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スーパーマリオブラザーズ
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ゲーム雑誌『ファミリーコンピュータMagazine』(以下『ファミマガ』)は、一般人からの「雷のショックでワールド9が出現した」と称する投稿写真を掲載。他の雑誌もワールド9の情報を相次いで掲載した。このワールド9は、「マリオが地上で泳ぐ、ブロックが珊瑚に変化している、土管の色が違う」など、他のステージではありえないことだらけであった。
その後も新たなワールドが発見されるなどした結果、最終的には正規の8ワールドを含む256種類のワールドが出現する可能性があることが判明。これらは「アンダーカバー」「256ワールド」「256面」「256w」などと呼ばれ、『USO!?ジャパン』では「スーパーマリオX」という造語で紹介した。また、カセット抜き差しなどのイレギュラーな操作(『テニス』やファミリーベーシックを用いたものが有名)によってこれらを出現させる方法が明らかにされ、これを行ったユーザーから「ファミコンが壊れた」という問い合わせが雑誌社に寄せられる事態となった。そのような中、ファミマガがプロデューサーである宮本茂にインタビューし、原因は「ノイズ」であると発表された。同時に、正常な動作ではなくファミコンを壊す危険もあるという警告がなされている。
なお、アンダーカバーの中にはイレギュラーな操作ではなく通常の裏技で行けるステージが存在し、代表的なものとして「-1(マイナスいち)」と呼ばれる「36-1」がある。意味としては本来「ワールド36-エリア1」であるが、ワールド数の「36」に充てられているコードが「 」(スペース)なので、エリア数しか表示されない「(空白)-1」という形になり、そこから「-1(マイナスいち)」、または「マイナス面」と呼ばれることがある。-1「マイナスいち」面は、一見、普通の水中ステージのようなコースだが、クリアは不可能であり、ステージの最後にある土管に入ってもスタート地点に逆戻りするという無限ループというものである。
これはワープゾーンのバグを利用してプレイできるものであり、アーケード版やディスクシステム版でも可能であり、それぞれで面の構造が異なる。なおディスクシステム版は「-3(36-3)」まで存在し、進めれば全てクリア可能となっている(理由は諸説ある)。
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スーパーマリオブラザーズ
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これはワープゾーンのバグを利用してプレイできるものであり、アーケード版やディスクシステム版でも可能であり、それぞれで面の構造が異なる。なおディスクシステム版は「-3(36-3)」まで存在し、進めれば全てクリア可能となっている(理由は諸説ある)。
一方で『スーパーマリオコレクション』版にもアンダーカバーは存在するが、通常の手段では実行不可である。ファミコンミニ版やバーチャルコンソール版はファミコン版をそのまま移植しているためデータ上残っているが、これも通常の手段では実行できない(ただし「-1(36-1)」は可能)。また、GBC版『スーパーマリオブラザーズデラックス』にもアンダーカバーに類するものが存在するが、内容は大きく異なる。
1986年に発売された『スーパーマリオブラザーズ2』では、正式な仕様としてワールド1から8までワープゾーンを一切使用することなくクリアすると「ワールド9」が出現する(コンティニューの有無は出現条件に問わない)。このワールドは、地上風の水中面や旗の直前に出現するクッパなど、アンダーカバーを意識したような特殊な構成となっている(リメイク版も同様)。
第2作以降のシリーズ作品は『マリオシリーズ』を参照。
片面ソフト。ディスクシステム版の内容は基本的にロムカセット版をベースとしているが、ゲーム起動時にロゴが表示されるなどの相違点もある。4ワールド分のデータを一括で読み込んでいるらしく、ゲーム中のロードタイミングはワールド4-4以前から5-1以降に進んだ時とエンディングを終えた時のみ。前述の通りアンダーカバー面の内容がカセット版と異なる。
1986年にリリースされた任天堂VS.システム版の『VS. スーパーマリオブラザーズ』(VS.SUPER MARIO BROS.)は、ファミコン版と同じく1-1から8-4までの32面構成であるが、本作と『スーパーマリオブラザーズ2』のステージが組み合わさっており、難易度がファミコン版より上がっている。また、ステージ内やゲーム内容においても以下のような違いがある。
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スーパーマリオブラザーズ
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1986年にリリースされた任天堂VS.システム版の『VS. スーパーマリオブラザーズ』(VS.SUPER MARIO BROS.)は、ファミコン版と同じく1-1から8-4までの32面構成であるが、本作と『スーパーマリオブラザーズ2』のステージが組み合わさっており、難易度がファミコン版より上がっている。また、ステージ内やゲーム内容においても以下のような違いがある。
本作は任天堂のアーケード撤退後にリリースされたため日本未発売となっているが、近年になって並行輸入版が大量に出回っており、現在ではメーカー直営店などを含めた多くの店舗でプレイすることが可能である。地域によっては、新作ビデオゲームよりも多くの店で稼働している。また、店舗側でもファミコン用のコントローラーを改造して接続するなど、設置状況が優遇されていることも多い。
2017年12月22日にハムスターが展開している『アーケードアーカイブス』のひとつとしてNintendo Switchで配信開始。
『スーパーマリオブラザーズスペシャル』(SUPER MARIO BROS.SPECIAL、SUPER MARIO BROS.Special)のタイトルで1986年末にハドソンから発売された。NECのPC-8800シリーズ版とシャープのX1版が存在する。
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スーパーマリオブラザーズ
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2017年12月22日にハムスターが展開している『アーケードアーカイブス』のひとつとしてNintendo Switchで配信開始。
『スーパーマリオブラザーズスペシャル』(SUPER MARIO BROS.SPECIAL、SUPER MARIO BROS.Special)のタイトルで1986年末にハドソンから発売された。NECのPC-8800シリーズ版とシャープのX1版が存在する。
当時の技術的制約からマリオの移動に伴い画面がスクロールせず、画面右端に移動すると次の画面へ切り替わる画面切り替え方式が採用されている。スプライト機能が無く水平型VRAMということもあり、キャラクターの移動単位やその軌跡の演算がオリジナルよりも大雑把なものとなっており、キーレスポンスの悪さとマップ構成の問題から難易度は非常に厳しいものになっている。オリジナルではスクロールに伴い進行方向の状態が確認できるが、本作では画面切り替え式のため、ジャンプした先に着地点が無いなど状況を把握した対処が難しい上にオリジナルよりも更にそういったトラップの多い独自のステージデザインとなっており、難易度の向上に更に拍車をかける形となっている。独自のフィーチャーとして新たな敵キャラクターやパワーアップアイテムの追加などが行われており、ハドソンのコーポレートキャラクターであるハチ助も隠れキャラとして登場する。また、ゲームクリアの後にスタッフロールが追加されている。BGMはPSGのみを使用し、原作準拠ではあるもののテンポにふらつきがあるなど、印象の違う部分も存在する。
『スペシャル』の追加アイテム
ラジオ番組『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)が放送20周年を記念して1986年に当ゲームと同番組がコラボレーションして発売した限定生産のソフト。基本的には『スーパーマリオブラザーズ』と変わりないが、一部グラフィックの差し替えや、続編『2』からの要素の追加など、いくつかの点で変更が加えられている。
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『スペシャル』の追加アイテム
ラジオ番組『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)が放送20周年を記念して1986年に当ゲームと同番組がコラボレーションして発売した限定生産のソフト。基本的には『スーパーマリオブラザーズ』と変わりないが、一部グラフィックの差し替えや、続編『2』からの要素の追加など、いくつかの点で変更が加えられている。
日本国外ではゲーム&ウオッチ版も発売されているが、内容が異なる。基本は右に強制スクロールするステージで、マリオを操作して足場を乗り継ぎ、ステージ右端のピーチのいる所まで到達するとステージクリアとなる。敵も登場するが倒すことは出来ず、避けて進むことになる。ちなみに、一部の効果音はファミコン版のBGMのアレンジとなっている。また、画面が透明なクリスタルスクリーン版と、ニューワイド版(およびキーチェーンサイズのMini Classics版)ではキャラクターグラフィックが異なる。
ファミコン版発売35周年を記念し、2020年11月13日に発売された「ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ」(GAME&WATCH SUPER MARIO BROS.)はファミコン版が完全移植の形で収録されており、「無限マリオ」、「ワールド選択」、「HARDモード選択」等新要素もある。
『スーパーマリオコレクション』 にリメイクされて収録されている。こちらは『スーパーマリオブラザーズ2』・『スーパーマリオブラザーズ3』、『スーパーマリオUSA』のリメイクも一緒に収録されている。『スーパーマリオコレクション』は2010年10月21日にWii版が発売、2020年9月3日にNintendo Switch Onlineにて配信された。
リメイク版で、日本ではニンテンドウパワーによる書き換え販売のみの提供となった。また、2013年12月10日から2014年1月13日の間にニンテンドー3DSにニンテンドーネットワークIDを登録したユーザーを対象に無料配布された時期があった。
『どうぶつの森+』の「ファミコン」家具として登場。どうぶつの森内では非売品。
2004年2月14日にファミコンミニ第一弾ソフトの一つとして発売された。ファミコンでのオリジナル版を完全移植した初のバージョンである。
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『どうぶつの森+』の「ファミコン」家具として登場。どうぶつの森内では非売品。
2004年2月14日にファミコンミニ第一弾ソフトの一つとして発売された。ファミコンでのオリジナル版を完全移植した初のバージョンである。
2005年9月13日にファミコン版発売20周年を記念して再販された。ゲーム内容に変更はないが、パッケージ(外箱)が20周年を記念した特別デザインとなっている。
ファミコンミニ版に先駆けて、2003年11月7日から2004年1月15日にかけて行われた「ホットマリオキャンペーン」の景品として、「復刻版スーパーマリオブラザーズ」が配布された。 ゲーム内容は、ファミコンミニとほぼ同じだが、復刻版はワイヤレス通信に対応していない。また、説明書に「ファミコンミニ」の文字は無い。
Wii・2010年11月11日(日本版のみ。日本国外版では『Donkey Kong Original Edition』を収録)
Wii(スーパーマリオ25周年仕様)に内蔵されている『25th Anniversary SUPER MARIO BROS.』(スーパーマリオブラザーズ25周年バージョン)。バーチャルコンソール版をベースに、ハテナブロックの「?」が「25」となるなど一部デザインが変更されているが、ゲーム内容は同じ。
Wii U『ファミコンリミックス2』に特別収録されているゲーム。ルイージが主役となり、ステージを左右反転させたバージョン。ルイージの性能は『スーパーマリオブラザーズ2』のものに準じている。
3DS『ファミコンリミックス ベストチョイス』に特別収録されているゲーム。動作・BGMが高速化されている。
なお、『マリオブラザーズ』はアクションや敵キャラ等の要素が似ており基礎となったゲームといえるが、基本システムやストーリーにおいての関連性・類似性は薄い。
当時任天堂の影響力が及ばず、ファミコン以外のゲーム機やパソコンが普及していた東アジアや中央ヨーロッパなどで、発売当時から海賊版および非公式なコピー版も多く出回った。各国の大手ゲームメーカーが製造したコピーゲームの例をいくつか挙げると、
現在、ネット上には違法にアップロードされたスーパーマリオブラザーズのゲームデータが多数存在し、改造できるソフトまで出回っている。
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スーパーマリオブラザーズ
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当時任天堂の影響力が及ばず、ファミコン以外のゲーム機やパソコンが普及していた東アジアや中央ヨーロッパなどで、発売当時から海賊版および非公式なコピー版も多く出回った。各国の大手ゲームメーカーが製造したコピーゲームの例をいくつか挙げると、
現在、ネット上には違法にアップロードされたスーパーマリオブラザーズのゲームデータが多数存在し、改造できるソフトまで出回っている。
ゲームデザイナーの宮本茂は1984年の12月にテスト仕様書を書いた。当時、任天堂は既にファミリーコンピュータ ディスクシステムの開発に入っており、ROMカセットより大容量でセーブも可能なディスクメディアに移行する計画だった。このため、宮本は「ファミコンカセットの集大成」として本作を開発した。ドンキーコングに始まったジャンプアクションの決定版として大きなキャラクターが陸・海・空をかけまわるゲームとして企画された。当時のゲームの開発期間は3ヶ月程度のものが多かったが、本作はその倍の開発期間を取っている。
本作はエンディングまで8ワールドの構成だが、ステージ構成でも紹介したが、開発段階では全5ワールドの予定とされていた。だが、ワールド数を増やしたい宮本茂は、A3サイズの用紙を2つ折りにしてA4サイズの企画書と見せかけ、5ワールドまでの概略が書かれた片面を見せて許可が下りた直後に、折られた裏側に書かれていた8ワールドまでの構想を見せ、強引に納得させて企画を通したという逸話がある。なお、本作のワールド5以降に使い回しされ、難易度が上がったステージが登場するのは、スタッフにこの8ワールドの構成案を納得してもらうためであった。
水中ステージにおけるマリオの動きは、本作発売以前に発売されたファミコン版『バルーンファイト』で滑らかに動くキャラクターを見た中郷俊彦が、ファミコン版のプログラムを手掛けた岩田聡のもとへ相談に行き、そこで積んだノウハウを活用して実現した事を明かしている。
本作はポール越えは基本的にできないこととなっているが、越えることができた場合は裏技として認定された。ファミリーコンピュータMagazineでポール越えを果たした読者投稿による写真も掲載された。
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スーパーマリオブラザーズ
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本作はポール越えは基本的にできないこととなっているが、越えることができた場合は裏技として認定された。ファミリーコンピュータMagazineでポール越えを果たした読者投稿による写真も掲載された。
本作のストーリーには、『マリオブラザーズ』にてマリオ兄弟が配管工の作業をしていた所、キノコ王国に繋がるワープ土管からキノコ王国に迷い込み、事情を知った際に立ち上がったという裏設定が存在する。
ゲーム内における音楽・効果音・プログラミングはすべて新人時代の近藤浩治が担当している。
最初に作られた曲は「水中のBGM」で、音楽がイメージしやすく作りやすかったという。
最も有名な「地上のBGM」は、初めに作ったバージョンが背景の鮮やかな色(青や緑)に合わせた「のほほんとした曲調」だったため、実際のプレイに合わずボツとなった。その後、試作品のマリオの動きに合わせて作り直したものが採用された。この曲は、織田信成が演技で使用したほか、リアレンジした形でポーラ化粧品のCMにも使用された。
効果音においてもファミコンのメモリ容量が限られていた為、「マリオが小さくなる音」と「土管に入るときの音」、「ノコノコを踏んだ時の音」と「泳ぐ音」で同じものを流用するなどして(SFCでは前者が同じ音で後者が異なる音)、メモリを節約するための工夫がなされている。
なお、ファミコンのメモリ容量が限られていたためかオリジナル版では「クッパと対決するときのBGM」は実装されず、「ボーナス面のBGM」は「無敵状態のBGM」が流用されていた。そのため2015年に発売された『スーパーマリオメーカー』では、『スーパーマリオブラザーズ』スキンのオトアソビでは「ボーナス」は『VS. スーパーマリオブラザーズ』の名前入力のBGMが、「ボス」は『スーパーマリオブラザーズ3』の各種ブロス戦及びバトルモードのBGMが使用されている。また、2019年に発売された『スーパーマリオメーカー2』で追加された「ラスボス」は『スーパーマリオブラザーズ3』のクッパ戦のBGMを流用している。
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当時の流行により、後からBGMに歌詞をつけたものも作成された。AYA&なかよし応援団が歌唱する「マリオの大冒険」、谷山浩子(プリンセス・ピーチ名義)が歌唱する「GO GO マリオ!!」があり、ともに地上のBGMを中心としつつ、他のBGMを含んだメドレー調になっている(前者は地上のBGM以外の部分にも歌詞が振られている箇所があるが、後者は歌詞が振られているのは地上のBGM部分のみ)。1986年にそれぞれシングルとして発売された(前者はEP盤、後者はカセットテープ)ほか、両方共を収録したプロモーション用サンプル盤も存在する。後者は1985年にラジオ番組『小峯隆生のオールナイトニッポン』でのコーナーでリスナーから募集した歌詞から生まれた歌。2003年9月14日に日本青年館前で開催された『マリオ&ゼルダ ビッグバンドライブ』で歌唱されたり、2014年11月14日にニンテンドー3DS『大合奏!バンドブラザーズP』で映像が配信されたり、2015年12月1日にカラオケのJOYSOUNDに映像付きで配信されたりなどの展開がなされている。
2023年4月12日(日本時間同月13日)、アメリカ議会図書館は本ゲームのテーマ曲(地上のBGM)について、「ゲーム史に残る伝説的な作品であり、世界中で演奏され、過去40年間で最も愛された楽曲の1つ」と評価し、ジョン・レノンの「イマジン」やマライア・キャリーの「恋人達のクリスマス」などと共にゲーム音楽として初めて、日本人が作曲した曲としても初めて全米録音資料登録簿に収蔵され、永久保存することが発表された。
本作は他社のゲーム作品での楽曲使用や音楽アーティストによる創作作品が存在する。以下は任天堂から正式にライセンス提供を受けている作品である。
日本国内で681万本、全世界では4,024万本を販売。日本国内の単体としてのゲームソフト売上では、2020年に『あつまれ どうぶつの森』が記録を塗り替えるまで30年以上に渡って歴代1位を保っており、シリーズ2番目の売り上げである『New スーパーマリオブラザーズ』とも約40万本差、世界売上では約900万本の差がある。また、Wiiのバーチャルコンソール版でも、2007年6月時点で最もダウンロードされたゲームとなっている。
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スーパーマリオブラザーズ
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NHKで放送された特集番組『新・電子立国』の書籍版で、開発者の宮本茂は、本作の売上げを150万本程度と予想しており世界で数千万本も売れたのは、北米発売のタイミング等を含め「完全に運だった」と回顧しており、「掛け値なしの実力は150万本」と評価している。
当時任天堂社長だった山内溥は、本作を見て「これはすごいね。地上と、空の上と、水中さえ行くことができる。こりゃ、みんな驚くだろうね」と宮本に語ったという。
4,024万本という数字は同梱販売を含めてのものだが、同梱販売を含まない場合でも本作は相当な本数を売り上げている。
数々のゲーム雑誌などでも高い評価を得ており、『ファミ通』1000号記念に行われた「読者が選ぶ未来に伝えたいゲーム」というアンケートでは大差で1位を獲得している。なお、『ファミ通』では800号記念に行われた同様の企画でこのゲームを「50年後に伝えるゲームのタイムカプセル」の1つに選定しており、編集部で保管されている。また、2007年9月22日に行われた東京ゲームショウ2007で、人気番組『ゲームセンターCX』と『日経エンタテインメント!』との共同イベントとして行われた「レトロゲーム・アワード2007」で大賞を受賞した。
徳間書店から発売された攻略本の人気も高く、発売以来2年連続で全書籍中での売り上げ1位を記録した。
1986年にクリスマスプレゼントの目的で購入し、約35年間に渡って机の引き出しの中にしまい込んだままとなっていた本ゲームの未開封品が2021年にアメリカで発見され、同年4月2日にオークションに出品したところ、ゲームソフトとしては史上最高額(当時)となる66万ドル(日本円で約7300万円)で落札されたことがオークション会社から発表された。オークション会社やゲーム専門家によると、出品された本ゲームは短期間だけ生産されたプラスチックによる透明パッケージのバージョンのもので状態が良いもので見つかるのは珍しいとコメントしている。
アンドリュー・シャルトマン 著『「スーパーマリオブラザーズ」の音楽革命 近藤浩治の音楽的冒険の技法と背景』樋口武志 訳、DU BOOKS、2023年、ISBN 978-4-86647-204-1
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スーパーファミコン
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スーパーファミコン(SUPER Famicom)は、任天堂より日本・中華民国(台湾)・香港などで発売された家庭用ゲーム機。略記・略称はSFC、スーファミなど。日本発売は1990年(平成2年)11月21日、生産終了は2003年(平成15年)9月30日。
ファミリーコンピュータの後継機として開発された。同世代機の中では後発であったが、ファミリーコンピュータに引き続き、最多出荷台数を記録した。
北米・欧州・オーストラリア・ブラジルなどでは“Super Nintendo Entertainment System”(スーパーニンテンドーエンターテインメントシステム、略称:Super NES、またはSNES)の名称で発売された。
開発当初は、当時最大の市場シェアを持っていたファミリーコンピュータとの互換性を維持するため、接続コードで繋ぐことによって映像音声出力およびコントローラを共通化した外部入力装置「ファミコンアダプタ」の使用が提示されていた。最終的には互換性の維持を断念し、新規プラットフォームとして発売された。
ハードウェアのスペックとしては、16ビットCPU 、32,768色(15bpp)から選択可能な16色のカラーパレットと、それらのカラーを適用可能な16色スプライト、一画面あたり最大128個のスプライト同時表示、背景の多重スクロールと回転・拡大・縮小表示機能、ソニーのDSPによるPCM音源の採用など、カタログスペックとしては同時代の一線級のものを取り揃えている。これによりファミリーコンピュータと比べ、表示や音源の処理能力が格段に向上した。
CPUクロック周波数は、3.58MHzと低めに設定されたため、演算速度は競合機に比べ高速ではなかった。また、音の品質にメモリ容量が大きく関わるPCMを音源としながら、その音源用DSPに用意されたバッファは64KBであり、他のゲーム機で多く使われたFM音源や、波形メモリ音源、PSGなどと異なる活用ノウハウを求められた。これによって多彩な表現を可能にしたが、特定の音色のみの品質が高くなったり、不自然な鳴り方になるなど、高品質な再生までには時間を要した。
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スーパーファミコン
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カセット差し込み口シャッターは、ファミリーコンピュータ時代の手動式からスプリングによる自動開閉式に変更された。カセットを差し込む動きでシャッター部分が本体内部側へと倒れ、抜き出すと元に戻る。また電源スイッチを入れるとカセット差込口内部にツメが出る機構が備えられており、カセット前面下部のくぼみを引っかけロックされる。これによって電源スイッチを入れたままカセットを抜き差しすることはできなくなった。イジェクトレバーはボタン式に変更された。通電時には電源ランプが点灯する。
カセット接続端子は中央部と両端部とに分かれており、ソフトによって使われ方が異なっている(カセットの項目を参照)。
スーパーファミコンの基板(SNS-CPU-RGB-01)に実装されているLSIの例。
コントローラは本体に2個同梱される附属品で、本体前面に2つ設けられているコネクタに接続する。コントローラの右側にあるボタンは、A・B・X・Yの4つで、上部の左右にはL・Rボタンがある。またコネクタは拡張端子の役割も兼ねており、ここに接続する様々な周辺機器も発売された。
ACアダプタ、RFスイッチ、75Ω/300Ω変換器はファミリーコンピュータと共通で、スーパーファミコン本体とは別売りであった。RCAピンジャックやS端子を備えたテレビの場合は別売り専用ケーブルにより接続可能であった。
開発環境としてはソニーの32ビットワークステーション・NEWS(ニューズ)が使われた。
前世代機ファミリーコンピュータではメーカーやソフトによって様々な色やデザインのカセットが存在していたが、スーパーファミコンではほぼ全てのソフトが共通デザインのカセットを使用し、例外的なデザインのカセットもソフトも少数である。
通常のカセットの場合、そのサイズはファミリーコンピュータ用カセットよりも一回り大きい。前面部は緩やかに湾曲しており、中央上部にはメインのラベル、下部には本体側ロック機構用のくぼみがある。背面部は平坦で注意書きラベルが張られており、前面部と後面部の固定には特殊形状のビスを2本使用している。色は本体と同色のライトグレー。
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スーパーファミコン
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通常のカセットの場合、そのサイズはファミリーコンピュータ用カセットよりも一回り大きい。前面部は緩やかに湾曲しており、中央上部にはメインのラベル、下部には本体側ロック機構用のくぼみがある。背面部は平坦で注意書きラベルが張られており、前面部と後面部の固定には特殊形状のビスを2本使用している。色は本体と同色のライトグレー。
衛星放送専用(または対応)カセットの場合、そのサイズは縦方向にさらに大きく、前面上側にメモリーパック差込口を備えている。色は通常カセットよりも濃いグレー。周辺機器の一つであるスーパーゲームボーイもほぼ同様の特徴である。
書き換え用SFメモリカセットの場合、形状は通常カセットとほぼ同様だが色はホワイト。メインラベルには書き換えたソフトのミニラベルを張るための余白部分がある。
特殊形状のカセットと特殊チップ使用の一部通常カセットはエッジ・コネクタの差し込み端子数が両端部に8ピン分多い。
ファミリーコンピュータの場合と同様、カートリッジスロットは拡張バスでもあるため、そのCPU性能の低さを補うための、演算補助用プロセッサや、実時間を反映させるためのRTC等の本体機能を補助する特殊チップをカートリッジに搭載したソフトも多く発売された。『パイロットウイングス』や『スーパーマリオカート』等では、DSP-1と呼ばれる固定小数点プロセッサを搭載、回転、ベクトル演算を補佐。スターフォックス、ワイルドトラックスなどの3Dポリゴンでのゲームを実現したスーパーFXチップや、SA-1と呼ばれる、本体の5A22CPUと同じコアを10MHzで動作させ、本体CPUと協調させてパフォーマンスを得るプロセッサ、ROM内のデータの伸張サポートや、プロテクト目的など、さまざまなものがソフトウェアに応じてカートリッジ内に搭載された。
ソフトの箱や取扱説明書にも統一が行われており、通常カセットの場合はVHS用ビデオテープと同サイズの紙製外箱とプラトレイ、縦長の中綴じ説明書、衛星放送対応ソフトの場合はそれよりもやや横幅の広い外箱と紙製トレイ、同じくやや横に広い中綴じ説明書に揃えられている。
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スーパーファミコン
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ソフトの箱や取扱説明書にも統一が行われており、通常カセットの場合はVHS用ビデオテープと同サイズの紙製外箱とプラトレイ、縦長の中綴じ説明書、衛星放送対応ソフトの場合はそれよりもやや横幅の広い外箱と紙製トレイ、同じくやや横に広い中綴じ説明書に揃えられている。
ロム容量は、ローンチタイトルの『スーパーマリオワールド』(1990年)で4メガビット(512キロバイト)、最大は『テイルズ オブ ファンタジア』(1995年)および『スターオーシャン』(1996年)の48メガビット(6メガバイト)。
ファミリーコンピュータではカセットや本体にごくわずかな振動があるだけでも動作停止していたが、スーパーファミコンはファミリーコンピュータに比べればいくぶん振動に対し強くなっている。
本機は1990年(平成2年)11月21日発売の初期型と1995年(平成7年)頃発売の後期型がある。型番は初期型はSHVC-001、後期型はSHVC-001 SHVC-JPN-1。本体カラーは両方ともグレー。
本体を小型化し21種類のスーパーファミコン用ソフトを内蔵した復刻版「ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン」が2017年10月5日に発売された。収録作品の中には、当時開発されながら発売に至らなかった『スターフォックス2』も含まれている。
型番のSHVCはSuper Home Video Computerの略。
※映像音声用のケーブルはその後に発売された任天堂家庭用ゲーム各機でも使用可能(ゲームキューブまで)ただし機種によっては使用不可のケーブルもある。
対応ソフトは1990年から2000年の間に1,447タイトル(非ライセンス品を含まず)発売された。
ローンチタイトルは『スーパーマリオワールド』と『F-ZERO』。『F-ZERO』や少し遅れて発売された『パイロットウイングス』は、当時の他のゲーム機にはなかった、画像の拡大縮小回転といったスーパーファミコンの性能をフルに生かした内容であった。
1991年7月には『ファイナルファンタジーIV』が発売され、本体の普及に貢献する。
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スーパーファミコン
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ローンチタイトルは『スーパーマリオワールド』と『F-ZERO』。『F-ZERO』や少し遅れて発売された『パイロットウイングス』は、当時の他のゲーム機にはなかった、画像の拡大縮小回転といったスーパーファミコンの性能をフルに生かした内容であった。
1991年7月には『ファイナルファンタジーIV』が発売され、本体の普及に貢献する。
1992年頃から、ゲームの大容量化によりソフト価格が高騰。定価を「1万円程度」とするソフトが多くなる。しかし『ストリートファイターII』、『スーパーマリオカート』、『真・女神転生』、『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』、『ファイナルファンタジーV』などの人気ソフトが相次いで発売されたことでゲーム機市場の主導権を握ることとなった。この状態は次世代機への世代交代となった1996年(平成8年)頃まで続く。
1993年2月21日にはスーパーFXチップを初搭載した3Dポリゴンソフト『スターフォックス』が発売される。 同年春には味の素マヨネーズの懸賞に非売品スーパーファミコンソフト『もと子ちゃんのワンダーキッチン』が登場。以降、非売品ソフトを景品として採用する動きが盛んになる。
1994年にはソフトの価格がさらに高騰、『ファイナルファンタジーVI』を皮切りに1万円を超えるソフトが出始める。
1995年8月にはPlayStationとセガサターン間で繰り広げられていた次世代機の値下げ競争に合わせ『マリオのスーパーピクロス』に店頭価格より安く本体が購入できるクーポン券を同梱。以降発売の『スーパードンキーコング2』『スーパーマリオRPG』『星のカービィ スーパーデラックス』にも同様のクーポン券が同梱される。
1996年11月には任天堂より『スーパードンキーコング3』が発売される。世間では次世代機に移行している中で、人気シリーズの続編ということもあって国内販売180万本を記録し、晩年期を代表する作品となった。
1997年12月1日にはニンテンドウパワーで『平成 新・鬼ヶ島 前編』『平成 新・鬼ヶ島 後編』『同級生2』の3作が初の書き換え専用新作ソフトとして供給開始。
1998年4月24日には『ロックマン&フォルテ』が発売される。ニンテンドウパワーでの書き換えを除く通常販売での新作としては最後のスーパーファミコンソフトとなった。
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スーパーファミコン
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1997年12月1日にはニンテンドウパワーで『平成 新・鬼ヶ島 前編』『平成 新・鬼ヶ島 後編』『同級生2』の3作が初の書き換え専用新作ソフトとして供給開始。
1998年4月24日には『ロックマン&フォルテ』が発売される。ニンテンドウパワーでの書き換えを除く通常販売での新作としては最後のスーパーファミコンソフトとなった。
2000年12月1日にはニンテンドウパワーにて『メタルスレイダーグローリー ディレクターズカット』の書き換えが開始された。ライセンス品では最後に販売されたスーパーファミコンソフトとなる。
非公認ソフトとしては2014年に『Nightmare Busters』、2017年に『Unholy Night: The Darkness Hunter 魔界狩人』が発売されている。
既に発売されていたPCエンジン、メガドライブを超える規模のシェアを獲得し、16ビットゲーム機(第四世代)でも、任天堂はメインプレーヤーの座を堅持した。一方で最大市場の北米とフランス・ヨーロッパ・オーストラリア等の欧州市場では先行していたGENESIS(北米版メガドライブ)、メガドライブとほぼ互角状態で市場を分け合った。
2003年生産終了、2007年には任天堂による修理も打ち切られたが、2008年2月の調査「保有しているゲーム機ランキング」(オリコンランキング)でPlayStation 2(62.3%)、ニンテンドーDS(55.4%)に次ぐ第3位(42.5%)を記録するなど、サポート終了後も根強い人気を誇るハードである。
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クイックディスク
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クイックディスク (Quick Disk, QD) は磁気ディスクの一種。1984年2月にミツミ電機が記憶装置「クイックディスクドライブ」を、日立マクセル(現・マクセル)が記録媒体「簡易型フロッピーディスク Quick Disk (QD2)」を開発および発売した。
同心円状に複数のトラックがあるフロッピーディスクと異なり、クイックディスクには、レコードの溝のように、渦巻状のトラックが1本だけ存在する。フロッピーディスクに比べ安価で、3.5インチおよび3インチのフロッピーディスクよりも小型な記憶装置として開発された。当時パーソナルユースでの補助記憶装置として主流だったデータレコーダーに対しては読み書きの高速さが、フロッピーディスクに対してはメディア、ドライブ共に安価であることがアドバンテージであった。
その後、フロッピーディスクのドライブ、メディアは共に価格が降下し、ディスクの価格は逆転するまでになり結果的にアドバンテージは消失することとなった。
ディスクサイズは2.8インチ。γ-酸化鉄磁性体が両面に塗布されており、裏返してセットする事で両面が使える。ジャケットは78×78×3mm、プラスチック製でシャッターはなく、紙製のスリーブに入れて保存する。ライトプロテクトはツメを折り取ることにより行う。3.5インチマイクロフロッピーディスクより小さく、3インチコンパクトフロッピーディスクより薄い。ドライブの記録ヘッドにはメタル磁性体用のものを使用しており、隣のトラックとは充分な間隔があるためフロッピーディスク用と異なり消去ギャップがない。
容量は片面64キロバイト、両面で128キロバイト。最大記録密度は4410BPI。トラック密度は59TPI。ディスク回転数は423rpm。記録方式はMFM。コントローラICは富士通製MB87013とi8251の組み合わせもしくはZ80-SIO単独の採用例が多く、CRCによるエラー確認をしている。
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クイックディスク
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容量は片面64キロバイト、両面で128キロバイト。最大記録密度は4410BPI。トラック密度は59TPI。ディスク回転数は423rpm。記録方式はMFM。コントローラICは富士通製MB87013とi8251の組み合わせもしくはZ80-SIO単独の採用例が多く、CRCによるエラー確認をしている。
通常のフロッピーディスクドライブではディスクの回転とヘッド送りに別々のモーターを使用するが、クイックディスクドライブは1個のモーターにカムを組み合わせることでディスクの回転とヘッド送りを同時に行う。この機構は低価格化に繋がる一方、ヘッドの位置決め精度が十分でなく、トラック密度を上げることができない。また、トラックが1本となっているため、片面全部を順に一気に読み出しまたは書き込みするシーケンシャルアクセスのみが可能で、任意部分へのランダムアクセスは不可能である。片面すべてを読み出しまたは書き込みするのに8秒かかる。メディアと同容量の64キロバイトのDRAMをバッファとして、「DRAMに読み込み→DRAM上でのランダムアクセス→書き出し」という方法を取ることで擬似的にランダムアクセスを実現出来るが、ディスク上の1バイトを書き換えるだけでも16秒(読み込み8秒+書き出し8秒)かかる上、当時の価格では大容量の高価なDRAMを必要とするため前述のコスト的メリットは低減する実装と言える。
パソコンではシャープ MZ-1500に標準搭載されたほか、MZ-700、MZ-2000/2200用の外付けドライブがある。MSXではLogitec、CASIOより外付けドライブがリリースされた。
MIDI機材ではヤマハ、ローランド、コルグ、AKAI、河合楽器製作所の音源ユニット、シンセサイザー、サンプラー、シーケンサー、データファイラに内蔵および外部ドライブとして採用された。
日本語ワードプロセッサーではシャープ、カシオ計算機、キヤノンの初期の一部の機種で外付けドライブがある。
また、ジャケットの厚み、形状を変更したメディアが任天堂のファミリーコンピュータ ディスクシステムで採用されている。「ファミリーコンピュータ ディスクカード」の名称で呼ばれ、シャッターを付けたカードや、色の異なるカードも作られた。模倣品を防ぐためジャケット面に商標を用いたアンチローディング機構を施してある。
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クイックディスク
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また、ジャケットの厚み、形状を変更したメディアが任天堂のファミリーコンピュータ ディスクシステムで採用されている。「ファミリーコンピュータ ディスクカード」の名称で呼ばれ、シャッターを付けたカードや、色の異なるカードも作られた。模倣品を防ぐためジャケット面に商標を用いたアンチローディング機構を施してある。
1986年5月に三協精機が開発した2.5インチフロッピーディスクドライブはクイックディスクドライブと同様の機構を持つが、メディアは普及型フロッピーディスクと同様にシャッターが付いており、また、同心円のトラックを持つことでランダムアクセスを可能にしている。記憶容量はクイックディスクと同じ片面64キロバイトで、裏返しにして両面で合計128キロバイトを記録することができる。記録方式はGCR。ポケットコンピュータ用の外部記憶装置として採用された。
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1989年
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1989年(1989 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。昭和64年/平成元年。
この年にベルリンの壁が崩壊したり冷戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。
この項目では、国際的な視点に基づいた1989年について記載する。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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ノートパソコン
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ノートパソコン(ノート型パーソナルコンピュータ、ノートPC、ラップトップ、英: laptop, laptop computer, notebook computer, notepad computer, etc)は、モニタなどの表示画面、キーボードやポインティングデバイスなどの入力機器、バッテリー(電池)などがコンピュータ本体と一体化され、ユーザーが任意の場所へ移動させて利用する(持ち運ぶ)ことを前提として設計された、二つ折りで軽量のパーソナルコンピュータの総称である。
ノートパソコンは、主にパーソナルコンピュータ(いわゆる「パソコン」)の機能をオールインワンとし、携帯性や運搬性を重視したものであるが、その当初は後述するようにそれなりのサイズや重量もあったため、持ち歩くにもある程度の腕力を必要とするものであった。後に様々な技術の進歩を取り入れる形で小型化・軽量化(ダウンサイジング)が進んでいる。
古くは小型高密度化でそれ相応の製造コストがかかることから、デスクトップパソコンと比して販売価格が割高となる傾向は避けられず、またオールインワンタイプの宿命として自作PCのような拡張性も乏しく、かつモジュールも専用部品を使うことから、デスクトップ機のように部品交換で機能を向上させたりすることにも、それらが高価であるとかそもそも部品交換に対応していないなど、困難が付きまとった。
しかし、2000年代には多くのユーザーにとってデスクトップパソコンが過剰性能気味となった一方、ノートパソコンの価格も下がり、内部拡張のニーズも減少していった。こうした経緯により、一般のユーザーにもノートパソコンがメインのパソコンとして受け入れられるようになっている。
ノートパソコンの製造には、電子部品の小型・低消費電力化や、機械的構造(剛性・衝撃や圧迫に対する強度・対水ぬれ性など)の高度な設計など総合的な技術が求められることから、長い間日本のお家芸であった。しかし、1998年頃から大型の機種の生産を地価や人件費の安い中国・台湾などに移管するメーカーや、現地企業に設計・生産を委託し独自の設計・製造からは撤退するメーカーなども相次いだ。現在日本国内で生産しているのは直販メーカーが中心で、国内市場向けに迅速な対応が求められるBTOによる組み立てが行われている。
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ノートパソコン
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近年では電子部品の高性能、高密度化や、部品実装技術の向上、素材の性能向上などの発展により小型化、軽量化が進み、演算性能も飛躍的に向上している。また、バッテリーの性能向上もノートパソコンの発展に大きく貢献している。様々な機能がモジュールの形で実装しやすくなっているなどの事情もあり、後述するように多機能化も依然進行中である。
日本では住宅事情などにより、2000年以降ノートパソコンがパソコン市場の主流となっており、自社パソコンのラインアップをノート型のみとするメーカーも存在する。また従来はコストパフォーマンス重視でデスクトップパソコンが主流であったアメリカ合衆国やヨーロッパでも、価格や利便性のみならず、省電力=地球環境への配慮という観点からもノートパソコンによるデスクトップパソコンの置き換えが進んでいる。
こういったノートパソコン普及の一端には、「メインとして使うのに必要十分な性能」がデスクトップ機と比してもそれほど割高ではない価格で実現できるようになってきているためである。ノートパソコンを選択することは、企業において省エネ・省スペースもさることながら、外出・出張先に普段使っている環境を持っていって作業できる利点もある。この安価な省スペースパソコンという需要では、いわゆる省スペースパソコン(デスクトップ機)という選択肢もあり、ノート型パソコンが小型化の一方で犠牲にせざるを得ない「大画面」(大解像度)や「入力しやすい(フル)キーボード」や「扱いやすいポインティングデバイス」などを使うために、あえてノートパソコンではなく、大解像度の液晶ディスプレイへ接続・映像出力が可能な省スペースパソコンを選ぶ視点も存在する。
なお、2009年には後述するネットブックに代表される低価格サブノートパソコンに牽引される形でノートパソコン全体の価格が下がり、全世界で販売されているパソコンの50%以上をノート形パソコンが占めるまでになっている。ただし、低価格なネットブックに関しては、2010年代にスマートフォンやタブレット端末の普及で人気にかげりも現れ、パソコン全体の市場拡大が見込まれる中で、成長率を低めにとる見通しである。
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ノートパソコン
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なお、2009年には後述するネットブックに代表される低価格サブノートパソコンに牽引される形でノートパソコン全体の価格が下がり、全世界で販売されているパソコンの50%以上をノート形パソコンが占めるまでになっている。ただし、低価格なネットブックに関しては、2010年代にスマートフォンやタブレット端末の普及で人気にかげりも現れ、パソコン全体の市場拡大が見込まれる中で、成長率を低めにとる見通しである。
「ノートパソコン」との呼称は和製英語であり、世界的にはノートブック (Notebook, Notebook computer)と呼ばれている。ラップトップ (Laptop, Laptop computer)と呼ばれるカテゴリ(の一部)で、概ね3 kg未満でブリーフケースに収まるサイズのラップトップがノートブックと呼ばれている(さらに薄型軽量のものはウルトラブック (Ultrabook)と呼ばれる)。日本では「ラップトップパソコン」より小型軽量なパソコンを指して、あるいはラップトップに相当する製品を全てノートパソコンと呼ぶことが多い。略して「ノーパソ」や「ノートパソ」などと呼ばれることもある。2017年現在の日本ではラップトップという呼称はほぼ廃れ、大型のデスクノートも含め、2つ折り式のポータブルコンピュータを全てノートパソコンと呼んでいる。
なお、1989年に日本でこの分野のパソコンが登場した当時は呼称が統一されておらず、マスメディアやパソコン雑誌でも当初は「ブック型パソコン」、「ブックパソコン」などの呼称が多かったが、エプソン(現・セイコーエプソン)が286NOTE、NECが98NOTEをそれぞれ「ノート型パソコン」として売り出したことから、「ノートパソコン」の名が一般的になった。
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ノートパソコン
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なお、1989年に日本でこの分野のパソコンが登場した当時は呼称が統一されておらず、マスメディアやパソコン雑誌でも当初は「ブック型パソコン」、「ブックパソコン」などの呼称が多かったが、エプソン(現・セイコーエプソン)が286NOTE、NECが98NOTEをそれぞれ「ノート型パソコン」として売り出したことから、「ノートパソコン」の名が一般的になった。
パーソナルでポータブルなコンピュータという概念はアラン・ケイによる1972年に発表されたダイナブックという構想で詳しく描かれている。ノート型より先にデスクトップサイズのパソコンの開発が行われたが、これらは形状(大きさや重量)的に持ち運びができるもの(ポータブル)ではなかった。IBMは1973年にポータブルコンピュータのプロトタイプIBM Special Computer APL Machine Portable (SCAMP) を発表し、1975年には世界初の市販ポータブル・コンピュータIBM 5100を発売した。
1980年代のはじめ、最初期のポータブルパソコンは、トランクやスーツケース大の筐体にCRTや補助記憶装置を詰め込み、何とか持ち運びが可能な状態に組み上げた製品であった。Portal R2E CCMC、オズボーン・コンピュータのオズボーン1や、コンパックのCompaq Portableなどがそのルーツである。しかし、これらはバッテリー駆動ではなく外部電源を必要とし、どうにか移動できるというレベルであった。
後にA4サイズ程度の持ち運べるコンピュータが開発され、ハンドヘルドコンピュータと呼ばれた。フルキーボードと小さな液晶ディスプレイを備え、バッテリー駆動が可能であった。マイクロカセットやプリンタなどの入出力機器を搭載したものもあったが、基本的にはデスクトップタイプのパソコンとは互換性のない、別個の商品として扱われていた。エプソンのHC-20、TRS-80 Model 100、そしてNECのPC-8201などが初期の例である。これらはディスプレイサイズが極端に小さく(データやタイピングを一行から数行表示できる)、デスクトップタイプのパソコン互換ではないことから、現在のノートパソコンとは異なる系統と言える。他にもポケットコンピュータというジャンルも存在していた。
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ノートパソコン
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1982年には、ビル・モグリッジがデザインし、Grid Systems Corporationが開発したGrid Compass 1101という世界初のクラムシェル型、つまり二つ折りにすることで、フルキーボードと画面を両立させ、折り畳んだ状態で持ち運べる小型パソコンが発売された。これによってノートPCの原型が確立されたが、高価格だったこととOSがマイナーな独自OSだったため、利用者はNASAやアメリカ軍など特殊な層であり、一般には広く普及しなかった。1983年には同じくクラムシェル型のDulmont Magnumが、同じく1983年にはSharp PC-5000(英語版)、Ampere、そしてGavilan SC(英語版)、1985年にはBondwell-2が発売された。PC-5000は本体のみの場合、バッテリで8時間使用可能とされた。 1985年には、一般市場向けで商業的に成功した初のラップトップとして、東芝からIBM PC/XT互換ラップトップPC T1100が発売された。
これらの1980年代初頭より登場した製品は、椅子に座ったひざの上で操作できるという意味で、「ラップトップパソコン」(英語:Laptop Computer)と呼ばれたが、初期には高重量の製品が多く、中にはMacintosh Portableなど10kgを超える製品も有ったため、ラップクラッシャー(膝壊し)などと揶揄されることもあった。
また、1989年には初のパームトップPCであるAtari Portfolioが発売された。これは、掌サイズの横長のクラムシェル型筐体に、ディスプレイとキーボードが備わっていた。この分野では、Poqet PCやシャープ、HPが続いて商品を発売した。
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ノートパソコン
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また、1989年には初のパームトップPCであるAtari Portfolioが発売された。これは、掌サイズの横長のクラムシェル型筐体に、ディスプレイとキーボードが備わっていた。この分野では、Poqet PCやシャープ、HPが続いて商品を発売した。
そんな中、A4ノートサイズ、2.7kgと軽量で、最小限のインターフェースを装備しながら、大型の液晶ディスプレイを備え、デスクトップタイプのパソコンと互換性を保持した製品として、1989年6月27日発表、同年7月に東芝から発売されたDynaBook(現・dynabook) J-3100SSは、19万8,000円という価格で衝撃を与えた。発表こそ エプソンのPC-286NOTE executive が先んじていたものの(1989年6月7日発表、同年9月発売、重さ 2.2kg、45万8,000円)、価格的には競合にならなかった。これらは、1989年10月には NEC より発売された PC-9801n とともに、「ノートパソコン」、通称「ノートPC」という新たな市場を切り開いた。基本的なデザインはノートPCの原型となったGrid Compassと大きく変わらないものの、それ以前のより重量的なラップトップPCと区別するためにノートPCという用語が使われるようになった。(注:1990年代後半になると、ラップトップPCとノートPCはほぼ同じ意味で使われるようになった。)
1991年にはApple ComputerがPowerBookシリーズの発売を開始、キーボードの手前にパームレストとポインティングデバイス(当時はトラックボール)を配置するという現在のノートパソコンのデザインの原型となった。ThinkPad(IBM/Lenovo)は独自のトラックポイントを採用している。
2000年代には、タッチパッドやポインティング・スティックといったポインティングデバイス、イーサネットや無線LANといったネットワーク機能はどのノートパソコンにも必ず搭載される機能になった。ディスプレイは高画質化され、Bluetoothをはじめとしたワイヤレス接続機能は著しい発展をとげ、プロセッサの処理速度や搭載メモリ容量なども大幅に向上した。これによりデスクトップ型パソコンの補助ではなく、最初に購入するパソコン、さらにメインマシンとして使用されることが一般的となった。
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ノートパソコン
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またUSBはそれ以前のノートパソコンが苦手とした拡張性を補って余りある接続性を提供しており、外部記憶装置や各種入出力機器・ユーザーインターフェイスデバイス・拡張機能を提供する周辺機器は多く、前述のBluetoothによる外部機器接続の利便性とあわせて、様々にユーザーに利用されるようになった。
構造としては、基本的にパーソナルコンピュータの機能を備える以上は、このコンピュータ・アーキテクチャを踏襲したものになっているが、オールインワン機種として、表示機器や演算装置・外部記憶装置・入力機器(ユーザインタフェース)などを一通り内蔵している。また、携帯に際して電源を得られない場所でも使用するために電源(バッテリー)を内蔵しており、内蔵電源と外部電源を利用できるようになっている。
パーソナルコンピュータ自身が汎用の製品であるため、製品によっては特定のユーザー群の利便性を向上させるべく何らかの機能を付加したものがある一方で、基本機能だけでまとめられ、ユーザーが用途に応じて拡張機能をオプションで追加することを前提とする製品も少なくない。こと小型化・携帯性を求める機種では、光学ドライブなどかさ張る機能は外部接続で利用するよう設計されている。
軽量化およびバッテリー動作のため、表示機器には主に液晶ディスプレイが使われており、基本的に本体部分との二つ折り形状となっているが、画面部分を回転させ画面を表にして折りたたむことでタブレットPCのように利用できるタイプも存在する。画面の大きさはデスクトップパソコンと同様に対角で「○○インチ」(販売店などでは○○型と表記)で表される。以前はアスペクト比(長辺:短辺)は「4:3」が主流であったが、2000年代半ば頃から「16:10」、「16:9」のいわゆるワイドが主流となっている。初期の頃は小型化や技術的なものやコストの問題もあってモノクロ画面を採用した製品もあったほか、16色や256色表示(色深度4ビットや8ビット)など色彩表示が限定的なものもあったが、現在はほぼ例外なくデスクトップ機と比べても遜色がないカラー表示が可能となっている。
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ノートパソコン
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液晶ディスプレイに関しては、当初は白黒液晶に始まり、カラー化の途上で比較的安価なDSTN液晶を採用した製品も普及したが、現在はほぼ全数がTFT液晶となっている。バックライトについては近年に至るまで冷陰極管(極細の蛍光管)が用いられているが、2008年第4四半期からLEDバックライト(エッジライト式)が登場している。
筐体の大きさについてはノートパソコンを閉じたときの状態で紙の寸法のA列およびB列になぞらえてカテゴライズされている。また、紙の寸法より一回り大きい「ファイルサイズ」という表現も用いられる。ただ、前述の通り画面アスペクト比がワイドのものでは、横に細長い製品も登場している。
スリムノート(英文のレビューなどでは Slim より Thin が使われている)と呼称されるノートパソコンについては、特定の大きさのカテゴリーに属するノートパソコンよりも比較的厚みが薄いものを指す。
電源は基本的に内蔵電源としてのバッテリーと、外部電源(商用電源など)を直接利用したりバッテリーを充電するためのACアダプタを利用する。大型の機種や過去のものには外部電源を利用するための変圧器や整流器を内蔵した製品もあったが、現在では本体の小型軽量化を妨げる要素として、小型機種を中心に外部にACアダプターを接続する形態が主流である。バッテリーに関しては技術革新が著しいものの、コンピュータとしての他の箇所の高性能化は消費電力を増大させる傾向もあり、また実用的な稼働時間と携帯性の間で、メーカー側はバランスに苦慮している。
ノートパソコン以外にも言えることだが、二次電池は充放電サイクルを繰り返すにつれて有効容量が減少するという問題を抱えており、経年劣化したバッテリーは交換を必要とする場合もある。なお、頻繁に充放電を繰り返したり過放電するなど利用条件次第でバッテリは保証期間内であっても容量が低下する場合もあることから、メーカーでは消耗部品扱いで保証対象外とする場合がほとんどである。
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ノートパソコン
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ノートパソコン以外にも言えることだが、二次電池は充放電サイクルを繰り返すにつれて有効容量が減少するという問題を抱えており、経年劣化したバッテリーは交換を必要とする場合もある。なお、頻繁に充放電を繰り返したり過放電するなど利用条件次第でバッテリは保証期間内であっても容量が低下する場合もあることから、メーカーでは消耗部品扱いで保証対象外とする場合がほとんどである。
ノートパソコンに付属するACアダプターは、外部電源による動作および内蔵バッテリーの充電のために使用するが、ノートパソコンが携帯される機器として、販売されている(購入した)地域を離れた海外旅行や海外出張にも持ち出される場合もあることから、世界各国の電源事情に対応、電圧や交流周波数の違い(100~240ボルト、50/60ヘルツ)を自動的にノートパソコンの機能に即した電圧で直流の電流に変換できるよう設計された製品も見られ、またコンセント形状も様々な規格が存在し国・地域によってまちまちであることから、プラグ変換で対応する製品も見出せる。このほか、乗用車のアクセサリーソケットを利用できるアダプターなど、様々な製品も見られる。
また、半導体製品の低電圧化が進む現在でも消費電力の高いCPUや液晶パネル(特にバックライト)、各種ドライブなどを使用していることもバッテリーの小型化を阻害している要因である。古くは乾電池で駆動するものやThinkPad 220のように必要に応じてバッテリーと電池ボックスを入れ替えて利用できるノートパソコンも存在したが、パソコンの性能が上がり、消費電力の増大した現在ではノートパソコンを実用的に駆動するのは難しいため、現行のノートパソコンでは(マニアの改造を別にすれば)乾電池駆動の製品は見られない。そのため、外部に持ち出して長時間駆動するにはACアダプターも持参し電源を確保する必要性が出る。一部のメーカーでは充電式電池に代わって、アルコール(メタノール)を補給して電力を発生させる燃料電池の開発を進めているが、まだまだ技術革新の必要性が高い製品といえる。
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ノートパソコン
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なお、公共の施設でACアダプターを使用すると電気窃盗(盗電)になるおそれがある。その一方で、ノートパソコンを含む様々な電子機器としての携帯機器が一般に普及した結果として、日本においては一部の新幹線(東海道・山陽・九州のN700系、東北のE5系、山形のE3系2000番台、秋田のE6系、北陸のE7・W7系)や特急列車(主に2009年以降に製造されたJRや私鉄の車両)、ファミリーレストランやファストフード店など、客席にノートパソコンや携帯電話の充電用のコンセントを備えた施設も増えるなどしている。
またバッテリーは携帯時の電源だけでなく、急な停電の際の無停電電源装置としても機能する。
内蔵するデバイスのスピンドル数(モーター軸、すなわちディスクドライブの数)で以下のように分類されることもある。
ローエンドからロワメインストリームのCPU(2015年時点ではAMDのEシリーズ、AシリーズやインテルのCeleron、Pentium、Core i3、i5、i7(ただしCore i7の場合は2コア/4スレッドの低電圧仕様版がほとんど)と、13~15インチクラスの液晶を搭載したモデル。価格優先の設計で寸法と重量が大きいが、CPUがボトルネックとなりにくい一般的な用途(ネットアクセス、低解像度の動画再生、文書作成や表計算などのオフィススイートなど)には必要十分な性能で、安価なこともあり各社の売れ筋商品となっている。チップセットにもモバイル向けローエンド製品が使われることが多く(一部例外あり)、GPUもチップセットに統合されている。中には無線LANをも省略したモデルもある。また、2012年頃からUSB 3.0インターフェースや、一部に限られるがBlu-ray Discドライブなどを搭載したモデル(特に東芝、NEC、富士通)も存在する。
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ノートパソコン
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16~18インチクラスの液晶に最高性能レベルのCPU(2019年時点では主に6コア/12スレッド版のインテルのCore i7)とハイエンドGPU(同・NVIDIAのGTX 1070、1080あたり)を搭載したモデル。動画編集、DTM、オンラインゲーム、CAD、解析用途など、充分なマシンパワーが必要な用途向け。「ゲーミングノートパソコン」や「モバイルワークステーション」などと銘打って売られているものもある。高速化を目的としたSSD、大容量のBlu-ray Discドライブや地上デジタルチューナーを搭載している機種もある。一般的に普及機よりも重量は重く、持ち運び移動にはあまり適さない。
2014年7月現在、日本で販売しているメーカーはLenovo(旧IBM)、東芝、富士通、NEC、デル、エプソンダイレクト、ヒューレット・パッカード、エイサー、Apple、ショップブランドなどで、それぞれ各社のカラーがはっきりと出ているのが特徴。
14インチクラス以下の液晶と高性能CPUを組み合わせたモデル。携帯性と高性能とを兼ねそなえている。GPUは消費電力を抑え携行性を確保するためチップセット内蔵のものを利用することもあれば、性能を重視してミドルレンジ程度のものを実装することもある。近年ではビジネスモバイルとの中間的モデルも増え、ビジネスモバイルとの区分がはっきりしなくなっている。
ビジネスで持ち歩くことを想定して作られたモデルで、携帯性と堅牢性、バッテリーの持続時間が重視されている。ビジネスバッグに簡単に収めることができ、(日本の)ラッシュ時の通勤電車にもまれても壊れないよう、マグネシウム合金やカーボンファイバー素材などの頑丈な筐体を持っている。CPUにも低電圧バージョンを採用し、細かな電力制御をするなど省エネに気を配って電池での稼働時間を延ばしている。その他にもハードディスクに対する負荷や衝撃を軽減する仕組みを採用したり、キーボードに水をこぼしても問題ない製品も存在する。
ただし、先述の素材を含め、小型軽量設計で高価格であることと、電池持続時間を優先するあまりCPUの性能が二の次になっているなど、扱うデータのサイズやアプリケーションの種類によっては不利な面もある。
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ノートパソコン
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ただし、先述の素材を含め、小型軽量設計で高価格であることと、電池持続時間を優先するあまりCPUの性能が二の次になっているなど、扱うデータのサイズやアプリケーションの種類によっては不利な面もある。
この分野は従来、パナソニック、IBM(現・レノボ)、富士通が得意としていたが、最近ではNECやソニー(現・VAIO)も対抗するモデルを販売するなど、他社も追撃する気配を見せている。
ビジネスモバイルから派生し、屋外での使用を主な用途と想定して耐振動・耐衝撃・防塵・防滴性能などを大幅に向上させたモデル。主に軍・警察・消防などで使われるが、振動に強いという性格から車載端末として使われるケースも多い。この分野は従来、パナソニック、ジェネラル・ダイナミクス(Itronix)、Getac(英語版)が市場をほぼ独占していたが、現在はNEC、デル、ヒューレット・パッカード、モトローラなども参入している (TOUGHBOOK、en:Rugged computerも参照)。
パソコンでテレビ放送を見るためのモデル。こういった方向性はアナログ放送・8ビットパソコン(デスクトップ機)の時代から存在するが、テレビチューナーを搭載しているのが条件で、地上デジタルテレビ放送開始後の2012年現在では、地デジチューナー搭載の大型ノートブックからワンセグチューナー搭載の1スピンドル機まで幅広くリリースされている。
パソコンとしての性能もさることながら、放送、あるいは映像ソフトを視聴するためのアプリケーションソフトウェアの使い勝手の良さも求められる。チューナーを内蔵するため、それなりの重量となる(東芝Qosmioは重さ4kg以上と、ノートパソコンとしては重い)が、チューナーを外付けにしてUSBケーブルでつなぐ形をとっているモデルは、テレパソでありながらテレビチューナーなしモデルとほぼ同じ重さとなる。テレビチューナーのない機種でもUSB接続の外付けワンセグチューナーを接続・テレビ局によるサイトでの同時配信(NHKプラス・日テレ系リアルタイム配信・TBS系リアルタイム配信・テレ東系リアルタイム配信・東京メトロポリタンテレビジョンのエムキャスなど)でテレビ番組を視聴することはできる。
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ノートパソコン
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Clevoなど日本国外のメーカーから発売されているベアボーンを、パソコンショップが組み立てて販売する形態のパソコンのこと。BTO(受注生産)が基本。CPUグレードやメモリ、HDD容量など内容の設定の幅が広いため、無駄を極限まで切り詰めることができるので、低コスト、かつ、不必要な機能やアプリケーションソフトを省いたパソコンを手に入れることができるが、サポートセンターが存在しないので(販売店の対応レベルによる)、トラブルが起きても自力で解決(切り分け)できるスキルがユーザーにも要求される。一部にはノート型でありながらバッテリーを搭載しない機種も存在する。
デルやヒューレット・パッカードなど、直販BTO(またはCTO=Custom to order)主体のメーカーの製品も、ショップブランドほどではないものの、実際に製品に触れ、質問ができる店舗が限られるなど、初心者にとってはハードルが高い傾向にある。引き換えに、時折行われるキャンペーンなどを上手く利用すると、ショップブランド同様に低コストで不要なアプリケーションソフトが入っていないパソコンを手に入れることができ、サポートの内容もユーザーの好みで段階的に選べるため、電子掲示板などで情報を得られる中級者以上のユーザが購入する場合が多い。
また、家電量販店などで販売されている主要なメーカの多く(NEC、東芝、富士通、ソニーなど)は、並行して自社のウェブサイトで直接販売も行っており、直販専用モデルとして同程度の内容の製品が安価に売られていることも多く、メーカによっては通常より長い3年保証の付与、CPUやメモリ容量など一部内容の変更が可能、大型量販店でもオプションサービスで行われている自宅へ納品後の設定サービスが選択できる場合もある。
BTO販売の場合、2015年10月時点において、一般流通ルートでは入手不能となったWindows 7が選択できる(その大部分が32ビット版の7 Professional)製品もある(特に大手PC製造メーカーの法人向けの製品、およびパソコンショップ、直販BTOメーカーの各製品)。
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ノートパソコン
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BTO販売の場合、2015年10月時点において、一般流通ルートでは入手不能となったWindows 7が選択できる(その大部分が32ビット版の7 Professional)製品もある(特に大手PC製造メーカーの法人向けの製品、およびパソコンショップ、直販BTOメーカーの各製品)。
14インチクラスの液晶画面を内蔵し、普及機並〜ハイエンドモバイルクラスのCPUを薄型の筐体に詰め込んだノートパソコン。SSDを搭載しているため、Webサービスやビジネス向けアプリケーションの使用では快適なパフォーマンスを発揮する。光学ドライブを省略し拡張性を排除した簡素な構成で、比較的低価格。性能と携帯性、価格のバランスに優れており、普及型とビジネスモバイル、ハイエンドモバイルのニッチを置き換える次世代の主流型ノートパソコンとして期待されている。
7~10インチ程度の小型液晶ディスプレイ、比較的低性能かつ超低消費電力タイプのCPUを搭載し、光学ドライブを省略した小型ノートパソコン(タブレットPC)の規格 が2006年に制定され、各社から製品が発表された。CPUにおいては、当初Intel A100などのCeleron MベースのCPU、もしくはVIA C7やAMD Geodeなどが主流を占めていたが、最近はIntel Atomを搭載した製品が大部分を占めている。しかし、ウルトラモバイルPCの特長であるペン入力やポインティングスティックなど複数の操作機構、画面を表にできる折りたたみ機構といった高付加価値による高価格、CPUやメモリの能力に見合わないOS (Windows Vista) がプリインストールされていたため、売り上げは伸び悩んだ。ただし、OSについては後述のネットブックが普及しだしてからはマイクロソフトのOS供給方針変更もあり、負荷が少ないWindows XPが搭載されるようになった。しかし、ネットブックともども2010年頃から急激に普及したタブレットコンピュータに駆逐され、結果的に消滅した。
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ノートパソコン
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2007年に、ラップトップパソコンよりもシンプルで低付加価値なネットブックと呼ばれている、10インチ前後のミニラップトップが急速に普及しだした。人気の背景にはパソコンが大半の用途において過剰性能になっていること、大容量のストレージや高い処理能力をそれほど必要としないウェブアプリケーションの普及がある。あえて低性能に抑える形で廉価なモジュールを組み合わせた製品が出回っており、2008年に前後する爆発的な普及では集積回路メーカーからOSをリリースしているMicrosoftまでもをまきこんでの、一大市場を形成した。なおこの際に、Microsoft側は低価格化のネックとなるOSのライセンス料を見直す上でULCPCという基準を示し、これがネットブックのスペック上限にも影響を与えている。
しかし、前記のウルトラモバイルPCと同様、このポジションはタブレットコンピュータに移行し、2010年に生産を終了した。
ノートパソコンは、パソコン全般と共通するコンピュータ・アーキテクチャ(いわゆるPC/AT互換機)を採用、他のパソコンと互換性を備えているが、その互換性を持たない、ノートパソコンによく似た形態を持つ携帯機器として、スマートブックというジャンルも登場している。これらは、PC/AT互換アーキテクチャーを採用する上で小型化・低電力化を阻害する避け得ない様々な制約を回避する上で、ARMアーキテクチャなどスマートフォンのそれを採用した製品が見られ、これらはインターネット端末としてやクラウドコンピューティング端末など限られた機能しかもたない。
2010年より活性化したいわゆるタブレット端末にも通じるこれらでは、両ジャンルに食い込む製品も見られ、たとえばAsus Eee Pad Transformerのように、キーボードと本体であるタブレットPCが分離可能で、必要に応じて双方の利便性を使い分けられるようになっている。
ノートパソコンはその90%以上が台湾メーカーによりOEM・ODM生産されている。
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ノートパソコン
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2010年より活性化したいわゆるタブレット端末にも通じるこれらでは、両ジャンルに食い込む製品も見られ、たとえばAsus Eee Pad Transformerのように、キーボードと本体であるタブレットPCが分離可能で、必要に応じて双方の利便性を使い分けられるようになっている。
ノートパソコンはその90%以上が台湾メーカーによりOEM・ODM生産されている。
ノートパソコンを長時間使用する場合人体に与える影響が指摘されている。ノートパソコンの場合、ディスプレイが目線より下に存在することになり、常に首を曲げた状態で作業をする必要が生じる。これによって肩凝りや頭痛、長期的な疾病に至る事が懸念されている。そのため、一定時間ごとに休息し、マッサージをするなど対症療法的な方法と、モバイル以外の環境では視線を落とすことなく視認可能な外部ディスプレイに接続するなどの方法が推奨されている。
また、高い発熱をするCPUを採用したり、冷却ファンの出力が低い場合、バッテリーの過熱・発火事故や、長時間の使用で発生する内部の発熱(40~50°Cを超える場合あり)による(低温)やけどの被害も起きている。これを防ぐには、市販のノートクーラーパッドやUSB扇風機などでノートパソコン本体の温度を下げる必要がある。
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IPアドレス枯渇問題
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IPアドレス枯渇問題(アイピーアドレスこかつもんだい)とはインターネットの発展に伴い浮上してきた問題で、2019年現在広く使用されているIPv4という通信プロトコルにおいて、新規に配布するIPv4アドレスがほぼ枯渇している事態を指す。インターネット上のノードはIPアドレスによって一意に区別される。
IANA (Internet Assigned Numbers Authority) の管理するIPv4アドレスは2011年2月3日に枯渇した。現在は、RIR(地域インターネットレジストリ)が管理する在庫を割り振っている状態である。各RIRの最後の1ブロックは、IPv6への接続性の確保や既存のインターネット接続を維持する目的で、限定された条件で割り振られるので、自由には取得できない。2011年4月15日には、他のRIRに先駆けて、APNICのIPv4アドレスの在庫が/8ブロック換算で、1ブロック未満となり、アジア太平洋地域では、IPv4アドレスの在庫は事実上枯渇した。また2012年9月14日にはRIPE NCCでも最後の1ブロックからの割り当てが始まり、以降も/22や返却された予備のIPv4アドレスを割り振っていったが、2019年11月25日に全て枯渇した。ARINでは2015年9月24日に在庫が/10(/8の4分の1)を切り、枯渇した。
IPv4のプロトコルで通信を行うには、通信を行う送信元と受信先が、一意のIPv4のIPアドレスを割り当てられていることが前提となる。そのため、IPv4のIPアドレスが枯渇し、新規に割り当てることができなくなれば、新規にサーバーや端末などをネットワークに追加することができなくなる。これは、新規のユーザがインターネットに接続できなくなったり、インターネットでビジネスを行うために新しいサーバを設置できなかったりすることを意味する。
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IPアドレス枯渇問題
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限定された通信だけを行うのであれば、ローカルなIPアドレスと、グローバルなIPアドレスを使い分けるNAPT(IPマスカレード)等の技術によって回避することが可能であるが、NAPTはインターネット上のサービスを指定するポート番号を他の目的に流用するやり方であり、ネットワーク上を流れるパケットを書き換える行為なのでセキュリティ上の問題がある。また、ネットワーク上でIPアドレスによって通信相手である相手のノードを一意に指定できないという問題は依然として残っている。
IPアドレス枯渇問題はインターネットが誕生した時から潜在的に存在していた。「32ビットのIPアドレスでは2の32乗=約43億のIPアドレスしか管理できない」という考えは将来に起こり得る問題として提起されはしたが、実際に深刻な問題としては取り組まれなかった。つまり、当時からIPアドレス枯渇問題を回避するための技術を用いることはできたが、もともとがアメリカ軍の軍用技術であったため、軍の使用に耐えるだけの数が確保されればよく、1980年代以前の考えでは、そこまでの民間での使用を想定していなかったのである。
プロバイダから契約者へのルーターに配付されるIPアドレスの種別がグローバルアドレスから、ISP Shared Address (RFC 6598 100.64/10) または、プライベートアドレス (RFC 1918 10/8,172.16/12,192.168/16) になる場合がある。プロバイダによっては、グローバルアドレスを使用し続けるには、追加料金が発生する場合がある。IPアドレスの種別を変更するのは、限られた資源であるIPアドレス (IPv4) の個別ユーザへの配付をやめることにより、新規のサーバーにIPv4のIPアドレスを割り振ったり、将来の接続ユーザ数の増加に対応したりするためである。例えば、既にUQ WiMAXでは約款を修正し、IPv4のグローバルアドレスではなく、プライベートアドレスを配付することがあることを明示している。
場合によっては(ISP Shared Addressやプライベートアドレスを使いたくない場合)、IPv6を使わざるを得なくなる場合も生じうる。
これによって、次のような影響が生じる。
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IPアドレス枯渇問題
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場合によっては(ISP Shared Addressやプライベートアドレスを使いたくない場合)、IPv6を使わざるを得なくなる場合も生じうる。
これによって、次のような影響が生じる。
日本においては1990年代後半に起こった爆発的なインターネット接続の普及などもあり、プロバイダは接続者ごとに固定IPアドレスを振る本来的な方法ではなく、接続中だけいずれかのIPアドレスが振られる動的IPアドレス割当方式を採用した。そのため、一般ユーザーはサーバを公開することが難しくなり、固定IPアドレスサービスは多くのプロバイダで追加料金が課されるようになった。更にブロードバンドインターネット接続の先駆けとして登場したケーブルテレビインターネット接続では、ローカルIPアドレスしか割り当てない方式が一時主流となった。このような環境下ではウェブ閲覧、メール、FTPなどの特定の通信以外での使用は多くの場合厳しい。またJPNIC(日本ネットワークインフォメーションセンター)などが、アドレス空間の割り当てを審査するなど割り当て方法を厳格にし、無用な割り当てを行わないようにした。
2010年6月現在、国内のプロバイダはIPv4アドレス枯渇対応タスクフォースのアクションプランに添う形で、2011年4月にNTTが予定しているNGNのIPv6でのサービス開始をマイルストーンとして、IPv6によるインターネット接続サービスの提供を本格化しようとしている。ただし、既存のIPv4によるインターネット接続サービスを今後どのようにするかについては、プロバイダ毎に対応が異なり、不明な点が多い。総務省は、2010年4月に『ISPのIPv4アドレス在庫枯渇対応に関する情報開示ガイドライン』を公開した。このガイドラインに従って、日本国内におけるプロバイダ各社の対応については、インターネットプロバイダー協会(JAIPA)「ISPのIPv6対応について」でまとめられている。
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IPアドレス枯渇問題
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2005年2月、JANOGのメーリングリストで126.0.0.0/8(126.0.0.0 - 126.255.255.255の範囲のIPアドレスのことで、理論値で最大16,581,375個割り当て可能)という大量のIPアドレスがソフトバンク傘下のBBテクノロジーに分配されたことについて疑問を呈するメールが投稿された。そのときは「ソフトバンクは大量にIPアドレスを使っている、APNICは太っ腹だ」程度の認識であったが(このIPアドレスを割り当てたのはAPNIC)、翌3月にJPNICのIPアドレス担当理事である前村昌紀が日経BP上で 「IPアドレス枯渇問題は依然として存在するが以前の観測よりは増加ペースが落ちており、APNICが処理したことではあるが、126.0.0.0/8割り当ては妥当であった」という旨の発言をしたため事態は一変、JANOG-ML上で今までIPアドレスを出し渋っていたJPNICに対して一斉に批判がなされた。これらの批判は、一方でIPアドレス枯渇問題によるIPアドレスの回収を行っていながら、もう一方で、JPNICが管理するIPアドレス(2005年2月段階で29,067,520個)の過半数のIPアドレスを割り振ったことに対する矛盾を問う批判である。それまで、比較的自由に取得できていたIPアドレスが、プロバイダ経由かつ限定的にしか取得できなくなったことに対する不満が、騒ぎをより大きくした。
当時JPNICは、組織改組に伴い管理を一元化するとともに、IPアドレス枯渇問題に対応するために、/24などの単位で必要以上に分配されていたIPアドレスを回収するとともに、新規割り当て条件の厳格化をしていた。このIPアドレスの回収に伴って、分配されるIPアドレスの数の減少と回収されるIPアドレスの数の増加による相乗効果で、全体としての分配済みのIPアドレスの増加ペースが落ちているように見えていた。
APNICおよびJPNICは、以下の見解を公表している。
注 : JPNICは、独自にはIPv4アドレスを持たず、APNICからの割り振りを仲介している。そのため、JPNICの管理下におけるIPアドレスの移転を除けば、APNICと同様に、「1会員(新規および既存)につき、/22を1ブロック」という非常に限定された割り振りしかできなくなる。
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IPアドレス枯渇問題
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APNICおよびJPNICは、以下の見解を公表している。
注 : JPNICは、独自にはIPv4アドレスを持たず、APNICからの割り振りを仲介している。そのため、JPNICの管理下におけるIPアドレスの移転を除けば、APNICと同様に、「1会員(新規および既存)につき、/22を1ブロック」という非常に限定された割り振りしかできなくなる。
現在、アドレス空間の桁数を増大させたIPv6が普及しつつある。詳細はIPv6の項を参照。
しかしながら、移行する方式によって、問題点がいくつかある。なお、IPv6の導入方式は、プロバイダおよびネットワークの接続経路に依存するため、エンドユーザが自由に選択することはできない(一部の例外を除く)。
休眠中のIPv4アドレスの有効活用を目的として、事業者間のIPv4アドレスの使用権の譲渡に関するポリシーの見直しが行われ、2011年8月1日からIPv4アドレス移転制度を施行した。
JPNICで、実施されている内容は、以下のとおりである。
しかしながら、これまでの経緯からすると、日本国内における該当するIPv4アドレスの使用権の保持者は、未使用のIPv4アドレス空間を提供する意思がほとんどない。IPv4アドレスが枯渇し、必要になった時に追加取得することが困難になった現在では、この傾向はより強くなっている。JPNICが、2004年から2006年にかけてInterNICやJNICから割り振られた歴史的PI (Provider Independent) アドレスの割り振り先組織の明確化を行った際に、既に休眠中のIPv4アドレスの回収を行っている。(105組織319,488個のIPv4アドレスを回収)。その後、日本国内でIPv4アドレスの使用権の保持するためには、JPNICが認定した指定事業者(プロバイダ)から有償で借り受けるのが一般的であり、IPv4アドレスを保持し続けるとコストがかかるようになった。そのため、使用計画のない休眠中のIPv4アドレスは、ほとんどない状態になっている。
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IPアドレス枯渇問題
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JPNICの管轄外からのIPv4アドレスの供給元として、歴史的背景から休眠中のIPv4アドレス空間を多く抱えているARIN(北米地域担当の地域インターネットレジストリ)が期待されるが、ARINは、地域インターネットレジストリ間でのIPv4アドレス空間の移転に否定的であった。しかし、2013年6月3日以降は、JPNICだけでなくAPNICやARINの管理下にあるIPv4アドレスも移転可能となり、2014年4月30日には世界初のRIR間のIPv4アドレス移転がARIN内の利用者からAPNIC配下のJPNIC管理下の利用者に行われた。
実績としては、IPv4アドレス移転制度が開始された2011年8月1日 - 2012年6月末までの11か月で、移転されたIPアドレスはたった30件しかない。傾向としては資本関係があるグループ企業間の移転か、エンドユーザからそこが利用しているISPやホスティング業者への移転が多い。
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ネットスケープコミュニケーションズ
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ネットスケープコミュニケーションズ (Netscape Communications Corporation) はジム・クラークとマーク・アンドリーセンらによって設立された、かつて存在したアメリカ合衆国の企業である。1994年4月4日にモザイク・コミュニケーションズ (Mosaic Communications Corporation) として設立され、同年11月14日にネットスケープコミュニケーションズに社名変更した。1998年、AOLによって買収された。 ネットスケープコミュニケーションズは以下に挙げている製品だけでなくJavaScript、RDF/RSS、 SSLといった根幹技術を生み出した企業でもある。
当初、機能に制限を設けたウェブブラウザであるNetscape Navigatorを無料配布し、機能制限のない製品版の購入を促す戦略をとった。事業は成功し、株式公開時に市場が白熱した話は有名である。この後、World Wide Webの利用が爆発的に拡大した。
このことに触発されたビル・ゲイツはブラウザ開発に本腰を入れ、マイクロソフトはWindows 95の発売と同時にInternet Explorerをリリース。当初は有償のWindows機能拡張セットであるMicrosoft Plus!の一部であったが、後に無償での配布に変更。Windows 95の後継バージョンWindows 98からは標準でInternet Explorerを搭載した。無償であることとWindowsの市場占有率の高さから、自然とInternet Explorerの利用者は増えていった。
ネットスケープコミュニケーションズとマイクロソフトのシェア争いは第一次ブラウザ戦争と呼ばれた。しかしネットスケープはなおも有料販売モデルに固執しユーザーの流出を招くこととなったが、ネットスケープはマイクロソフトに対し不公正な競争であるとの訴訟を起こす。後にこの訴訟は、ネットスケープを買収したAOLとマイクロソフトの訴訟の和解の際、子会社であるネットスケープの訴えも併せて取り下げられた。
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ネットスケープコミュニケーションズ
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ネットスケープコミュニケーションズとマイクロソフトのシェア争いは第一次ブラウザ戦争と呼ばれた。しかしネットスケープはなおも有料販売モデルに固執しユーザーの流出を招くこととなったが、ネットスケープはマイクロソフトに対し不公正な競争であるとの訴訟を起こす。後にこの訴訟は、ネットスケープを買収したAOLとマイクロソフトの訴訟の和解の際、子会社であるネットスケープの訴えも併せて取り下げられた。
1998年1月、ついにNavigator無料化への変更を余儀なくされるが、既にこの時点で多くの利用者をInternet Explorerに奪われていたため、ウェブページもInternet Explorerでの閲覧を優先したものが多くなっていた。その後に新バージョンを出すも欠陥が多く、Windowsとの相性の悪さ、初心者を戸惑わせる複雑な設定項目なども敬遠され、Webブラウザとしての競争力を失った。2011年時点でのNetscapeの利用率は0.1%未満である
1995年に設立された日本法人は2001年をもって解散している。
2002年にNetscape 7を、2005年にNetscape 8をリリースしたが、バージョン8以降英語版以外の公式版はリリースされていない。
Netscape製品は親会社AOLが設立したMozilla Foundationに移行し、開発が続けられている。
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ネットスケープコミュニケーションズ
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1995年に設立された日本法人は2001年をもって解散している。
2002年にNetscape 7を、2005年にNetscape 8をリリースしたが、バージョン8以降英語版以外の公式版はリリースされていない。
Netscape製品は親会社AOLが設立したMozilla Foundationに移行し、開発が続けられている。
Netscape Directory Serverは、世界初の商用LDAPディレクトリサーバである。この製品はミシガン大学のLDAPv1サーバslapdから派生した物であり、設定ファイルの書式など多くの部分でslapdの末孫OpenLDAPとの共通点を見いだす事ができる。LDAPv2への対応はNetscape社独自の実装によって対応している。この製品は現在、サン・マイクロシステムズがNetscape社から権利を買い、現在はSun Java System Directory ServerとしてLDAPv3対応サーバとして提供されている。日本ではソフトバンク、NTTドコモ等が採用するなど大規模ディレクトリシステムにおける業界標準となっている。またNetscape社が留保した権利を含む事業はレッドハットが買収し、389 Directory ServerおよびRed Hat Directory Serverとして提供されている。
企業向けに発売されたWebアプリケーションサーバである。
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FMRシリーズ
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FMRシリーズ(エフエムアールシリーズ) は、富士通が販売していた独自仕様のビジネス向けパーソナルコンピューター(パソコン)のシリーズ名である。
1987年2月に発売開始。同社が販売していたFM-16βの後継機にあたり、富士通のビジネス向けパソコンの主力を担った。複数のパーテーションへ異なるOSをインストールでき、マルチブートも可能であり、又、SCSI接続したHDD間の任意のパーテーションの複製を簡単に行う事ができた。
1993年にDOS/Vを採用したPC/AT互換機、FMVシリーズが登場してラインナップの縮小が始まり、1995年にWindows 95が出るまで(最終機種は1998年4月発売のFMR-280A4/L4・FMR-250L4)販売された。
アーキテクチャはFM-16βから引き続きx86系CPUを採用し、オペレーティングシステム(OS)はMS-DOS系を標準採用。MS-DOSのメモリ空間は他機種の640KBより若干多い768KBを連続して確保できた(前機種FM-16βは当初CP/M-86を標準OSとしたため、ソフトウェアの品揃えに恵まれなかった。その後MS-DOSも発売されている)。
他にOS/2、Microsoft Windows 3.xなどが動作した(FMR-280にはWindows 95も移植された)。
同社のワープロ専用機、OASYSシリーズで実績のあるかな漢字変換機能「OAK」を全シリーズで採用。ソフトウェア開発支援を行うなどラインナップの充実を図り、ビジネス向けの国産16ビットパソコンとしては健闘した。最終的に日本電気 (NEC) のPC-9800シリーズの地位を揺るがすほどではなかったものの、「イコールNEC」のイメージが強い日本の官公庁、特に国公立の教育機関に一定のシェアを確保していた(教育市場向けのモデルも発売されていた)。また同社大型汎用機やスーパーコンピュータの端末(F6680互換エミュレータ端末)としてかなりの数が納品された。また、今は無きチケットセゾンでは店頭設置端末として使われていた。その他の使用例として、全銀協プロトコル対応のファームバンキング端末やファミリーコンピュータの開発機としても使用されていた。
松下電器のPanacom Mシリーズは本機のOEM。
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FMRシリーズ
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松下電器のPanacom Mシリーズは本機のOEM。
1992年から1994年にかけて、それまでの富士通のFMRシリーズとは異なるEISAバス対応のPC/AT互換アーキテチャが採用されたPCサーバ機種が販売され、FMRの冠が付けられた。
各シリーズ間の互換性はハードウェアではなくOSのシステムコール(FBIOS)によって吸収できるようになっていた。一部機種については松下電器(現パナソニック)へOEMされた。
液晶ディスプレイ一体型の省スペースデスクトップの系列。
640×400ドット モノクロ2階調の表示性能を基本とする。
FMR-30BX以降はキーボードの一体化収納が可能な構造となり、キャリングハンドル(移動用の取っ手)が付いていたが、デスクからデスクへの移動といった目的のためのものでありバッテリー駆動が可能な機種は存在しない。
640×400ドットのグラフィック表示機能を持つ、FMRシリーズの中核となる系列。
当初のデスクトップから、ラップトップ機やノート機、派生形である超軽量ノートFMR-CARD系が発売されたほか、コンシューマー市場向けのマルチメディアパソコンFM TOWNSシリーズもテキストVRAM等をソフトウェアでエミュレーションするという形で本系列との互換性を持っていた。
ノートブック型の台頭により比較的短命であったが、デスクトップ型FMRシリーズより小型化された拡張カード規格は、ノートブック機のI/O拡張ユニットや、汎用拡張スロットを持つFM TOWNSシリーズにも継承された(FM TOWNSでは純正オプションの「LTカード接続アダプタ」経由)。
液晶ディスプレイ一体型の省スペース・可搬型デスクトップ機で、液晶ディスプレイ前面にキーボードの収納が可能な箱形筐体を持つ。拡張カード類はラップトップ機と共通。
同時期の他社のノートブックパソコンではフロッピーディスクドライブ(FDD)1機とFDD互換のRAMディスクによる2ドライブ運用が一般的であったが、本系列ではそれに加えてICカードスロットも装備しており、ROMカードによって供給されるアプリケーションソフトを使用すれば、フロッピーディスク2台で運用しにくい大規模なアプリケーションソフトでも実用的に使用することができた。JISと親指シフトキーボードの2タイプあり、本体内蔵で後から取り替えは出来ない。
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FMRシリーズ
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1120×750ドットのグラフィック解像度を持つハイレゾリューション機の系列。
文字キャラクターが24×24ドットで構成されるため、当時は24ドット機とも呼ばれた。
そのままではFMR-50系との互換性を持たないが、オプションの16ドット表示カードを搭載する事によりFMR-50系列との互換性を持つことができるようになっていた。
FMR-50系列がCPUが変更されてもシリーズ名を踏襲していたのと対照的に、本系列では基本アーキテクチャは同一ながらもCPUが80386,80486と変更される度にFMR-60→70→80とシリーズ名が変更された。
質量990g、厚さ26.5mm、単3乾電池2本での長時間駆動を実現したA4ジャストサイズのノートPCで、80C286を搭載するMS-DOS機として当時としては画期的であった。基本的にFMR-50系と互換がある。
磁気記録メディアは内蔵されていないが、MS-DOSや漢字変換辞書といった基本動作に必要なソフトウェアは本体のROMに搭載されていた。加えて、小容量ながら不揮発性RAMディスク領域があり、本体のみで漢字変換の学習内容なども保持することが可能。
外部記憶媒体としてはJEIDA Ver.4準拠のICカードスロットを2機搭載しており、FM-OASYS、MS-Works(統合オフィスソフト)、MS Quick BASIC・MS Quick C(統合開発環境)、ジャストシステム シンフォニー(統合オフィスソフト)、Lotus 1-2-3+4word(表計算)などの主要アプリケーションソフトが同規格のROMカードで提供された。書き換え可能な媒体としては同規格のSRAMカードに対応。フラッシュメモリーには対応していない。
グラフィックス表示機能に関しては、FMR-50シリーズが4096色中16色表示が可能であるのに対し本系列はVRAMを1プレーン分しか持たず、性能上はモノクロ2階調表示だが、BIOS等でハードウェアの差異を吸収することによってFMR-50シリーズとのソフトウェア互換性を実現していた。内蔵ディスプレイは反射型STN液晶で、FMR-50シリーズと同じく解像度は640×400ドット。
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FMRシリーズ
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グラフィックス表示機能に関しては、FMR-50シリーズが4096色中16色表示が可能であるのに対し本系列はVRAMを1プレーン分しか持たず、性能上はモノクロ2階調表示だが、BIOS等でハードウェアの差異を吸収することによってFMR-50シリーズとのソフトウェア互換性を実現していた。内蔵ディスプレイは反射型STN液晶で、FMR-50シリーズと同じく解像度は640×400ドット。
インターフェース類はICカードスロット2機とRS-232C 1ポート、拡張I/O 1ポート、DC入力のみだが、拡張装置として、FMR-50LT系のオプションカードを使用できる拡張ボックス(据え置き型)、DSLINK(イーサネット)アダプター、2MB増設メモリー、モデム、増設電池ボックス(以上外付け一体型)等が用意され、可搬性は損なうものの、通常のパソコンとしての利用にも充分な機能の拡張が可能であった。
FMR-50系列に、Windows対応強化としてグラフィックアクセラレーターを搭載した系列。
FMR-250系同様、FMR-60/70/80系列にグラフィックアクセラレーターを搭載した系列。
FMRシリーズの中では異質だが、1992年から1994年にかけて、PC/AT互換機のPCサーバがFMRシリーズとして販売された。ただし、最後にリリースされたFM-360SVには"R"がついていない。このことから、サーバのシリーズ全体をFMサーバシリーズと呼ぶこともある。 このシリーズは1996年にGRANPOWER 5000シリーズに統合された。
1992年7月に、それまでの富士通のFMRシリーズとは異なる32ビットEISAバス対応のPC/AT互換アーキテチャが採用されたPCサーバとしてFMR-340SVが発表された。 業界標準を意識し、OS/2 LAN Manager、Novell NetWareといったネットワークOSを使えるようにした。CPUは486SX/486DX。富士通のMシリーズ/Kシリーズと通信するための通信カードもEISAバスに装着可能。1993年11月には後続のFMR-360SVシリーズも発表された。
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FMRシリーズ
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1994年6月にFMR-340SV、FMR-360SVの後継として発表。CPUには486DX2、Pentiumを採用、メモリ容量増大(最大384MB)、ECCメモリとRAIDの採用、無停止電源装置の提供が特徴。OSはWindows NT。
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1979年
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1979年(1979 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。昭和54年。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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クーロンズゲート
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『KOWLOON'S GATE クーロンズ・ゲート-九龍風水傳-』は、1997年2月28日にソニー・ミュージックエンタテインメント (日本) (SME)が発売したアドベンチャーゲーム。
九龍城砦をモデルとした「九龍城(クーロンじょう)」が舞台のアドベンチャーゲーム。この世と対なす別世界「陰界」から突如出現した九龍城の風水を正し、世界の崩壊を防ぐことを命じられた「超級風水師」を主人公とする。キャッチコピーは「常識は、今のうちに捨てておいてください。」。
PlayStation初期タイトルとして、PS発売以前からプロモーションムービー等が公開されていたものの、開発の遅れによって発表から発売までに4年以上の歳月を費やした。
2010年4月14日から2013年4月10日の間、PSP/PS3用ゲームアーカイブスとしてPlayStation Storeで配信。2015年9月16日よりPlayStation Vitaに対応したほか、初回版のブックレット(デジタル版)が付属して再配信されている。
2017年10月26日には、ジェットマンから本作の前日譚にあたるPlayStation VR専用ソフト『クーロンズゲートVR Suzaku』が発売され、2018年10月2日にはOculus Go版『クーロンズゲートVR Suzaku』が発売された。
2019年11月10日には次世代版続編『クーロンズリゾーム』の製作が発表された。
本作の主要メンバーは後に有限会社「是空」を立ち上げ独立した(現在は解散)。
まだ中国に返還される前の1997年5月の香港。主人公は香港最高風水会議の超級風水師である。物語は、既に存在しない九龍城が姿を現したことを発端とする。
現世である「陽界」とは表裏一体の世界「陰界」が存在する。この九龍城は陰界のものであり、それが突如として陽界に出現したのだ。どうやら原因は、陰界において四神獣の見立てが行われていないことにあるという。そのため気脈の流れが乱れ、最も邪気に歪んだ九龍城が陽界に姿を現してしまった。陰と陽が不用意に交わるようなことがあると、世界の存在自体が意味を失って消滅しかねない。5月22日、主人公は陰界に風水を起こすべく、九龍城の入り口となる龍城路へと送り込まれた。
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クーロンズゲート
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ただでさえ陽界とは価値観や法則の異なる陰界で、しかも最も歪んでいる九龍城では常識などまるで役に立たない。主人公は九龍城にて奇妙にして奇怪な人々、出来事の数々に見舞われる。龍城路の奥の胡同で鏡屋を救出した主人公は、「九龍フロントに行ってはどうか」という提案を受ける。九龍フロントにて気功塾の経営者であるウェイと出会い、陰界の龍脈についての情報を得る。九龍城は四つの龍脈すべてが集まる場所であり、龍脈が乱れた現在、この九龍城のみが陽界に現出したのもそれが関係しているという。そして龍脈の一つ「青龍」は木彫りの仏像に姿を変えているという。九龍フロントで様々な路人に振り回されるうち、主人公は季弘という質屋から引替札を差し出される。季弘は小黒という人物から古い暦の本についての依頼を受けていたらしいが、主人公は小黒という人物を知らない。小黒が居るとされる龍城飯店というホテルを訪れ、主人公を迎えたバーテンダーのリッチは主人公が手にしていた引替札の存在に気づき、小黒の居場所を教えた。すると「私なら、ここよ」という声と共に、2階から1人の若い女性が降りて来た。彼女が小黒だった。小黒は2年ほど前から九龍城に現れ、龍城飯店で手伝いをしたりしながら暮らしていたが、最近見るようになった予知夢をきっかけに、生き別れの姉捜しを始めたという。一方、九龍城では「蛇老講」またの名を「オールド・スネーク」という秘密結社が双子を集め、「鳴力」という能力を覚醒させて何かを企んでいるらしい。もし小黒が双子だったら彼らに目をつけられるのではないかとリッチは心配していた。
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クーロンズゲート
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主人公はさらに調査を進めるうちに、スネークと敵対する組織「是空」の使者である紅頭達と出会い、協力を求められる。やがてスネークの目的が、双子を利用して「眠れる龍」を目覚めさせ、不老不死を得る事だと判明する。調査を続ける主人公は、小黒を気に掛ける女性コニー楊、小黒が相談していたという夏先生、龍津路一のべっぴんと評判の男性アニタ・ドールなど様々な人々と関わりつつもミスター・チェンや媽妃と言ったスネークのメンバーに目を付けられ、そして小黒も持ち前の行動力で姉を探すうちに九龍を渦巻く陰謀と混乱に巻き込まれていく。また、陰界では四神獣の見立ては地形では無く、宿命を受けた人間で行う必要があった。その一人が10年前に白虎の龍脈を探していた風水師であり、アニタ・ドールの兄であるスイジェンだった。彼はスネークの策略で封印されており、解放するには封印石を全て破壊するしかないが、その封印石がどこにあるのかは分からなかった。
小黒が会いに行くと言っていた怪しげな陰陽師を訪ねた主人公は、凄まじい勢いで畳み掛けられて彼の開発したタイムマシン「渾天儀」で清朝の時代に着く。乾清宮では四神獣を見立てる天道式が予定されていたが未だ執り行われず、城には物の怪が徘徊していた。また、前回の天道式では見立てを行うはずの風水師が邪心を抱き、自らを青龍に見立てようとして処刑された。その際に青龍の宿命を受けていた僧侶は自身を木彫りの仏像に変えて邪気から逃れたという。主人公は玄武の宿命を受けた医者の玄太と皇帝を見立てて龍脈を繋ぎ、現代に戻る。
主人公が九龍城に戻ると龍城路の半分が消え、西城路と繋がる異常自体が起きていた。マグネ気や邪気が九龍城を蝕みつつある中、主人公は是空の指導者であったウェイにより、スネークが目覚めさせようとしている「眠れる龍」の正体が清朝で木彫りの仏像に変わった僧侶、およびその青龍の力である事。そして仏像の中にはかつて処刑された邪悪な風水師・妖帝の怨霊が潜んでおり、それこそがスネークを操る黒幕であると明かされる。眠れる龍が目覚めるとき、全ての邪気が不滅となる。スネークの言う不老不死とはこの事だった。やがて小黒の鳴力の覚醒により、彼女はスネークに狙われる。主人公はスネークの幹部・双子師四天王と攻防を繰り広げつつ、小黒を探して九龍城を奔走する。
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クーロンズゲート
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多くの出来事を経て小黒を保護した主人公は、九龍城が元の世界に戻ろうと崩壊を始める中、リッチの店に戻った。安堵も束の間、爆発音が響き渡り、主人公は小黒をリッチと紅頭に任せて飛び出す。スネークと組んでいた剥製屋を倒した主人公は最後の封印石を崩し、解放されたスイジェンを白虎へと見立てた。しかし九龍フロントに龍穴が開き、街には妄想の嵐が吹き荒れる。その最中、前に大井路で出会った妄人にして、玄太の息子である玄機と再会し、行動を共にする。陰陽師が龍穴の先が1920年の上海だと解明するも、直後に小黒が龍穴に吸い込まれてしまう。主人公は小黒を追って再び時を超え、1920年の上海にある「妄想の島」へと辿り着く。
妄想の島でも天道式の準備が進められていた。蘭暁梅という少女に天道式に使う絵画を運ぶ手伝いを頼まれるが、その絵画は二人の玄機を映し出す。やがて玄機も消えた。主人公は写真の中に小黒を受け止め、彼女の姉の思念と対面する。小黒はこの時代の人間だったが何らかの力で未来に飛ばされた。そして彼女ら姉妹は朱雀の宿命を受けていた。主人公は暁梅の見立てに失敗するが、その力は小黒と姉に受け継がれる。同時に占い師のマダム馮から妖帝の封印に必要な「五岳の図」を授かったものの、現代には戻れなくなってしまった。そこで実はタイムトラベラーだった季弘により朱雀の鏡を譲り受け、現代に戻る。そして小黒との思い出を振り返りつつ、彼女と姉を朱雀へと見立てた。
残る神獣を見立てるべく、響く声に導かれて妄人路へと向かう。妄人中心には人生を歩み直し、宿命を受け入れた玄機がいた。彼を玄武に見立て、いよいよ妖帝に囚われた青龍を残すのみとなった。しかし遂に妖帝自身が動き出し、巨大な異形が姿を現す。「皮肉なことに、私をこの場に導いたのは君自身だ。君は私の生まれ変わりのようだ」。蘇った双子師四天王の口を介して主人公に語りかける妖帝。最後の戦いが始まった。四天王を下し、妖帝の本体を五岳の図で封じる。そして石化が解けた木彫りの僧侶を青龍に見立て、とうとう見立てが完了した。九龍城は香港から消えていき、陰陽二つの世界は元の場所に戻った。しかし決して離れた訳ではない。互いに交わる事なく響き合い、ひとつの秩序を生み出す。主人公は摂理を歪める邪悪を払い、二つの世界を救ったのだ。
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しかし主人公は陰界に居た。崩れ去った九龍城の瓦礫の間を歩いていると、何故かそこに暁梅が現れた。主人公に気付いて駆け寄る暁梅だったが、突如として現れた異形の腕に掴まれて消えていく。後には異形から落ちた腕の一本が不気味に残るだけだった。
「陰界」とは、「陽界」である現世とは表裏の関係にある世界。同一時間軸上に存在するが決して互いに交わることも、離れることもない世界の事で、一種のパラレルワールドにあたる。陰と陽が不用意に交わる状態が続けば世界はやがて意味を失い、消滅してしまうとされる。陰界では香港を超えた文化の混合が起きており、作中の名詞は広東語、北京語、英語など多様な言語が混ざり合った表記となっている。
気脈の流れが乱れて邪気に満ちた九龍城では、妄想に邪気が取り付くことによる異常事態が頻発しており、その最も極端な形が「妄人(ワンニン)」と「鬼律(グイリー)」である。
本作において、双子の不思議な共鳴は鳴力と呼ばれており、奇跡を起こす不思議な力として人工的に双子を作るプロジェクトも存在している。
陰界より現れた建造物にして巨大スラム街。陽界においては既に取り壊されているが、陰界においては四神獣の龍脈が全て通じていながら最も邪気に歪んだ場所として未だ存在し続けており、突如として陽界の香港に出現した。ゲーム中では全体像は殆ど見えないが、陽界の九龍城砦に加えて下部にも無造作に増築されて絡み合い、陽界に出現した状態ではアンバランスな塔の様相となっている。本作のキャッチコピーの通り、この街ではあらゆる概念が常軌を逸しており、陽界である現世の常識は悉く通用しない。本作はこの陰界の九龍城を舞台として展開される。
尚、現実には「九龍城」とは九龍城砦が存在した地域で、九龍城区の一部を指す。
主人公が最初に足を踏み入れる町。現実の九龍城砦のイメージを色濃く反映した、暗く狭く薄汚れた道が続く。九龍フロントに比べると狭いが物語が進むと地下道へ入る事が可能となったり、また最も多くの胡同があるところである(ただし各胡同は全体的に繋がっているために胡同内部のマップは同一)。主人公に協力をしてくれる鏡屋や錠前屋、エビ剥き屋の子供がおり、体験版ではここと重慶花園の探索がプレイできた。モデルは九龍城砦の代表的な通路の龍城路(ロン・セン通り)。
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九龍城の中心地のような風情がある比較的巨大な町。九龍城では最も賑やかな繁華街だが、同時に裏社会に繋がる部分も多い。中央には巨大なネオン塔があり、良く見ると各店の看板内容まで読み取ることができる。双子屋、龍城飯店、陰陽師のラボなど物語でも重要なポイントがいくつかあったり、小黒やウェイらとの出会いの場でもあったりと実質的な九龍城及び物語の中心部となる。この九龍フロントと繋がる胡同は妄人路のみだが、他の街への入口がいくつか存在する。実際の九龍城砦には存在しないが、表通りに面した一帯には同様に店舗が立ち並び、賑やかな雰囲気の通りがあった。
劇場を中心として繁栄しているため、人々の心は他の地域の住民と比べると活気があり、街の雰囲気も華やかである。その一方で、既に閉鎖した劇場や過去の栄光を懐かしむ者達など、過ぎ去りし時代への哀愁も漂い、華やかさと退廃さが同居する街でもある。故に九龍城でも邪気の影響が強く、「ディープ」とも呼ばれる。二つの劇場が存在するがどちらも胡同と化してしまい、龍津路の人々は「オガクズ」を集めて胡同内部にある封印石を崩してしまえば鬼律は消え去るというこの町の風水師であるスイジェンの言葉を信じて協力し合っている。モデルは九龍城砦最古の街道・龍津路(ロンチュウ通り)。
中央に巨大な麗虹(ライフン)という川が流れている町。川と共に生きている人々が住んでいる。閑散とした雰囲気だが以前は売薬で栄えており、現在でも寂れているとは言え漢方薬の原料を売る店が軒を連ねる。昔は大井路と繋がっていたらしいが現在は塞がっている。住民がブリッジと呼んでいる鵲橋(ジャクキョウ)という橋が架かった先は海明大廈(カーメルマンション)という大きなマンションがある。今は行く事ができないが、麗虹のほとりにはモルグへの入口があり、その更に奥には馬山童が住む神龍廟がある。モデルは西城路(サイ・シン通り)だが実物は敷地の西端にあり、東端の龍城路と対になる街路だった。
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町は大井路と小姐路(シウジェロード)とに分かれており、二つは「妖精さんの転送小屋」にてワープして行き来することができる。大井路は様々な医者がそれぞれの医院を開いており、小姐路は小姐窟(シウジェクツ)という夜總会(ヤソウカイ。ナイトクラブの意)などがある歓楽街となっている。この二つの町それぞれに入口がある巨大胡同も存在する。モデルとなった大井路(タイ・チェン通り)は医療の町ではなく大きな井戸がある街だった。また、小姐路という地名は実在しない。
陰界の九龍城の一街区だが、今回の事件では陰界に取り残されており、作中には登場しない。事件後は陰界より漂流を開始している。公園や商業地区が集まるメインストリート・太子道(プリンスロード)。廃墟や宗教施設が集まる旧市街。街はずれには光明劇場。街を見下ろせる高台・老街など、様々なブロックを持つ。次回作『クーロンズリゾーム』はこの街が舞台となる。実際の九龍城砦にも光明街(クン・ミン通り)という通路があった。
物語が進む中で登場する、陰界の1850年代の中国。乾清宮(ケンセイキュウ)には道光帝(ドウコウテイ)と呼ばれる人物がおり、城下を治めている。実在の乾清宮の外は紫禁城の敷地が広がっているのだが、本作(陰界)では城下町となっている。
物語が進む中で登場する1920年代の中国で、「妄想の島」と呼ばれる島が舞台。実はこの妄想の島は陰界から突き出た出島のようなものであり、陽界に存在している。胡同は存在しないが、この島の住人達が暮らすバンドー大廈(マンション)は階段が複雑に絡まり合うエッシャー的空間を特徴とする、繊細で狂気的なJPEGダンジョンとなっている。
島の持ち主はフランス人の実業家で、かねてより島中に不思議な仕掛けを張り巡らせていると評判だった。当時はその実業家の名前を取って「ランベール島」とも呼ばれていた。
九龍内で展開している電子ネットワークサービス。電子メールの受信、データベースの閲覧、ナビの雇用などが行えるが、利用にはアクセスカードが必要。アクセスは随所にある端末から行う。端末は郵便ポストに似た「街頭端末」の他に「家庭用端末」が存在する。端末ではゲームのセーブが可能で、これはアクセスカードが無くても行える。
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九龍内で展開している電子ネットワークサービス。電子メールの受信、データベースの閲覧、ナビの雇用などが行えるが、利用にはアクセスカードが必要。アクセスは随所にある端末から行う。端末は郵便ポストに似た「街頭端末」の他に「家庭用端末」が存在する。端末ではゲームのセーブが可能で、これはアクセスカードが無くても行える。
九龍城では住民を「路人」と呼ぶ。「ねじ屋」「びん屋」「えび剥き屋」など、一軒一軒が商売として成立するかも怪しいほどの非常に細かい分業社会となっているが、これは取材時に訪れた香港の様子から極端なイメージを取り入れたものである。
正式名称は「蛇老講(ジャロウコウ)」だが専らオールド・スネーク、或いはスネークの通称で呼ばれる秘密結社。「双子屋」「双子中心」と言った施設の運営を行っている。双子の力「鳴力(ミンリー)」を集めて眠れる龍を目覚めさせる事を目論んでいる。
胡同の案内人で、リッチの部下達。複雑極まりなく入り組んだ胡同において、道順の案内の他、偵察や仕掛けの調査、胡同からの脱出などで主人公を全面的にバックアップする。しかし一度に大量の情報を話し、聞き返す事もできないためメモは必須。
鬼律を操る事を生業とする者たち。特定の思想や目的を持たず、他者とも関わらず、ただ生きるためにその能力を使っている。清朝の頃は王室に仕える物の怪使いもいたが、絶対的な権力が失われた現在では流されるまま孤独に存在している。各胡同にて邪気を充満させる元凶であり最深部で主人公を待ち受けるが、いずれも主人公と対面したあとは自ら消えてき、ゲーム的な対決イベントは存在しない。
本作は大きく分けて「JPEGダンジョン」、「リアルタイムダンジョン」と呼ばれるふたつの探索パートと、「戦闘(バトル)」パートから構成されている。JPEGダンジョンでストーリーを進め、情報が集まる(フラグが立つ)とリアルタイムダンジョンに潜り探索、というのがおおよその流れで、その過程で任意もしくは強制的な戦闘が挟み込まれる。
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クーロンズゲート
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本作は大きく分けて「JPEGダンジョン」、「リアルタイムダンジョン」と呼ばれるふたつの探索パートと、「戦闘(バトル)」パートから構成されている。JPEGダンジョンでストーリーを進め、情報が集まる(フラグが立つ)とリアルタイムダンジョンに潜り探索、というのがおおよその流れで、その過程で任意もしくは強制的な戦闘が挟み込まれる。
基本的にゲーム全編を通じ主人公の主観視点で描かれる。 プレイヤーはゲーム序盤に、「冷蔵庫」、「扇風機」、「電子レンジ」の3つの中から好きなものを選択する。これは、主人公の所持する邪気が五属性全て揃ってゲームオーバーになった場合、選択した物の妄人になることを意味している。 イベントシーンでは三人称的なカメラアングルも存在するが、その場合も主人公の外見は一切描かれない。また物語は全50のクエスト(エピソード)に分かれており、それぞれにタイトルが付けてある。しかしクエスト名は演出的に明示されるということはなく、セーブする際に進行状況の目安として確認できる程度の扱いである。
戦闘パートは更に2種に分類される。鬼律退治を目的とする通常戦闘的な「風水バトル」と、ボス戦的な性格を持つ「アイテムバトル」である。戦闘パートでは状況に関わらず風水師が一定確率で「行動に失敗」することがあり、極稀に失敗が重なって何も出来ないままゲームオーバーとなってしまうことがある(バグというより仕様の問題)。気力は邪気の無い場所を歩くか、回復アイテムの「男油」を使用すると回復する。
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クーロンズゲート
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戦闘パートは更に2種に分類される。鬼律退治を目的とする通常戦闘的な「風水バトル」と、ボス戦的な性格を持つ「アイテムバトル」である。戦闘パートでは状況に関わらず風水師が一定確率で「行動に失敗」することがあり、極稀に失敗が重なって何も出来ないままゲームオーバーとなってしまうことがある(バグというより仕様の問題)。気力は邪気の無い場所を歩くか、回復アイテムの「男油」を使用すると回復する。
シリコングラフィックスのCGワークステーションを用いたPlayStation用ゲームの開発計画がたてられ、次世代機らしい音楽とポリゴンとムービーを主軸に据えることが決まった。 当初は『ブレードランナー』のような世界観を冒険するという構想がたてられていたが、木村央志は仲間たちとともに訪れた香港の九龍城砦およびその跡地に衝撃を受け、世界観を変更した。 開発スタッフの一人である井上幸喜は、『マンホール』のようなアドベンチャーゲームをやりたいと考えていた一方、PC版『MYST』で最適化された操作性をPlayStationで表現したらどうなるのかとも考えており、操作性が大きく変わるダンジョンやイベントの間にムービーを挟んで違和感を取り除くという試みを行った。 また、当初はサイバーパンクな世界観ということで大友克洋にキャラクターデザインを依頼しようとしたが、自分で下絵を描いたところプロデューサーの須藤朗がそれを気に入り、自身がキャラクターデザインを務めることとなった。
声優の野中希は小黒より小柄な印象を持っていた。彼女のルックスにあわせて小黒のグラフィック変更もあったと言われている。
井上はテレビドラマ『NIGHT HEAD』を見て、曲の雰囲気が本作にふさわしいと感じ、当時フジテレビでCGを作っていた経験を活かし、『世にも奇妙な物語』のスタッフを通じ、『NIGHT HEAD』の楽曲を担当していた蓜島邦明を本作の音楽担当者として起用した。
当初はPlayStationのローンチタイトルとして発売される予定であり、PlayStation発売前からプロモーションムービー等が公開されていたが、開発の遅れによる度重なる発売延期により1997年2月28日にまでずれ込んだ。
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当初はPlayStationのローンチタイトルとして発売される予定であり、PlayStation発売前からプロモーションムービー等が公開されていたが、開発の遅れによる度重なる発売延期により1997年2月28日にまでずれ込んだ。
本作の開発は何かに引っ張られるように各スタッフが競争して生み出された相乗効果を積み重ねるようにすすめられたものであり、井上は「開発当時誰かに指示された記憶がなく、開発後半にいたっては『クーロンズ・ゲートさん』という架空の人物(概念)に指示された」とシシララTVとのインタビューの中で振り返っている。
キャラクター群のうち、鍵穴男といった「〇〇男」という名称のキャラクター群の多くは木村の考案が考案した。 デザインを担当した井上は「木村さんの中でビジュアルイメージがあるものは、キャラクター設定に挿絵があったので問題なくイメージをつかめた。一方、キーワードだけ指定されたものはそこからイメージを膨らませる必要があり、『面倒なデザインのCGを作らない』という自分の中のルールに従い、キーワードからシンプルなデザインを導き出した」とシシララTVとのインタビューの中で振り返っている。 また、井上は陰界の住人について「彼らは元々その場所に住んでいただけであり、プレイヤーとは敵対関係にない」と考えていたことから、デザイン上のルールの一つとして、「住民には牙などの武器を持たせない」ということを定めたほか、住民が武器を持って主人公を襲う場面を描かないことにした。
当初の構想では戦闘システムは存在しなかったが、木村が五行思想の属性の相克関係を使いたいと考えていたことと、アイテムを得る喜びをプレイヤーに味わってほしいという思いから、戦闘システムが導入される運びとなった。
2000年に本作の発売権が開発元のSMEからアートディンクへ移行し、同年アートディンクの自社製廉価版である「ARTDINK BEST CHOICE」シリーズ中の一作として、新価格で再発売された(詳細はテンプレートを参照のこと)。パッケージデザイン等の細かい部分以外に大きな変更はない。 ゲームアーカイブスではアートディンク版が配信されたのち、2015年からはシティコネクションより再配信となった。
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2000年に本作の発売権が開発元のSMEからアートディンクへ移行し、同年アートディンクの自社製廉価版である「ARTDINK BEST CHOICE」シリーズ中の一作として、新価格で再発売された(詳細はテンプレートを参照のこと)。パッケージデザイン等の細かい部分以外に大きな変更はない。 ゲームアーカイブスではアートディンク版が配信されたのち、2015年からはシティコネクションより再配信となった。
2016年11月、『クーロンズゲートVR suzaku』のクラウドファンディングが開始され、すぐに支援金が目標額に達した。本編の前日談にあたり、プレイヤーが生体通信を介して陰界にシンクしているという設定で龍城路と九龍フロントを散策する。本作の登場人物に加え、新キャラクターも登場する。 当初はPlayStation VR専用タイトルだったが、2017年12月21日のアップデートにより、VRモードから独立したnonVRモードが追加された。
本作の28年後を描く次世代版続編。監督・脚本の木村央志によって『クーロンズゲート』の企画決定から25年目となる2020年に制作プロジェクトが立ち上げられた。制作自体は2019年12月に発表されたが、「シナリオが完成してから事業化する」という方針により、シナリオ第一稿が完成した2020年7月に正式にプロジェクトが発表。こちらも資金の一部をクラウドファンディングで募集し、仮に目標額に達しなくとも計画は実行すると発表されていたが、実際はストレッチゴールにもすぐに達した。ストーリーは『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』に掲載された続編企画「クーロンズ・ゲートif」を底本として大幅に加筆・アレンジしたもので、本作に登場しなかった九龍城の一街区「光明路」を舞台とする。開発はUnityベースでアセットをメインに新たな九龍城を構築する。
音楽は『ゲート』に続き、蓜島邦明が担当。原画も同じく井上幸喜が、キャラクターイラストには新たにおぐちが起用されるとされていたが、最終的にキャラクターデザインは木村が手掛けた『デモンズゲート 帝都審神大戦』同様に山本章史が担当した。
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クーロンズゲート
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音楽は『ゲート』に続き、蓜島邦明が担当。原画も同じく井上幸喜が、キャラクターイラストには新たにおぐちが起用されるとされていたが、最終的にキャラクターデザインは木村が手掛けた『デモンズゲート 帝都審神大戦』同様に山本章史が担当した。
当初はジャンル「路地裏オープンワールド」として全編リアルタイムダンジョンで構成された光明路を自由に探索できる予定だったが、完成した評価版「3Dクーロン」が期待したような面白さにならず、『クーロンズゲート』の続編としての伏線の回収、設定の強化や更新を重視してゲームシステムの見直しを行い、移動をムービー、会話を静止画で行う「ムービーノベル方式」に変更された。また、2021年秋にNintendo Switch、PlayStation 4、PC(Steam)での発売予定だったが実現には至らず、結局、アセットがコンシューマー機に非対応だったという「アセット利用による効率化」が裏目に出た点や開発規模の問題からコンシューマー機移植は断念され、2022年度内にSteamとBOOTHにて早期アクセス版の配信を目指す方向とされた。その後、全8巻の分冊方式での販売が決定し、2023年2月22日に第1巻にクラウドファンディング支援者クレジットなどを加えたパイロット版がBOOTHでのみ発売された。
当初の売り上げは開発期間の割に芳しくなかった。その一方で、独特な世界観に惹かれる者も多く、その世界観と奇妙なキャラクターたちが織りなす不可思議なゲーム体験から賛否両論の評価を受けつつも「怪作」として熱狂的なファンを獲得し、2005年以降はYouTubeやニコニコ動画といった動画共有サイトの普及に伴い本作の人気も少しずつ上がり、最終的にはPlayStationを代表する作品の一つとしてカルト的な人気を博した。「ハマらない人にはハマらないが、ハマった人の心には永久に残り続ける作品」とも評され、Game*SparkのFURUKAWAは本作について、ゲームとしての完成度は低いとした一方で独特の世界観について評価している。開発者である木村自身は「KOWLOON'S 25th ANNIV. 超級路人祭~クーロンズ・ゲート プロジェクト25周年記念イベント~」の資料のために再び本作をプレイした際、「なんて不親切なゲームだろう。これを作ったのは誰だ」と憤慨したという。
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クーロンズゲート
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IGNの馬淵寛昭は2017年11月9日の『クーロンズゲートVR suzaku』のレビュー記事の中で独特な世界観を評価した一方、ゲーム的な要素が皆無であると述べ、世界観に魅力を感じない者はプレイし続けるだけでもつらいかもしれないと述べた。 また、馬淵は『クーロンズゲートVR suzaku』の唯一のゲーム要素である「剥きエビ」が終盤にかけて大量に集める必要がある点を指摘し、「ただでさえ単調なゲーム性に拍車をかけており、このゲームバランスはゲームの性質上、ゲーム性というよりもはや拷問である」と述べている。 さらに馬淵は、画面中央に緑の点があるものの、鼻の頭など視線の基準となる物体がなく、現実で歩く時の感覚との違いが強調されてしまい、ひどいVR酔いに悩まされたとも振り返っている。
『クーロンズ・ゲート』の発売10周年を記念して当時のクリエイターが再結集し、本作の世界観を再現した kowloon というエリアが Second Life 上で2007年7月23日に公開された。(2019年11月時点でまだ継続中。)
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8月29日
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8月29日(はちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。
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ノルム保存型擬ポテンシャル
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ノルム保存型擬ポテンシャル(ノルムほぞんがたぎポテンシャル、英: norm-conserving pseudopotential)は、1979年Hamann等によって考案された第一原理擬ポテンシャル(経験に依らないで作られた擬ポテンシャル)[1]。1982年にBachelet等によって、水素からプルトニウムまでの擬ポテンシャル作成のためのパラメーターの表を掲載した論文が出現してから、一般的に使用されるようになった[2]。ノルム保存擬ポテンシャル(ノルムほぞんぎポテンシャル)とも言う。
ノルム保存型擬ポテンシャル+平面波基底による電子状態計算手法が、原子間に働く力を求める上で都合が良かった(力の表式が比較的簡単なことや、Pulay補正の問題を回避し易いことなど)ため、1985年にカー・パリネロ法が出現した当初は、同手法を用いる上でほぼ例外なくこのノルム保存型擬ポテンシャルが利用され、更に多くの研究場面で使用されることとなった。
1990年にRappe等により最適化されたノルム保存型擬ポテンシャル[3]が考案された。この最適化されたノルム保存型擬ポテンシャルを用いると、より少ない平面波基底の数で、精度の良い電子状態の計算が可能となる。
ノルム保存型擬ポテンシャルの特徴は、切断半径内の電子の擬波動関数のノルムが、真の波動関数のノルムと一致するという条件の下に作られる(名前の由来)。これにより、切断半径内にある価電子が作る静電的ポテンシャルを正しく与えることができ、また原子の擬波動関数の対数微分と真の波動関数の対数微分の値及びそのエネルギー依存性がエネルギーの一次まで一致する。その結果、孤立した原子について作られた擬ポテンシャルを分子や固体に精度良く適用することが可能となる(高いトランスフェラビリティー)。
(*)更に、より少ない平面波基底で計算可能な第一原理擬ポテンシャルとして、ウルトラソフト擬ポテンシャル(これはノルム保存型ではない)がある。
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3月17日
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3月17日(さんがつじゅうななにち、さんがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から76日目(閏年では77日目)にあたり、年末まであと289日ある。
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小谷美紗子
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小谷 美紗子(おだに みさこ、1976年11月4日 - )は、日本のシンガーソングライター。京都府宮津市出身。暁星女子高等学校(現:京都暁星高等学校)卒業。血液型はA型。
1996年にデビュー。ピアノの弾き語りを中心とした楽曲を多く発表している。2005年からはドラマーの玉田豊夢とベーシストの山口寛雄と共に、「小谷美紗子Trio」としてトリオ編成のバンドで音楽活動を行っている。
作詞作曲を自ら手掛けるほか、ピアノ弾き語りの楽曲においては自らセルフプロデュースもこなす。デビュー時には「若き日のキャロル・キング」と形容されたこともあった。
eastern youth、LOST IN TIME、ASIAN KUNG-FU GENERATION、bloodthirsty butchersの田渕ひさ子、凛として時雨、皆川真人、GOING UNDER GROUNDの松本素生、SAKEROCKの星野源、中村一義、奥華子など、彼女のファンであることを公言している著名人も多い。中には、田渕ひさ子やeastern youthの二宮友和、元SUPER BUTTER DOGで100sの池田貴史など、楽曲に参加したアーティストも多数いる。ガガガSPはアルバム『うたき』収録曲「明日からではなく」を自身のアルバム『ガガガSP登場』でカバーしている。
幼少の頃に姉と兄の影響でクラシックピアノを始め、音楽に触れる。13歳の頃から音楽大学の教授へピアノの個人レッスンを受けるかたわら、本格的に作詞作曲を始める。
1994年、高校3年生の時にオーストラリアへ留学し、学業のかたわらで音楽制作を続ける。1995年、オーストラリアの高校課程を卒業し、帰国。姉の知人を介して現在の事務所のスタッフにデモテープが渡ったことでデビューのきっかけをつかむ。
1996年3月、暁星女子高等学校を卒業し、デビューに向けて上京。10月、19歳の時にシングル「嘆きの雪」でMCAビクターよりデビュー。「嘆きの雪」は、FM NORTH WAVEの同年11月度のメガプレイに選ばれた。
1997年2月には2枚目のシングル「自分」と初のアルバム『PROFILE -too early to tell-』を発売。3月にはテレビ朝日系音楽番組『ミュージックステーション』へ初出演した。
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小谷美紗子
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1997年2月には2枚目のシングル「自分」と初のアルバム『PROFILE -too early to tell-』を発売。3月にはテレビ朝日系音楽番組『ミュージックステーション』へ初出演した。
1998年1月、初の全国ツアーを全国6ヶ所で行う。10月、自身初となる弾き語りツアー『migaru』を全国15ヶ所で行う。
2003年3月、東芝EMI移籍後初となるシングル「Off you go」を発売。10月にはodani misako・ta-taを結成し、初のカバーミニアルバム『feather』を発売。
2005年より、アルバム『night』の制作の際にサポートメンバーを務めた玉田豊夢と、彼の紹介した山口寛雄と共に小谷美紗子Trioを結成。4月、アルバム『adore』を、所属事務所が運営するインディーズレーベルであるHIP LAND MUSICより発売。本作より楽曲のセルフプロデュースを始める。以降は作品発表の他、2007年のROCK IN JAPAN FESTIVALへの参加などライブ活動も積極的にこなすようになる。
2008年、古巣であるUNIVERSAL MUSICに回帰。8月、2006年の限定シングルを再録したシングル「Who -08-」と、Trioとしての活動の集大成となるベストアルバム『Odani Misako Trio』を発売。
2010年5月、バウンディより2年ぶりのアルバム『ことのは』を発売。
2011年、新曲「3月のこと」を発表。特設サイトが設けられる。
2013年12月、HILLSTONE Recordsより6年ぶりのフルアルバム『us』を公式通販限定で発売。2014年1月には一般販売も開始。
2014年10月22日、東京・渋谷duo MUSIC EXCHANGEで開催されたライブイベント「女とピアノ」にシンガーソングライターの奥華子と共に参加、ツーマンライブを行った。
2015年11月、Mr.Childrenの全国ツーマンツアーにて北海道Zepp Sapporoで参加。
2016年4月、Music for Lifeより弾き語りベスト「MONSTER」を発売。6月より7都市8公演の弾き語りツアーを行う。
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小谷美紗子
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2015年11月、Mr.Childrenの全国ツーマンツアーにて北海道Zepp Sapporoで参加。
2016年4月、Music for Lifeより弾き語りベスト「MONSTER」を発売。6月より7都市8公演の弾き語りツアーを行う。
2017年10月、東京・LIQUIDROOMにて「小谷美紗子20th Anniversary Special LIVE 『両手にウヘヘ祭り』」を開催。ゲストミュージシャンに小倉博和(Gt)、梶木良子(Pf)、佐藤準(Pf)、田渕ひさ子(Gt)、玉田豊夢(Dr)、二宮友和(Ba)、山口寛雄(Ba)、池田貴史(Key)が参加した。
2021年9月17日、映画「君は永遠にそいつらより若い」の主題歌「眠れない」を配信リリース。これを記念して、過去曲が一挙サブスク解禁された。
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2月12日
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2月12日(にがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から43日目にあたり、年末まであと322日(閏年では323日)ある。
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山下達郎
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山下 達郎(やました たつろう、1953年2月4日 - )は、日本のシンガーソングライター、ミュージシャン。日本における旧来の愛称はヤマタツ。英語のクレジットではTatsuroをTatsuもしくはTatsと綴ることがある。東京都豊島区池袋生まれ。妻は同じくシンガーソングライターの竹内まりや。血液型はB型。
所属レコード会社はワーナーミュージック・ジャパン。所属事務所はスマイルカンパニー、および、妻と共同経営する個人事務所(著作権管理用)のテンダベリー&ハーヴェスト(山下側の企業は株式会社テンダベリーミュージック)。
「ビーチ・ボーイズマニア」とまで言われるほどビーチボーイズに詳しく、山下自身が影響を受けたのは、多くがブライアン・ウィルソンとビーチ・ボーイズのようなアメリカン・ポップス・ロックのミュージシャンからであり、自身のアルバムにもビーチ・ボーイズのカバーをしている。また、日本におけるドゥーワップの熱心なファンの一人で、造詣が深い。自分自身のヴォーカルを多重録音する「1人ア・カペラ」という手法を用いることでも知られている。山下は他にソフト・ロック、ブルーアイド・ソウル、コーラス・グループ、スウィート・ソウルなどのファンでもある。ジェームス・ブラウンやガレージ・ロックも好むなど、音楽の趣味は幅広い。なお、萩原健太とならび、日本におけるビーチ・ボーイズ・ファンの代表格である。
音楽作りに対する拘りと独自の制作姿勢から「音の職人」とも称される。レコーディングではボーカル・バックコーラスのほか、編曲からギター、コンピューターの打ち込み、シンセサイザー、パーカッションまで1人で手掛けている。全ての演奏を1人で行っている楽曲もある。特にギターのリズムカッティングを得意としている。アコースティック感の強い作風を持ち味とするが、最新技術を活用する方針のため、アナログからデジタルまでカバーする幅広いノウハウを持つ。
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山下達郎
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大貫妙子らと共にシュガー・ベイブを結成し、アルバム『SONGS』(1975年)でデビューした。プロデュースを手掛けた大瀧詠一のナイアガラ・レーベルでは、日本コロムビア時代の作品に、コーラスやストリングス・アレンジで参加。特に大瀧のソロ・アルバム『NIAGARA MOON』(1975年)や『NIAGARA CALENDAR』(1977年)に深く関わっている。また、自身の作品制作の傍ら、1975年頃から、他のシンガー、ミュージシャンへ楽曲提供を始めた。小杉理宇造を通じてジャニーズ事務所との繋がりもあり、近藤真彦の「ハイティーン・ブギ」(1982年)、KinKi Kidsのデビュー・シングル「硝子の少年」(1997年)や「ジェットコースター・ロマンス」(1998年)などのヒット曲を出しているほか、ジャニーズ所属タレント出演作品の主題歌も多く手がけている。
大瀧同様、レコード・CDコレクター、オーディオマニアであり、特にロック・R&B・ポップスについて造詣が深く、アナログ盤はオリジナルを中心に収集しており、所蔵総数は6万枚を超える。
海外では作品リリースを行っていなかったが、2010年代のヴェイパーウェイヴのブームで作品が発掘され広まった。ちなみに、山下達郎がバックトラックを作成した竹内まりや作の「プラスティック・ラブ」は、非公式動画ながら海外のリスナーを中心にYouTubeで合計1億回以上再生されている(詳細は「「ジャパニーズ・シティ・ポップ」」参照)。
「テレビやDVD・ブルーレイソフトなどの顔出し出演はしない」「日本武道館などのような大規模なアリーナ級の会場でのコンサートはしない」「著書を書かない」の3つのこだわりをもっているという。ただ、妻の竹内まりやのライブ映像がテレビで流されており、ギターを弾く山下を見る事が出来る。
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山下達郎
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「テレビやDVD・ブルーレイソフトなどの顔出し出演はしない」「日本武道館などのような大規模なアリーナ級の会場でのコンサートはしない」「著書を書かない」の3つのこだわりをもっているという。ただ、妻の竹内まりやのライブ映像がテレビで流されており、ギターを弾く山下を見る事が出来る。
山下は、顔で売るよりもあくまでも歌を聴衆に聞いてもらうこと、ステージ上で聴衆のすべてに高いクオリティーで音楽を届けることを最優先として考えており、コンサートホール以外の大規模な体育館やアリーナクラスのものではそれが難しいとしてアリーナクラスの会場での開催は基本的に行わないようにしている。その中でも中野サンプラザ大ホール(収容人員2222人)は、「一番後ろの聴衆にも、演奏がきちんと聞こえる」として、長年にわたり公演に使用し続けている。ただし妻である竹内まりやのコンサートツアーについては日本武道館や大阪城ホールなどアリーナクラスでのライブを行なっている他、2010年以降は「ライジング・サン・ロックフェスティバル」や「氣志團万博」などの野外フェスへの出演も増えてきている。
またミュージシャンとしてのポリシーを大切にしたいという理由でソロ活動以降はテレビ出演も原則として顔を出してのリアルインタビューには応えないことにしているが(シュガー・ベイブ時代には若干テレビ出演していた)、例外として声のみの出演やインタビュー風景の静止画の放映は認めており、NHK『SONGS』や、フジテレビ系『めざましテレビ』、日本テレビ系『ZIP!』、日本映画専門チャンネル『日曜邦画劇場』、テレビ朝日系『関ジャム 完全燃SHOW』などに出演歴がある。『第73回NHK紅白歌合戦』ではKinKi Kidsのステージにサプライズでメッセージ音声を贈り、音声のみで紅白歌合戦に初出演を果たした。
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山下達郎
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自身の著書(自叙伝、エッセーなど)も一切執筆していない。ただし、『ON THE STREET CORNER』以降、自身のアルバムや、ビーチ・ボーイズなど自身と関わりの深いアルバムや、山下が社外取締役を務めるワーナーミュージックジャパン発行の一連の「ワーナーナゲッツシリーズ(ポップロックナゲッツ、ガールズポップナゲッツ、ドゥーアップナゲッツなど)」では、それらについての作品の解説・ライナーノーツを手掛けている。他に、雑誌『レコード・コレクターズ』の「私の収穫」にもコレクターの一人として登場している。
1953年
1957年
1959年
1964年
1965年
1966年
1968年
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2000年
2001年
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2016年
2017年
2018年
2019年
2020年
2021年
2022年
2023年
ここでは、自著とそれに準ずる文献を記載する。パンフレット等は出典に使用するものに限って記載する。
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12月8日
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12月8日(じゅうにがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から342日目(閏年では343日目)にあたり、年末まであと23日ある。
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ポツダム宣言
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ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英: Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日にイギリス、 アメリカ合衆国、中華民国の政府首脳の連名において日本に対して発された全13か条で構成される宣言。正式名称は、日本への降伏要求の最終宣言(にほんへのこうふくようきゅうのさいしゅうせんげん、Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。宣言を発した各国の名をとって「米英支三国宣言(べいえいしさんごくせんげん)」ともいう。ソビエト連邦は、後から加わり追認した。そして、日本政府は1945年8月14日にこの宣言を受諾し、9月2日に連合国への降伏文書調印・即時発効に至って第二次世界大戦・太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した(日本の降伏)。
ナチス・ドイツ降伏後の1945年(昭和20年)7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、英国、米国、ソ連の連合国主要3カ国の首脳(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルおよびクレメント・アトリー、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について討議された(ポツダム会談)。
ポツダム宣言は、この会談の期間中、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蔣介石国民政府主席およびアメリカのトルーマン大統領の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告である。事後報告を受けたソ連のスターリン共産党書記長は署名していない。
1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は本宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、この事は翌8月15日に国民にラジオ放送を通じて発表された(玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する戦艦ミズーリ甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言は初めて外交文書として固定された。
詔書
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ノ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
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ポツダム宣言
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詔書
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ノ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ抑〱帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖公宗ノ遣範二シテ朕ノ拳々措カサル所□ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ働精血朕カ一億衆庶ノ奉公各〱最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無幸ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ
測ルへカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ更生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ亦誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝へ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ嘗テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後サラム͡コトヲ期スヘシ爾臣民祖其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
御 名 御 璽
昭和二十年八月十四日
国 務 大 臣 副 署」
*旧字は、適宜新字に変更している。
原文である。
ウィキソース「s:en:Potsdam Declaration」または下部#外部リンク
日本文
「(千九百四十五年七月二十六日)
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ポツダム宣言
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御 名 御 璽
昭和二十年八月十四日
国 務 大 臣 副 署」
*旧字は、適宜新字に変更している。
原文である。
ウィキソース「s:en:Potsdam Declaration」または下部#外部リンク
日本文
「(千九百四十五年七月二十六日)
一 我等米国合衆国大統領、中華民国主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対ノ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ興フルコトニ意見一致セリ
二 合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリノ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ補強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国ガ抵抗ヲ終結スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
三 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国民ニ対スル先例ヲ極メテ明示ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル勢力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力二比シ測リ知レザル程ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本国土ノ完全ナル破壊ヲ意味スベシ
四 無分別ナル攻撃ニ依リ日本帝国ノ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国ガ引続き統御セラレルベキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履ムベキカヲ日本国ガ決意スル時期ハ到来セリ
五 吾等ノ条件ハ左ノ如シ吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトヲナカルベシ右ニ依ル条件存在セズ吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ
六 吾等ノ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民を欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯セシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破碎セラレタルコトヲ確証アルニ至ル迄ハ連合国ノ指定スベキ日本国内領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ
八 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラレベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州、四国及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
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ポツダム宣言
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七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破碎セラレタルコトヲ確証アルニ至ル迄ハ連合国ノ指定スベキ日本国内領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ
八 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラレベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州、四国及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
九 日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ
十 吾等ハ日本国民ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権の尊重ハ確立セラルベシ
十一 日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公平ナル実物賠償ノ取立ヲ可能なラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許スベシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別シ)ヲ許サルベシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ
十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ
十三 吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府二対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス」
*旧字は、適宜新字に変更している。
(「けふ正午に重大放送 國民必ず嚴肅に聽取せよ」『東京朝日新聞』朝刊1頁、昭和20(1945)年8月15日に同時代のポツダム宣言が記載されている)
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ポツダム宣言
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十三 吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府二対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス」
*旧字は、適宜新字に変更している。
(「けふ正午に重大放送 國民必ず嚴肅に聽取せよ」『東京朝日新聞』朝刊1頁、昭和20(1945)年8月15日に同時代のポツダム宣言が記載されている)
1943年1月のカサブランカ会談において、連合国は枢軸国のナチス・ドイツ、イタリア王国、大日本帝国に対し、無条件降伏を要求する姿勢を明確化した。この方針はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の意向が強く働いたものであり、11月17日のカイロ宣言においてもこの姿勢は確認された。ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンやイギリスのウィンストン・チャーチル首相は条件を明確化したほうが良いと考えていたが、結局ルーズベルトの主張が通った。政府内のグループには「天皇制維持などの条件を提示したほうが、早期に対日戦が終結する」という提案を行う者も存在したが、大きな動きにはならなかった。ルーズベルト大統領が閣僚たちに相談もせずに突然決めたこの方針は、敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせるとして、陸海軍の幹部はもとより、国務長官のコーデル・ハルも反対したが、ルーズベルトは死去するまでこの方針に固執した。
この方針は、表明されてから8ヶ月後に早くも破綻した。1943年9月にイタリアが連合国に和平を打診してきたとき、連合国側は無条件降伏を突きつけなかった。これまでと同じく、休戦協定によって戦闘が停止したのち、立場の強い側が弱い側に、自分に有利な終戦協定を押しつけるという従来の形で終戦がもたらされた。敗北した側が条件にこだわるのは当然であったが、ルーズベルトはあくまで勝者の論理で、漠然としか考えていなかった。
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ポツダム宣言
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1945年2月のヤルタ会談においてはルーズベルトが既に病身であったために強い姿勢に出られず、南樺太、千島列島、満州における権益などの代償を提示してソ連に対して対日戦への参加を要請した。4月12日にルーズベルトが死去し、副大統領に就任してわずか3か月であったハリー・S・トルーマンが急遽大統領となった。トルーマンは外交分野の経験は皆無であり、また外交は主にルーズベルトが取り仕切っていたため、アメリカの外交政策は事実上白紙に戻った上で開始されることとなった。トルーマン大統領は就任後、4月16日のアメリカ議会上下両院合同会議で、前大統領の無条件降伏方針を受け継ぐと宣言し、4月22日、日本とドイツに無条件降伏を求める方針に変わりはないことをソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相に伝えたが、彼もまた、それをどう規定するのかはっきり考えてなかった。
5月7日にナチス・ドイツが無条件降伏して崩壊した後、できる限り早期に対日戦争を終結させる必要に迫られ、トルーマン大統領は日本に降伏を呼びかけるために、無条件降伏を定義する必要に迫られた。そこで彼は5月8日、戦争情報局が用意し、大統領軍事顧問ウィリアム・リーヒが賛同した、次のような無条件降伏の定義と和平の呼びかけを、日本に対して発表した。「我々の攻撃は日本の陸軍と海軍が無条件降伏して武器を置くまでやむことはないだろう。日本国民にとって無条件降伏とは何を意味するのか。それは戦争が終わることを意味する。日本を現在の災厄へ導いた軍事的指導者の影響力が除去されることを意味する。無条件降伏とは日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない。」またアメリカ政府による日本に降伏を求める、アメリカ海軍情報局から戦争情報局に出向していたエリス・M・ザカライアス海軍大佐の「ザカライアス放送」が8月4日までに14回行われている。もともとアメリカ軍の幹部は、無条件降伏が政治的スローガンにすぎず、早期和平の妨げになると思っていたので、無条件降伏とは軍事に限定されるのであって、政治的なものではないことを明らかにすることによって、日本に受け入れられやすいものにしようとした。しかし日本政府は5月9日に徹底抗戦を改めて表明するなど、これを受け入れる姿勢をとらなかった。
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ポツダム宣言
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アメリカ合衆国政府内では、日本を降伏に追い込む手段として、原子爆弾の開発・使用、日本本土侵攻作戦(ダウンフォール作戦。コロネット作戦やその前哨であるオリンピック作戦等を包括する総合計画)、ソ連の対日参戦の三つの手段を検討していた。原子爆弾はその威力によって日本にショックを与えることができると考えられ、開発計画が進展していた。一方で陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルを中心とする軍は、日本降伏には日本本土侵攻作戦が必要であるが膨大な犠牲を伴うことが予想され、それを軽減するためにはソ連の参戦が必要であると考えていた。ソ連の参戦は日本軍を大陸に釘付けにするとともに、ソ連を仲介として和平を試みていた日本に大きなショックを与えるとみられていた。
一方で国務次官ジョセフ・グルーをはじめとする国務省内のグループは、政治的解決策を模索していた。グルーは日本が受け入れ可能な降伏可能案を提示して降伏に応じさせる、「条件付き無条件降伏」を提案していた。5月28日には天皇制を保障した降伏勧告案をトルーマン大統領に提示した。一方陸軍長官ヘンリー・スティムソンは無条件降伏原則を破ることに否定的であったが、日本本土侵攻作戦の犠牲者数想定が膨大なものとなると、グルーやジョン・マックロイ陸軍次官補、ハーバート・フーヴァー元大統領らの意見に従い、降伏条件提示に傾くようになった。
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ポツダム宣言
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1945年6月18日のホワイトハウスにおける会議で、日本本土侵攻作戦が討議された。スティムソンは日本本土侵攻作戦に賛成の意を示しつつも、政治的解決策が存在することをほのめかした。マックロイはこの会議の最中発言せず、会議終了直前にトルーマンがマックロイの意見を問いただした。マックロイは「閣下は別の方策をお持ちだと思います。それは徹底的に検討されるべき方法で、もし我々が通常の攻撃および上陸以外の方法を検討しないのであれば、どうかしていると言われても仕方の無い事だと思いますよ。」「我々が良しとする条件を日本政府に対して説明してやる事です。」と答え、政治的解決策の重要性を主張した。トルーマンが具体的にどういう条件かと聞いたところ、マックロイは「私は、日本が国家として生存する事を許し、また立憲君主制という条件でミカド(天皇)の保持を認めるという事です」と答えた。トルーマンは「それはまさに私が考えていたことだ」と答え、スティムソンも「(この案が表明されたことは)たいへん喜ばしい」と同意した。マックロイは原爆の投下についても事前に日本に警告を行うべきであるとしたが、もし爆発が失敗した場合にアメリカの威信に傷が付くという反発を受けた。トルーマンはマックロイに日本に対するメッセージについて検討するべきであると命じたが、原爆については言及しないようにと付け加えた。これはトルーマンも対日降伏勧告の意志を持っていたが、マーシャルらの手前自ら主張することは好ましくないと考え、マックロイらに口火を切らせたとも見られている。これ以降、スティムソン、マックロイらを中心とした陸軍が日本への降伏勧告案について検討を本格化するようになった。
6月19日、陸軍、海軍、国務省の検討機関である三人委員会(Committee of Three)、すなわちスティムソン、ジェームズ・フォレスタル海軍長官、グルーらによって対日降伏勧告の討議が始まった。フォレスタルの回想によると、対日降伏勧告には大統領付参謀長ウィリアム・リーヒ元帥やアーネスト・キング、チェスター・ニミッツといった海軍首脳も賛成していると述べられた。この日の午後、スティムソンの起草による対日降伏勧告のための大統領覚書の口述筆記が開始された。6月26日の三人委員会ではスティムソンがこの覚書案となる「対日計画案」を提示した。
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ポツダム宣言
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この降伏勧告はアメリカとイギリス、そしてもしソ連が参戦していた場合にはソ連の首脳も加えた名義で公表されるとしていた。また、スティムソンは個人的意見として現皇統における立憲君主制を排除しないことを付け加えれば降伏は実現しやすいであろうと述べた。また宣言発表のタイミングは日本本土侵攻作戦が行われる前、日本が狂信的な絶望に追い込まれる前に行う必要があるとした。またソ連の参戦が行われても、ソ連軍の侵攻があまり進展しないうちに行うのが望ましいとした。委員会では、この勧告が実際に行われて失敗した場合でもアメリカ国民の戦意高揚の効果があり、無害で済むと判定され、スティムソンの原案をグルーとフォレスタルは承認した。
三人委員会は実際の降伏勧告文を策定する小委員会を結成させ、そのチームに検討を行わせる事とした。この委員会はマックロイ、海軍長官特別補佐官のコレア大佐、国務次官補特別補佐官のユジーン・ドゥーマン、国務省極東課長ジョセフ・ウィリアム・バランタインらによって構成されていた。トルーマンはポツダム会議のために7月6日にはアメリカを離れるため、委員会はそれまでに宣言案を策定する必要があった。6月27日に最初の委員会が開かれた。最初の会議にはコレアとドゥーマンは欠席したため、バランタイン以外のメンバーは全員が陸軍関係者であった。討議においてはスティムソン案を原案とすることとなっており、マックロイが実質的な委員会の主宰者となった。しかしバランタインが国務省案の降伏勧告案を提議したため、議論は難航することとなった。国務省案は以前グルーが大統領に提出していたドゥーマン案を元としており、天皇制の存続については極めてぼやかした表現となっていた。このため国務省案は会議によって退けられ、再びスティムソン案を中心として討議されることとなった。この日の会議で陸軍作戦部(OPD)のファーヒー大佐が宣言の発出者に蔣介石を加えるべきであることや、連合国と日本が交渉を行うべきでないことなどの意見を述べた。
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ポツダム宣言
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翌6月28日の会議でドゥーマンは天皇制保障の文言を入れるべきでないと主張した。グルーら国務省内の知日派は天皇制保障が不可欠であると考えていたが、これらの意見は対日融和的であると批判され、国務省内でも世論の反発を怖れ、彼ら知日派は孤立する傾向があった。ドゥーマンはこの降伏勧告を日本が受け入れる可能性は極めて低いと考えており、文言に対するアメリカ世論の反発を防ごうと考えていた。1945年6月のギャラップ調査によると33%が昭和天皇の処刑を求め、17%が裁判を、11%が生涯における拘禁、9%が国外追放するべきであると回答するなど、天皇に対するアメリカ世論は極めて厳しかった。
スティムソンら陸軍は天皇制保障が必要不可欠であると考えており、議論は紛糾した。しかし陸軍が議論の主導権を握り、OPDのチャールズ・H・ボーンスティール3世が、国務省案を一部参考にしながらもスティムソン案を基本的な原案とする箇条書きの草案を作成することとなった。ボーンスティールは周囲からの助言も受けて6月29日までに草案を策定した。6月29日の早朝にボーンスティール草案がマックロイの元に届けられた。この日の委員会でボーンスティール草案が採択されたが、国務省はこの草案は国務省で再検討されなければならないと条件をつけた。またOPDは同時期に宣言発表のタイミングとしてソ連の対日参戦直後が最も効果的であるという勧告を行っている。マックロイはスティムソンにボーンスティール草案を送付し、6月30日からスティムソンとともに草案の修正作業を行った。スティムソンは「かなりの修正をした」と回顧録に残している。7月2日、スティムソンはこの修正草案と6月26日の「対日計画案」一部修正したものをトルーマンに提出した。この修正草案は13条となっており、「現皇統による立憲君主制を排除しない」という文言も入ったものであり、第二項で「日本国が無条件降伏するまで」という文言はあるものの、日本軍隊の無条件降伏を求めたものであった。
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ポツダム宣言
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7月3日、ジェームズ・F・バーンズが新たな国務長官に就任した。バーンズはトルーマンに信頼された私的な助言者であり、彼の就任はスティムソンの大統領に対する影響力を低下させた。バーンズは対日強硬派であり、国務次官補アーチボルト・マクリーシュをはじめとする親中国派は巻き返しを図った。7月6日、国務省はスティムソン草案のさらなる改訂を要求し、7月7日の幹部会で草案が「日本」「日本政府」に呼びかけていた部分が「日本国民」に変更された。省内の混乱を見たバーンズはコーデル・ハル元国務長官に相談し、直接天皇制に言及した天皇制保障条項を一旦削除することを考えるようになった。バーンズは占領の際に天皇制が利用できるかどうかを見た上で、天皇制の存続をアメリカが決定できるようにと考えていた。
ポツダム会談の公式日程では対日問題は議題とならなかった。一方でスティムソンは日本がソ連に和平仲介を求めていることを察知し、日本がソ連の懐に飛び込む前に日本を降伏させるべきと考えた。そのためこの会談中に降伏勧告を発するべきと主張し、リーヒ参謀長の支持を得たものの、バーンズは反対した。またリーヒ参謀長は、草案第二項において「日本の無条件降伏」となっていた部分を「日本軍の無条件降伏」と改め、天皇制保障条項を「日本国民は自らの政治形態を決定できる」と天皇に言及しない形に改めるよう提案した。トルーマンは公表の意思を固め、リーヒの提唱した変更を行うと決定した。スティムソンは天皇制に言及しないことが日本の降伏拒否を招くのではないかと懸念し、もし日本側がこの一点で戦い続けるならば大統領が外交チャンネルを通じて「口頭で保証」を与えるように提案した。トルーマンはスティムソンの意見を承諾し、後の国務省による回答につながることになる。
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ポツダム宣言
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7月24日にイギリスに声明案が提示され、翌7月25日にチャーチルが修正案を回答した。その内容は声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点であった。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。会談に参加しなかった蔣介石には、電報で草案が伝えられた。蔣介石は宣言文の一か所だけを直してきた。それは自分は国家元首だから、(元首でない)チャーチルより前に自分の名前が置かれるべきである、ということであった。7月26日、「ポツダム宣言」として知られる降伏勧告がトルーマン、チャーチル、蔣介石の名で発表された。また、宣言文はポツダム協定の付属議定書に「検討されたアメリカ提案」として付記された。この時点では、ソ連はまだ日本と開戦しておらず、署名には名を連ねていない。
ベルリン時間の7月26日午後9時20分の宣言の発表と同時にトルーマン大統領は戦時情報局 (OWI) に対し、この宣言をあらゆる手段で日本国民に周知させることを指示した。これに基づき東部戦時時間午後4時(東京時間7月27日午前5時)OWI の西海岸の短波送信機から英語の放送が始まった。重要な部分は4時5分から日本語で放送された。日本語の全文 OWIサンフランシスコ支部が作成し、ワシントンD.C.の国務省の言語専門家が電話でチェックしたのち、午後6時(東京時間午前7時)サンフランシスコから放送された。その後、日本語の放送は西海岸の11の短波送信機、ホノルルの短波送信機、サイパンの中波送信機が繰り返した。全ての定時番組は中止され宣言の放送を繰り返した。西海岸からは20の言語で宣言が放送された。その後数日間に渡って一定間隔で宣言の放送が繰り返された。日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した。
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ポツダム宣言
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ポツダム宣言の発表をうけた日本政府(鈴木貫太郎内閣)では、この宣言に対する対応を検討した。宣言文の翻訳に携わったのは条約局第一課長下田武三であった。外務省定例幹部会は受諾はやむを得ないが、未だ交渉の余地はあり、「黙っているのが賢明で、新聞にはノー・コメントで掲載するよう指導するのが適当である」という決定を行った。これをうけた外務大臣東郷茂徳は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言した。しかし、陸海軍からはいずれ本宣言は世論に伝わるため「断固抵抗する大号令」を発せられるよう指導するよう主張した。結局は東郷の意見が通り、ポツダム宣言を公式に報道するものの、政府は内容について公式な言及をしないということが閣議決定された。
7月27日、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。ところが翌28日の新聞報道では、讀賣報知(読売新聞)で「笑止、対日降伏条件」、毎日新聞で「笑止! 米英蔣共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられていた。また、陸軍からは「政府が宣言を無視することを公式に表明するべきである」という強硬な要求が行われ、同日、鈴木貫太郎首相は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ(記事見出しは全て現代仮名遣いに修正)、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。この「黙殺(Mokusatsu)」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore(無視)」と英語に翻訳され、またロイターとAP通信では「reject(拒否)」と訳され報道された。東郷は「鈴木の発言が閣議決定違反である」と抗議している。なお、ラジオ・トウキョウがどのように応えたかは確認されていない。
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ポツダム宣言
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トルーマンは、7月25日の日記で「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と記載したように、日本側の拒否は折り込み済みであった。むしろ宣言のみによる降伏ではなく、宣言の拒否が原子爆弾による核攻撃を正当化し、また組み合わせて降伏の効果が生まれると考えていた。8月6日には広島市への原子爆弾投下が行われ、広島市における甚大な被害が伝えられた。また8月9日(日本時間)の未明にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始(ソ連対日参戦)、ポツダム宣言に参加した。これらに衝撃を受けた鈴木首相は、同日の最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」と述べ、意見を求めた。強く反対する者はおらず、また会議の最中に長崎市への原子爆弾投下が伝えられたこともあり、「国体の護持」「自発的な武装解除」「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に、宣言の受諾の方針が優勢となった。しかし、陸軍大臣阿南惟幾はなおも戦争継続を主張し、議論は昭和天皇臨席の最高戦争指導会議に持ち越された。
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ポツダム宣言
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10日未明の御前会議でもポツダム宣言の受諾につき、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)と、これに自主的な軍隊の撤兵と内地における武装解除、戦争責任者の日本による処断、保障占領の拒否の3点を加えて条件とする陸軍大臣案とが対立して決定を見ず、午前2時過ぎに議長の鈴木から、昭和天皇に聖断を仰ぐ奏上が為された。天皇は外務大臣案(原案)を採用すると表明、その理由として、従来勝利獲得の自信ありと聞いていたが計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げた。次いで、軍の武装解除や戦争責任者の引き渡しは忍びないが、大局上三国干渉時の明治天皇の決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案で受諾することを決心したと述べる。このあと、「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下受諾する」とした外務大臣案に対して、枢密院議長の平沼騏一郎元首相から異議が入り、その結果“「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾する”という回答が決定された。これは3時からの閣議で正式に承認され、スウェーデンとスイスに向けて送信された。これとは別に同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また受諾方針については勅語の発表まで公表を行わないことにした。
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ポツダム宣言
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大西洋標準時(以下本パラグラフのみ)8月10日7時、アメリカはこの電文を傍受した。これを受けたアメリカ政府内では、日本側の申し入れを受け入れるべきであるというスティムソン、フォレスタル、リーヒに対し、バーンズは「我々がなぜ無条件降伏の要求から後退しなければならないのか分からない。もし条件を付けるとすれば、日本側ではなくアメリカ側から提示するべきだ。」と反対した。結局フォレスタルの提案で、肯定的な返事をするが、アメリカ政府の立場について誤解を与えない回答を行うべきであるという決定が下された。これにしたがってバーンズを中心とした国務省で対日回答案の検討が開始され、10日の閣議で決定された。回答案は英・ソ・中の三国に伝達され、同意が求められた。イギリスは同意したが、ソ連は日本が条件をつけようとしていることを非難した。しかし翌日未明には反対を撤回し、かわりに日本占領軍の最高司令官を米ソから一人ずつ出すという案を提案してきた。W・アヴェレル・ハリマン駐ソ大使はこれを拒否し、結局バーンズの回答案が連合国の回答として決定された。
この「バーンズ回答」は、「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属(subject to)する」としながらも、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」というものであった。スティムソンによると、この回答の意図は、「天皇の権力は最高司令官に従属するものであると規定することによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」であった。また、トルーマンは自身の日記に「彼らは天皇を守りたかった。我々は彼らに、彼を保持する方法を教えると伝えた。」と記している。
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ポツダム宣言
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回答案は8月11日の正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受した。"subject to"の訳について「制限の下に置かれる」だと解釈する外務省と「隷属する」だと解釈する軍部の間の対立があり、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、鈴木首相もこれに同調した。東郷外相は正式な公電が到着していないと回答して時間稼ぎを行ったが、一時は辞意を漏らすほどであった。8月13日午前2時になって駐スウェーデン公使岡本季正から、バーンズ回答は日本側の申し入れを受け入れたものであるという報告が到着し、外務省の主張に力を与えた。この日の閣議は二回行われ、二回目には宣言の即時受諾が優勢となった。一方でアメリカでは日本の回答が遅いという世論が起きており、この日の夕刻にはアメリカ軍が東京に日本の申し入れとバーンズ回答を記したビラを散布している。
8月14日に改めて御前会議を開き、昭和天皇のいわゆる「聖断」による宣言受諾が決定され、同日付で終戦の詔勅が発せられた。同日、加瀬俊一スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。
8月15日正午、日本政府は宣言の受諾と降伏決定をラジオ放送による昭和天皇の肉声を通して国民に発表(玉音放送)。なお、陸海軍に停戦命令が出されたのは8月16日、更に正式に終戦協定及び降伏が調印されたのは9月2日である。宣言受諾とその発表を巡っては国内で混乱が見られ、宣言受諾が決定したという報が入ると、クーデターによって玉音放送を中止させて「本土決戦内閣」を樹立しようという陸軍青年将校の動きがあり、15日未明に一部部隊が皇居の一部や社団法人日本放送協会などを占拠したものの、陸軍首脳部の同意は得られず失敗に終わった(宮城事件)。なお、クーデターか起きる中、阿南惟幾陸相は15日早朝に自決している。
宣言受諾後も、ソ連や中国との間で戦闘が継続した。9月2日、日本政府は米戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印した。降伏文書の最終文節には、バーンズ回答にあった「"subject to"」の内容が盛り込まれ、日本政府はこれを「制限ノ下ニ置カルル」と訳した。その後も各戦線に残存していた日本軍と中国軍・アメリカ軍との小規模の戦闘は続いた。
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宣言受諾後も、ソ連や中国との間で戦闘が継続した。9月2日、日本政府は米戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印した。降伏文書の最終文節には、バーンズ回答にあった「"subject to"」の内容が盛り込まれ、日本政府はこれを「制限ノ下ニ置カルル」と訳した。その後も各戦線に残存していた日本軍と中国軍・アメリカ軍との小規模の戦闘は続いた。
日本の降伏が「無条件降伏」にあたるかに関して、軍事的意味においてはポツダム宣言の「無条件降伏」にあたることについての異論は見受けられないが、第12条等による条件の記述も明確に該当するかについては異論がある。
国家に対する降伏については、ポツダム宣言自体が政府間の一つの条件であり、第5条には「吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。」と明言されている。「無条件降伏(降服・降譲)」という文字はポツダム宣言第13条および降伏文書第2項にも使用されているが、これはいずれも日本の「軍隊」に関することであって、このためにポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を失うものであると解すべきではない。
ポツダム宣言第12条は「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府の樹立」を求めており、バーンズ回答では「日本の最終的な政治形態はポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思によって確立される」となっていた。これは、天皇制問題を日本国民の意思に委ねるという連合国による保証であった。
青山武憲は、降伏文書に規定されたポツダム宣言(特に第12条に言及)は日本と連合国が共に拘束されるものであり、日本は無条件降伏ではなく条件付降伏であったと主張する。
有馬哲夫は、日本の利益代表国であったスイスに残されている外交文書を分析して、「日本は、『バーンズ条件』の拒否と読める回答についてアメリカ側からなんのコメントもないまま一方的に『終戦』を宣言してしまった」とし、「互いにいいっぱなしで、条件についてはうやむやなまま終わった」と報告している。
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ポツダム宣言
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有馬哲夫は、日本の利益代表国であったスイスに残されている外交文書を分析して、「日本は、『バーンズ条件』の拒否と読める回答についてアメリカ側からなんのコメントもないまま一方的に『終戦』を宣言してしまった」とし、「互いにいいっぱなしで、条件についてはうやむやなまま終わった」と報告している。
そもそもルーズベルトの「無条件降伏」による「国家間の戦争終結方式」の提起は、英国・ソ連など連合国として参戦していた諸国を困惑させるものであった。またアメリカ政府内でルーズベルトとトルーマンの「無条件降伏」観に違いがあり、トルーマンの対日政策も当初は「条件付無条件降伏論」に立脚しながら占領初期に「条件」の契約性の否認を表明しており、揺れがある。
連合国としてではないが、米国内の通達としてトルーマン大統領からマッカーサー元帥に対し行われた通達において、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない」趣旨の指令があり、米国大統領の対日政策の基本認識が示されている。この通達はトルーマン大統領からマッカーサー連合国最高司令官へのTOP SECRETの文章であり直接日本政府に通告されたものではないが、降伏文書(契約的性質を持つ文書)を交わしたアメリカが実質的にその契約性を否認していた証拠と解する立場もある。
これを受けて、1945年9月3日に連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。これに対して重光外相は、ダグラス・マッカーサー最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが(フレンスブルク政府)日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時に布告の即時取り下げを行い、占領政策は日本政府を通した間接統治となった(連合国軍占領下の日本)。
ポツダム宣言8条の規定は戦後日本の領土問題あるいは外交問題の焦点としてしばしば論じられる。
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ポツダム宣言
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ポツダム宣言8条の規定は戦後日本の領土問題あるいは外交問題の焦点としてしばしば論じられる。
ソビエト社会主義共和国連邦(現在のロシア連邦)については対日宣戦布告の8月8日にポツダム宣言への参加を表明しており、これは日ソ中立条約の廃止通告後の処理に違反している。ソビエトはポツダム宣言や降伏文書に参加したもののサンフランシスコ平和条約に署名しておらず、南樺太および千島列島の領土権は未確定である。ソビエトは1945年9月3日までに歯舞諸島に至る全千島を占領し、1946年1月の連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号(指定島嶼部での日本政府の行政権停止訓令)直後に自国領土への編入宣言を行った。この時点での占領地の自国への併合は形式的には領土権の侵害であり、とくに北方四島については1855年の日露和親条約以来一貫した日本領土であり平和的に確定した国境線であったため、台湾や満州・朝鮮などとは異なり、カイロ宣言およびその条項を引き継ぐポツダム宣言に明白に違反しているとしている。一方でソビエトはヤルタ会談における協定による正当なものと主張している。その後、返還を条件に個別の平和条約締結交渉が行われることになっていたが日ソ共同宣言の段階で停滞しており、2023年現在も戦争状態が終了したのみで平和条約の締結は実現していない。
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ポツダム宣言
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中華人民共和国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しておらず(当時国家として存在しなかった。成立は1949年(昭和24年))、サンフランシスコ平和条約に署名もしていない。直接の領土に関する規範は日中共同声明および日中平和友好条約が基礎であり、日中共同声明において(台湾について)ポツダム宣言8項に立脚して処理することと声明し、日中平和友好条約において領土保全の相互尊重を正式に締約した。また中華民国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しているがサンフランシスコ平和条約に参加しておらず、直接の領土に関する規定は日華平和条約(1952年8月5日発効)による。ただし1972年(昭和47年)9月29日に共同声明発出・平和友好条約締結による日中国交回復のために「終了」(事実上破棄)された。南沙諸島は1938年の領有宣言以来、日本領として台湾の一部を形成していたが、ポツダム宣言受諾による台湾の放棄が規定化されるなかで1949年フィリピンによる領有宣言、サンフランシスコ条約による日本の正式な放棄後の1973年にはベトナムの併合宣言、翌1974年の中華人民共和国の抗議声明など係争の対象となっている。
北マリアナ諸島については1899年にドイツ帝国領となり、第一次世界大戦の後、日本の委任統治下にあったが、ポツダム宣言受託による行政権放棄にしたがい、1947年にアメリカ合衆国の信託統治に変更され、現在は北マリアナ自治領を形成している。
日本政府は「(世界征服の記述がされた)ポツダム宣言第6項は当時の連合国側の政治的意図を表明した文章であり、その詳細について政府としてお答えする立場にない」「ポツダム宣言は日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)により連合国との間で戦争状態が終結されるまでの間の連合国による日本国に対する占領管理の原則を示したものであり、ポツダム宣言の効力は日本国との平和条約が効力を発生すると同時に失われた」としている。
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椎名誠
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椎名 誠(しいな まこと、1944年6月14日 -)は、日本の小説家、エッセイスト、写真家、映画監督。日本SF作家クラブ会員。
代表作は、自身で『昭和軽薄体』と称した文体で書かれた『さらば国分寺書店のオババ』、『あやしい探検隊』シリーズなどの随筆、自身の家族をモデルにした私小説『岳物語』、そして戦争により文明が破壊され、荒廃・汚染された環境というディストピア的な未来世界での冒険を描いたSF小説『アド・バード』『武装島田倉庫』など。
また日本各地、世界各地の特に辺境に頻繁に赴き、多くの旅行記と映像記録を発表しており、紀行作家、旅行家としての面も大きい。
1944年、東京都世田谷区三軒茶屋に5人兄弟の三男として生まれる。父親は公認会計士。1950年より千葉県印旛郡酒々井町と千葉市幕張に転居。千葉市立幕張小学校を卒業。
1956年、父が死去。翌年に千葉市立幕張中学校入学。「父親が死ぬとグレなければならないという奇妙な使命感」から不良を目指し始める。中学時代は喧嘩に明け暮れる。1960年、中学校を卒業し千葉市立千葉高等学校に入学。
1963年、千葉市立千葉高等学校卒業。同人誌『幕張じゃーなる』創刊。
1964年、東京写真大学(現・東京工芸大学)に入学。同人誌『斜めの世界』創刊。
1965年、友人の車に同乗中の事故により重傷を負う。東京写真大学を中途退学。代々木の演劇学校に脚本の勉強に通う。同人誌『フモリスト』創刊。同年秋より江戸川区小岩のアパート克美荘で、高校時代の同級生である沢野ひとし、沢野の中学時代の同級生である木村晋介らと約2年間の共同生活を行う。
1966年、流通業界の専門誌『ストアーズレポート』を刊行しているデパートニューズ社(現・ストアーズ社)に入社。デパート業界を対象とした業界誌『調査月報』の編集を任せられる。
1968年、渡辺一枝と結婚、東京都小平市に転居。ガリ版誌『月刊おれの足』創刊。
1969年、デパートニューズ社より『ストアーズレポート』を創刊。編集長に就任。
1974年、8ミリにてドキュメンタリー作品『神島でいかにしてめしを喰ったか...』を製作。小金井市の8ミリ同好会に参加し、8ミリ映画の製作にのめり込む。
1976年、『本の雑誌』創刊号発行。
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椎名誠
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1968年、渡辺一枝と結婚、東京都小平市に転居。ガリ版誌『月刊おれの足』創刊。
1969年、デパートニューズ社より『ストアーズレポート』を創刊。編集長に就任。
1974年、8ミリにてドキュメンタリー作品『神島でいかにしてめしを喰ったか...』を製作。小金井市の8ミリ同好会に参加し、8ミリ映画の製作にのめり込む。
1976年、『本の雑誌』創刊号発行。
1977年、『本の雑誌』5号の巻頭エッセイとして「さらば国分寺書店のオババ」を執筆。7月、同誌の編集権が目黒考二から椎名に移る。
1977年ごろ、『本の雑誌』の経費を稼ぐために、「エロ漫画の原作」のアルバイトを目黒と共同で行っていた。椎名がストーリーを考え、目黒が台本化する形式で、月4、5本は書いていたという。
1979年、『さらば国分寺書店のオババ』でエッセイストとしてデビューする。
1980年、7月に株式会社本の雑誌社を設立。12月、ストアーズ社を退職しフリーになる。その後は私小説、SF小説、エッセイ、ルポルタージュ、写真集などを多数発表。
1987年、株式会社椎名誠事務所設立。
1989年、『犬の系譜』で第10回吉川英治文学新人賞受賞。
1990年、『アド・バード』で第11回日本SF大賞受賞。映画『ガクの冒険』公開。
1991年、映画製作会社ホネ・フィルム設立。
1992年、長良川河口堰反対カヌーデモに参加。
1993年、映画『あひるのうたがきこえてくるよ。』で第10回山路ふみ子映画文化賞受賞。
1993年から2007年まで、「週刊金曜日」編集委員を務めた。
1996年、映画『白い馬』で日本映画批評家大賞最優秀監督賞、95年度JRA賞馬事文化賞を受賞。
1997年、映画「白い馬」でフランス・ボーヴェ映画祭グランプリ受賞、ポーランド子ども映画祭特別賞受賞。
2005年3月、「マガジン9条」発起人となった。
2011年8月、ネット・ミュージアム「椎名誠 旅する文学館」が開館。2014年、「椎名誠 旅する文学館」シリーズとして、10作の著書が電子書籍化。同年、『ぼくは眠れない』 (新潮新書)で35年間の不眠症体験について記す。
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Subsets and Splits
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