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岳物語
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ここでは、語り手である「私」とその家族、及び『岳物語』単行本冒頭で触れられる野田知佑のみを挙げる。椎名誠は妻の渡辺一枝との結婚に際して妻の姓に入り、本名は渡辺姓であるが、作中では主に「シーナ家」と表現される。先述の通り、渡辺家の長女で岳の姉である渡辺葉は、本作には登場しない。
本作は正・続の単行本・文庫版累計で260万部以上(2008年時点)のヒット作となった。父子の交流と少年の成長の物語として、上述した「風呂場の散髪」のほかにも複数回学校教科書に取り上げられ、国語科の受験問題や模擬試験の題材としてもよく使用されている。
作者の椎名誠自身は、本作が子育てや教育の物語と捉えられたことは思わぬ評価であり、自分としては岳・自分・野田さん・ガクや、その周囲の人々による友情物語のつもりであったと語っている。椎名は雑誌連載当初、本作が単行本になることを想定していなかったために、軽く考えて主人公の名を本名のまま「岳」とした。ところが、実際には2年足らずで単行本化された上に続編まで執筆するベストセラーとなり、このことで息子の岳に対しては「書かれた当人には数々の迷惑を与えた」「作家を親にもつと子供はたまったものではない、そんなことを私もしてしまった」と述懐している。『岳物語』中の一編「二日間のプレゼント」は自身の小説で最も好きな作品と語っており(2002年時点)、また『岳物語』が3度目の教科書掲載で高校1年国語科教科書に採用された際、好きな作家である宮沢賢治の隣に並んで載ったことは、作家としての勲章であると振り返っている。
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岳物語
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父の椎名によれば、中学生時代の岳は本作に対して猛烈に怒ったという。『定本 岳物語』(1998年)の刊行に際して、当時アメリカで写真学を修めていた20代半ばの渡辺岳本人はエッセイ「「岳物語」と僕」を寄稿し、初めて自らの筆で所感を表明している。この中で渡辺は、本作の発表以後、事あるごとに「『岳物語』の岳」として他人に先入観を持って接されたこと、周囲の反応から想像される主人公の「元気はつらつの岳少年」と現実の自分自身との乖離、ある者は「親の七光」と冷たく当たりまたある者は過剰に優しく接してくる大人達の態度、そうしたものに窮屈さを感じ続け、『岳物語』を未だに読むことができていないと明かしている。父を尊敬し、また感謝もしているが、それでも『岳物語』を愛することは出来ないと語り、結びでは「本当の『岳物語』というものは、僕の心の奥深くにあり、今でもしっかりと続いているのです」と綴っている。渡辺の心境に変化が訪れたのはその後彼が結婚し家庭を持った時で、作家の父が息子を題材として書くのも当然と思うようになった、と手紙で椎名に伝えたという。
野田知佑は『岳物語』単行本冒頭に本作を野田に捧げる旨の一文が添えられ、岳も「もう一人の父親のようでもあり、新しい遊びを次々に教えてくれる親友のようでもありました」と慕う、誠・岳父子と本作にとって重要な人物である。野田は『続 岳物語』の文庫版解説において、敢えて作品の文学的評価を一切行わず、本作に描かれた頃の野田から見た岳の姿や、『続 岳物語』完結後の岳の成長や野田との交流を語ることに紙幅を割くことで解説に代えている。この中で野田は、高校生の頃のよく鍛え上げられた岳の肉体を見て、これは椎名が文字通り血と汗を流して作り上げたもの、と父を讃え、逞しく成長した岳に対しても「彼をボディ・ガードにして北極圏の川に行きたいものだ」「本の『岳物語』はこれで終るが、われわれの『岳物語』はこれからいよいよ面白くなる」と、彼の将来に期待を寄せている。
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岳物語
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目黒考二にとって椎名は、『本の雑誌』の編集作業や東ケト会の活動などを共にする「仲間うち」の存在であり、そのために普段は敢えて椎名の著書について評することを避けていた。しかし本作については『本の雑誌』連載の読書ガイド「新刊めったくたガイド」(北上次郎名義)の中で「一度だけ禁を破る」として『岳物語』を紹介するほど気に入っている。この読書ガイドの中で目黒は『岳物語』について、親子の交流の背後に椎名自身の父親の姿をだぶらせている点、そして作品の底流に流れる、たとえ親子でも人生のある一時期しか濃密な関係を持ち得ないという哀しみを作品の魅力として挙げ、「若い父親諸君はぜひ読んでほしい」と評している。後年の椎名へのインタビューの中では、『続 岳物語』はさらに良いと評し、『岳物語』『続 岳物語』の文庫化に際して、気に入った作品なのでぜひ解説を書かせて欲しいと椎名に頼んでいたにもかかわらず、すっかり忘れられていたというエピソードを明かしている。目黒は本作が広く読者を獲得した要因について、作中の父親(椎名)は決して立派な教育者ではなく、息子に対して横暴ですぐ怒り、それを妻や友人に窘められて反省する、そうしたどこにでもいるような父親の姿に、読者が自己を投影し共感を得られたからだと分析している。また、『定本 岳物語』に収められた渡辺岳本人によるエッセイに関しても、モデルとして書かれたことの戸惑いを実に正直に書いていて素晴らしい、と評している。
(集英社『すばる』2007年3月号 - 2008年10月号連載「いいかげんな青い空」改題)
『岳物語』正・続2冊は商業的にも大きな成功を収め、読者や椎名の友人知人から「ぜひ続編が読みたい」「面白くなるのはこれから(中学生以降)だ」といった声が多数寄せられたが、先に記した通り中学生になった岳本人の怒り、そして彼が実生活で受けた様々な迷惑に直面した椎名は、続編を書くことを止めた。岳は高校卒業後、短期間プロボクサーとして活動したのちアメリカ合衆国に渡った。サンフランシスコの大学で写真学を修めて写真関係の仕事に就き、同地で日本人女性と結婚し、一男一女の家族となった。
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岳物語
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そうした折に、椎名が長年の『本の雑誌』編集の相棒であった目黒考二から、祖父と孫の小説を書いてはどうかと提案を受けて執筆されたのが『大きな約束』『続 大きな約束』(集英社、2009年)である。椎名は同作中で『岳物語』所収作と同じ「アゲハチョウ」と題した短編を執筆し、その中で上述のような『岳物語』第3部を執筆しなかった事情や、その後の岳の略歴について説明した。そして、第3子の出産を日本で行うために岳夫妻と2人の孫が日本にやって来るところで『続 大きな約束』は幕を閉じる。
岳一家は第3子となる次男の誕生後、東日本大震災の影響もあってそのまま日本に定住することを決め、椎名は3人の孫との関係を描いた私小説の執筆を本格的に開始した(『三匹のかいじゅう』『孫物語』『家族のあしあと』など)。それらの作品群の中では息子の本名を基本的に使わず、「彼ら(孫たち)の父親」と表現している。
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ユニバーサル・シリアル・バス
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ユニバーサル・シリアル・バス(英: Universal Serial Bus、略称:USB、ユーエスビー)は、コンピュータ等の情報機器に周辺機器を接続するためのシリアルバス規格の1つ。ユニバーサル(汎用)の名の示す通り、ホスト機器にさまざまな周辺機器を接続するためのペリフェラルバス規格であり、最初の規格となるUSB 1.0は1996年に登場した。現在のパーソナルコンピュータ周辺機器において、最も普及した汎用インターフェース規格である。
USB規格では、1つのバスについて周辺機器は最大で127台接続可能である。接続口が足りない場合には、ツリー状に拡張できるUSBハブの使用も想定している。プラグアンドプレイにも対応しており、規格制定当時の一般的な外部インターフェースでは不可能だったホットスワップも可能としていた。
ホストバスアダプタからの周辺機器への電源供給を規定している(バスパワー)。そのため従来のコンピュータ周辺機器だけでなく、事務用品や携帯電話、デジタルオーディオプレーヤー、日用品や便利グッズなど多様な機器へ電力を供給をする用途にも使用されるようになった。USBのコネクタを持ちつつ、この電力供給機能に特化したデータ通信を一切行わないという充電専用ケーブルも販売されている。
USBはホスト機器と周辺機器を接続する規格であり、ホスト同士・周辺機器同士の直接接続にはUSB On-The-Go対応機器を除いて非対応で、電力供給能力が低いといった限界や柔軟性に欠ける部分はあるものの、現在のパーソナルコンピュータ環境では利便性に優れ、周辺機器との接続に最も使用される規格である。特に外部記憶デバイスとして扱えるUSB接続のUSBメモリは可搬性の高さからよく利用されている。
USB 3.1 Gen 2 以上の最大転送速度は10 Gbps、USB 3.2 Gen 2x2 以上で 20 Gbps、USB4 Gen 3x2 以上で 40 Gbpsとなる。
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ユニバーサル・シリアル・バス
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USB 3.1 Gen 2 以上の最大転送速度は10 Gbps、USB 3.2 Gen 2x2 以上で 20 Gbps、USB4 Gen 3x2 以上で 40 Gbpsとなる。
従来からのRS-232CシリアルポートやIEEE 1284パラレルポート、PS/2コネクタの置き換え(後々、レガシーポートとも呼ばれるようになる)を狙ってコンパック、ディジタル・イクイップメント・コーポレーション (DEC)、IBM、インテル、マイクロソフト、NEC、ノーテルネットワークスの7社が合同で1994年に開発を行い、Windows 98において正式にサポートされたことで普及した。
さらにUSB 2.0/3.0の登場によって転送速度が大幅に向上し、従来はIDEやSCSI、イーサネットなど高速転送規格が必要だったハードディスクドライブ等の機器との接続にも用いられている。
USB 3ではマイナーバージョンが乱立し、ユーザーに混乱を引き起こした。USB Promoter GroupのCEO、Brad SaundersはUSB 3における混乱を受けて、USB4を元にした新規格が作られた際には、マイナーバージョンではなく新名称を与える方針を公表した。
当初はインテル、マイクロソフト、コンパック(現:ヒューレット・パッカード)、ディジタル・イクイップメント・コーポレーション(現:ヒューレット・パッカード)、IBM、NEC、ノーザンテレコム(現:ノキア)が仕様を策定したが、2017年9月現在では、NPOのUSBインプリメンターズ・フォーラム (USB-IF) が仕様の策定や管理などを行なっている。USB-IFは、Apple、ヒューレット・パッカード、インテル、マイクロソフト、ルネサスエレクトロニクス、STマイクロエレクトロニクスの6社が主導企業であり、合計996社で構成される。
類似独自規格の乱造乱立を防ぐ目的で特許自体は存在しているが、特許使用料は無料とされている。なお、USBデバイスの製造においては製造者を識別するためのベンダーIDの申請を行う必要がある。
多くの他のバス規格では、特許料の支払いの関係で個別での契約が必要であるなど、中小法人の参入が難しかったのに対し、USB規格ではルールさえ守れば事実上誰でも参入可能なことが普及を促進したと言われており、玩具など幅広い機器が発売されている。
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ユニバーサル・シリアル・バス
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多くの他のバス規格では、特許料の支払いの関係で個別での契約が必要であるなど、中小法人の参入が難しかったのに対し、USB規格ではルールさえ守れば事実上誰でも参入可能なことが普及を促進したと言われており、玩具など幅広い機器が発売されている。
USB規格は、最大転送速度の向上などを求めて何度か規格が拡張されている。これらは1.1から4まで上位互換であり、機能や性能が下位規格に縛られる事を除けば、下位規格品と上位規格品を接続しても正しく動作する事が求められている。
1996年1月発表。最大12 Mbps (1.5MB/s)。
1998年9月発表。USB 1.0の規格仕様を電源管理等について改善した。最大12 Mbps (1.5MB/s)。
2000年4月発表。USB 1.1の規格仕様に、High-Speedモード(最大480 Mbps)を追加した。
480 MbpsのHigh-Speed転送やそれをサポートする機器と、規格のバージョン番号であるUSB 2.0を同一の意味で使う場合があるが、これは誤用である。USB 2.0規格では依然としてFull-SpeedデバイスおよびLow-Speedデバイスは設計および製造が可能でかつ販売および利用が可能である。USB-IFではHigh-Speedであることを明示したいような場合の用語として"Hi-Speed USB"を使うように指導している。
USB-IFにより規格標準化が進められ、2008年8月のIntel Developer Forumにて、revision 1.0が2008年第4四半期に登場すると明言され、同時にピンの仕様とコネクタおよびケーブルのプロトタイプが出席者に対して公開された。その後、正式な通称が「SuperSpeed USB」とされ、ロゴも公開された。2008年9月には暫定規格であるrevision 0.9が決定された。
2008年11月17日に「SuperSpeed USB Developers Conference」上で正式な仕様が発表され、USB 3.0規格はrevision 1.0として正式なものとなった。
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ユニバーサル・シリアル・バス
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2008年11月17日に「SuperSpeed USB Developers Conference」上で正式な仕様が発表され、USB 3.0規格はrevision 1.0として正式なものとなった。
USB 3.0は、物理的な後方互換性を保ちつつ、最大データ転送速度が5 Gbps(ただし、8ビットのデータが10ビットの信号に変換されて送られるので、実際のデータ転送速度は4 Gbps = 500 MB/sが上限)となった。ピンの数が標準では5本増えて9本となり、USB On-The-Go対応のオプションでは計10本となるが、ピン形状が工夫されUSB 1.1やUSB 2.0対応の(標準)A端子、(標準)B端子、マイクロB端子との物理的な後方互換性は確保されたが、ミニUSBは規格から消滅した。
ピンの数が増えた理由は、USB 2.0以前とUSB 3.0以降で完全に別の信号線を使用するからである。つまり、USB 3.0以降はUSB 2.0以前と別の技術で動作している。
符号化方式がUSB 2.0のNRZIに対して8b/10bとPRBSが採用され、通信モードも半二重から全二重(単信2組)となる。物理層にはPCI Express 2.0の技術が準用されている。携帯機器への配慮から消費電力の削減が強く求められ、SuperSpeedではポーリングが排除され、4つの待機モードも新たに設けられた。
また、USB 3.0対応機器のコネクタの絶縁体部には1.1/2.0との区別のため青色を使用することが推奨されている。
電磁放射ノイズのピークを下げるために、スペクトラム拡散クロックが必須とされた。光伝送も含まれる予定だったがコスト面からの反対が多く、revision 1.0での導入は見送られた。光伝送技術の導入に積極的なインテル社は、将来の採用を構想している。
放射電磁雑音対策のために、信号ケーブルにはシールド付きの物を使用するが、規格である3 mの伝送距離を満たした試作品は直径6 mmあり、携帯機器によってはUSBケーブルで宙に浮いてしまう。そういった事態を避けるために今後、伝送距離を1 m程度に短くし、伝送損失が許される範囲の規格で更に細い信号ケーブルを使う事も検討されている。
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放射電磁雑音対策のために、信号ケーブルにはシールド付きの物を使用するが、規格である3 mの伝送距離を満たした試作品は直径6 mmあり、携帯機器によってはUSBケーブルで宙に浮いてしまう。そういった事態を避けるために今後、伝送距離を1 m程度に短くし、伝送損失が許される範囲の規格で更に細い信号ケーブルを使う事も検討されている。
USB 3.0がチップセットに内蔵されることでマザーボードの標準機能に含まれるのは、AMD社ではA75、Intel社ではIntel 7シリーズからである。
増設インターフェイスカードを使用する際には、通信速度のボトルネックに注意が必要となる。USB 3.0の1ポートあたりの最大転送速度は5 Gbpsであり、PCI Express x1 (Gen 2) の最大転送速度も5 Gbpsであるため、市場に多く出回っているPCI Express x1のインターフェイスカードを増設した場合、USB 3.0を2ポート以上接続して利用するとPCI Express x1の転送速度がボトルネックとなる。これを避けるために、PCI Express x4スロットで接続するインターフェイスカードも登場している。また、PCI Express x1のマザーボードからの最大供給電力は10 Wであるが、USB 3.0の2ポートに規格上限の電力を供給すると9 Wとなり、カード自体の消費電力と合わせると不足する。このため、多くのPCI Express x1のインターフェイスカードには、電源ユニットからの電力線を接続する補助電源端子が備わっている。
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2012年までの多くのパソコンで、USB 3.0が1ポート(もしくは2ポート)と残りがUSB 2.0ポートという組み合わせにされている理由は、(1) 2009年の時点でUSB 3.0コントローラーを市場に供給できる唯一のメーカーであったルネサスのUSB 3.0コントローラが技術的に2ポートまでしか対応していないこと、(2) USB 3.0の要求する電力がUSB 2.0よりも高く、容量の大きな電源が必要になってくること、および、(3) チップセット内蔵の場合、CPU⇔サウスブリッジ間のバス・バンド幅が現状では十分でないため、現状では全てのポートをUSB 3.0化することは技術的に不可能であること、などが原因である。ほどなくVIAなどの各製造メーカーもUSB 3.0に対応し、また4ポート対応のコントローラーも開発されるなどで、登場から5年後の2014年頃には特にポートの少ないノートパソコンではUSB 3.0への完全対応がなされた。
2013年8月1日、USB 3.0 Promoter GroupはUSB 3.1規格の策定完了を発表した。USB 3.1は、以下のようにUSB 3.0を取り込んでいる(GenはGenerationの意)。
USB 3.1 Gen 2モードはSuperSpeedPlus USBで10 Gbpsの転送を可能とする。
SuperSpeedPlus USB 10 Gbpsでは信号転送速度を5 GHzから10 GHzにアップ、データエンコードも8b/10bからより効率的な128b/132b の採用など物理レイヤーを変更することで現行のSuperSpeed USBの2倍の実効データスループット性能を実現している。一方でソフトウェア階層やデバイスのプロトコルといった論理レイヤーは現行のUSB 3.0と共通で、USB 3.1 Gen 1モードでは5 GbpsのUSB 3.0と同様に使用でき、Gen 1モード・Gen 2モードのいずれもUSB 3.0ハブ・デバイス・ケーブルとの互換性は保たれている(ただしUSB 3.0ハブ下の機器は5 Gbpsでの転送となる)。
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この結果、USB 3.1対応機器はUSB 1.1/2.0の論理レイヤー+USB 1.1/2.0の物理レイヤー、USB 3.xの論理レイヤー+USB 3.0の物理レイヤー、USB 3.xの論理レイヤー+USB 3.1の物理レイヤー という3パターンの内部動作が要求される複雑なものとなっている。
2017年7月25日、USB 3.0 Promoter GroupはUSB 3.2規格を発表。2017年9月25日に正式リリースされた。
USB 3.2は、以下のようにUSB 3.0と3.1を取り込んでいる(GenはGenerationの意)。
x2が2レーンを表している。USB 3.2 対応の両端がType-Cコネクタのケーブルを利用したときだけ2レーンが利用可能になり、20 Gbps対応となる。
2倍の物理層が必要な2レーンオペレーションに対応しつつも転送速度を10 Gbpsに留めておく合理的な理由がほとんど存在しないため、Gen 1x2に実用性はあまりない。
ケーブルの片側がStandard-Aでもう一方がType-CのUSB 3.1 Gen 2対応ケーブルも使用できるが、その場合、2レーンは使用できない。
2019年3月4日に仕様策定が進行中であることが。2019年9月3日に仕様が一般公開された。技術的にはIntelから提供されたThunderboltプロトコル仕様がベースとなっており、既存のUSB 2.0・USB 3.2仕様との後方互換性を有する。バージョンに小数点以下の数字が付かなくなり、かつ、数字とUSBの間に空白を入れないことになった。
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2019年3月4日に仕様策定が進行中であることが。2019年9月3日に仕様が一般公開された。技術的にはIntelから提供されたThunderboltプロトコル仕様がベースとなっており、既存のUSB 2.0・USB 3.2仕様との後方互換性を有する。バージョンに小数点以下の数字が付かなくなり、かつ、数字とUSBの間に空白を入れないことになった。
2レーンオペレーションのType-Cコネクタを使用する事が前提であり、帯域は標準で20 Gbps、オプションで40 Gbpsとなる。ただし、USBとしてのデータ転送プロトコルは最大で20 GbpsのUSB 3.2のままである。対応したプロトコル(USB 3.2、DisplayPort、オプションでPCI Express)トンネリングに対応し、最低でも1レーンを占有するDisplayPort Alt Modeでは不可能であったケーブル一本でのUSB 3.2の20 Gbpsデータ転送とDisplayPortの映像出力を同時に利用できる。また、ホスト側にDisplayPort(USB4及び従来のDP Alt Mode)による映像出力の実装が義務付けられたため、規格に準拠しUSB4を名乗っているポートであれば必ず映像出力に対応する事となった。
2022年10月18日に、データ転送速度が80 Gbpsに向上したUSB4 Version 2.0の仕様が公開された。80 Gbpsでのデータ転送は既存のUSB 40Gbpsパッシブケーブル、もしくは新たに規定されたUSB 80Gbpsアクティブケーブルで可能となる。既存のUSB4・USB 3.2・USB 2.0との後方互換性を有する。
Wireless USBは、2005年5月に発表された。無線通信によるデバイス接続をサポートする。Agere Systems(現:LSIコーポレーション)、HP、インテル、マイクロソフト、NEC、フィリップス、サムスン電子の7社により策定された。有線USB規格と接続性を考慮しているが、それらとは独立した規格として作成されている。
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Wireless USBは、2005年5月に発表された。無線通信によるデバイス接続をサポートする。Agere Systems(現:LSIコーポレーション)、HP、インテル、マイクロソフト、NEC、フィリップス、サムスン電子の7社により策定された。有線USB規格と接続性を考慮しているが、それらとは独立した規格として作成されている。
USBでは、1つのバスに仕様上最大127台の機器を接続し同時に使用することができる。ホットプラグにも対応する。ただしOS、USB機器によっては、取り外す場合USBデバイスを停止させる手順を実施しないと警告が出ることがある。これは、ドライバ・ソフトウェアの処理で、状態の不整合による不具合が起こることがあるためである。
ホストを根 (root) とし、ハブとデバイスによる木構造の接続形態をとる。通信データはパケット化され送られる。ハブとデバイスは動作中それぞれ独立したバスアドレスを持つ。このアドレスはデバイスがバスに接続時にホストにより動的に割り当てられる。アドレスは7ビットであり、特殊用途のアドレス0を除くと127個の個別デバイスが同一バス上に同時に存在できる。パケットはHigh-speedまではブロードキャストされ、パケットに指定されているあて先アドレスを見てデバイス側で必要なパケットを受信する。SuperSpeed以降はユニキャストである。通信はホスト側からの働きかけにより開始される必要があるため、SCSIなどと異なりバス上でデバイス側からの通信開始は基本的には行えない。周辺機器同士を直接接続するための拡張仕様USB On-The-Goでは、どちらか片側がホストとしてふるまうことで「ホスト対デバイス」の関係となるよう設計されている。
HDDなどを接続するとHigh-SpeedモードでもMass Storageクラス準拠では転送速度がボトルネックとなる場合があるため、転送方法の工夫で実効速度を向上させる製品を出荷しているところがある。バッファローの「TurboUSB」とアイ・オー・データ機器の「マッハUSB」がそれで、20 - 30%高速化すると謳っている。ソフトウェアで処理するため接続するパソコンの性能に依存し、両社ともWindowsとMac OSのみの対応となっている。
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USB Attached SCSI Protocol(略称:UASP)とはUSBの拡張仕様で通信プロトコルの一つである。
一般的に補助記憶装置との通信はバルク転送が使われており、転送効率の悪さから通信速度の低下を招いていた。それに代わりSCSIデバイスで使われていた通信プロトコルを応用することで通信速度の改善を図ることができる。
UASPを利用するにはパソコン及びデバイスの対応と、それらを制御するOSの対応がそれぞれ必要である。
USBでは、周辺機器の機能によってグループ分けされたデバイス・クラスと呼ばれる仕様群が定義されている。それぞれのクラス仕様(クラス仕様によってはサブクラスの仕様)に従って作成されたデバイスには統一した制御インターフェースが用意され、クラス仕様に準拠した機器類は、クラス・ドライバーと呼ばれる共通のデバイスドライバ・ソフトウェアによって動作させることができるため、同一クラスであれば製品ごとに個別のドライバ・ソフトウェアを作る必要がなくなっている。例えば、多くのUSBメモリはマスストレージ・クラスというクラスに属しており、OS側がマスストレージ・クラス対応のクラス・ドライバを用意していれば、USBメモリがクラス仕様に準拠する限り、新たにドライバをインストールする必要がなく、初めて接続してもすぐに動作する。ただし、実際にはデバイス側の仕様違反、特定ホストの動作に依存したデバイスの実装、仕様上の曖昧さによるぶれなどにより、共通のクラス・ドライバでは動作しない、ドライバ内に不具合回避処理が盛り込まれる、専用ドライバが提供される、という場合もある。
2009年11月現在、USB.orgによって定義されているデバイス・クラスは以下の通りである。
USB規格ではホストコントローラの規格を定義しておらず、以下のホストコントローラ規格はUSBの仕様外である。複数のホストコントローラ規格がある。これらは制御方法が異なるため、それぞれ別のドライバが必要である。ただし同一ホストコントローラ規格内では共通のものが通常使える。
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2009年11月現在、USB.orgによって定義されているデバイス・クラスは以下の通りである。
USB規格ではホストコントローラの規格を定義しておらず、以下のホストコントローラ規格はUSBの仕様外である。複数のホストコントローラ規格がある。これらは制御方法が異なるため、それぞれ別のドライバが必要である。ただし同一ホストコントローラ規格内では共通のものが通常使える。
端子類/コネクタの形状はUSB 2.0までは転送プロトコルと同じ規格で、3.0以降は転送プロトコルとは独立した規格で定められている。ミニA端子B端子、ABソケットについては拡張規格であるUSB On-The-Go規格内で定められている。定義されている端子形状には以下のものがある。
A端子類はコンピュータ本体やハブ(下流・デバイス接続側)に、B端子類は周辺機器やハブ(上流・ホスト接続側)に使われている。ミニB端子類は、デジタルカメラなどの小型デバイスに使用される。端子形状を変えることにより接続方法を制限し、バストポロジーの木構造が保たれるように配慮されている。
ミニABソケット(メス側コネクタ)は、ミニAプラグとミニBプラグのどちらでも接続できるものであり、マイクロABソケット(メス側コネクタ)についても同様である。詳しくはUSB On-The-Go参照のこと。携帯情報端末やスマートフォンなどの一部で使われている。これらの搭載機はパソコンに接続する場合は『子機』として動作し、単体の場合は他のUSB機材を接続して『親機』として使うことを前提としている事と小型化のために採用している。使用時は接続ケーブルを交換することでどちらの動作をすべきなのかを判断している。本体側もUSBホスト機能を内蔵している。
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ユニバーサル・シリアル・バス
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USB 3.0まで対応出来る端子とソケットが2008年11月から新しく仕様に加わった。従来どおりUSB 1.1以降での上位互換性を守り、USB 3.0まで対応可能な端子とソケットはUSB 1.1以降の物との混用が可能である。USB 3.0でのピン数の増加に対応して新たな端子とソケットは、USB 2.0までの規格形状を満たしながら、奥まった位置 (A) や2段重ね (B)、横位置(SideCarと呼ばれる横並びの配置、Micro-B)に追加の端子が増やされた。(この増やされた端子の分だけ、USB 3.0のBコネクタ、Micro-Bコネクタは、USB 2.0までのBコネクタやMicro-Bコネクタよりも大きく、USB 3.0用の接続ケーブルをUSB 2.0機器に接続することができない。)
どの世代においても、端子は、データ端子よりも電源端子の方が長くなっている。これは、機器が挿抜される際、電源が入っていない状態でデータ端子に電圧がかかり、機器を破損するのを防止するためである。
補足:WACOMが出していた液晶タブレットPL-550はミニDINコネクタ4ピン形状のコネクタを採用している。しかし、ピンアサインはS端子ともADB (Apple Desktop Bus) とも異なる。現在、日本国内でこのケーブル単体での入手は困難である。
USBポートとコネクタは、さまざまな機能とUSBバージョンを区別するために色分けされていることがよくある。ただし、これらの色はUSB仕様の一部ではなく、メーカーによって異なる場合がある。たとえば、USB 3.0仕様では適切な色分けが義務付けられているが、標準AのUSB3.0コネクタとプラグには青色 (Pantone 300C) のインサートのみが推奨されている。初期型のPlayStation3のコラボモデルは例外的に、本体カラーにUSB端子の色が変更されている場合がある。
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ユニバーサル・シリアル・バス
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2014年8月、USB 3.0 Promoter Groupによって策定された。スマートフォンなどの小型機器に向けたサイズの縮小と、最大100Wまでの電力供給を可能にするUSB Power Deliveryへの対応、そして表裏どちら向きでも挿せる構造が特徴。 ただし、USB Type-Cコネクタを装備する機器であってもUSB 3.1やUSB Power Deliveryに対応するとは限らないので注意が必要(コネクタ形状と機能は別々に考える必要がある)。
特徴は以下の通り。
USB A端子はその端子を正面から見るといずれの側からも単なる長方形となっており、接続するための裏表を間違う事がある。実際にはオス側(穴のある側)表面にかかれているUSBのマークにより判断が可能だが、それを利用者が意識せず逆差ししようとすることがある。USBポートおよびオス側コネクタ内の厚みの半分ほどをプラスチックの板で塞ぐことにより、逆差しが物理的に不可能になるようにしてあるので(本記事内の各写真を参照)USBプラグが差せない、という状況になる。
バッファローはA端子の表裏どちらを挿しても正常に使用できる独自仕様の「どっちもUSB」シリーズ(USBハブ・ケーブル等)を2012年に発売した。
USB 2.0規格ではケーブルはHigh/Full Speed用とLow Speed用の2つが定められている。安価に製造できるようLow Speed用は電気的特性が緩い。Low Speedデバイスではケーブルが分離できるように設計することが明示的に禁止されているため、単独のケーブルはすべてHigh/Full Speed用となる。
USB 3.0規格はSuperSpeed用に信号線が増やされているためにケーブルもUSB 3.0用のものが用いられる。
誤接続を防ぐため、A端子はホスト側、B端子はデバイス側と規定されている。このため、両側がA端子、あるいは両側がB端子であるようなケーブルは規格違反品である。
またこれとは別に、A端子とAソケットが付いたUSB延長ケーブルはA・B端子使い分けの点では問題がないが、複数接続によって規定の長さを超える危険性があるため、これも規格で明示的に禁止されている。
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ユニバーサル・シリアル・バス
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誤接続を防ぐため、A端子はホスト側、B端子はデバイス側と規定されている。このため、両側がA端子、あるいは両側がB端子であるようなケーブルは規格違反品である。
またこれとは別に、A端子とAソケットが付いたUSB延長ケーブルはA・B端子使い分けの点では問題がないが、複数接続によって規定の長さを超える危険性があるため、これも規格で明示的に禁止されている。
USB 2.0規格はUSB 1.1規格と互換性を保つように設計されたため、USB 2.0規格のUSBポートにUSB 1.1規格で設計された機器をつないでも使える。また、USB 2.0規格で新設されたHigh Speed機器をUSB 1.1規格で設計されたポート、ハブにつないだ場合でも、Full Speedの転送速度で使用できる。また、USB 3.0規格は、USB 2.0規格と互換性があるように設計されている。しかし、現在のUSB 3.0規格に準拠していない製品にもかかわらず、USB 3.0をうたっている製品がある。これらは、USB 2.0との互換性がない・転送速度が遅いなどの不具合を起こす可能性がある。
USBケーブルの規格はUSB 2.0で変更されていないので、同じものが使えることになっている。USB 1.1の規格を正しく守っていない低品質のケーブルでは、High Speed通信においてケーブルの長さなどに制約を受けることもある。また「USB 2.0対応」と称するケーブルも発売されている。これはシールド線構造等外部からのノイズを防ぐ工夫がなされているものと考えられる。
見落とされがちであるが、ACアダプターに十分な給電能力があっても、その規格に見合うケーブルが使われていない場合、給電能力が制限されるので注意が必要である。
USBホストコントローラとUSBデバイス側のコントローラのメーカー、モデル、ファームウェア等の差異、かつてはさらにOSやドライバ側の問題などによっても相性問題が生じたことも知られており、特に規格成立初期に登場したコントローラ同士を接続した際に混乱を生じたこともあった。
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USBホストコントローラとUSBデバイス側のコントローラのメーカー、モデル、ファームウェア等の差異、かつてはさらにOSやドライバ側の問題などによっても相性問題が生じたことも知られており、特に規格成立初期に登場したコントローラ同士を接続した際に混乱を生じたこともあった。
この「初期の相性問題」については、インテル社が自社製のPC用チップセットにUSBホストコントローラを内蔵することによって各デバイスがインテル社製チップセットのホストコントローラおよびWindowsへの接続に対して互換性の確保を図ることで、間接的に機器間の相性問題も収斂してゆくという結果を、USB 1.1、2.0ともに辿っている。
また、USB 1.1までの仕様では、インピーダンス等の電気的特性における仕様がゆるく、規格適合性試験も必須でなかったため、相性問題の発生を抑制し切れないという事情もあった。USB 2.0仕様からは電気的仕様が厳密になり、USBロゴを取得するための規格適合性試験も必須となったため、「相性問題」はほぼ解消されたといわれる。
しかし、市場やユーザーの手元には、初期に製造され相性問題を抱える製品が現存している場合もあり、また、一部のメーカー・ベンダー製ホストコントローラとコントローラ間などにおいては、相性問題を発生する状況も依然として存在し続けている。
具体的な症状としては、USBメモリが認識はされるが中身が表示されない(別のコネクタに接続すると正常に動作する)、ストレージモードで接続している携帯型音楽プレーヤーが途中でシャットダウンする、などが挙げられる。
規格上は、最大127台までの機器を一つのバスに接続することができる。木構造の「深さ」を示すTierは、ルートハブ(ホスト)を含め7段までに制限されている。つまりデバイスとホストの間にハブは最大5台まで存在することができる。ケーブルの最大長は規格では遅延時間とVBUSの電圧降下の最大値として定められており、ケーブル1本あたり最大26 nsおよび125 mVである (§7.1.16, 7.2.2)。
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規格上は、最大127台までの機器を一つのバスに接続することができる。木構造の「深さ」を示すTierは、ルートハブ(ホスト)を含め7段までに制限されている。つまりデバイスとホストの間にハブは最大5台まで存在することができる。ケーブルの最大長は規格では遅延時間とVBUSの電圧降下の最大値として定められており、ケーブル1本あたり最大26 nsおよび125 mVである (§7.1.16, 7.2.2)。
しかし実際には、USBコントローラやハブとUSB機器の「相性」や、ハブの備える物理的なポート数などによって制約を受け、USB関連デバイスの開発メーカー等における接続テストのような場合を除けば、日常的に実際に127台のデバイスを接続して利用する例は極めてまれといえる。言い換えるなら、エンドユーザーが規格上の論理接続数を一般的な利用の範囲内で飽和させるという使用例はまずあり得ず、余裕をもった規格であるといえる。
週刊アスキーで実験したところ、80台目あたりからエラーが頻発したものの、繋ぎ方を工夫すれば100台までは実用に耐えたという。
USBは、基本的には信号ケーブルとして設計されている。その一方で実際的な利便性にも配慮し、小電力のデバイスについては、接続される周辺機器の駆動用の電源をUSBケーブルで供給するバスパワード(「バスパワー」と省略されることが多い)による駆動にも対応している。供給電圧は5 V (±10%)、電流はローパワーデバイスは100 mA(USB 3.xは150 mA)、ハイパワーデバイス最大は500 mA (USB 2.0)・900 mA (USB 3.0) までとされている。USBデバイスがサスペンド状態の場合は最大電流は500 μAまでだったが、2007年リリースのLink Power Management Addendum ECNにより2.5 mAまでとなった。
USB給電のための規格で、USB 2.0規格の給電仕様の拡張が試みられている。USB IFにより2007年にRevision 1.1、2010年にRevision 1.2がリリースされた。従来のUSB 2.0ポートはStandard Downstream Port (SDP) と定義し、新たにチャージングポートと呼ぶ2種類が規格化されている。
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USB給電のための規格で、USB 2.0規格の給電仕様の拡張が試みられている。USB IFにより2007年にRevision 1.1、2010年にRevision 1.2がリリースされた。従来のUSB 2.0ポートはStandard Downstream Port (SDP) と定義し、新たにチャージングポートと呼ぶ2種類が規格化されている。
2012年7月にUSB 3.0プロモーターグループは、USB Power Delivery (USB PD) Revision 1.0 Version 1.0 の規格化を完了したと発表した。USB Battery Charging Revision 1.2と共存して使用される。10 W・18 W・36 W・60 W・100 W の5つのパワープロファイル (Power Profile) があり、認証されたPD対応USBケーブル、USB A/Bコネクタを使用することで20 V, 100 Wまでの電源供給が可能となる。マイクロUSB B/ABコネクタでは最大20 V, 60 Wまでとなる。ホストからデバイス、デバイスからホストへの電源供給がケーブルのつなぎかえなしで可能。
2014年にUSB 3.1の一部として USB Power Delivery Revision 2.0 Version 1.0 がリリースされ、USB Type-Cケーブルに対応した。
2016年にリリースされた USB Power Delivery Revision 2.0 Version 1.2 と USB Power Delivery Revision 3.0 Version 1.0 では5つのパワープロファイルに代わって、パワールール (Power Rules) という給電仕様にとなった。 USB Power Delivery Revision 2.0 との後方互換性を持つ。5V・9V・15V・20Vの電圧仕様があり、供給側は3Aで最大供給電力以下となる電圧はすべてサポートする必要がある。パワールール以外の電圧、電流もオプションで許可されている。正式にUSB Type-C専用の給電規格となり、USB A/BコネクタでのPDは普及することなく規格から削除された。
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USB Power Delivery Revision 3.0 Version 1.0 では、オプションでプログラマブル・パワー・サプライ (Programmable Power Supply; PPS) の機能があり、電圧を可変にでき、充電時の余計な発熱を減らし、電力の利用効率を上げられる。一部のスマートフォンなどで利用されている。
また USB Power Delivery Revision 3.0 Version 1.0 では、オプションでファスト・ロール・スワップ (Fast Role Swap; FRS) の機能があり、0.15ミリ秒以内に給電と受電の役割を入れ替えることができる。
USB給電仕様は、当初はローパワーデバイスについてはPC/AT互換機におけるPS/2コネクタの置き換えを念頭に、マウスやキーボードに搭載される小電力の半導体ロジック等の駆動を前提として設計された。またハイパワーデバイスについてもそれらのロジック回路などよりは電力を要求することを想定しているものの、いずれもスピンドル(モーター)の駆動や機器の充電手段等としての大電力の利用を想定したものではなかった。このため小型ノートパソコンの一部などのように供給電流を抑えてある場合、500 mAに近い電流で動く事を想定しているUSB接続機材の動作が不安定だったり動作しない事もある。
ハイパワーデバイスとしての仕様以上の電力を要求するディスクドライブ等のモーター駆動式の機器や、大規模な集積回路などを含み電力を消費する画像用のキャプチャー機器等については、USBバスは純粋に信号バスとしてのみ利用し、電力は機器側で用意する「セルフパワー」と呼ばれる接続手段を用いることとされた。
バスパワードのデバイスを多数接続、あるいはバスパワードのハブを使用して多段接続をすると、給電能力を超えるため、ポート側には給電をシャットダウンする機能が備わっている。ユーザー側でも不用意に過大なたこ足配線とならないよう、市販のバスパワー駆動のUSBハブは殆どが4ポート以下で構成されている。
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バスパワードのデバイスを多数接続、あるいはバスパワードのハブを使用して多段接続をすると、給電能力を超えるため、ポート側には給電をシャットダウンする機能が備わっている。ユーザー側でも不用意に過大なたこ足配線とならないよう、市販のバスパワー駆動のUSBハブは殆どが4ポート以下で構成されている。
USBポート、バスパワードのハブにおいて、給電能力を大幅に越えた合計消費電力となるポートの接続はサポートしておらず、最悪の場合、ハブやPC側のインターフェース・カードやバス、電源回路などの保護回路が作動するか、機器にダメージを与えることがある。
しかし市場では実際に、USBの普及に伴いこの僅かな供給電力を、2.5インチおよび1.8インチのポータブルハードディスクドライブ、また、消費電力の大きいDVD-Rの書き込みドライブ等のスピンドル媒体への供給電力に転用したり、携帯電話やPHSなどの電池充電用の電源として流用する例が目立ち始めた。
コンピュータ本体との接続ケーブルとAC電源を別に用意する煩わしさをなくすために、1本のケーブルで機器を接続したいというユーザーの要求は根強く、USBの給電能力を増強するべくPlusPowerという電圧と電流の拡張も検討されていた。しかし、安全性や互換性の問題などの指摘も相次いだことから正式に仕様には盛り込まれなかった。
この問題を解決するため、PoweredUSBという、USB 2.0ポートを拡張した規格がIBMより登場した。供給電圧5 V・12 V・24 V。最大電流は6 A。PoweredUSBに対応した接続ケーブルが必要とされる。しかし、2012年11月現在、この規格はUSB-IFから正式な承認を得られていない。
また、デバイスとは認識させず、電源のみを供給させる周辺機器も存在する。1台の機器に対して、2つのホストコネクターから2台分のバスパワーを供給するための特殊な二股ケーブルなどが該当する。
中華人民共和国情報産業部では2006年、携帯電話の充電器にUSBポートを設け、複数キャリア間でもACアダプターが共用できるようにする方針を打ち出している。
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また、デバイスとは認識させず、電源のみを供給させる周辺機器も存在する。1台の機器に対して、2つのホストコネクターから2台分のバスパワーを供給するための特殊な二股ケーブルなどが該当する。
中華人民共和国情報産業部では2006年、携帯電話の充電器にUSBポートを設け、複数キャリア間でもACアダプターが共用できるようにする方針を打ち出している。
2007年4月には、USB経由での充電時間を短縮するための規格「Battery Charging Revision 1.0」が策定された。これは、充電器などが、USBのホストが大電流を流すことができるかを検知することで、従来のUSB 2.0規格における上限の500 mAを超える電流を得ることを実現する仕組みの規格である。
2009年6月に携帯電話の業界団体やEUでも携帯電話端末の充電器のコネクタにマイクロUSBを採用し、共通化する動きがでてきた。
市場では、PCやセルフパワー型のハブのUSBポートからコンセントのように電力が得られる点を利用して、USBを電源供給にのみ用いる周辺機器が次第に登場するようになった。モバイル機器だけでなく、携帯ゲーム機、デジタルオーディオプレーヤー等の携帯機器用の充電器・充電用ケーブルや、小型扇風機、電灯といったデバイスとは認識されない周辺機器、中にはUSBから電源を得る利点がほとんど見出せないようなものも商品化されており、電気街の商品棚をにぎわせている。年末になると登場する卓上クリスマスツリーや、夏季の扇風機などはもはや風物詩でさえある。中には、USBによるバスパワー30本分(並列接続で15アンペア、計75ワット)を電源として用いる「焼き肉プレート」を自作した人物も存在する。
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一方、これらのような「給電専用ポートとしてのUSB」タイプ周辺機器の展開を追う形で、単に電源を供給するために電力供給機能のみに限定した、USBポートと同一形状のコネクタを持つACアダプタや、充電式の電池や乾電池等を使用した給電ユニット等も発売されている。このような製品を使用することによって、外出時に機器ごとにACアダプタを持ち歩かずに充電可能で、かつ複数の機器を単一のACアダプタで使用することが出来る利便性がある。また国ごとに違うコンセントの形状や周波数・電圧等に対して機器側で対応するのではなく各国で市販されているUSBアダプタ側で対応できるためメーカーとしては輸出機械の設計が容易になるメリットも有る。壁面のコンセントボックスに埋め込んで給電用USBポートを提供するUSBコンセントも市販されている。
ただし、メーカーが保証している一部機種を除いて、これら「電力供給専用のUSBポート関連製品」を用いて充電することは機器メーカーの保証対象外となる。
また、これらの「給電専用ポートとしてのUSB」タイプ周辺機器と、通常のインターフェースとしてのUSBポートを接続する場合も、ほとんどが動作保証の対象外となる(そもそも、ホスト側の許可を得ずにターゲットが勝手に「電力を奪う」実装はUSB規格違反である)。
最近では、高性能なUSB電源供給能力を謳ったマザーボードも販売されている。
2010年代初頭から、カフェ、ホテル、空港、旅客機、鉄道や長距離バス・タクシーの車内で、利用者のスマートフォンの充電やノートパソコンの利用の便宜を図るため、電源を提供する例が増えている。
多くは商用電源の提供であるが、商用電源のプラグ形状や電圧は、国家や地域によって異なるため、海外旅行者が手持ちのACアダプタを使えない場合などに配慮して、壁面USBコンセントを使ったUSB電源の提供や、USB-ACアダプタの貸出を行っている場合もある。
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多くは商用電源の提供であるが、商用電源のプラグ形状や電圧は、国家や地域によって異なるため、海外旅行者が手持ちのACアダプタを使えない場合などに配慮して、壁面USBコンセントを使ったUSB電源の提供や、USB-ACアダプタの貸出を行っている場合もある。
しかしUSBは、もともとデータ通信用の接続規格として制定されたものであり、電力供給専用として使うことを想定された規格ではない。一見電力供給専用に見える機器・コネクタであっても、それが接続された機器からデータを抜き取ったり、コンピュータプログラムを送り込んだりしないと保証することは困難である。一部のUSB充電器は充電専用であることを明示するために、USBコネクタの樹脂部品部分に赤色や緑色、黄色といった色分けをしている(青色はUSB3.xの意であり給電用ではない)が、統一された規格ではないうえ、不正な機器が偽装のためこれらの色付きコネクタを使うことも容易に可能である。
そのため、情報機器からのデータの抜き取りやコンピュータウイルスへの感染を未然に防止する観点から、自宅などの信用できる場所以外の施設では、給電用にUSBポートが提供されている場合であっても、これらのUSB(USB-C, マイクロUSBやLightningなど、データ通信可能なケーブルの接続されたものや、貸出されたUSB-ACアダプタも同様)を使用せず、スマートフォンやタブレット端末の情報機器は、自前で純正アダプタを用意して、商用電源コンセントから充電することが、コンピュータセキュリティ上望ましい。
2023年4月6日には、米国連邦捜査局 (FBI) も同様の注意喚起を行うツイートを行った。
2010年代以降、スマートフォンやUSB充電に対応したワイヤレスヘッドホンの登場とともにUSB ACアダプタが普及している。ただし、それ以前の2000年代でも、形状が今の時代とは異なるUSB ACアダプターが製造・使用されていたことがある。
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2023年4月6日には、米国連邦捜査局 (FBI) も同様の注意喚起を行うツイートを行った。
2010年代以降、スマートフォンやUSB充電に対応したワイヤレスヘッドホンの登場とともにUSB ACアダプタが普及している。ただし、それ以前の2000年代でも、形状が今の時代とは異なるUSB ACアダプターが製造・使用されていたことがある。
スマートフォン用としては、一般にUSB Type-Aポートを持つUSB ACアダプタが登場したが、スマートフォンがUSB Type-Cポートをサポートするようになってからは、USB Type-Cポートを持つUSB ACアダプタも登場している。2019年頃より窒化ガリウム技術を採用することにより、小型軽量化が進み、複数のポートを搭載し、同時に2台以上のデバイスの充電に対応した製品も登場している。
なお、日本国内での使用を想定してUSB ACアダプタを購入する際には、特定電気用品PSEマーク、製造事業者等の名称、定格電圧、定格消費電力等の表示のある機器を選択すること。そのほか、メーカー(機器に自社のブランドを付けて販売している業者)が信用できるか、偽ブランド品ではないかなど留意するとともに、購入した覚えのない機器、出所の明らかでない機器は使用しないことが望ましい(前述のコンピュータセキュリティに対する懸念のほか、盗聴器が内蔵されているなどの懸念に対する防御のため)。
USBはUSB 1.0のころから接触不良が多く見られた。特にUSB 1.0では機器のオス側で接点面が上を向いた状況で使われると塵埃が乗ったり腐蝕性物質(塩分)の付着により接触不良となることが多い。また、たびたび端子の脱着を繰り返す間に金属枠の部分が変形し、接点の圧力が低下することが接触不良の原因となりうる。
スマホなどのモバイル機器ではUSBマイクロ端子が通信だけでなく、単に給電や充電に使われることが多いが、ポケットなどに入れることで端子に塵埃が入り込み接触不良となることがある。また脱着を繰り返すたびに金属枠が変形し、接点の圧力が低下することで接触不良となることもある。
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スマホなどのモバイル機器ではUSBマイクロ端子が通信だけでなく、単に給電や充電に使われることが多いが、ポケットなどに入れることで端子に塵埃が入り込み接触不良となることがある。また脱着を繰り返すたびに金属枠が変形し、接点の圧力が低下することで接触不良となることもある。
接触不良が起こると単に給電や充電が不安定になるだけでなく、通信が不安定になることで、例えばハードディスクやUSBメモリーなどでは深刻で、単にデーターエラーとなるだけでなく、時に不可逆なハードエラーとなることがある。
まず、接触不良が起きた場合には端子の金属枠が変形していないか確認する必要がある。多くは脱着により端子枠が変形して広くなり、接点の圧力が低下する方向なるので用手的に金属枠を狭くすることで解決することがある。
接点の塵埃や腐蝕に対しては、エアを吹く以外に適切な解決方法がないが、コンタクトRと称してレシートを用いて接点を研磨する方法が報告されている。これはレシートに塗られた炭酸カルシウムの層により接点の塵埃や酸化物を研磨してとりさる方法である。簡便で入手しやすく、非導電のため接点のショートなどの危険が無いのが特長である。
USBは、それまでのレガシーインターフェースに代わる新たな汎用バス・インターフェースとして、コンパック(現:ヒューレット・パッカード)インテル、マイクロソフト、NECなどにより策定された。
USBは、当初からホットプラグを可能とする画期的なインターフェースとして注目を集め、Microsoft WindowsではWindows 95 OSR2から、Macintoshでは暫定的に初代iMac専用のMac OS 8.1からサポートされるようになった。ただし、Windows 95 OSR2とUSB Supplemental Support、及びメーカー提供のデバイスドライバの組み合わせによる対応は追加仕様であり、周辺機器メーカーも乗り気ではなく、OSの標準仕様として盛り込まれるWindows 98が登場するまでは様子見の感が強かった。Macintosh環境においてiMacがUSB以外のインターフェースを切り捨てて登場したために、USBの普及が急速に進んだが、標準サポートとなるMac OS 8.6までは数多くの不具合と問題を抱えていた。
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日本国内においてUSBに対して動きが素早かったのは、USBの仕様策定にも関わったNECである。NECはPC-9821シリーズやPC98-NXシリーズにUSBポートを搭載するだけでなく、1997年にはターミナルアダプタ、マウス、キーボード、スキャナ、プリンター、ジョイスティック等多種のUSBデバイスを登場させていた。ただし、これらの素早い展開は一部にWindows 98以降でサポートされない物も出てくるなど混乱を生じる原因ともなった。
最初のホストアダプタ製品は、1996年にPC向けのPCIインターフェースに増設するカードとして登場した。
またインテルが1996年にリリースしたPC向けチップセット430HXにおいてUSBホストアダプター機能を内蔵すると、USBを搭載したPCは急速に普及を開始する。
IBMは、AptivaJ/Hシリーズ1996年11月モデルでオンボードのUSBポートを備えた機種を登場させた(前述の430HXチップセットの採用による)。しかしキーボードやマウスはPS/2コネクタに接続されていた。
当時のWindows 95 OSR2では、USBデバイスのサポートは限定的なものだったため、IBM側では動作を保証しない非公式のUSBドライバーを添付するに留め、該当機種に付属したマニュアルにはこのドライバーの入った付属ディスクに動作未保証が明記され、同社サポートダイアルでもプリインストールのWindows 95と付属ドライバーで動作させていた環境では動作保証はないとアナウンスしていた。これらはAptivaに限らず、同時期の他の互換機についても同様である。これらの機種のUSBポートは、Windows 98等のUSBサポート機能のあるOSを導入した際に、はじめて正式対応される性質のものだった。
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標準添付のマウスやキーボードをUSBによって接続しPS/2コネクタを廃した製品は、日本国内ではNECが1997年秋に発売したPC98-NXシリーズ(準PC/AT互換機)が最初である。これはUSB接続のマウスとキーボードを「レガシー・エミュレーション」によりPS/2デバイスとして動作するようにしたものである。ただし、初期のPC98-NXシリーズについてはPS/2コネクタはマザーボード上に存在し、筐体に穴が開けられていないだけに留まり、またシリアル/パラレル等のレガシーポートも健在である等、レガシーフリーを徹底したものではなかった。また当時の一部機種ではBIOSの既定値設定に問題があり、当時のLinux 2.4系カーネル(カーネル側でもレガシーエミュレーションを想定していなかった)のインストール時に正しく認識することができなかった。このような経緯を受け、後にサードパーティー各社から発売されたUSB機器の中には、トラブルを嫌忌してPC98-NXシリーズでは動作保証しない旨表示するものも存在した。
なおUSB 1.1に正式対応したのはWindows 98 Second Editionからで、その後登場したUSBデバイスは初期版Windows 98以前を対応環境に含めない場合がほとんどである。ただしSecond EditionもUSBマスストレージ・クラスなど多くの汎用ドライバを標準装備していないため個別にドライバをインストールする必要があり、挿してすぐに使える便利さは備えていない。
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なおUSB 1.1に正式対応したのはWindows 98 Second Editionからで、その後登場したUSBデバイスは初期版Windows 98以前を対応環境に含めない場合がほとんどである。ただしSecond EditionもUSBマスストレージ・クラスなど多くの汎用ドライバを標準装備していないため個別にドライバをインストールする必要があり、挿してすぐに使える便利さは備えていない。
このようにUSBホストアダプタの実現と搭載は早かったものの、PC互換機を中心とした市場では急速な移行を強いられることはなく、USBへの移行は緩やかなものとなった。長年に渡って互換性が検証され、よくメンテナンスされたレガシーインターフェースはハード・ソフト(ドライバ)とも「枯れて」動作も安定しており、単純な仕様によりCPUに対する負荷が少ないというメリットもあった。またパラレルポートもECPによる転送速度はUSB 1.1よりも高速であり、SCSIはさらに高速である。これらのレガシーインターフェースの多くは、ホットスワップにこそ対応しないもののプラグアンドプレイへの対応は完了しており、ユーザビリティの面でも特に不自由がなかったため、USB 1.1の段階では利便性の面においても移行にメリットを見出し難いという事情も存在していた。
なお、特にキーボードについては、USB HIDの仕様でキーロールオーバー数が6に制限されるため(それ以上の同時押しに対しては、先に押されたキーが放されたことにするなどする必要がある)、ゲーム用などでPS/2接続のキーボードの需要がある(標準のドライバではない専用の特殊なドライバと独自設計のプロトコルで、USB接続でこの問題を解決したキーボードもある)。
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なお、特にキーボードについては、USB HIDの仕様でキーロールオーバー数が6に制限されるため(それ以上の同時押しに対しては、先に押されたキーが放されたことにするなどする必要がある)、ゲーム用などでPS/2接続のキーボードの需要がある(標準のドライバではない専用の特殊なドライバと独自設計のプロトコルで、USB接続でこの問題を解決したキーボードもある)。
PC市場においてUSBデバイスはUSB 2.0が登場した2000年頃より本格的な普及を開始し、現在では外付け用周辺機器の接続用バスの主流の座はUSBに移っている。レガシーバスを搭載しないレガシーフリーPCも現れており、特にラップトップPCでは比較的早い時期から特に珍しいものではなくなっていた。しかしUSBとレガシーポートの併用もまた、実に10年以上の長期に渡り続いている。レガシーポートを搭載したPCもごく最近まで一般的に販売され続けて来ており、2000年代における現状としては、完全な移行はUSBの登場から10余年をもってようやく完了しつつある、という状態である。
米調査会社In-Stat社は2007年に全世界で出荷されたUSBのポート数は26億ポートに達したと伝えた。同社はこの数が2012年には43億ポートになり、この内USB 3.0は4.5億ポートとなると予測している。
1998年にUSBを標準搭載したiMacは、モニタ一体型の斬新なデザインとともに、従来の汎用インターフェースADBのみならずSCSIやRS-422シリアルポートも廃してUSBへ一本化するなど、PC98-NXよりさらに思い切った仕様で登場し、話題と議論を呼んだ。
従来、USB機器の製造・販売に躊躇していた周辺機器メーカーも、既存のインターフェースを扱うことができなくなったiMacシリーズ向けとしてUSBへの対応を迫られる形となり、普及が一気に進んだ。iMac本体に合わせたトランスルーセントデザインのUSB周辺機器が流行となり、幅広い層に受け入れられていった。こうしたUSBデバイスにはMacintoshとWindows双方のドライバが添付され、結果としてPC/AT互換機におけるUSBの普及を後押ししたという側面もある。
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USB 3.1(初期はGen 1の為5 Gbps)の登場とともに、USB-Cだけを採用したMacBookが2015年3月10日に発表された。電源ポートもUSB Power Deliveryで兼ね、従来のUSB-AやMagSafe 2すら搭載しないという大胆なI/Oポートの構成を採っている。
NECのPC-9821シリーズは他社に先駆けてUSBに対応したモデルを出していたが、USB登場時点ですでにPC-9821シリーズ自身が末期だったこともあり、NEC製の機器を除き対応機器は非常に限られているが、Windows 98 SEやWindows 2000では、多くのデバイスが動作するようになった。
家庭用ゲーム機ではドリームキャストとXboxがUSBをアレンジした独自形状の端子によるコントローラ接続を採用した。最初に汎用USB端子を採用したのはPlayStation 2だが、キーボード、マウス、ボイスチャット用ヘッドセットなど一部の周辺機器の接続を除けば積極的には活用されなかった。また、キーボードとマウスはPC/AT互換機用USB仕様のものがそのまま流用できるが、あまり知られなかった。ただし、PS2本体を改造し、ゲームデータをバックアップ起動するときは頻繁にUSBメモリを接続する。また、PS2を採用したアーケードゲームの基板のバージョンアップにも使用する。
2000年代後半に登場したXbox 360、PlayStation 3の汎用USB 2.0端子はコントローラーを接続するほか、パソコンに近い柔軟な活用性を持っている。双方とも、のちの本体アップデートで外付けHDDを自由に接続できるようになった。WiiもUSB 2.0端子を備えるが、用途はネットワークアダプターやキーボード、Wii用周辺機器などの接続に限られる。
PlayStation 4のAUX端子およびAUX端子に接続するPlayStation Cameraの実態はUSB 3.0であり、他機器との同時接続で通信速度を確保できない可能性を回避するため独自形状の端子となっている。
携帯ゲーム機のPlayStation PortableやPlayStation Vitaはそれ自体がUSBデバイスとして機能し、パソコンやPlayStation 3に接続してデータのやり取りや、一部のモデルを除き充電などを行う。
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携帯ゲーム機のPlayStation PortableやPlayStation Vitaはそれ自体がUSBデバイスとして機能し、パソコンやPlayStation 3に接続してデータのやり取りや、一部のモデルを除き充電などを行う。
最近のアーケードゲーム基板NAOMIやSYSTEM246等のI/O通信用に、物理的にUSBケーブルが流用されているが、こちらは業界団体JAMMAで策定されたJAMMA VIDEO規格 (JVS) となっており、信号レベル・プロトコルともUSBとは互換性はない。
携帯電話端末はUSBケーブルを使ってパソコンに接続しデータのやり取りや充電、携帯電話の通信網を使ったデータ通信などを行う。携帯電話側の端子は独自のものが多いが、汎用USBポートを採用したものもある。携帯音楽プレーヤーなどの小型デバイスも汎用USB端子を備えPCに接続するものが多い。薄型テレビ、AVアンプ、デジタルフォトフレーム、DVD/BDレコーダー/プレーヤーなどもUSB端子を持つものがあり、USBメモリ内のマルチメディア・ファイルを再生したりデジタルカメラ、デジタルビデオカメラなどとの接続に利用する。薄型テレビにはUSB接続されたHDDにTV放送を録画できる物がある。
早ければ2009年の年末からストレージ機器などの採用機器が登場すると見込まれていた。バッファローが2009年10月28日にUSB 3.0対応の外付けハードディスクドライブとUSB 3.0ポートを増設するためのインターフェースカードを発売。これは個人が購入できるUSB 3.0対応機器とインターフェースカードとしては世界初となる。コンシューマ向けに販売されているマザーボード、インターフェースボードではNECエレクトロニクス(現:ルネサス エレクトロニクス)製USB 3.0コントローラチップと、マーベル製SATA 3.0 (SATA 6 Gb/s) コントローラーチップが同一の基板上に搭載され、単一の製品として販売される事例が多い。PlayStation 4,Xbox Oneのみ、外付けHDDをUSB3.0の規格で接続でき、外付けHDDのゲームデータを直接起動することも可能である。
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なお、実効500 MB/secであるUSB 3.0のインターフェースカードを増設する場合は、増設バスの帯域幅も実効500 MB/secのものが必要となり、さもなくば動作はするが増設バスがボトルネックとなる。PCI Express 2.0 x1(実効500 MB/sec)対応のものが標準的である。
2010年8月、初期に登場したUSB-IF未認証のコントローラーを採用したマザーボードでUSB 1.x/2.0機器を接続しても動作しない問題が起きている。
USB 2.0規格に対応するUSBデバイスは幅広いオペレーティングシステム (OS) でサポートされている。以下に主な物を示す。
USBクラス仕様の周辺機器の場合は、USBクラスデバイスをサポートするOS環境下であれば利用が可能である。組み込み系やゲーム機、デジタル家電等の場合は、ホスト側のUSBクラスデバイスのサポートが無かったり、不完全だったりする場合もある。またクラスデバイスでない周辺機器の場合も、各OS向けに周辺機器を認識するドライバ・ソフトウェアさえ用意されれば、同じ機器が利用できる。
USB 3.0規格に対応したUSBデバイスや、USBコントローラーを内蔵したマザーボード、インターフェースボード等は、2009年末から2010年前半に出揃い始めている。
OSのサポート状況は、それぞれのコントローラーやデバイスのドライバー(USB 3.0のマスストレージ、クラスドライバ等を含む)のサポートに主として依存すると目されている。OS自体がサポート打ち切りの場合、正式なドライバーのサポートは受けられない事が通例である。
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将棋
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将棋(しょうぎ)は、二人で行うボードゲーム(盤上遊戯)の一種である。一般的に「将棋」という場合には、本項で述べる本将棋(、古将棋や現代の変形将棋、変則将棋類などと区別するための名称)を指す。
チェスなどと同じく、古代インドのチャトランガが起源であると考えられている。本項では、主に本将棋について解説する(古将棋および将棋に関連する遊戯については、将棋類の一覧を参照)。
チェスやシャンチーなどと区別するため日本将棋()ともいい、特に日本の「本将棋」には「持ち駒」の観念が古くからあることが特徴とされている。これは、諸外国のチェス類似の伝統的ゲームに例のない独特のルールである。持ち駒を利用したチェス派生のゲームが考案されたのは後年のことである。
ゲーム理論の分類では、一般的には二人零和有限確定完全情報ゲームであるとされる。ただしステイルメイトや後述する千日手に関してルールの不備や曖昧さがあり、厳密には二人零和有限確定完全情報ゲームとは言えない。
現代の日本では特に本項で述べるいわゆる本将棋(81マスの将棋盤と40枚の将棋駒を使用)が普及している。また、はさみ将棋やまわり将棋など、本将棋のほかにも将棋の盤と駒を利用して別のルールで遊んだりする遊戯があり、変則将棋と総称される。
歴史的には「大将棋」(225マスの将棋盤と130枚の将棋駒を使用)、「中将棋」(144マスの将棋盤と92枚の将棋駒を使用)、「小将棋」(81マスの将棋盤と42枚の将棋駒を使用)などが指されていたこともあり、これらの将棋は現代の将棋に対比して「古将棋」と総称される。また、現代でも中将棋などにはわずかではあるが愛好家が存在する。ほかに小将棋から派生したと推定される朝倉将棋が福井県を中心として残されており、おもに福井県内のイベントなどで朝倉将棋の大会が開かれている。
将棋は2人の競技者(対局者)によって行われる。ここでは便宜的に自分と相手と呼ぶことにする。
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将棋
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将棋は2人の競技者(対局者)によって行われる。ここでは便宜的に自分と相手と呼ぶことにする。
上の表では便宜的に成銀を「全」、成桂を「圭」、成香を「杏」と表示している。この表記は、将棋駒の活字がない環境で(特に詰将棋で)しばしば用いられる。成銀を「全」、成桂を「今」、成香を「仝」、と金を「个」で表す流儀もある。実際の駒では成銀、成桂、成香、と金はすべて「金」と表記されているのが実際で、くずし方を変えることで成る前の駒がわかるようにしている。王将と玉将では役割が同一であっても、先手が玉将を持つことで後手と区別している働きが存在する。
将棋は対局者が相互に自らの駒を動かすことによってゲームが進められる。
将棋の対局において駒は対局者各20枚ずつの計40枚を用いる。対局者間の棋力の差によって手合割(ハンデ)を考慮する必要もあり、対局者間の棋力の差がかなり大きい場合には駒落ち(棋力で上回る側に属する駒の一部を盤上から除外した状態での対局)となるが、基本的には駒を落さずに対局者各20枚ずつ対等に駒を持つ「平手(ひらて)」で指される(手合割の詳細については後述)。
平手戦の場合、開始時には駒を次のように並べる。
上図のように盤面を図として表示する場合、下側が先手、上側が後手となる。先手から見て将棋盤の右上のマスを基点とし、横方向に1、2、3、...、9(筋)、縦方向に一、二、三、...、九(段)とマス目の位置を表す座標が決められており、先手番から見て右端の敵陣1段目の位置を「1一」、左端の自陣1段目の位置を「9九」と表す。棋譜はこの数字を用いて表現される。また、先手は☗(Unicode文字参照U+2617、)、後手は☖(U+2616、)で示すのが一般的だが、コンピューターではJIS2004やUnicode登場前からの伝統的手法として先手は▲・後手は△で示すことも多い。
先手・後手は振り駒により決定する(プロのリーグ戦など事前に先手・後手が決定している場合もある)。
配置の順番は以下のように行われる。
上座の人が駒袋または駒箱を盤の下に(足付きの場合)入れる。
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将棋
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先手・後手は振り駒により決定する(プロのリーグ戦など事前に先手・後手が決定している場合もある)。
配置の順番は以下のように行われる。
上座の人が駒袋または駒箱を盤の下に(足付きの場合)入れる。
上記はあくまで作法であって並べる手順は基本的には自由であるが、多くのプロ棋士は伝統的に受け継がれてきた大橋流・伊藤流という二つの並べ方のどちらかを採用している。現在の主流は大橋流であり、およそ8割の棋士が採用している。伊藤流を採用している棋士は、鈴木大介、窪田義行など。また独自の並べ方を採用する棋士としては熊坂学などが挙げられる。
自分の番(手番)が来たら、必ず盤上の自分の駒のいずれか1つを1回動かすか、持ち駒を1つだけ盤上に打たなければならない。二手続けて指したり(二手指し)、パスしたりすること(自分の駒をまったく移動せず、持ち駒も打たないこと)はできない。
盤上にある自分の駒は、その駒の種類に応じて駒の動きに書かれている範囲内に存在するマスであれば、どこにでも移動させることができる。ただし、以下のような制限がある。
前述のように盤上の相手側3段を敵陣と呼ぶが、玉(王)と金以外の駒(飛、角、銀、桂、香、歩)は移動前後のマスが敵陣内だった場合、「成る」か否かの選択によって成駒へと変化することができる。
上述のように、成りは強制ではなく、成るか成らないかを選択することができる。特に銀、桂、香は、成ることによって移動できなくなるマスがあるため、不都合を生じることがある(例えば、銀が成ると斜め後ろに動かせなくなる)。そのため、これらの駒で成るか成らないかについて慎重な検討を要することもある。これに対して飛、角、歩は、成ると移動できるマスが単純に増加するのみの(駒の性能が上がる)ため、成りが選択されることがほとんどである。ただし、ごくまれに、反則である打ち歩詰め(後述)になる局面を回避する、または逆に成ることによって自玉に詰みが生じる局面(大抵は、成ってしまうと自玉の打ち歩詰めが解消されてしまう局面)を回避するなどの理由で、あえて駒を成らない場合もある。
持ち駒(自分の駒が移動した際に捕獲して得た駒)は一般的に盤の脇の駒台に置かれる。
持ち駒は自分の手番において盤上の駒を指す代わりに、合法手である(何らかの禁じ手や反則行為に該当しない)限りで任意の空きマスに打つことができる。
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持ち駒(自分の駒が移動した際に捕獲して得た駒)は一般的に盤の脇の駒台に置かれる。
持ち駒は自分の手番において盤上の駒を指す代わりに、合法手である(何らかの禁じ手や反則行為に該当しない)限りで任意の空きマスに打つことができる。
ただし、敵陣に持ち駒を打つ場合、成る前(将棋駒の表側)の状態で打たなければならない(持ち駒を打った手番のまま成ることはできない)。
プロの公式戦では持ち時間を定め、ストップウオッチまたは対局時計(チェスクロック)を用い、時間切れによる勝敗を厳正に定める。
公式戦では、名人戦では9時間、NHK杯では10分というように棋戦ごとに対局者それぞれの累計時間が決められており、その分を使い果たして以降は1手当たりの制限時間(30秒から1分)が課される「秒読み」が主である。プロの公式戦以外では持ち時間なしで最初から1手当たり○秒以内で指す対局も存在する他、一般的な対局では持ち時間がなくなった瞬間に負け(切れ負け)となる「指し切り」も普及している。
対局者の棋力の差によってはハンデキャップ付きの対局も行われる。棋力の差が非常に大きい場合、上位者が駒の一部を取り除いて(駒落ち)対局する。右図は「二枚落ち」と呼ばれる駒落ちの場合である。
駒落ち戦の場合には「先手」や「後手」ではなく、駒を欠いた上位者を上手(うわて)、そのままにした方を下手(したて)といい、上手を先攻として指し始める。
駒落ちにおいては棋力の差により、1枚ないし2枚の駒を落とすものから、飛車・角行に加え、金将・銀将・桂馬・香車まで落とす十枚落ちまでの手合割がある。特殊・あるいは極端なものとしては、上手が玉将1枚だけになる「裸玉」(19枚落ち)、上手が19枚落ち+持駒に歩3枚を持つだけの「歩三兵」や、金落ち・銀落ちといった特殊な駒落ちが指されることもあるが、あまり一般的ではない。
原則として互いに自らの駒で相手の玉将(王将)を捕獲することを目指す。しかし将棋は伝統的に「実際に王を取る」ことは忌避されたため、最も遅い場合でも一方の玉将(王将)が相手の駒に捕獲されてしまうことが不可避な状態(詰み)となった時点で勝敗が決まる他、どちらか一方が逆転不可能と判断した時点で投降することにより対局を終了する習慣になっている(投了)。
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原則として互いに自らの駒で相手の玉将(王将)を捕獲することを目指す。しかし将棋は伝統的に「実際に王を取る」ことは忌避されたため、最も遅い場合でも一方の玉将(王将)が相手の駒に捕獲されてしまうことが不可避な状態(詰み)となった時点で勝敗が決まる他、どちらか一方が逆転不可能と判断した時点で投降することにより対局を終了する習慣になっている(投了)。
投了のタイミングは、ルール上は自分の手番であればいつ行ってもよいが、実際に投了する局面としては、自玉が詰まされることが確定的となったとき(自玉が即詰みになることが判明した場合、自玉に必至がかかり敵玉が詰まないとき)がまず挙げられ、相手の攻めを受け切れず、自玉が一手一手の寄り筋となった場合、攻め合いで相手より早く玉を詰ますことができない場合も該当すると考えられる。このほか、自玉に具体的な詰み筋・寄り筋は見えなくても、到底勝ち目がないと判断して戦意喪失した場合、すなわち相手の受けが強くて一連の攻めが続かなくなった場合(指し切り)や、攻防に必要な駒を相手にほとんど取られてしまった場合、一方的に入玉されて敵玉が寄る見込みのない形になってしまったなどの場合に投了することもある。特にプロの公式戦では完全に詰むまで指すことはきわめて稀である。
原則的には詰みまたは投了によって勝敗が確定するが、勝敗の決し方には以下のようなものがある。
同一局面が4回現れた場合千日手となる。同一局面とは、「盤面・両者の持駒・手番」がすべて同一の場合のことをいう。千日手は原則として無勝負・指し直しだが、一方が王手の連続で千日手となった場合は、王手をかけていた側の負けである。これは、千日手が成立した手番に関係ないため、自身が指した手で千日手が成立して負けが決まることもあれば、相手が指した手で千日手が成立して負けが決まることもある。
通常の禁手のように、自分が指した手で負けが決まるとは限らないため、ルールでは「禁じられた手」ではなく「禁じられた局面」と表記している。連続王手の千日手は通常の禁手とは異なる特殊な規定のため、双方連続王手の千日手や最後の審判(詰将棋作品)といった状況においてルールの不備が指摘されている。
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通常の禁手のように、自分が指した手で負けが決まるとは限らないため、ルールでは「禁じられた手」ではなく「禁じられた局面」と表記している。連続王手の千日手は通常の禁手とは異なる特殊な規定のため、双方連続王手の千日手や最後の審判(詰将棋作品)といった状況においてルールの不備が指摘されている。
先後両者の玉(王)が互いに入玉し、互いの玉を詰ますことが困難になった場合、両者の合意の上で判定により勝敗を決める場合がある。この判定法により引き分けとなる場合を持将棋という。プロの公式戦においては「24点法」が用いられる。この場合、大駒1枚につき5点、小駒1枚につき1点として、互いに24点以上であれば引き分けとなる。アマチュアの大会の場合はそれぞれの規定による。一般に採用されることが多い「27点法」では、「24点法」と同様の点数計算を行ない、点数が多い方が勝ち、同点の場合は後手勝ちとしている。
次に挙げる行為は反則と決められており、着手した場合ただちに負けとなる。対局中であれば、反則行為が行われた時点ではそれに気付かずに手が進められても、終局前に反則が指摘された場合、反則した時点に戻して反則した側の負けとなる。対局中の助言は一切禁止されるが、反則行為が行われた場合に限り第三者がそれを指摘してもよい。
終局後に反則が判明した場合も、原則として反則をした側の負けとなる。たとえば、対局者が反則に気づかずに手を進め、反則された側が投了したとしても、反則を行った対局者の負けとして勝負結果が変更されることになる(棋戦の運営による例外の対応もあり。以前は投了優先であったが、2019年6月10日および同年10月1日に将棋連盟対局規定の一部変更が行われている)。
プロの棋戦で発生した反則は、記録に残っているもので回数が多い順に下記のとおり(2018年10月20日現在)。プロの棋戦において、打ち歩詰め・行き所のない駒によって反則負けになった例は現時点では1例もない。
プロが行ってしまった「ルール違反の手」として、下記のような事例がある。
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プロの棋戦で発生した反則は、記録に残っているもので回数が多い順に下記のとおり(2018年10月20日現在)。プロの棋戦において、打ち歩詰め・行き所のない駒によって反則負けになった例は現時点では1例もない。
プロが行ってしまった「ルール違反の手」として、下記のような事例がある。
なお、「王手をするときには『王手!』と言わなければいけない」と誤認する者も多いが、そのようなルールは存在しない。これは、本来「自分で気づかなければいけない」とされているためである。そのような王手の発声は、指導対局や縁台将棋、初心者同士の対局などで慣習的に行われる場合があるに過ぎず、プロの公式戦などで行われることは皆無である。
打ち歩によって、連続王手の千日手でしか王手を解除できない状態を作った場合、打ち歩詰めに該当するのか否かが不明である。連続王手の千日手でしか王手を解除できない状態は詰みとみなすのかどうかに依存し、現行ルールではどちらの解釈も可能である。公式戦での前例は存在しないとされるが、「最後の審判」という詰将棋の問題において、発生する可能性が指摘されている。
この他に、歩を打った後の局面が「ステイルメイト」状態(次に動かせる駒が反則手以外にない局面)になった場合に、「打ち歩詰めの反則規定」に該当するのかについて、「一方が玉以外に盤上の駒や持ち駒がない」などの極端な勢力差にならない限り局面が出現せず、プロの実戦上は相当前の段階で投了による決着となるため、特に正式な見解は出されていない。また、両者が連続王手で千日手となった場合については定義されていないが、いまだ局面や手順として再現できておらず、公式戦でも前例が存在しないがゆえ、特に問題視されていない。
公式戦ルールの不備が改正された例としては、1983年に千日手の規定が「同一手順を3回繰り返した場合」から「同一局面が4回現れた場合」に変更された例がある。旧規定では、千日手になることなく無限に指し続ける手順の存在が数学を用いて簡単に証明でき、実際に千日手模様の無限ではないが、かなり長手数の対局が見られたことから改正された。また、相入玉の将棋で、一方が持将棋の合意や投了を拒否した場合、詰みによる決着の見込みがないまま延々と指し続けることになりかねないため、入玉宣言法や500手指了ルールが暫定導入されている。
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将棋の対局は、大きく以下の3つの場面に分けて考えることができる。
ひとつの対局を序盤・中盤・終盤の三場面に分けると、各場面ごとに目標とすべきことや思案すべきことや決断すべきことがある。以下、各場面ごとの指し方を解説する。
序盤戦は、攻撃・守備に適した駒組みを目指す段階である。将棋では長年の研究により効果的な駒組みのパターン(戦法)が数多く考案されており、それぞれの戦法について効果的な駒組みの手順(や分岐した手順)が研究され定跡が整備されている。序盤戦では戦法ごとの定跡をベースに、相手の駒組みを見ながらときには独自の工夫を加えて作戦勝ちを目指すことになる。
基本のセオリーは、盤面を左・右に分け、どちらかで攻撃の陣形を構築し、反対側で守備の陣形を構築する。居飛車はおもに右側を攻撃に使い左側を守備に使う戦法、振り飛車はおもに左側を攻撃に使い右側を守備に使う戦法になる。守備面では、通常は、玉を飛車の位置とは反対側に移動させ、2枚の金および銀桂香歩など(の一部)を用いて玉の周囲を守る囲いを築く。攻撃面では、通常は、強力な駒である飛角を中心に、そこに囲いに使わなかった駒(銀桂香歩など)も絡め、敵陣突破を図る体制を築く。もっとも、これはあくまで基本のセオリーであり、このセオリーをあえて外す戦法も数多くある。
将棋の初手は30通りあり、各初手について「ウィキブックス/将棋/定跡書」のページおよびそのリンク先に詳しい解説がある。
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将棋
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将棋の初手は30通りあり、各初手について「ウィキブックス/将棋/定跡書」のページおよびそのリンク先に詳しい解説がある。
プロ棋戦における初手は、角道を開ける▲7六歩が最も多く、飛車先の歩を突く▲2六歩がそれに次ぎ、ほとんどの対局はこのどちらかで開始される。近年3番目に採用率の多い初手は、先手ゴキゲン中飛車などで用いられる▲5六歩である。プロ棋士全体では(一年の)総対局数が約2300局あり、そのおよそ7割約1600局は初手▲7六歩と指している将棋で最も指されている初手となる。次いで約2割が▲2六歩、そして▲5六歩と続く。『イメージと読みの将棋観』(日本将棋連盟、2008)では2007年度統計で初手▲7六歩の出現率が78.5パーセントで先手勝率は5割2分7厘であるという。▲2六歩の出現率は17.3パーセントで勝率は5割4分6厘。初手▲5六歩の出現率は4.0パーセントで、勝率は5割3分2厘であるという。初手については見解も棋士ではさまざまで、羽生善治や佐藤康光、谷川浩司、渡辺明、森内俊之らは初手は▲7六歩か▲2六歩で、いずれも居飛車党なので、7六歩は矢倉もしくは角換わりでたまに振り飛車志向、2六歩は相掛かり志向としている。佐藤はゲン担ぎもあり、どちらかで負けたら違うほうにしているなどとしている。森内はその2手の他、▲3六歩や、▲1六歩と▲9六歩も1回ずつ指しており、いずれも勝利している。
現在では初手7八飛戦法や4八飛、5八飛といった先に振り飛車を明示する指し方も多い。初手▲5八飛は森内が小学生時代に羽生相手に指し、すると羽生は△5二飛と指したことが知られている。また基本的に嬉野流は初手▲6八銀、英春流は初手▲4八銀である。
羽生や谷川は両者とも先崎学に初手3六歩を試みられている。渡辺も初手▲3六歩を指したことがある他、藤井猛が初手▲6六歩を6局指しており、1勝4敗1戦千日手の戦績を残している。藤井によれば6六歩を指す意味は、相手が飛車先を伸ばさない居飛車戦法の場合▲7六歩の一手を省略でき、先手もその分他の手を先に指すことができるからだとしている。つまり早く△8六歩を突いて形を決めさせる意味があるという。
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羽生や谷川は両者とも先崎学に初手3六歩を試みられている。渡辺も初手▲3六歩を指したことがある他、藤井猛が初手▲6六歩を6局指しており、1勝4敗1戦千日手の戦績を残している。藤井によれば6六歩を指す意味は、相手が飛車先を伸ばさない居飛車戦法の場合▲7六歩の一手を省略でき、先手もその分他の手を先に指すことができるからだとしている。つまり早く△8六歩を突いて形を決めさせる意味があるという。
また中原誠が1983年の十段戦で加藤一二三に対し初手▲7八金を指している。この意味は先手居飛車党が振り飛車党相手に3手目に4八銀や6八玉として居飛車にしてこいというのと同様、後手に振り飛車にすると有利ですよと打診・挑発している意味もある。実戦では加藤は△8四歩とし、以下は普通の相掛かり戦となった。
なお初手の最悪手については、羽生は初手の▲8六歩としており、加藤一二三は1八香を初手の最悪手としている。1八香は振り飛車であれば、飛車を振った後に穴熊を目指すことができるが居飛車党からすれば意味のない1手パスにしかならないとしている。ただし渡辺は初手はどの手を指してもそこまで悪くない、先手なので1手パスして後手になると思って指せばさほど影響はないとしている。
駒組みが完成して駒がぶつかりあい始めるのが中盤戦の始まりである。中盤戦の攻撃面では相手の駒を取ったり、敵陣に切り込んでいくことを考え、終盤戦へ向けて持ち駒を増やして攻撃力を増すために相手の駒をとったり、敵陣を崩し敵陣内部に攻めの拠点を作ったりすることが目標となる。当然相手のほうも同様のことを考え目標としているので、防御面では相手に駒を取らせない、相手に自陣への侵入を許さないということも重要である。攻防どちらに主眼を置くかによって個人の棋風が現れる部分である。駒のやりとりが生じるので、駒の損得の計算も重要になる(これについては#駒の損得(戦力差)の節で説明する)。中盤戦で役に立つことが多い駒、次に終盤戦に入った段階で役に立つ駒はどれか、ということも考慮しつつ駒のやりとりをする。
なお、駒組みが未完成のままいきなり互いの玉に迫る激しい展開となることもあり、この場合は中盤戦がなく、序盤戦から急に終盤戦に入ったと評価される。
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なお、駒組みが未完成のままいきなり互いの玉に迫る激しい展開となることもあり、この場合は中盤戦がなく、序盤戦から急に終盤戦に入ったと評価される。
また、特にプロやアマ高段者などの対局では、時として中盤で形勢に大差がついたために、一方が攻防共に見込みがないと判断して投了することもあり、この場合は終盤戦がなく、中盤戦で終局となったと評価される。
どちらかの守りの陣が崩れ、玉の囲いも崩れ始めたころから終盤戦になる。 終盤戦は、勝利条件である詰みを目指して相手の玉に迫っていく。
終盤戦では、以下のような概念が使われる。
これらの概念を使って自玉と敵玉の状態を把握し、受けるべきか攻めるべきかなどを判断していくことになる。
最後の詰みに至る手順を寄せという。(中盤戦では駒のやりとりの損得計算が重要だったが)寄せの段階では駒の損得計算はさほど重要ではなくなり、それよりも「詰むか詰まないか」が最重要となり、正確な読みの力が重要となる。相手の玉を詰むことができるかできないかを見極めることも重要であるし、また自玉が詰むか詰まないかを見極めることも重要である。(なお、寄せの読みの力は普段から詰将棋のトレーニングをすることで養うことができる。また詰将棋問題を自作することで「詰むか詰まないか」の感覚を一層磨くことができる)。
王手には強制力があり、王手をかけた側は一応は一種の「先手」となり、王手をかけ続ける限りは(逆王手を除けば)自らが攻め続けることができる。だが実戦での寄せは、将棋の格言で「王手するより縛りと必至」「玉は包むように寄せよ」「王手は追う手」というように、敵玉が即詰みでない場合の安易な王手は、かえって敵玉を安全地帯に逃がして勝ちを逃してしまう結果を生むことのほうが多いので、むしろ相手の玉にじわじわと縛りをかけ、つまり相手玉の周囲のマス目に自分の駒を効かせて相手玉の動ける方向を制限してゆき必至を狙う方が勝利につながることが多いとされている。
中盤戦で形勢に大差がつき片方だけが敵陣を切り崩しなおかつ持ち駒の種類も多い状態で終盤戦に入ったような場合は、終盤戦でもその勢いのまま優勢側が一方的に寄せてゆき、劣勢側は防戦で最善をつくしても防戦むなしく勝負がつくという展開が多い。
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中盤戦で形勢に大差がつき片方だけが敵陣を切り崩しなおかつ持ち駒の種類も多い状態で終盤戦に入ったような場合は、終盤戦でもその勢いのまま優勢側が一方的に寄せてゆき、劣勢側は防戦で最善をつくしても防戦むなしく勝負がつくという展開が多い。
ただしそういう状況に陥ってしまったと劣勢側が気づいた場合は、そうはさせまじと、「一発逆転」を狙って、「狙うは相手玉のみ」とばかりに、持ち駒も守備に使うことは諦め攻撃のみに使う覚悟で、なりふりかまわずともかく相手玉とその周辺だけに集中して一気に攻撃をしかける場合もある。「一発逆転」などということは簡単にできるものではないが、それでも、そのまま生真面目に防戦ばかりしていては勝つ可能性は限りなくゼロに近いことが分かっているので、たとえ博打のような選択であるにしても、相手が「うっかりミス」などをしてくれて自分が勝てる可能性を残したほうがまだマシだ、という計算をしたうえでの作戦である。
時には、互いに詰めろを掛けては受ける攻防を繰り返し、最終的にAがBの玉に必至をかけ、その瞬間にBがAの玉を即詰みにする手順を見つければBの勝ち、見つけられなければAの勝ちになる、といったきわどいゲーム展開になることもある。
お互いに玉に迫りあっている場合では、相手への詰めろを1手外すと逆に自玉にかけ返されてしまうことが多々ある。また詰めろや必至で敵玉に迫っていったとしても、そのときに自玉に詰めろがかかっていることを見落としていたり、あるいは相手が王手をかけてきたところで正しく対応していれば詰まなかったところを対応を誤ったりで、自玉が即詰みの筋に入ってしまってからではそれに気づいても手遅れである(このようなケースを「頓死(とんし)」という)。このように終盤戦は、1手のミスで勝敗がひっくり返ってしまうことも多い重要な局面である。
この他に、一方的に攻められている場合などでは、相手陣に玉が侵入する入玉を目指す方法もある。
将棋の形勢とは、駒の損得や囲いや駒の働きなどを総合した有利不利の差のこと。形勢を指す語は次のように数多く存在しており、同程度の形勢を表す語であってもニュアンスが異なる。形勢の悪いほうから、
となる。この他に「形勢不明」というのもある。
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この他に、一方的に攻められている場合などでは、相手陣に玉が侵入する入玉を目指す方法もある。
将棋の形勢とは、駒の損得や囲いや駒の働きなどを総合した有利不利の差のこと。形勢を指す語は次のように数多く存在しており、同程度の形勢を表す語であってもニュアンスが異なる。形勢の悪いほうから、
となる。この他に「形勢不明」というのもある。
コンピュータ将棋では、形勢判断は評価値(形勢値)と呼ばれる数値で表す。それには得点方式とパーセンテージ方式があり、概ね次のような目安となる。 ただし、2023年のコンピュータ将棋大会で上位に入るソフト同士の対戦では評価値+300から逆転しない確率は約97%であるとされる。
序盤・中盤・終盤を問わず、指し手を決める際の基本は先読みと形勢判断である。まず、自分がこの手を指せば相手がどのように応じるか、それに対し自分はどのように応じるか、といった具合に先を読み、最終的に自分が有利になっているかどうか形勢を判断して、その手を指すかどうかを決めるのである。
形勢判断の要素としては、一般的に
の4つが挙げられる。
将棋の駒は動けるマスに違いがあることから、それぞれ価値が異なる。玉将(王将)はゲームの勝利条件となる最終目標の駒であるから、当然最高の価値を持つ。その他の駒の価値は局面によって変わってくるが、おおむね価値のある順に飛角金銀桂香歩となる。このうち、特に価値の高い飛車と角行を大駒と呼び、大駒と比べて価値の低い金将・銀将・桂馬・香車・歩兵を小駒と呼ぶ。
無条件で相手の駒を手に入れたり、自分の価値の低い駒と相手の価値の高い駒を交換したりすれば、局面を有利にできることが多い。このようにして、駒のやりとりで自分の戦力を上げたり相手の戦力を下げたりすることを駒得(こまどく)という。反対に相手に駒得をされることを駒損(こまぞん)という。駒得・駒損は形勢が有利か不利かを判断する上で、もっとも基本的な要素となる。特に相手の玉将を詰めるという目標がまだ見えていない序盤から中盤は、基本的に駒得を目指していくことになる。
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将棋
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自分の大駒1枚と相手の小駒2枚(または大駒と小駒1枚ずつ)の交換を行うことを、二枚替えという。駒得を図ったり、受け駒を一気に剥がしたりするための基本的な戦略の一つとなっている。例えば、角行1枚を相手に渡すかわりに金将と銀将を手に入れた場合、金銀2枚を得たメリットが角行を失ったデメリットを上回る。一方で飛車1枚の場合は、角行+銀将の2枚との交換で有利とされる。もっとも、終盤では相手に渡した大駒で詰まされる可能性があり、必ずしも二枚替えが有利となるわけではない。
駒得・駒損の目安として、各駒の価値を点数化した表を用いて点数計算をする方法がある(なお、ここでいう点数計算は持将棋となった場合の判定のための点数計算とは無関係であるため注意)。コンピュータ将棋のソフトウェア(ソフト)では、各駒の点数を内部で計算したものを局面評価のためのベースとすることがある。また、駒の点数計算による駒得・駒損の評価は、もっとも基本的な価値判断の方法としてプロ棋士が執筆した将棋の入門書などでも解説されることが多い。ここでは、代表的なコンピュータ将棋ソフトとして世界コンピュータ将棋選手権で複数回の優勝経験があるPonanzaとBonanza、代表的な棋士として永世名人の資格保持者である羽生善治と谷川浩司の4者がつけた評価値のうち、それぞれ最新のものを掲載する。
羽生方式や谷川方式に沿って計算する場合、自分の飛車を相手の金将・銀将の2枚と交換(二枚替え)すると、自分は6点+5点-10点=1点、相手は10点-(6点+5点)=-1点で、差し引き2点自分が得したことになる。また、自分の成香(香車の成り駒)と相手の金将を交換すると、自分は6点-6点=0点、相手は3点-6点=-3点で、差し引き3点だけ自分が得したことになる。
なお、上記における駒の価値はあくまでも目安であり、状況に応じて常に変化する。昇格(成り)に関しても、全ての駒において形式的な点数が上がってはいるが、局面によっては実質的に生駒の価値のほうが大きいとされる場合もある。特に利きの変化においてデメリットを伴う銀将(→成銀)・桂馬(→成桂)・香車(→成香)に関しては、昇格の判断が難しいとされる。
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なお、上記における駒の価値はあくまでも目安であり、状況に応じて常に変化する。昇格(成り)に関しても、全ての駒において形式的な点数が上がってはいるが、局面によっては実質的に生駒の価値のほうが大きいとされる場合もある。特に利きの変化においてデメリットを伴う銀将(→成銀)・桂馬(→成桂)・香車(→成香)に関しては、昇格の判断が難しいとされる。
盤上の駒がその価値を発揮できるかどうかは、局面やその駒の位置によって大きく変わってくる。そこで、自分の駒がどの程度働いているかの判断基準を「駒の効率」と呼んで、形勢判断の一要素としている。
例えば序盤において、左の香車と右の香車は先程の点数計算では同じ3点(羽生式や谷川式の場合)となる。しかし、もし玉将を左側に囲った場合、左の香車は玉将の守備を行う役割があることから、一般的に右の香車よりも価値が上がるとされる。また、例えば角交換となったあとで一方が盤上に角行を打ち込んだ場合、盤上に打たれた生駒状態の角行と未だに持ち駒状態の角行とでは、後者のほうが一般に価値が高い。なぜならば、後者の角行は隙あらば相手陣に打ち込んで竜馬にするチャンスもあり、相手側に対して打ち込みの隙を作ってはならないという制約を課す効果があるからである。
この他に、持ち駒の歩兵が0枚から1枚に増えた場合と、1枚から2枚に増えた場合とを比べた場合、形式的な計算ではどちらも1点であるが、実質的には前者のほうが価値が大きいとされることが多い。これは、歩切れ(持ち駒の歩兵がない状態)は、何かと入り用になる歩兵を好きなタイミングで使うことができずに不利とされているためである。
玉形とは、玉将(王将)の位置とその周りの駒の配置のことである。遠さ・堅さ・広さなどの要素で判断される。
玉形が良いか悪いは勝敗に大きく関わってくる。駒の損得で勝っている場合は穏やかな局面にすると良いのに対し、玉形で上回っている場合は激しい展開が望ましいとされる。駒損でも玉形の評価が良いとき、こちらは玉形を生かして激しく攻めまくり、相手は必死に耐えて反撃を狙ったりする。
なお、玉形の良し悪しは相手の攻めの形に大きく影響される。たとえば、矢倉囲いは上からの攻めに強い囲いであるため、互いに居飛車ならば堅いと評価されるが、相手が振り飛車ならば玉形の評価は悪くなる。
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なお、玉形の良し悪しは相手の攻めの形に大きく影響される。たとえば、矢倉囲いは上からの攻めに強い囲いであるため、互いに居飛車ならば堅いと評価されるが、相手が振り飛車ならば玉形の評価は悪くなる。
一方的に攻め続けている状態のことを「手番を持つ」又は「先手をとる」と呼ぶ。極終盤では寄せる速度が勝負を分けるため、主導権を得ることが重要となる。攻防に必要な駒さえあれば、全体的な駒の損得はほとんど形勢に影響しない。手番を得るために駒を捨てるということも行われる。これを表す格言として「終盤は駒の損得より速度」がある。
また、戦略・戦術以前の問題として、そもそも対局において先手番が有利か否かという点が話題となることがある(ある局面での手番を意味する「先手」「後手」ではなく、一つの対局の最初の手を指す側か否かの「先手」「後手」)。
将棋の起源は、古代インドのチャトランガ(シャトランガ)であるとみられているが、4人制チャトランガなのか2人制チャトランガなのか確定的な資料は見出されておらず論争がある。ユーラシア大陸の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられている。西洋にはチェス、中国にはシャンチー(象棋)、タイにはマークルック(マックルック)がある。
伝説としては、将棋は周の武帝が作った、吉備真備が唐に渡来したときに将棋を伝えたなどといわれているが、江戸時代初めに将棋の権威づけのために創作された説であると考えられている。
チャトランガ系のゲームがいつごろ日本に伝わったのかは明らかになっていない。囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。日本への伝来はいくつかの説があるが、木村義徳の6世紀から7世紀と、増川宏一の10から11世紀が激しく対立している。
系統も不明である。東南アジア系のゲームの伝来説では、マークルックとの類似性が19世紀末以降から一部指摘されており、その後、増川と大内延介がこれを広めた。ただしマークルックはビア以外は立体駒で、成立時期が12世紀までしか遡れていないという問題がある。逆に将棋がマークルックの成駒ルールに影響を与えたという説もある。また東南アジア説でも直接伝来は考えにくいため、最終的に増川は中国南岸において文字駒化したものが伝わったという説を提唱した。
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中国系のゲームの伝来説では、シャンチーと駒名の類似が認められるものの、置き方からルールまで差異が非常に激しいという問題がある。また、枝分かれする前の共通祖先の姿が立像なのか文字駒なのかも不明である(木村説では立像)。
いずれにしても当時の日本将棋に関する文献は皆無で、出土品も少なく、各説は想像の域を出ない。
将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、南北朝時代に著された『麒麟抄』があり、この第7巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著とされる『新猿楽記』(1058年 - 1064年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。
考古資料としての発掘は1980年代から相次いだ。現状、最古の駒は奈良県の興福寺境内から発掘された駒16点で、同時に天喜6年(1058年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の『新猿楽記』の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。
三善為康によって作られたとされる『掌中歴』『懐中歴』をもとに、1210年 - 1221年に編纂されたと推定される習俗事典『二中歴』に、大小2種類の将棋が取り上げられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)および平安大将棋と呼ばれている。平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将1枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には持ち駒の概念がなかったことがうかがえる。ただし平安将棋は持ち駒使用になっていたとする木村義徳の説もある。
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最古期の駒が発掘されるのは寺院に多く、僧が関わっていたとみられるが、一方で正倉院に囲碁・双六はあっても将棋は無いことから貴族への普及はその後と推測され、日記に登場するのは平安後期である。平安時代の駒は近畿だけでなく全国から発掘されている。これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵と平安大将棋のみにある銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に仏教の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある。
古将棋においては桂馬の動きは、チャトランガ(インド)、シャンチー(中国象棋)、チェスと同様に八方桂であったのではないかという説がある。持ち駒のルールが採用されたときに、ほかの駒とのバランスをとるために八方桂から二方桂に動きが制限されたといわれている。
これは世界の将棋類で同様の傾向が見られるようだが、時代が進むにつれて必勝手順が見つかるようになり、駒の利きを増やしたり駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われるようになった。日本将棋も例外ではない。
13世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案された。15世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案され、現在に至っている。15世紀から16世紀ごろ(室町時代)には小将棋から醉象が除かれて本将棋になったと考えられる。このころに「将棋を指す」という表現が定着したとされる。元禄年間の1696年に出版された『諸象戯図式』によると、天文年中(1532年 - 1555年)に後奈良天皇が日野晴光と伊勢貞孝に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない。室町末の厩図屏風には、将棋に興ずる人々が描かれている。
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16世紀後半の戦国時代のものとされる一乗谷朝倉氏遺跡から、174枚もの駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、1枚だけ醉象の駒が見られ、この時期は醉象(象)を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。1707年出版の赤県敦庵著作編集の将棋書「象戯網目」に「象(醉象)」の入った詰め将棋が掲載されている。ほかのルールは現在の将棋とまったく同一である。
江戸時代に入り、さらに駒数を増やした将棋類が考案されるようになった。天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋(大将棋とも。混同を避けるために「泰」が用いられた)・大局将棋などである。ただし、前提として江戸時代には本将棋が普及しており、これらの将棋類はごく一部を除いて実際に指されることはなかったと考えられている。江戸人の遊び心がこうした多様な将棋を考案した基盤には、江戸時代に将棋が庶民のゲームとして広く普及、愛好されていた事実がある。
将棋を素材とした川柳の多さなど多くの史料が物語っており、現在よりも日常への密着度は高かった。このことが明治以後の将棋の発展につながっていく。
将棋の発展のうち特筆すべきものとして、「相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できるルール」、すなわち「持ち駒」の使用制度が考案されたことが挙げられる。もっとも、このルールがいつごろできたものかのかは分かっていない。現在、提唱されている説としてはおもに以下の3つがある。
持ち駒ルールが生まれた理由もよく分かっていない。上述した駒の数の減少に伴うゲーム性低下を補うため、将棋の駒に色分けが無いためという説明が一般的になされる。また、や、金・銀・桂(馬)・香はいずれも資産または貿易品を表していることから、将棋は戦争という殺し合いをテーマにしたゲームではなく、資産を取り合う貿易や商売をテーマにしたゲームという側面があり、相手から奪った資産は消滅するのではなく自分のものになるのが自然であるため、持ち駒使用ルールが生まれたのだとする考察もある。
本将棋は上述の通り15世紀から16世紀(室町時代)ごろに小将棋から醉象を除き持ち駒の再使用ルールを加える形で成立していたとされる。
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本将棋は上述の通り15世紀から16世紀(室町時代)ごろに小将棋から醉象を除き持ち駒の再使用ルールを加える形で成立していたとされる。
17世紀初頭、1612年(慶長17年)ごろ、幕府は将棋と囲碁の達人であった大橋宗桂(大橋姓は没後)・加納算砂(本因坊算砂)らに俸禄(宗桂は50石5人扶持を賜わっている)を支給することを決定し、将棋(なお、初期の将棋指したちは中将棋も得意としていた)は、囲碁とともに、江戸時代の公認となった。宗桂と算砂は将棋でも囲碁でも達人であったが、やがてそれぞれの得意分野(宗桂は将棋、算砂は囲碁)に特化していき、彼らの後継者は、それぞれ将棋所・碁所を名乗るようになった。
宗桂の後継者である大橋家・大橋分家・伊藤家の3家は、将棋の家元となり、そのうち最強の者が名人を称した。現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。名人の地位は世襲のものであったが、その権威を保つためには高い棋力が求められた(たとえば、家元の地位に不満を持つ在野の強豪からの挑戦をたびたび受け、尽く退けている)ため、門下生の中で棋力の高い者を養子にして家を継がせ、名人にすることも多かった。
寛永年間(1630年ごろ)には家元3家の将棋指しが将軍御前で対局する「御城将棋」が行われるようになった。八代将軍徳川吉宗のころには、年に1度、11月17日に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付(11月17日)が「将棋の日」となっている。
江戸時代中期までの将棋指しは、指し将棋だけでなく、詰将棋の能力も競い合った。特に伊藤家の伊藤看寿の作品である『将棋図巧』は現在でも最高峰の作品として知られている(なお、伊藤看寿は早逝したため存命中に名人とならなかったが、没後に名人位を贈られた)。名人襲位の際には、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのが慣例であった。
江戸時代後期には、近代将棋の父と呼ばれる大橋宗英が名人となり、現代につながるさまざまな戦法を開発した。さらに、大橋家の門下生であった天野宗歩は、当時並ぶ者のいない最強の棋士として知られ、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。名人位が期待されたものの素行不良のために大橋家の養子となれなかった宗歩は、家元3家とは独立して活動するようになり、関西で多数の弟子を育成した。
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江戸時代後期には、近代将棋の父と呼ばれる大橋宗英が名人となり、現代につながるさまざまな戦法を開発した。さらに、大橋家の門下生であった天野宗歩は、当時並ぶ者のいない最強の棋士として知られ、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。名人位が期待されたものの素行不良のために大橋家の養子となれなかった宗歩は、家元3家とは独立して活動するようになり、関西で多数の弟子を育成した。
現在のプロ棋士はほぼ全員が江戸時代の将棋家元の弟子筋にあたり、将棋家元は現代将棋界の基礎となっている。なお、現在では伊藤家に連なる一門が多数であるが、関西を中心に天野宗歩の系譜に属する棋士も多い。江戸時代の棋譜は「日本将棋大系」にまとめられている。
江戸幕府が崩壊すると、将棋三家に俸禄が支給されなくなり、将棋の家元制も力を失っていった。将棋を専業とする者たち(なお、そのほとんどは関東では家元三家の門下、関西では天野宗歩の門下で修行した者たちである)は、家元に対して自由に活動するようになり、名人位は彼らの協議によって決定する推挙制に移行した。
アマチュアの将棋人気は明治に入っても継続しており、日本各地で将棋会などが催され、風呂屋や理髪店などの人の集まる場所での縁台将棋も盛んに行われていたが、19世紀末には一握りの高段者を除いて、専業プロとして将棋で生活していくことはできなかったといわれている。
1899年(明治32年)ごろから、萬朝報が新聞として初めて紙面に将棋欄を開設し、他社も追随したため、新聞に将棋の実戦棋譜が掲載されるようになり、高段者が新聞への掲載を目的に合同するようになった。1909年(明治42年)に将棋同盟社が結成される。
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1899年(明治32年)ごろから、萬朝報が新聞として初めて紙面に将棋欄を開設し、他社も追随したため、新聞に将棋の実戦棋譜が掲載されるようになり、高段者が新聞への掲載を目的に合同するようになった。1909年(明治42年)に将棋同盟社が結成される。
大正時代のころの将棋界は有力棋士たちがそれぞれ連盟(派閥)をつくり、特定の新聞社と契約をして一門の経済状況を安定させていた。例えば大崎熊雄が師の井上義雄死去後に主宰した東京将棋研究会は当時の有力誌である国民新聞や地方紙と契約し隆盛していた。一方で土居市太郎は東京将棋同盟社、関根金次郎は東京将棋倶楽部を主宰していた。明治時代以降から棋士有力者が各派に分かれていくなかで、基本的に他流試合は行わないのがこのころの原則となっていた。しかし外部の有力者・支援者らはこれでは将棋界全体として発展しないと指摘、こうして大崎が中心となって各派の首領を説き伏せる形で、前述三派合同の棋戦が報知新聞社主催で行われた。
これを縁として、1924年(大正13年)には関根金次郎十三世名人のもとにこれらの将棋三派が合同して東京将棋連盟が結成された。これが現在の日本将棋連盟の前身で、連盟はこの年を創立の年としている。
1935年に東京日日新聞および大阪毎日新聞主催の名人戦が始まり、戦争を挟みつつも将棋人気は拡大していった。
第二次世界大戦後、日本将棋連盟に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)より呼び出しがかかった。これは武道などを含めた封建的思想の強い競技や娯楽の排除を狙ったものだが、連盟は知識豊富で勝負勘に優れた関西本部長代理の升田幸三を派遣する。その席でGHQは「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」と述べた。それに対して升田は「チェスは捕虜を殺害している。これこそが捕虜虐待である。将棋は適材適所の働き場所を与えている。常に駒が生きていて、それぞれの能力を尊重しようとする民主主義の正しい思想である」「男女同権といっているが、チェスではキングが危機に陥ったときにはクイーンを盾にしてまで逃げようとする」と反論。この発言により将棋は禁止されることを回避することができた。
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現代の将棋は定跡が整備され、高度に精密化された。将棋自身も賭博の対象から純粋なマインドスポーツへと変化している。
各年度の将棋界の詳細は各項目に譲るが、1935年の名人戦を皮切りに8つのタイトル戦を含む10以上の棋戦が開催されている(2018年現在)。
女性のプロ(女流棋士)も誕生し、1974年には最初の女流棋戦である女流名人位戦(現・女流名人戦)が開始された。2018年現在、6つのタイトル戦と1つの公式棋戦が行われている。
プロの発展とともに、将棋のアマチュア棋戦も整備され、日本全国からアマチュアの強豪選手が集まる大会が年間に数回開催されている。公式棋戦においてアマチュアトップや奨励会員とプロの実力下位者の対局が年間複数回指され、前者が後者を破ることも珍しくない。
コンピュータプログラムを利用した将棋の研究、特にコンピュータに着手を計算させる研究は、世界的に見るとチェスのそれの後を追うようにして始まった。1960年代の詰将棋プログラムを先駆けとし、1980年代にはゲームソフトが発売されるようになったが、複雑性ゆえ当時のハードウェアの性能では強さには限界があり、1989年のゲームボーイ用の将棋ソフトでは、AIのレベルによっては電池残量との戦いになるほどの長考が行われた。
その後ハードウェアの性能向上にあわせて着実に強くなり、21世紀にはアマトップやプロと平手での本格対局が実施されるに至った。2008年5月には、この年に開催された第18回世界コンピュータ将棋選手権での優勝・準優勝将棋ソフトがそれぞれトップクラスのアマチュア棋士に完勝。2013年以降は将棋電王戦においてプログラムが現役A級棋士を含む上位棋士を次々に破っており、2017年にponanzaが当時の名人である佐藤天彦との対局に勝利し、コンピュータ将棋ソフトが名人超えをしたことが証明された。
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インターネットの普及を通じて盤駒を利用しなくとも対局ができるネット将棋が普及。それによって将棋センターは次々閉鎖されていったが、取って代わるように1996年ごろからJava将棋やザ・グレート将棋、将棋倶楽部24、近代将棋道場、Yahoo!ゲームの将棋などのサイトが次々と登場した。2010年代には英語が公用語の国際サイト81Dojo、twitterと連動できるshogitter、カジュアルな作りで人気を伸ばした将棋ウォーズなどが登場した。2022年1月に変則将棋の1つフリーズ将棋も遊べるようになった。
将棋がテレビなどで一般的に話題になった代表的なものでは、内藤國雄「おゆき」大ヒット(1976年)、谷川浩司史上最年少名人(1983年)、羽生世代の活躍(1980年代から平成初期)、中高年の星米長邦雄名人獲得(1993年)、羽生善治の七冠達成(1996年)、将棋を題材としたNHK朝の連続テレビ小説『ふたりっ子』の放送(1996年)、中原誠と林葉直子の不倫報道、村山聖の早逝(1998年)、瀬川晶司のプロ編入試験(2005年)、名人戦の移管問題(2006年)、コンピューター将棋ソフトBonanzaの躍進(2006年)、羽生善治の最年少で1000勝(2007年)、将棋電王戦によるプロとコンピューターの対決の配信(2012年)、今泉健司のプロ編入試験(2014年)、将棋もの作品の流行(平成末期)、将棋ソフト不正使用疑惑(2016年)、藤井聡太の史上最年少デビューと無敗のままでの歴代連勝記録更新(2016年 - 2017年)、羽生善治の永世七冠達成(2017年)と国民栄誉賞授与(2018年)などがある。
将棋の対局放送は長丁場であることもあり一般的ではなく、長年NHK杯やNHK BSの特別番組、CS放送の専門チャンネルなどに限られていた。地上波民放で数少ない例としてテレビ東京主催の『早指し将棋選手権』があったが2003年に終了している。1995年頃の羽生フィーバーでは観戦するファン(観る将)の萌芽があったが、当時のインターネット環境では活かすことができなかった。2010年代になってから無料インターネット動画サイトを通じた配信が定着したことで、2017年からの藤井フィーバーに繋がった。
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『レジャー白書』(財団法人社会経済生産性本部)による、1年に1回以上将棋を指すいわゆる「将棋人口」。調査時期は発表年の前年。
2009年の急増は調査方法切り替えによる。なおデータは16歳から79歳までのため実際はより多いと考えられている。
2017年からの藤井フィーバーにより「観る将」は増加したが、競技人口である「指す将」は減少を続けており、大会参加者や道場へ通う子供も増えていないという。
国際将棋フォーラムなど、日本国外への普及も試みられている。ただし将棋は日本で独自の発展を遂げた遊戯で世界的にはチェスが普及しており、漢字が読める漢字圏でも既にシャンチー系のゲームが普及しているため、日本経由からも伝わった囲碁や、日本で商品化されたオセロが、白黒の石でゲームを行うこと、チャトランガ系ゲームとは異なり類似のものが無いなどの理由で、世界的に普及が進んでいるのとは対照的に小規模である(ガラパゴス化)。
将棋の存在そのものは海外でも比較的早く知られていた。中国では早く明代に倭寇対策として日本文化が研究され、1592年の侯継高『日本風土記』で将棋のルールがかなり詳細に記載されている。またアメリカ合衆国では1860年に万延元年遣米使節によって将棋のゲームが披露されている。1881年のリンデ(オランダ語版)『チェス史の典拠研究』では将棋と中将棋が紹介されている。1966年トレバー・レゲット(英語版)は詳細な将棋の専門書『Shogi: Japan’s Game of Strategy』を出版した。1975年にイギリスのホッジス (George F. Hodges) は将棋協会 (The Shogi Association, TSA) というクラブを作り、将棋専門誌『Shogi』を発行した。また西洋式の将棋駒を販売したり、将棋セットを日本から輸入販売したりした。ホッジスはまた中将棋のマニュアルも書いた。1985年にはヨーロッパ将棋協会連盟(FESA)が創立され、毎年ヨーロッパ将棋選手権および世界オープン将棋選手権を開催している。
2010年には英語が公用語の対局サイトである81Dojoが開設された。
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2010年には英語が公用語の対局サイトである81Dojoが開設された。
非漢字圏や漢字が読めない子供向けの普及のためにいくつかの駒の形が考案された。ホッジスのもの(通常の形の将棋の駒に英語の頭文字と動きが記されている)、GNU Shogiのもの、ChessVariantsのもの、Hidetchi国際駒(81Dojo)、おおきな森のどうぶつしょうぎなどがある。
海外向け(日本在住者を除く)のアマ免状では、名人の署名もなく簡素な日本語で表記されており、間違いがないように名前は自分で記入ができる。
英語圏の棋譜表記は何種類かあるが、上記ホッジスによるものがもっとも標準的に使われており、公式戦の棋譜中継で用いられる Kifu for Flash でも言語を日本語以外にするとこの表記になる。この表記は日本での表記とチェスの表記を折衷したような形になっていて、駒の種類、動かし方、位置、成・不成を組み合わせる。あいまいな場合は、駒の種類の後に移動前の位置を記す。
駒の種類は K(King、玉)R(Rook、飛)B(Bishop、角)G(Gold、金)S(Silver、銀)N(Knight、桂)L(Lance、香)P(Pawn、歩)のいずれかである。成り駒は + を前置することで表し、英語名称はPromoted Rook(+R、竜)、Promoted Silver(+S、成銀)のように頭にPromotedを付けて表すのが一般的である。位置は横の筋を将棋と同様右から左に1...9で、縦の段を上から下にa...iで表す。したがって「7六歩」は「P-7f」、「5五馬」は「+B-5e」となる。動かし方は通常「-」であるが、駒を取るときは「x」、打つときは「*」と書く。「成」は「+」、「不成」は「=」と記す。先手・後手の区別が必要な場合、先手をb (black)、後手をw (white) とする。
駒の英語名称のうち、King・Rook・Bishop・Knight・Pawnは近い性能のチェスの駒の名称を借りたもの、Gold・Silverは金・銀の名称をそのまま訳したもの、香車のLanceは槍を意味する。
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将棋
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駒の英語名称のうち、King・Rook・Bishop・Knight・Pawnは近い性能のチェスの駒の名称を借りたもの、Gold・Silverは金・銀の名称をそのまま訳したもの、香車のLanceは槍を意味する。
棋譜法にはいくつかの変種がある。イギリスの Shogi Foundation の出版物では、駒の位置を縦横とも数字で示している(「7六歩」は「P76」になる)。また、成り駒について、竜をD(Dragon)、馬をH(Horse)、と金をT(Tokin)で表す流儀もある。
盤面の状態の総数は10程度と見積もられる。これは、囲碁の10程度よりは小さいものの、チェッカーの10程度、リバーシの10程度、シャンチー(象棋)の10程度、チェスの10程度と比べて大きい値である。
また、ゲーム木の複雑性は、10と見積もられる。これは、囲碁の10程度よりは小さいものの、チェッカーの10程度、リバーシの10程度、チェスの10程度、シャンチーの10程度よりも大きい値である。
将棋棋士の羽生善治は、将棋はガラパゴス化で生まれたユニークな存在であり、比較的近いと思われるのはタイ将棋のマックルックだが、よく似ているとは言えないと述べた。
囲碁用語と共通のものについては、囲碁が由来であるのか将棋が由来であるのかはっきりしない。辞書によっては囲碁が由来であるとされているので注意。
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IEEE 1394
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IEEE 1394(アイトリプルイー 1394)はAV機器やコンピュータを接続する高速シリアルバス規格である。1986年にAppleが提唱したFireWire(ファイアワイアもしくはファイヤーワイヤー)規格をソニー、TI、IBMなどと共同で1995年にIEEE 1394-1995として標準化したもの。
IEEE 1394は、SCSIの後継を意識しつつ、ホットスワップにも対応したシリアル汎用バスとして設計され、ビデオ・オーディオ分野やコンシューマ向けストレージの接続用として普及したほか、ビークルバスのIDB-1394は本規格を拡張したものである。同時に64台の機器を同一ネットワーク上に接続でき、初期は100 Mbps、200 Mbps、400 Mbps、後に800 Mbpsという通信速度で策定・普及した。最終的には3200 Mbpsに拡張されたが、この速度での使用例はごく少ない。
その性格上、様々なデータをやりとりできるため、FireWire、i.LINK(アイリンク)、DV端子などの複数の名称が使われるようになった。
FireWireは提唱者のAppleが使用していた開発コードネームであったが、2002年5月29日に商標化した。これを、正式にIEEE 1394の統一ブランドとして採用することがIEEE 1394の推進団体である 1394 Trade Association から発表されている。
一方ソニーは、FireWireがIEEE 1394の統一ブランドとして採用される以前から、自社のデジタルビデオカメラ製品などに搭載したIEEE 1394端子をi.LINKと呼び、同社の商標としている。この呼称はDV端子と共に主に家電製品で使われる名称として一般にも普及した。
DV端子もデジタルビデオカムコーダやデジタルビデオテープレコーダに搭載されたIEEE 1394端子の呼称の1つであったが、電源供給機能を持たず、通信できる信号の内容がDV規格の映像音声信号のものに限定の設計になっている。現在では「i.LINK(DV)」等と呼ばれることが多い。
プラグ&プレイおよびホットプラグに対応している。
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IEEE 1394
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DV端子もデジタルビデオカムコーダやデジタルビデオテープレコーダに搭載されたIEEE 1394端子の呼称の1つであったが、電源供給機能を持たず、通信できる信号の内容がDV規格の映像音声信号のものに限定の設計になっている。現在では「i.LINK(DV)」等と呼ばれることが多い。
プラグ&プレイおよびホットプラグに対応している。
バス上にホスト機器を必要とせず、機器から機器へと接続するだけでデータ転送が可能になっている。そのため、IEEE 1394対応機器はポートを2つ備えている場合が多い。この2基のポートは、片方から送られてくるパケットはリピータとして必ず他方へそのまま再送信することが義務づけられていた。
例えば、パソコンで使用するのであればパソコンのポートからDVDドライブ、DVDのポートからHDDと、数珠繋ぎに接続出来る(デイジーチェーン)。また、リピータハブを用いてツリー状にネットワークを組むことも可能である。ツリーとデイジーチェーンを混在させることもできるが、ネットワークがループバックを形成してしまうことの無いように注意が必要である。また、ケーブルの長さは4.5メートルまでで、機器の接続は63台までという規格になっている。
IEEE 1394では様々なデータをやり取りするため、IEEE 1394が規定するプロトコル上にスタックするプロトコルが用意されている。その中でもSBP2 (Serial Bus Protocol-2) はSCSIコマンドをやり取りするためのプロトコルでSCSIで接続できるデバイス(ATAPI、イメージスキャナなど)を扱えるようになる。
機器への電源供給(バスパワー)に対応した6ピンコネクタと非対応の4ピンコネクタが存在し、i.LINK、DV端子としては主に4ピンが用いられる。IEEE 1394-1995、IEEE 1394a-2000 など、いくつかのバージョンが存在するが、いずれもほぼ同等の機能をもつ。6ピンコネクタは、8 Vから最高33 V/1.5 Aの強力な電源供給機能を持つが、これらの供給能力はバス上に存在する全ての接続機器の能力に左右される。
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IEEE 1394
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IEEE 1394は複数の企業にまたがる複数の特許技術が採用されており、当初、その利用には個別にライセンスを受ける必要があった。一方で類似規格であるUSBでは、デバイスの製造には製造者の申請こそ必要なものの、特許使用料自体は無料であった。この事により多くの中小企業が参入の難しいIEEE 1394ではなくUSBを選んだと言われており、USBを用いた玩具など幅広い製品が発売された。
このIEEE 1394に関する複雑な特許問題は、早くから特許を保有する企業群の間でも問題視されており、1999年5月には共同ライセンスプログラムを発表し、1デバイスあたり1ライセンスで25セントの特許料支払いで解決できるようになった。 ただ、1デバイス1ライセンスであるため、1企業1ライセンスと単純なUSBほどの広がりは見せていない。
前述の特許問題の影響でチップセットメーカーであるインテルがIEEE1394のチップセットの統合に消極的(ただしインテルは特許問題は決着したと言及している)だったことによって普及が思うようにいかなかったことや、USBが速度を大幅にアップさせたUSB3.0を登場させ、IEEE1394の速度を上回ってしまったこと、さらにApple自体もインテルと共同開発したThunderboltを策定したことによって、MacintoshなどをThunderboltに置き換えるなど、IEEE1394を搭載しないパソコンが徐々に増えていき衰退していった。
IEEE 1394ベースの接続規格
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かくれんぼ
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かくれんぼ(速蔵、かくれんぼう、隠れん坊)は、伝統的な子供の遊びである。全国的に有名である。鬼が目をふさいでいる間に子が隠れ、後に鬼が子を見つけだすという単純なルールであり、派生したルールを持つ遊びも多い。「かくれご」とも呼ばれる。
なお、日本以外にもほぼ同様のルールのものが多数存在する(英語圏のHide-and-seekなど)。
かくれんぼに明確なルールは存在しないが、一般に遊ばれているルールを総合すると、次のようなものになる。
かくれんぼは2人以上によって行われ、1人の鬼(親ともいう)と残りの子に分かれる(人数が多い時は鬼を複数人にすることもある)。最初の鬼はじゃんけんなどによって決めることが多い。
鬼は壁や柱といった、もたれかかることができる場所に顔を向け、腕で目をふさぎ、あらかじめ決められていただけの数を大声で数える。この声が聞こえている間に子は鬼に見つからないような場所を見つけ、潜む。子が潜むことができる範囲ははっきり決まっていないことが多いが、一般には鬼が数を数える声が聞こえる範囲、というのが不文律的に定められている。これは、あまりに遠くなると探すのに時間がかかるのに加え、後述する確認の作業が行えないためである。
決められた数を数えると、鬼は確認の作業を行う。これは、子が全員隠れたことを確認するとともに、鬼の捜索開始を宣言するものである。鬼は数を数える時の体勢のまま「もういいかい」と、大声で尋ねる。子は、自分がすでに隠れ終わっている場合は「もういいよ」、まだ隠れきっていない場合は「まあだだよ(「まだだよ」の意)」と答える。「まあだだよ」の声が聞こえた場合、鬼はしばらく待って、再び「もういいかい」と尋ねる。この間に、まだ隠れていない子は早急に隠れなくてはならない。これを繰り返し、「まあだだよ」の声が聞こえなくなると、鬼は目を開き、開始する。この確認作業は省略されることもある。
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かくれんぼ
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鬼は目をふさいでいる間の物音や、「もういいよ」の声の届いた方向・距離などをたよりに、隠れた子を見つけだす。子を見つけると、鬼は相手の名前の後に「みいつけた(「見つけた」の意)」と叫び指を指し、発見したことを宣言する。発見の時には実際に手を触れないと駄目だとするルールもある。こうして子が全員発見されると、最初に発見された子が新たな鬼となり、次のセットを開始する。毎回のセットでは、鬼が最後まで見つけられなかった子がさしあたっての優秀者と見なされるが、総合を争うといったことはほとんど行われない。
日本では近代まで神隠し・誘拐(人身売買)を恐れ、夕暮れ時以降はタブーとされていた。
かくれんぼはそのルールの単純さから、それに派生したルールを定めた別の遊びがいくつか存在する。たとえば、鬼に気づかれないように後ろから近づき、鬼の背中に触れると同時に「アウト」と言うことに成功した場合、その鬼はもう一度鬼になるルールの存在である。これは後述する缶けりに近い。鬼ごっことの融合で、隠れ鬼ごっこなどの名前がつく場合もある。かくれんぼのルールを強く生かしたものとしては、一度見つかった参加者の再解放を可能にした缶けりが有名である。
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鬼ごっこ
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鬼ごっこ()は、子供の遊びの一つである。子供の屋外遊びとしては最もポピュラーなものであり、狭義には、メンバーからオニ(親)を一人決め、それ以外のメンバー(子)は決められた時間内に逃げ、オニが子に触ればオニが交代し、遊びが続くという形式のものをさす。鬼事(おにごと)や鬼遊びとも呼ばれる。
類似する遊びは世界中に存在し、ブリューゲルの絵画『子供の遊戯』にも、目隠しをしたオニが子を追いかける「目隠し遊び」の様子が描かれている。
また、オニと子の呼び方も多様であり、日本では追う側が鬼、追われる側が子と呼ばれるが、アメリカではルールも同じ「タグ」(tag)、ヨーロッパの「狐とがちょう」、中国の「鷹と鶏」、イランの「狼と仔羊」、ネイティブアメリカンの「コヨーテとおやじ」などさまざまな呼び名がある。自転車の鬼ごっこもタッチで交代と言うルールがある。
狭義の鬼ごっこのルールは、次のようなものになる。
鬼ごっこは2人以上の参加者によって行われ、1人のオニ(親ともいう)と残りの子に分かれる。最初の鬼はじゃんけんなどによって定めることが多い。
スタートと同時に、子は一斉にオニから遠く離れるべく逃げ出す。オニは一定時間(これは開始に先立って参加者間で定められる。たとえば「10数える間」など)その場にとどまり、その後で子を追いかける。オニ・子ともに移動は自由だが、逃げる範囲(開始前に「この公園の中」など明確に定められるか、あるいは漠然と不文律的に定められている)を逸脱することは禁じられている。また、自転車などの乗り物の利用や絶対的にオニが子にタッチできない状態をつくる(例えば屋内での鬼ごっこであれば一部屋に鍵を掛けて立て籠もるなど)ことは禁じられている。オニは子の体の一部分に触れることで子を捕まえることができる。捕まった子は新たにオニとなり、捕まえたオニは新たに子となる。これを繰り返すことでゲームは進行する。
また、鬼ごっこのルールには多様なバリエーションが存在する。
加古里子は『遊びの四季』(じゃこめてい出版、1975年)で「鬼ごっこ」のバリエーションとして、鬼の力の強さに応じて、
という5つの類型を紹介している。
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鬼ごっこ
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また、鬼ごっこのルールには多様なバリエーションが存在する。
加古里子は『遊びの四季』(じゃこめてい出版、1975年)で「鬼ごっこ」のバリエーションとして、鬼の力の強さに応じて、
という5つの類型を紹介している。
また、同氏が文献等の調査に基づいて執筆した『伝承遊び考3 鬼遊び考』(小峰書店、2008年)では、「鬼ごっこ」を含む「鬼遊び」には500種類の基本形があり、それぞれに4ないし5種類のバリエーションが想定されるため、最低でも2000種類の鬼遊びが存在するとしている。
加えて、情報機器の発達に伴い、ニンテンドーDSのピクトチャットを連絡手段に使う鬼ごっこを行う子供達が現れるなど、時代と共に鬼ごっこの風景も変わっている。
YouTuberのFischer'sが、10908人を集めた鬼ごっこを行い「一つの会場で同時に鬼ごっこをした最多の人数」でギネス世界記録を達成した。
一部地域ではオニが子にタッチする行為に特定の名称が存在する。
鬼ごっこの一種、鬼ごっこから派生した遊びなど。
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Javaアプレット
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Javaアプレット(Java Applet)は、ネットワークを通してWebブラウザに読み込まれ実行されるJavaのアプリケーションの一形態。Java 10まではJava Runtime Environmentに搭載されていて、Java 9より非推奨になり、Java 11で廃止。
最初の実装は1995年に公開されたHotJavaへのもので、その後1996年にNetscape Navigatorに搭載されたことで普及した。単にアプレットとも言う。基本的にデスクトップ版Javaの全機能を持つが、Webページの一部として自動的に読み込まれて動作するため、セキュリティー上の観点から一般のアプリケーションプログラムと比べさまざまな制限(サンドボックス)が課せられている。ただし、このセキュリティー上の制限は、ユーザーの許諾により解除する事もできる。
Javaアプレットを実行するにはWebブラウザがNPAPI(英語版)をサポートしていることが必要である。Google Chromeはバージョン42(2015年4月)でNPAPIが標準状態で無効になりバージョン45(2015年9月)以降でNPAPIをサポートしなくなった。Mozilla Firefoxはバージョン52(2017年3月)以降でFlash Player以外のすべてのNPAPIプラグインのサポートを打ち切った。オラクル社は2017年9月22日にリリースされたJava 9でJavaアプレットを非推奨にし、Java 11では廃止することを2016年1月27日に発表した。JavaアプレットだけでなくFlashやSilverlightといった類似技術も多数のWebブラウザがサポート廃止予定で今後はHTML5とJavaScriptなどに移行する流れである。
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Javaアプレット
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Webの普及初期に、インタラクティブ性を高められる技術の一つとして注目を浴び、当時のWeb普及に寄与した。しかし、当時Internet Explorerとシェアを二分していたNetscape 4.xにおいて当時まだできたばかりのJITコンパイルに時間がかかった等の理由により、Javaアプレットをロードすると数十秒から数分の間操作を受け付けなくなるという現象が起こり、この現象が影響してJavaアプレットを利用したサイトが敬遠されるようになってしまった。また、当初は以下のような技術的な問題もあり、ShockwaveやFlashの台頭もあって、ウェブ上でインタラクティブ性を実現する用途には、広く使われているとは言えない状況であった。
これらは主にJavaアプレットが登場したときまだ十分にWeb関連の技術や環境が発達していなかったことによるが、その後のJava VMの改良や、回線速度の向上、ハードウェア性能の向上により解消されているものが多い。その後は、利用シェアが大きいとは言えないものの、オンライントレードのローソク足チャート表示、チャットやCGアニメーション、ゲーム、教育機関による学習システムなどでの利用を見ることができた。
登場時には画期的であった、以下のような特徴がある。
終盤においても以下の欠点があり、利用上の問題点となるときがあった。
Webブラウザに組み込んで使うことを目指して作成され、その後の仕様変更・機能追加もWebブラウザ利用に焦点を置いたものであるが、Javaアプレットを動作させるアプリケーションが必ずWebブラウザでなければならないわけではない。例えばOpenOffice.orgでは、文書内にJavaアプレットを埋め込むことができる。
Java アプレットには、インターネットでの配布を可能にするために以下のようなセキュリティー上の制限が設けられている。
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Javaアプレット
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Java アプレットには、インターネットでの配布を可能にするために以下のようなセキュリティー上の制限が設けられている。
これらの制限は、ユーザーがポリシー・ファイルを作成し、これらの動作を許諾することによって外すことができる。ポリシー・ファイルは、URIで指定されるコードベース(codeBase)、もしくは電子署名(signedBy)ごとに承諾する動作を規定する。なお、後者の場合はアプレット開発者がアプレットにJarSignerというツールを使って電子署名する必要があるが、署名に必要な鍵は他の処理系で使われる鍵と同一のもの、例えばOpenSSLで生成したものが利用できる。
アプリケーション配布システムとしては、Javaアプレットよりも便利で高度なJava Web Startの登場により、必要性が薄れてきている。
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片桐仁
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片桐 仁(かたぎり じん、1973年(昭和48年)11月27日 - )は、日本のお笑いタレント、俳優、声優、彫刻家。
埼玉県南埼玉郡宮代町出身。トゥインクル・コーポレーション所属。埼玉県立春日部高等学校、多摩美術大学卒業。身長176cm。血液型B型。
妻は元モデルでタレントの村山ゆき(現・片桐友紀)。
雑誌で連載を抱え、数多くの造形作品を発表している。作風は顔をモチーフとしたものが多く、彫刻家として片桐斎仁吾郎名義で粘土の作品集も出版している。
造形作品を発表しているもののみ。コラムやエッセイは除く。
主にコラムやエッセイなど。造形作品の連載は除く。
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ラーメンズ
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ラーメンズは、日本のお笑いコントユニット。
1996年結成。2009年を最後にユニットとしての活動が休止状態となり、2020年にメンバーの小林賢太郎の芸能界引退によりコンビでの活動を終了した。
共に多摩美術大学版画科の同級生。二人とも同大学の絵画科を志していたが落ちてしまい、版画科へと進学した。在学中、以前存在していた落語研究部を復活させるかたちで「オチケン」を設立。学業そっちのけでお笑いに打ち込んだ。
卒業間近の1996年、小林賢太郎が「絵を売りたいのならば名前を売ってからでも遅くない」と片桐仁を口説き、ラーメンズを結成した。結成当時は田辺エージェンシー所属だったものの、1998年に同社のお笑い部門の独立に伴いトゥインクル・コーポレーションに移籍。
1999年、『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)に第1回から参加し、知名度を上げる。
前後して1998年に初の単独公演『箱式』を挙行。特に2000年から2002年初頭にかけては、全て新作で構成されるコント公演を約2年間で6作品(リメイクで構成された公演もさらに1作品)というハイペースで新作を発表。ツアー興行の規模や動員数も拡大してゆき、これらの「本公演」はラーメンズの代名詞となった。後にDVDや戯曲脚本集にまとめられ、YouTubeでも全編が公開されている。
二人とも既婚であり、小林は大学時代の同級生と2000年に、片桐は元モデルの村山ゆきと2003年に結婚している。
ラーメンズとしての舞台の本公演は2009年の『TOWER』が最後となった。それ以降は単独活動が増え、片桐は役者として舞台や映画、テレビドラマで活躍。バラエティ番組に出演することもある。同じ事務所で大学時代からの友人であるエレキコミックとのユニット「エレ片」としてもラジオ番組やコントライブで活動。小林は小島淳二とともに映像製作ユニット「NAMIKIBASHI」を組むほか、ソロライブ「POTSUNEN」、コント公演「カジャラ」なども行う。過去には升野英知(バカリズム)とともにユニット「大喜利猿」を組んでいた。
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ラーメンズ
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2016年6月26日放送の、小林による年1回のコント番組『小林賢太郎テレビ』(NHK BSプレミアム)に片桐が初出演し、7年ぶりに2人が共演。2016年7月27日から行われた小林が作・演出を手がける新作コント公演『カジャラ#1「大人たるもの」』にも片桐が出演し、舞台でも共演した。これが小林と片桐が同じ舞台を踏んだ最後の機会となった。
2017年1月1日、各地の復興支援として、映像ソフト化されている自身のコント映像100本をYouTubeに公開した。この動画で得る広告収入は日本赤十字社を通じ寄付される。自主規制により一部シーンがカットされているコントもある。
2017年10月17日に小林賢太郎が著作物及びマネジメントを行う個人事務所「スタジオコンテナ」を設立してトゥインクルから独立。互いに所属事務所が異なるコンビとなった。これに従いラーメンズの公式サイトは閉鎖され、小林の個人サイトに吸収されている。その後も小林の個人サイトでラーメンズは紹介されており、プロフィール上はコンビが存続していることになっていた。
2020年12月1日、同年11月16日に小林が表舞台からの引退を表明したことを受け、小林・片桐両者および所属事務所のトゥインクルコーポレーションがコメントを同時に発表。その理由の一つとして、足を悪くしてしまったことを挙げている。スタジオコンテナの閉鎖、小林の退社も併せて発表されたことで、正式にコンビとしての活動を終了することになったため、事実上の解散状態となっている。ただし、本人たちの口から「解散」と明言されたメディアは一つも無く、そのため報道では相方の不在による「事実上の解散」と取り扱われているという。それ以降、解散後、小林は芸能界引退後も執筆活動などの裏方として活動し、片桐は引き続きピン芸人、俳優として芸能活動を続ける。
第5・6・7回は英文字三部作、第8・9・10回は漢字三部作。初期は非常に短期間の間に新作公演を発表。尚、第7回公演「news」は、ラーメンズ初の全国ツアーである。
特別公演「零の箱式」では、客演として西田征史・室岡悟・三宅信太郎の3人が複数のコントに参加している。
第11回公演「CHERRY BLOSSOM FRONT345」は3,4,5月に桜前線と共に公演されたことが名前の由来である。
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ラーメンズ
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第5・6・7回は英文字三部作、第8・9・10回は漢字三部作。初期は非常に短期間の間に新作公演を発表。尚、第7回公演「news」は、ラーメンズ初の全国ツアーである。
特別公演「零の箱式」では、客演として西田征史・室岡悟・三宅信太郎の3人が複数のコントに参加している。
第11回公演「CHERRY BLOSSOM FRONT345」は3,4,5月に桜前線と共に公演されたことが名前の由来である。
第17回公演「TOWER」において42000人を超える観客を動員し、これはお笑い単独ライブで最も多い。また、公演箇所が13箇所と最多であった。
演目タイトルはのちに発売された「小林賢太郎戯曲集」と異なるものもあるが、ここではDVD・VHSのエンドロールにあるものを表記する。
コンビでの出演に限る
映像作品
ラジオCM
※販売元は全てポニーキャニオン。発売日順。
※第8回以降の販売元は全てポニーキャニオン。発売日順。
※個人名義のものは小林賢太郎の出版物、片桐仁の出版物を参照。
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じゃんけん
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じゃんけん(漢字表記:石拳、両拳、雀拳)は、3種類の指の出し方(グー・パー・チョキ)でいわゆる三すくみの関係を構成し、その強弱関係により勝敗を決める日本の遊戯である。
地域によって「じゃいけん」「いんじゃん」などさまざまな呼び方がある。アメリカ合衆国などの英語圏の場合、多くは "Rock Paper Scissors" という呼称が使われているが、 "Scissors Paper Stone" などと表現されることもある(表記上の揺れは数種類ある。略号はRPS)。中国では「猜拳」、韓国では「가위바위보(カウィバウィボ)」となどと呼ばれる。
コイントスやくじなどと異なって道具は必要でなく、ごく短時間で決着が付くことから、その勝敗によって参加者の優先順位や組み合わせなどを決定する簡便な方法としてよく使われる。複数回行って何連勝できるかなどのゲームとしてそれ自体が楽しまれることもある。
グー・パー・チョキの三すくみを用いる一般的なじゃんけんのほか、特に大人数で勝敗や組み分けを決めるために用いられる多い勝ち・うらおもて・グーパーなどといった類似の遊戯がある。
その起源は中国から九州に伝来した虫拳であり、これが変化して日本独自のものに作り上げられたという。三すくみ拳(虫拳・蛇拳・狐拳・虎拳など、三すくみの関係を指で表す遊戯)は、日本・東アジアから東南アジアにかけての地域に多く見られる。
最も有力な説は、日本に古くからあった三すくみ拳に17世紀末に東アジアから伝来した数拳(本拳・箸拳など)のうち球磨拳の要素が加わった拳遊びから発展し、19世紀末(明治時代)に九州で考案されたとするものである。数拳のうち1, 3, 4が省かれ、分かりやすい0と5および中間の2を残して新しく「石」「紙」「鋏」の意味を与え、三すくみ構成としたとされる。
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じゃんけん
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最も有力な説は、日本に古くからあった三すくみ拳に17世紀末に東アジアから伝来した数拳(本拳・箸拳など)のうち球磨拳の要素が加わった拳遊びから発展し、19世紀末(明治時代)に九州で考案されたとするものである。数拳のうち1, 3, 4が省かれ、分かりやすい0と5および中間の2を残して新しく「石」「紙」「鋏」の意味を与え、三すくみ構成としたとされる。
江戸時代には、じゃんけんについて記載されている文献はほとんど存在しない。歌川広重が文政13年(1830年)に作成した 「ふうりゅうおさなあそび」には、チョキとグーらしき手遊びをしている幼児が描かれているが、じゃんけんと明言はされておらず、本拳や球磨拳といった他の拳遊びでも似た形となることがある。天保9年(1838年)に刊行された『誹風柳多留』には、「リャン拳で 鋏を出すは 花屋の子」という川柳が含まれており、鋏を出す拳遊戯としてはじゃんけんと共通したものである。江戸時代後期の歌舞伎作家・西沢一鳳が1850年(嘉永3年)に著した『皇都午睡(みやこのひるね)』には、「近頃東都にてはやりしはジヤン拳也 酒は拳酒 色品は 蛙ひとひよこ三ひよこひよこ 蛇ぬらぬら ジヤンジヤカ ジヤカジヤカジヤンケンナ 婆様に和藤内が呵られて 虎はハウハウツテトロテン なめくでサア来なせへ 跡は狐拳也」とあるが、これも現在のじゃんけんとは異なり、虫拳の類いであろうと推定される。
ウィーン大学で日本学を研究する『拳の文化史』の著者セップ・リンハルトは、現在のじゃんけんは江戸時代から明治時代にかけての日本で成立したとしている。『奄美方言分類辞典』に「奄美に本土(九州)からじゃんけんが伝わったのは明治の末である」と記されており、明治初期から中期にかけて九州で発明されたとする説を裏付けている。
明治時代には石・紙(ふろしき)・鋏を出し合う石拳が普及するようになり、明治26年(1893年)には、石拳の一名として「ジャンケン」の語が存在したとされる。明治37年(1904年)の『尋常小学読本 七』には「おにをきめるよ、じゃん、けん、ぽん」という表記がある。また、江戸時代末期に幼少時代を過ごした菊池貴一郎(4代目歌川広重)が往事を懐かしんで1905年(明治38年)に刊行した『絵本江戸風俗往来』にも、「ぢやん拳」について記されている。
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じゃんけん
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20世紀には、日本の海外発展や柔道などの日本武道の世界的普及、日本産のサブカルチャー(漫画、アニメ、コンピュータゲームなど)の隆盛に伴い、急速に世界中に拡がった。
明代末期の中国で書かれた『五雜俎』によると、漢代中国には「手勢令」と呼ばれるゲームがあったという。『五雜俎』では「手掌を以て虎膺とし、指節を以て松根とし、大指を以て蹲鴟とする」などの手勢に関する詳しい記載があるが、遊び方に関して「用法知らず」とされ、当時「捉中指」という遊びのルーツではないかと作者が推測している。『全唐詩』の八百七十九巻には「招手令」について「亞其虎膺、曲其松根。以蹲鴟間虎膺之下」というルールと思われる記述がある。「蹲鴟を以て虎膺の下とす」から三すくみ的要素を見て取れる。
拳遊びを○○拳と呼ぶのは中国の影響と考えられる。○○拳という呼称は中国では主に拳法のことであるが、明代に書かれた『六研齋筆記』に「謂之豁拳」の記述があり、拳遊びのことを「猜拳」「画拳(かくけん)」「豁拳」などと呼んでいた。現在中国で行われているじゃんけんは明治以後に日本から伝わったものと考えられるが、同じ「猜拳」の語で呼ばれている。
石・紙・鋏(はさみ)のじゃんけんは日本起源で、近代以降日本人の移民や交流で世界各地に広がり、日本と密接な関係を持っていたイギリスの旧植民地や南アメリカでも日本人が入植した地域を中心にじゃんけんが行われている。一方、日本との接触が少ない所では石・紙・鋏のじゃんけんは普及していない。
中国や朝鮮では、日本から伝播した際に紙が「布」に置き換わったため「石」・「布」・「鋏」となった。
19世紀後半まで鎖国していた日本に対し、19世紀中ごろのアメリカ大陸横断鉄道建設の労働者など、欧米に早くから多くの移民を送り出してきた中国式の石・鋏・布が世界標準とならなかったのは、中国に現在のじゃんけんが伝来したのが明治以降のことで、当時の中国人がまだ現在のじゃんけんを知らなかったからと思われる。現在の中華人民共和国西部地区(新疆ウィグル)や中央アジアでは未だにじゃんけんがほとんど普及していない。中国語ではじゃんけんの掛け声は「シータォー(石)・チェンツ(鋏)・プー(布)」であるが、「ジャン・ジン・ボー」などと言う人もいる。また、高齢者の中にはじゃんけんを知らない人もいる。
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じゃんけん
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2002年(平成14年)、世界各地のじゃんけん系ゲームのルールを統一し、世界大会を開くためとして「The World Rock Paper Scissors Society(略号:WRPS)」がカナダで結成された。同団体は元々1842年にイギリスで設立されたと主張しているが、この頃にはまだ現在のじゃんけん自体が存在しておらず、これはWRPSのジョークである。そもそもWRPS自体が冗談で創られた団体であり、もし本当にじゃんけんが19世紀当時のイギリスで行われていたのなら、旧大英帝国領を中心にじゃんけんが普及していたり、他のヨーロッパ諸国にもイギリスから伝わった明らかな痕跡が見られるはずであるが、そのような事実はない。ヨーロッパでは19世紀以前の文献にじゃんけんは存在せず、20世紀になって日本についての記述からじゃんけんが出てくる。また、20世紀に日本人が海外での体験を書いた書物にも、日本人同士がじゃんけんをしていると欧米人が不思議に思い、何をしているのかと質問されたとの記事が散見され、最近までヨーロッパではじゃんけんがほとんど知られていなかったことが確認できる。このことからもWRPSの設立が比較的最近であることがわかる。
日本が舞台となった『007は二度死ぬ』(1967年(昭和42年))原作の小説では、日本的な雰囲気を出すために主人公ジェームズ・ボンドがじゃんけんをする場面が登場する。
日本のじゃんけんのチョキは、もともと数拳で2を表す人差し指と親指を伸ばす形で和鋏の形状をイメージしたもの(男チョキと呼ばれる)だったが、国内を伝播するうちに洋鋏からイメージされた人差し指と中指を使う女チョキが派生した。じゃんけんの原型となった拳遊びは九州を中心とする西日本に多く分布し、古い形態である男チョキも九州を中心に西日本に多い(韓国でも行われている)。男チョキが普及しなかった東京など東日本の一部では「田舎チョキ」と呼ばれることもある。ヨーロッパ諸国のじゃんけんは女チョキしかないが、これは日本の関東地方から伝わったことによるものと推測される。また、日本ではパーを出す場合は五本の指が離れるように広げるが、WRPSのじゃんけんでは(■右の画像のように)五指を揃える。これは「パーは紙である」という意味しか伝わらなかったために生じたものであろう。
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じゃんけん
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じゃんけんの語源には、2人で行うから「両拳」(りゃんけん)、チョキを示す「鋏拳」(じゃーちゅあん)が変化したとする説、「石拳」(じゃくけん・いしけん)の「じゃくけん」が変化した説、「蛇拳」(じゃけん)説、じゃんけんの広東語「猜拳」(チャイキュン)説、レプチャ語説など、他にも多くの説があるが不明である。
じゃんけんぽんの語源にも、仏教語の料間法意(りゃけんほうい)説や長崎の唐人が伝えたという様拳元宝(ヤンケンエンポウ)説があるが、多数の掛け声の種類があることから疑問であるとされる。一般的な掛け声のホイが転化したという「じゃんけん+掛け声」「じゃんけんほい」説もある。昭和4年の「全国ヂャンケン称呼集」では135種類の掛け声を収集し、後には100種以上の掛け声を収集している。
また、以下のようにグー・パー・チョキはすべて日本語であるという説もある。
【ヘブライ語説】 ジャンケンポン=ジャン(隠して)ケン(準備して)ポン(来い!)
じゃんけんは2人以上の参加者によって行う。参加者は向き合い(あるいは円になり)片腕を体の前に出す。参加者全員で呼吸を合わせ、「じゃん、けん、ぽん」の三拍子のかけ声を発し、「ぽん」の発声と同時に「手」を出す。この「手」の組み合わせによって勝者と敗者を決定する。
勝負が決定しなかった場合を「あいこ」と言う。あいこのときは「あい、こで、しょ」のかけ声を同様に行い、「しょ」で再び「手」を出す。通常「あいこでしょ」は勝敗が決定するまで繰り返される。
変則ルールで「じゃんぽんけん」と言う場合もある。その場合は、通常ルールでは負ける人が勝ち、勝つ人が負けるというルールになる。あいこのときは通常ルールと基本的に同じとなる。
じゃんけんの「手」は指の動きによって表され、以下の三つがある。
勝敗に関しては、次のようなルールが定められている。
2人のときは、以上に加えて両者が同じ手を出したときには「あいこ(引き分け)」となる。3人以上のときは、全員が出した「手」が三種類のうちの二種類だけであったときに勝負が決する。たとえば、5人中2人がパー、3人がグーを出したならば、パーを出した2人が勝者となる。全員が同じ手を出したときや、全ての手が出たときには「あいこ」になる。
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勝敗に関しては、次のようなルールが定められている。
2人のときは、以上に加えて両者が同じ手を出したときには「あいこ(引き分け)」となる。3人以上のときは、全員が出した「手」が三種類のうちの二種類だけであったときに勝負が決する。たとえば、5人中2人がパー、3人がグーを出したならば、パーを出した2人が勝者となる。全員が同じ手を出したときや、全ての手が出たときには「あいこ」になる。
一見して分かるとおり、グー・パー・チョキの三者は三すくみの関係にあり、三つの「手」の間に特別な優劣もなければ、勝敗の確率が人によって変わることもない。この三者の関係は、そのモデルである「石」「紙」「はさみ」を考えると理解しやすい。つまり、以下のとおりである。
なお、「ぽん」のタイミングに「手」が出なかった場合はやり直しになる。特に、わざとタイミングを遅らせて、相手の手を見てから自分の手を出す行為は「遅出し」「後出し(あと出し)」と呼ばれる反則であり、負けと見なされる。なお、この反則行為から派生したゲームとして、親の出した手を瞬時に判断して子が勝てる手を出す『あと出しじゃんけん』というゲームもある。
ちなみに、1990年代以降の東京都知事選挙においては、知名度の高い立候補者が都民にインパクトを与えて得票数を増やす目的でわざと遅い時期に出馬を表明する風習が定着しており、これを「後出し(あと出し)じゃんけん」と呼んで揶揄することも多い。
上で述べたルールによれば、対戦者が増えるほど「あいこ」になる確率が増えるため、決着が遅れることがある。このため次のような対策がとられるのが普通である。
じゃんけんは偶然性に多くを支配されるゲームであるという特性から、しばしば確率の問題(設問)などで使われることがある。例えば2人での対戦において、「グー」「パー」「チョキ」を出す確率をそれぞれ3分の1、つまり同様に確からしいと仮定し、あいこの際に勝敗が決まるまで無制限にやり直すとした場合でも、平均すれば1.5回で勝敗が決着する。
また、じゃんけんをn人で行うとすると、nが2以上のとき1回の試行であいことなる確率は、1 - 2 - 2/3となる。
例えば、じゃんけんを4人で行う場合はnに4を代入して、あいこの確率は13/27となる。
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また、じゃんけんをn人で行うとすると、nが2以上のとき1回の試行であいことなる確率は、1 - 2 - 2/3となる。
例えば、じゃんけんを4人で行う場合はnに4を代入して、あいこの確率は13/27となる。
じゃんけんは偶然性に多くを支配されるゲームである一方、心理戦の側面も有している。これは、競技の性質上、相手が何を出すのかが事前に分かっていれば確実に勝つことができるため、それを何らかの方法で読み取ろうとする努力がときになされるためである。
例えば、2人での勝負において、2回連続で互いにグーであいこになったとする。このとき、相手は何を出すかを考えると、一番単純なのは相手がまたグーを出すことであるから、それに勝つパーを出す作戦が考えられるが、相手も同じ考えをしてくるならばパーに勝つチョキを出すべきである。さらに、相手がそこまで見越してチョキを出してくることを想定して、再びグーを出す作戦も考え得る。このように、競技の性質から、思考は堂々巡りに陥ることになるが、相手の人となりを知っているのなら、そこから「どこまで考えを巡らす人物であるか」などを考慮に入れ、最終的に相手が出すであろう手を予測することになる。
また、1回目がグー・2回目がチョキであいこになったとすれば、「グー・チョキ・パー」という語呂から3回目にはパーが出てくる可能性が高い。特に、「あいこでしょ」がテンポ良く行われている場合には、別の手を出すまでに考えが至らないことも多く、テンポに乗せられてパーを出してしまう可能性も多い。テンポが速い場合には、手の決定は瞬間的・反射的に行われることが多いため、こういった予測が一層効果的であるとする考え方もある。
複数ラウンドによる勝負では、心理戦の要素は一層高まる。相手の性格と前回相手が出した手から、次に出す手を判断しそれに勝つであろう手を出すという作戦をとることができる。特に子供同士でじゃんけんを行っているときや酒が入るなど、判断力が低下した場でのジャンケンは顕著に性格が出るため、例えば前回相手が負けたなら、その負けた手に勝つ手を出すという作戦をとることができる。例えば、パー対グーで負けたときにはパーに勝つために相手はチョキを出すと予想し、グーを出すという作戦である。
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じゃんけん
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1回勝負であったとしても、心理戦の要素を持ち込むことができる。実際のじゃんけんに入る前に、相手に「何を出すのか」と尋ねたり、「自分はグーを出す」などと相手に宣言するなどして、相手がそれに対してどう判断するかを予測したりして、心理戦を生じさせることができる。
別の方法は、自分の前で両の掌(てのひら)を、右掌が左側に、左掌が右側になるような形で合わせ、両手の指を結び合わせ、肘と手首を曲げながらその結び合わせた手を自分の顔の前に持ってくるものである(手をいったん下方に動かしてから自分の前に持ち上げる形をとる)。結び合わされた手は、小指の側が自分の顔に近く、親指の側が自分から遠くにあるが、その手を覗き込むようにして、結び合わされた親指の隙間から見える光の形を見る。
ただしこの方法の勝率への関係性は定かではない。
「手」を出し合うときの掛け声「じゃんけんぽん」は、標準的なものであるが、これには主に地方ごとに様々なバリエーションがある。
また、時おり同じ市町村でも地域によって異なる場合がある。通常の掛け声のパターンとメロディに乗せるパターン(京都など近畿地方に多い)に大別される。
日本では「最初はグー」とグーを出してから「じゃんけんぽん」のタイミングを合わせることがよく行なわれる。これは志村けんが考案したもので、飲み屋での仲間とのやりとりを「8時だョ!全員集合」での仲本工事とのコント「ジャンケン決闘」(1981~1982年)に取り入れ、そこから全国に広まった。それまでじゃんけんの出だしのタイミングが合わず、やり直しになることもしばしばあった。2020年3月の志村の死去時には日本じゃんけん協会が追悼コメントを発表している。
じゃんけんを基本ルールにした遊びとして最も有名なものとしては「あっち向いてホイ」がある。
そのほか、「グリコ」「たたいて・かぶって・ジャンケンポン」「おかしやさん」「カレーライス」「グリンピースじゃん」「軍艦じゃんけん」「ドンパッパ」「ビームフラッシュ」「じゃんけんブルドッグ」「猿さんべん」などがあり、また、「脚じゃんけん」「舌じゃんけん」など、手以外の体の部分を使って遊ぶものがある。あるいはまた、「最初はグー じゃんけんポンとだすアホがいる」「最初はグー じゃんけんポンと出さないアホがいる」などという、ひっかけのじゃんけんもあった。
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じゃんけん
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野球拳でもじゃんけんを行うが、これは派生したものとは違う。※該当項目にて詳述する。
日本ではじゃんけんだけの大会が開かれることはほとんどないが、普及し始めて日の浅い地域では新知識に対する感動が大きく、世界大会が開かれるようになった。日本ではグーパーじゃんけんなどがあるので大人数でもじゃんけんのトーナメント戦はほとんど行われなくなったが、カナダに本拠を置く国際じゃんけん協会の主催による世界大会はトーナメント方式で戦われている。
じゃんけんにおける心理戦の側面や、勝敗に伴って何らかの利得を得、または負担を負うことを約して勝負を行った場合の「賭博」としての側面などを題材としたフィクションが存在する。じゃんけんの特性上、それを題材として中長編の作品を作ることは困難であるため、作中の一エピソードとして、または、短編として扱われる場合が多い。
野球拳の系統を除く。
これらの作品のほかに、じゃんけんのルールとは関係なく、攻撃手段をそれぞれグー・チョキ・パーに見立てた必殺技が登場する作品もある。代表的なものにドラゴンボールの「ジャン拳」、HUNTER×HUNTERの「ジャジャン拳」など。
有名なものをあげる。
また、正式なじゃんけんではないが、『オールスター親子で勝負!』(日本テレビ系)では、カエル・ヘビ・ナメクジのジェスチャーで「虫拳」をやる「親子トリプルマッチ」があった。
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IBM
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IBM(アイビーエム、正式名: International Business Machines Corporation)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州アーモンクに本社を置くテクノロジー関連企業。世界170か国以上で事業を展開する典型的な多国籍企業であり、世界最大手規模のIT企業。IBMの愛称はビッグブルー、IBM社員の愛称はIBMer。行動指針は、「お客様の成功に全力を尽くす」「私たち、そして世界に価値あるイノベーション」「あらゆる関係における信頼と一人ひとりの責任」。社員への教育理念は、「教育に飽和点はない」。社員の文化として、何ものにもとらわれず「野鴨」、「THINK」などがあり、これらは創業時から100年以上続いている。
IBMは1911年にC-T-Rとして創立され、特に1960年代以降はコンピュータ市場で圧倒的な影響力を持ったが、1990年代以降はコンサルティングを含めたサービスとソフトウェア中心の事業に舵を切り、2010年代頃にはクラウドコンピューティングとコグニティブコンピューティングを提供する企業と自己定義している。以降も、レッドハットの巨額買収(2019)やキンドリルのスピンオフ(2020)等で絶えず事業を組み替え、近年は、プラットフォームを中心とするハイブリッドクラウドやAI、ソフトウェア、コンサルティング事業をコア事業としている。IBMは企業別特許取得数で29年連続一位を保持してきた。2022年現在、アメリカ合衆国の代表的株価指数とされるダウ平均株価を構成する30銘柄のうちの一社である。
事業内容はコンピュータ関連のサービスおよびコンサルティングの提供と、ソフトウェア、ハードウェアの開発・製造・販売・保守、およびそれらに伴うファイナンシング、メインフレームコンピュータからナノテクノロジーに至る分野でサービスを提供している。
IBMは研究機関としても有名でもある、2016年時点では米国特許取得数が23年連続の1位となった。IBMによる発明はDRAM、ハードディスク、フロッピーディスク、磁気ストライプカード、リレーショナルデータベース(RDB)、SQLプログラミング言語、バーコード、現金自動預け払い機(ATM)などがある。
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IBM
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IBMは研究機関としても有名でもある、2016年時点では米国特許取得数が23年連続の1位となった。IBMによる発明はDRAM、ハードディスク、フロッピーディスク、磁気ストライプカード、リレーショナルデータベース(RDB)、SQLプログラミング言語、バーコード、現金自動預け払い機(ATM)などがある。
IBMは既存のコモディティ化した市場を脱出し、高付加価値な収益性の高い市場に着目することで、事業構成を絶えず組み替えている。例えばプリンタ事業をLexmarkに分社し(1991年に)、レノボへのパーソナルコンピュータ(ブランド、ThinkPadやNetVistaなど)およびx86ベースのサーバー事業を売却(2005年と2014年)。またファブレス化として2014年にIBMのグローバルな商用半導体技術事業を米GLOBALFOUNDRIESに工場、技術者、テクノロジー知的財産だけではなく、現金15億ドルまでも付けて譲渡。2021年には成長分野のクラウドとAIに集中するため、売り上げの四分の一を占めるITインフラの保守・更新事業を新会社名はキンドリルとしてスピンオフ。一方でPwCコンサルティング(2002年)、SPSS(2009年)、Weather Company(2016年)などの企業を買収している。
製品やロゴの色から本国アメリカでは「Big Blue」の愛称で呼ばれている。これに由来してIBMのプロジェクトには「Blue」を冠するものが多く、広告などのイメージカラーになっている。IBM社員はIBMの価値観を体現する者として、IBMerという呼称を用いている。ダウ平均株価の銘柄に含まれる30社のうちの1社であり、2016年時点で約38万人 の従業員数がいる世界最大級の規模の企業となっている。基礎科学の研究にも力を入れワトソン研究所やチューリッヒ研究所からはノーベル賞受賞者を輩出。IBM社員から5人のノーベル賞、6人のチューリング賞、10人のアメリカ国家技術賞、5人のアメリカ国家科学賞の受賞者を輩出している。
IBMは企業別特許取得数で長年にわたり一位を保持してきており、2022年にサムスン電子へ一位の座を譲るまで、連続一位取得記録は29年間続いた。IBMは、2020年以降特許に注力しない方針に転換していた旨の声明を出している。
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IBMは企業別特許取得数で長年にわたり一位を保持してきており、2022年にサムスン電子へ一位の座を譲るまで、連続一位取得記録は29年間続いた。IBMは、2020年以降特許に注力しない方針に転換していた旨の声明を出している。
元CEOのジニー・ロメッティは、米Fortune誌が選ぶ「ビジネス界で最もパワフルな女性」 の一人として長年ランクインしている。
100年以上の歴史を持つ希有なアメリカ企業であり、いまだ創業時の理念や行動規範を尊重する文化を持つ。誠実さを象徴するため、事実上のドレスコードであった青いスーツに白いシャツからIBMの企業としての呼称にビッグブルーが用いられることが多い。また、IBM社員のことをIBMerと称する。ビッグブルーとは、あまりにも強すぎるIBMの市場における存在感に対する畏敬の意として用いることもあれば、保守的で均一的なことへの揶揄として用いることもある。ルイス・ガースナーがIBMを抜本的に改革するため、CEO就任時にあえてブルーのシャツを着て役員会に出席したことで、事実上のドレスコードは撤廃された。
1916年、トーマス・J・ワトソン・シニアはIBM教育プログラムを策定し、社員への教育をコミットメントした。この際にできたのが、「教育に飽和点はない」という現在まで続く理念である。
1962年、当時CEOであったトーマス・J・ワトソン・ジュニアがコロンビア大学でIBMの指針である、「個人の尊重」「最善の顧客サービス」「完全性の追求」についてスピーチした。この指針は21世紀の今なお、IBMのDNAとして続くものである。また、IBMは企業のビジョンを示すことはなく、変化し続ける市場で重要なのは「在り方」であるとしている。
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1962年、当時CEOであったトーマス・J・ワトソン・ジュニアがコロンビア大学でIBMの指針である、「個人の尊重」「最善の顧客サービス」「完全性の追求」についてスピーチした。この指針は21世紀の今なお、IBMのDNAとして続くものである。また、IBMは企業のビジョンを示すことはなく、変化し続ける市場で重要なのは「在り方」であるとしている。
2003年の7月29日から31日の3日間、当時のCEOであったサミュエル・パルミサーノがオンラインジャムセッションを主催し、行動規範や価値観について議論するため、数万人のIBMerが参加した。当時、企業理念を大規模な社員が議論して策定することも、オンラインでジャムセッションすることも極めて珍しいことだった。このジャムセッションを元に、2003年11月にIBMは新しい価値観として、「お客様の成功に全力を尽くす」「私たち、そして世界に価値あるイノベーション」「あらゆる関係における信頼と一人ひとりの責任」を発表した。これは、「個人の尊重」「最善の顧客サービス」「完全性の追求」という40年前の企業理念を現代風に言い換えたものであり、IBMの行動規範が40年以上にわたってDNAとして続いていることをIBMが認めている。
社員への教育理念は、「教育に飽和点はない」。社員の文化である「野鴨」は、ビジネスでは飼い慣らされない野鴨のような挑戦する精神を持って欲しいということで、デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールの書物から引用して作られた。
大文字で書かれた「THINK」は創業者トーマス・J・ワトソン・シニアが、「考えることがあらゆる前進を生み出す源」として1915年に講演したことに起因する。
1953年、トーマス・ワトソン・ジュニアは社会の潮流に先駆け、人種、肌の色、宗教で差別しないという規定を策定した。これは1954年のブラウン対教育委員会裁判での連邦最高裁判決の1年前、そして1964年の公民権法制定の11年前にあたる。
1981年、やがて到来するネットワーク社会を見据えて、オフィスシステムをネットワーク化し、リモート環境でも社内システムにアクセスできるようにした。やがてインターネットの普及により、この仕組みはイントラネットに移行するが当時としては時代の最先端をいく試みであった。
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1981年、やがて到来するネットワーク社会を見据えて、オフィスシステムをネットワーク化し、リモート環境でも社内システムにアクセスできるようにした。やがてインターネットの普及により、この仕組みはイントラネットに移行するが当時としては時代の最先端をいく試みであった。
1999年、イントラネットを用いて部分的在宅勤務が制度化され、2009年には完全在宅勤務が認められた。一般的な企業の約10年から20年前に実現した取り組みだった。
2004年、オンデマンドワークスタイルを取り入れ、オフィス内をフリーアドレス化し、「社員に働く場所は自由」であることを明示し、顧客エンゲージメントや在宅勤務に対する心理的抵抗を下げる施策をうった。
2017 年、IBM はWorking Motherの100 Best Companies List に 32 年連続で選ばれた。
これ以外にも、週休2日制(1972年)、産休(1974年)、フレックスタイム(1989年)、長期勤続リフレッシュ休暇(1990年)、介護休暇(1991年)、ボランティア休暇(1991年)、短時間勤務(2004年)など、社員の働ける条件で働くという環境を作るため、世界でも最先端の試みを最も早く行っている企業である。
アメリカ企業として珍しい点として、日本企業のような社歌の存在が挙げられる。1931年に管弦楽団を用いてEver Onwardを策定している。創業から1980年代までリストラをしたことがなく、1950年に世界で最初に終身雇用制を確立したことから、日本企業以上に日本企業的な一面があった。後述の1993年の巨額赤字を機に企業方針を転換し、家族的経営からハイパフォーマンスカルチャーへと移行した。
また、新卒から生え抜きの人材がCEOになるという伝統を持っている。唯一の例外が累積150億ドルの赤字を計上した1993年に、ハーバードビジネススクールMBAを持つプロ経営者、ルイス・ガースナーを外部から登用し、ターンアラウンドしている。しかし、ルイス・ガースナー退任以降は再び、現CEOのアービン・クリシュナまで生え抜き人材のみがCEOとなっている。
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また、新卒から生え抜きの人材がCEOになるという伝統を持っている。唯一の例外が累積150億ドルの赤字を計上した1993年に、ハーバードビジネススクールMBAを持つプロ経営者、ルイス・ガースナーを外部から登用し、ターンアラウンドしている。しかし、ルイス・ガースナー退任以降は再び、現CEOのアービン・クリシュナまで生え抜き人材のみがCEOとなっている。
2003年、オンデマンド・コミュニティーと称するプラットフォームをリリースし、退職した社員とITのサポートが必要なNPOや学校とのマッチングを行っている。創業時から社会貢献活動に意欲的だった取り組みのオンライン化である。2004年、スマトラ沖地震救済のため、IT機器の無償支給の他、IBMerによるボランティアを実施し、320万ドル相当の貢献をした。創業の年、トーマス・ワトソンは20以上の慈善団体に資金を寄付した他、2001年、2008年、2010年など天災の際に寄付を続けている。これらは現在のESGの先駆けであるといえる。
社会課題解決に対しても積極的で、2007年にはストックホルム市の交通量最適化プロジェクトでは、交通量25%削減、公共交通機関利用者1日当たり4万人増加、市内の排出ガス14%削減という成果を出した。現在多くの企業が取り組むサステナビリティーの先駆けとなる施策を、本業で社会的インパクトを与えることを視野に入れて果敢に取り組んでいる。
IBMは大規模かつ多様な製品やサービスを持っている。2016年時点ではカテゴリーとして、クラウド・コンピューティング、コグニティブ・コンピューティング、コマース、データ&アナリティクス、IoT、ITインフラストラクチャ、モバイル、およびセキュリティ、に分類されている。
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IBMは大規模かつ多様な製品やサービスを持っている。2016年時点ではカテゴリーとして、クラウド・コンピューティング、コグニティブ・コンピューティング、コマース、データ&アナリティクス、IoT、ITインフラストラクチャ、モバイル、およびセキュリティ、に分類されている。
IBM Watsonは自然言語処理と機械学習を用いて大量の非構造化データ(例えばメールやSNS、動画、画像など)から論理的に推論し意思決定に役立たせるためのプラットフォームである。ワトソンは2011年に米国の人気クイズ番組「ジェパディ!」でデビューし、3ゲームのトーナメント戦で、人間のクイズ王であるケン・ジェニングスとブラッド・ラターを破った。それ以来、ビジネス、医療、研究開発、および大学などの分野で採用されている。例えばIBMは米国スローンケタリング記念がんセンターと提携しており、臨床データや最新の研究論文と患者データの照合に活用し、悪性黒色腫のスクリーニング検査のがん患者一人ひとりに最適な治療方法を見つける支援を行っている。また企業がコールセンターのためのワトソンを使用して、顧客サービスのオペレーターを支援し始めている。
クラウド・コンピューティング関連のサービスとしてPaaS、IaaS、SaaSを提供している。
など
IBMの歴史は電子計算機の開発の数十年前に始まる。電子計算機の前には、パンチカードによるデータ処理機器を開発していた。1911年6月16日、ニューヨーク州エンディコットにコンピューティング・タビュレーティング・レコーディング・カンパニー(C-T-R : Computing-Tabulating-Recording Company)として設立された。
C-T-Rは3つの別個の企業の合併を通じて成形された。タビュレーティング・マシーン・カンパニー(1896年設立)、インターナショナル・タイム・レコーディング・カンパニー・オブ・ニューヨーク(1900年設立)、コンピューティング・スケール・カンパニー・オブ・アメリカ(1901年設立)の3社である。タビュレーティング・マシーン・カンパニーの当時の社長は創業者のハーマン・ホレリスであった。この合併の鍵を握っている人物は資産家のチャールズ・フリントであり、彼は3社の創業者を集めて合併を提案し、1930年に引退するまでC-T-Rの取締役であった。
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IBMでは1911年を創立の年としている。1917年、C-T-Rはカナダ市場に参入する際にInternational Business Machine Co., Limitedの社名を使用し、1924年2月14日に本体の社名を現在と同じInternational Business Machines Corporationに変更した。
トーマス・J・ワトソン・シニアはIBMの創立者と記述されることが多いが、1911年時点の社長は、ジョージ・W・フェアチャイルドである。トーマス・J・ワトソン・シニアは、1914年にNCRからC-T-Rの事業部長(ゼネラルマネージャー)として迎えられ、1915年に社長となった。彼は、C-T-RがInternational Business Machines Corporationに社名変更した1924年の時点も社長の任にあった。
C-T-Rの元となった3社は様々な製品を製造していた。従業員勤務時間記録システム、計量器、自動食肉薄切り機、そしてコンピュータの開発にとって重要なパンチカード関連機器などである。時とともにC-T-Rはパンチカード関連事業を中心とするようになり、他の事業は徐々にやめていった。
1933年6月20日にエレクトロマチック・タイプライターズ・カンパニーを買収して、タイプライター事業にも乗り出した。
第二次世界大戦期間中、IBMはブローニング自動小銃BARとM1カービン銃を製造した。同盟各国の軍ではIBMのタビュレーティングマシンは会計処理や兵站業務などの戦争関連の目的で広く使われた。ロスアラモスで行われた世界初の核兵器開発計画であるマンハッタン計画ではIBMのパンチカード機器が広く計算に使用された。このことはリチャード・P・ファインマンの著書『ご冗談でしょう、ファインマンさん』に記された。同じく戦時中、アメリカ初の大規模な自動ディジタル計算機(自動でディジタル式(計算機構としてアナログ的な部分が無い計算機械)ではあるが、リレーだけではなくローターなども含む、電動だが完全に機械式)のHarvard Mark Iの建造も担当した。
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大戦前からの流れとして、ホレリス統計機が国勢調査に用いられるようになってから事業が大幅に伸びたことや、前述のように電気機械式計算機Harvard Mark Iに関与したこともあり、企業や政府の計算需要に目をつけてはいたが、戦後、コンピュータ事業への進出は、コンピュータ黎明期の他のパイオニア的な企業と比較して必ずしも先進的だったわけではない。
エドウィン・ブラック(IBMがOS/2販売方針をエンタープライズ向けに変更した結果、廃刊に追い込まれたコンシューマー向けパソコン雑誌『OS/2プロフェッショナル』『OS/2ウイーク』の編集発行人であった)の2001年の著書『IBMとホロコースト』(ISBN 4-7601-2158-7)では、IBMのニューヨーク本社とCEOトーマス・J・ワトソンが海外子会社を通してナチス・ドイツにパンチカード機器を供給しており、ホロコーストの実行にそれが使われる可能性を認識していたと主張した。また同書は、ニューヨーク本社の協力のもとでIBMジュネーヴオフィスとドイツ内の子会社 Dehomag がナチスの残虐行為を積極的にサポートしていたと主張した。ブラックはそれらのマシンを使うことでナチスの行為が効率化されたとも述べた。2003年のドキュメンタリーザ・コーポレーション(The Corporation)でもこの問題を追及した。IBMはこれらを証拠に起こされた訴訟で、それを裏付けるだけの当時の資料を保有していないとし、これらを退けた。IBMはまた、著者や原告によって提起された主張を真剣に受け止め、この件に関する適切な学問的評価を期待している、と述べた。
終戦後すぐの1946年に、エレクトロニクスによる「電子」計算機であるENIACが完成し、電子式コンピュータの時代が幕を開けた。ENIACはIBMのパンチカード機器を入出力に使用していた。当初、コンピュータの世界で先行したのは、ENIACの主要開発者2人を雇い入れることに成功したUNIVACであった。UNIVAC Iは(当時としては)ベストセラー機となった他、1952年アメリカ合衆国大統領選挙を予想するというデモンストレーションにも印象的に成功するなどしていた。
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IBMは、前述のHarvard Mark Iに技術的に引き続くSSECも建造しているが、電子式でない計算機械はすぐに時代遅れとなる趨勢にあった。
IBMもIBM 701に始まるIBM 700/7000 seriesやIBM 650といったコンピュータを開発・出荷したが、初期の機種は性能や機能の点でUNIVACに及ばず(IBM 701には当初は磁気テープが無く、650はより下位機種でドラムを主記憶としていたため遅かった)、IBMの成功はコアメモリを採用した704や、7090などトランジスタの世代からであり、データ処理業界でのその地位を確固なものとしたのは、次の1960年代で述べるSystem/360である(たとえば、コンピュータのトランジスタ化についても、7090が1959年であるのに対し、PhilcoのTransac S-2000は1957年と、他社に先行されている)。
1950年代については、商用コンピュータ以外に特筆すべきことがある。この時代にIBMはアメリカ空軍の自動化防衛システムのためのコンピュータを開発する契約を結んだ。SAGE対空システムに関わることでIBMはMITで行われている重要な研究にアクセスできた。それは世界初のリアルタイム指向のデジタルコンピュータで、CRT表示、磁気コアメモリ、ライトガン、最初の実用的代数コンピュータ言語、デジタル・アナログ変換技術、電話回線でのデジタルデータ転送などの最新技術が含まれている(Whirlwind)。IBMは56台のSAGE用コンピュータを製造し(1台3000万ドル)、最盛期には7,000人が従事していた(当時の全従業員の20 %)。直接的な利益よりも長期にわたるプロジェクトによる安定に意味があった。ただし、先端技術へのアクセスは軍の保護下で行われた。また、IBMはプロジェクトのソフトウェア開発をランド研究所に取られてしまい、勃興期のソフトウェア産業で支配的な役割を得るチャンスを逃した。プロジェクト関係者 Robert P. Crago は、「プロジェクトがいつか完了したとき、2000人のプログラマにIBM内で次に何をさせればいいか想像も出来なかった」と述べている。IBMはSAGEでの大規模リアルタイムネットワーク構築の経験を生かし、SABRE航空予約システムを開発し、さらなる成功を収めた。
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1960年代中には、IBMはバロース、UNIVAC、NCR、CDC、ハネウェル、RCA、GEの、他のコンピュータ主要7社を圧倒して大きなシェアを有したため、「IBMと7人の小人」と称された。その後1970年代、IBMとバロース、UNIVAC、NCR、CDC、ハネウェルが市場に生き残り、その頭文字から「IBMとBUNCH」と改称された(英単語bunchには「束」「小さな(粒などの)カタマリ」という意味がある)。その後、これらの企業はバロースとUNIVAC(スペリー)の合併で誕生したユニシス以外はIBMの独占するメインフレーム市場から事実上撤退した。
1964年4月に発表されメインフレームの世界に君臨したSystem/360は、IBM史にとどまらず、コンピュータ史上において重要なコンピュータである。主記憶へのアドレス付けはバイト単位とし、4バイトなどを1ワードとすること、科学技術計算用と事務処理用で別の命令セット・別のコンピュータとするのではなく、またハイエンドからローエンドまで命令セットアーキテクチャを共通とした「シリーズ」とし、価格差は実装方法の差とするなど、コンピュータの大きな世代交代(メインフレーム→ミニコンピュータ→マイクロプロセッサ)を経た今も共通の標準は、System/360で打ち立てられた。System/360は絶対的に成功し、他社を圧倒してメインフレーム市場をほぼ独占した。またそのために、アムダールや日本の一部メーカーなどは、いわゆる互換機(Plug-Compatible Machine)による商法へと流れることとなった。System/360のアーキテクチャは何度かの(ちょうど30年後の1994年4月発表のS/390など)拡張を受けながらも、基本はそのまま引き継がれ、こんにちのSystem z・z/Architectureに至っている。
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一方でこの独占は、政府からも目をつけられる程のものであった。1969年には遂に、司法省により独占禁止法違反で提訴されることになる(1969年1月17日)。IBMが汎用電子デジタルコンピュータ市場(特にビジネス向けに設計されたコンピュータ)を独占しようと謀り、シャーマン独占禁止法の2条に違反したとの訴えである。具体的には、CDC 6600対抗機種を発表してCDC側の販売に打撃を与え、結局その対抗機種を発売しなかったという件である。訴訟は1983年まで続き、IBMに多大な影響を与えた。同じ訴因でCDCからも訴えられ、CDC側に有利な条件で和解している。なお、IBMは以前から度々独占禁止法違反で訴えられてきた企業ではある。古くは1933年、パンチカード機器とパンチカードの抱き合わせ販売で訴えられている。独占禁止法にかかわる司法省の闘争は、IBMとのやりとりが史上最長である。
日本においては、国産コンピュータメーカーを育成するという政府の意図のもと、IBM製コンピュータを導入するには、政府の認可が必要となる時期があった。国産メインフレーム六社政策のもと、IBMメインフレームを模倣した互換機を日本企業が生産していた時期があった。しかし、IBMが圧倒的シェアと投資額で設計・開発しているメインフレームの互換機を作るのは極めて困難であり、1981年に日立製作所や三菱電機など6名によるIBM産業スパイ事件が起こった。IBMはスパイ行為の被害者だが、当時の日本の潮流としてはあたかもIBMが加害者であるかのような誤解が長期間にわたって流布されていた。なお、この事件は日本企業のIBMのUS本社に対してのスパイ行為であり、日本IBMは関与していない。
1969年、30年続いてきたIBMとNASAの協力により、アポロ計画が成功する。このために数多くのIBMプログラマー、エンジニア、アナリストが参加している。
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1969年、30年続いてきたIBMとNASAの協力により、アポロ計画が成功する。このために数多くのIBMプログラマー、エンジニア、アナリストが参加している。
1970年代に、当初はIBMの住む世界とは遠く離れた(System/360は32ビット(アドレスは24ビット)マシンであり、似たようなスペックの68000が登場したのは1980年である)電卓用などのちっぽけな4ビットプロセッサから始まったマイクロコンピュータは、しかし、革命という言葉すら使われるほどの(en:Microcomputer revolution)変革となり、1970年代の末にはApple IIに代表されるen:Home computerが一般への広い普及のきざしを見せ、1979年にVisiCalcが登場するに至ってビジネスの世界へも進出が始まった。
IBMはこの乗り遅れを挽回するために、1981年にパーソナルコンピュータ「IBM PC」をリリースする。同機はIBMエントリーシステム部門に雇われたフィリップ・ドン・エストリッジと "chess" と呼ばれるチームにより、「IBMとしては異例ずくめ」「突貫工事」で開発されたもので、1981年8月11日に完成した。標準価格は1,565ドルで決して安くは無いがビジネスに使用可能であり、PCを購入したのも企業だった。IBM PCはインテルの8088を使い、OSはIBM PC DOSという名前だが中身はマイクロソフトのMS-DOSであった。
1983年に「VisiCalcのIBM PC版」と言えるLotus 1-2-3が登場すると、企業の中間管理職層がその可能性を見出した。IBMの名前に保証され、彼らはPCを購入してビジネススクールで学んだ計算をPCで行うようになった。しかし、そのようにしてPCの成功が広まる一方で、それまでのビジネスである(PCから見れば)大型のコンピュータの、下位に相当する部分がPCに喰われる、というダブルバインドは1990年代には大いに同社を苦しめることとなる。
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パーソナルコンピュータ(パソコン)の世界では逆に「先輩」であったAppleが1984年に発表・発売したMacintoshは、洗練されたGUIなど多くの点でIBM機に先行するものであった(1995年のWindows 95の際に、Win95 = Mac84 などとも言われたほどであった)。しかし、ビジネスユースから広まったIBM PC(後には互換機)の牙城をMacintoshはなかなか崩せず、2000年代のAppleの起点は1998年のiMacを待たねばならない。
このように挽回に成功したIBM PCではあったが、他社(サードパーティー供給)による周辺機器にとどまらず、「母屋」であるコンピュータ本体の互換機を作られてしまう事態に至り、IBMのパソコン事業は多くの試行錯誤を繰り返すことになる。1987年発売のPS/2では、MCAという高性能・高機能だがIBMが主導権を抑えたバスを採用したが、普及させることはできなかった。CPUについては、1990年代に自社のPower ArchitectureをベースとしたPowerPCにより今度はAppleとも手を組み、PReP・CHRP、次世代OSのTaligent、クロスプラットフォーム開発環境Kaleidaというプラットフォームを打ち出すも、いわゆる「ウィンテル」である、他社製PC/AT互換機とMS-DOS(後にはWindows)というコンビを脅かすには至らなかった。OSについては、MS-DOSのようなシングルタスクではない、次世代の本格的なマルチタスクOSとしてOS/2をマイクロソフトと当初は共同開発していたが、マイクロソフトが「NT」(後のWindows NT)を独自路線で開発することを決定して決裂、Windows NTは、旧来のWindowsからの移行パスにこそ苦労した(当初は95の次は、などとも言われていたものの、最終的に2000年のWindows MEまで旧Windowsが残った)ものの、既存シェアの強みでOS/2を寄せ付けず、「PC/AT互換機のOS」の座はWindows NTのものとなった。
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1990年代にはダウンサイジングの潮流によりIBMの主力であったメインフレームは「時代遅れ、過去の遺物(レガシー)、滅び行く恐竜」と呼ばれ、IBMの業績は急速に悪化した。1993年1月19日、IBMは1992年度会計での49億7000万ドルの損失を発表した。これは単年度の単一企業による損失額としてはアメリカ史上最悪であったと言われた。なお1991年の赤字は29億ドル、1993年度の赤字は81億ドル、3年間の赤字は累積150億ドルであり、通常の企業では事業再生が極めて困難な数字である。
この損失以来、IBMは事業の主体をハードウェアから、ソフトウェアおよびサービスへと大胆な転換を進めた。また当時は水平分業モデルのマイクロソフト、インテル、サン・マイクロシステムズ、オラクルなどが好調であったため、米国のPC事業部(IBM PC Company)やプリンター事業部など、IBM分社化の動きも進められた。ハードウェアは主力のメインフレームの低価格化を進め、複数のサーバーシリーズのブランド名や機能の共通化が進められた。IBMは伝統的に、日本で日本企業が採用する以前から、各国で終身雇用を行っていたが、これを方針転換しリストラの実施が開始された。後には最終的に、最盛期には全世界で40万人いた社員を22万人まで削減することになる。
1993年、ナビスコ社から引き抜かれたルイス・ガースナーがCEOに就任し、不採算部門の売却、世界規模の事業統合、官僚主義の一掃、顧客指向の事業経営を行い、独自システムと独自OSによる顧客の囲い込みをやめ、オープンシステムを採用したシステムインテグレーター事業へ戦略を大きく転換した。また顧客の要望を聞き、顧客はトータルなサービスを望んでいると考え、IBM分社化の動きを停止した。これによりIBMはLinuxを推進する大手コンピュータ企業の筆頭となった。ルイス・ガースナーの考えとして、IBMを分社化した場合、同規模の競合他社との競争にさらされるが、誰も一から今のIBMのような統合された会社を作ろうとは思わないだろうという願いがあった。IBMは代々、生え抜きの人材がCEOとなる文化であったが、ルイス・ガースナーが初めて外部から招聘されたCEOである。このことからも、当時のIBMがいかに危機的な状況であったかがうかがえる。
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