title
stringlengths 1
208
| text
stringlengths 1
32.1k
| passage_id
int64 5
4.87M
|
---|---|---|
自転車
|
自転車は標識で通行を認められた歩道を除き、車道の左側を走ると定められており、車道の右側および認められていない歩道を走行すると「逆走」ということになり道路交通法違反である。2016年12月には自転車活用推進法が制定され、これに伴いさまざまな施策が立案されている。
都市部では公共交通機関が発達している一方、自動車優先の交通政策が敷かれ、自転車が交通手段として明確に位置づけられていなかった。
自転車による移動は生物と機械の両方の中で、その移動に要するエネルギーの量に関して突出して効率的であり、人間がある距離をある速度で移動するのに必要なエネルギーの量で比べると自転車は徒歩の5分の1に過ぎないという定説がある。1950年代の中期に、現在の「財団法人自転車産業振興協会自転車技術研究所」の前身にあたる「自転車生産技術開放研究室」がまとめた研究により、この数値はおおむね正しいことが確認された。この際には、被験者の呼気に含まれる二酸化炭素の量から消費カロリーを推算する手法が用いられた。
こうした数値を基に、一般的な自転車で1kgの物体(車体を含む)を1km移動させるのに必要なカロリーは、おおよそ自動車の6分の1、ジャンボジェット機の4分の1程度しか必要ないとの試算もある。
自転車で1時間でどれだけの距離が走れるかについて競い記録を残すHour recordというものがある。
瞬間的な速度の記録に関しては、平地単独走行で全風圧を受けての最高速度の記録は、2013年12月6日、メキシコのアグアスカリエンテス・二百周年自転車競技場(Velódromo Bicentenario)でフランス人フランソワ・ペルヴィがUCIトラック自転車競技ワールドカップ・メキシコ大会のスプリント予選(200 mフライングタイムトライアル)で出した世界記録9秒347は速度換算では77.03 km/hとなる。これがユネスコ所管の唯一公式にしてサイクリストが全風圧を受ける通常形態の安全型自転車による最速記録といえる。
| 1,526 |
自転車
|
機材の形態にとらわれない記録挑戦では、2015年9月19日、米国ネヴァダ州バトルマウンテン(Battle Mountain)郊外の一時的に閉鎖した公道でカナダ人トッド・ライカート(Todd Reichert)がタイヤ接地面のみわずかに開口したストリームラインボディのリカンベント Eta で達成した139.45 km/hがヒト一人のみの出力による最高速度記録であった。Etaは極めて低い位置に仰向いて座り前輪を両脚で挟むように前端のクランクを回すため、後輪駆動は構造上ほぼ不可能で前輪駆動を採用している。また前を見通す視界はなくカメラ映像に依存する。2016年9月19日、同地、同プロジェクトによって記録は144.17 km/hに更新された。
世界各国に自転車メーカーが存在し、多くの自転車が製造されている。
2009年には全世界で一年に1億3000万台の自転車が販売され、そのうちの66%が中華人民共和国で製造された。ただし世界最大の自転車メーカーは台湾に本社があるジャイアント・マニュファクチャリング(GIANT)であり、2014年の統計によると この一社だけで世界の自転車製造の10%を占めており、およそ600万台を製造した(同社は台湾、オランダ、中華人民共和国、ハンガリーに製造所を所有している)。その他ジャイアントに次ぐ世界大手の名を挙げるとメリダ・インダストリー、ドレル en:Dorel Industries(カナダに本社があり、キャノンデールブランドを抱える)、アクセルグループ(en:Accell。オランダの自転車メーカー)を挙げることができる。自転車の部品にも焦点をあてると、シマノが最大手である。
2011年には、世界の自転車市場の規模は610億ドルにのぼった。
欧州諸国の中ではポルトガルが最大の製造国で、2020年の統計で およそ260万台を製造した。
自転車メーカーの一覧は別記事「自転車メーカー一覧」が参照可能である。
日本国内で販売される自転車についての統計資料は(日本の)自転車産業振興協会が集計しており、その資料によると、日本で販売された自転車は2021年の1年間でおよそ689万台で、そのほとんどは輸入されている。
| 1,526 |
自転車
|
欧州諸国の中ではポルトガルが最大の製造国で、2020年の統計で およそ260万台を製造した。
自転車メーカーの一覧は別記事「自転車メーカー一覧」が参照可能である。
日本国内で販売される自転車についての統計資料は(日本の)自転車産業振興協会が集計しており、その資料によると、日本で販売された自転車は2021年の1年間でおよそ689万台で、そのほとんどは輸入されている。
自転車の製造は、自転車のフレーム自体やボールベアリング、ワッシャー、スプロケットなどの特別な部品の両方に高度な技術を必要とするため、金属加工技術の進歩を促し、他の高度な産業にも影響を与えた。これらの製造を通じて熟練した金属加工技術を身に付けた労働者は、初期の自動車や飛行機の開発に大きな役割を果たした。また、自転車製造業は機械化や大量生産(のちにフォード・モーターやゼネラルモーターズも採用した)、垂直統合(のちにフォードも採用した)、積極的な広告(1898年の米国の雑誌のすべての広告のうち10%は自転車メーカーが占めていた)、道路改善のためのロビイング(などいくつもの産業モデルを開発し、他の産業に伝授する役割を果たした。また、自転車産業は年間のモデルチェンジを初めて採用、この方式はゼネラル・モーターズにも受け継がれ、大成功をおさめた。
初期の自転車は、ファッショナブルなエリートによって財力を誇示するために消費されるもののひとつであった。そのため、例えばバービー人形などの着せ替え人形において人形本体より着せ替え用の服などのアクセサリがよく消費されるように、自転車それ自体よりもそれにつけるためのカスタムパーツのの消費が多くなることがあった。
自転車の普及によって自転車メッセンジャー、自転車教室などの新たな職業が生まれ、また自転車レースも開催されるようになった。自転車レースの形態はのちにオートバイレースや自動車レースへとつながっていった。
| 1,526 |
自転車
|
自転車の普及によって自転車メッセンジャー、自転車教室などの新たな職業が生まれ、また自転車レースも開催されるようになった。自転車レースの形態はのちにオートバイレースや自動車レースへとつながっていった。
初期の自動車や飛行機の開発者には自転車によって機械製造の基礎を身に付けたものが多く、飛行機を発明したライト兄弟もオハイオ州デイトンの自転車屋であった。いくつかの自動車メーカーは自転車メーカーから成長してきたものである。イギリスのローバーは1878年にStarley & Sutton Co. of Coventryとして創業したときは自転車メーカーであり、1901年に自動車の製造を開始した。同じくイギリスのモーリスも1910年の創業時は自転車メーカーであり、1913年に自動車メーカーとなった。チェコのシュコダもオーストリア=ハンガリー帝国時代の1895年にラウリン&クレメント社として創業したときは自転車メーカーで、自動車業進出は1901年のことであった。また、日本の本田技研工業は自転車メーカーではなかったが、自転車に搭載するモペッド用の補助エンジン制作からスタートして世界有数の自動車メーカーとなった企業である。
| 1,526 |
自動車競技
|
自動車競技(じどうしゃきょうぎ)は、モータースポーツにおいて自動車を用いて行われる競技。ほとんどが競走競技で、それらを「自動車レース」や「カーレース」(英: auto racingやcar racingなど)とも呼ぶ。
一般に「自動車レース」や「自動車競技」と言う時の「自動車」は一般的呼称の「自動車」つまり四輪(あるいは6輪 - 8輪、一部三輪)の自動車のことであり、日本の交通行政用語(道路交通法用語)の「自動車」ではない。
英語でも二輪車とサイドカーの競技は「Motorcycle racing」と呼び分けられている。
「自動車レース」や「自動車競技」は、自動車を用いたレース(競走、競技)を指す。
自動車競技の大半は「時間」を競う競技である。定められたコースを最も短いタイムで走りきった者か、あるいは一定時間(24時間など)の間に最も長距離を走りきった者か、レースによって定義に微妙な差異は存在するものの、本質的には時間を競うという点で同じである。ほとんどの場合は最も速く走れた者が勝利を認定されるが、昔のラリー(アベレージ・ラリーと呼ばれる形態)のように運営が設定した時間に最も近い者が勝利するという場合も稀にある。
少数派ではあるものの、自動車レースの中には速さではなく燃費を競うもの(燃費競争)もある。同じ量の燃料でどれだけ遠くまで走れるかを競うルールや、一定距離を走った後で消費した燃料を計測し、(定められた範囲の時間であれば)たとえ他車より遅くても燃費が良い者を勝利とするなど、これもまた勝利条件にわずかな差異はあれど、燃費を競うという本質は同じである。
あるいは審査員の採点で勝敗を決する競技もある。競技車を滑らせる技術の美しさを競う「ドリフト」、圧倒的パワーと巨躯で迫力を競うモンスタートラックのフリースタイル、自動車のデザインの美しさを競う競技会「コンクール・デレガンス」などがある。後者は現代ではクラシックカーイベントの一種とされており、また自動車を走行させることもないため、自動車競技としては分類されない場合もある。
特殊な例だと、北米のデモリション・ダービーのように自動車同士をぶつけあって生き残った者が勝利という過激なものもある。
| 1,528 |
自動車競技
|
特殊な例だと、北米のデモリション・ダービーのように自動車同士をぶつけあって生き残った者が勝利という過激なものもある。
1887年にフランスのパリで約2 kmを走行し競ったのが最初期の自動車レースだったとも考えられている。1894年には、パリからルーアンまでの127 kmのレースが行われたことが記録に残っている。1900年には、初の国際レース(多数の国の参加者が参加するレース)が開催された。→#歴史
現在、世界を見回せば、非常に多種多様な自動車レースが開催されている。自動車レースは様々な分類が可能であるが、多くは走る道(コース)と競技に参加する車両の2つに大別できる。→#コースによる分類、#競技車両による分類
F1やインディ500といった世界的に人気の高いレースはテレビで放送されるなど、人々の目に触れることが多く認知度も高い(そして有名な自動車レースのなかでも特に歴史が長く注目する人々の数が多いF1モナコグランプリ、ル・マン24時間レース、インディ500が「世界3大レース」などと言われている。ヨーロッパでは前者2者が人気で、アメリカではインディ500が大人気、と住む大陸で人気が別れている。)が、実際には放送もされない中規模のレースや、さらには少人数が集って行われている自動車レース(いわゆる「草レース」と呼ばれるもの)までさまざまな規模がある。
レースであるから、一般になんらかの共通のルールのもとで競いあわれており、大半のレースが「ホモロゲーション」と呼ばれる、車両に関する規約(車両規定)の承認を得ている。→#レギュレーション(規則)
現代では、レースへの参加はチームで行われることが一般的である。→#レーシングチーム
レースで自動車を運転する人(チームの中で運転を担当する人)を「レーシング・ドライバー」や単に「ドライバー」などと言う。(草レースなどでは資格がはっきりと定められていない場合もあるが、多くは免許や実績など何らかの資格が定められており)国際自動車連盟(FIA)公認の大会では、FIA傘下の団体が発行したモータースポーツライセンスが必要となる。
| 1,528 |
自動車競技
|
レースで自動車を運転する人(チームの中で運転を担当する人)を「レーシング・ドライバー」や単に「ドライバー」などと言う。(草レースなどでは資格がはっきりと定められていない場合もあるが、多くは免許や実績など何らかの資格が定められており)国際自動車連盟(FIA)公認の大会では、FIA傘下の団体が発行したモータースポーツライセンスが必要となる。
国・地域や国民性などによって自動車レースの位置づけは異なる。ヨーロッパの多くの国やアメリカ合衆国では、自動車自体の歴史が長く、自動車レースの伝統もとても長く、数多くのレースが開催されており、人気が非常に高く、ファン層も厚く、高齢者から小さな子供までが(男性も女性も。祖父・祖母や、孫の小学生や幼稚園児まで、世代を超えて一家で)レースコースの観客席に駆けつけ、家族全員で参加するお祭りのように楽しむ。(なおスイスは例外で、嘗てはタイムアタック系の競技を除き、国内で自動車レースを行うことを禁止していた。だが現在解禁した)。中南米(特にブラジルとアルゼンチン。en:Category:Motorsport in South Americaを参照)やオセアニア地域でもモータースポーツはかなり盛んである。東南アジアでもそこそこ人気はある。日本では昭和時代に自動車産業が盛んになって以降、自動車レースの人気は(欧米ほどではないが)そこそこ高くなり、世界選手権レベルの国際競技で使えるものを含む大小多くのサーキットが建設された(→日本のサーキット一覧)。(ただし日本では、今でも人数的に見るとファンの数(全人口に対する自動車レースファンの数の比の統計)はヨーロッパやアメリカに比べればかなり低く、「限られた人々の関心事」といった位置づけである。日本の自動車レースのファンは男性ばかりで、ほとんどの日本女性は自動車レースには全然興味が無いなど、日本ではいまひとつ広がりが無い。)
| 1,528 |
自動車競技
|
日本でのテレビ放送について言えば、ヨーロッパやアメリカの自動車レースは日本でも放送されることも多いが、中南米、東南アジアのレースは日本では放送されることはまずなく、日本人の盲点になってはいる。とはいえ2010年代からはYouTubeのおかげで日本にいながらにして中南米や東南アジアのレースが楽しめるようになってきた(たとえばgoogle翻訳したポルトガル語で「Corrida de carros」(「自動車レース」という意味)などとキーワード入力して動画検索すると、ブラジル国内で有名なレースも見て楽しめるし、さらにはブラジルの小さな草レースまでも楽しむことができる)。
自動車レース、すなわち自動車競技の起源として伝えられているのは1887年4月28日にフランスのパリで行われたもので、その内容はヌイイ橋からブローニュの森までの約2キロメートルを走行。優勝者はド・ディオン・ブートン社(英語版)の蒸気自動車をドライブしたジョルジュ・ブートン(英語版)であった。彼はアルベール・ド・ディオン(英語版)伯爵と共にド・ディオン・ブートン社を共同設立した人物でもあった。だが、集まった車のうち、スタートできたのはこの蒸気車1台しかなく、これをレースと呼ぶにはほど遠い内容であったとも伝えられる。
記録として残る自動車競技は1894年7月22日に開催された、127キロメートルのパリ - ルーアン・トライアル(英語版)である。この企画は、フランスの大衆新聞「ル・プティ・ジュルナル(英語版)」が、当時同社自身も主催するなど人気のあった自転車レースの延長上に、新しい乗り物である自動車での競技を発案したものであった。先述のような試みはあるものの、ほとんど実績がないイベントであったために危険性についての考慮などさまざまな論議を呼んだ。レースの内容は今日のラリーに近いもので、パリのポルト・マイヨーを1台ずつスタートし途中のチェックポイントを通過、マントでは昼食会を開くといったのんびりしたもので、乗用車としての適格性も採点の対象となると定められていた。参加費用に10フランを徴収した。なお、この大会の事前登録には102名もの公募が集まった。
| 1,528 |
自動車競技
|
ただし、書類上の提示などで要件を満たしていないなどのオーナーもあって、25台でレースを行うこととした。その後、4台がレース参加が不可能となり最終的には21台でのレースが開催された。参加した多くのドライバーが、当時最新であったプジョー、パナール、ド・ディオン・ブートン社の車両とそのオーナーであったが、1880年製と製造後10年以上経過していたアメデー・ボレー父子の大型蒸気バス「ラ・ヌーヴェル」(La Nouvelle) も参加した。このレースの結果、パリ - ルーアン間を最初にフィニッシュしたのは自ら製作させたド・ディオン・ブートン車を運転するアルベール・ド・ディオン伯爵であり、タイムは6時間48分、平均速度は毎時およそ19キロメートルであった。ただし彼の車は蒸気自動車であり、当時としては強力高速だがボイラーに燃料をくべる助手が同乗せねばならなかったためルール上失格扱いとなった(さらにド・ディオン伯の車はスピードを出し過ぎ、途中で畑に突っ込むアクシデントも起こしたが、レースは続行できた)。速度や安全性などについて総合的な審議の結果、これからはガソリン車を売り込みたいという、運営側の思惑もあり、優勝者はガソリンエンジン車のプジョー Type 3を操縦し、ド・ディオンに遅れること3分30秒でフィニッシュして2着となったアルベール(ジョルジュ)・ルメートルと、やはりガソリン車で33分30秒遅れて4番目にゴールしたパナール・ルヴァッソールのルネ・パナールの2名とされた。なお21台中完走は17台で、4台はエンジントラブルなどでリタイヤした。
1894年のパリ – ルーアン間競走の終了後に開催された夕食会の席上でフランス自動車クラブ (ACF) が誕生したとされる。これは今日のFIA(国際自動車連盟)の前身であり、この年からあらゆる自動車スポーツの統括を行うこととなった。ド・ディオン伯がリーダー格となり、その年の11月の委員会で早くも本格的なスピードレースが計画され、翌1895年6月に第1回の都市間レースとしてパリとボルドー間往復のレースが行われた。パリを出発してボルドーに向かい、再びパリに引き返してゴールするというもので、総走行距離1,178キロメートルにおよぶ長距離レースだった。
| 1,528 |
自動車競技
|
6月11日午前10時からベルサイユを2分間隔でスタートし、最短時間でゴールしたのはパナール2気筒車に乗るエミール・ルヴァッソール(1843年1月21日 - 1897年4月14日)で、所要時間は48時間48分だった。この時ルヴァッソールは、ほとんど途中休憩をとることなく、ほぼ全区間を自身の運転によって昼夜兼行、不眠不休で走りきったという。当時の自動車性能から考慮してもこの記録は驚異的な速さであり、自動車競技黎明期の偉大な記録の一つといっても過言ではない。ただしこのルヴァッソールの出走車は2座席車であり、レース規定では4座席車であることとなっていたため優勝者とは認定されず、公式にはルヴァッソールより11時間以上遅れて3番目にゴールした4座席プジョーのポール・ケクランが優勝者となって賞金を獲得している(2番目ゴールのルネ・リグロのプジョーも2座席車だった)。なおこのレースにはタイヤメーカー・ミシュラン創業者のミシュラン兄弟のアンドレが参加、自作の自動車用空気入りタイヤを装備したダイムラーに大量のスペアチューブを載せて出走したが、途中20回以上もパンクを繰り返す災難に遭い、規定時間内にゴールできなかった。
1895年11月28日にアメリカ国内で初開催となる自動車レースが行われた。イリノイ州のシカゴから市街地南部、一部エバンストンを走る長さ87.48kmの走行距離を競った。このレースは大吹雪によって悲惨なレースとなり、多くの競技参加者が脱落した。優勝者はフランク・デュリエで記録は10時間23分であった。1896年には後述されるサーキット開催の原型ともいえる競馬場を利用したレースが開催される。そのため、こうしたレースを「Horseless Carriage Race = 馬なし馬車レース」と呼ばれ、特にアメリカでは自動車競技に対してこのように呼称された。
自動車競技を定期的なイベントとして開催する事になったのは1897年のニースで、3月後半から「スピードウィーク」と呼ばれるスケジュールを立てて定期開催された。スプリントレース、ドラッグレース、ヒルクライムなどの多くの自動車競技がここで始まった。
| 1,528 |
自動車競技
|
自動車競技を定期的なイベントとして開催する事になったのは1897年のニースで、3月後半から「スピードウィーク」と呼ばれるスケジュールを立てて定期開催された。スプリントレース、ドラッグレース、ヒルクライムなどの多くの自動車競技がここで始まった。
国際レースとしての最初の自動車競技は、1900年から1905年まで6回にわたって開催されたゴードン・ベネット・カップである。最初の大会はパリ - リヨン間の速さを競った。これらの大会中、1900年、1901年、1904年、1905年の4回をフランス勢が制し、1902年大会でイギリスのネイピア & サン車が勝利した。優勝者の国で翌年開催されることになっており、1903年の大会がイギリス初の国際自動車競技会場となった。ただし開催されたのは正式にはアイルランドのキルデア県。この年のゴードンベネットカップを制したのはドイツのメルセデスであったため、翌1904年はドイツ国内のタウヌスで開催された。1905年最後の大会はフランスのクレルモン=フェランのオーヴェルニュ地域圏を周回する競技(※:後にシャレード・サーキットとなった)で開催され、リシャール・ブラシエに乗るレオン・テリーが前年に続き2連覇した。
ブリティッシュグリーン(※:ブリティッシュレーシンググリーン、BRGカラーとも)は1902年大会で優勝したネイピアの車に施されていた色であり、これに由来して深みのある独特なオリーブグリーン色がその後のイギリスにおける自動車競技に伝統するナショナルカラーとなった。
| 1,528 |
自動車競技
|
ブリティッシュグリーン(※:ブリティッシュレーシンググリーン、BRGカラーとも)は1902年大会で優勝したネイピアの車に施されていた色であり、これに由来して深みのある独特なオリーブグリーン色がその後のイギリスにおける自動車競技に伝統するナショナルカラーとなった。
一方、フランスでは1901年にポーで開催されたレースでは、クラス毎に分けた取り組みがなされた。軽量クラスに与えられた「グランプリ・デュ・パレ・ドール (仏: Grand Prix du Palais d’Hiver)」、重量(最速)クラスに与えられた「グランプリ・ド・ポー (仏: Grand Prix de Pau」と賞の名前に初めて「グランプリ」が使用された。グランプリは「英: Grand Prize = グランドプライズ」すなわち「大賞・最高賞」を意味する言葉であり、これが起因して今日では最高位レースにグランプリという名称が使用されるようになった。1906年にフランス自動車クラブ (仏: Automobile Club de France, ACF) が主催して「ACFグランプリ(通称1906年フランスグランプリ)」が開催される。一般公道を使用するレースは後述する1903年に開催されたパリ〜マドリード間レースでの死亡事故によって禁止されていたが、ゴードン・ベネット・カップをヒントに公道を閉路として使用した「クローズドロードレース」としてル・マンで開催され、1周103.18kmを12周、合計1238.16kmで争われるレースであった。その後1907年、1908年、1912年はディエップにて、1913年はアミアン、1914年はリヨンと第一次世界大戦が勃発するまで開催された。余談ではあるが、終戦後の最初のフランスグランプリは1921年に再びル・マンに戻され、現在のサルト・サーキットの原型となる場所で開催された。また、ポーも1930年に国際レースとしてフランスグランプリが開催された場所でもある。ポーは1933年より「ポー・グランプリ」と呼ばれ、開催されなかった1934年、1940年から1946年、1956年、そして2010年を除いてF1、F2、F3、WTCCなどなんらかの国際競技が開催されるなどこれらの都市はフランスにおけるレースの聖地となっている。
| 1,528 |
自動車競技
|
その他、国際レースとして超長距離レースが行われるようになった。1907年には北京〜パリ間レースが開催され、北京からスタートして、パリまで14994kmを横断するレースだった。参加した車両は合計5台でイタリアからはイターラ1台、オランダからはスパイカー1台、フランスからは三輪自動車のコンタル1台と蒸気自動車のド・ディオン・ブートン2台が参加した。6月10日にスタートし、62日かけてイターラのボルゲーゼ公爵がゴールし優勝した。なお、優勝賞品はG.H.MUMMのシャンパン1本だけだった。
翌1908年にはニューヨーク〜パリ間レースが開催された。イタリアのツースト、ドイツのプロトス、アメリカのトーマス・フライヤー、そして今回もフランスからド・ディオン・ブートン、モトブロック、シゼール=ノーダンの3台が出場し、合計6台で争われた。2月12日にニューヨークをスタートしてアメリカ大陸を横断した後にシアトルから日本の横浜へ渡航し、敦賀まで480キロメートルを縦断した。余談だがこのレースが記録に残る日本で初めて自動車競技が行われた瞬間である。そこから日本海を渡りウラジオストクに上陸してシベリアを横断する形でユーラシア大陸を東から西へ駆け抜けパリに向けて距離にして22,000キロメートルを旅するものであった。最初にゴールしたのは7月26日にパリに到着したドイツのプロトス車を運転する陸軍中尉ハンス・コーペンであったが、北米大陸横断の際、一部区間で鉄道を使って車を運んだため15日間のペナルティを科されたので、正式な優勝は7月30日にゴールしたトーマス・フライヤーを駆るアメリカのジョージ・シャスターであった。 この自動車競技は「偉大なレース」として数えられ、後のラリー・ラリーレイドの原型となった。
フランスを中心とした自動車競技は大きな成功を収めていたが、自動車性能の向上は同時に危険性をはらむものでもあった。上記の通りそのほとんどのレースが市街地レースや都市間レースであった一方、沿道の観客整理は不十分で、一部を除いた多くの道路は未舗装の砂利道であった。この悪条件の中で、1900年を過ぎた頃には、自動車だけが10リッター超の巨大エンジンにより100km/hを超える高速で疾走するようになったが、そのパワーに操縦性やブレーキ性能が到底追随できておらず、リスクは増大していた。
| 1,528 |
自動車競技
|
危惧された通り、1903年5月のパリ - マドリード間レースでは、ルノー社の共同創設者であるマルセル・ルノー (1872年 - 1903年5月25日)が観客を巻き込む事故を起こして自身も死亡するなど大事故が続発、レースは途中のボルドーで急遽中止されたが、累計死者は観客も含め9名に及んだ。事態を重く見たフランス政府は多くの自治体における公道レースの禁止を発表するなど、大きな波紋を呼んだ。
上記の事故がヨーロッパのみならず、アメリカ国内においてのサーキット建設に拍車をかけたといわれている。サーキットとは「閉路」で、語義通りには(終点が始点に戻る形でつながって〈閉じて〉いる)「周回路」のことであるが、日本ではもっぱら、競技走行用に他から乗り入れることが不可能にされた走行路、といったような意味あいで使われている。
自動車競技の歴史において記録に残る最も古くに競技場にて開催された場所はナラガンセット・トロット競馬場である。この競技場はトロット競馬場であるが、1896年9月26日に10台の自動車を用いて「Horseless Carriage Race = 馬なし馬車レース」として開催された。 ただし、当時ナラガンセット・トロット競馬場にて自動車競技が行われた背景には、むしろ安全性よりも様々な形態の自動車性能を見極めるための観客の志向や「馬なし馬車レース」という名称でもわかるとおり見世物としての要素が強かったとされる。 現存する世界最古のサーキットはミルウォーキー・マイルであり、1903年以来現在でも自動車競技が開催されている。このサーキットも元は競馬場として1876年に創業されたものであり、それを自動車競技のサーキットとして使用したのが始まりである。
| 1,528 |
自動車競技
|
自動車競技を目的として最初に創業したサーキットはイギリスのサリーにあったブルックランズサーキットであった。1907年6月の創業以来、多くのレースがここで行われた。全長4.43 kmのコースでバンク角は最大30°コース幅は100フィートにも及ぶ広大さを誇る完全舗装サーキットであった。ブルックランズは当時の最高基準で建設されたサーキットであり、当時としては路面状況が非常によく、自動車、オートバイ、三輪自動車などを問わずあらゆるジャンルの自動車競技が開催された。世界最高速記録の樹立や500マイルレースなどの耐久レースも行われ、自動車の信頼性、性能のそれぞれの向上に大きな役割を担ったサーキットともいえる。ブルックランズは1939年に後述する第二次世界大戦の影響によって航空機の生産が念頭となったために同年8月7日のレースを最後に閉鎖したが、自動車競技専用のサーキット建設とそこで開催されたレースの興行的な成功と、それを利用することによって自動車性能が飛躍的に向上と工業技術力の向上、さらには四輪自動車のみならずオートバイにおいても高い安全性を提供できたことからも、ブルックランズに続いて各国各地でサーキット建設が行われるようになった。
| 1,528 |
自動車競技
|
現在、国際自動車連盟 (Fédération Internationale de I'Automobile, FIA) の前身となる国際自動車公認クラブ協会 (Association Internationale des Automobile Clubs Reconnus, AIACR) が設立されたのは1904年であるが、毎年恒例の会議の中で特に議題になっていたのが自動車会社の自動車レースへの関心の高さであった。 それまでのレースの興行的な成功と、フランスやドイツ、イギリス、イタリア、アメリカなどの自動車会社の成功はすなわち自動車会社の技術力の象徴として扱われたため、自動車の技術発展と同時に自社の宣伝効果にも莫大な意義があるということは明白だったからである。そのためAIACRは自動車選手権の必要性を認め1923年に「ヨーロッパグランプリ」という名目で前年にイタリアに完成したばかりのサーキットであるアウトドローモ・ナツィオナーレ・ディ・モンツァで初開催した。このヨーロッパグランプリは1930年までの間にフランスのリオン、ベルギーのスパ・フランコルシャン、スペインのサン・セバスティアンなどで開催された。これらのグランプリは1931年に「Championship = 選手権」としてまとめられ、ヨーロッパ・ドライバーズ選手権として年間を通して争われるようになった。
| 1,528 |
自動車競技
|
グランプリや選手権を通じて国際的な注目を得たい自動車会社の各マシンはナショナルカラーで塗られ、自動車を使った工業先進国の技術力の高さを表した。この傾向は特に1930年代に入ってからナチス・ドイツのメルセデス(現在のメルセデス・ベンツ)、アウディ(アウトウニオン)が自国の技術力を他国に見せつける国威発揚の場として使われた。ヨーロッパにおける自動車の速度記録は1928年にイギリスのマルコム・キャンベルが記録した281.44 km/hを最後となっていたが、ナチス・ドイツでは1934年にメルセデス・ベンツ・W25を駆るルドルフ・カラツィオラが317.460 km/hを記録。また、アウトウニオンはフェルディナント・ポルシェを起用してアウトウニオン・Pワーゲンを開発。1937年にはベルント・ローゼマイヤーがアウトウニオン・Pワーゲンを駆って401.9 km/hを記録した。 しかし、ヨーロッパを中心とした世界情勢に暗雲が垂れ込め第二次世界大戦が勃発し、ヨーロッパにおけるグランプリは1939年から終戦まで開催されることはなかった。南米では1940年から1942年まで開催され、1940年にサンパウログランプリと冠してブラジルのインテルラゴス・サーキットで開催された。1941年にはブラジルでリオデジャネイログランプリとアルゼンチンでブエノスアイレスグランプリが開催され、1942年にはブエノスアイレスに加えサンタフェグランプリが開催された。その後は大戦の世界的な激化により終戦まで全てのグランプリが中止された。
第二次世界大戦後に最も早く開催されたレースは1945年9月9日にブローニュの森で開催されたパリ杯である。優勝者はブガッティを駆るジャン=ピエール・ウィミーユ(英語版)であった。彼はフランス陸軍の兵役がまだ残っていたため、レースに出場する為に陸軍に許可をとって出場した。
| 1,528 |
自動車競技
|
第二次世界大戦後に最も早く開催されたレースは1945年9月9日にブローニュの森で開催されたパリ杯である。優勝者はブガッティを駆るジャン=ピエール・ウィミーユ(英語版)であった。彼はフランス陸軍の兵役がまだ残っていたため、レースに出場する為に陸軍に許可をとって出場した。
1946年には国際競技としてフランスのサン=クルー、スイスのジュネーヴ市街地、イタリアのトリノで3カ国のグランプリとその他17グランプリの計20グランプリが開催された。当時自動車競技部門を統括していた下部組織である、国際スポーツ委員会 (Commission Sportive Internationale, CSI) によって最高峰のシングルシーターによる自動車競技の発足を目指した。それまでにあったグランプリという国際競技でありながら、新しい定義の競技の必要性が講じられ戦後の自動車競技における新しい「規格」を由来に「Formula = フォーミュラ」と名付けられ、いくつかの階級に分ける案が認められた。その理由に戦前におけるグランプリにて3.0リッタースーパーチャージャー付きエンジンと、4.5リッター自然吸気エンジンの2つが混在していたこともあり、すでにカテゴリの分裂が起きていた。性能差の是正から3.0リッタースーパーチャージャー付きエンジンを廃止し、1.5リッタースーパーチャージャー付きエンジンと、4.5リッター自然吸気エンジンのどちらかの使用というルールとなり、このエンジン使用規約が1950年に初めて「世界選手権」として開催されるフォーミュラ1(F1)の最初のルールとなった。
政治的な動きとしては、1947年に国際自動車公認クラブ協会(AIACR)を前身とした国際自動車連盟 (FIA) が設立された。
| 1,528 |
自動車競技
|
政治的な動きとしては、1947年に国際自動車公認クラブ協会(AIACR)を前身とした国際自動車連盟 (FIA) が設立された。
自動車競技の多様性は形態が限りなく市販車に近いスポーツカーレースにまで発展していった。前述のフォーミュラ1はフォーミュラカーを使用したシングルシーターによる比較的短距離(スプリント)なレースであり、選手権の内容もドライバーを重視したものであった。これに対し市販車ないし市販を前提に開発した車両、つまりは運転席と助手席が存在するスポーツカーを使用したレースは自動車製造業者(マニファクチュアラー)が主体のものとなった。したがって、自動車性能を示す一つである耐久性も考慮され、大変長距離(エンデュランス)なレースとなるが、こうしたレースはそれまでにミッレミリア、ル・マン24時間、RACツーリストトロフィーレースといった伝統的なものが存在していたが、それぞれのレースごと主催団体が違っていた為に、それまで選手権としての統一が実現しなかった。
その為、こうした耐久レースを統一したものとして1953年にスポーツカー世界選手権 (Championnat du Monde des Voitures de Sport) が発足された。初開催となった1953年は上記の伝統的なレースに加え、近年に発足された12時間耐久グランプリ、フランコルシャン24時間、国際ADAC1000キロメートルレース、カレラ・パナメリカーナを合わせて計7戦が開催された。
スポーツカーレースの勃興は欧州はもちろん、それまでオーバルサーキット一辺倒であったアメリカのレース文化を大きく刺激し、Can-amやIMSAなどを誕生させた。
前述の通り自動車競技の勃興は公道レースからであり、それゆえラリーを始めとするオフロード系レースも古くから存在したが、体系立った選手権・シリーズとしては長らく確立されていなかった。
そこで1970年に各地の伝統のラリーイベントを取りまとめる形で、「IMC(国際マニュファクチャラーズ選手権)」が誕生。これが発展して1973年に現代まで続くWRC(世界ラリー選手権)が発足した。これに多くの日本メーカーを含む自動車メーカーたちが参戦し、その成果を大きく喧伝した。
またWRCと同じく1973年に欧州ラリークロス選手権、1979年にはパリ-ダカール・ラリーが誕生している。
| 1,528 |
自動車競技
|
そこで1970年に各地の伝統のラリーイベントを取りまとめる形で、「IMC(国際マニュファクチャラーズ選手権)」が誕生。これが発展して1973年に現代まで続くWRC(世界ラリー選手権)が発足した。これに多くの日本メーカーを含む自動車メーカーたちが参戦し、その成果を大きく喧伝した。
またWRCと同じく1973年に欧州ラリークロス選手権、1979年にはパリ-ダカール・ラリーが誕生している。
世間で自動車の排ガスによる公害が騒がれ始めた頃の1970年に、アメリカでマスキー法が施行された。自動車メーカーたちはこの画期的なまでに厳しい基準をクリアするために、レースに注ぎ込んでいたリソースを新型のエンジンや触媒を開発するために回し、日本メーカーを中心にレース活動の規模縮小や撤退が相次いだ。1973年には第一次オイル・ショックが自動車業界を直撃し、欧州でもワークス勢の多くが撤退した。
これらの事件の影響は深刻で、各地でレースカテゴリが消滅と再編纂を余儀なくされた。特にメーカー対決を売りにするスポーツカーレースは直撃を受け、北米ではCan-Am(第一期)が、日本では日本グランプリが終焉を迎えた。スポーツカー世界選手権やル・マン24時間でも1975年にはワークス不在という事態に陥ったり、新たに施行したグループ5規定(シルエットフォーミュラ)がすぐポルシェワンメイク状態に収斂してしまったりと、芳しくない状態が続いた。
一方で自動車メーカーに依存しないプライベーターたちが誕生・成長を遂げた時代でもある。元々プライベーターが中心だったF1世界選手権や米国のチャンプカーなどのオープンホイールレースはほとんど影響を受けておらず、日本でもプライベーターたちによるフォーミュラカーレースや富士グランチャンピオンレースなどが誕生した。
1980年代に入ってからのモータースポーツ界はグループA・グループB・グループC規定による、現代まで語り継がれるほどの盛り上がりを見せるが、これはオイル・ショックの反動でメーカーたちが大挙して押し寄せたという面も大きい。
自動車の黎明期は様々な技術の試行錯誤が行われたが、現代のレーシングカーにおいて重要とされる設計思想のほとんどは、1960~1980年代に確立された。
| 1,528 |
自動車競技
|
1980年代に入ってからのモータースポーツ界はグループA・グループB・グループC規定による、現代まで語り継がれるほどの盛り上がりを見せるが、これはオイル・ショックの反動でメーカーたちが大挙して押し寄せたという面も大きい。
自動車の黎明期は様々な技術の試行錯誤が行われたが、現代のレーシングカーにおいて重要とされる設計思想のほとんどは、1960~1980年代に確立された。
従来のフォーミュラカーは市販車同様フロントエンジンが主流であったが、1950年代後半にミッドシップエンジン車が登場し始めると、1960年代F1では全車がミッドシップを採用するようになり、「レーシングカーはミッドシップが有利」という常識が一般化した。
エンジンパワーが増大化するとともに空力でマシンを下に押さえつける力、つまりダウンフォースを得るという設計も求められるようになった。1960年代はF1やCan-Amなどでリアウィングの装着によりダウンフォースを得るのが主流であったが、乱気流や安全の関係でただ装着すればいいというものではなかったため、かなりの試行錯誤がなされた。1970年代後半に鬼才・コーリン・チャップマンがマシン全体やマシン下部(グランドエフェクト)で空力効果を得る手法を確立し、従来より遥かに安定してダウンフォースを得ることが可能となった。グランドエフェクト自体は特有の安全上のデメリットからしばらく敬遠されたが、その考え方自体は現在まで生き続けている。
またチャップマンはスペースフレームシャシーに代わるものとしてモノコック構造を発明し、現代まで続くフォーミュラカーの構造の基礎を築いた。
従来ターボラグが大きく、レーシングカー向きでないとされていたターボチャージャーも1970年代にスポーツカーレースでポルシェ、F1でルノーが活躍し始めると一気に研究が進んだ。F1では1989年に禁止(2014年に解禁)されるまで全盛期を築き上げ、スポーツカーレースではそれ以降も長らく採用が続いた。
4WD(四輪駆動)もラリーレイドや1980年代のアウディ・クワトロの登場以降、サーキットでも急速に採用が進み、市販乗用車の4WD技術・ラインナップにも大きな影響を与えた。
| 1,528 |
自動車競技
|
4WD(四輪駆動)もラリーレイドや1980年代のアウディ・クワトロの登場以降、サーキットでも急速に採用が進み、市販乗用車の4WD技術・ラインナップにも大きな影響を与えた。
上述したように、各国で姿かたちやルールの異なる様々な自動車競技が勃興し、それぞれに熱心なファンがついたが、その中でも頭一つ飛び出たのはF1であった。稀代の天才であるバーニー・エクレストンの辣腕により、「F1サーカス」と形容されるような、文字通り世界各国を飛び回る国際的スポーツイベントに成長した。この背景にはTVの普及により、放映権がビジネスとして成立し始めたことも背景にある。
これにより1990年代までには、自動車に興味のない一般大衆にもアイルトン・セナやミハエル・シューマッハといったF1のスターたちの名前は知れ渡るようになった。同時期のスポーツカーレースやWRCも、各メーカーが競って過激かつ多様なマシンを開発してこちらも人気が高かったが、F1の一般大衆への浸透ぶりには及ばなかった。
2000年代になるとメーカーの撤退が相次いだスポーツカーとWRCは勢いを弱めてローカル化が進み、一般人向けとしてはよりF1一強の様相が濃くなっていった。また同じフォーミュラカーレースの中でも、F1とそれ以外(CART、フォーミュラ・ニッポンなど)で人気の2極化が進んだ。
この間ツーリングカーレースもグループAやスーパーツーリング、スーパー2000規定などでメジャーな存在として一時的に大きな勢力となったが、規則や運営、コストなどの問題により、いずれも数年程度で消滅と誕生を繰り返すような不安定な状態が続いている。
北米では90年代以降、長年力を持っていたオープンホイールレースとスポーツカー耐久が組織分裂によってそれまでの勢いを失ったことや、マーケティング手法の巧拙の差もあり、ストックカーレースのNASCARがアメリカン・モータースポーツの頂点に取って代わった。
1990年代以降は電子制御技術が発達し、セミオートマチックトランスミッションやトラクションコントロールなどのハイテクな装備が普及した。
| 1,528 |
自動車競技
|
北米では90年代以降、長年力を持っていたオープンホイールレースとスポーツカー耐久が組織分裂によってそれまでの勢いを失ったことや、マーケティング手法の巧拙の差もあり、ストックカーレースのNASCARがアメリカン・モータースポーツの頂点に取って代わった。
1990年代以降は電子制御技術が発達し、セミオートマチックトランスミッションやトラクションコントロールなどのハイテクな装備が普及した。
1990年代以降日本はおろか欧米でも若者の車離れが叫ばれたり、環境問題への意識が高まるようになると、自動車メーカーにとってのレース参戦の商業的意義・対費用効果にも疑問符がつけられるようになり、それまで自動車競技に熱心であったメーカーが一転してピタリと活動から手を引いてしまう事例が増えた。
また技術革新が進み、原初の頃に比べると相当にハイレベルな技術と高価なパーツを用いるのが当たり前になってしまったため、それに伴う参入障壁や参戦コストの高さに、メーカーやチームが疲弊して崩壊・消滅するカテゴリも多く見られるようになった。
こうした時代の変化に対応するべく運営側も、参加者の経済的・技術的な負荷を減らしたり、環境技術を宣伝できるような規則を導入して、自動車メーカーの招致に知恵を絞るようになった。
具体的には
など多数のアイディアが存在する。先述の通り自動車競技の覇者となったF1も、こうした時代の流れの前に次々とメーカーを失ったため、上のいくつかの手法を導入して覇権を維持している。
2020年代以降は内燃機関を捨てることを宣言するメーカーが続々と登場し始めたため、FIAは純粋なEV(電気自動車)のみで争われるカテゴリを多数誕生させている。
エコ意識の高まりに前後して、性能調整を施すことで多様なレーシングカーを参戦することが可能となる手法が確立された。これによりグループGT3/GT4やグループRally、TCRなどといった、自動車メーカーがプライベーターチーム向けに市販車をレーシングカーに改造して販売する規定が2010年代以降に流行した。メーカーにとっては販売・アフターサービスによる収益に加えて購入者が自社製マシンを走らせてくれることで宣伝効果も得られ、プライベーターにとっては戦闘力の高いマシンを低コストで購入・運用することが可能という、双方に利がある理想的なパッケージングである。
| 1,528 |
自動車競技
|
ただし一方で、多数のメーカーが参入したことで開発競争の激化によりマシンの価格と運用コストが高騰し、メーカー側からすればビジネスとして採算が取れず、プライベーターからは経済的に手が出せなくなってしまうという問題が散見され始めている。
またあまりに広まりすぎているゆえに、観戦者側からは世界各国のどのレースを見ても同じ規定のカスタマーマシンばかりで退屈という弊害も指摘されている。
自動車レース(競技)は、コースの種類で分類する場合、大きく分けて3つに分類できる。(なお例外はある)
レース専用のサーキット(レース場)や、公道の一部を閉鎖して臨時に仕立て上げたレースコースなどで行うもの。
舗装されたクローズドコースにて同時に複数台がスタートし順位を競う。日本では四輪競技は単に「レース」と呼ぶことが多い。(二輪競技はロードレースを呼ぶことが多い)。レースのスタート方式は1周のフォーメーションラップ後に一旦停車を行った状態からシグナルやレース旗によって一斉にスタートを行う「スタンディングスタート方式」と、フォーメーションラップからそのまま車両が加速した状態でスタートを行う「ローリングスタート方式」がある。
その他にも過去にはル・マン24時間レースで採用されていた「ル・マン方式」というスタート方法もある。ル・マン方式とは車両までドライバーが歩く(駆け寄り)そして速く車両を動かした順にレースをスタートする方式であるが、ジャッキー・イクスがその危険性について苦言を呈し続けた結果、現在のル・マンでは廃止されている。このル・マン方式のスタート方法を踏襲しているのが二輪ロードレースのスタート方式である。スタートの方法は現在ではクラッチスタート方式を採用し、車両まで向かったライダーがセルスターターおよび、キックによるスタートを行って発進する。以前は車両のエンジンがかかっていない状態から各ライダーが押しながらエンジンを起動させる押しがけスタート方式であったが、押しがけの危険性を憂慮して1987年からクラッチスタート方式に切り替わった。
| 1,528 |
自動車競技
|
ラリーとラリーレイドは似て非なる競技であり、「本来はタイムを競う競技ではない」ということが念頭に置かれるためにレースとも厳密には違う。スタート方式に関してはラリーもラリーレイドも同じであり、予め主催者側によって公示されたもの及び、大会ランキングなどによってスタート順が決められる。SSのスタート順は直前のタイムコントロール(TCと呼ぶ)を通過順に1分間隔で行われる。
ラリーレイドでは先述のSSとほぼ同じ役割を担う区間であるコンペティションセクション(CSと呼ぶ)が設けられている。
4輪競技におけるラリー・ラリーレイドにおける最大の特徴は車両運転手であるドライバーと、進路案内や走行速度指示などの補佐を行う「コ・ドライバー」という2名が車両に搭乗して行う点である。ラリードライバーに求められる運転技術はレーシングドライバーに求められる技術と異なる点が多く、競技の特性上、悪路に対する走破技術はもとよりレースにおける「フリー走行」のような練習走行が基本的に存在しないためにドライバー自身の運転感覚、視界からの情報、あるいはコ・ドライバーからのナビゲートによる聴覚からの情報、そして出走順によっては先行車両により非舗装路面が刻々と変化してゆく点もあり、これらの総合的な瞬時の判断から高い臨機応変力が求められる。ドライバーとコ・ドライバーの信頼関係も非常に重要といわれ、1つの車両で行うチームプレイとも言える。
二輪競技などで行われるラリーレイドは1人で砂漠を走破する技術や度胸、独自の感性や機械的トラブルや人的トラブルに巻き込まれない幸運も求められる。したがって、二輪ラリーレイドは最も危険な自動車競技の1つとして語られることも多く、その根底にはほぼ毎年のように死者を出していることが挙げられる。
| 1,528 |
自動車競技
|
二輪競技などで行われるラリーレイドは1人で砂漠を走破する技術や度胸、独自の感性や機械的トラブルや人的トラブルに巻き込まれない幸運も求められる。したがって、二輪ラリーレイドは最も危険な自動車競技の1つとして語られることも多く、その根底にはほぼ毎年のように死者を出していることが挙げられる。
決められた(短い)区間をいかに速く正確にゴールするかを競う。本来はトライアルとは「タイムトライアル」(英: Time Trial) つまりは時間への挑戦を意味し古来はダービー、ボート、自転車競技におけるレースを指したことから、これが派生して欧米では二輪自動車における競技もタイムトライアルと呼称した。その後、「トライアル = Trial」だけで試練・試みという意味を持つことから二輪自動車による複雑な地形(人工的に作られる場合もある)を、いかに足をつかずに走破するかを競う競技をトライアルと呼ぶ。日本では「トライアル競技」と呼ばれる。代表的な競技ではスラローム競技であるジムカーナや、加速競争であるドラッグレースなどがこれにあたる。ダートトライアルという呼称は和製英語であり、欧米ではダートトラックと呼ぶ。したがってその略称である「ダートラ」のほうが本来は呼称として正確である。
以上の分類に属しないものとして、ドリフト走行による車両姿勢の美しさを競うドリフト競技、一定の速さを保った上で燃費の優劣を競う燃費競争(エコラン)などがある。学生フォーミュラ(フォーミュラSAE、全日本学生フォーミュラ大会など)では、車の速さ以外に設計そのものやプレゼンテーションも評価対象とされ、それらの総合点で順位を決定する。またそもそも動力を持たないカートで争われるソープボックスレースでは、車の見た目の派手さが競技の重要な要素の一つとなっている。
自動車競技の競技が行われる場所を以下に示す。
アスファルト舗装されたコースで、閉路になっているために一般的に複数周回を走行し規定周回を走行することで完走となる。サンドトラップやグラベルエリア、ランオフエリアなどを設けられたサーキット(※:イタリアではアウトドローモ)、楕円形のコースを周回する「オーバル」もこれに含まれる。通常の公道よりも舗装が競技向けに作られているのも特徴。
| 1,528 |
自動車競技
|
自動車競技の競技が行われる場所を以下に示す。
アスファルト舗装されたコースで、閉路になっているために一般的に複数周回を走行し規定周回を走行することで完走となる。サンドトラップやグラベルエリア、ランオフエリアなどを設けられたサーキット(※:イタリアではアウトドローモ)、楕円形のコースを周回する「オーバル」もこれに含まれる。通常の公道よりも舗装が競技向けに作られているのも特徴。
F1からラリーまでさまざまな競技を行う。競技が可能な道路幅と路面状況であることが開催の条件となる。公道といっても様々で、アスファルト舗装された平坦な路面が通常であるが、古い街並では石畳などもある。通常は一般車両が走行するため、交通量が多い箇所になればなるほど路面に轍状の起伏ができやすくサーキットと比較すると滑りやすい。カテゴリによっては一部の公道を閉鎖してサーキット型の競技を執り行う場合や、スタート地点とフィニッシュ地点が別となる都市間競技など行うなどのケースがある。
シンガポール市街地コースやバレンシア市街地コースのようにレースを行うことを前提として公道が整備されることもある。
大勢の観衆が、コース全体を一望できるような常設のスタジアムで行われる場合もある。デモリション・ダービー、8の字レース、モンスタージャムなど、北米発祥の競技では多いパターンである。北米でオーバルレースが盛んなのも、コースを一望できるという点と無関係ではない。
また欧州発祥の競技でも、ラリーのスーパーSSやラリークロス、レーシングカートなどは時折スタジアムでの開催がされることがある。またレース・オブ・チャンピオンズは常にスタジアム内に設置したコースで開催されている。
一般的にオフロード、ダート、砂漠、草原、雪上(氷上も含む)などを指す。ラリーやオートバイのトライアル競技などに使用され、砂や泥でタイヤのグリップ力が弱まるために当然ながら滑りやすい。公道コースと同じように車両が周回できるようにコースを造って競技を執り行うものや、スタート地点からフィニッシュ地点までコースを制定するもの、あるいはスタートとフィニッシュ、チェックポイントは設けてあるものの、完走するまでの行程でどこを走行しても許可される競技も存在する。
| 1,528 |
自動車競技
|
自動車競技における車両は様々な形態があるが、大きく分けると1市販車をレース用に改造した車両(ツーリングカー/GTカーなど)2市販車の要素を少しだけ残した専用設計車両(プロトタイプレーシングカー、ストックカーなど)3市販車の要素を一切残さない専用設計車両(フォーミュラカー、レーシングカートなど)の3つに分類される。
また近年は環境問題への意識の高まりから、電気、水素、太陽光発電などといった化石燃料以外を用いるレーシングカーも多数誕生している。
1車両の全てのタイヤが剥き出しになっている2ドライバーの頭部が外部に露出している3シートは1名分のみという3つの形式を満たす車両。このことからオープンホイール、モノポスト(シングルシーター)とも呼ばれる。完全に競技専用車輌として設計されており、前照灯やブレーキランプなどの保安部品は装備していない。
車輌重量がとにかく軽いため、加速・コーナリング・ブレーキなどあらゆる運動性能がずば抜けて優れている。タイヤが露出している分空気抵抗は小さくないものの、最高速はF1で380km/h前後に達する。
座席は窮屈で乗り降りも手間がかかるため、基本的に一人一台のスプリントレース向けであり、競技場所も路面が平滑に舗装されたサーキットや公道に限定される。
近年は安全上の理由から、ほとんどのフォーミュラカーは強化ガラスのスクリーンやHALOと呼ばれる輪っかのような頭部保護デバイスを装着する。また黎明期にはFRや四輪駆動のものも存在したが、現代では駆動レイアウトはMRで完全に統一されている。
一般人が「レーシングカー」と言われて思いつく形状の代名詞であり、まさに四輪レースの華といえる存在である。
(※主なカテゴリー:F1〜F4、インディカー、スーパーフォーミュラなど)
プロトタイプスポーツカーは、フォーミュラカーとは形式が大きく異なる。根本的な違いはタイヤはフェンダーで覆われており、そして実際には使用しないが助手席が設けられた2座席車であり、UNECEが制定するECEレギュレーションに基づく保安基準(※:日本における道路運送車両法の保安基準もこれに準拠)であるヘッドライト・テールライト・ブレーキランプの装着が義務付けられている点である。
| 1,528 |
自動車競技
|
プロトタイプスポーツカーは、フォーミュラカーとは形式が大きく異なる。根本的な違いはタイヤはフェンダーで覆われており、そして実際には使用しないが助手席が設けられた2座席車であり、UNECEが制定するECEレギュレーションに基づく保安基準(※:日本における道路運送車両法の保安基準もこれに準拠)であるヘッドライト・テールライト・ブレーキランプの装着が義務付けられている点である。
プロトタイプ系の車両は特徴的には市販車に近い点が多く見られるが、フォーミュラ系と同様に純粋なレース専用車両である。先述のECEレギュレーションには適合するように車両の保安基準は準拠しているものの、市販車とは全く別物の形状をしている。これを「プロトタイプレーシングカー」と呼ぶ。これらのプロトタイプレーシングカーはWEC(世界耐久選手権)やUSCC(ユナイテッド・スポーツカー選手権)など耐久レースのカテゴリに多く活躍する。プロトタイプとはその名の通り「試作機」の意味であり、本来は「市販車ではないが、将来の市販化を前提にした少量生産(ゆえに高性能)の試作スポーツカーであり、開発テストのためレースに出ている」というのが原義となる。したがって、同じスポーツカーであってもGTカーとは性質も意味合いも異なる。
基本的には24時間レベルの耐久レースを主眼に置いて設計されており、長時間の運転やドライバー交代を前提とするため、運転姿勢や乗り降りはフォーミュラカーと比べると楽である。前述の通りライトも完備しているため、夜間走行も問題ない。さらにクローズドボディの場合はエアコンも装備される。
近年市場参入するメーカーの多いハイパーカーは、プロトタイプレーシングカーに限りなく近いフォルムと性能をしており、2021年にはWECでプロトタイプレーシングカーに代わるカテゴリ(LMハイパーカー)として成立している。
なおカテゴリの出自によっては単座であったり、ライトが装着されなかったりと、タイヤが覆われただけのフォーミュラカーという実態を持つ場合もある(Can-Am第二期、富士グランチャンピオン第二期など)。
(※:主なカテゴリー FIA 世界耐久選手権、ル・マン24時間レース、ユナイテッドスポーツカー選手権、ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ、アジアン・ル・マン・シリーズなど)
| 1,528 |
自動車競技
|
なおカテゴリの出自によっては単座であったり、ライトが装着されなかったりと、タイヤが覆われただけのフォーミュラカーという実態を持つ場合もある(Can-Am第二期、富士グランチャンピオン第二期など)。
(※:主なカテゴリー FIA 世界耐久選手権、ル・マン24時間レース、ユナイテッドスポーツカー選手権、ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ、アジアン・ル・マン・シリーズなど)
メカニズム的にはツーリングカーの一種だが、レースの形態や歴史的にはプロトタイプとツーリングカーの中間に位置する存在である。
一般的には市販のスーパーカーを改造した車両や、それに匹敵する戦闘力を持ったツーリングカーのことを指す。しかし歴史を遡ると、実態は明らかにプロトタイプスポーツカーなのに、一台のみの公道仕様を制作すれば参戦できる規定が『GT1』の名称で1990年代に施行されていたこともある。またプロトタイプスポーツカーが前項で述べた通り公道車の試作版という建前と戦闘力の近さから、プロトタイプスポーツカーが走る耐久レースのほとんどではGTカーも同時に走る。この混走レースやGTカーのみのレースを、ひとくくりに「スポーツカーレース」と呼ぶ。
GTカーの原義はグランド・ツアラー、グランツーリスモ (英: Grand Tourer , 伊: Gran Turismo)である。GTとは「大旅行」を意味しており、これが派生してアメリカSCCAにおけるトランザムシリーズの名称のように" Trans-AM = Trans-America = アメリカ横断 "という意味になぞられる。そのためスプリントに特化したフォーミュラ系の車両とは異なり、元々は耐久レース(長距離レース)を念頭に開発されたマシンであることが窺える(ただし実際はスプリントレースも多い)。
世界的には00年代に改造範囲によってグループGT1からGT4までが存在したが、現在はほぼグループGT3とグループGT4のみである。日本ではSUPER GTが日本で最も人気のあるレースとなっており、特にプリウスをGT化したマシンがフェラーリやマクラーレンのスーパーカー勢と互角以上に渡り合うのがここ10年の風物詩となっている。
(※:主なカテゴリー IGTC、GTワールドチャレンジ、SUPER GTなど)
| 1,528 |
自動車競技
|
(※:主なカテゴリー IGTC、GTワールドチャレンジ、SUPER GTなど)
ツーリングカーは街中でよく見るような市販車をレース用に改造した車両である。前出のGTカーとの境界線は極めて曖昧だが、ツーリングカーは大衆車~中級車クラスがベースとなっている事が多い。
ツーリングカー競技に参戦する車両は、参戦する車両(自動車会社)が標準として定めるボディを基礎とし、これをルールによってエンジン、サスペンション、ブレーキ、ホイールとタイヤなど変更が許される範囲の物が使用される。骨格以外は市販車とは全くの別物であるのが一般的である。
参加者としては参加車両を確保しやすく、レース観戦者側から見ても内容が判りやすく白熱しやすいことから、自動車競技の中で最も基本的でポピュラーなカテゴリーの1つとも言える。参戦費用が比較的廉価でありながらもレース自体の奥深さからF1を引退した後に自身の新境地としてツーリングカーに参戦するドライバーも多く、こうした事から観戦者の関心もメーカー側の宣伝に対する費用対効果も相して高いことからもさまざまなメーカーがスポンサーとして参入しやすいのも特徴である。
一方でプロフェッショナルレベルで長期間歴史を紡ぎ続けることのできるツーリングカーシリーズは世界的に見ても少ない。これはツーリングカーレースが市販車をベースにする以上、ベース車両の人気の偏りゆえに参戦車種も偏ったり、自動車ファンの興味を惹けないような車種ばかりになってしまったり、優秀なベース車両を量産するコストに自動車メーカーが耐えられなくなったり、逆に劣ったベース車両を改造するのに莫大なコストを費やさざるをえなかったりと、市販車の事情によってレースの事情も大きく左右されてしまうからである。現代ではそうした反省から現代のプロのツーリングカーレースは、外観は多様に見えても、中身は共通コンポーネントや共通エンジンを用いたり、空力開発を制限してコストを削減しつつ車種のバラエティを維持している場合が多い。加えてスプリント形式の場合はレースでポイントを加算するにつれて「鉛のトロフィー」と呼ばれるハンデキャップ用のウェイト(バラスト)を次戦から装着することで、参加者同士のスピードの開きを無くし、弱小エントラントの参加意欲を促すことも珍しくない。
| 1,528 |
自動車競技
|
レースの形態はスプリントから耐久まで幅広いが、国際シリーズの場合はタイヤ交換を必要としない程度の周回のスプリントレースを同じ週末に2~3ヒート開催する事が多い。
(※主なカテゴリー:WTCR、DTM、BTCC、スーパー耐久 など)
ラリーは基本的に市販車を改造したマシンで行われるため、外観はツーリングカーと非常によく似ている。しかしラリーでは舗装された公道(ターマック)から平坦な砂利道(スムースグラベル)、さらには人間の頭大の岩が転がる荒れた砂利道(ラフグラベル)などの悪路を市販車の設計段階では考えられない速度で走行するため、車体にはツーリングカーに使用される車両以上の頑強な補強が求められる。ラリーに使用される車両はまず一度完全に分解され、内装には頑強なスチール製のロールケージが組み込まれる。これによって事故発生時の乗員の安全性を確保している。レギュレーション次第ではスポット増しも行われ、ロールケージと合わせることで車体剛性が飛躍的に高まるためにドリフト走行がしやすい基本的な車両構造となる。
| 1,528 |
自動車競技
|
ボンネット内は熱対策が施される。カテゴリによってホモロゲーションの違いがあり改造可能は様々ではあるものの、ラリー競技は比較的低速な状態でエンジンを高回転に回す必要があるため、その対策も必須となる。先述のような悪路を常識では考えられない速度で走破するため、車の下回り(オイルパンやデフ)を保護するためのアンダーガードを装着しているのが特徴である。さらに上記の場所を走行するため、サスペンションもストローク量が大きい物を装着し、車高も走行する路面の状況に合わせて高くするときも低くするときもある。ラリーカーもツーリングカーと同じく2席のシートが設けられているが、ラリー・ラリーレイドではこのシートにコ・ドライバーが座る。彼らはドライバーに情報を送るためにペースノートや資料を読み上げる必要性があり、そのためにナビランプと呼ばれるコ・ドライバーの手元のみを照らす照明器具が装備されているのも特徴である。ギアボックスに関してはどのカテゴリの車両よりも低い速域で非常に高い値のギアレシオのギアが装着される傾向がある。リアウィングに関しては低速域から高いダウンフォースを発揮できる構造の物が求められるため、そうした要求を発揮するために「スプリッターリアウイング(※:通称、本棚ウィング)」などラリー用に作られた独自の形状をしたウィングが使用される。
(※主なカテゴリ:WRC、ERC、APRC、JRC など)
ラリーとラリーレイドは公道でレースを行うという性質上、最低限の公道規則に合致する必要があったり、ナビゲーター用の助手席やスペアタイヤや工具などを装備する必要があるなどの共通点はあるが、車両のシルエットには大きな違いが見られる。
ラリーカーは伝統的に小型の市販乗用車の形をしているのに対し、ラリーレイド用のクロスカントリーカーは市販のラダーフレーム構造のSUV、ピックアップトラック、SSVのようなバギーカー、さらにはトラック(後述)まで大きさも多様な種類のものが存在している。これらはいずれもFIAのグループT規定の下に、クロスカントリーカーとしてまとめられている。
| 1,528 |
自動車競技
|
ラリーカーは伝統的に小型の市販乗用車の形をしているのに対し、ラリーレイド用のクロスカントリーカーは市販のラダーフレーム構造のSUV、ピックアップトラック、SSVのようなバギーカー、さらにはトラック(後述)まで大きさも多様な種類のものが存在している。これらはいずれもFIAのグループT規定の下に、クロスカントリーカーとしてまとめられている。
ラリーに比べると俊敏さよりも砂漠や急斜面での確実な走破性が必要となり、従って求められるサスペンションストローク量やタイヤサイズは巨大なものになる。またクラスによっては、タイヤの内圧調整をコックピットからできるシステムを搭載している場合もある。
(※主なカテゴリ:W2RC、ダカール・ラリー、アブダビ・デザートチャレンジ、シルクウェイ・ラリーなど)
南北アメリカ大陸におけるレースで、最もポピュラーな自動車競技車両の1つである。ひとえにストックカーとは「見た目が乗用車と同じマシン」という曖昧な定義からなされるため、ほぼ無改造の車両から完全なレーシングマシンまで存在する。後者に関してはツーリングカーに似ているが、ツーリングカーの様な市販車改造車両ではなくストックカーは完全なレース専用設計車両である。ただしGTカーのように最高技術の結晶のような車両かといえば違い、エンジンはOHVであることからも一見して現在の自動車テクノロジーから後退した構造に見受けられる。 しかし、その単純な構造から高い回転数と馬力を生み出し、大排気量エンジンから圧倒的なトルクが生み出される事から非常に高い水準の技術から造られているのが分かる。ストックカーは他のレーシングマシンと比較して重い車両であり、ほぼ市販車と変わらないくらいの重量を誇る。そのボディ構造はアルミニウムと鉄からなるパイプフレームにグラスファイバー製のボディを被せて完成する。
| 1,528 |
自動車競技
|
現在のストックカーはライト類(前照灯、尾灯)が存在しているかのように見えるが、本来の市販車ならばライト類がある場所にその形状を模したシールや塗装を施しているだけであり、実際にはライト類は装備されていない。ドアの継ぎ目が見受けられないことから分かる通り、ドライバーの乗降は窓から行う。レースの性質上、ほかの車両と接触することが多いために比較的ボディ強度は高い。 代表的なストックカーレースはNASCARであるが、この他にIMCAなど開催されるストックカーレースもある。IMCA系のストックカーレースはダートトラックで行われることが多いが、根本的な構造はNASCARと変わりはない。
ストックカーの中でも旧車両を使用したレースなども開催され、こうしたものを「レイトカー」(英: late car)と呼ぶ。レイトカーは古いストックカー車両を使用しているため、現在のストックカーのようにグラスファイバー製のボディを被せたりしたものは少ない。レイトカーの多くが前者にあたる「市販車改造車両」が多く、ライト類が装備されているものや、ドアの開閉が可能なものもある。ストックカーの歴史からみてこれらレイトカーのように古来は適合するホモロゲーションをクリアする事を前提に軽量化のためにボディを1度分解してその各ボディを酸に浸すことによってわずかでもボディを薄くして軽量化を施したり、市販品ならば使用しても良いというホモロゲーションルールから市販品でも非常に高価なものを装備するなど、参戦費用が莫大になっても少しでも速いマシンを手に入れるために工夫がなされていた。こうしたことからストックカーは市販車改造車両をベースとしたものであったが、低コストと高い安全性を両立するという観点から手法を模索していった結果、完全独自設計車両に進化していったことがうかがえる。
(※主なカテゴリー:NASCAR、IMCA、ストックカー・ブラジルなど)
| 1,528 |
自動車競技
|
(※主なカテゴリー:NASCAR、IMCA、ストックカー・ブラジルなど)
レース用の貨物自動車(トラック、カミオン)も存在する。競技に使用されるトラックは、多くの場合競技専用に開発された車両が使用される。そのため見た目はトラックのように見えても、貨物自動車本来の「貨物を運ぶ」という機能は持たないのが一般的である。ラリーレイドではスペアパーツなどの運搬のために別途「サポートカミオン」と呼ばれる通常のトラックが投入されるが、それらは一応競技参加車両ではあるものの順位争いには参加しない(そもそも競技専用車両とは性能が違いすぎるため競走が成り立たない)。
トラックのレースは日本ではあまりなじみがないが、日本国外ではフォーミュラ・トラック(大型トラクター)やNASCARキャンピング・ワールド・トラック・シリーズ(ライトトラック/ピックアップトラック)など、カテゴリが多数存在する(キャンピング・ワールド・トラック・シリーズはストックカー系にも分類される)。またラリーレイドでは、通常のラリーカーによって争われるクラス以外に競技用カミオンによって争われるクラスが設けられることが多く、特にダカール・ラリーにおけるカミオンクラスは一つの名物となっている。
ヒルクライムレースとして長い歴史を持つアメリカのパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムにも、「セムアイ」と呼ばれる大型トラクターのエキシビションがあり、その豪快な走りぶりから同イベントの名物として人気が高い。
1/4マイル(約402m = 約0.4km)という短い競技区間でのタイムを競う。競技はドラッグストリップと呼ばれる直線の専用レース場で行われる。スタート前にバーンアウト(バーンナウトとも)を行い、クリスマスツリーと呼ばれる電光スタートシステムに従ってスタートを切り、急激に加速、フィニッシュラインを越えると減速が行われる。上位クラスの車両ではブレーキが車両の加速力に見合わない設計になっているため、パラシュートを用いて空気抵抗による減速を行う。ボディ形状はオープンホイールやクローズドボディのスペースフレームからノーマル車両まで様々で、エンジンやその他の補機類に至るまで細かくクラス分けがされている。
| 1,528 |
自動車競技
|
最も速いクラスはトップ・フューエル、続いてファニーカーであり、これらのクラスはニトロメタンが90%を占める特殊な燃料を使用する。
北米ではストックカーに続く高い人気を誇る。
(※主な主催団体:NHRA、IHRA、ANDRAなど)
ソーラーカーや電気自動車に代表される、内燃機関以外の動力を用いる自動車もレースに使用される。ソーラーカーの場合はレースに参加するチームがそれぞれ独自に車両を開発することが多い。電気自動車については、市販車を改造するタイプからフォーミュラカーまで様々なタイプのものが開発されている。
歴史的にはソーラーカーレースが1985年より行われており、著名なレースとしてワールド・ソーラー・チャレンジなどがある。1990年代からは電気自動車によるレースも徐々に開催されるようになっており、1994年より2004年までフォーミュラ・ライトニングが開催され、2014年よりFIAがフォーミュラEの名称で電気フォーミュラカーによるメジャーカテゴリを誕生させている。2021年には電気自動車によるオフロードレース「エクストリームE」や電気自動車のツーリングカーによるE-TCRが登場し、さらに将来は世界ラリークロス選手権でも電気自動車が導入されるなど、将来の内燃機関の禁止に向けた対応が加速している。
また純然たる代替エネルギーではないが、近年ではル・マン24時間レースやF1、スーパーGT、WRC等のカテゴリーに於いて、ハイブリッドシステムを導入する競技も増加している。
市販車改造系で、比較的一般参加が容易なものとされる。特徴としては多くの競技参加者が自ら所有する車両を改造し、ドリフト走行に適した改造を施している点である。したがって、他の自動車競技よりも改造や競技参加のための資金が廉価で済む傾向がある。
| 1,528 |
自動車競技
|
市販車改造系で、比較的一般参加が容易なものとされる。特徴としては多くの競技参加者が自ら所有する車両を改造し、ドリフト走行に適した改造を施している点である。したがって、他の自動車競技よりも改造や競技参加のための資金が廉価で済む傾向がある。
ドリフト系競技の中で代表的な競技にとして、全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)の様に純粋にドリフト走行の技術を審査する競技が挙げられる。この競技はドリフト走行を行う上で初歩的な改造から上級者向けの改造まで様々なものがあるが、初歩的な方法として車両の前後のバランスを変えることから始める事も可能であり、そのためドリフトを始めるハードルは低い。しかし、その反面にドリフトを行うには車両の動きをよく理解している必要もあり、自分が所持する車両を用いてかつ、その特性を見極めてセッティングを行っていかなくてはならない。また、前述のD1グランプリのような大きな自動車競技大会に参加する車両の中にはツーリングカー競技に参加するほどのレベルにまで改造を施している場合もある。D1グランプリを含むドリフト審査競技は、競技の在り方が「速さを競う」ではなく、ドリフトの豪快さや美しさを競う審査方式であるため、ツーリングカー系やラリーカー系などの市販車改造系と根本的な改造方法が異なり、特に観客を魅せるドリフトを追求した改造方法となる。一般的にはブーストアップや後付けターボチャージャーに比較的小型のタービンを装備するなど小改造に留めておいたほうが、低回転域のトルクが稼げるためにドリフト走行はしやすくなるが、大きな大会に出場する程の車両になると、タイヤからの白煙を出しやすくするためにタービンを大型化するなどさらなる改造が施される。これはタイヤスモークを出すことがドリフト審査における加点対象であり、これらのことからもドリフト競技車両は単にドライバーがドリフトをしやすいように改造されただけでなく、観客に対していかに豪快で華麗なドリフトを魅せることができるかを追求して改造された車両であることが窺える。
(※主な主催団体:全日本プロドリフト選手権、フォーミュラ・ドリフト、ドリフトマッスル)
| 1,528 |
自動車競技
|
(※主な主催団体:全日本プロドリフト選手権、フォーミュラ・ドリフト、ドリフトマッスル)
スラローム競技の代表格としてジムカーナが挙げられる。ジムカーナはモータースポーツライセンスの国内B級ライセンスで行える競技であり、競技も小規模なサーキットや舗装された広い駐車場などでも行うことができる。英語圏では「オートクロス」と呼ばれている競技とも非常に良く似ているが、一般的にジムカーナのほうが高い技術を要するといわれている。ドリフト系競技と同様に競技人口も多い。その背景にはドリフト系と同じく他の自動車競技と比較してもハードルが低い競技であり、参加する車両も基本的には市販車を小改造したもので行われる。したがって参戦費用も廉価である。改造はサスペンションなどの足回りや車体剛性の強化、そしてブレーキの強化などがあげられる。サスペンションや剛性の強化はハンドリングの向上を主な目的とし、ブレーキの強化もサイドターンを行う場合に車両前方に荷重を移動しやすくさせるためである。
この他、ジムカーナはパイロンのスラローム競技である為、競技参加車両が痛む可能性が低く安全性も非常に高い。したがって、衝撃に対する補強などはあまり行われない反面、競技車両を徹底的に軽量化されることもある。これに対し、砂利や泥の上で行われるスラローム競技であるダートトライアルは、競技に使用される車両の特徴や改造方法はあまり変わらない、未舗装路面で競技が行われる為、ジムカーナ競技よりも保安装備を厳重にする必要がある。
なお、これらの競技クラスによっては一部ではフォーミュラカーでも参加する場合もある。
速さではなく燃費を競う燃費競争では、シェル エコマラソンへの参加車両のように動力については競技専用に開発される場合が多いが、Honda エコ マイレッジ チャレンジのようにホンダ・カブなど燃費の良さで知られる市販車エンジンを改造して使用するクラスが設けられるものもある。
以上の分類に属しない車による競技も多数存在する。いくつか例を挙げると、ミジェットカー(ダートオーバル専用マシン)や、富士グランチャンピオンレースの後期(フォーミュラカーのモノコックにスポーツカー風のフルカウルを被せたマシン)、上記の複数のカテゴリーのマシンが混在して参加するレース(ドラッグレース、ヒルクライムなど)がある。
| 1,528 |
自動車競技
|
以上の分類に属しない車による競技も多数存在する。いくつか例を挙げると、ミジェットカー(ダートオーバル専用マシン)や、富士グランチャンピオンレースの後期(フォーミュラカーのモノコックにスポーツカー風のフルカウルを被せたマシン)、上記の複数のカテゴリーのマシンが混在して参加するレース(ドラッグレース、ヒルクライムなど)がある。
自動車レース(競技)への参加者は、参加形態という観点からは、大まかに言うと、ワークス/プライベーター/セミワークスの3つに分類される。またスポンサーも、広い意味での自動車レース参加者である(後述)。
トヨタや日産などの、市販自動車メーカー(マニュファクチャラー)が自社の資金・人材・技術を使用して組織した直系チーム。タイヤなどの部品メーカーの場合も含まれることがある。「ファクトリー・チーム」ともいう。
長所としては豊富な資金力と自動車製造企業というあらゆる設備が整った母体を背景に自動車競技に参入できるため、一般的に強豪チームとして成果を上げやすい。その反面、景気や企業の業績、世界情勢などコース外での変化の影響を受けやすい。株主や社内の反対派の反発を受け、ワークスが撤退を余儀なくされるのは珍しい話ではない。
ワークスの参戦は多くの自動車ファン・一般人の耳目を集めやすいため、運営はワークスの参入を促すような規則を設定する傾向にある。
ワークスではないレーシングチームや、個人参戦者全般を指す。
長所としては、個人やチームの運営能力やノウハウだけで競技を行うことができること、純粋にレースへの情熱で参戦を継続できるなど、さまざまな制約から解き放たれている点である。一方で自動車製造のノウハウや資金が少ない場合も多く、トップカテゴリで勝利するまでにはワークス以上の投資が必要となる。レース運営側はプライベーター向けに低コストに参戦できる規定を導入する場合があるが、そちらの規則が戦闘力や販促の都合上有利と見たワークスチームが潤沢な資金力で利用してしまい、議論を呼ぶ場合もある。
| 1,528 |
自動車競技
|
特に大規模なカテゴリになればなるほどプライベーターはワークスよりも高いノウハウと資金力が必要とされ、潤沢な資金力を作り出すことができるなんらかの「母体」となる事業や企業が必要とされる。母体となる企業はチューニングショップや自動車販売店に始まり、工業製品メーカー、アミューズメント、飲料メーカー、衣服メーカー、雑誌出版社...など様々で、経営者が自らもレーサーとして参戦するほどの自動車好きの場合もあれば、全くレースに興味は無いが自社の宣伝のためだけに利用しようとする場合もある。
長年レースを経験している老舗のプライベーターは強大な力を持っているため、ワークスをもってしても打ち破るのは困難である。そうしたプライベーターは、自動車メーカーからの依頼でマシン開発・チーム運営の協力やOEM供給、さらにはワークスの看板を背負ってのレース活動を行う場合もある(後述)。
最初はプライベーターであったが、後に車両開発ノウハウを活かして市販車メーカーとなり、ワークスへ変貌を遂げたチームもある。フェラーリやマクラーレンなどがその代表的な例である。またフォードやホンダのように、創業者が個人参戦者としての経歴を持っている市販車ブランドも珍しくない。
市販車メーカーが支援するプライベーターのこと。市販車メーカーがマシンや所属ドライバー、技術スタッフ、資金などをプライベーターに送りこんで支援する。
市販車メーカー側は純粋なワークス体制と比べて初期投資・継続参戦コストが大幅に軽減でき、プライベーター側も自動車製造会社からのさまざまな恩恵によって運営資金を軽減しつつ高い戦闘力を得ることが可能となる。また運営が「ワークスチームの参戦禁止」を謳うカテゴリでも、「プライベーターを支援」という体裁を主張してかいくぐることが多くの場合可能である。
総じてコストパフォーマンスに優れているため、純粋なワークス体制よりも多く見られる参戦形態である。
短所としては、両者の運営方針の違いや温度差で制限が発生する点である。それぞれにノウハウや主義などの要素が交錯するために、効果も副作用もワークスとプライベーターの中間的な位置付けになってしまう傾向がある。市販車メーカーが本腰を入れる場合はそのデメリットを回避するため、多額の資金と引き換えに完全にプライベーター側を支配する形で「ワークス化」することもある。
| 1,528 |
自動車競技
|
短所としては、両者の運営方針の違いや温度差で制限が発生する点である。それぞれにノウハウや主義などの要素が交錯するために、効果も副作用もワークスとプライベーターの中間的な位置付けになってしまう傾向がある。市販車メーカーが本腰を入れる場合はそのデメリットを回避するため、多額の資金と引き換えに完全にプライベーター側を支配する形で「ワークス化」することもある。
スポンサーシップ (英: Sponsorship) とは「後援」を意味し、その名の通りチームや選手に対して技術や資金を提供することである。こうした資金と技術提供者をスポンサーと呼ぶ。自動車競技におけるスポンサーは、大きく分けて「テクニカルスポンサー」と「コマーシャルスポンサー」の2つが存在する。
自動車競技において選手・チームが優秀な成績をあげることは、その選手・チームに携わる自動車および自動車関連部品のイメージアップにも繋がる。そのため製造各社はさまざまなかたちで競技参加者を支援しており、個人の参加車にもサポートをする。先述のセミワークスもこれに該当し、車体だけでなく部品供給などの恩恵を与えることでこれらの当該企業の営利的な目的にもなる。こうしたことからもセミワークス体制は「テクニカルスポンサー」を受けたプライベーターという解釈も可能である。
また競技の参加は基本的に多額の資金やメカニック・エンジニアなどのスタッフが必要になるため、競技参加者は自動車製造会社だけではなく、広く経済社会全体からスポンサーを見つける努力を行う事が常となる。スポンサーによる資金の提供を受けた場合は、選手のレーシングスーツ(ユニフォーム広告)や車体にスポンサーのロゴの掲示やコーポレートカラーとする「コマーシャルスポンサー」が一般的である。
自動車競技におけるスポンサーは1960年代後半に入ってから行われるようになり、F1のチーム・ロータス以降に車体にスポンサー企業や団体を掲載し、さらにメインスポンサーが求めるカラーリングで車両を塗装する「スポンサーカラー」という手法が確立した。その収入によってより強力なチーム体制を身につけることに成功した背景から、自動車競技は「走る広告塔」と比喩されるまでになった。
| 1,528 |
自動車競技
|
自動車競技におけるスポンサーは1960年代後半に入ってから行われるようになり、F1のチーム・ロータス以降に車体にスポンサー企業や団体を掲載し、さらにメインスポンサーが求めるカラーリングで車両を塗装する「スポンサーカラー」という手法が確立した。その収入によってより強力なチーム体制を身につけることに成功した背景から、自動車競技は「走る広告塔」と比喩されるまでになった。
自動車競技はチームとは別にドライバー個人に対しスポンサーが付く場合も少なくないのが特徴である。これを「パーソナルスポンサー」と呼ぶ。パーソナルスポンサーはコマーシャルスポンサーの一種であり、このスポンサーがチームにも持ち込む資金を見込んでプライベーターチーム側がドライバーに対する契約締結の条件にするケースも珍しくはない。これはチーム運営にかかるコストが莫大である自動車競技という競技の特性が大きな要因である。必然的にスポンサーになる企業もその広告費の高さから比較的大きな企業に限られる。
資金不足が顕わになったチームは、ドライバーの競技の実力よりも、多額のスポンサー資金を持ち込んでくれるドライバーを選ぶ傾向が強い。特に下位カテゴリから昇格を目指す新人ドライバーは、それまで戦ってきたカテゴリでの特筆される実績とプラス(あるいは実績とは関係なく)して、スポンサー資金を要求されることは往々にしてある。通常はドライバーもスポーツ選手と同じく一つの職業であり、彼らと同等に戦果や奮闘の対価としてチーム側から契約金や年俸などが支払われ利益を得るのが常ではあるが、ペイドライバーの場合は反対にチーム側からの支払いを一切受けることがない、あるいはごくわずかな年俸などを得てチームのレギュラーシートに座る。そしてシートの見返りとしてドライバーが持ち込んだスポンサー企業がチームに付き、スポンサー料をチーム側に支払う。このように競技の実力以上にスポンサー資金の額の多さによってシートを得たドライバーは、時には揶揄のニュアンスも含んで『ペイドライバー (英: Paying Driver)』 と呼ばれている。
| 1,528 |
自動車競技
|
時としてこうしたスポンサー目当ての新人ドライバー契約が問題視される場合もある反面、潤沢な資金力による長期的なレースへの参加により成長して実力も伴うようになり、結果的にドライバーが大成するケースも多々ある。また新人ドライバーが資金不足に苦しみながら活躍して才覚を披露した後に大規模スポンサーがつくというケースもあるため、一概にペイドライバーを悪とは決めつけづらい側面もある。 チーム側としてはチームの存続は運営上の重要事項であるため当然とする見方もある一方、ペイドライバーを雇うようなチームだと思われるのは好ましくないと考えるところもあり、ペイドライバーについては評価が分かれる。
スポンサー企業の傾向としては、サスペンション・エンジンオイル・タイヤなど勝敗に直結する部品から、ランプ、ワイパーなどのような細かい部品を含め、自動車関連部品を取り扱う企業が多い。しかしこの場合は大金を提供されるより、部品を割安あるいは無償供給されているという場合が多い。
潤沢な資金力を持つ産業として、以前はマールボロを代表とするタバコ企業が幅を利かせていた。しかし1980年代後半よりEU諸国から始まったたばこ広告規制強化によって、たばこ広告の縮小を始める。この規制はイギリスで最初に行われ、F1においてもイギリスGPではタバコ銘柄の名称を記載する行為を禁止した。この風習は後の喫煙問題によってEU諸国に広がり、現在ではヨーロッパ諸国全土においてたばこ広告の掲載は禁止されている。北米でもウィンストンを展開するR.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーが、30年近くに渡り続けてきた冠スポンサ-を2003年で降板した。近年では車体に描かれる図柄がたばこ広告に似ている、あるいはサブリミナル効果としてタバコを連想させるというだけで問題視される傾向にあり、事実上たばこ広告は完全排除されている。この他にも、アルコール飲料のスポンサーも、飲酒運転やアルコール依存症などの問題で規制される傾向にある。
| 1,528 |
自動車競技
|
タバコ産業が撤退した後にはレッドブル、モンスターエナジー、ロックスターといったエナジードリンクメーカーが台頭している。またマイクロソフトやレノボ、ヒューレット・パッカード、ドコモ、KDDIなどの大手IT企業もスポンサーとして名乗りを上げることが増えている。IT企業は基本的にはコマーシャルスポンサーであるが、現物支給としてワークステーションやスーパーコンピュータなどの自社製品やIT技術者をチームに提供し、数値解析で車両開発を支援するなどテクニカルスポンサーとして活動する企業もある。
日本の自動車競技のスポンサーはパチンコ・スロットを主力とするアミューズメント系企業のスポンサーが多いことや、アニメ・漫画・ゲームなどの二次元産業とのタイアップにより痛車が参戦しているのが特徴である。
使う道具の優劣を競う面も持つ自動車競技の規則には、大別してスポーティングレギュレーション(競技規則)とテクニカル・レギュレーション(技術規則)の2種類が存在する。
規則はカテゴリによって様々であるが、資金力で優劣が決しやすく、参加者の出入りが激しい自動車競技の規則は、自由な競争と性能均衡という二律背反の事項を両立するために知恵が絞られているのが大きな特徴と言える。
車両の構造物・部品の多くは、運営からホモロゲーション(公認)を得た物でなければ使用できない。構造物・部品を新規に開発する場合は、そのたびに公認を取得する必要がある。ただし現代においては公認取得の回数は制限されている場合が多い。これは規模の大きいチームが資金力に物を言わせて開発を続々と進め、他の資金力で劣るチームたちがついていけなくなるような状況を避けるためであり、ひいては参戦コストを下げてチームの新規参入や継続的参戦を促すためである。この回数を制限されているホモロゲーションの取得の権利は、カテゴリによっては「ジョーカー」などと呼ばれている。一年間に複数回取得できるならまだいい方で、構造物や部位によっては、1回ホモロゲーションを取得したら数年に渡って使用しなければならない場合もある。トップカテゴリでは特にホモロゲーションの取得回数制限が厳しい傾向があり、基本設計のミス次第では以降数年間の優劣を決定してしまうこともある。
| 1,528 |
自動車競技
|
技術的に規則に合致していることはもちろんであるが、ツーリングカーやラリーのように市販車との関連性を重視する競技では、市場で最低数百ないし数千レベルで生産・販売されていることがホモロゲーション取得条件に設定されている。一見すると不利に見えるような市販車をベースにしているケースの多くは、この最低生産台数が理由である。
現代のレースでよく用いられる規則として、性能調整(Balance of Performance、BoPとも)が存在する。これは各メーカーが自由に開発しホモロゲーションを取得した競技車両たちに、運営側が共通のテストやアルゴリズムの下に計算した上で、ウェイト(重量物)やリストリクターの装着、燃料タンク容量の増減などを行い、戦闘力を均一にするものである。これにより参戦車種のバラエティを増やし、参加者もファンも楽しませることが可能となるが、一方で100%正確に戦闘力を均一にするのは不可能であるため、どうしても異なるサーキットやコンディションにおける有利・不利が出てしまう。そのため参加者やファンが勝敗の原因を実力ではなく性能調整のせいにし、喧嘩に近い議論を呼ぶこともある。また有利な性能調整を受けられるように、参加者が公式練習や予選でわざと本気を出さないで性能調整のやり直しを求めるという駆け引きもあり、これもよく議論の対象となっている。
同じような概念で、GTやツーリングカーレースでよく用いられるものにサクセスバラストやウェイトハンデがある。性能調整はレース本番前だが、これらはレース後の結果に対して課せられるウェイトやリストリクターのハンデで、性能調整に比べると事後的ではあるため効果が出るのは遅いが、その分公平性を期しやすいメリットがある。しかしこちらも「勝ったチームがペナルティを課せられているみたいだ」「強いチームほど勝てなくなるのはおかしい」などの批判が事あるごとに沸き起こっている。またポイントシステムや残りレース数などを計算した上で、わざとライバルを前に行かせて後のレースを有利にするような駆け引きが行われることがあり、複数の参加者が同じことを考えていると、速さを競うレースなのに前を譲り合うような、ともすると情けない光景が繰り広げられることもある。そのためSUPER GTでは、最終2戦でハンデを軽減あるいはゼロにすることで、そうした事態を避けている。
| 1,528 |
自動車競技
|
上記の手法はすべての自動車競技で用いられているわけではなく、例えばフォーミュラカーレースではあまり見られない。しかしそこでも異なるエンジン気筒数や排気量、駆動レイアウトなどが混在している場合、それらの勢力均衡させるために開発前に配られるレギュレーションの段階で異なる参加条件(エンジン回転数や最低重量など)が設定されたことはあり、そのバランスをめぐってやはり議論が何度も繰り返されてきた。そのため現在では、エンジンのバラエティを追求するよりも、公平さを重視して気筒数・排気量を完全に統一した上で開発競争を行うカテゴリが主流となっている。
突き詰めると全員が同じ車体・同じ部品を使う「ワンメイク」が最も平等で簡単な解決策に見えるが、それでは車種や技術のバラエティが無く、開発競争に興味を持つ企業やエンジニア、ファンを惹きつけられないという別方向の問題が浮上する。なるべく多くの参加者とファンが納得できるようなレギュレーション作りは、自動車競技運営の永遠の課題である。
下記の3つのレースは「世界三大レース」と呼ばれる。
これらのレースはそれぞれが「レースの象徴」といっても過言ではなく、同時に第二次世界大戦前から始まっているほどの長き伝統のあるレースでもある。
インディ500が開催されるインディアナポリス・モーター・スピードウェイでは、平均時速が約350km/hに達する超高速のレースが3時間にわたって繰り広げられる。
モナコグランプリはモナコ公国の中心地であるモンテカルロ市街地コースで行われるレースである。F1マシンという超高性能車両を駆使して繰り広げられるこのレースは平均時速160km/h程度とF1では超低速コースではあるものの、コース幅が非常に狭く、エスケープゾーンもほとんどないためにミスが許されない。このようなレースを78周にわたって1時間40分近く繰り広げられるため、ドライバーの力量が大きく問われる屈指の難コースとして知られる。
ル・マン24時間レースが開催されるサルト・サーキットは1周が13.605kmのロングコースであり、これに加えて1つの車両を24時間かけて走り続ける耐久レースである。ドライバーの交代はあるものの、速さはもとよりマシンの信頼性も問われ、さらにはそれぞれのドライバーの運転能力以外に集中力の限界までも挑戦させる。
| 1,528 |
自動車競技
|
ル・マン24時間レースが開催されるサルト・サーキットは1周が13.605kmのロングコースであり、これに加えて1つの車両を24時間かけて走り続ける耐久レースである。ドライバーの交代はあるものの、速さはもとよりマシンの信頼性も問われ、さらにはそれぞれのドライバーの運転能力以外に集中力の限界までも挑戦させる。
この世界3大レースのそれぞれで多数の優勝記録を持つドライバーが存在するものの、世界3大レースを全てを制したドライバーは2021年現在でもグラハム・ヒルのみである。
自動車競技ではレース中の主催者からドライバーへの情報提供や指示に旗を用いる。その色の意味は以下の通りである。掲示方法には、掲げたままの「静止」と、振る「振動」とがあり、両者で指示内容が異なる場合がある。
時速数十kmから数百kmという高速で移動しながら0.1秒を削る競走をしつつ、時にはその速さでマシンが触れ合うようなバトルを行う自動車競技では、命に関わる重大事故はつきものである。これはアマチュアはもちろんのこと、どんなに卓越した腕を持ったプロのレーシングドライバーでも同じである。
近年では、車両規定の変更や新素材開発などによる競技車両の安全性の向上にとどまらず、レース場の設計上の安全性や医療体制の充実など、事故の発生防止と、事故の被害を最小限に抑える努力がなされている。その結果、大きな事故は減少し、事故による被害も縮小してきている。下記の死亡事故に代表されるような犠牲者たちの上に、そうした安全は成り立っているといえる。
最初の死亡事故は1896年5月1日(5月2日?)にペリグー近郊で開催された「ペリグー公道レース」にてマルキス(アンドレ)・ドゥ・モンティニャック侯爵が死亡したのが、記録に残る初のレース死亡事故とされる。前方を走る他の競技参加車両を追い越そうとモンティニャック侯爵が無謀な運転を行ったとされ、侯爵の車両は接触により横転し、この事故によってモンティニャック侯爵は死亡した。推定速度は40km/hだったと言われる。
| 1,528 |
自動車競技
|
観客を巻き込んだ死亡事故として初めて記録されるのは、自動車競技の歴史でも前述したマルセル・ルノーが起こした事故である。上記のモンティニャク侯爵の頃は平均時速25km/h程度で、40km/hでも危険な速度と言われていた時期であったが、1900年には既に平均時速は60km/hを超え、ルノーの事故の頃にはさらに自動車性能は著しい向上をみせ、レース参加者だけでなくその観戦者の人命について危惧された矢先の出来事であった。この事故によって国際的な世論にまで発展し、公道レースを認めない自治体が急増してサーキット建設の必要性が問われることとなった。
ル・マン24時間レースにおいては、1955年6月11日に発生したメルセデス・ベンツの死亡事故が自動車競技における最大の死亡事故であるといわれる。 ドライバーのピエール・ルヴェーが駆るメルセデス・ベンツ・300SLRが爆発炎上し、ルヴェーと観客・スタッフ含む81名が死亡するというモータースポーツ史上最悪の惨事が発生した。また、この前後にもF1のアルベルト・アスカリがテスト中に事故死し、インディ500で3連覇を目指したビル・ブコビッチが多重クラッシュにより死亡するなど自動車競技に悲劇的な事故が連続し、ル・マンでの事故を契機にメルセデス・ベンツがレースの舞台から撤退するなどレース界に激震を走らせたが、レースに対する安全対策とマシンの性能抑制という意識改革をもたらすきっかけとなった。
| 1,528 |
自動車競技
|
F1においてもドライバーやチーム関係者、そして観客を含めて多くの死亡事故が発生している。特に黎明期は鋭利化したバリアによって首を切断されたヘルムート・コイニクの事故や身体を真っ二つに切り裂かれたフランソワ・セベールの事故のような凄惨な事故が起きた。またコース・マーシャルの配置が現在より乏しかった事と、マーシャルがレース開催中のサーキットを安易に横断することが当たり前だったことなどからトム・プライスの事故の様な死亡事故も発生した。ジル・ヴィルヌーヴの事故のようにシートベルトの強度不足も相まって、マシンから宙に放り出されフェンスに叩きつけられて死亡、あるいはヨッヘン・リントの事故のようにシートベルトそのものを装着する事を嫌って死亡事故の遠因となったものもあった。こうした事故は現代の目線から見て技術的に安全装備が未発達であったことを差し引いても、安全に対する意識の低さが招いた部分も大きいが、これらに対してドライバーたちはただ指を咥えて見ていたわけではなく、F1開幕の翌年の1961年にGPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション)を結成し、運営の安全意識の低さに抵抗した。GPDAは82年に一旦解散させられるが、1994年サンマリノグランプリで連続発生したローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故とアイルトン・セナの死亡事故をきっかけに再結成され、マシンやサーキットの設計思想、医療体制などから安全意識は根本から見直されるようになった。
1990年代末以降の新設グランプリサーキットの多くはヘルマン・ティルケが手掛けているが、いずれも広いコース幅に広い舗装のランオフエリアを持ち、安全に非常に気を配っているのが窺える。彼の手がけるサーキットには退屈という批判もあるが、2021年現在までグランプリでの死亡事故は起きていないのも事実である。
ラリー系の競技でも1980年代に過度な開発競争と高速化により死亡事故が頻発したことへの反省から、車両の安全基準を整備した規則を施行したり、吸気リストリクターの装着によって最高速を制限したりしてドライバーの命を守る取り組みが本格化した。
| 1,528 |
自動車競技
|
ラリー系の競技でも1980年代に過度な開発競争と高速化により死亡事故が頻発したことへの反省から、車両の安全基準を整備した規則を施行したり、吸気リストリクターの装着によって最高速を制限したりしてドライバーの命を守る取り組みが本格化した。
2000年代に入ると、2009年F2のヘンリー・サーティースの事故、2014年F1のジュール・ビアンキの事故、2015年インディカーのジャスティン・ウィルソンの事故などの死亡事故により、屋根のないオープンタイプの車両の安全に疑問を持つ声が相次ぐようになり、2020年までにほとんどのフォーミュラカーシリーズで頭部保護デバイスが導入されるようになった。また同様にプロトタイプレーシングカーでも、2017年以降のWECでオープンタイプが禁止されるようになっている。現在フルオープンタイプは、地域のジュニアフォーミュラやヒルクライムのようなごく一部のカテゴリに残るのみとなっている。
自動車競技における死亡事故の多くはクラッシュの際に壁・地面・車両の構造物などが人体を直撃し著しく損傷するものであるが、事故の拍子で火災が発生した際に車体が歪んで外に出られなくなってしまいそのまま焼死するものや、マシンに大きな損傷は無いのにドライバーは頭をステアリングなどに激しく叩きつけて死亡していたという場合もある。前者はスタッフと消化器類の十分な設置、後者はHANSというデバイスの登場により大きく数を減らしている。またアフリカの治安の悪化していた頃のパリ-ダカール・ラリーでは、参加者が地雷を踏んだり、銃撃されて命を落とした事例もあった。
一般にレーシングドライバーは命知らずとされているが、懇意にしていたドライバーの死亡事故を理由に引退してしまう者や、特定のレース(インディカーのオーバルコースなど)に限って安全を理由として参戦を拒む者も珍しくない。彼らが平然と時速300kmで接近戦を行うあまりに誤解する観戦者も跡を絶たないが、彼らが死にたがりのスピード狂のように考えるのは大きな間違いである。
競技における死亡事故は一般のメディアや、普段そのカテゴリを関知していないような自動車競技専門誌でも報道されることが多いが、競技のネガティブな部分だけ取り上げるようなメディアの姿勢を疑問視する声もある。
《wikipedia内》
《その他》
| 1,528 |
PCM音源
|
PCM音源(ピーシーエムおんげん)は、コンパクトディスクなどで扱われるパルス符号変調 (pulse code modulation、PCM) 技術を用いたデジタルシンセサイザーの音源方式のひとつ。
あらかじめメモリに記録しておいたPCM波形(サンプル)を再生することで音を生成する装置を示す。電子楽器においてのPCM音源とは、例えば楽器の音などを録音・メモリへ蓄積しておき、鍵盤の押鍵やMIDIのノートオン信号などに応じて所望の音程のPCM波形をメモリから再生する音源方式を示す。1980年代初頭から大容量のサンプルでリアルな音色が出力できたフェアライトCMIやシンクラヴィアは、1台で家が買えるぐらいの購入コストが掛かり、一般層においては高嶺の花であった。普及価格帯においては、PCM音源の亜種として、メモリ容量を削減するため特徴的な波形のみをメモリに収録した波形メモリ音源や、ユーザーが録音したサンプルを追加するサンプラーが発売されていたが、ハードウェアの性能が極端に低く、リアルな音は期待できなかった。1987年には安価なPCM音源キーボードとしてCASIO FZ-1が発売されたが、未だ生音から大きく乖離した単調な出音であった。1988年にコルグから発売されたシンセサイザーであるM1でようやく安価に実用的な音色が利用できるようになり、PCM音源が広く実用的と評価された後に電子ピアノやシンセサイザーなどの電子楽器の音源方式のひとつとして広く普及した。
PCM音源はメモリの量が十分あれば任意の波形を発音できることが長所である。対してFM音源やアナログモデリング音源等の他の音源方式と比べ、メモリに収録した波形を変化させることは、単純にボリュームや音階を変化させることを除けば困難であり、シンセサイザーとしての音作りの自由度などでそれら他の音源方式に分を譲る点がある。
PCM音源は楽器メーカーによって独自の名称が用いられることがある。ヤマハのAWM2音源、ローランドのRS-PCM音源、LA音源、コルグのaiスクエアシンセシスやAccess、HI、カプコンのQサウンドなどと呼ぶ音源方式はいずれもPCM音源である。これらは各社が開発したチップセットや、サンプルの圧縮方法、ひいてはサンプルされた元の音の違い、フィルターの有無等を明示する為の商業用の商標であると考えてよい。
| 1,529 |
PCM音源
|
歴史的経緯として、PCM音源方式のシンセサイザーの誕生は、1960年代のコンピュータ制御式電子音楽スタジオ、1970年代のディジタルオルガン開発や、初期のディジタル音楽ワークステーション開発にさかのぼる事ができる。
1960年代初期、イギリス在住のロシア系作曲家 Peter Zinovievは、プライベート電子音楽スタジオ Putney のコンピュータ制御を計画し、技術者のDavid Cockwell(AKAI Sシリーズ設計者)、作曲家の Tristram Caryと共に開発を進め、1967年二台のミニコンDEC PDP-8を導入し、遅くとも1969年には、同年創業のUK法人エレクトロニック・ミュージック・スタジオ(ロンドン)のPutneyスタジオで、「Musys IIIシステム」が稼動した。このシステム上(もしくは後に追加された DOB (Digital Oscillator Bank) も併用)で、世界最初のサンプリングが実現されたと考えられている。EMSと同様なコンピュータ・サンプラーは、後にアメリカでも開発された。1972年創業のComputer Music Inc.の1976年発売の製品「Computer Music Melodian」は、ミニコンDEC PDP-8を中心に、12bit 22kHzのA/DおよびD/Aコンバータ、アンチエイリアス・フィルターを追加した一種のソフトウェア・サンプラーで、1979年スティービー・ワンダーのサウンドトラック「The Secret Life of Plants」で使用された。
このように黎明期のPCM音源は、高価なミニコンを駆使した実験装置的な構成だったので、次の段階として、当時民生利用の始まったLSI技術を使った安価なディジタル楽器の実現が開始された。しかし当時米国のLSIビジネスは、金に糸目をつけない宇宙開発・軍事開発を主な顧客としており、民生分野では電卓のような数百万台規模の市場でしか実績がなかったので、市場規模が何桁も小さな楽器分野では、たちまち行き詰るのが目に見えていた。
| 1,529 |
PCM音源
|
1969年、ロックウェルのラルフ・ドイチュは、電卓と同様に電子楽器でディジタル革命を起こす計画を立て、アーレン・オルガンと提携してディジタル・オルガンの開発を進めた。そして1971年アーレン コンピュータ・オルガンを発売、1974年子会社RMIからHarmonic Synthesizerを発売した。後者はディジタル倍音加算にアナログ・フィルターを組み合わせた製品で、リアルタイム演算の代わりに計算結果をウェーブテーブル(単周期のPCM音源)に格納して再生する方式が採用された。これら製品の実装技術全てを世界初とするのはかなり無理のある主張だったが、当時は アポロ計画の技術を使った世界初のコンピュータオルガン という荒唐無稽な宣伝がなされ、ロックウェルはディジタル楽器の基礎技術全般を囲い込む独占特許の取得に成功した。 提携先のアーレンは訴訟を起こし独占特許を奪取したが、特許買収には巨額な費用を要し、結局、同業他社に次々と巨額な特許使用料請求を行った。この結果、訴訟リスクの高い大手楽器メーカはディジタル楽器開発に消極的になり、代わりに訴訟リスクの小さな研究機関やベンチャー企業が活躍する場を得た。
| 1,529 |
PCM音源
|
1975年頃世界各地で、音楽製作をコンピュータ上でシームレスに処理する「ディジタル音楽ワークステーション」の開発が開始された。1979年登場のフェアライトCMIやシンクラビアIIは、サンプラー機能や再合成機能を提供し、1980年のLINN LM-1ディジタル・ドラムマシンや、1982年のイミュレータと共に、初期のサンプリング音楽の流行を形成した。なお登場当時のサンプラーは、音質やサンプリング時間、表現能力に大きな制限があったため、リアルな生楽器の再現は難しく、むしろ音質劣化を音楽的表現として生かす使い方が多かった(この当時は苦肉の策に過ぎなかったが、1990年代以降にローファイという表現技法として再評価された)。こういった初期の制限は、1980年代半ば頃までには大きく改善され、更に演奏トラック全体を取り込んで編集処理する初期のDAW機能がハイエンド環境で提供されはじめた。その後1980年代後半にディジタル楽器全般の低価格化が進み、かつてサンプリングドラム用ROMメーカとして出発したデジデザインやエンソニックがDAW製品の開発を開始すると、フェアライトは価格より実績や安定性が重視される業務用DAW機器分野に転進した。
| 1,529 |
PCM音源
|
1979年頃 PPGの Wavecomputer 340/380は、ウェーブテーブル・シンセシス (Wavetable synthesis) と呼ばれる64種の波形を切り替えて音色を変化させる音響合成方式を採用した。また1981年発売のPPG Wave 2.0では、アナログシンセサイザーと同様なフィルタやエンベロープを追加して、ディジタル/アナログ併用のハイブリッド・シンセサイザーを完成した。その後1982年PPG Wavetermではディジタル音楽ワークステーション機能を追加、1986年PPG HDU (Hard Disk Unit) でDAW機能を追加し、同年参考展示のPPG Realizerでは 上記DAW機能に加え、他のシンセ(minimoogやDX7)のソフトウェア・モデリング機能も統合した。しかし1987年PPGは倒産し realizerは商品化されなかった。ハードウェア楽器をソフトウェア的にシミュートするこのアイデアは、後継会社Waldorfと提携先DAWソフト会社 スタインバーグにより、1996年 VST (Virtual Studio Technology)、1998年VSTi (VST instruments) として実現され、現在では広く普及している。
| 1,529 |
PCM音源
|
普及価格帯の製品では、1985年Ensoniq Mirage、AKAI S612といった一連の低価格サンプラーが登場し、サードパーティによるサンプリング・ライブラリ提供と合わせ、音色入替え可能なPCM音源として普及した。Ensoniq Mirageはサンプラーながら最初からVCFやVCAを搭載しており、次の製品ESQ-1 は波形テーブル内蔵のハイブリッドシンセだった。Ensoniqはこれ以降もサンプリングに特化する事はなく、サンプルデータや波形テーブルを加工するPCM音源のシンセサイザーを次々と発売した。一方、初期のAKAIサンプラーは録音/編集/再生に特化した「サンプリング機材」だったが、その後シンセサイザー機能やエフェクター機能を取り込んで、複雑な音色作りや繊細な表現が可能な「楽器」へと進化した。1998年Nemsys Gigasamplerは大容量ソフトウェア・サンプラーを実用化し、その後ソフトウェア・サンプラーは数GBのサンプルを駆使して高価な生楽器の音を手軽に再現する「ツール」として現在普及している。
前述のように世界市場では70年代からディジタル楽器が製品化されていたが、国内は一部メーカを除き、ディジタル楽器の研究が決定的に立ち遅れていた。その原因としては、当時国内の電子楽器専業メーカは成長途上だったため、基礎研究投資を行う余力に欠けていた事、逆に体力に余裕のある大手総合メーカ(電器メーカ含む)は、70年代ディジタルオルガン特許訴訟の影響を受け、ディジタル楽器開発に消極的だった事、等が挙げられる。
そのような中、ヤマハは訴訟問題とディジタル音源開発に真正面から取り組み、1980年以降は次々とディジタル音源製品を発売した(ただしPCM音源は問題の特許と抵触する可能性が高かったからか、当初は発売していない)。他方、多くの国内メーカは、80年代半ばに海外メーカが安価な製品を発売するまで (Alesis, Ensoniq, Emu)、本格的なディジタル楽器を一切発売しなかった。
| 1,529 |
PCM音源
|
そのような中、ヤマハは訴訟問題とディジタル音源開発に真正面から取り組み、1980年以降は次々とディジタル音源製品を発売した(ただしPCM音源は問題の特許と抵触する可能性が高かったからか、当初は発売していない)。他方、多くの国内メーカは、80年代半ばに海外メーカが安価な製品を発売するまで (Alesis, Ensoniq, Emu)、本格的なディジタル楽器を一切発売しなかった。
日本におけるPCM音源製品の草分けは、1982年日本ハモンド/Jugg BoxのPCMドラムマシン「DPM-48」と推定される。サンプルは別売りROMで入れ替え可能だったが、発売時期の関係上MIDIには対応していなかった。その後、ローランド/ヤマハ/コルグ/カシオ/テクニクスといった他の国内メーカもPCMドラムマシンを製品化している。
1985年にはAKAI professionalが国産初のサンプラー「S-612」を発売している。このS612は 最大サンプリング周波数32kHzの12bitサンプラーで、サンプリング時間は最長1秒(32kHz時)だったが、音作りに重要なVCFやVCAは内蔵しておらず、同年先行して登場していた Ensoniq Mirageと比較するととてもシンプルな製品だった。その後AKAI Sシリーズは、S900, S1000でスペックと機能を充実させ、80年代後半 - 90年代にはE-muと並ぶ代表的サンプラーに成長した。同シリーズの設計はDavid Cockerell(前期EMSの各製品やElectro-Harmonixディジタルディレイの設計者)、AKAI S1000のOS開発はChris Hugget(EDP WASP/OSC OSCar/Novation SuperNovaの設計者)が担当しており、イギリスを代表する2人のシンセ・デザイナーによる製品と言えるかもしれない。
| 1,529 |
PCM音源
|
1987年ローランドはD-50というサンプル・ウェーブをレイヤーできるLA音源方式シンセを発売した。翌年発売されたコルグ社のM1は、サンプルを幾重にも重ねて発音するレイヤー(コンビネーション)機能やVDF(Variable Digital Filter、フィルター)やVDA(Variable Digital Amplifier、エンベロープ)を備えリアルな音と幅広い音作りを特徴とした。このVDFやVDAによって、ただ鍵盤に楽器音を並べて再生するだけにとどまらず、VDFによって音の明るさを調整したり、VDAによって音の立ち上がりやその消え方といったパラメータを変化させたりすることができる。また、ローランドのJV-1080やJV-2080のように拡張カードを差し替えて膨大な音色を扱えるようにした機種もある。
VDFでは、録音された楽器音を削って暗くすることしかできず、VDAで調整可能な時間的変化も限られた範囲での調整となるため、前述の通り音作りの幅が狭い。この点を克服するため、80年代末から90年代の初頭にかけて、シンセサイザーのメーカー各社は工夫を重ねた。ヤマハではFM音源とハイブリッド型のRCM音源を開発し、PCM波形をFM変調できるSY77を発売する。またコルグの01/Wシリーズではウェーブシェーピングという波形を変調できる方法を採用した。また同社のWAVESTATIONシリーズでは、波形を繋ぎ合わせることで時間的に変化できるようにした。そしてローランド社ではアナログシンセイザーと同じように波形を変調できるリングモジュレータを搭載した。また、JD-800のようにアナログシンセサイザーのノウハウを生かした音作りが可能な機種もリリースされた。しかし、90年代後半以後、波形ROMの容量の増加による、PCM音源の音質の向上、そして、様々な奏法の演奏自体を波形として収録可能になったこと、ハイブリッド音源の音作りの難解さなどの理由からヤマハのEX5など一部の機種を除き、このような工夫を施したPCM音源のシンセサイザーは姿を消していった。
| 1,529 |
PCM音源
|
家庭用ゲーム機におけるPCM音源は、スーパーファミコンの64kバイトやメガCD及びプレイステーションの512kバイトなど、サウンド用のメモリ容量の少なさという厳しい制約がついてまわるため、波形の時間的な変化などは苦手としており、原始的なシンセサイザーと同様に、音量や音高の変化を(時に擬似的な)モジュレーションやエンベロープなどに依存する事で、楽音の表現力を補完している事が多かった。例外として、アーケードゲームの一部は膨大な容量をPCM波形に割いている場合もあるが、90年代のPCM音源黎明期においてはメモリ容量も小さく高価であった為、コストのかかる手法であった。なお、楽器としての使用ではなく、単純な音声の再生(セリフの発音など)に関しては、PCM音源のバッファを一時バッファとして使い、DMA転送で連続してデータを送り込みながら再生することで、バッファ容量以上の時間の音声の再生を実現することが多かった。一方でDVDメディアなどからストリーミング再生をするときには容量の制約はほぼなくなるが、ローディング時間増などのデメリットがある。家庭用ゲーム機の多くは、この2種類を用途により使い分けている。
携帯電話の着メロや着うたについても、PCM音源、またはADPCM音源が採用されているものの、着メロの場合、パケット課金が存在する為に、端末に搭載できるメモリが大きくなった現在でも、着メロとしてFM音源とあわせて原始的なシンセサイザーとして配信される場合がある。
減衰の早い音では「ワンショット」と呼ばれる通常のサンプリング、及び再生が行われるが、減衰の遅い、もしくは減衰の無い音を用いる場合、メモリーの使用量が膨大となる。この場合、アタック部分が過ぎた後、安定した波形をループさせることで、メモリー使用量を大幅に削減することが可能である。またこの場合、エンヴェロープなどを併用し、より自然な音を構成することが求められる。ある程度長い時間単位でループさせる場合もあれば、波形1周期を基準にループさせる場合もある。前者の場合はより自然に音を繋ぐため、波形を厳選した上で、クロス・フェードを行う場合もある。後者の場合はメモリーは大きく節約できるものの、一般に表情が乏しくなるため、各種パラメータを変更することで、音に表情を付けることが必要とされる。
| 1,529 |
相撲
|
相撲()は、土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭で、同時にそれを起源とする武芸や武道の一つ。興行としては大相撲が行われている。日本由来の武道・格闘技・スポーツとして国際的にも認知されている。
相撲は古代以前(伝承としては神話の時代)に始まったとされ、江戸時代には庶民の娯楽として隆盛を極めた。
現代の相撲について民俗学の研究ではその担い手と歴史的系譜から、相撲を生業とする人々による興行相撲から連なる大相撲、学生相撲や実業団相撲などのアマチュア相撲、地方の神事や余興として行われてきた相撲(新田一郎や池田雅雄らによって「素人相撲」に分類された草相撲、野相撲、奉納相撲など)の3つに区分する。特に日本相撲協会が主催するスポーツの興行としての大相撲が有名だが、神事に由来するため、他のプロスポーツと比べて礼儀作法などが重視されており、生活様式や風貌なども旧来の風俗が比較的維持されるなど文化的な側面もある。
日本国内外で同じような形態の格闘技としては、沖縄本島の沖縄角力(シマ)、モンゴルのブフ、中国のシュアイジャオ、朝鮮半島のシルム、トルコのヤールギュレシ、セネガルのランブなどがある。それぞれ独自の名前を持つが、日本国内で紹介される場合には何々相撲(沖縄相撲(琉角力)、モンゴル相撲、トルコ相撲など)、といった名で呼ばれることが多い。
新田一郎によると「相撲」は当初は争うことや抗うことを意味し、特定の格闘競技を意味したものではなく、格闘や技芸を一般的に意味する漢語であったという。
「すもう」の呼び方は、古代の「すまひ」が「すもう」に変化した。表記としては「角力」、「捔力」(『日本書紀』)、「角觝」(江戸時代において一部で使用)、など。これらの語はもともと「力くらべ」を指す言葉であり、それを「すもう」の漢字表記にあてたものである。19世紀から20世紀初頭までは「すもう」は「角力」と表記されることが多かった。古代には手乞(てごい)とも呼ばれていたという説もある。(手乞とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴むことの意、または、素手で勝負をすることを意味する。)
大相撲を取る人は正式名称は「力士」(りきし)といい、また「相撲取り」、親しみを込めて「お相撲さん」とも呼ばれる。
英語では「sumo()」または「sumo-wrestling()」と表記される。
| 1,530 |
相撲
|
大相撲を取る人は正式名称は「力士」(りきし)といい、また「相撲取り」、親しみを込めて「お相撲さん」とも呼ばれる。
英語では「sumo()」または「sumo-wrestling()」と表記される。
なお、日本では組み合う格闘技的な競技を総じて相撲と呼ぶ。用例には腕相撲、足相撲、指相撲、拳相撲(wikidata)、草相撲などがある。他に、相撲を模して行われるものに紙相撲がある。
日本における相撲の記録の最古は、『古事記』の葦原中国平定の件で、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を掴んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。
人間同士の相撲で最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)での戦いがある(これは柔道の起源ともされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、武芸・武術であったことは明確である。宿禰・蹴速は相撲の始祖として祭られている。
さらに『古事記』の垂仁記には、
とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと と訓す)の文字が現れる。以降の記紀や六国史においても、相撲に関する記述が散見される。なお「相撲」という言葉そのものが初めて用いられたのは日本書紀の雄略天皇13年の記述で、当時の木工にして黒縄職人であった猪名部真根が「決して(刃先を)誤らない」と天皇に答えたため、雄略天皇が采女を呼び集めて服を脱いで褌にして相撲を取らせた記述が初見になる。
| 1,530 |
相撲
|
とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと と訓す)の文字が現れる。以降の記紀や六国史においても、相撲に関する記述が散見される。なお「相撲」という言葉そのものが初めて用いられたのは日本書紀の雄略天皇13年の記述で、当時の木工にして黒縄職人であった猪名部真根が「決して(刃先を)誤らない」と天皇に答えたため、雄略天皇が采女を呼び集めて服を脱いで褌にして相撲を取らせた記述が初見になる。
皇極天皇元年(642年)7月22日には、百済の使節、大佐(だいさ)の平智積(へいちしゃく)らを饗応し、宴会の余興として、健児(ちからひと)に命じて、同年4月8日に亡命していた百済王族 翹岐(ぎょうき)の前で相撲をとらせた、とある。
天武天皇十一年(682年)7月、九州の隼人が大勢きて国の特産品を献上し、朝庭で大隅の隼人と阿多の隼人が相撲をとり、大隅の隼人が勝った、とある。
持統天皇九年(695年)5月13日、大隅隼人を宴会をしてもてなした。 5月21日。隼人が相撲を取るのを西の槻の木の下で観た、とある。
奈良時代から平安時代にかけて、宮中行事の一つとして相撲節会が毎年7月頃に行われるようになる。毎年40人ほどの強者が近衛府により選抜され、宮中で天覧相撲をとった。最初の記録は天平6年(734年)のものであるが、節会を統括する相撲司の初見は養老3年(719年)であることから、8世紀初頭に定着したものと思われる。相撲節会は当初は七夕の宮中行事の余興としての位置づけであったが、後に健児の制が始まると宮中警護人の選抜の意味を持つようになる。時代が下るにしたがって相撲節会は重要な宮中行事となり、先例が積み重なるとともに華やかさを増した。しかし同時に、健児の選抜という本来の趣旨は次第に忘れられていった。12世紀に入ると律令制の衰退、都の政情不安定とともに相撲節会は滞るようになり、承安4年(1174年)を最後に廃絶となる。
一方、神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを神事相撲という。1956年の書籍『日本相撲史』は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であり、これは一貫して現代になっても続いている、としている。
| 1,530 |
相撲
|
一方、神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを神事相撲という。1956年の書籍『日本相撲史』は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であり、これは一貫して現代になっても続いている、としている。
相撲節会に求められていた実践的な意味での相撲は、組み打ちの鍛錬として、封建制を成立させた武士の下で広まった。これを武家相撲という。武士の棟梁となった源頼朝は特に相撲を好み、鎌倉を中心に相撲が盛んに行われた。
続く室町幕府は、相撲の奨励には消極的であったが、戦国大名は熱心に相撲人の養成に力を注いだ。また、応仁の乱以降都落ちをした貴族とともに京都の相撲文化が地方に伝わり、民衆の間に相撲が定着、相撲を生業とするものが現れる。これを土地相撲、または「草相撲」という。
江戸時代に入ると武家相撲はその存在意義を失い、土地相撲が興行化して民衆一般に広がる。興行主はこれを神事相撲の「勧進」にことよせて勧進相撲と称し、また武家相撲も力士を大名の抱えとすることでその名残をとどめた。
江戸の爛熟期である明和・安永期(1764年-1781年)には、急速に見世物として の性格が濃厚になり、盲人や女性の相撲が盛況をみせ、明和6年(1769年)の浅草寺の開帳では、30日間興行の予定の女相撲や盲人と女性による相撲が20日間も延長されるほどの人気を博した。11代将軍徳川家斉の時代になると、将軍が観覧する「上覧相撲」がきっかけとなり庶民の娯楽としてさらに隆盛し、なかでも寛政3年(1791年)6月11日に行われた上覧相撲によって相撲熱は一気に高まった。「勧進相撲」は神社仏閣の建立・修繕などの資金として寄進を勧めるための興行から、職業相撲としての営利的興行へと変化し、寛政年間には、第4代横綱谷風梶之助や第5代横綱小野川喜三郎、雷電為右衛門といったスター力士たちが登場し、江戸相撲は黄金期を迎えた。天保4年(1833年)には勧進大相撲が一大歓楽地であった両国を定場所とした。
明治の文明開化で相撲をはじめとする伝統芸能は軒並み危機に陥るが、明治天皇の天覧相撲が繰り返されるなどによりその命脈を保つ。大正14年(1925年)には幕内最高優勝者に授与される天皇賜杯が下賜され、また東京相撲と大阪相撲が合併することにより日本相撲協会が誕生、勧進相撲は大相撲に一本化された。
| 1,530 |
相撲
|
明治の文明開化で相撲をはじめとする伝統芸能は軒並み危機に陥るが、明治天皇の天覧相撲が繰り返されるなどによりその命脈を保つ。大正14年(1925年)には幕内最高優勝者に授与される天皇賜杯が下賜され、また東京相撲と大阪相撲が合併することにより日本相撲協会が誕生、勧進相撲は大相撲に一本化された。
平成に入って、日本ビーチ相撲連盟というアマチュアの組織が結成された。また、義務教育に武道必修化の必修科目として、相撲・剣道・柔道の三種を基本として加味された。
2020年以降は新型コロナウイルス感染拡大により身体接触を伴うスポーツへの抵抗が高まり、各地の学校の部活動でもなるべく身体接触を避けたいという意向が示されていた。2021年10月15日に開幕した福井県中学校秋季新人競技大会で、相撲競技が2人しかエントリーしないという選手不足のため、過去16回で初の開催中止となった。
相撲は神事としての性格が不可分である。ただし、相撲と神事の関係については、相撲が神事に合わせて奉納される場合と、相撲の所作が神事の不可欠な要素に含まれている場合に分けられる。さらに相撲が他の芸能とあわせて余興で行われる場合のほか、相撲の所作を演劇的に行うものやそれをモチーフにした舞の形式になっている場合もあり、一般的な格闘技としての相撲を要素としないものもある。和歌山県、愛媛県大三島の一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。
競技の形態としては、直径4.55メートル(15尺)の円形、または、四角形をした土俵の中で廻しを締めた二人が組み合って(取り組み)勝ち負けを競う。土俵から出るか、地面に足の裏以外がついた場合、もしくは反則を行った場合、負けとなる。その判定は、大相撲では勝負審判(行司は一次的な勝敗の判定を行うが、最終判定は勝負審判が行う(物言い))、アマチュア相撲では主審が行う。
相撲の取組は、伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらずに行われる(無差別の戦い方)。アマチュア相撲においては、大会によっては体重別で行うものもある(全日本相撲個人体重別選手権大会など)
相撲司家の吉田家の故実では、禁じ手制定以前の相撲の戦い方について「相撲の古法は、突く・殴る・蹴るの三手である」と伝えられている。
普通は以下のような流れになる。
| 1,530 |
相撲
|
相撲の取組は、伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらずに行われる(無差別の戦い方)。アマチュア相撲においては、大会によっては体重別で行うものもある(全日本相撲個人体重別選手権大会など)
相撲司家の吉田家の故実では、禁じ手制定以前の相撲の戦い方について「相撲の古法は、突く・殴る・蹴るの三手である」と伝えられている。
普通は以下のような流れになる。
勝ちが決まるのは次の場合である。
日本の相撲以外にも膝など体のどこかが地面についた時点で負けとなる組技中心の寝技のない格闘技はブフ、シルム、セネガル相撲など多くある。しかし、試合場の外に出ることを反則とはしても即座に負けと認めるものは少ない。このために相撲は勝負がつきやすいと共に勝敗の行方がデリケートである。体重制を取らなくても勝負が成立する理由の一つもここにある。
相撲においてはまず押すことを良しとし、多くの相撲部屋や道場では初心者は押しの技法を身に付けることから始める。廻しを取った手は引くが、その場合も体全体として常に前に出ることを心がける。「引かば押せ、押さば押せ(相手が引こうが押そうが押せ)」との言葉もある。実際には引き落としなど引く技もあるが褒められない。また、引かれた場合も引かれる以上の速さで前に出ることで攻勢を取るのが良しとされる。
力士同士のお互いの組み方として四つ身という組み方があり、右四つ・左四つ・手四つ・頭四つ、または、外四つ(もろ差し)などがある。
これらは両者互角、あるいはそれに近い組み方であるが、当然ながら相手にそうさせない方が自分には都合がよい。自分がまわしを取っても、相手にとらせないのは重要な手法であるし、取られた手を離させる、たとえば『上手を切る』のは大切な技法である。
四十八手とは相撲における決まり手のことある。四十八手の称は慶長年間には既に世にあったとされる。江戸時代より『相撲強弱理合書』、『角力秘要録』、『相撲之圖式』、『相撲鬼拳』、『相撲大全』などに記されているが書によって内容が異なる。
重量級の力士をあんこ、軽量の力士をソップと称する。軽量力士は一般的には不利とされるが、軽量ゆえの動きを生かした技で大型のあんこ力士を倒す取組は大きな見所となる。近年では筋力トレーニングを重視した千代の富士や初代霧島といった、いわゆるソップ体型の名横綱、名大関が登場している。
| 1,530 |
相撲
|
重量級の力士をあんこ、軽量の力士をソップと称する。軽量力士は一般的には不利とされるが、軽量ゆえの動きを生かした技で大型のあんこ力士を倒す取組は大きな見所となる。近年では筋力トレーニングを重視した千代の富士や初代霧島といった、いわゆるソップ体型の名横綱、名大関が登場している。
一般的に、吉田司家は五条家の目代と言われているが、一切そのようなことは無く、関係あるのは二条家のみである。
事実、吉田家の19世吉田追風(吉田善左衛門)が寛政年間(1789年-1801年)に徳川幕府に提出した故実書に「五条家は家業牢人の輩の道中絵符人馬宿駅の帳面免許す」とあり、また、「木村庄之助の先祖書きにも旅行の節御由緒これあり、京都五条家より御絵符頂戴いたしきたり候」と記されているように、相撲の宗家とは云い難い。
相撲に似た格闘技は世界各地に存在している。
これ以外に、日系人が海外に伝えたり、大相撲の海外巡業や、外国人力士の活躍により触発されたりした日本式相撲文化も見られる。
相撲は、日本移民とともにブラジルに渡り、南アメリカにも持ち込まれた。
ブラジルでの最初の相撲大会は1914年8月31日、天長節(天皇誕生日)を祝してサンパウロ州グアダバラ耕地で開催された。福岡県、熊本県出身の30人余の若者が参加し、日本の本式の土俵で行われた。
日本からの遠征は1951年、全伯青年連盟の招聘による秀の山一行の渡伯を皮切りに、大相撲からアマチュア相撲の選抜選手が遠征がのちにも続いた。
ジョージアはもともとレスリングや柔道など格闘技が盛んであった。同国出身である栃ノ心剛史の大相撲での活躍が伝わり、相撲のファンクラブが設立されたり、相撲を学んだり、力士としての渡日を志したりする人が増えている。
| 1,530 |
シャープ
|
シャープ株式会社(英: SHARP CORPORATION)は、大阪府堺市に本社を置く日本の電気機器メーカー。台湾の鴻海精密工業(フォックスコングループ)の子会社。日経平均株価の構成銘柄の一つ。
1912年、早川徳次が東京市本所区松井町(現・東京都江東区新大橋)に金属加工業を設立する。関東大震災により工場を消失後、1924年に大阪府東成郡田辺町(現・大阪府大阪市阿倍野区)に早川金属工業研究所を設立する。1935年に改組し、株式会社早川金属工業研究所を設立し、1936年に早川金属工業株式会社、1942年に早川電機工業株式会社、1970年にブランドとして使われていたシャープ株式会社に社名変更する。2016年に大阪府堺市堺区匠町に本社移転。
以下はシャープ公式サイト掲載の「経営理念/経営信条」 を主に参照している。 シャープ(株)を始め関係会社の朝礼で経営信条の唱和が行われていた。
以下は主に「シャープ100年史」を参考に記述。
現在まで、シャープは「先進的な部品を開発しその部品を元に特徴的な商品を生み出す」流れと、「商品に使われることによって部品の目標が明確になり性能が向上する」という流れの循環で成長して来ており、シャープではこれを「スパイラル戦略」と呼んでいる。近年では、スパイラル戦略に加え、他社にない部品や商品を作り出す「オンリーワン戦略」を掲げている(両開き式の冷蔵庫やプラズマクラスター等が挙げられる)。
| 1,531 |
シャープ
|
現在まで、シャープは「先進的な部品を開発しその部品を元に特徴的な商品を生み出す」流れと、「商品に使われることによって部品の目標が明確になり性能が向上する」という流れの循環で成長して来ており、シャープではこれを「スパイラル戦略」と呼んでいる。近年では、スパイラル戦略に加え、他社にない部品や商品を作り出す「オンリーワン戦略」を掲げている(両開き式の冷蔵庫やプラズマクラスター等が挙げられる)。
早川金属時代から製造された「シャープラジオ」は海外に輸出されるほどに爆発的な売り上げを記録したが、トランスなどの部品は自主生産ができても真空管だけは自主生産できる余裕はなかった。そこで東京電気(後の東京芝浦電機→東芝)から「マツダ真空管」や時計内蔵型シャープラジオの「時計装置」の供給を受けていた。 早川電機に社名変更後、テレビジョンの生産が軌道に乗り出したと同時に真空管の自主生産を開始したことから、東芝からの真空管類の供給を打ち切ると同時に総合エレクトロニクス会社としてお互いに競い合う関係になって行った。 それから半世紀以上経った2007年、東芝とシャープは「液晶および半導体分野における提携」に合意し、2010年度を目処にシャープは東芝から液晶テレビ用システムLSIを約50%、東芝はシャープから32型以上のテレビ用液晶モジュールを約40%購入することを目標に両社の提携を再び交わしている。
| 1,531 |
シャープ
|
パソコン黎明期においてMZ-80KやX1などを生産し、日本のパソコン業界大手の一社であった他、それらの一部は海外でも商品展開された。日本での参入はしなかったものの、8ビット機時代の共通規格であるMSX機もブラジルの現地法人「シャープ・ド・ブラジル」で製造、販売していたこともあった。その後、Windowsが台頭する時代になるにつれ、NECなど黎明期からの大手PCメーカーの他、大手家電メーカーや台湾メーカーなどがシェアを伸ばし、それに伴い、徐々に苦戦を強いられ、シェアは小さくなっていった。液晶の技術を活かしてノートパソコンの生産なども行っていた。インターネットAQUOSなどの個性的な商品を出すも総じてスペックの割に高価格で人気が出ず、デスクトップやノートパソコン等一般的なパソコンは生産を終了、ウルトラモバイルのみにラインナップは縮小されていったが、2010年10月21日、それらを含む同社のパソコン生産が終了したことが判明した。
映像分野にも伝統的に強く、CCDなどの撮像素子を早くから自社生産していた。自社ブランドでもデジタルカメラには本格参入することはなかったものの、ビデオカメラについてはアナログ時代から家庭用製品を大々的に展開。特に、現在ほとんどの製品が使用している、液晶モニタ付カメラ(それまではの製品にはファインダしか無かった)を「液晶ビューカム」の名で先鞭をつけたのは同社である。ただ、特許独占ができなかったため他社に追随され、家庭用ビデオカメラ市場そのものもデジタルメラやスマートフォンの動画機能に押されて頭打ちとなったこともあり、現在4社程度にまで参入メーカーが減った家庭用ビデオカメラ市場からは、同社もすでに撤退している。
ファミコンの商標は家電製品部門で第1681105号で登録されている。(ゲーム機としては第1832596号で任天堂が保有)この縁でファミコン関連製品がシャープから発売された。
他の家電メーカーが相次いで石油ファンヒーター事業から撤退する中、唯一家電メーカーで石油ファンヒーター(除菌イオン付)の販売を継続していたが、2007年度春に撤退予定を発表した。同年3月に生産を完了し、撤退している。
| 1,531 |
シャープ
|
ファミコンの商標は家電製品部門で第1681105号で登録されている。(ゲーム機としては第1832596号で任天堂が保有)この縁でファミコン関連製品がシャープから発売された。
他の家電メーカーが相次いで石油ファンヒーター事業から撤退する中、唯一家電メーカーで石油ファンヒーター(除菌イオン付)の販売を継続していたが、2007年度春に撤退予定を発表した。同年3月に生産を完了し、撤退している。
テレビでは、音声毎に色分けを行い、モノラル放送・外部入力は緑、ステレオ放送は黄色、二重音声は赤でチャンネル表示がされている(従来からあるアナログ専用のテレビ、アクオスではアナログ放送受信時の場合)。三洋電機のZ1などの80年代に発売されたブラウン管カラーテレビも全く同様の色分けであった。
ビデオデッキでは、VHS初の前面でカセットを出し入れ出来るフロントローディングや3倍モード時の画質劣化を抑える19ミクロンヘッド(1989年に初搭載した頃には通常モードにも切り替え可能)をいち早く搭載し家電メーカーで唯一コンポーネント端子やD1端子を搭載したS-VHSデッキを販売していた。VHS-C方式のビデオレコーダーは、先頭を切った日本ビクターに続き1982年7月16日に発売した。
1990年前後は消費者より「松下さんのシャープ」と呼ばれ、シャープの新製品が売れず後から発売した松下電器(現パナソニック)の製品がヒット商品になることが常であったが、コードレスホン、ワードプロセッサ、電子手帳(後のZAURUS)など新製品で松下を凌ぐ製品を売り出すことに成功した。
組織の特徴としては、「緊急開発プロジェクト制度(緊プロ)」という1977年に作られた制度がある。この制度では社長直轄で複数の部署から人材が集まり、技術や開発に当たるチームが結成される。この制度によって部門にとらわれない自由な発想の商品を生み出す事ができると言われた。緊プロでは「電子手帳(後にZAURUS)」が開発された。
| 1,531 |
シャープ
|
組織の特徴としては、「緊急開発プロジェクト制度(緊プロ)」という1977年に作られた制度がある。この制度では社長直轄で複数の部署から人材が集まり、技術や開発に当たるチームが結成される。この制度によって部門にとらわれない自由な発想の商品を生み出す事ができると言われた。緊プロでは「電子手帳(後にZAURUS)」が開発された。
企業スローガンは、「Be Original」(2016年11月 - ) である。それ以前は、コピーライターの前田知巳が書いた「目指してる、未来がちがう。」(2010年1月 - 2016年10月) を使用していた。1990年 - 2009年までは、同じくコピーライターの仲畑貴志が書いた「目の付けどころが、シャープでしょ。」を使用していた。1998年からの一時期は「シャープになろう!」や「液晶でトキメキのある生活」に変更していたが、「液晶のシャープ」の印象が定着し、キャッチコピーとしての役割を十分に果たした事から、2002年になって知名度・好感度共に高かった以前のキャッチコピー「目の付けどころが、シャープでしょ。」を復活させた。キャッチコピーは他にも「確かに、シャープだ」、「元気な携帯電話!」、「はじまりはいつも、シャープから」など多彩で製品により使い分けられているが、最近は省エネをアピールする製品が多いため「エコロジークラスでいきましょう。シャープ」がよく用いられる。また過去のスローガンには「New Life Now」(業務用製品では「New Business Now」。どちらも70年代後半〜80年代前半)「New Life SHARP」「New Life People」(どちらも80年代後半)が存在した。
| 1,531 |
シャープ
|
三洋電機同様、博覧会への出展には消極的で、国際博覧会に出展したのは1990年の国際花と緑の博覧会(花の万博、本社所在地の大阪市で開催)が唯一である。地方博を含めても1987年に本社がある阿倍野区に隣接する天王寺区で開催された天王寺博覧会のケースがあるのみである。大阪府吹田市で1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)にも出展していない(シャープが属する三和グループは日本万国博覧会に出展したが、シャープはその共同出展企業に名を連ねていない)。これは奈良県天理市の総合開発センター立ち上げを優先させたもので、「千里より天理」というフレーズで語られている。また、地球環境問題が主なテーマとなった2005年日本国際博覧会(愛知万博、愛・地球博)への出展もなかった。太陽発電モジュールが設置された可能性はあるが発表されていない。
4代目社長の町田勝彦までは血縁者(会長、社長の娘婿)が歴代社長を務めていて「見えない血縁企業」と揶揄されていた。
名阪国道および伊勢自動車道沿いに天理研究所と多気工場があり、亀山工場と併せて、液晶関連の主要拠点をなしている。近年では液晶テレビ専門工場であるシャープ亀山工場の所在地三重県亀山市に因んで「亀山産」の表記をしたところ安心感が買われ、爆発的に販売数を伸ばすなど地域名を活かした販売戦略でも名を馳せている(AQUOSのテレビCMなどで「世界の亀山モデル」を表記していた)。同工場の誘致にあたり、三重県90億円・亀山市45億円を15年分割で補助することになり、地方自治体による工場誘致政策に大きな影響を与えた(参考:クリスタルバレー構想)。2008年に入り液晶需要が減少すると、液晶生産を行う天理工場と多気工場の閉鎖と、それに伴う非正規従業員380名の削減を表明。12月12日の記者会見で、副社長井淵良明は「現在の市況の環境は厳しく、工場の再編に着手するには絶好のチャンスだ」と説明した。
| 1,531 |
シャープ
|
しかし、2009年10月には、堺市に世界最大規模で第10世代マザーガラスに対応する液晶パネル工場を含む「グリーンフロント堺」を稼動させ、世界的に回復拡大する液晶関連需要に対応している。「グリーンフロント堺」には、旭硝子(現・AGC)、大日本印刷やコーニングなど液晶パネル関連部品を供給する企業19社も進出し、業種、業態を超えた「21世紀型コンビナート」を形成。高効率と省エネ、太陽光発電などによる「世界最先端環境工場」を謳っている。また、2010年3月には、同じ敷地内に薄膜シリコン太陽電池工場も稼動させ、急拡大が見込まれる世界的な太陽電池の需要拡大への対応を図っている。
1970年代から佐々木正がシャープ在籍時に、NECの小林宏治とシャープの技術をサムスン電子へ、他の日本企業と違い長期的に技術提供させ続けた結果、サムスン電子が製造した半導体や液晶がシェア拡大していくことで、経営悪化の一因となったと言われている。但し、佐々木は「日本半導体産業の敗因は、外に技術を漏らしたことではなく、自らが足を止めたことにあると考えている」と述べている。。
2000年から2006年まで、太陽電池・太陽光発電のモジュール生産量は世界一であった。また、国内では唯一の宇宙開発事業団認定企業だった。後に環境先進企業を目指して太陽電池事業を強化している他、工場でも排水を100%再利用するなどの取り組みを行っている。
MM総研の発表では、2005年度(2005年4月 - 2006年3月)の国内携帯電話出荷台数シェアで、16.3%を確保して首位に立った。NTTドコモとソフトバンク(2005年度当時はボーダフォン)のみの供給であったにも関わらず、カメラ付き携帯電話のパイオニアとして首位に立った。
| 1,531 |
シャープ
|
MM総研の発表では、2005年度(2005年4月 - 2006年3月)の国内携帯電話出荷台数シェアで、16.3%を確保して首位に立った。NTTドコモとソフトバンク(2005年度当時はボーダフォン)のみの供給であったにも関わらず、カメラ付き携帯電話のパイオニアとして首位に立った。
同社の日本一のテレビブランド「AQUOS」の技術を採用した「モバイルASV液晶」を携帯電話のディスプレイに採用し、これも1つの人気となった。勢いで2005年にはウィルコムにスマートフォンW-ZERO3で参入し、爆発的ヒットとなった。さらに翌2006年9月にはKDDI、および沖縄セルラー電話(各auブランド)にもW41SHで参入した。また、サイクロイドスタイルというスタイルで人気となったワンセグモデル「AQUOSケータイ」が人気で2008年現在でソフトバンクモバイル向けに5機種、NTTドコモ向けに2機種、KDDI/沖縄セルラー電話向けに2機種、計9機種を納入している。
2007年3月からは携帯電話市場に新規参入したイー・モバイル(現・ワイモバイル)向けにもEM・ONEというPDA機能付端末の納入を開始した。これで現存する携帯電話・PHSの5社すべてに端末を納入しているのは同社のみとなった。2009年夏からはCCDカメラ1000万画素を搭載した高画質カメラ「AQUOS SHOT」を発表。同社が開発した高機能処理エンジンProPixカメラ技術と同社の液晶技術を取り入れた。
2000年代後半にはシャープ亀山工場、シャープ堺工場と次々に大規模工場を建設し「世界の亀山」ブランドを展開した。
当時、シャープは日本のデジタル家電産業の勝ち組として知られていた。しかし液晶パネル製造でサムスンなどの韓国メーカー、台湾メーカーが台頭する中、液晶の急速なコモディティ化により一転シャープは苦境に陥る。地デジ特需も終わると、2011年からの4年間で総額1兆円以上の経営赤字を計上した。
| 1,531 |
シャープ
|
2000年代後半にはシャープ亀山工場、シャープ堺工場と次々に大規模工場を建設し「世界の亀山」ブランドを展開した。
当時、シャープは日本のデジタル家電産業の勝ち組として知られていた。しかし液晶パネル製造でサムスンなどの韓国メーカー、台湾メーカーが台頭する中、液晶の急速なコモディティ化により一転シャープは苦境に陥る。地デジ特需も終わると、2011年からの4年間で総額1兆円以上の経営赤字を計上した。
2012年3月期決算でも大幅な赤字決算に陥る状況となり、台湾の鴻海(ホンハイ)グループとの業務提携に合意した。その結果、堺工場の液晶パネル、モジュールを同グループが最終的に50%まで引き取り、同工場を共同運営することとなった。鴻海側は、2012年7月に堺工場運営会社の代表取締役に就いただけではなく、亀山工場の分社化と経営参画を要求しているが、シャープ側は難色を示している。
また鴻海側はシャープの最先端独自技術であるIGZO技術を要求し、中国四川省成都に建設中の中小型液晶パネル工場での生産を予定している。これが提携の障害になっているとされている。9月25日、シャープはIGZOのスマートフォンとタブレット端末を発売するとともに、鴻海にIGZO技術を提供する方針だと報道された。それに伴い今年度中に亀山第2工場のIGZO生産比率を8割に上昇させる。
2012年9月現在長短併せて1.5兆円の資金調達が必要だとされた。好調時に市場から調達した資金の償還が2012年6月末で3600億円のCP残高を持ち、3ヶ月で償還を繰り返しているので、9月から償還が始まる。また2013年9月には、2000億円の転換社債の償還を迎える。格付けの多くが投機的等級になったため、市場から資金を調達できない。
2012年上半期の連結決算では、企業存続の疑念が表明され、通期で4500億円の赤字の見込みと報道された(最終的に2013年3月期の純損失は-5453億4700万円に及んだ)。また自己資本比率が9.9%となり、有利子負債も約1.2兆円という状態が続いている。そのため希望退職を2千人応募したところ、3千人の応募があった。 それまでは人員削減はせず、工場勤務や関連会社への転勤を命じることにより自己都合退職者が出るよう人事があったことから「首切りのシャープ」と呼ばれていた。
| 1,531 |
シャープ
|
シャープと連結子会社13社は1次取引先2,031社の他にも6,500社の取引先を持ち、従業員数は420万人に及んでいる。すでに8月末に希望退職を募集しているところもある。
2015年にも、追加の希望退職が実施された。9月30日、45歳から59歳の国内社員3234人が希望退職した
2016年、鴻海買収直後の決算発表においても、業績不振を理由に追加の人員削減方針が発表された。
2016年2月4日、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業がシャープに対し7000億円超での支援の意向を示し、シャープは同日の取締役会で鴻海案を協議した。シャープは当初、官民官ファンドの産業革新機構からの出資を受け入れる方針だったが、支援額を上積みした鴻海案の採用に判断が傾いたと報じられて、翌2月5日には、シャープは鴻海との合意書を締結したと発表した。契約条件について協議を継続することや、鴻海が示した支援策の有効期限を同月末まで延長する内容であった。2月25日には、臨時取締役会で産業革新機構案よりも好条件の鴻海買収案を選択することを決定したが、偶発債務の発覚を理由に鴻海側から、買収契約の保留を受け渡される。最終的に、出資額の減額やリストラの受け入れなどの鴻海側に有利となる契約に改定され、1ヶ月超遅れて買収契約が4月2日に締結されることが、3月30日の鴻海の取締役会で決議された。
鴻海によるシャープ買収は、ここ数年鴻海の成長の鈍化があるともいわれる。2015年12月期の連結売上高(速報値)は前期比6%の4兆4830億台湾ドルであり、目標の10パーセントには届かなかった。
過去には2012年に鴻海がシャープに10%出資する案で合意したものの、その後の株価変動などの理由により中止、翌2013年には高橋興三が社長に就任し銀行からの支援を受けたものの立て直しができなかった。シャープが再建に鴻海案に傾いた理由としては、産業革新機構案が成長性の期待できない液晶事業を分社化し、社長を含む3首脳を退陣させる方針であるのに対し、鴻海案が現経営陣の継続と液晶事業、雇用の維持を約束するものである上に最大で3500億円の産業革新機構の支援に対し鴻海案が7000億円の支援であったことで、社外取締役の一部が革新機構案を選んだ場合に、株主に合理的な説明ができないことなどが指摘される。
| 1,531 |
シャープ
|
シャープ社長に就任した戴は、信賞必罰の人事と事業のビジネスユニット単位での収益責任明確化(「分社化」と報じられたが、実際には後述の通りカンパニー制を廃止した)をおこなうと宣言した。
2015年10月より導入されたばかりの社内カンパニー制(5つのカンパニーを設置)を、買収直後の2016年に液晶ディスプレイのカンパニーを除いて廃止し、6事業部に再度組み直した。
最も重要とされた信賞必罰の人事制度では、ボーナスを社員の成果や営業成績ごとにかつての1.5倍差から1-8ヵ月に最大8倍差に分けることや新入社員でも優秀なら入社半年後から大幅な給与引上げなどを実施した。人事委員会の設置や等級・給与制度、管理職も能力主義で降格のように刷新し成果を上げた。
さらに、予算300万円以上の案件を社長決裁としたり、出張先も含めたテレビ会議の利用などの施策を導入し、東京証券取引所の2部降格から2017年12月7日に東証1部に1年4カ月の短期間復帰を果たした。
戴は、経営譲渡前の2015年に売却された旧本社および隣接する田辺ビルについて「シャープの歴史がある場所」と買い戻しに意欲を示し、田辺ビルは社長就任直後の2016年9月に139億円でエヌ・ティ・ティ都市開発から再取得した。しかし、旧本社ビルの買い戻しは実現せず、2017年に建物が解体された。田辺ビルには2019年2月にショールームがあべのハルカスから移転入居し、2021年度に再開発を実施する予定とされた。一方ニトリが取得した旧本社跡地には、ニトリの新店が建設されることになり、2023年4月に「西田辺店」として開業した。
2020年には、唯一残ったカンパニーであるディスプレイデバイスカンパニーを同年度中に分社化することを発表し、同年10月より「シャープディスプレイテクノロジー」として分社化された。
| 1,531 |
シャープ
|
2020年には、唯一残ったカンパニーであるディスプレイデバイスカンパニーを同年度中に分社化することを発表し、同年10月より「シャープディスプレイテクノロジー」として分社化された。
シャープディスプレイテクノロジー(現在の堺ディスプレイプロダクト)は鴻海傘下となった後、サモア籍の投資ファンドWorld Praise Limitedの手に渡った。World Praise社は会長の戴正呉が過半を出資するファンドである。シャープは2022年2月に残りの20%の株式についても全て売却する方針を打ち出していたが直後に撤回し、一転して再子会社化を決定した。当初から市場ではレッドオーシャンと化したディスプレイ市場への参入は疑問視されており、株価は鴻海買収前の水準に低迷した。2023年3月期決算においてシャープは200億円の巨額赤字に転落した。2023年5月には55歳以上の管理職約700名を対象とする早期退職制度の導入を発表した。
下記に製品カテゴリー別に記述する
シャープでは、プラズマクラスターにはイオンの力による空気の浄化や消臭といった効果があると主張していた。しかし、2012年11月28日、消費者庁はシャープに対し、掃除機に搭載するプラズマクラスターがアレルギー原因物質を分解すると表示していたが、実際の効果はないとして、再発防止命令を出した。
シャープでは現在、機密保持などの理由から工場の見学は原則として受け付けておらず、工場そのものをブラックボックス化した。これに加えて公式サイト上でも国内拠点に関する詳しい情報を削除し、事業領域の説明にとどめている。(記載内容はマスコミ報道による)
RS Technologies、因幡電機産業 、明治電機工業 、菱洋エレクトロ 、スズデン 、鳥羽洋行等が上場している代理店である。
※上記以外にも、不定期・週替わりとして他の番組提供する事がある。
(1社提供・複数社提供含む)
など多数。
社名が早川電機だった昭和30年代に「シャープ坊や」がおり、シャープテレビの琺瑯看板やカタログに登場していたが間も無く姿を消した。1990年代より「リッキーくん」というキャラクターが登場し、2003年頃に方針の変更により表舞台から姿を消したが、その後もメビウスのマニュアルやEVAアニメータなどで姿を確認する事ができる。因みに父親や母親などの家族も設定されていた。
| 1,531 |
シャープ
|
など多数。
社名が早川電機だった昭和30年代に「シャープ坊や」がおり、シャープテレビの琺瑯看板やカタログに登場していたが間も無く姿を消した。1990年代より「リッキーくん」というキャラクターが登場し、2003年頃に方針の変更により表舞台から姿を消したが、その後もメビウスのマニュアルやEVAアニメータなどで姿を確認する事ができる。因みに父親や母親などの家族も設定されていた。
1958年頃に「シャープフレンドショップ」と呼ばれる自社製品のみを扱う系列電器店が発足するが、量販店や他社系列店に圧されたり後継者難・経営者の高齢化等で店舗数は伸び悩んでいた。そこでシャープは2007年11月15日、これまでとは異なる新しいシャープ系列店、シャープ・バリュー・パートナー・グループ(SVPG)という新しい計画を発表した。これは量販店の安値攻勢による製品価格大幅下落の防止と、認知度が他社製品より大幅に低いといわれているシャープ製の白物家電のイメージアップにつなげるべく、発足当初からある全国約2千店のシャープ フレンドショップの再編と、他社系列店の取り込みを図る計画である。
2012年には、海外子会社との取引などを巡り、2011年3月期までの5年間で約54億円の申告漏れ(うち15億円以上は意図的な所得隠しとされた)があったと、大阪国税局から指摘されていたことが判明している。また2015年にも、2014年3月までの3年間にわたり、約103億円の申告漏れ(うち12億円は所得隠しとされた)を同国税局から指摘されていたことが明らかになっている。
| 1,531 |
シャープ
|
2012年には、海外子会社との取引などを巡り、2011年3月期までの5年間で約54億円の申告漏れ(うち15億円以上は意図的な所得隠しとされた)があったと、大阪国税局から指摘されていたことが判明している。また2015年にも、2014年3月までの3年間にわたり、約103億円の申告漏れ(うち12億円は所得隠しとされた)を同国税局から指摘されていたことが明らかになっている。
任天堂が「ミニスーパーファミコン」を発表し話題になると、シャープ製品の公式ツイッターが「ミニスーパーファミコン」に収録されているソフトに対して私(アカウント運営者)の思い出を価値に換算すると発言し値踏みした。中には価値0円と付けたソフトもあり、炎上し始めると誤解を招いたとして「価値0円は未購入である」と訂正をしたが、他社製品を公式アカウントで値踏みしていること、任天堂の公式アカウントにリプライしていることなどが問題だと批判が殺到しさらに炎上したため、問題のツイートは削除された。しかしそれでも批判はやまず、全国紙やネットメディアも報じ拡散されたため、シャープは不快な思いをさせたと謝罪文を投稿した。騒ぎが大きくなったことを受け、2017年7月11日に同社は、関係者に迷惑を掛けたとして、該当のアカウントを閉鎖することを決めた。
2021年3月12日、スマートフォン向けのカメラレンズの製造子会社「カンタツ」で、2018年4月~20年9月に架空計上などで売り上げを75億円水増しする不正会計があったと発表した
| 1,531 |
2002年
|
2002年(2002 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。平成14年。
この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。
ソルトレイクシティオリンピック - 2月8日 - 24日
| 1,532 |
ハードウェア
|
ハードウェア(英語: hardware)とは、コンピュータなどのシステムにおいて、機械、装置、設備、部品といった物理的な構成要素をいう。ソフトウェアとの対比語であり、単に「ハード」とも呼ばれる。
転じて、コンピュータとは無関係な分野においても、物理的な設備・施設・車両などを「ハードウェア」、物理的な形を持たない規則・運用・教育・技術・ノウハウなどを「ソフトウェア」と呼ぶことがある。
英語でハードウェア (hardware) は、本来は「金物類、金属製品」の意味であり、かつては木材製品などとの対比語として用いられた。例えば英語で "hardware store" は、日本で言う「金物屋」を意味する。
| 1,533 |
代数学
|
代数学(だいすうがく、algebra)は、数学の一分野で、数の代わりに文字を用いて方程式の解法などを研究する学問。現代の代数学はその研究範囲を大きく広げ、半群・群・環・多元環(代数)・体・束などの代数系を研究する学問(抽象代数学)となった。代数学の考え方は、解析学や幾何学等にも浸透しており、数学の諸分野に共通言語を提供する役割を果たしている。
以下に示す代数学の諸分野の名に現れる半群・群・環・多元環(代数)・体・束は、代表的な代数的構造である。
群・環・多元環・体の理論はガロアなどによる代数方程式の解法の研究などに起源を持ち、束論はブールによる論理の数学的研究などに起源を持つ。
現代の日本の大学では 1, 2 年次に微分積分学と並んで線型代数学を学ぶが、線型代数は線型空間という代数系を研究する代数学の一分野である。
プラトンの時代までに、古代ギリシアの数学は大きな変化を遂げた。ギリシア人は線で描いた幾何学図形のそれぞれの線に文字を添え、その文字を式の項として使用する幾何代数の考え方を生み出した。ディオファントス(紀元3世紀)はアレクサンドリアの数学者で『算術』という著書の作者であり、時に「代数学の父」とも呼ばれる。その書は代数方程式の解法に関するものである。
| 1,534 |
代数学
|
プラトンの時代までに、古代ギリシアの数学は大きな変化を遂げた。ギリシア人は線で描いた幾何学図形のそれぞれの線に文字を添え、その文字を式の項として使用する幾何代数の考え方を生み出した。ディオファントス(紀元3世紀)はアレクサンドリアの数学者で『算術』という著書の作者であり、時に「代数学の父」とも呼ばれる。その書は代数方程式の解法に関するものである。
algebra という語はアラビア語の al-jabr (アラビア文字表記:الجبر、"reunion of broken parts"(バラバラのものの再結合))に由来し、近代数学はアラビア数学から発展したもので、その起源を遡ると古代インドの数学にたどり着く。9世紀のバグダードの数学者アル=フワーリズミーが著作した 『イルム・アル・ジャブル・ワル・ムカバラ("Ilm al-jabr wa'l-muqabalah")(約分と消約との学=The science of reduction and cancellation)』(820年)を、チェスターのロバート(あるいはバースのアデラード) )が、"Liber algebrae et almucabala"としてラテン語に翻訳した。この書によってフワーリズミーは代数学を幾何学や算術から独立した一分野として確立した。これが後500年間にわたってヨーロッパの大学で教えられたという。al-jabr は、アラビア語では「al」(阿: ال)が定冠詞、「jabr」(阿: جبر)が「バラバラのものを再結合する」「移項する」という意味であることから、インド数学のことである。それ以前にフワーリズミーはインドの数学から学んだことを『インドの数の計算法』として著し、イスラム世界に広めた。これは二次方程式、四則演算、十進法、0などの内容でラテン語に翻訳され、著者の名は「アルゴリズム」の語源であるといわれている。
| 1,534 |
代数学
|
代数学の起源は古代バビロニアとされており、古代バビロニア人はアルゴリズム的に計算する高度な算術的体系を生み出した。古代バビロニア人は、今日一次方程式や二次方程式、不定一次方程式を使って解くような問題を計算するための公式を開発した。一方同時代(紀元前1千年紀)のエジプトやギリシアや中国では、そのような問題は幾何学的に解かれていた。例えば、「リンド数学パピルス」、ユークリッドの『原論』、『九章算術』などである。『原論』に代表される古代ギリシアにおける幾何学では、個別の問題を解くだけでなくより一般化した解法の枠組みを提供していたが、それが代数学へと発展するには中世アラビア数学がヨーロッパに紹介されるのを待つ必要があった。
ヘレニズム期の数学者アレクサンドリアのヘロンとディオファントスやインドの数学者ブラーマグプタらはエジプトやバビロニアの伝統に則って数学を発展させ、ディオファントスの『算術』やブラーマグプタの『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』といった成果が生まれた。例えば、二次方程式の(ゼロや負の解を含む)完全な解法を初めて記したのがブラーマグプタの『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』である。その後、アラブ世界(イスラム世界)の数学者が代数学的手法をより高度なものへと洗練させていった。ディオファントスや古代バビロニア人は方程式を解くのに場当たり的な技法を使っていたが、アル=フワーリズミーは一般化された解法を初めて使用した。彼は、一次不定方程式、二次方程式、二次不定方程式、多変数の方程式などを解いた。
| 1,534 |
代数学
|
ギリシャ人数学者ディオファントスは昔から「代数学の父」と呼ばれてきたが、最近ではアル=フワーリズミーの方がその名にふさわしいという議論がある。ディオファントスを支持する側は、フワーリズミーの著作は『算術』よりも扱っている内容が初等的であり、フワーリズミーの著作が修辞的で冗長なのに対して『算術』は簡潔に記述してある点を指摘する。一方フワーリズミーを支持する側は、彼が左右の辺の間での項の移動や打消しといった手法を導入した点(al-jabr の本来の意味とされている)、幾何学的証明を証拠としつつ二次方程式の解法を徹底的に解説し、代数学を独立した分野にまで高めたという点を指摘する。フワーリズミーの代数学はもはや一連の問題と解法を示すのではなく、単純な式からそれらを組み合わせた複雑な式まで全ての可能性を網羅し、今後の真の研究対象が何であるかを示している。そして、無限に存在する問題のクラスを定義するためにのみ必要な一般化された形で方程式を研究した。
ペルシャの数学者ウマル・ハイヤームは代数幾何学の創始者とされており、三次方程式の一般解を見出したことで知られる。同じくペルシャの数学者シャラフ・アッ=ディーン・アッ=トゥースィ(ペルシア語版、英語版)は様々な三次方程式の代数解や数値解を求めた。彼は関数の概念も生み出した。インドの数学者マハーヴィーラとバースカラ2世、ペルシャの数学者アル=カラジ(ペルシア語版、英語版)、中国の数学者朱世傑は、三次、四次、五次などの高次多項式方程式を数値的手法で解いた。13世紀にはフィボナッチの三次方程式の解法に代表されるように、ヨーロッパにおける代数学の復興がなされた。一方でイスラム世界では数学が衰退し、それと入れ替わるようにヨーロッパで数学が盛んになっていった。その後、代数学はヨーロッパを中心として発展していった。
| 1,534 |
代数学
|
16世紀末のフランソワ・ビエトは、古典的学問分野としての代数学を創始した。1637年のルネ・デカルトの『幾何学 (La Géométrie)』は解析幾何学の先駆けであり、近代的な代数的記法を導入したものである。代数学の歴史上重要なもう1つの出来事は、16世紀中ごろに三次方程式および四次方程式の代数学的一般解が得られたことである。17世紀には日本の数学者である関孝和が行列式の考え方を考案し、それとは独立にゴットフリート・ライプニッツが10年ほど遅れて同じ考え方に到達した。行列式は連立一次方程式を行列を使って解くのに使われる。18世紀のガブリエル・クラメールも行列と行列式について貢献した。ジョゼフ=ルイ・ラグランジュは1770年の論文 Réflexions sur la résolution algébrique des équations で根の置換について研究し、ラグランジュの分解式(英語版) (Lagrange resolvent) を導入した。パオロ・ルフィニは置換群について研究し、同時に代数方程式の解法についても研究した。
19世紀には抽象代数学が生まれた。当初は後にガロア理論と呼ばれるようになった分野と構成可能性問題が中心だった。近代代数学は、リヒャルト・デーデキントやレオポルト・クロネッカーの業績に見られるように代数的整数論や代数幾何学といった境界領域を通して数学の他の領域とも密接に関連している。ジョージ・ピーコック(英語版)は算術と代数学における公理的思考法を創始した。オーガスタス・ド・モルガンは Syllabus of a Proposed System of Logic において関係代数を見出した。ウィラード・ギブズは3次元空間のベクトルの代数学を生み出し、アーサー・ケイリーは行列の代数学(非可換代数学の一種)を生み出した。
| 1,534 |
8月15日
|
8月15日(はちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から227日目(閏年では228日目)にあたり、年末まであと138日ある。
| 1,535 |
人類学
|
人類学(じんるいがく、英: anthropology)とは、人類に関しての総合的な学問である。生物学的特性について研究対象とする学問分野を形質人類学もしくは自然人類学と呼び、言語や社会的慣習など文化的側面について研究する学問分野を文化人類学もしくは社会人類学と呼ぶ。さらに言語学や考古学、民俗学や民族学、芸能も包括する。
人類学は人文科学、社会科学、自然科学の全てに根を持つ。人類学は対象を人類に定めている以外には、特に固有の方法論を持っているわけではない。そのため、その内容は、生物学的な手法を用いたゲノム研究や生理学的な研究から、社会科学や人文科学的な手法を用いてあるコミュニティの行動科学的な研究まで多岐に渡る。かつては自社会から遠く離れたコミュニティ、ないしは先史時代の人間を対象にすることが学問的な特徴とされていたが、現在ではそういった制約はない。つまり研究手法にとらわれない学際的な研究によって人類とは何かを全体として明らかにしようとする学問分野である。
そのため、制度上の位置づけは下記のように複雑である。自然人類学は一般に生物学に属する動物学の下位分野と分類される一方、文化人類学は社会科学に、言語学と考古学は人文科学に分類される。
人類学の範囲や制度上の位置づけは国によって異なっている。アメリカでは、文化人類学(民族学)、考古学、言語学の三分野をあわせて広義の文化人類学と呼び、これに自然人類学も含んだ総合的な人類学科が大学に設置されている。これに加えてこれら四分野はアメリカ人類学協会という統一学会を組織している。
これに対して、イギリスでは社会科学的手法を用いる社会人類学と生物学の一分野である自然人類学、および考古学、言語学は分離されている。このイギリスの制度は、欧州統合前後からヨーロッパの人類学の発展に大きな影響を与えており、1990年代には社会・文化人類学に関する欧州統一学会として、ヨーロッパ社会人類学会が設立された。
| 1,536 |
人類学
|
これに対して、イギリスでは社会科学的手法を用いる社会人類学と生物学の一分野である自然人類学、および考古学、言語学は分離されている。このイギリスの制度は、欧州統合前後からヨーロッパの人類学の発展に大きな影響を与えており、1990年代には社会・文化人類学に関する欧州統一学会として、ヨーロッパ社会人類学会が設立された。
日本では一般に理学部や医学部に属する生物学系の自然人類学を伝統的に人類学とすることが多く、社会科学系学部に設置された民族学(文化人類学)は制度上完全に分離されており、学会も自然人類学の日本人類学会と文化人類学の日本文化人類学会(旧称・日本民族学会)などに分かれている。また人類共通の基盤研究としての下位分野として霊長類学が位置づけられることもある。
以下に日本の人類学関連学会協議会に参加する学会を記述する。
なお、文化人類学や自然人類学は方法論や具体的な現象名に応じて細分化する傾向にあるため、それぞれの下位分野についてはリンク先を参考にすること。
アメリカ合衆国では、人類学は以下の4分野からなる。4分野を合わせて、しばしば四分類人類学(Quadrant Anthropology)、総合人類学(general anthropology)と言われる。
もともと、集団ごとの差異を論じるのはエジプトの古代絵画にも見える。「アンスロポロジー」という言葉を最初に使ったのはアリストテレスであったが、その意味は「人の噂をする人、あるいは自慢話をする人」という意味であって、直接的な関係はない。古代ローマの医師ガレノスが動物と人類の解剖学的な比較を行った記録が、自然人類学的な最初の報告だろう。アンスロポロジーを現代的な用法で使ったのは、マグヌス・ハントだと言われている。E・タイソンはヒトを含む霊長類の比較解剖を行ったことで記録に残っている。
| 1,536 |
人類学
|
カール・フォン・リンネは『自然の体系』第10版においてヒト、有尾猿、キツネザル、コウモリを霊長目の4属とし、ヒト属の中にホモ・サピエンスと類人猿をおいた。一方でビュフォンは機能的な分析をし、人類の進化や人種に影響を持った。この頃まで、西欧における人類学の議論はキリスト教会の主張する単一起源論(アダムからすべての人類は生まれたとする教義)とその反論を大きな枠組みとしていたが、1856年、ホモ=ネアンデルタレンシスの化石が発見され、1859年にチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を発行したことによって激変が起きる。
『種の起源』以降、それまで人類の単一起源説と複数起源説が議論の中心であった人類学は、ヒトの身体的特徴がいかに適応的意義を持つかの議論へと移っていく。この過程で伝統的な人種観に科学的根拠のないことが明らかにされていくことになる。レイシズムracismの言葉は、人種ごとの優劣は科学的に存在していてそれを踏まえて歩んでいこうとする、当時よく見られた今となっては非科学的な言説を、批判する態度の中で、人類学者のルース・ベネディクトによって世に広められた。
| 1,536 |
PC/AT互換機
|
PC/AT互換機(ピーシーエーティーごかんき、英語: IBM PC/AT Compatibles)とは、IBM PC ATの互換機であるパーソナルコンピューター(PC)であり、広義にはその後の拡張を含めたアーキテクチャの総称。16ビット以降のPCのデファクトスタンダードとなった。世界的にはIBM PC互換機、単にPCとも呼ばれる。日本ではDOS/V機などとも呼ばれる。当記事では1981年の初代IBM PC以降の「IBM PC互換機」を含めて記載する。
世界的には「IBM PC互換機」と呼ばれる場合が多い。その「IBM PC」とは、1981年にIBMが発売したオリジナル(元祖)のIBM PCで、更には後継のIBM PC XT、IBM PC ATを含めたシリーズを指す。従って「IBM PC互換機」とは、そのシリーズのアーキテクチャを受け継ぐ互換機の事であり、広義にはIBM社自身の後の製品も含まれるが、IBM社製品でも独自仕様など異なるアーキテクチャのものは含まれない。また「IBM PCクローン」は初期の比較的単純な複製品を指す場合が多い。また主にMacintoshと対比させて、単に「PC」「PCs」と総称する場合も多い。
日本では以下の経緯もあり「PC/AT互換機」や「DOS/V機」などの表現が普及した。
なお大手メーカーの多くはブランド戦略やサポート範囲上、「互換機」の表現を使用しない傾向があり、コンパック(現HP)は日本でのDOS/V参入時に「業界標準機」(Industry Standard Machine)、日本電気はPC/AT互換機であるPC98-NXシリーズ発売時に「世界標準機」と呼んだ。
米国を始めとする世界的には1980年代以降(日本では特殊事情より1990年代半ば以降、後述参照)、パーソナルコンピュータ (PC)の大多数はMacintoshやタブレット端末を除くとPC/AT互換機であり、デファクトスタンダードとなっている。また各種のスーパーコンピュータや産業用機器、携帯情報端末などのベースとしても使用されている。
| 1,537 |
PC/AT互換機
|
米国を始めとする世界的には1980年代以降(日本では特殊事情より1990年代半ば以降、後述参照)、パーソナルコンピュータ (PC)の大多数はMacintoshやタブレット端末を除くとPC/AT互換機であり、デファクトスタンダードとなっている。また各種のスーパーコンピュータや産業用機器、携帯情報端末などのベースとしても使用されている。
PC/AT互換機はオリジナルのIBM PC ATとハードウェアとソフトウェアの両面で互換性を持つところから出発したが、現在では拡張を重ね、ATバス(ISA)やHDDのインターフェース、キーボード・マウスのコネクタを含めてハードウェア面の互換性はほとんど失われている。しかし、ソフトウェア面から見れば、ほぼ後方互換性を持つCPU (x86) やディスプレイ仕様(VGAなど)などを引き継いでいる。このため現在ではPC/AT互換機とは「オリジナルのPC/ATと直接の互換性があるマシン」という意味ではなく、「PC/ATをベースにソフトウェア面の後方互換性を維持しながらも、各種の拡張や標準化を重ね、事実上の標準を確立したマシンや仕様の総称」といえる。
事実上、1980年代後半から日本を除く世界的なPCのシェアの過半はPC/AT互換機で占められ、ハードウェアやBIOSのインタフェースを共通にすることで、ソフトウェアや周辺機器がメーカーを問わずどのPCでも利用できる様になった。なお、日本では1980年代の半ば頃から1990年代の前半頃まで、日本語で使用できるシステムを実用化させた日本電気のPC-9800シリーズが市場をほぼ独占していたが、1990年代半ばよりPC/AT互換機が普及した。
PC/AT互換機がデファクトスタンダード化した後には、多くの互換機メーカーや、台湾などを中心とした部品メーカーが登場し、競争によるコストダウンが進み、事実上の標準PCの地位を築いた。これにより、低価格なホビーPCや独自規格(PC-9800シリーズ、X68000など)はMacintoshシリーズを除いて1990年代半ば以降ほぼ消滅し、PC市場はPC/AT互換機が寡占するようになった。また、AppleのMacintoshシリーズも2005年にIntel系CPUを採用しPC/AT互換機となった。ただし、2020年に自社開発のAppleシリコンへの移行を発表している。
| 1,537 |
PC/AT互換機
|
PC/AT互換機の仕様は各社や各種標準化団体によるデファクトスタンダードの積み重ねであり、汎用の部品を組み合わることにより比較的容易にコンピュータを作成できる。このため大手メーカーの他、零細なガレージメーカー、ショップブランド、BTO、個人による自作パソコンなども広く存在している。ただし、組み合わせによっては、各ベンダーによるサポートの有無、サポートのレベルの違い、また、特定のパーツの組み合わせで問題が発生するいわゆる相性なども存在し、サポート外の部分には自己責任が求められる。
IBMによって発売された、1981年のオリジナルのIBM PC、1983年のマイナーチェンジであるIBM PC XT、1984年のIBM PC ATは大ヒットとなり、ビジネス用途を含め広く普及し、多数のアプリケーションソフトウェアや周辺機器が市場に普及したが、合法的な互換機や標準化の試みにより、段階的に互換機市場が形成されていった。
1981年に発売されたオリジナルのIBM PCは、短期間でパソコン市場に参入するためにCPU、メモリ、入出力デバイス、周辺ロジックに市場で入手可能な汎用の部品ならびに既存のソフトウェアのみを用いて構成され、拡張スロットにビデオカードを追加する事によってビデオ(テキスト、グラフィック)機能を拡張することが容易であった。更にIBMはアプリケーションソフトウェアや周辺機器の開発のためにマニュアル中に回路図やBIOSのソースコードを公開し、サードパーティー製品の普及に努めた。またIBM PC用の主要なオペレーティングシステムであるPC DOSの普及のため、開発元のマイクロソフトが他メーカーにOEM供給する事を許可した。IBM以外の各社へ提供したDOSは、当初はOEM先の各社の名称がつけられたが、総じてMS-DOSと呼ばれるようになった。IBMは後にこれらをオープンアーキテクチャと呼んでいる。但し、互換機の作成にはBIOSが必要であり、公開されているBIOSのソースコードをそのまま使用する事は著作権侵害となるため、当時IBMは互換機自体の作成は避けられると考えていた。
| 1,537 |
PC/AT互換機
|
互換機のうち、初期に登場した各オリジナルのコピー(模倣)に近いものをクローンと呼ぶ。クローンは先行したApple IIなどでも存在したが、その中にはBIOSなどの著作権を侵害しているものも含まれる。1982年のコロンビア・データ・プロダクツ(英語版)によるMPC は、クリーンルーム設計による著作権侵害とならない互換BIOSを搭載し、初めての合法的なIBM PC互換機とされている。またCPU周辺の回路を構成する部品等については、当初は汎用のTTL等を用いていたが、市場性があるとみたLSIメーカが同等の回路を集積した安価な互換LSI等を供給し始め、後にはわずかな数のチップに集積されたチップセットが提供される様になった。これらにより合法的な互換機の作成が容易となった。
1982年には代表的な互換機メーカーであるコンパックが設立され、1983年出荷のCompaq Portableもクリーンルーム設計による互換BIOSを搭載した。さらに、1984年にはBIOSメーカーであるフェニックス・テクノロジーズ(英語版)がクリーンルーム設計による互換BIOSを各メーカーに供給開始し、後にはアメリカンメガトレンドなども参入し、合法的な互換機市場が広く形成された。
1986年 コンパックがIBMに先駆けて80386 CPUを採用した際に、従来のXTバスやATバスにバスブリッジを導入し、CPUのクロックと外部バスのクロックを分離した。これは後にEISA陣営によりISAバスと呼ばれ、さらにIEEEで標準化された。このことはIBMオリジナルの各モデル(CPU)のローカルなバス規格であったXTバスやATバスが標準化され、コピーから生まれた互換機が、以後は独自に高速CPUを搭載したり周辺機器を設計することが可能となり、PC/AT互換機市場が確立した。
ハードディスクの規格も当初のST-506やESDIから、1986年にコンパックとコナー・ペリフェラルが開発したIDE、さらには標準化されたATA、SATAが主流となり、特定メーカーの影響力は低下した。
| 1,537 |
PC/AT互換機
|
ハードディスクの規格も当初のST-506やESDIから、1986年にコンパックとコナー・ペリフェラルが開発したIDE、さらには標準化されたATA、SATAが主流となり、特定メーカーの影響力は低下した。
ディスプレイ(テキストおよびグラフィック)の規格も、上位互換が徹底され、各社による拡張とデファクトスタンダード形成が継続した。オリジナルのIBM PCで採用されたMDAとCGAでは、CGAはMGAの全ての画面モードを含んでいた(MDAの上位互換)。次にIBM PC ATで採用されたEGAには、CGAの全ての画面モードと追加された画面モードが含まれた(MDA/CGAの上位互換)。各社はEGAに独自の解像度や色数のモードを追加して速度や価格を競い、これらはスーパーEGA(SEGA)と総称された。更にIBM PS/2で採用されたVGAには、EGAの全ての画面モードが含まれた(MDA/CGA/EGAの上位互換)。従来のPC AT用にもATバス用のVGAアダプターが発売された。各社はVGAと上位互換性を持つビデオチップやビデオカードを発売し、これらはSVGAと総称された。後にSVGAでは一部の画面モードがVESAで標準化された。後のXGAもVGAの上位互換(広義にはSVGAの一種)であった。これらの画面モード切替は、ユーザーがハードウェア的な切替操作をすることなく、ソフトウェアが行えた。なおHercules Graphics Cardや8514/Aなどは、EGAやVGA等の画面モードを内蔵するのではなく、EGAやVGA等と共存することができた(HGAはユーザーが2画面使用できた、8514/Aは本体側のVGA信号をパススルーできた)。またBIOS画面やOSのインストール画面などではデファクトスタンダードとなった画面モード(MDA/EGA/VGA等)を使用する事で、互換性と拡張性を両立できた。
| 1,537 |
PC/AT互換機
|
CPUやメモリの性能が上がるなかで、従来のATバス(ISA)は性能や機能の限界が表面化してきた。1987年、IBMが発売したPS/2は、次世代バスとして従来のATバス(ISA)とは互換性の無い新しいマイクロチャネル(MCA)を採用したが、その使用にはライセンス料の支払いが求められた。対抗する互換機メーカーはISAを拡張したEISA規格を掲げ、規格競争が行われた。しかし、いずれの規格も法人向け上位モデル以外には広く普及せず、従来のATバス(ISA)が使われ続けた。このため特にグラフィック専用の中継ぎ的な規格として1992年にVLバスが策定され一時普及したが、後に多種のデバイスを扱える幅広い標準化を掲げたPCIが登場すると、両陣営とも段階的に移行してデファクトスタンダードとなった。
なおIBM PS/2で採用されたMCAは普及しなかったが、ディスプレイ規格であるVGA、キーボード・マウス用のPS/2コネクタ、3.5インチフロッピーディスクなどは、その後の各社SVGAを含めて「PC/AT互換機」のデファクトスタンダードとなった。
上述のようにオリジナルのIBM PCは16ビットCPUである8088であったが、1985年には32ビットCPUのIntel 80386が登場し、1986年にはコンパックが搭載した。当初はMS-DOSなどで高速な16ビット環境として使用されていたが、OSの32ビット対応も段階的に進展した。
1990年代にはいわゆるWintelが規格主導権を持つようになり、CPUへのRISC技術導入を契機に1994年、IBM・Apple・モトローラはPowerPC搭載パーソナルコンピュータの規格(PReP)を発表し、対抗するインテル・HPはIA-64を発表したが、どちらも一般のPC/AT互換機には普及せず、以後もx86(IA-32)のソフトウェア互換性を維持しつつ性能向上が継続した。
| 1,537 |
PC/AT互換機
|
1990年代にはいわゆるWintelが規格主導権を持つようになり、CPUへのRISC技術導入を契機に1994年、IBM・Apple・モトローラはPowerPC搭載パーソナルコンピュータの規格(PReP)を発表し、対抗するインテル・HPはIA-64を発表したが、どちらも一般のPC/AT互換機には普及せず、以後もx86(IA-32)のソフトウェア互換性を維持しつつ性能向上が継続した。
2000年代にはCPUの64ビット化が進んだ。インテルのIA-64が広く普及しなかった事もあり、2003年にAMDが出荷開始したIA-32の64ビット拡張である「AMD64」(x86-64命令セット)が普及した。2006年にインテルも同規格を「Intel 64」としてリリースしたため、この64ビット拡張はx64 (x86-64)と総称され、PC/AT互換機でのデファクトスタンダードとなり、WindowsなどのOSはIA-32用(通称32ビット用)とx64用(通称64ビット用)が用意された。
Wintelの増収増益の一方で、PCのコモディティ化の波により伝統的なPCメーカーが衰退し、業界再編が進行した。2002年、互換機市場の創成期からのリーダーであったコンパックはヒューレット・パッカードに買収された。2004年、元祖IBM PCを生んだIBMはPC事業をレノボに売却した。2007年、家庭向け低価格PCの小売大手のパッカードベルはエイサーに買収された。他方、受注直販方式により在庫を最低限としたデルやゲートウェイがシェアを増加したが、2007年 ゲートウェイもエイサーに買収された。また日本では、2011年にNEC、2017年に富士通がPC事業でレノボと提携した。
レガシーフリーPC(英語版)、PCシステムデザインガイド(英語版)も参照
その他のハードウェア面では、いわゆるレガシーデバイスを代替するデバイスへ移行した。具体的には、キーボードの接続はATコネクタ(DIN5ピン)からPS/2コネクタ(ミニDIN)を経由してUSBに、マウスの接続はバスマウスからシリアルポート、PS/2コネクタを経由してUSBに、プリンターの接続はパラレルポート(セントロニクス)からUSBに、などである。なお、フロッピーディスクのインターフェースは削除されている。
| 1,537 |
PC/AT互換機
|
しかし、ソフトウェア面ではアプリケーションプログラムの後方互換性はほぼ維持されている。また、パーソナルコンピュータ以外の用途を含め「x86サーバー」「x86システム」と総称される事も増えている。
以上のように、当初はIBM製品のクローンから始まったAT互換機だが、各種の規格争いと標準化を繰り返して発展しており、現在は、IBMはほぼ撤退し、有力メーカーやインテルでも市場(業界、ユーザー)の支持を得られない規格は普及しないデファクトスタンダードとなっている。
オリジナルのIBM PCを含め、歴史的にIBM PC互換機に大きな影響を与えたものには以下がある。
日本では日本語表示が必要なため、日本IBMはIBM PCシリーズ(IBM PC、IBM PC XT、IBM PC AT等)や、その後のATバスモデル(PS/2下位モデル、PS/1等)を一般販売せず、日本IBMを含めた主要各社は日本語表示のために日本独自仕様PCを開発し発売した。16ビット以降の主なものには以下がある。
日本独自仕様PCでも、内部的にはIBM PCベースのもの(IBM純正を含め、IBM PCとソフトウェア互換を持つ広義のIBM PC互換機)には以下があった。
各社は日本語表示の性能や品質を求めて、漢字ROM搭載や、同時期のIBM PC等と比較して高い解像度などを実装した。その際に後発のIBM JX、ダイナブック、PS/55(MCAモデル)、AX等は、IBM PC系が拡張カードなどで画面拡張が可能な基本設計である事を活用し、英語モードに独自の日本語モードを追加する形で日本語化を行った。しかし各社の日本語化は各社独自規格で、各日本語モード間では原則として互換性は無かった。ただしベースがIBM PC系は、英語モードで起動すればIBM PC用ソフトウェアが稼働するなど、ソフトウェアから見れば広義にはIBM PC互換機であった(英語モードを公式サポートしたかはモデルにもよる)。
| 1,537 |
Subsets and Splits
No community queries yet
The top public SQL queries from the community will appear here once available.