表で決定した。従って原則英語読みの「マーク」という発音が正しい。
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リチャード・ストールマン
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リチャード・マシュー・ストールマン(Richard Matthew Stallman、1953年3月16日 - )は、アメリカ合衆国のプログラマー、フリーソフトウェア活動家。コピーレフトの強力な推進者として知られ、現在にいたるまでフリーソフトウェア運動において中心的な役割を果たしている。また、プログラマーとしても著名な存在であり、開発者としてその名を連ねるソフトウェアにはEmacsやGCCなどがある。なお、名前の頭文字を取って RMS と表記されることもある。
最終的には、AI研のプログラマとなる道を選び、博士研究を断念することになるものの、ストールマンは研究者としてもいくつか重要な業績を残している。例えば、1977年には、Gerald Jay Sussman と TMS (Truth maintenance system) に関する論文を発表しており、これはある種の先駆的な業績とされている。
ストールマンはハーバード大学在学中から、MITのAI研にてプログラマをしていた。AI研での活動はMITの院生となってからも続き、1984年にMITの職を辞すまで続くことになる。ここでの重要な実績としては、TECO、Emacs、LISPマシンOSの開発が挙げられる。
1970年代の後半から1980年代の初めにかけて、MITのハッカー文化は徐々に解体していったが、ストールマンはこの衰退に対する熱烈な批判者として活躍した。
1977年、MIT CS研はパスワード制を導入し、これまで自由であった匿名アクセスを禁止する。これに対しストールマンはパスワードを解読する方法を見つけた上で、パスワードを空白文字に変更するよう促す(実質的に旧来通りの匿名アクセスを可能にできる)メッセージを付け、パスワードの入ったメッセージを各人に送りつけるという反対運動を行う。パスワード制を覆すまでには至らなかったものの、これにより全体の20%がストールマンに賛同し、パスワードを変更する。
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リチャード・ストールマン
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同時期に、ソースコードを配布するという文化が廃れ、コピーライトを用いてコピーや再配布を制限するのが一般化した。この代表がScribeであり、1979年にはこのソフトウェアに一種の「時限装置」が組み込まれ、ライセンス無しのアクセスが強力に禁止されるに至る。この制約に対して、ストールマンは「(ユーザーの自由を制限することは)人道に対する罪(crime against humanity)である」 と痛烈に批判する。
そして、1980年代に入ると、LISPマシンの開発を巡り、AI研内部がベンチャーキャピタルの融資を拒否するLMI社と融資を受け入れるSymbolics社に分裂。両社ともプロプライエタリなソフトウェアを提供していたが、ストールマンはハッカーコミュニティに親和的であった前者を支持し、1982年から1983年にかけてSymbolics社のプログラムのクローンをする作業に取り組む。
1983年9月、GNU OS計画の概要をARPANET上の複数のメーリングリストとUSENETで公表。1985年にはGNU宣言を発表し、「GNU」という名前の自由なUNIX互換OSの開発を正式に提唱する。同年10月に非営利団体のフリーソフトウェア財団を創設し、1989年にはプログラミング自由連盟を共同設立する。
GNUプロジェクトは、まもなくして多くの成果をもたらすことになった。実際に、1990年までに多くのGNUシステムの開発が完了し、ストールマン自身が開発に携わったものだけでもEmacs・GCC・GDB・gmakeといったソフトウェアが生み出されている。ただし、本来の目的であったカーネル自体の開発は遅れ、2020年現在も未だに一般的に利用できるまでに成熟していない。
さらに、このプロジェクトの中で、ソフトウェアの変更と再配布の権利を法的に保護するコピーレフトの概念が広まったことも成果の一つに数えられる。このコピーレフトの概念は、GNU Emacs General Public License において初めて実装されたが、1989年にはどのソフトウェアにも用いることのできるライセンスとして GNU General Public License がストールマンの手で書かれている。
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リチャード・ストールマン
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一方で、GNUプロジェクトは、特に思想面において数々の論争を引き起こすプロジェクトでもあった。例えば、1992年前後には、GNU EmacsをめぐりLucid社の開発者との対立が表面化し、結果的にXEmacsの分岐を招いた。また、1991年にリーナス・トーバルズがGNUの開発ツールを採用して以来、GNUのプログラムはLinuxに移植されて広く用いられるようになったが、これは今日まで続く GNU/Linux という名前を巡る論争を引き起こすことになる。ここでプロジェクトの理念的な側面を重視して、GNUの名前を用いることを強固に主張したのは他ならぬストールマンであった。
このストールマンの強い思想性に対する評価は分かれている。ジャーナリストのアンドリュー・レオナルドは、ストールマンの「決して妥協しない頑固さ」を才能ある有能なプログラマに共通に見られる特徴だとする。
ストールマンの妥協しない姿勢には、何か安心させてくれるものがある。勝つにせよ負けるにせよ、ストールマンは決してあきらめない。彼は死ぬまで農場の最も頑固なロバでありつづけることだろう。これを「決意が固い」と言うにせよ、あるいは「単に意固地なだけ」と呼ぶにせよ、彼のひたむきな姿勢や厳格なまでの誠実さは、調子のよいことばかりを言う広報担当や何億円もの金をかけたマーケティングが跳梁する世界における、一服の清涼剤のようなものなのである。
—アンドリュー・レオナルド,Salon.com
2004年、ストールマンはベネズエラでフリーソフトウェアの採用を訴える講演を行い、チャベス大統領から好意的な反応を得ている。また、2006年にはインドのケーララ州政府との交渉の場を持ち、同州にある一万校余りの高校のコンピューターのOSをWindowsからGNU/Linuxに切り替えさせることに成功している。
ストールマンは質素な生活で知られる。たとえば、彼は、リサーチ・アフィリエイトとしてMITに在籍しているが無給である。また、同大学のCSAIL(コンピュータ科学・人工知能研究所)にオフィスを構えている以外には、定住のための住居を持っていない。彼は、この生活について「私はいつも安上がりな生活をしてきた......つまり学生みたいにね。私はそういう生活が好きなんだ。そういう生活なら、カネの言いなりになる必要がないからね」 としている。
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リチャード・ストールマン
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また、プライバシーの問題に強い意識を抱いていることでも知られている。たとえば、追跡を受けることで重大なプライバシー侵害が生じうるという理由 で携帯電話を持たないことを推奨している。また、同様に入室の時間と回数の追跡が可能になるという理由で、オフィスのある建物のカードキーを使うことを避けている。さらに、「個人的な理由」から、GNUやFSFの自分のページかそれに関連するページ以外は自分のコンピューターから直接ブラウズすることはないと述べている。そして、その代わりとして、wgetを動かしているサーバーにメールを送り、見たいページをメールで送らせるという方法を用いているという。
彼はLibreboot(英語版)と呼ばれるBIOSの自由ソフトウェアな実装を導入したThinkpad X200を使用し、GNU FSDGに適合する完全に自由なGNUディストリビューションであるTrisquel GNU/Linuxを使用している。
キーボードはHappy Hacking Keyboardを愛用していることで知られる。
ストールマンは、多言語話者でもある。彼の母国語は英語であるが、彼はそれに加えてスペイン語とフランス語も流暢に話すことができる。実際にこれらの言語で二時間のスピーチも行っている。本人によれば、カタコトではあるが、インドネシア語も使えるという。
ストールマンはコンロン・ナンカロウ からフォーク音楽 に至るまでの幅広い音楽を好んでいる。ベラ・フレック&ザ・フレックトーンズやウィアード・アル・ヤンコビックも好きであると述べている。
彼は作曲も行っており、ブルガリアのフォークダンス音楽「サディ・モマ」の替え歌としてフリーソフトウェアの歌を作っている。最近では、キューバのフォークソング「グアンタナメラ(英語)」を元に、グアンタナモ米軍基地の囚人のことを歌った歌を書き上げ、キューバにて現地の音楽家とともにレコーディングしている
また、ストールマンはSFのファンでもあり、グレッグ・イーガンの作品を好んでいるという。ストールマン自身、「The Right to Read」と「Jinnetic Engineering」という二つのSF作品を書き上げている。
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リチャード・ストールマン
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また、ストールマンはSFのファンでもあり、グレッグ・イーガンの作品を好んでいるという。ストールマン自身、「The Right to Read」と「Jinnetic Engineering」という二つのSF作品を書き上げている。
1999年の記事の注釈によれば「私は無神論者なので、どの宗教的指導者にも従おうとは思わないが、ときに彼らの言ったことには尊敬の念を覚える」としている。
なお、ストールマンは12月25日をクリスマスではなくGrav-massとして祝うことを提唱している。これは万有引力(universal gravitation)の法則を発見したアイザック・ニュートンを祝う日であり、彼がユリウス暦の12月25日に生まれたことにちなむものである。
影響を受けた人物について、ストールマンは、マハトマ・ガンディー、キング牧師、ネルソン・マンデラ、アウンサンスーチー、ラルフ・ネーダー、デニス・クシニッチの名前を挙げたうえ、「フランクリン・ルーズベルトやウィンストン・チャーチルも尊敬しているよ。彼らの行ったことの一部には批判的なんだけどね」と述べている。また、ストールマンは、緑の党の支持者であり、国民投票による立法制度の実現を目指すナショナル・イニシアティブ運動の支持者でもある。
ストールマンは、電子投票の反対者でもある。実際に、2008年3月1日に行われたマンチェスターでの講演の中で、投票用紙のコピーさえあれば再集計がより容易であるという理由で、ストールマンは紙による投票を擁護している。
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GNU Hurd
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GNU Hurd(グヌー ハード)は、GNU Mach上で動作し、オペレーティングシステム (OS) の機能を提供するサーバ群。GNUプロジェクトによって開発されている。
Hurdはカーネルと説明されることが多いが、厳密にはマイクロカーネルであるMachと、その上で動くサーバ群であるHurdの組合せによって、一般的なカーネルのサービスを提供する。
Hurdは、「Hird of Unix Replacing Daemons.」の頭文字であり、さらにHirdは、「Hurd of Interfaces Representing Depth.」の頭文字である。また、「herd of gnus」(ヌーの群れ)とも掛けている。
リチャード・ストールマンが提唱し、1990年から開発が始まった。UNIX代替品の開発を目標とするGNUプロジェクトにとって、カーネルに相当するHurd(及びMach)の開発は最重要課題とも言えるが、その開発スピードは遅く、2011年現在でも正式版のリリースには至っていない。また、Hurdを採用したディストリビューションとして、Debian GNU/Hurdによる開発版が存在するが、これについても公式版のリリース時期は未定である。
開発の遅れにより、UNIX互換のフリーなカーネルとしては、GNUプロジェクトによるものではないLinuxがデファクトスタンダードとなっている。Linuxとの開発スピードの違いについて、エリック・レイモンドは『伽藍とバザール』で、カテドラル方式(伽藍方式)とバザール方式の違いによると主張している。一方、ストールマンは、開発の遅れはマイクロカーネルのデバッグが予想以上に難しかったためであり、LinuxがHurdに比べ早く開発できたのは、Linuxがモノリシックカーネルであることによるとし、自分の戦略的なミスであったと述べている。
特に断らない限りGNUプロジェクト自身によるドキュメントを出典とする。
1986年2月、リチャード・ストールマンがGNUの公式カーネルとしてマサチューセッツ工科大学で開発されたTRIX(英語版)を使用すると表明し、同年12月までにフリーソフトウェア財団(以下FSF)はTRIXの改良を開始した。
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GNU Hurd
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特に断らない限りGNUプロジェクト自身によるドキュメントを出典とする。
1986年2月、リチャード・ストールマンがGNUの公式カーネルとしてマサチューセッツ工科大学で開発されたTRIX(英語版)を使用すると表明し、同年12月までにフリーソフトウェア財団(以下FSF)はTRIXの改良を開始した。
1987年〜1988年ごろ、FSFは自分でTRIXを改良するよりも、別の人の手によるカーネルを使いたいと考え始める。当時の候補としてはTRIXを改良し続けることの他にカリフォルニア大学バークレー校で開発されたspriteを使うこと、そしてカーネギーメロン大学で開発され後に公式カーネルとなるMachを使うことがあった。
1990年、Machが4.3BSDに関する部分をカーネルからユーザランドへ除出することでGNUの再配布ライセンスに適合するようになると、FSFはMachの上で動くHurdの開発を開始した。ここにMachがGNUの公式カーネルとなった。
1994年4月にブートができ、ファイルシステム、認証サーバ、initなどを動かすことに成功する。同年7月にはemacsを、11月にはgccを動かすことにも成功した。
1996年4月に、バージョン0.0(テスト版)のソースコード及びi386アーキテクチャ上で動くバイナリが公開される。
1997年6月、他のGNUソフトウェアと組み合わせて完全なOSとして利用できるバージョン0.2がリリースされた。またDebianプロジェクトによるコンパイル済みバイナリDebian GNU/Hurdも配布されている。しかし、製品レベルのシステムと比べて期待されるようなパフォーマンスや安定性を達成できていない状態であり、現在も開発中で正規版をリリースするには至っていない。
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GNU Hurd
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1997年6月、他のGNUソフトウェアと組み合わせて完全なOSとして利用できるバージョン0.2がリリースされた。またDebianプロジェクトによるコンパイル済みバイナリDebian GNU/Hurdも配布されている。しかし、製品レベルのシステムと比べて期待されるようなパフォーマンスや安定性を達成できていない状態であり、現在も開発中で正規版をリリースするには至っていない。
多くのUNIX系カーネルと違って、Hurdはマイクロカーネルの上に構築された、サーバ-クライアントアーキテクチャを採用している。このマイクロカーネルは、もっとも基本的なカーネルのサービスを提供するのに用いられており、それはハードウェアへのアクセスを調整することである。これには、CPU(プロセスマネジメントとスケジューリングを通じて)、RAM(メモリ管理を通じて)、音声、グラフィックス、マスストレージなど、その他多様なインプット/アウトプットデバイス(I/Oスケジューリングを通して)の調整が含まれる。マイクロカーネルの設計理論は、全てのデバイスドライバに、ユーザースペースで動くサーバーとしてビルトされることを許すが、今日多くのドライバーは依然としてGNU Machのカーネルスペースに含まれている。
Hurdの開発者によると、マイクロカーネルベースの設計の利点は、システムを拡張することができることである。これは、新しいモジュールを開発するとき、残りの部分のカーネルに関する深い知識を必要とせず、ひとつのモジュールにあるバグがシステム全体をクラッシュさせることもない。Hurdはtranslatorsという概念を提供しており、これは機能的にファイルシステムを拡張するモジュールのフレームワークである。
2004年以降、Hurdをさらにモダンなマイクロカーネルにポートする努力が行われている。これにはL4マイクロカーネルやCoyotosマイクロカーネルなどを含む。
Debianのドキュメンテーションによると、18のコアサーバと6のファイルシステムサーバからなる24のサーバが存在している。それは以下の通りである。
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GNU Hurd
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2004年以降、Hurdをさらにモダンなマイクロカーネルにポートする努力が行われている。これにはL4マイクロカーネルやCoyotosマイクロカーネルなどを含む。
Debianのドキュメンテーションによると、18のコアサーバと6のファイルシステムサーバからなる24のサーバが存在している。それは以下の通りである。
サーバは、集合的にPOSIX APIを実装しており、それぞれのサーバがインターフェースの一部の実装となっている。例として、様々なファイルシステムサーバは、ファイルシステムコールの実装となっている。ストレージサーバは、ラッピングレイヤーとして機能する。これはLinuxのブロックレイヤーのようなものである。LinuxのVFSと同様のものが、libdiskfsとlibpagerによって達成されている。
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GNU
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GNU(グヌー、[ɡnuː] ( 音声ファイル))とはオペレーティングシステム であり、かつコンピュータソフトウェアの広範囲に渡るコレクションである。GNUは完全にフリーソフトウェアから構成されている。
GNUは"GNU's Not Unix!"(「GNUはUNIXではない」)の再帰的頭字語である。この名称が選ばれたのは、GNUはUnix系の設計ではあるがUNIXとは違いフリーソフトウェアでありUNIXに由来するソースコードを全く使っていないことを示すためである。GNUの正式な発音は「グヌー」である。一般的な英語では、gnuは「ヌー」と発音し、ウシカモシカまたはヌーと呼ばれる動物をさす言葉である。GNUプロジェクトは自らの名称の呼び方について「it is pronounced g-noo, as one syllable with no vowel sound between the g and the n.(gとnの間に母音がない1音節として、g-nooと発音する)」と要請している。
GNUプロジェクトには、元々フリーソフトウェア財団が重点を置いていたオペレーティングシステムのカーネルであるGNU Hurdが含まれている。しかしながらGNU Hurd以外のカーネルもGNUソフトウェアと共に利用できる。そのようなカーネルとして最も有名なものはLinuxカーネルである。GNUのカーネルにLinuxカーネルを用いるのが一般的な理由は、GNUのカーネルがGNUの中で最も成熟していない部分のためである。GNUソフトウェアとLinuxカーネルを組み合わせたものが一般的に知られるLinuxである(あまり一般的ではないがGNU/Linuxと呼ばれることがある。この呼称についてはGNU/Linux名称論争を参照すること)。
GNUには人間が容易にコンピュータにインストールして利用可能な完全なオペレーティングシステムとするためのコンポーネントである、完全な機能を持ったカーネルが未だに欠けたままである。実際には、使用可能なGNUベースオペレーティングシステムのほとんどがLinuxディストリビューションである。LinuxディストリビューションにはLinuxカーネル、GNUコンポーネント、およびGNUプロジェクト以外のフリーソフトウェアプロジェクトによるソフトウェアが多く含まれている。
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GNU
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プロジェクトの創設者であるリチャード・ストールマンは、GNUを「社会的目的のための技術的手段」として考えている。
GNUオペレーティングシステムの開発はマサチューセッツ工科大学 (MIT) 人工知能研究所でリチャード・ストールマンによりGNUプロジェクトとして開始され、1983年9月27日にnet.unix-wizardsおよびnet.usoftというニュースグループで彼が公式に発表した。ソフトウェア開発が始まったのは1984年1月5日であり、この日はそれまでストールマンが勤務していたMIT人工知能研究所が、GNUの所有権を主張することやフリーソフトウェアとしての配布へ干渉することを阻止するために彼が同研究所を辞めた日でもある。ストールマンが選んだGNUという名称には様々な言葉遊びが含まれており、その中にはThe Gnu(英語版)という歌も含まれている。
GNUの目標は、完全にフリーソフトウェアで構成されるオペレーティングシステムを実現することであった。ストールマンは1960年代や1970年代のコンピュータユーザーのように、ユーザーを自由にしたいと考えていた。その自由とは、使っているソフトウェアのソースコードを使って研究できる自由であり、ソフトウェアを他の人々と共有できる自由であり、ソフトウェアを修正できる自由であり、修正版を配布できる自由である。この哲学は後にGNU宣言として1985年3月に公表された。
GNU宣言の中でストールマンは「基本的カーネルは存在するが、Unixをエミュレートするにはより多くの機能が必要だ」としている。ここでストールマンが想定したカーネルは、マサチューセッツ工科大学が開発したRPC型カーネルTrix(英語版)である。これは作者がフリーソフトウェアとして配布しており、Version 7 Unixと互換性があった。そして1986年12月、開発者らはこのカーネルに修正を加える作業を開始しようとした。しかし、開発者らはこれが出発点としてはふさわしくないと判断した。何故ならTRIXは「不明確で高価な68000マシン」でしか動作せず、使用するにはまず他のアーキテクチャへの移植が必須だったからである。
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GNU
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ストールマンはIncompatible Timesharing System (ITS) に関わっていた。ITSはPDP-10コンピュータアーキテクチャ用にアセンブリ言語で書かれた初期のオペレーティングシステムだが、PDP-10自体が開発・製造されなくなったために消えていった。このためストールマンは移植性のあるソフトウェアが必要だと考えていた。そのため、GNUの開発にはシステムプログラミング言語としてCとLISPを使用し、さらにGNUをUNIX互換にする決定がなされた。当時UNIXは既にプロプライエタリなオペレーティングシステムとして広く使われていた。UNIXの設計はモジュール性が高く、部分ごとに再実装することが可能だった。
GNUに必要なソフトウェアの大部分は一から書かれたが、TeX組版システムやX Window System、さらにMachマイクロカーネルといった共有可能なサードパーティーフリーソフトウェアコンポーネントは既存のものを流用した。なおMachは(GNUの公式カーネルである)GNU Hurdの、GNU Machコアの基礎を形成している。前述したサードパーティーコンポーネントを除くGNUのコードの大部分はボランティアが書いたものであり、具体的には個人が余暇時間内や会社の業務内で書いた部分、および教育機関や非営利団体が書いた部分で構成されている。1985年10月、ストールマンはフリーソフトウェア財団 (FSF) を創設した。1980年代後半から1990年代にはFSFがソフトウェア開発者を雇い、GNUで必要となるソフトウェア作成を行わせた。
GNUプロジェクトの初期の計画では、BSD 4.4-Liteのカーネルを採用することになっていた。しかし、バークレーのプログラマの協力が得られなかったため、ストールマンは1988年にカーネギーメロン大学が開発したMachカーネルを採用することにした。ただし、MachにはAT&T由来のコードが使われていたため、それを取り除いてフリーソフトウェアとして使えるようになったのは1990年である。HurdのアーキテクトだったThomas Bushnellは後に、BSDカーネルの採用を見送ったことでプロジェクトは大きく後退しており、そういう意味でもBSDカーネルを採用すべきだったと述べている。
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GNU
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カーネルの設計は、GNUの中でもUNIXから最も大きく異なる部分である。GNUのカーネルはマルチサーバ型マイクロカーネルであり、従来のUNIXカーネルの持つ機能をサーバと呼ばれる複数のプログラムで構成している。Machのマイクロカーネルは非常に低レベルのカーネル機能しか提供していないため、GNUプロジェクトではカーネルの上位レベルの部分を一種のユーザープログラムの集合体として開発しなければならなかった。この集合体を当初Alixと呼んでいたが、Thomas BushnellはHurdと呼ぶことを好み、Alixの名はそのサブコンポーネントに移され、最終的には使われなくなった。その後、Hurdの開発は技術的問題がいくつも発生し、なかなか進展しない状況になった。
GNUが有名になるにつれて、GNUに興味を持つ企業が現れはじめた。それらの企業は開発援助をしたり、GNUのソフトウェアや技術サポートを組み合わせて商売するようになっていった。その中で最も成功した企業としてはシグナスソリューションズが知られている(同社は現在、レッドハットの一部となっている)。
1992年、最重要コンポーネントであるカーネルのGNU Hurdを除く全てのコンポーネントが完成した。1991年にはリーナス・トーバルズが独自にLinuxカーネルの開発を始めており、1992年にはLinuxのバージョン0.12がGNU General Public Licenseライセンスでリリースされ、この最後の空白を埋めた。LinuxとGNUを組み合わせることで、世界初の完全にフリーソフトウェアで構成されたオペレーティングシステムとなった。LinuxカーネルはGNUプロジェクトの一部ではないが、その開発にはGCCなどのGNU製プログラミングツールが使われている。
2002年にストールマンはGNU/Hurdのリリースについて楽観的声明を発表したが、開発は2016年現在も続いている。Hurdの最新リリースはバージョン0.9である。動作はそれなりに安定しており、重要なアプリケーションを使うのでなければ十分使えるレベルである。
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GNU
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2002年にストールマンはGNU/Hurdのリリースについて楽観的声明を発表したが、開発は2016年現在も続いている。Hurdの最新リリースはバージョン0.9である。動作はそれなりに安定しており、重要なアプリケーションを使うのでなければ十分使えるレベルである。
GNUシステムの基本コンポーネントにはGNUコンパイラコレクション (GCC)、GNU Cライブラリ (glibc) およびGNU Core Utilities (Coreutils) だけでなく、GNUデバッガ (GDB)、GNU Binutils (binutils)、GNU Bashシェル、およびGNOMEデスクトップ環境も含まれる。GNUの開発者はGNUアプリケーションやユーティリティのLinuxへの移植に貢献しており、それらのアプリケーションやユーティリティはBSDの派生、SolarisそしてmacOSといったLinux以外のオペレーティングシステムでも広く利用されている。
GNUのプログラムの多くは、Microsoft WindowsやmacOSといったプロプライエタリプラットフォームを含む他のオペレーティングシステムに移植されている。GNUのプログラムはプロプライエタリUNIX上の相当するソフトウェアよりも信頼性が高いことが示されている。
2015年11月の時点で、公式GNU開発サイトにホストされたGNUのパッケージ数は合計で466個存在する(終了したパッケージも含む。それらを除くと383個である)。
GNUプロジェクトの公式カーネルはGNU Hurdマイクロカーネルである。しかしながら、2012年の時点でLinuxカーネルがLinux-libreという形で公式にGNUプロジェクトの一部となった。Linux-libreは、Linuxカーネルから全てのプロプライエタリコンポーネントを削除した派生物である。
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GNU
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GNUプロジェクトの公式カーネルはGNU Hurdマイクロカーネルである。しかしながら、2012年の時点でLinuxカーネルがLinux-libreという形で公式にGNUプロジェクトの一部となった。Linux-libreは、Linuxカーネルから全てのプロプライエタリコンポーネントを削除した派生物である。
FreeBSDのカーネルのようなLinux以外のカーネルも、実用的なオペレーティングシステムを構成するGNUソフトウェアと連携して機能する。FSFはGNUツールやユーティリティと共に利用されるLinuxはGNUの派生とみなすべきであると主張しており、そのようなシステムをGNU/Linuxという用語で表現するよう奨励している(なおこのことがGNU/Linux名称論争の原因となっている)。GNUプロジェクトはgNewSense、TrisquelおよびParabola GNU/Linux-libreといったLinuxを用いた派生を支持している。カーネルとしてHurdを使用しない派生でLinux以外のカーネルを用いるものとしては、BSDカーネル上にGNUの初期計画を実現した、Debian GNU/kFreeBSDやDebian GNU/NetBSDがある。さらにGNUをNetBSDやOpenSolarisなどのカーネルで動作させる移植プロジェクトもある。
フリーソフトウェア財団は既存のプロジェクトへの小規模な変更のリリースをパブリックドメインとすることが無難だと考えているが、GNUプロジェクトでは、その貢献者に対してGNUパッケージの著作権をフリーソフトウェア財団に譲渡することを推奨している。ただしこれは必須ではない。パッケージのメンテナは自身が維持するGNUパッケージの著作権を維持することができるが、使用される(GNU GPLのような)ライセンスは著作権保持者しか強制させることができないので、この場合はフリーソフトウェア財団ではなく著作権保持者がライセンスを強制する。
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GNU
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GNUに必要なソフトウェアの開発のため、ストールマンはユーザーがフリーソフトウェアを共有し変更する自由を保障することを目的とした、GNU General Public Licenseと呼ばれるライセンスを書いた(最初はEmacs General Public Licenseと呼ばれた)。彼はジェームズ・ゴスリンとのUniPressと呼ばれるプログラムに対するGNU Emacsプログラムにおけるソフトウェアコードの使用についての論争をめぐる経験をふまえてこのライセンスを書いた。1980年代のほとんどの期間において、Emacs General Public LicenseやGCC General Public LicenseのようにGNUパッケージごとに個別のライセンスが存在した。1989年にFSFはGNUプロジェクトのソフトウェアだけでなく全てのソフトウェアに使用できる単一のライセンスであるGNU General Public License (GPL) を発表した。
現在GPLはGNUソフトウェアのほとんどで使われており、GNUプロジェクトとは関係のないフリーソフトウェアでもよく使われている。GPLは最も一般的に使用されるフリーソフトウェアライセンスである。GPLでは、著作物の受領者はそれを実行し、複製し、修正し、再配布できるが、その再配布物のライセンスに制限を加えることを許さない。この思想はコピーレフトと呼ばれることが多い。
1991年、GNU CライブラリをプロプライエタリソフトウェアとリンクできるようにするためにLibrary General Public Licenseとして知られるGNU Lesser General Public License (LGPL) が書かれ、さらにGNU GPLのバージョン2がリリースされた。2000年には文書用にGNU Free Documentation Licenseが書かれた。GPLとLGPLは2007年にバージョン3に修正され、ユーザーが自身のデバイスで修正されたソフトウェアの実行を妨げるハードウェアの制限(英語版)からユーザーを保護するための条項が追加された。
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GNU
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GNUプロジェクトのライセンスは、GNU独自のソフトウェアパッケージだけではなく、GNUが直接的には作成していないソフトウェアプロジェクト(あるいはパッケージ)でも使用されている。GNUソフトウェアと組み合わせて使用されることが多いソフトウェア、例えば、Linuxカーネルなどがその代表である。一方、対照的に、Unix系のGUI環境を構築するX Window Systemは、Linuxディストリビューションでも標準的に使用されてきたソフトウェアパッケージであるが、こちらはGNUライセンスではなく、パーミッシブ・ライセンスに基づいてライセンスされる。前者が多数派であり、後者は少数派である。
GNUのロゴはヌーの頭である。元々はEtienne Suvasaによって描かれ、現在ではAurelio Heckertがデザインした大胆でシンプルなバージョンが好まれている。これはGNUソフトウェアや印刷されたり電子化されたGNUプロジェクトの文書に表示され、フリーソフトウェア財団のマテリアルにも使われる。
なお本章で示したGNU30周年記念ロゴは公式ロゴの修正バージョンであり、2013年9月にGNUプロジェクト30周年記念としてフリーソフトウェア財団によって作成されたものである。
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真鍋昌平
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真鍋 昌平(まなべ しょうへい、1971年 - )は、日本の漫画家。神奈川県茅ヶ崎市出身。代表作に『闇金ウシジマくん』がある。
小学校のころに『ドラえもん』を読んで感動し、漫画家を目指す。1993年に渋谷パルコのフリーペーパー『GOMES』主催のGOMES漫画グランプリで『ハトくん』が、しりあがり寿賞を受賞しデビュー。その後、グラフィックデザインのアルバイトを経て、1998年に『憂鬱滑り台』がアフタヌーン四季賞夏のコンテストの四季大賞を受賞し再デビュー。2000年より『月刊アフタヌーン』に『スマグラー』『THE END』を連載する。
2004年から2019年までビッグコミックスピリッツで『闇金ウシジマくん』を連載。同作品は社会の底辺にいる人々の生活や心理を克明に描き注目を集め、第56回(平成22年(2010年))小学館漫画賞一般向け部門、第23回(2020年)文化庁メディア芸術祭マンガ部門ソーシャル・インパクト賞を受賞した。
デビュー以来、八方塞がりの人間を主眼に置いた作品を描き続けている。過剰な暴力表現と、繊細な心理描写とが同居する特異な作風である。絵柄では吹き出しの中に入れた独特の擬音(「ニギ・・・ニギ・・・」など)により、人物の動作音と周囲の喧噪感を醸し出すことが多い。これに対比させるように陰影を際立たせた静寂な一枚絵によって、人物の絶望感を出す手法を用いている。
ウシジマくんの中後期まではコメディテイストがあり、どこか笑える債務者などの一人語りや珍妙な振る舞いが作品の魅力でもあった。 ウシジマくん最終章や九条の大罪においてはコメディテイストはなくなり、ハードボイルド一色になっている。
ストーリーに合わせてキャラクターの設定変更を行うことは躊躇なく行っており、こちらはデビュー以来一貫している。
2021年7月に発売された『AV女優ちゃん』第2巻では作者の峰なゆかと対談し、クズな人間に惹かれる理由やモラルについて語っている。
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ユーザインタフェース
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ユーザインタフェース(英: User Interface、 UI)または使用者インタフェースは、機械、特にコンピュータとその機械の利用者(通常は人間)の間での情報をやりとりするためのインタフェースである。これには長音符の有無などによる表記ゆれが見られるが、本記事では「ユーザインタフェース」で統一する。ユーザインタフェースは以下の手段を提供する。
システムを使う場合、ユーザーはそのシステムを制御でき、システムの状態を知ることができる必要がある。例えば、自動車を運転する際、運転手はハンドルを操作して進行方向を制御し、アクセルとブレーキとシフトレバーで速度を制御する。運転手は窓を通して外界を見ることで自動車の位置を把握し、速度計で正確な速度を知ることができる。自動車のユーザインタフェースは以上のような機器群で構成されており、全体として自動車の運転に必要なものを全て提供している。
ユーザインタフェースという語は、機械類等とそれの利用者、という関係を前提としている所がある。利用者という立場よりもより一般的に人間をとらえ、またそれと対峙するのが機械であることを意識・強調した語としてはヒューマンマシンインタフェース(HMI)がある。
ユーザーの種類によって異なるユーザインタフェースが用意されることも多い。例えば、図書館のシステムは、一般利用者向けの「とっつきやすさ」を重視したユーザインタフェースと、館員のための熟練を前提としたユーザインタフェースを持っているであろう。
場合によっては、コンピューターはユーザの振る舞いを観察し、特定のコマンドを入力しなくても何らかの反応を返すことがある。肉体の各部分の動きを追う手段が必要とされ、頭部の位置を把握するセンサーや視線の方向を把握するセンサーが実験的に使われている。これらは没入型インタフェースと呼ばれるものと深く関係している。
ユーザインタフェースのデザインは、ユーザーの入力に要する労力の量や出力を解釈するのに要する労力の量、さらには使い方の学習にかかる労力に深く関わっている。ユーザビリティ (usability) とは、特定のユーザインタフェース設計でユーザーの心理学的側面や生理学的側面をどの程度考慮しているかを測り、またそれによってそのシステムを利用する際の効率/効果/満足度を測る尺度である。
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ユーザインタフェース
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ユーザインタフェースのデザインは、ユーザーの入力に要する労力の量や出力を解釈するのに要する労力の量、さらには使い方の学習にかかる労力に深く関わっている。ユーザビリティ (usability) とは、特定のユーザインタフェース設計でユーザーの心理学的側面や生理学的側面をどの程度考慮しているかを測り、またそれによってそのシステムを利用する際の効率/効果/満足度を測る尺度である。
ユーザビリティは主にユーザインタフェースの特性だが、製品の機能そのものとも関係している。それは、ある製品が意図された目的に対して対象ユーザーによってどの程度効率よく、効果的かつ満足して使われるかを示すと同時に、利用時の状況から生じる要求を考慮しているかどうかにも関係する。これらの機能や特徴は常にユーザインタフェースの一部とは限らないが、製品のユーザビリティの重要な要素である。
UIデザインのための原則の中でも、ベン・シュナイダーマンや、ヤコブ・ニールセンによるものは最も著名である。国家試験である情報処理技術者試験でも、2010年に「ヤコブニールセンのユーザーインターフェースに関する10か条のヒューリスティックス」として出題されている。シュナイダーマン、ニールセン共にその原則に「一貫性の保持」や「エラーの防止」が含まれ、同じでなくとも類似したものも含まれている。
コンピュータプログラムのユーザインタフェースとは、プログラムがユーザーに提示するグラフィカルな情報、テキストによる情報、音声による情報と、ユーザーがプログラムを操作 (operate) するときに使う制御シーケンス(キーボードによるキー押下、マウスの動き、タッチパネルにおける選択など)を指す。以下ではプログラム(ソフトウェア)についての他、デバイス(ハードウェア)等についても触れる。
2008年現在、ユーザインタフェースには主に以下のような種類がある。
その他のユーザインタフェースの種類として、以下のものがある。
ユーザインタフェースの歴史は、支配的なユーザインタフェースの種類によって以下のように分けることができる。
1990年代以降に勃興したユーザインタフェースとして、以下のものがある。
ユーザインタフェースにおけるモダリティとは、入出力に使用されるコミュニケーションの経路である。例えば、
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ユーザインタフェース
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その他のユーザインタフェースの種類として、以下のものがある。
ユーザインタフェースの歴史は、支配的なユーザインタフェースの種類によって以下のように分けることができる。
1990年代以降に勃興したユーザインタフェースとして、以下のものがある。
ユーザインタフェースにおけるモダリティとは、入出力に使用されるコミュニケーションの経路である。例えば、
ユーザインタフェースは複数の冗長なモダリティを備えることがあり、ユーザーがいずれかを選択して使うことができるようになっている。
一方、モードはこれとは異なる概念で、プログラムの状態が異なると同じ入力を与えても異なる結果を生じることを意味する。モードを多用するとユーザーは常に現在の状態を覚えておく必要があるため、ユーザビリティの低下を招く。
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小池田マヤ
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小池田 マヤ(こいけだ マヤ、1969年5月4日 - )は、日本の漫画家。山口県光市虹ヶ丘生まれ、大阪府出身。京都市立芸術大学版画科卒業。女性。
本名「山田佳子」(やまだけいこ)。逆に読むと「こいけだまや」となる。
専門学校での非常勤講師経験あり。
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カーネル
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カーネル(英: kernel)は、階層型に設計されたオペレーティングシステム (OS) の中核となる部分で、アプリケーションとハードウェアの架け橋である。具体的には、システムのリソースや、ハードウェアとソフトウェアの連携を管理する。そのほか、通信制御を行うことが多い。
オペレーティングシステムの基本コンポーネントとして、カーネルはメモリ、CPU、入出力を中心としたハードウェアを抽象化し、ハードウェアとソフトウェアがやり取りできるようにする。また、ユーザープログラムのための機能として、プロセスの抽象化、プロセス間通信、システムコールなどを提供する。
これらのタスクはカーネルによって方式が異なり、設計や実装も異なる。モノリシックカーネルは全てを一つの仮想アドレス空間に格納されたコードで実行して性能を向上させようとする。マイクロカーネルはサービスの大部分をユーザー空間で実行し、コードの保守性とモジュール性を向上させようとする。多くのカーネルはこの二つのカテゴリのいずれか、あるいは中間である。
全てではないが、多くのオペレーティングシステム (OS) はカーネルを内包する。ハードウェアとソフトウェアの間の通信を管理するソフトウェアとしてのカーネルは、性能、メモリ効率、セキュリティ、プロセッサのアーキテクチャなどが複雑に絡んだ問題への妥協的解答である。
多くの場合、ブートローダーがカーネルを特権モードのプロセスとして起動する。しかし、初期化が完了すると、カーネルはいわゆるプロセスとしては存在せず、ディスクアクセスなどの高い特権レベルを必要とする処理を必要としたときにユーザプログラムから呼び出される機能の集合体として存在することになる。カーネルの処理の流れはユーザープロセスの処理の流れの延長上にあり、システムコールによってカーネルに処理がわたり、終了するとユーザーに戻っていく。初期化時のコンテキストはそのまま消えるようにする設計もあるが、「アイドルプロセス」とか「collects」と呼ばれる、プロセッサが何もすることがないときに実行されるコードに流用される設計とすることもある。省電力のため、プロセッサが「休む」ような命令を繰り返すようなコードとすることも多い。
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カーネル
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カーネル開発はプログラミングの中でも複雑で難しいタスクのひとつと考えられる。オペレーティングシステムの中核部であるということは、高い性能を要求される最重要なソフトウェアであり、正しく設計し実装することは難しい。カーネルはユーザプログラムの互換性や移植性を考慮する必要などから、設計が制限されることがあり、そのことがさらに開発を難しくしている。
カーネルの仕事はコンピュータのリソースを管理し、他のプログラムがそれらのリソースを使って動作できるようにすることである。典型的なリソースとしては以下のものがある。
リソース管理に必要な重要な観点は、実行領域(アドレス空間)の定義とその領域内のリソースへのアクセスを調停する保護機構である。
また、カーネルは一般にプロセス同士の同期と通信の手段も提供しており、プロセス間通信 (IPC) と呼ぶ。
カーネルは自前でそれらの機能を実装していることもあるし、何らかのプロセスに委任していることもあるが、後者の場合はプロセス間で機能へのアクセスを可能にするIPCを提供する必要がある。
最後に、カーネルはそれら機能群へのアクセスを要求する手段をプログラムに提供しなければならない。
カーネルの主な仕事はアプリケーションの実行を許可し、ハードウェア抽象化などの機能によってそれをサポートすることである。
プロセスは、アプリケーションがアクセスできるメモリの範囲を定義する。カーネルのプロセス管理は、ハードウェアの持つメモリ保護機構を考慮しなければならない。
カーネルはアプリケーションを実行するためアドレス空間を設定し、アプリケーションのコードを含むファイルをメモリにロードし、プログラムのためのコールスタックを設定し、そのプログラムの所定の位置に制御をわたすことで実行を開始する。
マルチタスク可能なカーネルは、ユーザーから見て実際にそのコンピュータが同時実行できるプロセス数よりも、多数のプロセスが同時並行して実行されているかのようにみせかける。一般にシステムが同時並行して実行できるプロセス数は、そのシステムの持つCPU数に等しい(同時マルチスレッディングをサポートしている場合はそのかぎりではない)。
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マルチタスク可能なカーネルは、ユーザーから見て実際にそのコンピュータが同時実行できるプロセス数よりも、多数のプロセスが同時並行して実行されているかのようにみせかける。一般にシステムが同時並行して実行できるプロセス数は、そのシステムの持つCPU数に等しい(同時マルチスレッディングをサポートしている場合はそのかぎりではない)。
プリエンプティブ・マルチタスクシステムでは、カーネルは各プログラムにタイムスライス(そのプログラムがCPU上で実行される連続時間)を与え、プロセスからプロセスへと高速に切り換えていくので、ユーザーから見ればそれらのプロセスが同時並行して実行されているように見えるのである。カーネルは次に実行すべきプロセスを決定し、タイムスライスの長さを決定するスケジューリングアルゴリズムを持つ。一般にプロセスには優先度が設定される。カーネルはそれらのプロセス間の通信手段も提供する。これはプロセス間通信 (IPC) と呼ばれ、パイプ、共有メモリ、メッセージ、RPC、ソフトウェア割り込みなどがある。
ほかに協調型マルチタスクもあり、各プロセスは自らカーネルに制御を戻すまで割り込まれずに実行を続けることができる。制御をカーネルに戻すことを "yielding" と呼び、プロセス間通信の際や何らかのイベントを待つ際に行われ、そのときにカーネルが別のプロセスを動作させる。古い Windows や Mac OS はこの方式だったが、コンピュータの性能向上に伴ってプリエンプティブ方式に切り換えた。
オペレーティングシステムは、マルチプロセッシング(SMPやNUMA)をサポートすることもある。この場合、複数のプログラムやスレッドが複数のプロセッサ上で動作する。そのようなシステムでカーネルを動作させる場合、「リエントラント(再入可能)」あるいは「割り込み可能」になるよう大幅な改造が必要となる。これはつまり、何か処理をしている最中にほかからも要求を受け付けるということである。この改造ができれば、異なるプロセッサ上で動作するプログラムが同時にカーネルを呼び出しても大丈夫になる。カーネルは複数のプロセッサからのメモリアクセスを同期させる方法(スピンロックなど)も提供しなければならない。これはメモリ管理とプロセス管理にまたがる問題である。
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カーネル
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カーネルはシステムの全メモリへの無制限のアクセスが可能で、ユーザープロセスの要求に応じて安全なメモリアクセスを提供しなければならない。このための第一歩はページング方式やセグメント方式による仮想アドレッシングである。仮想記憶方式では、カーネルは物理アドレスを別のアドレス、つまり仮想アドレスに変換する。これにより、各プログラムは(カーネル以外では)仮想空間上唯一のコードに見え、プログラムが互いに他のプログラムを破壊することを防止する。
多くのシステムで、あるプログラムの仮想アドレスはメモリ上にないデータを指していることがある。仮想アドレッシングによるインダイレクション層は、本来なら主記憶 (RAM) になければならないデータをハードディスクなどの補助記憶装置に退避させることを可能にする。結果としてOSは物理的な容量以上のメモリをプログラム群に提供可能となる。RAMにないデータがあるプログラムで必要になった場合、CPUはカーネルにそれを知らせ(ページフォールト)、(必要なら)カーネルが使われていないメモリブロックの内容をディスクに退避させ、必要なデータをそのメモリブロックに復帰させる(ページ置換アルゴリズム)。すると、プログラムは要求を行った時点から処理を再開させることができる。これをデマンドページングと呼ぶ。
仮想アドレッシング方式では、仮想空間をカーネル用の部分(カーネル空間)とアプリケーション用の部分(ユーザー空間)に分けることができる。アプリケーションはカーネル用メモリにアクセスできないので、アプリケーションにバグがあったとしてもカーネルにダメージを与えることはない。この根本的な分離は多くの汎用カーネルで実際に使われているが、別の方式を採用したカーネルの研究も行われている(たとえば、Singularity)。
メモリ管理のもうひとつの機能として、カーネル内の各モジュールやデバイスドライバが使用するメモリの割り当てがある(動的メモリアロケーション)。
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メモリ管理のもうひとつの機能として、カーネル内の各モジュールやデバイスドライバが使用するメモリの割り当てがある(動的メモリアロケーション)。
実際に何らかの作業をするには、OSはコンピュータに接続された周辺機器にアクセスする必要があり、周辺機器はその開発元などが書いたデバイスドライバを通して制御される。デバイスドライバはOSがハードウェアデバイスとやりとりするためのプログラムであり、OSに対して何らかのハードウェアを制御・通信するための情報を提供する。ドライバはアプリケーションにとっても重要で不可欠である。ドライバの設計目標は抽象化である。ドライバの機能はOSの定めたインタフェースからデバイス固有のインタフェースに変換することである。理論上、デバイスは適当なドライバがあれば正しく動作する。デバイスドライバは、ビデオカード、サウンドカード、プリンター、スキャナー、モデム、LANカードなどに対応して存在する。一般的なデバイスドライバの抽象化レベルを次に示す。
たとえば、ユーザー向けに何かを画面に表示する場合、アプリケーションがカーネルに要求し、その要求がディスプレイドライバに送られ、ディスプレイドライバが実際の文字やピクセルの描画を行う。
カーネルは使用可能なデバイスの一覧を保持しなければならない。この一覧は、事前に知られている場合(たとえば、組み込みシステムでは利用可能なハードウェアが変われば、カーネルを書き換える)、ユーザーが設定する場合(古いPCや個人用に設計されていないシステムなど)、OSが実行時に検出する場合(プラグアンドプレイ)がある。プラグアンドプレイのシステムでは、デバイス管理は最初にさまざまなバス(PCIやUSB)上をスキャンして実装されたデバイスを検出し、対応するドライバを探す。
デバイス管理は各OS固有の部分であり、カーネルの設計によってドライバの扱い方は異なるが、一般にカーネルはドライバが物理的にデバイスにアクセスするための入出力ポートやメモリ空間を用意する必要がある。デバイスへのアクセスはコンテキストスイッチを引き起こしたり、CPUを浪費したりすることになりやすく、性能オーバヘッドの元となるため、デバイス管理の設計は重要である。
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デバイス管理は各OS固有の部分であり、カーネルの設計によってドライバの扱い方は異なるが、一般にカーネルはドライバが物理的にデバイスにアクセスするための入出力ポートやメモリ空間を用意する必要がある。デバイスへのアクセスはコンテキストスイッチを引き起こしたり、CPUを浪費したりすることになりやすく、性能オーバヘッドの元となるため、デバイス管理の設計は重要である。
意味のある作業を実行するには、ユーザプログラムはカーネルの提供する全サービスにアクセスできなければならない。これはカーネルによって実装が異なるが、多くは標準CライブラリやAPIが提供され、そこから対応するカーネル機能が呼び出される。
カーネル機能を呼び出す方法は主にCPUがどのような機能を提供しているかに依存する。カーネル空間とユーザー空間が分離されている場合、ユーザープロセスが直接カーネルを呼び出すことはできない。たとえば以下のような技法を採用する。
カーネル設計において重要な観点として、障害(フォールトトレラント性)と悪意ある動作(セキュリティ)からの保護(プロテクション)サポートがある。この2つは通常明確には区別されず、明確に区別しようとするとリングプロテクションでは対応できなくなる。
カーネルが提供する機構または方針は、いくつかの基準で分類できる。
などである。
階層型プロテクションは、一般に「CPUモード」でサポートされる。ハードウェアサポートによる単純で効率的な方法は、MMUにメモリアクセスのたびにその妥当性をチェックさせるもので、その機構をケイパビリティベースドアドレッシング(英語版)と呼ぶ。ただし、多くの商用コンピュータアーキテクチャではMMUがケイパビリティをサポートしていない。
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などである。
階層型プロテクションは、一般に「CPUモード」でサポートされる。ハードウェアサポートによる単純で効率的な方法は、MMUにメモリアクセスのたびにその妥当性をチェックさせるもので、その機構をケイパビリティベースドアドレッシング(英語版)と呼ぶ。ただし、多くの商用コンピュータアーキテクチャではMMUがケイパビリティをサポートしていない。
代替手法は、階層型プロテクションでケイパビリティをシミュレートするものである。この場合、保護されたオブジェクトはアプリケーションがアクセスできないアドレス空間になければならない。カーネルもそのようなメモリ空間のケイパビリティのリストを保持する。ケイパビリティによって保護されたオブジェクトにアプリケーションがアクセスしたい場合、システムコールを行い、カーネルが実際のアクセスを代行する。これにはアドレス空間の切り替えを必要とするため、オブジェクト間で複雑なやりとりが必要なシステムでは性能が低下するが、現代のOSはアクセス頻度が低いオブジェクトや性能を要求されないオブジェクトについてはこの方式を採用している。保護機構をより高い階層でシミュレートする方式も可能だが(たとえば、直接サポートされていないハードウェアについてのページテーブルを操作してケイパビリティをシミュレートするなど)、性能上の問題がある。言語ベースの保護を選択するシステムでは、ハードウェアサポートがなくても問題にならない。
カーネル設計における重要な点として、セキュリティの機構と方針を実装する抽象化レベルの選択がある。カーネルのセキュリティ機構は、高度なセキュリティをサポートする上で重要である。
1つの方式として、ファームウェアとカーネルでフォールトトレラント性をサポートする方式があり、その上に悪意ある動作に対するセキュリティ方針を構築し(必要に応じて暗号機構を追加する)、一部の責任をコンパイラに委任する。コンパイラやアプリケーションレベルへのセキュリティ方針の責任委譲の方式を一般に「言語ベースのセキュリティ」と呼ぶ。
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1つの方式として、ファームウェアとカーネルでフォールトトレラント性をサポートする方式があり、その上に悪意ある動作に対するセキュリティ方針を構築し(必要に応じて暗号機構を追加する)、一部の責任をコンパイラに委任する。コンパイラやアプリケーションレベルへのセキュリティ方針の責任委譲の方式を一般に「言語ベースのセキュリティ」と呼ぶ。
現代の主流のOSの多くは重要なセキュリティ機構が欠如しているため、アプリケーションの抽象化レベルでの適切なセキュリティ方針実装ができないことがある。一般にカーネルサポートがどうであれ、アプリケーションで任意のセキュリティ方針を実装可能だとされているが、間違いである。
現代の一般的コンピュータは、ハードウェアが強制した規則を使ってプログラムのデータへのアクセスを許可している。プロセッサは動作を監視し、規則に違反したプログラムを停止させる(たとえば、カーネル空間のメモリを読み書きしようとしたユーザプロセスを停止させるなど)。ケイパビリティをサポートしていないシステムでは、プロセスは相互に隔離されたアドレス空間で動作する。ユーザプロセスがカーネルを呼び出すことは、上述したシステムコールの技法を使って統制されている。
代替手法として言語ベースの保護(プロテクション)がある。言語ベースのプロテクションシステムでは、カーネルは信頼されている言語コンパイラが生成したコードのみ実行を許可する。そしてその言語は、セキュリティに違反するようなコードをプログラマが書けないように設計されている。
この方式には次のような長所がある。
一方、次のような短所がある。
言語ベースのプロテクションを採用したシステムとしては、JXやマイクロソフトのSingularityがある。
エドガー・ダイクストラは論理的観点から、バイナリセマフォにおける不可分なロックとアンロック操作だけで、プロセス間の任意の協調作動を実現できることを証明した。しかしそのような方式は一般に安全性や効率性が欠如しており、メッセージパッシング方式の方が柔軟性が高い。他の方式もいくつかあり、現代のカーネルでは共有メモリやRPCなどのシステムをサポートしていることが多い。
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エドガー・ダイクストラは論理的観点から、バイナリセマフォにおける不可分なロックとアンロック操作だけで、プロセス間の任意の協調作動を実現できることを証明した。しかしそのような方式は一般に安全性や効率性が欠如しており、メッセージパッシング方式の方が柔軟性が高い。他の方式もいくつかあり、現代のカーネルでは共有メモリやRPCなどのシステムをサポートしていることが多い。
入出力デバイスを並行して協調作動する他のプロセス群から一様に扱えるようにするというカーネルの考え方は、Per Brinch Hansen が提唱し実装したのが最初である(似たような考え方は1967年にも示唆されていた)。Hansen はその説明で、「共通の」プロセス群を「内部プロセス」、入出力デバイスを「外部プロセス」と呼んでいる。
物理メモリと同様、アプリケーションがコントローラのポートやレジスタに直接アクセスすることを許可すると、コントローラが不正作動したり、システムがクラッシュすることになる。それに加えて、デバイスの複雑さに応じて対応するプログラムは非常に複雑化することがあり、しかも複数の異なるコントローラを使うことがある。そのため、デバイスを管理するためのより抽象化されたインタフェースを提供することが重要である。この抽象化を提供するのは一般にデバイスドライバや Hardware Abstraction Layer (HAL) である。アプリケーションは必要なら頻繁にデバイスへのアクセスを要求する。カーネルはシステムに接続されたデバイスの一覧を何らかの方法で保持しなければならない。これはBIOSや各種システムバスの機能(PCI/PCIeやUSB)を使ってなされる。あるアプリケーションがあるデバイス操作を要求すると(たとえばディスプレイに文字を表示する)、カーネルは対応するドライバ(たとえばビデオドライバ)に要求を送らなければならない。するとそのドライバがデバイスに対して必要な処理を行う。マイクロカーネルの場合、この際にプロセス間通信 (IPC) が使われる。
もちろん、上述したタスク群や機能群の提供方法は設計や実装の面でさまざまである。
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もちろん、上述したタスク群や機能群の提供方法は設計や実装の面でさまざまである。
「機構と方針の分離」の原則は、マイクロカーネルとモノリシックカーネルの哲学の間でかなり大きな相違がある。ここで、「機構」はさまざまな「方針」の実装を可能とするものであり、「方針」は特定の「操作のモード」である。たとえば「機構」面では、ユーザーがログインしようとしたとき認証サーバを呼び出してアクセスを認めるべきか否かを決定するということが考えられる。一方「方針」面では、認証サーバがパスワードを要求し、データベース内の暗号化されたパスワードと照合するかもしれない。機構が汎用的であれば、機構と方針が同一モジュールに統合されている場合よりも方針の変更(たとえば、パスワードの代わりにセキュリティトークンを使うなど)がより容易になる。
最小のマイクロカーネルでは非常に基本的な方針のみが含まれ、その機構はカーネル上で動作させるもの(OSの残りの部分やアプリケーション群)自身がどのような方針(メモリ管理、高度なプロセススケジューリング、ファイルシステム管理など)を採用するか決定することを可能にする。一方モノリシックカーネルは方針の大部分をカーネル内に含む傾向があり、結果としてその上の部分の自由度は制限される。
Per Brinch Hansen は機構と方針の分離のための主張を展開した。すなわち、この分離が不適切であることが既存のOSで本質的技術革新が見られないことの主要因だとし、コンピュータアーキテクチャにおける共通課題だとした。モノリシック設計は、従来の商用システムで一般的な保護技法である「カーネルモード」と「ユーザーモード」に分離するアーキテクチャ(いわゆるリングプロテクション)から生まれた。そのアーキテクチャでは、保護(プロテクション)を必要とするモジュールを可能な限りカーネルに含めようとする。このようなモノリシック設計と特権モードの関係が機構と方針の分離における重要な問題として再注目されている。実際「特権モード」のアーキテクチャ技法は保護機構とセキュリティ方針を融合させる傾向があるが、これとは大きく異なるアーキテクチャ技法であるケイパビリティベースドアドレッシング(英語版)ではその2つを明確に区別し、自然にマイクロカーネル設計が可能となる。
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カーネル
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モノリシックカーネルはカーネルの全コードを同じアドレス空間(カーネル空間)で実行するが、マイクロカーネルでは多くのサービスをユーザー空間で実行しようとし、コードベースの保守性とモジュール性を向上させようとしている。多くのカーネルは明確にどちらかに分類できるわけではなく、その中間の実装ともいうべきハイブリッドカーネルになっている。さらに特殊な設計としてナノカーネルやエクソカーネルが研究されているが、広く使われるまでには至っていない。エクソカーネルの例としてXenハイパーバイザがある。
モノリシックカーネルでは、全OSサービスはひとつのカーネル空間内に存在し、カーネルスレッド上で実行される。この手法は強力なハードウェアアクセスを提供する。UNIXの開発者ケン・トンプソンは、モノリシックカーネルの方がマイクロカーネルより実装が容易だとしている。主な欠点はシステム構成要素間の依存関係の複雑さである。たとえば、デバイスドライバにバグがあっただけでシステム全体がクラッシュするし、大きなカーネルは保守が非常に困難である。
Unix系OSが伝統的に採用してきたモノリシックカーネルは、OS中核機能とデバイスドライバを全て含んでいた。デバイスドライバ、スケジューラ、メモリ管理、ファイルシステム、ネットワークのプロトコルスタックなど、多くのプログラムが必要とするがライブラリとしてユーザー空間で実行することができない機能は、全てカーネル空間に置かれた。それら全サービスへのアクセスを可能にするため、数多くのシステムコールがアプリケーションに対して提供されている。
必要とされないサブシステムを伴って最初からロードされるモノリシックカーネルは、より汎用的な意味ではあるが、特定ハードウェア向けに設計されたものよりもチューニングが可能である。LinuxやFreeBSDなどの現代のモノリシックカーネルはUnix系OSであり、実行時にモジュールをロードする機能を備えており、必要に応じて容易に機能を拡張でき、同時にカーネル空間で動作するコード量をなるべく最小に抑えることができる。モノリシックカーネルには次のような長所がある。
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モノリシックカーネルはシステムコールの延長で動作する部分がほとんどである。システムコールは一般にテーブル構造で保持されるインタフェースであり、ディスク操作などのカーネル内サブシステムへのアクセスを行う。プログラム内でライブラリルーチンを呼び出すと、その中で要求をチェックしてコピーし、システムコールにわたす。したがって、それほど重い呼び出しではない。Linuxカーネルはモノリシックだがかなり小さくできる。これは、ローダブル・カーネル・モジュール機能と、カスタマイズが容易なためである。実際、フロッピーディスク1枚にカーネルだけでなく多数のユーティリティを搭載し、それだけで完動するOSとすることもできる(最も有名な例として muLinux(英語版) がある)。このカーネルを小型化できる能力があるため、Linuxは組み込みシステムで急速に採用が増えている(組み込みLinux)。
このようなカーネルはOSの中核機能とデバイスドライバからなり、実行時にモジュールをロードする機能を備えている。それらによって、下層のハードウェアについての豊富で強力な抽象化を提供する。それらは単純なハードウェア抽象化の小さなセットを提供し、サーバと呼ばれるアプリケーションを使ってさらなる機能を提供する。この特定の手法でハードウェア上の高度な仮想インタフェースを定義し、プロセス管理、並行性管理、メモリ管理といったスーパーバイザモードで動作するいくつかのモジュールでOSサービスを実装し、システムコールでそれらを呼び出せるようにしている。しかし、このような設計には以下のような短所や制約がある。
マイクロカーネルとは、伝統的な「カーネル」から「サーバ」群に機能を移転するOS設計方針を意味し、最小化したカーネルだけをカーネル空間に残し、サーバ群を可能なかぎりユーザ空間で動作させる。マイクロカーネルでは、ハードウェアの単純な抽象化と最小のプリミティブ(システムコール)で最小のOSサービスを実装する(メモリ管理、マルチタスク、プロセス間通信など)。他の全てのサービス(ネットワークなど)は「サーバ」としてユーザ空間に実装される。マイクロカーネルはモノリシックカーネルよりも保守が容易だが、システムコール回数やコンテキストスイッチ回数が増大するために性能が低下する傾向がある。
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どうしても特権モードでなければならない部分だけがカーネル空間に置かれる。それは、IPC(プロセス間通信)、基本スケジューラ(スケジューリング・プリミティブ)、基本メモリハンドラ、基本I/Oプリミティブなどである。スケジューラ本体やメモリ管理、ファイルシステム、ネットワークスタックといった大部分はユーザ空間で動作する。マイクロカーネルは、システム機能全体がプロセッサのシステムモードで動作する1つのプログラムになっているモノリシックカーネルの設計方針への反発から生まれた。マイクロカーネルを採用したOSとしては、QNXや GNU Hurd がある。マイクロカーネルは基本的に次のような長所を持つ。
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多くのマイクロカーネルは、何らかのメッセージパッシングシステムを採用しており、サーバからサーバへの要求の転送を行う。一般にマイクロカーネルがそのためのポートを用意している。たとえばメモリ追加要求を送ると、マイクロカーネルのあるポートが開き、そこを通して要求が転送される。マイクロカーネルにメッセージが受信されると、その後はシステムコールのように処理される。これによってシステムアーキテクチャのモジュール性が高まり、システムがより整理され、デバッグや動的変更が容易になり、ユーザーのニーズに従ったカスタマイズが可能となる。AIX、BeOS、Hurd、macOS、MINIX、QNX といったOSは多かれ少なかれマイクロカーネルの設計方針を取り入れている。マイクロカーネル自体は非常に小さいが、システム機能全体を構成するコードを全て集めると、モノリシックカーネルよりも大きいことが多い。モノリシックカーネル支持派はまた、マイクロカーネル方式の2層構造によりOSの大部分がハードウェアと直接相互作用できなくなるため、決して小さくないコストが上乗せされ、システムの効率を低下させると主張している。マイクロカーネルは通常、アドレス空間定義部、プロセス間通信 (IPC)、プロセス管理といった最小限のサービスだけを提供する。ハードウェア処理といった他の機能はマイクロカーネルで直接扱うことはない。マイクロカーネル支持派は、モノリシックカーネルでのエラー(バグ)がシステム全体のクラッシュを引き起こすという欠点を指摘する。しかしマイクロカーネルでは、サーバがクラッシュしてもそのサービスを再起動することでシステム全体のクラッシュを防ぐ可能性がある。しかし、現にLinuxなどのモノリシックカーネルは年単位で安定動作している実績があり、このようなマイクロカーネルの利点がどれほど重要かは疑わしい。
ネットワーキングなどのカーネルサービスは「サーバ」と呼ばれるユーザ空間のプログラムとして実装される。サーバを停止・再起動するだけでOSを更新可能である。たとえばネットワークをサポートしていないマシンで、ネットワークサーバは起動する必要がない。サーバ群やカーネルの間でデータをやり取りする作業があるため、モノリシックカーネルにはないオーバヘッドが生じ、効率が低下する。
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ネットワーキングなどのカーネルサービスは「サーバ」と呼ばれるユーザ空間のプログラムとして実装される。サーバを停止・再起動するだけでOSを更新可能である。たとえばネットワークをサポートしていないマシンで、ネットワークサーバは起動する必要がない。サーバ群やカーネルの間でデータをやり取りする作業があるため、モノリシックカーネルにはないオーバヘッドが生じ、効率が低下する。
マイクロカーネルの短所はたとえば次のようなものがある。
マイクロカーネル方式では、OSの他の部分を通常のアプリケーションのように高水準言語で書くことができ、同一のカーネル上で異なるOS(のインタフェース)を使用することができる。また動的にOSを切り換えたり、複数のOSを同時に使用することもできる。
カーネルが巨大化するにつれて、さまざまな問題が明らかになってきた。最も明らかな問題はカーネルの大きさ(メモリ使用量)の増大である。これは仮想記憶をカーネル空間にも適用することである程度まで和らげられるが、全てのコンピュータ・アーキテクチャが仮想記憶をサポートできるわけではない。カーネルのサイズを削減するため、不要なコードを削除するなどの改善が必要となるが、これはカーネルの各モジュール間の明らかにされていない依存関係があるために非常に困難である。
マイクロカーネルと比較したときのモノリシックカーネルのさまざまな欠点から、1990年代の初期までにモノリシックカーネルは時代遅れと考えられるに至った。結果としてLinuxがモノリシックカーネルを採用したことでリーナス・トーバルズとアンドリュー・タネンバウムの間で有名な論争が発生した(アンドリュー・タネンバウムとリーナス・トーバルズの議論)。この議論では、両者の言い分にそれぞれメリットがある。
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マイクロカーネルと比較したときのモノリシックカーネルのさまざまな欠点から、1990年代の初期までにモノリシックカーネルは時代遅れと考えられるに至った。結果としてLinuxがモノリシックカーネルを採用したことでリーナス・トーバルズとアンドリュー・タネンバウムの間で有名な論争が発生した(アンドリュー・タネンバウムとリーナス・トーバルズの議論)。この議論では、両者の言い分にそれぞれメリットがある。
モノリシックカーネルは設計が容易で、マイクロカーネルよりも迅速に成長することが期待できる。しかし、モノリシックカーネル内のバグは一般にシステムクラッシュを引き起こすのに対して、マイクロカーネルでは一部のサーバに問題が限定される。モノリシックカーネルの支持者は、不正なコードがカーネルになければマイクロカーネルの利点はほとんどないと論じる。どちらの側にも成功例がある。マイクロカーネルはロボットや医療用システムで使われており、各コンポーネントが別々の保護されたメモリ空間で動作する。これは最新のモジュールロード方式であってもモノリシックカーネルには不可能であろう。モノリシックカーネルは共有型カーネルメモリを使用するよう最適化されていて、マイクロカーネルのような低速なメッセージわたしとは異なる。
モノリシックカーネルはコード全体を同じアドレス空間(カーネル空間)に置くよう設計されており、一部の開発者はシステム性能向上に必須の特徴だとしている。一部の開発者はうまく書けばモノリシックカーネルは極めて高効率になるとしている。
1980年代から1990年代初めにかけてのマイクロカーネルの性能は低かった。そういった初期のマイクロカーネルの性能を実測する研究が行われたが、性能が低い原因を深く分析することはなかった。そういったデータが一人歩きし、カーネルモードとユーザモードの切り替え回数が増え、プロセス間通信の回数が増え、コンテキストスイッチの回数が増えたためだ とみなされた。
そして1995年、マイクロカーネルの性能が低い原因として以下のことが推測されている。
この時点でマイクロカーネルを効率化する方法はまだ研究途上であり、正しい技法の構築が求められていた。
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そして1995年、マイクロカーネルの性能が低い原因として以下のことが推測されている。
この時点でマイクロカーネルを効率化する方法はまだ研究途上であり、正しい技法の構築が求められていた。
一方でモノリシックカーネルの設計の基盤となっている階層型プロテクション でも、プロテクションの階層間でのやりとりには値(メッセージ)のコピーが必要であり、そのやりとりが増えるほど性能が低下することがわかっていた。
近年、L4 やK42(英語版)といった新世代のマイクロカーネルが登場し、上述の性能問題をある程度解決している。
Windows NT系などの商用OSでよく見られる。Appleの macOS も、カーネギーメロン大学のMachとFreeBSDのモノリシックカーネルのコードをベースとしたXNUというハイブリッドカーネルを採用している。マイクロカーネルの性能オーバヘッドを削減するため一部のサービス(通信プロトコルスタックやファイルシステム)をカーネル空間で動作させるが、一部のカーネルコード(デバイスドライバなど)はサーバとしてユーザ空間で実行する。これは、純粋なマイクロカーネルが高性能を提供できると示される以前、妥協的に考案された技法であり、マイクロカーネルにモノリシックカーネルの特性を一部取り入れて拡張したものといえる。
ハイブリッドカーネルではカーネルがモジュール化されているが、モジュールの大部分は同じカーネル空間内にロードされる。そのため、バグを含むモジュールをロードするとカーネルの動作が不安定になる可能性がある。マイクロカーネルの場合、カーネルとは全く別の空間でモジュールを動作させることができ、安全に評価することができる。モノリシックカーネルと比較したハイブリッドカーネルの長所を以下に挙げる。
モジュール群は何らかのモジュールインタフェースを使ってカーネルとやりとりする。そのインタフェースはOS固有ではあるが汎用化されており、常にモジュールとして分離実装できるわけではない。デバイスドライバにはモジュールインタフェース以上の柔軟性が必要なことが多い。基本的にモノリシックカーネルではカーネルとの呼び出しが1回で済むところを、ハイブリッドカーネルでは2回呼び出す必要がある。モジュール化の短所として次の事柄が挙げられる。
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ナノカーネルは全てのサービスをデバイスドライバとして分離する。これにはたとえば最も基本的な割り込みコントローラやタイマーの制御も含まれる。これによりカーネルメモリはマイクロカーネルよりもさらに小さくなる。
エクソカーネル (exokernel) はまだ実験段階のOS設計技法である。他のカーネルとの違いは、物理ハードウェアのプロテクションと多重化に機能を限定している点で、アプリケーションに対して全くハードウェアの抽象化を提供しない。このようにハードウェアのプロテクションをハードウェア管理から分離することで、利用可能なハードウェアを最大限に生かすように個々のプログラムを開発できるという利点が生じる。
エクソカーネル自体は非常に小さい。しかし、通常のOSの持つ機能をアプリケーション開発者に提供するためのライブラリ型OSを伴う。エクソカーネル型システムの最大の利点は、このライブラリ型OS機能を複数用意できるという点で、それぞれが異なるAPIを提供できる。たとえば同じシステム上で、高度なUIを持つアプリケーションを開発し、同時にリアルタイムシステム制御を行うアプリケーションも開発できる。
厳密にいえば、オペレーティングシステム(とカーネル)はコンピュータを動作させるのに必須ではない。プログラムはマシン上に直接ロードされ実行されることも可能であり、そのようなプログラムはOSのサービスや抽象化なしで記述しなければならない。多くの初期のコンピュータではそのような手法が一般的であり、プログラムを入れ替えるときにリセットとリロードが必要だった。その後、プログラムローダーやデバッガといった補助的な小さなプログラムがメモリに常駐したり、ROMからロードされるようになった。これらが初期のオペレーティングシステムのカーネルの元となった。直接実行の手法は今日でもゲーム機や組み込みシステムで使われているが、一般に最近のコンピュータではオペレーティングシステムとカーネルが使われている。
1969年の RC 4000 Multiprogramming System では、小さな中核部の上で異なる目的のOS群を整然とした方法で構築するというシステム設計哲学を導入しており、マイクロカーネル方式のさきがけとなっている。
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1969年の RC 4000 Multiprogramming System では、小さな中核部の上で異なる目的のOS群を整然とした方法で構築するというシステム設計哲学を導入しており、マイクロカーネル方式のさきがけとなっている。
UNIX以前の10年間、コンピュータは劇的に能力を向上させ、マシンの未使用時間を使う手法が求められた。この期間の主な開発のひとつがタイムシェアリングシステム (TSS) である。TSSは何人かのユーザーがCPUのタイムスライスをそれぞれ割り当てられる。
タイムシェアリングシステムの開発は多くの問題を発生させた。ひとつの問題は大学のユーザーはCPU時間が欲しいというよりもシステムをハックしたがっているという点である。このためセキュリティやアクセス制御が1965年のMulticsプロジェクトの重要な課題となった。もうひとつの問題は計算リソースの正しい扱い方である。ユーザーは計算リソースを使わずに画面を凝視することにほとんどの時間を費やしており、タイムシェアリング方式ではそのようなCPU時間を他のユーザーに与えるべきと考えられた。最終的に、メモリ階層の多層化が進み、リソースの分割が仮想記憶システムの開発へと繋がっていったのである。
UNIXの設計段階で、全ての高レベルのデバイスをファイルとして抽象化することが決定された。なぜならUNIX設計者は情報処理の目的をデータの変換であると考えていたからである。
たとえば、プリンターもファイルとして抽象化され、データをそのファイルにコピーすると印字が行われる。他のシステムでは同様の機能を提供するにあたって、デバイスを低レベルに抽象化する傾向があった。デバイスもファイルも何らかの低レベルの概念の実体化である。システムをファイルのレベルで仮想化したことにより、ユーザは既存のファイル管理機能と概念で全てを扱うことができるようになり、操作が大幅に簡略化された。同じパラダイムを拡張して、UNIXはファイルを複数の小さなプログラムで操作するパイプの概念を可能とした。最終的な結果は同じであっても、このような小さなプログラム群を使うことで柔軟性が劇的に向上しただけでなく、開発も利用も容易になった。
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UNIXでは、オペレーティングシステムは2つの部分で構成される。さまざまな操作を実行するユーティリティプログラム群とカーネルである。プログラミングの観点から見ると両者の違いは小さい。カーネルは特権モードで動作するプログラムであり、プログラムローダーとしての役割とシステムの残りの部分を構成するユーティリティプログラム群を監督する役割を持つ。そして、それらプログラムにロックと入出力サービスを提供する。つまり、カーネルはあらゆる場面に介在しているわけではなかった。
その後、計算モデルが変化し、UNIXの何でもファイルで表す手法が常に適用可能な方法ではなくなってきた。端末はファイルで表せるが(どちらも文字列を読み書きできる)、GUIはそのように扱うことはできない。コンピュータネットワークは別の問題を提起した。ネットワーク経由の通信はファイルアクセスに対応させることができるが、低レベルのパケット指向アーキテクチャはファイルというよりも離散的なデータの塊として扱う必要がある。コンピュータの機能が拡大するにつれ、UNIXのコードは増大していった。それはまた、UNIXカーネルのモジュール性が非常にスケーラブルなためでもあった。初期のカーネルのソースは10万行ほどだったが、Linuxカーネルなどでは1300万行にもなっている。
現代のUnix系OSは、モノリシックカーネルにモジュールローディング機能を加えたものとなっている。たとえば、Linuxカーネルを採用した各種Linuxディストリビューションや、BSDの子孫である FreeBSD、DragonFly BSD、OpenBSD、NetBSD、macOS などがある。
Appleは1984年、最初のMac OSを同社のパーソナルコンピュータMacintoshに同梱して発売した。後継のmacOSはDarwinをベースとしており、4.4BSDユーザーランドとMachカーネルを統合したXNUと呼ばれるハイブリッドカーネルを採用している。
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Appleは1984年、最初のMac OSを同社のパーソナルコンピュータMacintoshに同梱して発売した。後継のmacOSはDarwinをベースとしており、4.4BSDユーザーランドとMachカーネルを統合したXNUと呼ばれるハイブリッドカーネルを採用している。
Microsoft Windowsは1985年、MS-DOSへのアドオンとしてリリースされた。他のOSに依存していたため、Windows 95までのリリースはOSではなくオペレーティング環境とみなされている。その製品ラインは発展して、Windows 9x系となり(32ビット化やプリエンプティブ・マルチタスクといった強化を経て)、最終的に2000年にWindows Meがリリースされた。マイクロソフトはまた、ハイエンド向けにWindows NT のラインも1993年の Windows NT 3.1からスタートさせ、こちらは2000年以降も続いている。
2001年10月にリリースされたWindows XPでWindows 9x系を置換して一般ユーザー向けOSが一新された。Windows NT系のカーネルはWindow ManagerやIPC Managerとクライアント・サーバ型階層型サブシステムモデルを採用しており、ハイブリッドカーネルとみなされている。
汎用マイクロカーネルとしてはカーネギーメロン大学が1985年から1994年まで開発したMachが有名だが、特定用途向けにもいくつかのマイクロカーネルが開発された。L4はマイクロカーネルの性能が悪くないことを実証するために作られた。ここから派生した新たな実装の Fiasco や Pistachio はLinuxをその上で動作させることができる。
QNXはマイクロカーネル設計を採用したリアルタイムオペレーティングシステムであり、1980年代初期に開発され、Machよりもはるかに成功している。ソフトウェアが不正作動することが致命的な状況で使われることが多く、スペースシャトルのロボットアームの制御やガラスを精密に磨く機械の制御で使われている。
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物性物理学
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物性物理学(ぶっせいぶつりがく)は、物質のさまざまな巨視的性質を微視的な観点から研究する物理学の分野。量子力学や統計力学を理論的基盤とし、その理論部門を物性論(ぶっせいろん)と呼ぶことも多い。これらは日本の物理学界独特の名称であるが、しばしば凝縮系物理学に比定される。狭義には固体物理学を指し、広義には固体物理学(結晶・アモルファス・合金)およびソフトマター物理学・表面物理学・物理化学、プラズマ・流体力学などの周辺分野を含む。
18世紀以前において、物理学は物体の運動や天体の運行など解析学や幾何学によって説明できる分野を中心としていた。これに対して化学は物質の性質をあるがままに、すなわち博物学的に記述することが一般的であった。
18世紀に発展した熱力学は、物質としての気体の性質を巨視的な観点から現象論的に体系づけたものであり、これが物性物理学の基礎となった。19世紀後半になると物質の熱力学特性を、より微視的な立場から体系的に記述する統計力学の考え方が本格的に導入され、現象論に過ぎなかった熱力学に基礎付けがなされた。さらに20世紀前半には量子力学が確立し、固体の結晶構造や化学反応を記述できるようになった。
また最近では高分子や液晶、コロイド等を対象とするソフトマター物理学も物性物理学の一つの分野となっている。ただし、日本において物性論あるいは物性物理学という言葉が使われるようになったのは1940年代以降である。
物性理論は、理論モデルを用いた物質状態の性質の理解と関連する分野である。これには、固体の電子状態モデルの研究、例えば、ドルーデモデル・バンド構造・密度汎関数理論といったものが含まれる。また、相転移の物理の理論モデルの研究(例えば臨界指数の理論やギンツブルグ-ランダウ理論など)や、量子場の理論や繰り込み群に使われる数学的手法を応用するといった分野も発展している。現代的な理論研究は、電子状態の数値計算や、高温超伝導・トポロジカル秩序(英語版)・ゲージ対称性等の現象理解のための数学の利用とも関係している。
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物性物理学
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物性実験は、実験装置を用いて物質の新しい性質を発見することに関連する分野である。例えば、電磁場を作用させて周波数特性や熱伝導特性、温度を測定したりする。よく用いられる実験手法には、X線や赤外線、非弾性中性子散乱を利用した(広義の)分光法や、熱的応答の研究、つまり比熱や伝導による輸送熱の測定といったものがある。
物性物理学の研究は、様々なデバイスへの応用を生み出した。例えば、トランジスタ、レーザー技術、ナノテクノロジーで研究される様々な現象が挙げられる。走査型トンネル顕微鏡の技法はナノスケールでの制御過程に応用され、ナノリソグラフィという研究分野を生んだ。
量子コンピュータの分野では、情報は量子ビット(またはキュービット)で表される。量子ビットは、計算が終わるより前に素早く量子デコヒーレンスを起こしてしまうかもしれない。この重大な問題は量子コンピュータが実用化される前に解決されなければならない。ジョセフソン接合による量子ビット、磁性体のスピン配向を用いたスピントロニカル量子ビット、分数量子ホール効果状態から得られるトポロジカル非アーベルエニオン等、問題解決のためのいくつかの有望なアプローチが物性物理学の分野から提案されている。
物性物理学は生物物理学の分野にも重要な応用がある。例えば、核磁気共鳴画像法は医療診断の現場で広く使用されている。
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磁性体
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磁性体(じせいたい)とは、一般には磁性を帯びることが可能な物質であり、専門的には反磁性体・常磁性体・強磁性体の3つに分けられる。このため、すべての物質が磁性体であるといえるが、通常は強磁性体のみを磁性体と呼ぶ。比較的簡単に磁極が消えたり反転してしまう磁性体は軟質磁性体と呼ばれ、そうでない磁性体は硬質磁性体と呼ばれる。
代表的な磁性体に酸化鉄・酸化クロム・コバルト・フェライト・非酸化金属磁性体(オキサイド)などがある。
固体状態のものは磁石として、電動機の界磁として使用される。 硬質材料の円盤上に磁性粉を塗布あるいは蒸着したものがハードディスクドライブ(のプラッタ)に用いられる。柔軟な合成ゴムにまぜて板状にするとマグネットシートになり、液体にコロイド分散させると磁性流体となる。医療分野では強力な磁力を使ったMRIやごく微弱な磁力を利用するSQUIDの形で実用化されている。新しい情報記憶素子のMRAMなどを含むスピントロニクスと呼ばれる科学研究分野が注目されている。
磁性材料の評価は、磁場を正負の磁場に掃引させることに得られるヒステリシスカーブによる解析が主だが、測定結果は、測定対象物の磁気モーメントの平均値となるので、対象物中の磁気相互作用や保磁力の分布に対する情報は得ることができない。近年では、ナノスケールの磁性材料やナノコンポジット磁石などの研究も盛んになっており、磁気特性を評価するためには、平均化された特性だけでなく、材料中の構成物質間の相互作用などについての評価も重要になってきている。
磁化された磁性体を磁化されていない状態に戻すために必要な反対向きの外部磁場の強度。
飽和磁化は材料固有の磁気物性値で強磁性物質を磁界中に置いて磁界を増加させていくとある磁界以上で磁化が一定となる。この磁化を飽和磁化という。温度の上昇とともに、飽和磁化は減少する。
磁石が持つエネルギーの大きさは、B-H減磁曲線上の磁束密度Bと磁場Hの積に比例する。このBxHの最大値を最大エネルギー積(BH)maxと呼び、kJ/m3(MGOe)で表す。
あらゆる形の磁石には磁化と磁化の大きさに比例する反対方向の磁場(反磁場)Hdが必ず発生する。 この反磁場Hdは下記のように表される。
Hd = -NJ (N : 反磁場係数)
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磁性体
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磁石が持つエネルギーの大きさは、B-H減磁曲線上の磁束密度Bと磁場Hの積に比例する。このBxHの最大値を最大エネルギー積(BH)maxと呼び、kJ/m3(MGOe)で表す。
あらゆる形の磁石には磁化と磁化の大きさに比例する反対方向の磁場(反磁場)Hdが必ず発生する。 この反磁場Hdは下記のように表される。
Hd = -NJ (N : 反磁場係数)
このときNは反磁場係数と呼ばれ、磁石(磁性体)の形状によって決まる数値で、反磁場係数Nの代わりに、次式で定義されるパーミアンス係数Pcを使って磁場解析をすることが多い。
Pc = -Bd/Hd
一般的には磁化方向と垂直な断面積が大きいほど、また磁化方向の厚みが薄いほど反磁場Nは大きくなり、逆にパーミアンス係数Pcは小さくなる。
パーミアンス係数Pcと反磁場係数Nの間には、次のような関係が成立つ 。
Pc = (1-N)/N
結晶磁気異方性定数は材料固有の磁気物性値で、磁石特性のひとつである保磁力と関連しており、この定数が大きければ大きいほど保磁力を大きくすることが可能で磁化しやすい結晶軸方向に磁化させるエネルギーと磁化しにくい結晶軸方向に磁化させるエネルギーの差を表す。
着磁済みの磁石は周囲の温度が変化すると、熱エネルギーの関係で磁気特性が変化する。
元の温度に戻ると磁気特性も同じ値に戻る可逆温度変化と温度が戻っても磁気特性が戻らない不可逆温度変化がある。
温度が起因する着磁後の減磁は一般的には不可逆温度変化によるもので、これには初期減磁に起因するものと経時変化に起因するものがある。
可逆温度変化(可逆減磁)、不可逆温度変化(不可逆減磁)については、特にHcjの温度係数に注意する必要があり、磁石形状によるパーミアンス係数も重要な要素になる。
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誘電体
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誘電体(ゆうでんたい、英: dielectric)とは、導電性よりも誘電性が優位な物質である。広いバンドギャップを有し、直流電圧に対しては電気を通さない絶縁体としてふるまう。身近に見られる誘電体の例として、多くのプラスチック、セラミックス、雲母(マイカ)、油などがある。
誘電体は電子機器の絶縁材料、コンデンサの電極間挿入材料、半導体素子のゲート絶縁膜などに用いられている。また、高い誘電率を有することは光学材料として極めて重要であり、光ファイバー、レンズの光学コーティング、非線形光学素子などに用いられている。
誘電分極 を参照
誘電率は電界の周波数に依存する。これを誘電分散と呼ぶ。 空間電荷分極と配向分極は緩和型、イオン分極と電子分極は共鳴型の誘電分散を示す。
誘電緩和とは、物質の誘電率の瞬間的な遅れのこと。 通常これは誘電媒質(コンデンサ内部や2つの大きな導体表面間など)の変動電場による分子分極の遅れによって起こる。 変動電場による誘電緩和は、(インダクタや変圧器における)変動磁場によるヒステリシスと同様に考えることができる。 一般的に緩和は線形応答の遅れであるため、誘電緩和は期待された線形定常状態(平衡)誘電率について測定される。
物理学における誘電緩和は、誘電媒質の外部からの振動電場への緩和応答を意味する。 この緩和は誘電率の周波数依存性で記述され、理想系ではデバイ式で表される。 一方で、イオン分極や電子分極についての歪みは共鳴型または振動子型のふるまいを示す。 歪み過程の特性は、試料の構造・組成・環境に依存する。
デバイ緩和とは、外部電場が与えられたときの理想的な相互作用のない双極子集団の誘電緩和応答である。 場の周波数ωを変数とした複素誘電率εで表される。
ここでε∞高周波上限での誘電率、Δε = εs − ε∞、εsは静的な低周波誘電率、τは媒質の緩和時間である。
この緩和モデルは物理学者ピーター・デバイによって1913年に導出された。
誘電体には最も基本的な常誘電体および圧電体・焦電体・強誘電体の全4種類に分類され、以下のような性質を示す。なお、強誘電体はこれら全ての特徴を兼ね備え、焦電体は圧電体・常誘電体の性質も示すなど、右の図のような関係にある。
強誘電体以外の誘電体のことをいう。
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誘電体
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この緩和モデルは物理学者ピーター・デバイによって1913年に導出された。
誘電体には最も基本的な常誘電体および圧電体・焦電体・強誘電体の全4種類に分類され、以下のような性質を示す。なお、強誘電体はこれら全ての特徴を兼ね備え、焦電体は圧電体・常誘電体の性質も示すなど、右の図のような関係にある。
強誘電体以外の誘電体のことをいう。
応力を加えることにより分極(および電圧)が生じる誘電体を圧電体と呼ぶ。 また、逆に電圧を印加することで応力および変形が生じる。これらの性質は圧電性と呼ばれ、ソナーなどに利用されている。
圧電体のうち、外から電界を与えなくても自発的な分極を有しているものを特に焦電体と呼ぶ。微小な温度変化に応じて誘電分極(およびそれによる起電力)が生じる性質が名称の由来である。この性質は赤外線センサなどに応用されている。
焦電体のうち、これを外部からの電界によって方向を反転させることのできるものを特に強誘電体と呼ぶ。 強誘電体の特徴として、分極が外部電場に対するヒステリシス特性を有することが挙げられる。この特性は不揮発性メモリの1種であるFeRAMに応用されている。
半導体素子の微細化、低消費電力化のために、トランジスタのゲート絶縁膜を薄膜化し、静電容量を大きくすることで高性能化を計ってきたが、量子力学的なトンネル効果等によるリーク電流の増大を招き、デバイスの信頼性を著しく低下させている。薄膜化に代わる静電容量を増大させる方法として、ゲート絶縁膜を従来の誘電率が低いSiO2系材料から高誘電率絶縁膜(High-κ絶縁膜)にする必要性が高まってきている。有望な高誘電率絶縁膜としてHfO2系材料などが挙げられる。
同時に半導体素子の微細化は、多層配線間でコンデンサ容量(寄生容量)を形成してしまい、これによる配線遅延が問題になってきている。寄生容量を低減させるために層間絶縁膜を低誘電率絶縁膜(Low-κ絶縁膜)にする必要性が高まってきている。有望な低誘電率絶縁膜としてSiOF(酸化シリコンにフッ素を添加したもの)、SiOC(酸化シリコンに炭素を添加したもの)、有機ポリマー系の材料などがある。
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プロセス間通信
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プロセス間通信(プロセスかんつうしん、IPC、英: interprocess communication)はコンピュータの動作において、複数プロセス(の複数スレッド)間でデータをやりとりする仕組み。通信プロセスは、同一コンピュータ内で帰結するローカル、ネットワーク接続された別のコンピュータと相互にリモート、などのほかに多様な観点で分類され、スレッド間の通信帯域幅とレイテンシや扱うデータの種類も多種多様である。メッセージパッシング、同期、共有メモリ、RPCなどのメカニズムやプリミティブがある。
プロセス間通信の目的と理由は
であり、「スレッド間通信」や「アプリケーション間通信」と呼ぶこともある。
IPCとアドレス空間のコンセプトの組合せは、アドレス空間分離の基盤である。
IPCとして使われているAPIはいくつかある。プラットフォームに依存しない主なAPIの例を挙げる。
以下は、プラットフォーム固有またはプログラミング言語固有のAPIの例である。
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モノリシックカーネル
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モノリシックカーネル(monolithic kernel、一枚岩(モノリス)のような、一体のカーネルの意)とは、オペレーティングシステム(以下、OSと略記)におけるカーネルの構造、および設計思想を指す。「入出力機能やネットワーク機能、デバイスのサポートなどOSの一般的な機能」をカーネルと同一のメモリ空間に実装・実行する手法を言う。
代表的なモノリシックカーネルOSとしては、古典的なUNIXとその派生OSがあげられる。
モノリス(monolith)とは「一枚岩」の意であり、モノリシック(monolithic)とは「一枚板の」という形容詞である。「モノシリックカーネル」は誤り。
OSの構成要素を単一のメモリ空間で実行するモノリシックカーネルに対し、OSを構成する幾つかの要素・機能をカーネル空間から切り離し、外部モジュール化するなどで実装する手法をマイクロカーネルと呼ぶ。
モノリシックカーネルの設計思想および概念それ自体は旧来より存在するが、モノリシックカーネルというタームの成立は、このマイクロカーネルという概念・実装の登場(による対概念として要請され、命名されたこと)による(レトロニム)。
モノリシックカーネル方式は、より近代的な設計手法とされるマイクロカーネル方式のOSに比べ、OSの機能のほとんどすべてが単一のメモリ空間で行なわれるゆえ、同一の処理を行う際に費やされるコンテキストスイッチやプロセス間通信などによるオーバーヘッドは相対的に少ないものとなり、実効パフォーマンスにおいて有利であるといった見解がある。実際にプロセッサの動作クロックが数MHz - 数十MHz程度に留まっていた時代には、乱発されるコンテキストスイッチなどの実行コストの問題は深刻なものであった。1980年代にデビューした商用UNIXは、そのほとんどがモノリシックカーネル方式を採用している。
しかし、プロセッサの処理速度は20世紀末から21世紀初頭にかけて長足の進歩を遂げた。また、マイクロカーネル側の実装における高速化技法の進展、必要に応じて一部パフォーマンスを要求されるサブシステムのみカーネル空間に取り込む実装も登場し、モノリシックカーネルのパフォーマンスにおける原理上の優位性は小さくなった。
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モノリシックカーネル
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しかし、プロセッサの処理速度は20世紀末から21世紀初頭にかけて長足の進歩を遂げた。また、マイクロカーネル側の実装における高速化技法の進展、必要に応じて一部パフォーマンスを要求されるサブシステムのみカーネル空間に取り込む実装も登場し、モノリシックカーネルのパフォーマンスにおける原理上の優位性は小さくなった。
2005年現在では、純然たるモノリシックカーネル方式で開発する利点は少ないとする意見に収束して来ている。しかし、同等の機能を実装した場合にその原理上実行時の(コンピュータのメモリ上の)OSカーネルのフットプリントを比較的小さなものに留めておきやすいこと、ノンプリエンプティブ (non-preemptive) 制約を付加すれば、サービス実装を行う時に考慮するべきことが減り、開発が楽になることなどが利点として挙げられる。
一方、モノリシックなカーネルにさまざまな機能を取り込むことで巨大化することによる欠点・弊害としては、OSの機能を動的に切り替えたり更新したりすることが(マイクロカーネルと比較した場合に)困難なものになりやすいことなどが挙げられる。
研究開発の世界では、カーネルの機能を最小限にとどめるマイクロカーネルが主流になった1990年代当初、モノリシックカーネルは時代遅れとされてきた。しかし、実装レベルでの差が動作上の致命的な設計問題であるはずもなく、現在では必要な機能を必要な性能レベルで提供できれば問題ないという形での議論終結が図られている。
Solaris / HP-UX / AIXや日本の国産UNIXの系統も全てモノリシックカーネルを基礎とするカーネルを使用している。また、x86系PCでのUNIX互換機能提供を目指して作られたLinuxでは基本的にモノリシックカーネルを採用しているが、実行時に読み込むカーネルモジュールを設けるなど、実行時の柔軟性を高めている。
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モノリシックカーネル
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Solaris / HP-UX / AIXや日本の国産UNIXの系統も全てモノリシックカーネルを基礎とするカーネルを使用している。また、x86系PCでのUNIX互換機能提供を目指して作られたLinuxでは基本的にモノリシックカーネルを採用しているが、実行時に読み込むカーネルモジュールを設けるなど、実行時の柔軟性を高めている。
Windows NTは、当初よりマイクロカーネル方式での実装を模索していたが、オーバーヘッドを削減するためにNT 4.0でWindowsサブシステムとグラフィクスデバイスドライバがカーネル空間から直接見える様に修正された。さらにWindows 2000以降では、ハードウェア管理機能の一部をマイクロカーネル直轄のモジュールとしての外部モジュールからカーネル制御部本体による制御方式に切り替えており、純粋なマイクロカーネルから外れた実装になっている。NT4.0では800キロバイト弱だったNTOSKRNL(Windows NT系のカーネルシステム)のフットプリントは、Windows XPでは2メガバイト強にまで肥大している(但しWindows Vistaにおいては、動作の安定性やシステム全体の堅牢性に対する配慮から一部「先祖返り」を起こしている)。 マイクロカーネルとしての構造は依然残されているため、マイクロカーネルとモノリシックカーネルの折衷をとったハイブリッドカーネルとでも呼ぶべき実装になっている。
またMachから派生したmacOSも、BSDサブシステムやファイルシステム、ネットワークなどをカーネル空間に統合しており、純粋なマイクロカーネルから離れた実装になっている。Windowsと同様、マイクロカーネルとモノリシックカーネル両方の利点を活かした設計である。
モノリシックカーネルとマイクロカーネルについては、Linuxの作者リーナス・トーバルズとMINIX(ミニックス)の作者アンドリュー・タネンバウムの1992年の論争が有名である。
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大瀧詠一
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大瀧 詠一、大滝 詠一(おおたき えいいち、本名:大瀧 榮一、1948年〈昭和23年〉7月28日 - 2013年〈平成25年〉12月30日)は、日本のミュージシャン。
シンガーソングライター、作曲家、アレンジャー、音楽プロデューサー、レコードレーベルのオーナー、ラジオDJ、レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニア、著述家、元Oo Records取締役など、多くの顔を持つ。
岩手県江刺郡梁川村(のちの江刺市、現在の奥州市)生まれ。母子家庭で育ち、母親が公立学校の教師だったため、小学校・中学校でそれぞれ転校を経験している(小学生の頃には江刺から遠野。中学生時代には遠野から釜石)。
小学5年の夏、親戚の家で聴いたコニー・フランシスの「カラーに口紅」(Lipstick On Your Collar) に衝撃を受けて以降、アメリカンポップスに傾倒。中学入学後ラジオクラブに入り、ラジオを自作し、米軍極東放送 (FEN) やニッポン放送の番組を聴くようになる。間もなくレコード収集を始め、エルヴィス・プレスリーやビーチ・ボーイズなどの音楽を分析的に聴くようになり、独自の研究を深める。
そのため、1962年夏から1966年までにチャートインした曲はすべて覚えているというほど精通している。洋楽面のみで語られがちだが、同時期には小林旭や三橋美智也なども好んで聞いていた。特にクレージーキャッツの植木等が歌う「スーダラ節」には非常に影響を受けたとされる。
1964年、岩手県立花巻北高等学校に入学。下宿で一人暮らしをするが、学費を全部レコードにつぎ込んでいたために学費未納により1年で退学させられ、岩手県立釜石南高等学校(現:岩手県立釜石高等学校)に編入。入学直前、FENでビートルズを知り、以降リバプール・サウンド全般を買いまくっていた。釜石南高編入後、初めてバンドを組む。「スプレンダーズ」というバンドでドラムを担当。本来ならコミックバンドをやりたかったが同志が見つからず、やむなくビートルズタイプのバンドを組んだ。メンバーには現在釜石市にある鉄の歴史館館長を務める佐々木諭がいた。
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大瀧詠一
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1967年に上京、小岩の製鉄会社に就職するも、出社約20日、在籍期間3ヶ月で退職。その数日前、船橋ヘルスセンターで会社の慰安会があり、余興でビートルズの「ガール」をアカペラで歌ったところ、上司から「うん、キミはこういう所にいるべき人間ではない」と諭されたという。同年夏に、布谷文夫と知り合い「タブー」というバンドを結成。ドラムを担当していたが、同年末に解散。
1968年に早稲田大学第二文学部に入学。布谷を通じて交友があった中田佳彦から細野晴臣を紹介されて意気投合。なお両者の初対面は細野の家に大瀧が招かれる形で行われた。その際、細野が"腕試し"としてヤングブラッズの「ゲット・トゥゲザー」(シングル盤)を見えるように置いておいた。部屋に入りしなの大瀧がそれに気付き「おっゲット・トゥゲザー」と言い、細野を感心させた。その後、大瀧・中田・細野の3人で定期的にポップスの研究会を開く。1969年、細野が参加していたバンド「エイプリル・フール」の解散直前に、細野と松本隆によって計画されていた新バンドに加入を要請され受諾。
「ヴァレンタイン・ブルー」は翌1970年「はっぴいえんど」に改名し、アルバム『はっぴいえんど』でデビュー。この時期、「新宿プレイマップ」での座談会(日本語ロック論争)に参加。
はっぴいえんど活動中の1971年にソロ活動を開始し、アルバム『大瀧詠一』(1972年)を発表。はっぴいえんど解散後はソロ活動に移行せず、当時のシンガーソングライターとしては異例であるCMソングの制作と、ごまのはえ、布谷文夫など若手のプロデュースを始める。
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大瀧詠一
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はっぴいえんど活動中の1971年にソロ活動を開始し、アルバム『大瀧詠一』(1972年)を発表。はっぴいえんど解散後はソロ活動に移行せず、当時のシンガーソングライターとしては異例であるCMソングの制作と、ごまのはえ、布谷文夫など若手のプロデュースを始める。
この頃、1972年発売の山下達郎の自主制作アルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を偶然耳にした伊藤銀次が大瀧宅に『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を持参し、アルバムを聞いて山下のボーカルを耳にした大瀧はアルバムに連絡先が記載されていたので連絡を取り山下を自宅に招く。アメリカのポップス好きという共通の趣味を持つことから意気投合し、「はっぴいえんどの解散コンサートでコーラスを手伝ってもらえないか?」と依頼したことが山下がプロデビューする切っ掛けとなる。伊藤銀次が山下の自主制作アルバムを大瀧宅に持参したことが切っ掛けだったが、最終的に山下達郎のプロデビューの切っ掛けは大瀧との出会いであることから山下達郎を見出だした人物といえる。その後山下との交流は大瀧が他界する2013年まで続いた。
1974年9月には自らが作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニア・原盤制作・原盤管理などをこなすプライベートレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立し、エレックレコードと契約。翌1975年にははっぴいえんど解散後初となるソロアルバム『NIAGARA MOON』を発表。また、ラジオ関東(現在のアール・エフ・ラジオ日本)で、DJをつとめる番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』を開始し、学生層のコアなファンを獲得するなど、精力的にソロ活動を開始するが、その矢先、エレックレコードが事業縮小し、契約破棄される。
1976年、日本コロムビアにナイアガラごと移籍。その際の契約は福生45スタジオに当時最新鋭の16チャンネルのマルチトラックレコーダーを提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作するという内容だった。後に「3年間何処にも出ないでスタジオにこもりっきりだった」とコロムビア所属のハードな契約を結んだ3年間を振り返っている。
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大瀧詠一
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1976年、日本コロムビアにナイアガラごと移籍。その際の契約は福生45スタジオに当時最新鋭の16チャンネルのマルチトラックレコーダーを提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作するという内容だった。後に「3年間何処にも出ないでスタジオにこもりっきりだった」とコロムビア所属のハードな契約を結んだ3年間を振り返っている。
『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』『GO! GO! NIAGARA』『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はヒットを記録したものの、趣味性の強すぎる楽曲が災いして以降作品の完成度と裏腹に売上が低迷。1977年の『NIAGARA CALENDAR』はチャート入りさえしなかった。
1978年の『LET'S ONDO AGAIN』を最後にコロムビアとの契約を解消。福生45スタジオの機材も売却。ナイアガラレコードも休業状態に陥る。以降レコードの販売権の契約が残っている2年間の間、ソロ作が発表できない状況に陥る。この年にはアルバムを3作しか作っておらず、本来ならばもう1枚作らないといけない契約になっていたための自主規制であり、1980年にコロムビア主導で『TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA』が発売された時には安堵したという。
1979年からプロデュース業を手掛け、翌1980年にプロデュースの仕事で出入りすることが多かったCBS・ソニーに移籍。旧友である松本隆と組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる作品のレコーディングに取り掛かる。このレコーディングの最中に、女性向きと考えた「さらばシベリア鉄道」を太田裕美に提供。同曲は大瀧の曲で初めてのヒットシングルになった。
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大瀧詠一
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1979年からプロデュース業を手掛け、翌1980年にプロデュースの仕事で出入りすることが多かったCBS・ソニーに移籍。旧友である松本隆と組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる作品のレコーディングに取り掛かる。このレコーディングの最中に、女性向きと考えた「さらばシベリア鉄道」を太田裕美に提供。同曲は大瀧の曲で初めてのヒットシングルになった。
1981年3月に『A LONG VACATION』を発表。当初は売上が低迷していたが、徐々にセールスを伸ばし、夏にはチャート2位を記録。「第23回日本レコード大賞・ベストアルバム賞」を受賞。同年7月にリリースされた西城秀樹のアルバム「ポップンガール・ヒデキ」に収録されている「スポーツ・ガール」「ロンサム・シティー」を提供。(作詞は松本隆)1983年まで精力的に楽曲提供・プロデュースを続け、松本とコンビでの松田聖子の シングル『風立ちぬ』で初のチャート1位を記録。うなずきトリオのシングル「うなずきマーチ」では大滝作詞曲で初のチャート入りを果たすなど、多くのアイドルソング・コミックソングを手掛け一躍名声が高まる。森進一の『冬のリヴィエラ』では歌謡曲の王道路線歌手の幅を拡げるポップス楽曲を提供し歌手の新たな側面を開拓。
1984年のアルバム『EACH TIME』制作時に、いわゆる「曲が出なくなる」状態に陥ったことや、独自のポップス音楽の歴史を研究する中で、オリジナル作品をコンスタントに発表していく意味を見いだせなくなった大滝はこのアルバムを持って音楽制作活動の休止を決断。1985年6月のはっぴいえんど再結成ライブが最後のライブへの出演となり、同年11月シングルカットした「フィヨルドの少女」を最後に1997年まで新譜発表は途絶えた。
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大瀧詠一
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プロデューサー・作曲家としては80年代後半も引き続き活動、1985年には小林旭の「熱き心に」では、ポップス王道楽曲提供により、旧知のリスナーには往年のマイトガイの活躍を再び思い起こさせ、また小林の若かりし頃のアイドル的人気を知らない若いリスナーにも小林という存在を知らしめた。翌年には自身が少年期からのファンであるクレージーキャッツの30周年記念作を手掛け、新曲「実年行進曲」を作曲・編曲、五万節のリメイク「新五万節」を編曲(クレジットでは編々曲)した。クレージーキャッツの楽曲を数多く手掛けた萩原哲晶の愛好家でもある大瀧は萩原に敬意を表して、彼の名前を「原編曲」としてクレジットし、「実年行進曲」と「新五万節」に過去の楽曲のフレーズを挿入している。
1980年代後期以降、ナイアガラレコードの旧譜のリマスタリングや、大瀧が影響を受けた先人の音源復刻「LEGENDARY REMASTER SERIES」の監修やライナー執筆、ラジオの特別番組のDJなどを手掛ける。また、1979年から本格的に取り組み始めたポップス史の研究は、1983年に「分母分子論」としてその一端が明らかにされていたが、1991年にはそれを更に発展させた「普動説」として結実させている。
1988年に小泉今日子に提供した『快盗ルビイ』以降作曲から遠ざかっていたが、1994年からソニー・レコードのOo Recordsに取締役兼プロデューサーとして参加。翌年、さくらももこの依頼により、『ちびまる子ちゃん』のアニメ主題歌を作曲。渡辺満里奈の『うれしい予感』で7年ぶりに作曲家として復帰する。
そして1997年には12年ぶりとなる新曲『幸せな結末』を発表。月9ドラマ『ラブジェネレーション』の主題歌として制作されたこの曲はミリオンセラーを達成。当時『大滝詠一のオールナイトニッポンDX』にて1985年からの12年間について「引退していた」と語った。ちょくちょく楽曲提供やプロデュース業はしていたので、歌手としては引退していたと言う事になる。『幸せな結末』に続き、市川実和子のシングル「ポップスター」のプロデュースも手掛ける。
2000年代に入ると再び旧譜のリマスタリング、音源復刻監修を再開。また昔の自分のラジオ番組をリマスターして再放送したり、昔の自分のラジオ番組の新シリーズを開始するなど、独自の試みを行うようになった。
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大瀧詠一
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2000年代に入ると再び旧譜のリマスタリング、音源復刻監修を再開。また昔の自分のラジオ番組をリマスターして再放送したり、昔の自分のラジオ番組の新シリーズを開始するなど、独自の試みを行うようになった。
2003年には6年ぶりのシングル『恋するふたり』を発表。月9ドラマ『東京ラブ・シネマ』主題歌としてヒットする。また、竹内まりやのアルバム『Longtime Favorites』でフランク・シナトラ & ナンシー・シナトラの「恋のひとこと」(SOMETHING STUPID) をデュエット。これらが最後の作品発表となった。
2004年末には自宅にマスタリング用の器材を導入、福生45スタジオが復活。2005年から最後のリマスターとしてナイアガラ旧譜の30周年アニバーサリー盤の発表を順次開始。2014年3月には最終作となる「EACH TIME」の発表を控えていた。またラジオ『大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝』も佳境にさしかかっており、2014年春もしくは夏に完結し、本命であるイギリスのポップス伝に移行するものと目されていた。
2005年、とんねるずの新曲の企画が立ち上がり、作詞に糸井重里を起用した『ゆうがたフレンド (USEFUL SONG) 』が制作されたが、とんねるずサイドが希望していたイメージと相違したことから未発表となる。この曲の制作にあたり、2005年12月12日に本人による歌唱も録音されており、これが大瀧最後の公式歌唱レコーディング音源となっている。
2011年3月11日に起きた東日本大震災後には、地元の同級生に電話を掛けて安否確認をする等、震災にあった地元に思いを寄せ続け、被災者となった同級生にサインを入れた自身のCDを贈っている。
2013年12月30日 17時50分頃、東京都西多摩郡瑞穂町の自宅で家族と夕食後のデザートにリンゴを食べている時に倒れ、救急搬送された。警視庁福生警察署などによると、家族は「リンゴを食べていてのどに詰まらせた」と説明していたという。救急隊がかけつけた時は既に心肺停止状態であり、病院に搬送後19時頃に死亡が確認された。死因は解離性動脈瘤とされた(報道では発症部位など詳細については発表されていない)。65歳没。
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大瀧詠一
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突然の訃報は音楽関係者に大きな衝撃を与え、佐野元春、山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子、桑野信義らが追悼のコメントを発表した。また長年の盟友だった松本隆は自身のTwitterにて「北へ還る十二月の旅人よ」と大瀧の曲「さらばシベリア鉄道」にかけた追悼の辞を捧げている。
2014年1月4日、都内で葬儀が営まれ、約100人の関係者が参列した。式場には未発表である自身の声による「夢で逢えたら」が流され、柩ははっぴいえんどメンバーだった松本隆、鈴木茂、細野晴臣の3人らによって抱えられた。また、多くのスタッフ・関係者からの要望により、「A LONG VACATION」の発売日で、最期のアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日でもあった3月21日に「お別れの会」が執り行われ、一般参列者向けの献花台も設けられた。
3月21日の「EACH TIME」発売を前に、3月19日からは過去音源のiTunes Storeにおける一斉配信がスタートし、その中には廃盤になり入手困難となっていたシリア・ポールによる「夢で逢えたら」のカバーや単独でCD販売されていなかった「DEBUT」、30周年リイシューから除外された「LET'S ONDO AGAIN」といった貴重な音源も含まれている。ただし周年CD化記念時のボーナス・トラック類は除外され、オリジナル収録曲のみの内容となっている。
お別れ会の場で、妻から最期の言葉が「ママありがとう」だったことが明かされ、直後に意識を失い、チアノーゼも起こしていたという。救急隊の到着まで心臓マッサージを続けた(妻は看護師だった)が、意識を取り戻すことがなくそのまま死亡したと臨終の状況が明かされている。続けて「当日会話をしたのは20分ぐらいだったと思います。今では会話のすべてが遺言となってしまいました。本来ならば、12月末は大好きな落語を聴いて、スタジオの整理、片付けをしている姿があったのですが、昨年はありませんでした。亡くなる最後に『ありがとう』と言ってくれたのは、これまで主人を支えて見守ってくださった方々、またファンの方々に私から一言お礼を述べてほしいということだったと思います。この場をお借りしまして、本当にありがとうございました」と深々とお辞儀をした。
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大瀧詠一
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死後約1年経った2014年12月3日には生前に山下達郎へ構想を語っていたオールタイム・ベスト『Best Always』が発売。これには大瀧が密かにレコーディングしていた「夢で逢えたら」のセルフカバーが収録。大瀧の歌声による「新作」が発売されるのは実に11年ぶりとなった。また、発売が望まれていた『Niagara CD Book II』も遅れて2015年3月21日に発売された。
2020年10月1日からは、出身地に近い東日本旅客鉄道(JR東日本)東北新幹線水沢江刺駅において、「君は天然色」をアレンジしたものが発車メロディとして使用されている。
2021年3月21日、ナイアガラ・レーベルにおけるソロ名義の全楽曲のサブスクリプションを解禁。またYouTubeでは「君は天然色」のミュージック・ビデオが3月3日12:00に公開された。これは「A LONG VACATION」のリリース40周年を記念して制作された同曲初のMV作品。同アルバムのジャケットを手掛けた永井博によるイラストが立体的に表現された映像で構成されており、制作は大滝の大ファンであるアニメ映像ディレクターの依田伸隆が担当した。
2023年10月25日にリリースされた松田聖子のベストアルバム『Bible -milky blue-』に「風立ちぬ(duet version)」が収録された。この音源は1981年に松田が同曲をレコーディングした際に立ち会った大瀧が遊び心で、松田の歌唱と自身の歌唱を繋ぎ合わせるエディットを施しデュエットソングに仕立てたものである。永らく表に出すことのない音源であったが、大瀧の没後10年という節目に解禁された。
1950年代から1970年代にかけてのアメリカのポップス・ロック、イギリスのリバプールサウンド、日本の歌謡曲・演芸についての豊富な知識を持ち、それらを駆使して制作される音楽トラックは、普通に聴こえても分析すると実は非常にマニアックであり、また、自作詞に関しては独特のおふざけが入っている。『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代にリスナーから「あなたには悩みというものがないのですか?」という投稿が送られてきたという。なお、作品はおおまかに分けると、メロディタイプといわれる歌もの、ノベルティタイプといわれるサウンド偏重ものの2種類に分かれる。
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大瀧詠一
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楽曲制作の綿密さを語る一例として、ある人物が大瀧に「あの曲は3つの曲からの剽窃ですね」と指摘し訊ねたところ、「その3つと、あと2曲の5曲からできてるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と大滝が言い返したという逸話(山下達郎がしばしばラジオでする話)や伊藤銀次がレコーディングに参加した際、有名曲のフレーズを音符を逆にして弾くのを強要されて唖然としたという。
以上の経緯から「渋谷系のように過去の作品のいいところをつまみ食いしながら楽曲を作っている」と思われがちだが、本人曰く「最終的には+αのインスピレーションがないと曲が完成しない」とのことで、『EACH TIME』のレコーディング期には既にそのインスピレーションが尽きかけていたという。
発言に関しても独特のジョークが多々入っているのが特徴。ふざけているようで真面目だったり、真面目なようでふざけている発言を淡々とするタイプの人間であり、単純に発言を文字起こししてはいけない人物だった。特に有名なのが「2001年ナイアガラの旅」に纏わるものであり、1984年に「ミュージック・ステディ」の大滝詠一特集で「1988年に『ナイアガラトライアングル Vol.3』、1989年に『ナイアガラカレンダー '89(復刻版)』、1991年にはソロでの新作『1991』でレコード番号も1991を予約。1994年には『ナイアガラトライアングル Vol.4』、2000年に『ナイアガラトライアングルVol.5』、2001年に再びソロの新作として『2001年ナイアガラの旅』を発表、以上を予定している」という発言。この発言を真に受けて泣いたファンは数多い。1990年代までは同様の発言を繰り返していたが、大瀧にその気は全くなく、山下達郎などに、いざ追及される側になると「予定は未定だからね」「それより君の作品はどうなの?」とはぐらかしたり、新曲と称してドラムのカウント部分だけをレコーディングしたものを放送したりしていた。
また、他者への提供曲のセルフカバーを発表することに消極的で、ラジオ番組でリスナーにあるかどうか問われても、ないと上手くその存在をうやむやにしていた。また、出しても歌詞を改作したり、新たなメロディーを追加して発表する例が多かった。
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大瀧詠一
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また、他者への提供曲のセルフカバーを発表することに消極的で、ラジオ番組でリスナーにあるかどうか問われても、ないと上手くその存在をうやむやにしていた。また、出しても歌詞を改作したり、新たなメロディーを追加して発表する例が多かった。
当初から他者への提供曲として製作されたものに限定すれば、歌詞の改作をしなかったセルフカバーは、沢田研二の「あの娘にご用心」だけであり、セルフカバーを作った理由も「曲数が足りなかったから」という不本意なものだった。
それ以外ではスラップスティックの「デッキ・チェア」を歌詞を新たに松本隆に依頼し「スピーチ・バルーン」として、「海辺のジュリエット」は歌詞を新たに松本に依頼しただけでなく、新たにサビの部分のパートを作り「恋するカレン」としてセルフカバーされている。
「さらばシベリア鉄道」は自身の曲として製作中に太田裕美への提供を思いつき、それを実行したもので、2015年3月29日にNHK BSプレミアムで放送された「大瀧詠一ソングブック」で太田が、アルバム録音中にディレクターが同じ(白川隆三)だったこともあり、同時期に同じスタジオの別ブースで録音中だった大滝の元に挨拶に行った時に「太田裕美に良いじゃないかと思う曲がある」と言われ提供されたと「さらばシベリア鉄道」提供の経緯を語っている。偶然にも「木綿のハンカチーフ」と同じ松本隆作詞で女性詞と男性詞が交互に出て来る構成の歌詞だった。
「Bachelor Girl」は一旦自身の録音が完成しながら歌詞の内容への疑問から発表を見送り、疑問点が解決した後で稲垣潤一に提供したため、結果的に自身のバージョンがセルフカバーとして発表された経緯がある。
「夢で逢えたら」は生前、セルフカバーのマスターテープの存在は家族にしか明かしておらず、死後、関係者がスタジオの整理をしている中、本人がないと言っていたセルフカバーのテープが次々発見されCD化されている。
自身のラジオ番組で、自分の作品を特集する場合は「我田引水くんにお願いする」というように別名を用いて大滝詠一として直接自分の作品を取り上げない演出をしていた。
松任谷正隆曰く、今田耕司を1000倍暗くしたのが大滝詠一とのこと(「FUN」より)。
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大瀧詠一
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自身のラジオ番組で、自分の作品を特集する場合は「我田引水くんにお願いする」というように別名を用いて大滝詠一として直接自分の作品を取り上げない演出をしていた。
松任谷正隆曰く、今田耕司を1000倍暗くしたのが大滝詠一とのこと(「FUN」より)。
デモバージョンは詞先の楽曲のデモは提供された歌詞を歌うが、曲先の作品は殆ど仮詞は付けず鼻唄でメロディーを歌って提出している。『A LONG VACATION 40th Anniversary Edition』のDisc-2の『Road to A LONG VACATION』にて1978年から3年間に出した曲のデモバージョンがそれぞれ一部収録されて聞くことができる。 大瀧曰く「デモをガッチリ作ると本番が駄目になる」。恐らくはデモをガッチリ作るとそれに満足してしまうからと敢えて鼻唄メロディーのデモを製作すると思われる。 なお、『A LONG VACATION』収録曲の「Velvet Motel」は当初「Summer Breeze」のタイトルでアン・ルイスに書いていた曲で、「A LONG VACATION 40th Anniversary Edition」のDisc-2の『Road to A LONG VACATION』で仮詞か正式に提供する歌詞だったかの言及はなかったが、大瀧による歌詞が付いているデモテープの一部が公開された。
独特のおふざけは数多くの変名にも反映されている。最初に名乗ったのは「ちぇるしぃ」で、大瀧がフォーク時代の細野晴臣と一緒に、「細野晴臣+α」名義でステージに上がった際に、ジョニ・ミッチェルの「チェルシーの朝 (Chelsea Morning)」を歌ったところ、観客の中にいた「ジョン・セバスチャンとフォークロックを守る会」のメンバーから「チェルシー」と呼ばれるようになったのがきっかけ。
ソロになって以降、ノベルティタイプの楽曲を製作する中で数多くのリズムを導入。特にメレンゲ(ドミニカ共和国のダンスミュージック)(英語版)は気に入ったようで、数度曲名にも使用されている。また、ニューオリンズのガンボミュージックに関しても日本においては、かなり早い時期に着目。細野晴臣に勧めて、細野のキャリアに強い影響を与えている。
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大瀧詠一
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ソロになって以降、ノベルティタイプの楽曲を製作する中で数多くのリズムを導入。特にメレンゲ(ドミニカ共和国のダンスミュージック)(英語版)は気に入ったようで、数度曲名にも使用されている。また、ニューオリンズのガンボミュージックに関しても日本においては、かなり早い時期に着目。細野晴臣に勧めて、細野のキャリアに強い影響を与えている。
だが、最終的に日本のダンスミュージックなら音頭だろうという考えに辿り着き、音頭を積極的に発表するようになった。この考えに辿り着くまでは紆余曲折あり、きっかけは1973年に伊藤銀次から薦められた中原弓彦(小林信彦)の『日本の喜劇人』を読み、日本の喜劇史に興味を持ったこと。その後、大瀧は『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代に事務所に集うナイアガラマニアの若者に同書を必読書として勧めていた。その影響もあり、「音頭を作っては?」というハガキがラジオに送られてくるようになり、前々から興味としてはあったものを実行に移した。
その後もコンスタントに音頭を製作。代表的なものに「ナイアガラ音頭」(アルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』収録)、「クリスマス音頭」(アルバム『NIAGARA CALENDAR』収録)、「ビックリハウス音頭」、片岡鶴太郎の『スリラー音頭』と『ビート・イット音頭』や角川博の「うさぎ温泉音頭」、更に金沢明子の「イエロー・サブマリン音頭」(編曲: 萩原哲晶)のプロデュース等がある。
1973年から1979年まではレコーディング・エンジニア、ミキサー笛吹銅次としても活動。名前は吉野金次、伊藤銀次と来て次は「銅次」だということで、笛吹童子をもじったもの。
また、1974年にははちみつぱい唯一のシングル盤「君と旅行鞄(トランク) / 酔いどれダンスミュージック」にもレコーディング・エンジニアとして参加している。
福生45スタジオを拠点にしていたこともあり、ソニー移籍後はエンジニア業から一旦離れたが、2000年代以降はラジオ番組をリマスタリングするようになり、2004年には福生45スタジオをリマスタリングの場として活用。
その後発表された30th Anniversary盤は、久々に笛吹銅次がエンジニアを手掛けている。
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大瀧詠一
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福生45スタジオを拠点にしていたこともあり、ソニー移籍後はエンジニア業から一旦離れたが、2000年代以降はラジオ番組をリマスタリングするようになり、2004年には福生45スタジオをリマスタリングの場として活用。
その後発表された30th Anniversary盤は、久々に笛吹銅次がエンジニアを手掛けている。
過去の作品は全て大瀧がエンジニアをしていると誤解されていることが多いが、ソニー移籍後はCD制作に関しては吉田保を中心とした外部のエンジニアを起用した。その他の音源に関してはその限りではなく、福生45スタジオに録音テープを持ち帰り、自らオーバーダビングする作業を度々行なっていた。『幸せな結末』のストリングスバージョン等は福生45スタジオで制作されたものである。
テレビ嫌いとして知られており、はっぴいえんど時代こそ数度テレビ出演したものの、ソロになって以降は1970年代のエレック-コロムビア時代に歌番組以外の取材・インタビューに応じる形で数回出演しただけで、1981年にCBS・ソニーに移籍後、活動再開以降は、顔出しでテレビに出ることは全くなく、1983年3月24日の「笑っていいとも」への電話出演や、1986年10月15日放映の第6回日本作曲大賞に音声のみのコメントを残した程度であった(テレビ番組「佐野元春のザ・ソングライターズ」の佐野からの直接の出演オファーも辞退)。
ただし、「テレビに出演するのが嫌い」という意味でのテレビ嫌いで、テレビを見るのは大好きであり、1980年代後半-1990年代前半は自宅にビデオデッキが20台以上あり、それが常時動いているというほどのテレビマニアだった。主に大相撲中継を好んでいたが、テレビドラマに関しては長年興味がなく、初めて全部見たテレビドラマは「ラブジェネレーション (1997年)」だった。その後、宮藤官九郎作品にはまっていたという。
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大瀧詠一
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メディア出演はほぼラジオに限られる。1980年代前半まではレギュラープログラムを持っていたが、1980年代後半以降は単発的な特別番組の出演がメインになった。交友のある人物がDJ、若しくはパーソナリティを務める番組へのゲスト出演も多数あり、その中でも一番有名なのは、1984年から2011年まで山下達郎と行なっていた新春放談。この企画は当初の番組が無くなっても、交友の深いミュージシャンや音楽評論家の番組を間借りして急場をしのぎ、四半世紀以上続いた。
諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広いことでも有名である。自身は音楽の系譜についての勉強をライフワークとしているが(『分母分子論』『ポップス伝』のように紙上・ラジオ上で、その成果を垣間みることができる)、音楽のみにとどまらず、広い分野にまで“関連性”を基底に置いて研究していることが「勉強家」と称する所以である。
大瀧と同様に、日本の大衆音楽を研究しているミュージシャンに近田春夫がいるが、近田が多数の著書を発表しているのに対し、大瀧はラジオ放送をメインの発表の場としている。
ミュージシャン主導で自主レーベルを持つ、プロデュースのクレジットを入れる、CMソングをミュージシャンとして本格的に作る、シングルにカラオケバージョンを入れる等、先進的な活動を行ない、これらは後にスタンダードになっている。
また、日本のポピュラー音楽に与えた影響に少なからぬものがあり、特に、山下達郎の一部の作品、渋谷系等への影響を指摘する声もある。
※オリジナル・アルバムに絞って記載。“NIAGARA TRIANGLEシリーズ”と“NIAGARA CM SPECIALシリーズ”、『LET'S ONDO AGAIN』、インストゥルメンタル・アルバムは除外。
娘婿は音楽プロデューサー・音楽評論家でバート・バカラック研究家の坂口修。
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バンド計算
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バンド計算(バンドけいさん)とは、系の電子状態を求める計算及びその手法のこと。
電子状態とは、具体的にはバンド構造、電荷密度、状態密度などのことを指す。手法には経験的なものから非経験的(第一原理的)なものまで多数存在する。バンド計算が扱う系は、主に結晶のような固体が対象であることが多いが、表面系や、液体などが計算対象となることもある。
代表的な手法としては、擬ポテンシャル+平面波基底によるもの、APW法、KKR法のような全電子手法、第一原理分子動力学法、タイトバインディング法(Tight-binding method)などがある。第一原理分子動力学手法では、電子状態と共に対象となる系の構造最適化、つまり(準)安定構造を求めることができる。
バンド計算は、元々は結晶のような周期的境界条件のある系が計算対象であったが、その後、表面系や不規則二元合金などのような非周期系に対しても計算がなされるようになっていった。表面系に関してはスラブ近似を用いて計算するのが最も標準的である。不規則二元合金のようなポテンシャルがランダムな系には、コヒーレントポテンシャル近似が用いられることが多い。また実空間法のような、境界条件に縛られない計算手法も出現している。
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マーガレットとご主人の底抜け珍道中
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『マーガレットとご主人の底抜け珍道中』(マーガレットとごしゅじんのそこぬけちんどうちゅう)は、坂田靖子の漫画作品で、著者の代表作のひとつ。『プチフラワー』(小学館)において1985年9月号から1990年9月号まで掲載された。プチフラワーコミックス全5巻と、ハヤカワ文庫(早川書房)として「旅情編」「望郷編」の2分冊での単行本がある。
好奇心が旺盛で天真爛漫なマーガレットと、その突拍子もない行動力に振り回される夫タルカム氏が、英国内から世界各国まで広く旅して回る中で珍妙な騒動を繰り広げる1話完結の全30話の短編集シリーズ。
シリーズ初期には思いつきでいきなり旅に出てしまうマーガレットをタルカム氏があわてて追いかけるといったパターンが多かったが、後期になるにつれ、二人で旅行する他に、タルカム氏が単独で出張旅行をしたり、旅には出ずに地元での日常生活を描くもの、タルカム氏の子供のころの記憶をたどる話などが占めるようになっていく。
イギリス及び世界各地の文化、歴史、博物学、民俗学の知識が多く織り込まれており、著者の知的好奇心と博学ぶりが反映されている。ユーモアあふれるエピソードの中に描かれる夫婦愛とほのぼのとした画風から、心温まる作品として人気が高い。
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第一原理計算
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第一原理計算(だいいちげんりけいさん、英: first-principles calculation、ab initio calculation)とは第一原理に基づいて行われる計算(手法)の総称である。
IUPACゴールドブックによれば、第一原理計算(英: ab initio calculations)の定義はab initio quantum mechanical methodsの項目に置き換えられている。その定義は「基礎物理定数以外の実験値に依存しない量子力学に基づいた計算手法」である。また、非経験的量子力学的計算(英: non-empirical quantum mechanical methods)が同義語として挙げられている。
いわゆる第一原理による電子状態計算手法によって扱える原子の数は2003年現在でも100~1000個程度までであり、アボガドロ定数に遠く及ばない。1000原子のオーダーでようやく最も簡単な構造のたんぱく質(或いはアミノ酸)が扱えるかもしれないというレベルである。
実際に計算で扱う時間の問題も存在する。第一原理分子動力学法で扱える時間は、最大でも数ピコから数十ピコ秒程度の分子動力学しか扱えない。実時間での1秒間を実際に計算の上で再現させることは現実問題として不可能に近い。更に、電子状態を解くために用いる近似手法(密度汎関数法、局所密度近似、一電子近似、断熱近似等)は、現実の化学反応を正確には記述できているとは言い難く、ましてや生体内の代謝反応やDNAの複製過程、植物の光合成のような大規模で複雑な反応を第一原理計算だけで再現することは著しく困難と言わざるを得ない。
そのため、こうした困難を乗り越えるための努力が行われている。オーダーN法や、ハイブリッド法は、1000原子より一桁以上大きなサイズの系を扱えるようにすることを目標としており、それを可能としつつある。ただ、方法論として未だ発展途上で、精度に関しての十分な検証が必要である。一方、現実の化学反応等をより精度良く記述するために、断熱近似を越えるような試みや局所密度近似を越える試みなどがなされている。光化学反応などでは、電子励起状態が関与する。こうした現象を密度汎関数法の枠内で取り扱うため、時間依存を含めた形式(TDDFT)も展開されている。
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声優
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声優(せいゆう)もしくはVA(ボイスアクター)または声の出演(こえのしゅつえん)もしくはCV(キャラクターボイス)は、ラジオの放送劇、テレビ・映画の吹き替え、アニメーションなど、音声作品や映像作品に、自身の姿を見せず声だけで出演する俳優である。広義にはナレーターも含まれる。
音声・映像作品の役割・職能を表す場合と職業を示す意味で使われる場合がある。
声のみで演技する実演家であり、その出演形態はメディアの発展と共に、レコード・ラジオ、さらにはテレビなどへ拡大した。
1910年(明治43年)、日本初のレコード会社が発足する。歌舞音曲など演芸の録音が普及した。1925年(大正14年)には、日本初のラジオ放送が開始する。舞台劇、映画劇、放送劇などが届けられた。
声優の命名由来は『読売新聞』の芸能記者・小林徳三郎によるものと、日本放送協会(NHK)の演芸番組担当プロデューサー・大岡龍男によるものの2説があるが、未だに明確にはなっていない。この年には早くも、『朝日新聞』が「いはゆる『聲の女優』――ラジオ・ドラマの女優」とした報道を行い、翌年の1926年(大正15年)には、『読売新聞』が声優の呼称を使用している。
1941年(昭和16年)、NHKがラジオドラマを専門に行う東京放送劇団を設立する。1956年(昭和31年)には、ラジオ・テレビ兼営局であるラジオ東京(現:TBS)が海外テレビドラマの吹き替え放送を実施する。声優は当初、ラジオドラマに出演する舞台俳優や映画俳優、次いで放送局の劇団員であるラジオ俳優を指し、テレビ時代になって吹き替え、さらにアニメを行う役者を指す用語として定着して行った。
こう言った経緯などから放送劇団員は声優という呼称を酷く嫌い、自らを俳優と称する者も少なくない。また、山田康雄や内海賢二らも声優は声を演じる俳優、役者がやっている色々なジャンルの一部分であると考えており、『声優』という呼称を好まなかったという。
文化庁の委託事業である『演劇年鑑』(発行:日本演劇協会)では、演劇の関係者を紹介する際に、「俳優」「俳優、声優」「声優、俳優」「声優」を並列している。一例として2022年版では、若山弦蔵が「声優、俳優」、森山周一郎が「俳優、声優」と掲載されている。また、2022年(令和4年)度の日本芸術院会員選定の際、黒柳徹子が『俳優』と紹介された。
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声優
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文化庁の委託事業である『演劇年鑑』(発行:日本演劇協会)では、演劇の関係者を紹介する際に、「俳優」「俳優、声優」「声優、俳優」「声優」を並列している。一例として2022年版では、若山弦蔵が「声優、俳優」、森山周一郎が「俳優、声優」と掲載されている。また、2022年(令和4年)度の日本芸術院会員選定の際、黒柳徹子が『俳優』と紹介された。
日本で声優の専業化が進んだ理由は、
などが考えられる。
日本の声優の多くが加盟する協同組合・日本俳優連合には、外画・動画部会も設置され、「俳優・声優・その他の実演家」を加入対象としている。後述のフィックス制度により性格俳優としての側面もある。また、アテレコ論争などを経て、ニュースで原稿を読み上げるキャスターやアナウンサーなど、放送・報道分野の業務に携わる者とも区別される。
日本国外では俳優の仕事の一部という側面が大きく、吹き替えではスタンリー・キューブリック監督作品『スパルタカス』において、故人となっていたローレンス・オリヴィエの声の代役を門下のアンソニー・ホプキンスが担当したエピソードなどがある。その一方で、アメリカでは声優専業の役者が増え、演技学校で声優コースを設けているところもある。
アニメーション作品ではしばしばキャラクターボイス(character voice)、略してCVという和製英語が使われる。これは1980年代後半にアニメ雑誌『アニメック』で副編集長だった井上伸一郎が提唱した用語で、その後、井上が角川書店で創刊した『月刊ニュータイプ』でも用いられている。昭和時代の作品では、おもにエンディングのクレジットで「声の出演」と表記されることが多かった。
平成から令和にかけての現在では、「キャスト」ないし「CAST」「CV」(キャラクターボイス)と表記されることが多くなっている。日本国外でのCVの使用例には、ウォルト・ディズニー・カンパニーで翻訳・吹き替えを担当するディズニー・キャラクター・ボイス・インターナショナル(Disney Character Voices International)などがある。
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声優
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平成から令和にかけての現在では、「キャスト」ないし「CAST」「CV」(キャラクターボイス)と表記されることが多くなっている。日本国外でのCVの使用例には、ウォルト・ディズニー・カンパニーで翻訳・吹き替えを担当するディズニー・キャラクター・ボイス・インターナショナル(Disney Character Voices International)などがある。
黎明期には顔出しNGの声優も少なくなかったが、時代が下るにつれて歌手としての活動、写真集を出すなどタレント的な活動も増えて顔出しOKの声優が増えてきている。その一方で2000年ごろからの#バーチャルYouTuber活動でみられる、他のキャラクターとして匿名的に活動する声優も出現していく。なお、現代においてはアニメ作品や特撮ドラマ作品のキャラクターの声を担当する割合が増えている点やテレビゲーム・オンラインゲームに登場する特定のキャラクターの声を専門的に演じることが中心となっている点から「担当声優」と呼称される場合がある。
1877年(明治10年)12月6日、アメリカでトーマス・エジソンが世界初の録音・再生式の蓄音機を発明する。
1880年代になると、日本では言文一致運動などソフト面での文明開化の運動が勃興する。1885年(明治18年)、坪内逍遥が『小説神髄』を著し、日本の近現代文学史の本格的な始まりを告げた。
1886年(明治19年)には、歌舞伎の近代化を志向した演劇改良会が結成されている。1888年(明治21年)、角藤定憲らが大日本壮士改良演劇会を結成する。1889年(明治22年)、歌舞伎座が開場する。
坪内逍遥はシェイクスピア戯曲の翻訳や歌舞伎演目『桐一葉』の創作、森鷗外との没理想論争など明治期の文芸演劇界で幅広く活躍した。演劇改良運動に取り組んでいた市川團十郎との初対面では、『ハムレット』を引き合いに出して、西洋演劇におけるエロキューションの効能を紹介している。
1891年(明治24年)、伊井蓉峰が依田學海の後援を得て、男女合同改良演劇・済美館を興す。寛永6年(1629年)に女性芸能が禁止されて以来、262年ぶりに男女共演が実現し、千歳米坡が女優として公演した。
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声優
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1891年(明治24年)、伊井蓉峰が依田學海の後援を得て、男女合同改良演劇・済美館を興す。寛永6年(1629年)に女性芸能が禁止されて以来、262年ぶりに男女共演が実現し、千歳米坡が女優として公演した。
1900年(明治33年)、欧米を洋行中であった川上音二郎一座は、訪問先のパリ万国博覧会で日本人最古となる録音盤の収録を行う。書生芝居の幕間に演じられた『オッペケペー節』をはじめとする多種多様な演目を録音した。
1902年(明治35年)、文部省が国語国字問題の解決を目的として、国語調査委員会を設置する。
1903年(明治36年)、新派劇の父である川上音二郎が正劇運動と称して、『オセロ』、『ハムレット』、『ヴェニスの商人』などの翻案劇を上演する。せりふとしぐさを主とするストレートプレイは新劇運動の萌芽となった。
1905年(明治38年)、中村翠娥、市川九女八、千歳米坡、若柳燕嬢らが女優大会を興行する。
1906年(明治39年)、坪内逍遥と島村抱月が文芸協会を設立している。同年、市川九女八、若柳燕嬢らが女優学校を設立。1908年(明治41年)、川上貞奴が帝国女優養成所(後:帝国劇場付属技芸学校)を、藤沢浅二郎が東京俳優養成所(後:東京俳優学校)を設立した。
1909年(明治42年)、小山内薫と市川左團次が自由劇場を設立している。同年、男女共学の文芸協会付属演劇研究所が設立されている。
明治の末になるとハード面での近代化が進む。1910年(明治43年)、日本で最初のレコード会社が設立される。
1911年(明治44年)、帝国劇場が開場する。5月、文芸協会がシェイクスピア戯曲『ハムレット』を上演した。日本初の全幕上演となった本公演には夏目漱石も招待された。11月には、イプセン戯曲『人形の家』が上演されている。好評を博した新劇女優の松井須磨子は、文芸協会付属演劇研究所の1期生であった。また、2期生からは新国劇の創設者となる澤田正二郎が輩出されている。
1913年(大正2年)、島村抱月と松井須磨子が芸術座を結成する。1914年(大正3年)の第3回公演では、抱月の再脚色においてトルストイの小説『復活』を上演した。須磨子が歌唱した劇中歌『カチューシャの唄』はレコード販売もされ、近代日本初の流行歌となった。同盤には歌唱だけでなく第三幕の科白の一節も収録された。
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声優
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1913年(大正2年)、島村抱月と松井須磨子が芸術座を結成する。1914年(大正3年)の第3回公演では、抱月の再脚色においてトルストイの小説『復活』を上演した。須磨子が歌唱した劇中歌『カチューシャの唄』はレコード販売もされ、近代日本初の流行歌となった。同盤には歌唱だけでなく第三幕の科白の一節も収録された。
同年10月、シェイクスピア戯曲『アントニーとクレオパトラ』が抱月の改作により上演され、公演後には出演者が録音スタジオに集まり舞台の粋を収録している。これは科白のみのオーディオドラマであり、12月には「沙翁劇『クレオパトラ』」として発売された。
1916年(大正5年)、文部省が『口語法』(編纂:国語調査委員会)を公刊する。話し言葉の規範文法を提示した。
大正時代(1912年〜1926年)には中村鴈治郎、松本幸四郎、市村羽左衛門、成美団、曾我廼家一座、宝塚少女歌劇、浅草オペラなども音源を残している。
1924年(大正13年)、日本初の新劇の常設劇場である築地小劇場が開場する。創立同人に小山内薫、土方与志、浅利鶴雄、友田恭助ほか。研究生1期生(座員)に千田是也、山本安英、田村秋子、丸山定夫、後に滝沢修、杉村春子、東山千栄子、薄田研二らを輩出した。
小山内薫の方針は既成の劇文壇の反発を招き、築地小劇場論争が勃発する。『演劇新潮』の同人を中心に菊池寛、久保田万太郎、岸田國士などが参加した。この一件は、その後の日本文学史、演劇史のみならず、さらには映画史、放送史などにも影響を与えて行く事となる。
1925年(大正14年)3月、NHKの前身である社団法人東京放送局が日本初のラジオ放送を開始する。
そのわずか1か月後に『映画劇せりふ』の番組内でサイレント映画『大地は微笑む』のセリフ劇が放送された。このときの声の出演は新派劇俳優の井上正夫、女優の栗島すみ子などであった。専門職としてではないが、実質的に彼らが「日本で最初の声優」である。
7月には舞台中継をスタジオで再現した『桐一葉』(出演:中村歌右衛門(5代目)など)が、さらに日本初の本格的なラジオドラマとして『大尉の娘』(出演:井上正夫、水谷八重子)が放送される。8月に小山内薫の演出、和田精の音響効果で放送された『炭鉱の中』とする説もある。出演者の一人であった山本安英は後に東京放送劇団の指導者を務めている。
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声優
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7月には舞台中継をスタジオで再現した『桐一葉』(出演:中村歌右衛門(5代目)など)が、さらに日本初の本格的なラジオドラマとして『大尉の娘』(出演:井上正夫、水谷八重子)が放送される。8月に小山内薫の演出、和田精の音響効果で放送された『炭鉱の中』とする説もある。出演者の一人であった山本安英は後に東京放送劇団の指導者を務めている。
8月、東京放送局にラジオドラマ研究会が設立される。長田幹彦、小山内薫、久保田万太郎、久米正雄、長田秀雄、吉井勇の6人を主要メンバーとした。さらに聴取者の獲得の為に著名な文士に一編五百円で脚本を委嘱する。当時の五百円は一軒家が建つほどの金額であり、2年間で「五百円ドラマ」に脚本を寄せた文士の顔ぶれは里見弴、松居松翁、小山内薫、長田秀雄、吉井勇、久保田万太郎、岸田國士、菊池寛、山本有三、中村吉蔵、岡本綺堂の11人であった。
9月、東京放送局は声だけで演技を行う専門の俳優としてラジオドラマ研究生を公募。100名あまりの応募者のうち12名の女性が選ばれ、11月にラジオドラマ『太っちょう』に声をあてる。声優の歴史に関する多くの資料では彼女たちが「日本の声優第1号」とみなされている。この当時は新聞では「ラヂオ役者」と呼称していた。
初期のラジオドラマには汐見洋や東山千栄子など、この前年に開場した築地小劇場の俳優が多く出演していた。
1930年(昭和5年)、新興芸術派倶楽部が結成されている。芸術価値の自律性を擁護して、『文学』からは小林秀雄、神西清、蝙蝠座からは今日出海など32名が参加した。また、蝙蝠座の院外団員には小林の他に菊池寛、岸田國士も参加していた。
1931年(昭和6年)、久保田万太郎が日本放送協会の文芸課長に就任する。久保田は文芸路線を掲げて、夏目漱石や泉鏡花、ルナールやユーゴーなどの国内外の文学のラジオドラマ化を推進した。また、久保田の演劇界での人脈を活用して井上正夫、喜多村緑郎、村瀬幸子、田村秋子、友田恭助などの新派や新劇で第一線の俳優を起用している。1938年(昭和13年)8月、退任。
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声優
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1931年(昭和6年)、久保田万太郎が日本放送協会の文芸課長に就任する。久保田は文芸路線を掲げて、夏目漱石や泉鏡花、ルナールやユーゴーなどの国内外の文学のラジオドラマ化を推進した。また、久保田の演劇界での人脈を活用して井上正夫、喜多村緑郎、村瀬幸子、田村秋子、友田恭助などの新派や新劇で第一線の俳優を起用している。1938年(昭和13年)8月、退任。
文芸課職員であった小林徳二郎は後に「これは新劇の俳優が商業劇場に出演できなかった当時では、ラジオ放送だけにしか行い得ないことで、久保田の手腕によるものであった。いまでいえば久保田課長は芸術面ばかりでなく、政治力を兼ねた名プロデューサーであった」とその意義を述べている。ラジオドラマの総放送回数は1938年(昭和13年)までの13年で750回を数えるまでに成長した。
この頃(おもに1930年代)に活躍していた者として舞台女優の飯島綾子が挙げられる。彼女はラジオドラマのほかに日本舞踊家や歌手(流行歌・歌謡曲・童謡オペレッタ)としても多彩な活動をしていた。
1932年(昭和7年)、日本初のアクセント専門の辞書である『国語発音アクセント辞典』が刊行されている。この頃、ラジオの普及率は10%前後であり、東京語に不慣れな全国の国語教員を主な対象として、話し言葉の統一、発音統一を目指して編纂された。執筆者の一人であった言語学者の神保格は、後述の調査委員会の委員や東京放送劇団の講師も担当している。
1934年(昭和9年)、NHKが放送用語並発音改善調査委員会(現:放送用語委員会)を設置する。イギリスの英国放送協会(BBC)を範に取り、その調査方針については「共通用語は、現代の国語の大勢に順応して、大体、帝都の教養ある社会層において普通に用ひられる語彙・語法・発音・アクセント(イントネーションを含む)を基本とする」ことが定められている。
1941年(昭和16年)4月、国民学校令が施行されている。音声言語教育については、「話し方に於ては児童の自由なる発表より始め次第に之を醇正ならしめ併せて聴き方の練習を為すべし」と位置付けた。6月、情報局が監督する日本移動演劇連盟が結成されている。
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