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ハドソン
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1997年にはトレーディングカードの企画・開発・販売事業に乗り出し、同年4月にパイロットショップ「フューチャービー」を開店する。
1998年11月にメインバンクである北海道拓殖銀行が破綻して以降は資金繰りが難航して経営が悪化した。2001年にコナミ(現:コナミグループ)が筆頭株主になり、2005年には子会社化。その後2011年にコナミの完全子会社になり、翌2012年にはコナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、グループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い、KDEに吸収合併され、法人としてのハドソンは解散した。その後はブランド名としてハドソンの名が残されていたが、2013年年末に同ブランドが名実共に消滅する事となり、2014年1月よりコナミブランドに統一されている。
創業者の工藤裕司は北海道ニセコ町出身であり、日本大学理工学部卒業後、名古屋でサラリーマンをしていた。しかし在学中から行っていた、自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売するサイドビジネス「グループハドソンプロダクション」で、資金管理に関して無知だったために信頼していた人間に金を持ち逃げされるなどトラブルを多く抱え、本業も退社し、失意の内に帰郷していた。
1973年5月18日、札幌市豊平区に通信機器と美術写真の販売を目的とした、有限会社ハドソンとして創業。同年9月にアマチュア無線ショップCQハドソンを開店。当初は喫茶店を開業するつもりだったが、同一建物内で別の借り主が喫茶店を開業したため、急遽無線ショップに変更したとも言われている。
なお、上記のトラブルを踏まえ信用できる人間を使うという意味で、当時北海学園大学法学部2年生だった実弟の工藤浩を中退させ、経営サイドに引き込んでいる。ただし、アマチュア無線販売時代のハドソンはほぼ毎月赤字だった。
工藤が最も気に入っていた蒸気機関車「C-62(シーロクニ、シロクニ)」の車軸配置「車輪配置 4-6-4」の愛称、"ハドソン"がそのまま社名になった。また、ハドソンの代表電話の下4ケタは4622。ハドソン東京営業所の入り口が駅風の看板がある事も似たような理由がある。
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ハドソン
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工藤が最も気に入っていた蒸気機関車「C-62(シーロクニ、シロクニ)」の車軸配置「車輪配置 4-6-4」の愛称、"ハドソン"がそのまま社名になった。また、ハドソンの代表電話の下4ケタは4622。ハドソン東京営業所の入り口が駅風の看板がある事も似たような理由がある。
1970年代末、工藤裕司がアメリカでのホビーパソコンのブームを伝える雑誌記事を目にし、米国への視察旅行を行い、そこで高額なパソコン「POLY88」を購入し持ち帰った。無線機器の販売だけではなく、付加価値をつけた商売の必要性を感じたためであった。
その後、パソコンの販売はもとより、アメリカ視察で購入したパソコンで組んだソフトウェアの制作・販売を手掛けるようになり、1978年には日本で初めてパソコン用パッケージゲームソフトの開発・販売業務を行うようになる。当時は、同じ電子機器を扱っているからという理由で多くのアマチュア無線ショップがパソコン販売会社に鞍替えしていた。
ソフトウェアに関しては、当初はパソコンを購入した客が自力でプログラムを開発できない場合のおまけとしての存在だった。この時点のハドソンにはまだ開発用の機材がほとんど無く、顧客に販売するコンピュータを納品の前日にこっそり開梱しプログラムを打ち込み、当日朝には再度梱包して納品するという、ある種の自転車操業を行っていたこともある。なお、ソフトは店頭販売も行っていたが、ローカル都市の1ショップであり広告宣伝もさほど行っていなかったため、知る人ぞ知るという状況だった。
一方で、ショップは次第に、北海道大学の学生などを主とした札幌市内のパソコンマニアの溜まり場となった。後にハドソンに入社してボンバーマンの生みの親となる中本伸一など、一部の学生はアルバイトとして自らソフトを開発し、それらのソフトも店頭で販売するようになったが、「いつ潰れてもおかしくない資金繰り」だった。
しかし1979年、ハドソンが扱っていたパソコンの販売元シャープの勧めで、「月刊マイコン」(電波新聞社)昭和54年7月号にオリジナルソフトウェアの通信販売広告を掲載すると一転、郵便局員が毎日のように現金書留の詰まった白い袋を担いで来る状況になり、莫大な利益を得ることになった。当時のハドソン社内では郵便局員を「サンタクロース」と呼んでいた。
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ハドソン
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しかし1979年、ハドソンが扱っていたパソコンの販売元シャープの勧めで、「月刊マイコン」(電波新聞社)昭和54年7月号にオリジナルソフトウェアの通信販売広告を掲載すると一転、郵便局員が毎日のように現金書留の詰まった白い袋を担いで来る状況になり、莫大な利益を得ることになった。当時のハドソン社内では郵便局員を「サンタクロース」と呼んでいた。
以降、パソコンソフト開発で高い技術力を発揮し精力的に作品を発表し、一躍ハドソンは日本を代表するパソコンソフトメーカーとしての認知を得る。ただし、当初は主にシャープのMZシリーズ、X1シリーズ用のBASIC(Hu-BASIC)などを手掛けており、日本で圧倒的な人気があったNECのPC-8000シリーズ用のソフトを開発していなかった。そのため、ハドソンの名前は当時のパソコンのライトユーザーには浸透していなかった。
1981年には孫正義率いるパソコンソフトの流通会社である日本ソフトバンクと独占契約を結び、上新電機を始めとする全国の主なパソコン販売店の店頭でソフトウェアが販売される体制を確立した。なおソフトバンクの歴史でハドソンの存在は必要不可欠と言われており、現在も孫は工藤兄弟を「恩人」と呼び、事ある毎に礼を欠かしていない。なお、日本ソフトバンクのソフトウェア流通部門はその後紆余曲折を経て、2020年現在はSB C&Sの一部となっている。
1983年に任天堂が家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータを発売。ハドソンはこの時期にファミコン向けBASIC言語「ファミリーベーシック」を共同開発した。これを契機にファミリーコンピュータ用ゲームソフト開発に乗り出す。
主にパソコンソフトの開発者をそのままファミコンソフトの開発担当としたため、ハドソンのパソコン事業は徐々に規模を縮小していくことになったが、この方針転換は、当時専務だった工藤浩がデパートの丸井今井札幌店(当時はハドソンのアンテナショップも置かれていた)にてファミコンの『ドンキーコング』を遊んでいる子供たちを見て、このゲーム機はいずれパソコンでのゲームを追い抜くと判断したことによるもので、創業者の工藤裕司もその判断を支持したためである。
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ハドソン
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事実上、初のサードパーティーとなったことで、初期参入会社と同様に、任天堂からソフトの年間発売制限数の緩和やロイヤリティなどの優遇措置を受けることになり、ハドソンはファミコン黎明期にヒット作を連発し、ファミコンのソフトメーカーとして一躍名を馳せる。
他会社と決定的に違ったのは、社内に自由な空気があり、積極的に独自の企画を生み出したことである。全国各地を巡業するゲーム大会「ハドソン全国キャラバン」や、16連打でスイカを割る「高橋名人」は小学館の『コロコロコミック』を筆頭に児童誌でも大々的に取り上げられ、高橋を題材にした『高橋名人の冒険島』の他にも『忍者ハットリくん』や『ドラえもん』『ロードランナー』『桃太郎伝説』などが100万本以上のミリオンセラーを記録するなど、ファミコン人気を決定的なものにした。
PCエンジンには『原人シリーズ』や『桃太郎シリーズ』『天外魔境シリーズ』『ボンバーマンシリーズ』等の代表的な作品・シリーズだけでなく『R-TYPE』『イースI・II』など極めて完成度の高い移植も手掛けている。初めての分野や技術にも積極的に挑戦し、1988年12月には世界で初めてCD-ROMを媒体としたゲームソフトを開発・発売した他、2000年8月にはコンシューマーゲーム初のMORPG『ルーンジェイド』を発売した。
その他にも『スーパー桃太郎電鉄III』や『桃太郎電鉄7』がミリオンを達成したり、1998年の時点でボンバーマンシリーズが累計販売本数1000万本を突破するなど、様々なプラットフォームでゲームソフトを供給するソフトメーカーの雄として存在を示した。
2005年にコナミの子会社となった以後も吸収されるまでゲームソフトの供給を続けており、2008年発売のWii用ゲームソフト『DECA SPORTA Wiiでスポーツ"10"種目!』は全世界累計約277万本を販売し、以後シリーズ化された。
ハドソンは本来、技術者の集団ということもあり、任天堂のサードパーティーとして、ファミコンブームの立役者としての立場に甘んじる事無く、独自のハード作りにも乗り出した。
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ハドソン
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ハドソンは本来、技術者の集団ということもあり、任天堂のサードパーティーとして、ファミコンブームの立役者としての立場に甘んじる事無く、独自のハード作りにも乗り出した。
1987年に日本電気ホームエレクトロニクス(NEC HE)と共同開発した家庭用ゲーム機PCエンジンは、ハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれるHuC62シリーズを搭載しており、実質ハドソンが開発したゲーム機である。
PCエンジンは、当時のライバル機である任天堂のスーパーファミコン(全世界累計4,910万台)やセガのメガドライブ(全世界累計3,075万台)と、日本を含め世界市場で覇権争いを展開した。全世界累計の販売台数は1000万台を記録しており、ライバル機の売上には及ばないものの、競合をはるかに凌駕する「美麗なグラフィック」「高音質な楽曲・音声セリフ」「CD-ROMドライブによる大容量ゲーム」などを実現するなど、一時代を築いた名機として成功といえる結果を残した。
1994年12月に発売された、後継機種である次世代ゲーム機『PC-FX』の音源や動画処理などのチップセットも、PCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用された。しかし当時、次々と発表された競合ハードであるPlayStation、セガサターン、NINTENDO64の3D性能に対抗すべく急遽PC-FXに搭載する予定だった3Dポリゴン用チップの開発が間に合わず、結果としてPCエンジンの延長線上である従来型の2Dゲーム路線のソフト開発がメインになってしまうなど、急速に発展する3Dゲーム市場からは後塵を拝してしまう。
本機を最後に、ハドソンはハード開発から撤退する事になったものの、長年NEC HE系列のファーストパーティー的な存在であり続けた。
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ハドソン
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本機を最後に、ハドソンはハード開発から撤退する事になったものの、長年NEC HE系列のファーストパーティー的な存在であり続けた。
1991年にコンピュータプログラマー、デザイナーの養成を目的に「ハドソンコンピュータデザイナーズスクール株式会社」を設立し同スクールを開校、コンピュータゲームに関わる人材を養成していたが、1997年に同社を「株式会社フューチャービー(後に株式会社未来蜂歌留多商会に商号変更)」とし、トレーディングカードの企画・開発・販売事業に乗り出した。同年4月には東京都千代田区にあるサンポウ水道橋ビルの2階にトレーディングカードを扱うパイロットショップ「フューチャービー」を開店し、後に全国に展開された。
また1991年から札幌の老舗デパート丸井今井のデータウェアハウス構築に協力しており、その流通向けデータベース・マーケティングシステム開発のノウハウを活かしてデータウェアハウス用パッケージソフト「P2/S」を開発した。
1992年には札幌芸術の森アートビレッジ内に、将来を担う最新テクノロジーの研究開発部門であるハドソン中央研究所(コア・テクノロジー事業部)を設立し、ゲーム機用半導体開発、ゲーム開発環境の整備などを行っていた。その一方同研究所は1997年に育成散歩計「てくてくエンジェル」を開発し、日経産業新聞優秀賞を受賞。その他にも筑波大学の徳永隆治らと共同で画像圧縮技術「Hybrid Vector Quantization(HVQ)」及び動画圧縮技術「HVQM」を開発した。
さらに2002年には、日本ビクターと共同でCD-ROMコピー防止技術「ROOT」を開発する、株式会社イーブックイニシアティブジャパンと共同で独自のフォーマット形式の電子書籍を閲覧するソフトウェア「ebi.BookReader」を開発するなど、ゲーム業界だけではなく様々な業界に関わる技術開発を行っていた。
1990年代末、メインバンクだった北海道拓殖銀行の破綻により資金繰りが悪化。2000年3月よりiモード用のゲームコンテンツ配信を開始するなど、携帯電話向けの事業に乗り出すが、経営状態は好転せず、2000年代に入ってコナミの資本が入るようになり、2004年には創業者が経営から完全に手を引き、2005年にはコナミの子会社となる。同時に特徴的であった「自由な社風」も社内から無くなった。
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1990年代末、メインバンクだった北海道拓殖銀行の破綻により資金繰りが悪化。2000年3月よりiモード用のゲームコンテンツ配信を開始するなど、携帯電話向けの事業に乗り出すが、経営状態は好転せず、2000年代に入ってコナミの資本が入るようになり、2004年には創業者が経営から完全に手を引き、2005年にはコナミの子会社となる。同時に特徴的であった「自由な社風」も社内から無くなった。
2007年に本社を東京ミッドタウンに移すがヒット作がほとんどなく、2008年には社長を退任した遠藤やマリオパーティシリーズのスタッフがエヌディーキューブに移籍。コナミの完全子会社になった2011年は、開発ラインナップに家庭用ゲーム機向けタイトルが無くなったことで高橋名人が退社。
さらに、『桃太郎シリーズ』のゲーム監督さくまあきらも、長年付き合いのあった桃太郎電鉄の開発チーム「Team Kawada」に在籍するハドソン社員の多くが退社したり、ハドソンを吸収合併したKDE-Jに在籍する社員との間に発生したトラブルにより、コナミとの確執を経て決別。事実上、桃太郎シリーズ打ち切りと同シリーズの著作権をコナミと他社に譲渡せず、一旦「永久に封印する」という事態が起きた。
そして翌2012年3月1日に、コナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、コナミグループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い、KDEに吸収合併する形で法人としてのハドソンが消滅した。
なお、法人消滅後も当初は体裁上ハドソンブランドのサービスは継続されていたが、バーチャルコンソールでのラインナップの追加以外には目立った動きはあまりなく、2013年末をもってハドソンブランドが消滅。これらのアーカイブも全てコナミブランドに統一され、翌年の2014年元日付けでハドソンブランドの公式ホームページも閉鎖され、名実共に40年7か月の歴史に幕を下ろした。
2014年にコナミブランドに統一された後から現在に至るまで、旧ハドソンブランドのシリーズ作品が新たに発売されている。ただし、ハドソンが開発・販売をしていた時とは携わっているスタッフが異なる場合が多く、現時点(2022年6月現在)ではいずれの作品も従来のシリーズとは路線の異なる部分が少なくない。
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ハドソン
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2014年にコナミブランドに統一された後から現在に至るまで、旧ハドソンブランドのシリーズ作品が新たに発売されている。ただし、ハドソンが開発・販売をしていた時とは携わっているスタッフが異なる場合が多く、現時点(2022年6月現在)ではいずれの作品も従来のシリーズとは路線の異なる部分が少なくない。
コナミブランド統一後(2014年以降)の各シリーズの展開については、各シリーズの記事を参照。
ハドソンの社名の由来は、熱狂的な鉄道ファンでもあった創業者・工藤裕司が、国鉄C62形蒸気機関車のハドソン形という車軸配置から取ったものである。
工藤は大学在学中からサラリーマン時代にかけて、サイドビジネスとして自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売しており、その際に用いていた社名も「グループハドソンプロダクション」だった。
工藤の鉄道趣味は留まることを知らず、社名のみならずハドソンの社内にも鉄道関連のトリビアが溢れていた。社長室には常時組み立て中の鉄道模型が置かれ、工藤がC62形の2号機が好きだったことから、本社の入口にもC62の部品の一部が飾られていた。また、会社の代表電話番号の末尾4桁は4622で、さらには郵便番号をC62にちなんだ「062」にするため、本社をわざわざ北海道札幌市豊平区に置くという独特の拘りぶりだった。また、かつて札幌芸術の森に隣接したアートビレッジにあったハドソン中央研究所(コア・テクノロジー事業部)の屋上にはライブスチームの線路が敷設され、専属のメカニックが配置されていたほか、研究所の大会議室ではテーブル中央に鉄道模型のジオラマが置かれC62の模型が走っていた。その模様はNHKスペシャル『新・電子立国』でも取り上げられた。
1988年から1995年までC62ニセコ号を運行していた北海道鉄道文化協議会(通称:鉄文協)ではスポンサーの一社を務めていた。C62運行のスポンサーが集まらず、鉄文協が「おたくの社名のハドソンというのは、C62の車軸配置の通称なんですよ。その縁で協力してもらえませんか?」と依頼したところ、そこで初めて工藤もC62好きであることを知り、二つ返事で協力に至ったという。
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ハドソン
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1988年から1995年までC62ニセコ号を運行していた北海道鉄道文化協議会(通称:鉄文協)ではスポンサーの一社を務めていた。C62運行のスポンサーが集まらず、鉄文協が「おたくの社名のハドソンというのは、C62の車軸配置の通称なんですよ。その縁で協力してもらえませんか?」と依頼したところ、そこで初めて工藤もC62好きであることを知り、二つ返事で協力に至ったという。
また、他の趣味として古銭の収集があり、社内に「東洋鋳造貨幣研究所」という古銭専門の研究所を設け、ハドソンの文化事業の一環として中央研究所の建物内に庶民の穴銭資料館「方泉處(ほうせんか)」という古銭博物館を開設していた他、博物館名と同じ「方泉處」という季刊の研究誌(1992年 - 1998年)も発行していたが、1990年代末に経営難に陥って以降はこれらの活動は順次的に廃止されていった。方泉處という名前は、展示の元になっていた工藤のコレクションの保管箱に付けられた名前「方穿貨(ほうせんか)」が由来となっている。
1980年代半ばのハドソン関係者が口々に言う「会社の自由な空気」は社員のみならず、社長自身もそれを体現していた。中でも1986年当時の社員旅行はバブル景気(バブル経済)の過度期であったこともあり、「貸切ジェット機でハワイ旅行」という、一般企業ではあまり類のないものであった。
『迷宮組曲 ミロンの大冒険』を制作し、後に同社のサウンド部門のプロデューサーとなった笹川敏幸は「自由な空気」について「とっても些細なことに、とことんこだわってみる。究極までやりつくしてみる。」という遊び心があったと語っている。
社章は蜂で、「ハチ助」とも呼ばれている。ハドソンのゲームソフトにボーナスキャラ・隠れキャラとして古くから数多く登場している。由来は、北海道のアマチュア無線のエリア番号が「8(はち)」であるため、同音である「蜂」を採用したと言われている。高橋名人によると当初は「CQハチ助」と呼ばれていた(これは高橋の勘違いであり、実際は「JA8スケ」である。理由は当時のアマチュア無線の北海道のコールサインがJA8で始まっていたことによるものである)。
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ハドソン
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1996年5月18日よりハドソンのCIロゴの表記が「HUDSON GROUP HUDSON SOFT」から「HUDSON」に変更された。高橋名人によるとその理由は「HUDSONのみの表記にすることで、全体的なCIロゴサイズを変更しなくてもハチ助を大きくレイアウト出来るから」だという。
2007年にはハチ助をモチーフとしたアーバンライフスタイルブランド「8SK(ハチスケ)」が立ち上げられ、Tシャツやキャップが公式サイトなどで販売されていた。
「ハドソン全国キャラバン」とは、ハドソンが国内大手の電子部品メーカーのTDKとの協賛で1985年から行っていたゲーム大会のこと。
最大の特徴は「キャラバン」の名にふさわしく、北海道から沖縄まで全国各地を巡業していた事である。各都道府県の政令指定都市にとどまらず、他の都市でも行われた。最大は第2回の40都道府県・65会場である。
2009年4月から2011年4月末まで、2本社体制となっていた(登記上本店は東京本社)。かつては、大阪、名古屋、福岡等にも事業所を設置していた。市谷田町に札幌市時計台を模した東京支社ビルを擁していた時期もある。
これらは、HuC62シリーズとしてPCエンジンのチップセットとして使われた。
実用ソフト
プログラミング言語、OS
任天堂製ファミコンソフトの移植(アレンジ移植を含む)
16ビットパソコン用ソフト
ゲーム
日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)との共同開発。
(★は筆頭提供番組、それ以外は複数社提供)
工藤裕司(1947年4月6日 - )北海道ニセコ町生まれ:ハドソン創業者。現在のペンネームは三遊亭あほまろ。趣味については#社長の趣味と企業風土を参照。
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ダウト
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ダウトは、複数人で遊ぶトランプゲームの一つ。各々がカードの数字を読み上げながら裏返しに出していき、それがウソである(読み上げられた数字が出したカードの数字と違う)と思った参加者が「ダウト!」と叫んでウソを暴くのが特徴のゲームである。
西洋のカードゲームBullshitが日本に伝わったもので、日本語のゲーム名「ダウト」は、英語でのゲームの別名 "I Doubt It" のDoubt(ダウト)の単語に由来する。大阪、兵庫などの関西圏ではダウトが訛った座布団の名称で呼ばれる。その名前から由来して座布団の上にカードを出す遊び方をする。
各プレイヤーの手札が少なくなるにつれて、順番に対応するカードを出せる確率が低くなっていくので、他のプレイヤーに「ダウト」をかけられやすくなる。しかし、プレイヤー全員の手札が少なくなった状態で自ら「ダウト」をかけることは既に出された札が多いわけであり、出された札をすべて引っ込めなければならなくなった時の敗戦の危険性が高くなる。途中「ダウト」が迫っても出す順番は一定であることを利用して、順番に対応するカードがどれになるのかを各プレイヤーが瞬時に予測し、いつダウトのカードを出すか、いつ「ダウト」とコールするのか、などの戦略がこのゲームの勝敗において重要な鍵を握る。
以下のようなルールも存在する。
等のバリエーションルールもある。
ゼロ和ゲームなので理論上はいつまでも続けることができ、「終わらないゲーム」の代名詞として使われることがある。特に、3人以下でするとなかなか終わらないため、ダウトをして実際に正しくない場合、相手が自分の手札から2枚引き、正しい場合は自分が相手の手札から2枚引くという方法を使う場合がある。
4枚手札に揃っている数字は絶対にダウトが成功するので、確実にカードを押し付けることができる。
また「ダウト」宣言で数字を持ち越すルールでは使えないが、A~Kを全て手札に揃えると13ターンの間に相手が上がらない限り勝つことができる。
欧米ではこれに似たゲーム「チート」がある。こちらは基本的なルールはダウトと一緒だが、出したカードが対応していないと思っても自分の前の人にしかコールすることができない。
なおこのゲームのコールは「チート」である。
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ダウト
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また「ダウト」宣言で数字を持ち越すルールでは使えないが、A~Kを全て手札に揃えると13ターンの間に相手が上がらない限り勝つことができる。
欧米ではこれに似たゲーム「チート」がある。こちらは基本的なルールはダウトと一緒だが、出したカードが対応していないと思っても自分の前の人にしかコールすることができない。
なおこのゲームのコールは「チート」である。
日本では1907年(明治40年)に書かれた書物である世界遊戯法大全にDoubt It!の和訳として「そうですか」の名前で紹介されている。この遊びでは「ダウト」ではなく「そうですか」の掛け声を掛ける。
1981年版の開隆堂出版発行の中学英語教科書New Prince1年で取り上げられた。
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さらば国分寺書店のオババ
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『さらば国分寺書店のオババ』(さらばこくぶんじしょてんのオババ)は、椎名誠のエッセイ。椎名の作家としてのデビュー作であり、また昭和軽薄体を用いたスーパーエッセイの代表作である。
この本は当時情報センター出版局に勤務していた星山佳須也の依頼によって、シリーズ「Century press」(センチュリープレス)の一冊として書かれた。星山が三五館という出版社を立ち上げると、義理と人情によって版元をそちらに移した。椎名と星山はこの本は文庫化しないと約束していたが、1996年に、二人の義理を壊さない形で新潮文庫に収められた。
また、この本が出て3、4年後に、椎名は『帰ってきたオババの逆襲』という本を書き下ろそうとし、少し書き始めたが、結局完成には至らなかった。
ちなみに、椎名はこの本の出版以前に『クレジットとキャッシュレス社会』『クレジットカードの実務知識』『大規模小売店と流通戦争』という3冊の本を書いている。しかし、いずれも椎名の前職である流通業界に関連する実用書であるため、デビュー作としては本書が紹介されることが多い。また、椎名自身も本書を「モノカキとしての実質的なデビュー作」と認識している。
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宇多田ヒカル
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宇多田 ヒカル(うただ ヒカル、1983年〈昭和58年〉1月19日 - )は、日本の歌手、シンガーソングライター、ミュージシャン、音楽プロデューサー。本名:宇多田 光(読み同じ)。愛称はヒッキー。音楽プロデューサーの父・宇多田照實と歌手の母・藤圭子の下、アメリカ合衆国ニューヨークで生まれた。所属芸能事務所はU3MUSIC。所属レーベルはエピックレコードジャパン。ロンドン在住。
1998年末に15歳でCDデビューし、デビューシングル「Automatic/time will tell」は、ダブルミリオンの大ヒットを記録。1stアルバム『First Love』は累計売上枚数765万枚を超え(オリコン調べ)、日本国内の歴代アルバムセールス1位になっているほか、2ndアルバム『Distance』では初週売上枚数が歴代1位となる300万枚(オリコン調べ)を記録している。2007年発表の「Flavor Of Life」は当時のデジタル・シングルのセールスにおいて世界1位を記録した。また、『日本ゴールドディスク大賞』「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を、2000年と2003年に受賞している。
2010年に「人間活動」として翌年以降の音楽活動休止を発表。結婚・出産を経て、2016年に活動を再開し、復帰作『Fantome』はその年の『Billboard JAPAN年間総合アルバムチャート』で1位を獲得したほか、『第9回CDショップ大賞』で「大賞」を、『第58回日本レコード大賞』で「最優秀アルバム賞」を受賞した。また、2018年に発売した7thアルバム『初恋』とその他の成果により、第69回芸術選奨で大衆芸能部門にて「新人賞」を受賞している。
2018年現在までに、『First Love』『Distance』『DEEP RIVER』『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』『Fantome』の5作品がオリコンまたはBillboard Japanの年間アルバムチャートで1位になっている。
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宇多田ヒカル
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2018年現在までに、『First Love』『Distance』『DEEP RIVER』『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』『Fantome』の5作品がオリコンまたはBillboard Japanの年間アルバムチャートで1位になっている。
1983年1月19日に、アメリカ合衆国ニューヨークに生まれた。親の仕事の関係で、小さい頃から東京とニューヨークを頻繁に行き来していたという。家族の生活は音楽を中心に回っていたといい、宇多田は小学校低学年の頃からスタジオで宿題をしたりご飯を食べたりソファーで寝たりしていた。その中で、「光、ここちょっと歌ってくれない?」と頼まれ、親の楽曲で歌ったりすることもあった。
1990年に藤圭子(RA U)、宇多田照實(SKING U)、宇多田ヒカル(HIKASO U)の家族3人ユニット「U」を結成。1993年9月17日に当時10歳の宇多田ヒカルもボーカルとして参加し、ニューセンチュリーレコードの前身であるセンチュリーレコードからUとしてロック曲を収録したスタジオ・アルバム『STAR』を発売して日本デビューしている。またこの頃、「自分で作ってみたら」と言われて「I'll Be Stronger」という楽曲で初めて作詞作曲した(英語詞)。
1995年になると宇多田ヒカルが母親の代わりにメインボーカルとなり、「cubic U」名義としてインディーズのレコードレーベルから作品をヨーロッパやアメリカ合衆国で発売し、翌年にかけて合計3枚のレコードと1枚のマキシシングルを発表。日本では1996年9月26日には日本クラウンから藤圭子 with cubic Uとしてシングル「冷たい月 〜泣かないで〜」を発売。1997年1月、アメリカで「Cubic U」としてシングル「Close To You」(「遙かなる影」のカバー)、次いでアルバム『Precious』を発売。
同年秋、東京のスタジオでレコーディングしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰の目に留まり、「日本語でやってみない?」という誘いにより日本デビューが決まった。なお、Cubic Uの日本盤として1998年1月16日にシングル、1月28日にアルバムを発売しているほか、NHK-BS2の『新・真夜中の王国』でテレビ初出演している。
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宇多田ヒカル
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同年秋、東京のスタジオでレコーディングしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰の目に留まり、「日本語でやってみない?」という誘いにより日本デビューが決まった。なお、Cubic Uの日本盤として1998年1月16日にシングル、1月28日にアルバムを発売しているほか、NHK-BS2の『新・真夜中の王国』でテレビ初出演している。
1998年10月、FMラジオレギュラー番組『Hikki's Sweet&Sour』と『WARNING HIKKI ATTACK!!』が放送開始(いずれも1999年3月放送終了)。
12月9日、「宇多田ヒカル」として1stシングル「Automatic/time will tell」発売。当時は(J-POPにおいて)8cmシングルから12cmシングルへと移行し始めた過渡期にあったため、8cm盤と12cm盤の2形態で発売した。また、当時のオリコンチャートも8cm盤と12cm盤を個別に集計していたため、12cm盤が12位、8cm盤が20位であった。ところが、ラジオ放送局へのプロモーションが功を奏して日本国内各地のFMラジオ局がヘヴィー・ローテーションしたことや外資系CDショップがプッシュしたこと、作詞作曲を手掛ける15歳の帰国子女が藤圭子の娘であることがマスメディアに大々的に取り上げられたことなどによって瞬く間に人気を得て、社会現象と化した。1stシングルは1999年2月8日付のオリコンチャートで売上枚数100万枚を突破してミリオンセラーとなった。その後、8cm盤・12cm盤を合わせた売上枚数は200万枚を突破した。1999年2月17日に2ndシングル「Movin' on without you」を発売し、3月1日付オリコンチャートにおいて12cm盤が初の1位となった。
1999年3月10日、1stアルバム『First Love』を発売。初週売上枚数は200万枚を突破し、その後も数十万単位で売れ続けて日本国内の歴代アルバムチャート1位となる。売上枚数は日本国内のみでおよそ765万枚、日本国外も含めるとおよそ990万枚と言われている。4月28日にはアルバムからタイトル曲「First Love」をリカットした。
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宇多田ヒカル
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1999年3月10日、1stアルバム『First Love』を発売。初週売上枚数は200万枚を突破し、その後も数十万単位で売れ続けて日本国内の歴代アルバムチャート1位となる。売上枚数は日本国内のみでおよそ765万枚、日本国外も含めるとおよそ990万枚と言われている。4月28日にはアルバムからタイトル曲「First Love」をリカットした。
新人ながらこのような爆発的なヒットを達成した背景として、当時流行していた「だんご3兄弟」の影響で普段レコード店に足を運ばない層が多数CDを買い求めたとも理由の一つと報じられている。
ここまで本人のメディア出演は学業と両立させていくためラジオや雑誌に限られていたが、6月18日の『ミュージックステーション』を皮切りに『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』、『SMAP×SMAP』などのテレビ番組に出演し、いずれも番組最高視聴率を記録した。11月10日にジャム&ルイス(Jam & Lewis)プロデュースによる4thシングル「Addicted To You」を発売。オリコンシングルチャートの初週売上枚数106.8万枚は当時歴代2位の記録であった。
2000年、NHK放送文化研究所が実施した「好きなタレント調査」において調査開始以来初のケースとなる圏外からの一気に1位(女性タレント部門)を獲得した。『第72回選抜高等学校野球大会』入場行進曲に「First Love」が使用された。5月に発表された1999年度の高額納税者において納税額2億6564万円で全国89位、芸能人では1位となった。本業の収入で全国100位以内に登場した10代は、史上初である。5thシングル「Wait & See 〜リスク〜」、6thシングル「For You/タイム・リミット」を発表(「タイム・リミット」はTAKURO(GLAY)との共作)。7月から8月にかけて初の全国ツアー『BOHEMIAN SUMMER 〜宇多田ヒカル Circuit Live 2000〜』を開催。9月にはコロンビア大学へ入学した。
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2001年、7thシングル「Can You Keep A Secret?」を発表し、主題歌となったドラマ『HERO』にカメオ出演した。3月28日に発売した2ndアルバム『Distance』は浜崎あゆみのベスト・アルバム『A BEST』と同日発売であったことから大きな話題を呼んだ。初週売上枚数はオリコンアルバムチャート歴代1位となる300万枚を記録した。7月25日にはアルバム『Distance』の表題曲をアレンジした8thシングル「FINAL DISTANCE」を発売。映画『ラッシュアワー2』(Rush Hour 2)サウンドトラックに「Hikaru Utada feat. Foxy Brown」名義で「Blow My Whistle」を提供。MTVジャパン初制作となる『MTVアンプラグド』に出演した。TezukaOsamu@Cinemaで配信されたインターネットアニメ『ブラック・ジャック』においてピノコ役に起用された。アメリカのニュース雑誌『TIME』アメリカ版の2001年9月15日特別増刊号「Music Goes Global」でU2のボノ(Bono)、ビョーク(Björk)らとともに表紙を飾り、アジア版12月17日号では単独で表紙を飾った。11月28日には9thシングル「traveling」とライヴDVD『Utada Hikaru Unplugged』を同時発売した。
2002年1月31日、『世界経済フォーラム』のオープニングセレモニーでクインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)とフィル・ラモーン(Phil Ramone)指揮のもとライヴパフォーマンスを披露し、2月18日には総理大臣官邸で開かれたジョージ・W・ブッシュ(George Walker Bush) 大統領(当時)来日を歓迎するレセプションに招待された。また、アメリカのレコードレーベルであるアイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループ(The Island Def Jam Music Group)と専属契約を結んだことを発表、同時に2001年からコロンビア大学を休学していることが明かされた。3月20日に10thシングル「光」を発売。
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11thシングル「SAKURAドロップス/Letters」発売直前にシングルと3rdアルバムのプロモーション活動中止を発表。理由は4月に行った卵巣腫瘍(良性)摘出手術後の治療による副作用が予想以上にあったことである。なお、シングル及びアルバム『DEEP RIVER』は予定通り発売した。アルバムは初週売上枚数235万枚(プラネットは189万枚)を記録してトリプルミリオンを達成し、オリコン年間アルバムチャート1位を獲得した。9月6日にはミュージック・ビデオやディスクジャケットをともに製作してきた紀里谷和明との結婚を発表した。
自身20歳の誕生日となる2003年1月19日にライヴ・ストリーミング『20代はイケイケ!』を開催。トークとミニライヴが行われ、当日にはおよそ100万件のアクセスを記録し、DVD化した。1月29日には12thシングル「COLORS」を発売。3月26日発売の『くずアルバム』にはコーラスで参加した。3月29日発売のコズミック・デブリ(Cosmic Debris)による絵本『エミリー・ザ・ストレンジ』(Emily The Strange)では翻訳を担当している。
2004年、日本武道館5日間公演となるライヴ『Utada Hikaru in BudoKan 2004 「ヒカルの5」』を開催。3月24日に発売された尾崎豊のトリビュート・アルバム『"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』では「I LOVE YOU」をカバーした。3月31日に『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』を発売、4月21日には映画『CASSHERN』主題歌となった13thシングル「誰かの願いが叶うころ」を発売して日本国内の活動に一区切りをつけた。
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「Utada」として全米デビュー前に、アテネオリンピックのオフィシャル・アルバム『UNITY』に参加。「ティンバランド&カイリー・ディーン&UTADA」(TIMBALAND & KILEY DEAN & UTADA)として「By Your Side」を提供した。ティンバランドやジョン・セオドア(Jon Theodore、当時のマーズ・ヴォルタメンバー)がプロディース参加した全米デビュー・アルバム『エキソドス』(EXODUS)は9月8日に日本盤が先行発売し、オリコンチャート初登場1位を獲得してミリオンセラーにもなった。アメリカ盤は10月5日に発売した。
2005年、日本国内の活動再開となる14thシングル「Be My Last」を9月28日に発売し、15thシングル「Passion」を12月14日に発売した。また、ライヴとトークを期間限定でネット配信した。
2006年、16thシングル「Keep Tryin'」を発売。6月14日には4thアルバム『ULTRA BLUE』を発売し、7月から9月にかけて全国ツアー『UTADA UNITED 2006』を開催。期間限定のブログも開設した。『ULTRA BLUE』はオリコンチャート初登場1位を獲得、1stアルバムから5作連続で初動セールスが50万枚を突破した。また、台湾のJ-POPチャートでも初となるアルバム5作連続1位になっている。11月22日にはNHK『みんなのうた』10月〜11月のうたに使用された「ぼくはくま」をシングル発売し、pom ponetteとコラボレーションしたチャリティー企画『「ぼくはくま」オリジナルT-シャツコンテスト』を開催し、グランプリに輝いたTシャツを商品化。すべてのTシャツ収益は世界の子どもにワクチンを日本委員会に寄付された。
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2007年、ドラマ『花より男子2(リターンズ)』イメージソングを収録した18thシングル「Flavor Of Life」を発売。オリコンチャートは3週連続1位となったほか、音楽配信では当時の邦楽新記録を樹立し、9月までには当時のデジタル・シングル世界一のセールスになった。一方、私生活では紀里谷和明との離婚を発表している。19thシングル「Beautiful World/Kiss & Cry」は映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』テーマソングと「This Is Love」に続き起用された日清食品カップヌードル「FREEDOM-PROJECT」CMソングを収録。また、ニーヨ(Ne-Yo)がUtadaをフィーチャーしたデジタル・シングル「ドゥ・ユー feat. Utada」が11月21日から配信開始。12月9日のデビュー記念日を迎えるにあたり、デビュー曲「Automatic」の着うたを4日間限定で無料配信し、50万ダウンロードを記録した。
2008年2月20日には20thシングル「HEART STATION/Stay Gold」を発売、全国のFMラジオ局とのコラボレーション企画を行った。3月には無料ダウンロード企画第2弾となる「First Love」の着うたを4日間限定で無料配信し、前回を上回る70万ダウンロードを記録した。5thアルバム『HEART STATION』は3月19日に発売となり、6作連続となるオリコンアルバムチャート1位となり、ミリオンセラーになった。5月21日にはアルバムからドラマ『ラスト・フレンズ』主題歌の「Prisoner Of Love」をリカットした。10月20日からはドラマ『イノセント・ラヴ』主題歌になった2ndアルバム『Distance』収録の「Eternally」を新たにミキシングした「Eternally -Drama Mix-」の着うた・RBTを配信開始した(着うたフル・PC配信は10月31日から配信開始)。
2009年、Utada名義でMyspaceにオフィシャル・ページを開設。スターゲイト(Stargate)がプロデュースし、トリッキー・スチュワート(Tricky Stewart)も参加したアルバム『ディス・イズ・ザ・ワン』(This Is The One)は3月14日に日本先行発売した。
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2009年、Utada名義でMyspaceにオフィシャル・ページを開設。スターゲイト(Stargate)がプロデュースし、トリッキー・スチュワート(Tricky Stewart)も参加したアルバム『ディス・イズ・ザ・ワン』(This Is The One)は3月14日に日本先行発売した。
3月19日には初のオフィシャル・ブック『点 -ten-』『線 -sen-』を発売。これを記念して、かつてのFMレギュラー番組『宇多田ヒカルのトレビアン・ボヘミアン』がスペシャル番組として復活した。
3月24日に全米配信した『ディス・イズ・ザ・ワン』(This Is The One)は日本人アーティストとしては最高位となる総合アルバム・チャート19位、POPアルバム・チャート2位を記録し、5月12日のCD発売後はBillboard 200において日本人アーティストとして23年ぶりにチャート100位以内にランクインした。ところが、アメリカでのプロモーション活動は扁桃周囲炎の再発により中止となる。
6月27日には映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』公開に合わせて「Beautiful World」をリミックスした「Beautiful World -PLANiTb Acoustica Mix-」を配信開始した。2009年春には、Myspace主催によるUtadaカラオケ・コンテストを日米で開催。日米双方から優勝を選出し、都内で宇多田と優勝者によるカラオケ・パーティーが開催された。
2010年1月から2月にかけては、初の北米ツアー『Utada "In The Flesh" 2010 Tour』を開催し、ロンドン公演含む全10公演を行った。
2010年8月9日、来年以降のアーティスト活動を止めて「人間活動」に専念することを告げ、同時に秋から冬にかけてシングル・コレクションvol.2や新曲を発売することも発表した。9月28日にはTwitter公式アカウントを開設し(当初は期間限定の予定であった)、CM出演やライヴ開催を発表した。
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2010年8月9日、来年以降のアーティスト活動を止めて「人間活動」に専念することを告げ、同時に秋から冬にかけてシングル・コレクションvol.2や新曲を発売することも発表した。9月28日にはTwitter公式アカウントを開設し(当初は期間限定の予定であった)、CM出演やライヴ開催を発表した。
ところが、11月24日の『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.2』発売日にアイランド・デフ・ジャムがUtada名義のベスト・アルバム『Utada The Best』を発売することが発覚し、本人の意向とは異なるアルバム発売に不快感を露わにした。そのため、今後の日本国外の活動においてもEMI MUSICと契約し、アーティスト名を「宇多田ヒカル」に統一することを発表した。
12月8日・9日に横浜アリーナで開催したライブ『WILD LIFE』では、8日の公演を日本国内の映画館で生中継し、Ustreamで世界配信した。
東日本大震災の被災者のために義援金を送り、自ら献血を行ったことを公表。2012年11月17日には映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』公開に合わせて、テーマソング「桜流し」を配信開始し、DVDシングルを12月26日に発売した。
2013年4月からは月1回のラジオレギュラー番組『KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru』の放送がスタート(2014年3月終了)。2013年12月9日のデビュー日には『Utada/Utada Hikaru: In The Flesh 2010』と過去のライヴ作品をiTunesで配信開始。
2014年3月10日は1stアルバム『First Love』発売から15年を記念した『15th Anniversary Edition』を製作、ハイレゾリューションオーディオも配信開始した。
人間活動中の2013年には母親(藤圭子)の死もあったが、翌2014年にイタリア人男性と再婚(2018年に離婚が判明)、2015年には第1子となる男児を出産した。
2016年、NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』主題歌を担当することが決定。また、ニュース番組『NEWS ZERO』エンディングテーマも担当することを発表すると同時に、初披露となる4月4日からアーティスト活動を再開することを発表した。
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人間活動中の2013年には母親(藤圭子)の死もあったが、翌2014年にイタリア人男性と再婚(2018年に離婚が判明)、2015年には第1子となる男児を出産した。
2016年、NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』主題歌を担当することが決定。また、ニュース番組『NEWS ZERO』エンディングテーマも担当することを発表すると同時に、初披露となる4月4日からアーティスト活動を再開することを発表した。
「花束を君に」「真夏の通り雨」は4月15日に配信開始となった。「花束を君に」をリスナーにとって大切な人に贈ることを目的とした「ギフトキャンペーン」を開催し、売上の一部は熊本地震災害義援金に寄付された。
9月28日には椎名林檎、小袋成彬、KOHHが参加したおよそ8年ぶりとなる6thアルバム『Fantôme』を発売した。『Fantôme』は各配信サイトにおいて日本を含む世界31か国(地域)でランクインし、CDセールスにおいてもオリコンチャート4週連続1位になった。10月に単独アーティスト初となる民放ラジオ101局による特別番組『サントリー天然水 presents 宇多田ヒカルのファントーム・アワー』がオンエアになった。
12月9日のデビュー記念日には2003年の『20代はイケイケ!』以来となるネットイベント『サントリー天然水PRESENTS「30代はほどほど。」』を開催し、KOHHとPUNPEEがゲスト出演した。また、小田和正によるコラボレーション・ライヴ番組『クリスマスの約束』に初出演して「Automatic」などを披露したほか、『第67回NHK紅白歌合戦』にロンドンからの中継で初出場した。
2017年、THE BACK HORNとの共同プロデュースとなったシングル曲「あなたが待ってる」に作詞、編曲、ピアノ、バックグラウンドボーカルで参加した。
2月9日にはソニー・ミュージックレーベルズ内のレーベルであるエピックレコードジャパンに移籍することをオフィシャルサイトで発表した。
7月には移籍後初となる新曲「大空で抱きしめて」と「Forevermore」を配信開始した。12月には「あなた」を配信開始したほか、初の歌詞集『宇多田ヒカルの言葉』を発売した。
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2月9日にはソニー・ミュージックレーベルズ内のレーベルであるエピックレコードジャパンに移籍することをオフィシャルサイトで発表した。
7月には移籍後初となる新曲「大空で抱きしめて」と「Forevermore」を配信開始した。12月には「あなた」を配信開始したほか、初の歌詞集『宇多田ヒカルの言葉』を発売した。
2018年になると、アルバム『Fantôme』収録曲「ともだち」に参加した小袋成彬のメジャー・デビューとなるアルバム『分離派の夏』のプロデュースを手掛けたことを発表し、「Lonely One feat. 宇多田ヒカル」を先行ストリーミング配信した。
椎名林檎のトリビュート・アルバム『アダムとイヴの林檎』に宇多田ヒカル&小袋成彬として参加し、「丸ノ内サディスティック」をカバーした。
6月27日には「大空で抱きしめて」「Forevermore」「あなた」のほか、「誓い」「Play A Love Song」「初恋」「Good night」のタイアップ曲を収録した7thアルバム『初恋』を発売した。
アルバム発売にあわせて、かつてのFMレギュラー番組が一夜限りに復活して『宇多田ヒカルのTRÈS BIEN! BOHEMIAN! SPECIAL』として放送したほか、同年年末には、12年ぶりとなる全国ツアー『Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018』を開催した。
2019年1月には、世界的エレクトロミュージシャンSkrillexとのコラボ曲で、ゲームソフト『キングダム ハーツIII』に書き下ろした「Face My Fears」を11年ぶりにCDシングルとしてリリースした。
また、11月にリリースされた椎名林檎のベストアルバム『ニュートンの林檎 〜初めてのベスト盤〜』に収録された楽曲「浪漫と算盤」で椎名林檎と3年ぶりの共演を果たしたほか、同月リリースの井上陽水のトリビュートアルバム『井上陽水トリビュート』では『少年時代 (井上陽水の曲)』をカバーした。
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また、11月にリリースされた椎名林檎のベストアルバム『ニュートンの林檎 〜初めてのベスト盤〜』に収録された楽曲「浪漫と算盤」で椎名林檎と3年ぶりの共演を果たしたほか、同月リリースの井上陽水のトリビュートアルバム『井上陽水トリビュート』では『少年時代 (井上陽水の曲)』をカバーした。
2020年に入ると、ドラマ『美食探偵 明智五郎』の主題歌として新曲「Time」を書き下ろし、「サントリー天然水」のTVCMには新曲「誰にも言わない」が採用された。新曲2曲がリリースされた5月には、自宅から1か月限定で毎週日曜日にインスタライブを行い、ファンからの様々な質問に答えたほか、中村倫也やTAKA、KOHHがゲストとして出演した。
2021年には、アニメ映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のテーマソングに新曲「One Last Kiss」が起用され、また、これまでに宇多田が『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズに提供してきた関連楽曲全曲が収録されるEP『One Last Kiss』のリリースも決定した。さらに、4月にNHKEテレにて放送開始のアニメ「不滅のあなたへ」の主題歌に、新曲「PINK BLOOD」が起用されることも発表された。7月には新曲「Find Love」が、資生堂の世界ブランド・SHISEIDOによる新グローバルキャンペーン「POWER IS YOU」(パワー・イズ・ユー)のキャンペーンソングに決定、またキャンペーンのブランドムービーに女優のウルスラ・コルベロ(英語版)、プロサッカー選手のミーガン・ラピノーとともに出演した。
2022年には、8枚目のオリジナルアルバム「BADモード」をリリース。1月19日に先行配信を開始し、2月23日にフィジカルCDを発売した。
4月16日(現地時間)には、アメリカ最大級の野外音楽フェスティバル「Coachella Valley Music and Arts Festival」のメインステージに88risingの一員として出演し、計5曲を披露した
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2022年には、8枚目のオリジナルアルバム「BADモード」をリリース。1月19日に先行配信を開始し、2月23日にフィジカルCDを発売した。
4月16日(現地時間)には、アメリカ最大級の野外音楽フェスティバル「Coachella Valley Music and Arts Festival」のメインステージに88risingの一員として出演し、計5曲を披露した
宇多田家の祖先は山口県にあり、父親が子どもの頃に家系図を見せられた際、由緒ある家の跡継ぎである事を説明されたという。郷土資料によると、山口県山口市徳地島地(旧佐波郡徳地町島地)に宇多田という大庄屋があり、広大な土地を所有していたとの記述が残っている。先祖には、寺内正毅第18代内閣総理大臣が居り、ヒカルは寺内正毅の曾姪孫にあたる。
本人のツイートによると、予定を3週間以上も過ぎた後もなかなか産まれなかったため、医師の判断で帝王切開したものの、ほぼ死産の状態だったとのこと。この時父親は医師から「残念ですが...」と告げられるも、懸命に名前を呼ぶと、徐々に血の気が入り蘇生したという。2020年10月、Twitter上で「アメリカの大統領選の在外投票の登録ギリギリ間に合った」と発言しており、日本とアメリカの二重国籍を維持していると思われる。
名前に関して、漢字表記ではなく片仮名の「ヒカル」と名乗った理由は、漢字だと何か堅い感じがするという意見がEMI社内で出たため。画数にこだわったのは、よい画数の名前であると言われていることによる。ちなみに元々の名前の由来は、母親(藤圭子)が網膜色素変性症のため、徐々に視力を失っていた時に授かった子であることから「我が子から光が失われないように」という願いを込め命名したと言われている。この他にも「いちご」や「めろん」、「すいか」が候補に挙がっていたという。ニックネームは「ヒッキー」(Hikki)。
身長に関しては、ある時に病院で正確に測ったところ、158.9cmであることが判明。今まで158cm(15歳当時の記録)であると公言してきたことから、2017年3月に出演したラジオ番組内で各所プロフィールの更新を求めた。2019年5月に過剰運動症候群と診断されたことを公表。本人は「病気とかじゃないよ!」と投稿している。
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宇多田ヒカル
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身長に関しては、ある時に病院で正確に測ったところ、158.9cmであることが判明。今まで158cm(15歳当時の記録)であると公言してきたことから、2017年3月に出演したラジオ番組内で各所プロフィールの更新を求めた。2019年5月に過剰運動症候群と診断されたことを公表。本人は「病気とかじゃないよ!」と投稿している。
2002年、19歳の時に紀里谷和明と結婚、2007年に離婚。2014年2月にイタリア人男性と再婚。2015年7月に第1子となる男児を出産したことを報告したが、2018年4月に離婚していたことが明らかになった(公式発表ではない)。
2021年6月26日、自身がノンバイナリーであることをインスタライブにて公表している。
2006年の23歳の誕生日に大きなテディベア(くまのぬいぐるみ)をプレゼントされ、以来大のくま好きであることを公言。ちなみにそのテディベアには「くまちゃん」という名前がついており(宇多田が自ら命名)、『ぼくはくま』のモデルになった。その後も、宇多田のSNSアカウントやミュージックビデオなど、様々なところに「くまちゃん」が登場している。
テトリスの腕前について広く知られており、2006年には任天堂のクラブニンテンドー会員限定イベント『宇多田ヒカルとテトリス対戦!!』が開催され、一般ユーザーや任天堂開発チームとテトリスDSの1対1対戦を行った。ちなみに、テトリスDSでカウンターストップとなる99999999点を達成している。
自身のインスタグラムアカウントでは、度々地面に落ちている「落とし物」の写真をアップロードしている。2020年1月のマツコの知らない世界の正月SPに出演した際には、それらが「落とし物の世界」として紹介された。
宇多田は読書家でも知られており、自ら次のように語っている。
「とにかく文学は永遠に私の情熱であるでしょう! 本は財産です。読んだ本は全部とっておく。服よりほんの占めるスペースが多い。」
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宇多田ヒカル
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自身のインスタグラムアカウントでは、度々地面に落ちている「落とし物」の写真をアップロードしている。2020年1月のマツコの知らない世界の正月SPに出演した際には、それらが「落とし物の世界」として紹介された。
宇多田は読書家でも知られており、自ら次のように語っている。
「とにかく文学は永遠に私の情熱であるでしょう! 本は財産です。読んだ本は全部とっておく。服よりほんの占めるスペースが多い。」
2018年の雑誌のインタビューでは、物心がついた頃から「他者と、世界と繋がるための方法、手段」として読書を始めていたと語っており、それは小説に限らず、子供向けの絵本や、詩、短編など、様々だった。また、その「繋がっている」という感覚が、宇多田の作家としての原点だったという。2020年の文學界での又吉直樹との対談では、自身の子どものころについて、「自分にとって唯一自由で、自分であることが許された、安心していられる場所」「現実で自由にならないこと、耐えられないことから、いつでも逃げられる場所」が「本の世界」だったと明かした。2017年12月に全国の38書店で展開された「宇多田書店」では、以下の人物の作品を推薦書籍として選出している。開高健、宮沢賢治、中上健次、芥川龍之介、川端康成、森鴎外、夏目漱石、三島由紀夫、稲垣足穂、谷崎潤一郎、埴谷雄高、大岡昇平、遠藤周作、ヘルマン・ヘッセ、オスカー・ワイルド、アン・クラーク・アモール、シェル・シルヴァスタイン、エドガー・アラン・ポー、エリ・ヴィーゼル、F・スコット・フィッツジェラルド、ジョージ・オーウェル、ダニエル・キイス、司馬遼太郎、アンリ・ベルクソン、ロアルド・ダール、田村隆一、J・D・サリンジャー、有吉佐和子、家永三郎、ゲーテ、中西進、白州正子、エリザベート・バダンテール、中原中也など。また、1999年に当時16歳の宇多田は、講演で来日したダニエル・キイス(「アルジャーノンに花束を」などの著者、当時72歳)と文藝春秋で対談している。
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また、特に好きな作家には中上健次や宮沢賢治の名前を挙げており、中上健次の娘で作家の中上紀と対談した際には『異族』『紀州弁』(『鳥のように獣のように』所収)を好きな作品として挙げ、宇多田にとって初の歌詞集『宇多田ヒカルの言葉』を出版する際に行なった本人による選書企画『宇多田書店』において、中上の作品群から最多の9作品を選んでいる。
宇多田はまた大の漫画好きでもある。小説が漫画よりも「高尚なイメージ」があることについて、「くだらないものはくだらないし、いいものはいい」「くだらない小説読むんだったら良質の漫画の方がよっぽど有益」と、自身のブログで語っている。子供の頃は、漫画家を目指していて、漫画雑誌「りぼん」に投稿したこともあるという。2017年に開催された「宇多田書店」では、以下の作品を推薦書籍として選出した。「バガボンド」、「リアル」、「SLAM DUNK」、「HUNTER×HUNTER」、「レベルE」、「幽☆遊☆白書」、「うる星やつら」、「らんま1/2」、「キャッツ・アイ」、「シティーハンター」、「ベルサイユのばら」、「攻殻機動隊」、「バイオメガ」、「はじめの一歩」、「MONSTER」、「20世紀少年」、「ゴルゴ13」、「鬼平犯科帳」(さいとうたかを)、「ブラック・ジャック」、「七色いんこ」、「ブッダ」、「AKIRA」、「サーカス・ワンダー」、「鬼切丸伝」、「ピアノの森」、「北斗の拳」、「サラリーマン金太郎」、「ぼくの地球を守って」など。
また宇多田は、2006年5月号の「Invitation」で、漫画家・浦沢直樹と対談している。
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また宇多田は、2006年5月号の「Invitation」で、漫画家・浦沢直樹と対談している。
2010年に活動休止を発表したことについて、「(休養中の行動を『人間活動』と表現したのは)思っていることを長く書こうとしても伝わらないことが多くて、短い言葉を使おうと思った。」「自分の力で生きたい。色々と知らないことがあるまま生活しているので、1人でも生きられるようになりたい。」「得意なことばっかりやっても成長がないと思って。もし私と同じく、自分の中の苦手なこと、避けようとしている部分に向き合っていきたいと考えている人がいるなら、一緒に頑張りましょう!」と発言しているほか、「有名人(見られる側)になってからの十数年、どんどん自分が見えなくなっていってた。全然自分のこと理解できてなかったし周りの人たちのことも「知ろう」としてなかった。苦しい、さびしい生き方をしてました。まだ若いうちに気付けてよかったです。みんなに感謝」とツイートしている。
作詞・作曲・編曲を手掛け、自らプログラミングも行っている(2018年現在もApple Logic Pro Xを使用)。絶対音感を持っていると噂されたことがあるが、本人がこれを否定している。曲作りに関しては曲先であり、「桜流し」配信開始時には「基本、コード→メロディー→歌詞という流れ。アレンジャーも私です。」とツイートしている。母親の藤圭子は、ヒカルが演歌の陰鬱や悲しさに影響されないように心掛けていたとしている。
デビュー当初から宇多田ヒカルを担当している三宅彰は、デビュー10周年の際に受けたインタビューで宇多田の変化についてコメントしており、『First Love』から『ULTRA BLUE』までのアルバム4枚は誰に向けて書いたのか具体的に見える曲が多かったが、『HEART STATION』は顔の見えない不特定多数に向いていると述べている。さらに、「10代は内面に向かいがちだったのが、20代半ばになり社会と自分というものを結びつけることができるようになったのかなと思う」とも評している。
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デビューアルバム『First Love』と続く『Distance』の楽曲はR&B色が強く、「Addicted To You」や「Wait & See ~リスク~」では、ジャム&ルイスがプロデューサーとして迎えられた。自らも編曲に参加するようになった3rdアルバム『DEEP RIVER』では、R&Bの域を越え、ロックやダンスなどのジャンルを包含した普遍的なポップスとなり、またジャケット写真や遠藤周作の小説にインスパイアされたタイトルからも窺える、暗く内省的な世界観を打ち出すようになった。自身が完全に音作りをするようになったUtada名義でのアルバム『Exodus』は、R&Bからオルタナティブ、ポップ、ダンス、エレクトロニカなどをミックスした、今まで以上にジャンルレスな作風となっており、また内数曲では、ヒップホップ/R&Bシーンに革新的なビート旋風を巻き起こしたティンバランドなどがプロデューサーに迎えられた。『ULTRA BLUE』になると、ほぼ全曲の作詞作曲編曲、プログラミングまでを自らが行うようになり、次作『HEART STATION』にかけて打ち込み主体の楽曲が多くなった。『ULTRA BLUE』では内省的で私小説のような趣をみせ、メロディも主旋律が強めで高音を多用した独創的なものとなる。そして、同作や『Exodus』での技巧的・実験的な作風への反動で、『HEART STATION』と続く『This is The One』では、比較的ポップな楽曲が多くを占めるようになった。『HEART STATION』では、ヒップホップとハウスを練り込んだようなビートの上に優しいメロディがのった、しっとりとした洋楽ポップスのようなモードへ入る。Utada名義の2ndアルバム『This is The One』では、トラックメイカーにスターゲイトやトリッキー・スチュワートを迎え、前作『Exodus』とは一転し、USのメインストリームを意識したR&Bにシフトチェンジした。
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宇多田ヒカル
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母・藤圭子の死、結婚、初の出産を経て、2016年にリリースした復帰作『Fantome』は、宇多田が母の死と向き合ったもので、「日本語で歌うこと」をテーマに制作され、プライベートな喪失の痛みを普遍的なポップソングに昇華している点などが評価された。音楽的には、『Fantome』と次作『初恋』ともに、打ち込み主体の活動休止以前とうってかわって、ほぼ全曲が生バンドによるプロダクションとなり、エンジニアにはグラミー賞受賞経験のあるスティーヴ・フィッツモーリスを起用した。両作とも「日本語のポップス」であることを貫きながらも、世界的なポップスのトレンドである緻密にしてシンプルなアレンジを基礎構造にもつ仕上がりとなっている。『初恋』では、現代ジャズシーン最高峰ドラマーの呼び声高いクリス・デイヴを起用しており、また私小説的な歌詞や、リズム・譜割りに対する新たなアプローチが評価されている。
2013年放送の自身のラジオでは、「トータルでいうとソングライターとしてとか、歌手としてとか,アーティストとして生きてる人たちの中で一番憧れるアーティスト」としてPJ ハーヴェイを挙げている。 世界一好きな歌手は、ディス・モータル・コイルのエリザベス・フレイザー。 「他のアーティストと一日入れ替われるんだったらPJ ハーヴェイかトム・ヨークになってみたい」とも語っている。 フレディ・マーキュリー、コクトー・ツインズ、ナイン・インチ・ネイルズ、ジミ・ヘンドリックス、プリンス、エディット・ピアフ、チック・コリア、ブルー・ナイル、ビョーク、 レニー・クラヴィッツ、バルトーク・ベーラ、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ジェフ・バックリー、井上陽水、尾崎豊、美空ひばり、THE BACK HORN、フランク・オーシャン、庄司紗矢香、カサンドラ・ウィルソンなどをお気に入りのアーティストとして挙げており、アリーヤやメアリー・J. ブライジなどのR&Bアーティストからも影響を受けたという。子供の頃、母から「ヒカルの声はすばらしいわ。もう、何かもうシャーデーみたいに」と言われたこと以来シャーデーの大ファンでもある。
宇多田は井上陽水の書く詩と自身の書く詩がとても似ていると公言しており、井上陽水から受けた音楽的な影響の大きさについても度々発言している。
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宇多田ヒカル
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宇多田は井上陽水の書く詩と自身の書く詩がとても似ていると公言しており、井上陽水から受けた音楽的な影響の大きさについても度々発言している。
また、これまでの宇多田の作品には文学作品に影響されたものが多くある。3rdアルバム『DEEP RIVER』(2002)ならびにその収録曲「Deep River」のタイトルは、遠藤周作の小説「深い河」にインスピレーションを得ている。2004年の世界進出時のアルバム『EXODUS』の収録曲「Kremlin Dusk」には、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーの物語詩「大鴉」からの引用が幾つか見られる。5thアルバム『HEART STATION』の収録曲「テイク5」の歌詞は、本人がインタビューで「宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」みたいにしたかった。」と語っている。また同作品については、2018年に出演したNHKの「SONGS」にてその一節を引用し、「幸せ」についての自論を語った。2008年にはブログで「唯識三十頌」の写経をしていることを綴った。三島由紀夫の遺作「豊饒の海」で知って以来の写経のお気に入りだという。なお宇多田は、2005年に三島の同作の第一部を映画化した「春の雪」の主題歌に「Be My Last」を書き下ろしていた。6thアルバム『Fantome』の収録曲「荒野の狼」の曲名は、ヘルマン・ヘッセの同名の小説からとったという。2018年に開催された12年ぶりの全国ツアー「Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018」の題名は、ロシアの詩人・ナボコフの長編小説「カメラ・オブスクーラ」の英題から引用されている。また、その年に自身が出演したNHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」では、楽曲「夕凪」の制作中に同じくナボコフの小説「青白い炎」に出てくる詩を読みながら涙するシーンが映る。2019年12月に発売された「文學界1月号」では、作家で芸人の又吉直樹と「創作」をテーマに対談した。なお、宇多田と又吉はそれまでにもSONGSや宇多田のツアーで共演していた。2020年に自身が出演したサントリー天然水のTVCMでは、自身が選んだというイギリスの詩人・ワーズワースの詩の一節(国木田独歩訳)を朗読している。
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宇多田ヒカル
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MacBook Pro(15-inch, 2017)とLogic Pro Xを使って曲作りを行なっている。マイクロフォンはNEUMANN TLM 67、NEUMANN TLM 102、オーディオインターフェースはRME Babyface Pro、MIDIキーボードはM-AUDIO Keystation 61es、モニターヘッドフォンはSONY MDR-7506、マイクスタンドはQuiklok、スタジオモニターはFocal CMS50、スピーカースタンドはIsoAcousticsを使用している。なお、以前住んでいたアパートでは壊れた機材はトイレに積んでいたという。
10歳で作詞作曲を始めているが、編曲に関して当初は外部に任せていた。アルバム制作を重ねるにつれ、アレンジからプログラミングに至るまで、すべての音を統括するようになった。まず2ndアルバム『Distance』収録の「DISTANCE」およびそれをアレンジした8thシングル「FINAL DISTANCE」から編曲においても大きく関わるようになり、2004年の13thシングル「誰かの願いが叶うころ」以降は、ほぼすべての楽曲の編曲を単独で行うようになる。宇多田の楽曲においては、バックコーラスの声も多重録音によりすべて本人が歌っている。歌詞のインスピレーションは毎日の生活から得る。日本では抽象的なことを歌詞にする書き手が多いが、宇多田自身はヴィジュアルコンセプトから入るので映画のシナリオを書くように言葉にした情景はすべて映像として見ることが出来ると語っている。作曲では、まずパソコンソフトやシンセサイザーなどで流したサウンドに合わせてコードを付け、それにメロディをのせる。歌詞を作るのはそれらの作業が終わった後。
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宇多田ヒカル
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音楽活動再開以降は、自らの住んでいるロンドンで一連の楽曲制作が行われている。とりわけ活動休止前は、常に単独で制作しており、他のアーティストとのコラボレーションも少なかったことから、周りからは「密室系アーティスト」と呼ばれていたというが、復帰後は他アーティストとの共演も増え、サウンド面においても主に生楽器が用いられるようになった。アルバム『Fantome』『初恋』のレコーディング、ミックスを担当したスティーブ・フィッツモーリスによると、宇多田のいないところでレコーディングが行われることはないといい、その点が他アーティストとの違う点だと語った。またスティーブによれば、「僕はこれまで大勢の人の作品を手掛けてきたけど、中でも宇多田さんは最も断固とした態度の持ち主の一人」という。その中でも印象的なエピソードとして、レコーディングにてミュージシャンたちが宇多田の要望に「ちょっとこれできない、難しい」と言ったときに、宇多田が「それは、不可能なの? 難しいの?」(英語:“Is it impossible? Or is it difficult?”)と聞き返したことを挙げている。いきものがかりのリーダー・水野良樹は、2016年放送の関ジャム 完全燃SHOWにて、宇多田の「レコーディングのこだわり」を語り、「宇多田のレコーディングにやってきた日本有数のミュージシャンが、宇多田の指摘のスゴさに、落ち込んで帰っていく」という逸話を紹介した。
「メロディーは、誰かの心の原風景。 懐かしい場所からのメッセージ。
リズムは、死へ向かう生命の行進の音。
歌は祈り、願い、誓い。
音楽は、慈悲。」
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宇多田ヒカル
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「メロディーは、誰かの心の原風景。 懐かしい場所からのメッセージ。
リズムは、死へ向かう生命の行進の音。
歌は祈り、願い、誓い。
音楽は、慈悲。」
自身のメロディに関して宇多田は、活動休止以前は「音楽の表面的な意味でのいいメロディを、こう行くとなんか気持ちいいなっていうメロディを、探って探ってつないでいた」という。一方、活動再開(アルバム『Fantome』)以降のメロディは、「マグマが湧いて出てくるみたいな、うねりのようなもの」「ゆっくり、べたべた、地を這う、蛇のようなもの」だと話した。また、そのようなメロディには「日本語がほんとに合う」としており、「沈んでいくタイプの心の残り方をする」とも語っている。また、宇多田はメロディ自体をリズムと捉えているといい、「私からしたら(メロディとは)リズムにピッチついてるみたいな感じ。」とも語るなど、楽曲におけるリズムに対するこだわりを話している。また、アルバム『HEART STATION』リリース時のインタビューでは「音楽のジャンルは、キックとスネアの音で決まる」と語っている。その他にも、子供は大人よりも「変拍子も癖のあるリズムの取り方も素直に受け入れることができて尚且つおもしろがる」ので、「子供と一緒に音楽を聴くのが楽しい」とツイートしている。
作詞は、宇多田が楽曲制作において最後に取りかかる作業である。歌詞集「宇多田ヒカルの言葉」(2017)の序文では、「『誰か』の気持ちを描くことで、自分の意識下にあった気持ちに触れる」ことが宇多田にとっての作詞だと綴っている。そこではまた、それまでの自身の歌詞を次のように3期に分けている。
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宇多田ヒカル
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作詞は、宇多田が楽曲制作において最後に取りかかる作業である。歌詞集「宇多田ヒカルの言葉」(2017)の序文では、「『誰か』の気持ちを描くことで、自分の意識下にあった気持ちに触れる」ことが宇多田にとっての作詞だと綴っている。そこではまた、それまでの自身の歌詞を次のように3期に分けている。
自身の考える日本語表現については、萩原朔太郎の『詩の原理』で語り尽くされているという。また宇多田は、2018年の小袋成彬と酒井一途との座談会で、デビュー曲「Automatic」に関して「言葉の途中の一瞬に間が空くことへの評論があって、『?? だって音楽じゃん? 言葉?』ってなった。」と語っている。「言葉に対して、ここが良い切れ目とか、ここが切っちゃいけないとかが自分にない」という。「音楽が第一言語」とも語っており、作詞は「音楽を日本語に翻訳する」ような作業だという。また宇多田は、2008年の雑誌のインタビューで「悪いポップはコビだけど、いいポップは思いやり」だと述べているほか、別の場所では「"媚び"は音楽自体の終焉を招く」と、自らの音楽に対する姿勢を表明している。
HMVは、2003年の「Top 100 Japanese pops Artists」で第24位に、2005年の「日本のシンガーTOP30」で第10位に宇多田ヒカルを選出している。2022年に行われた、タレントパワーランキング「女性歌手の人気ランキング」では、第1位に選ばれている。
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宇多田ヒカル
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宇多田のデビューは日本中に大きな衝撃を与えた。音楽プロデューサーの小室哲哉は、宇多田について、デビュー曲『Automatic』の衝撃や宇多田の"自由さ"を指摘しており、"自らの引退を考えさせたアーティスト"と評している。また、「宇多田ヒカルをきっかけに、プロデューサーやレコード会社の人の言葉に耳を傾けつつという、音楽業界の暗黙の了解みたいなものがなくなった。」とも指摘している。音楽ジャーナリストの宇野維正もまた、宇多田の登場によってそれまでレコード会社や大手プロダクションが握っていた日本の音楽シーンをアーティスト自身が手にする時代が来たと語る。また、宇多田がデビュー当初にすでに"音楽家としての権利"を保持していたことを指摘し、これは「世界中を見渡しても異例の契約条件」と語った。同じく音楽ジャーナリストの柴那典は、宇多田の歌はデビュー以来、徹底して「個」の表現であり続けてきたとし、多数の『アムラー』を生み出した安室奈美恵や『女子高生のカリスマ』として同年にデビューした浜崎あゆみのように女性たちの憧れの対象としてのアイコンにはならず、どれだけ沢山のCDが売れようと、聴き手は『一対一』の親密でパーソナルな関係の中で宇多田の歌を受け取ってきたのだと指摘。柴はさらに、「そういうタイプのアーティストが登場し、そのデビュー作が最も大きなヒットとなったことが、後に続く時代の変化の一つのうねりのようなものにつながったのではないか」と考えている。ロッキング・オン・グループの代表取締役社長で音楽評論家の渋谷陽一は、宇多田ヒカルの登場によって、「日本人の持つポップミュージックのDNAが変わった。」とコメント。また、宇多田の「革命性と大衆性の両立」を指摘してその衝撃を語った。ミュージシャンで音楽評論家の近田春夫は、宇多田のデビュー後のJ-POPを「宇多田ヒカルというB-29による空爆後の焼野原」と表現。宇多田の登場によって日本の音楽シーンが一変したと語った。写真家の藤原新也は五木寛之との対談で、当時の"宇多田ブーム"について、「マーケティングによって成り立った乾いた小室産業から宇多田的な個的な情感に時代がシフトした」と分析した。吉本隆明は自著「現代日本の詩歌」(2003)で宇多田のデビュー曲「Automatic」を取り上げ、「口語でできた、すぐれた歌詞で、純粋詩人の作品」「きわめて個性的に女の子の気持ちを歌っている」と評価した。
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宇多田ヒカル
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宇多田のデビュー当時、しばしば宇多田の歌詞における"字切り"の特徴が指摘されていた。トレモロイドの小林侑太は、「Automatic」に代表される宇多田の楽曲が、リズムのアクセントと音自体の発音の強弱の一致によって"心地よいグルーブ感"を生んでいると指摘。「細かな発音の強弱や譜割りに対する鋭敏な感覚を持っていれば歌でグルーヴを表現できる」という感覚が宇多田の登場によって当時の日本の音楽シーンに持ち込まれたとも考察している。作曲家の筒美京平は、宇多田の楽曲に関して「コード進行の上にのせるメロディーの作り方が新しい」と評価。またそのメロディーも"和のテイスト"を感じさせるとコメントした。ミュージシャン/音楽プロデューサーの玉井健二は、また『traveling』などの楽曲を挙げ、コンポーズの素晴らしさを指摘。「日本語が乗る前提の主旋律に日本語じゃないグルーブを的確に融合させられている」点などを高く評価している。
また、アーティストとしての宇多田にも様々な指摘、評価がなされてきた。上述の渋谷陽一は、宇多田について、「その存在と才能の巨大さのためか、どこか透明な印象がある」と言う。また、「すべてのエモーションのベースに悲しみがある」とも評している。宇野維正は、宇多田のこれまでのライブ活動の少なさから、「人気ポップアーティストとしては、世界的にも稀な『スタジオの音楽家』」と指摘。また宇多田の編曲家としての側面にも注目し、"All Songs Written and Arranged by Utada Hikaru" という「日本の他の女性アーティストの作品ではまず目にすることがない」クレジットが、宇多田の音楽家としての本質を表わしていると語った。ジャズミュージシャンで宇多田の楽曲のプロデュースを手掛けたこともある菊池成孔は、2006年のネット記事の連載にて宇多田に関して次のように指摘する。
「〈日本に帰化した、日本人以上に日本人である外国人選手〉という、本来ならば日本人では着任不可能な任務を遂行しているという意味で、完全なオリジナルである。」
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宇多田ヒカル
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そして、宇多田のライブに集まる観客が圧倒的に〈日本人の集団〉であるとし、そこに「無意識や無作為が国民性を掴んだ強さ」を見出している。いきものがかりのリーダー・水野良樹は、宇多田の作品には「宇多田さんの持つ強烈な"個"の匂いがたちこめている」と指摘。また、こういった性格の作品が「とてつもなく多くの人々に、熱狂の中で、すんなりと受け入れられていく」ことに驚きを示している。糸井重里は宇多田の歌詞、言葉に注目し、宇多田が「『だれよりも、われ』であるがゆえに『だれよりも、それぞれ』に変態していける」と評価した。ミュージシャンの井上陽水は、宇多田が特殊な環境で生まれ育ってるゆえにアウトサイダー(外部の人、部外者)のような雰囲気を感じさせるとコメント。楽曲に関しては「もう1回聴くとどういう発見があるんだろうと思わせるような数少ないアーティストの1人」と評価した。また、陽水は宇多田が多くの日本人をひきつけている要因として、宇多田の声に代表される"切なさ"を挙げている。宇多田の声質については、松任谷由実や平井堅も"フラジャイル(か弱い、壊れやすい)"な歌声が聴く人をひきつけると評している。映画監督の河瀨直美は、宇多田の歌詞集に寄稿した際、宇多田の創作のあり方について、「自らの声に力があることを本能的に知っていて、その力にはどんな言葉を用いればより人々にその想いが届くのか...を客観的に見つめている」と評価している。桑田佳祐は自身のラジオ番組で、宇多田の復帰作『Fantome』を「革命的なものをお作りになった」と絶賛。「平成の『ジョンの魂』、次元が違う、ほとんどビョーキ、もう私はレコーディングも年越しライブもやめます!」と冗談交じりに語った。シンガーソングライターの小田和正は同じく宇多田の歌詞集への寄稿で、宇多田の復帰作『真夏の通り雨』の一節"降り止まぬ 真夏の通り雨"に衝撃を受けたといい、復帰後の宇多田について「あの頃のみずみずしさを失うことなく、感性は圧倒的にその深みを増した。」と評価した。宇多田は活動休止中の2013年に、当時InterFMの執行役員だったピーター・バラカンの提案でラジオ番組のパーソナリティを1年間務めていた。バラカンは、その提案の理由について「ああ、この人(宇多田)ラジオの喋り手として面白いな」と感じていたといい、「単純に言えば月並みではないということ」「他の人があまり注目していない音楽を独自のアンテナで捉えて紹介してくれる。あるいは有名な曲だとしてもその取り上げ方や紹介の仕方にもセンスのある人。」と、音楽の聴き手としての宇多田を評価した。
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宇多田ヒカル
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『日本ゴールドディスク大賞』「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を2度、『CDショップ大賞』などを受賞している。
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実空間法
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実空間法()とは、実空間での波動関数を、FET(有限要素法)や、差分方程式を直接解いて求める方法。
これに対し、通常のバンド計算では、周期的境界条件の下に、逆格子空間での計算を必要とする。
実空間法には次のような利点が存在する。
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すごろく
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すごろく(双六、槊)とは、サイコロを振って、出た目に従って升目にある駒を進めて上がりに近づける盤上遊戯(ボードゲーム)である。競争ゲームの一種。
すごろくには二人で対戦する盤双六(ばんすごろく)と複数人が競争して上がりを目指す絵双六(えすごろく)の2種類がある。江戸時代には盤双六と絵双六が共にすごろくと呼ばれていたため、混乱が生じた。盤双六は幕末期に廃れ、現在では、双六と言えばほぼ確実に絵双六を指す。
盤双六(ばんすごろく)は二人で遊ぶボードゲームであり、古い形のバックギャモンの一種である。盤上に配置された双方15個の石をどちらが先に全てゴールさせることができるかを競う。片方のプレイヤーは黒い石を、もう一方のプレイヤーは白い石を使う。平安時代は上手が黒とされ、江戸時代には上手が白とされた。
盤双六の起源についてはバックギャモン#歴史を参照。中国にはシルクロードを経由して入ってきた。魏の曹植が盤双六を発明したというのは伝説にすぎない。日本には遅くとも7世紀には中国から伝来した。
盤双六は広く知られた文学作品にも登場している。
盤双六はゲームの進行に際してさいころによる偶然の要素が大きいため、賭博に用いられた。『日本書紀』によれば、689年12月に持統天皇によって初めての禁止令が出されている。正倉院宝物中には聖武天皇の遺愛品とされる木画紫檀双六局(もくがしたんのすごろくきょく)が納められている。
鎌倉時代の宮廷の実力者西園寺公衡や室町時代の伏見宮貞成親王、戦国時代の山科言継の日記にも盤双六の記録が残されている。
雛飾りの雛道具では碁盤・将棋盤・双六盤の三面を婚礼調度のミニチュアとして並べることがある。盤双六はかつて上流階級の婦女子のたしなみでもあった。
盤双六は文化文政時代には衰微していた。第二次世界大戦後、舶来のバックギャモンが遊ばれるようになる。
絵双六(えすごろく、繪雙六)というのは、上記の盤双六の影響を受けて発達した遊戯で、紙に絵を描いてさいころを振って絵の上のマスの中にある駒を進めて上がりを目指すものである。ただし、かなり早い段階で(賭博の道具でもあった)盤双六とは別箇の発展を遂げていった。
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すごろく
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盤双六は文化文政時代には衰微していた。第二次世界大戦後、舶来のバックギャモンが遊ばれるようになる。
絵双六(えすごろく、繪雙六)というのは、上記の盤双六の影響を受けて発達した遊戯で、紙に絵を描いてさいころを振って絵の上のマスの中にある駒を進めて上がりを目指すものである。ただし、かなり早い段階で(賭博の道具でもあった)盤双六とは別箇の発展を遂げていった。
ただし、最古のものとされる浄土双六には絵の代わりに仏教の用語や教訓が書かれており、室町時代後期(15世紀後半)には浄土双六が遊ばれていたとされる。なお、その名称や内容から元は浄土宗系統の僧侶によって作られたとも言われ、江戸時代の井原西鶴の作品(『好色一代男』など)には浄土双六がしばしば登場する。文政年間の曲亭馬琴の『耽奇漫録』によれば、当時浄土双六には大きく分けて4種類あったとする。ほぼ同時期に書かれた柳亭種彦の『還魂紙料』には、双六の起源について、
という3つの説を述べ、選仏図説が一番もっともらしいとしている。
江戸時代の元禄年間には、道中双六・野郎双六(芝居双六)などが絵入りの双六が遊ばれるようになり、後期になると勧善懲悪や立身出世などのテーマ性を持ったものや浮世絵師による豪華な双六も出現するようになる。その一方で、春画などを用いたり、賭博性を持たせた双六も存在したため、天保の改革などにおいては禁圧の対象となっている。
明治時代以後は文明開化・富国強兵をテーマにしたものも現れ、次第に国民教化の手段として用いられるようになっていった。また、児童雑誌の付録として欠かせないものとなった。
戦後、遊びの多様化や社会の変化から双六は衰退したと言われている。しかし、今日のボードゲームやテレビゲームの中にさいころ(あるいは代用品としてルーレット)を用いてゲームを進行させる作品が多く存在しており、これらを双六の進化・発展した姿であると考えることもできる。
なお、絵双六そのものは日本独自のものであるが、西洋にもバックギャモンの影響を受けたと見られる、鵞鳥のゲームと呼ばれる双六に近い趣旨のゲームが14世紀頃から行われており、20世紀に入ってこうしたゲームの影響を受けてモノポリーや人生ゲームが発明されることとなった。
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すごろく
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なお、絵双六そのものは日本独自のものであるが、西洋にもバックギャモンの影響を受けたと見られる、鵞鳥のゲームと呼ばれる双六に近い趣旨のゲームが14世紀頃から行われており、20世紀に入ってこうしたゲームの影響を受けてモノポリーや人生ゲームが発明されることとなった。
さいころを2個振り、双方とも最大値である6のゾロ目がいかに出るかが形勢を左右したゲームであったため、「雙六」あるいは異字体として「双六」という字が当てられるようになった(「雙」・「双」は同じ意味を持つ)という説がある。しかし、日本の遊戯の歴史における先駆的な研究家である増川宏一は、江戸時代以前の日記などの記録類においては誤記と思われる少数例を除けば「雙六」と「双六」の使い分けがはっきりとしていること、日本語以外の言語でも盤双六系遊戯と絵双六系遊戯にはそれぞれ違う単語があてられているのがほとんどであることから、両者は同じ「すごろく」であっても全く別な遊戯であり、雙六(盤双六)に「双六」という表記を用いるのは不適切であると唱えている。
5世紀はじめに漢訳された『涅槃経』に見える「波羅塞戯」(はらそくぎ)が盤双六のことであるという。「波羅塞」はサンスクリットprāsaka(さいころ)の音訳。後に北魏では「握槊」(あくさく)と呼ばれ、南朝では「双六・双陸」(そうりく)と呼ばれた。唐以降は「双六・双陸」と呼ばれるようになった。(陸は六の大字。)日本語では古くは「すぐろく」と言った。これは「双六(または双陸)」の漢字音に由来すると考えられるが、「双」を「すぐ」と読むのは異例である(「す」の母音は上古音的であり、また /ŋ/ を「ぐ」のようにガ行で写すのは「愛宕(あたご・おたぎ)」などの固有名詞以外では珍しい)。
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スラブ近似
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スラブ近似(スラブきんじ、Slab approximation)は、周期的境界条件に縛られる通常のバンド計算手法(除く実空間法)において、表面などの周期的境界条件を満たさない系を扱うための一便法である。スラブモデル(Slab model)または、周期的スラブモデル(Repeated slab model)とも言うことがある。日本語では薄膜モデルとなる。
まず、表面を扱うためには、スーパーセルを考え、その中に表面層(スラブ)と真空層を考える。つまり、表面層-真空層-表面層-真空層...が無限に続く周期系と考える。表面層及び真空層が十分に厚ければ(このためスーパーセルが必要)、表面層(スラブ)同士及び、表面層の表面(おもてめん)と裏面との相互作用の影響を無視することができる。真空層の厚さは、場合によるが、だいたい10オングストローム程度取る。
表面層は、表裏両面を同等に計算する場合と、裏面を水素等で終端(大抵固定)して計算する場合がある。どちらも一長一短があり、両者の違いは論文などで議論されることもある。ただし、分子が表面吸着した系を計算する際には、表裏両面に吸着させる方が良いとされる。これは吸着によって表面付近に電気分極が生じるためで、表裏両面に吸着させることによって、スラブ同士が意図しない相互作用をすることを防ぐことができる。なお、片面に吸着させつつ、スラブ間の双極子相互作用を打ち消す外部電場を加える手法もある。
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1月19日
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1月19日(いちがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から19日目に当たり、年末まであと346日(閏年では347日)ある。
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セブンブリッジ
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セブンブリッジは、7枚の手持ちカードで行う2~6人用の日本のトランプゲーム。
ラミーのバリエーションの一つであり、そのルールには同じラミー系のゲームである麻雀との関連性が見られる。
ブリッジと名はついているが、コントラクトブリッジ(いわゆるブリッジ)とは全く関係がない。
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スーパーセル法
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スーパーセル法 (スーパーセルほう、super-cell method) は、シミュレーション計算手法の一つである。(主にバンド計算時に)周期的境界条件を置いてシミュレーションするときのセル(周期的に繰り返される単位)を理論的に最小なユニットセル(単位胞・単位格子)より大きなスーパーセルとする方法である。
周期的境界条件は、無限に同じセルが繰り返された系を仮定する。セルにユニットセルを使った場合、それは無限に続く完全結晶ということになる。不純物や欠陥を扱う場合や、表面を扱う場合にはそれは成り立たず、スーパーセル法が必要になる。
フォノン(格子振動)を従来型の方法で計算する場合も、Γ点以外のk点でのフォノンを求めるためには、スーパーセルでの計算が必要である(DFPT法では必要ない)。
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雑誌
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雑誌()とは、逐次刊行物であり、定期刊行物である出版物の一種。一般に流通している、漫画・小説を含む娯楽雑誌だけではなく、報道、それらを包含した総合雑誌、各種の趣味雑誌や専門雑誌、学術研究誌や官公庁誌なども含めた様々なジャンルに存在する。広義の本のうち雑誌は、単行本を中心とする書籍・図書と並ぶ二大情報源である。
雑誌の特徴としては以下のことが挙げられる。
こうした特徴により、速報性の点で日刊新聞には及ばないが、書籍・図書よりは優位にある。また書籍・図書に比べて刊行が容易であり、書籍・図書として発行するには難しい狭い専門分野の情報や娯楽情報の提供などに利用されている。
雑誌と書籍の中間的な存在としてムックがあり、流通上は雑誌として扱われている。
雑誌の刊行を始めることを「創刊」(第1号は「創刊号」)、刊行の中断は「休刊」、終了は「廃刊」と呼ぶ。休刊と称していても、実際には復刊せずそのまま廃刊となることも多い。
長期にわたって大部数で刊行が続く雑誌もあれば、流行の変化や出版不況などを背景に休廃刊したり、紙媒体ではなくオンライン配信に移行したりする雑誌もある。
日本の雑誌では、過去には雑誌によって号数の表記基準が異なり、中には実際の発売時期より数か月先の号数を表記する雑誌も現れるなどして、書店・読者の混乱を招いた。このため1986年11月に日本雑誌協会が制定した自主規程「雑誌作成上の留意事項」により、以下の範囲で発売日より先の日付・号数も付けることができるように決められた。その結果、現在は雑誌の新しさを演出するために発売日よりも前倒しで表記する雑誌が多い。なお発売日と同じ号数を表記しても構わない。
通常雑誌コードの下に L-mm/dd と表示されており発売年(年末の場合は翌年)のmm月dd日にまでが期限という意味である。しかし、大規模ではない書店では通常バックナンバーを保存する余裕がないため、新号発売前日の夜には全て回収され、箱詰めうえ翌朝に新号を納本にきた出版取次業者に渡されることが多い。
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雑誌
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通常雑誌コードの下に L-mm/dd と表示されており発売年(年末の場合は翌年)のmm月dd日にまでが期限という意味である。しかし、大規模ではない書店では通常バックナンバーを保存する余裕がないため、新号発売前日の夜には全て回収され、箱詰めうえ翌朝に新号を納本にきた出版取次業者に渡されることが多い。
雑誌は、百科事典の誕生と同様、新しい知識や情報、視点を広く一般に開示、紹介するものとして出発した。世界で最初の本格的な雑誌は1665年に仏国パリで創刊された『ジュルナル・デ・サバン』(fr:Journal des sçavans)と、同年に英国ロンドンで創刊された『フィロソフィカル・トランザクションズ』(The Philosophical Transactions)だと言われている。初めて「magazine」の語を使用したのは1731年にロンドンで創刊された『ジェントルマンズ・マガジン』(en:The Gentleman's Magazine)である。日本で最初の本格的な雑誌は、1867年(慶應3年)10月に洋学者の柳河春三が創刊した『西洋雑誌』だと言われ、「Magazine」の訳語に「雑誌」を用いている。総合雑誌としては明六雑誌が初になる。
日本雑誌広告協会雑誌分類認定委員会が定めた、「雑誌ジャンル・カテゴリー区分」。 分類項目は2021年7月時点のもので、ジャンル名・カテゴリ・対象読者の性別・ビークル・雑誌発行社の順に並べてある。なお、ティーンズは19歳以下、ヤングは20-24歳、ヤングアダルトは25-39歳、ミドルエイジは40-59歳、シニアは60歳以上を対象の目安とされている。
上記以外にも、様々な分野・年齢に向けた雑誌が存在する。
小売店販売が最も一般的な流通方法である。宅配販売やデジタル販売といった方法もとられる。
取次を通して書店や駅売店、コンビニエンスストアなどで販売される一般的な流通方法である。この場合は雑誌コードの取得が不可欠だが入手が難しい。
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雑誌
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上記以外にも、様々な分野・年齢に向けた雑誌が存在する。
小売店販売が最も一般的な流通方法である。宅配販売やデジタル販売といった方法もとられる。
取次を通して書店や駅売店、コンビニエンスストアなどで販売される一般的な流通方法である。この場合は雑誌コードの取得が不可欠だが入手が難しい。
刊行の間隔が短いものほど出版社への返品期限も短い傾向があるため、書店の棚に並ぶ日数は短くなる。雑誌によっては特約店や一部の書店で常備している場合もあり、書店在庫が数冊しかない場合には返品期限を過ぎても返品せずそのまま売り切るケースもあるが、それ以外での書店では過去に刊行された号(バックナンバー)の入手は難しい。また、いわゆるオンライン書店では流通システムの関係上バックナンバーは原則として返品せず、在庫を売り切るまで販売するケースが多い。
ヨーロッパでは、書店の他に雑誌と新聞のみを扱う専門店がある。一部、ペーパーバックも置いていたりする。新聞・雑誌店という類のもの。
専門的な分野の雑誌は、契約制で企業や個人宅に直接配送するものがある。専門的でなくても読者の便宜を配慮して、定期購読契約すれば宅配してくれる場合が多い。
小売販売と宅配を両方する雑誌が多いが、宅配専門の雑誌も存在する。小売販売と宅配を両方する雑誌の場合、定期購読契約すると送料が無料になり、さらにおまけなどの特典をくれる場合もある。
書籍や雑誌は、日本の文化政策の一環として郵便料金が安く抑えられており(ゆうメール)、特に第3種郵便に指定された定期刊行物の郵便料金は安い。学術刊行物(学会誌)の場合は第4種郵便としてさらに安い料金で送ることができる。郵便局以外の民間の宅配便業者でも、メール便の大口割引などで、比較的安い値段で宅配することができる。
これまでの紙の流通に加え、電子書籍の一種であるデジタル雑誌(aka 電子雑誌、デジタルマガジン)の発行が日本でも始まった。記事単位での販売や紹介ではなく、表紙から裏表紙までまるごと記事、広告ともに見せる形態である。これらデジタル雑誌はその特性を用いて、雑誌内が検索できたり、動画をみせたり、編集ページや広告ページからホームページへのリンクを飛ばしたりするなどの工夫がされているものもある。
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雑誌
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これまでの紙の流通に加え、電子書籍の一種であるデジタル雑誌(aka 電子雑誌、デジタルマガジン)の発行が日本でも始まった。記事単位での販売や紹介ではなく、表紙から裏表紙までまるごと記事、広告ともに見せる形態である。これらデジタル雑誌はその特性を用いて、雑誌内が検索できたり、動画をみせたり、編集ページや広告ページからホームページへのリンクを飛ばしたりするなどの工夫がされているものもある。
2006年には主婦の友社が紙では休刊した『ef』を『デジタルef』としてデジタル版のみで発行。2007年初旬には『ニューズウィーク日本版』や『R25』がデジタル版での流通を本格的に開始している。 ここにきて、他にも多くの雑誌(フリーペーパー含む)がデジタル雑誌として発売や発行され始めている。
米国では2002年ごろからデジタル雑誌での販売が始まっていて、新たな流通手段として定着している。
読者の購入によって出版社が得る販売代金の他に、特に近年においては広告料金の比率が高まっている。有名雑誌のカラー広告の出稿料金にはページ単価が200万円を超えるものもあり、広告媒体としての存在感が増す一方で、スポンサーを向いた誌面作りの傾向が強まることなどの弊害もある。
純粋な広告の他に、スポンサーとのタイアップ記事、広告企画記事が掲載されることもある。本文記事と区別するために広告であることが明記されたり、該当記事のみページ数を省いて印刷することもある。
雑誌広告は、より高い効果を期待して、当該雑誌の主な購読者層をターゲットにしたものとなる場合がほとんどである。とりわけ、一部の専門分野を対象にした雑誌では、一般の小売店では入手しづらい商品の通信販売を行う業者の広告が多く掲載される。そのため「広告も情報のうち」として、広告の多い雑誌が重宝がられる雑誌も一部存在する。一例を挙げると、電気回路(エレクトロニクス)関連の専門誌の場合、半分以上が電子部品や工具などの広告で占められている。
雑誌は読者からの投稿欄を設けているところが多い。商業的な理由から相応な質を担保するために編集部の選別を通ったものが掲載される。このことが読者に一定水準以上の文章を書かなければいけないという規範を植えつけ、知的水準の底上げに役立つと言われる。
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雑誌は読者からの投稿欄を設けているところが多い。商業的な理由から相応な質を担保するために編集部の選別を通ったものが掲載される。このことが読者に一定水準以上の文章を書かなければいけないという規範を植えつけ、知的水準の底上げに役立つと言われる。
雑誌に掲載された記事や作品(小説・漫画など)は書籍化されることもあるが、雑誌の内容全体に比してごく一部である。
このため新品としての販売期間が過ぎたバックナンバーが読書・鑑賞や収集の対象になることもある。古書店の中には特定のジャンルの雑誌バックナンバーを専門または品揃えの一部として扱う店もあるほか、インターネットオークションやフリマアプリなどを介して個人間で売買されることがある。
バックナンバーを閲覧できる場としては、雑誌専門図書館の大宅壮一文庫(東京都世田谷区)。同様な雑誌専門図書館であった「六月社」(東京都新宿区)は2018年6月10日で閉館となった。
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7並べ
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7並べ(しちならべ、sevens)は、トランプゲームの一つ。多くのトランプゲームの解説本(ホイル)では、チルドレンズ・ゲーム(子供向けのゲーム)として扱われている。また、ファンタンドミノともいう。
ストップ系のゲーム(=ルールに従って場に手札を出し、早く手札をなくすことを競うゲーム)である。
理論上は1人でも20人以上でも可能だが、4 - 10人程度が望ましい。
トランプ一組からジョーカーを抜いた52枚だが、ジョーカーを加えることもある(ワイルドカードとしてのジョーカーは後述)。
ゲームが進むにつれて、場にカードが順に置かれていく。この際カードはスート毎に、ランク順に並べる(Aをランク最小のカードとみなし、以下2、3 ⋯ {\displaystyle \cdots } J、Q、K)。ゲームが終了して全てのカードが出揃うと、スート毎に揃ったAからKまでの列が4列できる。
カードを並べる際、同じスートのカード同士はカードの長辺が互いに接するように置く。また、各スートのカードの列は、カードの短辺側が互いに接するように置く。(図参照)
これはあくまでも基本ルールで、日本での公式大会ではこのルールで行っている。
各プレイヤーは、自分の番が来たら、次のいずれかの行動を取る。
手札から出せるカードには制限がある。カードを手札から出せるのは、そのカードと同スートで、ランク(数字)が一つ異なるカード、及びそのカードから7までのカードが全て場に出ている場合のみである。(J、Q、Kは11、12、13相当)
このため、場に出ているカードは7から同スートの隣り合うカードへと広がっていく形となる。
例えば今スペードの札が ♠ {\displaystyle \spadesuit } 5から ♠ {\displaystyle \spadesuit } 9まで場に出ている時、スペードの札で場に出せるのは、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 4と ♠ {\displaystyle \spadesuit } 10だけである。
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7並べ
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例えば今スペードの札が ♠ {\displaystyle \spadesuit } 5から ♠ {\displaystyle \spadesuit } 9まで場に出ている時、スペードの札で場に出せるのは、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 4と ♠ {\displaystyle \spadesuit } 10だけである。
場に出せるカードを持っていない場合、プレイヤーはパスを宣言する。パスは事前に定められた回数(多くの場合3回)しかできない。(定められた回数)+1回のパスをした(3回パスしても出せるカードがない)時点で負けとなり、そのプレイヤーはゲームから脱落する(ルールの詳細は後述)。
ゲームの途中で脱落しなかったプレイヤーの中で、最初に手札を全て使い切ったプレイヤーが優勝である。以下順に、(ゲームの途中で脱落しなかったプレイヤーの中で)、2番目、3番目 ⋯ {\displaystyle \cdots } に手札を全て使い切ったプレイヤーが2位、3位 ⋯ {\displaystyle \cdots } になる。
ゲームの途中で脱落してしまったプレイヤーの順位は、脱落していないプレイヤーの順位よりも低い。最初に脱落してしまったプレイヤーの順位が最も低く、以下2番目、3番目 ⋯ {\displaystyle \cdots } に脱落したプレイヤーの順位が2番目、3番目 ⋯ {\displaystyle \cdots } に低い。
※順位付けも地方により様々でこの限りではない。
場に出せるカードがあるにもかかわらず戦略的な理由でわざとパスをしてもよい、というルールが一般的である。
♠ {\displaystyle \spadesuit } の札を持っているのに、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } の札をわざと出さずにパスすることを、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } を止めるという。
ゲームの途中でプレイヤーが脱落したら、そのプレイヤーの手札を全て、場の該当箇所に置いた後、残りのプレイヤーはゲームを続ける。この際脱落したプレイヤーの手札に、現時点では出せないはずの手札があっても、場に並べる。
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7並べ
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ゲームの途中でプレイヤーが脱落したら、そのプレイヤーの手札を全て、場の該当箇所に置いた後、残りのプレイヤーはゲームを続ける。この際脱落したプレイヤーの手札に、現時点では出せないはずの手札があっても、場に並べる。
例えば場にハートの札が ♡ {\displaystyle \heartsuit } 3から ♡ {\displaystyle \heartsuit } 8まで場に出ている段階で、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 10を持っているプレイヤーが脱落したとする。このプレイヤーが ♡ {\displaystyle \heartsuit } 9を持っていなければ、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 8の隣りに(将来 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 9を置くために)カード一つ分の間を空けて、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 10を置く。
誰かが脱落した後のプレイにおいても、手札から出せるカードのルールは変わらない。カードを手札から出せるのは、そのカードと同スートの7の札とそのカード自身とを結ぶ札がすでに場に出ている場合だけである。
例えば今スペードの札が ♠ {\displaystyle \spadesuit } 5~ ♠ {\displaystyle \spadesuit } 8と ♠ {\displaystyle \spadesuit } Jとが場に出ている時、スペードの札で場に出せるのは、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 4と ♠ {\displaystyle \spadesuit } 9だけである。 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 10や ♠ {\displaystyle \spadesuit } Qは ♠ {\displaystyle \spadesuit } 7と結ばれていないので出すことはできない。(ローカルルールによっては出せる場合がある)
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7並べ
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ジョーカーを一枚または二枚追加してゲームを行う。ジョーカーはワイルドカードとしての役目を果たす。ジョーカーを持っているプレイヤーは、自分の番であれば任意の時に、通常の札を出す代わりにジョーカーを場に置くことができる。ババ抜きと同じく、最後にジョーカーを持っていたプレイヤーは負けとなる(ジョーカーで上がったりジョーカーだけを残すと反則負けとなるルールもある。)が、前述の通り、プレイヤーの誰かが4回目のパスをして脱落した場合はジョーカーを持っているプレイヤーでも最下位ではない順位となる。
プレイヤー(以下Aと呼ぶ)がジョーカーを置いたら、ジョーカーが置かれた位置のカードを持っているプレイヤーはすぐにその位置のカードを出し、代わりにジョーカーを手札に加えなければならない。ただルールによってはジョーカーを受け取るか任意で選択できるようにしている場合もある。
例えば、プレイヤーAがジョーカーを ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 5の位置に置いたら、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 5を持っているプレイヤーはジョーカーの位置に ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 5を置き、ジョーカーを引き取らなければならない。
プレイヤーAがジョーカーを置くことができるのは、現時点でプレイできるカードの位置だけである。例えばハートのカードが ♡ {\displaystyle \heartsuit } 4から ♡ {\displaystyle \heartsuit } Jまでしか場に出ていなかった場合、プレイヤーAは ♡ {\displaystyle \heartsuit } 2の位置にジョーカーを置くことはできない。ハートでプレイヤーAがジョーカーを置けるのは、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 3か ♡ {\displaystyle \heartsuit } Qだけである。
ジョーカーの位置のカードが出されたら、プレイヤーAの左隣のプレイヤーの番に移る。
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ジョーカーの位置のカードが出されたら、プレイヤーAの左隣のプレイヤーの番に移る。
ルールによっては、ジョーカーは単独で使わず、場に出したいカードの間を埋める形で使用する。上記の例で言えば、プレイヤーAが ♡ {\displaystyle \heartsuit } 2を出したい場合に、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 4の隣にジョーカー・ ♡ {\displaystyle \heartsuit } 2の順に並べて配置する。 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 3を持っているプレイヤーはジョーカーの位置にカードを出し、代わりにジョーカーを手札に加えなければならない。このルールでは条件を満たすカードが無いとジョーカーを出せないため、場に出ているカードから一つ飛ばしたカードが無いような終盤にジョーカーを持っていると負けが確定する。
ローカルルールとして、2ゲーム以上続けて行う場合、2回目以降に最初にジョーカーを持つのは必ず前のゲームの敗者(最後までジョーカーを持っていたプレイヤー)とする場合がある。
A/Kは「隣り合った」ランクであるとみなす。すなわち♠の7からKまでが場に出ている時には♠のAを場に出すことが許されるし、♠の7からAまでが場に出ている時には♠のKを場に出すことが許される。
♠のAとKとが場に出ている時、♠のAとKとはつながっているという。
♠の7からKまでが場に出たら、以後順に♠の2,3,4 ⋯ {\displaystyle \cdots } を場に出すことができるし、♠の7からAまでが場に出たら、以後順に♠のQ,J,10 ⋯ {\displaystyle \cdots } を場に出すことができる。
♠の7からKまでが場に出た状態で、♠の6,5,4 ⋯ {\displaystyle \cdots } 側にカードをつなげたり、♠の7からAまでが場に出た状態で、♠の8,9,10...側にカードをつなげたりする行為が許されるルールの方が一般的である。
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♠の7からKまでが場に出た状態で、♠の6,5,4 ⋯ {\displaystyle \cdots } 側にカードをつなげたり、♠の7からAまでが場に出た状態で、♠の8,9,10...側にカードをつなげたりする行為が許されるルールの方が一般的である。
AKリンク同様、A/Kは「隣り合った」ランクであるとみなす。とみなす。しかし、♠の7からKまでが場に出た状態で、♠の6,5,4 ⋯ {\displaystyle \cdots } 側にカードをつなげたり、♠の7からAまでが場に出た状態で、♠の8,9,10...側にカードをつなげたりする行為を許さない場合、♠のAとKがつながった場合に、♠を止めているプレイヤーが逆に不利となるルールである。ハンゲームではこれをトンネルルールという。
ゴーストというゲームから入った、日本特有のオプショナル・ルールである。
ゲームからまだ脱落していないプレイヤーはゲームから脱落したプレイヤーと会話してはならない(脱落したプレイヤーはあの手この手で脱落していないプレイヤーとの会話を試みる)。もし脱落したプレイヤーと会話してしまったら、脱落したプレイヤーと会話してしまったプレイヤーとの立場が入れ替わる。脱落したプレイヤーは会話してしまったプレイヤーの手札を使ってゲームに復帰し、逆に会話してしまったプレイヤーはゲームから脱落したものとみなされる。
お化けのルールを採用した場合、どの時点でゲームから脱落したとみなすべきかは難しい。ゲームが終了していた段階で脱落したプレイヤー同士順位の決めに関して固定的なルールはない。
2~3人でのプレイ時に戦略性を持たせる為に採用される。
手番にカードを出した際、そこに隣接するカードを手札から連続で出しても良いとする。 例として、自分の手番にスペードの8を出し、更にスペードの9,10,Jを出すというもの。 2枚目以降は1コンボ、2コンボとカウントする。ターン終了時には、コンボ数と同枚数の任意の手札を次プレイヤーに譲渡できる。 (上記の例では、追加分スペードの9,10,J分=3コンボ=3枚譲渡)
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手番にカードを出した際、そこに隣接するカードを手札から連続で出しても良いとする。 例として、自分の手番にスペードの8を出し、更にスペードの9,10,Jを出すというもの。 2枚目以降は1コンボ、2コンボとカウントする。ターン終了時には、コンボ数と同枚数の任意の手札を次プレイヤーに譲渡できる。 (上記の例では、追加分スペードの9,10,J分=3コンボ=3枚譲渡)
手札を配り終えた時、各プレイヤーが一斉に7を場に出す代わりに、前のゲームで最下位だったプレイヤーはセンターにしたい数字を1つ選ぶ。そうしたのであれば各プレイヤーは指定された数字を一斉に場に出す。指定された数字の ♢ {\displaystyle \diamondsuit } を持っていたプレイヤーを先手とする。
ジョーカーを選択してはならない。
前のゲームが無い最初のゲームに限り、センターは7である。
日本の7並べは外国のファンタン(fantan)というゲームが元になっている。ファンタンのルールは日本の7並べとほとんど同じである。ただし、7並べでは事前に7を全て並べてからゲームを開始するのに対し、ファンタンでは場に一枚もカードがない状態からゲームを始める。7の札を持ったプレイヤーは、自分の番が来たときに7を場に出す権利を持っている。誰かが7を場に出したら、皆はその♠の札を7につなげることができる。
殺しの7並べという名称が一般的だが、陰険7並べ、封鎖の7並べと呼ぶ事もある。
以下、仮に ♠ {\displaystyle \spadesuit } 、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 、 ♣ {\displaystyle \clubsuit } の順に7のカードが並べられているとしてルールの説明をする。
主に以下の二点において通常の7並べと異なる:
殺しの7並べで出すことができる札は、通常の7並べで出せる札よりもずっと多い。各プレイヤーは自分の番が回ってきた時、以下の条件を満たすカードを出すことができる:
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7並べ
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主に以下の二点において通常の7並べと異なる:
殺しの7並べで出すことができる札は、通常の7並べで出せる札よりもずっと多い。各プレイヤーは自分の番が回ってきた時、以下の条件を満たすカードを出すことができる:
例えば ♡ {\displaystyle \heartsuit } 10を出すことができるのは、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 9、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } J、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 10、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 10、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 9、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } J、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 9、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } Jのいずれかの札がすでに場に出ている時に限る。
カードXがまだ場に出されていない状態で、カードXと上下左右に接する札が全て場に出ている時、カードXは死んでいるカードと呼ばれる。死んでしまったカードは場に出すことはできない。
手札が全て死んでしまったカードのみになったプレイヤーはゲームから抜ける。通常の7並べと同様、定められた回数以上にパスをしたプレイヤーはゲームから脱落する。全員がゲームから抜けるか脱落するかした段階でゲームは終了である。
脱落していないプレイヤーの中で、手札として持っている死んでしまったカードの枚数が最も少ないプレイヤーが優勝である。二人のプレイヤーが持っている死んでしまったカードの枚数が同じ時は、先にゲームから抜けたプレイヤーの方が順位が高い。
通常の7並べと異なり、(死んでしまったカードの枚数が同じでない時は)、いつゲームから抜けたのかにかかわらず順位が決まることに注意されたい。
ゲームから脱落してしまったプレイヤーの順位の決め方は、通常の7並べと同じである。
場の外側は「壁」で囲まれているものとみなし、隅や角にあるカードはそれぞれ3方向、2方向を囲まれたら死んだものとみなす。
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通常の7並べと異なり、(死んでしまったカードの枚数が同じでない時は)、いつゲームから抜けたのかにかかわらず順位が決まることに注意されたい。
ゲームから脱落してしまったプレイヤーの順位の決め方は、通常の7並べと同じである。
場の外側は「壁」で囲まれているものとみなし、隅や角にあるカードはそれぞれ3方向、2方向を囲まれたら死んだものとみなす。
例えば ♠ {\displaystyle \spadesuit } 8は、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 7、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 9、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 8が場に出そろった段階で死に、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } Aは、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 2、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } Aが出そろった段階で死ぬ。
死の定義に関して以下の2種類の地方ルールがある。
第2のルールを例で説明する。例えば ♡ {\displaystyle \heartsuit } A、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 4、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 2、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 3、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 2、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 3が出そろった段階で ♡ {\displaystyle \heartsuit } 2、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 3は両方とも死ぬ。
手札として保管せず、死んだ段階で、場の札とまざらないように自分の真下に置いておく。表向きに置く、というルールと裏向きに置くというルールとがある。
通常の7並べで8を持って邪魔する人から転じて、買う気もないのに物を無駄に取り置きしたり、大して興味のない他人に独占欲を抱く人のことを「エイトキーパー」と呼ぶ。
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ニュース
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ニュース(英: news)とは、珍しい出来事や新しい情報のことである。また、最近発生した政治や事件・事故・スポーツ・地域情報などの出来事や珍しい出来事などを伝えることである。
新聞やテレビ、ラジオ、電光掲示板、ウェブ(特にニュースサイト)などがメディアとして使われる。テレビが普及する以前には、映画(ニュース映画)も使われた。
1990年代以降、ウェブ(インターネット)の普及で個人などでもニュースを発信することができるようになった。この場合は専門的な情報のみのニュースが多い。
市場調査会社ピュー・リサーチセンターの2008年12月の調査によれば、ウェブを媒体としてニュースを知る人の割合が、ついに新聞を上回った。調査は2008年12月上旬にアメリカ国内の1,489名の成人に対して行われたもので、40%がウェブから国内外のニュースを得ることが多いと回答し、一方、新聞からという者は35%にとどまった。新聞を情報源としている人の割合は2005年からほぼ横ばいだが、ウェブを情報源としている人の率が高くなっており、2007年9月の前回調査では24%であった。 一方、テレビをニュース情報源としているしたのは回答者の70%であり、依然ウェブと新聞を上回っている。30歳以下の若年成人層に限定すれば、ウェブはすでに情報源としてテレビに追いつき、ともに59%となった。2007年ではテレビの割合は68%、ウェブの割合は34%であり、急速にウェブの割合が増えている。
英語の綴りは「news」であり、「ニューズ(英国)」「ヌーズ(北米)」と読む。これは「new」を複数形にしたものであり、「(複数の)新しいこと」という意味の、中世ラテン語やフランス語の単語から英訳された。
この語の語源が方角をあらわす「北」「東」「西」「南」のそれぞれを意味する英語「North」「East」「West」「South」の頭文字だという意味だといわれることがあるが、これは民間語源で間違いである。
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天気予報
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天気予報()とは、ある地域で天気がどう変化するか予測し、知らせること。気象予報()ともいう。
過去の天気や現況の天気、気圧、風向、風速、気温、湿度など大気の状態に関する情報を収集し、これをもとに、特定の地域あるいは広範囲な領域に対し、当日から数日後まで(種類によっては数か月後に及ぶものもある)の天気風、風、気温などの大気の状態と、それに関連する水域や地面の状態を予測して伝えるものである。
日常生活や業務に対して天気が与える影響は非常に大きく、19世紀に近代気象学が生まれると同時に科学的な天気予報の試みが行われてきた。現代における天気予報は、気象のメカニズムを解明する気象学の発達と並んで、多種多様で世界的な気象観測網の構築、コンピューターの発展に支えられた数値予報インフラストラクチャーの整備、そして情報を一般に広く伝えるマスメディアによって支えられ、運用されている。
地球の大気の挙動は、カオスそのものであるため、初期値鋭敏性が高く、大気シミュレーションの計算誤差が、反復計算により指数関数的に増大するため、長期間の予測は極めて難しい。また地形の影響が大きい山岳部は天気が急変しやすく、予報のアルゴリズム精度が落ちるなど正確な天気予報が外れることも多い。しかし、予測の初期値を得る大気計測、気象衛星による観測データやスーパーコンピュータの利用などにより、予報精度は向上している。
数値予報が台頭してくるまで、天気予報は観測記録をもとにした過去のノウハウや経験則の蓄積に頼る部分が大きく、予報官の経験に左右されるところが大きかった。数値予報の登場によって解析業務の負担が軽減されるとともに、精度が向上して予報の幅も広がってきている。また、観測の自動化・無人化も急速に進んでいる。
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天気予報
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数値予報が台頭してくるまで、天気予報は観測記録をもとにした過去のノウハウや経験則の蓄積に頼る部分が大きく、予報官の経験に左右されるところが大きかった。数値予報の登場によって解析業務の負担が軽減されるとともに、精度が向上して予報の幅も広がってきている。また、観測の自動化・無人化も急速に進んでいる。
気象観測・情報収集・研究に関しては、世界気象機関(WMO)などの国際機関、世界各国の気象機関や防災担当の国家機関、研究機関や大学などによって連携して行われている。世界各国で法的な規定をもって責任機関を定め、気象に関する業務を担当させている。国によっては予報業務の自由化(民間開放)も進められているが、国際的には、国連の世界気象機関が、1995年の第12回世界気象会議議決事項40附属書3において、「関係する加盟国が認めた場合を除き、商業セクターの気象業務提供者は、その活動する国及び海域において、生命及び財産の安全に関わる予報及び警報を公表してはならない。商業セクターが公表する生命及び財産の安全に関わる予報及び警報は、国家気象・水文気象機関等の公的機関が公共的な業務に係る責務として実施するものと矛盾しないものでなければならない」との指針を示している。
現代の天気予報は、ゲリラ豪雨や激化する猛暑などに代表される気象災害の増加・変化やニーズの変化への対応、エルニーニョ・南方振動(ENSO)や北極振動(AO)等の最新知見を取り入れた予報精度の向上などが大きなテーマとされている。そのため、そういった豪雨などの異常気象、ENSOやAOなどの気候パターン、地球温暖化などの気候変動の解明が求められているほか、気象機関は市民に対して天気や気候変動に関する説明・解説を行う一定の責任も負っている。
一般的な天気予報の情報は、どこの(予報区域)、何を(予報要素)、いつからいつまで(予報期間)、どんな形式で(予報形式)予報するかという4つの大きな要素がある。
上の3形式が典型的な予報形式である。これ以外に分類できないものとして、最も可能性の高い1つの状態を表現するもの(天気図など)。
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天気予報
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一般的な天気予報の情報は、どこの(予報区域)、何を(予報要素)、いつからいつまで(予報期間)、どんな形式で(予報形式)予報するかという4つの大きな要素がある。
上の3形式が典型的な予報形式である。これ以外に分類できないものとして、最も可能性の高い1つの状態を表現するもの(天気図など)。
天気は多くの人々の生計と生活に大きな影響を与えるものであり、古代においてもこのことは今にもまして重要なことであった。およそ数千年の間、人々は一日が、もしくは一つの季節がどのような天気になるか予想しようとしてきた。紀元前650年に、バビロニア人は雲のパターンから天気を予測し、紀元前およそ340年には、アリストテレスが気象学に基づいた天候のパターンを描き出した。中国大陸の民族も少なくとも紀元前300年までに天気を予測していた。
通常、古代の天気予報の方法は、天候のパターンを見つけることに依存していたために全ては経験に頼ったものであった。例えば、日没時に空が際立って赤かったならば、翌日は晴れが予想される、などといった具合にである(「夕焼け#観天望気」参照)。この経験は、世代を越えて天気に関する知恵(たとえば諺など、観天望気)を蓄積することとなった。しかしながら、これらの予測全てが信頼できるものだと証明されるとは限らず、また、それら経験に頼った天気予報は後の研究により厳格な統計学的分析に依拠しないものもあるということが判明してきている。
特に漁師や廻船などの船乗りは荒れた海に出ると生命にかかわるため、天気の観測・予測を日本では「日和見」を重視した。日本各地に残る日和山(ひよりやま)等の地名は、そこから天気の具合を観察したことによる。
日本では1884年(明治17年)6月1日に近代的な天気予報の第一号が発表されたが、江戸時代には平戸藩で参勤交代など船の運航を担っていた山崎家は天気見様(てんきみよう)という天気観測・予報に力を入れていた。
1837年の電報の発明まで、近代的な天気予報の時代は到来しなかった。この発明までは蒸気機関車より少しでも早いリアルタイムの大気の状態についての情報は伝えることができなかったからである。しかし電報の発明は、ほぼ瞬時に広範囲から気象の状態に関する情報を収集することが可能となった。このことにより、はるか風上の天気の情報を元にした天気予報が可能となった。
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1837年の電報の発明まで、近代的な天気予報の時代は到来しなかった。この発明までは蒸気機関車より少しでも早いリアルタイムの大気の状態についての情報は伝えることができなかったからである。しかし電報の発明は、ほぼ瞬時に広範囲から気象の状態に関する情報を収集することが可能となった。このことにより、はるか風上の天気の情報を元にした天気予報が可能となった。
クリミア戦争の際、暴風で黒海の英仏艦隊が壊滅したのを受けて、フランスのパリ天文台台長のユルバン・ルヴェリエが暴風雨を予測する研究を行い、天気予報の必要性をナポレオン3世に進言した。
1854年に設立されたイギリス気象庁は世界で最も早期に設立された気象機関の一つで、1870年代に天気図の作成を開始、1879年には新聞に対して情報提供を開始するなど先進的な試みを行っている。気象学の発達した欧米各国は、1873年に国際気象機関(IMO、後の世界気象機関)を設立して国際協力を推進した。一方で、軍事機密を伴う部分もあるため、予報のノウハウは各国が独自に培っていった部分が大きい。
科学的な天気予報の誕生に功績があったと最も信じられている人物は、フランシス・ボーフォート(ボーフォート風力階級で知られる)と彼の部下ロバート・フィッツロイ(the Fitzroy Barometerの開発者)である。2人はイギリスの海軍や政官界で影響力をもった人物で、当時新聞で嘲られていたが、彼らの仕事は、科学的信頼を獲得し、英国艦隊によって受け入れられ、今日の天気予報知識の全ての基礎を形成した。
20世紀の間に、大気変化の研究を取り入れた気象学は大きく進歩した。数値予報の考え方は1922年にルイス・フライ・リチャードソンによって提示された。しかしながら、天気予報を成り立たせるために必要な膨大な計算をこなすコンピュータはその当時存在しなかった。1970年に初めて、数値予報により世界中の天気予報業務を行うことが可能となった。
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天気予報
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20世紀の間に、大気変化の研究を取り入れた気象学は大きく進歩した。数値予報の考え方は1922年にルイス・フライ・リチャードソンによって提示された。しかしながら、天気予報を成り立たせるために必要な膨大な計算をこなすコンピュータはその当時存在しなかった。1970年に初めて、数値予報により世界中の天気予報業務を行うことが可能となった。
国際テレビ放送やインターネットの発達により天気予報のグローバル化が進んでいる。特に先進国の民間気象会社は、世界の気象機関や自社で観測したデータなどをもとに世界各国の天気予報をインターネットや各メディアでユーザーに届けるようになった。グローバルな天気予報は利便性を向上させる一方、情報源、予報技術、信頼性などが見えにくく、災害をもたらすような気象現象において責任国家機関の情報と各民間気象事業者の予報が異なる事態により受け手が混乱を招く問題も指摘されている。世界気象機関WMOでは情報の混乱の緩和を図るため、世界の主要都市の週間予報と災害の危険のある顕著現象について公式の情報提供を行っている。
一方で気象サービスの商業化とともに、各国の公共サービスの見直しや財政の緊縮化を背景に、国家が気象サービスを有料化する動きもある。その顕著な例がニュージーランドで、ニュージーランドでは政府が100%株式を保有する政府企業が有料で気象サービスを提供するようになっている。ヨーロッパでもこのような商業化の流れがみられるが、アメリカや日本では通信料だけで国の機関から気象サービスの提供を受けることができ商業化とは対極にある。気象サービスの商業化政策に対しては、気象情報の有効活用や開発意欲を阻む要因になるともいわれている。
現代の天気予報システムは5つの構成要素から成り立っている。
気象学は地道な観測から始まったように、天気予報においても不断の観測が予報を支えている。デジタル計器など存在せず有人観測が主流だった時代には、多数の観測点を設置して定期的に人の手により交代で観測を行っていた。自動観測が広く普及した現在、観測点数を増やすことも容易になり、無人化も進行してきている。
現在、世界的に主流な観測方法として、
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天気予報
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現代の天気予報システムは5つの構成要素から成り立っている。
気象学は地道な観測から始まったように、天気予報においても不断の観測が予報を支えている。デジタル計器など存在せず有人観測が主流だった時代には、多数の観測点を設置して定期的に人の手により交代で観測を行っていた。自動観測が広く普及した現在、観測点数を増やすことも容易になり、無人化も進行してきている。
現在、世界的に主流な観測方法として、
観測の精度を一定に保つため、観測機器の仕様や運用についてはWMOが統一基準を定めており、それに基づき各国は細かい基準を定めている。日本では観測機器の気象測器検定、気象庁による「気象観測の手引き」などがこれに該当する。
観測要素の多い気象台を中心として、国際的に情報提供する観測点が定められており、全球気象通信システム(GTS)に載せられ世界中へ配信される。日本では、気象庁が構築しているネットワークであるADESSを経由してGTSへ接続されている。また、AMDAR等の情報ネットワークもある。この国際データはSYNOP、SHIP、METARなどのいわゆる国際気象通報式の形式をとり、WMOやICAOにより定められた統一基準に従って定時(SYNOP3時間毎、METAR1時間毎など)・臨時に情報を送信する。
天気予報には、情報の迅速な伝達と収集が重要である。気象庁では、COSMETSで情報の統合整理を行っている。国際データ、ブイやラジオゾンデ、気象台の観測データはADESS経由で、気象情報のデータは気象衛星センターのサーバ経由で、アメダスのデータは地域気象観測センター経由で、COSMETSに送信される。国際的には、全球通信システム(GTS)と呼ばれる世界規模の通信網を通して各国の気象機関の間で情報をやり取りしている。また途上国向けに、全球データ処理・予測システム(GDPFS)のもとで、各地域の主要気象機関がガイダンス資料(後述)までの作成も行い、提供している。
理論式で構成された数値予報モデルに観測値を入力する(データ同化)。観測値は観測点の偏りが原因でデータの分布はまばらであるため、推定(客観解析)を行ってデータを補正する。このデータを一次データとして、ガイダンスを作成する。
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天気予報
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理論式で構成された数値予報モデルに観測値を入力する(データ同化)。観測値は観測点の偏りが原因でデータの分布はまばらであるため、推定(客観解析)を行ってデータを補正する。このデータを一次データとして、ガイダンスを作成する。
気象庁では、COSMETSの中の演算部分であるNAPSで数値予報の演算を行い、予報結果を気象庁本庁のほか、各地の気象台などへと送信する。演算には高性能のスーパーコンピュータの利用が不可欠であり、その性能が予報精度や速度を左右する。
数値予報モデルの演算結果はあくまで格子点形式で物理量を出力するのみであるため、これを予報に利用しやすい形に変換する必要がある。例えば、気圧配置データをもとに天気図を作成したり、湿度・気温・気圧のデータから雲量を割り出し更にそれから天気分布を割り出すなどの「翻訳作業」を行う。こうして作成した気象のパターン資料を天気予報ガイダンスという。ふつう、いくつかのパターンのガイダンス資料を出力しておき、それらの中から検討を行い、最適化や補正を行って、1つの値あるいは数値幅を決めたり、予報文の検討や警報の判断を行ったりする。
導き出された情報を予報の種類に合わせてまとめ、適切な形式で発表する。予報期間が長いほど精度が下がるため、天気・気温・降水確率などの一般的な天気予報は1週間後までしか行われていない。また、雨や雷、突風や集中豪雨などの局地現象の様子を提供するレーダー画像やナウキャスト、地図上で台風の進路を示す台風情報など、天気予報の形式は様々である。
また、航空管制、鉄道、バス、船舶などは、その分野に適した専門的情報を提供する必要がある。例えば、航空管制における飛行場予報や航空路の乱気流、着氷、火山灰の予測、船舶における波浪、海流、海水温の予測などが挙げられる。
天気予報の信頼性は、予報精度の高さに左右される。日本の気象庁における、適中率(1992年〜2019年の28年間全国平均)を挙げると、17:00発表の翌日予報で83%、翌々日で80%、11:00発表の週間天気7日後予報で67%となっている。適中率は、"降水の有無の適中率"とされており、晴れや曇りなどの天気概況の適中判定ではない。
予報精度の評価方法は、予報形式ごとにいくつかある。
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天気予報
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天気予報の信頼性は、予報精度の高さに左右される。日本の気象庁における、適中率(1992年〜2019年の28年間全国平均)を挙げると、17:00発表の翌日予報で83%、翌々日で80%、11:00発表の週間天気7日後予報で67%となっている。適中率は、"降水の有無の適中率"とされており、晴れや曇りなどの天気概況の適中判定ではない。
予報精度の評価方法は、予報形式ごとにいくつかある。
カテゴリー予報では、実際と予報の両方において、各カテゴリ内の事象出現回数を表にまとめ、次のような指標を用いて表現する。この方法では、見逃し率と空振り率は、現象が発生するかしないかの2カテゴリ(計4区分)を用いるのが適切である。
量的予報では、以下の指標が用いられる。
確率予報では、以下の指標が用いられる。
気象に関する主要な国際機関として、国際連合の下部機関である世界気象機関(WMO、本部ジュネーブ)や国際民間航空機関(ICAO)がある。
WMOは天気予報の分野では、観測方法の国際的統一のための「技術規則」や「国際気象通報式」の採択、国際気象専用回線網の構築、世界気象センター (WMC)や特別地域責任センター(RSMC)など支援センターの設置を行っている。統一的な観測方法と国際回線の構築により、先進国では日々の数値予報モデルの運用が可能になっている。また、発展途上国では特別地域責任センターRSMCの提供する情報を国際回線やインターネットで入手することで自国の天気予報に役立てている。
アメリカでは1956年からアメリカ気象学会(AMS)が気象コンサルタントCCM(Certified Consulting Meteorologist)の資格試験を実施している(技能資格であり国家資格ではない)。CCMの取得要件は何度も改定されているが、高等教育機関で一定の気象学の学習と単位を取得していることが要件になっている。
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天気予報
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アメリカでは1956年からアメリカ気象学会(AMS)が気象コンサルタントCCM(Certified Consulting Meteorologist)の資格試験を実施している(技能資格であり国家資格ではない)。CCMの取得要件は何度も改定されているが、高等教育機関で一定の気象学の学習と単位を取得していることが要件になっている。
また、ラジオやテレビに出演する天気キャスターの資格として、Seal of Approval Program for Radio and Television(AMSの科学者らによって1959年に創設)やNational Weather Association Broadcast Seal of Approval(1982年にNationalWeatherAssociation(全国気象協会)が創設)がある。
英国放送協会(BBC)では創立時から天気予報を放送していたが、日々の天気予報を放送するようになったのは1923年3月からである。BBCは1922年11月14日からイギリス気象庁の天気予報の提供を受けていたが、2015年に打ち切りが報じられた。
首都ロンドンのピカデリーサーカスの電光掲示板では2017年の改修後から天気予報も表示されることとなった。
アメリカとイギリスは世界空域予報センターを分担して運営しており国際線の飛行計画や航空機の運航のために必要な風や気温の情報を提供している。
日本の気象業務法は、気象に関する観測・情報収集から発表まで、および研究、それらに付帯する業務を「気象業務」と定めており、気象庁が中心となって執り行っている。
気象庁が発表する一般向けの予報の種類には、あらかじめ決められた予報区ごとの気象状態を予報するものと、地図上を一定の大きさの升目に区切った格子ごとの気象状態を予報するものとがある。
前者の例としては、
がある。また、警報・注意報や気象情報も予報区ごとに発表される。
以前は週間予報は週1回程度→後に週2回程度の発表であったが、現在は毎日発表されている。季節予報はおおむね月の下旬に3か月先の予報、毎週木曜日に翌月1か月分の予報を出すことが一般的である
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天気予報
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前者の例としては、
がある。また、警報・注意報や気象情報も予報区ごとに発表される。
以前は週間予報は週1回程度→後に週2回程度の発表であったが、現在は毎日発表されている。季節予報はおおむね月の下旬に3か月先の予報、毎週木曜日に翌月1か月分の予報を出すことが一般的である
予報区の種類には、「全般」(日本全国)、「地方」(全国で11)、「府県」(東京都を含む、広大な北海道は2〜3の振興局ごとに細分)などがあり、どの予報区について予報を発表するかは、予報の種類によって異なっている。
予報には、天気の予報以外に、最高・最低気温、降水確率の予報も含まれる。また、時系列予報および短期予報では、時間ごとの気温、風向・風速、降水量、波浪の高さなども含まれる。気温や風向風速、天気などは、予報区内の代表的地点(気象官署またはアメダス観測所のある地点)における予報値が発表される。
短期予報と地域時系列予報は原則として5時・11時・17時の3回発表している。週間予報は11時・17時の2回発表している。
2008年7月28日の都賀川水難事故や2014年8月20日に発生した広島土砂災害などのように、当初発表した予報が大雨に結びつかなくても(曇り時々晴れ)、突発的に積乱雲が発達して大雨になることがある。特に「雷を伴う」が発表されている場合は注意が必要である。
後者の例としては、
がある。
前者(予報区ごと)に比べると、過去の解析・現在の実況の経過を見ながら、予報を示していく種類の予報が多い。長期の予測が難しいという特徴があるため、短期の予報を迅速に伝えることで信頼性が増す。
大別して、日本列島を数〜数十kmの格子で区分したメッシュを用いて予報を図で示すメッシュ形式のものと、日本列島周辺の地図上に等圧線などを示して予報を表す天気図形式のもの2つがある。
一般向け予報とは別に提供されている船舶向け予報(天気図)では、気圧、流線、風。、渦度、気温、湿数、降水量などの予報を発表している。
このうち台風情報に関しては気象庁のみが発表することにしており、民間気象情報会社であっても、台風の進路図は気象庁のものを利用する(ただし見やすさや独自の表示に一部アレンジを施すことはある)
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天気予報
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一般向け予報とは別に提供されている船舶向け予報(天気図)では、気圧、流線、風。、渦度、気温、湿数、降水量などの予報を発表している。
このうち台風情報に関しては気象庁のみが発表することにしており、民間気象情報会社であっても、台風の進路図は気象庁のものを利用する(ただし見やすさや独自の表示に一部アレンジを施すことはある)
気象庁の天気予報では、誤解や混乱を防ぐため、予報に用いる用語を定めており、メディアに対してもそれに準じた用語を使用するよう指導している。独特の言い回しや、厳密に規定された表現などがある。以下に、よく用いられる用語の例を挙げる。
詳しくは「予報用語」を参照。
警報は、重大な災害の起こるおそれのある旨を警告して行う予報である。
警報が発表された場合は、NHK総合テレビジョンでは画面上にテロップで表示される。気象情報の番組中では赤字で表示される。NHKラジオ第1放送(FM放送は「ラジオ深夜便」放送時のみ。但し放送しない場合あり)では、放送中の番組内に割り込んで「番組(曲)の途中ですが気象関連のお知らせです。先ほど○時□分、△△地方に大雨洪水警報が発表されました」などとして警報が発表されたことが報じられる。
警報に準じて災害が起こるおそれがある場合に、あるいは社会・経済活動に広範囲な支障を及ぼす現象について注意喚起のために発表する予報を注意報という。
警報・注意報およびこれに関する情報には、気象庁が単独で発表するもののほか、個別の河川に対して河川管理者と共同で発表する共同洪水予報や、大雨警報を補足してがけ崩れなどへの警戒を呼びかけるために都道府県と共同で発表する土砂災害警戒情報もある。
現在では、気象庁だけではなく、気象業務法第17条に基づき気象庁長官の許可を受けた官民の予報業務許可事業者も独自の予報を提供している。なお、許可事業者が予報業務を行う場合は、事業所ごとに気象予報士を置かなければならない。
現在の予報業務許可事業者のリストは 気象庁の公式一覧 を参照されたい。ここには、気象予報を行っている民間企業以外に、日立市・羽曳野市といった地方自治体、数名の個人事業者(気象予報士)が含まれる。
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天気予報
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現在の予報業務許可事業者のリストは 気象庁の公式一覧 を参照されたい。ここには、気象予報を行っている民間企業以外に、日立市・羽曳野市といった地方自治体、数名の個人事業者(気象予報士)が含まれる。
許可事業者が行う天気予報の業務は、気象庁と重複する部分もあるが、様々な独自業務もある。代表されるものとしては桜前線があり、許可事業者3社が発表を行うようになったこと、またコア分野ではなく応用分野であったことから、大元の気象庁の方が2010年より発表を取りやめることになった経緯がある。なお、警報や注意報に関しては重要性が高く混乱を防ぐため、気象庁だけが行うこととなっている。
許可事業者が利用する一次資料にあたる、観測データや数値予報の根拠データ等は気象業務支援センターからも提供されており、どの事業者でも利用可能となっている。しかし、数値予報自体は自社設備で独自に行っているところもある。予報資料(ガイダンス)の中心部分は各社独自のものであり、これに基づいて各事業者が予報を発表している。
天気予報では、天気天候と密接にかかわる他の情報が合わせて伝えられることが多い。それらは季節や地域によって様々な特色がある。
人々が天気予報の情報を得る経路について、2017年にマクロミル社が日本の1000人を対象に調査した結果では、人々が天気予報を確認している媒体(情報源)の1位は「テレビ番組の天気予報コーナー」でおよそ8割、2位が「スマホ(携帯電話)の天気情報アプリ」でおよそ5割の人々が利用している。テレビ番組とスマホアプリの利用傾向は世代によって異なり、若い世代ほどスマートフォン(スマホ)から天気予報の情報を得ている傾向があり、20代の女性で75%がスマホのアプリから情報を得ている。
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天気予報
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放送(テレビ・ラジオ)では気象情報番組や報道番組内の天気コーナーなどで定期的に放送を行う。取り扱う番組によって、気象庁発表のものをそのまま流用するもの、各社局が契約した気象業務許可事業者の天気情報を使用するもの、専属の気象予報士が提供情報を基に独自に加工するものがある。警報発表時(発令・解除)にはテロップで伝えられることがあるほか、台風・前線などによる豪雨などの広域災害が予想される場合やそれが発生した場合には報道特別番組(主にNHK)が放送される。衛星放送・ケーブルテレビでは天気のみを扱う専門チャンネルがある。東京メトロポリタンテレビジョンはまだインターネットが普及していなかった開局前、「101回天気予報」をうたっており、実際の開局後にはそこまでは多くなかったものの頻繁に天気予報を放送していた。これに影響されてか、テレビ東京も1997年から2003年まで各番組の終わりがけにネットワークぐるみで「ウェザーブレイク」を自動送出で放送していた。
一般にテレビ放送や新聞では、天気予報をイラストマークにより直感的に分かるよう表示している。テレビ放送では、ごく初期には地図ボード(天気図の場合もあり)に天気予報のイラストマークを貼り付けたものをテレビカメラが映し、アナウンサーが各地域の予報を読み上げる方法であった。やがて字幕テロップによる表示が現れ、現在では次のようなイラストマーク表示がほぼ主流となった。ニュースウオッチ9の天気コーナーのようにキャラクター化する場合もある。
これらのマークを1つまたは2つ組み合わせて表現するが、日本テレビほか一部地域では「晴れ時々雨か雪」などの時には3つのマークを使用する場合がある。
スマートフォン(AndroidフォンやiPhone)では、天気予報の情報を提供するアプリが非常に多種類、無料で提供されている。たとえばAndroidフォンならば、Google Playをクリックして検索欄にキーワードとして「天気予報」と入力して検索すると多数の(2021年時点で100を超える数の)天気予報アプリが表示されるので、その中から他の利用者からの評価やそれぞれの機能などを考慮して選んでインストールすれば、すぐに使い始めることができる。
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天気予報
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PCなどのウェブブラウザを使って、気象機関や許可事業者のインターネット上のWebサイトで一次情報が得られる。ポータルサイトやマスコミなどメディア系サイトでは一次情報元と契約を結び天気のページを設けて提供しているほか、一部の一般サイトで天気情報を表示するツールを組み込んだものもある。
また、PCのデスクトップ上で使用するウィジェット(ガジェット)やアプリケーションソフトウェアの中にも天気情報を表示するものがある。インターネット放送においても、天気専門のチャンネルがある。
インターネットではAccuWeatherなど許可事業者ではない海外企業も日本の天気予報を発表している。
一部の許可事業者、ポータルサイト、自治体などでは、事前登録者に対して警報発表時に電子メールを一斉送信するサービスを提供している。
ほとんどの新聞では、天気欄に予報を記載している。
日本電信電話公社(電電公社)の電話情報サービス(テレホンサービス)の第一号として、1954年9月に試験開始され、1955年1月より全国展開された。1964年3月から全国統一の電話番号(3桁特番)「177」が導入され、後身の日本電信電話(NTT)およびNTT東日本・NTT西日本でもサービスが継続されている。
都市部を中心に予報を流す電光掲示板や車内案内ディスプレイが街頭の目立つ所に設置された。また、電車や航空機の中など、公共交通機関ではLCDで一次情報元から提供を受けた天気情報が流れることがよくあった。珍しいものとして、大阪通天閣の頂上ではネオンライトの色(晴=白、曇=橙、雨=青、雪=桃)で明日の大阪の天気を表していた。
携帯電話・スマートフォンが普及したことから減少傾向であるが、液晶ディスプレイ(LCD)化して更新されていることもある。
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テーブルゲーム
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テーブルゲームは、プレイヤーが実際にテーブルを囲んで行うタイプのゲームの総称。狭義のボードゲームおよびカードゲームなどを含む。
コンピュータゲームに対して、実際の人間が行うゲームを指してこの語を用いる場合もあり、これらのテーブルゲームをコンピューターゲーム上で表現したものの総称を(コンピューターゲームの一分類として)指す場合もある。その際、TBLという略表記も用いられる。
アナログゲームと呼ばれることもあるが、こちらはテーブルゲームよりも更に広義である。
厳密な分類ではなく、これらの境界にあたるゲームも多数存在するが、便宜的によく使われる分類である。
「アブストラクトゲーム」を除き、ゲームで再現しようとするテーマは多岐に渡る。以下に主なものを挙げる。
その他、ゲームシステムや内容により、よく使われるジャンル名である。下記のそれぞれが対等に並列されるわけではない。
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1975年
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1975年(1975 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。昭和50年。
この項目では、国際的な視点に基づいた1975年について記載する。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数(周年)を記す。
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ゲームボーイ
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ゲームボーイ(GAME BOY)は、1989年4月21日に任天堂が発売した携帯型ゲーム機。略称は「GB」。これが、20世紀最後の任天堂の完全新規の携帯型ゲーム機となった。
日本において1,280万台以上を売り上げた携帯型ゲームであるゲーム&ウオッチの次世代ゲーム機器として発売した商品であり、任天堂の携帯ゲーム機としては2つ目にあたる。同社を玩具メーカーとして成長させた横井軍平が開発した。また、エポック社から発売されたゲームポケコンに次ぐROM交換方式の携帯型ゲーム機である。
開発当初はファミリーコンピュータよりも高画質なメガドライブやPCエンジンなどが発売されており、任天堂もこれらに対抗するスーパーファミコンの開発を進めていた状況で、本機は乾電池の持続性と価格面の兼ね合いからモノクロ型(4階調)を採用している。社内では「今さらモノクロで売れるのか」とあまり期待しない声があったが、世界累計で5,000万台近くを出荷した。
後のゲームボーイシリーズの初代機であり、このシリーズは2006年までの17年半に渡って同社から発売された。
ファミリーコンピュータと比較してCPU,RAM,VRAMの性能で優れている。『X(エックス)』(1992年5月発売)などでは、このCPU性能を活かし、低fpsではあるが隠面消去を行ったワイヤーフレームによる完全な3DCGを描画していた。ファミリーコンピュータにも同様に3DCGを用いた『スターラスター』があるが、点とスプライトのみの描画であった。
一方で、画面解像度と色数とスプライト表示性能はファミリーコンピュータの方が優れていた。特に、ファミリーコンピュータはカラー表示ができたが、ゲームボーイはモノクロであった。従って、キャラクターのアニメーションではゲームボーイの方が優れているが、静止画の質はファミリーコンピュータの方が優れていた。
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ゲームボーイ
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一方で、画面解像度と色数とスプライト表示性能はファミリーコンピュータの方が優れていた。特に、ファミリーコンピュータはカラー表示ができたが、ゲームボーイはモノクロであった。従って、キャラクターのアニメーションではゲームボーイの方が優れているが、静止画の質はファミリーコンピュータの方が優れていた。
音源の面では、ゲームボーイの音源のパルス波(矩形波)やノイズはファミリーコンピュータとほぼ同等の音だが、ファミリーコンピュータでは疑似三角波とDPCM音源を鳴らせたのに対し、ゲームボーイでは波形メモリ音源を鳴らすことができた。また、ファミリーコンピュータの音源は全てモノラルだったのに対し、ゲームボーイの音源は全てステレオ再生可能だった。ただし、本体のスピーカーは1つのためモノラル出力であり、ステレオで聴くにはイヤホンジャックの利用が必要だった。
音量レジスタの値を高速に変更することでPCM再生を行うことも可能で、『ポケットモンスター ピカチュウ』のゲームスタート画面などで利用していた。 しかし、音量レジスタ書き換え時に非線形に音量が変化してノイズが発生するため、初めからPCM再生を行うことを想定してDPCMを搭載していたファミリーコンピュータに比べると音質が著しく劣っていた。
1989年4月21日に12,500円(消費税3%税込)で発売後、1993年6月6日に『ゼルダの伝説 夢をみる島』発売と同時に9,800円(消費税3%税込)に価格改定(このとき専用ステレオイヤホンは別売に)が行われ、翌年1994年5月1日に8,000円(税別)に再度価格改定が行われた。型番はDMG-001。
1996年7月21日発売。型番はMGB-001
1998年4月14日発売。型番はMGB-101
製品コードのDMGは「Dot Matrix Game」が由来。
1994年後期 - 1995年初期にカセットラベルに書かれたコード「DMG-○○J(A)」から「DMG-○○○J-JPN」に変更された。
1989年4月21日に発売されたローンチタイトルは『スーパーマリオランド』『アレイウエイ』『ベースボール』『役満』の4本だった。同年6月に発売された『テトリス』の売上本数は最終的に423万本を数えるヒットとなった。
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ゲームボーイ
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1994年後期 - 1995年初期にカセットラベルに書かれたコード「DMG-○○J(A)」から「DMG-○○○J-JPN」に変更された。
1989年4月21日に発売されたローンチタイトルは『スーパーマリオランド』『アレイウエイ』『ベースボール』『役満』の4本だった。同年6月に発売された『テトリス』の売上本数は最終的に423万本を数えるヒットとなった。
日本国内において、本機で動かせる最後の任天堂公式ソフトは2002年6月28日に発売されたバンプレストの『From TV animation ONE PIECE 幻のグランドライン冒険記!』であり、これはカラー・モノクロ兼用ソフトである。当時は本体発売から13年2か月経過しており、任天堂ハード全体では最も長寿であった。
2002年以降も非公式としてソフトのリリースは続いており、発売30周年となる2019年4月21日には、ゲームインパクトから『ドラキュラの城』が発売された。
数種類のCMが放映された。
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D2-VTR
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D-2 VTRとはコンポジットデジタル記録方式を採用したVTRの規格である。主に放送業務関連で用いられた。
ソニーとアンペックスが1988年に開発したもので、日本国内では日本民間放送連盟がNTSC放送用の番組およびCM素材の交換規準として採用したため素材の受け渡しや放送番組の送出に広く用いられた。
D-2 VTRに先行してコンポーネントデジタル記録方式のD-1 VTRが規格化・製品化(1987年)されたものの放送局では機器が高価なこと(VTRだけでなく編集設備もコンポーネント信号に対応させる必要がある、コンポジット信号用機器も残るので変換機器が必要など)、ビデオテープのランニングコストが高いことなどからD-2 VTRの方が普及した。このため、コンポジット映像を編集する映像編集スタジオでもD-2編集室を整備するに至り1990年代に普及が進んだ。
しかし輝度信号と色信号が合成されたコンポジット映像信号の記録方式のためにデジタル放送、DVD-Videoなど元々コンポーネント映像信号を用いる最近のデジタルメディアでD-2をマスターに使うとコンポーネント方式に変換する際にクロスカラーとドット妨害の発生が避けられず画質が劣化する。このためデジタル放送への転換が進むにつれ、送出用としては使用されなかった。2016年に機材修理のサポートが終了し、その後D-2テープメディアの販売も終了したため役目を終え、大部分の記録済みメディアはLTOやオプティカルディスク(アーカイバル・ディスク)に変換された。
NTSC:525/60、2:1インターレース方式の場合
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BETACAM
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BETACAM(ベータカム)は、ソニーが開発したアナログコンポーネント記録のカセット式VTR。かつて放送用・業務用における撮影において、世界中で事実上の標準方式となっていた。ベータマックス(Betamax)と同規格のテープを、3〜6倍の速度で使うことで、記録密度を下げ見かけ上の磁界強度を上げて高周波記録を実現している。通称「ベーカム」。
それまでENG取材に用いる機材は、ビデオカメラ部と、U規格などのVTR部が別々になっていて、カメラを担いだカメラマンの後には、ケーブルで繋がれたVTRを持つビデオエンジニアが付いて回るという2人1組、もしくはカメラマン1人が両方を担ぐという機動性に欠ける取材を強いられていた。1982年にベータカム方式のカメラ一体型VTR「BVW-1」が登場。ビデオカメラとVTRが同体化(カムコーダ)されケーブルから解放されたカメラマンの機動力は飛躍的に向上する事となった。また、U規格のカラー低域変換方式に対しコンポーネント式のY-C別デュアルトラックを用いたダイレクト記録を採用して、より高画質化することができた。この成功を受けて自社でVTR製品を持たないカメラメーカーの数社がソニーとの提携によりBETACAMの録画機と一体型にできるカメラを発売し、ソニー以外のカメラを好む現場に対しても本フォーマットは浸透していった。
同時期に松下電器産業(現 パナソニック)が"Mビジョン"と呼ばれるVHSテープへコンポーネント記録を行うフォーマット(M規格)を開発したが振るわなかった。1986年にはBETACAM-SPに追随しメタルテープ化したフォーマット"MII"方式を投入したものの、再生互換性を確保したBETACAMグループが引き続き圧倒的なシェアを維持したことは民生用ビデオ規格ベータマックスの敗退と対照的である。テープはベータマックスと同じ1/2インチ幅のテープを使うが、走行スピードが異なるためにバックコーティングや磁性体などのテープ材質が若干異なる。
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BETACAM
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1983年には、編集機能付きのレコーダー「BVW-40」が発売され、収録から編集、送出に至るまでBETACAMによるシステムの構築が実現し、フレーム単位での編集精度が向上した。これらはキー局クラスでは報道部門で用いられ、取材先から持ち返ったテープを編集機で手早く編集し、ニュースサブ(副調整室)からニュース素材として生送出するなどの用途に重宝された。日本では番組やCMの送出にはD2-VTRが標準として用いられていたが、ケーブルテレビ局の番組送出用や、コスト重視の欧米の放送局では番組やCM送出用としても広く用いられた。カセット方式であることを生かしてカートシステム(オートチェンジャー)がアサカなど数社から提供され、CM編集や番組送出用として使用されたほか、SONY自身もD2用のカートであるLMSのローコスト版としてベータカートを発売、主に送出用として供給していた。
1990年代後半には、松下電器が中小プロダクションや企業向けに価格を大幅に落とした「MIIプロマインド」シリーズを発売したのに対抗し「2000PROシリーズ」(型番では「PVW-xxxx」)を発売。放送用のBVWシリーズに対して、オキサイドテープの録画機能を廃するなど機能を絞り、AFM音声2chやTBC(タイムベースコレクタ)のビット数などが仕様上省かれた事によって低コストでのBETACAM導入が可能となり、アナログコンポーネントVTRの裾野を大きく広めた。
さらに低廉な価格で文教・医療分野用も意識して投入された「UVWシリーズ」ではAFM音声2chに加え、VITC(垂直帰線期間内タイムコード)が省略されている。
BETACAM-SPで導入された「ラージカセット」が後にオリジナルのBETACAMへも引き継がれ、カセットサイズはSP同様「スモールカセット」(最大30分)と「ラージカセット」(最大90分)の2種類存在する。
放送・業務用として非常に普及し、膨大な撮影素材が存在することから、後継のデジタル記録版であるDigital BETACAM・BETACAM-SX・MPEG IMXやHDCAM等においてもBETACAM-SPの再生だけは可能としたモデルも設定され、素材の活用をはかれるように考えられていた。
オキサイドテープ
記録方式 輝度:FM方式 クロマ:時分割・時間圧縮クロマFM方式
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BETACAM
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放送・業務用として非常に普及し、膨大な撮影素材が存在することから、後継のデジタル記録版であるDigital BETACAM・BETACAM-SX・MPEG IMXやHDCAM等においてもBETACAM-SPの再生だけは可能としたモデルも設定され、素材の活用をはかれるように考えられていた。
オキサイドテープ
記録方式 輝度:FM方式 クロマ:時分割・時間圧縮クロマFM方式
記録帯域 輝度:30Hz〜4.1MHz R-Y,B-Y:30Hz〜1.5MHz
SN比 48dB以上
テープ速度 118.6mm/s
メタルテープ
記録帯域 輝度:30Hz〜4.5MHz(PVWシリーズ)30Hz〜4.0MHz(UVWシリーズ)色差信号はベータカムと同等
SN比 51dB以上(PVWシリーズメタルテープ)49dB以上(UVWシリーズ)
BETACAMでは、一般的なコンポジット映像信号の他独自のコンポーネント信号を用いるインターフェースやCTDM信号を用いるインターフェースを用いる。
BNCコネクタを3つ又は12pinコネクタを用いて接続する。
BVWシリーズのカメラ部は括弧内記載のカメラと同等性能であるが、リニアマトリクス回路非搭載であるので、表現力はやや劣る。
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PocketStation
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PocketStation(ポケットステーション)は、1999年1月23日に発売された小型の携帯型ゲーム機。発売元はソニー・コンピュータエンタテインメント (SCE) (現・ソニー・インタラクティブエンタテインメント (SIE) )。型番は SCPH-4000 。通称「ポケステ」。
ビジネス用ではない個人用のPDAとして、ゲーム面ではPlayStationと連携する携帯型ゲーム機として開発され、周辺機器として販売された。
開発意図はプレイステーションで培ったソフトを携帯型ゲーム機でどのように共有していくかであり、開発時のイメージは任天堂のゲームボーイに近かった。
第三者からは開発当時人気を博していた『たまごっち』を意識したデザインと性能になっていると評価されるが、開発担当者の岡本伸一はそれを否定している。
ボディカラーはホワイトとスケルトンの2色で、開発当初はどのようなゲームが本機に対応するか予想つかなかったため、無機質な色が選ばれた。
詳細は公式サイトを参照。
発売当初は光沢のあるホワイトモデル (SCPH-4000) のみだったが、後にスケルトンボディのクリスタルモデル (SCPH-4000C) も発売された。また、『遊☆戯☆王 真デュエルモンスターズ 封印されし記憶』の限定版にはクリスタルブラック、『ときめきメモリアル2』の限定版にはクリアピンクのPocketStationが同梱された。
主にPlayStationのゲーム本編に付随するミニゲームを遊ぶ為に使用された。
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PocketStation
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主にPlayStationのゲーム本編に付随するミニゲームを遊ぶ為に使用された。
PocketStation上でゲームをプレイするためには、まずゲームデータをPlayStationから転送する必要がある。そのためPocketStation単体での使用はできない。操作パネルを上に90度持ち上げ、PlayStation本体のメモリーカードスロットへ挿入する。挿入すると赤外線通信ポートに内蔵されたLEDが赤く光るとともに、電子メロディが鳴る。システム上、ミニゲームは通常のセーブデータと同じ扱いであり、最低1ブロックを利用してセーブを行う形式となる。当然ではあるが通常のPlayStation用メモリーカードとしての使用も可能。また、メモリーカードとしてセーブデータを記録している場合、PS上で表示されるセーブデータアイコンを表示できるのだが、タイトルによってはPocketStationでの表示用に用意されたアイコンが表示される。
また、ミニゲームはセーブ用の領域が許す限り、いくつでも導入することができる。メニューでプレイしたいゲームを選ぶ事で自由に変更することが出来た。
本体には時計が内蔵されておりアラーム機能付きの時計として利用できるほか、カードスロット経由でプレイステーションから時刻を参照することもできた。一部のソフトではゲーム内で時刻を連動させたり特定の日時にイベントを発生させるのに使用されている。
非公式に、インターネット上でPocketStation用ゲームソフトの開発ツールが出回っており、一部では自主制作ソフトも公開されていた。パソコン上で開発したゲームソフトをPocketStationに転送するためには、PlayStation用メモリカードのリーダー・ライターが必要となる。
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PocketStation
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非公式に、インターネット上でPocketStation用ゲームソフトの開発ツールが出回っており、一部では自主制作ソフトも公開されていた。パソコン上で開発したゲームソフトをPocketStationに転送するためには、PlayStation用メモリカードのリーダー・ライターが必要となる。
開発者の岡本伸一は「"身につけられるコンピューター”をコンセプトに、わずか30グラムのボディーに機能を詰め込みました。さわるすべての人にエンターテイメントとは何かということを教えてくれるマシンです」と述べた。しかし『どこでもいっしょ』以降は目立ったヒット作も生まれず、ほとんどはPlayStationのおまけミニゲーム程度だった。 荒すぎたドットがユーザーの不評を買ったこともあり、やがて対応ソフトの開発も減少、発売から約3年半で生産終了となった。ゲームハードとして使わなくなってからはメモリーカードとして使用するプレーヤーもいた。
50音順に記載。
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Digital BETACAM
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Digital BETACAM(デジタルベータカム)とはSDTV対応の放送および映像制作用デジタルVTR規格の一つである。「デジベ」ないしは「デジベタ」と略される。
1993年にソニーが放送用ビデオ機器としてデファクトスタンダードになったBetacam、Betacam SPの後継を狙って開発、商品化された。10bit量子化のデジタルコンポーネント(YCbCr 4:2:2)記録方式を採用している。音声は4チャンネル。ビデオテープ上へは入力のデジタルコンポーネント映像信号のビットレートを約1/2に低減しDCT圧縮(不可逆圧縮)したのち記録されているが、視覚上の劣化は低く抑えられている。この圧縮方式は既存のビデオ編集機でフレーム単位の編集が行えるようイントラフレーム圧縮方式(フレーム内圧縮方式)で行われており、後継のBetacam SXなどのようなMPEG-2は採用されていない。
使用するビデオカセットの大きさはBetacamと同一であるが、Digital BETACAM対応カセットであることを識別するための検出孔が追加された。カセットのボディは青灰色、リッドは黒色である。BetacamとBetacam SPフォーマットの再生に対応した機種もある。
ソニーは「D-1、D-2」のようにDigital BETACAMをD-4と銘打ちをしたかったのだが、LTC(タイムコード)の記録方式がアナログであったためD-4という規格名にする事は許されなかった。D-4が欠番なのはこの為である。
実際の運用で言えばコンポーネント記録のためドラマの収録やクロマキー映像合成の素材送出、比較的予算の少ないCMの収録も多く、アニメのマスターテープとしては半ば標準フォーマットとして広く使われている。また、DVDのマスターテープとしても標準的といえる。送出では、メディアコストの高いD-2では地方局での制作実情にそぐわないため非常に運用が多い。またスカパー!でも加入者が多く予算のあるチャンネルで採用が多い。
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日本のアナウンサー
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日本のアナウンサー(にっぽんのアナウンサー)では、日本の放送局に勤めるアナウンサーについて述べる。
アナウンサーとは、放送するマスメディアが、収拾した情報を元に作った原稿を音読して、視聴者へ伝達する者である。
日本の放送メディアで最初のアナウンサーは、1925年(大正14年)に現在はNHKにあたる東京放送局のラジオ試験送信時に入局した京田武男(東京日日新聞から)、大羽仙外(報知新聞から)で、仮放送開始時さらに2人迎え4人、6月に翠川秋子(後藤新平の推薦)を迎え5人となって愛宕山時代を迎えた。のちにテレビのアナウンサーが登場し、旧来の放送圏域が広い地上波のラジオやテレビに加えて、ミニFMやイベント放送局やコミュニティ放送、ケーブルテレビや衛星放送、インターネットラジオやインターネットテレビなどが登場し、各々でアナウンサーがいる。下記の歴史に詳述がある。
欧米ではニュースは記者の取材活動が重要と広く認識され、取材から原稿の作成・編集、読み上げまで一連する作業や、マイクや録音などの音声担当者やカメラマン、ディレクター、アシスタントディレクターなども含めて組織的連携の全ての役割や人物が欠けても番組は成立しない、と広く認識されている。ニュースでマイクやカメラの前で原稿を読む役割を担う職業を、組織的な責任の最後を担う専門的職業の意味を込めた「アンカー」や「ニュース・プレゼンター」と称する概念が重要視されている。日本は欧米ほどの認識は醸成されておらず、放送で原稿を読む者を単に「アナウンサー」称している。民放では「アナ」と短縮形で呼ばれることも多い。2018年時点でNHKのアナウンサーはおよそ500人で男性の比率がやや高く、民放は局ごとに傾向が異なる。下記の雇用に詳述がある。
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日本のアナウンサー
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現在の日本のアナウンサーは、特定の放送局に社員として所属するアナウンサー(一般的に「局アナウンサー(略称:局アナ)」と呼ばれる)と、特定の放送局に所属しないフリーアナウンサーの2つに大別される。新卒で採用された組織で勤務する「生え抜き」と中途採用者がいる。アナウンサーの採用情報や求人情報は、各放送局のウェブサイトなどに掲載されている。アナウンサーの採用試験を受けるためには、大卒以上の学歴が必要である。アナウンサーという職種は枠が少ない上に一般人の間で知名度が極端に高く誰でも知っている職業なのでこの職業に就くことを夢見る若者が多く、民放キー局やNHKなどでは数名程度の採用枠に対して数千~数万倍の応募者が殺到する、というような状況になっている。#雇用、#採用
アナウンサーは視聴者からの好感度が重視されるが、ラジオのアナウンサーの場合、声や話し方だけでリスナーから評価されるのに対して、テレビ放送の場合視聴者は画面でアナウンサーの顔を見続けることになるので、テレビのアナウンサーは声や話し方に加えて顔立ち・容姿でも視聴者から好感されることが重視される。
民放では高視聴率獲得(およびスポンサー獲得)のためにアナウンサーのタレント・アイドル化を図るという技法も採用されている。
ラジオ放送開始時は経験者や手本になる資料などは存在せず、組織的な研修もできず、新聞記者や編集者から選抜された者が各自で話し言葉のスタイルを模索しつつ遂行した。
1925年(大正14年)3月22日、社団法人東京放送局によりラジオ放送が開始され、東京日日新聞の運動部記者出身の京田武男が第一声を発した。放送開始時のアナウンサーは他に、大羽涛(大羽仙外)、熊崎真吉、桐野音次郎の3名がいる。6月に翠川秋子が入局し、日本初の女性アナウンサーとなった。
日本初のスポーツ実況中継は、1927年(昭和2年)8月13日の第13回全国中等学校優勝野球大会の札幌一中対青森師範の試合を、社団法人日本放送協会元銀行員の魚谷忠が担当した。
1953年(昭和28年)2月1日、テレビ放送が始まる。第一声は志村正順アナウンサーによる局名アナウンスで、続いて当時NHK会長の古垣鐵郎が挨拶した。
1961年(昭和36年)にNHKを退職して独立して1962年(昭和37年)に民放番組の司会に抜擢された、高橋圭三が日本初のフリーアナウンサーである。
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日本のアナウンサー
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1953年(昭和28年)2月1日、テレビ放送が始まる。第一声は志村正順アナウンサーによる局名アナウンスで、続いて当時NHK会長の古垣鐵郎が挨拶した。
1961年(昭和36年)にNHKを退職して独立して1962年(昭和37年)に民放番組の司会に抜擢された、高橋圭三が日本初のフリーアナウンサーである。
「自分の声・言葉」を用い「広く一般に事象を伝達する」ために、アナウンサーは正しい日本語能力を要し、文法・アクセントに加えて放送局が内規する放送用語も順守する。主たる業務を下記する。
上記の「視聴者・聴取者」向けの放送への出演や取材の職務のほか以下のような放送以外の業務もある。
NHKの全国のアナウンサーの人数は、2018年時点で、およそ500人である。
NHKの正局員における現役アナウンサーは東京本部・地域拠点局を含む地方放送局を問わず、古くから男性の方が女性より比較的多い。
民放の放送局における現役アナウンサーは、かつては性別に分けると男性の方が女性より多いという局が比較的多かったが、2018年現在は性別に分けると一つ目は男性も女性も人数が同数という局、二つ目は女性の方が男性より多いという局が増加傾向にある。また、民放の放送局での現役アナウンサーの性別での伸び率は女性の方が高い。
若手を中心に宿直・早番・遅番などの交代勤務があり、早朝や深夜の生放送を担当する場合も含め、勤務時間や生活サイクルが不規則になる例も多い。報道・情報番組は準備のため放送開始2時間前には出勤する必要があるため、早朝番組で生放送する出演者は深夜(2~3時)に自宅を出る(もちろん公共交通機関は一切動いていないので、局差し回しのタクシー、または許可を受けて自家用車で出社。自動車通勤は交通事故の懸念から通常は許されていないが、地方局では通勤のための交通機関がない場合もあり自動車通勤が認められている放送局もある)など、その勤務実態は過酷である。
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日本のアナウンサー
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職務の性格上、勤務は曜日が基準となり祝日も無関係であるが、一般に年に1回5日間程度のまとまった休みをとることが認められている。一部放送局では、労働組合との協定で週休2日制を強く守っている場合もある。(NHKの地方局ではその傾向が顕著である)社員であるため年次有給休暇も与えられるが、ほとんど消化できないのが現状で、1〜2か月まとめて消化してから退社する若しくは定年退職者は嘱託に移行といった例も多い。正職員アナウンサーが嘱託となって継続雇用される場合でも、同様の例が多い。(シニアスタッフは除く)但し、地方局では嘱託職員は勤務日数が正職員よりも少なくなることも近年では目立っている。さらに、嘱託を過ぎてからの再雇用制度であるシニアスタッフ(基本的には正社員としての雇用期間を満了した60歳以上の職員、場合によっては70歳以上の職員。NHKにおいては定年時に嘱託になるかシニアスタッフになるか選ぶことができるようになっている)においては、東京本部においても、多くても勤務日数は週4日程度に抑えられている。東京本部においては、中には週1日や週2日の勤務をしているシニアスタッフも極僅かではあるが存在している。地方局では週4日や週3日勤務が基本であるなど、近年では定年退職者を中心に柔軟な働き方も見られるようになっている。しかし、正職員の働き方は今現在も過酷であり、改善はあまり進んでいない現状がある。
曜日方式の場合、原則民放は年末年始を除く月曜~金曜と土曜日曜、NHKは月曜~金曜と土曜日曜祝日でシフトが分かれる。ただし、昭和時代は土曜日が平日の延長という意識の時代背景から週の後半の平日(木曜金曜もしくは金曜)と土曜もしくは土曜日曜までの2班方式で行う人事もあった。週休2日が定着したり平日のニュース枠がワイド化したあとはほとんど行われなくなっていたが、近年は働き方改革でこのような人事がNHKなどを中心に復活しつつある。
また、平成時代までは週末班のアナウンサーが平日班の夏休みになると代役で平日分もまとめて16連勤などをする勤務が見られたがこれも働き方改革により行われなくなってきている。一方土日の大きなニュースや国政選挙の開票特番は平日の担当者が休み返上で行うことが多い。
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日本のアナウンサー
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また、平成時代までは週末班のアナウンサーが平日班の夏休みになると代役で平日分もまとめて16連勤などをする勤務が見られたがこれも働き方改革により行われなくなってきている。一方土日の大きなニュースや国政選挙の開票特番は平日の担当者が休み返上で行うことが多い。
お盆が平日である場合はそのまま平日担当のアナウンサーが担当するが、年末年始は特別人事が採用され平日週末の担当どちらも冬休みや年末年始の特番、スポーツの実況に回ることが多い。
地方局の場合はスタッフの人員が少ないため、アナウンサーであっても報道記者やディレクターなどの裏方仕事を兼務する例が少なくなく、支局駐在となる例もある。
局アナウンサーは、編成部門のアナウンス部あるいは放送部、報道部(記者兼務や出向など)などに属している。労働条件については正社員のほか、契約社員として勤務している者もいる。局アナウンサーは「社員」なので、基本的に局内に机もあり、仮眠室・食堂・ネットワーク・保険など社内の施設・福利厚生を利用できる。
放送局の正社員・契約社員として所属している者のほか、芸能事務所・制作会社からの派遣社員も存在する。在京キー局ではTBSのTBSニュースバードのキャスターや、TBS954情報キャスター(ラジオのみの出演)などが派遣社員でほぼ派遣先の放送局の専属出演する。TBSの場合、これらのキャスターは地上波放送への出演は少なく、それぞれCS放送やラジオへの出演が中心となる。局によっては「リポーター」「パーソナリティ」と称する。なお、ラジオ局の場合は中継車の運転やディレクター業務などアナウンス業務以外の業務も担うことがある。
フジテレビは、かつて「専属リポーター・司会者募集」の名目でアナウンサーを募集していた。これは当時同局に存在していた「労組・第二労組」の2組織に対し、創業者の鹿内信隆が、組合所属のアナウンサーをそのまま“アナウンサー”と呼び、第二組合の所属者を“リポーター”(正式名は「報道局解説放送室付リポーター」)や「司会者」と呼んで差別化を図っていた、いわゆる会社の内紛に起因した事象である。どちらも業務内容は全く同じで、これがアナウンサー採用試験と知らずに受験した者もいた程だった。田丸美寿々や辛坊治郎らもその一員とされる。辛坊はこの事実を知りフジテレビに入社せず、読売テレビに入社した。
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日本のアナウンサー
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GyaOは「ギャオーディション」というオーディション番組でアナウンサーを募集した。これはGyaOでのアナウンス業務をはじめ、ドラマ・バラエティ・映画など、自社媒体の番組へ出演する者の公募であり、GyaOを運営していたUSENの社員としての募集ではないので、一般にいわれる局アナウンサーとは意味が異なる。
契約局員 (NHK) ・契約社員(民放など)は「契約アナウンサー」と呼ばれる。人件費削減の波を受け増加傾向にあるが、契約社員の直接雇用等、今後の課題が多く残されている。
契約アナウンサーは女性に多く、男性では少ない。
NHKは多くの場合、女性アナウンサーの事例にあてはまる。職員・契約を合わせたアナウンサーのうち、女性は職員アナウンサーが少なく、配属されていない地方放送局もある。そのため、各放送局が個別で契約アナウンサーを採用する例が比較的多い。
芸能事務所(東京・地方を問わず)に所属している放送局の契約アナウンサーも少なからず存在している。
契約アナウンサーをキャスターまたはリポーターと称している。そこからNHKの正職員・局アナウンサーとなったのは、現在までのところ森田美由紀と荒木美和の2人のみであり、非常に狭き門となっている。
民放ローカル局を中心に契約社員を採用する局が増加しており、非正規雇用がアナウンサーの分野にも広がっている。
この場合の「フリー」は、放送局と直接の雇用関係がないことを指す。完全なフリーランスでなく、人材派遣事務所や芸能事務所などに所属している者もこう呼ばれる。
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日本のアナウンサー
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民放ローカル局を中心に契約社員を採用する局が増加しており、非正規雇用がアナウンサーの分野にも広がっている。
この場合の「フリー」は、放送局と直接の雇用関係がないことを指す。完全なフリーランスでなく、人材派遣事務所や芸能事務所などに所属している者もこう呼ばれる。
局アナとフリーアナウンサーの仕事内容に実質的な違いはないが、雇用形態に大きな差がある。局アナは社員・職員としての給与と仕事の供与、労働三権が保証されている代わりに、社命である業務や異動を基本的に断れない。勤務地が大きく変わることはないが、別の分野を担当させられる。要は局アナは「会社員」(NHKのみ「団体職員」)であり、その権利と同時に組織の一員としての義務を負い、局の方針に反することはできない。一方、フリーアナウンサーは、雇用契約の契約書の形式や内容が異なり、仕事内容が明記・限定された形で契約書に署名する(つまりその特定の仕事限定、端的に言えば、特定の番組限定で出演する契約を結ぶ)。仕事の契約は、事務所や知り合いの紹介、オーディションなどを通じ自ら競争を勝ち抜いて獲得する必要があるが、別の角度から言えば、嫌な仕事に関しては契約を結ばなければよいので「仕事の内容を選ぶことができる」とも言える。逆に言うと、仕事内容や契約相手の局は選べるかわりに、どの局からも相手にしてもらえず、全く仕事が無い状態になり無収入になってしまう可能性もある、とも言える。つまりテレビ局の側にも、多数のフリーアナウンサーの中から自局に都合のいい人を選ぶ自由があり、契約を結ばない自由がある。
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日本のアナウンサー
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フリーになる人の動機はさまざまである。そもそも最初からフリーアナウンサーとして活動している人々もかなりの数いる。別業種からの転職者もいる。局アナがその局の番組に出演して獲得した知名度を活用して(その知名度を他局に高く売れるあいだに、と)フリーになる場合もあり、その場合、単純に高収入の可能性があることに惹かれてそれを選ぶ人もいる。「自分を試したい・仕事の幅を広げたい」という理由を挙げる人、つまり他局でフリーでならばもっと違う仕事で実力を発揮できるはず、と感じるから(あるいは、そういう建前で)フリーを選ぶ人もいる。もっと違う理由で、たとえばテレビ局が報道らしい報道を行っておらず権力者におもねったような腐った報道をするばかりで、おまけにテレビ局のプロデューサーがスタッフやアナウンサーに対してセクハラを連発していて、そういう問題だらけのテレビ局にうんざりして、別の局で仕事をするためにフリーになる場合もある。
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Subsets and Splits
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