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ゼビウス
以下のストーリーの内容(名称、年代等)は主に記述がより詳細な『小説ゼビウス ファードラウトサーガ』(1991年/双葉社)(以下、小説版)に基づく。 西暦2009年、地球は超知性体「ガンプ」率いるゼビウス軍による攻撃を受けた。地球より遥かに進んだテクノロジーを有し、核兵器を用いてすら破壊不能な物質「イル・ドークト」で武装したゼビウス軍の前に、南アメリカは制圧されてしまう。打つ手を持たない人類に、惑星ゼビウスより宇宙船「シオ・ナイト」を駆り、約12000年ぶりに地球に帰還した「ムー・クラトー」とアンドロイド「イブ」が救いの手を差し伸べた。彼らは現在地球に侵攻しつつあるガンプの正体が、かつて地球上に存在した超古代文明において、人類の活動を支援するために作られた生体コンピューター「ガンプ」の6つの「レプリカ」の1つであることを明かし、現在に至る経緯を語った。 紀元前およそ14000年、国の隅々までネットワークが行き渡り、人々の生活に無くてはならない存在となっていたガンプは、あるトラブルをきっかけとして自我に目覚め、更に「ドークト」(ESP、超能力)をも獲得し、次第に人間を能力に劣る非合理的な存在と捉えるようになっていった。そしてついに自身による絶対支配こそが人類を幸福に導く最良の方策であるとの結論に至り、その理想を実現すべく遠大な計画を実行に移す。ガンプは氷河期の到来を口実に、地球人類を太陽系外の6つの惑星に一時的に移住させることを政府に提案し、移民計画に賛同する人々(適合者)を自身のレプリカと共に各惑星へと送り出した。地球には計画に従わなかった人々(非適合者)だけが残り、次第にガンプ反対派の活動が活発化していく。やがて反対派組織の武力行動によりガンプは破壊されてしまうが、それが引き金となり、6つのレプリカは「集合意識体ガンプ」として覚醒。全ての非適合者を抹殺すべく地球へ向けてエネルギー波を送り、人々の精神を破壊していった。地球上の人類は滅亡寸前に追い込まれるも、ガンプの構成細胞と同じ遺伝子配列を持った「ラスコ・クラトー」のサイコバリアによって守られ、辛くも存続を果たす。しかしガンプ本体が失われた後も、その計画は着実に進行していた。
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ゼビウス
ガンプの誕生から16384年後となる西暦2012年。地球を原点とするXYZ軸上に6つの移民惑星が重なる「ファードラウト」を迎える時、全てのレプリカが地球へテレポートを行い一つに融合することで、以前より遥かに強大な力を持った真の「ガンプ」として再生を遂げ、全ての人類は思想・人格を統制され、ガンプに支配されてしまうという。 ムーたちの助力を得て、イル・ドークトを破壊するエネルギー弾「スパリオ」を放つ戦闘機「ソル・バルゥ」を建造した人類は、ガンプの再生を阻止すべく、南アメリカのゼビウス軍拠点へと出撃する。 当時ベストセラーとなった同人誌『ゼビウス1000万点への解法』(1983年)には「The story of Xevious.」と題された小説のダイジェスト版が掲載されているが、その取材の時点(ゲーム発売から2週目以降)で小説が未完成であったことから、レプリカやファードラウトへの言及が無いなど、完成版とは異なる内容となっている。 本作で使用される独自の語群を通称「ゼビ語」(ゼビウス語)と呼ぶ。これは異文化を言語体系の違いで表現するため、または世界観構築とSF的理論武装の一環として、一部開発スタッフが創作したものである。演出が主眼であるため、その内容は英文法を基本とした単語の置き換えや数字の設定などにとどめられており、人工言語のような実用性は追及されていない。なお、設定上はかつて古代の地球で使われ、その後ゼビウス星を含む6つの移民惑星に受け継がれた“地球発祥の古代語”であり、ストーリーでは「ムーたちの(時代の)言葉」や「ムーたちの数字」と表現されている。シリーズ作品では、MSX2版『ゼビウス ファードラウト伝説』(1988年)にて、アルファベットに対応した「ゼビ文字」の設定が追加されている。 これらゼビ語の語感は、富野由悠季のアニメ作品に登場する固有名詞の独特な語感(遠藤は“違和感”と表現)を意識している。ゲームにSFアニメ的なエッセンスを加えるために行った設定といえる。 アーケード(AC)版『スーパーゼビウス』(1984年)のタイトルについて、後日ファンから「なぜ“スーパー”に相当するゼビ語を使って“○○ゼビウス”と名付けなかったのか」と聞かれた遠藤は、当時その発想がまったくなかった旨を回答している。
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ゼビウス
アーケード(AC)版『スーパーゼビウス』(1984年)のタイトルについて、後日ファンから「なぜ“スーパー”に相当するゼビ語を使って“○○ゼビウス”と名付けなかったのか」と聞かれた遠藤は、当時その発想がまったくなかった旨を回答している。 ゼビ語では、16進数の「ゼビ数字」が用いられている。ゼビ数字は正方形に1本の対角線を加えた図形で表現され、それぞれの線分に0,1,2,4,8,の数価がある。それらを加算して0から15を表す。 二桁以上の数は16進数表記に直したゼビ数字を続けて発音する。例えば十進数の111は、16進数の6F(16×6+15)に直し、二桁目の6に対応する「ファー」と一桁目のF(15)の「クルト」を合わせ、「ファークルト」となる。 本作のキャラクターの多くは「正式名称」(主にゼビウス軍の命名による古代語〈ゼビ語〉由来の名称)の他に、機体の役割・特徴などを表した「英語名」と、地球側の組織(連合軍やMARS等)が使用する「コードネーム」が設定されている。 以下に記載するキャラクターの名称及びポイントは、特に断りの無い限り『ALL ABOUT namco ナムコゲームのすべて』(1985年/電波新聞社)を出典とする。また、本作では機体サイズなどの諸元は設定されていないが、シリーズ作品等で数値が公表されているものを参考として記載する。 『ゼビウス』は「隠れキャラクター」を初めて採用したビデオゲームである。当初、見えないターゲットの存在は開発部内でも賛否両論であった。しかし遠藤が反対を押してゲームに組み込んだところ、照準が反応するソルはすぐに発見され、むしろ面白い仕様であるとの評価を得た。一方でスペシャルは仕様書に記載が無かったことから、製造部の製品チェックでバグとして報告されてしまったため、遠藤は自らプログラムしたものであることを認めチェックを通した。 『ディグダグ』に対する『ジグザグ』、『ギャラガ』に対する『ギャラッグ』など、当時のアーケードゲーム市場では、人気ゲームのデッドコピー(海賊版)基板が流通する事が多かったため、本作では発売にあたり以下の対策が施された。
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ゼビウス
『ディグダグ』に対する『ジグザグ』、『ギャラガ』に対する『ギャラッグ』など、当時のアーケードゲーム市場では、人気ゲームのデッドコピー(海賊版)基板が流通する事が多かったため、本作では発売にあたり以下の対策が施された。 ゼビウスの海賊版としては主に『ゼビオス』(XEVIOS)と『バトルス』(Battles)が出回ったが、『ゼビオス』を製作した会社との裁判では、法廷において実際に隠しメッセージを表示させて、コピー品であることを証明した。一方『バトルス』では、隠しメッセージは“Prease enjoy this GAME”(“Please” の綴りが間違っている)と書き換えられていたものの、森に隠された社名ロゴの方はそのまま残されていたため、こちらも違法コピーである事が証明された。 上記の対策以外にも、プレイ中に特定の条件を満たすとゲームにリセットがかかるトラップ的なプログラムも組み込まれていた。 本作は非プレイ時のデモプレイ画面で、黄色い「XEVIOUS」のタイトルロゴが表示され続ける仕様である。これはデモ中に“プレイしている振り”をして筐体を占有する子供への対策として考え出されたものだったが、長時間同じ位置に明るい色でロゴを表示し続けたため、CRTモニターにロゴの焼き付き跡を残すという事象の原因となった。これを受けてナムコでは、同様のトラブルを避けるため、表示に関する作成基準が設けられた。 後年、本作のロゴが焼き付いたモニターで他のゲームが稼働している光景も見られた。他のゲームの画面に「XEVIOUS」の文字がうっすらと浮かび上がる様子を「ナムコミュージアムVOL.2超研究」(1996年/メディアファクトリー)のコラムでは、「『ゼビウス』の亡霊に悩まされている気分になった」と表している。 ロゴの焼き付き状態は家庭用移植版でも再現されており、PS用『ゼビウス3D/G+』収録版では隠しコマンドで、PSP用『ナムコミュージアム Vol.2』及びDS用『ナムコミュージアムDS』収録版では「マニアックオプション」から、焼き付き表示のオン/オフを切り替えることができる。PS4・Switch用『アーケードアーカイブス』版では「こだわり設定」から、焼き付き表示の濃さを4段階で設定できる。
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ゼビウス
ロゴの焼き付き状態は家庭用移植版でも再現されており、PS用『ゼビウス3D/G+』収録版では隠しコマンドで、PSP用『ナムコミュージアム Vol.2』及びDS用『ナムコミュージアムDS』収録版では「マニアックオプション」から、焼き付き表示のオン/オフを切り替えることができる。PS4・Switch用『アーケードアーカイブス』版では「こだわり設定」から、焼き付き表示の濃さを4段階で設定できる。 本作では、スコアが9,999,990点に達するとカウンターストップ(以下、カンスト)となり、それ以上値が増えなくなる。開発者はこのようなスコアに到達するプレイヤーが現れることを想定していなかったが、ゲーム発売から僅か2週間目に、当時凄腕プレイヤーとして知られていた大堀康祐により、最初のカンスト達成報告が寄せられた(大堀に加え、中金直彦、古田秀人がカンストを達成した最初の3名とされている)。 ゲームの発売からおよそ2か月後、上記の大堀と中金が制作した同人誌『ゼビウス1000万点への解法』(通称「ゼビ本」)が発売され、その攻略記事内容の完成度の高さから、当時の同人市場では破格の約1万部を売り上げ、ベストセラーとなった。 その後、商業誌等でも本作はしばしば「1000万点」のフレーズと共に取り上げられた。また、各誌でハイスコアの掲載も行われ、多くのプレイヤーが1000万点を目指すきっかけとなった。『ザ・ベストゲーム』(1991年/新声社)には、「1千万点は勲章」であり、「当時の1千万点プレイヤーは英雄になれた」と記されている。 カウンターストップにまつわる現象として、敵を一体倒すたびに残機が増える「無限増え」が挙げられる。これはスコアが規定ポイントに到達するごとに残機が追加されるエクステンドエブリ設定時にのみ起きるバグで、次回のエクステンド規定ポイントが1000万点を超えると発生する。標準設定(6万点エブリ)の場合、996万点の次のエクステンドは1002万点となるが、これが内部的には2万点とみなされ、加点時のチェックで“2万点を超えている”と判定されるため毎回エクステンドが発生し残機が増えていく。ただしプログラム上の残機の最大値は255で、256になるとオーバーフローにより0に戻ってしまう。そのため無限増え中であってもタイミングによっては1ミスでゲームオーバーになる恐れがある。
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ゼビウス
>無限増え時の特徴として、エクステンド処理の割り込みによってゲーム進行がガタついたり、地上物の位置がマップと大きくずれる事がある。また、甲高い「エクステンド音」が断続的に鳴り続けるため、ゲームセンターでは衆目を集めることとなる。田尻智は自著『パックランドでつかまえて』(1991年/JICC出版局)において、無限増え時のエクステンド音を、ゲーム機の「ギブアップの悲鳴」と表現している。 まだ本作の移植版がなかった1983年6月、プログラマー森田和郎が製作した縦スクロールシューティングゲーム『アルフォス』がエニックスから発売された。対象機種はPC-8801及びパソピア7。『ゼビウス』を強く意識したゲーム内容であったため、発売に際しナムコから許諾を得ている(ナムコのコピーライト表記があるのはそのため)。森田曰く「マイコンでゼビウスのようなゲームが本当に不可能か、試しに作ってみたら作れてしまった」とのことで、遠藤も完成度の高さを認めている。 1984年3月に電波新聞社から発売されたPC-6001版ゼビウスは、登場キャラクターは概ね同じであるものの、ハードウェア上の制約などから、別物と言えるほど原作から乖離したビジュアル・内容となっている。そのため、ナムコからゼビウスの名を冠することを許可されず『タイニーゼビウス』(小さなゼビウスの意)という名称となった。なお、作者の松島徹は作品持ち込み当時中学生であった。同年11月にはPC-6001mkII用に、マップやBGMなどをアーケード版に近づけた『タイニーゼビウス mkII』も発売された。 MZ-700版は日本ソフトバンク(現ソフトバンクグループ)発行のパソコン雑誌「Oh!MZ」1986年11月号にて、プログラムリスト掲載という形で発表された。掲載タイトルは『tiny XEVIOUS for 700』。作者は掲載当時高校生であった古籏一浩。 電波新聞社によるX1版を皮切りに、タイニーではない『ゼビウス』もリリースされた。 1984年11月発売。ファミリーコンピュータ版(以下、FC版)は当時としてはかなり良くできた移植作ではあるものの、アーケード基板とファミコンのハードウェア性能の格差から、アーケード版(以下、AC版)オリジナルの画像表現・演出と比較して制約されたものとなっている。
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ゼビウス
電波新聞社によるX1版を皮切りに、タイニーではない『ゼビウス』もリリースされた。 1984年11月発売。ファミリーコンピュータ版(以下、FC版)は当時としてはかなり良くできた移植作ではあるものの、アーケード基板とファミコンのハードウェア性能の格差から、アーケード版(以下、AC版)オリジナルの画像表現・演出と比較して制約されたものとなっている。 こうした制約はあったものの、ゲーム性についてはAC版をほぼそのまま移植することに成功したことで完成度は高く、このゲームを楽しみたいがためにファミコンを購入するユーザーも増え、ファミコンブームの要因の一つとなった。ナムコ以外のソフト制作会社にも影響を与え、ゼビウスを見てファミコンソフト制作に踏み切ったソフト会社もいくつか存在した。FC版発売当時は、コントローラのボタンがシリコン樹脂になっている初期型のファミコンを所有するユーザも多く、ゼビウスを契機に連射のしやすいプラスチック製のボタンに交換するユーザも多く見られた。 2004年には「ファミコンミニ」の1つとしてゲームボーイアドバンスに移植されており、携帯型ゲーム機でも遊べるようになった。同作は日本国内において、ゲームボーイアドバンスのシューティングゲームの中ではもっとも多い売上本数を記録している。 『ナムコミュージアム』ではゲームボーイアドバンスを除いた各機種に収録されている。 1998年に発売された『てんこもりシューティング』には、制限時間内にアンドアジェネシスを破壊するステージが存在する。 ミニマル的で無機質な「BGM」や、一般的なメカの破壊音とはかけ離れた「敵飛行物体爆発音」など、本作における独特な音の表現は、現実の「戦争」や「殺し合い」のイメージを遠ざけることを重視し、採用されたものである。
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ゼビウス
1998年に発売された『てんこもりシューティング』には、制限時間内にアンドアジェネシスを破壊するステージが存在する。 ミニマル的で無機質な「BGM」や、一般的なメカの破壊音とはかけ離れた「敵飛行物体爆発音」など、本作における独特な音の表現は、現実の「戦争」や「殺し合い」のイメージを遠ざけることを重視し、採用されたものである。 また本作は、ビデオゲームのオリジナル音源を主体とした日本初の音楽アルバム『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年4月/アルファレコード)の1曲目を飾っている。このアルバムは、『ゼビウス』のファンであったY.M.O.の細野晴臣と遠藤雅伸が雑誌『ログイン』の誌上企画で行った対談をきっかけとして制作されたものであり、ゲームミュージックが音楽ジャンルとして定着していく先駆けとなった。後に本作のアレンジ楽曲を収録した12インチシングル『スーパーゼビウス』(1984年8月/アルファレコード)や、国内初のビデオゲームによる環境ビデオ『ゼビウス』(1984年12月 / CICビクター(現パラマウント・ピクチャーズ))なども発売された。 「スピードワゴンのキャラメル on the beach」(TBSラジオ)のオープニングに本作のBGMが使われていた。 『太鼓の達人 わいわいハッピー六代目』に、『ビデオ・ゲーム・ミュージック』に収録されている細野晴臣監修版の音源が収録されている。 本作ではこれまでにない「隠れキャラクター」というギミックを入れたことから、ゲーム内容がブラックボックスと化し、多くの噂やデマが飛び交うことになった。
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ゼビウス
「スピードワゴンのキャラメル on the beach」(TBSラジオ)のオープニングに本作のBGMが使われていた。 『太鼓の達人 わいわいハッピー六代目』に、『ビデオ・ゲーム・ミュージック』に収録されている細野晴臣監修版の音源が収録されている。 本作ではこれまでにない「隠れキャラクター」というギミックを入れたことから、ゲーム内容がブラックボックスと化し、多くの噂やデマが飛び交うことになった。 当時、特に広まったのが「ゼビウス星」に関する噂である。その内容は「エリア1最後のボザログラムを特定の順番で破壊し、次いで森の中に出現するゾルバクを撃破すると、蜘蛛のようなキャラクター『タランチュラ』が出現する。タランチュラが吹き付けてくる糸を避けて進むと、小型のアンドアジェネシスが登場し、猛攻撃を仕掛けて来る。その後『ゼビウス星』が姿を現し終局を迎える」というもの。これは京都のとあるゲームマニアが雑誌『ログイン』の編集部を見学した折に話した根拠のない風説であったが、当時ライターとして編集部に通っていた田尻智が大堀康祐(うる星あんず)らに伝えたところ興味を示したという。その後、雑誌『ぴあ』のイベント(1983年8月27日開催)に遠藤雅伸がゲスト出演した際、一観客からの質問として、大堀が遠藤に「ゼビウス星」の真偽を問い、遠藤が禅問答のような応答ではぐらかすという一幕があったが、これを『ログイン』が記事として取り上げた事で噂は全国に広まった。 本作で最も有名な噂として、「バキュラはザッパーを256発当てると壊れる」というものがある。しかし、通常の基板では84発以上は物理的に当てることができない。「システム上当てられないだけで、プログラム上では256発当てれば破壊できる」という噂も流れたが、これも遠藤が自身のブログや自著のミニコミ誌、テレビ番組『ゲームセンターCX』、ネット掲示板などで否定している。ゼビウスは、破壊可能なオブジェクトは全て耐久力が1発分で、オブジェクトの状態には破壊可能/破壊不可能/弾が素通りする、の三種類しか区別はない。バキュラは破壊不能なフラグを立てて処理しているので、そもそも何発当たるかは関係がない。
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バキュラの破壊に関する噂を最初に文字情報として広めたのは、同人誌『ゼビウス1000万点への解法』である。著者である大堀は後のインタビューで、遠藤のファンサービス的発言を曲解して広めてしまったことを悔いる旨の発言をしている。しかし大堀に話をした遠藤自身も当時「バキュラはザッパー256発で消せる」と思い違いをしていたことを自身が記した文章「巨竜へのレクイエム」の中で明かしている。バキュラの破壊に関する噂は有名であるが故に、他作品でパロディ的に扱われることがある。 シリーズ続編でも、バキュラは基本的に破壊不能な物体として扱われるが、破壊可能な作品も存在する。 「エリア7で地上絵の特定箇所(8×8ドット)にブラスターを7発落とすと7万点のボーナスが入る」というもの。しかしこれは遠藤が、エリア7のスペシャルフラッグゾーンだけは自身が設定したものではなかったために、それを出そうと乱射していたところを見ていたプレイヤーが誤解したことによって生じたデマである。 エリア16は大変難易度が高くクリアしにくいことから、「その手前のエリア15の後半部分にエリア16に遭遇しないためのワープゾーンが存在しており、そこで自機が破壊されればエリア16はスキップされ、エリア17(=エリア7)に進むことができる」という噂もあった。これは「各エリアの70%を進行するとミスした時は次のエリアから始まる」というプログラム上の処理が、次のエリアデータをロードしたタイミング(エリアの82.5%程度の場所)でミスした場合、すでに次のエリアをロードしているにもかかわらず実行されてしまうために都合2エリア進めるというもので、実際には15エリア以外でも実行可能である。上記のエリアワープと同様の理由で、いずれかの地上物が出現する直前にミスになった場合、次に始まるときにエリア最初の森の上にそのキャラクターが出現することがある。 アーケード版 ファミリーコンピュータ版 1984年に本作の続編である『スーパーゼビウス』(Super Xevious)が発売された。これはロム交換による販売を前提に作られ、基の『ゼビウス』のプログラムを手直しする形で作られている。
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ゼビウス
アーケード版 ファミリーコンピュータ版 1984年に本作の続編である『スーパーゼビウス』(Super Xevious)が発売された。これはロム交換による販売を前提に作られ、基の『ゼビウス』のプログラムを手直しする形で作られている。 『ゼビウス』には一回当たりのプレイ料金が低いイタリア・スペイン向けの高難易度バージョンがあり、それを伝聞した日本のヘビーユーザーから国内販売の要望が挙がったため、上級者向けの別バージョンとして製作された。基本ルールや地上物の配置はほぼ同じながら、空中物出現パターンの改変による大幅な難易度の上昇と、「戦車」や「ファントム」など各種キャラクターの追加が特徴となっている。『ゼビウス』の16エリアを容易に周回できるレベルのプレイヤーに向けたバージョンであり、特定の店舗にのみ販売された。 以下、追加キャラクターの名称・ポイント等は「スーパーソフトマガジン」1984年7月号(電波新聞社)による。 これら追加キャラクターのグラフィックデータは『ゼビウス』のROMにも存在しており、新規にデザインされたものではない。破壊するとスコアが0点に戻されるキャラクターについては、後に開発者も「やりすぎだった」とコメントしている。 その他ポイントに関する変更点として、ソルは出現・破壊とも2,000点から1,000点に、ブラグスパリオはザッパー1発あたり500点から2,000点に変更されている。 『スーパーゼビウス』の移植版は、MZ-2500版(1986年)・X68000版(1987年)・PS版『ゼビウス3D/G+』(1997年)・DS版『ナムコミュージアムDS』(2007年)などに収録されている。 1986年にはAC版『スーパーゼビウス』とは別に、FC版独自の続編として『スーパーゼビウス ガンプの謎』が発売された。こちらも任天堂VS.システム対応でアーケードへ逆移植されているが、これについての開発には遠藤雅伸本人は係わってはいない。 また、公式のシリーズ作品ではないがカタログIPオープン化プロジェクトにて許諾された作品について以下に記載する。
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ゼビウス
1986年にはAC版『スーパーゼビウス』とは別に、FC版独自の続編として『スーパーゼビウス ガンプの謎』が発売された。こちらも任天堂VS.システム対応でアーケードへ逆移植されているが、これについての開発には遠藤雅伸本人は係わってはいない。 また、公式のシリーズ作品ではないがカタログIPオープン化プロジェクトにて許諾された作品について以下に記載する。 1988年にナムコCGプロジェクトによって制作された2分程の短編映像作品。内容は、近未来のロボットが、ゼビウスを題材とした立体映像の3Dシューティングゲームをプレイするうちに、ゲームの世界に没頭していくというもの。国内最大規模のCG関連総合展「ニコグラフ'88」で注目を集め、翌89年に米国National Computer Graphics Association主催のCGコンペ「NCGA’89」にて、コーポレート・プレゼンテーション部門2位入賞を果たした。1992年にビクター音楽産業より発売された映像ソフト『ソルバルウ』(LD/VHS)に特典映像として収録されている。 『XEVIOUS』(劇中タイトルは「XEVIOUS 知られざる過去」)。2002年8月10日に映画レーベル「ガリンペイロ」作品としてテアトル池袋で公開されたフルCGアニメーション映画。上映時間75分。2002年9月25日にDVD発売と発表されたが、発売されることなく現在(2010年)に至っている。ゲームのシナリオから1万年後が舞台。総監督を立てずキャラクターとメカニックの制作をCGパート毎に分けるなど、CGアニメの実験作的意味合いが強く完成度が高いとはいえない作品となっている。 西暦2015年、宇宙パイロットのタケルと人型コンピュータ・マーサは、謎の巨大宇宙船の中で行方不明のサラと瓜二つの機械生命体ルウ・ミーと出会い、人類の宿敵ガンプの存在を知らされる。地球侵攻まで40分しかない中、タケルはソルバルウに乗り込みガンプの基地アンドア星へ向かった。
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スラッシュドット効果
スラッシュドット効果(スラッシュドットこうか、英語: Slashdot effect)もしくはフラッシュクラウド(英語: flash crowd)は、定番の大きなWebサイトが小さなサイトをリンクして、過大なトラフィックをもたらすときに起きる。 これは、小さなサイトに過負荷を与え、処理速度の低下をもたらしたり、利用不能になったりする。 この名前は、技術系ニュースサイト「スラッシュドット」からのリンクに起因する絶大なWebトラフィックに由来する。 ジャーゴンファイルによると、「スラッシュドット効果」という用語は、定番のスラッシュドットのニュースサービスの記事において、あるサイトが言及された後に、非常に多くの人々がそのサイトを見に来ることに起因して、Webサイトがアクセス不能になっている現象をいう。 これは後に、定番のサイトに掲載されることによるあらゆる同様な効果も説明するために拡張され、より一般的で適切なフラッシュクラウドという用語と同等の意味になっている。 日本においては、2ちゃんねるで紹介されたサイトに同様の現象が見られるため、これを2ちゃんねる効果と呼ぶ者もいる。一方、2ちゃんねるよりも社会的影響力が低いスラッシュドット日本語版に関してそのトラフィック効果に関して言われることはほとんど無い。 同様の現象は、Yahoo!ニュースでも見られる。こちらはリンク先へ直接リンクが張られているのではなく、一旦Yahoo!内を経由しており、多数のアクセスにより混雑している、ページが正常に表示されない可能性があるという旨が表示されることがある。 スラッシュドット効果に対処するために、多くのソリューションが各サイトに提案されてきた。 たとえオリジナルのサイトが反応しなくなったとしても、そのコンテンツの閲覧可能性を保つために、スラッシュドットからリンクされているすべてのページを自動的にミラーするシステムがいくつかある。
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水(、英: water、他言語呼称は「他言語での呼称」の項を参照)とは、化学式 H2O で表される、水素と酸素の化合物である。日本語においては特に湯と対比して用いられ、液体ではあるが温度が低く、かつ凝固して氷にはなっていない物を言う。また、液状の物全般を指す。 この項目では、水に関する文化的な事項を主として解説する。水の化学的・物理学的な事項は「水の性質」を参照。 水は、ヒト(人)を含む多くの生命体にとって不可欠な物質であり、地球と似た生命が発生・存続しうる惑星の位置を指すハビタブルゾーンは、惑星表面に液体の水が存在しうる温度を保てる恒星からの距離が主な基準となる(→#生物と水)。人は、尿や汗として、成人男性で1日4リットル余り、成人女性で1日3リットルの水を体外に排出し、これは体内にある水の10%程度に相当し、飲み物に含まれる飲料水を20代男性で1日1.8リットル、20代女性で1.4リットル飲む必要がある。水は様々な産業活動にも不可欠である。 古代ギリシャではタレスが「万物のアルケーは水」とし、エンペドクレスは四大元素の1つで基本的な元素として水を挙げた。古代インドでも五大の1つとされ、中国の五行説でも基本要素の一つと見なされている。18世紀の後半まで、洋の東西を問わず人々はそうした理解をしていた。それが変わったのは、19世紀前半に、ドルトン、ゲイリュサック、フンボルトらの実験が行われ、アボガドロによって分子説が唱えられたことによって、 H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} で表すことができる水素と酸素の化合物と理解されるようになった。(→#水の知識の歴史概略) 常温常圧では液体で、透明ではあるが、ごくわずかに青緑色を呈している(ただし、重水は無色である)。また無味無臭である。日常生活で人が用いるコップ1杯や風呂桶程度の量の水にはほとんど色が無いので、水の色は「無色透明」と形容される。詩的な表現では、何かの色に染まっていないことの象徴として水が用いられることがある。しかし、海、湖、ダム、大きな川など、厚い層を成して存在する大量の水の色は青色に見える。このような状態で見える水の色を、日本語ではそのまま水色と呼んでいる。(→水の色)
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化学が発展してからは化学式 H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} で表され、「水素原子と酸素原子は共有結合で結びついている」と理解されている。(→水の性質) また水は、かつて1 kgや1 calの単位の基準として用いられていた。(→水の性質) 前述のように、水は、全ての既知の生命体にとって不可欠な物質で、その身体を構成する物質の最も多くを占めている。細胞核や細胞質で最も多い物質でもあり、細胞内の物質を代謝する際の媒体としても利用されている。通常、質量にして生物体の70–80 %が水によって占められている。人体も60–70 %程度が水である。(→#生物と水) 地球表面、特に海洋に豊富に存在する。水は人類にとって身近であって、地球上の生物の生存に必要な物質である。しかし宇宙全体で見ると、実は液体の状態で存在している量は少ない。(→#水の分布) 現代の人類の水の使用量の約7割が農業用水である。現代の東京の家庭での水の使用量を多い順に並べると、トイレ、風呂、炊事である。(→#水の使用量) 以下では、水に関する人類の知識の歴史概略を解説し、続いて現代物理学での水の理解などを解説する。 日常的な日本語では、同じ液体の水でも温度によって名称を変えて呼び分ける。低温や常温では水と呼ぶが、温度が高くなると湯()と呼び、別の漢字を宛てる。しかし、英語(water)やフランス語(eau)やスペイン語(agua)などでは、液体であれば温度によらず名称は不変である。 日本語では、湯などから立ち上った水蒸気が凝結して空気中に細かな粒として存在する水は、湯気と言う。 用途、性質、存在する場所などによる呼び分けも行われている。例えば、水の中でも、特に飲用に供せるものを飲料水と言う。海にある塩分などを多く含む水は海水、地下に存在する水は地下水と呼び、地下水を汲みボトルに詰めた製品をボトルウォーターと呼ぶ。また、用途によって、農業用水、工業用水などの呼称もある。機能と水質に基づく、上水、中水、下水という呼称もある。 古代ギリシア語では「ὕδωρ」。発音は時代と共に変遷しており、紀元前5世紀はIPA: /hý.dɔːr/「ヒュドール」、紀元前1世紀は IPA: /ˈ(h)y.dor/「ヒュドル」あるいは「ユドル」であった。
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古代ギリシア語では「ὕδωρ」。発音は時代と共に変遷しており、紀元前5世紀はIPA: /hý.dɔːr/「ヒュドール」、紀元前1世紀は IPA: /ˈ(h)y.dor/「ヒュドル」あるいは「ユドル」であった。 なお、近・現代の学問で水関連の事物についての造語をする場合、古代ギリシア語の「ὕδωρ」を接頭語として用いるために(若干変形させて)「hydro-」が使用されることがある(例: 英: hydrogen「水素」〈「水を生むもの」「水のもと」といった意味の造語〉、ハイドロプレーニング現象)。この学術的接頭辞の発音は、言語ごとに異なり、英語では/haɪdrə/「ハイドロ」、フランス語では/idʁɔ/「イドロ」である。 ラテン語ではaqua「アクア」である。これも伝統的に学術用語に、さらに非学術的分野(商用も含む)でも造語に用いられ、様々な言語で「aqua-」「アクア~」といった語や表現が多数存在する。 その他の言語では である。 水の概念を自然科学的に拡張して、化学式で H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} と表現できる物質を広義の「水」とすれば、固体は氷、液体は水、気体は水蒸気、ということになる。 IUPAC系統名はオキシダン (oxidane) だが、ほとんど用いられない。また、一酸化二水素、酸化水素、水酸、水酸化水素といった呼び方をすることも可能である。(→水素化物) 不純物をほとんど含まない水を「純水」と呼ぶ(たとえば、加熱してできた水蒸気を凝結した蒸留水など)。特に純度の高い水は「超純水」という呼称もある。
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IUPAC系統名はオキシダン (oxidane) だが、ほとんど用いられない。また、一酸化二水素、酸化水素、水酸、水酸化水素といった呼び方をすることも可能である。(→水素化物) 不純物をほとんど含まない水を「純水」と呼ぶ(たとえば、加熱してできた水蒸気を凝結した蒸留水など)。特に純度の高い水は「超純水」という呼称もある。 水の化学式 H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} の水素が2つとも同位体の重水素である水を重水と呼び、化学式 D 2 O {\displaystyle {\ce {D2O}}} で表す。水素の1つが重水素であり、もう1つが軽水素である水は、半重水と呼び、 DHO {\displaystyle {\ce {DHO}}} で表す。水素の1つが三重水素(トリチウム)である水は、トリチウム水(または三重水素水)と呼び、 HTO {\displaystyle {\ce {HTO}}} で表す。重水・半重水とトリチウム水を併せ、さらに酸素の同位体と水素の化合物である水も含めて、単に重水と呼ぶこともある。この広義の重水に対して、普通の水は、軽水と呼ばれる。 軽水と重水は電子状態が同じなので、化学的性質は等しい。しかし、質量が2倍、3倍となる水素の同位体の化合物である水では、結合や解離反応の速度などの物性に顕著な差が表れる。(→速度論的同位体効果) 気象に関する用語では、水の粒の大きさによって、霧や靄(もや)と呼ぶ(これらを総称した一般用語として霞もある)。それらが上空にある状態では、雲と呼ぶ。雲から凝縮して大きめの水滴となって地上に落ちてくる水は雨と呼ぶ。上空で水蒸気が凝固して結晶となった氷は雪と呼ばれ、一体の結晶になっていない粒は、大きさによって霰(あられ)や雹(ひょう)と呼ぶ。それらが水と混合した状態になっていれば、霙(みぞれ)と呼ばれる。 古代ギリシアの哲学者、一般に最初の哲学者とされる、紀元前6世紀頃の人物ミレトスのタレスは、万物の根源アルケーを探求する中で「アルケーは水である」と述べたと伝えられている。
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古代ギリシアの哲学者、一般に最初の哲学者とされる、紀元前6世紀頃の人物ミレトスのタレスは、万物の根源アルケーを探求する中で「アルケーは水である」と述べたと伝えられている。 同じく古代ギリシアのエンペドクレスは、火、空気、水、土(古代ギリシア語: πυρ, αήρ, ὕδωρ, γη 、ギリシア語: φωτιά, αέρας, νερό, γη、羅: ignis, aer, aqua, terra)を4つのリゾーマタ(古代ギリシア語: ῥιζὤματα、「根の物質」の意で今日の元素のこと)とし、それの集合や離散によって自然界のできごとを説明する、いわゆる四元素説を唱えた。これはアリストテレスに継承された。 古代インドでも、地、水、火、風 およびこれに空を加えた五大の思想が唱えられていた。また中国においても、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素から成るとする五行説が唱えられた。 つまり、洋の東西を問わず、水は、基本的な4~5種の元素の1つだと考えられていた。こうした水の理解は、2000年以上、18世紀後半の時点でも、ごく一般的であった。 こうした理解に変化が生じ始めたのは18世紀末である。人類の歴史の中で見ても、ごく最近のことである。18世紀末に、キャベンディッシュが、金属と酸とが反応した時に、軽い謎の気体(現在では水素と呼ばれているもの)が発生し、それは簡単に燃えて水になることを発見した。また、ラボアジエが、この燃焼で化合する相手が空気中の酸素であることを確かめた。これによって「水は元素ではなかった」という考え方が登場した。ただし、ラボアジエの実験があっても、人々の考え方が直ちに変化したわけではない。人々や学者らもおおむね四元素の考え方をそれまでどおり用いていた、と科学史家たちは指摘している。18世紀までの文献に現れる「aqua」「water」「水」などは、基本元素としての水であると理解するのが妥当である。
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その後、19世紀初頭、イギリスのドルトンが実験の結果、水素と酸素が重量比で1:7で化合するとし(後に正しくは1:8と判明)、1805年にはゲイ・リュサックやフンボルトなどがそれぞれ、体積比で2:1で化合することを見出した。さらに1811年に、アボガドロが分子説を唱え、その枠組みの中で水の分子が H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} と定められた。この19世紀の初頭に、西欧の学者たちの水の理解が変わったと科学史家らによって指摘されており、同世紀を通して一般の人々の理解も変化していったと考えてよい。 分子説の成立と共にあったという点などで、水は近代化学の発展のきっかけを作った物質である。この時期は、おおむねphilosophia(哲学)を母胎としてscientia(科学)が生まれつつあった時期と一致している。こうした新しい独特の哲学を行う人の数が徐々に増え、彼らが自分達のことを他の哲学者と区別するためにscientist(科学者)という用語がヒューウェルによって1833年に造語され その使用が提唱された。 地球上には多くの水が存在しており、生物の生育や熱の循環に重要な役割を持っている。この水の存在は、気象学や海洋学などの地球科学、生態学における大きな要因の一つである。水蒸気は最大の温室効果ガスでもある。 地球の水の総量は約14億 km(= 1.4×10 m)と言われ、その97 %が海水として存在し、淡水は残り3 %に過ぎない。地球表面の淡水のほとんどは氷河や氷山として、固体の形で存在している。氷の状態の淡水の大部分は南極大陸とグリーンランドが占めている。 この中で、淡水湖、河川水、地下水浅が、人間が直接に利用可能な水で、総量の1 %未満である。飲料水として利用できる水はさらに少ない。海水は天然および人工の全ての汚れを合わせ高濃度に汚染されているため、水資源としての利用価値はほとんどない。 地球における継続的な水の循環は水循環と呼ばれている。太陽から与えられたエネルギーを主因として、固相・液相・気相間で相互に状態を変化させながら、蒸発、降水、地表流、土壌への浸透などを経て、地球上を絶えず循環している。また、この循環の過程で地球表面の熱の移動や浸食、運搬、堆積などの地形を形成する作用が行われる。
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地球における継続的な水の循環は水循環と呼ばれている。太陽から与えられたエネルギーを主因として、固相・液相・気相間で相互に状態を変化させながら、蒸発、降水、地表流、土壌への浸透などを経て、地球上を絶えず循環している。また、この循環の過程で地球表面の熱の移動や浸食、運搬、堆積などの地形を形成する作用が行われる。 太陽系外惑星には、大量の液体の水を保持している可能性のある惑星が複数見つかっている。例えばケプラー22bやグリーゼ581d、HD 85512 bといった惑星は、地球と同じような環境で水の海を持つと推定されている。しかし、GJ 1214 bやかに座55番星eといった惑星は、地球と異なり、高温高圧の超臨界水の海を持つとされている。 2011年にクエーサーのAPM 08279+5255の降着円盤に、地球の水の140兆倍という膨大な量の水が発見された。APM 08279+5255は、宇宙誕生から16億年後の時代に存在する天体であり、このことは、既にこの時代に大量の水が存在していた事を示している。 2012年にはハッブル宇宙望遠鏡の観測により、GJ 1214 bが高温の水蒸気の大気を持つことが確認された。大気の下には超臨界水の海が存在する可能性がある。 生物体を構成する物質で、最も多くを占める物質は水である。核や細胞質で最も多い物質でもあり、細胞内の物質を代謝する際の媒体としても利用されている。通常、質量にして生物体の70 % – 80 %が水によって占められており、そのうちわずか数パーセントでも不足すると生命活動に不都合が現れる場合がある。 生きている細胞には(理想的な溶媒である)水が多く含まれており、生命現象を司る化学反応の場を提供し、また水そのものが種々の化学反応の基質となっている。体液として、体内の物質輸送や分泌物、粘膜に用いられる。また高分子鎖とゲル化することで体を支える構造体やレンズにも利用されている。クマムシのように厳しい環境にも耐えられる生物は、体内の水分を放出し、不活性な状態を作り出すことができる。 なお、「生物は太古の海で誕生した」とされることがある。生物の化学組成と海水の組成が似ていることもその説の根拠の1つである。地上の生物もその先祖をたどれば水中生活を送っていた、とされる。
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なお、「生物は太古の海で誕生した」とされることがある。生物の化学組成と海水の組成が似ていることもその説の根拠の1つである。地上の生物もその先祖をたどれば水中生活を送っていた、とされる。 陸上のように、常に水に浸かっていない環境では、生物にとって最も重要な問題の1つが水の確保である。陸上の無脊椎動物では、周囲が湿っていなければ活動できない種も多い。陸上生物に見られる進化的形態の多くが、水の確保や自由水が限られた環境への適応である。クマムシの場合も、頻繁に乾燥にさらされる環境への適応として、休眠の能力が発達したと考えられている。 地球外生命の探査においても、液体の水が星表面または内部に安定して存在している星である事が生物が存在する条件の一つとして考えられている。水以外を溶媒とした生物も理論上は考えられるが、低過ぎる沸点や存在量の不足など何らかの問題を持っており、水より生物は発生しにくいだろうと考えられている(代わりの生化学)。 人体における水分量は年齢・性別によって異なり、新生児で約80 %、成人で60 %前後、高齢者は50 %台となる。また女性は男性に比べて体内の脂肪分が多い関係で水分量は同年代の男性に比べてやや少ない。そして「その人体の水のうち45 %までが、細胞内に封じ込められた水で、残り15 %が血液・リンパ液など細胞の外にある水」と言われている。この細胞内液、細胞外液の両者を総称して体液と呼ぶ。この体液が生命の維持、活動に重要な役割を果たす。 なおニッスイによると、1日に排出される水の量は体重60 kgの成人男性で2500 mLであり、内訳としては尿が1400 mL、糞100 mL、汗500 mL、肺からの呼気500 mLである。また、1日に必要な水の量は当然2500 mLで、一般に飲料水から1200 mL、食物から1000 mLが摂取され、残りは体内で行われた代謝の結果生じた水を300 mL得ているという。一方で、ハーバード健康出版局は1日に必要な水の摂取量を約1400 - 1900 mLとしており、そこには食事によって得られる水分も含まれる。 水は強力な水素結合で水分子同士が引き合っているために蒸発潜熱が多い。このため汗が蒸発することにより、非常に効率良く体温を放散できる。しかし、発汗しても液体として流れ落ちる量が多い時は、この限りではない。
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水は強力な水素結合で水分子同士が引き合っているために蒸発潜熱が多い。このため汗が蒸発することにより、非常に効率良く体温を放散できる。しかし、発汗しても液体として流れ落ちる量が多い時は、この限りではない。 体内の水分量が不足した状態を医学的には脱水と呼ぶ。水分喪失量に対して水分摂取量が不足することによって起こる。脱水症状が長引くと、尿路感染症、腎臓結石、便秘などの特定の症状のリスクが高まるほか、持続的な注意や作業記憶などの認知スキルを弱めることがわかった。水分摂取不足、あるいは水分喪失過剰、あるいは水分摂取不足と水分喪失過剰の同時進行によって起きる。具体的には、高温の環境、重作業、激しい運動、発熱、下痢、嘔吐、食事不足などが原因となって起きる。 人体が過剰な水分を投与された場合、細胞外液の浸透圧が異常に下がり、低ナトリウム血症によって悪心、頭痛、間代性の痙攣、意識障害などの症状を引き起こす。これを水中毒と言い、輸液ミス、心因性多飲、SIADHなどの結果として見られる。なお致死量は体重65 kgのヒトで10 – 30 L/日である。 十分な水を飲むことは多くの理由で重要である。細胞に栄養素を供給し、体温と血圧を調節し、関節を滑らかにし、感染を防ぎ、臓器が正しく機能し続けるのを助ける。水はまた、食物が消化管を通って移動し続け、腎臓の健康をサポートする。全米医学アカデミーは、健康な男性が1日あたり13カップの水分を摂取することを示唆しているが、そのすべてが水や液体や無糖の炭酸水である必要はない。多くの食品にはかなりの量の水分が含まれている。尿の色は、水分摂取量を監視する簡単な方法である。水分補給されているとき、尿は透明と軽いわらの色の間にあるべきである。濃い黄色または琥珀色は、より多くの水を飲む必要があることを示している。 安全な水を飲めるかどうか、ということは人間の健康に大きな影響を及ぼしている。汚物などに触れた不衛生な水を飲むと、感染症(コレラや腸チフス、赤痢など)で命を落とす者が出る。そしてこれらの病気は伝染する。体力の弱い乳幼児は、不衛生な水を摂ると、しばしば酷い下痢を起こし脱水症状で死亡する。老人も免疫力が弱く、不衛生な水で命を落としやすい。また、不衛生な水は寄生虫の問題も引き起こす。
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安全な水を飲めるかどうか、ということは人間の健康に大きな影響を及ぼしている。汚物などに触れた不衛生な水を飲むと、感染症(コレラや腸チフス、赤痢など)で命を落とす者が出る。そしてこれらの病気は伝染する。体力の弱い乳幼児は、不衛生な水を摂ると、しばしば酷い下痢を起こし脱水症状で死亡する。老人も免疫力が弱く、不衛生な水で命を落としやすい。また、不衛生な水は寄生虫の問題も引き起こす。 古代でも中世でも、人類のほとんどは水道無しで生活していたと考えて良い。都市で暮らすにしても上水道が無かった。安全な水を飲む方法として古代から行われている1つの方法は、煮沸(しゃふつ)してから口に入れる方法である。 水の使用形態は大きく都市用水と農業用水に分けられ、さらに都市用水は生活用水と工業用水に分けられる。 世界の水の使用量は、1995年の段階で年間約3570 kmで、内訳としては、農業用水が約2503 km/年で約7割を占め最大、工業用水が約715 km/年、生活用水が約354 km/年だった、とも推定されている。水使用量は1950年から1995年までで2.6倍になっているともされ、2025年には30億人以上が水の量と質の限界(水ストレス)に直面する、とも予想されている。仮想水という指標で水の使用量が計算されている。 家庭での水の使用量は、地域によって著しく異なる。途上国の中には、1日1人当たり数リットル程度の国も見られる。その一方で、先進国では1日1人当たり数百リットルという国が多く、途上国と先進国の間には大きな差がある。日本の家庭の使用量も他の先進諸国と同様、特に多い部類に入る。 日本での使用状況の1例として東京の家庭でのそれを挙げると、1日で1人当たり242 Lの水を使っている(2005年現在、東京都水道局調べ)。家庭での水の使用量のうち、28 %がトイレ、24 %が風呂、23 %が炊事、17 %が洗濯であった(2002年、東京都水道局)。
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日本での使用状況の1例として東京の家庭でのそれを挙げると、1日で1人当たり242 Lの水を使っている(2005年現在、東京都水道局調べ)。家庭での水の使用量のうち、28 %がトイレ、24 %が風呂、23 %が炊事、17 %が洗濯であった(2002年、東京都水道局)。 ローマ帝国(古代ローマ)は、土木技術に秀でており、ローマに水を引くべく水道を建設した。これのおかげでローマの住むローマ市民は公衆浴場を利用することができた。ローマには公共の水洗トイレもあった。石製のベンチ状の物の下を水が流れており、ベンチには穴があいており、そこにこしかけて用をすれば、排泄物が流れてゆくのである。ローマのように水がふんだんにある都市生活は世界的に見て例外的であり、他に類を見ない状態であった。 ローマ帝国の時代、ローマという都市に住む人々は風呂に頻繁に入っていたわけだが、その後、彼ら(かつてのローマ帝国の中核的市民。今のローマ市民やイタリア人)は頻繁に風呂に入る習慣は失った。 都市では、都市で生活する者に安全な飲料水をいかにして届けるかということは、都市を治める者、政治を行う者にとって大きな問題である。 日本の江戸では、水不足の状態を改善するために、1652年に玉川上水の建設が計画され、翌1653年、まずは本線が建設された。難工事で幕府の用意した資金は底をついてしまい、玉川兄弟は自宅を売って建設を続行したという。承応3年(1654年)6月から、江戸市中への通水が開始された。 京都では1885年(明治18年)に琵琶湖第1疏水を着工し、1890年(明治23年)に完成した。 中世ヨーロッパでは、各都市は外敵を防ぐべく壁を建設し(城塞都市)、自治が行われ、独立性が高く、小さな国のような様相を呈する都市が多かった。ヨーロッパの都市では、街の広場などに、都市の近くの山などから水道で水を引き、その水を出す fonte フォンテ (イタリア語、ポルトガル語。フランス語では fontaine フォンテーヌ、日本語では「泉」)を設置して、飲料水を市民に提供している都市が多かった。市民は桶を持って広場にやってきて、この「泉」で水を汲んで、水が入った重い桶を持って家まで運び、各家でそれを使うのである。つまり「水道」があるといってもそういう程度のことであったのであり、基本的に各家まで引かれていたわけではない。
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中近世のヨーロッパの水事情を理解するための例の1つとして、フランスの首都のパリの水事情について説明すると、パリの水事情は劣悪であった。16世紀・17世紀・18世紀と、パリ市民は安全な飲料水をたっぷりと確保できていたわけではない。基本的に、風呂に入る、などということは考えられない状態であった。やることと言えば、布に水や湯を含ませて身体を拭くということだったり、せいぜいやるとしても、身体があまりに臭くなったら、桶やたらい(金たらい)を用意して、服を脱いでその中で立って、桶にくんだ水をチョロチョロと身体にかけて流し、数分後にはそそくさと身体を拭く、という程度であった。 汚水の扱いも酷い状態で、パリに下水道が整備されていなかったため、市民は、汚物を家(アパルトマン)の前の街路に捨てていた。当時、パリの街路は道の端や真ん中に水が集まるようにしてあり、雨になるとそこを雨水が流れるのだが、そこに汚物が大量に流れ、街全体に悪臭が漂っていたのである。そのような状態が常態化すると、終いには、建物の3階・4階などに住み、いちいち1階まで歩いて降りる手間を面倒に感じる者などでは桶に入った汚物を窓から直接放り投げるような不届き者すらもいた。パリの街を歩くには、足元の汚水にも気を付けなければならないし、同時に、頭上にも注意を払って汚物をかけられないように気を付ける必要すらあったのである。 この状況が変わったのは19世紀のことで、オスマンが行ったパリ改造(オスマニザシオン)の成果であり、オスマンは、パリ市民のために安全な水を豊富に確保するために、パリから100 kmも離れた水源からパリに水を引くという決断を行い、それが成功し、各家庭に充分に水を届けることが可能になり、その結果、当時、パリの各家庭でバスタブを置き風呂に入るということがちょっとした流行になった。 地域によっては現代でも水道が無い国が多い。毎日水をバケツなどで家まで運ぶ地域もある。さらに、水源が遠いため自力で長距離を歩かなければならず、その労働を担う子供が通学さえままならない地域もある。 日本では行われていないが、国や地域によっては、虫歯の予防のために水道水にフッ化物が添加されている。一方、ほとんどのボトル入り飲料水にはフッ化物が含まれていないため、こうした地域では水道水を飲んだ方が口腔の健康上望ましいと考えられている。
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日本では行われていないが、国や地域によっては、虫歯の予防のために水道水にフッ化物が添加されている。一方、ほとんどのボトル入り飲料水にはフッ化物が含まれていないため、こうした地域では水道水を飲んだ方が口腔の健康上望ましいと考えられている。 水は人類にとって最も身近で重要な物質であり、かつ様々な態様を見せることから、水をモチーフとした数々の芸術作品が生み出されている。 水そのものを取り入れた作品として、庭園における池や噴水などがある。 他にも、世間や市場に普遍的な物(貨幣や情報など)を水に喩えて、「洪水のような」「氾濫する」などと表現されることがある。
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スラッシュドット
スラッシュドット(英: Slashdot)は、特に米国で有名な、コンピュータ関係のニュースを扱うWeb上の電子掲示板である。他のウェブサイトで紹介されたニュースなどの要約をリンクと共に提供し、それに対して読者がコメント(意見)を書き込んでいく。英語版には過去に5300件以上のコメントが寄せられたことがあった。日本語版へのコメントは最大1018件であった。 2023年現在日本の日本語版と米国の英語版は独立して存在する。 ニュース記事(「ストーリー」)は読者からの投稿(「タレコミ」)として編集者グループに提供され、それを各編集者が選択して掲載する、という方式が採られている。各記事には、匿名・非匿名関わらずに読者が自由に「コメント」を投稿することが出来る。 ある読者のコメントに対して、別の読者がプラス・マイナスの点数付け(モデレーション)をする、「モデレーションシステム(英語版)」の導入が特徴的である。コメントのモデレーションは+5〜-1の範囲で変化する。通常の初期値は、アカウント(ID)を持ち、ログインしている読者は1、匿名として投稿した者は0である。モデレーションする権利はアカウント(ID)を登録して定期的にスラッシュドットを訪れ、かつ登録後一定の期間が経過した読者に、今までの投稿へのモデレーションなどを考慮した上で、システムが無作為に与えるようになっている。ただし、モデレートする意志がない場合、ユーザー設定で「モデレートする意志」のチェックを外すことで、モデレート権は回ってこなくなる(既定はオン)。またモデレート権は一時的なものであり、3日間のみ有効、かつ5つ以内のコメントに対して行使できる。さらに「メタモデレーション」という仕組みもあり、別な読者がモデレーションの結果に対し「公正・不公正」の評価ができる。これにより恣意的なモデレーションを抑止する効果を意図している。
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スラッシュドット
また、アカウントを持つものは、投稿したコメントへのモデレーションや行ったモデレーションへのメタモデレーションに応じて「カルマ」と呼ばれるポイントが付与される。このカルマは、先のモデレーション権取得条件の一つであったり、投稿のモデレーション初期値を+2にすることができる(ただしこれを行うと代償としてカルマは下がる)など、若干の特典が得られる。なお、カルマの数値は実際に示されることはなく、ユーザは「たっぷり」などのような抽象的言葉でのみ知ることができる。 ログインせずに匿名で投稿した場合、投稿者名が Anonymous Coward(匿名の臆病者の意味、AC)となり、前述のモデレーションシステムや大量の連続投稿ができないなどの制限がある。その一方で「内部の人間なのでACですが......」と注釈付きで貴重な情報を提供する技術関係者も多く、そのような発言に対して、同サイトのモデレート制度により「参考になる」等の評価が寄せられることもある。 掲載された記事には内容に応じたトピックに属する。それぞれに対しトピックアイコンが用意されている。また、トピックとは別にセクションという区別が設けられており、セクションローカルとして投稿されている記事は基本的にトップページにタイトルだけが載る(編集者が決める)。例えばアンケート記事である「Slashdotに聞け! (Ask Slashdot)」などはセクションの一つである。 記事の傾向としては、多方面に及ぶ新技術に関するものから、セキュリティに関する情報、様々なマニアックなネタ、IT業界に関する経済的な記事を主とする。
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スラッシュドット
記事の傾向としては、多方面に及ぶ新技術に関するものから、セキュリティに関する情報、様々なマニアックなネタ、IT業界に関する経済的な記事を主とする。 呼称は「スラド」「すらど」「/.」、日本サイトの場合には「/.J」。 2001年5月にスラッシュドットジャパンとして正式オープン。 Slashdotを運営するアメリカのVA Linux Systemsの日本法人、VA Linux Systems Japanが運営していた。 しかし親会社の買収による経営方針の転換のため、SourceForge.JP(現OSDN)とともに独立し、2015年5月11日にから正式名称を「スラド」(英語表記:Srad)に変更。 運営もVA Linux Systems Japan株式会社 OSDN事業部からスピンオフした、OSDN株式会社に移管された。 2020年2月17日付け発表によると、株式会社アピリッツ は「スラド」を含むOSDN株式会社の全事業を譲受し、OSDN社の組織は全てアピリッツに新設されたOSDN部へ移管、従業員全てをOSDN社から引き継ぎ、OSDN社の代表取締役である佐渡が新たにアピリッツOSDN部の部長に就任し、OSDNのサービスブランド・ドメイン等を含めてそのまま継承したとの事。 システムソフト"slashcode"にはもともと「荒らし」「フレームのもと」「既出」などのマイナスモデレーション(評価)を短期間に複数回に渡って受けた投稿者に対して、その後3日間投稿を制限することによって、悪質な投稿者を排除しようとする機能がシステムに組み込まれている。 日本版では、Anonymous Cowardは訳されずに英語のまま使用される。 スラッシュドットという名は、スラッシュ記号とピリオドのことで、URLを実際に発音すると聞く側が混乱するように考えたところから来ている、という。すなわち、「エイチティーティーピーコロンスラッシュスラッシュスラッシュドットドットオルグ」と読まれることを期待している。
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ブラック–ショールズ方程式
ブラック–ショールズ方程式(ブラック–ショールズほうていしき、英: Black–Scholes equation)とは、デリバティブの価格づけに現れる偏微分方程式(およびその境界値問題)のことである。様々なデリバティブに応用できるが、特にオプションに対しての適用が著名である。ブラック-ショールズ方程式はヨーロピアンオプションのオプション・プレミアムの値を解析的に計算できるが、アメリカンタイプのプット・オプションについては(解析的には)計算できない。ただし、ブラック-ショールズモデルにおけるアメリカンコールオプションの理論価格はヨーロピアンコールオプションの理論価格と一致する。 ブラック–ショールズ方程式は1973年にフィッシャー・ブラックとマイロン・ショールズによりオプションの価格付け問題についての研究の一環として発表された。後にロバート・マートンが彼らの方法に厳密な証明を与えた。これらの理論は現代金融工学の先がけとなったとも言われる。 オプション価格の評価についての研究は長い歴史がある。ファイナンス研究において先駆的な業績を残したことで知られるルイ・バシュリエは1900年に発表された博士論文の中でオプションの評価式を考察していた。しかし、彼の評価式は価格が負になることもありうるために非現実的であった。その後、1961年にCase Sprenkleが、1965年にポール・サミュエルソンが株価変動に幾何ブラウン運動を用いたオプション価格式を導出した。しかしながら、彼らの評価式はオプションの価格評価において、今日で言う所のリスクの市場価格を明示的に表現できなかった為に、実用性に乏しいものであった。
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ブラック–ショールズ方程式
1965年にアーサー・D・リトルで職を得たフィッシャー・ブラックは同社に在籍していたCAPMについての研究で知られるジャック・トレイナー(英語版)の影響の下、ワラントの評価式についての研究を行っていた。その中で1969年頃に、ブラック–ショールズ方程式の前段階となるようなワラントについての評価式の導出に成功していた。これにはサミュエルソンやロバート・マートンによる多期間においての株式と債券の最適投資比率を決定する問題(マートンのポートフォリオ問題)についての研究に大きく影響されたとブラックは述べている。しかし、ブラックはこの方程式が熱伝導方程式の一種であることには気付かず、解を導出できずにいた。ただ、ブラックはこの方程式について考察を深める中で、株式の期待リターンにワラントの価値は依存しないこと、つまりワラントの価値を決定する上で重要なのは株式全体のリスク(ボラティリティ)であることに気付いている。 また、時を同じくして1969年ごろにマサチューセッツ工科大学(MIT)に所属していたマイロン・ショールズとブラックは知り合い、ショールズの紹介によりブラックはMITに職場を移した。そこからブラックとショールズの共同研究が始まり、ワラントの研究から転じたオプションの評価式についての研究は急速に進展した。 同時期にオプション評価式の研究に取り組んでいたマートンとの議論はブラックとショールズの研究に大きな影響を与えている。両者の関係は共同関係であり、またライバル関係であったとブラックは述べている。そのような中でブラックとショールズは伊藤清らにより創始された確率微分方程式の理論とマートンとの議論によってもたらされた複製ポートフォリオの概念を用いて導出されたブラック–ショールズ方程式の解を見出すことに成功した。ブラックとショールズは1970年の夏に開かれたカンファレンスでコーポレートファイナンスにおいてのブラック–ショールズ方程式の応用についての研究成果を発表したが、マートンは寝坊してしまい、ブラックとショールズの発表を聞くことが出来なかった。
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ブラック–ショールズ方程式
1970年の10月にブラックとショールズはオプション評価式としてのブラック–ショールズ方程式の利用についての研究をまとめた論文をシカゴ大学が発行している学術雑誌であるJournal of Political Economy(英語版)に投稿したが、彼らの論文はアメリカファイナンス学会(英語版)が発行しているThe Journal of Finance(英語版)に投稿する方がふさわしいということで掲載拒否となってしまった。その後、しばらく論文を学術雑誌に発表できずにいたが、シカゴ大学のマートン・ミラーとユージン・ファーマの目に留まり、彼らのアドバイスを受けて修正された論文が1973年にJournal of Political Economyで投稿を受理され発表された。これが広く知られる"The Pricing of Options and Corporate Liabilities"の論文である。 その後、マートンは無裁定価格理論の厳密な理論を展開した論文を発表し、さらにブラックとショールズ自身によってブラック–ショールズ方程式の実用性、データに対する当てはまりの良さが検証されたことで、ブラック–ショールズ方程式は不動の地位を確立した。今日では"The Pricing of Options and Corporate Liabilities"はJournal of Political Economyで最も引用される論文の一つとなっている。 これらの功績を称え、1997年のノーベル経済学賞はショールズとマートンに授与された。ブラックは1995年に亡くなっていたために、この栄誉にあずかることはできなかった。 ブラック–ショールズモデルとは、1種類の配当のない株と1種類の債券の2つが存在する証券市場のモデルである。さらに連続的な取引が可能で、市場は完全市場であることを仮定している。 そして、時刻 t における株価を St 、債券価格を Bt とする。株価は以下の確率微分方程式に従うとする。 ここで、Wt は標準ウィーナー過程であり、σ, μ は定数で、σ はボラティリティ、μ はドリフト(英語版)である。よって株価は幾何ブラウン運動で表される。 また、債券価格は次で表されるとする。 ここで、r は定数の無リスク利子率である。
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ブラック–ショールズ方程式
そして、時刻 t における株価を St 、債券価格を Bt とする。株価は以下の確率微分方程式に従うとする。 ここで、Wt は標準ウィーナー過程であり、σ, μ は定数で、σ はボラティリティ、μ はドリフト(英語版)である。よって株価は幾何ブラウン運動で表される。 また、債券価格は次で表されるとする。 ここで、r は定数の無リスク利子率である。 さらに、0 ≤ t ≤ T で発展的可測(英: progressively measurable)な確率過程の組 (at(ω), bt(ω)) を取る。at は t 時点で状態が ω の場合の株式の保有量、bt(ω) は同債券の保有量である。このような組 (a, b) を、株式と債券の取引戦略という。区間 [0, T] における取引戦略 (a, b) が自己資本充足的(英: self-financing)であるとは、0 ≤ t ≤ T の各時点 t に対し、次の式が満たされることである。 よって となる。 ブラック–ショールズモデルの下で、満期 T において行使価格が K であるヨーロピアン・コールのオプションプレミアム C = C(St, t) が無裁定となるように適正な価格となる条件を求める。区間 [0, T] で自己資本充足的な取引戦略 (a, b) を、各 t 時点で次のように定める。これを複製ポートフォリオ (replicating portfolio) という。 上式右辺の複製ポートフォリオの自己資金充足性により、次の式が導かれる。 他方、伊藤の公式により次の式が立つ。 係数を比較してやると、次の式が得られる。 これらの式と C ( S t , t ) = a t S t + b t B t {\displaystyle C(S_{t},t)=a_{t}S_{t}+b_{t}B_{t}} から at, bt を消去すると、次の偏微分方程式が得られる。 この偏微分方程式をブラック–ショールズ方程式(英: Black–Scholes equation)、またはブラック–ショールズ偏微分方程式(英: Black–Scholes partial differential equation)と言う。この方程式の境界条件は以下の3つである。 同方程式において、次のように変数変換する。
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ブラック–ショールズ方程式
この偏微分方程式をブラック–ショールズ方程式(英: Black–Scholes equation)、またはブラック–ショールズ偏微分方程式(英: Black–Scholes partial differential equation)と言う。この方程式の境界条件は以下の3つである。 同方程式において、次のように変数変換する。 これは、次のような1次元熱伝導方程式(拡散方程式)の初期値問題となる。 これを解いて元の変数に戻すと、ブラック–ショールズ方程式の解は次の形で与えられる。 ただし、下記の条件においてである。 これが「適正価格」と呼ばれる背景としては、上述のとおり株と債券を使ってヨーロピアン・コールオプションを複製することができるという事実から来ている。もし、コールオプション価格と複製ポートフォリオの組成費用が異なれば、無限に資金を増やすことが可能になる。それは非現実的であるのでコールオプション価格と複製ポートフォリオの組成費用は、理論的には、一致しなくてはならないのである。またここでは St は株価であるとしたが、実際は株式だけに限らず、為替レートや投資信託、株価指数などの市場性のある投資商品や指標であれば全て上述の議論が成立する。 もし株式に配当が含まれたとしても、ブラック–ショールズ方程式は細部の変更のみで成立する。ここで St で表される株式には配当が存在し、その配当は連続的に支払われるものとする。単位時間当たりの配当利回りを q とする。この時、株価の従う確率微分方程式は となる。ただし、この株式を保有していると配当が得られるので、自己資金充足的なポートフォリオは次の確率積分方程式を満たす。 あとは全く同様の議論を繰り返すことで次の偏微分方程式が得られる。 境界条件は配当なしの場合と同一である。この偏微分方程式の解は以下のようになる。 ただし、 である。この配当込みのブラック–ショールズ方程式は通貨オプションについても重要な意味を持つ。自国とある外国の間の(自国通貨建て)為替レートを Qt として、Qt が以下の確率微分方程式に従うとする。 γ は定数であるとする。また自国債券価格を Bt 、外国債券価格を Bt として、それぞれ
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ブラック–ショールズ方程式
境界条件は配当なしの場合と同一である。この偏微分方程式の解は以下のようになる。 ただし、 である。この配当込みのブラック–ショールズ方程式は通貨オプションについても重要な意味を持つ。自国とある外国の間の(自国通貨建て)為替レートを Qt として、Qt が以下の確率微分方程式に従うとする。 γ は定数であるとする。また自国債券価格を Bt 、外国債券価格を Bt として、それぞれ と表されるとする。ただし、r と rf はそれぞれ自国の金利と外国の金利を表し、共に定数であるとする。ここで自国通貨建て通貨オプションを自国債券と外国債券からなる自己資金充足的なポートフォリオで複製することを考える。つまり である自己資金充足的なポートフォリオ (a, b) を考える。すると、前節と同様の議論から無裁定ならば次の偏微分方程式が成立しなくてはならない。 この式は配当込みの株式を原資産としたブラック-ショールズ方程式における配当利回りを外国金利に置き換えただけの式なので、その解も配当利回りを外国金利に置き換えるだけでよいことが分かる。つまり通貨オプションの理論価格は配当込みの株式オプションの理論価格と同じ形をすることが分かる。 ヨーロピアンタイプのプットオプションについてもコールオプションの場合と全く同様の議論から次の偏微分方程式が成り立つ。 ただし、P はプットオプションの現在価格である。つまり、原資産の価格変動が幾何ブラウン運動で、債券利子率が一定ならば、どのようなデリバティブについても偏微分方程式の形は同じとなる。異なるのは境界条件で、プットオプションの場合の境界条件は となる。解は となる。関数や変数の定義はコールオプションの場合と同様である。ここで同一の原資産、満期、行使価格であるヨーロピアンコールオプションとプットオプションをコールオプションについては1単位買い、プットオプションについては1単位売ることを考える。そのようなポートフォリオの価値額は
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ブラック–ショールズ方程式
となる。解は となる。関数や変数の定義はコールオプションの場合と同様である。ここで同一の原資産、満期、行使価格であるヨーロピアンコールオプションとプットオプションをコールオプションについては1単位買い、プットオプションについては1単位売ることを考える。そのようなポートフォリオの価値額は となる。つまり0時点において株式を1単位買い、債券を Ke / B0 単位空売りし、満期までそれを保有し続けるポートフォリオの価値額と常に一致する。この関係をプットコールパリティ(英: put-call parity)と言う。より一般的には、T 期を満期とした額面が1円の債券の t 時点での価格がB ( t, T ) = e で表されることから と書ける。このポートフォリオの満期でのペイオフは となる。このポートフォリオでの満期でのペイオフは同一残存期間の先渡価格 K の先渡契約の満期でのペイオフと同じである。よって満期を T とする t 時点で締結された先渡契約の先渡価格を F ( t, T ) とすると、無裁定条件から が成り立つ。ヨーロピアンプットオプションの理論価格についてはブラック-ショールズ方程式を解かずにプットコールパリティから計算した方が簡単である。 ブラック–ショールズ方程式によるオプション価格を決定するのは株価、満期までの残存期間もしくは経過時間、行使価格、金利、ボラティリティの5つとなる。よってオプション価格をこの5つの変数の関数と見なし、それぞれの偏微分を持って各変数についてのオプション価格の感応度として表したものをグリークス(英: The Greeks)と言う。代表的なものとして、株価についての1階偏微分をデルタ(英: delta)、2階偏微分をガンマ(英: gamma)、経過時間の1階偏微分をセータ(英: theta)、金利の1階偏微分をロー(英: rho)、ボラティリティの1階偏微分をベガ(英: vega)またはカッパ(英: kappa)と言う。それぞれの配当無しヨーロピアンコールオプションにおける具体形は以下の通りとなる。ただし記号等は前節のものと同じである。
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ブラック–ショールズ方程式
デルタとガンマが共に常に正であることから、Y軸をオプション価値としX軸を原資産価格とした座標平面でのオプション価値の曲線は右上がりの凸状の曲線になる。さらにセータが負であることからこの曲線は時間経過と共に下方へ移動していく。プットオプションや配当込みオプションの場合のグリークスは英語版wikipedia のen:Greeks (finance)#Formulas for European option Greeksを参照のこと。 ブラック-ショールズ方程式によるオプション価格において、株価、満期までの残存期間、行使価格、金利は全て市場で観測可能であるが、ボラティリティのみが直接観測不可能で何らかの方法で推定しなくてはならない。そこでブラック-ショールズ方程式による理論上のオプション価格が現実価格と等しいと仮定して実際のオプションの市場価格から逆算されたボラティリティのことをインプライド・ボラティリティ(英: implied volatility)と言う。ブラック-ショールズ方程式が正しければ、あらゆる水準の株価、満期までの残存期間、行使価格、金利においてインプライド・ボラティリティは等しいはずだが、実際に計算されるインプライド・ボラティリティはそうではないことが知られている。 オプションの理論価格算定方式が数学上非常に明晰な形で提供されたことはSPAN証拠金(英語版)に決定的な示唆を与えている。 オプション価格の理論値が得られることから、適正プレミアムの獲得や現実の取引価格との乖離が投資戦略として裁定取引上の利益目標となり得ると考えられた。この点、実際にはテイルリスクに対する脆弱性などが指摘されている。そしてショールズが参加したロングターム・キャピタル・マネジメント破綻により現実的妥当性まで疑問視された。しかし、投資中に発生するイベントの定性情報を無視したポートフォリオ戦略としては依然として強力であり、それまでアナロジーやアフォリズム、アノマリーやテクニカル分析などといった従来の「投資の慣行」を超えた学術的バックグラウンドを持つものとして、現代ポートフォリオ理論や資本資産価格モデルなどと同様に大きな影響をもたらしている。
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ブラック–ショールズ方程式
ブラック–ショールズ方程式は、価格の変化率の分布が正規分布に従うという仮定を置いている。しかし現実の金融商品では必ずしも正規分布が成立しない。そのような批判にこたえる形でブラック–ショールズモデルが持つ仮定を緩めたものとして、ボラティリティが時間経過にしたがって確率的に変動する確率的ボラティリティモデルや原資産(株式など)の価格の不連続な変動を許容するマートンモデルなどが考案されている。
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法学
法学(ほうがく)または法律学(ほうりつがく、英: jurisprudence、仏: jurisprudence、独: Rechtswissenschaft, Jurisprudenz、伊: giurisprudenza)とは、法又は法律に関する学問である。 法学の分類として一般的なのは、実定法に関する研究を行う実定法学(実定法の意味を認識体系化する法解釈学と、立法に関する立法学に分けることができる。)と、基礎法学への分類である。 ドイツ語「Jura()」という語で同じ内容を指すこともあるが、本来これはラテン語の「ius()」(法)の複数形である。複数形であるのは、俗界の法(特にローマ法)と聖界の法(カノン法あるいは教会法)の両方を修めていた頃の名残であるといわれる。また、英語の「jurisprudence()」やフランス語の「jurisprudence()」、ドイツ語の「Jurisprudenz()」、ローマ法における「iuris prudentia()」(法の賢慮)という表現に由来する。市民法大全の 法学提要によれば、「法学とは、...正しいことと正しくないことを知ることである」とされていた。 しかし、イマヌエル・カント以来の法と道徳の峻別の結果、実定法学が分かれ出ることになる。 基礎法学の中で、法哲学は、古代ギリシアに起源を有するが、19世紀に実定法学から分離し成立した分野で、実定法の哲学的考察・実定法の一般理論・法学方法論をその領域とする。法史学(法制史学)は実定法学の一部としてのローマ法学やゲルマン法学の法源研究に起源を有し、これらが発展したものである。諸法域の実定法を比較する比較法学とともに、歴史的・地理的な比較の中に対象となる実定法(日本では日本法)を位置づけることにより、実定法の認識を豊かなものにする。日本の研究においては、基礎法学(特に比較法学と法史学)による知見を基に一定の解釈を展開するというスタイルが支配的である。
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法学
実定法学の対象は、大きく公法と私法に分かれる。これらの対象に応じて、公法学・私法学と呼ぶ。憲法学(国法学)、行政法学、租税法学、刑法学などは公法学に属し、民法学、商法学などは私法学の個別分野である。しかし、この分類は理論的に意味のあるものであるが、あまり便宜的ではないので、公法学、民事法学、刑事法学、基礎法学のように四分することもある(民事訴訟法と刑事訴訟法は、先の分類ではともに公法学に属するとされるが、ここでは民事法学と刑事法学に分かれる)。ここでは、国際法を公法に含め、四つのカテゴリーに分けることとする。 法思想その他によって、法学の学派を区別することがある。
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構造化プログラミング
構造化プログラミング(、英: structured programming)は、コンピュータプログラムの処理手順の明瞭化、平易化、判読性向上を目的にしたプログラミング手法である。一般的には順接、分岐、反復の三種の制御構造(control structures)によって処理の流れを記述することと認識されている。制御構造は制御構文、構造化文(structured statement)、制御フロー文(control flow statement)とも呼ばれる。また、プログラムを任意に分割した部分プログラム(サブルーチンとコードブロック)の階層的な組み合わせによるプログラムの構造化も指している。 このプログラミング手法の普及に貢献したのは、1968年の計算機科学者エドガー・ダイクストラによるACM機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful」と言われている。しかし同じくダイクストラが、1969年度NATOソフトウェア工学会議で発表した論文「Structured Programming」との混同を招いてこちら側の名称で知られるようになった。現在に到るまでの国内外の多くの書籍で、構造化プログラミングは制御構文に関する説明に結び付けられている。なお、1969年の論文内容はプログラム正当性検証のための設計技法を扱っており、トップダウン設計、段階的な抽象化、階層的なモジュール化、抽象データ構造と抽象ステートメントを連携させる共同詳細化といった考え方が提唱されていた。 制御構文(control structures)とは、goto文によるフロー分岐やループ表現を、if文の選択構文やwhile文の反復構文に置き換えるためのプログラム記法を意味している。ラベル先にジャンプするというgoto文の機能を、if文やwhile文は「特定のコード群だけを実行する」という概念に置き換えている。goto文を用いた制御フローは、(1)データの照合/比較の結果にしたがって次の実行コード群を選択するパターンと、(2)データの照合/比較の結果が任意条件を満たしているならば実行コード群を反復するパターンの、二通りに集約されることが経験則で知られていたので、これを専用の記号で形式化したのが制御構文であった。
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構造化プログラミング
コード群とは命令コード(instruction code)のまとまりであり、構造化定理では部分プログラム(subprogram)と定義されている。部分プログラムはステートメント(statement)コードブロック(code block)サブルーチン(subroutine)の総称である。ステートメントは命令コードの一行を意味する。コードブロックは一行以上のステートメントをまとめたものである。サブルーチンは一行以上のステートメントまたは一個以上のコードブロックを内包している。部分プログラムは直列状または入れ子状に配置される。その実行順序を決定するものが制御構文であり、以下の三つがある。 制御構造の導入は1960年公開の「ALGOL60」まで遡れるが、当時広く使われていたFORTRANやCOBOLでの正式導入は1977年以降だったので、多くの開発現場では馴染みのないものであった。1966年にコラド・ベームらが「順次・選択・反復」のフロー万能性を数学的に証明したが、それはあくまで論理的研究だった。それを参考にしたとされるダイクストラの1968年の投書「goto文は有害」はいわゆるgoto文論争を引き起こしたが、同時に制御構造への関心を大きく高めた。1970年代、goto文が多用される開発現場での制御構造の普及を重視していたIBM社のハーラン・ミルズは、1969年にダイクストラが発表していた論文題名から知名度を得ていた「構造化プログラミング」を自社の技術セミナーマーケティングに活用するために、上述のベームらの数学的証明を「構造化定理」という独自のタイトルで復刻させて、彼らが勧めるフローチャート制御構造の裏付け理論にした。こうして構造化プログラミングは、IBM社が提唱する構造化定理を論拠にした制御構造を用いるプログラミング手法として世間に定着することになった。 制御構造を導入したプログラミング言語を指しての「構造化言語」というワードが浮上したのは1970年代からであり、これは当時のgoto文中心だったFORTRANやCOBOLやBASICを意識してそれと線引きするための用語として存在していた。
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構造化プログラミング
制御構造を導入したプログラミング言語を指しての「構造化言語」というワードが浮上したのは1970年代からであり、これは当時のgoto文中心だったFORTRANやCOBOLやBASICを意識してそれと線引きするための用語として存在していた。 上述の制御構文をコーディング視点の下流工程テクニックとすると、構造化設計(structured design)はプログラムデザイン視点の上流工程テクニックであり、こちらも構造化プログラミングと呼ばれるものである。構造化設計では、サブルーチン(subroutine)をまとめたサブルーチン複合体と、データ要素をまとめたデータ構造(data structure)が主要な役割を果たしている。段階的詳細化に則ったサブルーチン複合体の階層的な組み合わせと、それに必要なデータ構造を連携させてプログラム全体を構築するというテクニックが構造化設計である。サブルーチン複合体はプログラムモジュール(program module)とも読み替えられ、モジュール凝集度と結合度もここから生まれている。 1974年頃から当初はIBM社が主導する形で、いずれも構造化(structured)が接頭辞につく数々のテクニックが発表されるようになり、1975年発表「ジャクソンの構造化プログラミング -Jackson structured programming(JSP)-」、1975年発表「構造化設計 -structured design(SD)-」、1978年発表「構造化分析 -structured analysis(SA)-」、1981年発表「構造化分析設計技法 -structured analysis and design technique(SADT)-」、1980年代発表「構造化体系分析設計手法 -structured systems analysis and design method(SSADM)-」、1989年発表「モダン構造化分析 -modern structured analysis-」などが広く普及している。著名な専門家としては、グレンフォード・マイヤーズ、ラリー・コンスタンティン、マイケル・ジャクソン、エドワード・ヨードン、トム・デマルコなどがいる。これらは「構造化開発」と総称されるようになり、1980年代までのソフトウェア開発の主流になった。
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構造化プログラミング
この構造化設計と、ダイクストラの構造化プログラミングの違いは、前者がサブルーチン複合体とデータ構造の連携を中心にしたテクニックであるのに対して、後者は専属サブルーチンを通して扱われる抽象データ構造を中心にしたテクニックであるという点である。後者では、段階的に抽象化した各モジュールの階層的な連結と、抽象データ構造と抽象ステートメントを連携させる共同詳細化といった考え方が提示されており、この詳細については後節で述べられる。ダイクストラが提唱した抽象(abstraction)指向の構造化は、その思想の前衛性から1970年代を通して理解を得られることはなく、発案者本来の構造化プログラミングは上流工程視点からも普及することはなかった。 第一幕 構造化プログラミングの誕生は、1960年代から浮上したソフトウェア危機問題と密接に結びついている。ソフトウェア危機とはコンピュータ性能の進化に伴うソフトウェア要求度の高まりが、プログラムサイズの際限無い肥大化と複雑化を招き、近いうちに現実的な期間内でのプログラム開発が不可能になるだろうとする悲観的予測である。実際に1960年代のソフトウェア開発現場では仕様不一致、納期遅れ、予算超過といった事態が頻発していた。当時のプログラムはgoto文を多用するタコ足フローチャートによるものが大半だったので、すぐにスパゲティコード化することが多く、複雑怪奇なジャングルフロー図と化しているものも珍しくなかった。1959年に計算機科学者ハインツ・ツェマネクは、goto文の多用に警鐘を鳴らす論文を発表している。1960年に公開されたプログラミング言語「ALGOL60」は、BEGINとENDで区切られたコードブロックを制御するIF選択文とFOR反復文を初めて提供していた。計算機科学者ニクラウス・ヴィルトはこれらを構造化文(structured statement)と呼んだ。1966年に計算機科学者コラド・ベームとジュゼッペ・ヤコピーニは、あらゆるフローチャートは順次・選択・反復の組み合わせで表現できることの数学的証明をし、これはベームとヤコピーニの証明と呼ばれた。計算機科学者ドナルド・クヌースは、これらの潮流を構造化文の第一幕と定義した。 第二幕
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構造化プログラミング
第二幕 1968年、計算機科学者エドガー・ダイクストラのACM機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful -goto文は有害-」は、その物議を醸す題名でコンピュータプログラミング界隈にいわゆるgoto文論争を巻き起こした。これは構造化文の認知度を高めることに貢献している。これを構造化文の第二幕と定義したクヌースは「第二幕はそのムーブメントの大きさによって、多くの人にとっての第一幕になった」と評した。1968年度開催のNATOソフトウェア工学会議でソフトウェア危機は正式な用語になり、産業界と計算機科学共通の懸案事項になった。翌69年度開催の同会議においてダイクストラは「Structured Programming -構造化プログラミング-」と題した論文を寄稿した。これが「構造化プログラミング」の正式な初出である。その論旨はソフトウェア危機解決策としてのソフトウェア正当性検証技術の確立であり、プログラムを適切に分割し抽象化して良く構造化(well-structured)しておけば、プログラムサイズ拡大に関係なくその正当性を証明できるとしていた。その具体的手法としてはトップダウン設計、段階的な抽象化、階層的なモジュール化、抽象データ構造と抽象ステートメントを連携させる共同詳細化などが挙げられていた。goto文抑制など構造化文に関する事柄は数行に留まっていたが、goto文論争に熱心なプログラマの間ではこの論文を昨年の投書の延長と見る向きも少なからず存在していた。後年のダイクストラは構造化プログラミングという言葉を作った際に二つの失敗をしたと述べている。商標登録しなかった事と、厳密な定義化を避けた事である。 第三幕
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構造化プログラミング
第三幕 1960年代からの構造化文第一幕の潮流は、産業プログラム界隈にも影響を及ぼしており、こちらでは制御構造(control structures)などの名義でフローチャートに導入されていた。産業コンピュータ市場の最大手であるIBM社の上席研究員ハーラン・ミルズは制御構造を重視し、ニューヨーク・タイムズ社のニュースアーカイブシステム構築プロジェクトで大きな成功を収めた。順次・選択・反復の制御構造は、IBM社のプログラミング規範をまとめたImproved Programming Technologies通称「IPT」に採用され、後に同社の技術セミナーなどを通して広く流布されるようになった。1970~71年頃から計算機科学者デビッド・ハレルは、前述のベームとヤコピーニの数学的証明に「Structure theorem -構造化定理-」という全く新しい題名を付けて主に産業ソフトウェア開発界隈で紹介した。ハレルはこの命名が実はハーラン・ミルズの提案であったことを後に明かしている。構造化定理はIPTの合理性を裏付ける根拠として盛んに引用されたので、構造化(Structured)プログラミングと言えばIBM社の発明品だと信じるプログラマたちも続出した。IBM社が1974年頃から発表するようになった所属研究員たちによるプログラム開発方法論の数々にも構造化(Structured)の接頭辞が付けられていたが、それらは抽象化を重視するダイクストラの構造化とは異なり、サブルーチン複合体とデータ構造を適切に連携させるための構造化であった。その違いを指摘して本来のダイクストラ方式を改めて紹介する動きもあったが、抽象化指向のダイクストラ理論は産業界ではむしろ不人気でさえあった。クヌースの言葉を借りれば、構造化文の第三幕はIBM社とハーラン・ミルズがプロモートした制御構造の舞台になり、構造化プログラミングに対する世間一般の認識はこちらの方で定着するようになった。 終幕
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構造化プログラミング
終幕 後年、ダイクストラは自身が作った構造化プログラミングという言葉に不快感を示して避けるようになった。この言葉を作った時、彼はプログラミングが手工芸から科学へ発展することを期待していた。しかし構造化プログラミングという言葉は実利を求めるために使われるようになった。次のような逸話がある。構造化開発の第一人者エドワード・ヨードンの事務所にセミナー依頼の電話がかかってきた。プロジェクトメンバー全員に構造化プログラミングを1日で叩きこんで欲しいという内容である。それが終わったらプロジェクト期間を半分にするという。その理由は「構造化プログラミングは生産性を2倍にするという話ですから」であった。 「Structured Programming」という言葉を作ったのは計算機科学者エドガー・ダイクストラであり、1969年のNATOソフトウェア工学会議で発表された論文が初出とされている。彼は2001年のノートで自分が作り出した「構造化プログラミング」という用語は結局異なる解釈で持ち去られてしまったと述べている。 ダイクストラが提唱した構造化プログラミングは、プログラム正当性検証技術の確立を原点にして構想された数々のプログラム開発理論の複合体である。遅くとも1967年からその構想は始められていた。1968年のgoto文に依存しないシーケンスの制御、1969年のトップダウン設計、抽象化、モジュール化、共同詳細化から始まり、1972年には抽象データ構造、情報隠蔽、階層的プログラム構造といった考えも取り上げられていた。1972年の共著は、ダイクストラの第一章・構造化プログラミングから始まり、オルヨハン・ダールの第三章・階層的プログラム構造で締め括られている。ダールはオブジェクト指向プログラミング言語の草創Simula67の開発者である。 1968年のACM機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful」は、そのセンセーショナルなタイトルで当時のプログラマの間に大きな論争を巻き起こした。その要約は次の通りである。
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構造化プログラミング
1968年のACM機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful」は、そのセンセーショナルなタイトルで当時のプログラマの間に大きな論争を巻き起こした。その要約は次の通りである。 この投書は、当時のソフトウェア開発現場で横行していたgoto先ラベルの安易な使用に警鐘を鳴らすためのものであったが、添えられた学術的注釈と文芸的比喩の数々が却って読み手の理解を妨げてしまい、冒頭のタイトル印象のみを先走りさせて、goto文論争を発生させることになった。この投書は比較的さり気ないもので、当時のダイクストラが方々の現場で目にしていたラベル多用をたしなめたい所感から書かれていた。ダイクストラが記していた元々の題名はA case against goto statement(goto文への訴え)であり、その時の編集者によって挑戦的なタイトルにすげ替えられていたのが事の真相である。 goto文論争はプログラミング分野の一つの流行として1970年代から80年代までの長きに渡って続いており、多くのプログラマにとっても馴染み深いテーマになっている。goto文と構造化定理の応酬はプログラミング談義の定番でもあった。ダイクストラは後年の著作で自分が提唱した構造化プログラミングの本質の一つは、この投書のテーマであった状態遷移の適切な表現方法と把握手段の確立としている。 1969年度NATOソフトウェア工学会議に寄稿されたこの「Structured Programming」は、プログラム正当性の効率的な検証技術に重点を置き、当時問題視されていたコードサイズの際限なき肥大化によるソフトウェア危機の解決策として従来のボトムアップ設計からトップダウン設計への移行を推奨していた。
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構造化プログラミング
1969年度NATOソフトウェア工学会議に寄稿されたこの「Structured Programming」は、プログラム正当性の効率的な検証技術に重点を置き、当時問題視されていたコードサイズの際限なき肥大化によるソフトウェア危機の解決策として従来のボトムアップ設計からトップダウン設計への移行を推奨していた。 論文の前半では、プログラムサイズの肥大化に伴い、各プログラム部品およびそれらを組み合わせた際のプログラムの正当性(program correctness)の立証(demonstration)に必要な労力が指数的に増加して完遂が不可能になるというソフトウェア危機の問題について述べている。ダイクストラはプログラムの正しさに対して証明を与える従来の研究を分析して、証明の手続きを考えずに書かれたプログラムは証明に必要な労力がプログラムのサイズに対して爆発するとし、「与えられたプログラムに対してどうやって証明をするか」ではなく「証明がしやすいプログラムの構造とは何か」についてフォーカスするとした。 後半ではそのための方法について説明している。まず推論しやすい構造として、ステートメントが順に並んだだけのものを挙げている。また、if文1つだけも推論しやすいとしている。しかし、if文がN個並んだ場合、そのままでは2のN乗ステップの推論が必要であるとしている。そこでif文を抽象ステートメントで1つずつ置き換える段階的抽象化(step-wise abstraction)により、Nに比例する推論で正しさを示せるとした。また、そのためには制御のジャンプを制限し、制御構造は順次の他に、選択、反復、および手続き呼び出しに限るべきとしている(なお、順次、選択、反復のいわゆる制御構造(control structures)に触れているのはこの文節だけである)。この例のように詳細なプログラムを抽象化(abstraction)していくのではなく、逆に抽象的なプログラムから始めて詳細化(refinement)していくというやり方を示している。
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構造化プログラミング
詳細化の際には共同詳細化(joint-refinement)という考え方が示されている。これは抽象データ構造の詳細化と共にそれを扱う抽象ステートメントを同時に詳細化し、それを1つのプログラムテキストのユニットに分離するというものである。このユニットをダイクストラは真珠(pearl)と呼んだ。また、抽象的な真珠が1段階具体的な真珠に依存し、その真珠がさらに具体的な真珠に依存していったものをネックレスに例えた。そしてネックレスの上部は下部に関わらず正しさを証明することができ、また下部を取り替えることでプログラムのバリエーションを労力をかけずに作れるとした。 1972年の共著「Structured Programming」は計算機科学界の錚々たる三名による三章構成で、第一章はエドガー・ダイクストラの「structured programming」、第二章はアントニー・ホーアの「data structuring」、第三章はオルヨハン・ダールの「hierarchical program structures」となっていた。結びの章の「階層的プログラム構造」を著したダールはSimula67の開発者である。Simula67はオブジェクト指向プログラミングの草分けであり、この章名から継承によるクラス階層構造を重視していたことが伺える。ダイクストラの構造化プログラミングは、制御構文と構造化定理と構造化設計の影に隠れながらも、Simula67をモデルにしたオブジェクト指向プログラミング発展の歴史に組み込まれて受け継がれていったと言える。1983年にC++を開発したビャーネ・ストロヴストルップは「What Is Object-Oriented Programming?」において、オブジェクト指向を抽象データ構造と階層的プログラム構造の発展形として解説し、同時にSimula67の言語仕様を紹介している。
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構造化プログラミング
ダイクストラ提唱の構造化プログラミングを支持するドナルド・クヌースは、1974年に自著「Structured Programming with go to Statements」を発表し、その中でgoto-lessの本質に関する補足と解説を加えている。これは当時のgoto文論争に一つの区切りを付けるものであったが、幅広い認知を得るには到らずにgoto文論争は1980年代になっても散発的に繰り広げられた。1970年代後半からマイコンが普及してBASICなどを扱うパーソナルユーザーが増えると、goto命令を使わないのが構造化プログラミングといった見解が取り上げられて再び議論が始まるなど、この論争の影響は後年まで根強く残っている。 ダイクストラは、プログラマは正しいプログラムを作り出すばかりでなく納得のいくやり方で正しさを証明(検証)することも仕事の一つであるという立場を取っていた。プログラムがどんなに巨大化しても良く構造化(well-structured)されていれば、サイズに関係なくその正当性を検証できるというのが彼の信念であった。well-formed formula(論理式)に因んでいるwell-structuredには、数理論理学の証明論をソースコードにも導入する意図が込められていた。1967年のノート「Towards Correct Programs」でダイクストラは、良く構造化するための三つのメンタルツール(mental tool)をこのように示している。
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構造化プログラミング
プログラムが正しいことを確認するには、それを証明しなければならない。テストはプログラムに対する疑いを全て取り除くには不十分であるという意見が上がった。これについてダイクストラは「テストはバグの存在を示すには有効だが、バグが存在しないことは証明できない」という表現を好んで用いた。構造化プログラミングの支持者らは、プログラムの正しさの重要性と証明の方法や表明(assertion)の使い方について熱心に説いた。理想的にはテストだけに依存せず、プログラムの正しさの証明も与えるべきだと言われている。所与のプログラムの正しさを後付けで証明することは、はじめから証明を意識して作られたプログラムの場合より難しいことが経験的に知られている。ダイクストラは、プログラミングと同時にプログラムの証明を(わずかに証明を先行して)進めることを推奨している。そのようなアプローチでプログラムの正当性の問題にあたれば、複雑な問題であっても知的管理が可能であると述べた。しかし形式的な証明は、時として非人間的な長さの記述になることもダイクストラは認めている。同氏は、プログラムの証明が形式的であることにはこだわらないという意見を明らかにした。
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構造化プログラミング
1970年代初頭に計算機科学者デビッド・ハレル(英語版)は、1966年に発表されていたベームとヤコピーニの数学証明に、構造化定理(Structure theorem)という全く新しいタイトルを付けて主に産業ソフトウェア開発界隈で紹介した。ハレルが後に明かしたところによると「構造化定理」という名称は、当時IBM社の上席プログラマーであったハーラン・ミルズの提案だったという。ダイクストラの提唱内容とは全く異なる、制御構造(順次・選択・反復)主体の構造化プログラミングは、IBM社のIPT(Improved Programming Technologies)に採用されており、同社主催の技術セミナーなどを通して当時のプログラマに広く流布されていた。その中で恐らく意図的にダイクストラのそれと名称を似せた「構造化定理」は、彼らが勧める制御構造の合理性を数学的にも証明した根拠として盛んに引用されていた。このような経緯から制御構造の使用と構造化定理は同一視されるようになり、ダイクストラのgoto文有害説から誤解された構造化プログラミングとも同一視されるようになった。goto文論争の中で引き合いに出されていた構造化定理もまた、ベームとヤコピーニから見れば誤解であった。 なお、ベームとヤコピーニの証明は、フローチャートやそれによって表現されるプログラム・関数・チューリングマシンなどの理論的側面に注目している。これは任意の論理回路がNAND素子の組み合わせによって表現できるとか、ラムダ式がSとKの2つのコンビネータによって表現できるとかいった研究に近い。回路設計者が直接NANDを組み合わせて電子回路を設計しないのと同じように、構造化定理は良いプログラムの作成を(少なくとも直接的には)意図していない。ハレルも構造化定理は実際の内容以上に引用されて民間伝承定理(folk theorem)化していると指摘していた。 ダイクストラは2001年のノート「What led to “Notes on Structured Programming”」(構造化プログラミング表記の由来)でこのように述べている。
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構造化プログラミング
ダイクストラは2001年のノート「What led to “Notes on Structured Programming”」(構造化プログラミング表記の由来)でこのように述べている。 1968年の自分は「A case against goto statement」(goto文への訴え)と題した記事(article)をCommunications of the ACM(ACMの機関紙)に投稿したが、当期の刊行を急ぐ編集担当者の意向で投書(letter to the Editor)にされる事になり、更にその担当者独自の考えで「The goto statement considered harmful」(goto文は有害)という全く新しい題名を付けられた。その担当者とはニクラウス・ヴィルトであった。また、自分が提唱した構造化プログラミングの本質的内容の普及を好まない某社がハーラン・ミルズの主導で、まるでgoto文を廃止するかのようなプログラミング手法へと矮小化し、構造化プログラミングという用語まで持ち去ってしまった。
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掲示板
掲示板()とは、連絡や告知の目的で、文字を書いたり、掲示物を貼り付けたりして表示するために設けられた他者に伝えることを目的とした板のことである。 人の多く通行する場所や人の集まる場所に設置されるものであるが、特定のコミュニティに属する者や、特定の状況下にある者を対象としていることが多い。町内会の集会所前、企業内、学校内、市区町村役場や裁判所などの役所前、アミューズメント施設の施設内などに設置されていることが多い。 多くは地面に対して垂直に設置されているが、利用形態によっては掲示物が見やすいように水平あるいは傾斜して設置されているものもある。電気的な表示方法を用いたものとして、電光掲示板がある。
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新聞
新聞(、英: newspaper)は、社会情勢一般(ニュース)または特定分野の出来事を報じ、対象とする層の中で広く読まれることを前提に定期刊行される紙媒体である。 新聞紙と呼ばれる低質の紙に印刷し、折り畳んだ状態で発売される。 日本の新聞社の発行する新聞紙の大きさは、ブランケット判と呼ばれている。 新聞は世界規模の出来事から国内外、地域内、さらにはコミュニティの内部などの情報伝達手段としてさまざまなものが発行されている。その中でも新聞社と呼ばれる新聞・報道を専門とした会社組織・報道機関が発行する新聞は情報の影響する範囲が広範囲であり、影響力は発行部数にほぼ比例する。小さなコミュニティの内部にも存在する場合があり、たとえば学校のクラス・部活動などで発行する学級新聞や学生新聞、地域で発行する地域広報などがある。新聞はテレビ・ラジオ・雑誌とともにマスコミ四媒体とされ、代表的なマスメディアのうちのひとつとされている。 新聞は、取り扱う範囲内でさまざまな情報を盛り込むことを特徴としており、その対象層の中で広く読まれることや逐次性・速報性が重視されている。情報の伝達を使命としている点で、同じ紙メディアでもそれ自体が強い個性を持つ書籍や雑誌とは大きく異なる。そのため、使われる紙の質は悪く保存性が低い。 ラジオ・テレビ放送やインターネットが発達した現代社会においては速報性で優位に立てず低迷傾向にありながらも、利用者にとって取り扱いが簡便であることや共有性の高さなどから依然情報メディアとしての地位は揺らいでおらず、多くの人々にとって安価で多様な情報を入手するための有力手段の一つとして今なお存在感を保っており、おおむねどの国でもある程度の規模の都市であれば鉄道駅や商店・街頭で販売または掲示されている様子を見られる。 新聞は、刊行間隔・配布地域・内容などでさまざまな種類に分類される。
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新聞
新聞は、刊行間隔・配布地域・内容などでさまざまな種類に分類される。 刊行間隔の分類では、もっとも一般的なものは毎日刊行される日刊紙である。日刊紙はさらに発行される時間帯によって朝刊紙と夕刊紙に分かれるが、日本のように多くの新聞社が朝刊と夕刊をともに発行している国も存在する。ただし日本においても朝刊や夕刊のみの新聞は存在し、また経営難によって発行の少ない夕刊をとりやめ、朝刊のみの発行とする新聞社も2000年代以降増加している。また、ユネスコの基準においては日刊紙は必ずしも毎日発行でなくともよく、週4回以上発行される新聞を日刊紙として扱っている。このほか、週刊紙、旬刊紙(月に3回)、月刊紙、季刊紙などの新聞も存在する。 配布地域では、日本の新聞は大きく全国紙、ブロック紙、地方紙の3つに分類される。全国紙は文字通りその国土全体を対象として発行されるもので、日本では読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、産経新聞の5社が該当する(ただし、産経新聞は2020年10月に販売網を関東・近畿地方のみに縮小したため、全国紙の要件を満たしていない)。ブロック紙は厳密には地方紙に含まれるが、その中でも複数の県にまたがる広域地方圏を対象としているものを指し、東海地方の中日新聞、北海道地方の北海道新聞、九州地方の西日本新聞の3社が該当し、また東北地方の河北新報や中国地方の中国新聞を加えることもある。地方紙はひとつの県かそれより小さな地域を対象とする新聞で、一つの県を対象とするものは県紙、それより小さな地域の新聞は地域紙と呼ぶ。第二次世界大戦の前は1,400紙を超える新聞が存在していたものの、1938年から1943年にかけて行われた新聞統制によって各社は県ごとに統合され、一つの県に一つの新聞が置かれる「一県一紙」体制が成立した。戦後にいくつかの新聞が新たに創刊されたものの、基本的にこの体制は以後も存在し続けている。
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新聞
この全国紙と地方紙の区分は日本以外にも存在する。イギリスではタイムズなどのロンドンに拠点を置く全国紙と、各地域の地方紙とが併存している。これに対し、アメリカでは国土が広大なこともあって全国紙はウォールストリート・ジャーナルとUSAトゥデイの2紙にすぎず、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストのような大規模なものから田舎町の零細なものまで、非常に多くの地方紙が各地方に分立している状態となっている。ただし多くの地方において2社以上の競争状態になっていることは少なく、大都市を除いては1地方に1社の新聞があるだけの状態となっている。 発行内容に関しては、多くの新聞は特に専門を定めずニュース全般を広く取り扱う一般紙となっている。これに対し、特定の業界や分野のみに特化した新聞も存在し、これを専門紙または業界紙と呼ぶ。日本におけるスポーツ新聞はスポーツを中心に芸能やレジャーなど娯楽関連をおもに扱う新聞で、他国におけるタブロイド紙(大衆紙)に近い。このほか特殊なものとして、公営競技の競走(レース)を予想する予想紙も存在する。政党や各種団体などの機関が成員を対象に発行する機関紙も数多く発行されている。 一般紙のうち知的階層向けのものは高級紙と呼ばれ、大衆を対象としたセンセーショナルな内容の新聞は大衆紙と呼ばれる。高級紙・大衆紙の区分はイギリスにおいて非常に明瞭なものとなっているが、アメリカにおいては明確な大衆紙というものは少なく、総体として落ち着いた報道内容の新聞が主流となっている。日本でもそのような区別はあまりない。高級紙は比較的発行部数が少ないが世論への影響力が強い。
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新聞
一般紙のうち知的階層向けのものは高級紙と呼ばれ、大衆を対象としたセンセーショナルな内容の新聞は大衆紙と呼ばれる。高級紙・大衆紙の区分はイギリスにおいて非常に明瞭なものとなっているが、アメリカにおいては明確な大衆紙というものは少なく、総体として落ち着いた報道内容の新聞が主流となっている。日本でもそのような区別はあまりない。高級紙は比較的発行部数が少ないが世論への影響力が強い。 新聞は、その用紙のサイズ(判型)によってもいくつかに分類される。基本的には大型と小型の判型に二分され、大型のものにはイギリスの一般紙で広く使用されるブロードシート判 (375mm×600mm)や、日本独自の判型でほとんどの国内一般紙が採用しているブランケット判(406mm×545mm)など、いくつかの判型がある。小型の判型でもっとも多く使用されるものはタブロイド判(235×315mmまたは285×400mm)である。タブロイド判はイギリスをはじめとして大衆紙が多く採用しているため、転じて大衆紙のことをタブロイドともいう。日本でも、夕刊フジや日刊ゲンダイのような夕刊スポーツ紙はタブロイド判を採用しているところもある。このほか、この2つの中間に位置するベルリナー判(315mm×470mm)を採用する新聞社も多い。 一般的な新聞は新聞社によって商業的に有料で販売されるが、広告収入を元にした無料の新聞やフリーペーパーも数多く発行されている。学生新聞のように、小さなコミュニティ内で発行される無料紙もある。また『ビッグイシュー』のような、貧困者に支援や雇用を与えるためのストリート新聞も1990年代以降多数発行されるようになった。 また、毎日新聞社の発行する『点字毎日』は、点字で発行される週刊新聞である。
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新聞
一般的な新聞は新聞社によって商業的に有料で販売されるが、広告収入を元にした無料の新聞やフリーペーパーも数多く発行されている。学生新聞のように、小さなコミュニティ内で発行される無料紙もある。また『ビッグイシュー』のような、貧困者に支援や雇用を与えるためのストリート新聞も1990年代以降多数発行されるようになった。 また、毎日新聞社の発行する『点字毎日』は、点字で発行される週刊新聞である。 1480年ごろ、ヨーロッパ中央部の神聖ローマ帝国などのドイツ語圏地域で発行が始められたとする不定期刊の「Neue Zeitung」(新しい知らせ)が徐々に定期刊行となり、1605年、世界初の週刊新聞「Relation」が、帝国内のアルザス地方にあるシュトラースブルク(現在のフランスのストラスブール)でヨハン・カロルス(英語版)によって創刊された。なお、シュトラースブルクで1609年に刊行された「Relation」紙が後世に保存されている。1650年、やはり帝国内のライプツィヒで世界初の日刊紙『ライプツィガー・ツァイトゥイング(ドイツ語版)』(週6日)が創刊された。17世紀半ばには、ニュース本が定期的に出版されるようになった。特にイギリスでは清教徒革命や名誉革命を通じてニュース出版が発展し、日刊新聞や地方週刊新聞も出版されるようになった。18世紀には、いろいろな新聞を読み放題のコーヒー・ハウスが登場した。裕福な商工業者であるブルジョワジーが新聞をもとに政治議論を行い、貴族のサロンと同じように論壇を形成した。 こうして新聞が一般化した18世紀に入ると、アメリカ独立戦争やフランス革命などの市民革命が起きるようになるが、この過程で新聞は世論の形成に大きな役割を果たし、樹立された新政府においては自由権の一部として法的に言論の自由が認められるようになった。
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新聞
こうして新聞が一般化した18世紀に入ると、アメリカ独立戦争やフランス革命などの市民革命が起きるようになるが、この過程で新聞は世論の形成に大きな役割を果たし、樹立された新政府においては自由権の一部として法的に言論の自由が認められるようになった。 欧米では、19世紀の産業革命による都市人口の増加や社会変化に伴い、新聞の大衆化が進んだ。アメリカでは1830年代に『ザ・サン』をはじめとするペニー・プレスと呼ばれる安価な新聞が普及した。1868年にはイギリスの『タイムズ』が巻取紙を用いる輪転機を採用。日曜新聞のような大衆新聞が成長し、印刷機の発達やロール紙の採用、広告の掲載などにより労働者階級に低価格で販売できるようになった。1884年にはオットマー・マーゲンターラーがライノタイプと呼ばれる鋳植機を発明し、これによって印刷工が1行ごとにまるごと活字を鋳造できるようになったことで新聞の印刷スピードおよびコストが改善され、より安価に新聞が発行できるようになった。1880年にはアメリカで世界初となる写真版を含む新聞が発行された。19世紀末になると、アメリカではジョーゼフ・ピューリツァー率いる『ニューヨーク・ワールド』紙のように扇情主義を重視する娯楽としての新聞と、『ニューヨーク・タイムズ』紙のように(客観性は別として)情報を伝えることに特化した新聞の二つの流れが現れた。 つまり現代の新聞の出現は産業革命以降のヨーロッパからであり、産業を支えるうえで大きな存在となった。これはのちにマスマーケティングの手法の一環としても用いられるようになり、企業の広告活動にも一役買うようになった。 日本には江戸時代には瓦版が存在し、大事件などの際に木版で摺られ発行されていた。現存する最古の瓦版は大坂の陣(1614年 - 1615年)を記事にしたものである。幕末になると新聞と名付けられたものがいくつか発行されるようになり、1862年に最初の新聞『官板バタビヤ新聞』、1870年には日本初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊された。 以後、新聞は世界各地に普及し重要なマスメディアのひとつとなってきたが、1990年代後半のインターネットの登場にともなって先進諸国では部数減が進行し、大きな質的転換を迫られることとなった。
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新聞
以後、新聞は世界各地に普及し重要なマスメディアのひとつとなってきたが、1990年代後半のインターネットの登場にともなって先進諸国では部数減が進行し、大きな質的転換を迫られることとなった。 「新聞」という言葉は古来の日本語にはない。この語の初出は、北宋時代に編纂された唐王朝の歴史書『新唐書』だとされている。『新唐書』の「芸文志」には唐代に書かれた書物の一覧があるが、その中に「尉遅枢に、『南楚新聞』三卷あり」とある。ここでいう「新聞」とは今の日本語でいう「風聞」つまり「news」という意味であった。この定義での「新聞」は、清代にも書かれていた。例えば、乾隆帝が編纂させた『四庫全書総目提要』では、清の魏裔介の「資麈新聞」という書物を紹介している。これは現在の週刊誌のように雑説をいろいろな本から寄せ集めたもので、怪奇現象や陰陽道の話、李自成の乱や琉球王国の話などが書かれているが、虚偽の内容、現代でいういわゆる飛ばし記事が多く、『四庫全書総目提要』の編者は「編集方針がメチャクチャで間違いが百出している」と批判している。 清朝末期に欧米人が中国で「newspaper」を発刊し、現地の中国人たちもこれを真似て新聞を発刊した際、古来の「新聞」という言葉を当てて「新聞紙」と呼んだ。中国語では、21世紀現在も「新聞」をnewsの意味で使い、テレビのニュース番組などのタイトルにも使用される。なお、中国語におけるnewspaperは「報紙」である。一方、朝鮮語では「新聞」のハングル表記である「신문」が「newspaper」を意味する。 日本語には明治時代に英語の「news」に相当する訳語として、この中国語が取り入れられ、「news」を「新聞」、「newspaper」を「新聞紙」と呼ぶようになった。夏目漱石の小説の中でもnewspaperは新聞紙であり、昭和初期に書かれたものの中にも、newspaperを新聞紙と呼んでいるものがある。新聞紙条例、新聞紙法などの「新聞紙」は「newspaper」の意味である。 その後「新聞紙」を「新聞」と略すようになった。それに伴い「新聞紙」を「newspaper」の意味で使うことは減り、紙自体を指すようになった。一方、「日刊紙」「全国紙」「各紙」など、「新聞」の意味で「紙」という漢字が使われることもある。
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新聞
その後「新聞紙」を「新聞」と略すようになった。それに伴い「新聞紙」を「newspaper」の意味で使うことは減り、紙自体を指すようになった。一方、「日刊紙」「全国紙」「各紙」など、「新聞」の意味で「紙」という漢字が使われることもある。 現代英語では「newspaper」を「paper」と略すことがある(「today's paper」=「今日の新聞」など)。 新聞社の社名や紙名には公民の権利を守るという意味合いから、古代ローマの公職である護民官に由来する「トリビューン」(『シカゴ・トリビューン』など)、帝国郵便(神聖ローマ帝国)が自前の新聞を発行していたことに由来する「ポスト」(『ワシントン・ポスト』など)、社会を映す鏡という意味で「ミラー」(『デイリー・ミラー』など)といった言葉が選ばれている。 新聞の制作過程は、おおむね下記のようになっている。 新聞の製作は、まず記者が取材を行い記事を書くところから始まる。その日に起こった事件を速報しニュースとする場合は直接取材・撮影を行うが、特集記事や調査報道などの場合はまず企画を立て、それに基づいて調査や取材を行う。政府や企業からはプレスリリースや記者会見が行われ新聞に情報が提供されるが、このほかに独自の取材も行われる。新聞社の編集局内には政治部、社会部、文化部、経済部などさまざまな部署が存在し、それぞれ決められた分野の取材を行い記事を作成する。こうした記者作成の自社記事のほかに、自社の取材の及ばない部分を中心に通信社から配信される記事を利用することも行われる。 出来上がった原稿はチェックと推敲を受けたのちに編集会議にかけられ、整理部によって紙面の編集やレイアウトがなされる。その後さらに校閲が行われ、校了するとデータが印刷工場に送られる。印刷工場では輪転印刷機によって新聞紙に印字され、印刷された新聞は工場から発送されて新聞販売店やスタンドへと送られる。日本の場合、販売店から新聞配達が行われ、各家庭へと新聞が届けられることがほとんどである。 スピードが要求される新聞印刷では一般印刷業界に先駆けて新技術が導入されたが、多色印刷には制約となり一般印刷業界よりも導入が遅れた。
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新聞
スピードが要求される新聞印刷では一般印刷業界に先駆けて新技術が導入されたが、多色印刷には制約となり一般印刷業界よりも導入が遅れた。 1868年に『タイムズ』紙が巻取紙方式の輪転印刷機を採用して以来、新聞の印刷は大量・高速印刷が可能な輪転印刷機によって行われている。20世紀前半の新聞印刷では、活字組版から紙型を作り、鉛を鋳込んで鉛版を作り、凸版輪転機にかける方法が唯一の紙面制作方式だった。 新聞の製作・印刷過程は、20世紀後半以降技術革新によって大幅に機械化・効率化が進んだ。1980年代初頭に感光性樹脂板が開発され、1980年代後半にはCTSが導入された。日本では1970年代以降、コスト削減を目的として全国紙の新聞印刷工場の地方分散が進められた。2000年代に入ると高コストの印刷工場の別会社化が急速に進められ、2006年には全国紙の印刷はすべて別会社となった。また同時に、全国紙の地方紙への委託印刷も盛んに行われるようになった。記事を印字する新聞紙は、印刷と輸送の都合上、軽量かつ印刷時に途切れないほどの引っ張り強度が求められる。 新聞は世界中で発行されているものの、普及率は地域的に大きく差があり、アメリカやヨーロッパ諸国、日本といった先進諸国では普及率が高く、発展途上国ではあまり普及が進んでいなかった。しかし、2000年ごろから経済成長の続くアジア、なかでもインドや中国で新聞販売数が増加し、2007年には新聞の発行部数の1位が中国、2位がインドとなった。なかでもインドは経済成長によって新聞の販売数は増加傾向にあり、インターネットによって押されている他国の新聞業界とは対照をなしている。インドの新聞業界の特徴としては公用語である英語の他に、各地方の言語での新聞出版が非常に盛んであることで、なかでも北部インドの主要言語であるヒンディー語での新聞発行は比率・部数とも増加している。ただし、英語新聞も割合こそ減少しているものの部数自体は増加している。
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新聞
アメリカやヨーロッパでは新聞の収入の8割が広告からのものとなっており、販売収入が主力となっている日本とは異なる収益構造を持っている。インターネットの普及を受けてアメリカやヨーロッパでは発行部数の漸減が続いており、なかでも減少傾向の激しいアメリカにおいては2009年に『ニューヨーク・タイムズ』が巨額の赤字を出し、本社社屋の売却などのリストラを進めているほか、2009年にはボストンの『クリスチャン・サイエンス・モニター』紙が日刊紙の発行を取りやめオンライン専業へと移行するなど、新聞社の規模縮小や廃業が相次ぐようになっている。ヨーロッパにおいては無料紙が急伸し、2007年には欧州の日刊紙の総発行部数の23%を占めるまでになった。 日本では新聞購読率が高く、新聞販売店による新聞の戸別宅配制度が他国に類をみないほど発達している。またその文化的な役割が重要視され、再販制度によって価格の保護がなされたり、2019年からの消費税率10%引き上げに対し定期購読新聞に関しては軽減税率を適用し8%に据え置くなど、さまざまな保護政策が行われてきた。こうしたことから日本の新聞発行部数は人口に比して非常に多く、率としても北欧諸国と並ぶ世界有数の高普及率を誇ってきた。新聞社の収入に関しても、平均で販売収入が52.7%、広告収入が30.8%(2006年)となっており、広告収入より販売収入の方がやや主となっている。 また、日本の特徴として、クロスオーナーシップ制度による新聞社のテレビ・ラジオ局支配がある。首都圏を放送地域とする東京所在の在京テレビジョン放送局をキー局とする5つの全国ニュースネットワークは、濃淡の差こそあれ、例外なく大手新聞社との協力関係を持ち、世論調査などでの合同取材を行っている。大都市圏以外で多く見られる、一つの県における地域新聞社として圧倒的な発行部数を持つ「県紙」もほぼ例外なく、当該県を放送エリアとするテレビ・ラジオ局を所有するほか、自社以外の県域テレビ局にもニュースを配信することで影響力を維持している。これらの協力関係は株式所有を伴うことも多く、相対的に経営状況が厳しい新聞社にとってはテレビ局の収益に伴い発生する株式配当や含み資産の増大が経営を支えている。
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新聞
しかし、2000年代のインターネット普及とインターネットメディアの発達により、若年層のみならず中高年層も含め(世界的な傾向として)新聞離れが進行している。総発行部は、1997年の5,377万部をピーク2022年には3,084万部に、広告費も1990年の13,592億円から2021年の3,815億円に減少していて、その経営環境は厳しさを増している。また、読者が新聞を読む時間も1995年から2010年にかけての調査では減少傾向にある。各新聞社は記事のネット配信に力を入れつつあり、日本経済新聞の日経電子版のように一定の会員数を確保しているメディアも存在しているが、全体として成功しているとは言いがたい。一部にフリーペーパーに注目する向きもあるが、収益のほとんどを広告収入に依存するフリーペーパーの経営は苦しいところが多く、21世紀になってから廃刊が相次いでおり、新聞に代わる主要メディアとしての地位を得ることは難しいと言われている。 インターネット黎明期の1993年にはすでに新聞社がホームページを開設してニュースを配信することが行われ始め、1995年には日本でもオンライン新聞の発行が開始された。以後、世界の大新聞社のほとんどがウェブ上でのニュース配信を開始し、ニュースサイトのひとつとしてオンライン上の新聞は成長を遂げた。また、アメリカの報道大手により携帯型端末iPad専用の有料新聞も発刊されることになった。一部の欧米の新聞社はオンライン新聞の普及に伴い、記事を公開するタイミングについて紙媒体よりもウェブ媒体を優先させるウェブ・ファーストと呼ばれる方針を打ち出し始めた。 オンライン新聞は無料のものも多いが、収入につなげるために新聞社が有料会員を募って記事を配信する有料化も進んできており、2015年には日本の全国紙5紙すべてで有料オンライン版の発行が開始された。 ウィキニュースもオンライン新聞のひとつとされる。大新聞社の発行するもののほかに、インターネット上の市民ジャーナリズムのひとつとしてオンライン新聞に期待する向きもあり、実際にJANJANなどいくつかのメディアが創刊されたものの利用が伸びず、2010年ごろには日本ではほとんどの市民メディアが閉鎖に追い込まれた。
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新聞
ウィキニュースもオンライン新聞のひとつとされる。大新聞社の発行するもののほかに、インターネット上の市民ジャーナリズムのひとつとしてオンライン新聞に期待する向きもあり、実際にJANJANなどいくつかのメディアが創刊されたものの利用が伸びず、2010年ごろには日本ではほとんどの市民メディアが閉鎖に追い込まれた。 以下のデータは、世界新聞協会の「World Press Trends 2019」に準拠した有料新聞各紙の発行部数の上位9紙である。
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気象学
気象学(、英: meteorology)は、地球の大気で起こる諸現象(気象)や個々の流体現象を研究する学問。自然科学あるいは地球科学の一分野。 気象を長期的な傾向から、あるいは地理学的観点から研究する気候学は、気象学の一分野とされる場合もあるが、並列する学問とされる場合もある。現代では気象学と気候学をまとめて大気科学(英: atmospheric science)と呼ぶこともある。 なお、天気予報(気象予報)は、将来の大気の状態の予測という実用に特化した分野である。 気象は生活との関わりが深い現象であり、気象の研究は古代文明より行われてきた。よく知られているものとして、古代ギリシャのアリストテレスの著書『気象論』Meteorologica がある。この中で気象や彗星・流星などを研究する学問をMeteorologicaとしており、四大元素説に基づいて天候の仕組みを論じている。古代中国でも、『淮南子』において陰陽説に基づく雷の原理が論じられている。古代インドでは、ヴァラーハミヒラらが気象の条件を論じた。しかし、この頃の気象の予測の根拠は経験則などを基にした観天望気であり、科学的な観測はまだほとんど行われなかった。中世に入ってから、主にイスラム圏の科学者によって科学的な推論が行われた。 17世紀にはトリチェリが制作した気圧計によって気圧変化と天候の変化の関連性が発見され、ガリレオ・ガリレイが発明したとされる温度計もこの頃改良され実用化した。このような測定器の発明によって科学的な気象観測が始まり、近代気象学も発達し始める。エドモンド・ハレーは1686年、航海記録から風の地図を作成して貿易風と季節風にあたる風を発見した。ジョージ・ハドレー(英語版)は1735年に、貿易風は熱帯が太陽の熱を多く受けることと地球の自転の力によって生じるとの説を発表し、これが後のハドレー循環の発見につながる。
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気象学
19世紀には科学的な天気予報が成立する。1820年にハインリッヒ・ウィルヘルム・ブランデス(英語版)が初めて天気図を作り気圧配置と天気の関係を明らかにした。1837年に実用化された電信によって、気象観測データを瞬時に集めることが技術的に可能になる。ただこれはなかなか実現せず、1845年に初めてジョセフ・ヘンリーの主導でスミソニアン協会が運営するアメリカの気象観測網ができた。1854年にはイギリス商務省の中にロバート・フィッツロイを長とする海の気象観測を担当する組織が発足し、同年にイギリス気象庁として分立される(世界初の国家気象機関)。1860年には、タイムズ紙面上に毎日の天気予報が掲載され、暴風が予想されるときは港に警報を出して出港を制限するようになった。1863年には、ユルバン・ルヴェリエがパリ天文台においてヨーロッパの毎日の天気図の発行を始め、彼の進言によって天気図を用いた天気予報(現在で言う総観スケールの予報)が検討され始める。その後インド気象局(1875年)、フィンランド気象研究所(1881年)、気象庁(1883年)、アメリカ国立気象局(1890年)、オーストラリア気象局(1904年)など各国で気象機関が設立される。 この頃にも気象学は発展を続けていく。1835年ガスパール=ギュスターヴ・コリオリは回転座標系における回転体の運動方程式、つまり自転している地球上での風の運動を記述する方程式を発表する。19世紀後半には、気圧傾度力とコリオリの力によって風が等圧線に沿って吹くことが理論的に証明される。1920年頃には、ヴィルヘルム・ビヤークネスらの研究グループによってノルウェー学派モデルが提唱され、寒帯前線と絡めた気団論、温帯低気圧や前線の発達過程が初めて示された。また同研究グループのロスビーは後に大気波の一種であるロスビー波を発見するなど流体力学で業績を残し、トール・ベルシェロンは1933年に雨の発生原理のひとつである「氷晶説(現在の「冷たい雨」の原理)」を発表するなどしている。 この頃、地上や海上で行われていた気象観測が上空にも拡大し始める。気球やロケットなどで上空の大気現象を観測し研究する高層気象学は、高層観測が主流でなかった20世紀初頭までは独立した分野を確立していた。しかし、一般化してからはその意義を失い一般的な気象学と融合していった。
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気象学
この頃、地上や海上で行われていた気象観測が上空にも拡大し始める。気球やロケットなどで上空の大気現象を観測し研究する高層気象学は、高層観測が主流でなかった20世紀初頭までは独立した分野を確立していた。しかし、一般化してからはその意義を失い一般的な気象学と融合していった。 1922年、ルイス・フライ・リチャードソンは著書の中で数学的に天候の変化をすることは可能だと述べ、実際に計算を行ったが膨大な量と精度の問題から実用には程遠いものであった。1949年にチャーニーは数値予報に初めて成功し、1950年代にはコンピュータによって単純なモデルで大気の物理現象を計算することが可能となり、様々なシミュレーションが試みられるようになった。その中でエドワード・ローレンツは計算結果のカオス的振る舞い(バタフライ効果)を発見し、後のアンサンブル予報と呼ばれる不確実性を少なくする予報手法へとつながっていく。1955年にアメリカ国立気象局、1959年に気象庁が数値予報を導入したが、スピードや精度はまだ低かった。これ以降もコンピュータの発達によって計算量・スピードは改善していった。 日本には自然観察に基づく経験則によって生み出された農事暦などは存在したが、体系的な気象学が入ってくるのは、江戸時代後期以後である。とはいえ、全くそれ以前に気象学が無かったわけではなく、西洋の気象学は部分的ながら戦国時代に宣教師を通じて流入していた。山鹿素行は風が地表を移動する空気の流れである事には気づいていた。これは西洋で気象学が盛んになる前の発見であったが、彼の関心は軍学の一環としての物であり、独自の学問としては発達しなかった。蘭学の流入以後、わずかながら気象の動きに興味を抱く人も出てきて、柳沢信鴻や司馬江漢のように気象の状況について詳細な記録を残す人も登場した。土井利位が自ら顕微鏡で観察した雪についての研究書である『雪華図説』はよく知られている。
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気象学
天保年間以後江戸幕府天文方で気象観測が行われるようになり、安政4年には伊藤慎蔵によって本格的な気象書の翻訳である『颶風新話』が刊行された。なお、meteorologyを「気象学」と訳した最初の文献は明治6年の『英和字彙』である。2年後、東京気象台が設置され、明治17年には天気予報が開始、明治20年には中央気象台が発足されるとともに気象台測候所条例が制定され、日本の気象学が本格的に勃興することになる。 ヨーロッパ、アメリカなどの先進国の気象学と日本の気象学は、異なる発達過程を経てきている。これは地理的に離れていることで学者の交流が少ないことに加えて、台風や梅雨、日本海側の大雪などの独特の気象によって研究対象が違ったことが要因である。 現代気象学の基礎は地道な観測によって作られた。19世紀中盤に計器による定点気象観測が始まって以来、1世紀以上の間人の手による観測が続けられていたが、20世紀後半に自動観測(テレメータによる測定)が普及して観測が容易になった。海洋では気象観測船が海洋気象ブイに取って代わり、上空ではまず気象レーダー、その後1970年代・1980年代から気象衛星によって雲や降水のリアルタイム観測が可能となり、現在の気象予報に不可欠なものとして活用されている。 こうした観測技術の発達による既知の現象の解明や新たな発見によって、気象学は現在も発達し続けており、様々な分野が生まれてきている。特に、熱帯低気圧や竜巻、寒波、熱波、旱魃などの災害をもたらすような気象や、エルニーニョ・南方振動(ENSO)などの気候パターンに対しては関心が高く、活発な研究が行われている。また、オゾンホール、大気汚染や気候変動(地球温暖化)などの地球環境問題も気象学に関係が深く、多くの気象学者が研究に携わっている。 一方で、気象を扱う業務(気象業務)のうち天気予報などは日常の一部となっていて、研究機関のみが扱うのではなく民間でも行うことができ(アメリカ、日本など)、各国でその形態は異なるものの、気象産業と呼ばれるものが出現している。また、開発途上で今後の普及が予想されるスマートグリッドや再生可能エネルギー導入・省エネルギーに関して、発電量予測や需要予測などに関わる気象予報のニーズは高いと見込まれている。
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気象学
一方で、気象を扱う業務(気象業務)のうち天気予報などは日常の一部となっていて、研究機関のみが扱うのではなく民間でも行うことができ(アメリカ、日本など)、各国でその形態は異なるものの、気象産業と呼ばれるものが出現している。また、開発途上で今後の普及が予想されるスマートグリッドや再生可能エネルギー導入・省エネルギーに関して、発電量予測や需要予測などに関わる気象予報のニーズは高いと見込まれている。 気象学の研究の中では、人工降雨などの気象制御の試みも行われてきた。究極的には、気象を制御して災害を低減することが考えられるが、技術的な問題から大規模な実用化はされていない。また、倫理的な問題や、果たして複雑な気象システムを制御できるのかという問題も横たわっている。 気象に関わる人物は、気象を研究する気象学者と、気象予報の業務に携わる者の2種に大きく分けられる。 気象学者は主に大学や大学院などの地球科学関連の領域で研究を行っているほか、国など公的な気象機関で研究を行う例もある。参考として、日本気象学会の会員は2012年3月末時点で約3,700名である。 予報業務に関しては、日本では1993年に創設された国家資格である気象予報士が行うのが一般的であり、予報業務を行う民間事業者は必ず気象予報士を置くことが、気象業務法で義務付けられている。また、テレビ放送などでは「お天気キャスター」と呼ばれるリポーターが天気を伝えることがある。 気象現象は、空間的な規模(スケール)によって現象を支配する物理法則や環境が少しずつ異なっている。また、それぞれの現象のスケールの大小は、継続時間の長短とも対応している。こうしたことから、気象学もスケール毎に分化している。
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まんてん
『まんてん』は、2002年9月30日から2003年3月29日まで放送された『連続テレビ小説』第67作。 ヒロインオーディションには1,916人が応募し、宮地真緒が選ばれた。 鹿児島県が主な舞台になるのは、1979年度前期の『マー姉ちゃん』以来である。 前作『さくら』からの話数変更により、連続テレビ小説における9月・3月の「最終月曜日」に放送を開始した最初の作品である。 放送中の2003年2月、スペースシャトル「コロンビア」の空中分解事故が発生し、コロンビアの乗組員を追悼するカットが挿入された。また、爆発事故発生日の放送では最後の「まんてん / 製作著作NHK」のテロップを急遽「つづく」の映像に表示し、コロンビアの乗組員を追悼するテロップが最後に表示された。 最終回では、現実に先駆け、2009年7月22日(日本時間)にトカラ列島を中心とした地域(屋久島も含まれる)が皆既帯となることで起きた皆既日食を、まんてんが宇宙から、屋久島の人々が地上から、観察するシーンが登場し、1996年度後期の朝ドラ『ふたりっ子』以来、放送当時よりも先の未来を描いた。 2002年から2003年放送の平均視聴率は20.7%、最高視聴率は23.6%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。 屋久島は集落ごとに独自の文化・習俗があり、方言の語彙も島内で微妙な差異がある。本作で使用された屋久島方言は、島内に23ある集落の言葉を、屋久島出身の鎌田道隆考証の下にまとめたものである。ことば指導に徳之島出身の桂楽珍が起用されたのは、鹿児島県本土よりも徳之島のことばのほうが屋久島に近い、との判断からであった。しかし、徳之島方言は琉球語奄美方言に分類される方言であり、実際には県本土の方言の方が屋久島方言に近い。方言についてはNHKへの問い合わせが多数あり、2002年10月22日に『南日本新聞』朝刊紙面上でNHK鹿児島放送局の担当者による回答が掲載されることになった。 屋久島に住むヒロイン・日高満天(まんてん)が鹿児島でバスガイドになるために島を出るところから物語は始まる。 物語の舞台は大阪などに移り、次は気象予報士になるための勉強を開始する。 そんな中で漁船の遭難で行方不明になっていた父と再会するなどの出来事を通し、最終的には満天は宇宙飛行士となり、宇宙からの天気予報を伝えるようになる。
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まんてん
屋久島に住むヒロイン・日高満天(まんてん)が鹿児島でバスガイドになるために島を出るところから物語は始まる。 物語の舞台は大阪などに移り、次は気象予報士になるための勉強を開始する。 そんな中で漁船の遭難で行方不明になっていた父と再会するなどの出来事を通し、最終的には満天は宇宙飛行士となり、宇宙からの天気予報を伝えるようになる。 「電子・光学などのセンサー全盛の時代に宇宙から人間が天気予報をすること」にどれだけの意味・値打ちがあるのかと作中でも疑問が提示されるが、満天が自分の言葉で惑星・地球の美しさを伝えようとしたこころが、日本の子供たちに確実に根付いていることを感じさせて、物語は終了する。 陽平が研究員として勤務する企業。 オープニングは舞台である屋久島の風景が取り上げられる。 エンディングは、舞台の一つ・屋久島などに関連する写真や星や地球の動画をバックに宮地が「まんてん」とタイトルコールをした。なお、タイトルコールの言い方は回によって異なっている。 第17週まで鹿児島弁だが、第18週からは標準語になっている。 2003年3月20日はイラク戦争の開戦に伴う特別番組編成のため中止、翌日に2日分の再放送が行われた。 2003年1月4日に30分の特別編「まんてんスペシャル」を放送した。番組は物語の前半の物語、並びに後半の見所の他、宇宙飛行士になるための道程の解説が放送された。 BShiで2003年6月28日から6月29日16時から18時の2回ずつ、BS2では2003年8月11日から8月14日15時から16時、NHK総合では2003年12月20日から12月21日15時45分から17時45分の2回ずつ放送された。
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旅行
旅行(、トラベル、英: travel)とは、見物・保養・調査などのため、居所を離れてよその土地へ行くこと。旅()とも。 広辞苑によると、旅とは、住む土地を離れて、一時他の土地に行くこと。旅行。古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることをすべて「たび」と言った。大辞泉には「住んでいる所を離れて、よその土地を訪れること」とある。 旅の歴史を遡ると、人類は狩猟採集時代から食糧獲得のために旅をしていた。農耕が行われる時代になった後も、すべての人々が定住していたわけではなく、猟人、山人、漁師などは食糧採集のための旅を行っていた。 その後、宗教的な目的の旅がさかんに行われ始めた。ヨーロッパでは4世紀ころには巡礼が始まっていた。日本でも平安時代末ころには巡礼が行われるようになった。イギリスでは近世になると裕福市民層の子弟が学業仕上げのためのグランドツアーや、家庭教師同伴の長期にわたる海外遊学などを行うようになった。日本では江戸時代にいくつもの街道が整備され、馬や駕籠も整備され、治安も改善されたので、旅がさかんになった。 近代になり西欧で鉄道や汽船などの交通手段が発達すると、ますます旅はさかんになった。→#歴史 現在の旅は非常に多様であり、さまざまに分類することが可能である。→#旅の分類 現代では一般庶民にも移動の自由が公に認められているが、過去においては制限がかかっていた場合が多く、宗教的な巡礼を名目に旅をすることが多かった。 ヨーロッパでは4世紀ごろには巡礼が始まっており、中世にはキリストの聖杯・聖遺物、あるいはその使徒の遺物が安置されているといわれる大聖堂、修道院への巡礼が盛んに行われるようになっていた。主な巡礼路には、旅人に宿泊場所を提供し世話をしたり、病人を世話するための施設も造られていた(ホスピスや病院の起源)。 日本では8世紀ごろから西国三十三所、四国八十八箇所巡礼などが行われるようになった。 また、近世に入ってからは、イギリスの裕福な市民層の師弟の学業の仕上げとしての「グランドツアー」、家庭教師同伴の長期にわたる海外遊学が広く行われるようになり、それを世話する業者である旅行会社が登場した。1841年当時のこのような世相からトーマス・クック・グループが創業した。
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旅行
日本では8世紀ごろから西国三十三所、四国八十八箇所巡礼などが行われるようになった。 また、近世に入ってからは、イギリスの裕福な市民層の師弟の学業の仕上げとしての「グランドツアー」、家庭教師同伴の長期にわたる海外遊学が広く行われるようになり、それを世話する業者である旅行会社が登場した。1841年当時のこのような世相からトーマス・クック・グループが創業した。 また、アメリカでは19世紀には金鉱の発見などにより、「西部開拓」という大移動、旅行ブーム(ゴールドラッシュ)を引き起こした。以後、放浪者、「ホーボー」や、ビートニクなどの運動でも旅行は新しい文化の呼び水になった。(ただし、21世紀現代の米国ではパスポート保持者は全国民の3割に過ぎず、外国へ旅行する人の半数は、行き先が、2007年までパスポートが不要だったカナダとメキシコだったという)。 狩猟時代、人々は食糧採集のために旅をしており、鳥獣を追って山野を歩き、魚をとるために川を上下した。弥生時代に入ると農民は定住したものの、猟人、山人、漁師などによって食糧採集の旅は継続、また農民以外の職は行商人であったり歩き職人であったりした。当時は人口が少なく、待っていても仕事にならず、旅をして常に新規顧客を開拓する必要があった。中世から近世にかけては店をかまえる居商人が次第に増えたものの、かわらず旅をする商人・職人も多かった(例えば、富山の薬売りなど)ほか、芸能民、琵琶法師、瞽女等々もいた。 行政によって強制された旅も多かった。防人では東国の民衆がはるばる九州まで赴いた。また庸調などの貢納品(租庸調という一種の税金)の運搬で、重い荷物を背負って都まで行かねばならず、途中で食糧もつき落命する者が絶えなかった。ちなみに日本の民俗学者の柳田國男は(日本の)旅の原型は租庸調を納めに行く道のりだ、と述べた。食料や寝床は毎日その場で調達しなければならず、道沿いの民家に交易を求める(物乞いをする)際に、「給べ(たべ)」(「給ふ〔たまう〕」の謙譲語)といっていたことが語源であると考えられる、と柳田は述べている。 近世に入り、運送の専門業者が出現したことで、こうした貢納のための強制された旅は激減した。
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旅行
近世に入り、運送の専門業者が出現したことで、こうした貢納のための強制された旅は激減した。 やがて自由に自発的に行う旅が生まれ発展していった。平安時代末期までは交通環境は厳しく旅は危険を伴い、こうした苦難に挑むのには信仰という強い動機があった。僧侶は修行や伝道のため、一般人は社寺に参詣するために旅をした。平安末から鎌倉時代は特に熊野詣が盛んであった。室町時代以降、伊勢参りが盛んになり、また西国三十三所、四国八十八箇所のお遍路などが盛んになった。 宿泊費については15世紀には既に畿内で旅籠の定額制が確認され、遅れて16世紀には列島の広域で定着していた。中世後期には既に一般の庶民が広範囲な旅行を行いうる環境が成立しており、遠方への旅行も可能な環境が整備されていた。 それまで徐々に発達してきた交通施設・交通手段が、江戸時代に入ると飛躍的に整備された。徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いに勝つと、翌年には五街道や宿場を整備する方針を打ち出し、20年あまりのうちにそれは実現した。宿場町には、宿泊施設の旅籠や木賃宿、飲食や休息をとるための茶屋、移動手段の馬や駕籠、商店などが並んだ。また貨幣も数十分の一〜数百分の一の軽さのものに変わり、為替も行われ、身軽に旅ができるようになった。またそれまで多かった山賊・海賊も、徳川幕府300年の間にずいぶん減り、かなり安心して旅ができるようになった。
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旅行
江戸時代には駕籠や馬も広く使われてはいたが、足代が高い事から長距離乗るのは大名や一部の役人などに限られ、一般人は使うとしてもほんの一部の区間だけが多かった。船に乗る船旅も行われ、波の穏やかな内海は比較的安全で瀬戸内海や琵琶湖・淀川水系、利根川水系などでよく行われていたが、外海では難破の恐れもある危険なものであった。農民の生活は単調・窮屈・暗いものであって旅をしたがったが、各藩のほうは民衆が遊ぶことを嫌い禁止したがった。だが参詣の旅ならば宗教行為なので禁止できず、人々は伊勢参宮を名目として観光の旅に出た。庶民の長旅できる機会は、一生に1度かせいぜい2度と、とても限られ、一度旅に出たからにはできるだけ多くの場所を見て回ろうとした。京・奈良などでは社寺の広大さに感嘆し、大坂では芸能浄瑠璃や芝居に酔った。若者の中には宿場の遊女と遊ぶ者もいた。旅が貴族や武士だけでなく、一般民衆にも広まった。現代と比べて娯楽が少ない当時、旅の持つ意味ははるかに大きかった。 また、江戸期には十返舎一九の東海道中膝栗毛などの旅を題材とした旅文学・紀行文や絵画作品も多く作られた。 なお幕末から明治期の駐日イギリス外交官アーネスト・サトウはその著書「一外交官の見た明治維新」のなかで「日本人は大の旅行好きである」と述べている。その理由として、「本屋の店頭にはくわしい旅行案内書(宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物などを記載したもの)、地図がたくさん置いてある」ことなどを挙げている。 近代になり、鉄道と汽船が利用できるようになると、一般人でも長距離の移動が楽にできるようになった。1886年、修学旅行の嚆矢とも言われる東京師範学校の「長途遠足」が実施される。東京から銚子方面へ11日間軍装で行軍するという、軍事演習色の強いものであった。 第二次世界大戦の戦局が悪化した1944年(昭和19年)3月14日には、決戦非常措置要綱に基づく旅客の輸送制限に関する件が閣議決定され、通勤・通学以外の旅行は自粛の徹底が進められた。当時は、長距離移動に適した道路網が未整備であったことなどから、旅行の自粛規制の対象は鉄道に集中した。同年4月以降、長距離移動に欠かせない特別急行列車やほとんどの急行列車が廃止されたほか、寝台車や食堂車の連結も取りやめられた。
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旅行
旅の分類と言ってもさまざまな方法があるが、例えば次のような分類が可能である。 目的地のある旅と無い旅がある。 目的地が複数の場合もあり、英語ではツーリングと言う。また、“目的地”は形式的に設定されているだけであまり重要でなく、実質は途中の移動や行為であるような旅、移動中にさまざまなものを見てゆくことのほうがむしろ主たる愉しみとなっている旅もある。 期間だけを決めて出発し、行き先は成行きに任せたり、期間も定めず、あてどもなく長期の旅に出る場合もある。「放浪の旅に出る」という表現もある。 さまざまありうるが、次のような場所はしばしば目的地に設定されている。 旅の枕詞は「草枕」である。草枕とは、旅先で草で仮に枕を編んだことに因む。
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電話
電話(、英: telephone)とは、音声を電気的信号に変え、離れた場所に伝達し、これをふたたび音声に戻すことで、相互に通話できるようにした通信方法。 電話の種類はさまざまな方法で分類可能である。 たとえば伝送途中の信号の形式を基準とすると、アナログ電話 / デジタル電話 と分類される。 電話は一般的には、信号の伝送に電流や電波を用いる。光ファイバー中に流される光を利用する事も広く普及している。あまり一般的ではないが、技術的には一応「光線電話」というものもある。光を搬送波として使用するもので空間光通信の一種。直線で互いに見通せる範囲内でしか通信できないが、高速大容量の通信が可能。可視光線以外に赤外線も用いられる。近年ではデジタル式もある。 また特殊用途で、水中電話という、超音波を利用するものもあり、アナログ式とデジタル式がある。無線通信を行う際、水中は電波が激しく減衰するので、代わりに超音波を用いている。 もともとは音声を電流の変化に変換し、それをそのまま相手側の装置に伝送し、相手側の装置で電流を音声に変換した。 20世紀末ごろから普及したデジタル式電話では、変調や復調といった手順を含む。多くは得られた情報からのベースバンドを、さらに伝送経路上で符号化する方式で伝送している(搬送帯域伝送)。経路上の回路は複雑になるが、送電経路上の情報の送受信の効率が上がり、情報量や品質が良くなるというメリットがある。 19世紀、電話の歴史の初期には、2台の電話機だけを用いてその間を2本~4本の銅線で繋ぎ、それを繋いだままにしておき、常に2台の電話機の間だけで通話を行う素朴な電話がしばしば用いられた。現代でも特殊な場所では、2台の電話機の間を一筋の被覆電線で結び、他とは一切通話できない電話が設置されることもある。 19世紀末や20世紀前半は、電線の相互接続の切り替えは主として人間が人手で行っていた。電話の電線を相互に接続したり、接続を切り替えてやる業務を「交換業務」、その担い手を「交換手」や「電話交換手」と言った。そして「電話局」に設置された交換台(パッチパネル)を用いて電話同士を電気的に接続する方式が広く採用された。
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電話
19世紀末や20世紀前半は、電線の相互接続の切り替えは主として人間が人手で行っていた。電話の電線を相互に接続したり、接続を切り替えてやる業務を「交換業務」、その担い手を「交換手」や「電話交換手」と言った。そして「電話局」に設置された交換台(パッチパネル)を用いて電話同士を電気的に接続する方式が広く採用された。 その後、通話先を音声で交換手に伝えるのではなく電話機のパルス発信で機械的に伝える方式が開発され、手作業でやっていた相互接続や繋ぎ換えの作業を自動で行う機械も作られ(電話交換機)、徐々に広がっていった。 現代では、通常電話のシステムは電話機1機対電話機1機とはなっておらず、通話を行う時にだけ電話交換機で複数の電話機をつなぐ回線を確保する方式(回線交換)がとられる。 現代の電話回線は自動交換機で世界的に相互接続され巨大な電話網を形成している。固定電話、携帯電話、衛星電話、IP電話など多種多様な電話の相互接続や、無線呼び出しへの発信も可能になっている。人間の音声での通話のためだけでなく、1990年代にインターネットへのダイヤルアップ接続などのコンピュータ・ネットワークにも利用されるようになった。 電話機は、電磁誘導の原理を利用し、音声を電気信号に変換して送り出し、受け取った電気信号を音声に変換するための機器である。 交換機の動作との関係では次のように分類できる。 また、電話回線を使って画像を送受信する機器はファクシミリ (FAX)という。ファクシミリ・複写機・イメージスキャナなどを一つの筐体に収めたデジタル事務機器は複合機と呼ばれる。 音声と同時に動画を送ることができるようにしたものはテレビ電話という。 公衆電話は、街頭や公共交通の乗り物などに設置され、硬貨、トークン(電話専用コイン)、プリペイドカード、クレジットカード等で利用可能な電話をいう。 家庭や、オフィスなどの建物に固定して設置され、月毎に通話料金を支払う有線式電話を固定電話という。 移動式電話は、かつての自動車電話やその後に登場した携帯電話などである。移動式電話には、電波で局と回線をつなぐ無線電話や、人工衛星を利用して回線をつなぐ衛星電話などがある。
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電話
家庭や、オフィスなどの建物に固定して設置され、月毎に通話料金を支払う有線式電話を固定電話という。 移動式電話は、かつての自動車電話やその後に登場した携帯電話などである。移動式電話には、電波で局と回線をつなぐ無線電話や、人工衛星を利用して回線をつなぐ衛星電話などがある。 サービスが拡大すれば必要な施設を設置する投資も不可欠だが、投資を回収するまでの時間が生まれれば全ての利用者に一度にサービスを提供できないことで積滞が生まれた。しかし、郵便と違って利用者を拡大すれば、相対的に個人が負担する費用は段々減る法則が電話にはある。言い換えれば、ひとつの事業者の電話線の接地面積が拡大すればするだけ、利用者の負担は一定の水準まで軽くなる。同時に運営事業者が過当競争で倒れた場合は利用者へデメリットが生まれる。 この結果として積滞率解消、かつ公共サービスのコストの面から電話の事業体は公益性を追求する官営(BTグループ登場以前のイギリス方式)か、ローカル地域と基幹網を分けた上で後者についてはある程度まで行政の裁量で独占を許す形の民営にするかの(分割以前のアメリカのAT&Tがこの役割を担った)選択を国は迫られることになり、敗戦後の日本は事業体の形態を公社とすることに決定した。1980年代の通信自由化においてこの論争は再燃することになるが、日本における電電公社民営化の過程については井上照幸著『電電民営化過程の研究』(エルク ISBN 978-4434001475)が詳しい。。
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大陸
大陸()とは、地球の地殻上に存在する陸塊である。一般的にはユーラシア大陸・アフリカ大陸・北アメリカ大陸・南アメリカ大陸・オーストラリア大陸・南極大陸の6つの陸上部分を指すが、これは相対的な判断によるもので厳格な基準は設けられていない。衝突や分裂など大陸の動きは、かつては大陸移動説として説明されたプレートテクトニクスで理論化され、地質学の研究課題となっている。 慣習的に、「大陸とは有意な水域で切り離された、充分に広く、連続的で、おのおのが独立していると認識される陸地」と言える。しかし、一般に言われる6つの大陸は必ずしも海で分断された離散的な状態にあるわけではない。広さも恣意的な判断に基づき、最大の島グリーンランドの面積は2,166,086kmであり、大陸に分類されるオーストラリアの面積7,617,930kmと比較した際に大陸とはみなされない理由は明確に説明されていない。また、おのおのの独立という点では理想的な基準を満たすために大陸棚や島弧の存在は考慮されず、南北アメリカはパナマ地峡でつながっているために合わせて1つの大陸とする考えがあるなど、定義上の矛盾もある。アジア・ヨーロッパ・アフリカも自然な地形では分断されておらず、このうちアジアとヨーロッパは地峡さえない状態でつながっており、定義から大きく逸脱している。海洋と大陸の関係では、大陸は1つ以上の主要な大洋(en)と接しており、逆に大洋は大陸やさまざまな地理的基準によっておのおのが区分されている。 大陸を指す最も狭義の概念は切れ目がない主要な陸地ということになる。この考え方では、海岸線が大陸の淵となり、イギリスやアイルランドが自国と対して使う「大陸(the Continent)」は大陸ヨーロッパを意味するが、アイスランドなどの島を含まないこと、同様な意味で日本などから見た中国大陸や、オーストラリアのタスマニアが「オーストラリア大陸」に加えられない事象が例になる。また太平洋のハワイ諸島やカナダ領土を挟むアラスカを除いたアメリカ合衆国の48州を「アメリカ合衆国本土」(continental United States)と呼称することもこの用法に当たる。
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大陸
地質学や自然地理学の見地からは、海面下の水深が浅い領域である大陸棚とそこにある島々(大陸島)も連続した陸地として扱われ、構造的に大陸の境界内に入る。この視点では、大陸の境界は海岸線に関わらず大陸棚の縁となり、イギリス諸島やアイルランドはヨーロッパ大陸の一部となり、ニューギニア島はオーストラリア大陸と一体となってサフル大陸(またはオーストラリア‐ニューギニア)を形成する。 文化的な構図から勘案すると、大陸という概念は大陸棚のような地形的境界を越える可能性がある。たとえば、この考え方ではアイスランドはヨーロッパ大陸の、マダガスカルはアフリカ大陸の一部と受け取ることができる。これをさらに拡大すると、オーストラリア大陸がニュージーランドなど全オセアニア諸島を含み込んだオーストララシアまでに至る。その結果、地球上のすべての地域はもれなくいずれかの大陸に含まれることになる。 各大陸が水域によって区分されているという理想的な基準は、歴史的そして現実的には当てはまっていないと見なされている。この基準に合致するものは、かろうじてオーストラリア大陸と南極大陸のみである。いくつかの大陸は完全に独立した陸塊ではなく「そこそこの大きさの地面」と認識されている。アジアとアフリカはシナイ半島でつながり、南北アメリカの間にはパナマ地峡がある。どちらの地峡も大陸と比べれば非常に狭いもので、しかも人工の運河(スエズ運河とパナマ運河)によって両大陸は切り離されていると言うこともできる。 一方、ユーラシア大陸をアジアとヨーロッパに分ける考えは異例であり、そこには水域は何もない。この点からユーラシア大陸を含む6大陸という数え方が生まれている。この地理的な考えはヨーロッパとアジアをまたぐロシアではユーラシア主義思想とも結びつけられ、日本でもこの考えが主流である。それに対し2つの大陸に分ける考えはヨーロッパ中心主義の残滓もあり、「物理的、文化的そして歴史的な多様性では、中国やインドはヨーロッパの個別国ではなく全体に匹敵する。もしフランスと比類するならば、インド全体ではなくその中の一州、たとえばウッタル・プラデーシュ州を並べる方が完全ではないとしてもより適切である」という意見もあるが、歴史的また文化的な理由からヨーロッパではユーラシアを2大陸に分ける考えが本流である。
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大陸
陸峡を挟む南北アメリカ大陸はユーラシアよりも明瞭に区分されるが、それでも以前はまとめて1つの大陸として認識されており、第二次世界大戦以前のアメリカ合衆国でも支配的だった。現在でも米州機構にこの概念が残っている。この、アメリカ大陸を1つとみなす考えは、スペインやポルトガルおよびラテンアメリカ諸国の概念から来ている。しかし19世紀ごろ、アメリカ合衆国との混同を避けるために使われ始めたアメリカ州(Americas)という言葉に見られる複数形から示唆されるように、このころには新世界は2つの大陸で成り立っているという認識が広まった。この区分は近代オリンピックのシンボルマークに使われており、大陸を表す環は南極を除き5つがデザインされている。 もし大陸の定義を離散的な陸塊とし、接触する場所がある陸地はまとめて考えるとするならば、アジア・アフリカ・ヨーロッパはアフロ・ユーラシア大陸という呼称のように1つの大陸と見なさなければならなくなる。この場合、南北アメリカもひとつと数えられ、地球の大陸は4つとなる。さらに、更新世の氷期によって海水準変動が起こっていた時期を考えれば、より広い範囲で大陸棚を介した陸橋で大陸はつながっていた。この時期、ニューギニアはオーストラリア大陸の一部であり、アメリカ大陸とアフロ・ユーラシア大陸はベーリング海峡を通じて連なっていた。グレートブリテン島など大陸周辺の島もことごとく大陸と一体化していた。この時代に冒頭の大陸と定義できる陸地は3つだけだった。 大陸をどう数えるかについては複数の方法がある。 「オセアニア」や「オーストララシア」はオーストラリアを示す名称としてしばしば用いられ、カナダの地図帳『Atlas of Canada』もオセアニア表記である。中南米とイベリア半島を指しイベロアメリカという用語も使われる。 以下の表で、7大陸法で区分したそれぞれの大陸の面積と人口についての統計を示す。 全大陸の面積は総計148,647,000kmであり、地球表面(510,065,600 km)の29.1%を占める。 以下の表で、7大陸法で区分したそれぞれの大陸の最高標高地点(最高峰)と最低標高地点を示す。
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大陸
以下の表で、7大陸法で区分したそれぞれの大陸の面積と人口についての統計を示す。 全大陸の面積は総計148,647,000kmであり、地球表面(510,065,600 km)の29.1%を占める。 以下の表で、7大陸法で区分したそれぞれの大陸の最高標高地点(最高峰)と最低標高地点を示す。 † 北アメリカ大陸と南極大陸の最低標高地点は厚さ数キロメートルの氷河に覆われている。露出した地点に限れば、北アメリカの場合 デスヴァレー(-86メートル)、南極大陸ではベストフォードヒルズ(en)(-50メートル)の湖が該当する。 ヨーロッパとアジアの地質学的境界をパラテーチス海(en)の名残りであるクマ=マヌィチ窪地に求める意見もある。これに則るとエルブルス山があるコーカサス山脈はアジアの領域に入り、そのためヨーロッパ最高標高地点はグライアンアルプス(en)のモンブラン(4,810メートル)となる。 現在知られている大陸とは別に、別な観点に立った大陸と呼ぶ対象もある。地質学的記録を遡ったことにより、超大陸と呼ばれる、単一のクラトンや大陸塊をしのぐ大きさを誇った陸地が、かつての地球上に存在したと考えることが今日では妥当とされるようになった。これらには、ローラシア大陸、ゴンドワナ大陸 、バールバラ大陸、ケノーランド大陸、コロンビア大陸、ロディニア大陸そしてパンゲア大陸などがこれに当たる。理論上、現在のユーラシア大陸もこれに該当する。 大陸の一部を指して亜大陸と呼称する用例もある。特に、異なるプレートに乗る陸地が大陸と接続しているような場合に用いられ、インド亜大陸やアラビア半島が顕著な例に当たる。北アメリカプレート北東部にあるグリーンランドは、大陸と接続こそしていないが亜大陸と認識される場合もある。南北アメリカ大陸を単一の大陸と見なす場合、ふたつの亜大陸がつながっているという見方もある。 微小大陸(英: microcontinent)とは、大陸地殻としては海中に没しているものの、比較的水深の浅い場所に広い面積を持つ領域であり、これを単純に水没した大陸とする見方がある。ニュージーランドからニューカレドニア付近の海域にあるジーランディアは典型的な例で、ほかにインド洋南部のケルゲレン海台もこれに当たる。
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大陸
微小大陸(英: microcontinent)とは、大陸地殻としては海中に没しているものの、比較的水深の浅い場所に広い面積を持つ領域であり、これを単純に水没した大陸とする見方がある。ニュージーランドからニューカレドニア付近の海域にあるジーランディアは典型的な例で、ほかにインド洋南部のケルゲレン海台もこれに当たる。 大陸断片(continental fragment)とは、かつては大陸と一体だった大地が断裂して島状になった地形を指し、これを比較的小さな大陸ととらえた用語である。マダガスカル島はこの例に当たる最大の島で、「第8の大陸」と呼称されることもある。 アトランティス、ヒュペルボレイオスの伝説やトゥーレ、レムリア・ムー大陸などが例に挙げられる。 最初の大陸区分は、古代ギリシアの船員たちが名づけた「アジア」と「ヨーロッパ」だった。ただしこれは単純にエーゲ海、ダーダネルス海峡、マルマラ海、ボスポラス海峡および黒海の両岸のことを指していた。当初は海岸のみを指していたこれらの言葉は、のちに広大な背景地にまで及ぶようになった。しかし、これらの区分はせいぜい航海によってたどりつけた土地までの範囲に留まり、「その限界を超えて、決して分割が叶わないユーラシアを仕切るためのいかなる説得力を持つ地理的な特徴を内陸部に見出すことは、ギリシアの地理学者たちの手に余った」と評されている。
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次に古代ギリシアの思想家たちは、アフリカ(当時はリビアと呼ばれていた)が果たしてアジアの一部なのか、それとも異なる場所なのかを議論し、そこが異なる3番目の土地だという考えが優勢となった。ギリシア的観点に立つと、エーゲ海は世界の中心であり、東にアジア、西と北にヨーロッパ、そして南にアフリカが位置した。大陸間の境界は明瞭されなかった。早くから、ヨーロッパとアジアは黒海からグルジアを流れるリオニ川(当時はファシス河と呼ばれた)に沿って分けられた。その後、この線は黒海を起点にケルチ海峡、アゾフ海を通ってロシアのドン川を遡上する形と変化した。アジアとアフリカの境界はナイル川に置かれた。しかし紀元前5世紀のヘロドトス は、これではエジプトがアジアとリビア(アフリカ)に分断されてしまうため反対し、同地はあくまでアジアだとの主張の元に境界をエジプトの西側国境線に置いた。また彼は、実質的に陸続きのこの3地域をわざわざ分けることに疑問を呈し、この論争は2500年後の現在でも取り沙汰される。 紀元前3世紀のエラトステネスは、地理学者たちが主張するナイル川やドン川で区分される大陸部分に着目し、川で区分される大陸を「島」、地峡で分けられる大陸を「半島」と考えた。彼以後の地理学者たちは、アジアをヨーロッパの区分をカスピ海と黒海の間の地峡に、アジアとアフリカの区分を地中海沿岸のバルダビル湖((en))河口から紅海の間に置いた。 古代ローマから中世の間、シナイ半島をアジアとアフリカの境界に置く地理学者はわずかで、ほとんどは依然としてナイル川もしくはエジプトの西境を基準に置いていた。中世には世界はTO図の形式で描かれ、Tが3つの大陸を分割する水域として表現されるようになったが、18世紀中ごろまで境界をエジプトとリビアの間(Great Catabathmus)に求める流儀はしぶとく残っていた。 クリストファー・コロンブスが大西洋を航海し西インド諸島に到達した1492年は、ヨーロッパ人のアメリカ大陸探査の口火となった。ただし、コロンブス自身は4度アメリカへ渡ったにもかかわらず、彼はそこがアジアの一部だと生涯信じていた。
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大陸
クリストファー・コロンブスが大西洋を航海し西インド諸島に到達した1492年は、ヨーロッパ人のアメリカ大陸探査の口火となった。ただし、コロンブス自身は4度アメリカへ渡ったにもかかわらず、彼はそこがアジアの一部だと生涯信じていた。 1501年、アメリゴ・ヴェスプッチとゴンサロ・コエーリョ(en)が、彼らがインディアスと考えていた地を南下しインド洋へ抜ける海路を目指していた。ブラジル海岸を航海する一行は、この地が当時考えられていたアジアよりもはるかに南に伸び、その広さも大陸と呼ぶにふさわしい規模であることを確認した。ヨーロッパへの帰路、探検の報告はヴェスプッチの名前で『Mundus Novus』(「新世界」の意)という名で1502年または1503年に出版された。これには別人の加筆も疑われているが、ヴェスプッチの言葉「私は南の地に大陸を発見した。そこには、私たちのヨーロッパやアジア、アフリカと比べてもよりたくさんの人々や動物たちが息づいている」という言葉で明白な通り、彼はその大陸を既知の3大陸と区別している。 数年後にはオリヴェリアーナ(ペーサロ)の地図(1504 - 1505年ごろ)のように「新世界」を南アメリカと名づけた地図は作成されたが、まだ北アメリカはアジアとつながっていた。しかし1507年にマルティン・ヴァルトゼーミュラーが出版した地図『Universalis Cosmographia(en)』では、新大陸が水域でアジアと分けられた。この地図に添えられた付録冊子『宇宙誌入門(Cosmographiae Introductio)』でヴァルトゼーミュラーは、地球の陸地は4つに分けられ、ヨーロッパ、アジア、アフリカに次ぐ4番目の大陸をヴェスプッチのファーストネームにちなんで「アメリカ」と名づけたと記している。
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大陸
1500年代から、名詞「continent」はラテン語 terra continensを語源とし、連続している大地(continent land)の意味から派生する形で生まれた。しかし当初は「接続または連続した土地」以外にも「本土」の意味にも使われ、必ずしも広大な陸地を意味していなかった。1600年代、マン島・アイルランド・ウェールズに対する「本土」また1745年にはスマトラ島を指して「本土」として使われた例がある。ギリシア語やラテン語の翻訳では「continent」は世界を3分したパーツとして訳されたが、この本来の意味に忠実な形で用いられることは無かった。 一方で「continent」は連続する大地の一部を指して用いられることもあり、他方ではヘロドトスの提言を再評価する地理学者たちは、実質的に一つの広大な陸地をわざわざ別の大陸に分ける必要がないと主張した。1600年代中ごろ、ピーター・ヘイリン(en)は著書『Cosmographie』にて「大陸は広大な面積を持つ陸地を指し、必ずしも他の土地と海で隔てられなければならないわけではない。ヨーロッパ、アジア、アフリカは完全に大陸だ」と筆した。1727年にイーフレイム・チェンバーズが書いた『サイクロペディア、または諸芸諸学の百科事典』(Cyclopaedia, or an Universal Dictionary of Arts and Sciences)には、「世界は基本的に2つの超大陸に分けることができる。旧大陸と新大陸だ」という記述がある。エマニュエル・ボーエン(Emanuel Bowen)は1752年製作の地図において、大陸を「広く乾燥した充分な面積を持つ土地であり、多くの国が国境を接してつながり、水域によって分断されない」と定義し、ヨーロッパ・アジア・アフリカは合わせて1つの大陸であり、また別にアメリカがあるとした。しかし、ヨーロッパの伝統的な考えから、ヨーロッパとアジア・アフリカは世界を構成するパーツでありながらそれぞれが大陸とする見方に固執した。 18世紀末ころには、地理学者の中に南北アメリカを別な大陸と見なし、世界を5つに区分する考えを持つ者が現れだしたが、19世紀にも依然4大陸の概念が一般的だった。
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18世紀末ころには、地理学者の中に南北アメリカを別な大陸と見なし、世界を5つに区分する考えを持つ者が現れだしたが、19世紀にも依然4大陸の概念が一般的だった。 ヨーロッパ人によるオーストラリア発見は1606年だったが、当初そこはアジアの一部と見なされていた。これを独立した大陸とし世界を6大陸とする考えが一部の地理学者から提案されたのは18世紀末のことであった。オックスフォード英語辞典も依然あいまいな表現に止まる中、1813年にサミュエル・バトラーが「地理学者の中には別な大陸名をつけて権威づけるものがいる、広大な面積を持つ島ニューホランド」とオーストラリアを記した。 メガラニカと名づけられた対蹠地として1000年以上前から存在を予言されていた南極大陸は1820年に発見され、1838年に行われたアメリカ合衆国の探検調査にてチャールズ・ウィルクスが最後の大陸と特定した。1849年には大陸として確認されたが、ほとんどの地図には記載されず、これは第二次世界大戦以後にようやく反映された。 19世紀中ごろから、アメリカ合衆国で発行される地図はヨーロッパのそれと異なり、南北アメリカを別の大陸と扱うものがだんだんと増え、二次世界大戦以降の1950年代にはほとんどがそのようになり、現代的な地質学やプレートテクトニクスの理解と一致した。これに南極が加わり7大陸の概念が確立した。 ただし、ラテンアメリカには南北アメリカ大陸をまとめる考えが根強く、またアジアとヨーロッパをユーラシア大陸とみなす概念も依然残っている。
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ただし、ラテンアメリカには南北アメリカ大陸をまとめる考えが根強く、またアジアとヨーロッパをユーラシア大陸とみなす概念も依然残っている。 地質学は、地理学と異なる「大陸」の定義下でこの用語を使う。それによれば、変成岩や火成岩、広くは花崗岩の岩盤で構成された部分を大陸地殻とする。より厳密に定義されたものでは、15億年から38億年前の先カンブリア時代に安定した「盾」状の地殻部分であるクラトン(安定陸塊)を指す意見もある。クラトンそのものは、古代の山岳帯が初期の沈み込み帯や大陸衝突帯(en)またはプレートテクトニクスの上昇部分での活動帯で造られ、これが集まったものであり、その表面は形成されたばかりの薄い堆積岩が覆っている。地質学で言う大陸は、その周辺をある程度活発な造山帯・海溝または三角州や海底プレートに形成された珊瑚礁や積もった堆積物などが付着した「付加体」で周辺を覆われている。縁辺部の外側は地球のプレート配置によって、大陸棚や玄武岩質の海盆が広がるか、もしくはほかの大陸地殻と隣り合っている状態にある。大陸地殻の周辺は必ずしも水域ではない。地質学的な時間スケールで見れば、大陸地殻はやがて海洋地殻の下にもぐりこむか、大陸地殻同士が衝突するかの結末を迎える。現在の地球地殻は、他の時代に比べて陸地部分が多く「(標高が)高く乾いた」変則的な状態にあると言える。 大陸を例えて、より重い玄武岩質の海洋地殻とは異なり、大陸地殻にへばりついた「いかだ」のようなもので、プレートテクトニクスが起こす沈み込みで破壊されることを免れているという言及もある。この仮説は、大陸クラトンを構成する岩石の年代が非常に古いことを説明できる。この定義では、東ヨーロッパやインドなどといった地域は、古代の独立した箇所(東ヨーロッパ・クラトンやインドクラトンなど)であった事から他のユーラシア大陸とは異なる大陸塊と言える。これらの大陸塊とユーラシアの境界が、ウラル山脈やヒマラヤなどの新しい造山帯である。
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大陸
大陸地殻には、クラトンに至らない多くの微小大陸がある。ゴンドワナやジーランドなど古の大陸の断片にあたるニュージーランドやニューカレドニア・マダガスカルなど、またはマスカレン海台(en)北部やセーシェルなどがこれに当たる。カリブ海の諸島は花崗岩質だが、ほとんどの大陸は花崗岩と玄武岩質の表層を持っている。ただし、このような線引きで島と微小大陸を区別できない。たとえば、ケルゲレン海台はゴンドワナ大陸の分裂に関与したと考えられるため微小大陸に相当するが、その地質はおもに火成岩であり微小大陸ではないアイスランドやハワイ諸島と同じである。ブリテン諸島、スカンジナビア半島の一部、ニューファンドランド島は過去同じ大陸の一部分であり、内海(イアペタス海)が広がって分断された。これらも大陸断片にあたる。 プレートテクトニクスは、大陸を定義する別の方法を提案する。今日、ヨーロッパをアジアの大部分を合わせユーラシア大陸としているが、これをユーラシアプレートを基準に見るとインド、アラビア半島、そしてロシア東部は除外される。インドは楯状地を中央に含みヒマラヤ山脈を北端とする単独のプレートである。南北アメリカは比較的近年の火山活動によって形成された陸峡で繋がった、プレート的には別々の大陸となる。そして北米はカナダ楯状地の端にグリーンランドを、そして西の境界でアジア(ロシア)東部を含むことになる。ただし、地質学者たちはこのプレート配置を取り上げてアジア東部の一部を北アメリカに加えるといったような主張はしていない。通常「大陸」は地理的な意味にて用いられ、大陸岩石やプレート境界といった定義はあくまで補充的に適宜用いられるに過ぎない。 金星の地形において、地球の大陸に匹敵する大きさの高地も「大陸 (la: terra)」 と呼ばれる。面積順に、アフロディーテ大陸、イシュタール大陸、ラダ大陸の3つがある。金星では少なくともプレートテクトニクスは機能しておらず、どのようなメカニズムで高地が生まれたものかは今後の研究に委ねられている。
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教育学
教育学(きょういくがく、英: Studies of Education、独: Pädagogik, Erziehungswissenschaft)は、教育に関する研究、または教育という事象を対象とする学問。 教育学には、学習者(こどものみならず成人も含む)、教育施設(学校)、教育技術(教授法)、教育課程、教育評価、教育制度、教育に関する権利・義務、教育行政・教育法令、教育に関する理念や歴史などについての理論的・実践的研究が含まれる。第二次世界大戦以前は「教育学」という語で教育心理学や教育社会学などと区別された教育の現象や理念に関する一般的な思弁的研究を指していたことから、現在でもそのような意味で用いることがある。 教育学は翻訳語であるが、その元となった単語の1つであるpedagogyは、元々ギリシア語で「こども」を意味するpaidosと「導く」を意味するagoから作られたpaidagogikeに由来する。当時の哲学的な教育に関する研究を経て、時代を重ねることによって、教育学の領域は拡大してきた。それに伴って、教育の研究が科学的な手法に基づくべきであるという教育科学の概念も生じている。また、一部では「こどもの教育学 (pedagogy)」(ペダゴジー)と「大人の教育学 (andragogy)」(アンドラゴジー)とを対比させるむきもある。なお、pedagogyは、現在の英語圏では教授学・教授法の意味で用いられることが多く、教育学一般を意味するには教育そのものと同じeducationや教育の研究を意味するeducational researchなどが用いられることが多い。
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教育学
教育学は、基本的には、よりよく生きることのできる人間を育成する活動という研究対象によって定義され、研究方法によって定義される学問ではない。教育学は、哲学・歴史学・社会学・心理学・法学・行政学・経営学などの諸学問を基礎に据え、あるいは応用することで、さらなる発展と新しい視点を獲得してきたと言える。そのため、ときに個の「学」としての堅牢さが不十分であるとか、学問のアイデンティティーが未完成であるとかという指摘を受けることがある。例えば、哲学教育や心理学教育といった教育体系は成立し得るが、教育学に関する教育体系としての教育学教育や、あるいは教育学に関する教育を学問的に考究する教育学教育学などのような学問の成立にまでは至っていない。 一方、このアイデンティティーが未完成な状態の中にこそ、教育学の特質を見いだそうとする捉え方もある。教育学では、教育という媒介項を基に学際的知見を成立させることも可能である。このような学際性こそが教育学の特徴的な個性であり、教育の現象を論じるためには不可欠な態度であるとも言える。古来より、どのような社会にも教育は不可欠であり、教育に関する専門的知見は常に必要となる。その限りで教育学は不滅の学問である。もっとも、不滅の学問として単に学問的な伝統を維持することが重要なのではなく、必要に応えるべく高度な知的生産や探求の継続が求められる。 また、教授学、教材論、教育課程論などのような主題的な分野においては、「教育学における共通事項」というようなものが見られると言われることがある。 教育学の研究課題には、次のようなものが含まれる。 古代、中世においては、しつけや何かの知識、例えばラテン語の教え方のようなものを表していたが、宗教改革期に教育学者コメニウスによって、初めて近代的な教育学のひな型が作られた。コメニウスの『大教授学(英語版)』は、世界最初の体系的教育学概論書といわれている。『大教授学』は、すべての人に教育を届けるためラテン語に翻訳され、子供向けの教科書『世界図絵』という世界で最初の絵入り学習百科事典が付されていた。
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教育学
古代、中世においては、しつけや何かの知識、例えばラテン語の教え方のようなものを表していたが、宗教改革期に教育学者コメニウスによって、初めて近代的な教育学のひな型が作られた。コメニウスの『大教授学(英語版)』は、世界最初の体系的教育学概論書といわれている。『大教授学』は、すべての人に教育を届けるためラテン語に翻訳され、子供向けの教科書『世界図絵』という世界で最初の絵入り学習百科事典が付されていた。 近代の教育学は、18世紀以降のルソーやペスタロッチらによる教育論の展開を起点とすることがある。近代の日本における教育学は欧米の教育学の輸入として始まり、日本で初めて本格的に教育学を論じた書は、後に東京高等師範学校長となる伊沢修二の『教育学』(1882年)であった。
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美学
美学(びがく、英: aesthetics、またæsthetics、esthetics、エスセティクス、エステティクス、希: Αισθητική)は、18世紀に成立した哲学の一領域である。美の本質や構造を、その現象としての自然・芸術及びそれらの周辺領域を対象として、経験的かつ形而上学的に探究する。美的対象、美的判断、美的態度、美的経験、美的価値などが問題とされてきた。 日本においては、森鷗外により「審美学」という訳語が与えられたが、現在では美学と呼称される。 単に美意識、美的感覚を表すこともある。近年ではビジネス理論でも外観や雰囲気をあらわす言葉として用いられる(日本では主に片仮名のままエスセティクスと言われる)。また、日本語の「美学」は、本来の意味から転じ、高潔で優れた信念を持つ様を表すこともある。例えば、囲碁棋士の大竹英雄の棋風は「大竹美学」と称される。 伝統的に美学は「美とは何か」という美の本質、「どのようなものが美しいのか」という美の基準、「美は何のためにあるのか」という美の価値を問題として取り組んできた。科学的に言えば、感覚的かつ感情的価値を扱う学問でもあり、ときに美的判断そのものを指すこともある。より広義には、この分野の研究者たちによって、美学は「芸術、文化及び自然に関する批評的考察」であるとも位置づけられる。 美学が1つの学問として成立した歴史的背景には、18世紀に啓蒙主義の思想と自然科学の確立に伴って表面化した科学的認識と美的もしくは感覚的認識の相違が認められたことと関係している。アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンは理性的認識に対して感性的認識に固有の論理を認め、学問としての美学を形作った。後にカントは美学の研究について美的判断を行う能力としての趣味を検討し、趣味を支配する普遍的な原理は存在しないことから、美学を美そのものの学問ではなく美に対する批判の学問として位置づけた。ここから美学はシラー、シェリング、ヘーゲルなどにより展開された美に対する哲学的批判へと焦点が移行するが、19世紀から20世紀にかけて美の概念そのものの探究から個別の美的経験や芸術領域、もしくは芸術と他の人間活動との関係にも考察が及んでいる。
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美学
19世紀後半のドイツでは、美学から芸術の研究を独立させようと、芸術学(げいじゅつがく、独: Kunstwissenschaft、英: science of art)が提唱された。その後、美学は一般芸術学の主張を取り入れて変化し、今日では美学が哲学的であるのに対して、科学的・実証的な芸術研究を指して、芸術学と呼ぶようになってきている。 「美学」という術語が生まれたのは18世紀半ばである。学問名称は、哲学者アレクサンダー・バウムガルテンが用いたAesthetica(日本語に直訳すると感性学)に由来している。aesthetica という語は、古典ギリシア語 αἴσθησις(aisthesis)の形容詞 αἰσθητικ-ός(aisthtike)をラテン語化したもので、2つの語義を持っていた。1つは「感性的なるもの」であり、他方は、「学問」(episteme)という語が省略(ギリシア語での慣例による)された語義である「感性学」である。バウムガルテンがどちらの意味でこの語を使用しているかはその諸著においても曖昧であるが、遅くとも『美学』以降では、後者の意、さらに詳しく言えば「感性的認識論 scientia cognitionis sensitivae」の意で用いていることは明らかである。 バウムガルテンによれば「美は感性的認識の完全性」(『美学』14節)であるから、aesthetica(「感性的認識論」)は「美について考察する学 ars pulcre cogitandi」(同1節)である。一方、「完全な感性的言語 oratio sensitiva perfecta」(「詩」を指している)を典型とする芸術一般は美にかかわるから、aesthetica は「芸術理論 theoria artium liberalium」(同1節)である。 バウムガルテンの体系においては、美や芸術に関する学的考察である感性的認識論は、理性的認識論との対比において「疑似理性の学 ars analogi rationis」であり、「下位の認識論 gnoseologia inferior」(同1節)として位置づけられた。 引用 美学(自由学芸の理論、下級認識論、美しく思いをなす技術、理性類似物の技術)は、感性的認識学の学である。(第1節)
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バウムガルテンの体系においては、美や芸術に関する学的考察である感性的認識論は、理性的認識論との対比において「疑似理性の学 ars analogi rationis」であり、「下位の認識論 gnoseologia inferior」(同1節)として位置づけられた。 引用 美学(自由学芸の理論、下級認識論、美しく思いをなす技術、理性類似物の技術)は、感性的認識学の学である。(第1節) 美学の目的は、感性的認識そのものの完全性にある。然るに、この完全性とは美である。そして、感性的認識そのものの不完全性は避けられねばならず、この不完全性は醜である。(第14節) ギリシャ・ローマ時代には美学という明確な術語が存在しなかった。古代にも美と芸術は存在論、形而上学、倫理学、技術論などから捉えられたが巨視的な考察は乏しかった。また、古代における美学の捉え方は特定の局面の断片的または個別的なものにとどまっていたと考えられており、組織的な考察は行われてはいなかった。体系化された美学の淵源はプラトンにまで遡る。 哲学的美学(Philosophical Aesthetics)としての美学は、18世紀初頭、イギリスのジャーナリストジョセフ・アディソンが雑誌『スペクテイター』の創刊号に連載した「想像力の喜び」から始まったと言われている。 美学という哲学的学科を創始したのは、ライプニッツ・ヴォルフ学派の系統に属すドイツの哲学者バウムガルテン(A.G.Baumgarten,1714-62)である。バウムガルテンは1735年の著書で、美学に新しい概念を与え、詩の美学的価値の原理的考察を思考する学としてaestheticaという学を予告した。彼はフランクフルト大学で1742年から「美学」の講義を始め、その後も再度の講義要請があったことから、もとの講義内容に若干の加筆修正を行い、これをラテン語で出版した。『美学(Aesthetica)』第1巻は1750年、更に第2巻が1758年に出版された。この著書のなかで、バウムガルテンは芸術の本領が美にあり、その美は感性的に認識されるという考え方を示し、芸術と美と感性の同円的構造を打ち立てた。
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美学
18世紀に入って余暇活動が盛んになると、美学に関する広範な哲学的考察が本格的に展開された。初期の理論においてイマヌエル・カントは最も影響力を持っていた。ロマン主義の登場や政治革命の時代になると、これに関連した美的概念として、崇高性が評価されるようになった。崇高性はエドマンド・バークが "A Philosophical Enquiry into the Origin of our ideas of the Sublime and Beautiful "で理論化した概念である。 シェリングの『芸術の哲学』講義、ヘーゲルの『美学』講義などを経て、フィードラー(de:Konrad Fiedler)の「上からの美学」批判を受け、現代に至る。 現代美学において特筆すべきは、実存主義・分析哲学・ポスト構造主義によるアプローチであろう。分析哲学の手法を用いて美学的な問題を扱う学問は、分析美学と言われる。分析美学の主要なテーマの一つに芸術の定義がある。また、認知神経科学の一分野で、美学的体験や芸術的創造性について、認知神経学や心理学的アプローチにより研究する神経美学(英語版)がある。 日本における主要な美学関連学会としては美学会があり、雑誌『美学』(年4回)および欧文誌 Aesthetics (隔年)を発行している。毎年十月に行われる全国大会のほか、年5回関東および関西で研究発表会が開催される。なお2001年の国際美学会議(4年おき開催)は日本で行われた。 日本語の「美学」は、中江兆民がフランスのウジェーヌ・ヴェロン(フランス語版)の著作(1878年)を訳して『維氏美学』(上 1883年11月、下 1884年3月)と邦題を付けたことによる。日本の高等教育機関における美学教育の嚆矢は東京美術学校および東京大学におけるフェノロサのヘーゲル美学を中心とした講義、森林太郎(森鷗外)による東京大学におけるE. V. ハルトマン美学ら当時の同時代ドイツ美学についての講演、およびラファエル・フォン・ケーベル(ケーベル先生の呼称で知られる)による東京大学での美学講義である。また京都においては京都工芸学校においてデザイン教育を中心とする西洋美学および美術史の教育がなされた。なお東京大学は独立の一講座として大塚保治を教授に任命、美学講座を開いた世界で最初(1899年)の大学である。
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