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コピーレフト
つまり、利用権を共有するための仕組みとして、著作権を放棄するのではなく、ライセンス(利用許諾)の形で共有と共同的な創造活動を保護する方法を採る。すなわち、「著作権は私が有していて複製・改変・配布(販売)には私の許可がいるのだが、ソフトウェアを共有して発展させるという意図に反しないならば、いつでも誰に対しても利用を許可する」という形態を採る。 その様な仕組みには、 後者の「独占的な状態への移行を許さない」強い共有の仕組みは、特にフリーソフトウェア財団 (FSF) によって(コピーライトに対する)コピーレフトと呼ばれている。 しかしながら、ライセンスに反する形で利用され、著作権が侵害される事例も後を絶たない。 コピーレフトライセンスを構成するときに基本となる法的考え方は、独占的なライセンスを構成する場合と同じく、著作物の再配布に制限を設けるコピーライトである。この制限を厳しくして二次著作物の作成まで阻害しているのが独占的なライセンスであり、二次著作物のライセンスの変質を許し、自己のライセンスの適用例が縮小再生産されるほど緩いのがパブリックドメインである。 コピーレフトに於いては、二次以降の著作物にも一次著作物と同一のライセンスが適用される という性質(「ウイルス性」「ライセンス感染」などと呼ばれる)が確保される様に、再配布制限をコピーライトによって設ける。この「ウイルス性」「ライセンス感染」の性質により、自己複製能力を獲得した生物が増殖するのと同様に、自己のライセンスを拡大再生産して広げる力をコピーレフトは得る。 その法的強制力の根拠は独占的なライセンスと同じくコピーライトであり、コピーライト無しにはコピーレフトは効力を持ち得ない。独占的なライセンス以外の使用法を示し、コピーライトの新たな可能性を発見したこの方法は「コピーライト・ハック」とも呼ばれる。
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コピーレフト
その法的強制力の根拠は独占的なライセンスと同じくコピーライトであり、コピーライト無しにはコピーレフトは効力を持ち得ない。独占的なライセンス以外の使用法を示し、コピーライトの新たな可能性を発見したこの方法は「コピーライト・ハック」とも呼ばれる。 しかし以上はある意味で、「法(ルール)に、その精神にではなく、文字通りに従う」という行為であり、もし将来、仮に「コピーレフトこそが正しい」ということになって現行著作権制度が部分的に解体されたとするならば、それと同時に瓦解する。従って、ジャーゴンファイルの「hack」の項の第1義にある「a quick job that produces what is needed, but not well.」その通りの意味の「ハック」とも言える。 コピーレフトの考えが導入されているライセンスには以下のようなものがある。 コピーレフトではないライセンスの例としては以下のものがある。 また、コピーレフトの概念をプログラム以外のものに適用しているライセンスには以下のようなものがある。
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スキー
スキー(英: skiing)は、2枚もしくは1枚の専用の板を両足に履き、雪上をより素早く降りるための移動手段として用いられている。語源はノルウェー語で「薄い板」を指す「スキー」から。漢名は滑雪。 ヨーロッパのアルプス地方で普及したアルペンスキーを楽しむ人が多いが、クロスカントリースキーやテレマークスキーのような、アルペンスキーより先にノルウェーのスカンディナヴィア半島で発展したノルディックスキーも同じく人気がある。 日本では積雪期にも宿屋が営業する温泉地に愛好者が集まり、やがてスキー場として発展した(山形県の五色温泉や長野県の野沢温泉がその奔り)。 1本の専用の板に正面を向いた状態で両足を揃えて固定するものに関しては「モノスキー」を参照。 スキーの発祥は、紀元前2500年頃から積雪期に交通手段、あるいは狩人が獲物を追って雪の山野を移動する手段であると推定されており、古代のスキーと思われるものが北欧をはじめとしてシベリア・中国・朝鮮半島・樺太など広範囲で発見されている。 中国では、紀元前8000年頃の壁画にスキーをしていると考えられる姿が描かれていた、ロシアでは紀元前6000年頃のスキーの遺跡が発掘されている。ノルウェーのスカンディナヴィア半島で、紀元前2500年ごろの壁画に狩りをする人達のスキーを履いた姿が描かれてい、その他にもスカンディナビア半島の丘陵地に住む人々の間にスキーの神としてウルとスカディが伝承されている。その他にも、樺太や沿海州のアイヌ民族が用いた「ストー」や、朝鮮半島の山岳地帯で用いられた「ソルメ」など、雪上を歩き、滑走する機能を持つスキーの原型と考えられている。日本での古いスキーの記述は、1794年に菅江真澄が描いた「立ちソリ」や1808年に間宮林蔵が樺太から沿海州方面を探検したのちに表した『北蝦夷図説』の中にある、スキーを履いている樺太アイヌの図がある。 19世紀中頃からノルウェー南部のテレマルク 地方を中心にスポーツや、登山者の山麓での移動手段や、西洋のアルプス地方の弓術と組み合わせた戦の技術として進化を遂げた。スキー自体を楽しむ人々が増えるにつれてスキーの練習に適した斜面のある山麓に練習場(ゲレンデ)ができ、本来の目的から独立したスポーツの場としてスキー場と呼ばれるようになった。
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スキー
19世紀中頃からノルウェー南部のテレマルク 地方を中心にスポーツや、登山者の山麓での移動手段や、西洋のアルプス地方の弓術と組み合わせた戦の技術として進化を遂げた。スキー自体を楽しむ人々が増えるにつれてスキーの練習に適した斜面のある山麓に練習場(ゲレンデ)ができ、本来の目的から独立したスポーツの場としてスキー場と呼ばれるようになった。 1825年、テレマルク地方に生まれたソンドレ・ノルハイム(ノルウェー語版、ノルウェー語 (ニーノシュク)版、英語版)によって「歩く、飛ぶ、滑る」といった現代まで残るスキー技術がスポーツとして確立され、1860年代には、スキー板とスキー靴を固定するビンディングが考案される。これが近代ノルディックスキーの始まりである。 1870年代になるとスキーが戦争用のものから移動の早さや飛距離を競う近代スポーツとして登場するようになり、1879年にはノルウェーのクリスチャニアオスロにて初の大規模なスキー大会が開催された。この大会にクリスチャニアのテレマルク地方から参加・活躍した少年達の技法が注目され、「テレマーク技術」として広がる。その後1883年にはスキー連盟が設立された。 1880年に、フリチョフ・ナンセンがスキーでのグリーンランド横断に成功した事でスキーが世界の関心を集め、ナンセンの『グリーンランド横断記』に強い刺激を受けたオーストリアのマチアス・ツダルスキーが、踵を固定して滑降時の安定を図る「リリエンフェルト式バインディング」を考案し、併せて1896年には急峻なアルプスの山岳滑降に適応する一本杖の「リリエンフェルター・シーラウフ・テヒニック(リリエンフェルト・スキー滑降術)」も発表した。この事でシュテムなどの技術が体系化され、アルペンスキーの根源になった。 一方で、マチアス・ツダルスキーの技術はテレマークやクリスチャニアの技術を主張するノルウェー派との間で論争を引き起こす事となるが、20世紀に入ってオーストリアの将校・ゲオルク・ビルゲリーがノルウェー派とマチアス・ツダルスキーの両方の技術長所を取り入れた二本杖のシュテムを中心とした技術を発表し、一応の決着を見た。
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スキー
一方で、マチアス・ツダルスキーの技術はテレマークやクリスチャニアの技術を主張するノルウェー派との間で論争を引き起こす事となるが、20世紀に入ってオーストリアの将校・ゲオルク・ビルゲリーがノルウェー派とマチアス・ツダルスキーの両方の技術長所を取り入れた二本杖のシュテムを中心とした技術を発表し、一応の決着を見た。 1907年、ハンネス・シュナイダーによって、オーストリアのサンクト・アントンなどにスキー学校が設立される。シュナイダーによって、アルプスの急峻な山々の滑降に対応し シュテムなどの技術が体系化された。これは「アールベルグ・バイブル(アールベルグスキー術)」と呼ばれ、後のアルペンスキー技術に多大な影響を与えた。この技術と書籍は日本にも輸入され、さらにシュナイダー自身も1930年に来日し、滞在中に映画の上映・講演・雪上での実技指導を行っている。 1921年にローザンヌのオリンピック会議で冬季オリンピックの開催が検討され、1924年にフランスのシャモニーにて第1回冬季オリンピック(シャモニーオリンピック)が開催された。この大会ではクロスカントリースキー、ノルディック複合、スキージャンプがスキー競技として採用されている。冬季オリンピック開催の同年には国際スキー連盟 (FIS) も誕生した。アルペン競技は第4回のガルミッシュ=パルテンキルヒェンオリンピック(1936年)から採用されている。
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スキー
1930年頃、オーストリア・チロル地方の「インスブルック派」と呼ばれる人々が、アールベルグスキー術でのシュテム技術の高速滑走の不利を感じて新しい技術を模索していたが、その中でアントン・ゼーロスはシュテム技術を用いずに立ち上がり抜重とローテーションを回転原動力としたパラレル技術を考案し、「テンポ・パラレルシュブンク」を完成した。その後、エミール・アレがアントン・ゼーロスの技術を徹底的に研究して、自ら世界チャンピオンの実績を残し、その技術を「スキー・フランセ(フランス・スキー術)」として発表した。その一方で、オーストリアのトニイ・ドウチアとクルト・ラインルは身体をひねり込むローテーションを否定して外向・外傾の技術を主張し、1933年に「今日のスキー」を出版した。またミュンヘン大学のオイゲン・マティアス教授は、スキー傷害の観点からローテーションを使わない技術を模索し、サンモリッツのスキー学校長ジョバニ・テスタとの共同研究で1936年に「自然なスキー」を出版した。なお、日本においては1940年に「今日のスキー」が、1941年には「スキー・フランセ」がそれぞれ邦訳出版され、ほぼ時を同じくしてそれぞれの技術が日本に紹介される事となった。 1951年にはオーストリアのツールスで「第1回国際スキー教育会議(略称、インタースキー、以降も同様)」が開催され、以後2年ごとに開催される。
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スキー
1951年にはオーストリアのツールスで「第1回国際スキー教育会議(略称、インタースキー、以降も同様)」が開催され、以後2年ごとに開催される。 1955年開催の「第3回インタースキー」においては、シュテファン・クルッケンハウザー(ドイツ語版)教授によってオーストリアの伝統的なシュテム技術を改善し、新たに「バインシュピール技術」を発表、同年に「オーストリア・スキー教程」を発刊した。バインシュピール技術が世界各国から注目された事で、フランス提唱のローテーション技術との間で激しい論争が展開されるが、この事が一般スキーヤーの技術と指導法に対する関心を集めてスキー普及にも貢献した。その一方で、その後のより高速を求める競技スキーの世界で技術の共通化傾向が見られるようになり、1968年のアスペンで行われた「第8回インタースキー」において「世界のスキーはひとつ」をキャッチフレーズに、各国の技術の長所を取り入れた、現在のスキー技術に通じる技術の融合の方針へと進んでいった。その後「第9回インタースキー」(ガルミッシュ・パルテンキルヘン)において、「ヴェーレンテクニック(オーストリア)」「アバルマン(フランス)」「シュロイダーテクニック(西ドイツ)」「OKテクニック(スイス)」「曲進系(日本)」といった各国開発の技術が発表されたが、名称の違いこそあれ、技術内容は類似していた。これらの技術を確固たる理論構成に導く研究をしたのがオーストリアのフランツ・ポピヒラーで、1974年に「新オーストリア・スキー教程」を出版し、下肢の運動ではなく、ナチュラルスタンス(自然体)でシンプルかつ機能的な運動というコンセプトとした考えの元に「シュヴィンゲン技術」と名付け、「プルークボーゲン」「シュテムターン」「パラレルウムシュタイゲン」「パラレルターン」「シェーレンウムシュタイゲン」に系統づけて理論化し、1991年の「第14回インタースキー」(オーストリア・サンアントン)において発表し、世界的に大きな影響を与えた。 1980年代になると交互操作とステップ系の技術に関心が集まり、1983年の「第12回インタースキー」(イタリア)において日本が人間の基本動作である「バイベタリズム」をターンの主運動とする独自の指導法を提唱した。これは「シュヴィンゲン」とともに注目を引く事となった。
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スキー
1980年代になると交互操作とステップ系の技術に関心が集まり、1983年の「第12回インタースキー」(イタリア)において日本が人間の基本動作である「バイベタリズム」をターンの主運動とする独自の指導法を提唱した。これは「シュヴィンゲン」とともに注目を引く事となった。 1990年代からカービングスキーやショートスキーなど、ターンのしやすい板が普及し、この事でかつてのバインシュピール的なスキー技術が影をひそめる事となる。2003年にはオーストリアが「第17回インタースキー」(スイス・で開催)において「パラレルカービングターン技術」としての成果を発表した。 2010年頃からはバックカントリーの人気の高まりから、トップ側が反り上がったロッカーと呼ばれる技術を用いた板が広まってきた。 日本におけるスキーの伝来は明治時代後期の1890年代からだが、1911年(明治44年)1月12日に新潟県中頸城郡高田町(現・上越市)において、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍(英語版)少佐(オーストリア=ハンガリー帝国時代)のテオドール・エードラー・フォン・レルヒ(テオドール・エドレル・フォン・レルヒとも)が陸軍第13師団に着任し、歩兵第58連隊の営庭を利用して堀内文次郎連隊長や鶴見宜信大尉らスキー専修員を含む軍人に技術を伝授したことが、日本における本格的なスキー普及の第一歩とされ、かつ、日本におけるスキー発祥と言われている。この史実にちなんで、全日本スキー連盟では2003年に1月12日を「スキーの日」と制定した。 レルヒは日本陸軍の長岡外史中将が率いる第13師団の御用商人でもあり、高田町を本拠にする実業家である五十嵐彌五八(後に辰豊と改名)の経営する旅館「高陽館」に寄宿して高田歩兵第58連隊に着任、その翌年の1912年には北海道旭川第7師団に着任した。 レルヒ以前、1908年に札幌農学校のスイス人講師が2本杖のスキーを滑ってみせたこと(詳細は三角山を参照のこと)、また1916年に欧州から帰国した遠藤吉三郎がノルウェー式の2本杖スキーを普及させたことから北海道では2本杖が主流となった。また、1923年には第一回全日本スキー選手権大会が開催され、2本杖が1本杖を成績で圧倒したことから、全国的にも2本杖が主流となっていった。
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スキー
レルヒ以前、1908年に札幌農学校のスイス人講師が2本杖のスキーを滑ってみせたこと(詳細は三角山を参照のこと)、また1916年に欧州から帰国した遠藤吉三郎がノルウェー式の2本杖スキーを普及させたことから北海道では2本杖が主流となった。また、1923年には第一回全日本スキー選手権大会が開催され、2本杖が1本杖を成績で圧倒したことから、全国的にも2本杖が主流となっていった。 スキーは登山用具としても注目され、1923年1月には、当時の日本登山界のリーダーである槇有恒、板倉勝宣、三田幸夫が冬の立山登山に利用した(板倉は帰路遭難死)。 1924年のシャモニーオリンピック開催と国際スキー連盟誕生を受け、日本では翌年の1925年に全日本スキー連盟が創設された。 1940年と1941年に相次いで、「今日のスキー」と「スキー・フランセ」がそれぞれ邦訳出版され、それぞれの技術が紹介されるが(上記参照)、日本のスキー関係者の間では「外傾技術」に共鳴する人が多く、1947年(昭和22年)には外傾技術を中心とした全日本スキー連盟のテキスト「一般スキー術」が出版された。しかし当時でも少なからずローテーション技術を主張する声があり、1954年(昭和29年)にピエール・ギョーとアンリ・オレイエが来日して全国各地でフランス・スキー技術の指導が行われた事でローテーション技術と外傾技術の議論が活発に行われた。 1958年(昭和33年)に「オーストリア・スキー教程」が日本でも出版され、その直後にはオーストリア職業スキー教師連盟のルディ・マットが来日し、全国各地でオーストリアスキー技術が紹介・指導された事で日本のスキー技術はオーストリア・スキーに傾倒していき、1959年(昭和34年)にはバインシュピール技術が基となる「SAJスキーテキスト」が発刊された。その後の1960年(昭和35年)にルディ・マットが再来日したほか、1963年(昭和38年)にはオーストリア国立スキー学校総責任者のシュテファン・クルッケンハウザー教授とデモンストレーターのフランツ・フルトナー他2名が来日して、全国各地で講演・映画上映・実地指導を行い、これを受けてバインシュピール技術が日本のスキー界に根付いていった。
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スキー
1965年(昭和40年)には「第7回インタースキー」(オーストリア・バドガシュタイン)に、日本から初めて10名(うちデモンストレーター5名)の代表団が送り込まれた。以降、日本は毎回参加し、1979年(昭和54年)にはアジア初となる日本・蔵王で「第11回インタースキー」が、1995年(平成7年)には日本・野沢温泉で「第15回インタースキー」が開催された。 1923年(大正12年)に、第1回冬季オリンピック大会の選考会を兼ねて、北海道小樽で第1回全日本スキー選手権大会が開催された。 冬季オリンピックの参加は1928年(昭和3年)の第2回冬季オリンピック(スイス・サンモリッツ大会)が初となり、7名の選手が送り込まれた。 1956年(昭和31年)には第7回冬季オリンピック(イタリア・コルチナ・ダンペッツオ大会)に参加した回転(スラローム)選手の猪谷千春が2位に入賞し、日本初のメダリストとなった。 以降の日本のスキーに関連した冬季オリンピック(メダリスト)については以下を参照の事。 またメダルには届かなかったが、第20回冬季オリンピック(イタリア・トリノ)では皆川賢太郎が4位に入賞、湯浅直樹が7位に入賞し、アルペンスキーでは猪谷千春以来50年ぶりの入賞を果たしている。 オリンピック以外では、ノルディック複合個人総合で1993年(平成5年)から1995年(平成7年)にかけてのワールドカップ(ノルディック複合)で荻原健司が3連覇を成し遂げ、さらに1995年での世界選手権でもこの種目で優勝している。また、アルペンスキーでは海和俊宏・岡部哲也・木村公宣がワールドカップ(アルペン)で上位入賞を果たしている。 スキーで雪上を歩行したり、ジャンプ、滑降、登行するために、以下のような用具が必要である。 また、身に付けるものに などがあると良い。 アルペンスキー技術は大きく分けて、推進技術と制動技術の2種類に分類される。推進のものには、真下方向に向かって真っ直ぐに滑る直滑降やレールターン・カービングターンなどがある。制動のものには、谷脚に体重を乗せ、板はフォールライン(最大傾斜線)に垂直または斜滑降方向に向きつつ、真下や斜め方向に向かってスキー板をずらして滑る横滑りや、プフルークボーゲン・ステムターンと、パラレルターンにおけるスキッディングターンなどがある。
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C Sharp
■カテゴリ / ■テンプレート C#(シーシャープ)は、マイクロソフトが開発した、汎用のマルチパラダイムプログラミング言語である。C#は、Javaに似た構文を持ち、C++に比べて扱いやすく、プログラムの記述量も少なくて済む。また、C#は、Windowsの.NET Framework上で動作することを前提として開発された言語であるが、2023年現在はクロスプラットフォームな.NETランタイム上で動作する。 デスクトップ・モバイルを含むアプリケーション開発や、ASP.NETをはじめとするWebサービスの開発フレームワーク、ゲームエンジンのUnityでの採用事例などもある。 マルチパラダイムをサポートする汎用高レベルプログラミング言語で、静的型付け、タイプセーフ、スコープ、命令型、宣言型、関数型、汎用型、オブジェクト指向(クラスベース)、コンポーネント指向のプログラミング分野を含んでいる。 共通言語基盤 (CLI) といった周辺技術も含め、マイクロソフトのフレームワークである「.NET」の一部である。また、以前のVisual J++で「非互換なJava」をJavaに持ち込もうとしたマイクロソフトとは異なり、その多くの仕様を積極的に公開し、標準化機構に託して自由な利用を許す (ECMA-334,ISO/IEC 23270:2003,JIS X 3015) など、同社の姿勢の変化があらわれている。 設計はデンマークのアンダース・ヘルスバーグによる。 構文はC系言語(C,C++など)の影響を受けており、その他の要素には以前ヘルスバーグが所属していたボーランド設計のDelphiの影響が見受けられる。また、主要言語へのasync/await構文や、ヘルスバーグが言語設計に関わるTypeScriptでのジェネリクス採用など、他言語への影響も見られる。 開発にはボーランドのTurbo PascalやDelphiを開発したアンダース・ヘルスバーグを筆頭として多数のDelphi開発陣が参加している。 C#は共通言語基盤(共通言語ランタイムなど)が解釈する共通中間言語にコンパイルされて実行される。
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C Sharp
開発にはボーランドのTurbo PascalやDelphiを開発したアンダース・ヘルスバーグを筆頭として多数のDelphi開発陣が参加している。 C#は共通言語基盤(共通言語ランタイムなど)が解釈する共通中間言語にコンパイルされて実行される。 自動ボックス化、デリゲート、 プロパティ、インデクサ、カスタム属性、ポインタ演算操作、構造体(値型オブジェクト)、多次元配列、可変長引数、などの機能を持つ。また、Javaと同様に大規模ライブラリ、プロセッサ・アーキテクチャに依存しない実行形態、ガベージコレクション、JITコンパイルによる実行の高速化、などが実現されている(もっともこれらはC#の機能というより.NET によるものである)。 .NET構想における中心的な開発言語であり、XML WebサービスやASP.NETの記述にも使用される。他の.NET系の言語でも記述可能だが、.NET APIはC#からの利用を第一に想定されており、他の.NET系言語(特に2023年以降新構文の追加なしと宣言されたVB.NET)では利用できない、あるいは将来的に利用できなくなる機能が存在する。 マイクロソフトの統合開発環境(Microsoft Visual Studio)では、Microsoft Visual C#がC#に対応している。また、Visual Studio Codeに専用のC#向け拡張(C# DevKit)を導入することでクロスプラットフォームで開発することが可能。 共通言語仕様のCLSによって、他のCLS準拠の言語(F#やVisual Basic .NETやVisual C++ (C++/CLI) など)と相互に連携することができる。 さまざまな意味において、基盤であるCLIの機能をもっとも反映している言語であるといえる。C#にある組み込み型のほとんどは、CLIフレームワークに実装されている値型と対応している。 しかし、C#の言語仕様はコンパイラのコード生成については何も言及していないため、CLRに対応しなければならないとか、共通中間言語 (CIL) などの特定のフォーマットのコードを生成しなければならないとかいうことは述べられていない。
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C Sharp
しかし、C#の言語仕様はコンパイラのコード生成については何も言及していないため、CLRに対応しなければならないとか、共通中間言語 (CIL) などの特定のフォーマットのコードを生成しなければならないとかいうことは述べられていない。 そのため、理論的にはC++やFORTRANのように環境依存のマシン語を生成することも可能である。しかし、現在存在するすべてのC#コンパイラはCLIをターゲットにしている。 .NET 7.0以降で可能になった事前コンパイルの一種である「Native AOT」でデプロイすることで実行可能な環境依存のバイナリを出力することが可能である。しかしながらこの手法もCLIとランタイムを事前に各アーキテクチャ向けのバイナリに変換しているだけであり、CLIを経由することに変わりはない。 特殊な例としては、UnityのScripting Backendである「IL2CPP」や「Burst」がある。 IL2CPPはC#をコンパイルしたCLIをさらにC++コードへと変換後、ネイティブバイナリへC++コンパイラによってコンパイルされる。BurstはC#をコンパイルしたCLIをLLVMコンパイラによってネイティブバイナリへコンパイルするものである。 C#のHello Worldは以下の通りである。1行での記述が可能。 あえて冗長に記載すると下記の様になる。 このコードは問題なくコンパイルが通るが、以下のような冗長な記述が含まれる。 C#では、CやC++と比較してさまざまな制限や改良が加えられている。また、仕様の多くはC#言語というよりは、基盤である .NET そのものに依拠している。Javaで導入された制限および改良をC#でも同様に採用しているものが多いが、C#で新たに導入された改良がのちにJavaにも同様に採用されたものもある。その例を次に挙げる。 部分型 (Partial Type) が導入された。以下のようにクラスや構造体の宣言にpartial修飾子をつけることで、その宣言を分割することができる。 これは以下と同義である: これによって、巨大なクラスを分割したり、自動生成されたコードを分離したりすることができる。partial 修飾子はすべての宣言につける必要がある。
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C Sharp
部分型 (Partial Type) が導入された。以下のようにクラスや構造体の宣言にpartial修飾子をつけることで、その宣言を分割することができる。 これは以下と同義である: これによって、巨大なクラスを分割したり、自動生成されたコードを分離したりすることができる。partial 修飾子はすべての宣言につける必要がある。 ジェネリクスが導入された。これは.NET Framework 2.0の機能である。クラス、構造体、インタフェース、デリゲート、メソッドに対して適用することができる。 .NETのGenericsはC++のテンプレート、あるいはJavaにおけるそれとも異なるもので、コンパイルによってではなく実行時にランタイムによって特殊化される。これによって異なる言語間の運用を可能にし、リフレクションによって型パラメーターに関する情報を取得することができる。また、where節によって型パラメーターに制約を与えることができる。一方、C++のように型パラメーターとして式を指定することはできない。なお、ジェネリックメソッドの呼び出し時に引数によって型パラメーターが推論できる場合、型パラメーターの指定は省略できる。 静的クラスが導入された。static属性をクラスの宣言につけることで、クラスはインスタンス化できなくなり、静的なメンバーしか持つことができなくなる。 イテレータ#C# 2.0を参照。 yieldキーワードによるコルーチンを使うことで、イテレータの生成を楽に実装できるようになった。 クロージャの機能を提供する匿名デリゲートが導入された。 Property Accessors プロパティのget もしくは setアクセサのどちらかにアクセス修飾子を指定することでアクセス制御が別個にできるようになった。次の例では、getアクセサはpublic、setアクセサはprivateである。 nullを保持できる値型、Nullableが導入された。 int?はNullable<int>の糖衣構文である。また、nullを保持しているNull許容型のインスタンスをボックス化しようとすると、単に空参照 (null) に変換される。 また、null結合演算子 (??)が導入された。これは、nullでない最初の値を返す。
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nullを保持できる値型、Nullableが導入された。 int?はNullable<int>の糖衣構文である。また、nullを保持しているNull許容型のインスタンスをボックス化しようとすると、単に空参照 (null) に変換される。 また、null結合演算子 (??)が導入された。これは、nullでない最初の値を返す。 この演算子は主にNullable型を非Nullable型に代入するときに使われる。 var キーワードが導入され、型推論を利用したローカル変数の宣言ができるようになった。 拡張メソッド (extension method) が導入された。既存のクラスを継承して新たなクラスを定義することなく、新たなインスタンスメソッドを疑似的に追加定義することができる。具体的には、入れ子になっていない、非ジェネリックの静的クラス内に、this 修飾子をつけた、拡張メソッドを追加する対象の型の引数を最初に持つメソッドをまず定義する。これによって、通常の静的メソッドとしての呼び出しの他に、指定した型のインスタンスメソッドとしての呼び出しを行うことができるメソッドを作ることができる。以下に例を挙げる: この例は、文字列(string 型のインスタンス)を指定した回数繰り返し連結したものを返すメソッド Repeat を、既存の string 型に追加している。このメソッドは、以下のように呼び出すことができる: また、列挙型やインタフェースなど本来メソッドの実装を持ち得ない型に、見かけ上インスタンスメソッドを追加することも可能である。以下に例を挙げる: このメソッドは以下のように呼び出すことができる: 拡張メソッドは糖衣構文の一種であり、カプセル化の原則に違反するものではないが、必要な場合に限り注意して実装することがガイドラインとして推奨されている。 部分メソッドが導入された。部分型(partial 型)内で定義された private で、かつ戻り値が void のメソッドに partial 修飾子をつけることでメソッドの宣言と定義を分離させることができる。定義されていない部分メソッドは何も行わず、何らエラーを発生させることもない。例えば: 上のコードにおいて Method() を呼び出すと、Did something. と表示されるだけだが、ここで以下のコード:
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上のコードにおいて Method() を呼び出すと、Did something. と表示されるだけだが、ここで以下のコード: を追加した上で Method() を呼び出すと、[DEBUG: Some message] Did something. と表示される。 ラムダ式が導入された。この名前はラムダ計算に由来する。 以下の匿名メソッド は、ラムダ式を使って次のように記述できる: ラムダ式は匿名メソッドと同様に扱えるが、式形式のラムダがExpression<TDelegate>型として扱われた場合のみ匿名メソッドとして扱われず、コンパイラによって式木を構築するコードに変換される。匿名デリゲートが実行前にコンパイルされたCILを保持するのに対し、式木はCILに実行時コンパイル可能であるDOMのような式の木構造そのものを保持する。これはLINQクエリをSQLクエリなどに変換する際に役立つ。 以下は、3つの任意の名前の変数、整数、括弧、及び四則演算子のみで構成された式を逆ポーランド記法に変換する汎用的なコードである: オブジェクトの初期化が式として簡潔に記述できるようになった。 また、コレクションの初期化も同様に簡潔に記述できるようになった。 但し、上のコードでは匿名の変数に便宜的に __p、__l、__d と命名している。実際はプログラマはこの変数にアクセスすることはできない。 プロパティをより簡潔に記述するための自動実装プロパティが導入された。プロパティの定義に get; set; と記述することで、プロパティの値を保持するための匿名のフィールド(プログラマは直接参照することはできない)と、そのフィールドにアクセスするためのアクセサが暗黙に定義される。また、C# 5.0 までは get;とset;のどちらか片方だけを記述することは出来なかったが、C# 6.0 からは get; のみが可能。以下のコード: は、以下のようなコードに相当する動作をする: 但し、上のコードでは匿名のフィールドに便宜的に __value と命名している。実際はプログラマはこのフィールドにアクセスすることはできない。 一時的に使用される型を簡単に定義するための匿名型が導入された。以下に例を挙げる:
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C Sharp
は、以下のようなコードに相当する動作をする: 但し、上のコードでは匿名のフィールドに便宜的に __value と命名している。実際はプログラマはこのフィールドにアクセスすることはできない。 一時的に使用される型を簡単に定義するための匿名型が導入された。以下に例を挙げる: 上の式は、以下の内容のクラスを暗黙に定義する。定義されたクラスは匿名であるが故にプログラマは参照できない。 同じ型、同じ名前のプロパティを同じ順序で並べた匿名型は同じであることが保証されている。即ち、以下のコード: において、her.GetType() == him.GetType() は true である。 new キーワードを用いた配列の宣言の際、型を省略できるようになった。匿名型の配列を宣言する際に威力を発揮する。 LINQ をサポートするために、クエリ式が導入された。これは SQL の構文に類似しており、最終的に通常のメソッド呼び出しに変換されるものである。以下に例を示す: 上のコードは以下のように変換される: C# 3.0で追加された構文の多くは式であるため、より巨大な式(当然クエリ式も含まれる)の一部として組み込むことができる。旧来複数の文に分けたり、作業用の変数を用意して記述していたコードを単独の式としてより簡潔に記述できる可能性がある。 出井秀行著の『実戦で役立つ C#プログラミングのイディオム/定石&パターン』(技術評論社、2017年)という書籍ではクエリ構文よりメソッド構文を推奨しており、クエリ構文ではLINQの全ての機能を使用できるわけではないこと、メソッド呼び出しは処理を連続して読める可読性があること、メソッド呼び出しであればMicrosoft Visual Studioの強力なインテリセンスが利用できることを理由に、著者はクエリ構文をほとんど使用していないと記している。 dynamicキーワードが導入され、動的型付け変数を定義できるようになった。dynamic型として宣言されたオブジェクトに対する操作のバインドは実行時まで遅延される。 VBやC++に実装されているオプション引数・名前付き引数が、C#でも利用できるようになった。 ジェネリクスの型引数に対してin、out修飾子を指定することにより、ジェネリクスの共変性・反変性を指定できるようになった。
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dynamicキーワードが導入され、動的型付け変数を定義できるようになった。dynamic型として宣言されたオブジェクトに対する操作のバインドは実行時まで遅延される。 VBやC++に実装されているオプション引数・名前付き引数が、C#でも利用できるようになった。 ジェネリクスの型引数に対してin、out修飾子を指定することにより、ジェネリクスの共変性・反変性を指定できるようになった。 静的 using ディレクティブを利用することで、型名の指定無しに他クラスの静的メンバーの呼び出しを行えるようになった。利用するにはusing staticの後に完全修飾なクラス名を指定する。 catchの後にwhenキーワードを使用することで、処理する例外を限定することができるようになった。 out引数で値を受け取る場合、その場所で変数宣言可能となった。 is式の構文が拡張され、型の後ろに変数名を宣言できるようになった。 拡張されたis式はマッチした場合に宣言した変数にキャストした値を代入し、さらにtrueと評価される。 マッチしなかった場合はfalseと評価され、宣言した変数は未初期化状態となる。 switch文のマッチ方法が拡張され、caseラベルに従来の「定数パターン」に加え、新たに「型パターン」を指定できるようになった。 また、「型パターン」のcaseラベルでは、when句に条件を指定することができる。 「型パターン」を含むswitch文では、必ずしも条件が排他的でなくなったため、最初にマッチしたcaseラベルの処理が実行される。 タプルのための軽量な構文が導入された。従来のSystem.Tupleクラスとは別に、System.ValueTuple構造体が新しく追加された。 2個以上の要素を持つタプルのための記法が導入された。 引数リストと同様の形式で、タプルを記述できる。 多値戻り値を簡単に扱えるように、分解がサポートされた。 分解はタプルに限らない。Deconstruct()メソッドが定義されたクラスでも、分解を利用できる。 以下に、DateTime型に分解を導入する例を示す。 上記のコードでDateTime型にDeconstruct()拡張メソッドを定義し、 のように左辺で3つの変数に値を受け取ることができる。
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多値戻り値を簡単に扱えるように、分解がサポートされた。 分解はタプルに限らない。Deconstruct()メソッドが定義されたクラスでも、分解を利用できる。 以下に、DateTime型に分解を導入する例を示す。 上記のコードでDateTime型にDeconstruct()拡張メソッドを定義し、 のように左辺で3つの変数に値を受け取ることができる。 分解、out引数、パターンマッチングで、値の破棄を明示するために_が利用できるようになった。 破棄された値は、後で参照することはできない。 refキーワードの使用方法が拡張された。これによって、安全な参照の使い道が広がった。 戻り値の型をrefで修飾することで、オブジェクトの参照を戻り値とすることができる。 変数の寿命は変わらないため、メソッド終了時に破棄されるローカル変数をref戻り値とすることはできない。 ローカル変数の型をrefで修飾することで、参照を代入することができる。 Mainメソッドの戻り値として、Task型、Task(int)型が認められた。 型推論可能な場面では、defaultの型指定は省略可能となった。 C#7.2で追加された仕様は以下の通り。 値型におけるパフォーマンス向上を意図した複数の機能が追加された。 引数にinを指定することで、読み取り専用参照渡しを指定できる。 また、戻り値にref readonlyを指定することで、読み取り専用参照戻り値を指定できる。 これにより、構造体のコピーを避けると共に、意図しない値の変更を抑止できる。 構造体宣言時にreadonlyを指定することで、真の読み取り専用構造体を定義できる。 readonly構造体の全てのフィールドはreadonlyでなければならず、thisポインタも読み取り専用となる。 これにより、メンバーアクセス時の意図しない防御的コピーを抑止できる。 構造体宣言時にrefを指定することで、ヒープ領域へのコピーを防ぐ構造体がサポートされる。 ref構造体では、box化できない、配列を作成できない、型引数になることができない、など、ヒープ領域へのコピーを防ぐための厳しい制限がかかる。 この機能は、Span<T>のような構造体をサポートするために利用され、unsafe文脈以外でのstackallocの利用をも可能とする。
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C Sharp
構造体宣言時にrefを指定することで、ヒープ領域へのコピーを防ぐ構造体がサポートされる。 ref構造体では、box化できない、配列を作成できない、型引数になることができない、など、ヒープ領域へのコピーを防ぐための厳しい制限がかかる。 この機能は、Span<T>のような構造体をサポートするために利用され、unsafe文脈以外でのstackallocの利用をも可能とする。 C#4.0で追加された名前付き引数が末尾以外でも利用できるようになった。 同一アセンブリ内、かつ、継承先からのアクセス許可を表すprivate protectedアクセス修飾子が追加された。 十六進リテラルの0x、二進リテラルの0bの直後のアンダースコアが認められた。 C#7.3では以下の仕様が追加された。 C# 8.0で追加された仕様は以下の通り。 参照型にnull許容性を指定できるようになった。参照型の型名に?を付加した場合にnull許容参照型となる。 参照型の型名に?を付加しない場合、null非許容参照型となる。 フロー解析レベルでのnull許容性チェックが行われる。null許容値型のNullable<T>のような新しい型は導入されない。 参照型のnull許容性は、null許容コンテキストによって有効、無効の切り替えが可能である。 C#7.3以前の互換性のために、既定では無効となっている。 null許容参照型の変数名の後に !を使用することで、フロー解析時の警告が免除される。 インタフェースのメンバーに既定の実装を指定できるようになった。また、インタフェースに静的メンバーを持つことができるようになった。 さらに、インタフェースのメンバーにアクセシビリティを指定できるようになった。 switch式が追加された。 プロパティパターン、タプルパターン、位置指定パターンの追加により、再帰的なパターンマッチングが可能になった。 IAsyncEnumerable<T> インタフェースを返すことで、イテレータ構文と非同期構文の共存が可能になった。 await foreachによって非同期ストリームを列挙する。 IndexとRangeを指定できる専用構文が追加された。 C# 9.0で追加された仕様は以下の通り。 C# 10.0で追加された仕様は以下の通り。 C# 11.0で追加された仕様は以下の通り。
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C Sharp
IAsyncEnumerable<T> インタフェースを返すことで、イテレータ構文と非同期構文の共存が可能になった。 await foreachによって非同期ストリームを列挙する。 IndexとRangeを指定できる専用構文が追加された。 C# 9.0で追加された仕様は以下の通り。 C# 10.0で追加された仕様は以下の通り。 C# 11.0で追加された仕様は以下の通り。 エスケープなどの加工を施さない文字列を3個の二重引用符で括って表現できる様になった。 属性の型が型引数を持てる様になった。 リストや配列に対するパターンマッチが可能になった。 また、Span<char>やReadOnlySpan<char>に対するパターンマッチが可能になった。 C# 12.0で追加された仕様は以下の通り。 レコード型以外のclass, structでプライマリコンストラクターが使えるようになった。 配列、コレクション、Span<T>などの初期化の記法が共通の記法([])で書けるようになった。 コレクション式で複数のコレクションをインライン展開できる新しい演算子(..)が追加された。 C#の言語仕様は標準化団体Ecma Internationalを通じて公開・標準化されており、第三者がマイクロソフトとは無関係にコンパイラや実行環境を実装することができる。 現段階で、C#コンパイラの実装は次の5つが知られている。
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2月15日
2月15日(にがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から46日目にあたり、年末まであと319日(閏年では320日)ある。
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C++
C++(シープラスプラス)は、汎用プログラミング言語のひとつである。派生元であるC言語の機能や特徴を継承しつつ、表現力と効率性の向上のために、手続き型プログラミング・データ抽象・オブジェクト指向プログラミング・ジェネリックプログラミングといった複数のプログラミングパラダイムが組み合わされている。C言語のようにハードウェアを直接扱うような下位層向けの低水準言語としても、複雑なアプリケーションソフトウェアを開発するための上位層向け高水準言語としても使用可能である。アセンブリ言語以外の低水準言語を必要としないこと、使わない機能に時間的・空間的コストを必要としないことが、言語設計の重要な原則となっている。 C++は、1983年にAT&Tベル研究所の計算機科学者ビャーネ・ストロヴストルップによって公開された。また様々なプラットフォームでその開発環境が導入された。1998年からISOとIECの共同で言語仕様とテンプレートライブラリの標準化が行われるようになり、その後2003年、2011年、2014年、2017年、2020年に標準規格が改訂されている。2021年時点での最新規格は「ISO/IEC 14882:2020」通称「C++20」である。 ストロヴストルップはプログラミング言語C with Classes(クラス付きのC言語)の開発を1979年に開始した。彼は大規模なソフトウェアの開発に有用な特徴をSimulaが備えていることに気がついたが、Simulaは実行速度が遅く実用的ではなかった。一方でBCPLは実行速度こそ速かったものの、大規模なソフトウェア開発を念頭に置いた場合にあまりにも低級だった。 これらの事情を鑑みて、ストロヴストルップは当時既に汎用的な言語だったC言語にSimulaの特徴を取り入れることを試みた。この取り組みにあたってはALGOL68やAda、CLU、ML等の言語の影響も受けている。最初はクラスと派生クラス、型検査機構の強化、インライン関数、デフォルト引数の機能を、Cfrontを介してC言語に追加した。1985年10月に最初の商用リリースがなされた。
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C++
これらの事情を鑑みて、ストロヴストルップは当時既に汎用的な言語だったC言語にSimulaの特徴を取り入れることを試みた。この取り組みにあたってはALGOL68やAda、CLU、ML等の言語の影響も受けている。最初はクラスと派生クラス、型検査機構の強化、インライン関数、デフォルト引数の機能を、Cfrontを介してC言語に追加した。1985年10月に最初の商用リリースがなされた。 1983年にはC with ClassesからC++に名称を変更した。この際に、仮想関数と、関数と演算子の多重定義、参照型、const型、ユーザー制御可能な自由領域メモリ制御、型検査機構の改良、BCPL形式の(「//」による)行単位のコメントなどの機能が追加された。1985年には『The C++ Programming Language』の初版が出版された(邦訳『プログラミング言語C++』1988年))。この時点では公式な標準が策定されていなかったために、この本が事実上のリファレンスとなった。1989年C++のバージョン2.0として、多重継承と抽象クラス、静的メンバ関数、constメンバ関数、protectedメンバ等の機能が追加されたものがリリースされた。1990年に『The Annotated C++ Reference Manual (ARM)』(邦訳『注解C++リファレンスマニュアル』)が出版され、将来の標準化の土台となるものを提供した。後に追加された機能にはテンプレートと例外処理、名前空間、新形式のキャスト、ブール型が含まれた。
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C++
ARMが事実上の標準として使われた時代が続いたが、標準化が進んだ。C++言語の最初の標準は1998年にISO/IEC 14882:1998として承認された。2003年の改訂版を経て、2011年にメジャーアップデートとして制定されたのがISO/IEC 14882:2011、通称「C++11」である。このバージョンは、元々、非公式に「C++0x」と呼ばれていた。2000年代中に制定され、正式に「C++09」と呼称されることを見越した仮称だったが、2000年代中には実現しなかった。2011年8月10日まで続いた最終国際投票で C++0x は全会一致で承認された。これにより C++0x と呼ばれてきた C++ の次期改正案はついに国際標準になり、C++11と呼べるようになった。また、2014年にはISO/IEC 14882:2014、通称「C++14」が策定された。2017年にはISO/IEC 14882:2017、通称「C++17」が策定された。2020年にはISO/IEC 14882:2020、通称「C++20」が策定された。 C++言語の進化に伴い、標準ライブラリもまた進化していった。C++標準ライブラリに最初に追加されたのは、従来のC言語の printf() や scanf() といった関数を置き換えるストリームI/Oライブラリである。また、C++98における標準ライブラリへの追加で最も重要なものはStandard Template Library (STL) である。C++11では、正規表現による検索・置換や複数スレッドでの同時実行、ハッシュテーブル・ハッシュセットの追加などさらなる拡充が続いている。 長年にわたる作業の後、ANSIとISOの合同委員会はプログラミング言語C++を1998年に標準化した (ISO/IEC 14882:1998)。1998年の標準の公式なリリースから数年間にわたって委員会は不具合の報告を続け、2003年に改訂版を出版した。2003年12月に制定された日本工業規格(現:日本産業規格)JIS X 3014:2003「プログラム言語C++」(日本産業標準調査会、経済産業省)は、ISO/IEC 14882:2003 (E) の日本語訳である。
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C++
2007年11月15日、C++ Technical Report 1 (TR1) という技術報告書(テクニカルレポート)がリリースされた。これは規格の公式な一部ではなかったが、次の版のC++に含まれると期待される、標準ライブラリへの数多くの拡張を与えた。TR1の内容は、多少の修正を加えてC++11に取り込まれている。 2011年9月1日、C++98以来初の大きな改訂となるISO/IEC 14882:2011が発行された。 2014年8月18日、ISO/IEC 14882:2014 (C++14) が投票で承認され、同年12月15日に公式に出版された。 2017年12月1日、ISO/IEC 14882:2017 (C++17) が公式に発行された。 2020年9月4日、ISO/IEC 14882:2020 (C++20) が投票で承認され、同年12月15日、ISO/IEC 14882:2020 (C++20)に公式に出版された。 C++20に続いて次期改訂版となるべきISO/IEC 14882:2023 (C++23) の仕様策定については、2019年末から始まったCovid-19の世界的流行により開発者同士の対面によるミーティングの開催を図ることが大変難しくなったことから、仕様策定が非常に難航している状況である。 C++に対しては、今もなお要望が絶えない。特にBoost C++ライブラリを開発しているBoostコミュニティはC++の方向性の決定に大きく貢献し、さらにC++標準化委員会へ改良すべき点などを意見している。現在はマルチパラダイムプログラミングをより自然に行えるようにすることに力が注がれており、たとえばBoostでは、C++の関数型プログラミングやメタプログラミングの可能性を模索している。 C++11と呼ばれている新しいバージョンのC++標準ではこれらの一部が取り込まれ、今後のC++でもさらなる追加が行われると見られている。
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C++11と呼ばれている新しいバージョンのC++標準ではこれらの一部が取り込まれ、今後のC++でもさらなる追加が行われると見られている。 この名称はRick Mascittiの功績で、最初に使用されたのは1983年の12月である。初期の研究期間では、開発中の言語は「C with Classes」と呼ばれていた。最終名は、変数の値を一つ加算する、C言語の++(インクリメント)演算子からの派生である。また一般的な命名規則での「+」の使用は、機能強化されたコンピュータプログラムを意味する。ストロヴストルップによれば「この名前は、C言語からの変更の革新的な本質を示している」ということである。C+は、より初期の無関係なプログラミング言語の名前である。 ストロヴストルップは著書『The C++ Programming Language』の前文で名前の起源を語り、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』の付録から「C++」が連想されるかもしれないと付け加えている。ニュースピークという架空の言語の解説に宛てられた3つの章の中に、科学技術に関する専門用語とジャーゴンの解説に宛てられた「C vocabulary」という章がある。ニュースピークで「ダブルプラス」は最上級の修飾語である。ゆえにニュースピークで「C++」は「最も極端な専門用語またはジャーゴン」という意味になるだろう。 1992年、Rick Mascittiは名前について非公式に質問されると、彼はおふざけのつもりで命名したという旨の回答をした。彼はこの言語の正式な名称になるとは夢にも思っていなかった。 ビャーネ・ストロヴストルップは著書『C++の設計と進化(1994)』でC++を設計する際に用いたルールを述べている。 C++のコンパイラがどのようにコードを出力しメモリのレイアウトを決めるのかということについては『Inside the C++ Object Model』(Lippman, 1996)に記載されている。ただしコンパイラが出力するコードの仕様はコンパイラ制作者の裁量に任されている。
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C++
ビャーネ・ストロヴストルップは著書『C++の設計と進化(1994)』でC++を設計する際に用いたルールを述べている。 C++のコンパイラがどのようにコードを出力しメモリのレイアウトを決めるのかということについては『Inside the C++ Object Model』(Lippman, 1996)に記載されている。ただしコンパイラが出力するコードの仕様はコンパイラ制作者の裁量に任されている。 1998年に施行されたANSI/ISO C++ 規格は言語仕様とライブラリの2つのパートで構成される。ライブラリ規格の大半はStandard Template Library (STL) とC言語の標準ライブラリの改良版についての内容である。標準規格以外にも様々なライブラリが数多く存在し、リンカを使用することにより、C言語/FORTRAN/Pascal/BASICのような言語を用いて作成されたライブラリを利用できる。規格外のライブラリが利用できるかどうかはコンパイラに依存する。 C++標準ライブラリはC++向けに若干の最適化が施されたC言語標準ライブラリを含んでいる。C++標準ライブラリの大部分はSTLである。 コンテナ(可変長配列やリストなど)、コンテナを配列のように扱えるようにするイテレータ、検索やソートを行うアルゴリズムといった有用なツールが提供されている。さらにmapやmultimapのような連想配列や、setやmultisetのようなソート済みコンテナも提供され、これらは全てインターフェイスに互換性がある。テンプレートを用いることにより、あらゆるコンテナ(またはイテレータで定義したシーケンス)に適用できる汎用的なアルゴリズムを記述できる。C言語と同様にライブラリの機能には#include ディレクティブを使ってヘッダファイルを読み込むことによってアクセスする。C++には69本の標準ヘッダファイルがあるが、このうち19本については非推奨となっている。
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C++
STLは標準規格に採用される前は、ヒューレット・パッカードの(一時はシリコングラフィックスの)商用ライブラリだった。STLは標準規格の単なる一部分に過ぎず規格書にSTLという表記は見られないが、入出力ストリーム、国際化、デバッグ機能、およびC言語標準ライブラリ等の、STL以外の部分と区別するために、今でも多くの人がSTLという用語を使っている。 大半のC++コンパイラはSTLを含むC++標準ライブラリの実装を提供している。STLPortのようなコンパイラ非依存のSTLも存在する。様々な目的でC++標準ライブラリを独自に実装しているプロジェクトは他にもある。 C++の標準ライブラリは大きく次のように分けられる。多種多様な実行環境が存在することを考慮して、GUIに関するライブラリは標準に含まれていない。 以下に、C++で広く使われていると思われるライブラリを挙げる。 C言語に、オブジェクト指向プログラミングをはじめとする様々なプログラミングパラダイムをサポートするための改良が加えられたものといえる。ただし、他のプログラミング言語と違い、旧来のCと同様に手続き型言語としても扱えるという特徴がある。また、C言語と比べて型チェックが厳しくなっており、型安全性が向上している。このことから、C++をbetter Cというふうに呼ぶことがある。すなわち、基本的にC言語に対して上位互換性がある。初期のC++はCへのトランスレータとして実装され、C++プログラムを一旦Cプログラムに変換してからコンパイルしていた。 ただし、C++という名称が定まった当初の時期から、C言語とC++との間には厳密な互換性はない。当時、Cとの互換性について議論の末、「C++とANSI Cの間には不正当な非互換性はない」という合意が形成されることとなった。そのため、正当な非互換性を巡って多くの議論が発生した。ただし、まだANSIによるC言語の標準規格も策定途中の時期である。
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ただし、C++という名称が定まった当初の時期から、C言語とC++との間には厳密な互換性はない。当時、Cとの互換性について議論の末、「C++とANSI Cの間には不正当な非互換性はない」という合意が形成されることとなった。そのため、正当な非互換性を巡って多くの議論が発生した。ただし、まだANSIによるC言語の標準規格も策定途中の時期である。 その後、先祖であるC言語のANSIによる標準規格制定時には、関数のプロトタイプ宣言やconst修飾など、C++の機能がC言語に取り入れられることにもなった。C99の出現により、//コメントなどのC++で使われていた便利な機能が加わってCとC++の互換性が高まる一方、別々に審議し、別の時期に発行していることと、開発対象が必ずしも同じでないために利害関係者が異なることによる違いもある。 C++はCにクラスのサポートを追加しただけでなく、さらに次のような多種多様な機能を持っており、言語仕様は大変複雑である。言語処理系すなわちコンパイラの実装も、Cなどと比べて難易度が非常に高い。 ここから、よりオブジェクト指向を強化し、「なんでもあり」ではない代わりにシンプルで分かりやすくスマートな設計を目指した新たな言語(JavaやD言語など)が作られることとなった。 C++はC言語およびそのプリプロセッサの構文をほぼ継承している。以下のサンプルはビャーネ・ストロヴストルップの書籍「The C++ Programming Language, 4th Edition」(ISBN 978-0321563842) の「2.2.1 Hello, World!」に記載されている標準C++ライブラリのストリーム機能を用いて標準出力に出力するHello worldプログラムである。 書籍でも明記されているが、main()関数で意図的に返り値を返さない手法が使用されている。
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C++
書籍でも明記されているが、main()関数で意図的に返り値を返さない手法が使用されている。 C++には、四則演算、ビット演算、論理演算、比較演算、メンバーアクセスなどの30を超える演算子がある。メンバーアクセス演算子 (.と.*) のような一部の例外はあるが、大半の演算子はユーザー定義によるオーバーロードが可能である。オーバーロード可能な演算子が豊富に揃えられているため、C++を一種のドメイン固有言語として利用できる。またオーバーロード可能な演算子はスマートポインタや関数オブジェクトのような組み込み型の機能を模倣したユーザー定義クラスの実装や、テンプレートメタプログラミングのような先進的な実装テクニックに欠かせないものとなっている。演算子をオーバーロードしても演算の優先順位は変化せず、また演算子のオペランドの数も変化しない。ただし指定したオペランドが無視される可能性はある。 C++には、ジェネリックプログラミングを実現する機能としてテンプレートが存在する。テンプレートにできる対象は、関数とクラスである。C++14以降では変数もテンプレートの対象となった。テンプレートはコード中の型および定数をパラメータ化できる。テンプレートのパラメータ(テンプレート仮引数)に、型、コンパイル時定数またはその他のテンプレート(テンプレート実引数)を与えることで、テンプレートはコンパイル時にインスタンス化(実体化・具現化などとも)される。コンパイラは関数やクラスをインスタンス化するために、テンプレート仮引数をテンプレート実引数に置き換える。テンプレートはジェネリックプログラミング、テンプレートメタプログラミング、コード最適化などのために利用される強力なツールであるが、一定のコストを伴う。各テンプレートのインスタンスはテンプレート仮引数毎にテンプレートコードのコピーを生成するためコードサイズが肥大化する。これはコンパイル時に実型引数の情報を削除することで単一の型インスタンスを生成するランタイム型のジェネリクスを実装したJavaなどの言語とは対照的である。なお、C# (.NET Framework) は実行時コンパイラにより実型引数の情報を削除することなく複数の型インスタンスを生成する方式を採用しており、C++とJavaの中間的なアプローチとなっている。
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C++
テンプレートとプリプロセッサマクロはいずれもコンパイル時に処理される言語機能であり、静的な条件に基づいたコンパイルが行われるが、テンプレートは字句の置き換えに限定されない。テンプレートはC++の構文と型を解析し、厳密な型チェックに基づいた高度なプログラムの流れの制御ができる。マクロは条件コンパイルに利用できるが、新しい型の生成、再帰的定義、型の評価などは行えないため、コンパイル前のテキストの置き換えや追加・削除といった用途に限定される。つまりマクロは事前に定義されたシンボルに基づいてコンパイルの流れを制御できるものの、テンプレートとは異なり独立して新しいシンボルを生成することはできない。テンプレートは静的な多態(下記参照)とジェネリックプログラミングのためのツールである。 C++のテンプレートはコンパイル時におけるチューリング完全なメカニズムである。これはテンプレートメタプログラミングを用いて実行する前にコンピュータが計算可能なあらゆる処理を表現できることを意味している。 概略すれば、テンプレートはコードの記述に本来必要な型や定数を明確にすることなく抽象的な記述ができる、パラメータ化された関数またはクラスである。テンプレート仮引数に実引数を与えてインスタンス化した結果は、テンプレート仮引数に指定した型に特化した形で記述されたコードと全く等価になる。これによりテンプレートは、汎用的かつおおまかに記述された関数およびクラス(テンプレート)と、特定の型に特化した実装(インスタンス化されたテンプレート)の依存関係を解消し、パフォーマンスを犠牲にすることなく抽象化できる手段を提供する。 C++はC言語にオブジェクト指向プログラミングをサポートするための改良を加えたものといえる。C++のクラスには、オブジェクト指向言語で一般的な抽象化、カプセル化、継承、多態の4つの機能がある。オブジェクトは実行時に生成されるクラスの実体である。クラスは実行時に生成される様々なオブジェクトのひな形と考えることができる。 なお、C++はSmalltalkなどに見られるメッセージ転送の概念によるオブジェクト指向を採用していない。
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C++
なお、C++はSmalltalkなどに見られるメッセージ転送の概念によるオブジェクト指向を採用していない。 カプセル化とは、データ構造を保証し、演算子が意図したとおりに動作し、クラスの利用者が直感的に使い方を理解できるようにするためにデータを隠蔽することである。クラスや関数はC++の基礎的なカプセル化のメカニズムである。クラスのメンバはpublic、protected、privateのいずれかとして宣言され明示的にカプセル化できる。publicなメンバはどの関数からでもアクセスできる。privateなメンバはクラスのメンバ関数から、またはクラスが明示的にアクセス権を与えたフレンド関数からアクセスできる。protectedなメンバはクラスのメンバおよびフレンド関数に加えてその派生クラスのメンバからもアクセスできる。 オブジェクト指向では原則としてクラスのメンバ変数にアクセスする全ての関数はクラスの中にカプセル化されなければならない。C++ではメンバ関数およびフレンド関数によりこれをサポートするが、強制はされない。プログラマはメンバ変数の一部または全体をpublicとして定義でき、型とは無関係な変数をpublicな要素として定義できる。このことからC++はオブジェクト指向だけでなく、モジュール化のような機能分割のパラダイムもサポートしているといえる。 一般的には、全てのデータをprivateまたはprotectedにして、クラスのユーザに必要最小限の関数のみをpublicとして公開することがよい習慣であると考えられている。このようにしてデータの実装の詳細を隠蔽することにより、設計者はインターフェイスを変更することなく後日実装を根本から変更できる 。
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一般的には、全てのデータをprivateまたはprotectedにして、クラスのユーザに必要最小限の関数のみをpublicとして公開することがよい習慣であると考えられている。このようにしてデータの実装の詳細を隠蔽することにより、設計者はインターフェイスを変更することなく後日実装を根本から変更できる 。 継承を使うと他のクラスの資産を流用できる。基底クラスからの継承はpublic、protected、privateのいずれかとして宣言する。このアクセス指定子により、派生クラスや全く無関係なクラスが基底クラスのpublicおよびprotectedメンバにアクセスできるかどうかを決定できる。普通はpublic継承のみがいわゆる派生に対応する。残りの二つの継承方法はあまり利用されない。アクセス指定子を省略した場合、構造体はpublic継承になるのに対し、クラスではprivate継承になる。基底クラスをvirtualとして宣言することもできる。これは仮想継承と呼ばれる。仮想継承は基底クラスのオブジェクトが一つだけ存在することを保証するものであり、多重継承の曖昧さの問題を避けることができる。 多重継承はC++の中でもしばしば問題になる機能である。多重継承では複数の基底クラスから一つのクラスを派生できる。これにより継承関係が複雑になる。例えばFlyingCatクラスはCatクラスとFlyingMammalクラスから派生できる。JavaやC#では、基底クラスの数を一つに制限する一方で、複数のインターフェイスを実装でき、これにより制約はあるものの多重継承に近い機能を実現できる(実装の多重継承ではなく型の多重継承)。インターフェイスはクラスと異なり抽象メソッド(純粋仮想関数)を宣言できるのみであり、関数の実装やフィールド(メンバ変数)は定義できない。JavaとC#のインターフェイスは、C++の抽象基底クラスと呼ばれる純粋仮想関数宣言のみを持つクラスに相当する。JavaやC#の継承モデルを好むプログラマは、C++において実装の多重継承は使わず、実装の継承は単一継承に絞り、抽象基底クラスによる型の多重継承のみを使うポリシーを採用することもできる。
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C++
多態 (ポリモーフィズム) は様々な場面で多用されている機能である。多態により、状況や文脈に応じてオブジェクトに異なる振る舞いをさせることができる。逆に言うと、オブジェクト自身が振る舞いを決定することができる。 C++は静的な多態と動的な多態の両方をサポートする。コンパイル時に解決される静的な多態は柔軟性に劣るもののパフォーマンス面で有利である。一方、実行時に解決される動的な多態は柔軟性に優れているもののパフォーマンス面で不利である。 関数のオーバーロードは名称が同じ複数の関数を宣言できる機能である。ただし引数は異なっていなければならない。個々の関数は引数の数や型の順序で区別される。同名の関数はコードの文脈によってどの関数が呼ばれるのかが決まる。関数の戻り値の型で区別することはできない。 関数を宣言する際にプログラマはデフォルト引数を指定できる。関数を呼び出すときに引数を省略した場合はデフォルト引数が適用される。関数を呼び出すときに宣言よりも引数の数が少ない場合は、左から右の順で引数の型が比較され、後半部分にデフォルト引数が適用される。たいていの場合は一つの関数にデフォルト引数を指定するよりも、引数の数が異なる関数をオーバーロードする方が望ましい。 C++のテンプレートでは、より洗練された汎用的な多態を実現できる。特にCuriously Recurring Template Patternにより仮想関数のオーバーライドをシミュレートした静的な多態を実装できる。C++のテンプレートは型安全かつチューリング完全であるため、テンプレートメタプログラミングによりコンパイラに条件文を再帰的に解決させて実行コードを生成させることにも利用できる。 基底クラスへのポインタおよび参照は、正確に型が一致するオブジェクトだけでなく、その派生クラスのオブジェクトを指すことができる(リスコフの置換原則)。これにより、複数の異なる派生型を、同一の基底型で統一的に扱うことが可能となる。また、基底型へのポインタの配列やコンテナは、複数の異なる派生型へのポインタを保持できる。派生オブジェクトから基底オブジェクトへの変換(アップキャスト)では、リスコフの置換原則により、明示的なキャストは必要ない。
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C++
dynamic_castは基底オブジェクトから派生オブジェクトへの変換(ダウンキャスト)を実行時に安全に行うための演算子である。この機能は実行時型情報 (RTTI) に依存している。あるオブジェクトが特定の派生型のオブジェクトであることがあらかじめ分かっている場合はstatic_cast演算子でキャストすることもできる。static_castは純粋にコンパイル時に解決されるため動作が速く、またRTTIを必要としない。また、static_castは従来のC言語形式のキャスト構文と違い継承階層のナビゲーションをサポートするため、多重継承した場合もメモリレイアウトを考慮したダウンキャストを実行することができる。ただし、static_castでは多重継承において継承関係を持たない基底型同士のキャスト(クロスキャスト)を実行することはできず、dynamic_castを用いる必要がある。とはいえ、ダウンキャストやクロスキャストが必要となる場合、通例そのプログラムの設計に問題があることが多く、本来は仮想関数のオーバーライドによる多態を用いるべきである。
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C++
クラスのメンバー関数をvirtualキーワードで修飾することにより、派生クラスでオーバーライド(再定義)することが可能な仮想関数 (virtual function) となる。仮想関数は「メソッド」と呼ばれることもある。派生クラスにて、基底クラスの仮想関数と名前および引数の数や型の順序が同じ関数を定義することでオーバーライドする(C++11以降では、overrideキーワードにより修飾することでオーバーライドを明示することもできる)。基底クラスの仮想関数を派生クラスでオーバーライドした場合、実際に呼び出される関数はオブジェクトの型によって決定される。基底クラスのポインタのみが与えられた場合、コンパイラはオブジェクトの型をコンパイル時に特定できず正しい関数を呼び出せないため、実行時にこれを特定する。これをダイナミックディスパッチと呼ぶ。仮想関数により、オブジェクトに割り当てられた実際の型に従って、最上位の派生クラスで実装した関数が呼び出される。一般的なC++コンパイラは仮想関数テーブルを用いる。オブジェクトの型が判明している場合はスコープ解決演算子を利用して仮想関数テーブルを使わないようにバイパスすることもできるが、一般的には実行時に仮想関数の呼び出しを解決するのが普通である。 通常のメンバー関数に加え、オーバーロードした演算子やデストラクタも仮想関数にできる。原則的にはクラスが仮想関数を持つ場合はデストラクタも仮想関数にすべきである。コンストラクタやその延長線上にあるコピーコンストラクタはコンパイルされた時点でオブジェクトの型が確定しないため仮想関数にできない。しかし、派生オブジェクトへのポインタが基底オブジェクトへのポインタとして渡された場合に、そのオブジェクトのコピーを作らなければならない場合は問題が生じる。このような場合はclone()関数(またはそれに準じる物)を仮想関数として作成するのが一般的な解決方法である。clone()は派生クラスのコピーを生成して返す。
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C++
= 0をメンバー関数宣言の末尾セミコロンの直前に挿入することにより、メンバー関数を純粋仮想関数 (pure virtual function) にできる。純粋仮想関数を持つクラスは純粋仮想クラスと呼ばれ、このクラスからオブジェクトを生成することはできない。このような純粋仮想クラスは基底クラスとしてのみ利用できる。派生クラスは純粋仮称関数を継承するため、派生クラスのオブジェクトを生成したい場合は全ての純粋仮想関数をオーバーライドして実装しなければならない。純粋仮想関数を持つクラスのオブジェクトを生成しようと試みるようなプログラムは行儀が悪い。 型消去 (type erasure) と呼ばれる、テンプレートを活用して動的な(プログラム実行時の)多態性を実現する手法が存在する。この手法はC++の標準ライブラリでもstd::functionやstd::shared_ptrの削除子で採用されている。いずれも、コンストラクタや代入演算子で(一定の条件を満たす)任意のオブジェクトを実引数として渡せるようにすることから多態性を実現している。 C99の制定前、C言語とC++との分かりやすい差異として、// で始まり改行で終わる、単一行コメントの有無があった。 単一行コメントはもともと、C言語の祖先にあたるBCPLに含まれていた仕様である。現在のC++のコンパイラの多くがC言語のコンパイラとしても使えるようになっているのと同様に、C言語が生まれて間もない頃は、C言語に加えB言語やBCPLのコンパイルができるコンパイラが用いられていた。それらコンパイラは、C言語のソースであってもBCPLと同様に単一行コメントが使用できるよう独自の拡張がなされていたため、BCPLの単一行コメントに慣れ親しんでいたプログラマ達は、C言語でも単一行コメントを使い続けた。その慣習がC++の誕生時まで生き残っていたため、C++では単一行コメントを「復活」させることになった。 そのためもあって、C言語での仕様外の単一行コメントの使用は半ば常習と化し、C99によって単一行コメントが正式に規格として組み入れられた。
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C++
そのためもあって、C言語での仕様外の単一行コメントの使用は半ば常習と化し、C99によって単一行コメントが正式に規格として組み入れられた。 LALR(1)のような旧式のパースアルゴリズムを用いてC++のパーサを記述することは比較的難しい。その理由の一つはC++の文法がLALRではないことである。このため、コード分析ツールや、高度な修正を行うツール(リファクタリングツールなど)は非常に少ない。この問題を取り扱う方法としてLALR(1)でパースできるように改良されたC++の亜種(SPECS)を利用する方法がある。GLRパーサのようにより強力でシンプルなパーサもあるが処理が遅い。 パースはC++を処理するツールを作成する際の最も難しい問題ではない。このようなツールはコンパイラと同じように識別子の意味を理解しなければならない。従ってC++を処理する実用的なシステムはソースコードをパースするだけでなく、各識別子の定義を正確に適用し(つまりC++の複雑なスコープのルールを正確に取り扱い)、型を正しく特定できなければならない。 いずれにせよC++ソースコード処理ツールが実用的であるためには、GNU GCCやVisual C++で使われているような、様々なC++の方言を取り扱えなければならず、適切な分析処理やソース変換やソース出力などが実装できなければならない。GLRのような先進的なパースアルゴリズムとシンボルテーブルを組み合わせてソースコードを変換する方法を利用すればあらゆるC++ツールを開発できる。
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C++
いずれにせよC++ソースコード処理ツールが実用的であるためには、GNU GCCやVisual C++で使われているような、様々なC++の方言を取り扱えなければならず、適切な分析処理やソース変換やソース出力などが実装できなければならない。GLRのような先進的なパースアルゴリズムとシンボルテーブルを組み合わせてソースコードを変換する方法を利用すればあらゆるC++ツールを開発できる。 その言語文法の複雑さゆえ、C++規格に準拠したコンパイラを開発するのは一般的に難しい。20世紀末から何年にも渡りC++に部分的に準拠した様々なコンパイラが作られ、テンプレートの部分特殊化などの部分で実装にばらつきがあった。中でも、テンプレートの宣言と実装を分離できるようにするためのexportは問題のキーワードの一つだった。exportを定義したC++98規格がリリースされてから5年後の2003年前半にComeau C/C++が初めてexportを実装した。2004年にBorland C++ Builder Xがexportを実装した。これらのコンパイラはいずれもEDGのフロントエンドをベースにしていた。大半のコンパイラで実装されていないexportは多くのC++関連書籍(例えば"Beginning ANSI C++", Ivor Horton著)にサンプルが記されているが、exportが記載されていることによる問題は特に指摘されていない。GCCをはじめとするその他のコンパイラでは全くサポートしていない。Herb SutterはC++の標準規格からexportを削除することを推奨していたが、C++98では最終的にこれを残す決定がなされた。結局、C++11では実装の少なさ・困難さを理由に削除された。 コンパイラ開発者の裁量で決められる範囲を確保するため、C++標準化委員会は名前修飾や例外処理などの実装に依存する機能の実装方法を決定しないことに決めた。この決定の問題は、コンパイラが異なるとオブジェクトファイルの互換性が保証されない点である。特定の機種やOSでコンパイラの互換性を持たせ、バイナリレベルでのコード再利用性を高めようとするABIのような非標準の規格もあり、一部のコンパイラではこうした準規格を採用している。
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C++
2019年現在のメジャーなC++コンパイラ(gcc, Clang, Intel C++ Compiler, Microsoft Visual C++など)の最新版はC++11およびC++14規格にほぼ準拠しており、特にClangは2013年4月時点でC++11の全機能を実装完了した。ただしマイナーアップデートとなるC++17を含めると、処理系間でのばらつきは依然として存在する。 C++は基本的にC言語の上位互換であるが、厳密には異なる。C言語で記述された大半のプログラムはC++でコンパイルできるように簡単に修正できるが、C言語では正当でもC++では不正になる部分や、C++とは動作が異なる部分が若干存在する。 例えば、C言語では汎用ポインタvoid*は他の型へのポインタに暗黙的に変換できるが、C++ではキャスト演算子によって変換を明示する必要がある。またC++ではnewやclassといった数多くの新しいキーワードが追加されたが、移植の際に元のC言語のプログラムでそれらが識別子(例えば変数名)として使われていると、問題になる。 C言語の標準規格であるC99やその後継C11ではこうした非互換性の一部が解決されており、//形式のコメントや宣言とコードの混在といったC++の機能がC言語でサポートされている。その一方でC99では、可変長配列、複素数型の組み込み変数、指示初期化子、複合リテラルといった、C++でサポートしていない数多くの新機能が追加された。C99で追加された新機能の一部はC++11に反映され、C++14に対してもC99やC11との互換性を向上される提案が行われた。また、可変長配列や複素数型などのC99に追加された機能の一部はC11でオプションとなった。 C++で書かれた関数をC言語で書かれたプログラムから呼び出す、あるいはその逆を行なう場合など、C言語のコードとC++のコードを混在させるためにはCリンケージを利用する必要があり、関数をextern "C"で個別に修飾するか、extern "C" { ... }のブロックの中で宣言しなければならない。また、関数引数や戻り値などのインターフェイスはC言語互換形式に合わせる必要がある。Cリンケージを利用した関数については、C++名前修飾がされず、名前修飾に依存している関数オーバーロード機能は利用できない。
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C++
C/C++の相互運用性が確保されていることで、慣れ親しんだC言語標準ライブラリ関数の大半をC++でもそのまま利用し続けることができるということはC++の大きなメリットのひとつである。
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Simula
■カテゴリ / ■テンプレート SIMULA(シミュラ; SIMUlation LAnguage)は、オルヨハン・ダールとクリステン・ニガードによってALGOL60を拡張する形で1960年代に開発が始められたシミュレーション用途のプログラミング言語である。 ALGOLのbegin ... endで囲まれた部分であるブロック(block)の概念を実体的な実例(instance)として扱うことを目的として、クラス(class)の構文と対象(object、オブジェクト)の概念を初めて導入した言語である。初期のオブジェクト指向プログラミング言語の一つである。 オスロのノルウェー計算センターのクリステン・ニガードとオルヨハン・ダールが1962年から1967年にかけて、Simula の元となる Simula I と Simula67 を ALGOL 60 の拡張として設計/実装した。Simula は当初シミュレーションに用いられたが、のちに汎用言語となった。名前「Simula」は「シミュレーション言語」を意味する英語「simulation language」と「簡潔な汎用言語」を意味する英語「simple universal language」の二つに由来する。 主に北欧圏で使用されたこと、言語的な未成熟さもあって広く普及することはなかったが、後続言語に与えた影響は大きい。特にSmalltalk は Simula のオブジェクト概念を一般化したものだと言うことができる。C++ もまた、当初はC言語に Simula のクラスなどの仕組みを追加したものであった。 開発の動機は、ある制限下におかれたモデル群の全体の挙動をどう記述するか、というものである。気体の分子運動を例にとると、システム全体を考えてその中の項として分子を扱うよりも、一つの一つの気体分子をモデル化し、それぞれの相互作用の結果をシステムとして捉える方が自然で取り扱いやすい。その為には小さなモデル、関連する法則、それらを一度に複数取り扱う能力が必要となる。こうして属性を備えたオブジェクト概念と、それに従属するメソッド概念が生まれたのである。
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Simula
Simula 67 ではオブジェクト、 クラス、サブクラス、継承、動的束縛(仮想関数)、コルーチン、 ディスクリートイベントシミュレーション、ガベージコレクションの機能をもち、オブジェクト指向プログラミングの基本概念はすべてここで発案されているといえる。 Simula はプログラミングパラダイムとして最初のオブジェクト指向言語であると考えられる。その名前が示すように Simula はシミュレーションを行うために設計され、その必要性から今日のオブジェクト指向言語で使われる多くの機能のためのフレームワークを提供した。なお、Simula 当時「オブジェクト指向」という言葉はまだない。この用語はアラン・ケイが Simula の概念として70年代ごろに使い出したのが始まりといわれている。従ってその意味では Simula が世界最初のオブジェクト指向言語であり、Simula は「オブジェクト指向として再認識が可能な最古の言語」ということができる。 VLSI設計、プロセス、プロトコル、アルゴリズムといったシミュレーションや、組版、コンピュータグラフィックス、教育といったアプリケーションソフトに Simula は利用された。Simula 形式のオブジェクトは C++、Java、C# で再実装されており、Simula の影響を受けていることが知られている。C++ の開発者であるビャーネ・ストロヴストルップはBCPLのような機械語を出力し高速に動作する低レベル言語に Simula が提供する開発効率を高める機能を導入するため、C++ 開発時に Simula 67 の影響を大きく受けていることを認めている。 クリステン・ニガードは1957年からコンピュータシミュレーションの開発を始めた。ニガードはコンピュータの動作とシミュレーションプログラムに要求されるものの不整合を適切に記述する方法が必要であると考えた。既存のコンピュータ言語で彼のアイデアを実現するにはプログラミングのスキル以外に何かが必要であると思われた。オルヨハン・ダールは1962年1月にニガードの業務に参加した。1962年3月までにはシミュレーション用プログラミング言語のメインコンセプトは固まっていた。ディクリートイベントシステムを持つシミュレーション専用のプログラミング言語 SIMULA I が開発された。
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Simula
UNIVAC は UNIVAC 1107 を発売するにあたりニガードを1962年3月下旬に招待した。その際にニガードは UNIVAC のボブ・バーマーシステムプログラミング部長に Simula のアイデアを説明した。バーマーは ALGOL の熱烈なファンであり、Simula プロジェクトに説得力を感じた。IFIP(情報処理国際連合)が主催する情報処理の第2回国際会議の議長を務めていたバーマーは論文「SIMULA — An Extension of ALGOL to the Description of Discrete-Event Networks」を提出したニガードを会議に招待した。 ノルウェー計算機センターは UNIVAC との契約に基づいてダールがSIMULA Iを実装するため UNIVAC 1107 を1963年8月に特別価格で譲り受けた。これは UNIVAC 用 ALGOL 60コンパイラを元に実装された。1965年1月には UNIVAC 1107 上で完全な SIMULA I を利用できた。ダールとニガードはその後の2年間に渡り Simula を教えることに費やした。Simula は複数の国に広がり、SIMULA I は後に バロース B5000 やロシアの URAL-16 に移植された。 アントニー・ホーアは1966年にレコードクラスのコンストラクタの概念を導入し、ダールとニガードは一般的なプロセス概念という要求を満たすためプリフィックスの概念などを導入してこれを拡張した。ダールとニガードはクラスとサブクラスの宣言についての論文を1967年3月にオスロで開催された IFIP のシミュレーション用言語についてのワーキングカンファレンスで発表した。この論文は Simula 67 の最初の正式な定義となった。1967年6月に言語を規格化して複数の実装を始めるためのカンファレンスが開催された。ダールはデータ型とクラスの概念の統一化を提案した。これは激論を巻き起こし委員会から却下された。SIMULA 67 は SIMULA 標準化グループ (SSG) の最初の会議で1968年2月に正式に標準化された。
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Simula
Simula は Smalltalk やその後のオブジェクト指向言語に影響を及ぼした。Simula だけがコルーチンをサポートした言語ではないし、真の並列性は持たないが、アクターモデルの概念を呼び起こすのに役立った。 60年代後期から70年代前期にかけて Simula の4つの主要な実装があった。 これらの実装は様々なプラットフォームに移植された。TOPS-10 用ではメンバ変数とメソッドの public、protected、private が実装され、後に Simula 87 に統合された。Simula 87 は最新の標準規格であり、下記の3つの実装があることが知られている。 2001年11月に米国電気電子学会 (IEEE) は、「SIMULA 67 の設計と実装によりオブジェクト指向の基礎概念を導きだした」ことを讃えフォン・ノイマンメダルをダールとニガードに授与した。2002年2月には「プログラミング言語 Simula I 及び Simula 67 の実装によりオブジェクト指向を出現させた基礎的アイデア」を表彰して2001年度チューリング賞をACMより受賞した。両名は6月と8月にそれぞれ死去したため、シアトルで開催される OOPSLA カンファレンス2002で行われる予定であったACMチューリング賞の講演に出席できなかった。 研究所はプログラミング言語 Simula にちなんで名付けられた研究所であり、ニガードはオープン時の2001年から非常勤職員として働いていた。 空のファイルはソースコードのサイズを基準とした場合で最も小さな Simula のプログラムである。これは1つのダミーのステートメントのみで構成される。 しかしながら合理的に考えれば最小のプログラムは空のブロックとして表現される。 これは起動してすぐに終了するプログラムである。Simula ではプログラム自身が値を返す return文 を持たない。 Simulaで記述された Hello world の例である。Simula は大文字と小文字を厳密に区別する。 クラス、サブクラス、仮想関数を用いた現実的な例を以下に示す。
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Simula
しかしながら合理的に考えれば最小のプログラムは空のブロックとして表現される。 これは起動してすぐに終了するプログラムである。Simula ではプログラム自身が値を返す return文 を持たない。 Simulaで記述された Hello world の例である。Simula は大文字と小文字を厳密に区別する。 クラス、サブクラス、仮想関数を用いた現実的な例を以下に示す。 上記の例には1つの親クラス(Glyph)と2つのサブクラス(Char, Line)があり、1つの仮想関数と2つの実装がある。メインプログラムから実行を開始する。Simula は純粋仮想関数を持つクラスをインスタンス化できるため抽象基底クラスの概念が無い。これは上記の例にある全てのクラスがインスタンス化できるということである。しかしながら純粋仮想関数を呼び出すとランタイムライブラリエラーを引き起こす。 Simula は名前呼び(call by name、評価戦略を参照)をサポートしているため Jensen's Device(en:Jensen's Device)を容易に実装できる。デフォルトはALGOLと異なり値呼び(call by value)であるため、Jensen's Deviceを実装する際には、名前呼びであることを明示する必要がある。 単純な例として総和関数 ∑ {\displaystyle \sum } の実装例を以下に示す。 上記のコードは値(l)と式(u)を制御するために名前呼びを用いている。これにより式で使用する値を制御できる。Simula の標準規格は for 文にある種の制約があるため上記の例では while 文を使用している。 以下の式は次のように実装できる。 Z = ∑ i = 1 100 1 ( i + a ) 2 {\displaystyle Z=\sum _{i=1}^{100}{1 \over (i+a)^{2}}} Simula にはディスクリートイベントシミュレーションを行うためのシミュレーションパッケージが含まれている。このシミュレーションパッケージはSimulaのオブジェクト指向とコルーチンのコンセプトに基づいている。
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Simula
Z = ∑ i = 1 100 1 ( i + a ) 2 {\displaystyle Z=\sum _{i=1}^{100}{1 \over (i+a)^{2}}} Simula にはディスクリートイベントシミュレーションを行うためのシミュレーションパッケージが含まれている。このシミュレーションパッケージはSimulaのオブジェクト指向とコルーチンのコンセプトに基づいている。 下記の例で Sam、Sally、Andy は服を買おうとしている。彼らは1つの試着室を共有しなければならない。3人は正規分布によりランダムに約12分間店内を探索し、同様に試着室を約3分間占有する。以下は彼らが試着室をどのように使うのかをシミュレーションするものである。 メインブロックが Simulation でプレフィックスされることによりシミュレーションを実行できる。シミュレーションパッケージはどこのブロックからでも自由に利用でき、シミュレーションしているものそれ自体をシミュレーションするときにはシミュレーションを再帰的にネストできる。 試着室オブジェクトはキュー(door)により試着室にアクセスできる。誰かが使用中の試着室を使おうとしたときはこのキュー(Wait (door))で待たなければならない。誰かが試着室を出るとき、列の先頭にいる者がキューからリリース(Activate door.first)されてドアキューから削除(door.First.Out)される。 Person は Process のサブクラスでありその動作は hold(店内を探索する時間と試着室で過ごす時間)を用いて記述され、試着室に出入りするために試着室オブジェクト内でメソッドを呼び出す。 メインプログラムは全てのオブジェクトを生成し、全ての Person オブジェクトをイベントキューに投入するためにアクティベートする。メインプログラムはシミュレーション時間で100分間待ってからプログラムを終了する。
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IPアドレス
IPアドレス(アイピーアドレス、英: IP address)は、Internet Protocol(IP)で通信相手を識別するための番号である。インターネットアドレスとも呼ばれる。 IPアドレスは、IPネットワーク上の情報機器を識別するために指定するネットワーク層における識別用の番号である。データリンク層のMACアドレスを物理アドレスということに対応して、論理アドレスとも呼ばれる。IPのバージョン(IPv4とIPv6)に応じて、IPv4のIPアドレス(IPv4アドレス)とIPv6のIPアドレス(IPv6アドレス)がある。当初、RFC 791でIPを定義した際に、IPが現在のIPv4に当たるもののみであったことから、狭義では、単にIPアドレスと呼称した場合にIPv4のIPアドレスを意味する場合がある。 IPアドレスは、IPv4では32ビット、IPv6では128ビットの数値である。この数値のうち、最上位ビット(MSB)に近い側をネットワーク部、最下位ビット(LSB)に近い側をホスト部として区別する。ネットワーク部がネットワークを指定し、ホスト部がそのネットワーク内の機器を指定する。ネットワーク部とホスト部の区別にはサブネットマスクを用いることができる(ある)。 IPv4のIPアドレスの表記法には以下の規則がある。IPv6については「IPv6」および「IPv6アドレス」の記事で取り扱う。 gethostbyname() や inet_aton() など、IPアドレスを解釈する実装の一部では以下のような表記も許している。 これらの表記は、URL StandardでURLの一部分として定義されている。ただし、オペレーティングシステム(OS)やアプリケーション(例:ウェブブラウザソフト)、ネットワーク機器などによっては利用できないことがある。また悪意のある者がフィッシングサイトなどのURLを偽装するために用いる場合もあるので、注意が必要である。 IPアドレスは、次の5つのアドレスクラスに分かれている。
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IPアドレス
これらの表記は、URL StandardでURLの一部分として定義されている。ただし、オペレーティングシステム(OS)やアプリケーション(例:ウェブブラウザソフト)、ネットワーク機器などによっては利用できないことがある。また悪意のある者がフィッシングサイトなどのURLを偽装するために用いる場合もあるので、注意が必要である。 IPアドレスは、次の5つのアドレスクラスに分かれている。 クラスAからクラスCまでは、ネットワーク部とホスト部の境界が8ビット単位で区分けされている。クラスAはネットワーク部が短く(8ビット)、ホスト部が長い(24ビット)。すなわち、多くの機器を保有する大組織や多くの顧客を有する大規模なインターネットサービスプロバイダ(ISP)に割り当てるのに適している。クラスCはその逆である。これは、日本の電話番号において東京などの人口が多い地域には03のような短い市外局番が割り当てられ、人口の少ない地域には長い市外局番が割り当てられているのと同じである。クラスAが約1,677万台、クラスBが65,534台、クラスCが254台のホストを接続できる。 しかし、アドレスクラスを用いたIPアドレス割り当てには問題が生じた。ほとんどのネットワーク(たとえばインターネットサービスプロバイダ)ではクラスAでは大きすぎ、クラスCでは小さすぎたため割り当ての要求がクラスBに集中したのである。クラスBの割り当てを受けたネットワークの中には65,534台のホスト(インターネットサービスプロバイダであれば接続ユーザー数)を同時にすべて接続することがまれであるネットワークも存在し、IPアドレスが無駄に消費されることになった。そこで現在ではアドレスクラスを使わず、ネットワーク部とホスト部の境界を8ビット単位に固定せずに細分化する可変長サブネットマスクやCIDR(Classless Inter-Domain Routing)の使用が一般化している。
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IPアドレス
IPアドレスの割り当て範囲を示すために、IPアドレスの末尾に「/」(スラッシュ)とともにネットワークアドレス長を付記して表すことも多い。IPv4の場合、MSB側からのビット数でネットワークアドレス長を表す。例えば192.168.0.0/24の表記の場合、ネットワーク部はMSBから24ビットで残り8ビットがホスト部となる。アドレスクラスでなく可変長サブネットマスクを使用した場合、ネットワークアドレス長の数字は必ずしも8の倍数にはならないことになる。 「CIDR」は、「サイダー」と読む。 Classless Inter-Domain Routingを用いることで、複数のIPアドレスを範囲指定して一つのアドレスブロックとして扱うことができる。例えば、192.168.1.0 - 192.168.1.255という範囲のIPアドレスは、192.168.1.0/24として表すことができる。CIDRを使うことでアドレスブロックの集約や分割が容易に行えることから、IPパケットのルーティングで主に活用されている。例えば、203.0.113.0/26、203.0.113.64/26、203.0.113.128/26、203.0.113.192/26の4つのアドレスブロックは、203.0.113.0/24として集約することができる。 例えば69.208.0.0を含むIPアドレス群の場合、CIDRと開始アドレスおよび終了アドレスの関係は以下のようになる。 通信可能な範囲のことをスコープという。IPアドレスは、それぞれにスコープが決められている。(→一覧) 後述するプライベートIPアドレス、リンクローカルアドレス、特殊用途のIPアドレスなどを除いたIPアドレスは「グローバルIPアドレス」と呼び、インターネットの接続用に利用され、重複が発生しないように管理される。そのため、ICANNを頂点とした階層的な委譲関係によって、世界的な管理が行われている。 通常、パソコンやルーターなどをインターネットに接続すると、ISPに割り振られているグローバルIPアドレスの中の1つがパソコンなどに割り当てられる。
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IPアドレス
通常、パソコンやルーターなどをインターネットに接続すると、ISPに割り振られているグローバルIPアドレスの中の1つがパソコンなどに割り当てられる。 プライベートIPアドレス(ローカルIPアドレス)は、プライベートネットワーク(外部から利用できない社内LANなど)のアドレスとして使うことができる。異なるプライベートネットワークを相互接続してルーティングすることも可能である。 プライベートIPアドレスとして、次のアドレス空間が予約されている。ネットワークの規模に応じて、使い分ける必要がある。 WindowsなどではIPアドレスが設定されておらず、DHCPサーバも見付からない場合には自動的に169.254で始まるクラスBのIPアドレスが振られる(APIPAという機能)。これはリンクローカルアドレスと呼ばれ単一のLAN内での通信に使うことができるが、ルーティングができないなどプライベートアドレスとは異なるものである。 プライベートIPアドレスとグローバルIPアドレスを相互変換することにより、インターネットに接続することができる。その方法として、NAPT(実装としてはIPマスカレードやipfwなど)やプロキシサーバがある。 インターネット接続サービスによってはインターネットに接続する機器にグローバルIPアドレスではなく、このプライベートIPアドレスを割り当てることもある。 プライベートIPアドレスとこれに関する仕組みによって、グローバルIPアドレスを多量に消費することなくインターネットに接続できる機器を増やすことができる。 2012年4月にRFC 6598として発行したインターネットサービスプロバイダ(ISP)が契約者に貸し出すIPアドレスで、範囲は100.64.0.0/10。 ISP Shared Addressは、個々のISPのネットワーク内でのみ使用可能なIPアドレスで、キャリアグレードNAT(CGN)によりISP Shared AddressとグローバルIPアドレスを相互変換することにより、インターネットに接続することができる。 IPアドレス枯渇問題により、契約者が増加しても、ISPが契約者に貸し出すグローバルIPアドレスを新規に獲得できなくなった。
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IPアドレス
ISP Shared Addressは、個々のISPのネットワーク内でのみ使用可能なIPアドレスで、キャリアグレードNAT(CGN)によりISP Shared AddressとグローバルIPアドレスを相互変換することにより、インターネットに接続することができる。 IPアドレス枯渇問題により、契約者が増加しても、ISPが契約者に貸し出すグローバルIPアドレスを新規に獲得できなくなった。 しかし、ISPが契約者にプライベートIPアドレスを割り当てると、該当するIPアドレスを契約者のローカルネットワーク内で使用できなくなる。例えば、NTTが提供するフレッツの地域IP網においてプライベートIPアドレス(10.0.0.0/8)を使用しているため、フレッツの利用者がプライベートIPアドレス(10.0.0.0/8)をローカルネットワーク内で使用できない。 そこで、ISP Shared Addressの導入により、ISPはISP Shared Addressを使用し、ISPの契約者は、任意のプライベートIPアドレスが使用できるようになる。 なお、/10というアドレス範囲は、東京地域を網羅するISPがISP Shared Addressを導入するには、/10程度のアドレス範囲が必要であるという、日本からの提案がベースになっている。 一部のアドレスおよびブロックは、特殊な用途に使われる。それぞれのスコープに応じて、通常、機器に割り振るべきではない。詳細はIPv4#特別用途のアドレスを参照のこと。
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IPアドレス
なお、/10というアドレス範囲は、東京地域を網羅するISPがISP Shared Addressを導入するには、/10程度のアドレス範囲が必要であるという、日本からの提案がベースになっている。 一部のアドレスおよびブロックは、特殊な用途に使われる。それぞれのスコープに応じて、通常、機器に割り振るべきではない。詳細はIPv4#特別用途のアドレスを参照のこと。 グローバルIPアドレスは、まずインターネットレジストリ(APNICやJPNICなど)からISPにまとまった単位で付与される。これを割り振り(allocation)という。ISPは末端の利用者(個人、法人など)に対して、利用契約に基づいてIPアドレスを払い出す。これを割り当て(assignment)という。かつて一部の大学やIT企業が非営利でインターネットを支えていた時代には、レジストリからこれらの組織に直接割り当てられる例が多かったが、今日では商用ISPが発達したため、新規の割り当てではそのような例は少ない。インターネットレジストリにもIANA(Internet Assigned Numbers Authority) →RIR(Regional Internet Registry)→NIR(National Internet Registry)→LIR(Local Internet Registry)といった階層構造が存在する。 個人契約者の場合、グローバルIPアドレス1個を動的に割り当てる(接続ごとにIPアドレスが変わることがある)ものがほとんどである。ただしISPや契約プランによってはプライベートIPアドレスやISP Shared Addressを割り当てるもの(CATV接続に多い)、グローバルIPアドレス1個を固定で割り当てるもの、複数のグローバルIPアドレスを固定で割り当てるものもある。割り当ての通信プロトコルはダイヤルアップ接続ではPPP、ADSL・FTTHなどではPPPoE、CATVや公衆無線LAN(ホットスポット)ではDHCPによることが一般的である。
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IPアドレス
法人契約の場合はDNSやメールなどの各種サーバを運用するケースが多いこと、VPN(仮想専用網)などによる取引先などとのデータのやりとりにおいて、IPアドレスによる認証やアクセス制限があることなどの理由により、複数(多いのは4個から16個程度)のグローバルIPアドレスを固定で割り当てる契約が一般的である。 なお、家庭内や組織内でのプライベートIPアドレスの割り当てはDHCP(専用サーバの他、一般向けのいわゆるブロードバンドルーターに実装されている)によることが一般的である。ただし、サーバやルーターのLAN側など固定IPアドレスを必要とするものや、割り当てを厳密に管理したい場合には固定IPアドレスの割り当てが行われる。 2019年3月現在、特殊な用途のものを除く、すべてのIPv4のグローバルアドレスを誰かに割り当てた状態になりつつある。すなわちIPv4のグローバルアドレスに空きがなく、インターネット上に公開するIP機器の増設が不可能になるという問題が発生している。不動産に例えると、これまでは新規分譲で土地が提供されて建物を建築できていたが、分譲する土地がなくなったために、既存の建物が建っている土地を地上げして再開発しない限り新たな建物を建てられなくなった状態である。 2017年2月15日 LACNICのIPv4アドレス在庫が/11ブロック以下となり、AFRINICを除く4つのRIRでIPv4アドレス在庫枯渇の最終段階になった。 この枯渇問題の対策として、IPv6の普及が進められている。
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戦争
戦争(せんそう、英: war)とは、兵力による国家間の闘争である。広義には内戦や反乱も含む(戦争一覧)。集団を形成するようになる有史以来、人類が繰り返してきたものである。戦争に対を為すのは国際紛争の平和的解決である。銀行などが引受けた巨額の戦費は慢性的な租税負担となる。市民生活に対する制限と攻撃は個人の尊厳を蹂躙する。時代ごとの考え方によって、違法性が認定されてきた。 21世紀に入り、地球規模で敷設されたITインフラを通して膨大な情報が世界中で流通するようになると、物理的な攻撃を伴わない国家間の争いが増加した。そのような争いの比喩として、情報戦・経済戦争・貿易戦争・サイバー戦争・受験戦争などという言葉も用いられるようになった。 戦争とは軍事力を用いて様々な政治目的を達成しようとする行為(行為説)、または用いた結果生じる国家間の対立状態である(状態説)。一般に、国家もしくはそれに準ずる集団が、自衛や利益の確保を目的に武力を行使し、戦闘を起こす事。戦争は太古から続く人類の営みの側面であり、最も原始的かつ暴力的な紛争解決手段であると言える。 政治だけでなく、経済、地理、文化、技術など広範にわたる人間の活動が密接に関わっており、その歴史的な影響は非常に大きい。近代以降の戦争は陸海空軍等の軍隊のみの武力戦だけでなく、一般国民を広く巻き込む総力戦の様相を呈することもあり、外交戦、宣伝戦、謀略戦、経済戦、貿易戦、補給戦、技術戦、精神戦などの闘争を本質的に包括しており、相互に関係している。そして結果的には、その規模にもよるが、国際関係や社会や経済など幅広い分野に破壊的な影響を与え、軍人や民間人の人的被害からインフラの破壊、経済活動の阻害など社会のあらゆる部分に物的被害を与えることとなる。一方で、科学、技術、外交、戦略論、組織論、戦術論、兵器・武器の発展をもたらしてきた側面もある。また、軍需景気により生産設備に被害を受けなかった戦勝国や第三国の経済が潤う場合もある(例:第一次世界大戦と第二次世界大戦後の米国や第一次世界大戦後と朝鮮戦争後の日本)。また、戦争の敗北により近代オリンピックやFIFAワールドカップ等のスポーツ国際大会への参加を禁じられるケースもある。
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戦争
今では、大規模戦争の多くが総力戦や核戦争となり、勝敗に関わらず国家や国民をいたずらに消耗させる事から起こりにくくなっている。帝国主義のような戦争による国家の成長は過去のものとなり、人道主義の観点からも忌避される傾向となっている。1928年のパリ不戦条約締結以降、国際法的に自衛戦争以外の侵略戦争は禁止されている。2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降、世界的には対テロ戦争が主流となった。 その発展や勝敗には原則的、法則的な事象が関連していると考えられており、軍事学において戦理や戦略・戦術理論の研究、戦闘教義の開発、兵器開発、定量的な作戦研究、戦史研究などが行われている。国連憲章2条4項は戦争だけでなく武力の行使を一般的に禁止した(武力不行使原則)。 戦争という概念は国際法上の概念と軍事上の概念では差異があるため、区別して用いなければならない。 軍事的な観点から、戦争は軍事力の実質的な戦闘行動が実行されている状態を指す。その軍事力の主体はしばしば国家であるが、法的な定義とは異なり、その実質的な能力を重視するため、国家ではなく武装勢力に対しても使用されている軍事力の規模によっては用いる場合がある。米軍では武力衝突のレベルを、比較的危機の程度が低く、平和維持活動や対テロリズム作戦などを展開する「紛争」と、比較的危機の程度が高く、大規模な武力行使を伴う戦闘作戦を展開する「戦争」と区別している。また米軍は紛争を規模によって三段階に分類しており、その中の「高強度紛争」は伝統的な戦争のレベルに該当する。 国際法において、戦争の当事者は一般的に国家であると考えられており、伝統的な慣習国際法の観点からは宣戦布告によって始まり、講和によって終結するものであると考えられる。しかし、歴史上宣戦布告が行われず「実質戦争状態」に突入した事例が存在するため、現在ではこの形式は重要視されていない。また国家以外の武装集団間での武力衝突は紛争と呼ばれ、たとえば民族間であれば「民族紛争」と呼ばれる。 ただし、国家でない集団の対立にも「戦争」という語が用いられることはある。例えば、南北戦争において1861年にイギリスが南軍に対して交戦団体承認を行っている。以下に具体的な例を挙げる。
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戦争
ただし、国家でない集団の対立にも「戦争」という語が用いられることはある。例えば、南北戦争において1861年にイギリスが南軍に対して交戦団体承認を行っている。以下に具体的な例を挙げる。 歴史学関連では、戦争の定義を共有することは難しい。例えば、文化人類学の戦争の定義の一例は、組織があって命令(指揮)と服従の関係を持つ集団と集団との戦い。考古学では、考古資料にもとづいて認めることのできる多数の殺傷を伴いうる集団間の武力衝突としている。 猿人や原人の食人説が、オーストラリアの考古学者レイモンド・ダートによって1960年代まで繰り返し主張された。また、1930年代に北京原人食人説がドイツの人類学者フランツ・ワイデンライヒによって疑われた。しかし、世間では北京原人食人説はいよいよ有名になってしまった。これらのことから、猿人・原人の食べ合いが人類の歴史とともにあったと解釈し、広めたのがアメリカの作家ロバート・アードリーであった。さらに動物行動学を興してノーベル賞を受けたオーストリアのコンラート・ローレンツは『攻撃』という、人類の攻撃的本能を説いた。この本能説がさらに広がった。という説を立てている。 ただし、猿人の殺人・食人の疑いを考古学者ボブ・ブレインが示している。また、北京原人の食人説については、その後の研究で世界の人類学者が疑いを示している。 判明している情報では、3400年前から今日まで、世界で戦争がなく平和だった期間はわずか268年である。 文字記録が残っていない先史時代の戦争形態について正確に知ることはできないが、太古から紛争形態を受け継いでいるアフリカやオセアニアの地域から、その形態を推察することができる。狩猟採集社会の観察からは、原初のヒトが置かれた環境においても資源の獲得や縄張り争いによって集団対集団の戦争が行われることを示唆している。 イラクのシャニダール洞窟に葬られた男性ネアンデルタール人は、5万年前に槍で傷を受けて死んだ人だった。殺人か事故かは分からないが、人が人を殺した最古の証拠である。 縄文時代の暴力による死亡率は1.8パーセントである。この結果は他地域の狩猟採集時代の死亡率、十数パーセントより低いという。
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戦争
イラクのシャニダール洞窟に葬られた男性ネアンデルタール人は、5万年前に槍で傷を受けて死んだ人だった。殺人か事故かは分からないが、人が人を殺した最古の証拠である。 縄文時代の暴力による死亡率は1.8パーセントである。この結果は他地域の狩猟採集時代の死亡率、十数パーセントより低いという。 12,000 - 10,000年前頃(後期旧石器時代末)のナイル川上流にあるジェベル=サハバ117遺跡は墓地遺跡であるが、幼児から老人までの58体の遺体が埋葬されている。これらのうちの24体の頭・胸・背・腹のそばに116個もの石器(細石器)が残っていた。また骨に突き刺さった状況の石器も多い。この遺跡は農耕社会出現前の食料採集民の戦争の確実な例とされている。 古代では、農業の発達により人口が増加し経済的な富が蓄えられたことで、国家体制が整えられていき通信が整備された。この為、戦争の規模や軍事組織も拡大した。それぞれの文明は自己の安全を保障し、また自己の勢力を拡大するために闘争し、集団的利益のために征服戦争すら行われた。 また土器・石器から青銅器・鉄器を利用した兵器や武器の開発が進み、軍事力の能力が飛躍的に発展して大国化する国家が現れ始める。部族集団が都市国家へと成長し、ペルシアやローマのような帝国に発展したのが例として挙げられる。またこの時代には科学技術が発達して、戦車(二輪)や投石器、弓矢などが新兵器として登場し、戦争の形態をかつての儀式形式から会戦という形態に移行していった。 古代、西ローマ帝国がゲルマンの同盟部族に戦力を提供させていたことにより諸部族に文化が伝播してゆき、フランク王国(欧州北西部)、西ゴート王国(イベリア半島)、ブルグント王国(欧州東部)などが成立していった。中世前期に成立した神聖ローマ帝国は8世紀から15世紀に至るまでイスラムの王朝とレコンキスタの戦いを行った。
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戦争
古代、西ローマ帝国がゲルマンの同盟部族に戦力を提供させていたことにより諸部族に文化が伝播してゆき、フランク王国(欧州北西部)、西ゴート王国(イベリア半島)、ブルグント王国(欧州東部)などが成立していった。中世前期に成立した神聖ローマ帝国は8世紀から15世紀に至るまでイスラムの王朝とレコンキスタの戦いを行った。 中世盛期には、フランクとモンゴルの同盟を後ろ盾として、カトリック教会そのものが呼びかけて数次にわたる十字軍戦争も行われたが成果は乏しかった。また、西フランク王国はフランドルのブルッヘにハンザ同盟の在外商館や取引所を置き国際貿易を拡大させていたが、14世紀になるとフランス王国とイングランド王国とのあいだで百年戦争が争われた。この戦費の調達においてフランスはジェノヴァ共和国、イングランドはヴェネツィア共和国に戦債(英語版)を引き受けさせている。 中世ヨーロッパにおいては儀式的な要素も根強く残っており、カトリック教会による世俗権力への政治的な統制は戦争の発生を抑制していた。ただし中世にも多くの軍人らが存在し、また技術的には甲冑を装備した騎兵が有力であったが、たとえばイギリスのプランタジネット朝とフランスのバロア朝による百年戦争は王位をめぐって長期間にわたってフランスにおいて行われたものの、フランス社会全体に作戦期間相応の壊滅的な被害をもたらすことはなく、断続的かつ散発的な戦闘が休戦を挟みながら行われていた。これは長期間にわたって大規模な戦力を維持することが当時の軍隊には能力的に困難であったことや、キリスト教世界としての政治的な団結を保持していたこと、また軍事技術の制約から作戦行動の長期化や大規模化が難しかったことなどが理由として挙げられる。戦争の恐怖はむしろ作戦部隊の兵站(物資の補給)業務が不在であり、また規律が不十分な兵士たちが自らの糧食を確保するために勝手に現地で略奪を行うため、現地住民はそのたびに被害を受けていた。 中世後期、イベリア半島のスペインは遠洋航海を可能とするキャラック船を発明し、15世紀初頭からポルトガルとともに大航海時代を齎し、アフリカ、インド、東南アジア、南アメリカに進出するが、こうした貿易船は海賊対策のため軍船としても発達し、スペイン帝国、ポルトガル海上帝国が形成される。1440年代には商人は日本にも到達し鉄砲を伝える。
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戦争
中世後期、イベリア半島のスペインは遠洋航海を可能とするキャラック船を発明し、15世紀初頭からポルトガルとともに大航海時代を齎し、アフリカ、インド、東南アジア、南アメリカに進出するが、こうした貿易船は海賊対策のため軍船としても発達し、スペイン帝国、ポルトガル海上帝国が形成される。1440年代には商人は日本にも到達し鉄砲を伝える。 1453年、オスマン帝国が東ローマ帝国(ギリシャ)を滅亡させ地中海の制海権を獲得し、地中海の交易に高い関税がかかるようになる。1496年にイタリアを巡って起きたイタリア戦争は欧州のほとんどの国を巻き込み、のちの1557年にスペインとフランスが破産を宣言するに至って終結した。この戦争では軍事技術と戦術の大きな進歩があった。 一方、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は1477年にヴァロワ・ブルゴーニュ家のネーデルラントを承継し、1516年にはスペイン王も兼ねるようになり、1528年にユトレヒトのカトリック司教領を没収し、1531年にはオスマンとの争いやイタリア戦争の戦費調達等のためブラバント公国にアントワープ証券取引所を設立し、ガレオン船の造船などにより経済や貿易を発達させた。欧州の各国も、これに倣って証券取引所を設立した。 1534年にイギリス国教会がカトリック教会から離脱しプロテスタントの思想が広まり始め、この流れから宗教改革が進行してゆき、フランスはユグノー戦争に入り、神聖ローマ帝国ではネーデルラント17州フランドルのオランダ人蜂起により八十年戦争が勃発し、またさらに英西戦争が始まる。スペイン・ハプスブルグ家は1580年にポルトガルを承継するが、プロテスタント勢力が支配的になったネーデルラント北部はハプスブルクから独立した形になり、1602年にアムステルダム証券取引所とオランダ東インド会社を設立して植民地を拡大し、オランダ海上帝国を形成していく。また同時にオランダ・ポルトガル戦争(英語版)も始まる。 欧州の八十年戦争は、1648年のヴェストファーレン条約により北部のネーデルラント連邦共和国が正式に独立したことにより終結したが、1651年からは4次に渡る英蘭戦争が生じ1784年まで続いた。神聖同盟はオスマントルコと大トルコ戦争も争い、その後はハプスブルク帝国内における継承戦争もあった。こうした中で戦列艦が発達した。
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戦争
欧州の八十年戦争は、1648年のヴェストファーレン条約により北部のネーデルラント連邦共和国が正式に独立したことにより終結したが、1651年からは4次に渡る英蘭戦争が生じ1784年まで続いた。神聖同盟はオスマントルコと大トルコ戦争も争い、その後はハプスブルク帝国内における継承戦争もあった。こうした中で戦列艦が発達した。 これらの戦争と並行して、フランスやイングランドがアジアやアメリカ大陸に植民を行ったが、北アメリカでは16世紀から18世紀にかけて、植民地の造営を巡りインディアン戦争やフレンチ・インディアン戦争、アメリカ独立戦争が生じた。 帝国主義に基づく植民地支配は富の集積を実現し、英国は産業革命を実現できた。それによって工業の発達が軍艦や銃器の性能を引き上げた。軍事技術の発達は戦争の形態を大きく変化させる。グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)は軍事改革の中で常備軍の制度を確立し、その後の戦争のあり方を基礎付けた。また計画的な兵站や規律を保つための軍事教育などもこのころに整備され、各国で同様の制度が採用されるようになる。特に歩兵の重要性が小銃の開発により高まったことは、完璧な陣形や規律正しさを軍隊の各兵員に求めることになる。また火砲の登場により砲兵という兵科が確立されたのもこの時代であり、戦略や戦術、軍事土木工学などの分野も大きな前進を見る。近代化が、さらなる戦争の拡大につながると考える人が、非常に多数派である。 アメリカ大陸では19世紀前半には米英戦争、19世紀後半には米墨戦争、南北戦争、米西戦争、米比戦争があった。 フランスで起こったフランス革命が国民国家の体制をもたらして中央集権に基づく徴兵制によって、軍隊の大規模化を可能とした。そしてナポレオン・ボナパルトはこれまでの戦略・作戦・戦術の抜本的な合理化を行う改革に取り組み、国家総力戦の体制の原型を整えた。さらに銃器・火砲などの兵器の発展が被害者数を甚大なものとし、ナポレオンはこのような高度な軍事力を運用して殲滅戦を行い、ナポレオン戦争においてはヨーロッパ大陸のほとんどを支配するに至った。このナポレオンの戦争指導はアメリカ南北戦争やその後の軍事研究に大きな影響を残す。
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戦争
第一次世界大戦や第二次世界大戦では戦争はただの武力戦ではなくなり、国家がその経済力・技術力などの国力を総動員し、非常に多大な消費が長期間にわたるという新しい戦争の形態である国家総力戦が発生した。その戦争形態を維持する必要性から「国家総力戦体制」と呼ばれる戦時体制が出現することになる。 第一次世界大戦はナポレオン的な攻撃による短期決戦を目指して、両勢力が約200万という大兵力を動員したものの、塹壕と機関銃による防衛線を突破することができず、戦争の長期化と大規模化が決定付けられた。結果的にはこのような大戦争によりもたらされる経済的または心理的な損害により、各国は深刻な社会的混乱や政治的な打撃を被った。このような戦争を繰り返さないためにも国際連盟を通じた戦争の抑制が企図されたがアメリカは参加せず、またドイツは莫大な賠償金により経済的な打撃を受ける。第二次世界大戦においては再び大規模な戦争が繰り返され、この大戦ではせん滅的な長期戦に展開して一次世界大戦の二倍の戦死者が出た。また航空機の発達によって航空作戦が実施されるようになり、航空機による戦略爆撃は戦闘員だけでなく民間人にも多数の被害者が出ることとなり、政治的または経済的な混乱が長期間にわたって続いた。 世界大戦の反省から国際連合などの国際機関が発展して戦争の抑制が図られるものの、アメリカとソビエトの台頭、さらに大量破壊兵器の登場によって核兵器やミサイルによる核戦争の可能性を生み出した。また現代的な軍事技術の開発が躍進的に進んだことから現代の戦争の勝敗は科学技術の開発に大きく左右されるようになっている。しかし同時に従来の正規軍による軍事作戦とは異なる革命または反乱という“非対称の戦争”が行われるようになり不正規戦争と呼ばれるようになる。核戦争へと発展しないように限定的かつ段階的な軍事力が行使される戦争として限定戦争(朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連によるアフガン侵攻など)が行われるに至っている。
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戦争
冷戦後はイデオロギーの対立というよりも民族・宗教の対立による内戦が世界各地で勃発するようになり、形態はかつての伝統的な戦争よりも複雑多様化している(ボスニア紛争など)。特にイスラム原理主義や民族主義によるテロが先進国を悩ませ、それに対する報復戦争や内戦が起きる事態となっている(アメリカによるアフガン侵攻、イラク戦争、チェチェン紛争など)。 2つの世界大戦以後から冷戦期にかけて、領土の占有を最終目的とする形態の戦争は減少し、特に冷戦後は、政治体制や宗教体制を自陣の望むものとするための戦争や紛争が主体となっている。 2020年から2021年にかけて、インドと中華人民共和国の両国兵士がヒマラヤの国境付近で戦闘状態に陥ったが、核兵器を持ち合う両国は戦闘を戦争レベルに発展させないために、あえて火器を使用せずにクギを打った棒や素手で攻撃をするものとなった。数十人単位の死者が出るという穏やかなものではなかったが、新たな戦争の形態や抑止の在り方を示唆するものとなった。 2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が行われ、ロシアの領土拡大を目的とした本格的な侵略戦争が勃発した。20世紀に起きた2度の世界大戦の反省を踏まえて、国際協調が進められていた21世紀においては珍しい形態の戦争であり、国際社会の秩序を大きく揺るがす事態となった。SNS時代の到来により、SNSでもリアルタイムに戦況が報じられるようになった。 戦争の類型に関しては、時代や戦術・戦略の変化に伴って多様化しており、また観察する視点によってもさまざまな見方ができるため、断定的に行うことは難しい。 ※「自衛戦争」「予防戦争」「制裁戦争」などと類別されることもあるが、これには当事者の主観の入り込む余地が大きく、客観性に欠ける分類になる傾向がある。 フランスの歴史学者ジョルジュ・カステラン(フランス語版)によると、戦争は歴史的な観点から以下のように分類される。 人類黎明期の戦争
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戦争
※「自衛戦争」「予防戦争」「制裁戦争」などと類別されることもあるが、これには当事者の主観の入り込む余地が大きく、客観性に欠ける分類になる傾向がある。 フランスの歴史学者ジョルジュ・カステラン(フランス語版)によると、戦争は歴史的な観点から以下のように分類される。 人類黎明期の戦争 戦争にどのように勝利するのかではなく、戦争とは何なのかという問題を考察するためには戦争の内部の構造がどのようになっており、どのような原理が認められるのかを明らかにすることが必要である。古代の戦争学的な論考に、哲学者プラトンの『国家』があり、その中で哲学者ソクラテスはさまざまな領域の職人、専門家によって構成された自足的な国家を想定しているが、国家が成立したとしても人間の欲求は際限なく拡大し続けるために、自足する以上の資源を求めて他の共同体に対して戦争が発生すると論じている。これは戦争の根本を国家に求める見方であり、実際に軍事史においても国家は戦争の主要な行為主体であった。しかし、これは戦争の限定された本質を明らかにしているに過ぎない。戦争がランダムに起こったわけではないことは留意すべきだから、親社会的な行動などが戦争を防ぐのに役立つかどうかは、やはり興味があるところである。
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戦争
そもそも戦争が成り立つ以前に、人間がなぜ対立するのかという問題がある。社会学者ヴェーバーの『社会学の根本概念』によれば、ある主体が相手の抵抗を排除してでも自分自身の意志を達成しようとする意図に方向付けられた社会的関係が闘争であると定義する。またこの闘争は物理的暴力に基づいた闘争や闘争手段を非暴力的なものに限定した平和的な闘争に分類できる。このような闘争が社会の中で発生する根本的な理由について政治思想家ホッブズは『リヴァイアサン』において国家や政治団体が存在しない自然状態を想定している。つまり各個人がそれぞれ等しく自己保存の法則に従って生活資源を獲得するため、また敵の攻撃を予防するために、結果として万人の万人に対する闘争が生じることになる。闘争において常に暴力が使用されるとは限らない。暴力によって相手を抹消しなくとも、交渉や協力によって争点を解決することは原理的に不可能ではない。しかし経済学者マルサスが『人口論』で述べているように、人口は生活手段の分量を超えて常に増大されるため、その過剰人口の出現は疫病、飢餓、戦争などの積極的制限によって調整されるために闘争は流血の事態にまで発展することになる。なぜなら生存が脅かされる事態は人間にとって常に極限状況であり、社会全体にとっても闘争を暴力化させる重大な動機でありうるものである。
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戦争
暴力とは万人が持つ個人の身体的、精神的な諸力の中でも他者に対して強制的に働きかける力に限定することができる。これは政治思想家アーレントの定義であり、暴力は他者との相互作用を通じて行使する必要はなく、その機能は相手を殺害することである。しかし戦争における暴力を論考した研究では、暴力を通じてある種の相互作用が発生することが論考されている。この領域における古典的な著作に軍事学者クラウゼヴィッツの『戦争論』がある。戦争を特徴付ける最も重要な要素として着目されるべきは暴力である。クラウゼヴィッツによれば暴力は三種類の相互作用をもたらすものであり、それは相互に敵対的感情と敵対的意図を拡大させる第1の相互作用、相手を撃滅しようとする第2の相互作用、そして戦闘手段を敵と拮抗させようとする第3の相互作用である。これら相互作用を前提として考えれば、戦争における暴力は無制限に拡大する理論的な必然性がある。つまり集団間の戦争を想定すれば、それは暴力の性質に従って相互に暴力手段を拡大し続けながら相手を攻撃し続け、またそのための敵意を増大させ続けることになる。クラウゼヴィッツはこのような戦争の理念型を絶対戦争と呼んだ。しかし同時にこのような形態の戦争は現実の戦争で出現しているわけではない。その理由として絶対戦争と並んで提起されているものが政治目的の着眼点である。つまり戦争の無制限的な暴力化を抑制するものとして政治的制約が作用しており、戦争の性質を規定しているというものである。このことを端的に表現するクラウゼヴィッツの命題が「戦争とは他の手段を以ってする政治の延長である」というものである。
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戦争
戦争は単なる暴力的な闘争状況であるだけでなく、本質的に政治が連関しているというクラウゼヴィッツの考察は政治学者シュミットによってより思想的に発展された。シュミットは独自の友敵理論を展開する中で政治的な概念には常に闘争的な意味があり、不可避的に敵と味方に区分されると論じる。このような政治観はマキアヴェッリの政治思想やマルクスの階級闘争などにも認められるものである。シュミットによれば政治に内在する敵と味方の二分法はさらに敵概念の詳細に注意することで深めることができる。シュミットは『パルチザンの理論』において三種類の敵を導入しており、すなわち因習的で形式的な性質を持つ在来的な敵、実際的な性質を伴う現実の敵、犯罪者という性格を持つ絶対的な敵である。在来的な敵は人道的なルールに基づいた国家間の戦争における敵であり、現実の敵とは自らの実存にとって脅威となる敵、そして絶対的な敵とは相手を文明や階級、民族に対する犯罪者として差別化される敵である。戦争において相手がどのような特性を持つ敵なのかによって、政治目的は相手に僅かな制裁を加えるように軍事的手段を制限することも、また相手の存在を根本的に抹消させる軍事的手段を拡大させることも可能にするのである。戦争にとって政治の重要性は普遍的なものであり、戦争の規模、期間、列度、その影響は政治の状況や機能によって左右されると考えられる。 戦争における諸活動は高度に複雑であり、量的には以下のように分類することができる。 兵士単位での戦いである「決闘」が複数集まって、「合戦」が構成され、複数の合戦から交戦が構成されている。ただしこのような個々の兵士の活動、師団の活動、国家の活動などで戦争の全体像を区分することはできない。交戦単位が艦艇や航空機となれば戦闘と決闘の間の区分は消失するものであり、また総力戦に至らない戦争においてはより事態は複雑である。
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戦争
兵士単位での戦いである「決闘」が複数集まって、「合戦」が構成され、複数の合戦から交戦が構成されている。ただしこのような個々の兵士の活動、師団の活動、国家の活動などで戦争の全体像を区分することはできない。交戦単位が艦艇や航空機となれば戦闘と決闘の間の区分は消失するものであり、また総力戦に至らない戦争においてはより事態は複雑である。 戦争は人間社会における対立によって生じるものであり、何らかの意志や理由を伴う。しかし戦争の原因についての一般理論は未だ完成されていない。その発生の過程にはさまざまな要因、誘因、環境が有機的に起因するは確かであり、無政府状態、勢力均衡、攻撃・防御バランス、好戦的イデオロギー、ナショナリズム、誤認などの多くの理論が提唱されている。ここではいくつかの戦争の原因として考えられている学術考察または理論について述べる。(戦争哲学をも参照) 国際政治学ではまず国際社会において戦争が生じる理由は、国際政治が無政府状態(アナーキー)であることがまず挙げられる。すなわち国際政治には国内政治のように中央政府のような集権体制が不在であり、紛争の平和的解決が強制できない。従って各国は自助努力を行う必要性に迫られる。第二に情報の不完全性がある。つまり戦争を回避するために必要な情報が必ずしも入手できず、例えば軍事情報についてはしばしば軍事機密によって秘匿されるために合意達成が確認できず、ここに猜疑心が生じる可能性がある。そして三つ目の原因として国内政治と国際政治の相互作用の関係が挙げられる。 軍事史上の戦争を調べて、その戦争を開始する直接的な要因に注目して統計化すれば大まかに長期的な不満、国内的な混乱、軍事的な優位、軍事的な劣位、以上の四つに分類できると言われる。
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戦争
軍事史上の戦争を調べて、その戦争を開始する直接的な要因に注目して統計化すれば大まかに長期的な不満、国内的な混乱、軍事的な優位、軍事的な劣位、以上の四つに分類できると言われる。 世界的な大国が存在することによってその統一的な影響力を用いて国際秩序を安定化させる「単極平和論」が存在する。このような国際体制においては反抗できる勢力がそもそも存在しないため、戦争が発生する可能性を大きく低減できる。また反抗勢力を圧倒することによって覇権国家も政治的目的を達成するために軍事力を行使する必要がなくなる。ただしこの場合、属国群が長期的な不満を覇権国家に対して形成する危険性がある。平和主義の中で語られる世界連邦政府構想や国連常備軍構想は世界全体の単極平和論を志向したものと言え、現在のパックス・アメリカーナは完全ではないが単極勢力構造に近い形態とされる。日本の江戸時代や中国の統一王朝時代、米国が新大陸においてアメリカ先住民掃討に専念する一方米墨戦争や南北戦争があった孤立主義(モンロー主義)時代などは概ね平和が保たれており、地域における単極平和論を支持する例とされる。 また勢力が均衡する二つの大国が互いに拮抗する場合、戦争が発生しにくいとする「双極平和論」も論じられる。この理論は不確実性による誤認・誤算によって戦争が勃発する点に注目し、双極であれば相互に相手の動向により的確に対応できるようになるため、安定的に勢力が均衡する可能性を論じている。米ソ冷戦時代が双極勢力分布の分かりやすい例であり、現実には双方の軍拡競争やベトナム戦争や朝鮮戦争といった代理戦争は起こったが、恐怖の均衡により米ソの直接の戦争は起こらなかった。 また複数の大国が存在する場合、戦争は発生しにくいとする「多極平和論」もある。複数の国家がより柔軟かつ適切に同盟や勢力圏を形成することが可能となるので、対立関係が硬直化しにくいとし、勢力均衡を維持しやすいと論じている。現実の例としては戦前の米・英・独・仏・ソ連(ロシア)・イタリア・日本が世界における列強として君臨した時代がある。第二次世界大戦前のヨーロッパ、中国の三国志時代や日本の戦国時代などは地域内で複数の勢力が存在していた。
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戦争
しかし、どの勢力分布も歴史的に見れば戦争の頻度や規模を最小化することについて最適な組み合わせではないと一般的には考えられている(勢力均衡を参照)。なお、国連憲章の目指すところは国連常備軍による単極平和論であり、1極を覇権国家専有武力ではなく国連加盟国共同武力とすることで覇権国の専横を防ぎつつ平和を目指す考え方である。 1970年代になるとそれまでの勢力均衡理論による静態的な国際情勢の理解から転換して、世界秩序の構成要素の国力などは可変的であると考える動態説が現れた。例えばイマニュエル・ウォーラーステインは16世紀以降の資本主義の発達は世界に強国と弱国の格差を生み、巨視的には中核、準周辺、周辺の世界システムを形成した。さらに中核においても、時代的には長期的優勢と中期的優勢の二種類があることが認められ、長期的優勢では生産力の拡大からプロレタリアートの政治運動に次いで福祉国家化及び社会主義的世界経済へと段階的に進んでいき、中期的優勢では資本主義の矛盾が表面化、経済成長の停滞、恐慌などに次いで準周辺国への技術移転並びに相対的な優位の低下という段階を進むとしている。また1987年にはジョージ・モデルスキーによって大規模な戦争は大体100年周期で発生する点に注目した100年周期説が提唱された。これはあらゆる秩序のエントロピー的衰退、国際的な秩序形成の衝動などが理由として挙げられている。 経済と戦争の危機には全く相反する視点がある。 まず第一に国際経済が停滞・後退すれば戦争の危機は高まるという考え方である。経済成長が不況や恐慌などによって悪化すれば、その縮小した利益をめぐる利害関係が国内経済、国際経済において悪化し、それが戦争の危機を高めることになると考えられる。また軍事費の拡大によって市場に資本を投入し、経済成長を促すため、軍拡競争が激化することも考えられるからである。 一方で、戦争にかかる膨大なコストに注目し、経済の成長が順調でなければ戦争が起こせないため、成長期にむしろ戦争の危機は高まるという考え方も存在する。経済成長を目指して資源や戦略的な要所の必要性が高まるため、競争が激化しやすくなる。また経済成長があるからこそ軍事費を増大することが可能となり、軍拡競争が発生し、経済成長を維持するために膨張主義的な世論や社会的な心理が形成されると考えられる。
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戦争
一方で、戦争にかかる膨大なコストに注目し、経済の成長が順調でなければ戦争が起こせないため、成長期にむしろ戦争の危機は高まるという考え方も存在する。経済成長を目指して資源や戦略的な要所の必要性が高まるため、競争が激化しやすくなる。また経済成長があるからこそ軍事費を増大することが可能となり、軍拡競争が発生し、経済成長を維持するために膨張主義的な世論や社会的な心理が形成されると考えられる。 ただし、経済と戦争の関係性についてはデータや指標が非対称である場合や研究途上であることもあって、完結に結論できない。 数学のゲーム理論においては囚人のジレンマ状況とチキンゲーム状況の理論が戦争のモデルとされている。 囚人のジレンマによると、例えば核兵器の保有を両方が自制するのが最も平和で安全であるが、疑心暗鬼の心理が働いて両方とも核保有で自国の安全と相手国の支配権を得たいと考える。しかしながら自国だけ自制して相手国が核を保有した場合には自ら不利になることを選ぶことになる。ただし両国とも核保有すると核戦争勃発の危険が最大となる。 チキンゲームによると、例えば両国とも利益の追求を完全に放棄すれば最も平和で安全であり、また互いに申し合わせた妥協を履行すれば二分した利益と安全を確保できる。一方で相手国が譲歩することを衝突の直前まで期待して強硬策を実施して成功すれば半分以上の利益を確保出来るが、失敗すれば戦争が勃発することになる。 ただし戦争とは大規模になればなるほど、上記した要因以外に、さまざまな軍事的、政治的要因だけでなく、法的、経済的、社会的、集団心理的、文化的な外的・内的な構造や誘因がより高度に複雑に関係して発生する重層的な事象であり、個人の人間性や一国の内部事情などにのみその根本的原因を求めることは非常に非現実的、非歴史的な考えと指摘できる。
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戦争
ただし戦争とは大規模になればなるほど、上記した要因以外に、さまざまな軍事的、政治的要因だけでなく、法的、経済的、社会的、集団心理的、文化的な外的・内的な構造や誘因がより高度に複雑に関係して発生する重層的な事象であり、個人の人間性や一国の内部事情などにのみその根本的原因を求めることは非常に非現実的、非歴史的な考えと指摘できる。 歴史から学び、国内的な事情と国外的な環境を関係させ、個人の感情や意思を内包した歴史的必然性に戦争の原因というものは求められるべきものである。バターフィールドの『ウィッグ史観批判』で「歴史の教訓とは、人間の変化はかくも複雑であり、人間の行為や決断の最終的結果は決して予言できるような性質のものではないということである。歴史の教訓は、ただ細部の研究においてのみ学ぶことができ、歴史の簡略化の中では見失われてしまう。歴史の簡略化が、歴史的真理と正反対の宣伝のため企てられることが多いのもそのためである」と論じられているとおり、本質的に戦争、特に近代における複合的な国際政治の展開によって発生する戦争は単一の誘因によって引き起こされたとする考えはきわめて側面的な考えである。 軍事学において戦争はその作戦戦略の差異を主体別に見て侵略と防衛の二つの作用が衝突して発生するものであると考えられる。 まず侵略には法的な定義も存在するが、軍事的な定義としては外敵または内敵によって軍事力が先制行使され、侵入(invasion)、攻撃(attack)などの攻勢の作戦行動が実行されることである。一方で防衛は狭義には侵略に反応してこれを排除するために軍事力が使用され、防御や後退などの防勢の作戦行動が実行されることであり、広義には抑止活動をも含む。
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戦争
侵略はその手段から直接侵略と間接侵略に分類される。直接侵略は外国が軍事力の行使を行う伝統的な侵略方式であり、間接侵略は防衛側の国家内の反政府勢力などを教唆、指導したうえで反乱、革命などによって軍事力を間接的に行使する侵略方式である。実際の侵略はこの二種類の手段を同時に使用する場合や、時間差で使用する場合などがある。 また敵が内敵であれば、これもまた区別して考えられる。内敵とは国内の勢力が主体とり、政府転覆や国体の破壊などを目的を持ち、武力を行使する敵である。内敵の侵略は外国に一時的に外国に逃れ、外部から侵略する外部侵略と、内部でゲリラ戦や反乱、クーデターなどを行う内部侵略の方式がある。内敵と外敵は軍事目的が同じであるので、結託しやすい。 防衛は安全保障形態から集団安全保障と個別的安全保障に大別される。集団的安全保障は集団内の国家が侵略を行った場合にその他の国々が侵略国に制裁を行うことによって防衛国を援助することで安全を保障することである。個別的安全保障は防衛国が独力で、または同盟国の援助によって安全を保障することである。 個別的安全保障はさらに単独防衛(自主防衛)、同盟、集団防衛、中立の形態がある。集団防衛は防衛的な性格のみを持つために集団安全保障の側面も持つ。同盟にはその作戦目標から侵略的な場合と防衛的な場合がある。自主防衛は防衛線の位置によって前方防衛、国境防衛、国土防衛に区分される。前方防衛は国境よりも遠隔地において侵略してくる敵を排除する防衛方式であり、公海上で行われることが多い。国境防衛は国境において軍事力を準備し、侵略する敵を待ち受けてこれを排除する防衛方式であり、国境線を要塞化することが多い。国土防衛は国境を突破して国土に侵略する敵を国内において排除する防衛方式である。しかし一般的に兵法などでは、侵略する側は、防衛する戦力の3倍の戦力であることが望まれるので、小国と大国の戦争でもない限り、完全に侵略されることはまずない。
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戦争
戦争は永遠に続くものではなく、一定の段階を過ぎれば収束していく(ただし、ゲリラ戦や断続的なテロ攻撃は戦線を維持する必要がないため、戦争とは本質的に性質が異なる)。兵力や軍需物資の補填などの兵站能力的限界から、どのような国家、勢力でも激しい戦闘を長期間にわたって継続することは不可能であるからである。その発展の過程は無秩序に見えるが、ある程度の段階が存在していると考えられている。 安定的な秩序が維持されており、各国(一部の国では平時においても国内の不安定がある)は基本的に平和に過ごしている。戦争の危機は認識されておらず、準備もなされていない。 戦争勃発の誘因となりうる事件や問題が発生・表面化し、急速に事態が緊張化していく。奇襲を受ける場合はこの段階を通過しない場合もある。この時点ではまだ戦争を未然に防止することは外交によって可能であると考えられるが、不安定化末期から準戦時の外交交渉はしばしば非常に切迫したものとなる。 戦争の危機が高まり、急速に事態が緊張化して制御不能となっていく。国家として戦時体制が敷かれ、軍隊が動員され、外交交渉は絶望的になっていく(最後通牒、宣戦布告を参照)。この段階になればもはや事態を収拾しようとすることは極めて困難となる。この時点で戦争勃発を阻止しようとするのは遅すぎる。 開戦を告げる宣戦布告が行われ(これは伝統的な国際法に基づく行為であり、現代では行われない場合もある)、軍隊が戦場に展開し、敵戦力との戦闘に入る。また戦時体制に基づいてあらゆる経済、情報開示、生活が軍事上の必要から統制される。この段階で戦争の経過を当初の計画通りに進んでいるかなどを考慮し、いかに有利に戦争を収束させるかという点が注目される。 一方が圧倒的な勝利を獲得した場合、また戦況が双方にとって好転せず停滞的になった場合、対立している両国が講和を行うことを決定すれば、その戦争は収束に向かう。この際に締結されるのが講和条約と呼ばれるものである(休戦協定は戦闘の一時的な中断であり、戦争の終結ではない)。しかし、講和の交渉とは外交官にとって最も困難な外交交渉の一つであり、その交渉過程にはさまざまな不満や問題が発生することもある。
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戦争
一方が圧倒的な勝利を獲得した場合、また戦況が双方にとって好転せず停滞的になった場合、対立している両国が講和を行うことを決定すれば、その戦争は収束に向かう。この際に締結されるのが講和条約と呼ばれるものである(休戦協定は戦闘の一時的な中断であり、戦争の終結ではない)。しかし、講和の交渉とは外交官にとって最も困難な外交交渉の一つであり、その交渉過程にはさまざまな不満や問題が発生することもある。 戦争終結してもその決着が新たな問題や不満を生んでいれば、それが起因して新しい戦争をもたらすこととなる。外交的な解決が不可能となった場合、戦争は軍事力を以って自国の利益を相手から奪うことができる。ただしその過程で失われるものは人命、経済基盤、生活の安全だけでなく、勝敗によっては国際的な信用や政府、国家主権が奪われる場合もある。なお近現代においては敗北で民族が消滅することはない。 主権国家体制において付庸国(附庸国、ふようこく)、従属国(じゅうぞくこく)(英: vassal state)とは、宗主国から一定の自治権を認められているが、その内政・外交が宗主国の国内法により制限を受ける国家を指す。。 主権を不完全にしか持たないため、被保護国と合わせて半主権国(英: semisovereign state)、従属国(英: dependent state)とも呼ばれる。 傀儡政権(かいらいせいけん、英語: puppet government)とは、ある領域を統治する政権が、名目上には独立しているが、実態では事実上の支配者である外部の政権・国家によって管理・統制・指揮されている政権を指す。 戦争には武力を用いた戦闘から、諜報・諜報活動、輸送、外交交渉など非常にさまざまな分野で争いが発生する。英語ではこのようなさまざまな闘争の局面を warfare と呼ぶ。ここでは戦争に伴って起こりうるさまざまな分野における闘争について述べる。
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戦争
戦争には武力を用いた戦闘から、諜報・諜報活動、輸送、外交交渉など非常にさまざまな分野で争いが発生する。英語ではこのようなさまざまな闘争の局面を warfare と呼ぶ。ここでは戦争に伴って起こりうるさまざまな分野における闘争について述べる。 政治戦とは戦争における政治的な闘争の局面である。政治戦には我の政府と国民、敵の政府と国民、国際社会という主に五つの行為主体があり、国際社会に働きかける政治戦を国際政治戦、敵政府に対する政治戦を直接当事者政治戦、敵国民に対する政治戦を間接当事者政治戦、自国民や政府内部に対する政治戦を国内政治戦と呼ぶ。戦争によって得られた戦果は外交交渉を通じて政治的な権力または影響力として政治戦に貢献する。 武力戦は戦争において最も激しい闘争の局面であり、主に戦闘において行われる。対立する戦力同士が互いに支配領域の制圧、敵戦力の無力化や撃破などを目的として作戦し、武力を行使して敵対する勢力を排除する。この過程で殺傷・破壊活動が行われ損害が生じる。戦闘を遂行するためには兵士たちの体力と技能だけでなく、戦術、武器や爆発物の知識、兵器操作の技能、戦術的知能、チームワーク、軍事的リーダーシップ、また後方においては作戦戦略、戦場医療、兵器開発などの総合的な国家、組織、個人の能力求められる困難な活動である。(戦闘を参照) 情報戦は戦争において情報優勢を得るために発生する闘争である。主に諜報・諜報活動によって行われ、相互に相手の軍事的な情報に限らず、経済的、政治的な状況に関する情報を得るために合法的に外交官や連絡将校を送り込んだり、相手国内に協力者を獲得するためにさまざまな活動を展開する。同時に防諜として相手国のスパイを摘発するための国内における捜査も行われ、敵の情報活動を妨害する。
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戦争
情報戦は戦争において情報優勢を得るために発生する闘争である。主に諜報・諜報活動によって行われ、相互に相手の軍事的な情報に限らず、経済的、政治的な状況に関する情報を得るために合法的に外交官や連絡将校を送り込んだり、相手国内に協力者を獲得するためにさまざまな活動を展開する。同時に防諜として相手国のスパイを摘発するための国内における捜査も行われ、敵の情報活動を妨害する。 補給戦は後方支援または兵站を巡る闘争であり、特に補給と輸送を行う際に発生する闘争の局面を言う。兵力や物資の補填がなければ前線の部隊は戦闘力が維持できず、また戦闘以外の被害による損害は戦闘によるものよりも時には非常に多くなるため、戦闘が活発でない時期であっても物資は絶えず輸送されなければならない。すなわち戦場には常時消費物資を送り続けなければ戦闘力が低下することにつながるため、輸送作戦を確実に実施することは前線の勝敗を左右する作戦である。この輸送作戦を的確に実行するのに必要な経済的、軍事的、事務的な努力は非常に巨大なものである。また相手国も航空阻止、破壊工作、後方地域への攻撃などでこの輸送作戦を妨害してくるため、輸送部隊の司令官は強行輸送や強行補給という手段を用いて、これに対抗しなければならない場合もある。つまり戦争においてはどのようにして効率的な輸送作戦を遂行し、適量の物資を調達して、適地に輸送し、的確に分配するかという兵站上の困難に常に直面することになる。 外交交渉は戦争中には行われる場合と行われない場合があるが、戦争を収束させるためには絶対に避けては通れない争いである。講和や休戦を行うためには政府間の利害関係を調整する実務的な交渉が必要であり、またその過程には双方が国益を最大化するための交渉の駆け引きが行われる。また同盟やさまざまな支援を取り付けるための外交も戦争の行方に大きな影響を与える。(外交交渉を参照)
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戦争
外交交渉は戦争中には行われる場合と行われない場合があるが、戦争を収束させるためには絶対に避けては通れない争いである。講和や休戦を行うためには政府間の利害関係を調整する実務的な交渉が必要であり、またその過程には双方が国益を最大化するための交渉の駆け引きが行われる。また同盟やさまざまな支援を取り付けるための外交も戦争の行方に大きな影響を与える。(外交交渉を参照) 電子戦とは通信機器などで用いられる電磁波を巡る争いである。平時においても情報収集などを目的とした電波の傍受や分析などの電子戦は行われているが、戦時においては指揮組織、通信拠点、SAM システムに対してより攻撃的なECMが実施される。現代の戦争においては非常に重要な通信手段は電磁波を用いたものが多く、また通信手段は指揮統率における要であるため、その重要性は大きい。日露戦争以降世界各国の軍隊が電子戦に対応する部隊を保有するようになっている。 謀略とは敵国の戦争指導を妨げる活動であり、一般的に極秘裏に遂行される。間接的には政治的・外交的・経済的・心理的な妨害活動があり、直接的には軍事的な破壊工作がある。破壊工作とは交通拠点、政府機関、生産施設、堤防、国境線などの重要拠点に対する爆発物などを用いた放火や爆破などの活動のことである。しばしば敵国に特殊部隊やスパイを送りこんで実行するが、秘密裏にかつ迅速に行われるために無効化が難しい。敵部隊の戦闘力の無力化などを目的とした戦闘とは性格が異なり、対反乱作戦や対テロ作戦に分類される。 心理戦とは、テレビや新聞などを用いた広報活動、政党や思想団体の政治活動、学校教育などによって情報を計画的に活用し、民衆や組織の思想や考えを誘導し、自らに有利に動くように間接的に働きかけるさまざまな活動と、敵の同様の手段へ対抗する活動の総称である。戦争が開始されれば両国とも自国の正統性を主張し、支持を得ようと試みる。また相手国の国民に対して、自国に有利になるように反政府活動を支援したり、相手国の非人道性を宣伝することによって政権の行動を制限することなどが可能である。これは対ゲリラ作戦や対テロ作戦、政権転覆などさまざまな局面で実施される(心理戦を参照)。
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戦争
軍備拡張競争は軍備の量的な拡張と軍事技術の開発競争を言う。現代の戦争において勝利を納めるには、兵力や戦略のみならず、優秀な兵器が不可欠である。そのため、敵国・対立国より優れた兵器を多く保持することが重要になり、戦時中はもちろん平時においても、その開発・生産が活発に行われている。 例えば、東西冷戦においては、米ソの直接対決こそなかったものの、核兵器や戦車などの熾烈な開発競争が行われ(核兵器については、開発競争により核戦力の均衡が保たれていたからこそ現実に核戦争が起こらなかったとする見方もある)、代理戦争はそれらの兵器の実験場でもあった。また、人類を宇宙や月に送った宇宙開発競争も、ロケット技術が戦略核を搭載する大陸間弾道ミサイルなどのミサイル技術に直結していたことが大きな推進力となっていた。 戦争に関する国際法には大きく二つの体系がある。軍事力の行使が合法かどうかを定めている「開戦法規」 (jus ad bellum, ユス・アド・ベッルム)」と、戦争におけるさまざまな行為を規律する「交戦法規」 (jus ad bello, ユス・アド・ベッロ) の二つである。前者は国連憲章が基本的に根拠になっており、後者は「戦時国際法」「武力紛争法」「国際人道法」とも呼ばれ、その主な根拠となっている条約にジュネーブ条約などがある。一般的に戦争犯罪と呼ばれる行為とは、戦時国際法に違反する行為を指す。(極東国際軍事裁判におけるA級戦犯はこの戦時国際法とは無関係である)また戦時国際法は作戦領域から、陸戦法規、海戦法規、空戦法規に分類されることもある。 伝統的国際法においては、戦争は国家の権利であったが、現代国際法においては武力行使の禁止に伴い、戦争そのものが禁止されている。具体的には、1928年のパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)および1945年の国連憲章2条4項により、武力行使は違法化された。ただしパリ不戦条約では実質的な紛争解決機能が盛り込まれなかったために第二次世界大戦が勃発し、そのため国連憲章が改めて定められた。国連憲章において国際社会の平和と安全が破壊される違法行為があれば、集団安全保障体制で場合によっては軍事的措置を講ずることも定められた。また国連加盟国は個別的、集団的自衛権の行使が認められている。すなわち現代における戦争を行う原則は以下の通りとなる。
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戦争
戦争においては無制限の暴力が交戦国によって行使されるが、しかし現代の戦時国際法においては「軍事的必要性」と「人道性」の原則がある。軍事的必要性はさまざまな軍事作戦の遂行に不可欠な行動などを正当化する原則であり、一方で人道性とは最小限の人命損失、不要な破壊、文民に対する攻撃、過剰な苦痛などの軍事作戦にとって不適切な行動を禁止する原則である。またこのほかにも戦時国際法においては攻撃目標、戦闘方法、非戦闘員の対応、中立国との関係などが定められており、軍隊の各級指揮官や部隊の戦闘行動を規定している。この戦時国際法を違反することは、国際社会からの非難を受けることや、責任者が戦争犯罪に問われることなどによって処罰されることになり得る(戦時国際法を参照)。 物品・サービスのシェア・覇権争いなどを、現実の戦争になぞらえて「○○戦争」と呼ばれることがある(ビデオ戦争、ゲーム機戦争、ブラウザ戦争、HY戦争など)。
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F-BASIC
F-BASIC(エフベーシック)は、富士通が自社のパソコンブランドであるFMシリーズに搭載したBASIC言語。マイクロソフト系BASICに由来する命令セットを持つ。 当時としては画像や音声を扱う機能が豊富であった。 共通点として、コマンド画面では行ごとにRETURNキーを押さなくても画面上の全変更行が更新されたため、比較的スクリーンエディタ風の編集が出来た。 F-BASIC V1.0/V3.0では、本体内蔵のROM BASICにはフロッピーディスク用の命令等が含まれておらず、ディスク使用時には別売のDISK-BASICを購入して起動時に読み込ませる必要があった。このディスク拡張部分は本体RAMの上位アドレス部分(ROM領域の直前)に展開され、ROM BASICの命令と同じように使用することができた。F-BASIC V2.0以降で拡張された命令も同様の仕組みで実装されている。 後にこの部分の仕様が解析されると、ユーザが独自に新たな命令を定義してBASICを拡張することが可能であることが判明したため、『I/O』(工学社)や『Oh!FM』(日本ソフトバンク)等の専門誌ではユーザやライターらが開発した拡張命令等がほぼ毎月のように掲載されるようになった。 『Oh!FM TOWNS』1992年8月号のアンケートの集計結果によると、FM TOWNSユーザーのF-BASIC386所有率は半数以上に達していた。 特定の機種用の言語であったF-BASICだったが、Windows上で動作するバージョンも登場した。 何度かバージョンアップが行われたものの、Windows XPはサポートされないまま、2006年3月末をもって販売を終了した。最終バージョンは6.3。 従来のF-BASICに近い「手続き型」のほか、Microsoft Visual Basicに近く、WindowsのGUIを使った「イベント駆動型」での開発が可能。
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F-BASIC
何度かバージョンアップが行われたものの、Windows XPはサポートされないまま、2006年3月末をもって販売を終了した。最終バージョンは6.3。 従来のF-BASICに近い「手続き型」のほか、Microsoft Visual Basicに近く、WindowsのGUIを使った「イベント駆動型」での開発が可能。 しかし設計はあまり洗練されておらず、GUIの部品にアクセスするには、ATTACH命令で変数と部品を接続しなければならないうえ、Visual BASICのような「プロパティ」の概念がなく、複雑な名前の命令を呼ぶ必要があるなど、煩雑で扱いにくいプログラムになりがちであった。例としてテキストボックスのテキストを変更するプログラムは、Visual BASICではText1.Text = "Wikipedia"と書くだけで良いのに対して、F-BASICでは以下のように書く必要がある。
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谷山浩子
谷山 浩子(たにやま ひろこ、1956年8月29日 - )は、日本の歌手、シンガーソングライター。本名:中西 浩子(なかにし ひろこ)。 東京都杉並区で生まれ、神奈川県横浜市で育つ。現在の所属プロダクションはヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス (YMEH) 。所属レコード会社はヤマハミュージックコミュニケーションズ。 1962年よりピアノを習い始め、7歳で初めての楽曲「星の夜」を作詞・作曲する。お茶の水女子大学附属中学校、お茶の水女子大学附属高等学校に入学。 中学校時代からキングレコードに曲の持ち込みを始め、ベイビーブラザーズ(後のフィンガー5)のシングル「白い天使」(1970年11月20日発売)B面曲に「ぼくたちの秘密」が採用される(原題は「誰も知らない」)。当時は14歳であった。中学生の頃に作品の持ち込みを始めた理由は、通っていた中学校から走って30秒の所にキングレコードがあり、また知り合いの知り合いがキングレコードのディレクターだったため。 本来は作曲家志望であり、自分で歌うことは想定していなかったが、キングレコードの音楽ディレクターから「自分で歌ってみない?」と言われ、ピアノを弾きながら歌う弾き語りスタイルでレコーディングが行われた。 1972年4月25日、アルバム『静かでいいな 〜谷山浩子15の世界〜』とシングル『銀河系はやっぱりまわってる』をキングレコードからリリースし、最初のデビューを果たす。 1972年10月1日、NHKの「ヤング101」のメンバーとなり、1973年1月からNHK総合テレビジョンの音楽番組『ステージ101』に出演した。番組終了までヤング101に在籍。1974年3月31日に放映された最終回には出演していないが、エンドクレジットには含まれた。 1974年5月5日、第7回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会で「お早うございますの帽子屋さん」が入賞。
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谷山浩子
1972年10月1日、NHKの「ヤング101」のメンバーとなり、1973年1月からNHK総合テレビジョンの音楽番組『ステージ101』に出演した。番組終了までヤング101に在籍。1974年3月31日に放映された最終回には出演していないが、エンドクレジットには含まれた。 1974年5月5日、第7回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会で「お早うございますの帽子屋さん」が入賞。 第7回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会で入賞する以前に、オレンジ猫(谷山のエッセイ集『おとめちっく・サラダ・たいむ』では おれんじ猫と表記)という音楽デュオを友人と結成、楽曲「忘れもの」で出場し、関東甲信越大会まで進出した。オレンジ猫は、谷山浩子(ピアノ、作曲)と友人(ヴォーカル、作詞)からなるデュオであり、当時のコンテスト審査員に荒井由実がいた。出番終了後に「ユーミンがオレンジ猫を好評価していた」と伝え聞いたときのエピソードを後に谷山は回想している。オレンジ猫は健闘するも敗退したため、残りの日程は谷山がソロ名義でコンテスト参加を続行したという。 以下、第7回ポピュラーソングコンテスト関東甲信越大会パンフレットより時系列で記載。 1981年のアルバム『時の少女』から3作にわたり橋本一子が主な編曲を担当し、そうした機運の中で出逢ったのが石井AQである。石井は1985年のアルバム『眠れない夜のために』をプロデュース。以降現在に至るまで大部分のアルバムのプロデュースや編曲、コンサートやライブのサポートを務める共同作業者として活動をともにしている デビュー後は音楽活動と並行して著述活動も続け、1979年に初の童話集『谷山浩子童話館』を刊行。1983年には八曜社から初のエッセイ集『悪魔祓いの浩子さん』を刊行した。 1982年からはニッポン放送『オールナイトニッポン』木曜2部のレギュラーを担当し、ラジオパーソナリティとしても人気を博す。 1985年にはNHK『みんなのうた』で「恋するニワトリ」「まっくら森の歌」が放送された。NHK『みんなのうた』ではそのほか、「しっぽのきもち」「おはようクレヨン」「空のオカリナ」「そっくりハウス」などが放送された。これらの作品を幼少時から視聴していた人々からは今なお根強い人気があり、『みんなのうた』の特番が組まれると決まって取り上げられる作品群である。
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谷山浩子
1985年にはNHK『みんなのうた』で「恋するニワトリ」「まっくら森の歌」が放送された。NHK『みんなのうた』ではそのほか、「しっぽのきもち」「おはようクレヨン」「空のオカリナ」「そっくりハウス」などが放送された。これらの作品を幼少時から視聴していた人々からは今なお根強い人気があり、『みんなのうた』の特番が組まれると決まって取り上げられる作品群である。 世間に知られている作品は存在するものの大ヒット曲はなく、故に「売れない歌手」を自称しているが、その中でヒットチャートに上ったのは斉藤由貴への提供作品群である。1986年に「土曜日のタマネギ」「MAY」(両曲とも作詞を担当)などがヒットした。 アニメーション関連の作品では、宮崎駿監督のアニメ映画『未来少年コナン・劇場版』の主題歌『愛をもう一度 / なつかしい朝』(歌:研ナオコ)を提供し、1979年8月5日に7インチシングル盤として発売された。また、スタジオジブリ制作の『ゲド戦記』挿入歌、『コクリコ坂から』挿入歌など宮崎吾朗監督作品にも携わっている。 初代PC-8001(1979年発売)の時代からパソコン(当時は「マイコン」と呼ばれていた)に触れているというパソコンマニアとしても知られており、『Oh!FM』→『Oh!FM TOWNS』(日本ソフトバンク)、『PCfan』(毎日コミュニケーションズ)など複数のパソコン雑誌でエッセイを長期にわたり連載した。1989年には『コンプティーク・ソーサリアンシナリオコンテスト』の審査員、1992年には『パソコンアート・コンテスト』(主催:日本電気)の審査員を務めたことがある。また、PC-9801用のアドベンチャーゲーム『TADL』にも関わっている。1998年には初のCD-ROM『それゆけ!マル廃ゲーマーズ』を発表した。
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谷山浩子
1986年よりアスキー実験ネットなどでパソコン通信を初体験。パソコン通信で「谷山浩子」のハンドルネームを用いて発言していたところ「谷山のファンが谷山の名前を名乗っている」と勘違いされ、「うちは実名主義ですから、ニックネームを使うのはやめてください」と警告されたことがあるという。1992年にはNECの商用パソコン通信ネットワーク「PC-VAN」で、日本初となるパソコン通信での小説連載を開始した。インターネットの普及以降も、ブログや動画サイト、Twitterなどを音楽活動と趣味に積極的に活用している。 1987年から、一般の個人・団体が主催者となる「101人コンサート」を開始する。第1回開催は東村山市中央公民館であった。翌1988年からは青山円形劇場での「101人コンサートスペシャル」を開催。青山円形劇場では毎年秋(1994年 - 2001年は隔年)にスペシャル公演を開催した。「101人コンサート」は、収容人数が100人から300人程度の会場で「電気と屋根がある場所ならどこでも」というコンセプトで、石井AQ(シンセサイザー)と2人で2001年まで全国各地で開催し、14年間で公演開催数が300以上に達した(青山円形劇場でのスペシャル公演を含む)。1997年にはデビュー25周年を迎え、第300回「101人コンサート」をBunkamuraオーチャードホールで開催した。 2002年にはデビュー30周年を迎える。以降は、青山円形劇場公演に代わるものとして「猫森集会」が新宿の全労済ホールスペース・ゼロで開催され、同時に全国を回るピアノソロツアー「谷山浩子ソロライブ」も行われている。なお、従来ファンクラブのイベントの名称として「ねこ森集会」が使われていたが、こちらは「ねこ森集会 Limited」と改称している。 1997年4月から約2年間、ヤマハ音楽振興会の関連会社でファンクラブの運営や物販事業など営利事業を行っていた株式会社常磐を所属事務所としていた。2000年にヤマハによってヤマハミュージックコミュニケーションズが設立された際、中島みゆきらと共に同社へ移籍する。
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谷山浩子
1997年4月から約2年間、ヤマハ音楽振興会の関連会社でファンクラブの運営や物販事業など営利事業を行っていた株式会社常磐を所属事務所としていた。2000年にヤマハによってヤマハミュージックコミュニケーションズが設立された際、中島みゆきらと共に同社へ移籍する。 2012年にはデビュー40周年を迎える。これを記念して、同年から翌2013年にかけて、かねてからライブのゲストとして出演することが多かったROLLYとの共作でアルバムを発表、東京・東京国際フォーラムと大阪・サンケイホールブリーゼにて特別公演を開催、『谷山浩子40周年記念百科全書』の発売、オールナイトニッポンモバイルの開始、『オールナイトニッポン45周年記念45時間スペシャル』(2013年2月23日(土) 28:00-29:00)へ出演するなど、様々な企画が行われた。 若い頃、歌手活動で最も苦手だったのは観客の前で唄うライブやコンサートであったが、30歳を超えてから次第に慣れていき、ライブが楽しく、観客を楽しませる余裕もできたと述べている。 1996年に結婚したが、2019年に夫と死別。翌2020年には乳がんと診断され、同年9月から治療を開始したため、2021年春頃までのコンサートの開催を見送った。 2019年には、NHK『みんなのうた』で「花さかニャンコ」が放送された。2020年12月11日からYouTube公式チャンネルで「谷山浩子のSORAMIMIラジオ」の配信を開始した。 独特の幻想的作風を特徴としており、現実離れした内容の歌詞が多い。また、楽曲制作だけに留まらず幻想的小説も多数執筆、並行して小説と内容がリンクした同名の歌を制作するなど、個人で今で言うメディアミックス作品も制作しており、統一された世界観に裏打ちされた作品が特徴である。 作家としてはファンタジー作品を発表し続けており、ジュブナイル的な作品が多い。メルヘン的な文体で甘やかな印象があるが、文芸評論家の石堂藍は「作品の内実を窺うと、心理学的象徴や夢への傾倒が強く見られる」と述べ、谷山が付けている夢日記の影響を指摘している。アマチュアに徹することで、余分なものを豊かに持つ谷山ならではの世界を描いている。
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谷山浩子
作家としてはファンタジー作品を発表し続けており、ジュブナイル的な作品が多い。メルヘン的な文体で甘やかな印象があるが、文芸評論家の石堂藍は「作品の内実を窺うと、心理学的象徴や夢への傾倒が強く見られる」と述べ、谷山が付けている夢日記の影響を指摘している。アマチュアに徹することで、余分なものを豊かに持つ谷山ならではの世界を描いている。 ポニーキャニオン時代に発売された『ねこの森には帰れない』から『僕は鳥じゃない』までのアルバム25作はその大半が長らく入手困難となっていたが、2011年に紙ジャケットシリーズとしてヤマハミュージックコミュニケーションズから全作、再発売された。特にオリジナルがLP盤だったタイトルは、当時の装丁を忠実に再現し制作されている。音源のリマスタリングはされていないものの、全てBlu-spec CD規格が採用されている。プレ40周年企画の一環であり、“全25作購入でもれなく『オリジナル特製BOXプレゼント』がもらえる応募券” が封入されていた。 2006年にはスタジオジブリ製作の映画『ゲド戦記』の挿入歌『テルーの唄』の作曲を行った。 1971年頃、創価学会よりソノシートで作品をリリース。以下は確認できたタイトル。 このうち、『悲しみの時計少女』『電報配達人がやってくる』は、NHK-FMの番組『サウンド夢工房』にてラジオドラマ化された。『悲しみの時計少女』は『サウンド夢工房』以降、後番組である『青春アドベンチャー』で2回再放送されるほどの人気を博している。 「谷山浩子\HIROKO TANIYAMA」は、ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングスによって商標として登録されている。
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OASYS
OASYS(オアシス)は、富士通の神田泰典らによって開発された、日本語ワードプロセッサ(以下ワープロ)専用機およびワープロソフトの名称であり、「Rupo」(東芝)、「書院」(シャープ)、「文豪」(NEC)と並んで日本語ワープロ専用機の4大ブランドの一角であった。現在、個人向け・法人向け共に販売は終了しており、サポートも順次終了する。 本項ではOASYSを含むオフィススイートであるOASYS SuperOffice(オアシス スーパーオフィス)やビューアであるOASYS Viewerについても記述する。 OASYSは特にプロユースにおいて大きなシェアを誇り、他社製品と比較して仕様の個性が強かった。その強い個性故、ワープロを評する場合はOASYS対それ以外という視点になりがちで、実際にはシェアが第1位であったにも関わらず、「OASYS使用者は少数派」という矛盾したイメージを抱く者も多かった。 以下に特徴を列記する。 OASYSでは親指シフトキーボードと呼ばれる独自開発のキーボードを採用した(旧JIS配列や新JIS配列、また50音順配列の製品もある。親指シフト配列のパーソナルワープロ製品に、50音順マスクという付属品を付けた時代《OASYS Lite S ~ F-ROM8 の約三年間)》もある。50音順マスク廃止後は、代わりにかなサーチが搭載された)。他社も日本語ワープロ黎明期には様々な入力方法を模索したが、OASYS以外は速やかに(旧)JISキーボードに収束した。その中で親指シフトキーボードを採用し続けたOASYSは異彩を放っていた。 一般的なワープロは、1行目から文字入力が基本であるが、OASYSは任意の場所へカーソルを移動して自由に文字入力ができた。 他社が文法処理の高度化・漢字変換の自動化を積極的に進めたのに対して、OASYSは消極的であった。 日本語ワープロの先駆けとなった東芝のJWシリーズではワープロ販売初期の日本語ワープロであるJW-10の時点ですでに単文節変換を実現していたのに対し、OASYSは後発にもかかわらず一号機であるOASYS100では単語変換のみとし、その後の製品でも単文節変換を基本とした。後に他社との競合上複文節変換をサポートはしたものの、単文節変換のみに切り替える設定を残し続けた。
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OASYS
日本語ワープロの先駆けとなった東芝のJWシリーズではワープロ販売初期の日本語ワープロであるJW-10の時点ですでに単文節変換を実現していたのに対し、OASYSは後発にもかかわらず一号機であるOASYS100では単語変換のみとし、その後の製品でも単文節変換を基本とした。後に他社との競合上複文節変換をサポートはしたものの、単文節変換のみに切り替える設定を残し続けた。 単文節変換では他社製品で起こりがちだった文節の区切り間違いが原理的に発生しなかった。また、複雑な文法処理をしないことと相まって奇天烈な誤変換をしにくい利点をも生んだ。これを指して愛用者は「OASYSは日本語として無意味な変換をしない」と評した。しかし、使い込まなくては理解できない利点であり、カタログスペックでは見劣りした。 また、学習機能も単純で、単に直近に使用した語が第一候補になるものであった。他社製品では文脈や長期的な使用頻度への配慮が裏目に出て「先ほどと同じ語を変換したのになぜか違う漢字が出てくる」ことがあったが、OASYSではそのようなことは基本的に無かった。同音異義語がある語であっても「先ほど変換して正しい候補を選んだ」記憶があれば変換結果を確認する必要がなく、慣れればキーはおろか画面すら時々しか見ずに原稿に集中できる操作が可能であった。 後には複文節変換をサポートし、「AI辞書」と称する文法処理もするようになったが、積極的に宣伝することは無かった。カタログで高度な文法処理を誇らしげに謳う他社とは対照的であった。複文節変換は操作性が練り込まれておらず、他社との対抗上一応搭載しただけのように感じさせるものであったため、単文節変換に切り替えて使う者も多かった。 上記のごとく複雑な文法処理をしない方針と併せて、変換キーを押さずともキー入力の時点で辞書を先読みすることにより、初期の製品でも十分に高いレスポンスを示した。どんなに速い操作をしても正しい操作である限り必ず追随してくることによりオペレータは安心して操作に専念できた。 他社のワープロが現在のパソコンと同じ挿入モードを速やかに採用したのに対し、OASYSは挿入モードの採用が遅れた。しかし、OASYS の上書きモードは独特の書き味を持つため、根強い愛好者がいる。
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OASYS
他社のワープロが現在のパソコンと同じ挿入モードを速やかに採用したのに対し、OASYSは挿入モードの採用が遅れた。しかし、OASYS の上書きモードは独特の書き味を持つため、根強い愛好者がいる。 いわゆる罫線モードへの移行なしに、いきなり機能シフト+矢印キーで一筆書きのように罫線を引ける。失敗した場合も機能シフト+シフト+矢印キーで消しゴムのように消せる。だからあらかじめ表の全体が頭に浮かんでなくても、下書きしながら表を作っていくことができる。OASYSの罫線機能は直観的な分かりやすさから支持者が多く、テキストエディタのマクロで操作法を模倣したものが多数ある。取っつきが良い反面、OASYSの罫線は行間罫線ではなく文字罫線であり、見栄えが間延びするのを嫌う場合は、表の作成後に行間を半分に設定するという、良くも悪くも場当たり的な対処法が取られる。 罫線機能のキー操作はOASYS/winでも継承された。そのため一般的なWindowsアプリケーション、及びMS-DOS時代からのMicrosoftのアプリケーションでは「Shiftキー + 矢印キー」でカーソル位置からの「範囲選択」になるのに対し、OASYS/winでは罫線を引くことになった。利用者が勤め先企業でのみで富士通製のPC上で富士通製のアプリケーション(主にOASYS)を使用しているならば問題とならないものの、自宅でもPCを保有しているようなユーザーだと、Windowsの「共通インターフェース」「共通操作」が通用せず、自宅より勤め先の方が作業効率が落ちるという現象が生じた。 Microsoft Wordのようなスタイルシートベースの文書の構造化を志向するワープロに対して、日本のワープロ専用機は場当たり的な操作体系を特徴とするのであるが、それゆえ凝った文書を作ると全体の手間数が増える(たとえば見出しの変わり目で左端設定(インデント)などを設定し直さねばならない)のを見越したように、豊富な機能キーで機能を一発で呼び出せるよう配慮がしてある(ゆえに文書作成中に画面がメニューで埋まってしまうことが無く、文書作成に集中できる効果もある)。あまり頭のよいやり方ではないかもしれないが、OASYSの支持者の多くは、テキストエディタの延長のような愚直な身軽さを好んだのである。
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OASYSでは書式設定をするのに1ページ目で「前頁」キーを押すと現れる「0ページ」と呼ばれる画面を使った。 OASYSは日本語ワープロとして先発ではなかった。OASYS一号機であるOASYS100は、ワープロ販売初期の日本語ワープロである東芝JW-10(1978年9月)に遅れること2年近く、1980年5月に発表された。当時はすでに東芝とシャープが製品を販売しており、発表だけならば他にも数社がしていた。 後発にも関わらず堅実な機能と低価格でビジネス市場でシェア第1位を獲得した。初めて100万円を切る価格を打ち出した My OASYS(1982年)はイメージキャラクターに高見山を起用。またキャッチコピーは「ザ・文房具」とし、体の大きな高見山関との対比したコンパクトさや親しみやすさが強調された。また日本語ワードプロセッサの略語として「ワープロ」という言葉を広告の中で用いて、この言葉が一般に定着するきっかけとなった。 OASYS 300A(1988年)は本格的なDTPソフトを内蔵した。 2機種しか発売されなかった OASYS 30 直系機。ハードディスク(IDE)搭載モデル。一部を除き FMRシリーズ と互換性がある。搭載されている CPU は VM technology VM865C110HL-V16 (80286互換) である(そのほか周辺機器制御用に RICOH RU6102MF や AMD N80186 が登載されているロットもある)。液晶パネルに致命的な欠陥を抱えているため(ビネガーシンドロームが発生しやすい)、直射日光を避け、キーボードを開いた状態で暗室かつ風通しの良い低温・低湿環境での保管が推奨される。 OASYS 40AP は OASYS 30AP-101 のビジネスモデルである。ハードディスク容量は 170MB へ増量された。最後のトランスポータブル機(AS はボックス型)であり、最後の TYPE-W 型インクリボン対応機でもある。 MS-DOS は別売り。
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OASYS 40AP は OASYS 30AP-101 のビジネスモデルである。ハードディスク容量は 170MB へ増量された。最後のトランスポータブル機(AS はボックス型)であり、最後の TYPE-W 型インクリボン対応機でもある。 MS-DOS は別売り。 OASYS 40AS は 40 シリーズの最終機であり OASYS 40 AP から内蔵プリンターおよび関連ソフトウェア機能(名刺メーカー、文例集の一部、特殊印刷、別売りのPCプリンタサポートなど)を非搭載にして MS-DOS 3.1 と PCサーバ連携をプリインストールした LAN (NetWare) 対応モデル(使用には専用 LAN カード OACFC-601 および MARS_NWE などの NetWare 互換サーバーが必要)。メインボードと外装、システム以外は 40APと共通部品である。キートップに MS-DOS (従来機では用紙送りのキーに対応する位置) の標記がありメニューからワンタッチで MS-DOS が起動できる。SRAM カードに MS-DOS をインストールできるため、復旧用システムデータがあれば OASYS Pocket シリーズの復旧にも使用できる。末期まで販売された 40AP とは対照的に生産期間は1年と短いためか、中古市場ではほとんど流通してない希少機でもある。 説明書がない場合は「拡張機能+シフト+文末」を押すことで、使い方ガイド(オンラインヘルプ)を表示でき、40AP ではハードコピー機能を使うことで簡易的な説明書を手に入れることも可能である。 家庭用ワープロの市場にも積極的に進出した。大胆な機能削減で22万円という当時としては画期的な低価格を実現したOASYS Lite(1984年)のような低価格攻勢で、家庭用市場でもシェア第1位を獲得した。
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説明書がない場合は「拡張機能+シフト+文末」を押すことで、使い方ガイド(オンラインヘルプ)を表示でき、40AP ではハードコピー機能を使うことで簡易的な説明書を手に入れることも可能である。 家庭用ワープロの市場にも積極的に進出した。大胆な機能削減で22万円という当時としては画期的な低価格を実現したOASYS Lite(1984年)のような低価格攻勢で、家庭用市場でもシェア第1位を獲得した。 OASYS Liteは液晶8文字という極端に小さなディスプレイで、他社からは「おもちゃ」「ワードプロセッサ(文書処理機)とは言えない」と評されたが、市場には受け入れられた。富士通が当初称していた「日本語電子タイプライタ」としては OASYS Lite の機能で十分であった言える。実際、打った文字をその都度印字していく「逐次印刷」の設定での動作はまさにタイプライタそのものだった。CM展開は、女優の秋吉久美子が同機を持ってアメリカの砂漠を行くというもので、キャッチコピーは「思わず言葉でカメラしました」。可搬性とパーソナル製、リアルタイム入力機械であることを強調し、当時一部に残っていた「ワープロは清書機械」というイメージを払拭しようとした。 OASYS Lite M2 はOASYS Lite M の後継機である。この機種唯一かつ最大の特徴としてTV出力アダプタ F1160EA2 が使用できることである。このオプションを利用することで編集画面をテレビへ表示できるようになる。当時、ワープロ専用機でもテレビ出力へ対応したものはわずかに存在した。 OASYS Lite F・ROM7 / F・ROM9(1986年)で機能拡張用にICメモリカード(「F・ROMカード=フロムカード」)を採用した。このカードはPCMCIAの規格発行以前のもので、現在のPCカードとは形状が異なる(セガマイカード、Huカードと同様の形状)。 OASYS Lite Quirin (1987年) は女性用ワープロとして開発された限定三百名にのみ懸賞品として提供された非売品モデル。OASYS Lite K と基本仕様に類似点がある。親指シフトキーボード単体として見ると、この機種以降ではピンクとブルーの配色を採用したものは存在しない。本機のデザイナーは François Quirin である。
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OASYS Lite Quirin (1987年) は女性用ワープロとして開発された限定三百名にのみ懸賞品として提供された非売品モデル。OASYS Lite K と基本仕様に類似点がある。親指シフトキーボード単体として見ると、この機種以降ではピンクとブルーの配色を採用したものは存在しない。本機のデザイナーは François Quirin である。 OASYS 30AF(1986年)は把手が着いて電源コードも掃除機のように本体内に収納できる縦型の「トランスポータブル」デザインで、ニフティサーブへアクセスするパソコン通信機能を装備。「ワープロ通信」と呼んでいた。30AFに始まる30シリーズのワープロ通信機能メニューからは、MS-DOSプロンプトに降りることが出来た(別途、オプションが必要)。機種によりBIOSに細かい差異があるが、おおよそFMR互換であったので、FMR用のソフトがわずかな修正で走った。30シリーズのICカードは Type II のPCカードの初期の規格と互換性があり、市販のSRAMカードがほぼ使えた。フラッシュメモリは使えない。 OASYS 30AFIII (1988年) は OASYS 30AFII の後継機でありAFシリーズの最終機である。後の OASYS のリファレンスモデルの一つともなった。後の機種と比較すると、機能や動作速度は劣る面は多いがキーボードの作りはかなり良いものとなっている (構造は板バネ+フレキシブル基板)。この機種では OASYS Lite で記録されたカセットテープの文書をフロッピーディスクへメディアコンバートするためのオプションが用意されている。この機種に限らないがシステムに仕様の不具合 (年号の切り替えに非対応、2000年問題非対応) があり皮肉にもシステムの時間は永遠に昭和のままである。この不具合は西暦の下二桁を和暦見なして時刻設定を行い、文書中の年号を手作業で書き換えることである程度は回避可能である。 OASYS 30LG-101 は実験的なモデルであり、操作体系の刷新を図ったが当時は賛否両論であった。この成果は OASYS LX の千番台へ引き継がれる。
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OASYS
OASYS 30LG-101 は実験的なモデルであり、操作体系の刷新を図ったが当時は賛否両論であった。この成果は OASYS LX の千番台へ引き継がれる。 OASYS 30AX-CD は 30シリーズ唯一のCD-ROMドライブ標準搭載機(ほかの機種は検索ソフト、接続ケーブル、CD-ROMドライブは別売り品)であり、EPWING 形式 CD-ROM 辞典としてワードハンターが標準添付されている。また、この機種にしか搭載されなかった機能としては、本格的なグラフィックスを使用したビジュアルメニューがある(作業内容を Working Time / Personal Time / Creative Time / Setup Time の四大別したアイコンで表示し、選択後にリストメニューで行いたい作業を選ぶ)。 30AXIIやAX-CDではDTP機能がオプションで用意された (AX-301 / SX-301 は標準搭載)。 後継の30AX301・401(CRTモデルの30SX301・401やラップトップモデルの30LX651を含む)ではDTP機能が標準搭載された。ただし、その後の機種には搭載されなかった。 30AP101(1994年5月発表)では、パーソナル向けモデルとしては記憶媒体としてハードディスクが初搭載された。 PDAとしての機能を持ったポケットサイズワープロである。 1991年に初代のOASYSポケットが商品化された。印刷機能はオプション(印刷カード別売り)であった。 OASYS Pocket 2で印刷機能が標準内蔵され、OASYS Pocket 3(1994年)でMS-DOSモードが内蔵された。 なお、OASYS Pocket 3 の解像度は公開されていないが、実際のところ HP200LX と同じく 640×200 (モノクロCGA相当) である。 OASYS 35DX-101(1993年)はDOS/Vが正式サポートされた。 PC/AT互換機としてハードウェアのコストを削減し、また OASYS 48V の一部機種でWindows 3.1を採用するなど、PCとの融合路線をアピールした。
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なお、OASYS Pocket 3 の解像度は公開されていないが、実際のところ HP200LX と同じく 640×200 (モノクロCGA相当) である。 OASYS 35DX-101(1993年)はDOS/Vが正式サポートされた。 PC/AT互換機としてハードウェアのコストを削減し、また OASYS 48V の一部機種でWindows 3.1を採用するなど、PCとの融合路線をアピールした。 OASYS Vシリーズ(1994年)では、30AXシリーズのような外観のモデルの他、FMVと共通の筐体を持つモデルも登場し、ハードウェアの差異は、キーボードとハードディスクの領域の一部をOASYS区画としている程度であった。 1989年3月にOASYS30シリーズのラップトップモデルとして、OASYS 30LXが登場し、その後、LXシリーズは普及機の主力シリーズに成長した。 LX-3000(1994年)は、ワープロで初めてタッチパネルのユーザインタフェースを搭載し、注目を集めた。以後、この「ゆびタッチ」操作を活用した機能が次々と登場し、ワープロ専用機の枠をはみ出して行くことになる。 LX-2100/3100/3100C(1995年)で液晶画面がVGA相当の縦480ドットに拡大。3100CではDSTNカラー液晶も搭載された。 LX-3500T/3500CT(1995年)ではカラースキャナを搭載し、特に3500CTにおいてはカラー液晶との相性が非常に良く、官製ハガキによる挨拶状(年賀状や暑中見舞いなど)の作成が一気に身近になったため、LXシリーズの中でも屈指の人気商品となった。 LX-4500NT(1996年)で「ゆびタッチ」操作のウェブブラウザを搭載。「タッチインターネット」と称していた。しかし、当時の普及価格帯ワープロ専用機では快適なWebブラウズは難しく、販売も振るわなかった。 その後も、BOXタイプの「Mariott(マリオット・1996年)」、スーパーディスクドライブを搭載した「LX-6500SD(1997年)」「LX-7500SD(1998年)」、Webブラウズ機能とカラー印刷機能を強化した「LX-9500SD(1998年)」など、コンスタントに製品を発売した。
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その後も、BOXタイプの「Mariott(マリオット・1996年)」、スーパーディスクドライブを搭載した「LX-6500SD(1997年)」「LX-7500SD(1998年)」、Webブラウズ機能とカラー印刷機能を強化した「LX-9500SD(1998年)」など、コンスタントに製品を発売した。 LX-S5000 (1999年) は LX-9500SD の後継機である。ゆびタッチ対応最終機種。スーパーディスクが廃止され、コードレスカラースキャナ搭載、システム全般の動作速度向上などが行われた。なお、システム・版数アップディスクを紛失していても、補助メニューから作成可能となった(2HDフロッピーディスクが一枚必要)。 また、ハイエンド機種と併せて「LX-B110(1997年)」「LX-C300(1998年)」といったスタンダード機種も発売した。OASYSワープロの最終機種は「LX-C700(2000年)」である(2000年11月生産終了)。 基本的に、LX-6500SD以降に搭載されている CPU は AMD Am486 DE2 (DX2からライトバックキャッシュを削除したもの)である。 LXシリーズの末期モデルでは順次入力 (シフトロック) が廃止されているため、怪我などで片手で打たざるを得ない利用者の機種移行には注意が必要である。 パーソナルコンピュータが高性能化するに従いワープロソフトという競争相手との戦いで劣勢に立たされ、次第に販売量を落としていき、2001年2月には、ワープロ専用機の生産中止を発表した。 2008年5月には、印刷用リボンカセットの販売も終了している。 OASYSシリーズの操作性をできるかぎり忠実に再現したワープロソフトとして販売されている。富士通製パソコンであるFMRシリーズやFM TOWNSシリーズで動作するワープロソフト「FM-OASYS」として商品化され、現在のWindowsをプラットフォームとするワープロソフトOASYSにつながっている。
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OASYS
2008年5月には、印刷用リボンカセットの販売も終了している。 OASYSシリーズの操作性をできるかぎり忠実に再現したワープロソフトとして販売されている。富士通製パソコンであるFMRシリーズやFM TOWNSシリーズで動作するワープロソフト「FM-OASYS」として商品化され、現在のWindowsをプラットフォームとするワープロソフトOASYSにつながっている。 PC-9800シリーズの独走を止めるべく投入したFM-16βが商業的に失敗し、再起を図ったFMRシリーズの全機種共通の柱の1つとして、ワープロ専用機市場におけるOASYSの優位が活用された。MS-DOSのFEPにOAK(オアシスかな漢字変換)が標準装備され、キーボード配列もOASYSと親和性を持たせてあり、そしてワープロソフトFM-OASYSが用意された。 多くの機種でフロッピー版とハードディスク版があった。高機能化により、フロッピー版は容量の制限から印刷などの作業のたびにフロッピーを交換せねばならず大変不便であった。FMRノートのようにROMカードで提供される機種もあった。ちなみに、FMRノートは、フロッピーディスク版の利用もできた(ハードディスクにインストールして利用)。FM TOWNS版はTownsOSではなくFMR-50互換の16色モードで動作し、FM TOWNSに内蔵された辞書ROMを活用するが、MS-DOS上のOAKよりユーザー辞書が強化されていた。 ファイル形式もMS-DOSと異なる独自のものであり、半角8文字までというMS-DOSの制限にとらわれず、OASYS専用機と同様、日本語で長い文書名を付けることができた(文書名を付けないと自動的に1行目が文書名になる)。反面、ハードディスク上にMS-DOSからアクセスできない独自の区画を設定する必要があった。 Windows版OASYSの歴史はFMVよりも古い。家庭市場を狙ったFMVデスクパワーの登場により、OASYS/Winプレインストールモデルが用意された。 FMVのデスクトップ機は台湾メーカー製のマザーボードを採用した機種が多いが、OASYS専用機のフロッピーを読み書きするために、FDDのコネクタとケーブルを制御線が1本多い独自仕様とし互換性を確保していた。 富士通以外でもOASYS専用機のフロッピーが読める機種が一部確認されている。
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