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PHS
高度化PHSに関する2001年6月25日の総務省情報通信審議会の答申においては同時に、従来のPHS帯とIMT-2000帯域(日本における第三世代携帯電話用の帯域、2.0GHz帯)との干渉問題の解決のためPHSの公衆用共通制御キャリア(BCCH、単に制御チャネルとも呼ばれる)を低い周波数の方にずらす対策を取ることも示された。 なおIMT-2000側は、PHS帯と隣接するIMT-2000帯内の5MHz分がガードバンドとされ、相互の干渉抑止のため使用不可とされた。この部分はKDDI(au)帯域だったが、IMT-2000・2.0GHz帯参加2社(NTTドコモ・ソフトバンク)も当初は、公平を期するため同様に各社の5MHz分とも使用不可とされた。後にこれら2社のガードバンド帯域は外されている。前述のPHSの制御チャネル移行後に、KDDI(au)分の5MHzの帯域が使用可能となった。 具体的には、現行の公衆制御キャリア1915.85 - 1918.55MHzが、移行後は1906.25 - 1908.35MHzとなり、1915.85 - 1919.75MHzは移行期限後に使用できなくなった。移行期限は2012年5月31日。期限後は、制御キャリア移行に対応していない古いPHS端末は公衆モード端末としては使用できなくなった。旧:アステルグループ、ドコモPHSの端末はガードバンド移行非対応のため公衆モードにする事はできない(電波法違反となる)。 なお、制御キャリア移行対応が必要となるのは、移行期限後も存続する計画がある事業者の基地局および端末に限られた。2011年時点でPHS事業を行なっていた事業者は、以下の対応を取った。 日本では、電気通信役務の区分など法令上や公的な資料・統計では、PHSは携帯電話と明確に区別されている。一方で両者は公衆サービス上、相違点よりも類似点の方が大きいため、本項目のほか日本における携帯電話の項目も併せて参照のこと。
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日本では、電気通信役務の区分など法令上や公的な資料・統計では、PHSは携帯電話と明確に区別されている。一方で両者は公衆サービス上、相違点よりも類似点の方が大きいため、本項目のほか日本における携帯電話の項目も併せて参照のこと。 法令上の呼称は当初は、本来の用途からすると不適切な「簡易型携帯電話」だったが、1998年11月に、郵政省(当時)により「PHS」に改められた。ただし、一部のマスメディアや電話会社の契約約款などの文面では、依然として「簡易型携帯電話」が使われていた。例としてNTT東日本・電話サービス契約約款における当社が別に定める内容(別紙1)内に、「簡易型携帯電話に係るもの」と記載がある。 電話端末は当初より長らくストレートタイプが多かったが、2000年以降は携帯電話のように、大画面化に有利な折りたたみ式が主流となっていた。 日本の法令では、携帯電話と同様に1999年11月から自動車・オートバイを運転中の使用が禁止され、2004年11月から交通反則通告制度により反則金の罰則対象となり、運転者は停車中を除いては通話したり、電話機の表示画面を見てはならない。ただしハンズフリー通話などは対象外である。運転中に通話やボタン操作などを行うことは非常に危険である。2019年12月1日、ながら運転の防止を視野に運転中にPHSを使用した場合の罰則がさらに強化された。なお自転車でも同様の規制があり、例として東京都では公安委員会遵守事項違反により5万円以下の罰金となる。 2005年5月に、携帯電話不正利用防止法の施行により、携帯電話とPHSに関し、契約者の本人性確認の義務付けや、不正な譲渡の禁止などが行われた。 PHS端末は使用済小型電子機器等の再資源化の促進に関する法律(小型家電リサイクル法)の対象品目とされている。 サービス上の料金制度として、月額基本料に無料通話分を含んだ、通話の状況に合わせたパック料金があった。料金前払いのプリペイド式PHSとして過去に「プチペイド」が存在した。
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PHS端末は使用済小型電子機器等の再資源化の促進に関する法律(小型家電リサイクル法)の対象品目とされている。 サービス上の料金制度として、月額基本料に無料通話分を含んだ、通話の状況に合わせたパック料金があった。料金前払いのプリペイド式PHSとして過去に「プチペイド」が存在した。 特殊簡易公衆電話(いわゆるピンク電話)、および新幹線公衆電話(回線が自動車公衆電話に切り替わる秋田・山形新幹線を除く)からPHSに発信はできなかった。また、電報・コレクトコール・ダイヤルQ2・ナビダイヤル・テレドーム等は利用不可。また、フリーダイヤル等は掛ける先(着信)側でPHSを受け付ける契約がされていないと掛けられなかった。 留守番電話・転送電話機能を備えたサービス・端末が一般的であった。キャッチホン機能は提供されないことが多かった。 PHS事業者のソフトバンク(旧:ワイモバイル←ウィルコム←DDIポケット)は、音声通話定額制サービスを提供していた。詳細は音声通話定額制を参照。 日本では当初、PHSや携帯電話の事業者は、地域ごとに別の会社でなければならなかった。NTTパーソナル・アステル・DDIポケットの3グループともそうであった。 DDIポケット(当時)では発足当初から北海道・東北・北陸・東京(関東・中央)・東海・関西・中国・四国・九州と会社が分かれていたが、後に地域会社の規制が廃止され、2000年にDDIポケットは地域会社を全国統合した。のちに、アステル沖縄の契約利用者受け皿として沖縄地域会社を再分割し、沖縄の地域事業者はウィルコム沖縄とした。これは沖縄を除いた全国事業者としてのウィルコム発足に先立つものだった。
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DDIポケット(当時)では発足当初から北海道・東北・北陸・東京(関東・中央)・東海・関西・中国・四国・九州と会社が分かれていたが、後に地域会社の規制が廃止され、2000年にDDIポケットは地域会社を全国統合した。のちに、アステル沖縄の契約利用者受け皿として沖縄地域会社を再分割し、沖縄の地域事業者はウィルコム沖縄とした。これは沖縄を除いた全国事業者としてのウィルコム発足に先立つものだった。 やがてウィルコムは会社更生法の適用によりソフトバンク主導下での経営再建を経て、イー・アクセスと経営統合しワイモバイルに改称。さらにY!mobileのブランドを残しつつソフトバンクモバイルに吸収合併された。ウィルコム沖縄はそのまま存続したが、それぞれPHS事業を段階的に縮小し、2018年3月31日に新規契約受付を終了、2020年7月31日で法人向けテレメトリング以外のサービス提供を終了する予定を発表した。しかし2020年4月、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けて終了時期を2021年1月31日に延期、同日にサービス終了した。また、法人向けテレメトリングのサービスは2023年3月31日に終了した。 なお、単なる社名変更や地域統合、法人格の変動に止まるものは上記では扱わない。 当初は携帯電話よりも料金が安価な簡易型携帯電話と言う位置付けでサービス販売がされた。 Pメールサービスが日本国内でのSMSの先駆けとして1996年11月20日に開始。ポケベルの代替として、また絵文字が使えることもあり、通称「ピッチ」として女子高生を中心に一時ヒットした。 それ以降、サービスと料金の面で携帯電話との競争が激化し、PHS側でも弱点だった切れやすい音声通話の改良や、データ通信への特化等が、営業施策として行われる。携帯電話も対抗としてメールサービス等の強化、料金の低廉化が図られた。その中でサービス改善が難しく単に安価な簡易型携帯電話と言うモデルから抜け出せなかったドコモPHS(旧:NTTパーソナルグループ)とアステルグループが相次いでPHSから全面的にまたは一部撤退する。
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各社はデータ通信への特化等の営業施策として、通話機能のない通信カード型PHS端末の提供、当時は日本国内初の128kbpsでの通信や、モバイルデータ通信定額制などの提供を実施。これにより、後年にWi-FiスポットやモバイルWiMAX等の無線アクセス手段が普及するまでの期間、ノートパソコンやPDAに接続して行うモバイル利用を普及、促進させた。 さらに、当時日本国内初の音声通話定額制を開始。通話・通信性能も高度化PHS(ウィルコムのW-OAM)として改善が図られる。普段は携帯電話を利用し、特定の相手との長電話などにPHSを用いる「2台目」の需要を喚起し、音声端末の契約数も復調する。 これに対し携帯電話事業者も3Gの導入以降に追随して、部分的または完全定額制の料金プランなどを開始した。データ通信分野においても、Wi-FiスポットやモバイルWiMAX等の無線アクセス手段の普及、携帯電話自体のデータ通信の高速化や一部の定額プランの導入によってPHSの利点は徐々に失われた。 さらに後年になるとスマートフォンおよびLTE等の3.9G/4G携帯電話が普及。高度化PHSでも実効速度256kbps前後であり、固定・モバイルの両ブロードバンドの普及と併せデータ通信の分野でも市場を喪失。通信性能面で2G - 2.5Gの範疇に留まったため、スマートフォンでのSkypeやLINEなどのインターネット電話の普及も併せ、PHSはこれに対応できず、主要な通信手段の座から外れ、以降はミニサイズ端末やPHS併載端末などニッチな市場に留まった。 2018年3月31日をもって全事業者で公衆PHSサービスの新規契約受付を終了した。法人向けテレメトリング以外の、既存契約者へのサービス提供を2020年7月31日で終了予定と発表したが、2020年4月に2019新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、携帯電話への切替作業が難しいとする医療関係者に配慮し、終了時期を2021年1月31日に延期し、同日、サービス提供終了した。 2023年3月31日をもってソフトバンクが法人向けテレメトリングを含む全PHSサービスを終了した。 PHSが開始された当初の売りは、携帯電話が使えない地下鉄駅や地下街でも使え、基本料金や通話料金が安いと言う点であった。
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2023年3月31日をもってソフトバンクが法人向けテレメトリングを含む全PHSサービスを終了した。 PHSが開始された当初の売りは、携帯電話が使えない地下鉄駅や地下街でも使え、基本料金や通話料金が安いと言う点であった。 1994年に、携帯電話にデジタルホン(現:ソフトバンク)とツーカー(現:KDDI)が新規参入し、携帯電話間で激しいシェア争いや価格競争が始まったものの、まだ高額だったのに対して、PHSは本体価格・基本料金・市内通話料金が携帯電話に比べて格段に安いことから、初年度の1995年度に総計で150万台に達した。 その後、通話エリアの拡大や本体機能の充実、本体及び新規手数料を無料とした契約促進キャンペーンや販促用景品やクイズなどの賞品への利用なども頻繁に使われたためにPHS加入者は急激に増加し、1996年末に総計600万台を突破する。 当時は携帯電話よりも端末費用と通信費用が安価であったため1990年代後半から2000年代初頭まで、日本国内の中学・高校生からの需要を喚起した。一部のユーザーではポケベルとPHSを併用し、PHSを使ってポケベルにメッセージを送信するという使い方もされた。 利用者から見ると、PHSは料金が安いが、田舎や山間部で利用できない、通話が途切れやすい、高速移動時に通話できない、などが携帯電話との当初の違いであった。PHSの黎明期は、料金の安さから特に首都圏でポケベルからPHSに移行する者も見られ、急速に契約数を伸ばした。 しかしサービス開始当時は、同じく価格競争による値下げで普及率が上昇していた携帯電話との相互通話が不可能な問題を抱えていたほかに、携帯電話に比べて利用可能なエリアが狭い、通話が途中で切れ易い問題が生じていた。
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しかしサービス開始当時は、同じく価格競争による値下げで普及率が上昇していた携帯電話との相互通話が不可能な問題を抱えていたほかに、携帯電話に比べて利用可能なエリアが狭い、通話が途中で切れ易い問題が生じていた。 当初、基地局の設置が急速な契約者数の増大になかなか追いつかず、都市部では繋がるが郊外や地方に行くと繋がらないと言うような地域格差が広がった。都市部であっても、基地局からの電波が届かない場所に移動すると通話が途切れる現象が多発した。これは一部事業者の20mWの小出力基地局が災いしていた面もある。また各事業者で通話エリアの面的拡大が、エリア面内での通話可能エリア高密度化よりも優先されていたこともある。さらにある基地局から他の基地局へと通信を切り替えるハンドオーバー処理の改良が遅れ、これらの通話品質が改善されるまでにかなりの期間を要した。 携帯電話との接続もようやく1996年10月に、接続センターを介する暫定接続の形でPHS・携帯電話間の相互通話が可能になったが、接続センターを介するため、特殊なダイヤル操作が必要で、料金が5.5秒10円プラス1通話あたり20円と高額だった。 料金の安さや手頃感から契約増加が見込まれたものの、1997年始めから携帯電話の本体価格や料金の値下げが急激に進んでPHSとの価格差が縮まり、携帯電話にショートメッセージサービス機能が搭載されPHSの優位性は薄れた。しかも当時通話エリアの広さで携帯電話と勝負にならなかったPHSは、解約が相次いだ。結果、PHSの契約数は1997年9月の総計約710万台をピークに以降は減少に転じた。 一方、病院など医療現場の出力の大きな携帯電話の電波が使えない場所では、医療用PHSが使われている。かつて医療用ポケベルが使われたが2010年代まではPHSが主流である。医療用は出力160mW(平均出力20mW)以下に限られ、内線専用(自営型PHS)のものが主流である。
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一方、病院など医療現場の出力の大きな携帯電話の電波が使えない場所では、医療用PHSが使われている。かつて医療用ポケベルが使われたが2010年代まではPHSが主流である。医療用は出力160mW(平均出力20mW)以下に限られ、内線専用(自営型PHS)のものが主流である。 各事業者はこれらの問題点への対応策として、1998年のPHS・携帯電話間の直接接続の開始による通話料金の値下げ、基地局の大幅な増設(各事業者とも1 - 2年間で基地局を2 - 3倍に増加)による通話エリアの拡大と高密度化、ハンドオーバー処理の改良などを相次いで実施。当時の携帯電話より通話音質が良かった点などをアピールして対抗したものの功を奏せず、契約者数の減少傾向に歯止めは掛からなかった。 結果、PHS各社は黒字転換ができず、旧:NTTパーソナルグループはNTTドコモへの事業譲渡、DDIポケットは親会社のDDIセルラーグループ(現:au、KDDI・沖縄セルラー電話)による財務支援を受け、アステル各社は出資元の電力系通信事業者へ吸収されるなどの救済策がとられた。 PHSによる当時世界初の移動体電話によるテレビ電話や、文字電話と言う手書き文字による通信端末など、意欲的な試みもなされたが、いずれも普及しなかった。 音声端末低迷への抜本的な打開策として、高速な通信速度を生かしたデータ通信を前面に打ち出し、携帯電話(第2世代PDC式)との差別化を図る方針に切り替えた。 1997年4月、各社がPIAFS回線交換方式により、最大通信速度(理論値)32Kbps(実効理論値29.2Kbps)で開始。続いてその後、各社とも64Kbps(PIAFS、実効理論値58.4Kbps)サービスを開始した。
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音声端末低迷への抜本的な打開策として、高速な通信速度を生かしたデータ通信を前面に打ち出し、携帯電話(第2世代PDC式)との差別化を図る方針に切り替えた。 1997年4月、各社がPIAFS回線交換方式により、最大通信速度(理論値)32Kbps(実効理論値29.2Kbps)で開始。続いてその後、各社とも64Kbps(PIAFS、実効理論値58.4Kbps)サービスを開始した。 2000年に入り、定額制モバイルデータ通信サービスとして、旧:アステルグループの各サービス(北海道「定額ダイヤルアップ接続サービス」、北陸・四国「ねっとホーダイ」、東北「おトーク・どっと・ネット」、関西「eo64エア」、中国「MEGA EGG 64」)、DDIポケットの「Air H"(現:AIR-EDGE)」やNTTドコモの「@FreeD」、などのサービスが各事業者により開始され、モバイル通信分野で利用が増加した。音声端末単体でもインターネット接続可能な端末が、アステルのドットiを皮切りにして、NTTドコモの「ブラウザホン」、DDIポケットの「Air H" フォン(現:AIR-EDGE PHONE)」などの登場を見た。 DDIポケットは、他社へのPHS網の再販事業(仮想移動体通信事業者=MVNO)に乗り出し、日本通信など他社にデータ通信用として自社PHS網を再販した。 それでもなお、音声通話ユーザによる解約を主としたPHS全体契約数の減少には太刀打ちできず、2004年中に契約総数500万台を割ることとなった。 2000年代前半は低迷が目立ったが、以前からのPIAFSやAIR-EDGEなどの強みであるデータ通信分野を活かし、公衆無線LANと比べて市中の広いエリアで利用できること、また日本国外でも幾つかの国で「ラストワンマイルを繋ぐ手頃な無線技術」としての強みが注目されることになった。
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2000年代前半は低迷が目立ったが、以前からのPIAFSやAIR-EDGEなどの強みであるデータ通信分野を活かし、公衆無線LANと比べて市中の広いエリアで利用できること、また日本国外でも幾つかの国で「ラストワンマイルを繋ぐ手頃な無線技術」としての強みが注目されることになった。 基地局からの通話可能範囲が狭いことを逆手に取って、GPS等を使用せず、端末所持者の高精度な現在位置を確認できるようにした、NTTドコモの「いまどこサービス」、ウィルコム(旧:DDIポケット、現:ソフトバンクのY!mobile)の「位置情報サービス」といった「位置情報確認サービス」の提供や、安価で高速なデータ通信を利用して自動販売機などの販売機器や監視システムを遠隔管理可能する「テレメトリング(テレメタリング)」など、PHSの安価・小型・簡単なシステムを活用した運用がなされている。 またPHS無線通信部分を切手サイズにまとめたウィルコムのW-SIMにより、無線通信技術を持たない会社の新規参入が容易になったため、従来にない多種多様な端末が登場した。詳細はW-SIMの項目を参照。 以降、音声通話定額制、高度化PHSなどを導入し一時復調をみるが、携帯電話事業者も一部追随したため抜本的なユーザー数回復には至らず、さらに2010年前後よりスマートフォンおよびLTE等の3.9G/4G携帯電話が普及し、通信方式としてのPHSは主要な通信手段の座から外れ、ニッチな市場へと転化した。 ウィルコムは会社更生法の適用によりソフトバンクの指導下での経営再建を経て、イー・アクセスと経営統合しワイモバイルに改称。ウィルコム沖縄はそのまま存続したが、PHS事業は段階的に縮小し2018年3月31日に契約新規受付を終了、2021年1月31日で法人向けテレメトリング以外のサービス提供を終了した。 その後、法人向けテレメトリングについても2023年3月末で終了すること2019年4月に発表した。これにより、日本でのPHSサービスは完全に終了した。
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その後、法人向けテレメトリングについても2023年3月末で終了すること2019年4月に発表した。これにより、日本でのPHSサービスは完全に終了した。 中国ではPHSは「小霊通」(しょうれいつう / ショオリントン、繁体字: 小靈通、簡体字: 小灵通、拼音: Xiǎolíngtōng)という中国語名が用いられ、2006年6月30日時点で9300万台と一時は爆発的な普及を見せたが、その後は端末生産台数の急減が報じられ、加入者数は頭打ちとなり減少を続けて、2007年9月30日には9000万台を割り込んだ。安価な音声端末がほとんどで、電気通信会社の「中国電信」および中国網通の事業を譲受した「中国聯通」が主要PHS事業者としてPHSを固定電話の延長として展開していた。 1982年7月1日、上海市で中国で初めてとなる商業化された携帯電話サービスが開始されたが初期の利用者は20人であった。一方、小霊通のサービスは1996年に試験が開始され、1999年から本格的に開始された。 小霊通のサービスは固定通信事業者の中国電信社の浙江省余杭市電信支局によって実験的に始められた。中国電信浙江省余杭市電信支局長の徐福新は、日本のPHSの雑誌記事を見てこの技術を中国の固定通信網に組み合わせることができないか1994年から自主的に研究しており、1996年に中国電信の親会社と信息産業部に申請しないまま余杭市で試験運転を始めた(後に徐福新は「小霊通の父」と呼ばれるようになった)。
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小霊通のサービスは固定通信事業者の中国電信社の浙江省余杭市電信支局によって実験的に始められた。中国電信浙江省余杭市電信支局長の徐福新は、日本のPHSの雑誌記事を見てこの技術を中国の固定通信網に組み合わせることができないか1994年から自主的に研究しており、1996年に中国電信の親会社と信息産業部に申請しないまま余杭市で試験運転を始めた(後に徐福新は「小霊通の父」と呼ばれるようになった)。 中国電信社は1999年から業務別の事業改編(一次改組)により移動通信、衛星通信、ページャー事業など数社に分割され、固定通信部門は「中国電信」が事業業務を行うことになっていた。しかし、中国電信社ではそれまで主な収入源であった移動通信事業がなくなるため、一部の地方会社が「無線市内電話」や「移動市内電話」と称してデジタル無線電話のPHS用周波数帯域の使用を各地方都市で申請した。小霊通のサービスエリアは携帯電話より狭いものの、移動通信の一種を固定通信事業者が事業運営するものであったため、1999年の内部規定に反しているとして2000年5月に浙江省余杭市電信支局に対して信息産業部から小霊通サービスの禁止令が出された。しかし6月には信息産業部より「関与規範PHS無線市話建設与経営的通知」が公布され、PHSは固定市内電話システムを補完する低速移動無線システムとしてサービスエリアの限定を条件に制度化された。一次改組で中国電信社の収入の約3割を占める移動通信事業を中国移動社として事業化したため、赤字が続く固定通信業務のみでは運営が極めて困難とする中国電信側の苦情に配慮した政策といわれている。 2001年からは固定通信事業者の中国網絡通信集団公司も参入した。 中国では携帯電話の利用料金に発信側も受信側も同額を負担する「発着分離課金」制度を実施していたが、小霊通は発信側のみ課金される「発信課金」制度を採用した。小霊通サービスが低廉な料金設定を可能にした理由は、基地局への投資費用が携帯電話より著しく小さく、固定通信事業者が事業運営したため基幹通信網の維持費を固定電話利用者にも転化できたことでサービス開始当初から料金を低廉にすることができたからである。
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中国では携帯電話の利用料金に発信側も受信側も同額を負担する「発着分離課金」制度を実施していたが、小霊通は発信側のみ課金される「発信課金」制度を採用した。小霊通サービスが低廉な料金設定を可能にした理由は、基地局への投資費用が携帯電話より著しく小さく、固定通信事業者が事業運営したため基幹通信網の維持費を固定電話利用者にも転化できたことでサービス開始当初から料金を低廉にすることができたからである。 小霊通サービスが信息産業部に正式に認められたのは2003年である。2003年5月17日には、北京、上海、天津、重慶及び広州で小霊通のサービスが一斉に解禁された。2004年末の小霊通利用者数は中国電信集団公司(CHINATELECOM)で4,603万人、中国網絡通信集団公司(CHINANETCOM)で2,201万人であった。 中国のPHSは都市単位(日本の県単位くらい)の地域別電話番号が割り振られ、他地域では使えない不便さがあった。しかし、小霊通PIMカードに電話番号を書き込む方式に2005年5月17日に統一され、各都市の電話番号が書き込まれたPIMカードを差し替えることにより、同一端末を他地域でも使えるようになった。これはPIMカードとして国際展開されている。中国国外での展開として、UTStarcom社のベトナムでのIPベースの無線用インフラなどが見られる。 香港では、1997年にサービスイン。近年は利用者が大幅に減少し、PHSの無線周波数帯を開放する目的で、2013年4月にライセンス免除の撤廃を決定。約3年間は猶予期間で所有と使用が認められたが、2016年5月9日でこの期間が終了するため、冒頭のとおり、2016年5月10日以降は使用および所有が禁止(電波法令違反)となる。台湾でも2015年3月にPHSサービスが終了し停波。中国は当初2011年にサービス終了する予定であったが、「小霊通」ユーザーの反発に会い2014年以降まで延期。2014年12月31日をもってサービス終了した。
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美術家
美術家()とは、
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ドリームキャスト
ドリームキャスト(Dreamcast)は、セガ・エンタープライゼスが発売した家庭用ゲーム機である。一般にはDCやドリキャスの略称で呼ばれる。 ソニー・コンピュータエンタテインメントのPlayStationに劣勢を強いられていたセガサターンの次世代機として社運を賭けて開発され、1998年(平成10年)11月27日に日本国内で第6世代ゲーム機の先陣として発売された。 さまざまな要因からPlayStationシリーズとのシェア争いに再び惨敗し、2001年(平成13年)1月にセガはドリームキャストを含む家庭用ゲーム機の製造とプラットフォームからの撤退を表明。ドリームキャストは事実上セガ最後のゲームプラットフォームとなった。 2018年(平成30年)6月5日には20周年記念ポータルサイトが開設された。 1996年頃から開発が行われ、1997年に日本経済新聞が次世代機を開発している旨をスクープし、日立製作所のSH-4がセガの次世代ゲーム機に搭載される旨も報じられ、セガサターン後継機の存在が明らかとなった。11月には会長の大川功がマイクロソフトと開発中である旨のコメントを出した。 1998年5月21日の朝刊でティーザー広告が掲載された当日午後に「ドリームキャスト」の正式発表が行われた。広告戦略においてハードとメーカーの知名度が共に急上昇し、「売りに出せば売れる」という人気を博したかに見えた。しかし、本体発売前から肝心の供給体制が整わないという懸案事項が生じていた。英・VideoLogic(後のen:Imagination Technologies)社と日本電気半導体部門(後のルネサスエレクトロニクス)が共同開発したグラフィックスチップPowerVR2の開発が予定よりも遅れたことが発端となり、ソフトウェアの開発に遅れが生じ始めた。さらにチップの歩留まりが向上せず、十分な量を確保できなかったことが致命的だった。
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ドリームキャスト
この事から出荷台数が予定数を大きく下回り、発売日を当初予定の11月20日から27日に一週間延期し、初回出荷量の大幅減、予約キャンペーンも急遽取りやめといった「売りたくても売りに出せない」事態となった。湯川専務の宣伝効果もあってか初回出荷分は即日完売となったものの、PowerVR2の開発の遅れがもたらしたソフト不足が最後まで足を引っ張り、さらにPowerVR2の歩留まりが向上しない事には、増産によるシェア拡大も望めない状況にあった。 この影響を理由として、発売からわずか15日後の1998年12月10日付けで湯川英一(専務執行役員)を常務執行役員へ降格させる人事を発表し、以後、「湯川元専務」の名でCMやマスコミに出ることになる(翌年、卸子会社セガ・ミューズ会長に就任)。 販売台数のてこ入れ策として、1999年3月20日から4月11日にかけてインターネット通信機能での応募者から抽選1万名に現金1万円(総額1億円)をプレゼントする『湯川元専務のお宝さがし』キャンペーンを実施した。 大川功は1999年頃にXbox開発の話を聞きつけ、ドリームキャストのソフトウェア開発に携わったマイクロソフト本社のビル・ゲイツ社長(当時)相手に、中裕司や鈴木裕といったセガのスタークリエイターや西和彦を引き連れてに何度も直談判し、「セガのタイトル資産を提供するからドリームキャストの互換性をXboxで実現させてくれ」とドリームキャストの道筋を作ろうとした。だが、ドリームキャストはインターネット環境を有するのに対し、Xboxはインターネット環境を考えておらず結局破談となった。ただし、Xboxはwebブラウジングには対応しないものの、Xbox Liveにてインターネットを利用したオンラインサービスは実施している。 1999年6月1日に開催した事業発表会「SEGA New Challenge Conference '99」席上で、6月24日から定価を2万9800円から1万9900円へ値下げすることを発表したが、値下げ相応の機械部品のコストダウンは図られていないため、1台売るごとに1万円の赤字となった。
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ドリームキャスト
1999年6月1日に開催した事業発表会「SEGA New Challenge Conference '99」席上で、6月24日から定価を2万9800円から1万9900円へ値下げすることを発表したが、値下げ相応の機械部品のコストダウンは図られていないため、1台売るごとに1万円の赤字となった。 2000年3月にアメリカの半導体メーカーラムバス社が、日立(後のルネサスエレクトロニクス)製のSDRAM・SuperHなどが特許を侵害しているとして、それを搭載した本機の米国輸入差し止めの仮処分をアメリカ国際貿易委員会へ申請する騒動が発生し、海外販売が危ぶまれたが、日立がラムバス社と和解したことでセガには影響が及ばなかった。6月には入交昭一郎代表取締役社長が同副社長に降格、秋元康が社外取締役を退任、大川功会長が代表取締役社長を兼務した。 撤退への最終的な決断がされたのは2000年の年末商戦の結果を踏まえた上であり、北米では『NBA2K1』、『NFL2K1』というミリオンセラーが期待出来るタイトルとの本体同梱版がリリースされたが、勢いを取り戻す事は出来なかった。 2001年1月23日午前に時事通信社などの報道でセガがPlayStation 2へのゲームソフト供給とドリームキャストの生産中止がリークされ、同日のセガ株価は一時ストップ高となる。翌24日には日本経済新聞朝刊でも一面記事で後追いされ、セガは同月25日に報道の内容を一部認めるコメントを出したことで、セガおよびCSKの株価は乱高下した。 そして1月31日の15時過ぎ(株式市場終了後)にパレスホテルで「構造改革プラン説明会」と題した記者会見を開き、役員同席(大川会長兼社長は欠席)のうえで香山哲特別顧問兼最高執行責任者が家庭用ゲーム機事業から撤退を正式発表する。コンシューマ向けゲーム事業についてはPlayStation 2やニンテンドーゲームキューブ・ゲームボーイアドバンス、Xboxなど他社プラットフォームへのソフト供給へ転換することにした。
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これに伴い本体200万台の不良在庫整理損(棚卸資産等処分損)や海外販売子会社の清算などが発生し、セガの2001年3月期連結決算で約811億円という当時のゲームメーカーでは最大規模の特別損失を計上する。それまでもドリームキャストの立ち上げと売上不振から、1998年3月期では1988年4月の株式上場以降では初の赤字決算となってしまい、以降2000年3月期までの3期連続で約350 - 430億円の連結純損失を計上した。 同月末には全世界で売れ残った本機の在庫200万台を日本では9900円という投げ売り状態の破格の定価に改定した。再値下げによって日本市場では売れ行きが好調となったが、2002年前半には一度も優位に立つことはなかった。 本体そのものは市場撤退後も直販のドリームキャストダイレクト(後のセガダイレクト)上で新品販売が継続され続け、国内流通品の在庫が尽きた2002年6月頃から海外市場版の本体を日本版のパッケージに巻き直したリアセンブル版の出荷を開始した。リアセンブル版の在庫が無くなった2004年からは修理品の部品を再組立した再生品(リファビッシュ品)の販売が開始された。これにより在庫に余裕が生じた事から、一部の新作ソフトが発売される度にソフトとポスターなどをセットにした限定版がセガダイレクト上で発売された。 2007年にこのドリームキャストを最後にセガは家庭用ゲーム機の製造・販売事業から撤退し、家庭用ゲーム市場においては他社のゲーム機向けソフトの開発と販売に専念することとなる。
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2007年にこのドリームキャストを最後にセガは家庭用ゲーム機の製造・販売事業から撤退し、家庭用ゲーム市場においては他社のゲーム機向けソフトの開発と販売に専念することとなる。 日立製作所(後のルネサス エレクトロニクス)が新開発したCPU・SH-4と、英・VideoLogic(後のen:Imagination Technologies)社と日本電気半導体部門(後のルネサス エレクトロニクス)の共同開発によるグラフィック描画エンジンPowerVR2を採用した。これは前世代機であるセガサターンが映像処理用のチップが2基搭載された特異な設計となったため製造コストが高くなった事の反省を踏まえたこと、リスクは高いが国内での製造・調達がしやすいこと、競合製品の初代PlayStationを研究した結果が反映されている。なお家庭用ゲーム機としては初めて法線マッピング専用のハードウェアを備えていた。マーケティング上の理由から、雑誌媒体などで行われた「128bitのゲーム機」というアピールは、SH-4内蔵のベクトル型浮動小数点演算ユニットが32ビット浮動小数点演算を4本同時に行えるため、「32bit×4 = 128bit」相当ということで、CPUが1命令で扱えるデータのビット長が128bitというわけではない。 OSはセガがマイクロソフト本社およびマイクロソフト日本法人と共同開発したWindows CEのカスタマイズ版を選択することが可能で、DirectXや通信機能に対応している。開発ツールもWindowsベースの物も用意されていた。しかし、メモリ使用効率のオーバーヘッドなどが大きかったため、実際には多くの開発会社は Windows CEを選択せずセガの用意した内製の専用のOSを使用していた。SEGA製の3Dグラフィック用のライブラリの名称は「Ninjaライブラリ」であった。ディスクドライブ関連のライブラリは「サルサ」と呼ばれていた。WinCEやDirectXとの関連が言及されたのは、社内事情に詳しいものからは宣伝効果を狙ったためだと言われていて、性能も使い勝手のよさもSEGA製のライブラリの方が上だと言われていた。
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ソフトウエア供給媒体としてヤマハと共同開発した光ディスクであり、倍密CD-ROMとしての機能と同等形状で1GBの容量を持つ。その他でGD-ROMを再生する機器はアーケードゲーム媒体以外ではほとんど存在せず、事実上ドリームキャスト用ゲームソフト専用規格のディスクとなった。 ドリームキャストソフトの2トラック部分はCD-DAフォーマットになっており、通常は「これはドリームキャスト用のゲームディスクです。1トラック目にゲームのデーターが入っていますので、再生しないでください。」という女声アナウンスが収録されており(ソフトによってはキャラクターのトークやBGMに差し替わっているなどお遊び要素がある)、ドリームキャスト以外の機器で2トラック以外のデータ領域を再生すると機器破損の恐れがある。また、機器によってはCD-DAと認識せず再生できない場合もある。 生産当初のドリームキャストには、MIL-CD(ミルシーディー)再生機能が搭載されていた。MIL-CDとは「見るCD」の意味で、メディアは通常のCDプレーヤーでは音楽CDとして再生できるほか、ドリームキャストで再生した場合には独自のコンテンツを視聴できるというものである。しかし、MIL-CD対応メディア製品の発売は数種類にとどまった。 MIL-CDの実装原理はCD EXTRAと同一で、マルチセッションディスクとなっており、1番目のセッションに音楽が、2番目のセッションにデータが入っている。ドリームキャストは、この2番目のセッションを読み取って独自のコンテンツを実現した。 一方で日本国外のユーザーを中心にMIL-CD機能を利用して自作ソフトを動作させる試みが存在した。自作ソフトにはDivXプレーヤーや様々なゲームエミュレーターなどがあった。多数の非ライセンスの商業ベースやいわゆる同人レベルの作品が開発・発表され、セガ側の思惑とは別にコアユーザーには浸透していた。
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一方で日本国外のユーザーを中心にMIL-CD機能を利用して自作ソフトを動作させる試みが存在した。自作ソフトにはDivXプレーヤーや様々なゲームエミュレーターなどがあった。多数の非ライセンスの商業ベースやいわゆる同人レベルの作品が開発・発表され、セガ側の思惑とは別にコアユーザーには浸透していた。 附属の標準コントローラはセガサターンのマルチコントローラのデザインを基とした大きめのもので、上部に2つの拡張スロットを装備しているのが特徴。形状の制約と「利用者に引っ張られている感じを与えない」という理由でケーブルはコントローラの下側から繋がっているが、上側からケーブルが出た形状に慣れている人はコントローラ背面に用意されているスリット(凹部)にケーブルをはさみ込むことで、擬似的にコントローラ上側からケーブルが出ているようにすることもできる。 アナログ方向キー(アナログスティック)と、アナログL/Rトリガー(一般的なLRボタンとは異なり、比較的ストロークが深く、押し込み具合で入力が異なる)、方向キー、X・Y・A・Bの4個の丸型のボタンと、三角形のスタートボタンが採用されている。方向キーは任天堂が実用新案権を取得し、任天堂のゲーム機に搭載している「十字キー」と外観が酷似しているが、任天堂の実用新案権は形状によるものではなく内部構造についてのものであり、当コントローラは内部構造が異なっているため、任天堂の実用新案には抵触しない。ちなみに、任天堂の十字キーにおける実用新案権自体も本機発売の4年前にあたる1994年(平成6年)に消滅している。 なお、初期型はトリガーの支点部にスリットが入っていて耐久力が低く、破損による故障が多発した。そのため、トリガーにスリットが無く方向キーを少し高めにセットした後期型が生産され、セガのカスタマーサポートは修理に出された初期型を不良品として後期型に無償交換していた。 また、本体にはリセットボタンが搭載されていないため、ゲームの強制リセットはXYAB同時押し+スタートボタンで行う。 拡張スロットには液晶表示付メモリーカード「ビジュアルメモリ」、振動パック「ぷるぷるぱっく」、音声入力機器「マイクデバイス」、デジタルカメラ「ドリームアイ」などが装着できる。
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また、本体にはリセットボタンが搭載されていないため、ゲームの強制リセットはXYAB同時押し+スタートボタンで行う。 拡張スロットには液晶表示付メモリーカード「ビジュアルメモリ」、振動パック「ぷるぷるぱっく」、音声入力機器「マイクデバイス」、デジタルカメラ「ドリームアイ」などが装着できる。 これらの組み合わせで、ビジュアルメモリの液晶画面にキャラクターを表示させながら、ぷるぷるぱっくで振動させるなどの表現ができた。反面、接続された各種デバイスによるコントローラ経由の消費電力が増えた。 当初は画面に向かってダイレクトに座標指示するライトガンの機能を追加する「ポインティングデバイス」、コントローラ自体の動きを検出して操作を行う「Gセンサーデバイス」も企画されていたが、発売はされていない。ケーブルが後ろ側から出ているのには、そのときに操作しやすいように、という意図もあった。 インターネット通信用のアナログモデムを標準搭載する。最高通信速度は日本国内向け純正品の場合33.6Kbpsで、本体からの着脱が可能だった。2000年(平成12年)7月に100BASE-T(ソフト側では10BASE-Tとしか使われなかった)LANアダプタ・「ブロードバンドアダプタ」が通販専売品ながら発売された。なお、モデムを標準搭載した家庭用ゲーム機は1996年(平成8年)3月にバンダイから発売されたピピンアットマークに次いで本製品が2番目である。 インターネットモデムにより本格的なインターネット対戦ゲームが楽しめるほか、アクセスのNetFrontをベースとしたWebブラウザ「ドリームパスポート」を本体に同梱したことでWebサイトの閲覧も可能で、次世代のマルチメディア機として優秀な性能を備えていた。開発当初はインターネットモデムの搭載には慎重的であった。 インターネット接続にあたっては、本体のモデムに固定電話回線を接続したモジュラーケーブルを接続し、「ドリームパスポート」やオンライン通信対応のタイトルソフトを使用し、アクセスポイントへダイヤルアップ接続することでアクセスできる。
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インターネット接続にあたっては、本体のモデムに固定電話回線を接続したモジュラーケーブルを接続し、「ドリームパスポート」やオンライン通信対応のタイトルソフトを使用し、アクセスポイントへダイヤルアップ接続することでアクセスできる。 任天堂のランドネットと異なり、既にPCでのインターネット接続用に他のISPを契約していた場合は、その接続アカウントとアクセスポイント番号(接続情報)をドリームパスポートを通じて本体に登録することにより、Webサイトのブラウジングやソフト毎に用意されたオンラインサービスの利用が可能であった。isao.net(旧 : セガプロバイダ)が提供するオンラインサービスの利用にあたっては、会員登録によるアカウントの取得と本体への接続情報登録が必要であるが、既存のISPを使用してのインターネット接続であればisao.netの接続料金は発生しなかった。 ドリームキャスト専用に用意されたISPである「セガプロバイダ」が2000年(平成12年)5月までプロバイダ料金が無料で提供された。セガプロバイダは、回線をぷらら(設立時にセガが出資)やHighway Internet(USENの買収により同社のISP部門)から借りていた。当初はアクセスポイントが大都市圏や県庁所在地などにしかなかったため、その他地域では遠方のアクセスポイントへ接続しなければならず、市外電話料金が高額になることも多かったが、その後アクセスポイントは各地方都市へも拡充されたため、この問題は解消されていった。 セガプロバイダは2000年(平成12年)6月にCSKとセガの共同出資で1999年に設立した株式会社ISAOへ承継・譲渡し、サービスが「isao.net」に変更した(同社創業者である大川功にちなんだものとされる)。プロバイダ料金を接続時間に応じた完全従量制と月額定額制にすると共に、PCユーザーにも開放し、ISPとしてISDNおよびADSLなどのブロードバンド接続サービスを開始。1アカウントでDCとPCを共用することが可能であった。
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isao.netはセガによるドリームキャストの展開終了後も独自にDCユーザー向けの接続サービスとコンテンツ(プロバイダ内の電子メールなど)の提供を継続すると共に、ポータルサイトにおいてもゲーム情報の掲載や電子掲示板の提供などを通じてゲーマーに適したISPとして運営してきたが、2008年(平成20年)9月にフリービット傘下のDTIへ事業譲渡し、2009年(平成21年)にプロバイダもDTIに統合され消滅した(この時点で接続サービスを契約していたアカウントは解約の申し出を行わなかった場合はDTIへ入会扱い)。 終了に伴い、ドリームパスポートのセガプロバイダ / isao.netの接続情報復旧(isao.netのサーバーに接続し、アカウント情報を本体に登録する)が終了したため、isao.netへの接続は出来なくなり、ソフトによってはオンライン対戦などの際にユーザー識別のため必要となる旧セガプロバイダの接続情報(アカウント)の本体への登録が出来なくなっている。しかしそれ以前にオンライン対戦などネットワークサービスがほぼ打ち切られているため影響は軽微となっている。なお、他のISPでダイヤルアップ接続かブロードバンドルーター等を介してインターネット接続し、一般のWebサイト閲覧することは従来通り可能である。 元の運営会社であるISAOはISP事業と並行してセガ関係のモバイルコンテンツ製作とオンラインゲーム運営関係のソフトウェアベンダーとして事業を行っており、2010年(平成22年)に豊田通商の完全子会社として株式会社ISAO(2代目)が新たに設立され、事業を行っていたが、2019年10月1日に豊田通商から独立。2020年6月1日に株式会社Colorkrewに事業継承・吸収合併され解散した。
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元の運営会社であるISAOはISP事業と並行してセガ関係のモバイルコンテンツ製作とオンラインゲーム運営関係のソフトウェアベンダーとして事業を行っており、2010年(平成22年)に豊田通商の完全子会社として株式会社ISAO(2代目)が新たに設立され、事業を行っていたが、2019年10月1日に豊田通商から独立。2020年6月1日に株式会社Colorkrewに事業継承・吸収合併され解散した。 ブラウザの役目をする接続ソフトであり、本体にバンドルされている。バージョンアップごとにセガプロバイダおよびisao.netの登録ユーザに無料配布され、最終的に2001年(平成13年)6月リリースの「ドリームパスポートプレミヤ(Dream Passport PREMIERE 英略 : DPP)」となった。また、Hello Kitty ドリームキャストセットに附属の「ドリームパスポート2 『ハローキティ』Ver.」や、ドリームパスポート3をベースにした市販品「『でじこ』のまいブラ」などの各種キャラクターを用いたアレンジ版も作られている。 ドリームパスポート3とDPPには、ドリームキャスト上でメガドライブとPCエンジンのゲームをダウンロード配信する「ドリームライブラリ(2003年終了)」と、専用マイクやドリームアイを介してインターネット電話(固定電話含む)が可能な「DreamCall(DPPのみ、2003年〈平成15年〉1月14日終了)」を利用するための専用アプリケーションがバンドルされている。いずれも仮想通貨である「ドリム」を使用するものであった。 なお、前述のブロードバンドアダプタには専用の「ブロードバンドパスポート(Broadband Passport)」が附属し、ブロードバンド接続では当時のドリームパスポート2の代わりにこれを使用する必要があったが、ドリームパスポートプレミヤではブロードバンド接続にも対応している。これによって、ブロードバンドアダプタを装着していながら接続情報復旧のためにのみモデムに付け替えてドリームパスポートを使用しなければならない、といった手間から解放された。なお、DPP以前のドリームパスポートはSSLのアップデートに対応していないため、現在はSSLでの接続が必要なサイトは閲覧不可能である。
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1999年(平成11年)2月15日から、トヨタ自動車がセガ及びCSKと提携のうえで、同社の系列販売店で発売したドリームキャストの附属CD-ROMは、トヨタ関連サイトへのリンク集やKDD(後のKDDI)の運営するISP「NEWEB」への優先接続など、通常と異なる内容になっていた。 セガプロバイダやドリームパスポートとは別に、1999年前半にマイクロソフトとウェブティービーネットワークスによって開発されたWebTVをベースにしたインターネット閲覧ソフト「マイクロソフト ウェブティービー接続キット」が希望者のみに配布された。「ドリームパスポート」との互換性はないが、1999年12月頃にドリームパスポートよりも早く接続キットのブラウザがSSL128bit対応にアップグレードされ、東京三菱銀行(当時)のインターネットバンキングである「東京三菱ダイレクト(後の三菱東京UFJダイレクト)」のWeb TV版に正式対応していた。 PSE問題の影響により中古品市場での本体の入手はかなり困難となることも懸念されたが、2006年4月以降も中古店でPSEマークつきで販売されている。セガによる本体ならびに本体付属周辺部品の有償修理は、佐倉事業所CSサービスセンター並びに関西支店CSサービスセンターで受け付けていたが、2002年11月1日を以て関西支店CSサービスセンターは佐倉事業所CSサービスセンターに統合され、2007年9月28日佐倉事業所CSサービスセンター到着受付分を以て終了した。 2000年5月にフジテレビジョンが企画・発売、株式会社スマートエックスが開発したドリームキャストと互換性のある一体型テレビである。日立マクセルのオンラインショッピングサイト上や一部の店舗で限定販売された。“1970年代から見た2000年のテレビ”というコンセプトで、レトロフューチャーなデザインに仕上がっている。
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2000年5月にフジテレビジョンが企画・発売、株式会社スマートエックスが開発したドリームキャストと互換性のある一体型テレビである。日立マクセルのオンラインショッピングサイト上や一部の店舗で限定販売された。“1970年代から見た2000年のテレビ”というコンセプトで、レトロフューチャーなデザインに仕上がっている。 本機上にはドリームキャストのシンボルマークは一切使われず、CX-1オリジナルのシンボルマークに差し替えられている。内蔵ソフトも独自のGUIとなっている。スケルトンのコントローラ・ビジュアルメモリ・キーボードおよびビジュアルアイとテレビ機能を操作するリモコンが付属している。ドリームキャストと異なり、アナログモデムとMIDIインターフェイス(MIDIインターフェイスケーブル相当)が内蔵されており、着脱することは不可となっている。また、エクステンションポートを構造上備えていないため、ブロードバンドアダプタやドリームキャスト・カラオケの接続も非対応である。 セガ側は対外的にはPRしなかったが、ドリームポイントバンク登録者向けのダイレクトメールでドリームアイと合わせて紹介していた。 ドリームキャストの販売当時、一般向けインターネットと言えばダイアルアップの時代であり、ISDNやADSLなどのデジタル通信、常時接続は一部企業やインフラに採用されるに留まっていた。しかし1999年に入るとNTT東西による一般家庭向けのISDNによる常時接続サービスが開始され、また8月にはADSLが試験的ながらも商用サービスを開始されるなど、インターネットの常時接続が急速に普及していった。それに伴いモデムと入れ替える形で接続するLAN接続対応のドリームキャスト用のブロードバンドアダプタ(10Mbps)が2000年7月15日に発売された。 ドリームキャスト本体の製造が終了した後も製造/販売が続けられたが、対応ソフト登場の遅れから流通量は少ないまま、2002年4月の受注を最後に製造が打ち切られた。
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ドリームキャスト本体の製造が終了した後も製造/販売が続けられたが、対応ソフト登場の遅れから流通量は少ないまま、2002年4月の受注を最後に製造が打ち切られた。 セガ・ミュージック・ネットワークス(2007年にセガがBMBへ株式売却後、2010年エクシングがBMBを吸収合併)の業務用通信カラオケ・セガカラ(Prologue 21シリーズ)のインフラを転用し、家庭用通信カラオケとして利用できる周辺機器である。ドリームキャスト・カラオケ本体はマイクミキサーの役割をし、カラオケ機能そのものは同梱ソフトの「セガカラ@ドリームキャスト」でソフトウェア処理する(ソフト単体では起動しない)。商品として「ドリームキャスト・カラオケ」単体版とDC本体をセットにした「セガカラ@ホーム」がある。 管理楽曲の演奏不可・MIDI音源が脆弱という弱点はあるが、新譜もPrologue 21とほぼ同じタイミングで配信され、タイトーのX-55よりもコストが廉価(ドリームキャスト・カラオケの本体希望小売価格9800円、利用料金は1日500ドリム、30日間2000ドリム)であった。発売時期が事業撤退表明後の2001年3月29日であったが、5年後の2006年3月29日までサービス提供が継続された。ブロードバンドアダプタ対応。 本体をコントローラー端子に接続し、付属ソフト「ビジュアルパーク」を使用することで、本体に記録した写真データをフォトレタッチして電子メールとして送信したり、付属のヘッドセットを拡張スロットに接続すれば、同じ機器環境をもった相手方とコマ送りの簡易動画ながらテレビ電話をインターネット経由(まちあわせ通信)もしくはモデムの回線交換接続(P2P)で行うことができる。希望小売価格が1万4400円とDC本体に迫る高価格であったためか余り普及しなかった。2003年1月にまちあわせ通信によるテレビ電話接続が終了している(相手方の一般加入電話回線に接続したビジュアルパークを呼び出す回線交換接続方式であれば現役で利用可能)。 キラーソフトとして本体と同時期に投入予定だった自社の看板タイトル『バーチャファイター3tb』を除き、ローンチタイトルの多くが発売延期となった。
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キラーソフトとして本体と同時期に投入予定だった自社の看板タイトル『バーチャファイター3tb』を除き、ローンチタイトルの多くが発売延期となった。 『セガラリー2』、前機のセガサターンでは発売しなかったセガの看板タイトル『ソニックシリーズ』の新作『ソニックアドベンチャー』を本体発売から1か月後に発売させた。しかしハードとソフトの供給の遅れが年末商戦を挟んだ市場形成期の成長に急ブレーキをかけ、その最中に『大乱闘スマッシュブラザーズ』『ファイナルファンタジーVIII』など他ハードでのメガヒットタイトルが発売された事でライトユーザーの購買意欲が消極化した。 1999年下期は『シーマン』・『Jリーグプロサッカークラブをつくろう!』・『ソウルキャリバー』・『バイオハザード CODE:Veronica』など売上本数30万本越えの単発的なヒットはあったものの、ソフト不足に悩まされる状況は変わらず、ハードの売り上げを牽引するキラーソフトの供給が続かなかった。本体の発売当初からその内容が注目を浴びていた『シェンムー』『Dの食卓2』が度重なる延期により1999年12月発売となったことがライトユーザーの関心を失わせた格好となりヒットには至らず、既に確固たる利用者層を積み上げていたPlayStationと2000年3月4日に発売された後継機PlayStation 2の前に再び苦戦を強いられたと同時に、高額の資金を投じた開発費・広告費、値下げの影響で開発コストの回収難に陥ってしまう。 2000年は一部タイトルで、TSUTAYAと提携し東京都内の一部店舗でのゲームレンタル開始や、1 - 2000円前後の廉価で機能限定版(体験版に近い)を販売し、ドリムを用いてアクティベーションの権利を購入(VMに課金データをダウンロード)することで通常版と同等にプレイできるシェアウェア型の「@barai(アットバライ)」というシステムをISAOと共同開発し数タイトル発売し、「@barai」のゲームソフトをゲーム雑誌に付録として提供するなどの試みも行った。『ROOMMANIA#203』、『サクラ大戦1・2』、『ファンタシースターオンライン』などセガオリジナルタイトルを中心としてソフトのリリース数は最多となったが、前期に存在した30万本超えのタイトルは1つも無かった。
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2001年3月29日、セガを取り巻く情勢を自虐的なパロディとして反映させたシミュレーションRPG『セガガガ』が発売され、これらは1998年の本体発売前の広告内容から続く一連の衝撃的な話題として報道番組や新聞で報道された。なお、同月に発売された『サクラ大戦3 〜巴里は燃えているか〜』(約34万枚)および翌2002年3月発売の『サクラ大戦4 〜恋せよ乙女〜』(約25万枚)がその年の最多売上タイトルとなった。 本体や周辺機器の製造が終了してからも2005年頃までは恋愛ゲーム中心にリリースが続き、恋愛ゲームが発売されなくなった後も、NAOMI基板で出たアーケード用シューティングゲームの移植を中心に年2本程度のペースで新規ソフトが発売されており、新規タイトルが発表になるたびに「ドリームキャスト最後のソフト登場」と話題となる。2007年3月8日にライセンス品として最後のソフトとなる『カラス』が発売された。 当時業務用基板「NAOMI」の責任者を務め、後にセガの社長へ就任する杉野行雄は2020年に「家庭用ゲームハード撤退後もリクエストに応えるような形でタイトルを開発するのではなく、もっと長期的な視野に立ってラインアップを整えるべきだった」と述懐した。 正規ライセンス品ソフトの発売が途絶えた後も非正規ライセンス品のソフトが主に海外で制作されている。 オンライン接続対応のゲームソフトにはドリームパスポートの一部機能が制限されたバージョンが本編ディスクあるいは添付の専用ディスクに組み込まれており、ドリームパスポートに入れ替えることなくソフトの公式ホームページを閲覧したり、公開されている専用のセーブデータをダウンロードできるようになっているものもあった。 ほか多数 ドリームキャストのソフトには通常版とは別に@barai版が存在する。通常より安く販売されたものと雑誌の付録があった。ある程度まで遊ぶと先に進めたくなるが、追加料金を払い、インターネットからメモリーカードにデータをダウンロードして制限を解除すると最後まで遊べる。このシステムが採用されたのは『エターナルアルカディア』と『ハンドレッドソード』の2作だけで、2002年3月31日にサービスは終了した。
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ドリームキャストのソフトには通常版とは別に@barai版が存在する。通常より安く販売されたものと雑誌の付録があった。ある程度まで遊ぶと先に進めたくなるが、追加料金を払い、インターネットからメモリーカードにデータをダウンロードして制限を解除すると最後まで遊べる。このシステムが採用されたのは『エターナルアルカディア』と『ハンドレッドソード』の2作だけで、2002年3月31日にサービスは終了した。 本体の起動時のデモンストレーションは涼しげな音色にあわせてオレンジ色の玉が画面を跳ね回り、最後に渦を巻いて「Dreamcast」と表示され、ゲームソフトか内蔵のシステムソフトが起動する。この起動音は坂本龍一が作曲したもので、その音声はアルバム『CM/TV』に収録されている。 内蔵のシステムモードはドリームキャスト本体のCDドライブのドアを開けている状態か、ドリームキャスト用ゲームソフトが挿入されていない時に起動する。システムモードではビジュアルメモリのデータ管理、内蔵時計の管理、CDプレーヤーがある。CDプレーヤーは画面中央に3DCGのCD(レーベルデザインはオリジナル)が表示され、ドライブの動作に合わせて画面上のCDも動く。ゲームディスクやMIL-CDをセットすると、CD-DA部分(→#GD-ROM)しか再生しないが、一部タイトルでは画面上のCDのデザインがタイトルに関係したピクチャーレーベルで表示される。 ドリームキャストはPlayStationの販売方法を徹底的に模倣。卸子会社のセガ・ミューズを通じて「再販売価格維持」、「中古品売買禁止」、「同業者間の在庫転売禁止」の3点を小売店に強制した。当時、SCEが採用したこの販売方法は私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)違反で公正取引委員会と係争中だったが、メーカーの圧倒的支持を受けており、SCEが独占禁止法違反の是非を争っている間にその販売方法を模倣すればスクウェアを始めとする有力メーカーの支持を一気に奪えるという計算が働いたからである。 しかし1999年11月にセガに対しても独占禁止法違反容疑が表面化した。事件の処理に困ったあげく2000年8月にはセガ・ミューズの業務を本社に丸投げしてペーパー会社化するという「脱法行為」ギリギリの方法で摘発を逃れて一部から批判を浴びた。
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しかし1999年11月にセガに対しても独占禁止法違反容疑が表面化した。事件の処理に困ったあげく2000年8月にはセガ・ミューズの業務を本社に丸投げしてペーパー会社化するという「脱法行為」ギリギリの方法で摘発を逃れて一部から批判を浴びた。 2007年12月、セガオブアメリカが「Dreamcast」の商標登録の更新を申請した。一部で「後継機が開発されているのでは」と噂されたが、セガオブアメリカは「登録内容に問題があったためであり、コンソールビジネスに戻る予定は無い」と否定した。 2010年にセガにおいて「セガ・ドリームキャスト復刻プロジェクト」を立ち上げ、ドリームキャストの一部タイトルのPlayStation 3とXbox 360の移植版を製作し、PlayStation StoreとXbox Live Arcade上でダウンロード販売形式で販売・配信が行われている。 復刻(発売)タイトルは以下の通り 2014年には本体の劣化したGD-ROMドライブを取り外し、SDカードを利用できるように改造する試みがされている。 一部ユーザーがブロードバンドアダプタとMIL-CDのデータ部分を利用し、ゲームデータをCD-Rにコピーしたディスクを動作させることに成功したことで、それまで本体にはんだ付けを施し、シリアル接続で数十時間掛けてバックアップを行っていたものが、僅か10分程度でバックアップが行えるようになった。これはコピーディスクを違法に流通させるきっかけとなった。 そのためセガはMIL-CD機能の悪用による違法コピー対策として、2000年12月28日以降に出荷された製品をMIL-CD非対応とした。この厳密な時期は定かではないが、概ね11月1日の社名変更のタイミングと重なっている。そのため、本体ケース底面に書かれている社名によって推測する事ができる(ただし、一般にケースよりメインボードの製造が後のため、中身が交換されていなくても必ずしも正確に推測できるわけではない)。また、対応品をセガに修理に出した場合、非対応品にされて戻される事例も存在した。
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両者の判別は新品であれば可能で、いわゆる湯川専務バージョンはMIL-CD対応品で、末期に製造されたロットは外箱に「MIL-CD非対応」と明記されている。しかし、中古品販売で入手するしかない現状では、外箱と中身が一致しているとは限らないため、本当に対応品かそうでないかを見分けるのは難しい。販売店によっては、対応品かどうかを独自にチェックし、その旨を表示して販売しているところも存在する。 例外的に、ドリームキャストR7は末期の製造ながら、初期ロットの在庫処分のためMIL-CD対応であり、箱にも明記されている。ただし流通量は少ない。 また、「MIL-CD非対応」と外箱に明記された物でも、海外仕様(一般に、海外仕様のものには非対応品は存在しない)のものを国内向けに変更したリアセンブル版や、故障品のパーツを再組立した再生品(もともとが故障品のパーツの寄せ集めであり、部品精度の検証が不足していたために、出荷分の初期不良率は異常に高かった)を中心に、実際はその多くは対応機であり、全体の生産量からするとMIL-CD非対応機はごく一部でしかない(日本国内分でさえ1割にもはるかに満たない)。また非対応品とされたモデルに関しても対応モデルの結線を取り外しただけという場合もあり、その場合は再度結線を施すことによりMIL-CD対応として動作が行える。 市場での敗因としてまず第一に、コントローラーの使い勝手の悪さと耐久性が挙げられる。独特の形状に加えそれまでの一般的なハードと異なりコントローラーの下からコードが伸びる仕様であり、ソフトのプレイ環境によっては1か月も持たずに破損するなどユーザーからは極めて不評であった。改善の要望は多かったが、メーカー側も応えることはなかった。 次にPlayStation 2との勝敗を分けた要因として、ソフトの後方互換性が挙げられる。それまで「ハードが変更されると旧機のソフトはプレイ不可能」ということが一般的で、DCもセガサターン用のソフトは使えなかったが、PS2がPS用ソフトのほとんどをプレイできる仕様だった。
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次にPlayStation 2との勝敗を分けた要因として、ソフトの後方互換性が挙げられる。それまで「ハードが変更されると旧機のソフトはプレイ不可能」ということが一般的で、DCもセガサターン用のソフトは使えなかったが、PS2がPS用ソフトのほとんどをプレイできる仕様だった。 ドリームキャストに後方互換性を持たせなかったのは、セガサターンが設計上、マルチプロセッサ機能を持っていた事に起因する。サターンと後方互換性を持たせようとすると処理チップ数が増加し、コストが高くなるという問題を孕んでいた(尚、PS2はI/OプロセッサとしてPSのCPUを搭載させることによりこの問題を解決させている)。これには、セガは業務用・家庭用を問わずハード設計の際には、なるべく汎用ICを使って設計する(必然的に基板に実装するICの種類が増える)という方針や、後方互換性を維持する事でサポートコストの増大や過去の負の遺産を引き継ぐことを嫌った、当時までのゲーム業界の慣習を引きずった事も影響している。 既に多くのサターンのソフトがPSへ移植されていたが、DCそのものにはキラーソフトが少なく、その一方でまだ市場が残っていたサターンへのソフト供給が途絶えてしまったことから、これを転機としたユーザ離れを引き起こすことになってしまった。セガサターンからドリームキャストの変更によるメーカー側の開発難航が供給低下の原因にあることも見逃すことができない。Windowsと互換性がありソフトの製作のハードルは低かったものの、立ち上がりのつまづきがサードパーティーを消極的にしソフトメーカーの参入が伸びなかった。
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ドリームキャスト
PS2が商業的に成功した要因として、PS用ソフトのほとんどがそのままプレイできる後方互換性を有するうえ、コントローラのボタン数やデザインも従来どおりだったため、PSから親しんできたユーザにとっても何の抵抗もなくプレイできたことにある。また、セガサターン純正のコントローラは、後に同形のコントローラーパッドがPS2用およびパソコン用で販売された経緯がある。それに慣れ親しんだユーザにとっては、ドリームキャストの純正コントローラは前述のように使い勝手が悪く、コードが下部から付いているので腕に対する負担が少ないが、長さが足りなかった。見た目よりは軽量だが、メモリカード等を装着すると当然重量は増加し、長時間プレイすると腕に対する負担が大きかった。これはプレイヤーの使用しないポートのコントローラーなどにメモリカードを挿すことなどによってある程度は回避可能だが、実際にはソフトの多くはポートAの1番スロットにしか対応していないなど、不備も目立った。 PS2はDVDプレーヤーとしても機能することがPS2のシェア拡大に少なからず貢献し、結果としてDVD-Video視聴環境の普及にも大きく貢献することとなったが、ドリームキャストでは独自の規格であるGD-ROMドライブを搭載していたためにDVDビデオの視聴は不可能だった。この点に関して、ドリームキャスト開発当時はDVDドライブがまだ高価で、コスト面での不利から搭載を見送られていた。末期には外付けのDVDドライブの開発が検討されたこともあったが、製造中止に伴って立ち消えとなっている。GD-ROMは、ドリームキャスト発売当時としては容量も十分なものだったが、DVDが普及するにつれて、記録容量、ドライブの製造コスト、ディスク単価、市場でのシェアなど、どれをとってもDVDに対し劣るものとなっていた。しかしGD-ROMに関してはアーケードのNAOMIに互換性を持たせるための設計であり、開発、移植を容易にするという観点でアーケード業界においては成功を納めた。
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ドリームキャスト
PS2やNINTENDO64に対し優位に立つかに思えたインターネット機能の標準搭載も、対応ゲームの少なさや発売の遅さ、深夜から朝のラッシュアワー限定で利用できるテレホーダイ以外の手段による通信料金定額の未整備ゆえに、優位性が充分に発揮されないまま終わってしまった。ドリームキャスト発売当時は電話回線を使用したダイヤルアップ接続が主流であり、通信にかかる費用はユーザにとって決して軽いものではなかった(標準モデルはモデム接続のみのため、東西NTTのISDN回線による通信費パック料金制のアイ・プランや完全定額のフレッツ・ISDNを用いるためのデジタル接続も不可であった)。しかも、日本の一般家庭でのインターネット接続環境は2000年以降ブロードバンドの商用化によって急速に普及し始めたためモデムが邪魔者になってしまった、という悪条件が追い討ちをかけた。
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ドリームキャスト
後に販売されたブロードバンドアダプタに関しても当時の流通の主流であったゲームショップへの流通は後回しとなり、一般ユーザーには敷居の高い通販や代理店となったISPからの購入を行うしか入手が行えなかった。またそれまで販売されていたゲームソフト及びインターネットサービスはダイアルアップを前提としたサービスとなっており、ゲーム側でもLANアダプタに対応を行う必要があったが、ブロードバンドアダプタが販売された当初は対応したゲームが一つも存在しておらず、対応したゲームソフトは2000年10月15日発売で既存ゲームのリニューアル版の『あつまれ!ぐるぐる温泉BB』の登場を待つこととなり、リニューアルではなく本格的に対応を行ったゲームは2000年12月21日発売の『ファンタシースターオンライン』の登場を待つこととなった。その後販売されたゲームは概ねブロードバンドアダプタ対応となったものの、開発時期の都合から対応されていないものもあり、販売済みのゲームについても対応は取られなかった。また発売当初はセガ公式のドリームライブラリやインターネットブラウザも対応していなかった。当時のドリームパスポート3のウリとなっている「ch@b talk」や「どこでもチャット」も対応しておらずチャットが行えないこと、当時唯一のメーカーによるゲームアーカイブシステムドリームライブラリも非対応となり、発売時点ではほとんど用途がなく、事実上IRCチャットを行うためだけの機能となっていた。価格も当時の本体定価が1万9980円のところ、ブロードバンドアダプタは別売りで9980円で、最終販売時期に至っては本体価格とブロードバンドアダプタが同額になってしまったことなども普及の妨げになった。対応ゲームが存在しないことについては各メディアでも良い見解は持っていなかった。 一方でアーキテクチャ自体は評価が高く、ほぼ同設計の業務用基板「NAOMI」が長く現役であったほか、サミーの業務用基板「ATOMISWAVE」にもその構造が転用され、こちらも北米等で長く活躍した。
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アド・バード
『アド・バード』は、椎名誠によるSF長編小説。『水域』『武装島田倉庫』と共に椎名SF3部作に数えられる。小説誌『すばる』に1987年9月から1989年12月まで連載され、1990年3月に集英社より刊行された。同年、第11回日本SF大賞を受賞した。 K二十一市に住む青年、安東マサルとその弟菊丸は、行方不明となった父が生きていることを知り、マザーK市への旅へ出る。世界はターターとオットマンの両陣営による改造生物を使った広告戦争により荒廃しており、市外を一歩出たところには、何もかも分解して土に変えてしまう科学合成虫ヒゾムシ、鉄を食いつくすワナナキ、触手を持った動く絨毯のような赤舌、そして鳥文字を作ったり人語を話す広告用の鳥アド・バードといった、珍妙不可思議な生物たちがうごめく危険な時代だった。道中で出会ったキンジョーという名の生体アンドロイド(ズルー)と共に、兄弟はマザーK市へ向かう。 この作品の原案は初め、1972年に椎名の友人目黒考二の個人誌『SF通信』(後の『本の雑誌』)の別冊特集号のために書いた、30枚足らずの『アドバタイジング・バード』という作品であった。 『別冊SF通信』に書いた4年後に椎名は、自分の編集している流通業界専門誌『月刊ストアーズレポート』に小売業の宣伝合戦の未来を描いた『クレイジー・キャンペーン』という小説を書き、そこにデパートの屋上に鳥文字を書くメッセンジャーズ・バードを登場させた。 それから2、3年後、創刊間もないSF雑誌『奇想天外』の懸賞小説へ応募するために『アド・バード』というタイトルで100枚の小説を書いたが落選した。この作品では鳥自身が主人公だった。 集英社の文芸誌『すばる』から小説連載の依頼があった時、椎名はこの『アド・バード』を書かせてもらうよう編集者に頼んだ。当初1年だった連載予定は半年延長されたが、それでも終了せず、結局2年6か月の長期にわたった。この結果、全850枚で作者の最長の小説となった。 目黒曰く、この作品はブライアン・オールディスの異様な植物が蔓延る未来の地球を描いた小説『地球の長い午後』を椎名なりに描いたオマージュであるという。 後にアニメ化の話もあったが、制作は中止された。
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テレビジョン放送局
テレビジョン放送局(テレビジョンほうそうきょく)とは、テレビジョン放送(テレビの放送)を行う放送局である。 放送は、不特定多数の人間へ映像と音声を運ぶシステムである。撮像管で撮影した映像と音声は、電波に変換させられて発射(発信)される。フェーズで言えば映像と音声を撮影・録音し高周波電流(または光ケーブル)に乗せる役割と、この電流(信号)を増幅して高周波電波に変換した上で中継局やケーブルに乗せる役割からテレビ放送は成り立っている。 一般的に番組を収録・編集したり番組を決められた順番に送り出す作業を行う施設を「演奏所」、演奏所で作られた信号を電波として送信する施設を「送信所」とするが、厳密に言えば、放送局は後者のみを指す。 ABC・SBS及び民間テレビ3大ネットワークを総称してオーストラリアの5大ネットワークと称されることもある。
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スティル・ライフ (ローリング・ストーンズのアルバム)
『スティル・ライフ(アメリカンコンサート '81)』(Still Life American Concert 1981) は、1982年にリリースされたローリング・ストーンズのライブ・アルバム。 1981年の北米ツアーの模様が納められ、翌年のヨーロッパ・ツアーに間に合うようにリリースされた。ジャケットデザインは日本人画家、カズ・ヤマザキが担当した。 先行シングルとしてリリースされたスモーキー・ロビンソンとミラクルズのカヴァー「ゴーイング・トゥ・ア・ゴー・ゴー」は英米でトップ30ヒットとなった。一方、第二弾シングルの「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」はチャート上位に上ることはなかった。 サティスファクションの演奏中に、ファンがステージに駆け寄り、キース・リチャーズがギターで彼を殴り、警備員がファンを追いかけました。 本作はイギリスでチャート4位、アメリカでは5位を記録しプラチナ・アルバムを獲得した。しかしながらそのサウンドの薄さからライブの模様を十分に伝えていないと批判的な評価が多かった。 1998年に本作はヴァージン・レコードによってリマスターの上再発売され、2009年にはユニバーサル ミュージック グループによって更なるリマスターで再々発売された。 特筆無い限りジャガー/リチャーズ作詞作曲。
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パブロ・ピカソ
パブロ・ルイス・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、スペイン・マラガ生まれの、フランスで制作活動をおこなった画家である。 パブロ・ルイス・ピカソは、1881年10月25日の23時15分に、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市で生まれた。父ホセ・ルイス・イ・ブラスコ(1838年-1913年)と母マリア・ピカソ・ロペス(1855–1938)との間に長男として生まれた。父ホセ・ルイスは、美術教師、修復家、美術館学芸員長、画家だった。1880年にマリアと結婚している。幼いころからピカソは絵を描く才能を発揮し、8歳で初めて油彩を描いている。ピカソはこども頃から美術の英才教育を受けた。 彼は後年、フランス共産党員となったが、イデオロギーにとらわれることには否定的だった。 ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムの創始者として知られる。生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている。 ピカソの死後、孤独になった妻(2人目)のジャクリーヌは、1986年に59歳のときに銃で自殺している。 ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。以下がよく知られている。 ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった。パリ時代初期には、モンマルトルの洗濯船やモンパルナスに住む芸術家の仲間、ギヨーム・アポリネール、ガートルード・スタイン、アンドレ・ブルトンらと頻繁に会っていた。 正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエ(英語版)だが、「青の時代」「ばら色の時代」をへて富と名声を得たピカソは、つぎにエヴァ・グール(フランス語版)という名前で知られるマルセル・アンベール(Marcelle Humbert)と付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す (J’ AIME EVA)」、「私の素敵な人 (MA JOLIE)」などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は結核を患い、1915年に亡くなった。
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パブロ・ピカソ
1916年、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。そこでバレリーナで貴族出身のオルガ・コクローヴァ(英語版)と知り合い、1918年に結婚した。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョワ趣味を教えた。二人のあいだには息子パウロ(Paulo)が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなった。 1927年、ピカソは17歳のマリー・テレーズ・ワルテル(英語版)と出会い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止した。ピカソとオルガは1935年に別居したが、結婚そのものは1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘マヤ(Maya)が生まれた。 またピカソは1936年から1945年まで、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもった。彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあり、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録している。 1943年、ピカソは21歳の画学生フランソワーズ・ジロー(英語版)と出会い、1946年から同棲生活を始めた。そしてクロード(英語版)とパロマが生まれた。しかし、フランソワーズはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、1953年、2人の子を連れてピカソのもとを去り、他の男性と結婚した。このことはピカソに大きな打撃を与えた。フランソワーズはピカソを捨てた唯一の女性と言われている。 しかしピカソはすぐ次の愛人ジャクリーヌ・ロック(英語版)を見つけた。彼女は南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられ、1961年に結婚した。しかし、この結婚は、ピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていたと言われている。当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけた。これに乗ってフランソワーズが相手と協議離婚すると、ピカソは既にジャクリーヌ・ロックと結婚していた。 このころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言』(1960年)に、自身の役でカメオ出演している。
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パブロ・ピカソ
このころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言』(1960年)に、自身の役でカメオ出演している。 ピカソが1973年に死去した際、孫にあたるパブリート(パウロの長男)は、ジャクリーヌに祖父の葬儀へ参列することを拒否されたことを苦に自殺した。またパウロは酒と麻薬に溺れて身体を壊し、1975年に死亡した。ピカソの遺産は後妻のジャクリーヌが3割、早逝した先妻オルガと長男パウロの取り分4割を、パウロの子供であるベルナールとマリーナが2割ずつ、非嫡出子であるマヤとクロードとパロマは1割ずつで分けられた。 ピカソの死から年月は経るが、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは後に自殺している。フランソワーズ・ジローは、2021年11月26日に100歳の誕生日を迎えてからも画家として旺盛な創作を続け、2023年6月6日に101歳で死去した(2010年に東京で日本初の個展を開催)。ピカソの孫にあたるマリーナ(Marina、パウロの長女)の著書には、「いいおじいちゃんになる方法を教えてあげられれば良かった」という言葉がある。 第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦という3つの戦争に、ピカソは積極的に関わらなかった。フランスの2度にわたる対ドイツ戦争では、スペイン人であるピカソは招集されずにすんだ。スペイン内戦では、ピカソはフランコとファシズムに対する怒りを作品で表現したが、スペインに帰国して共和国市民軍に身を投じることはしなかった。ピカソは青年時代にも、カタルーニャの独立運動のメンバーたちと付き合った。また、ピカソはアナーキスト的資質もあったといわれるが、実際にアナーキストとして活動をすることはなかった。 スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカがフランコの依頼によりドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をモチーフに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったように嘶く馬などが強い印象を与える縦3.5m・横7.8mのモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開された。ピカソはのちにパリを占領したドイツ国防軍の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え、同作品の絵葉書を土産として持たせたという。
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パブロ・ピカソ
スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。『ゲルニカ』は長くアメリカのニューヨーク近代美術館に預けられていたが、ピカソとフランコがともに没し、王政復古しスペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定によりスペイン国民に返された。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。 1940年にパリがナチス・ドイツに占領され、親独派政権(ヴィシー政権)が成立した後も、ピカソはパリにとどまった。このことが戦後にピカソの名声を高める要因になった(多くの芸術家たちが当時アメリカ合衆国に移住していた)。しかし本人はただ面倒だったからだとのちに述べている。ヴィシー政権はピカソが絵を公開することを禁じたため、ひたすらアトリエで制作して過ごした。ヴィシー政権は資源不足を理由にブロンズ塑像の制作を禁止したが、レジスタンス(地下抵抗組織)が密かにピカソに材料を提供したので、制作を続けることができた。 1944年、ピカソは友人らの勧めはあったにせよ、自らの意志でフランス共産党に入党し、死ぬまで党員であり続けた。何かとピカソの共産主義思想を否定したがる人に対し「自分が共産主義者で自分の絵は共産主義者の絵」と言い返したエピソードは有名である。しかし、友人のルイ・アラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなど、幾多のトラブルを経験した。1950年にスターリン平和賞を受賞し、1962年にレーニン平和賞を受賞した。 1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。有名なのは、ディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにゴヤ、プッサン、マネ、クールベ、ドラクロワでも同様の仕事をしている。
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1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。有名なのは、ディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにゴヤ、プッサン、マネ、クールベ、ドラクロワでも同様の仕事をしている。 1955年にはアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』の撮影に協力した。この映画は1956年の第9回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞、1984年にはフランス国宝に指定されている。 1968年、彼は347点におよぶエロティックな銅版画を制作。その中には、『しゃがむ女』や『裸婦たち』などの開脚した女性たちを描いたものがある。ピカソ本人は「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と言い、悪評は一切気にしなかった。晩年のピカソの作風は、のちの新表現主義に大きな影響を与えたと考えられている。ピカソは死ぬまで時代を先取りする画家であった。 ピカソは1973年に91歳で死去した。 ピカソは非常に多作な作家であり、世界中の多くの美術館がピカソの作品を保有している。ピカソの名を冠する美術館だけでも、まず生まれ育ったスペインではバルセロナに1963年にピカソ美術館 (バルセロナ)が開館し、2003年には遺族がピカソの出身地であるスペインのマラガにピカソ美術館 (マラガ)(英語版)を開館した。 ピカソは1973年の死の時点で、多数の作品を手元に残していた。また友人の画家(アンリ・マティスなど)の作品を交換や購入によって相当数持っていた。フランス政府は遺族から相続税としてこれらの作品を徴収し、1985年に国立ピカソ美術館を開館した。一作家の美術館としては世界最大の規模を誇るもので、ピカソの作品だけで油絵251点、彫刻と陶器160点、紙に描かれた作品3,000点を所蔵している。 このほか、アンティーブにピカソ美術館 (アンティーブ)、カンヌ近郊のヴァロリスにピカソ美術館 (ヴァロリス)が存在し、パリと合わせてフランスには合計3つのピカソ美術館が存在する。 1996年、映画『サバイビング・ピカソ』が公開された。フランソワーズ・ジローとピカソの関係を描いたもので、アンソニー・ホプキンスがピカソを演じた。
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このほか、アンティーブにピカソ美術館 (アンティーブ)、カンヌ近郊のヴァロリスにピカソ美術館 (ヴァロリス)が存在し、パリと合わせてフランスには合計3つのピカソ美術館が存在する。 1996年、映画『サバイビング・ピカソ』が公開された。フランソワーズ・ジローとピカソの関係を描いたもので、アンソニー・ホプキンスがピカソを演じた。 2004年、ニューヨークのサザビーズの競売で、ピカソの『パイプを持つ少年』(1905年)が1億416万8000ドル(約118億円)で落札され、絵画取り引きの最高額を更新した。2006年5月には、同じくサザビーズの競売で『ドラ・マールの肖像』(1941年)が9521万6000ドル(約108億円)で落札された。 2010年5月4日、ピカソの『ヌード、観葉植物と胸像』がニューヨークのクリスティーズで約1億650万ドル(約101億円)で落札され、最高額を更新した。ロサンゼルスの収集家が1950年代に購入した作品で事前予想でも8000万ドル以上と予想されていた。それまで(2010年2月当時)の最高額はアルベルト・ジャコメッティのブロンズ像『歩く男』の約1億430万ドルだった。 2006年10月、ラスベガスのホテル王で美術品収集家としても知られるスティーブ・ウィンが、1億3900万ドル(約165億円)で別の収集家に売却する予定だったピカソの名画「夢」に誤ってひじを食らわせ、直径約2.6cmの穴を開けてしまった。事件を目撃した友人がインターネットのブログに書き込みをして詳細が発覚した。ウィンは1997年にこの絵を4840万ドル(約58億円)で購入し、長年大切にしてきた。もうすぐお別れとなる絵の前に立ち、友人らに説明していたところ、誤って名画の真ん中に穴を開けてしまった。結局、契約はないことになり、名画は修理され、ウィンの元にとどまることになった。ウィンは穴を開けた瞬間、「何てことをしてしまったのか。でも(破ったのが)私でよかった」と話したという。 2012年7月、オランダのクンストハル美術館が所蔵していた「アルルカンの頭部」が、クロード・モネやルシアン・フロイドの絵画と共に盗難に遭う。翌年になって犯人は逮捕されたが、絵画は既に焼却されていた。
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パブロ・ピカソ
2012年7月、オランダのクンストハル美術館が所蔵していた「アルルカンの頭部」が、クロード・モネやルシアン・フロイドの絵画と共に盗難に遭う。翌年になって犯人は逮捕されたが、絵画は既に焼却されていた。 2015年5月11日には、ニューヨークのクリスティーズの競売で、ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」が1億7936万5000ドル(約215億円)で落札され、絵画取引の最高額を更新した。 2018年5月8日、クリスティーズで『花のバスケットを持つ裸の少女』が1億1500万ドル(約125億円)で落札された。 ピカソにはかけがえのないパートナーがいた。それは鳩である。1949年には鳩を描いたリトグラフ『鳩』を制作し、世界平和評議会のポスターに使用されるなど、世界で平和の象徴として使用された。ピカソにとって鳩は、重要な政治的シンボルであると同時に、個人的なシンボルでもあった。鳩は、ピカソに画家としての技術を教えた画家である父、ホセ・ルイス・イ・ブラスコのことを思い出させるものだった。父は、1880年代にピカソが幼少期を過ごしたマラガの家で鳩を描いていた。1955年に南フランスのカンヌに移り住んだピカソは、自宅に鳩舎(英語版)を建てた。1957年、ピカソは鳩に囲まれた開いた窓を描いた『スタジオ(鳩・ベラスケス)』を描いた。幼い頃から鳩が大好きだったピカソにとって、鳩は生涯の友であり、重要なモチーフでもあった。アトリエには妻さえ入れなかったが、鳩は特別に入れていた。『鳩』を描いた1949年にフランソワーズ・ジローとの間に生まれた娘には、スペイン語で鳩を意味する「パロマ」と名付けた。 パロマ・ピカソは著名なジュエリー・デザイナーとなり、1980年からはティファニー社のデザイナーとして活躍している。 孫のマリーナにはフロリアン・ピカソ(英語版)というベトナムから迎えた養子がいる。ピカソの曾孫にあたる。フロリアンは、ミュージシャンとして活動している。
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パブロ・ピカソ
パロマ・ピカソは著名なジュエリー・デザイナーとなり、1980年からはティファニー社のデザイナーとして活躍している。 孫のマリーナにはフロリアン・ピカソ(英語版)というベトナムから迎えた養子がいる。ピカソの曾孫にあたる。フロリアンは、ミュージシャンとして活動している。 ピカソの本名は、聖人や縁者の名前を並べた長いもので、出生証明書によると、「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso(パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ)」である。洗礼名は、「Pablo Diego Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Crispin Crispiano de la Santisima Trinidad Ruiz y Picasso (パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシ」である。
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■カテゴリ / ■テンプレート Smalltalk(スモールトーク)は、Simula のオブジェクト(およびクラス)、LISPの徹底した動的性、LOGO のタートル操作や描画機能に、アラン・ケイの「メッセージング」というアイデアを組み合わせて作られたクラスベースで手続き型の純粋オブジェクト指向プログラミング言語、および、それによって記述構築された統合化プログラミング環境の呼称。 Smalltalk で一語であり、「Small Talk」「SmallTalk」などは誤りである。 大規模な開発実績としてはCargill Lynx Projectがあり、国産製品の開発実績としてはMCFrameがある。 ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)で1970年代に約10年かけ3世代(Smalltalk-72、76、80)を経て整備された。当初は、ダイナブックである Alto() のオペレーティングシステム的位置付けだったが、Alto のゼロックス社製品としての販売の可能性が同社上層部決定により完全に排除されたこと、発案者であるアラン・ケイの研究開発グループ離脱などを受けてダイナブック色は失せ、Alto のハードウェア技術を基にした商用マシン上で動作するプロの開発者向け統合化プログラミング環境「Smalltalk-80」として1983年に発売されることになる。現在はシンコムより VisualWorks()という製品名で主要なオペレーティングシステム向けに販売されている。 ※この節はを元に執筆されている。 豊富で整備されたクラスライブラリーは、特にオブジェクト指向プログラミングの手本とされ、デザインパターンの宝庫と称されるまで洗練されたものになっている。また、後世の多くのオブジェクト指向プログラミング言語に直接間接的に多大な影響を与えた。
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Smalltalk
※この節はを元に執筆されている。 豊富で整備されたクラスライブラリーは、特にオブジェクト指向プログラミングの手本とされ、デザインパターンの宝庫と称されるまで洗練されたものになっている。また、後世の多くのオブジェクト指向プログラミング言語に直接間接的に多大な影響を与えた。 アラン・ケイが「オブジェクト指向」という言葉を創った当初は、Smalltalk システムが体現した「パーソナルコンピューティングに関わる全てを『オブジェクト』とそれらの間で交わされる『メッセージ送信』によって表現すること」を意味していた。しかしのちに、C++ の設計者として知られるビャーネ・ストロヴストルップが(自身、Smalltalk の影響は受けていないと主張する)C++ の設計を通じて整理し発表した「『継承』機構と『多態性』を付加した『抽象データ型』のスーパーセット」という考え方として広く認知されるようになった(カプセル化、継承、多態性)。現在は、両者の渾然一体化した曖昧な概念として語られることが多い。 Smalltalk は、オブジェクトへのメッセージ送信を率直に記述する表記の特殊性や、制御構造をもたずオブジェクトへのメッセージ送信の形で記述する徹底ぶりとも併せて、C言語や C++ などの流れを強く受け継ぐ言語、およびその開発手法に慣れた開発者にとって極めてとっつきにくい言語・環境であるといわれている。このことは、Smalltalk が単なるプログラミング言語ではなく、従来のオペレーティングシステムの概念をも包括する「環境」であることが一つの理由である。Smalltalk を単なる言語としてとらえると、他の言語と比較したとき、使用するオペレーティングシステムのグラフィカルユーザインターフェースに全く従わないなど、その独自性が大きな「欠点」として映る場合もある。 これは VisualWorks や Squeak() など、旧来の Smalltalk 環境、つまりダイナブックコンピュータ環境の要素を引き継ぐ統合開発環境を通じて Smalltalk 言語や処理系を学ぶなら、多かれ少なかれ新たなオペレーティングシステムに接するような心構えを持つべきことを意味する。
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これは VisualWorks や Squeak() など、旧来の Smalltalk 環境、つまりダイナブックコンピュータ環境の要素を引き継ぐ統合開発環境を通じて Smalltalk 言語や処理系を学ぶなら、多かれ少なかれ新たなオペレーティングシステムに接するような心構えを持つべきことを意味する。 Smalltalk 環境から見た Smalltalk 言語は、いわば bash などのシェルに近い。Smalltalk 環境内であればどこでもマウスで選択した文字列を Smalltalk のソースコードとして実行できるためシェルにコマンドを打ち込んだ時の様に簡単な問い合わせをすぐ実行できるようになっている。 例えばオブジェクト(クラスやメソッドも含む)の構造を調べたければ、そのオブジェクトに#browse()セレクターあるいは#inspect()セレクターを使ったメッセージ式を書き、そのメッセージ式をマウスで選択してdo it(WindowsであればCtrl+Dを押す)すれば良い。 また、設定値の指定に Smalltalk 言語のメッセージ式が使われる。現在設定されている値がメッセージ式として取得でき、値の設定をメッセージ式として指定する。この設定値を指定するメッセージ式は Smalltalk 環境の実行中に設定用のウィンドウから入力される。 Smalltalk 環境は、Smalltalk 環境の実行方法として現実のハードウェアに依存している機械語命令を使わず、現実のハードウェアから独立した中間言語命令(仮想機械に対する機械語命令)を仮想機械により実行する仮想機械方式を採用している。 Smalltalk の中間言語命令は、全てイメージファイルというファイルに書き込まれ Smalltalk の仮想機械はそのイメージファイルを読み込んでSmalltalk 環境を実行する。 この仮想機械方式による Smalltalk の実行方法は Smalltalk の言語仕様にも含まれている。 なお、Smalltalk が導入したこの仮想機械方式はEULERのpコードマシンからアラン・ケイが着想を得たものである。
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この仮想機械方式による Smalltalk の実行方法は Smalltalk の言語仕様にも含まれている。 なお、Smalltalk が導入したこの仮想機械方式はEULERのpコードマシンからアラン・ケイが着想を得たものである。 イメージファイルは、Smalltalk 環境の実行状態をそのまま保存したファイルである。イメージファイルは Smalltalk 環境実行中に生成された全てのオブジェクトを直列化して保存することでSmalltalk 環境の実行状態を保存している。この直列化されたオブジェクトには、Smalltalk の中間言語も含まれている。イメージファイルに含まれる中間言語命令は、Smalltalk 自身によって記述されたコンパイラーによってソースコードから翻訳された、バイト列のオブジェクトである。 Smalltalk の実行環境が全く存在しない初期の状況ではコンパイラーも仮想機械も Smalltalk で用意する事はできない。このため Smalltalk の初期段階ではALTOのアセンブリ言語によりコンパイラーや仮想機械が実装されていた。
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Smalltalk の実行環境が全く存在しない初期の状況ではコンパイラーも仮想機械も Smalltalk で用意する事はできない。このため Smalltalk の初期段階ではALTOのアセンブリ言語によりコンパイラーや仮想機械が実装されていた。 Smalltalk環境は翻訳方式を使う処理系としては珍しくプログラムの実行時書き換えを基本とする。例えば後述のClass Browserに入力したプログラムはソースコードを中間言語に変換したあとSmalltalk環境の一部として取り込まれ、環境を再起動したり読み込み操作をしなくても起動中のSmalltalk環境内で実行することができる。C++のような翻訳式の言語であれば原則、ソースコードを書き換えた場合は原則プログラムの再起動が必要となる。またPythonの様な言語ではソースコードを再読み込みする処理を予め書き換えたい処理の呼び出し元に組み込んでおかなければソースコードをいくら書き換えても動作に反映できない。Smalltalkではその再起動や再読み込み処理の組み込みが必要ない。このため環境をソースコードを書き換える都度環境全体を再起動しなくて済むのはもちろん、Windowを表示するプログラムを作った場合であれば、Window内のButtonの動作を変更する時もWindowを表示したままソースコードを書き換えて動作を変更できる。このためButtonを押すまでに複数の手順が必要なプログラムやWindowの表示に時間がかかるプログラムでもButtonを表示した状態から再起動せず何度でもやり直しができ効率的なソースコード変更が可能になっている。 GUIを使わないような特殊なものを除き、大半のSmalltalk環境では次のようなGUIツールが用意されている。 Smalltalkの開発ではこれらのツールを使って開発する事が半ば前提となっている。 Smalltalk環境内に存在する全てのクラスを(存在する場合は名前空間も)表示/編集できるツールで、Smalltalk開発において中核となるツールである。
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GUIを使わないような特殊なものを除き、大半のSmalltalk環境では次のようなGUIツールが用意されている。 Smalltalkの開発ではこれらのツールを使って開発する事が半ば前提となっている。 Smalltalk環境内に存在する全てのクラスを(存在する場合は名前空間も)表示/編集できるツールで、Smalltalk開発において中核となるツールである。 言うなれば出力しかできないコンソールといったツールで、プログラムの実行結果を簡易的に表示したいときに使われるツールである。Smalltalk環境内でTranscript変数に書き込まれたメッセージは、全てこのTranscriptに表示される。 言うなればコンソールの入力側とテキストエディターを組み合わせた様なツールである。一見すれば書いたコードを実行できるだけの簡易的なテキストエディターにしか見えないが、WorkspaceはWorkspace変数というWorkspace固有の変数を持っており、Workspace内で実行されたSmalltalkコードの実行結果を保持することができる。このため、長いコードを書くような用途では使わず、Smalltalk環境に対するパッケージの追加や、環境設定、ファイルの一時的な操作など一時的な操作を実行する場所として使われる。 オブジェクトの内部構造を再帰的に表示するツールである。また、多くの場合オブジェクトの編集が可能でありWorkspaceと組み合わせてオブジェクトを組み立てていくことが可能である。例えば画面部品をWindowを表すオブジェクトに組み込み、クラス変数に格納するといった具合である。Inspectorに限らずSmalltalk環境全体に共通することであるが、オブジェクト内の変数を表示するときは内部構造そのままではなくオブジェクトの文字列表現で表示する。このため内部がHash map等複雑な構造になっている場合でもDictionary (#key -> 'value' )といった読み易い表示となる。
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言語として Smalltalk が目指したもの。それは計算機を計算機の集合体として構築し、さらに計算機を構成する個々の計算機も計算機の集合体で構築するというように、再帰的な計算機を構築することであった。この再帰的な計算機を構築している無数の計算機は、個々の内部には干渉せずメッセージによる通信のみによって相互作用を発生させ目的の計算を完遂させる。 ここでいう計算機が Smalltalk ではオブジェクトという形で実装された。 この設計思想の誕生は、ロバート・S・バートン(英語版)とB5000の設計者らが会談した際の次の発言をアラン・ケイが聞き「計算機の全体を計算機とみなした場合、その計算機の構成要素を計算機に分解するのではなく関数やデータ構造に分解したいと誰が思うのか」と疑問を浮かべた事がきっかけとなっている。 ここで言及された再帰という概念は、オブジェクトの成立以外にも Smalltalk の至るところに影響を与えている。 Smalltalk の言語仕様は原則として非常に単純なため、環境もしくは処理系の相違による互換の有無は、クラスライブラリーの差異程度に由来するもの(ある意味、バージョンの違いもこれも含まれる)から、言語仕様自体の改変に由来のものまで空間的に連続で多岐にわたる。このため、単に Smalltalk として語弊のある場合、一般にその環境および処理系の呼称もしくは商標(必要ならそのバージョン)をして他と区別するために用いる慣習がある。 「"~"」のようにダブルクオーテーションでくくった文字列がコメントとして扱われる。 主な定数表現には次のようなものがある。 定数ではないが、よく用いられるオブジェクトの生成式には次のようなものがある。 言語機能の様に見えるが「/」や「@」などはただのセレクターであり、Smalltalk の使用者も同様の機能を作ることが出来る。 一時変数は宣言が必要で、「|」で挿むように記述する。変数への代入は「:=」。古い処理系では「_」が使用された(字形は「←」)。変数に型はなく全てハンドルになっている。
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定数ではないが、よく用いられるオブジェクトの生成式には次のようなものがある。 言語機能の様に見えるが「/」や「@」などはただのセレクターであり、Smalltalk の使用者も同様の機能を作ることが出来る。 一時変数は宣言が必要で、「|」で挿むように記述する。変数への代入は「:=」。古い処理系では「_」が使用された(字形は「←」)。変数に型はなく全てハンドルになっている。 他の言語で予約語にあたる擬変数は self、super、nil、true、false、thisContext の6つ。self と super はそのメソッドを呼び出したメッセージの受け手(レシーバー)を、nil と true と false はそれぞれ UndefinedObject、True、False に属するソルインスタンス(唯一の実体)を、thisContext は実行中のコンテキスト(スタックフレーム)を参照するのに使える。 self と super は同種のオブジェクトだが、メッセージ式でメッセージレシーバーに指定されたときのメソッド検索の起点が異なり、self ではオブジェクトが属するクラス、super ではその基底クラスである。 Smalltalk では「メッセージ式」と呼ばれる書式でコードを記述する。メッセージ式は「レシーバー」に「メッセージ」を送ることを表すためのもので、そのまま と記述する。メッセージはさらに、呼び出されるされるメソッド(方法)の名前を表す「メッセージセレクター」と0個以上の引数の組み合わせからなる。ただし Smalltalk の場合必ずしもセレクターとメソッド名は一致しない。また、メッセージの送り先はメソッドではなくブロックや外部の関数になっている場合もある。セレクターは引数の数だけコロンを自身に含まなければならず、メッセージとして記述する際にはコロンの直後に引数を挿入する。
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引数なしのメッセージを単項メッセージ、そのセレクターを単項セレクターと呼び、引数ありのメッセージをキーワードメッセージ、そのセレクターをキーワードセレクターと呼ぶ。メッセージ記述の際に引数の挿入により分断されたキーワードセレクター断片(例えば firstArg:secondArg: なら firstArg: と secondArg:)をキーワードと呼ぶが、あくまで便宜的な呼び名に過ぎず、そうした言語要素は存在しない。他の言語に見られる「キーワード引数」のように省略できるものではなく、また引数順を入れ替えられるものでもない。 セレクターは原則としてアルファベットと数字と0個以上(かつ、引数と同数)のコロンから成るが、例外として二項演算を模した記述が可能となるように記号のみから成る引数1つのセレクターを使ってメッセージ式を記述することもできる。これを二項メッセージ、そのセレクターを二項セレクターと呼ぶ。 この場合、上の「3 + 4」では、「3」がレシーバーで「+ 4」がメッセージである。 通常の処理系では、単項メッセージ、二項メッセージ、キーワードメッセージの順で評価される。二項メッセージ間で乗除の優先はない。 セミコロン「;」でメッセージ式を区切る事により、1個のレシーバーに対して複数のメッセージを送ることが出来る。これをカスケード式という。 カスケード式を用いて書いた上記の文は、カスケード式を用いない次の文と等価である。 複数の式を順次実行する場合は、式をピリオドで区切る。メソッドを中断し戻り値を指定するには復帰文「^ 戻り値式」を使う。言語機能として持つ制御構文は復帰文を除いて存在せず、復帰文以外の制御は制御構文と同等の機能を持ったメッセージ式で代用する。 ブロックは、他の言語で言えば無名関数やクロージャーに該当する機能である。ただし Smalltalk のブロックは関数ではなくオブジェクトである事に加え、無名関数というより制御構文としての性格が強くなっている。並列実行の基本単位にもなる。 ブロックは、引き数の数毎に複数定義された「value」を含むメッセージを送る事で、ブロック内に記述されたメッセージ式を実行し結果を返す。
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ブロックは、他の言語で言えば無名関数やクロージャーに該当する機能である。ただし Smalltalk のブロックは関数ではなくオブジェクトである事に加え、無名関数というより制御構文としての性格が強くなっている。並列実行の基本単位にもなる。 ブロックは、引き数の数毎に複数定義された「value」を含むメッセージを送る事で、ブロック内に記述されたメッセージ式を実行し結果を返す。 ブロック内の:value1 :value2は引き数であり、「|」以降は「value」を含むメッセージが送られた際実行するメッセージ式である。「value」を複数ならべたセレクターは4個程度まで( #value:value:value:value: )しか定義されておらず。5個以上引き数を取る場合は、配列を引き数とする#valueWithArguments:を使う必要がある。メソッドが値を返す際は、復帰文の記述が必要となるがブロックの場合は値を返すのに復帰文は必要ない。最後に実行されたメッセージ送信の結果あるいは、最後に書かれた値が戻り値となる。ブロックは制御の基本となるオブジェクトであるため、「value」を含むメソッド以外にも膨大なメソッドを持っている。ただし、後述する他の制御構文はブロックに対し#valueセレクターまたは、#value:セレクターを使ったメッセージしか送らない。 ブロックにはvalueと合わせてよく使われるセレクターとして「cull」がある。cullの振る舞いは、ほぼvalueと同じであるが、ブロックがメッセージに含まれる引き数を無視できるという違いがある。 cullはブロックによる分岐制御が主目的であるが、分岐の基準になったオブジェクトを参照する場合もあるようなセレクターで使われる。典型的な例は、オブジェクトがnilで無いときだけブロックを実行する#ifNotNil:である。 条件分岐は #ifTrue:ifFalse: セレクターを用いたメッセージ式として、条件式の結果の真偽値へのメッセージ送信の形で次のように記述する。 Smalltalk では nil がオブジェクトである。これを利用した nil 専用の条件式も存在する。
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条件分岐は #ifTrue:ifFalse: セレクターを用いたメッセージ式として、条件式の結果の真偽値へのメッセージ送信の形で次のように記述する。 Smalltalk では nil がオブジェクトである。これを利用した nil 専用の条件式も存在する。 条件分岐の制御において、他の言語でいうswitchに直接該当する文は存在しない。多態性を利用して分岐するか、次のように連想配列を利用して分岐するため不要である。 但し一部の処理系では、次のようなswitchに類似した書き方ができるものも存在する。 反復制御においてfor に直接該当する文は存在しない。代わりに回数を指定した反復がある。回数を指定した反復は、整数型へのメッセージ送信の形で次の様に記述する。 現在の反復回数を参照しながら反復する事も出来る。 for に該当する文は存在しないものの、while に該当する文は存在する。while に該当する反復は、ブロックに対するメッセージ送信の形で次の様に記述する。 #whileTrue: セレクターは、条件が真である間反復する事を意味している。逆に条件が偽である間反復する #whileFalse: というセレクターも存在する。 また do-while に該当する文も存在する。do-while に該当する反復は、ブロックに対するメッセージ送信の形で次の様に記述する。 Smalltalk では条件なしの反復も存在する。無条件反復は、ブロックに対するメッセージ送信の形で次の様に記述する。 Smalltalk では、反復方法が複数存在するが、実は全てメソッドの再帰呼び出しによって実装されているという事になっている。ただし、こちらも #ifTrue:ifFalse 同様実際にメソッドの再帰呼び出しとして実行されていない事が多い。 C言語の break や Perl の last に相当する反復脱出は thisContext に対し #return セレクターを使ったメッセージを送る。
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Smalltalk では、反復方法が複数存在するが、実は全てメソッドの再帰呼び出しによって実装されているという事になっている。ただし、こちらも #ifTrue:ifFalse 同様実際にメソッドの再帰呼び出しとして実行されていない事が多い。 C言語の break や Perl の last に相当する反復脱出は thisContext に対し #return セレクターを使ったメッセージを送る。 thisContext には、引き数を取り、引き数を脱出するブロックの戻り値として返す #return: セレクターや、戻り先のメソッドを指定する #return:to: セレクターなど多数の return 系セレクターに対応するメソッドが定義されており、他の言語には珍しい多様な反復の脱出方法を備えている。 Smalltalk にも例外処理機構が存在する。こちらも、その他の構文と同じくメッセージ式とブロックによって実現されている。例外処理は次の様に記述する。 なお#ensure:は後述のブロックによる資源の開放があるため多用されることはない。 例外の制御はメッセージ送信毎に連結リストとして積み上げられたコンテキスト情報の末端のコンテキスト(メソッドスタック)を表す thisContext オブジェクトを操作し、コンテキストを巻き戻す事で実現されている。複数の例外は、#on:do:on:do・・とon:do:を繰り返し(処理系が定義している限りの数で)記述して補足する事もできるが、次の様に例外の型を,で並べて補足する事も出来る。 なお、Smalltalkでは正常な結果を返せない異常な状態と通知両方を合わせたものが例外である。例外は正常な戻り値を返せない異常な場合と割り込みの様に非同期な通知に利用される。特徴的な点として異常な場合と通知の場合では動作が異なる。異常な場合は他の言語の例外同様、補足しなければその時点で停止しDebugウィンドウに移行するが、通知の場合は補足しなければ例外発生地点から処理を継続する。 Smalltalkでは、標準で並列処理が存在する。並列処理は次の様に記述する。
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Smalltalkでは、標準で並列処理が存在する。並列処理は次の様に記述する。 並列処理はスレッドに類似するプロセスという仕組みにより実装されている。プロセスはSmalltalk環境内で構築された並列処理の仕組みであり、グリーンスレッドで実装されている事が多い。このため、プロセスは論理的に非プリエンプティブなスレッド(グリーンスレッド)を前提しており、現在実行している処理を切り替える切り替え点を必要とする。論理的な前提は非プリエンプティブではあるものの、POSIX環境で動作させたGNU Smalltalkの様に実際はプリエンプティブなスレッドで実装されている場合もある。プロセスは他のプロセスから割り込みとして任意の例外を投げる機能があり(記述方法は環境によって異なる)、切り替え点はプリエンプティブなスレッドを使う場合でも例外の発生地点として機能する。 Smalltalk は、クラスの定義をメッセージ式による実行環境へのクラスオブジェクトの登録として実現する。他の言語と異なりクラスオブジェクトの登録は単なる定義ではなく実行環境に対する操作である。1度クラスオブジェクトを登録してイメージファイルを保存すると、明示的にクラスオブジェクトを削除しないかぎりはクラスオブジェクトがイメージファイルに残り続ける。Smalltalk 環境に対するクラスオブジェクトの登録は次の様に記述する。 poolDictionaries と category を除いては、C++ から派生した言語のクラス定義と概ね同じである。インスタンス変数はインスタンスメソッドのみから参照でき、クラス変数はクラスメソッドとインスタンスメソッドから参照できる。他の言語と異なりインスタンス変数をクラスメソッドから参照することはできない。 Smalltalk におけるクラスの作成は、特殊構文ではなく単なるメッセージ送信である。クラスを登録する際のメッセージは、上記の例のように次のセレクターを使用することが多い。 しかし、クラスの登録はあくまでメッセージであり自由に作れるため、実行環境には大抵その他のメソッドが用意されている。例えば、近代的な Smalltalk 環境の一つ Pharo では、次のセレクターに対応したメソッドが用意されている。
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しかし、クラスの登録はあくまでメッセージであり自由に作れるため、実行環境には大抵その他のメソッドが用意されている。例えば、近代的な Smalltalk 環境の一つ Pharo では、次のセレクターに対応したメソッドが用意されている。 クラスオブジェクトには、クラス変数とは別途、クラスオブジェクトが Class クラスから派生したインスタンスとして状態を持つためのインスタンス変数がある。このクラスオブジェクトのインスタンス変数はクラスオブジェクト内だけで共有され、インスタンスオブジェクトからは直接使用できない。 Smalltalk 環境に対するクラスオブジェクトのインスタンス変数の登録は次の様に記述する。 クラスオブジェクトがもつインスタンス変数には変数を登録した基底クラスと派生クラスで別々の変数領域が確保されるという特筆すべき点がある。これを使用して下記の様にクラスに所属するオブジェクトだけを保持する変数としてつかったりする事ができる。 メソッド(処理方法)の登録は、コード文字列を引数として与えたクラスへのメッセージ送信でも行えるが、通常は環境に組み込まれたクラスブラウザ(システムブラウザ)と呼ばれるGUIツールを用いる。 メソッドは、「メッセージパターン」と呼ばれるメッセージ式のメッセージ部分を模した書式に続けて0個以上のメッセージ式を連ねることで記述する。例えば、前出の、レシーバーか引数を比べてより小さな方を返す「min:」というメソッドの登録は次のようなものになる。 一行目の「min: anOtherObject」がメッセージパターンで、メソッド名(セレクター)と仮引数となる擬変数の宣言を兼ねる。念のためここでメソッド名は「min:」、仮引数となる擬変数名は「anOtherObject」である。仮引数は仮引数自体の書き換えは不能なハンドル渡しとなっている。メッセージパターンのあとに処理を続けて書くこともできるが、通常は行を改めて(さらに、ここでは省いたが慣習としてメソッドの説明をするコメントを書き、それに続けて)処理を記述する。
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なお、メッセージパターンのみで具体的な処理を記述せずにメソッドを登録した場合を含め、復帰文による明示的な戻り値の指定が無い場合、メソッドは戻り値として常に self を返す。したがって Smalltalk では値を返さないメソッドを書くことはできない。 Smalltalkは、多くの動的型付け言語やDelphiの様にクラスがオブジェクトである。このためSmalltalkではインスタンスオブジェクトと同様にクラスオブジェクトを変数に束縛してメッセージを送ることができる。 クラスオブジェクトは、オブジェクトにclassメッセージを送ることでも取得できる。 Smalltalk のブロックは一種の制御構文であるという性質上、復帰文が他の言語と比べ極めて異質な振る舞いをする。 上記のメソッドを登録したオブジェクトに#example セレクターを使ったメッセージを送ると結果としては何が返ってくるか。Smalltalk 以外の言語では 0 が返ってくるのが一般的であるが Smalltalk では 1 が返ってくる。Smalltalk はブロック内の復帰文からでもメソッド自体を抜けることができるようになっている。この例では、「block value.」を評価し、block 中の「^ 1.」で制御が戻ると example 自体も中断して結果を返す。そして example は戻り値として block が戻した 1 を戻すようになっている。 上記の様なメソッドをまたいでブロックを評価する場合はどうなるだろうか、この場合も Smalltalk は example の戻り値として block の戻り値である1を返す。Smalltalk はブロック内で復帰文が実行された際、ブロックの生成地点の呼び出し元までコンテキストを巻き戻すようになっている。この特性により Smalltalk では、#ifTrue:ifFalse: セレクターを使った分岐でメソッドを中断したり #repeat セレクター等を使った反復処理を復帰文だけで中断する事ができるようになっている。 ただし、上記の様にブロックを生成したコンテキストと、ブロックを評価する際のコンテキストが枝分かれする様な場合は復帰文を実行する事はできない。この場合は BlockContext が例外を出力し処理が停止してしまう。
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ただし、上記の様にブロックを生成したコンテキストと、ブロックを評価する際のコンテキストが枝分かれする様な場合は復帰文を実行する事はできない。この場合は BlockContext が例外を出力し処理が停止してしまう。 メソッドに対する注釈(Pragma)は、メッセージ式だけではどうしても実現が難しい機械語でしか記述できない演算子の実装や主記憶領域の確保、仮想機械外部との入出力等の実現や、特定の目的のメソッドを自動で列挙するといった目的で使用される特殊構文である。いくつかの注釈はSmalltalk環境に組み込まれているが、利用者やライブラリーの提供者が注釈を定義する事も出来る。 メソッドに対する注釈はメソッドの翻訳時に評価されるため、メソッドにしか記述でない。Behaviorのevaluate:による評価などメッセージ式をメソッドの外部で評価する場合は、評価対象の式に注釈を含める事はできない。具体的にはSmalltalk環境のWorkspaceに注釈を記述して評価するとエラーとなる。 メソッドに対する注釈は次の様に記述する。 <と>で囲まれた範囲は、メッセージ式のメッセージ部分と同じになる。但し引き数を取らない注釈の記述はできない。 次にメソッドに対する注釈の具体例を挙げる。注釈はSmalltalk環境によって異なり、どの環境でも次の注釈が使えるわけでない事に注意すること。 Smaltallkでは、Smalltalk環境全体で参照できる大域変数を作成する事が出来る。大域変数は同じく大域変数であるSmalltalk変数に格納されたSmalltalkImageのインスタンスオブジェクトにメッセージを送って作成する。また、大域変数の削除もSmalltalkImageのインスタンスオブジェクトに対するメッセージ送信となっている。
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Smaltallkでは、Smalltalk環境全体で参照できる大域変数を作成する事が出来る。大域変数は同じく大域変数であるSmalltalk変数に格納されたSmalltalkImageのインスタンスオブジェクトにメッセージを送って作成する。また、大域変数の削除もSmalltalkImageのインスタンスオブジェクトに対するメッセージ送信となっている。 SmalltalkImageは一種の連想配列であり、Smalltalkの大域変数は、Smalltalk変数を介す事で連想配列として操作する事が出来るようになっている。 なお、Smalltalkのクラス名と大域変数は同じものであり、クラス名にオブジェクトを代入すれば、そのクラスを破壊してしまうことが出来る。また、Smalltalkオブジェクトが格納されたSmalltlak変数もオブジェクトを代入し破壊する事が出来る。このように大域変数を代入により破壊してしまった場合は、最悪Smalltalk環境が起動しなくなる事態に陥り非常に危険である。このためSmalltalkではよほどの理由がなければ大域変数を使うべきではない。 プール辞書は、クラスの変数として連想配列または、他のクラスオブジェクトのクラス変数を取り込むという機能である。取り込む連想配列の要素やクラスオブジェクトのクラス変数はプール変数と呼ばれる。連想配列やクラスオブジェクトは大域変数でなくてはならない。 プール辞書には複数の連想配列やクラスオブジェクトを指定できるが、プール変数が重複した場合は、先に指定した連想配列やクラスオブジェクトのプール変数が使われる。 Pharo, GNU Smalltalkといった近代の環境では、定数以外に式の結果を指定可能な非定数要素の配列定数を使用できる。配列の要素は空白ではなく.で区切る。 継続渡し形式を支援する機能として継続があり、PharoやGNU Smalltalkで使用できる。もっぱら反復の中断や、メソッド内の処理を飛ばすために使われる。継続の使用は次の様に記述する。 遅延評価を支援する機能として生成器があり、PharoやGNU Smalltalkで使用できる。生成器はCoroutineにも利用できる。生成器の使用は次の様に記述する。
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継続渡し形式を支援する機能として継続があり、PharoやGNU Smalltalkで使用できる。もっぱら反復の中断や、メソッド内の処理を飛ばすために使われる。継続の使用は次の様に記述する。 遅延評価を支援する機能として生成器があり、PharoやGNU Smalltalkで使用できる。生成器はCoroutineにも利用できる。生成器の使用は次の様に記述する。 生成器を使って処理を作ることは多くないが、配列などを使用する際、間接的に使用していることが多い。 Smalltalk のプログラムは基本的に中間言語としてイメージファイルの中に格納され、ソースコードの編集は Smalltalk のGUI環境から行われる。このため基本的にファイルという形で Smalltalk のソースコードやプログラムを目にすることはない。しかし、ソースコードの交換目的などでどうしても Smalltalk 環境外でソースコードを管理する必要がある場合に備えファイル用の構文が存在する。ファイル用の構文は次のようになる。 本来他の言語の様なブロックが存在しないため、ブロックとして「!」が使用される。クラスの登録は「!」の一組で囲まれる。メソッドはプロトコル毎に「 クラス名 methodsFor: 'プロトコル' ! 〜 !!」というブロックで囲まれる。一つのプロトコルには複数のメソッドを定義でき、メソッド同士は一個の「!」によって区切られる。 ちなみに、クラス登録は単なるメッセージ送信であり特別な文ではないため、登録用ブロック外にも次のように単純なメッセージ送信の記述に使用する事が出来る。 ファイル用構文で記述されたメソッドの登録は、可読性や記述性の面からメッセージ式からかけ離れた変則的な構文が使用される。しかし、この変則的な構文を用いなければメソッドを登録できないわけではなく、次のように通常のメッセージ式でメソッドを登録する事も出来る。 上記では、クラスオブジェクトExampleのプロトコルInstance Methods Cに対し、メソッドselectorCを登録している。 Smalltalk において、継承とは特殊な委譲に過ぎない。
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上記では、クラスオブジェクトExampleのプロトコルInstance Methods Cに対し、メソッドselectorCを登録している。 Smalltalk において、継承とは特殊な委譲に過ぎない。 このため、例えば上記のクラスオブジェクトの生成では、Derived クラスオブジェクトの基底クラスオブジェクトとして Object を指定しているが、処理系によっては下記の様に #superclass: メッセージを送る事で、基底クラスに別のクラスオブジェクトを指定する事が出来る。 処理系により不可能な事もあるがクラスオブジェクトだけでなく、インスタンスオブジェクトから派生することも出来る。 なお通常、派生元の基本となるProtoObjectやObjectはnilから派生しており継承関係は再帰的に循環している。 Smalltalk において、メッセージ、セレクター、メソッドはそれぞれ別物である。C++ 系統の言語の様にオブジェクトに対しメッセージを送るという事は単なる比喩ではない。 あるオブジェクトに対し #hello というセレクターを使ったメッセージを送る事を考える。この時、Smalltalk においては hello というメソッドが必ず呼ばれる保証はない。例えば「hello」メッセージを受け取るオブジェクトが hello メソッドを実装していなければレシーバーに指定されたオブジェクトの doesNotUnderstand: メソッドが呼ばれる事になる。 なお、多くの Smalltalk の処理系では doesNotUnderstand: の引き数で得られたメッセージを返すだけのクラスが用意されている。例えば Smalltalk 環境のひとつである Pharo ではメッセージ作成用クラス MessageCatcher が用意されており次のようにメッセージを拾い、他のオブジェクトに渡すことが出来る。 また、セレクターとメソッドが独立していることを利用して一つのメソッドを複数のセレクターに結びつける事もできる。 メッセージにはセレクターと引き数が含まれている。このため受け取ったセレクターと引き数を編集する事も出来る。
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また、セレクターとメソッドが独立していることを利用して一つのメソッドを複数のセレクターに結びつける事もできる。 メッセージにはセレクターと引き数が含まれている。このため受け取ったセレクターと引き数を編集する事も出来る。 プログラミング言語一般の概念として型検査をソースコードの翻訳時に実行するか、実行時に実行するかにより静的型付けと動的型付けという区分が存在するが、Smalltalkは、そのどちらでもなく型なし言語(英: untyped)に区分される。Smalltalk の場合、変数に対する操作は全てメッセージ送信であり、変数の種類(型)毎にできる操作は決まっていない。また、オブジェクトに対しメッセージを送った場合、そのオブジェクトがメッセージに対応するメソッドを持っていなくとも実行環境がエラーを発生させる事はない。メッセージに対応するメソッドが存在しない場合、例外を出すか無視するかは、クラスに実装されたメソッドの内容次第である。したがって Smalltalk には型付けの概念はない。例えば、Pharo の MessageCatcher は全てのメッセージを拾うため、どんなメッセージを与えられても例外が発生することはない。また、GNU Smalltalkではnilから派生したクラスのオブジェクトに存在しないメソッドに対するメッセージを送ると何も反応しない。ただし高速化のため後述の特殊セレクターを使用した場合実行時に型検査する処理系が多い。ちなみに Smalltalk は基本的に中間言語に翻訳され、翻訳時にエラーを発生させるため構文検査は静的である。 制御構文の節で述べた通り、Smalltalkの殆どの制御構文はメッセージ式である。Smalltalkに明るくないプログラマーからは言い方や見方を変えただけと捉えられがちである。Smalltalkの制御構文は実際にメッセージであるがゆえに究極には制御構文の構文要素を次のように変数に分解してしまうことが出来る。 変数に分解した分岐制御の例: これらの変数に分解された構文要素は、どのクラスのオブジェクトで無いといけないという制限はない。送られたメッセージを処理することさえ出来ればあらゆるオブジェクトに置き換える事が出来る。
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変数に分解した分岐制御の例: これらの変数に分解された構文要素は、どのクラスのオブジェクトで無いといけないという制限はない。送られたメッセージを処理することさえ出来ればあらゆるオブジェクトに置き換える事が出来る。 Smalltalkでは高速化のためいくつかのメッセージを特別扱いする。これを特殊セレクター(英: special selector)という。 典型的な例は#ifTrue:ifFalse:である。下記のコードはでは「ifTrue: [5] ifFalse: [6]」を評価した時にメッセージが送られる訳ではなく、バイトコードレベルでインライン展開され飛越し命令の表現に置き換えられる。このため実際にifTrue:ifFalse: という名のメソッドが呼ばれることもない。また、trueやfalse以外に上記のようなBoolean用のメッセージを送ると処理系によってはMustBeBoolean例外を発生させる。このように頻繁に使用する分岐や反復を特別扱いすることで性能低下を防いでいる。 セレクターと名がつくが特殊セレクターは、特別扱いする条件が引数の状態を含んでおり、たとえ同じセレクターを使ったメッセージでも引数が条件に一致しなければ特別扱いしない。例えば下記のように引数に直接ブロックを指定していない場合では多くの処理系(VisualWorks, GNU Smalltalk等)は特別扱いせずメッセージ送信を実行する。 特殊セレクターはあくまで高速化の手段であるため種類は処理系によって異る。どの処理系が何を特殊セレクターとして扱うかは処理系ごとに提供される説明資料に記述されている。 またPharoのように設定から特殊セレクターを通常のメッセージ送信に切り替えられる処理系も存在する。 クラスオブジェクトもオブジェクトであるため、所属するクラスが存在している。クラスオブジェクトが所属するクラスはMetaclassというクラスのインスタンスオブジェクトである。 Metaclassも当然ながらクラスに所属しており、再帰的にMetaclassに属するようになっている。 クラスオブジェクトが所属するMetaclassのインスタンスオブジェクトは特殊なオブジェクトであり、クラスの継承階層と同様に継承階層を持っている。
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Metaclassも当然ながらクラスに所属しており、再帰的にMetaclassに属するようになっている。 クラスオブジェクトが所属するMetaclassのインスタンスオブジェクトは特殊なオブジェクトであり、クラスの継承階層と同様に継承階層を持っている。 クラスオブジェクトはMetaclassから生成された単なるオブジェクトで有ることから、Smalltalkが標準で提供するクラスオブジェクトとは異なる独自の構造をもったクラスオブジェクトを作ることができる。 例えば以下のようにメソッドの代わりにブロックを持つ無名クラスを作成することも出来る。 文法の節で述べた通りSmallatalkでは定数も全てオブジェクトである。どんな定数であれ#classや#inspectといった基本的なセレクターを使ったメッセージを受け取ることが出来るため、基本的な操作であれば定数と他のオブジェクトを区別する必要はない。 Smalltalk は、任意の広さで確保した領域を持つ可変長オブジェクトを作ることが出来る。Smalltalkには配列を表わすためArray等が存在するが、これらのクラスオブジェクトは可変長オブジェクトを使って構築されている。可変長オブジェクトの領域は、オブジェクトの生成したときの一度だけしか広さを指定できない。また、クラスオブジェクトの登録時にvariable〜で始まるセレクターを使っている必要がある。 Smalltalk は、ハンドルとごみ回収機能(ガーベッジコレクター)の全面的な導入によりハンドルテーブルの書き換えを利用した特殊な制御を提供している。 ハンドルが参照している記憶領域上のテーブルを書き換えることによりSmalltalkは、あるオブジェクトを参照している全ハンドルの参照先を一気に変更することができる。ハンドルテーブルの書き換えには#become:を用いる。ただし、数字や文字列といった定数オブジェクトは置き換えることはできず、定数を置き換える際は定数を保持しているオブジェクトを置き換える必要がある。
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ハンドルが参照している記憶領域上のテーブルを書き換えることによりSmalltalkは、あるオブジェクトを参照している全ハンドルの参照先を一気に変更することができる。ハンドルテーブルの書き換えには#become:を用いる。ただし、数字や文字列といった定数オブジェクトは置き換えることはできず、定数を置き換える際は定数を保持しているオブジェクトを置き換える必要がある。 #become:を使っている良い例はクラスオブジェクトの再登録である。Smalltalkではクラスオブジェクトはインスタンスオブジェクトが生きている間でも再登録可能でなければならず、インスタンスオブジェクトを生きたままクラスオブジェクトを再登録するために使われている。 弱参照は参照カウント方式を使う言語でよくライブラリーとして実装されるがSmalltalkではハンドルの制御を用いた言語機能として用意されており相互参照しているが不要になっているオブジェクトを迅速に解放するために使われている。弱参照には#makeWeakを用い、#makeWeakを受け取ったオブジェクトは弱参照となる。 カゲロウ(Ephemeron)は、どこからも参照されなくなった連想配列の要素を解放するために導入された記憶領域の管理機構でありSmalltalkで初めて実装された。例えば連想配列の添字として#keyがあったとして、#keyが連想配列以外の変数で参照されていなければ連想配列の要素は必要ない。このように不要となった要素を解放するために用いる。オブジェクトをカゲロウ状態にするには#makeEphemeronを用いる。 ここでは連想配列の要素としてよく使われるAssociationを例としているが、カゲロウが消滅する基準は最初のインスタンス変数でクラスに依存しないためどんなクラスでもカゲロウにすることができる。 変数を表す識別子については、1文字目に大文字と小文字のどちらを使うか、大域変数か否かを基準にして決めることが慣習になっている。 環境自体も大文字小文字の使い分けを認識しておりメソッドを翻訳する際小文字の変数は局所変数かメンバーとして定義していないと、警告が発生したり翻訳失敗になる。 クラス名が大文字から始まるのは、クラス名が大域変数だからである。 よく使われるクラス以外の大域変数:
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変数を表す識別子については、1文字目に大文字と小文字のどちらを使うか、大域変数か否かを基準にして決めることが慣習になっている。 環境自体も大文字小文字の使い分けを認識しておりメソッドを翻訳する際小文字の変数は局所変数かメンバーとして定義していないと、警告が発生したり翻訳失敗になる。 クラス名が大文字から始まるのは、クラス名が大域変数だからである。 よく使われるクラス以外の大域変数: セレクターを表す識別子については、基本的に1文字目に小文字を使うが、メソッドが存在するセレクターを避けたい場合は大文字を使う事が慣習になっている。 GNU SmalltakやVisualWorksで用意されている名前空間は、大文字のセレクターを使う典型的な例である。 なお、名前空間が使える環境の多くは、翻訳時に名前空間の名前解決できる「.」区切りの拡張構文が用意されており、実際にはこちらの構文が使われることが多いため、セレクターを使った名前空間の指定を見る機会は少ない。 オブジェクトの生成には #new セレクターを使ったメッセージを使う。他の言語と違い、new は演算子ではない。 Smalltalk ではクラスオブジェクトのメソッドもインスタンスオブジェクトのメソッドと同様に派生クラスによる再定義が可能である。このため new メソッドを再定義し初期化処理を記載する事が出来る。new メソッドを再定義してしまうとオブジェクトの生成自体が不可能になるように思われるが、本来 new メソッドは #basicNew セレクターを使ったメッセージをBehavior に送ってオブジェクトを生成しているためオブジェクトの生成手段がなくなるわけではない。このため new メソッドを再定義しても 「basicNew」メッセージをBehaviorに送ることでインスタンスオブジェクト生成することが出来る。
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ただし、実際の初期化に new メソッドが使われる事は多くない。実際には慣習としてクラスの作者が新たに登録したインスタンス・クリエイションと呼ばれる new とは別の初期化用メソッドが使用される。インスタンス・クリエイションは一般的なクラスオブジェクトのメソッドであり、そのメソッドの内部で 「new」メッセージやその他のインスタンス・クリエイションを使って初期化済みのオブジェクトを生成する役割を持っているだけで基本的にその他のメソッドと変わらない。一般的にinstance creationというプロトコルに登録される。 Smalltalk では1個のセレクターに対し1個のオブジェクトから複数のメソッドを関連付けられないため 「new」メッセージの送信によりできる初期化は1個のオブジェクトにつき一通りの初期化だけである。このため複数のインスタンス・クリエイションを用意することで用途に応じた複数の初期化方法を提供しているのである。インスタンス・クリエイションは一般的なメソッドのひとつでしかない。このためインスタンス・クリエイション持つクラスオブジェクトはアブストラクト・ファクトリーとして機能する。 具体的には次のように使われる。 また、Smalltalk はクラスメソッドを上書きできるため、インスタンス・クリエイションを次の様に実装する事で基本的な初期化処理を派生元のクラスに任せることができる。 上記は、2次元座標用のクラスオブジェクトのインスタンスオブジェクトを初期化する派生元のクラスオブジェクトに実装されたインスタンス・クリエイションである。このクラスオブジェクトを継承した2次元座標用のクラスオブジェクトでは#x:y:セレクターを使ったメッセージに対応するメソッドを実装する必要はない。インスタンス・クリエイションを利用したパターンは Smalltalk では広く利用され、いたる所で見ることが出来る。 Smalltalk では、単一の値を出し入れするメッセージの事を特にアクセッサ―と呼ぶ。引き数の有無により値の入出の方向を区別する。 例: Smalltalk においてアクセッサーはその他のメソッドと役割に違いはなく特別な意味を持たないが、プロトコルとして明示的に accessing()として登録される点が特徴的である。
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Smalltalk では、単一の値を出し入れするメッセージの事を特にアクセッサ―と呼ぶ。引き数の有無により値の入出の方向を区別する。 例: Smalltalk においてアクセッサーはその他のメソッドと役割に違いはなく特別な意味を持たないが、プロトコルとして明示的に accessing()として登録される点が特徴的である。 Smalltalk においてアクセッサーはインスタンス変数の出し入れや、クラス変数の単純な出し入れに使用される事は多くない。Smalltalk においてアクセッサーは次の用途でよく使われる。 定数は、単に定数を返すアクセッサ―で定義する。C言語の影響を受けた言語のように定数を#defineや変数で定義するという慣習はない。 Smalltalk では、非常に利用頻度の低いインスタンス変数やクラス変数を管理する方法として附帯情報(英: property)というパターンが使用される。附帯情報はインスタンス変数やクラス変数などの内部変数の代わりに連想配列によりオブジェクトを保持する仕組みである。 附帯情報の使用例: 附帯情報が有効な身近な例としてはXMLやHTMLのタグ属性が挙げられる。例えばHTMLの id 属性や onClick といったイベント属性は、必ずしも全てのタグで使用されることはない。特にイベント属性については一つのHTML上に一切記述されない事もよくある。この様な使用頻度の低い属性のためにオブジェクトに一個一個変数を定義するのは記憶領域の無駄である。ましてや onClick、onMouseDown、onMouseUp等大量に属性があればこの無駄は馬鹿にならない。この様な無駄を省くために Smalltalk では附帯情報というパターンがよく使用される。 全てのインスタンス変数やクラス変数は原理的に全て附帯情報によって表現することが出来る。この点に着目しオブジェクトに所属する変数を全て附帯情報に置き換えた言語が後の Self であり、JavaScript である。これらの言語でオブジェクトに所属する変数をプロパティーと表現するのは、この Smalltalk における附帯情報(プロパティー)に由来するもので、附帯情報の仕組みの有無に関わらずインスタンス変数やクラス変数をプロパティーと表現するのは間違いである。
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附帯情報は Self や JavaScript においては当たり前の様に使用されている。しかし、Smalltalk においては附帯情報を多用する事はデバックを著しく困難にするため不適切な作法とされており、HTMLの属性の様に本当に使用頻度の低い変数だけを附帯情報で扱い、常用する変数に附帯情報を乱用すべきではないと言われている。例えば変数は統合開発環境の機能で使用箇所を把握できるが附帯情報では使用箇所をアクセッサーに限定しない限り追跡不可能になる。また、附帯情報では変数の変化に反応するブレークポイントを仕掛けることも難しい。 Smalltalk 以外の言語において、配列の範囲外にある配列要素の操作や、値の代入されていない連想配列の操作は、次の例のように操作の前に一旦判定を行なって例外処理するか、例外機構を利用する方法が一般的である。 一方 Smalltalk では、配列の範囲外操作の様に単純で頻発するような処理では、次のように予めメッセージに例外処理をブロックとして渡してしまう方法が一般的である。 予め例外処理をメッセージに含めることで、単純な例外処理をより簡潔なものとしている。 この方法は、Smalltalk 独自の復帰文と組み合わせる事でより柔軟な制御をする事ができる。 次の処理は、連想配列に値が見つかればそれを表示し、値が無ければ何もしないという処理であるが、処理の中断の判定と連想配列からの値の取り出しを一度のメッセージ送信だけで実現している。 Smalltalkでは、ブロック内だけ資源を確保しブロックの終了後に資源を開放するというブロックによる資源の開放が行われる。ブロックによる資源の開放では、資源の確保と同時に資源の開放を強制できるため開放忘れや例外による開放漏れを防ぐことができる。C#のusingに類似するが、usingを書き忘れたままnewできない分さらに強力である。 Smalltalk は反復処理のための基本構文を備えているが、ある値の生成器(入出力等)やある集合要素から要素を取得するときに基本的な反復構文を使う事は稀である。Smalltalk では、値を列挙するために値の生成器や集合要素に送るべきメッセージが概ね決まっており、値を取り出す際は極力、列挙メッセージ(英: enumerating)を使用する事が作法となっている。
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Smalltalk は反復処理のための基本構文を備えているが、ある値の生成器(入出力等)やある集合要素から要素を取得するときに基本的な反復構文を使う事は稀である。Smalltalk では、値を列挙するために値の生成器や集合要素に送るべきメッセージが概ね決まっており、値を取り出す際は極力、列挙メッセージ(英: enumerating)を使用する事が作法となっている。 次に列挙メッセージの送信例を示す。 配列に対する列挙メッセージの例: 実行結果: 数値に対する列挙メッセージの例: 実行結果: 列挙メッセージで使えるセレクターは #do: の様に全ての要素にブロックを適用するだけの単純なセレクターだけでなく、現在の集合要素の要素を操作した上で新しい集合要素を作成する #collect: や、集合要素から条件に一致する要素だけを抜き出し、新しい集合要素を作り出す #select:、集合要素の中から特定の要素を見つけ出す #detect:ifNone: など様々なセレクターがある。処理系によっては #groupBy:having: などSQLに類似したセレクターに対応するメソッドを多数用意しているものもある。Smalltalk では集合要素や値の生成器自体にこれらのメッセージを受け取れるよう実装する事で、集合要素のデータ構造や、生成器の入力元などの構造に依存せず最適な反復処理を実現できるようになっている。これらの列挙機能は近年の言語において foreach やyeild、LINQ等言語機能として賄われつつあるが Smalltalk においては、単にライブラリーの慣習として実現されている所が特徴的である。 Smalltalkでは一般的にオブジェクトに#as〜というセレクターを使ったメッセージが送られた場合、オブジェクトを別のクラスのオブジェクトに変換する。例えば次の様な変換がある。 Stringの変換による具体例(変換結果は処理系依存):
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Smalltalkでは一般的にオブジェクトに#as〜というセレクターを使ったメッセージが送られた場合、オブジェクトを別のクラスのオブジェクトに変換する。例えば次の様な変換がある。 Stringの変換による具体例(変換結果は処理系依存): オブジェクトを別のオブジェクトに変換するメソッドやメンバー関数が用意されている事は、Smalltalkに限らず他の言語でも一般的であり珍しい事ではない。Smalltalkの慣習として特徴的なところは、既存のクラスにこのオブジェクトの変換をユーザーやライブラリーの作者が自由に組み込んでいる所である。例えばSmalltalkの処理系であるPharoでは、初期状態で基本的なクラスであるStringに54個ものas〜で始まるメソッドが定義されている。この大量の変換メソッドは、メソッド追加した際すぐに影響を判断できるためメソッド追加に対し寛容的なSmalltalk独特の空気を象徴している。しかし、既存のクラスにメソッドを追加すればライブラリーを併合した際、意図しない衝突を生むため多用は避けるべきであるとの意見も存在する。 オブジェクトの変換はただオブジェクトの内部表現の変換だけでなく情報の加工にも使われる。 オブジェクト変換による具体例: イベントハンドラーを定義する方法として、Smalltalkでは次のようにセレクターと、レシーバーとなるオブジェクトを指定する方法が一般的である。 同様にイベントハンドラーを指定する別の方法としては、ブロックを指定する方法が考えられる。しかし、イベントハンドラーにブロックを使う方法は、セレクターとオブジェクトを指定する方法のようにinspectだけでブロックを抱えたオブジェクトがどんな処理を実行するか判断できないうえ、ほとんどの環境はブロックの直列化に対応しておらず直列化もできなくなってしまうため、Smalltalkの文化においては避けるべきとされる。 このセレクターとオブジェクトを指定したイベント処理の方法は、Objective-Cの文化にも引き継がれておりCocoa等のライブラリーにて頻繁に目にすることができる。
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Smalltalk
このセレクターとオブジェクトを指定したイベント処理の方法は、Objective-Cの文化にも引き継がれておりCocoa等のライブラリーにて頻繁に目にすることができる。 Model View Controller(MVC)は Smalltalk から生まれた、制御(コントローラー)と情報(モデル)、そして情報の表現方法(ビュー)の3つを分離しクラスオブジェクトの再利用性を高め、実行時に情報と表現の組み合わせを変更できるようにした設計方針である。Smalltalk の世界でMVCは更に表現を担当するクラスに既定の制御を取り込む仕組みを持たせることで PluggableMVC へと発展した。 Smalltalk はクラスライブラリーの基礎部分からMVCやMVCから派生した設計方式で使用されるモデルの構築を支援する仕組みを持っており、Smalltalk 以外の言語と比べモデルの構築が格段に楽になっている。次にモデルの動作を確認する最低限のコードを示す。 モデルの登録: モデルの監視側登録 動作の確認: モデルの支援機構は全て Object クラスオブジェクトに実装されており、全てのオブジェクトはモデルとして動作する。つまりクラスオブジェクトもモデルとして使用できるようになっている。 PluggableMVC は Self へと場を移し、表現と制御そして、表現対象となる情報を1個のオブジェクトで兼任する Morphic(英語版) として再設計された。Self によって発展した Morphic は Smalltalk に移植されSqueak系統の Smalltalk 環境で基本GUIシステムを構築している。Self の Morphic はウェブブラウザ―のDOMや JavaScript に大きな影響を与えている。
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星新一
星 新一(ほし しんいち、本名:星 親一、1926年〈大正15年〉9月6日 - 1997年〈平成9年〉12月30日)は、日本の小説家、SF作家。 父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一。森鷗外は母方の大伯父にあたる。本名の親一は父・一のモットー「親切第一」の略である(弟の名前の協一は「協力第一」の略)。父の死後、短期間星製薬の社長を務めたことがあり、日本の有名作家としては辻井喬こと堤清二と並んで稀有な東証一部上場企業(当時)の社長経験者である。 膨大な作品量でありながら、どの作品も質の高さを兼ね備えていたところから「ショートショート(掌編小説)の神様」と呼ばれているが、『明治・父・アメリカ』、父親や父の恩人花井卓蔵らを書いた伝記小説『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクション作品もある。 また、小松左京・筒井康隆と合わせて「SF御三家」と呼ばれる。 1926年(大正15年)、東京府東京市本郷区曙町(現・東京都文京区本駒込)に生まれる。母方の祖父小金井良精の家がある本郷で1945年(昭和20年)まで育つ。母方の祖父母は帝国大学医科大学長で解剖学者の小金井良精と森鷗外の妹・小金井喜美子である。また小説家・鈴木俊平は父の妹の孫(従甥)にあたる。 東京女子高等師範学校附属小学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)を経て、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に進む。附属中学の同期には、槌田満文(武蔵野大学名誉教授)、今村昌平(映画監督)、大野公男(元北海道情報大学学長)、児玉進(映画監督)、黒澤洋(元日本興業銀行会長)、星野英一(東京大学名誉教授)などがいた。 附属中学在学中の1941年12月に対米開戦となり、これにより英語が敵性語となること、敵性語として入試科目から除外されることを見越して英語を全く勉強せず、他の教科に力を入れて要領よく四修(飛び級、旧制中学は5年制)で旧制の官立東京高等学校(現・東京大学教養学部及び東京大学教育学部附属中等教育学校に継承)に入学した。このため秀才と呼ばれたが、戦後になってから英語力の不足を補うため今日泊亜蘭の個人授業を受け、さんざん苦しんだという。
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星新一
高等学校在学中、満16歳の時に1年間の寮生活を経験した。当時の寮生活について、親友の北杜夫や小松左京がしばしば旧制高校の寮生活を懐かしんでいるのとは対照的に「不愉快きわまることばかりで、いまでも眠る前に思い出し、頭がかっとなったりする」、「入ってみてわかったことだが、この学校はとてつもなく軍事色が強く、教師だけならまだしも、生徒たちの多くもそのムードに迎合していたので、うんざりした。着るものはもちろん、食うものもだんだん不足してくるし、学校は全部が狂っているし、まったく、どうしようもない日常だった」 と回想している。 こうした感想については、戦後と戦中の違い、四修進学の星が若年だったことも大きい。星は高校も2年で終えているため、新制大学卒業者よりも1年早い満21歳で大学を卒業している。 1948年(昭和23年)、東京大学農学部農芸化学科を卒業した。農芸化学科での同級生には後の酒類評論家の穂積忠彦(俳優・穂積隆信の兄)がいた。卒業論文は固形ペニシリンの培養についてであった。 高級官吏採用試験である高等試験に合格したが、内定を取ることに失敗した。なおかつ役人嫌いの父に受験が発覚し、厳しく叱責された。東大の大学院に進学し、坂口謹一郎のもとで農芸化学を研究する。液体内での澱粉分解酵素ジアスターゼの生産などをした。1950年(昭和25年)に大学院の前期を修了する。修士論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」(アスペルギルスはコウジカビのこと)であった。 1949年(昭和24年)、同人誌「リンデン月報」9月号にショートショート第1作『狐のためいき』を発表する。 1951年(昭和26年)、父が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐ。当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻、会社を大谷米太郎に譲るまでその処理に追われた。この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた星自身は後に「この数年間のことは思い出したくもない。わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。
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星新一
1951年(昭和26年)、父が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐ。当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻、会社を大谷米太郎に譲るまでその処理に追われた。この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた星自身は後に「この数年間のことは思い出したくもない。わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。 会社を手放した直後、病床でレイ・ブラッドベリの『火星年代記(火星人記録)』を読んで感銘を受ける。この出会いがなければSFの道には進まなかっただろうと回顧する。星は厳しい現実に嫌気が差し、空想的な「空飛ぶ円盤」に興味を持つようになる。たまたま近くにあった「空飛ぶ円盤研究会」に参加した。この研究会は三島由紀夫、石原慎太郎が加わっていたことでも知られている。 星製薬退社後は作家デビューまで浪人生活が続くが、自宅が残っていた上に、星薬科大学の非常勤理事として当時の金額で毎月10万円が給付されており、生活に窮するようなことはなかった。 1957年(昭和32年)、「空飛ぶ円盤研究会」で知り合った柴野拓美らと日本初のSF同人誌「宇宙塵」を創刊する。第2号に発表した『セキストラ』が大下宇陀児に注目され、当時江戸川乱歩が責任編集を務めていた「宝石」に転載されてデビューした。 1958年(昭和33年)には、多岐川恭が創設した若手推理小説家の親睦団体「他殺クラブ」に、河野典生、樹下太郎、佐野洋、竹村直伸、水上勉、結城昌治と参加した。なお、「他殺クラブ」については、佐野洋の自伝『ミステリーとの半世紀』(小学館)には、「1960年3月結成」とある(同書、P.130)。 1959年(昭和34年)11月21日発売の月刊誌『ヒッチコック・マガジン』1960年1月号に「年賀の客」が掲載され、「文春漫画読本」からも注文がくる。『ヒッチコック・マガジン』8月号~11月号に掲載された「雨」「その子を殺すな!」「信用ある製品」「食事前の授業」と、『宝石』9月号、11月号に掲載された「弱点」「生活維持省」の計6編のショートショートで、第44回直木賞(1960年下半期)の候補となる。また、この年に横山光輝原作の実写版テレビドラマ『鉄人28号』でSFアドバイザーとしてクレジットされた。
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1961年(昭和36年)、医者の娘で小牧バレエ団のバレリーナだった村尾香代子と見合い結婚した。髪が長いのが結婚を決意する決め手になったと後年語った。 1963年(昭和38年)、福島正実の主導による日本SF作家クラブの創設に参加した。同年、同クラブの一員として、ウルトラシリーズ第1作『ウルトラQ』の企画会議に加わる。会議に同席した『変身』、『悪魔ッ子』の脚本担当者・北澤杏子の証言によると、この場においては後に伝説となるような飛躍した発想の発言は聞かれなかったとのことである。また、この年に福島正実と2人で、特撮映画『マタンゴ』の原案にクレジットされているが、実際はほとんどタッチしていない。 以降、40代から50代ながら、SF界では「巨匠・長老」として遇されることになる。1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)まで「日本SF作家クラブ」の初代会長を務めた。 1979年(昭和54年)、「星新一ショートショート・コンテスト」の選考を開始する。(詳しくは#星新一ショートショート・コンテストを参照) 1980年(昭和55年)、日本推理作家協会賞の選考委員を務める(昭和56年(1981年)まで)。 1983年(昭和58年)秋に「ショート・ショート1001編」を達成した。ただし、それまで関係が深かった各雑誌に一斉にショート・ショートを発表したため、「1001編目」の作品はどれか特定できないようにされている。 それ以降は著述活動が極端に減ったが、過去の作品が文庫で再版される都度、「ダイヤルを回す(=ダイヤル式の電話をかける)」等の「現代にそぐわない記述」を延々と改訂し続けていた。 かねてより「住んでみたい街」に東京都港区高輪を挙げており、母の死去による戸越の自宅の売却に伴い、1993年(平成5年)、高輪のマンションに転居した。 1994年(平成6年)に口腔癌と診断され、手術を受ける。 入退院を繰り返した後、1996年(平成8年)4月4日に自宅で倒れて東京慈恵会医科大学附属病院に入院。肺炎を併発して人工呼吸器の必要な状態であったが、4月20日には人工呼吸器を外すことができた。しかし4月22日の夜中、酸素マスクが外れ、呼吸停止に陥っているところを看護師に発見された。
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星新一
1994年(平成6年)に口腔癌と診断され、手術を受ける。 入退院を繰り返した後、1996年(平成8年)4月4日に自宅で倒れて東京慈恵会医科大学附属病院に入院。肺炎を併発して人工呼吸器の必要な状態であったが、4月20日には人工呼吸器を外すことができた。しかし4月22日の夜中、酸素マスクが外れ、呼吸停止に陥っているところを看護師に発見された。 自発呼吸は再開したものの、それ以後意識を取り戻すことはなく、1997年(平成9年)12月30日18時23分、高輪の東京船員保険病院(現・JCHO東京高輪病院)で間質性肺炎のために死去した。71歳没。 2007年(平成19年)、死後10年目にして、星が残していた大量のメモ類と130名余の関係者へのインタビューを基にした最相葉月の大部の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)が刊行され、「ひょうひょうとした性格」と思われていた星の人間的な苦悩や「子供向け作家」と扱われていることへの不満、家族との確執、筒井など後輩作家への嫉妬などが赤裸々に描かれ、従来の「星新一」像を覆す内容で衝撃を与えた。 また、この書では初期には直木賞落選が名誉と受け止められるほどハイブロウ(英語版)な存在として遇され、安部公房(純文学とSFの両分野で評価されていた)のライバル心をかきたてるほどであった星が、後に大衆に広く受け入れられるに従って文学的評価が伴わなくなってきた変遷も描き出されている。 星作品の文庫解説には、SF作家仲間や親友ともいえる交友のあった北杜夫以外にも、井上ひさし、大庭みな子、鶴見俊輔、尾崎秀樹、奥野健男ら大物の名が並ぶ(奥野などは本来は新潮文庫での太宰治担当解説者である)。晩年の谷崎潤一郎が星作品を愛読していたと石川喬司が紹介しており、また星が「歴史もの」を執筆するにあたり、星から取材を受けた池波正太郎もその新境地開拓を称賛するなど、後述するSFファンの冷淡さに比べると文壇内部での評価は決して低くはなかった。
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星新一
SFファンが選ぶ年間ベスト賞である星雲賞(1970年創設)を星は一度も受賞していない。その低評価の事情について筒井康隆は、筒井自身が星の真価がわかるようになったのは30歳に近くなってからだったと述べた後、星雲賞の母体であるSFファン・グループは10代から20代が多数を占めている(当時の話)ため、そういった若い世代からショート・ショートというものがたいへん軽いものと見られているのでは、と想像している。 ただし、1983年の「ショートショート1001編を達成」を機に、翌1984年夏の日本SF大会で、日本SFファングループ連合会議議長の門倉純一の提案で「星雲賞特別賞」を授賞することとなる。実際に授賞式まで行われたが、星の側が受賞を拒否し、「幻の星雲賞」となった。 後年、手塚治虫、矢野徹、米澤嘉博、野田昌宏、柴野拓美、小松左京らは死去した際に星雲賞特別賞を受賞したが、星の死去時は授賞されなかった。第39回(2008年)において、最相葉月の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』が星雲賞ノンフィクション部門を受賞した。 星の作品、特にショートショートは通俗性が出来る限り排除されていて、具体的な地名・人名といった固有名詞が出てこない。例えば「100万円」とは書かずに「大金」・「豪勢な食事を2回すれば消えてしまう額」などと表現するなど、地域・社会環境・時代に関係なく読めるよう工夫されている。さらに機会あるごとに時代にそぐわなくなった部分を手直ししており、星は晩年までこの作業を続けていた。 激しい暴力や殺人シーン、ベッドシーンの描写は非常に少ないが、このことについて星は「希少価値を狙っているだけで、別に道徳的な主張からではない」「単に書くのが苦手」という説明をしている。 加えて、時事風俗は扱わない、当用漢字表にない漢字は用いない、前衛的な手法を使わない、などの制約を自らに課していた。もちろん例外もあり、『気まぐれ指数』などは五輪前の東京の雰囲気がきめ細かく描写された風俗ユーモアミステリである。『ほら男爵現代の冒険』も人名、地名が頻出するが、人名は意図的にシンプルまたは奇妙なものが使われている。
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星新一
加えて、時事風俗は扱わない、当用漢字表にない漢字は用いない、前衛的な手法を使わない、などの制約を自らに課していた。もちろん例外もあり、『気まぐれ指数』などは五輪前の東京の雰囲気がきめ細かく描写された風俗ユーモアミステリである。『ほら男爵現代の冒険』も人名、地名が頻出するが、人名は意図的にシンプルまたは奇妙なものが使われている。 ショートショートの主人公としてよく登場する「エヌ氏」などの名は、星の作品を特徴づけるキーワードとなっている。「エヌ氏」を「N氏」としないのは、アルファベットは、日本語の文章の中で目立ってしまうからだと本人が書いている。疑問符や感嘆符も原則使わない。 しばしば未来を予見しているかのような作品が見受けられるが、いずれも発表された時点では、何をどう予見しているのかは誰にも(あるいは本人ですら)分からなかった。以下にその例を挙げる。 作品は20言語以上に翻訳され、世界中で読まれている。 寓話的な内容の作品が多く、星も自らを「現代のイソップ」と称していた(『未来いそっぷ』と題した作品集もある)。その柔軟な発想と的確に事物の本質をつかんだ視点の冷静さから多くの読者を獲得したほか、学校教科書(光村図書出版『国語 小学5年』に掲載された「おみやげ」、東京書籍『NEW HORIZON』に掲載された「おーいでてこーい」(英語の教科書であるため、英訳され「Can Anyone Hear Me?」のタイトルで収録)など)やテレビ番組『週刊ストーリーランド』(「殺し屋ですのよ」など)・『世にも奇妙な物語』(「おーい でてこーい」「ネチラタ事件」など)の題材に採用されている。 評論家の浅羽通明は自身の評論の中で星のショートショートをしばしば引用し、どんな時代においても通用する星作品の「普遍的な人間性への批評」を強調している。
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星新一
評論家の浅羽通明は自身の評論の中で星のショートショートをしばしば引用し、どんな時代においても通用する星作品の「普遍的な人間性への批評」を強調している。 また、筒井康隆は星の作品について、ストイシズムによる自己規制と、人間に対する深い理解、底知れぬ愛情や多元的な姿勢が、彼の作品に一種の透明感を与えていると評した。その一方で日本人が小説において喜ぶような、怨念や覗き趣味、現代への密着感やなま臭さや攻撃性が奪われ、結果として日本の評論家にとっては星の作品が評価しづらくなり、時として的はずれな批評をされることになったと指摘している。星は後期の作品においてその形式を大きく変化させたが、筒井はそのことにも触れ、星は数十、数百に及ぶ膨大な対立概念・視点・プロット・ギャグ・ナンセンスのアイデアを持っており、後期の作品に見られる「価値の相対化」「ラスト一行の価値転換によるテーマ集約の排除」といった変化は、彼の視点のアイデアのうちのほんの一例に過ぎないと評価している。 挿絵の多くは真鍋博や和田誠が担当している。真鍋とは特に初期からの名コンビで、真鍋の挿絵を星がセレクトした『真鍋博のプラネタリウム 星新一の挿絵たち』という本も出している。 アメリカの一コマ漫画の収集家でもあり、それらをテーマ別に紹介した『進化した猿たち』(全2巻、文庫は3巻)という本も刊行している。さらに官僚の壁に立ち向かい、そして敗れた父・一を描いた『人民は弱し 官吏は強し』、明治時代の新聞の珍記事を紹介した『夜明けあと』のようなSF以外の近代史ノンフィクションや『きまぐれ - 』で始まるタイトルのエッセイ集なども多数残している。
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星新一
アメリカの一コマ漫画の収集家でもあり、それらをテーマ別に紹介した『進化した猿たち』(全2巻、文庫は3巻)という本も刊行している。さらに官僚の壁に立ち向かい、そして敗れた父・一を描いた『人民は弱し 官吏は強し』、明治時代の新聞の珍記事を紹介した『夜明けあと』のようなSF以外の近代史ノンフィクションや『きまぐれ - 』で始まるタイトルのエッセイ集なども多数残している。 容貌や作風とは裏腹に、実生活でもギャグを連発するなど「奇行の主」と呼べる側面があった。SF仲間の集まりなど、気を許せる場では奇人変人ぶりを遺憾なく発揮していた。同行している作家仲間を驚かせることもしばしばだったという。特に筒井の初期短編は、星の座談でのギャグに大きく影響を受けているといわれる。SF作家仲間たちと西新宿の台湾料理店『山珍居』に集まり、SF的な雑談に興じたが、中でも星の「異常な発想の毒舌発言」はその中でも群を抜いていて、他のSF作家たちの回想文などで神話的に語られている。その一部は『SF作家オモロ大放談』(いんなあとりっぷ社、1977年。のちに『おもろ放談』(1981年)と改題され角川文庫に収録)で読むことができる。平井和正は星の異常な発言をテーマにした短編小説「星新一の内的宇宙(インナースペース)」を発表しており、作家仲間が集まると自然と星を中心に話題が広がっていた様子が描写されている。しかし、文庫解説等では(育ちがいいこともあり)しばしば紳士的な人物と書かれた。世代・生育環境が近いこともあり、北杜夫とも親交が深かった。 一方で、礼節を欠いた人間には距離を置いて接していた。そのため、『ヒッチコック・マガジン』の担当編集者で、ショート・ショートの大家となるきっかけを作った恩人でありながら、1965年の山川方夫の葬儀の席での振る舞いなどから、星は小林信彦をひどく嫌っており、1969年の覆面座談会事件に関与した稲葉明雄の親友という要素も加わったことで、晩年は小林と顔を合わせることも嫌がっていた。小林の側は、企業PR誌などの高額な仕事が増えた星が原稿料の問題で『ヒッチコック・マガジン』での執筆を「勘弁してほしい」と告げてきた旨を記している。
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星新一
星製薬が人手に渡った後も永らく、星薬科大学評議員という肩書きがあった。なお、鮎川哲也の推理小説『死者を笞打て』(1965年)では、執筆当時の推理文壇関係者が多少名前を変えて登場しており、星も「星野新一」として登場する。また登場人物のひとりが酒豪のため、男にもかかわらず「ボッコちゃん」と呼ばれている。また、手塚治虫の漫画『W3()』(1965年 - 1966年)の主人公・「星真一」の名前は彼に由来する。星新一自身は、手塚の息子の手塚眞にちなんでいる可能性も考えていた。 『三田文学』1970年10月号で、福島正実と「SFの純文学との出会い」という対談をした際、星が「ネパールに、ヒューマニズムに燃えた外国の医師団が乗り込んで病気を治し、死亡率をさげた結果、人口が増えて貧民が多数発生した。一種のヒューマニズム公害と言える」と発言したところ、同席していた編集者は「公害が文学になるのですか?」「問題があるのはわかりますが、どうして文学がそんなものに、こだわらないといけないのですか?」と応答をした。星は「文学が想像力を拒否するものだとは思わなかった。ぼくが純文学にあきたらなくなった理由がわかった」と発言した。SF的発想に対する「純文学側の無理解」として、有名なエピソードである。 作品のアイデア同様、他の作家とは着眼点が異なり、第1回奇想天外SF新人賞の選考委員として、小松や筒井がほとんど問題にしなかった新井素子の『あたしの中の......』を強力にプッシュし(結果は佳作入選)、作家として活躍していくきっかけを作った。ただ一人、選考委員を任じたショートショート・コンクール(のちにショートショート・コンテストと名称変更)からも数千にも及ぶ作品の中から、後にプロとして確固たる活躍をしていく作家を多数発掘しており、その慧眼ぶりを発揮しつつ後進に道を拓いている。とはいえ、星新一ショートショート・コンテストとほぼ同時期に募集・発表があったショートショート・コンテスト「ビックリハウス」のエンピツ賞受賞作については「感性を非常に重視した作品」が選ばれており、星にすれば理解が及ばず、お手上げの状態だったという。
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星新一
生前は自己の作品の映像化・戯曲化をほとんど許さなかった。アニメ化を持ちかけた製作会社ガイナックスの武田康廣に「自分の作品がいじくられるのは真っ平ごめんだ。やるなら俺が死んでからにしてくれ。それなら文句は言わない」と断っている。小松はこの件を聞き、「星さんならそう言うだろう」と武田に語り、自作のテレビアニメ化『小松左京アニメ劇場』を快諾したという。例外的に短編のいくつかが、アニメーション作家の岡本忠成によって人形アニメーションとして在命中に製作されている(#星新一作品の映像化参照)。 なお、作品にほとんど反映されていないため看過されがちであるが、星は化学の修士号を持ち、その方面の著書もある、れっきとした科学者出身SF作家である。福島正実は著書『未踏の時代』で、星や筒井康隆、小松左京らSF作家仲間で、稼動したばかりの東海第一原発を見学に行ったとき、星が案内役の技官に「お土産に原子を1つ分けてください」と言ったというエピソードを披露しているが、星なりのジョークだと思われる。 また、「リスクもなく大きなもうけが出る」と称して大量の人から金銭を集める詐欺行為の被害者について、「だまされた者は、欲に目がくらんだ者であり、救ってやる必要などない」などと辛辣な内容をエッセイに書いていた。別のエッセイ集『できそこない博物館』では、「不渡り手形をつかまされれば、誰だって人間不信になる」といった一文を目にすることができる。 身長180センチという、大正生まれとしてはずばぬけた長身の持ち主であった。そのため、日本SF作家クラブには「星新一より背の高い人間の入会は認めない」という冗談会則があったが、これを初めて破って入会したのは田中光二である。
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星新一
身長180センチという、大正生まれとしてはずばぬけた長身の持ち主であった。そのため、日本SF作家クラブには「星新一より背の高い人間の入会は認めない」という冗談会則があったが、これを初めて破って入会したのは田中光二である。 特にドイツ文学に傾倒したり滞在した経験があるわけではないが、この国と縁の深い人物の多い家系 も影響しているのか、ドイツびいきの感覚があり、エッセイ「クマのオモチャ」では「ドイツを全面的に信用している」「いい意味での恐るべき民族である」と手放しに近い賛辞を呈していた。同じくエッセイ「名前」では長女の名前ユリカを誕生月7月のドイツ語(Juli ユーリ)から発想した経緯を綴っている(ともに『気まぐれ星のメモ』所収)。また、星作品には国籍の明確な外国人はほとんど登場しないが(そもそもどこの国の話かすら判らないものが多い)、『ほら男爵現代の冒険』の主人公は当然ドイツ人であり(ただし文中でドイツという言葉は使われない。先祖の話や、旧日本軍に同盟国の方と呼ばれたり、生きていたヒトラーに同胞としてふるまうなどの間接表現にとどまる)、『気まぐれ指数』にも重要な脇役で在日ドイツ人が登場している。青年期と、かなりのブランクを経て中年期以降にもクラシック音楽を愛聴していた。クラシックの中で最も好きな曲に、ベートーヴェン『大公三重奏曲』を挙げ、コルトー、ティボー、カザルスの演奏盤を愛聴していた。 小松左京によると、星には少年愛の傾向があり、ひところはピーター(池畑慎之介☆)に入れ上げて「ピーターに会わせてくれるんだったら、とにかく大長編書くとかね、つまらんこといってた」という。その後、郷ひろみに入れ上げていた時期もあり、「彼はね、一人で支那まんじゅう食いながら、郷ひろみのテレビ見てんだそうですけど、鬼気迫るな」とも小松は発言している。 ウイスキーが好きで、特にサントリーの角瓶(角)を愛飲していた。エジプト旅行に行く際、免税店で買い求めたが取り扱っておらず、仕方なくオールドを買った。角が置かれていなかったことを非常に残念がり、「角なんて飲めなかったな、昔は」「飲めなかった。高級品だったんだ。手が出なかった。それが、いまじゃ、ああいう所に置いてないんだから。喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか」と発言している。
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星新一
ウイスキーが好きで、特にサントリーの角瓶(角)を愛飲していた。エジプト旅行に行く際、免税店で買い求めたが取り扱っておらず、仕方なくオールドを買った。角が置かれていなかったことを非常に残念がり、「角なんて飲めなかったな、昔は」「飲めなかった。高級品だったんだ。手が出なかった。それが、いまじゃ、ああいう所に置いてないんだから。喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか」と発言している。 公立はこだて未来大学は2012年9月6日に「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」の開始を発表した。松原仁(はこだて未来大学)、中島秀之(はこだて未来大学学長)、角薫(はこだて未来大学)、迎山和司(はこだて未来大学)、佐藤理史(名古屋大学)、赤石美奈(法政大学)の6人でプロジェクトチームを結成した。星新一のショートショート作品の解析を行い、プログラム的に体系化、生成アルゴリズムの検討と共にトライ・アンド・エラー(英語版)を繰り返し、人工知能によって2017年までに星新一作品と同等かそれ以上のショートショートを自動生成できるようにすることを目指している。瀬名秀明が小説の評価方法の検討を行うなどの顧問を務める。2015年9月には、自動生成されたショートショートを第3回星新一賞に応募したことが発表された。 未来における鶴の進化型、ホシヅルを生み出し、サイン代わりに描いていた。星の死後、彼の誕生日9月6日は「ホシヅルの日」とされ、友人のSF作家たちが集って星を偲ぶ会が催される。2014年は世田谷文学館で催された「日本SF展」と日程が重なったため、一般来場客を招いた公開形式で催された。当日は星マリナらにより生前のアルバム写真によるプレゼンや新刊絵本の英語での朗読がなされ、ホシヅルのケーキや星新一の等身大パネルなどを関係者とともに囲みこの日を祝った。
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星新一
1979年(昭和54年)より始まった星の選考によるショートショート作品のコンテスト。発案者は講談社の編集者宇山日出臣(秀雄)。毎年の優秀作品は単行本として出版されている。星の死後も選者を阿刀田高に変え、マイナー・チェンジを繰り返しながら継続中である。受賞者の中でも江坂遊の才能は非常に評価しており、星自身は「唯一の弟子」と考えていて江坂の子供の名づけ親にもなった。もっとも、いわゆる第二世代のSF作家たちには私的交遊なども通じて星の弟子を自認している者が多く、第一世代後半組でも作風にまったく共通点のない平井和正が文庫解説で弟子を宣言している。 2013年から日本経済新聞社が主催する公募文学賞。
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ショートショート
ショートショート(英: short short story)は、小説の中でも特に短い作品のこと。日本で「ショートショート」の語が定着する以前は「超短編小説」などと呼ばれていた。 定義は諸説あり、短編小説や掌編小説、ショートストーリーとは異なる独自のジャンルとされることもあるが、それらと区別しない場合もある。ジャンルは、SF・ミステリー・ユーモア小説など様々である。アイデアの面白さを追求し、印象的な結末を持たせる傾向がある。 ショートショート小説は他のジャンルへも影響を及ぼし、漫画におけるショートショート作品集や、映画におけるショートショートフィルムなども誕生した。 ショートショートは、1920年代中頃にアメリカの雑誌『コスモポリタン』で考え出された形式である。コスモポリタン誌は、上質紙のカラーページが雑誌前半にあり、ここに小説の冒頭を載せ、小説の途中で「○○ページにつづく」として雑誌後半へ誘導していた。読者は途中で読むのを中断される上に紙質の悪いページに移動しなければならないので、あまり好ましい掲載方法ではなかった。そこで編集長は途中で中断せずに済むような短い小説を載せることを考えた。サマセット・モームに執筆を依頼し短い作品を連載したところ評判になった(モームの連載作品は『コスモポリタンズ』という短編集になっている。)。その他の雑誌、新聞もこれを真似するようになり、短編より短い形式が広まった。はじめは「ショートショート・ストーリー(英: short short story)」と呼ばれていたが、次第にショートショート(英: short-short)と呼ばれるようになった。フレドリック・ブラウンがこの形式を得意とした。 日本では、都筑道夫が「ショートショート」という言葉を紹介し、1001編以上のショートショートを発表した星新一によってショートショート形式が一般に広められた。その後に江坂遊らへ受け継がれた。現在は田丸雅智などが活動している。また、日本に紹介された当初は「ショート・ショート」と中黒「・」を付して表記していたが、のちに「ショートショート」の表記が一般化した。
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ショートショート
日本では、都筑道夫が「ショートショート」という言葉を紹介し、1001編以上のショートショートを発表した星新一によってショートショート形式が一般に広められた。その後に江坂遊らへ受け継がれた。現在は田丸雅智などが活動している。また、日本に紹介された当初は「ショート・ショート」と中黒「・」を付して表記していたが、のちに「ショートショート」の表記が一般化した。 近年のアメリカでは、「フラッシュフィクション(英: Flash fiction)」・「サドンフィクション(英: Sudden fiction)」といった新しい名称が提唱され、様々な作風が模索され、活発な執筆・出版活動がされている。 様々な作家・評論家らが論じているが、定まったものは存在しない。厚木淳は「日本の文庫本で1ページから数ページで収まる長さの」短編小説であり、「新鮮なアイデア、完全なプロット、意外な結末」の三原則が盛り込まれたものと定義している。 近年では田丸雅智が、「短くて不思議な物語」という定義を複数の公募賞の要項や小学校の国語科教科書で提示している。「もっと詳しく言うと『アイデアがあり、印象的な結末のある物語』とも」と付言される場合もあるが、初心者向けの講座やワークシートでは「不思議な言葉から想像を広げる」というステップを推奨しており、事実上、ファンタジックな設定を中核とすることが要件となっている 。 ショートショートの長さに明確な規定はないが、ショートショート集を編纂するときや、コンテストで作品を募集するときには長さが決められることがある。雑誌『小説現代』のコンテストでは400字詰め原稿用紙7枚まで、雑誌『SFマガジン』の読者投稿コーナーでは400字詰め原稿用紙5枚程度としている。都筑道夫と星新一とがショートショートのアンソロジーを編纂したときには400字詰め原稿用紙20枚までとした。エラリー・クイーンが編纂した『ミニ・ミステリ傑作選』に収録されたすべての作品は2,000語以下である。ショートショート大賞では、第1回目が原稿用紙20枚以下、第2回目と第3回目が原稿用紙15枚以下で募集した。2020年よりショートショートの賞となった坊っちゃん文学賞では、4000字以内が制限となっている。
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岳物語
『岳物語』(がくものがたり)は、椎名誠による日本の私小説。1985年、集英社刊。続編『続 岳物語』は1986年、同社刊。椎名の長男・岳を作品のモデルとして、保育園から小学校6年間を経て中学校入学までの家族生活や、次第に訪れる岳の反抗期とそれを通じた自立・成長の姿を、父親である椎名自身の視点から描く。椎名の私小説路線の第一作であり、代表作の1つと評価される。本項目では、正・続の2冊を改稿を加えた上で1冊に再編した『定本 岳物語』(1998年)についても併せて解説する。 1985年5月、集英社刊行。「きんもくせい」「アゲハチョウ」「インドのラッパ」「タンポポ」「ムロアジ大作戦」「鷲と豚」「三十年」「ハゼ釣り」「二日間のプレゼント」の9編を収録。文庫版は集英社文庫から1989年9月刊行、文庫版解説は斎藤茂太。挿絵は単行本・文庫版ともに沢野ひとし。また英語版も刊行されており、『Gaku Stories』(1991年、講談社英語文庫)『My boy』(1992年、講談社インターナショナル)の2タイトルが存在する。 各短編は集英社『青春と読書』1983年11月号 - 1985年4月号に掲載。最初から『岳物語』としての連載だったわけではなく、椎名が同誌に毎号30枚の短編小説を書くという企画に対して、初回に息子の岳を主人公にした初の私小説「きんもくせい」を発表したところ、編集者の好評を得て、岳と家族をテーマとした私小説としてシリーズ化されたものである。『岳物語』のタイトルは9つの短編をまとめて単行本化する際に付されたものであり、表題作は存在しない。
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岳物語
本作の主人公である椎名の長男・岳は1973年7月生まれ、椎名が29歳の時の子である。当時の椎名は流通・小売系の出版社デパートニューズ社(後のストアーズ社)に編集者として勤務していた。同社在籍中には処女出版となる『クレジットとキャッシュレス社会』(1979年、教育社)ほか、複数の流通・小売系の専門書を上梓している。サラリーマン生活の一方、1976年には目黒考二らと『本の雑誌』の刊行を開始し、キャンピング集団「東ケト会」の企画など、後の作家生活の下地となる活動を展開しつつあった。1979年、『本の雑誌』誌上に掲載した『さらば国分寺書店のオババ』(情報センター出版局)が初のエッセイ集として単行本化。1980年3月には東ケト会の活動を描いた第2集エッセイ『わしらは怪しい探検隊』(北宋社)を発表し、後にシリーズ化される。同年12月には椎名はストアーズ社を退職し、フリーの作家生活に入った。 岳が生まれ育った時期はこのように、椎名が「サラリーマンから転がるようにモノカキに転身」し、「三十代の新米親父と作家デビューの時代が重なって」いたと語る、家族生活においても仕事上でも大きな転換期であった。そうした折に連載小説の題材に困り、いたずら盛りの息子の行動をそのまま文章にしていれば作品が出来上がると考えて、家族の風景を書き始めたのが作品誕生の契機であった。 なお、岳の姉で椎名の長女である渡辺葉は、本作中には全く登場しない。これに関して椎名は、「きんもくせい」「アゲハチョウ」と1・2作目に姉を登場させる機会がなかったうちに家族テーマの連載の運びとなり、突然姉を登場させづらくなってしまったという理由と、父が家族を題材に小説を書くと知った葉が早くから「自分のことを書いたらだめだからね」と言っていたという理由を挙げている。 1986年7月、集英社刊行。「あかるい春です」「少年の五月」「盗聴作戦」「ガク物語」「ヨコチンの謎」「チャンピオン・ベルト」「冬の椿」「オバケ波」「骨と節分」「闇の匂い」「出発」の11編を収録。文庫版は集英社文庫から1989年11月刊行、文庫版解説は野田知佑。挿絵は単行本・文庫版ともに沢野ひとし。
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岳物語
1986年7月、集英社刊行。「あかるい春です」「少年の五月」「盗聴作戦」「ガク物語」「ヨコチンの謎」「チャンピオン・ベルト」「冬の椿」「オバケ波」「骨と節分」「闇の匂い」「出発」の11編を収録。文庫版は集英社文庫から1989年11月刊行、文庫版解説は野田知佑。挿絵は単行本・文庫版ともに沢野ひとし。 各短編は『青春と読書』1985年5月号 - 1986年6月号に掲載。岳のエピソードは小学校高学年の出来事が中心となり、親への反抗と自立、父から離れて対等な一人の男へと成長していく過程が描かれ、中学校入学祝いの餃子パーティーと入学式の日を描いた「出発」で物語は幕を閉じる。 1998年8月、集英社刊行。『岳物語』『続 岳物語』の2冊を再編して1冊にまとめた書籍。再編に当たって、家族に余り関係のないエピソードであった「インドのラッパ」「冬の椿」の2編が削除され、全編に亘って椎名が改稿を行っている。また、作品のモデルとなった渡辺岳自身が、初めて自分の目から見た家族生活や、父の小説のモデルとされた事、「作家の息子」に対する周囲の反応などへの所感を綴ったエッセイ「「岳物語」と僕」を寄せている。 東京都小平市に家を構えるよろず雑文書きの「私」と、保育園に勤める妻との間に生まれた息子は、両親の登山好きから「岳」と名付けられた。岳は保育園児の頃から、好奇心から友達と近所のサツマイモ畑を根こそぎ掘ってしまうなど、何かと事件を巻き起こす。読み書き英会話と就学前から教育にかまびすしい地域の中で、私たち夫婦はあえて習い事の類を一切させずに岳を小学校に入学させた。岳は自由闊達に育ち、小学4年生にしてバレンタインデーに3人の同級生からチョコレートをもらう程の人気者となった。一方、学校の勉強はからきしで、上級生にもケンカで挑みかかり、乱暴者の問題児と教師たちから煙たがられて私や妻が学校に呼び出されることもしばしばであった。
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岳物語
4年生の時、私の友人である野田さんの家がある亀山湖に初めて連れていかれた岳は、そこで釣りを教わって以来、それまで見せたこともない集中力で釣りにのめり込んでいく。私が冗談で「多摩川でナマズを釣ってきてくれよ」と声をかけた時には、自分で仕掛けを調べ本当にナマズを釣ってきて私を驚かせた。5年生の夏休み、岳は両親から離れ野田さんと釧路川のカヌー下りに出発した。岳の不在の間、私は朧げな自身の少年時代の記憶を思い出していた。世田谷の家を引き払って各地を転々とし、異母兄弟が何人もいた子供心にも訳ありと分かる家庭。私が鉄棒から落ちて頭を縫うケガを負っても駆けつけず、そして小学6年の時に死んだ父。釧路川から帰って来た岳の伸びた髪を風呂場で散髪しながら、私は父が死んで30年になること、その30年とはそのまま私と岳との歳の隔たりでもあることを考えていた。 岳が5年生の冬。昨年に引き続き取材旅行のため正月に家を空けてしまうことになった私は、スケジュールの合間を縫って、岳に東伊豆の稲取への一泊二日の釣り旅行をプレゼントする。旅先の岳は、釣具店の店主と私にはまるで分からない専門的な語で仕掛けや餌の話をし、見たこともない道具を使って見事にカサゴを釣り上げ、彼が私の知らない世界へと突き進んでいることを感じさせた。それから1か月。私は酷寒のイルクーツクから、久しぶりに家に電話をかけた。雑音混じりの途切れがちな回線の中で、岳から鴨川に釣りに出かけて海に転落した話を聞き、私は激しく動揺して問いただすものの、私の慌てぶりとは裏腹に岳の声はのんびりとしたものだった。やがて回線の不調で無情にも電話が切れてしまい、諦めて受話器をおいた私はため息をひとつつき、一人くつくつと笑うのだった。
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岳物語
2か月間のシベリアの旅から帰国しぼんやりした気分の中、パーティーに出席した私は友人の沢野ひとしから、「椎名は少し息子に構いすぎだ、子どもはやがて必ず親からきっぱりと離れていくのだから、いつまでも子どもと気持ちをぴったり通わせようとしているとショックが大きい」と冗談とも忠告ともつかない言葉をかけられる。その通り、6年生になる岳は釣りやカヌーの腕前で完全に私を凌駕し、小学校からの帰宅後には小食として自分でラーメンなどを調理し、トレパンの破れも自分で繕うようになっていた。そして、毎夜シーナ家の客間で繰り広げられる、プロレスごっこと呼ぶには余りに激しい「男の闘い」においても、ついに岳は肩車のような技で私を宙に浮かせ、投げ飛ばしてみせるまでに成長していた。 この前後から、岳の親離れの兆候は様々な場面で表れるようになった。小6の最後の運動会を岳に黙って見に行った両親に対して怒り、夏休みに私や野田さんらと共に川下りに行った十勝川では、私よりも同級生のトッタン・ミッタン兄弟と行動を共にし、保育園児の頃からの習慣だった自宅の風呂場での散髪も断るようになった。そして、数か月に一度のペースで雑多に散らかった自室の古い雑誌や低学年のころのおもちゃを突如として大量に処分するのだった。私はこの片づけを“子供の脱皮”のようなものと考えていた。 岳の小学生最後の冬は、私にとって辛い出来事が続いた。シベリア横断旅行のリーダーだった星見利夫さんが壮絶な闘病の末に癌で亡くなり、私は小さな骨になってしまった父親を前に涙をぼろぼろとこぼす小6の娘さんの姿に耐えられず、ついに星見さんの骨を拾って骨壺に納めてやれなかった。高校時代の友人で東京オリンピックのボクシング代表にまでなった吉野の失踪と殺害の噂、そして義母の脳血栓。重苦しい日々の中で、私は小6で自分の父が病死したとき、父の骨を見たのだろうかと思い出そうとしたが、葬儀の前後のことは思い出せても、肝心なことは何も記憶していなかった。岳を中学校の制服の採寸に洋品店に連れていった日、着慣れない詰襟を羽織る岳を眺めながら、父も私が中学校の制服を着るのを見届けたかっただろうか、という考えがふと頭をよぎるのだった。
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岳物語
小学生最後の春休み、岳はトッタン・ミッタンら6人の友人と亀山湖で一週間の魚釣り合宿を計画した。私には絶対について来るなと言い、野田さんの手すら借りずに、彼らは全て自分たちでその合宿をやり遂げてみせた。中学校入学直前、野田さん達を自宅に招いての餃子パーティーがあり、桜の花が舞う中で岳の入学式の日を迎えた。少年岳と私のひとつの優しい時代が終わり、これからの彼が自分の世界を歩んでいくことを私は感じていた。 『続 岳物語』中の一編「ヨコチンの謎」の一部は、「風呂場の散髪」(「ふろ場の散髪」)の題名で、学校図書刊行の中学1年生国語科用文部科学省検定済教科書に採用された。保育園児の頃から約8年間、岳の髪が伸びたタイミングを見計らって父の椎名が声をかけ、自宅の風呂場でバリカンを使って岳の散髪を行っていた習慣に、大きな変化が訪れた際のエピソードを描いている。なお、教科書収録に当たっては原作から一部表現の変更や、場面の削除(散髪に素直に応じていた頃の岳が、髪を切られながらABCの歌の替え歌を歌う場面など)といった編集が行われている。椎名はこの替え歌の削除について、「子供が本当に生き生きしている様子を描写しようとしてもそういうのは大人の誰かが大人の良識のもとに消してしまうのである」「ある一時期子供が一番無邪気に笑いとばしているこの種のコトバのいったいどこがどうしていけないのだろうか」と批判した。 岳が日増しに大人びてきた小学6年生の7月。シベリアでの取材旅行を終えて帰宅した私は、すっかり岳の髪が伸びているのを見て散髪を提案するが、今まで素直に応じていた岳が「まだいいよ」とそれを断る。さらに夏休みに入るころになっても、なおも散髪に応じない岳に痺れを切らした私は、半ば強引に岳を風呂場に連れて行く。しかし、そこでも岳はシャツを脱ごうとせず、構わずバリカンを入れようとする父の手をつかみ、父の裁量で自分の髪を切られることの不合理を、上手く言葉で表現できないながらも涙を流して真剣に訴えた。父子の話し合いで、今後は風呂場での散髪をやめ、岳が自分のタイミングで床屋に行くことを決めた。その夜、私はこの出来事を妻に話し「だんだん反抗的になってきているよ」と嘆いたが、妻にそれは反抗ではなく岳が自立期にきているのだと諭され、そういうことなのかもしれないと納得するのだった。
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