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明治
1873年(明治6年)より、日本の暦は改暦され、新暦に太陽暦を採用した。従来の暦は太陰太陽暦に基づく天保暦で、以後、日本で単に旧暦と言えば天保暦を指す。 改暦は、具体的には、天保暦(旧暦)の明治5年12月2日の翌日を、新暦の明治6年1月1日とすることで実施した。これにより、西暦(グレゴリオ暦)と和暦の日付が一致することとなった。 明治天皇が即位し、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指して江戸を東京と改め、天皇が東京に行幸し、明治2年(1869年)に政府機能が京都から東京に移された(東京奠都)。この明治天皇の治世が明治時代(めいじじだい)と呼ばれている。明治政府の樹立に大きな役割を果たした薩長土肥四藩(廃藩置県後現在の、鹿児島県・山口県・高知県・佐賀県、長崎県の一部)は新政府でも強大な権力を握った。なお、幕末には薩長と共に尊王攘夷運動を主導してきた水戸藩は「天狗党」と「諸生党」の藩内抗争で人材が失われ、明治新政府ではめぼしい人材は皆無となった。 尊皇思想に基づき、「天皇は親政を行い人民を直接統治する」とした。しかし、1890年(明治23年)に大日本帝国憲法(明治憲法)が施行されるまでは、明治天皇は青年期であり、憲政下となっても立憲君主制国家の成立により、三職制・太政官制や内閣官制の導入などで、天皇以外にも薩摩藩や長州藩の出身者が政治の実権を握っていた(藩閥政治)。明治改元の時には、明朝中国を模倣して一世一元の制を定め、天皇の名(厳密には追号)として元号を用い、それまでの陰陽五行思想的改元を廃止した。(以降、現在の令和に至るまでの改元はすべて代始改元となっている。) この明治時代は、欧米列強の植民地化を免れるために近代化を推進した時代であり、世界史的に見れば、日本の産業革命時代である。西洋化と近代化が幕末から始まって明治年間で達成されたことから、「幕末・明治」と括られることも多い。なお、「幕末・明治」という括りは、不平等条約の締結(1854年〈安政元年〉)から完全撤廃(1911年〈明治44年〉)までの時代とほぼ一致する。中央集権的な王政復古の過程から「王政維新」ともいわれる。また、1870年代(明治初期)は文明開化を略し「開化期」とも呼ばれている。
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明治
1867年(慶応3年)に江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が朝廷に対し大政奉還を行った。これにより、朝廷は玉松操と大久保利通らが作成した「王政復古の大号令」を宣言。薩摩・越前・土佐・尾張・芸州の五藩がこのクーデターに与した。1868年(明治元年)1月、京都付近において薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍との間に武力衝突が起こった(鳥羽・伏見の戦い)。これに勝利を収めた新政府軍は慶喜を朝敵として追討し、二条城に退去していた会津藩・桑名藩・旗本は辞官納地の命令により、慶喜と共に大坂城に退いた。慶喜は薩摩藩の罪状を弾劾した「討薩表」を提出して京都に進軍したが朝敵となって討伐され、大坂城を軍艦・開陽丸で脱出し、江戸城へ逃亡。新政府軍は江戸へ軍を進めた。大久保一翁や山岡鉄舟の尽力もあって新政府軍を代表する西郷隆盛と旧幕府軍を代表する勝海舟との交渉が成功し、同年4月11日(新暦5月3日)、江戸は戦火を交えることなく新政府軍により占領された(江戸開城)。東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩を助けたが次々に新政府軍に敗れ、7月29日に越後長岡城落城、同年9月22日には激しい戦闘の末に会津若松城が落城して会津藩も降伏した。次いで庄内藩が降伏すると、1869年6月27日(明治2年5月18日)には旧幕府海軍を率いて箱館を占領していた榎本武揚らが五稜郭の戦いに敗れて降伏し、ここに戊辰戦争は終結した。
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明治
賞典禄を受けた「四賢侯」を中心とする討幕派大名および「維新の十傑」に代表される下級藩士や三条実美・東久世通禧ら七卿落ち事件に連座していた開明派の公家を中心として発足した新政府は封建的支配制度を解体し、天皇を中心とした中央集権的国家体制の基礎を固めていった。幕府や摂政、関白、征夷大将軍、内覧、議奏、京都守護職、所司代などは廃止され、それに代わり九条家に太政官代が置かれ、総裁・有栖川宮熾仁親王、議定、参与の三職および神祇・内国・外国・陸海軍・会計・刑法・制度の行政七科、徴士・貢士が置かれたが、下級藩士の実力者達は公家や雄藩の大名たちと並んで新政府に加わった。薩摩藩・土佐藩・安芸藩・尾張藩・越前藩五藩軍隊の京都御所警備の下、成立当日の夜の小御所会議で激論の末、慶喜に内大臣の官職と領地の返上(辞官納地)を命じることを決めた。ここに700年の武家政治の諸法度は終焉した。 戊辰戦争のさなかの1868年(慶応4年)3月には、由利公正・福岡孝弟の起草により天皇が群臣を従えて神々に誓うという形式で「五箇条の御誓文」を定め、公議輿論の尊重、開国親和など新しい政治理念の基本を宣言した。翌日に「五榜の掲示」を掲げた。その内容は五倫の道(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の道徳)を説き、徒党・強訴・キリスト教を禁止するなど旧幕府の政策を引き継いだものであったが、数年以内に廃止された。閏4月21日には五箇条の御誓文を受けて「政体書」を公布。太政官の下に上局と下局からなる二院制の議定官が置かれ、上局は議定と参与から、下局は各藩と藩から送られた貢士で構成した。次いで政府は太政官・神祇官と呼ぶ官吏制度を整えた。天皇親政の下に、公家や藩主に並んで参与に任じられた9藩士、小松帯刀(薩摩藩)・大久保利通(薩摩藩)・木戸孝允(長州藩)・広沢真臣(長州藩)・後藤象二郎(土佐藩)・福岡孝弟(土佐藩)・副島種臣(佐賀藩)・横井小楠(熊本藩)・由利公正(福井藩)の9名は「朝臣」となり、藩主から独立した地位を得た。
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明治
人心を一新するため同年9月8日(1868年10月23日)には年号を「明治」(読み:めいじ)と改めて、天皇一代の間に一年号とする「一世一元の制」を立てた。4月11日の江戸開城後の関東農民一揆を抑えるため、東征大総督府軍監・江藤新平は、閏4月1日に「江戸を東京と改め天皇を迎えたい」と岩倉具視に建言。これに前内大臣・久我建通ら京都守旧派の公卿が相次いで反発したため、大久保利通が「大坂遷都論」を建言し、閏3月11日に天皇が関東親征のため、大坂に行幸するという形で部分的に遷都の準備に取り掛かった。これに、京都市民や神道家が反発し、伊勢神宮祠官・山田大路陸奥守親彦が天皇東行の中止を朝廷に申し入れたが、7月17日に江戸は東京と改称され、鎮将府、東京府設置の政府決定が発表され、鎮将府参与に任ぜられた大久保と鎮将の三条実美が駿河以東の13ヶ国を管轄し、京都と東京に2つの政府が並立する形となった。 江戸の東京への改称後、8月27日に即位式を挙げた明治天皇が京都から東京に移った(9月20日京都出発、10月13日東京着)ことを始め、10月13日江戸城を皇居とし、東京城と改称した。。12月7日には、東京城に宮殿を造営すると布告されるなど、東京奠都の準備も着々と進められた。天皇は8日に東京を発って京都に帰ったが、この東幸に平行する形で、外交事務を執る外国掛である議定・松平慶永、浅野長勲、山内豊信、正親町三条実愛、外国公使・正親町公董、烏丸光徳、参与・三岡八郎(由利公正)、後藤象二郎、岩下佐次右衛門(方平)らは各国公使に国書を手渡す必要性から先だって東京、大坂、神戸を往来した。同年11月、姫路藩主酒井忠邦が「藩の名称を改め、すべて府県と一般同軌にして、中興の盛業を遂げられたい」 という案を出してきた他、木戸孝允が此の案を取り上げた。12月22日京都還幸(翌明治2年3月、再度東幸、事実上の東京遷都)。翌年1869年(明治2年)2月には政府の諸機関も東京に移された。これら一連の動きは当時御一新と呼ばれた。
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明治
新政府は未だ財政的・軍事的・制度的基礎が固まっておらず、大久保・木戸らの策謀に強い憤りを抱いていた土佐藩主・山内容堂や自らを出し抜いた家臣に反感を抱いていた薩摩藩主の島津久光、長州藩主の毛利敬親らは早々に所領に引き篭もった。特に、朱子学の教養と水戸学の歴史観を持つ保守思想家の島津久光の下には、武士階級の復活を願う全国の士族が集まり封建党など様々な士族結社が結成されていた。この状況から新政府は大久保利通らを薩摩藩に派遣して説得に当たらせたが、明治3年(1870年)2月24日に久光は明治政府を「洋夷の属国」として罵倒し、内閣顧問に任命される明治6年(1873年)まで上京に応じなかった。 そんな中で、新政府は諸大名の反発を買わぬように、版籍奉還、廃藩置県と段階を踏んで郡県制に移行することを目指した。1869年(明治2年)1月14日、京都で薩摩・長州・土佐三藩の会合が京都円山で持たれ、薩摩から大久保、長州から広沢真臣、土佐から板垣退助が出席した。そして三藩主連名で土地・人民を朝廷に返上する旨の建白書を提出することで合意した。また薩長土の三藩は副島種臣に働きかけて、肥前佐賀藩主・鍋島直正を動かした 結果、同20日に薩摩・長州・土佐・肥前の四藩の藩主から版籍奉還の上表が朝廷に提出された。これが呼び水となって、諸藩は領地と領民を天皇に返上する上表を次々と提出した(版籍奉還)。 これに伴い、各藩主の処遇が新政府内で話し合われ、大久保ら薩摩の官吏は藩主を藩知事とし、世襲制にするべきだと主張したのに対し、木戸ら長州の官吏はこれに反対した。最終的に両者の主張を折衷する形で、藩主はそのまま藩知事に任命されたが、世襲制は否定された。また、この機に公卿・諸侯の呼称を廃して華族と改称し、上・中・下士の区別をやめ全て士族としたほか、知事の家禄を石高の十分の一に限定し、藩政と知事家政を分離した。これにより、建前として知事と士族の間の君臣関係が消滅し、各藩は済し崩し的に自立性を奪われて明治政府の地方行政単位に転化した。また、新政府内においても、王政復古時の五藩から、版籍奉還を真っ先に上表した薩長土肥の四藩が主導権を握るようになり、越前・尾張・芸州の影響力は低下した。
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明治
版籍奉還直後の7月8日に、職員令により管制を改革し、祭政一致を建前に神祇官、太政官を置いて前者を上位とし、太政官に左大臣と右大臣、大納言、参議、顧問として待詔院を置いた。人選は大久保の発案で、三条実美(右大臣)、岩倉具視(大納言)、副島種臣(参議)、前原一誠(参議)、待詔院学士は大久保利通、木戸孝允、板垣退助の3名を選出し、薩長土三藩の維新の功臣を激務から外して木戸派官吏の追い出しを図った が、その後長州派官吏も廣澤真臣を参議に推して対抗し内政の主導権争いが続いた。その後、政体書の規定を以て高官公選の互選も行われ、輔相には三条実美(公家)、議定には岩倉具視(公家)、鍋島直正(佐賀藩主)、徳大寺実則(公卿)、参与には大久保利通(薩摩藩士)、木戸孝允(長州藩士)、副島種臣(佐賀藩士)、東久世通禧(公家)、後藤象二郎(土佐藩士)、板垣退助(土佐藩士)の10名を選出した。これにより、議定だった諸大名や公卿の多くは免職となり、麝香間祗候か他職に追いやられ、薩長土肥以外の参与も、越前の由利以外は免職となった。9月に入ると王政復古の論功行賞として「賞典禄」を与えた。 新政府が外交方針として開国を決めたことは尊王攘夷派の怒りを買った。明治2年のうちに横井小楠・大村益次郎が早々に暗殺され、長州藩においては同年12月1日に大楽源太郎率いる奇兵隊や遊撃隊等の諸隊が乱を起こし、木戸が鎮圧に当たる始末となり、1870年(明治3年)5月には米沢藩士・雲井龍雄の反政府陰謀事件が発覚した。1871年(明治4年)には二卿事件や久留米藩難事件、征韓を企画した外務権大丞・丸山作楽の逮捕事件が勃発した。このように新政府がその基盤を置いた薩長でさえも、洋式装備に統一され実戦的訓練を受けた軍隊を擁しており、成立間もない新政府にとって不気味な存在であった。ましてや静岡藩をはじめとする親藩・譜代の諸藩の動静には過敏になっていた。その結果、雲井龍雄処刑の責任者であった広沢が1871年(明治4年)1月9日に暗殺されるなど片翼飛行を始めた。また、国政を薩長土肥が牛耳っていたことも批判を浴び、明治3年7月26日には薩摩藩士・横山正太郎が集議院門前で抗議の切腹を行った。政府内では薩長土肥の対立に加え、太政官と民部省、大蔵省をめぐって大久保と木戸が対立し、薩長間で抗争が繰り広げられており、世情は不安定だった。
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明治
こうした中で、政府は9月に「藩制」を公布し、藩への統制をさらに強めた。藩に共通する職制、財政の規定を示し、重要な賞罰は政府の許可を得ることや、藩士身分の単純化、藩債、藩札の整理を命じたのだ。他方、政府への不満を抑えるため、11月29日、全国諸藩の注視を集め、藩地に帰郷した島津久光と藩政改革を通して薩摩藩の軍備強化に努め、全国から集結した士族約1万2000人の兵士大軍団を束ね、政府への無言の威圧となっていた薩摩藩士・西郷隆盛を説得するため、岩倉具視を勅使、随員として大久保利通と木戸孝允が島津久光と西郷隆盛の上京を求めて鹿児島に向かい、西郷隆盛の受諾を得てようやく政権を安定させた。 こうして世情が安定すると、政府は1871年(明治4年)7月にまず薩長土の3藩から御親兵を募って中央の軍事力を固め、次いで一挙に廃藩置県を断行した。全国の261藩は廃止され、3府302県に変わり、日本は中央集権的統一国家となった。藩知事と士族の禄は保障され、藩債を肩代わりした。身分制度の改革を行い、大名・公家を華族とする華族制度(日本国憲法が施行されるまで存在した、西洋式に倣った日本の貴族制度)の創設と、武士身分を士族として、農工商民(百姓・町人)などを平民とし、日本人(大和民族)は皆「国民」(明治憲法下では「臣民」とも呼ばれた)とされ、日本国民全員に苗字の公称を認めた四民(士農工商)平等政策を取った。戸籍法を制定し、華族・士族の散髪、脱刀並びに華士族平民間通婚を自由にし、田畑勝手作りを認め、府県官制制定を行い華士族の農工商従事を許可した。なおこれらとは区別して、天皇と血縁関係のある皇族(皇室構成員)の地位もまた定められた。1871年(明治4年)には、いわゆる解放令によってこれまでえた、ひにんとされていた賎民の人々も平民に編入された。ただし、その後も部落問題として余韻は残したままとなった。
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明治
1869年(明治2年)に、律令制度の行政機構を復活させ、役所機構を整備して宮内省・民部省・大蔵省・刑部省・兵部省・外務省の六省を設置したが、律令体制時代に存在した中務省・式部省・治部省の三省は復活設置されなかった。しかし、戸籍、土木、租税、駅逓、通商、鉱山を管轄する民部省と出納、秩禄、造幣、営繕を管轄する大蔵省の民蔵両省の官吏は、財政及び貿易問題で外国人と接する機会が多く、また職務が実質的合理的思考を必要としたので、1870年(明治3年)4月に太政官が旧朝敵藩の贖罪金免除に大蔵省が反発するなど、しばしば両省の争いが政府内の紛乱の種となった。しかし、後に民部省が大蔵省に統合されると、大蔵省に産業、財政の強大な権力権限が集中し、官僚社会に強固な勢力を築き上げた。 軍事上の改革では民部省大輔兼軍務官副知事の大村益次郎(長州藩士)が「農民を募り親兵」とする国民皆兵による政府軍を作る計画を進め、1873年(明治6年)1月10日、陸軍卿山縣有朋を中心に徴兵令を公布し身分に関わり無く満20歳以上の男子に兵役の義務を課した(ただし実質的には、徴兵制度の例外として戸主は徴兵を免除され、主として戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担ったため、血税一揆が起きた)。兵役は3カ年。軍隊に直接入隊しない者も、17歳から40歳までの男子はことごとく兵籍を与えられ戦争があるときは呼び出されることとなった。男子の国民皆兵の原則である。この原則が1873年(明治6年)から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦敗戦までの72年間、人々の生活を支配した。しかし、資産家や富裕層など財産のある者は例外となった。治安面では1874年(明治7年)東京に警視庁を置いた。華族・士族は廃藩置県後も政府から家禄を支給されていたが、1876年(明治9年)金禄公債を支給してそれを年賦で支払うこととし、一切の家禄支給を停止した(秩禄処分)。これにより士族の地位は著しく下がった。
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明治
外交では1871年(明治4年)11月12日、江戸幕府政権時に西洋諸国間と結んだ不平等条約改正の予備交渉と欧米先進国の文物の調査を目的に、岩倉具視を全権大使、大久保と木戸を全権副使とする大規模な使節団を欧米諸国に派遣した。この岩倉使節団には伊藤博文、山口尚芳ら中堅官吏が随行し、1年9ヶ月にわたって12カ国を訪問した。その目的の一つであった不平等条約の改正は成功しなかったが、政府は西洋文明の実態に触れ日本の近代化を推し進める大きな原動力となった。新政府は、日朝国交正常化のため李氏朝鮮に外交使節を送ったが、李氏朝鮮は徹底的な鎖国政策を採り、大院君政府は何らの回答もよこさなかった。次いで、釜山にある日本公館に対して生活物資搬入妨害するなど、朝鮮側が日本を非難する事件が発生。これらの理由から1873年(明治6年)夏から秋にかけていわゆる「征韓論」の論争が起こり、問題が大きくなっていた。6月12日に初めて閣議の議題に上った。そこで、政府は8月17日の閣議で西郷隆盛の朝鮮派遣使節任命を決めた。 欧米諸国の朝鮮進出を警戒して、西郷隆盛・板垣退助らは朝鮮の開国を迫り征韓論を唱えた。しかし、1873年(明治6年)欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは国内改革の優先を主張してこれに反対した(明治六年政変)。西郷・副島・後藤・板垣・江藤ら5参議が下野したのち、江華島事件が勃発して1876年(明治9年)日朝修好条規(江華条約)を結んで朝鮮を開国させた。また、清国に対しては1871年(明治4年)日清修好条規を結んで琉球藩を置き、1874年(明治7年)台湾に出兵した(征台の役)。次いで1879年(明治12年)沖縄県を設置した。ロシアに対しては1875年(明治8年)に樺太・千島交換条約を結び、樺太をロシア領、千島列島を日本領と定めた。また小笠原諸島・尖閣諸島・竹島も日本の領土とし、日本の領域をいったん確定した。
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明治
内国行政では留守政府が1872年(明治5年)2月に田畑永代売買解禁、4月に庄屋、名主を戸長と改称、7月に全国一般に地券発行を行い、帰国した大久保は1873年(明治6年)に内務省を設置、殖産興業の育成に力を入れてお雇い外国人らを用いて富岡製糸場など多くの官営工場を設立した。財政面では、民部省を統合した大蔵省の大蔵卿・大久保と大蔵大輔・井上馨が改正局を設立して、井上直属の部下の渋沢栄一を掛長に抜擢し、1871年(明治4年)には各藩の藩札等を廃止して新貨条例を制定、貨幣の単位を円・銭・厘に統一した。1872年(明治5年)に国立銀行条例を制定し国立銀行を各地に作らせた。 蝦夷地は北海道と改められて開拓使を置き、屯田兵などと共に本格的な開拓事業を展開した。通信では江戸時代の飛脚制度にかわり、まず三府(東京・京都・大阪)で1871年(明治4年)郵便事業が開始され、電信も1869年(明治2年)に東京-横浜間で開通した。運輸関連では1872年(明治5年)新橋-横浜間で官営の鉄道が開通した。海運事業は政府の保護の下に三菱商会を中心に発達した。 建築等も煉瓦造の建物が見られるようになり、都心部では家々には石油ランプがともされて街灯にはガス灯が登場、馬車や人力車が走るようになった。軍服には洋服が採用され、政府官吏が順次服装を西洋化していった。また、西洋化する日本市場を狙いスタンダードチャータード銀行やフリードリヒ・バイエル、大北電信会社など外資の進出が東京や横浜、神戸などで相次ぎ、また欧米で1850年頃に普及しはじめたトイレットペーパーが、この頃新聞の普及とともに都心部で急速に普及したが、地方ではまだまだであった。
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明治
司法面では法治主義と司法権の自立、三権分立を推進するため、初代司法卿・江藤新平がその任に当たったが、留守中の長州藩の首領・近衛都督山縣有朋が、陸軍省御用商人・山城屋和助の公金費消事件に関わったとされる山城屋事件、大蔵大輔・井上馨(長州藩士)が職権を濫用して民間人から尾去沢銅山を巻き上げた事件(尾去沢銅山事件)、長州藩出身の京都府参事・槇村正直の人民への圧政などを激しく追及、裁判所設立予算を巡る対立も絡んで3人を一時的に辞職に追い込むなどして長州閥を一掃したことで江藤は次第に政府内から煙たがられる存在となり、留守政府の五参議(西郷・江藤・板垣・後藤・副島)免職の発端の一つになった。 1873年(明治6年)7月28日には新政府の費用を作り出すため「地租改正」条例を公布し、農地の値段を定めて豊作・凶作に関係なく地租を地価の3%と定め、土地所有者に現金で納めさせることにした。地主は土地所有を法的に認められるようになった。しかし地主と小作人の関係は変わらず、小作人はこれまで通り小作料を現物で地主に納めさせた。自作と小作農は負担がそれまでより軽くならないで苦しい立場に置かれることになった。地主は他の農民の土地を買い、それらの土地をお金に換えて資産を増やしていった。そして一部は土地を処分して資本家に変わっていった。やがて土地を耕すことはすべて小作人に任せ、お金だけ受け取って都市部で暮らす不在地主が増えていった。徴兵令に対する不満と地租改正に反対して百姓一揆がしばしば起こり、1876年(明治9年)に三重県で発生した伊勢暴動(東海大一揆)、茨城県などの地租改正反対一揆などを受けて翌年地租率を2.5%に引き下げざるを得なかった。その結果、地租を納める農民の負担は江戸時代のおおよそ20%減ることになった。
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明治
文化面では1872年(明治5年)11月に太陽暦を採用、文明開化の風潮が高まり、福澤諭吉・西周・森有礼・中村正直らが明六社を結成し、著作や講演会を通じて近代的な学問・知識を日本国内に広めたほか、中江兆民ら新しい思想を説く啓蒙思想家も現れた。印刷技術の進歩により、日本最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」を始め新聞が次々と創刊された。全ての国民が教育を受けられるよう学校制度が整備され、1872年(明治5年)「学制」を公布して全国に学校が設立された。新政府では寺島宗則・神田孝平・柳川春三といった学者を招聘して運営に当たらせた。教育機関の整備では大学寮をモデルにした「学舎制」案を玉松操・平田鐵胤・矢野玄道らに命じて起草させた。 宗教の面では神道の国民教化を図ろうとして神仏分離令を出した。これを受け、日本の仏教に根付いていた寺請制度に不満を持っていた者も加わり、廃仏毀釈が行われる事態となる。1870年(明治3年)大経宣布を行い祝祭日を制定した。1873年(明治6年)には天皇の誕生日を天長節(現在の天皇誕生日)、神武天皇が即位した日(紀元前660年2月11日)を紀元節(現在の建国記念の日)とした。1873年(明治6年)にキリスト教を解禁。後の大日本帝国憲法で定められた政教分離という制度的要請から、国家神道(神社非宗教論)に基づく宗教行政に転換していった。 明治新政府の近代化のための変革はあまりにも性急で、国民生活の実情を無視していた点も多かった。特に、廃藩置県と徴兵令は士族の武力独占を破り、御親兵は近衛兵と改称され、中央集権を企図した地方行政制度である大区小区制は、従来の地方自治を無視して中央の命令の伝達と施行しかしない機関を設けたため極めて不評で、地方自治をある程度尊重した郡区町村制に短期間で改められている。新政府の枢要な地位はほとんど薩長土肥の藩閥人物で構成されていたため全国の士族は特権を奪われ、経済的にも行き詰った。政府に対する士族の不満が高まった結果、民撰議院設立建白書を発端に士族反乱・自由民権運動が起こり、ついには1874年(明治7年)に岩倉具視暗殺未遂事件(喰違の変)が勃発した。
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明治
喰違の変の後、大久保利通は、征韓派士族に不満の捌け口を与えるため、台湾征討に手を付けた。台湾蕃地事務都督に西郷従道を任命し、「台湾出兵」を行った。1874年(明治7年)5月に征台軍は蕃地を平定。大久保利通は、特命弁理大臣となり清国の北京にて会談し、清国は日本国に償金50万両を支払うとの条件で合意した。台湾問題を片づけた大久保は、西南戦争中にもかかわらず、内務省主導で総裁・大久保利通、副総裁・松方正義の下で、第一回内国勧業博覧会を開催。製鉄所や紡績所を経営して士族授産事業と殖産興業が進み、それと並行して秩禄処分が進められたため、士族反乱に乗じなかった士族は、次第にブルジョアジーとプロレタリアートに分解した。 1873年(明治6年)の征韓論政変により下野した板垣退助は翌1874年(明治7年)後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らと愛国公党を結成、由利公正らと民撰議院設立建白書 を明治7年(1874年)1月政府左院に提出し、高知に立志社を設立する。この建白書が各地の新聞に掲載されたことで、政府に不満を持つ士族を中心に運動が進められるようになった。一方、民選議院を設立すべきか否かの議論も新聞雑誌紙上で盛んに交わされるようになった。翌1875年(明治8年)には愛国社が結成されるが、大阪会議で板垣が参議に復帰して漸次立憲政体樹立の詔を出すとともに、官選の元老院を設け大審院を置いて裁判制度を整備し、地方官会議を開いて地方議会の開設について討議した。また一方で、政府は新聞紙条例や讒謗律を制定して急進的な反政府の言論活動を取り締まった。後になり立志社が西南戦争に乗じて挙兵しようとしたとする立志社の獄が発生して幹部が逮捕されている。
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明治
民撰議院設立建白書に名を連ねた江藤新平は1874年(明治7年)郷里の佐賀で島義勇と共に不平士族の首領となって反乱を起こした(佐賀の乱)。政府はこれを鎮圧したが、廃刀令や家禄制度の廃止などによって士族の不満はいっそう高まった。1876年(明治9年)熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口で萩の乱と一連の士族反乱が起こり、翌1877年(明治10年)ついに西郷隆盛を首領とする鹿児島士族ら約4万人が政府に対して兵を挙げた(西南戦争)。西南戦争は政府にとっても大きな試練で、新しい軍隊を総動員して約8ヶ月に渡って九州各地で激しい戦闘が展開された。戦争のさなか木戸が病死、西郷も自刃し、翌1878年(明治11年)には大久保が東京で不平士族の島田一郎ら6名により暗殺された(紀尾井坂の変)。こうして明治政府の「維新三傑」体制は終わりを告げ、薩長元老による官僚藩閥政権が確立した。 自由民権運動の共通の目的は国会開設であった。次第に農民の間にも支持層が広がり、1880年(明治13年)全国の民権派団体が大阪に集まって愛国社の大会を開き、国会期成同盟を結成し8万7千名余の署名を連ねた。私擬憲法が草案され始め、40編以上が発表された。イギリス流の二院制の議会政治(交詢社、嚶鳴社)、人民主権と一院制(立志社、植木枝盛)、君権主義(五日市憲法)などのように民権派から発表されたものが多かった。1881年(明治14年)開拓使官有物払下げ事件に端を発した明治十四年の政変で、井上毅・伊藤博文・岩倉具視らドイツ流憲法の支持者は即時国会開設を唱えていた急進派官吏を政府から追放する一方「国会開設の詔勅」を発し、1890年(明治23年)に議会を開設することを国民に約束した。その結果、明治政府から追放されることとなった板垣退助は自由党を、福地源一郎は立憲帝政党を、大隈重信は立憲改進党を結成し、来る国会開設の準備を図ろうとした。
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1882年(明治15年)道路造成事業に反対した農民や自由党員らが検挙され(福島事件)、続いて加波山事件・秩父事件など東日本各地で自由党員らによる暴発事件が起こった。こうして自由民権運動は衰退していき、1887年(明治20年)大同団結運動を起こしに政府に迫ったが、政府は保安条例を発して多くの民権運動家を東京から追放した。財政面では、西南戦争後のインフレーションの整理を図るため、大蔵卿松方正義を中心に1882年(明治15年)に日本銀行を創立し、1885年(明治18年)から正貨である銀貨と引き換えのできる兌換紙幣を発行させた(銀本位制)。また官営工場を民間に払い下げた影響から政商が生まれ、のちにこれらは財閥を形成していった。 1882年(明治15年)、政府内で実権を握った伊藤は憲法調査のためヨーロッパを訪問。帰国後1884年(明治17年)華族令を制定して国家の功労者にも爵位を与えて華族とし、貴族院を作るための華族制度を整えた。1885年(明治18年)には太政官制を廃止して内閣制を導入し、初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任、1888年(明治21年)新設された枢密院の議長にも就任した。1888年(明治21年)には市制、町村制、府県制、郡制が公布され地方自治制が実施された。1889年(明治22年)大日本帝国憲法、翌1890年(明治23年)教育勅語が発布された。 伊藤以降の初期内閣の構成はいずれも薩摩藩(黒田清隆、松方正義)と長州藩(伊藤博文、山縣有朋)を中心にして組閣され、1890年(明治23年)11月25日帝国議会の幕が開いた。以後激しい選挙干渉にて民党を抑えようとしたが、1892年(明治25年)に成立した第2次伊藤内閣の時には政府と自由党が次第に歩み寄りを進め、協力して政治を運用するようになった。 19世紀後半にアジアの多くの国々は欧米諸国の植民地となっていたが、幕末以来の不平等条約を改正して関税自主権の確立(税権回復)と領事裁判制度の撤廃(法権回復)とを実現することが、日本にとって欧米諸国と対等の地位に立つためには何よりも重要であった。1871年(明治4年)、日本と清国は日清修好条規に調印。1873年(明治6年)に外務卿・副島種臣は、清国皇帝に謁見し日清修好条規批准書の交換を行った。
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19世紀後半にアジアの多くの国々は欧米諸国の植民地となっていたが、幕末以来の不平等条約を改正して関税自主権の確立(税権回復)と領事裁判制度の撤廃(法権回復)とを実現することが、日本にとって欧米諸国と対等の地位に立つためには何よりも重要であった。1871年(明治4年)、日本と清国は日清修好条規に調印。1873年(明治6年)に外務卿・副島種臣は、清国皇帝に謁見し日清修好条規批准書の交換を行った。 1878年(明治11年)に外務卿・寺島宗則の下でアメリカとの間で税権回復の交渉が成立したが、イギリスなどの反対により新しい条約は発効しなかった。後を継いだ外務卿・井上馨は欧化政策を取り、風俗や生活様式を西洋化して交渉を有利に運ぼうとした。1883年(明治16年)に日比谷に建てられた「鹿鳴館」では、政府高官や外国公使などによる西洋風の舞踏会がしきりに開かれた。井上の改正案は外国人に日本国内を開放(内地雑居)するかわりに税権の一部を回復し、領事裁判制度を撤廃するというものであったが、国権を傷つけるものだとして政府内外から強い反対が起こり、1887年(明治20年)交渉は中止され、井上は辞職した。 これに続いて、1889年(明治22年)大隈重信外相がアメリカ・ドイツ・ロシアとの間に新条約を調印したが、大審院(現在の最高裁判所に相当)に限り外国人裁判官の任用を承認していたので、『新聞日本』を基盤に持つ東邦協会メンバーを皮切りに国民協会を率いる保守派の品川弥二郎や鳥尾小弥太、民権派の星亨を中心として再び国内に反対運動が起きた。大隈は玄洋社の活動家に爆弾を投げつけられて負傷したため交渉は中止となって新条約は発効せず、またその後も青木周蔵外相の交渉が1891年(明治24年)に訪日したロシア帝国皇太子(当時、後のニコライ2世皇帝)が滋賀・大津で警護の警察官に襲われて負傷(大津事件)したことにより挫折するなど、条約改正は難航した。 その後、イギリスは東アジアにおけるロシアの勢力拡張に警戒心を深め、日本との条約改正に応じるようになった。1894年(明治27年)に外務大臣陸奥宗光は駐英公使青木周蔵に交渉を進めさせ、イギリスとの間で領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした「日英通商航海条約」の調印に成功した。関税自主権の完全回復は、後に持ち越された。
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その後、イギリスは東アジアにおけるロシアの勢力拡張に警戒心を深め、日本との条約改正に応じるようになった。1894年(明治27年)に外務大臣陸奥宗光は駐英公使青木周蔵に交渉を進めさせ、イギリスとの間で領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした「日英通商航海条約」の調印に成功した。関税自主権の完全回復は、後に持ち越された。 日本は1882年(明治15年)の壬午事変と1884年(明治17年)の甲申政変を契機に朝鮮を巡って清と対立し、甲午農民戦争を契機に1894年(明治27年)日清戦争が勃発した。当時の国力では財力、軍艦、装備、兵数すべてにおいて清の方が優位であったが、士気と訓練度で勝った日本は勝利し下関条約によって以下の内容を清に認めさせた。 下関条約の結果、清の朝鮮に対する宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった冊封体制は終焉を迎えた(李氏朝鮮は1897年(明治30年)大韓帝国として独立した)。しかし、遼東半島はロシア、フランス、ドイツの三国干渉により返還させられた(代償として3000万両を獲得)結果、国民に屈辱感を与え報復心が煽られた(臥薪嘗胆)。 結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなった。他方「眠れる獅子」といわれた清が敗戦したことから、諸列強による中国大陸の植民地化の動きが加速されることとなった。加えて、日清戦争の賠償金は1897年(明治30年)の金本位制施行の源泉となり、官営八幡製鉄所造営(1901年(明治34年)開設)の資金となるなど戦果は経済的にも影響を与えた。一方、日本は外国との間にある不平等条約の廃棄を公然と要求しうるようになった。
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日清戦争終了後、ロシア帝国は清に圧力をかけ、遼東半島の旅順、大連を租借した。また、シベリア鉄道およびその支線である東清鉄道を建設し南下政策を進めていった。とりわけ、義和団の乱(義和団事件)以降、ロシアは満洲に軍隊を駐留させて利権を確保していった。日本はロシアの動きを牽制すべく、1902年(明治35年)イギリスとの間に日英同盟を締結した。当時、世界第一の大帝国で「栄光ある孤立」を貫いていたイギリスが初めて同盟を締結したということとアジアの新興国家である日本が相手ということから世界の注目を受けたが、ヨーロッパでは極東において成り上がりの日本を手先にして火中の栗(中国)を拾わせようとするものとする風刺も見られた。その後、満洲、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に日露戦争が勃発した。 陸軍は遼東半島上陸後、旅順攻囲戦、奉天会戦と圧倒的物量で上回るロシア陸軍を辛うじて後退させることに成功した。一方、海軍は最終的には日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した。 ロシアはなお陸軍は維持していたが、海軍力の大半を失い国内でも革命運動が発展していたため講和に傾いた。日本も長期戦には耐えうる経済発展を達成していなかったので、外相小村壽太郎はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに仲介を依頼して講和に持ち込んだ。日露戦争を終結させたポーツマス条約の内容は以下の通りである。 しかし、賠償金は全く取れなかったため、国民の怒りが爆発し、日比谷焼打事件が起こった。 後の大東亜戦争時に比べると反戦的な主張も比較的許容されており、萬朝報によった堺利彦・片山潜らの反戦運動や、キリスト教の立場からする内村鑑三の非戦論も唱えられた。 日露戦争における日本の勝利は白色人種大国に対する有色人種小国の勝利であり、世界史上の意義も大きかった。第一次エチオピア戦争でエチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例はあるが、これはイギリス、フランスの全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は有色人種国家独自の軍隊による白色人種国家に対する近代初の勝利といえる。
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日露戦争における日本の勝利は白色人種大国に対する有色人種小国の勝利であり、世界史上の意義も大きかった。第一次エチオピア戦争でエチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例はあるが、これはイギリス、フランスの全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は有色人種国家独自の軍隊による白色人種国家に対する近代初の勝利といえる。 1905年(明治38年)、韓国統監府初代統監には伊藤博文が任命されたが、1908年(明治41年)に辞任した。また、1906年(明治39年)のポーツマス条約で獲得した遼東半島南部(関東州)および長春以南の東清鉄道に対し、それぞれ関東都督府、南満洲鉄道株式会社(満鉄)が設置された。その後1909年(明治42年)7月、第2次桂内閣が韓国併合を閣議決定、10月26日に伊藤はロシアとの会談を行うため渡満したが、ハルビンに到着した際に大韓帝国の独立運動家安重根から撃たれて暗殺された。1910年(明治43年)には日韓併合条約を結んで大韓帝国を併合し、ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がった。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは諸外国にも反響を与えた。 1911年(明治44年)、日本はアメリカ合衆国と新しい日米通商航海条約を締結、イギリス、ドイツ、フランスおよびイタリアとも同内容の条約を締結した。外務大臣小村壽太郎は関税自主権の全面回復に成功し、これにより、かつて江戸幕府の政権時に西洋列強と結んだ不平等条約を対等な国家間条約に改善する条約改正の主要な部分が完了、日本は長年の課題を克服し、名実ともに西欧諸国と対等な国際関係を結ぶこととなった。嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後に目指した西欧列強と並ぶ近代国家作りは一応達成された。 その後、第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、日本は1920年(大正9年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加、明治維新から約50年という速さで列強国の一つに数えられることになった。 植民地化されずに自力で近代化への改革をなした日本は、1894年(明治27年)には英国と条約改正を成し遂げ、これを皮切りに幕末以来の不平等条約の解消を進めた。これを完全に達成したのは韓国併合以降である。 明治時代で特徴的な点が、西洋式文物の大量輸入による産業革命である。
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植民地化されずに自力で近代化への改革をなした日本は、1894年(明治27年)には英国と条約改正を成し遂げ、これを皮切りに幕末以来の不平等条約の解消を進めた。これを完全に達成したのは韓国併合以降である。 明治時代で特徴的な点が、西洋式文物の大量輸入による産業革命である。 しかし明治維新が起こった時には神仏分離令により廃仏毀釈運動が起こった。1870年代(明治3年〜12年)中期になると、西洋文明の輸入が本格化。1872年(明治5年)の「殖産興業」による鉄道開業と富岡製糸場設立は、これを象徴する出来事である。 松方デフレによる不況、内国勧業博覧会の実施を経て、日清戦争の勝利によって軽工業を中心とする産業革命が本格化した。1901年(明治34年)には、日本初の西洋式製鉄所である官営八幡製鉄所が開業し、重工業の勃興を告げた。 ※明治5年までは旧暦を使用していたため、西暦(グレゴリオ暦)の年とはずれが生じる。 ※は小の月を示す。 総務省統計局の推計では、2009年(平成21年)10月1日の時点では、日本における明治生まれの人口は16万6千人で、総人口の0.1%となった。 2011年(平成23年)10月1日の時点では、日本における明治生まれの人口は7万1千人で総人口の0.1%。以降の統計では大正生まれの人口と合算して発表されている(2011年の大正生まれの人口は417万人で総人口の3.3% )。 2012年(平成24年)7月30日で明治生まれは全員100歳以上となる。9月発表の百歳以上高齢者(9月15日時点、大正元年7月31日~9月15日生まれを除いて明治生まれである)は5万1千376人。 2017年(平成29年)10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの人口は170万7千人で総人口の1.3%。 明治生まれで令和改元の日(2019年5月1日)まで生きた人はおおよそ2600人程度。 2019年(令和元年)10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの人口は114万1千人で総人口の0.9%。 2020年頃より、47都道府県のうち、それぞれの都道府県内に明治生まれの存命者が一人となったりゼロとなるケースが出てきている。岩手県、栃木県、富山県の各県では、最高齢者の生年が大正元年や二年となっており、明治生まれの存命者が既にいなくなっている。
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明治
2019年(令和元年)10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの人口は114万1千人で総人口の0.9%。 2020年頃より、47都道府県のうち、それぞれの都道府県内に明治生まれの存命者が一人となったりゼロとなるケースが出てきている。岩手県、栃木県、富山県の各県では、最高齢者の生年が大正元年や二年となっており、明治生まれの存命者が既にいなくなっている。 2021年10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの人口は67万7千人で総人口の0.5%。 2022年7月30日で明治生まれは全員110歳以上となる。 2000年代初め頃から、生年月日記入欄で元号を選択させる場合は明治が省かれる(すなわち、大正・昭和・平成の3つから選択させる。)ようになる。ただし、行政機関の申請・届出書類やJR各社の定期券購入申込書などでは、2010年(平成22年)の時点では、明治が入っている場合が多かった。 これらのうち、明治グループ・明治大学の略として「明治」を用いることが多い。
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園芸学
園芸学(えんげいがく、英語: horticultural science)は、農業における園芸のための技術向上と、自然現象の理解、また文化や芸術的な見地から植物を利用した研究や開発を目的とする農学の一分野である。当用漢字制定以前は旧字体で「園藝學」と表記された。 花及び観賞植物、野菜、果樹、庭園を中心にさまざまな植物を扱い、植物学、生物学、自然科学などと深く関連する。そのなかの専門分野としては、果樹園芸学、蔬菜園芸学、花卉園芸学、園芸利用学、造園学がある。野菜、果樹、花及び観賞植物、庭園を中心にさまざまな植物を扱う。 また園芸学を科学的に研究する学者を園芸学者といい、園芸そのものを営みとする者を園芸家という。 日本での研究は、西は南九州大学、香川大学、大阪府立大学、西日本短期大学、東は千葉大学、東京農業大学をはじめ、テクノ・ホルティ園芸専門学校など、各地の大学や農業試験場などにおいて研究が盛んである。また、それら研究機関を横断する学術研究団体として園芸学会が活動している。 都市園芸学(urban horticulture、としえんげいがく)とは、都市環境における園芸植物の栽培やそれに関連する事項の科学と研究を行う学問。都市園芸は、都市化の世界的傾向とともに注目度が高まり、同学問は都市環境における植物栽培と作物収穫のみならず美観、建築や娯楽との関係、心理的目的および効果を研究するためにも活用している。 園芸や自然を人間の文明に取り込むことは、都市の成立に大きく関わってきた。新石器革命の時代、都市はしばしば青果市場や農場を交易拠点として建設されてきたが、数世紀にわたって、栽培は家庭や公共施設などの建築環境と庭園、農場、放牧地、キッチンガーデン、農場、共同放牧地などの形で統合されていった。そのため、園芸は都市の日常生活の一部としても定着していたのであったが、都市化が進行すると、次第に途絶えていく。 ところで、学問としての都市園芸の研究については、産業革命で都市が大きく成長するにつれて、急速に進む。産業革命とそれに伴う人口の増加により、都市景観は急速に変化し、都市緑地はレンガやアスファルトに取って代わられた。19世紀以降、工場地帯の不健康な状況への対応として、一部の都市部で園芸栽培熱が復活すると、都市に公園が整備されるようになる。
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園芸学
ところで、学問としての都市園芸の研究については、産業革命で都市が大きく成長するにつれて、急速に進む。産業革命とそれに伴う人口の増加により、都市景観は急速に変化し、都市緑地はレンガやアスファルトに取って代わられた。19世紀以降、工場地帯の不健康な状況への対応として、一部の都市部で園芸栽培熱が復活すると、都市に公園が整備されるようになる。 初期の都市園芸運動は、不況期の短期的な福祉、「大衆」を高揚させるための人道支援/慈善事業、あるいは愛国心の救済という目的が主だった 。都市園芸の伝統は、第二次世界大戦後、住宅や商業の成長の中心が郊外になっていくにつれ徐々に衰退。経済的に安定を求め、人口のほとんどが都市から郊外に移動し、都市の中心部にはスラムやゲットーだけが残された。ところで、1950年代から1960年代にかけて、公共住宅当局が美化と入居者の誇りを目的に始めた庭園プロジェクトなど、いくつかの例外があった。しかしこれも、多くの場合企業も大都市圏から撤退していくので、荒れ地や分離された貧困地域が発生しだした。特にアメリカ合衆国では、大都市中心部の非投資化が進み、空き地が激増することになる。既存の建物は住めなくなり、家は放棄され、生産性の高い工業用地も空き地になった。 その後に誕生したコミュニティ・ガーデニング、都市農業、フードセキュリティなどの運動体は、上記の問題に地域レベルで立ち向かうための一形態であった。実際、1960年代と1970年代の平和運動、環境運動、女性運動、公民権運動、「都市回帰運動」、1980年代と1990年代の「環境正義運動」など、当時の社会運動は、学校やコミュニティの庭、ファーマーズ・マーケット、都市農業を通じてコミュニティを再生する方法として、これらの空き地に機会を見出していた。
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園芸学
さらに、21世紀に入ってから、地域のコミュニティガーデンや緑地の必要性が認識されるようになり、状況は一変する。都市園芸はコンセプトではなく、その目的が目新しかったのである。こうした運動体の主な目的は、近隣の清掃、空き地で行われる麻薬取引の排除、消費用の食料の栽培と保存、工業地帯への自然の回復、都市部への農業の伝統の導入などであった。本来コミュニティ・ガーデニングとは、社会的・物理的関与を通じて人々と場所の関係を作り出す方法と考えられている。つまり、多くのアーバンガーデンは、さまざまな大きさの空き地に作られ、一般に地域住民によって個々の区画としてガーデニングされるが、このような場所は、社会的、文化的、芸術的なイベントをサポートし、地域のコミュニティ精神の再構築に貢献することができうるとみられたのである。 その後のコミュニティガーデン運動は、行政や非営利団体の支援とともに、近隣住民によって開始されている。公営住宅や学校、教会、社会福祉施設と連携しているところもあり、中には投獄されていた人たちを雇用しているところもある。こうした都市園芸運動の大きな部分を占めるコミュニティ・ガーデンは、以前の大規模な公園開発とは異なり、工業産業主義から人々を解放するためのものであったし、また、コミュニティ・ガーデンは、単なる芝生や公園よりも有益で魅力的であり、原生林がない場所でも自然に触れることができる貴重な存在である。この運動は、都市住民と土との関係を作り、維持することに役立ち、改革的慈善事業の特徴を持たない、異なる種類の都市環境主義にも貢献した。
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園芸学
ただし、アメリカで最初のコミュニティガーデンが誕生してから30年が経過しているにもかかわらず、現在のアーバンガーデンとその組織について、具体的な学術分析がなされていないのが現状である。米国コミュニティ・ガーデニング協会(ACGA)は、約250の市町村で自治体や非営利団体がガーデニング・プログラムを運営していると推定しているが、実際にはこの2倍の規模になる可能性があると、この団体のスタッフは認めている。また、全米ガーデニング協会が1994年に行った調査では、ガーデニングをしていない世帯のうち670万世帯が、近くに区画があればガーデニングに興味を持つと回答している。最近の調査では、経済発展とともにそれらが失われるのではなく、むしろ都市に多くの庭園ができていることが示されている。 今日の都市園芸は、マーケットガーデン、小規模農場、ファーマーズ・マーケットなど、コミュニティガーデン以外にもいくつかの構成要素を持ち、コミュニティ開発の重要な側面となっていることが知られる。都市園芸のもう一つの成果は、いくつかのプロジェクトやプログラムを通じて、地元で栽培された食品が優先され、低コストで栄養価の高い食品を提供する食の安全保障運動へと導いたことである。都市型コミュニティガーデンやフードセキュリティ運動は、工業的農業の問題への対応であり、価格インフレ、スーパーマーケットの不足、食糧不足など、関連する問題を解決するためのものとなっていったのである。
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国連食糧農業機関の報告書「アフリカの緑豊かな都市の成長」では、「市場園芸」(「Growing greeners in Africa」) は、「灌漑された商業的な果物や野菜を、その目的のために指定された場所やその他の都市のオープンスペースで生産する」ことは、地元の最も重要な供給源であると述べている。この目的のために指定された場所やその他都市のオープンスペースで灌漑による果物や野菜の商業生産が、データがあるアフリカ27カ国のうち10カ国において、地元で栽培された新鮮な農産物の最も重要な供給源ともなっている。アクラ、ダカール、バンギ、ブラザビル、イバダン、キンシャサ、ヤウンデで消費される葉物野菜のほとんどは、市場用園芸として生産され、アディスアベバ、ビサウ、リーブルヴィルでは、マーケットガーデンが葉物野菜供給の約半分を担っている。報告書によると、アフリカの都市部の大部分では、市場用園芸は非公式で、しばしば違法な活動であり、公式な認識や規制、支援がほとんどないまま発展してきたとされており、そうした園芸人の多くは自分の土地に正式な所有権を持たず、一夜にして土地を失うことも少なくない。園芸に適した土地は、住宅、産業、インフラのために奪われており、不安定な生活から得られる収益を最大化するために、多くの園芸人が農薬や都市廃水の過剰使用が行われているとの報告もなされている。 園芸/ガーデニングには食費や光熱費の節約など、さまざまな経済効果があるとされている。発展途上国では収入の60から80パーセントを食料の購入に費やしていると言われているが、心理学ジャーナルにおいても記事「都市のガーデニングに対する心理社会的要因の相対的影響」(バーバラ・レイク、ミルフロント・タシアーノ、ギャビン・マイケルズ著)では、食料品の購入にお金を節約する一方で、屋上庭園を持つことも人気が高まっていると述べている。屋上緑化は、冬の暖房費を減らし、夏には涼しく過ごすことが可能でまた、屋根の葺き替え等修繕費用を削減する効果もあることから、建物の屋上緑化は都市型園芸学のテーマのひとつともなっており、人々が健康的な食生活を送ると同時に、資産価値も向上させることが知られる。その他にも、商業目的でない雇用の拡大、生産者の食費の削減など、さまざまな経済的効果も分析されている
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園芸学は、それ自体が実用的で応用的な科学であるため、私たちの日常生活の中でも重要な意味を持つことができているが、コミュニティガーデンは市場原理に基づく土地利用とは競合しないため、社会的、人間的、経済的な幸福への貢献など、そのさまざまなメリットを理解するための別の方法を見つけることが不可欠であったのである。ニューヨークのセントラルパークを設計したフレデリック・ロー・オルムステッドは、樹木、草地、池、野生動物が都市生活のストレスを静めることも注視しているが、長年の様々な研究によると、自然は人間の健康に非常に良い影響を与えるなど、感情的・心理的な意味では特筆され、樹木や芝生、花畑は、その存在感や視認性から、疲労やイライラを軽減し、穏やかな感覚を取り戻すことで人々の生活満足度を高めることが研究されている。実際、ハニーマン(1992)は都市環境における自然風景の回復価値をテストし、都市環境における植生は、植生のない地域と比較して、より精神回復をもたらすことを発見している。 ガーデニングの健康効果として、野菜や果物の摂取量が増えることは明らかであるが、ガーデニングという行為自体が大きな健康効果をもたらす。ガーデニングは負荷の少ない運動であり、日常生活に取り入れることで、体重を減らし、ストレスを軽減し、健康全般を向上させることが可能であることが知られる。21世紀以降の研究では、コミュニティガーデンをしている人は、していない人に比べて肥満度が低く、体重が少ないことが示された。この研究成果では、ガーデニングをしている男性は、隣人と比べて肥満度が2.36低く、太りすぎである可能性が62パーセント低かったのに対し、女性は隣人と比べて肥満度が1.88低く、太りすぎである可能性は46パーセント低かった。アーバンガーデンへのアクセスは、栄養価の高い食用の植栽を通して健康を改善し、また、人々が外に出て、環境での活動を促進することが可能なのである。 都心の学校でのガーデニングプログラムは、子どもたちに健康的な食習慣を教えるだけでなく、生徒が積極的に学習する事を促す方法として人気が高まっている。
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都心の学校でのガーデニングプログラムは、子どもたちに健康的な食習慣を教えるだけでなく、生徒が積極的に学習する事を促す方法として人気が高まっている。 外に出て動くように促す以外にも、生徒を積極的に動かすことができ、また子どもたちは、批判的・創造的思考スキルに加えて、リーダーシップ、チームワーク、コミュニケーション、コラボレーションのスキルも学ぶことが可能。学校でガーデニングを行うことで、子どもたちは新鮮な野菜や果物を食べることによる健康や栄養面でのメリットを家族と共有することができ、また、天候や土壌の状態は常に変化しているため、状況に応じて考え方を変え、創造的に問題を解決すること、学生同士や大人のボランティアなど、多様な人々との交流やコミュニケーションも学びうる。こうしたプログラムは、学生の健康に役立ち、周囲の世界で積極的に貢献できるようになるのである。 庭園やその他の緑地は、社会的な活動を活発化させ、場所の感覚を作り出すのに役立ち、特に貧困、公共交通機関の不足、スーパーマーケットの撤退などの問題を抱える都心部では、栄養価が高く手頃な価格の食品を提供する供給源に大きな格差があるため、都心のコミュニティガーデンは、最も簡単にアクセスできる方法で、手頃な価格で栄養を摂取できる貴重なソースとなり得るのである。 都市園芸のメリットを理解し、それによって最大化するためには、園芸活動の効果を記録し、政府や民間産業が適切な行動を行えるようにそのメリットを定量化することが不可欠である。園芸家は、園芸の植物的、物理的な側面に常に関与してきたが、社会的、感情的な要素に関与することも、地域社会、都市、園芸の分野とその専門家にとって非常に有益なのである。1970年代に国際園芸学会は、都市における植物の機能的な利用に関する研究の必要性と、この分野の研究者と植物を利用する人々のコミュニケーション改善の必要性を認識しており、1982年に都市園芸委員会が設立される。 これは都市部で栽培される植物、管理技術、これらの植物の機能的利用、そしてこの分野に関する現在の知識不足の欠点を扱う委員会である。
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園芸学
これは都市部で栽培される植物、管理技術、これらの植物の機能的利用、そしてこの分野に関する現在の知識不足の欠点を扱う委員会である。 都市園芸での作物はおもに植木鉢で栽培されるほか、栽培袋(en:Growbag)や、小さな庭かもしくは都市内の大きな場所に設けた畑で、伝統的もしくはハイテクで革新的な手法を使って栽培される。また、都市の状況に適応し、都市の規制限界に取り組む新しい技術もいくつか開発され散見されている。これには、さまざまな種類の基材を用いた建築地での園芸生産手法もみられる(例:屋上、有機生産、水耕栽培/空中栽培生産)。トレリスやトマトケージを使用するような垂直農法の適応も、都市園芸手法として選択される。こうした園芸は、屋上菜園・園芸、コンテナ菜園・園芸などとも呼ばれることとなり、学術成果として開発が行われていくのである。
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大正
大正()は、日本の元号の一つ。 明治の後、昭和の前。大化以降229番目、245個目の元号である。大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで。 日本の元号として初めて、元年から最終年である15年までの全期間グレゴリオ暦が用いられた。日本史の時代区分上では、元号が大正であった期間を大正時代()という。本項ではこの時代についても記述する。 大正時代(1912年-1926年)は、大正天皇の在位した期間を指している。 日本史の時代区分は通常(一世一元の制以前)、古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸と政権の中心地による呼称である。大正時代は(年数が大正元年〜大正15年の15年間で、期間は1912年〜1926年の14年間)日本史で一番短い時代区分である。 大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の超然内閣の政治体制が揺らいで、政党勢力が進出することになった。それらは大正デモクラシーと呼ばれて、尾崎行雄・犬養毅らがその指導層となった。 大正デモクラシー時代は1918年(大正7年)の米騒動の前と後で区別されることが多いが、米騒動の同年に初めて爵位を持たない非華族階級であり、衆議院に議席を有する原敬(「平民宰相」とあだ名された)が本格的な政党内閣(=原内閣)を組織した。 原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であり、「教育制度の改善」、「交通機関の整備」、「産業および通商貿易の振興」、「国防の充実」の4大政綱を推進したが、普通選挙法に反対するなどその登場期に平民達に期待された程の改革もなさないままに終わり、1921年(大正10年)大塚駅員だった中岡艮一により東京駅構内で暗殺された(原敬暗殺事件)。 この前後の時期は普選運動が活発化して、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発だった。 1925年(大正14年)には加藤高明内閣下で普通選挙法が成立したが、同時にロシア革命の勃発による国内での社会主義・共産主義思想の台頭への警戒感から治安維持法が制定された。言論界も活況を呈して、皇室を有する君主制と民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などが現れた。
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大正
この前後の時期は普選運動が活発化して、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発だった。 1925年(大正14年)には加藤高明内閣下で普通選挙法が成立したが、同時にロシア革命の勃発による国内での社会主義・共産主義思想の台頭への警戒感から治安維持法が制定された。言論界も活況を呈して、皇室を有する君主制と民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などが現れた。 1921年(大正10年)11月25日に皇太子裕仁親王が大正天皇の病状悪化によって摂政宮となった。明治時代を見直す機運から明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮が大正9年(1920年)11月1日創建された。 1923年(大正12年)に加藤友三郎首相が在任中に死去して8日後に関東大震災が起こり、首都東京が壊滅的な打撃を受けた。放火デマや鮮人差別意識で自警団が結成及び組織されて関東大震災朝鮮人虐殺事件が起きた。後藤新平による帝都東京復興計画が実施された関東大震災後、山本権兵衛元首相が再度政権に返り咲き、第2次山本内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。 日本も連合国として勝者の側につき、列強「五大国」の一員となった第一次世界大戦後には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原喜重郎外相による幣原外交(加藤高明内閣)が展開され、中華民国への内政不干渉、ソビエト連邦との国交樹立など、一定のハト派・国際協調的な色彩を示した。 大正時代は藩閥的な超然内閣を主導していた江戸時代生まれの元勲たちが政界から引退したり他界して、高等教育機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった。 国外では第一次世界大戦の結果として、王政打倒の革命が起きた。敗戦国のドイツやオーストリアや連合国からドイツと和解して戦線から離脱したロシアなどで君主制が廃止された。ロシア革命では世界初の社会主義国のソビエト連邦が成立した。ドイツではワイマール憲法のもとドイツ共和国(ヴァイマル共和政)が誕生した。共和制国家の成立は、デモクラシーの勝利とされた。
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大正
国外では第一次世界大戦の結果として、王政打倒の革命が起きた。敗戦国のドイツやオーストリアや連合国からドイツと和解して戦線から離脱したロシアなどで君主制が廃止された。ロシア革命では世界初の社会主義国のソビエト連邦が成立した。ドイツではワイマール憲法のもとドイツ共和国(ヴァイマル共和政)が誕生した。共和制国家の成立は、デモクラシーの勝利とされた。 しかし、日本において共和制の誕生は天皇制・皇室廃止の意味があり、労働運動の高まりを利用して共産主義が広まることを警戒して治安維持法が制定された。多くの国で君主制が廃止されたことが口実となった。共産主義思想は日本のインテリ層に影響を与え、大正期の知識人は、改造・革新・革命・維新の4種類を政治運動のスローガンに掲げた。 文化風俗面の特徴としては、近代都市の発達や経済の拡大に伴い都市文化、大衆文化が花開き、「大正モダン」と呼ばれる華やかな時代を迎えた。女性の就労も増え、それまでの女工などに代わって、電話交換手や女子事務員など「職業婦人」と呼ばれる層が現れ、カフェの女給、バスガール、デパート店員、女医、映画女優といった新しい職業も人気となり、東京や横浜、大阪や神戸などでは大企業や外資系企業に勤める大学卒で高収入なホワイトカラーが登場し、断髪で洋装のモガ(モダンガールの略。男性はモボ)が登場した。 大正年間を通じて、都市にこうした享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働組合と小作人組合が結成されて、労働争議が激化するなど社会的な矛盾も深まっていった。 1911年(明治44年)に第2次西園寺内閣が成立した頃、日本の国家財政は非常に悪化していたが、中国の辛亥革命に刺激された陸軍は、抗日運動対策も兼ねて、前年に併合した朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を強く政府に迫った。緊縮財政方針の西園寺公望がこれを拒否し、政府・与党(立憲政友会)と陸軍が対立すると、多くの国民が陸軍の横暴に憤り、政治改革の機運が高まった。また1912年(明治45年/大正元年)7月30日に明治天皇が崩御して大正天皇が即位したり、美濃部達吉が『憲法講話』を刊行して、天皇機関説や政党内閣論を唱えたことも国民に新しい政治を期待させた。
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大正
1912年(大正元年)の末、2個師団増設が閣議で承認されなかったことに抗議して、上原勇作陸相が単独で辞表を大正天皇に提出し、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯にその後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。代わって長州閥と陸軍の長老である桂太郎が、就任したばかりの内大臣と侍従長を辞して第3次桂内閣を組織すると、「宮中府中の別」の原則を無視して宮中の職から首相に転じたことが、藩閥勢力が新天皇を擁して政権独占を企てているとの非難の声が上がった。 立憲国民党の犬養毅と立憲政友会の尾崎行雄を先頭とする野党勢力や新聞に、商工業者や都市部の知識人階級も加わり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動が全国に広がった(第一次護憲運動)。桂は立憲同志会を自ら組織してこれに対抗しようとしたが、護憲運動は強まる一方だったので1913年(大正2年)、民衆が議会を包囲するなか在職わずか50日余で退陣した(大正政変)。 桂のあとは、薩摩出身の海軍大将である山本権兵衛が立憲政友会を与党に内閣を組織した。山本内閣は行政整理を行うとともに、文官任用令を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の将官にまで資格を拡げ、官僚・軍部に対する政党の影響力拡大に努めたが1914年(大正3年)、外国製の軍艦や兵器の輸入を巡る海軍高官の汚職事件(シーメンス事件)が発覚すると、都市民衆の抗議行動が再び高まり、やむなく退陣した。 これを見た山縣有朋ら元老は庶民の間で人気のある大隈重信を急遽後継首相に推薦し、第2次大隈内閣が成立した。大隈は立憲同志会を少数与党として出発したが、1915年(大正4年)の総選挙で立憲同志会などの与党が立憲政友会に圧勝した。この結果、懸案の2個師団増設案は議会を通過した。また同内閣下で第一次世界大戦が勃発しており、同盟国イギリスがドイツ帝国に宣戦すると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦し、中国におけるドイツの植民地青島、山東省、南洋諸島の一部を占領した。ついで大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、1915年(大正4年)に袁世凱政府に、加藤高明外相が二十一か条の要求を提出した(対華21ヶ条要求)。
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大正
続く寺内政権では、袁政権の後継となった北方軍閥の段祺瑞内閣に巨額の借款を与えて(西原借款)、政治・経済・軍事にわたる中国における日本の権限を拡大しようと努めた。極東の権益を保持するため第4次日露協約、イギリスとの覚書、特派大使石井菊次郎の石井・ランシング協定を締結した。1917年(大正6年)のロシア革命を好機とみた寺内内閣は北満州・沿海州まで勢力を広げようとした(シベリア出兵)。 寺内正毅の超然内閣に対抗して憲政会が結成されると、寺内首相は1917年(大正6年)に衆議院を解散、総選挙の結果、立憲政友会が憲政会に代わって衆議院の第一党となった。大戦による急激なインフレーションとシベリア出兵を見越した米の買い占めによって国内では米価が暴騰して、1918年(大正7年)8月には富山県の漁村で主婦達が米の安売りを要求したことが新聞に報道されると米騒動が全国に広がった。さらに労働者の待遇改善、小作人の小作料引き下げの運動も起こった。 政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は1918年(大正7年)9月21日に退陣した。 民衆運動の力を目の当たりにした元老たちはついに政党内閣を認め、立憲政友会総裁の原敬を首相に推薦し、1918年(大正7年)9月29日には初の本格的な政党内閣である原内閣が成立した。華族でなかった原は「平民宰相」と呼ばれて国民に親しまれた。普通選挙の要求が高まった情勢を背景に、原は政党の地位を高めながら自党の党勢拡大を行い、大資本や地主などとの間に深い関係を築いた。また元老との衝突を避けながらも、元老の政治力の縮小に努力した。 しかし、原は普通選挙制の導入については国民の期待に反して「現在の社会の組織に向かって脅迫を与えるもの」として拒み続け、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、小選挙区制を導入する選挙改革にとどめた。これらは「党利党略」として世論の不信を招いた。また外交面では1919年(大正8年)に満州で日中両軍が衝突する寛城子事件が起きる。1920年(大正9年)の尼港事件では在留邦人と駐留日本軍が赤軍と中国軍に皆殺しにされ内閣の責任が追及された。1921年(大正10年)11月4日には原が東京駅頭で鉄道労働者の中岡艮一に暗殺された(原敬暗殺事件)。
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大正
続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となり、高橋内閣は経済不況に対応して積極政策を試みたがそのことで内紛が起こったため、緊縮財政と普通選挙を訴える憲政会への期待が高まっていった。外交面では1922年(大正11年)初頭にワシントン会議があり、アジアにワシントン体制が構築された。その結果、日本国内でも国際協調主義が強まった。高橋内閣は内紛により倒れ、代わってワシントン会議全権だった海軍大将加藤友三郎が政友会を事実上の与党として内閣を組織した。加藤はワシントン会議の協定に従って海軍軍縮を行い、さらに山梨半造陸軍大臣によって山梨軍縮と呼ばれる陸軍軍縮も断行して選挙権拡大の検討に入った。 加藤の病死後、関東大震災の危機の中で第2次山本内閣が立てられ、再度政権に返り咲いた山本は挙国一致内閣の必要性と普通選挙採用を訴えたが政友会の協力が得られず、虎の門事件の責任を取り総辞職に追い込まれた。続いて貴族院を母体とした清浦内閣が成立し、反政党政治的な態度を示したが、それに対抗して衆議院の憲政会・革新倶楽部・政友会の三派は、第二次護憲運動を起こした。1924年(大正13年)の総選挙では護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)が大勝を収め、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。これ以降衆議院の第一党党首が首相を務めるのが風習化した(憲政の常道)。 加藤内閣は、宇垣軍縮と呼ばれる高田陸軍師団・豊橋陸軍師団・岡山陸軍師団・久留米陸軍師団の4個の陸軍師団を削減して大量の将校の人員削減など陸軍軍縮を行い、兵力を削減した経費で戦車・自動車・航空機など20世紀に導入された軍事装備を大量配置して陸軍の近代化を行い、中等学校(現在の高等学校課程にほぼ相当)以上の男子学校のカリキュラムに軍事教練を設けて過剰となった将校を教官にした。
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大正
加藤内閣は、宇垣軍縮と呼ばれる高田陸軍師団・豊橋陸軍師団・岡山陸軍師団・久留米陸軍師団の4個の陸軍師団を削減して大量の将校の人員削減など陸軍軍縮を行い、兵力を削減した経費で戦車・自動車・航空機など20世紀に導入された軍事装備を大量配置して陸軍の近代化を行い、中等学校(現在の高等学校課程にほぼ相当)以上の男子学校のカリキュラムに軍事教練を設けて過剰となった将校を教官にした。 1925年(大正14年)、普通選挙法を成立させ、納税額によらず25歳以上の成人男子全員に選挙権を与える男子普通選挙が実現することになる。しかし、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。普選には「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、同時に8年前のロシア革命のように「革命の発火点」になる恐れも考えられたため、普選法と同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」を目的とした活動の禁止と、そうした結社に加入することを厳重に取り締まった。また、勅令175号1925年(大正14年)5月8日により、朝鮮、台湾、樺太にも治安維持法が施行される。しかし普選の実現により、無産政党にも議会進出の道が開かれ、1926年(大正15年)には労働農民党が発足した。また同年治安警察法第17条も廃止された。外交面では、日ソ基本条約を結んで世界史上初の社会主義国家ソビエト連邦との国交を樹立した。 同年12月25日に大正天皇が47歳で崩御し、その長男で摂政を務めていた皇太子裕仁親王が25歳で践祚し、15年程続いた大正時代は終わり、63年間に及ぶ昭和の時代へと突入した。 1914年(大正3年)には、第一次世界大戦が勃発した。元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦した。本土や植民地が被害を被ることこそなかったものの、連合国の要請を受けてヨーロッパにも派兵し多数の戦死者を出した結果、戦勝国の一員となった。
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大正
1914年(大正3年)には、第一次世界大戦が勃発した。元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦した。本土や植民地が被害を被ることこそなかったものの、連合国の要請を受けてヨーロッパにも派兵し多数の戦死者を出した結果、戦勝国の一員となった。 発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本とアメリカ合衆国の両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で繊維(紡績産業・漁網製造産業)などの軽工業や造船業・製鉄業など重工業が飛躍的に発展して、後進的な未発達産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツ帝国及びオーストリア=ハンガリー帝国との交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「成金」が出現する。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功する。 しかし、1918年(大正7年)に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生した。さらに戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「金解禁」)の時期を逸したために、日本銀行に大量の金が滞留して金本位制による通貨調整の機能を失った。さらに関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、震災手形とその不良債権化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに昭和金融恐慌・世界恐慌を迎えることになる。
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大正
パリ講和会議では、「人種差別撤廃案」を主張し、大多数の国の支持を得たがアメリカ、イギリス、オーストラリアなどの反対によって否決された。当時アジアの中で数少ない独立国であった日本は、国際連盟に加盟し、アメリカ・イギリス・フランス・イタリアの5カ国と並ぶ世界の1等国として国際連盟の常任理事国となる。国際連盟事務次長には新渡戸稲造が就任している。しかしドイツ植民地であったマーシャル諸島(日本は南洋諸島に南洋庁を設置した)が日本に委任統治された結果、日本の太平洋地域への進出が進み、フィリピンやハワイ諸島を領有するアメリカと直接的に領土・領海の境域が接するようにもなり、日米の対立関係は深まり、アメリカの圧力で日英同盟が解消されるなど、太平洋戦争(大東亜戦争)への伏線が芽生えることにもなった。 1923年(大正12年)9月1日には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に首都東京は甚大な損害を受ける。震災後、元首相の山本権兵衛が再び政権を担い、第2次山本内閣が成立した。新内閣の内務大臣となった後藤新平が震災復興で大規模な都市計画を構想して手腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。 江戸の伝統を受け継ぐ町並みが一部を残して破壊され、東京は下水道整備やラジオ放送が本格的に始まるなど近代都市へと大きな進化を遂げた。しかし、一部に計画されたパリやロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の建設は諸事情により行われなかった。これによって培われた経験が戦後の首都高速道路の建設に繋がる。 日本初のレコードでヒットした歌謡曲とされる松井須磨子の「カチューシャの唄」をはじめとする数々の歌謡曲が誕生した。ジャズもこの時代に日本に伝わり、それなりに発展する。落語・講談・能・文楽・歌舞伎・新派劇・新国劇などの日本的な伝統演劇に対して西洋劇を導入する新劇運動(芸術座・築地小劇場)が盛んになり、昭和時代に発展する芸能界の基礎となる俳優・女優・歌手などの職業が新しく誕生して、その後の大衆文化の原型が生まれた。活動写真(現在の映画)や少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)が登場した。
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大正
日露戦争頃から、経済文化の中心地であった大阪・神戸において都市を背景にした大衆文化が成立し(阪神間モダニズム)、全国へ波及した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。一方、東京では1915年(大正4年)に浮世絵版画の復刻をしつつ、新しい伝統木版画を創造しようとしていた渡辺庄三郎の主導によってフリッツ・カペラリの水彩画を錦絵風の木版画にしたのを機に橋口五葉、伊東深水、川瀬巴水、吉田博、名取春仙らによる新版画の活動が開始された。この動きは1923年(大正12年)の関東大震災後には新興の版元を多く巻き込んで全国的に広まり、昭和時代まで続いていった。 道路や交通機関が整備された。路面電車や青バス(東京乗合自動車)や円太郎バスなどの乗合バスが市内を走行した。大正後期から昭和初期までの大大阪時代に大阪府では、東京府よりも先におびただしい私鉄網が完成し、とりわけ小林一三が主導した阪神急行電鉄の巧みな経営術により、阪神間に多くの住宅衛星都市群が出現した。 一方、日清戦争(1894年〜1895年〔明治27年〜明治28年〕)を経て東洋一の貿易港となっていた神戸港に夥しく流入する最新の欧米文化は衛星都市の富裕層に受け入れられ広まり、モダンな芸術・文化・生活様式が誕生した。大阪・神戸は関東大震災後に東京から文化人の移住等もあって、文化的に更なる隆盛をみた。大正中期に都市部で洋風生活を取り入れた「文化住宅」が一般向け住宅として流行をした。 東京府(東京市)では、関東大震災で火災による被害が甚大だった影響で下町が江戸時代の街並みを失う一方、震災の影響が総じて少なかった丸の内、大手町地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、大企業や外資系企業の一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「副都心」へと成長させた。 1918年(大正7年)に専門学校から昇格する形で私立大学を中心に旧制大学を認可する大学令と高等学校令が公布されて高等教育機関が整備され、東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、大企業や外資系企業に勤める大卒の「サラリーマン」が大衆の主人公となった。
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1918年(大正7年)に専門学校から昇格する形で私立大学を中心に旧制大学を認可する大学令と高等学校令が公布されて高等教育機関が整備され、東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、大企業や外資系企業に勤める大卒の「サラリーマン」が大衆の主人公となった。 明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「百貨店」に変身を遂げ、銀座はデパート街へと変貌した。井戸やまきによるかまどの使用や明治時代の石油ランプが廃れて、上水道・ガス・電気が普及する。神前結婚や大本教や霊友会など新宗教が盛んになる。家庭電気器具では扇風機・電気ストーブ・電気アイロン・電気コンロが普及した。ブリキやセルロイド製のおもちゃなど新素材のおもちゃが登場した。 箱根駅伝大会が金栗四三の尽力で開始されて、オリンピック競技が盛んになった。1920年(大正9年)のアントワープオリンピックでは、日本人初のメダルとしてテニスで銀メダルを獲得した。朝日新聞社と毎日新聞社による中等学校野球などのスポーツが開始された。明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが1926年(大正15年)で、その前年出発した「東京六大学野球」が愈々隆盛を極めるようなる。 東京に拠点を置いていた『時事新報』、『國民新聞』、『萬朝報』の主要紙が関東大震災の被災で凋落し、取って代って大阪に本社を置いていた『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した『讀賣新聞』も成長を果たして、今の「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。 1925年(大正14年)3月には、東京、大阪、名古屋の主要三大都市でラジオ放送が始まり、新しいマスメディアが社会に刺激を与えるようになる。 大正前期、新聞について書かれた記事によると、『風俗書報』第四六七号(一九一六[大正五]年一月)の「新聞紙」にて柏拳生は「新聞紙は斯く重宝なるものとして貴ばるゝと共に、群衆心理を左右する恐るべき魔力を有す。」と述べている。また、光本悦三郎『鞍上と机上:続東京馬米九里』(一九一四[大正三]年一二月 無星神叢書)の「新聞の裏面」にて「群盲は新聞の裏面を知らないで、表面に現れた文字だけよりかは何も知らない。」とあるように、大正期の新聞は人々に多大な影響を与えた。
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震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「自動車」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「円タク」などタクシーの登場もあって、旅客か貨物かを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。また、これまでのような上流階級や富裕層のみならず、中流階級を中心にオースチンなどの輸入車を中心とした自家用車の普及も始まった。 都市部では新たに登場した中産階級を中心に“洋食”が広まり「カフェ」「レストラン」が成長して、飲食店のあり方に変革をもたらした。カレーライス・とんかつ・コロッケは大正の三大洋食と呼ばれた。特にコロッケは益田太郎冠者作詞の楽曲のコロッケの唄 (1917年(大正6年)にヒット)の登場により、洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。米騒動による米価高騰対策として原敬内閣は積極的にパンの代用食運動を展開した。パンは昭和の戦後期になって普及するが、和製洋食に米の御飯と云う、戦後の日本人の食事の主流は大正時代に定着して、中華料理の中華そばの普及や和食の復権運動があった。ロシアパンがロシア革命で日本に亡命して来た白系ロシア人によって紹介されて広まった。1919年(大正8年)7月7日 に日本で初めての乳酸菌飲料カルピスが発売される。人造氷が発達した。アイスクリーム・パン・チキンライス・コーヒー・ラムネ・紅茶・サイダー・ビール・キャラメル・チョコレートなど洋食品が普及した。喫茶店やレストランが増加した。昭和一桁にかけて、麺類や缶詰類など簡易食品が発達した。 女性の間で洋髪が流行して、七三分け・髪の毛の耳隠しなどが行われた。女学生に制服が使用された。男子はセルの袴が良く使用された。明治時代まで庶民には縁のなかった「欧米式美容室」、「ダンスホール」が都市では珍しい存在ではなくなり、モダンボーイ・モダンガール(モボ・モガ)の男女など、男性の洋装が当たり前になったのもこの時代である。一方、地方(特に農漁村)の労働者階級ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は縮まらなかった。
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西田幾多郎などの京都学派が学問の主流だった。東洋史では内藤湖南が唱えた唐宋変革論が盛んに論議された。 1915年(大正4年)に北里柴三郎設立の北里研究所が設立された。1917年(大正6年)に財界からの寄付金と国庫補助金、皇室下賜金などのを財源に、半官半民の財団法人として理化学研究所が設立された。その他航空研究所(東京帝国大学付属研究所で航空科学を研究)・金属材料研究所(本多光太郎の提案で東北帝国大学に設立)・地震研究所(関東大震災の教訓から地震と地震予知研究)が大正時代に設立される。 文学界には新現実主義の芥川龍之介、耽美派の谷崎潤一郎、さらに武者小路実篤・志賀直哉ら人道主義(ヒューマニズム)を理想とした白樺派が台頭した。この頃までに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。詩・和歌では萩原朔太郎が新しい口語自由詩のリズムを完成させ、今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、上記の他に、中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当たった菊池寛などの文芸作品が登場した。 出版業界においては1冊1円の「円本」が爆発的に売れた。1921年(大正10年)には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また1924年(大正13年)には、小山内薫が築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実した。俳壇では『ホトトギス』が一大勢力を築き、保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。柳宗悦が朝鮮美術を薦めて民藝運動を提唱した。 大正時代末期には鏑木清方が「展覧会芸術」などに対して、版画等のことを「卓上芸術」として提唱した。 社会事業を巡る議論が盛んとなり、国家経営政策として第1回国勢調査が1920年(大正9年)に実施された。米騒動後には政府・地方で社会局および方面委員制度の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。
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大正
大正時代末期には鏑木清方が「展覧会芸術」などに対して、版画等のことを「卓上芸術」として提唱した。 社会事業を巡る議論が盛んとなり、国家経営政策として第1回国勢調査が1920年(大正9年)に実施された。米騒動後には政府・地方で社会局および方面委員制度の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。 東京府・大阪府などの都市部で上水道が普及した。明治期まで非常に多かった乳児死亡率が大正期に減少した。世界中にパンデミックを引き起こしたスペイン風邪は日本国内で2380万人(当時の対人口比:約43%)が感染し、島村抱月や大山捨松、皇族では竹田宮恒久王が死去するなど約39万人の日本人が死亡した また、1919年(大正8年)には第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による民力涵養運動が開始されており、後の教化総動員運動の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。 こうして大正年間において社会事業が活発となった原因として、小作争議の頻発や労働運動の大規模化など、地方改良運動に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。 鈴木文治によって友愛会が設立されて、第一次世界大戦期間中にインフレが進行したことによって米騒動が発生した。成金が誕生する一方で貧富の差が拡大したことで急増した労働争議に友愛会などの労働組合が深く関係した。 大正デモクラシーによって様々な社会運動が行われた。 明治期に四民平等となった後も、被差別部落出身者に対する差別が残った。明治政府の貧困対策や身分解放政策の不備、また賎民専用の皮革産業などの生業を失い貧困層となったことや、旧百姓身分の農民層からの偏見があった。西光万吉や阪本清一郎らが中心となり1922年(大正11年)に全国水平社が結成された。 女性の解放が叫ばれ、ウェートレス・デパートの店員・バスガール・電話交換手・劇場の案内人・美容師・事務員・和文や英文のタイピスト・通訳・保母・看護婦・医師など社会に進出して働く職業婦人が増加した。
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大正
女性の解放が叫ばれ、ウェートレス・デパートの店員・バスガール・電話交換手・劇場の案内人・美容師・事務員・和文や英文のタイピスト・通訳・保母・看護婦・医師など社会に進出して働く職業婦人が増加した。 普通選挙運動の対象が男性のみであったことから、女性の地位向上を目指す女性運動家が出現し、新婦人協会が設立された。また、高等女学校や大学へ進学する女子生徒も増えた。 三・一運動によって朝鮮総督府がこれまでの憲兵警察制度による武断統治を見直し、内鮮一体と朝鮮半島の近代化を目的とする文化政治に改めた。貧困から逃れるため朝鮮人の外地から内地への密航が多発して、在日朝鮮人の増加に伴う内地人との軋轢や社会不安が社会問題となった。 西洋思想の影響を受けて仏教が近代化し、仏教思想と西洋哲学を統合する仏教近代化政策が実施された。僧侶の参政権運動が明治末期から大正期かけてあった。僧侶の政治活動が盛んで妹尾義郎が新興仏教青年同盟を結成した。仏教関係の政治団体が盛んに社会運動を行うが昭和戦前期に軍部によって弾圧された。東京帝国大学でインド哲学の専門学科が1917年(大正6年)に開設された。井上円了を中心に仏教の迷信を否定する妖怪研究があった。1924年(大正13年)に大正新脩大蔵経の編纂が開始された。 2019年(令和元年)10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの人口は114万1千人で総人口の0.9%。 2020年頃より都道府県の最高齢者が大正生まれとなるケースが出てきている。男性の最高齢者は過半数の都道府県で大正生まれが最高齢で大正5年が最高齢となる県も出てきている。人口の少ない町村によっては大正生まれが1人~5人の自治体もある。大正元年生まれは2022年で110歳を迎えた。
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易経
『易経』(えききょう、正字体:易經、拼音: Yì Jīng)は、古代中国の書物。著者は伏羲とされている。 商の時代から蓄積された卜辞(ぼくじ)を集大成したものとして易経は成立した。 『卜』(ぼく)が動物である亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に入ったヒビの形から占うものであるのに対して、『筮』(めどき/めどぎ)は植物である『蓍』(シ、めどぎ)の茎の本数を用いた占いである。 現代では、哲学書としての易経と占術のテキストとしての易経が、一部重なりながらも別のものとなっている。中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。 易経は儒家である荀子の学派によって儒家の経典として取り込まれた。 「玄学」の立場からは『老子道徳経』・『荘子』と合わせて「三玄(の書)」と呼ばれる。 また、中国では『黄帝内經』・『山海經』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。 儒教の基本書籍である五経の筆頭に挙げられる経典であり、『周易』(しゅうえき、Zhōu Yì)または単に『易』(えき)とも呼ぶ。通常は、基本の「経」の部分である『周易』に儒教的な解釈による附文(十翼または伝)を付け加えたものを一つの書とすることが多く、一般に『易経』という場合それを指すことが多いが、本来的には『易経』は卦の卦画・卦辞・爻辞部分の上下二篇のみを指す。 三易の一つであり、太古よりの占いの知恵を体系・組織化し、深遠な宇宙観にまで昇華させている。今日行われる易占法の原典であるが、古代における占いは現代にしばしば見られる軽さとは大いに趣きを異にし、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であり、占師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。 古来、占いを重視する象数易と哲理を重視する義理易があり、象数易は漢代に、義理易は宋代に流行した。 『史記』日者列伝で長安の東市で売卜をしていた楚人司馬季主と博士賈誼との議論において、易は「先王・聖人の道術」であるという記述がある。 この書物の本来の書名は『易』または『周易』である。『易経』というのは宋以降の名称で、儒教の経書に挙げられたためにこう呼ばれる。
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易経
古来、占いを重視する象数易と哲理を重視する義理易があり、象数易は漢代に、義理易は宋代に流行した。 『史記』日者列伝で長安の東市で売卜をしていた楚人司馬季主と博士賈誼との議論において、易は「先王・聖人の道術」であるという記述がある。 この書物の本来の書名は『易』または『周易』である。『易経』というのは宋以降の名称で、儒教の経書に挙げられたためにこう呼ばれる。 なぜ『易』という名なのか、古来から様々な説が唱えられてきた。ただし、「易」という語がもっぱら「変化」を意味し、また占いというもの自体が過去・現在・未来へと変化流転していくものを捉えようとするものであることから、何らかの点で “変化” と関連すると考える人が多い。 有名なものに「易」という字が蜥蜴に由来するという “蜥蜴説” があり、蜥蜴が肌の色を変化させることに由来するという。 また、「易」の字が「日」と「月」から構成されるとする “日月説” があり、太陽と太陰(月)で陰陽を代表させているとする説もあり、太陽や月、星の運行から運命を読みとる占星術に由来すると考える人もいる。 伝統的な儒教の考えでは、『周易正義』が引く『易緯乾鑿度』の「易は一名にして三義を含む」という「変易」「不易」「易簡(簡易)」(かわる、かわらぬ、たやすい)の “三易説” を採っている。 また、『周易』の「周」は中国王朝の周代の易の意であると言われることが多いが、鄭玄などは「周」は「あまねく」の意味であると解している。しかし、『史記』日者列伝には、「周代において最も盛んであった」という記述がある。 現行『易経』は、本体部分とも言うべき(1)「経」(狭義の「易経」。「上経」と「下経」に分かれる)と、これを注釈・解説する10部の(2)「伝」(「易伝」または「十翼(じゅうよく)」ともいう)からなる。 「経」には、六十四卦のそれぞれについて、図像である卦画像と、卦の全体的な意味について記述する卦辞と、さらに卦を構成している6本の爻位(こうい)の意味を説明する384の爻辞(乾・坤にのみある「用九」「用六」を加えて数えるときは386)とが、整理され箇条書きに収められ、上経(30卦を収録)・下経(34卦を収録)の2巻に分かれる。
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易経
「経」には、六十四卦のそれぞれについて、図像である卦画像と、卦の全体的な意味について記述する卦辞と、さらに卦を構成している6本の爻位(こうい)の意味を説明する384の爻辞(乾・坤にのみある「用九」「用六」を加えて数えるときは386)とが、整理され箇条書きに収められ、上経(30卦を収録)・下経(34卦を収録)の2巻に分かれる。 「伝」(「易伝」、「十翼」)は、「彖伝(たんでん)上・下」、「象伝(しょうでん)上・下」、「繋辞伝(けいじでん)上・下」、「文言伝(ぶんげんでん)」、「説卦伝(せっかでん)」、「序卦伝(じょかでん)」、「雑卦伝(ざっかでん)」の計10部である。これらの中で繋辞伝には小成八卦の記述はあるものの、大成卦の解説では大成卦を小成八卦の組み合わせとしては解しておらず、繋辞伝が最初に作られた「伝」と推測される。 1973年、馬王堆漢墓で発見された帛書『周易』写本に「十翼」は無く、付属文書は二三子問・繋辞・易之義・要・繆和・昭力の六篇で構成されていた。 現代出版されている易経では、一つの卦に対して、卦辞、彖、象、爻辞の順でそれぞれが並べられていることが多く、「経」、「彖」、「象」を一体のものとして扱っている。たとえば「易―中国古典選10」では、一つの卦は、王弼・程頤にならい以下のように編集されている。 (のこり5爻の爻辞・小象)
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易経
現代出版されている易経では、一つの卦に対して、卦辞、彖、象、爻辞の順でそれぞれが並べられていることが多く、「経」、「彖」、「象」を一体のものとして扱っている。たとえば「易―中国古典選10」では、一つの卦は、王弼・程頤にならい以下のように編集されている。 (のこり5爻の爻辞・小象) 易経の繋辞上伝には「易は聖人の著作である」ということが書かれており、儒家によって後に伝説が作られた。古来の伝承によれば、易の成立は以下のようなものであったという。 まず伏羲が八卦を作り、さらにそれを重ねて六十四卦とした(一説に神農が重卦したとも)。次に周の文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作った(一説に爻辞も文王の作とする)。そして、孔子が「伝」を書いて商瞿(しょうく)へと伝え、漢代の田何(でんか)に至ったものとされる。この『易』作成に関わる伏羲・文王(周公)・孔子を「三聖」という(文王と周公を分ける場合でも親子なので一人として数える)。孔子が晩年易を好んで伝(注釈、いわゆる「十翼」といわれる彖伝・繋辞伝・象伝・説卦伝・文言伝)を書いたというのは特に有名であり、『史記』孔子世家には「孔子は晩年易を愛読し、彖・繋・象・説卦・文言を書いた。易を読んで竹簡のとじひもが三度も切れてしまった」と書かれており、「韋編三絶」の故事として名高い。 このような伝説は儒家が『易』を聖人の作った経典としてゆく過程で形成された。伏羲画卦は「易伝」の繋辞下伝の記述に基づいており、庖犧(伏羲)が天地自然の造型を観察して卦を作り、神明の徳に通じ、万物の姿を類型化したとあり、以後、庖犧-神農-黄帝-堯-舜と続く聖人たちが卦にもとづき人間社会の文明制度を創造したとある。
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易経
しかしながら、この伝説は古くから疑問視されていた。易の文言が伝承と相違している点が多いためである。宋の欧陽脩が、「十翼は複数の人間の著作物だろう」と疑問を呈したのに始まり、宋代以降易経の成立に関する研究が進めば進むほど、上記の伝説が信じがたいことが明らかになった。朱熹は「六十四卦はただ上経だけが整った形になっているが、下経は乱雑な記述になっており、繋辞上伝は整っているが繋辞下伝は彖伝・象伝と整合性が取れない」といい、「彖伝・象伝はよく出来ているので聖人の著作だろう」と考えたが、他の伝は聖人の著作ではないと考えていたのではないか、と内藤湖南は論文『易疑』で述べている。内藤は更に「商瞿以來の傳授が信ぜられぬことの外、即ち田何が始めて竹帛に著はしたといふことは、恐らく事實とするを得べく、少くとも其時までは易の内容にも變化の起り得ることが容易なものと考へられるのである。それ故筮の起原は或は遠き殷代の巫に在りとし、禮運に孔子が殷道を觀んと欲して宋に之て坤乾を得たりとあるのが、多少の據りどころがあるものとしても、それが今日の周易になるには、絶えず變化し、而かも文化の急激に發達した戰國時代に於て、最も多く變化を受けたものと考ふべきではあるまいか。」(『易疑』)と述べ、易が聖人の著作であることを否定した。後には孔子と易との関わりまでも疑問視されたが、これは高田眞治・白川静らによって逆に否定された。現代では以下のように考えられている。
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易経
古代中国、殷代には、亀甲を焼き、そこに現れる亀裂の形(卜兆)で、国家的な行事の吉凶を占う「亀卜」が、神事として盛んに行われていたことが、殷墟における多量の甲骨文の発見などにより知られている。西周以降の文の、「蓍亀」や「亀策」(策は筮竹)などの語に見られるように、その後、亀卜と筮占が併用された時代があったらしい。両者の比較については、『春秋左氏伝』僖公4年の記に、亀卜では不吉、占筮では吉と、結果が違ったことについて卜人が、「筮は短にして卜(亀卜)は長なり。卜に従うに如かず(占筮は短期の視点から示し、亀卜は長期の視点から示します。亀卜に従うほうがよいでしょう)」と述べた、という記事が見られる。『春秋左氏伝』には亀卜や占筮に関するエピソードが多く存在するが、それらの記事では、(亀卜の)卜兆と、(占筮の)卦、また、卜兆の形につけられた占いの言葉である繇辞(ちゅうじ)と、卦爻につけられた占いの言葉である卦辞・爻辞が、それぞれ対比的な関係を見せている。こうして占われた結果が朝廷に蓄積され、これが周易のもとになったと考えられている。周易のもとになった書物が各地に普及すると、難解な占いの文の解釈書が必要になり、戦国末期から前漢の初期に彖伝・象伝以外の「十翼」が成立したのであろう...というのが丸山松幸による現在の通説のまとめである。 また周代の理想的な官制を描いた『周礼』の春官宗伯には大卜という官吏が三兆・三易・三夢の法を司ったとされ、三兆(玉兆・瓦兆・原兆)すなわち亀卜に関しては「その経兆の体は皆な百有二十、その頌は皆な千有二百」とあり、後漢の鄭玄は卜兆が120体に分類され、1体ごとに10ずつの繇があったと解している。一方、三易(連山・帰蔵・周易)すなわち占筮に関しては「その経卦は皆な八、その別は皆な六十有四」と述べ、卦に八卦があり、それを2つ組み合わせた六十四卦の卦辞がある『易』に対応した記述となっている。なお三易の「連山」「帰蔵」を鄭玄はそれぞれ夏代・殷代の易と解している。「連山」「帰蔵」は後世に伝わっていない。 1993年、郭店一号墓より竹簡に記された『易』が発見された。これは現存最古の秦代の『易』の写本である。
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易経
1993年、郭店一号墓より竹簡に記された『易』が発見された。これは現存最古の秦代の『易』の写本である。 『易』にはこれまでさまざまな解釈が行われてきたが、大別すると象数易(しょうすうえき)と義理易(ぎりえき)に分けられる。「象数易」とは卦の象形や易の数理から天地自然の法則を読み解こうとする立場であり、「義理易」とは経文から聖人が人々に示そうとした義理(倫理哲学)を明らかにしようという立場である。 漢代には天象と人事が影響し、君主の行動が天に影響して災異が起こるとする天人相関説があり、これにもとづいて易の象数から未来に起こる災異を予測する神秘主義的な象数易(漢代の易学)が隆盛した。ここで『易』はもっぱら政治に用いられ、預言書的な性格をもった。特に孟喜・京房らは戦国時代以来の五行と呼ばれる循環思想を取り込み、十二消息卦など天文律暦と易の象数とを結合させた卦気説と呼ばれる理論体系を構築した。前漢末の劉歆はこのような象数に基づく律暦思想の影響下のもと漢朝の官暦太初暦を補正した三統暦を作っており、また劉歆から始まる古文学で『易』は五経のトップとされた。 一方、魏の王弼は卦象の解釈に拘泥する「漢易」のあり方に反対し、経文が語ろうとしている真意をくみ取ろうとする「義理易」を打ち立てた。彼の注釈では『易』をもっぱら人事を取り扱うものとし、老荘思想に基づきつつ、さまざまな人間関係のなかにおいて個人が取るべき処世の知恵を見いだそうとした。彼の『易注』は南朝において学官に立てられ、唐代には『五経正義』の一つとして『周易正義』が作られた。 こうして王弼注が国家権威として認定されてゆくなかで「漢易」の系譜は途絶えた。そのなかにあって李鼎祚が漢易の諸注を集めて『周易集解』を残し、後代に漢易の一端を伝えている。
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易経
こうして王弼注が国家権威として認定されてゆくなかで「漢易」の系譜は途絶えた。そのなかにあって李鼎祚が漢易の諸注を集めて『周易集解』を残し、後代に漢易の一端を伝えている。 宋代になると、従来の伝ならびに漢唐訓詁学の諸注を否定する新しい経学が興った。易でもさまざまな注釈書が作られたが、「義理易」において王弼注と双璧と称される程頤の『程氏易伝』がある。また「象数易」では数理で易卦の生成原理を解こうとする『皇極経世書』や太極や陰陽五行による周敦頤の『通書』、張載の『正蒙』などがある。ここで太極図や先天図、河図洛書といった図像をが用いられ、図書先天の学という易図学が興った。南宋になると、義理易と象数易を統合しようとする動きが現れ、朱震の『漢上易伝』、朱熹の『周易本義』がある。 周敦頤から二程子を経て後の朱子学に連なる儒教の形而上学的基礎は、『易経』に求められる。 筮竹を操作した結果、得られる記号である卦は6本の「爻」と呼ばれる横棒(─か- -の2種類がある)によって構成されているが、これは3爻ずつのものが上下に2つ重ねて作られているとされる。この3爻の組み合わせによってできる8つの基本図像は「八卦」と呼ばれる。 『易経』は従来、占いの書であるが、易伝においては卦の象形が天地自然に由来するとされ、社会事象にまで適用された。八卦の象はさまざまな事物・事象を表すが、特に説卦伝において整理して示されており、自然現象に配当して、乾=天、坤=地、震=雷、巽=風、坎=水、離=火、艮=山、兌=沢としたり(説卦伝3)、人間社会(家族成員)に類推して乾=父、坤=母、震=長男、巽=長女、坎=中男、離=中女、艮=少男、兌=少女としたり(説卦伝10)した。一方、爻については陰陽思想により─を陽、--を陰とし、万物の相反する性質について説明した。このように戦国時代以降、儒家は陰陽思想や黄老思想を取り入れつつ天地万物の生成変化を説明する易伝を作成することで『易』の経典としての位置を確立させた。
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易経
なお八卦の順序には繋辞上伝の生成論(太極-両儀-四象-八卦)による「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」と説卦伝5の生成論による「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」の2通りがある。前者を伏羲先天八卦、後者を文王後天八卦と呼び、前者によって八卦を配置した図を「先天図」、後者によるものを「後天図」という。しかし、実際は11世紀の北宋の邵雍の著作『皇極経世書(中国語版)』において初めて伏羲先天八卦、文王後天八卦として図と結びつけられたのであり、先天諸図は邵雍の創作と推測されている。 「経」における六十四卦の並び方がどのように決定されたのかは現代では不明である。また六十四卦の卦辞や爻辞を調べる場合、「経」における六十四卦の並べ方そのままでは不便であり、六十四卦を上下にわけることで、インデックスとなる小成八卦の組み合わせによって六十四卦が整理された。その後、小成八卦自体が世界の構成要素の象徴となって、様々な意味が付与されることとなった。 具体例をしめすと、乾は以下のとおりである。 乾、元亨。利貞。初九、潜竜勿用。九二、...。九三、...。九四、...。九五、...。上九、...。用九、...。 陰陽を示す横線(爻)が6本が重ねられた卦のシンボルがある。次に卦辞が続き卦の名前(乾)と卦全体の内容を様々な象徴的な言葉で説明する。 次に初九、九二、九三、九四、九五、上九(、用九)で始まる爻辞があり、シンボル中の各爻について説明する。6本線(爻)の位置を下から上に、初二三四五上という語で表し、九は陽()を表している。(陰()は六で表す。) 爻辞は卦辞と似ているが、初から上へと状況が遷移する変化をとらえた説明がされる。象徴的なストーリーと一貫した主題で説明されることも多い。乾では、陽の象徴である龍が地中から天に登るプロセスを描き判断を加えている。 一般に「占筮」といえば、『易経』に基づいて筮竹を用いて占をすることを言う(太古には「蓍」という植物の茎を乾燥させたものを使っていた。「蓍」とはキク科多年草であるノコギリソウのこと。なお、日本語で「蓍」(和名「メドギ」)は、ノコギリソウではなくてメドハギという豆科の別の植物)。この占においては、50本の筮竹を操作して卦や爻を選び定め、それによって吉凶その他を占う。「卜筮」と同義。
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易経
一般に「占筮」といえば、『易経』に基づいて筮竹を用いて占をすることを言う(太古には「蓍」という植物の茎を乾燥させたものを使っていた。「蓍」とはキク科多年草であるノコギリソウのこと。なお、日本語で「蓍」(和名「メドギ」)は、ノコギリソウではなくてメドハギという豆科の別の植物)。この占においては、50本の筮竹を操作して卦や爻を選び定め、それによって吉凶その他を占う。「卜筮」と同義。 『易』の経文には占法に関する記述がなく、繋辞上伝に簡単に記述されているのみである。繋辞上伝をもとに唐の孔穎達『周易正義』や南宋の朱熹『周易本義』筮儀によって復元の試みがなされ、現在の占いはもっぱら朱熹に依っている。 易で占うために卦を選ぶことを立卦といい、筮竹をつかう、正式な本筮法、煩雑を避けた中筮法、略筮法(三変筮法)や、コイン(擲銭法)、サイコロなどを利用する簡略化した方法も用いられる。これらによって占いを企図した時点の偶然で卦が選択され、大別すると選ばれた1爻を6回重ねる方法(本筮法、中筮法など)と、選ばれた八卦を2回重ねる方法(略筮法など)がある。さらに各方法には変爻(極まって陰陽が反転しようとしている爻)の有無や位置を選ぶ操作があり状況変化を表現する。このとき選ばれた元の卦を本卦、変化した卦を之卦という。こうして卦が得られた後、卦や変爻について易経の判断を参照し当面する課題や状態をみて解釈し占断をおこなう。 朱熹の本筮法を筮竹あるいは蓍の使用に限って説明すれば以下のようである。 繋辞上伝には「四営して易を成し、十有八変して卦を成す」とあり、これを四つの営みによって一変ができ、三変で1爻が得られ、それを6回繰り返した18変で1卦が得られるとした。さらに4営は伝文にある「分かちて二と為し以て両に象る」を第1営、「一を掛け以て三に象る」を第2営、「これを揲(かぞ)うるに四を以てし以て四時に象る」を第3営、「奇を扐に帰し以て閏に象る(「奇」は残余、「扐」は指の間と解釈される)」を第4営とした。 上記本筮法は18変を必要とし、しかも第1変の陰陽に偏りがあるため、偏りの無い筮法として、6変筮法である中筮法がある。これは第1変第3営において天策を8本ずつ数えその残余(割り切れる場合は0本)に人策の1本を加えた1〜8本によって次のように初爻を決定する。 同様のことを6回繰り返して本卦を得る。
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易経
上記本筮法は18変を必要とし、しかも第1変の陰陽に偏りがあるため、偏りの無い筮法として、6変筮法である中筮法がある。これは第1変第3営において天策を8本ずつ数えその残余(割り切れる場合は0本)に人策の1本を加えた1〜8本によって次のように初爻を決定する。 同様のことを6回繰り返して本卦を得る。 さらに簡略化した3変の略筮法もある。これは中筮法の第1変の結果をそのまま内卦(初爻から第3爻)とし、同様に第2変で外卦(第4爻から第6爻)を求めて本卦を得た後、第3変は6本ずつ数えて人策を加えた残余の1〜6本によって変爻の位置(1→初爻〜6→第6爻)を決定するという方法である。 また筮竹を用いずに卦を立てる占法もあり、3枚の硬貨を同時に投げて、3枚裏を老陽(□)、2枚裏・1枚表を少陰(- -)、2枚表・1枚裏を少陽(─)、3枚表を老陰(×)とする擲銭法が唐の賈公彦『儀礼正義』に記されている。これは、硬貨の表裏で本筮法の残余の多少を表すとするものであり、他に、硬貨の表裏を以て中筮法の乾兌離震巽坎艮坤を表すとして四象を決める方法や表の枚数の多少をそのまま四象に反映する方法、6枚の硬貨の表裏をそのまま陰陽として並べて本卦にする方法もある。 易卦は二進法で数を表していると解釈でき、次のように数を当てはめることができる。右側は二進法の表示であり、易卦と全く同じ並びになることが理解できる。 本筮法の第1変においては49本の筮竹を天策(x本)と地策(49-x本)に分け、地策から1本を人策として分ける。よって地策は48-x本となる。第4営後に9本残るのは天策地策ともに4本ずつ残る場合のみであり、これはxが4の倍数の時に限られる。第2変、第3変では4本残る(天地人1−2−1または2−1−1)か8本残る(同3−4−1または4−3−1)かは半々となり偏りはない。(なお、50本から太極として1本除いた49本を使うのではなく、最初に7×7=49本から太極として1本除いた48本を使うとするなら第1変の偏りはなくなる。)
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四書五経
四書五経(ししょごきょう)は、儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称。ただしこのうち『大学』『中庸』はもともと『礼記』の一篇を独立させたものである。 君子が国家や政治に対する志を述べる大説として日常の出来事に関する意見・主張や噂話など虚構・空想の話を書く小説と区別される。 四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をいい、五経を以て四書よりも高しとする(「礼記」の成立受容史については「三礼」の項を参照)。「楽経」を含めて四書六経ともいう。 中国本国だけでなく、日本や朝鮮でも広く講義された。朝鮮では『礼記』と『春秋』を省いて「四書三経」ともいった。 『荘子』や『語叢』においては、下記の六種類の経書が列挙されている。 当時の儒家らはこれらの経典を重視したが、『楽』は早くに失われたとされる。 唐の太宗は、以下の経典を「五経」とし、『五経正義』という解釈を孔穎達らに定めさせた。唐代以前の注釈類は殆んど現存しないため、唐代以前の経学研究の基本書とされている。 宋代には唐代までに集成された五経研究(古注)に対して、批判的な厖大な注釈書(新注)を生み出した。これは宋・元の二王朝を通じて行われ、明の永楽年間に『五経大全』として結実した。『五経大全』は科挙のテキストとしても利用され世上に流行したが、即席的に編纂された書物であったこと、しかも『五経大全』の種本の殆んどが現存すること、また明朝そのものの経学研究が低調であったこと等から、『五経大全』そのものの学術的評価は低い。『五経大全』の注釈書は朱熹とその弟子の蔡沈、朱熹の先駆者程頤の私淑の弟子の胡安国と、比較的簡潔な注釈を行った陳澔が選ばれている。 『礼記』のうち「中庸」「大学」を重視する立場は、韓愈など宋代以前の学者にも見られた傾向であるが、北宋の二程子は特にこれらを重視した。 南宋の朱熹が『礼記』の一篇であった『大学』と『中庸』をそれぞれ独立させ、『論語』『孟子』と合わせ「四書」として五経以前に読むべき入門の学として顕彰し、その注釈書として『四書章句集注』(『大学章句』・『中庸章句』・『論語集注』・『孟子集注』)を著した。四書は元代以降、科挙の科目に採用され、五経よりも広く読まれるようになった。
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論語
『論語』(ろんご、拼音: Lúnyǔ)は、孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物である。儒教の経典である経書の一つで、朱子学における「四書」の一つに数えられる。 その内容の簡潔さから儒教入門書として広く普及し、中国の歴史を通じて最もよく読まれた本の一つである。古くからその読者層は知識人に留まらず、一般の市民や農民の教科書としても用いられていた。 『論語』という名称が定着するのは、前漢の宣帝・元帝の頃からであり、『史記』仲尼弟子列伝の司馬遷の賛に用いられるほか、戴聖の『礼記』などに使用例がある。それ以前は、単に「伝」(『史記』封禅書・『漢書』宣帝紀)や「語」(『塩鉄論』)という呼称例がある。 『論語』の書名の由来は諸説あり、定説はない。最も古い説は班固の『漢書』芸文志に見える説である。 皇侃の『論語義疏』では、「論」の字の解釈について、音が共通する「倫」字の意味とする説、「論」の意味とする班固説、論・倫に相違はないとする三説を紹介している。このうち「倫」字の意味とする場合、更に以下の四つの説があるという。 合わせて、「語」は単なる言葉ではなく、相手の議論に対する批判や問答を表す言葉であるとする。 一般には、『漢書』芸文志に記載されているように孔子の門人が孔子の死後に集まって編纂したとされているが、この門人が誰なのかという点には様々な異説がある。比較的古くからある説には、以下の例がある。 唐代の学者の柳宗元は、『論語』には孔子の弟子の曾参の死が描かれていることから、『論語』は曾参の弟子が編纂したものであると考えた。北宋の程子は、孔子の弟子の有若・曾参が『論語』では「子」の敬称をつけて呼ばれることから、この二人の門人が編纂したと考えた。また、江戸時代の学者である太宰春台は、『論語』は前後十篇ずつで内容や体裁に差があることを見出し、前半は子張、後半は原憲の編纂であると推論した。 『論語集解』によれば、漢代の武帝の頃には三種のテキストの『論語』があった。
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論語
『論語集解』によれば、漢代の武帝の頃には三種のテキストの『論語』があった。 前漢の張禹が「魯論」と「斉論」を校正して『張侯論』を作ると、後漢の包咸・周氏がこれに対して注釈を作った。そののち、後漢の鄭玄が「魯論」を中心にしながら「斉論」「古論」を統一し『論語』の注釈書を作った。また、後漢の熹平4年(175年)には、経書を石に刻んで保存する事業(「石経」)によって『論語』の石経が作られた。これもわずかながら現存している。 三国時代に入り、陳羣・王粛・周生烈らによって多くの注釈が作られた。これらを集大成したのが何晏らによって編纂された『論語集解』で、これが現在まで完全な形で存在している最古の注釈である。 『論語』は非常に簡潔な記述で書かれており、儒学の入門書として古くから広く普及した。一方で、簡潔すぎるためはっきり意味が定めがたく、後世に多くの解釈が生まれることとなった。したがって、時代や文化に応じて様々な受容の様相が見られ、注釈も数多く作られた。 漢代以来、儒教の第一の経典は五経(『易』・『書』・『詩』・『礼』・『春秋』)であったが、『論語』や『孝経』も別格扱いで同時に尊重されていた。前漢の昭帝・宣帝・元帝らは幼くして『論語』と『孝経』を学んでおり、この頃には『論語』は基礎教養として受け入れられていた。 経書研究が進むに従い、後漢の鄭玄は他の経書と共に『論語』を解釈し、経書全体に統一的な解釈を与えることを試みた。魏の何晏らの『論語集解』は先人の解釈を引用して編纂された。鄭玄注の経学的要素は排除され、他の経書とは切り離し、『論語』の本文から読み取れる一般的な意味を示した。これに基づいて梁の皇侃が『論語義疏』を作り、さらに北宋の時代には官製の注釈書として『論語正義』が作られた。 南宋に入り、朱子学が勃興すると、五経と合わせて四書(『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』)も重視されるようになり、『論語』はより重要な地位を担うこととなった。朱熹は『論語集注』を作り、朱子学の立場から新たな解釈を施した。清の考証学の時代には、劉宝楠の『論語正義』など、実証的な観点による解釈が試みられた。
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論語
南宋に入り、朱子学が勃興すると、五経と合わせて四書(『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』)も重視されるようになり、『論語』はより重要な地位を担うこととなった。朱熹は『論語集注』を作り、朱子学の立場から新たな解釈を施した。清の考証学の時代には、劉宝楠の『論語正義』など、実証的な観点による解釈が試みられた。 3世紀の終わりごろ、応神天皇の時代に百済が招聘した漢人博士である王仁が『論語』十巻と『千字文』一巻を倭国に貢上(貢上=「貢ぎ物を差し上げる」)したことが『古事記』に記載されている。しかし、『日本書紀』に読まれる百済が倭国に貢上したとされる王仁や『論語』『千字文』などの歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判があり、王仁が『論語』『千字文』などの典籍をもたらしたという王仁伝説や、継体欽明朝に五経博士が百済から交代派遣されたとする伝承は、事実とは認め難いとする指摘は多数存在する。 718年に編纂が始められた『養老律令』においては、教授の際に用いるべき注釈として『論語』の鄭玄注・何妟注が挙げられており、既に大学での教授や官吏登用の際の必読書とされていたことが分かる。 藤原佐世の『日本国見在書目録』にも、「論語十巻鄭玄注」「論語十巻何晏注」「論語義疏皇侃撰」などが著録されている。『論語集解』は、正平19年(1364年)に初めて木版出版され、いっそう普及した。 江戸時代に入ると、伊藤仁斎や荻生徂徠らによって優れた注釈が作られ、一部は中国に逆輸入されて受容された。また、吉田篁墩や市野迷庵のように『論語』や『論語集解』の校勘によって業績を上げた者もいた。 カトリック布教のために中国に来訪したイエズス会の宣教師により、徐々に中国古典の翻訳が試みられるようになった。1660年、アンドレ・フェランが『大学』と『論語』をラテン語に訳し、1662年にプロスペル・イントルチェッタ(英語版)が孔子の伝記を附して出版した。1687年、ルイ14世の認可のもと、フィリップ・クプレがパリで『中国の哲学者孔子』を刊行し『孟子』を除く「四書」の翻訳がなされた。さらに、1711年、フランソワ・ノエルによって「四書」の完訳がなされ、プラハで刊行された。クプレ訳は明の張居正の解釈によるものであり、ノエル訳は朱熹と張居正の解釈の両方を受けたものである。
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論語
イエズス会士を通じて伝わった古代中国の哲学は、17世紀から18世紀にはシノワズリの一部として流行した。フランスではヴォルテール、ディドロ、モンテスキュー、ケネーといった思想家に注目され、啓蒙思想の発展に寄与した。ドイツではクリスティアン・ヴォルフが理神論的立場から、キリスト教が無くても道徳が成立し得る実例として孔子を喧伝した。 一方で19世紀のヘーゲルは、孔子の教えは哲学ではなく平凡な通俗道徳でしかないと酷評、道徳ならキケロ『義務について(英語版)』の方が優れているとし、イエズス会士の翻訳も原文からかけ離れた意訳であるとした。 『論語』の言葉は短く断片的で、読者をしてさまざまな想像を掻き立てるものであり、その解釈は読者の数だけ存在するといえる。たとえば、橋本秀美は、金谷治の『論語』解釈が、無意識のうちに、当時の日本社会であるべきとされた知識人の姿と孔子を重ね合わせる場合があることを指摘する。そして、人々が『論語』を読み『論語』を解釈するのは、あたかも人が鏡を覗き込むようなものであり、その解釈は解釈者自身の心そのものを示していると述べた。 ここでは、古くから相反する解釈があることで知られる『論語』の章として、子罕篇の「川上の嘆」の一節を具体例として示す。 この一節に対する漢唐の時代の注釈である「古注」系統の解釈と、宋代以降の「新注」系統の解釈は大きく異なっている。たとえば、後漢の鄭玄は、本節を「川の流れのように時が過ぎ去り、君主に任用されることなく空しく年老いていく我が身の不遇を嘆いたもの」と解釈する。これは「あらゆるものは移ろい、変化していずれは失われる」という悲しみや儚さを表現するものであり、鄭玄・皇侃・六朝の詩文などでは、この解釈を採用する。
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論語
この一節に対する漢唐の時代の注釈である「古注」系統の解釈と、宋代以降の「新注」系統の解釈は大きく異なっている。たとえば、後漢の鄭玄は、本節を「川の流れのように時が過ぎ去り、君主に任用されることなく空しく年老いていく我が身の不遇を嘆いたもの」と解釈する。これは「あらゆるものは移ろい、変化していずれは失われる」という悲しみや儚さを表現するものであり、鄭玄・皇侃・六朝の詩文などでは、この解釈を採用する。 一方、新注では「宇宙の運行は川の流れのように止まることないものであり、これと同じように、学問を志す者も常に我が身を振り返るべきだ」との意味に取る。この解釈は、古注とは逆に、力強い自己改革の精神を読み取るもので、伊藤仁斎の説もこれと一致する。この新注の解釈は朱子学的な色彩の強い解釈ではあるが、古くは『孟子』における議論と内容が一致するものでもあり、その由来は古い。『孟子』の他に、漢代の揚雄も同様の解釈を取っている。また東洋哲学の研究者の井筒俊彦は、この一節から『方丈記』に代表される「物事の普遍的な変化」を悲観的に捉える仏教と、これを楽観的に捉える宋学の対比を読み取っている。 1906年、フランスのポール・ペリオ、イギリスのオーレル・スタインらの探検隊が、敦煌の千仏洞から敦煌文献の一つとして鄭玄注『論語』の写本の一部を発見した。これは南北朝時代から唐代の写本である。また、1969年にはトルファン地域のアスターナ地区で、再び鄭玄注『論語』が発見された。これは唐の景龍4年(710年)に卜天寿という少年によって書写された本である。 1973年、河北省定州市の前漢の中山懐王劉脩の墓から、『論語』の一部が書かれた竹簡が発見された。劉脩は紀元前55年に没したため、これより以前のものであることが分かる。この竹簡に記された『論語』の内容は、現行本との間に異同は多いが、内容は類似しており、現行本の祖本の一つであると考えられる。 1990年代の初頭、朝鮮民主主義人民共和国の平壌直轄市楽浪地域の領域にある貞柏洞364号墳から、『論語』の一部が書かれた竹簡が発見された。この出来事は、2009年頃から国際的に知られるようになった。この墓には紀元前45年の戸籍簿が副葬されており、前漢の頃には『論語』が辺境地域にまで伝播していたことが明らかになった。
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論語
1990年代の初頭、朝鮮民主主義人民共和国の平壌直轄市楽浪地域の領域にある貞柏洞364号墳から、『論語』の一部が書かれた竹簡が発見された。この出来事は、2009年頃から国際的に知られるようになった。この墓には紀元前45年の戸籍簿が副葬されており、前漢の頃には『論語』が辺境地域にまで伝播していたことが明らかになった。 2016年、江西省南昌市にある遺跡海昏侯墓(中国語版)(前漢の劉賀の墓)から、漢代当時の『斉論語』と推定される竹簡の断片(『論語』知道篇)が出土した。 2020年、注釈書の一つ『論語義疏』について6〜7世紀初めに中国で書かれたとみられる最古級の写本が日本で見つかった。 512に区切られる短文・長文が、全10巻20篇の中にまとめられる形で収録されている。前10篇を「上論」、後10篇を「下論」と呼んで区別したりもする。篇の名称は(「子曰」を除く)各篇の最初の二文字(または三文字)を採ったものであり、章によってはその章の内容のことをいう。 『論語』に由来する故事成語には、以下の例がある。 小説
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カードゲーム
カードゲーム(Card Game)は、広義にはカードを使って行うゲームの総称。狭義にはいわゆるトランプを使ったゲームのこと。歴史的には麻雀やドミノなどのタイル(牌)を使うゲーム(タイルゲーム)と起源を同じくしており、タイルゲーム・カードゲームは手札(手牌)という要素によって、囲碁、リバーシ、将棋といったボードゲームと区別される。以下では、タイルゲームを除くカードゲームについて解説する。 ヨーロッパにこの種のゲームが現れたのは、14世紀のイタリアではないかと推測されている。その後、遊びの範囲を広くするため、ある特定のゲームを遊びやすくするため、今までの形式とは違った遊びをするため等の理由で専門のカードデッキが生まれた。 1993年発売のマジック:ザ・ギャザリングの流行以降、個人ごとに決められた範囲内で自由にカードデッキを作り、その内容を元に勝負に臨むトレーディングカードゲームが生まれ、独自の分化が築かれている。 カードゲームは大別して、1人で遊ぶもの(ソリティア)と、2人以上で遊ぶものに分けられる。また2人用のゲームは3人以上のゲームとくらべて特殊な構造をしていることが多い。たとえばすべてのカードを手札として配ってしまうと、2人の場合は相手が何を持っているのかが完全にわかってしまうので、カードの一部を配らないなどの工夫が必要になる。 3人以上のゲームでは、中心になる競技者(あるいは競技者のチーム)に対して、それ以外の競技者が協力して対抗するゲームと、各競技者がそれぞれ独立して戦うゲーム(カットスロート)がある。 4人以上のゲームでは、複数の競技者がチームを組んで競技するゲームもある。4人では向かい合った2人ずつが固定したチームを組み、5人では中心になるひとりの競技者がパートナーを指名するなどの方法が一般的に行われる。
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カードゲーム
3人以上のゲームでは、中心になる競技者(あるいは競技者のチーム)に対して、それ以外の競技者が協力して対抗するゲームと、各競技者がそれぞれ独立して戦うゲーム(カットスロート)がある。 4人以上のゲームでは、複数の競技者がチームを組んで競技するゲームもある。4人では向かい合った2人ずつが固定したチームを組み、5人では中心になるひとりの競技者がパートナーを指名するなどの方法が一般的に行われる。 多くのゲームではカードを各競技者に配る。カジノゲームなど、誰が配るかがあらかじめ決まっていることもあるが、何らかの方法でゲーム参加者の中からディーラー(配り手)を決める必要がある場合も多い。ディーラーはじゃんけんなどで決めることも可能だが、より本格的には、カットによる方法が用いられる。すなわち、カードを裏向きに積んであるカードを、各競技者が適当なところで上下に二分し、その上半分の一番下のカードを見せてから元に戻す。一番高い(ゲームによっては一番低い)ランクのカードを選んだ競技者がディーラーになる。複数の競技者が同じランクのカードを選んだ場合は、該当する競技者だけでもう一度カットを行う。 ディーラーをこの方法で決定しなければならないのは最初の一回だけで、以降はディーラーが順番に次の競技者に移動するのが普通である。 通常はディーラーはカードをシャッフルし、ディーラー以外の競技者がカットしてからカードを配る。ゲームによってはシャッフルを禁止しているものや、配り方が細かく定められているものもある。 カードゲームではしばしば各競技者が(あるいは各競技者に対して)順番にある行動をする場合がある(カードを1枚ずつ出すなど)。このとき、最初に行動した競技者から見て左へ左へと行われるのを「時計回り(または右回り)」といい、逆に右へ右へと行われるのを「反時計回り(または左回り)」という。 アジアでは全般的に反時計回りが多い。日本では時計回りはしばしば「泥棒回り」と言って嫌われる。
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カードゲーム
カードゲームではしばしば各競技者が(あるいは各競技者に対して)順番にある行動をする場合がある(カードを1枚ずつ出すなど)。このとき、最初に行動した競技者から見て左へ左へと行われるのを「時計回り(または右回り)」といい、逆に右へ右へと行われるのを「反時計回り(または左回り)」という。 アジアでは全般的に反時計回りが多い。日本では時計回りはしばしば「泥棒回り」と言って嫌われる。 これに対して、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアなどでは時計回りが多い。同じヨーロッパでもイタリア・スペイン・ポルトガル・スイス・バルカン半島などでは反時計回りが多い。北アメリカとオーストラリア・ニュージーランドでは時計回り、ラテンアメリカでは反時計回りが普通である。近代の日本は時計回りの国の影響が強かったため、トランプの場合は時計回りに競技することも多い。
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孟子
孟子(もうし、簡体字: 孟子、拼音: Mèngzǐ、紀元前372年? - 紀元前289年?)は、中国戦国時代の儒学思想家。姓は孟、諱は軻、字は子輿と伝わる。「子」は先生という意味で尊称で、後世に亞聖とも称される。孔子の孫である子思の門人に学業を受けたとされ、朱子学では孔子に次いで重要な人物とされる。そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。 言行は『孟子』に纏められている。性善説を主張し、仁義と民本による王道政治を目指した。 孟子は鄒国(現在の山東省済寧市鄒城市)の人で、その母が孟子を育てた時の話が有名である。最初は墓地の近くに住んでいたが、やがて孟子が葬式の真似事を始めたので母は家を移した。移った所は市場の近くで、やがて孟子が商人の真似事を始めたので母は再び家を移した。次に移った所は学問所の近くで、やがて孟子が学問を志すようになったので母はやっと安心したという。この話は孟母三遷として知られ、史実ではないとされているが、子供の育成に対する環境の影響に関して良く引き合いに出され、鄒城市には孟母三遷祠が建てられている。孟子の母は、他にも孟母断機の故事で知られている。孟子が学業を途中で辞めて家に帰って来たとき、母はちょうど機を織っていたが、その織物を刀で切断し「お前が学問を途中で辞めるのは私が織物を断ち切るのと同じことだ」と言って諫めた。孟子は再び勉学に励んだ。以上の話は漢代の『韓詩外伝』巻9や『列女伝』巻1に見える伝説である。 『史記』孟子荀卿列伝によれば、孟子は孔子の孫である子思の門人に学んだ。子思に直接学んだという説もあるが、年代が合っていない。 彼は、自分のことを王の師匠であり、賓客である、と考えていたので、遊歴するときには数十台の車と数百人の従者を従えていた。諸侯と同等である、というプライドを持っていたのである。 かつて魏の恵王が秦や斉に奪われた土地を回復する方法を孟子に質問した時、孟子は仁者無敵を説いた。それは、国土は小さくても、仁政を施せば、誰にも負けない、ということである。仁政とは、刑罰を簡単にして、税を軽くし、丁寧に耕作して、若者には孝悌忠信の道徳教育を行うことである。そのような仁政を受けた民は、戦いでも勇敢で、仁政のない国の民は、主君に協力せず背いたりもする。ゆえに、仁者無敵である、というのである。
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孟子
論語に載せられている孔子の弟子の有子の言葉とされているものに、 がある。孝とは親に対する愛情、弟とは兄に対する尊敬のことである。 という言葉が『孟子「離婁篇」』にある。これは、孔子の説いた仁を拡大した孟子の説く仁義のことを示している。孟子は自分のことを孔子の正統な継承者だと自負していた。 その後、恵王が死んでその子の襄王が即位すると、孟子はこの襄王を と評していたため、失望して斉に行った。斉では宣王が即位していた。ここでも孟子は国士扱いを望み、好きに論争するだけで給料のもらえる稷下の学士と同等にされたくない、というプライドがあった。 と『孟子「萬章伝」』にある。門番から夜警に至るまで、皆定職があって給料をもらっているのに、定職もないのに給料をもらうのは、人生に対して真面目な態度とは言えない、と主張した。故、宣王に呼び出されて参内することを拒否して宣王自ら来てほしいと要請して、自分が王宮に行くのは何か進言したいことができたときだけ、ということにした。孟子は自分のことを「所不召之臣(召さざる所の臣)」と思っていた。 と述べている。管仲は桓公を補佐して春秋の覇者にした人物である。桓公は管仲のことを決して呼びつけにしなかった。そして、管仲すら、と述べていることで、孟子は自分を管仲や殷の湯王を補佐して湯王にも呼びつけにされなかった伊尹以上の人物であると確信していた。 とある日、宣王が孟子に向い、殷の臣であった武王が主君である殷の紂王を伐って周を打ち立てたことについて、質問した。すると、孟子は と答えた。これの意味は、 「仁を失った者は賊であり、義を失った者は残であり、仁義を失った者は君主である資格がなく、残賊、つまり、ただの男である。ただの男の紂を殺したとは言えても、君主である王を殺したとは言えない。」 ということである。要するに、これほど君主の位は軽い、と言いたいのである。 また、宣王が卿の態度を質問した時、孟子は、王室と関係がある貴戚の卿と、王室と関係のない異姓の卿では、王に対する態度も違う、と言った。まず、貴戚の卿は、 と説いた。つまり、 「君主が道理から外れていることをしていれば諫言をするが、聞き入れられなければ、追放して別の君主に変える。」
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孟子
ということである。要するに、これほど君主の位は軽い、と言いたいのである。 また、宣王が卿の態度を質問した時、孟子は、王室と関係がある貴戚の卿と、王室と関係のない異姓の卿では、王に対する態度も違う、と言った。まず、貴戚の卿は、 と説いた。つまり、 「君主が道理から外れていることをしていれば諫言をするが、聞き入れられなければ、追放して別の君主に変える。」 ということである。貴戚の卿は、君主と血がつながっているので、君主が仁義にかなわない場合には、放っておけないので王族の中から仁義にかなうものを選ぶ必要がある。これを聞いて宣王は驚いて顔色を変えたが、孟子は過度のますらおであり、自分の発言に王がどんなに顔色を変えても堂々としていた。自分の思想を全く疑わずに説くのである。次に、異姓の卿は と説いた。つまり、 「君主が道理から外れていることをしていれば諫言をするが、聞き入れられなければ、その君主の下を去っていく。」 ということである。異姓の卿は、君主と血がつながっていないので、君主が仁義にかなわない場合には、放っておいてその君主の下を離れる。戦国時代の君臣関係は極めて自由であり、自分の出身地に仕えないことはもちろん、数国に仕えることもある。この際も、君主の廃立など考えずに気に入った国に仕官する、といったことを基にして発言している。 しかし、孟子が斉に仕えてから七、八年か経つと、宣王は病気を理由に孟子の家に使者を派遣して 「あなたと話したいことがありますが、運悪く風邪のためそちらに行けません。いかがですか?あなたの方から来てはいただけないでしょうか?」 と伝えて呼び出そうとした。しかし、孟子も病気という口実で拒否した。 たった今、参内しようとしていたのに、仮病を使って拒否した。「召さざる所の臣」である孟子はこのような事情でも行くわけには行かない。翌日、東郭氏に不幸なことがあったので、家まで行って弔問することにした。それに対して弟子の公孫丑が 「昨日、病気を理由に参内を断ったのに、今日改めて外出するのはいかがなるものでしょうか? およしなさい」 と出掛けないことを勧めたが、孟子は 「昨日は病気だったが今日は治った。行かなければ」
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孟子
「昨日、病気を理由に参内を断ったのに、今日改めて外出するのはいかがなるものでしょうか? およしなさい」 と出掛けないことを勧めたが、孟子は 「昨日は病気だったが今日は治った。行かなければ」 と言って行ってしまった。そのようなことで自分の行動を制限されることを孟子は良しとしない。ところが孟子が出かけている間、宣王が病気見舞いの使者と医師を派遣してきたので、家で留守番をしていた弟子の孟仲子は慌てて、先程少し調子が良くなりまして、参内に参りました、とその場を取り繕った。そして、孟子の通りそうな場所に使者を派遣して、どうかご帰宅せずに、そのまま参内して下さい、と伝えた。それを聞いた孟子は、帰宅も参内もしないで友人の景丑の家に泊まった。景丑は王命に従わなかった孟子を非難した。これによって、孟子と宣王の関係がしっくりこなくなった。孟子はこの事件によって、斉を立ち去る気持ちを固めた。その後、とうとう孟子は斉を去ることにした。それを聞いた宣王は急いで孟子の家まで出向き、また会えるでしょうか? と聞いた。それに対して孟子は と答えた。 「また会いたいと、こちらからは望みませんが、王とお会いするのは私としても嫌ではありません」 それで、宣王はまだ希望がある、と思った。数百人もの稷下の学士を抱えている宣王にしても、孟子のその激しい理想主義には辟易するが、現実的な政策で役に立ちそうではないとしても、この優れた人物を他国に持っていかれることも残念だと思った。そこで、孟子の弟子の陳子を通じて 「都心の大邸宅を与え、門弟養成のために一万鍾の俸禄を支給し、大臣をはじめ廷臣たちに孟子を尊敬させるようにする」 と伝えた。鍾は穀物を図る単位で、約五十リットルだと言われている。当時の一万鍾は、通説によれば、日本の江戸時代の禄高で千五百石足らずだという。しかし、孟子にはこれが少額だったと見え、 と断った。これは 「もし私の力で国を興したければ、十万鍾の俸禄を約束するべきです。私はそれを辞退して、一万鍾を受けましょう。これでは私のことを、冨貴を願っている、とは言えないはずです。」 という意味である。 と孟子は言った。
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と断った。これは 「もし私の力で国を興したければ、十万鍾の俸禄を約束するべきです。私はそれを辞退して、一万鍾を受けましょう。これでは私のことを、冨貴を願っている、とは言えないはずです。」 という意味である。 と孟子は言った。 「昔、市では物々交換によって、お互いの納得する交易を行って、生活に必要な物を手に入れる場所でした。ところが、卑しい欲張りがいて、壟断(切り立ったような高い位置)に登って左右を見まわしたのです。普通は地面に自分の売り物を並べて交換するのですが、高所から見ると、良い物を売っている人をいち早く発見できます。そのような連中は、生活に必要な物を仕入れに来たのではなく、営利を上げるために来ているのです。何と嫌らしいことかと人々がこれを非難し、政府もこれに征(税のこと)を掛けることにしたのです。」 という意味だ。つまり、孟子は、自分はこんな卑しい欲張りではない、と言いたいのだ。「利益を壟断する」という用法はここからきている。 そして、孟子はいよいよ斉を去る旅に出た。その折、孟子は昼という場所に三日も留まった。一度宣王の申し出をきっぱりと断っておきながら、まるで宣王の使いが来るのを待つかのようにゆっくり進むことが、孟子の評判を下げたようであった。斉の尹子と言う人物は孟子に憧れており、自分のことをますらおだと自負していた。だからこそ、昼に三日も逗留した、という話を聞いて、大きく失望した。 「俺は孟子を見損なった。面白くもない」 と尹子は言った。その話を弟子の高子から聞いた孟子は 「尹子という者は、俺を理解できていないのだ」 と言った。そして、 と言った。 「三日で昼を出たのは早すぎるくらいだ。もしも宣王があの後思い直して使者を送ってくれば、私は喜んで引き返す。すると、斉の民は豊かになる。もしも、あの後使者が来なくても、私は宣王を捨てない。それを考えると、王の使者が来るのが待ちどうしい」 という意味である。それを聞いた尹子は と嘆いた。 孔子は仁を説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、「義とは宜なり」(『中庸』)というように、義とは事物を適切に扱うことである。 孟子はその時代までにいた全ての君主を「王者」と「覇者」として、それらが行った政治を「王道」と「覇道」として分類した。
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という意味である。それを聞いた尹子は と嘆いた。 孔子は仁を説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、「義とは宜なり」(『中庸』)というように、義とは事物を適切に扱うことである。 孟子はその時代までにいた全ての君主を「王者」と「覇者」として、それらが行った政治を「王道」と「覇道」として分類した。 孟子によれば、覇者とは武力によって一時的な仁政を行う者であり、そのため大国の武力がなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、徳によって本当の仁政を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる。故に孟子は、覇者を全否定はしないものの、「五覇は三王(夏の禹、殷の天乙、周の文王または武王)の罪人(出来損ない)なり。諸侯は五覇の罪人なり。大夫は今の諸侯の罪人なり」(告子章句下)と述べて当時群雄割拠していた諸侯たちを批判し、古の堯・舜や三王が行ったような「先王の道」(王道政治)に回帰すべきと唱えた。 孟子は領土や軍事力の拡大ではなく、人民の心を得ることによって天下を取ればよいと説いた。王道によって自国の人民だけでなく、他国の人民からも王者と仰がれるようになれば諸侯もこれを侵略することはできないという。 梁の恵王から利益によって国を強くする方法について問われると、孟子は、君主は利益でなく仁義によって国を治めるべきであり、そうすれば小国であっても大国に負けることはないと説いた。孟子によれば、天下を得るためには民を得ればよく、民を得るためにはその心を得ればよい。では民の心を得るための方法は何かといえば、それは民に利するものを与え、民に害するものを押し付けないことである。民は安心した暮らしを求め、人を殺したり殺されたりすることを嫌うため、もし王者が仁政を行えば天下の民は誰も敵対しようとせず、それどころか自分の父母のように仰ぎ慕うようになるという。故に孟子は「仁者敵無し」(梁恵王章句上)と言い、また「天下に敵無き者は天吏(天の使い)なり。然(かくのごと)くにして王たらざる者は、未だ之(これ)有らざるなり」(公孫丑章句上)と言ったのである。
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孟子によれば、僅か百里四方の小国の君主でも天下の王者となることができる。覇者の事績について斉の宣王から問われたときも、孟子は、君主は覇道でなく王道を行うべきであり、そうすれば天下の役人は皆王の朝廷に仕えたがり、農夫は皆王の田野を耕したがり、商人は皆王の市場で商売したがり、旅人は皆王の領内を通行したがり、自国の君主を憎む者は皆王のもとへ訴えたがるだろう。そうなれば誰も王を止めることはできない、と答えている。もちろん農夫からは農業税、商人からは商業税、旅人からは通行税を得て国は豊かになり、また人民も生活が保障されてはじめて孝悌忠信を教え込むことができるようになる。孟子の民本思想はその経済思想とも密接に関連している。 しかし、これは当時としては非常に急進的な主張であり、当時の君主たちに孟子の思想が受け入れられない原因となった。孟子は「民を貴しと為し、社稷之(これ)に次ぎ、君を軽しと為す」(盡心章句下)、つまり政治にとって人民が最も大切で、次に社稷(国家の祭神)が来て、君主などは軽いと明言している。あくまで人民あっての君主であり、君主あっての人民ではないという。これは晩年弟子に語った言葉であると考えられているが、各国君主との問答でも、「君を軽しと為す」とは言わないまでも人民を重視する姿勢は孟子に一貫している。絶対の権力者であるはずの君主の地位を社会の一機能を果たす相対的な位置付けで考えるこのような言説は、自分たちの地位を守りたい君主の耳に快いはずがなかったのである。 当時の有名な思想家の一人である告子は、人の行動は川の水が堤防の決壊がいずれの方向でも起こりうるように、原理がなく予測不可能なものである。人の行動がそれぞれの時代において大きく異なるように見えるのも、国の頂点に立つ統治者による影響であり、たまたま文王や武王のような善人が即位したゆえ正義を信じて団結し、たまたま厲王や幽王のような悪人が即位したゆえ道徳を無視して乱暴を働くようになっただけにすぎない。すなわち人間の心には生まれながらして持った共通な性質(本性)なるものは存在しない(あるいは知り得ない)と唱えた。 「水信まことに東西とうざいを分つこと無し。上下を分つこと無からんや。(川の水は堤防を越えて東西に流れることがあっても、地面を括り抜いて地下に流れることはないのではないか)」
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「水信まことに東西とうざいを分つこと無し。上下を分つこと無からんや。(川の水は堤防を越えて東西に流れることがあっても、地面を括り抜いて地下に流れることはないのではないか)」 孟子はこのように反論した。人の行動は確かに様々であって統一性のある原理がないように見えるが、それらはあくまで立場や周りの影響(外物)による一時的なものにすぎない。人間には「本性」なるものが存在するのである。 井戸に転び堕ちそうになった子供を見て、誰もが思わずに助けようとするのは、子供の父母から財貨を得るためでもなければ、社会で良い名声を得るためでもない。人間は誰しも利他的な行為を良しとする生来の性質(善)を備わっている。かつての聖王であろうと小人であろうと、その本性には本質的な違いはなく、利己的な行為に走るのは天災や人害など外界の脅威(外物)から身を守るために元々の善性を手放せざるを得なくなってしまったゆえである。 そのため孟子は、「大人とは其の赤子の心を失わざる者なり(徳に優れた人というのは赤子のような純粋な心を保ちつづける人である)」、「学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ(学問とは他でない、失われてしまった純粋な心を取り戻すのみである」とも主張した。 孟子の対立思想として、荀子の性悪説が挙げられる。しかし、孟子は人間の本性として「四端」があると述べただけであって、それを努力して伸ばさない限り人間は禽獸(社会性を持たない動物)同然の存在だと言ったように、人間を持つ善性を絶対的に肯定していたわけではない。また、それゆえに学問を深め道徳を身につけた君子は人民を指導する資格があるとする。一方、荀子は人間の本性とは無限なる欲望であり、欲望に従順なままでは他人を思いやることも譲り合って争いを避けることもできない。そのため学問や礼儀といった「偽」(こしらえもの、人為の意)を身に付けるようになり、それらの後天的な努力によって公共善に向うことができると主張した。
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教育を通じて良き徳を身に付けると説く点では、実に両者とも同じであり、「人間の持つ可能性への信頼」がそれらの思想の根底にある。両者の違いは、孟子が人間の主体的な努力によって社会全体まで統治できるという楽観的な唯心主義であったに対して、荀子は統治者がまず社会に制度を制定して型を作らなければ人間はよくならないという社会システム重視の考えに立ったところにある。前者は後世に朱子学のような主観中心主義への道を開き、後者は荀子の弟子たちによって法家思想へと発展していった。 孟子は人の性が善であることを主張した上、その善性の核心となる四つの心得(四端)の存在を説いた。 「四端」とは「四つの始まり」という意味であり、それぞれ「惻隠」(弱者を同情する心)・「羞悪」(不正や悪を憎む心)・「辞譲」(謙って譲り合う心)・「是非」(正悪を判断する能力)と定義される。この四つの心得を常に遵守することによって、孔子の主張する聖人に備わるべき四つ性質である「四徳」を身につければ、誰しもが統治者に相応しい人材になれると言う。 孟子自身は「革命」という言葉を用いていないものの、その天命説は明らかに後の易姓革命説の原型をなしている。 孟子によれば、舜は天下を天から与えられて天子となったのであり、堯から与えられたのではない。天下を与えられるのは天だけであり、たとえ堯のような天子であっても天命に逆らって天下をやりとりすることはできない。では、その天の意思、天命はどのように示されるのかといえば、それは直接にではなく、民の意思を通して示される。民がある人物を天子と認め、その治世に満足するかどうかによって天命は判断される。 また、殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を征伐したことも、臣下による君主への弑逆には当たらないとした。なぜなら桀紂がいくら天子の家系であったとはいえ、天子が果すべき責務を果たさずに暴政を行ったためであり、すでに統治者としての正当性(天命)がないためである。
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また、殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を征伐したことも、臣下による君主への弑逆には当たらないとした。なぜなら桀紂がいくら天子の家系であったとはいえ、天子が果すべき責務を果たさずに暴政を行ったためであり、すでに統治者としての正当性(天命)がないためである。 天子の位は、かつては代々賢者から賢者へと禅譲されていたが、禹が崩ずると賢者の益でなくその子啓が位を継ぎ、以後今日まで世襲が続いている。これは禹の時代になって徳が衰えたからなのではないか、という弟子の萬章の問いに対し、孟子は明確にこれを否定している。孟子によれば、位を賢者が継ぐか子が継ぐかはすべて天命によるものであり、両者に優劣の差はない。孟子は孔子の言を引いて「唐の虞は禅(ゆず)り、夏后・殷・周は継ぐも、其の義は一なり」(萬章章句上)と述べている。そのため、位を世襲しながら天によって廃されてしまうのは、必ず桀紂のような「残賊」だけだとされる。 この論理は当時の宗教権威を論証に介しているものの、意義と目的という面において2000年後のヨーロッパで提唱された社会契約論と同一であると言える。 以下は、中国語版ウィキペディアからの引用。 孟子は儒家の最も主要な代表的人物の一人である。しかし、中国において、孟子の地位は宋代以前にはあまり高くなかった。中唐時代に韓愈が『原道』を著して、孟子を戦国時代の儒家の中で唯一孔子の「道統」を受け継いだという評価を開始し、こうして孟子の「昇格運動」が現れた。以降孟子とその著作の地位は次第に上昇していった。北宋時代、神宗の熙寧4年(1071年)、『孟子』の書は初めて科挙の試験科目の中に入れられた。元豊6年(1083年)、孟子は初めて政府から「鄒国公」の地位を追贈され、翌年孔子廟に孔子の脇に並置して祭られることが許された。この後『孟子』は儒家の経典に昇格し、南宋時代の朱熹はまた『孟子』の語義を注釈し、『大学』、『中庸』と並んで「四書」と位置付け、さらにその実際的な地位を「五経」の上に置いた。元代の至順元年(1330年)、孟子は加えて「亜聖公」に封じられ、以後「亜聖」と称されるようになり、その地位は孔子に次ぐとされたのである。
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孔子(武人の子)や、後代の朱熹・王陽明らと異なり、孟子は武人ではなく、兵学を修めず、軍事指揮経験がなく、著作には六芸など実学的教養への言及がない。「孟母三遷」の伝承は、それが事実なら、孔子が君子の教養として弟子たちに修養を勧めた「六芸」を著しく侮辱するものであり(墓地における礼は六芸の第一、市場における数は六芸の第六だが、孟母はこれを賤業と見下した)、孟子は孔子たちがもっとも嫌悪したであろうステレオタイプの差別主義者・出世主義者の母親によって育てられたことになる。 上述のように、孟子の天命説(革命説)そのものは、孔子の著作にもその萌芽があって、それを発展させて論となしたことは必ずしも孔子の道統を逸脱するものではなかったが、日本の一姓相伝(万世一系)的な国体観と合致しない。そのため、中国の航海者たちの間には、明代の「有携其書(孟子)往者舟即覆溺」(五雑俎)などのように、孟子を積んで日本に向かう船は沈むという伝承があった。 日本においても、孟子の地位は江戸時代以前はあまり高くなく、むしろ忌避されていた。日本の元号は宗教上・産業上の瑞祥を除き、基本的に四書五経を出典とするが、四書五経の中の『孟子』に由来する元号はまだ存在しない。 日本では、林羅山、徳川家康、伊藤仁斎、上田秋成、佐藤一斎、吉田松陰、西郷隆盛、北一輝らが熱読したことで知られる。 孟子の出身地である山東省鄒城市の南郊には、孟子を祭祀する孟廟が建てられている。別名を亜聖廟ともいい、南北に長い長方形で、五進の門を持ち、殿宇は64間あり、敷地面積は4万平方メートルを超える。正殿を亜聖殿といい、現存のものは清の康熙年間に地震で傾いた後に再建されたもので、7間あり、高さ17m、幅27m、奥行き20mある。「曲阜の孔廟、孔林、孔府の拡大」として2008年3月にユネスコの世界遺産の暫定リストに入れられている。 朝鮮では、孟子は氏族の新昌孟氏の始祖とされる。日本においても、中国(または朝鮮)における孟子の子孫で医官であった孟二寛が、秀吉の朝鮮出兵の際に捕虜として日本に連行されて毛利氏・浅野氏に仕え、渡辺治庵と名乗り、その孫の武林唯七(隆重)が赤穂浪士に参加したという伝承がある。 書としての『孟子』は、上述のとおり儒教正典の四書の一つである。孟子が一生行った遊説や論争、弟子たちとの問答、及び語録の集成である。
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孟子
書としての『孟子』は、上述のとおり儒教正典の四書の一つである。孟子が一生行った遊説や論争、弟子たちとの問答、及び語録の集成である。 書名は『毛詩』と区別するため「もうじ」と発音し、人名は「もうし」と発音するのが日本での習慣であったが、近年は書名の場合でも「もうし」と発音することが多い。 『孟子』の注を書いた後漢の趙岐は、『孟子』は孟子の引退後に、彼が弟子の公孫丑・萬章らと共に問答を集め、また規則の言葉を選んで編集したと記載している。武内義雄は孟子自撰説に反対し、孟子の門弟または再伝の弟子くらいの手記をあつめて編纂されたものとする。 の七篇よりなる。 儒教倫理説の根本教義のひとつとされ、社会秩序の維持のため守るべき5つの徳として有名な「五倫の道」は滕文公上篇に記載されており、性善説の根拠たるべき道徳学説として知られる四端説は、公孫丑上篇に記されている。 なお『論語』は孔子が登場しない章も含まれていて、孔子本人と弟子たちの言行録となっているが、『孟子』は全章に孟子本人が登場する。
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バンダイ
株式会社バンダイ(英: BANDAI CO., LTD.)は、子供向け玩具、模型、既製服(アパレル)、生活用品等の企画・開発・製造・販売を行う日本の企業。株式会社バンダイナムコホールディングスの完全子会社。コーポレート・メッセージは「夢・クリエイション~楽しいときを創る企業~」。「変身」や「妖怪」を商標登録している。 かつては三和グループのメンバーであり三和系企業で設立されたみどり会のメンバーだったが、2005年、ナムコとの経営統合後にみどり会を退会した。 バンダイグループは、日本国外において、現地の人気キャラクターを盛んに玩具化し、「新 キャプテン・スカーレット」や「バットマン」、「ベン10」などの玩具が現地の子会社を通じて発売されている。 1990年代にスーパー戦隊シリーズを日本国外向けにした作品である「マイティ・モーフィン・パワーレンジャー」の玩具をアメリカを始めとする日本国外で発売し、大成功を収めた。以後、『ニンジャスティール』までのパワーレンジャーシリーズの玩具を毎年、発売していたが、2019年4月1日をもってサバン・ブランドとの契約終了により『ビーストモーファーズ』以降の同シリーズの玩具販売はハズブロへ移行した。 2000年代以後はそれらに加えて、現地のキャラクターをアニメ化して展開している。アメリカではアメリカングリーティング社が開発したグリーティングカードのキャラクターである「ストロベリーショートケーキ」を、ヨーロッパではフランスの絵本を題材とした「ベルフラワーバニーズ」などをアニメ化している。 2010年代はアジアでのメディアミックス戦略にも力を入れ、インドネシア向けに石森プロと共同開発した等身大特撮ヒーロー「ガルーダの戦士ビマ」を展開している。これを受け2014年には現地法人BANDAI NAMCO INDONESIAを設立した。この他「アイカツ!」も韓国や台湾、香港、インドネシアでアニメと関連玩具を展開している。 「マイティ・モーフィン・パワーレンジャー」の成功に合わせて、ガンダムシリーズなどの日本のキャラクターの玩具も日本国外で発売を行っている。
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バンダイ
「マイティ・モーフィン・パワーレンジャー」の成功に合わせて、ガンダムシリーズなどの日本のキャラクターの玩具も日本国外で発売を行っている。 創業者、山科直治の義兄久々津一夫が経営する繊維会社「萬代産業」の玩具部門を譲り受け玩具問屋「萬代屋」として浅草にて創業。「萬代」(万代)とは武経七書の一つに数えられる兵法書「六韜」に登場する語の「萬代不易」(永久不変の意)に由来し、創業者の山科直治が「いつの世も人の心を満たす物を作り、絶えない企業の発展を願う」という意味だとしている。 当初は萬代産業の余りの布切れで作った人形を販売。その後、1950年初の自社製品のゴムまり「リズムボール」発売、「B26ナイトプレイン」が50万個以上のヒットになり、これ以降、金属玩具を主力とするようになる。輸出が中心で国内には輸出の余りを販売しており、玩具業界では評判が悪かったが国内向けの玩具開発をてがけるようになる。創業〜1960年代当時は、教育のバンダイと言われた。 1961年、社名を萬代屋からバンダイに変更する。玩具メーカーとしては後発であり旧来の玩具業界から反発が強かったため、同じく後発のタカラ(現・タカラトミー)とエポック社と組んで1961年に「玩具三社会」を設立。三社共同の玩具見本市を開催したり、新入社員の研修を合同で行うようになる。後にトミー(現・タカラトミー)とニチガンと学習研究社(現・学研ホールディングス)が加わり「玩具六社会」になる。 1960年代半ばより「クレイジーフォーム」「わんぱくフリッパー」「サンダーバード」などのヒットにより大手に成長する。しかし1968年に提唱した「無返品取引」が「バンダイは返品負担を問屋に押しつけるんだ!」と玩具流通業界の反発にあう。さらに「キャプテンスカーレット」の失敗により、「バンダイ倒産近し」という「黒い噂」が生まれる。それと共にバンダイ不買運動が起こる。 こうした騒動は「無返品取引」を撤回し、さらに「キャプテンスカーレット」の売上不振で倒産した今井科学(イマイ)の業務をバンダイが引き継ぐことで終息した。
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こうした騒動は「無返品取引」を撤回し、さらに「キャプテンスカーレット」の売上不振で倒産した今井科学(イマイ)の業務をバンダイが引き継ぐことで終息した。 1960年代の版権違反問題で大失敗し版権協会から追放され、業績が落ち込んでいたところ、東映の渡邊亮徳が『仮面ライダー』を作る際にバンダイの救済も兼ねる形で、バンダイに子会社を設立させた。それが1971年発足のポピーである。以後ポピーがキャラクター玩具を担う形となり、東映と関係を深めて行きキャラクタービジネスを主軸としたマーチャンダイジングを推進していった。1970年代にポピーは急成長し、売上でバンダイ本社を抜くようになり、ポピー社員はバンダイ社員の羨望をうけることになる。ポピーがバンダイ本社に合併されるまではバンダイ本社はほとんどキャラクター玩具を扱っていなかったため、現在のバンダイのキャラクター玩具はポピーが基盤となっている。 1967年に経営破綻した模型メーカーのコグレのプラモデルの金型を買い取ったことから本社内に模型部を発足。前述の今井科学の静岡工場と金型と社員を買収して、1971年に子会社のバンダイ模型を設立。静岡県の清水工場を拠点にバンダイ模型が企画開発と生産を行い、本社の模型部が営業と販売を行う体制となる。 旧今井製品の再版を土台にスタートしたため「バンダイは倒産した会社の金型を使っている」と業界内での評価は悪く、新製品の開発が急がれミリタリーや自動車の模型などを開発する。特に1/48機甲師団シリーズは手頃な価格と内部構造の再現で、1970年代前半は田宮模型の1/35ミリタリーミニチュアシリーズと並ぶ人気商品となる。また1970年代中頃の一時期、米国モノグラム社の販売代理店となり、同社の優れた1/48航空機キットを全国に低価格で供給した。同じ頃東映の大ヒット映画「トラック野郎」の版権を取得し、主人公の乗った11tトラック「一番星」をモデル化。当初得意の1/48スケールの販売だけだったが、後に全長55センチの超大型1/20スケールのものを発売、25年以上経った現在も販売を継続している。
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1977年冬に発売した宇宙戦艦ヤマトでは1/500、1/700等キャラクター系キットに対する初のスケール表示の導入や、艦首を広げたディフォルメモデル、主役メカだけでなく脇役メカや悪役側メカもシリーズに加えるなどの商品展開のディスプレイキットが大ヒットした。それまではゼンマイやモーター駆動による「玩具」色が強かったキャラクター系キットがディスプレイキット主体に転換される結果となった。その商品展開は機動戦士ガンダム関連キット(通称「ガンプラ」)に継承されて1980年代以降の爆発的ヒットにつながり、プラモデルの取扱はキャラクター系キットに特化され、数多くのヒット商品を産み出した。 1978年には、宇宙戦艦ヤマトと超合金ブームの人気を受け、ブルマァクの倒産により商品ライセンスを失った円谷プロダクションのウルトラシリーズ商品ライセンスを獲得する。以後、バンダイのウルトラシリーズは大ヒットしていった。 ポピーは東宝のゴジラシリーズ等の特撮怪獣映画、ウルトラシリーズ等の円谷プロの特撮、そして仮面ライダーシリーズ・スーパー戦隊シリーズ・80年代に始まるメタルヒーローシリーズ等の東映の特撮・アニメをはじめとした、作品の世界観やキャラクターを使用した玩具・雑貨・既製服などを商品化する「キャラクターマーチャンダイジング」ビジネスを得意としていた。仮面ライダーとスーパー戦隊とメタルヒーローでは当初から玩具を手がけていた。 番組企画当初より登場キャラクターのデザイン等への参加および介入することでおよそ1年間の商品販売計画を策定しており、現在のキャラクター玩具ビジネスの基本ラインは、同社のスタイルを踏襲したものが多い。 1980年に山科直治は35歳の長男・山科誠に社長職を譲り会長職に退いた。この時期、バンダイグループは玩具業界一位にまで成長しており、山科直治は「勝負はついた」という趣旨の発言をしている。
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番組企画当初より登場キャラクターのデザイン等への参加および介入することでおよそ1年間の商品販売計画を策定しており、現在のキャラクター玩具ビジネスの基本ラインは、同社のスタイルを踏襲したものが多い。 1980年に山科直治は35歳の長男・山科誠に社長職を譲り会長職に退いた。この時期、バンダイグループは玩具業界一位にまで成長しており、山科直治は「勝負はついた」という趣旨の発言をしている。 山科誠は出版社の編集者を志望していたが、その志望が叶えられなかったことと前述の「黒い噂」の払拭に努めていた時期の山科直治の「長男を入社させるくらいだからバンダイは大丈夫なんだ」というアピールとしてバンダイに入社した。このため玩具事業には興味を持たず、文房具、アパレル、菓子、映像、音楽、パソコン、アミューズメントなど事業の多角化に進むことになる。これは表面上は少子化で玩具事業の成長が見込めないためとされたが、山科誠が玩具事業にいる古参社員を煙たがったためともされている。 一方、1980年代の玩具業界は成長が頭打ちになり、限られたパイを巡って競争が激化、玩具メーカーの倒産も相次ぎ、前述の「玩具六社会」は1984年に解散した。その中でゲーム会社は急成長し任天堂やセガはバンダイの売上を追い抜いた。 この流れに対応し1980年代中盤には独自のテレビゲーム機の販売を行うもファミリーコンピュータ(ファミコン)をはじめとする他社ハードのサードパーティーとしてソフトの製造・販売を手がけるようになる。「なぜ、ファミコンをするのか?」と言われたものの、ファミコン参入第1弾「キン肉マン マッスルタッグマッチ」のヒットで軌道に乗った。 1982年にガンプラの販売において「ヤミ再販」(メーカーが価格を決め、流通業者にそれを守らせること)と「抱き合わせ販売」(ガンダム以外の商品も買わないとガンダムを売らない)を行い守らなかった場合には出荷停止を行ったことが独占禁止法違反にあたるとしてバンダイとポピーは公正取引委員会の立入検査を受けた。1983年に公正取引委員会のヤミ再販排除の勧告を受諾する。しかしもう一つの問題である「抱き合わせ販売」については不問となった。 1983年に株式上場に向けバンダイ本社を存続会社としてグループ8社の合併を行った。
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1983年に株式上場に向けバンダイ本社を存続会社としてグループ8社の合併を行った。 1986年に玩具メーカーとして初めて東証2部上場を果たした。これにより社員たちの中にあった「所詮、俺たちは下町のおもちゃメーカーじゃないか」という卑下する気持ちが払拭できたとある。 なお山科直治は第二次世界大戦で中国に出征しており、「戦時中の贖罪」として1985年に中国福建省に日中合弁会社・中国福萬(福建)玩具有限公司を設立。ビジネス上の狙いとしては、円高で日本国内での玩具製造のコストが上がったため、円高の影響がない中国で製造しようということである。これ以降、バンダイは海外生産の比率を上げていくことになり、現在では9割が海外生産である。 1989年の第39回創立記念式典で山科誠は「バンダイランド」の構想を語った。これは、ディズニーを手本としたレジャー施設の構想である。また多角化を一層押し進め、玩具会社から脱皮し、ディズニーのような総合エンタテインメント企業を目指すことも語られた。この「日本のディズニー」という目標は現在のバンダイでも継承されている。同年、提携していたコアランドテクノロジー株式会社を子会社化し、商号を株式会社「バンプレスト」に変更、杉浦幸昌が初代社長になった。ただしこの際に、人的に相当な流出入の変化があったため、バンプレストとコアランドテクノロジーの関係は法人格を引き継いだだけの関係にすぎないと捉える向きもある。 海外では1993年にアメリカ版スーパー戦隊のパワーレンジャーが大ヒットをとばす。しかし前述のようにゲーム機で任天堂やセガに後れをとったと考えたバンダイは1994年に「プレイディア」、1996年に「ピピンアットマーク」を販売するも失敗。これに加え、同時期の玩具事業の不振、スーパーファミコン用ソフトの不振により1997年3月期の連結決算は上場以来初の赤字となる見通しになった。 こうした経営不振から1997年、セガとの間で「セガバンダイ」として合併を行うと発表された。これに関してセガの中山社長は「ピピンが成功していたら合併はなかったろう」としている。逆にセガが弱い低年齢向けのキャラクターで強みがあるバンダイとの合併はセガにとってはメリットがあった。また当時、セガはライバルのSCEにゲーム機戦争で負けつつあり、この合併は「敗者連合」とされた。
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こうした経営不振から1997年、セガとの間で「セガバンダイ」として合併を行うと発表された。これに関してセガの中山社長は「ピピンが成功していたら合併はなかったろう」としている。逆にセガが弱い低年齢向けのキャラクターで強みがあるバンダイとの合併はセガにとってはメリットがあった。また当時、セガはライバルのSCEにゲーム機戦争で負けつつあり、この合併は「敗者連合」とされた。 しかしバンダイのたまごっちの大ヒットや、バンダイ社内からの反発も強く構想は破談になった。ただこの2要素が破談の「決定的要因ではない」としている。 セガの方が企業規模が大きいうえに「社風が米国流でドライ」であったため、合理化の名の下にリストラ(解雇)の懸念があったのである。またバンダイ系列の問屋を統合して誕生したハピネットでは存続会社のトウショウ社員ばかりが優遇されていた「ハピネットの悪夢」も強く想起され、合併の存続会社がセガである以上、リストラされなかったとしてもバンダイ社員は不遇になるものと思われた。さらに、かつてのバンダイでは考えられなかったが、一流上場企業の社員としての誇りが「セガバンダイ」の名前に強く反発した。また合併反対派が山科直治を取り込んだことも影響した。 この時の責任を取り、山科誠は社長職を辞任して会長に退くも後任の茂木隆は山科誠派で、「山科体制」は維持された。 セガとは合併破談後も業務提携が続けられ、バンダイはしばらくの間、セガのゲーム機向けのソフトを優先的に開発することとなる。 ピピンの事業はその後も続けられたが1998年に撤退、同事業をてがけていたBDE(バンダイ・デジタル・エンタテインメント)は解散する。これに伴って特別損失270億円を計上。このためたまごっちのヒットにより1998年3月期の連結決算は2882億円と過去最高であったにもかかわらず、単独決算では赤字に転落した。 さらにたまごっちの大ブームの終息を見極められず、大量の在庫を抱えてしまい、1999年3月期では単独決算、連結決算ともに赤字になる。単独決算は2期連続の赤字である。この責任を取り、茂木隆は退職。山科誠も名誉会長職に退き、「山科体制」は崩壊した。
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さらにたまごっちの大ブームの終息を見極められず、大量の在庫を抱えてしまい、1999年3月期では単独決算、連結決算ともに赤字になる。単独決算は2期連続の赤字である。この責任を取り、茂木隆は退職。山科誠も名誉会長職に退き、「山科体制」は崩壊した。 1999年に山科誠が推進した多角化を放棄し、赤字事業を清算するためにバンダイ入社三年目の高須武男が社長に就任。高須が「泥をかぶった」形で事業の整理が始まる。彼の就任中に音楽、映像、海外販社などの事業は撤退ないし縮小することになる。玩具事業に不慣れな高須武男を山科直治時代からの「大番頭」である杉浦幸昌が会長職から支援した。 同年には携帯ゲーム機市場における任天堂の一強体制を打破すべく、携帯ゲーム機「ワンダースワン」を投入して、一定の成功を収める。 2002年に長さ方向の寸法を短縮した鉄道車両のショーティーモデルの塗装済みキットである「Bトレインショーティー」を発売。同様の鉄道模型に近い商品としてNゲージと同じ縮尺で先頭車両をリアルに模型化した食玩「スタートレイン」やレール幅がZゲージより小さい電池駆動のスケールモデル「ZZ TRAIN」も「Bトレインショーティー」と前後して発売されている。 2003年3月期の連結決算で営業利益と経常利益が過去最高を達成。本物のドラえもんを作る「リアル・ドリーム・ドラえもん・プロジェクト」を開始。一方、2000年に「ワンダースワン」の後継機として登場した「ワンダースワンカラー」は「ファイナルファンタジーシリーズ」が携帯ゲーム機で初めての投入もあってそこそこの人気を得るも、人気ソフトの不足や、任天堂の「ゲームボーイアドバンス」による攻勢によってジリ貧に陥り、2003年に携帯ゲーム機のハード開発から事実上の撤退を表明している。 杉浦幸昌は定年65歳の内規に従い会長職を辞した。彼の引退を記念して以前社長を務めたバンプレストの本社があった千葉県松戸市にあるビルを改装し、バンダイミュージアムとして開館。前述の「バンダイランド」の構想を持っていた同社としては不満の残るものだったものの、特撮ヒーロー関連の展示やガンダムの世界観に基づいた博物館とバーを運営するなどした。2006年8月31日に閉館。2007年4月28日、栃木県壬生町におもちゃのまちバンダイミュージアムとして装いも新たに開館。
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また文化事業にも熱心な所を見せ、バブル崩壊後各社が活動を縮小する中で、世界有数のトイ・コレクションを藤田文化財団から譲り受け、軽井沢ワールドトイミュージアム(現在閉館)と栃木県壬生町の新バンダイミュージアムで公開している。同ミュージアムでは19世紀の蒸気機関模型や20世紀初頭の炭鉱模型が展示されている。また、バンダイミュージアムでは玩具だけでなく、エジソンの発明品が一堂に展示されている。 2004年4月、本社ビルを現在の場所へ移転する。この新社屋のエレベーターは4基あり、それぞれバンダイが商品化しているキャラクターの声(まめっち、仮面ライダー1号、アンパンマン、アムロ・レイ)がアナウンスするというユニークな作りになっている。 2005年9月、それまで業務提携などを行ってきたナムコと共同で持株会社を設立し経営統合。前述の高須武男の手腕により「経営は万全」とした上での統合である。持株会社・バンダイナムコホールディングスの子会社となった。この経営統合で誕生した総合アミューズメント(AM)事業グループバンダイナムコグループは、現在ゲーム業界ではソニー、任天堂に次ぐ第3位の事業規模を誇り日本のゲームソフトメーカーでは国内最大手となるまでに成長している。この時は「セガバンダイ」の時と違い、「バンダイナムコ」の名前に対する反発はほとんどなかった。
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2006年3月1日、旧イマイ時代からプラモデルを生産していた静岡市清水区の静岡ワークスから静岡市葵区の新工場に移転し、「バンダイホビーセンター」として稼動を開始。開発・設計・金型・生産という、ガンプラに関わる営業とプロモーション以外の分野をまとめて担当し、開発から生産までを施設内に一括することで生産効率と品質の向上が図られている。3月31日、バンダイナムコグループの事業再編の一環として、家庭用ビデオゲーム事業部門をナムコを母体としたゲーム事業部門「バンダイナムコゲームス」へ統合(旧・バンダイゲーム事業部門が手がけるゲームは、2014年まで「バンダイ」レーベルで発売していた)。ちなみに、「アドバンスピコ・ビーナ」(セガトイズ)のサードパーティに関しては、電子玩具としているため、引き続き当社が担当している。それ以降、バンダイは主にトイホビー事業専門の会社組織となった。6月、ウィルコムのW-SIMを使い、子供向けPHS、「キッズケータイpapipo!」を発売した。1997年発売の「たまぴっち」以来のPHS端末の発売であり、これまで発売してきた「メルプチ」の発展版になる。 2008年4月1日、バンダイナムコゲームスがバンプレストを吸収合併しゲームソフト事業とアミューズメント機器事業を継承、プライズ事業(UFOキャッチャーなどの景品の開発・販売)は新会社バンプレストを設立し継承。 2009年4月1日、当社運営のバンダイレーベル専用サイトは、バンダイナムコゲームス公式サイトに統合され、統合前に発売されたゲームタイトルだけは知的財産権も自社で管理していたが、それと同時にバンダイナムコゲームスに引き継がれた。また、バンダイレーベルのゲームタイトルのCMは企業としてのバンダイのCMで製作されていたが、それ以降からバンダイレーベルもバンダイナムコゲームスの自社CMに移行したため、ゲーム事業を完全にバンダイナムコに統合した。4月20日、公式ショッピングサイト「プレミアムバンダイ」を開設。一般流通では販売しづらい商品や大人用アパレル商品などを中心にさまざまな商品展開を実施している。
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バンダイ
2018年2月9日、バンダイナムコグループの再編が発表され、ホビー事業部並びにコレクターズ事業部が手がけているハイターゲット向けの玩具、プラモデルの企画・開発・製造・販売などの事業を同年4月1日付で新会社BANDAI SPIRITSへ移管したため、バンダイはトイ事業カンパニー(トイ戦略室、ボーイズ事業部、ガールズ事業部、プリスクール事業部)、ベンディング事業カンパニー(ベンダー事業部、カード事業部)、ライフ事業カンパニー(キャンディ事業部、アパレル事業部、ライフ事業部)の社内カンパニー制を導入した。これにより、コーポレートロゴに関しても差別化が図られ、BANDAI SPIRITSは青色を模ったバンダイロゴ(通称、青バンダイ)を採用した。 トレーディングカードアーケードゲームもここへ置く。 主にバンダイアメリカ製品。 90秒以上の筆頭提供番組でのスポンサー読みは、ポピー時代としては「お子さまに夢と勇気をと願う ポピー」(男児向け)、または「小さな心に夢とロマンをと願う ポピー」(女児向け)のいずれかで、バンダイグループが体制移行した際は「新しい子供文化を創造する バンダイグループ」で、ポピーと合併した1983年から2018年3月までは「楽しいときを創る企業 バンダイ」、2018年度以降は「夢・クリエイション バンダイ」、クレジット表示は「夢・クリエイション BANDAI」。 本項では、1983年に旧ポピーとの合併後に提供した(している)番組を記載。なお便宜上、BANDAI SPIRITS(2018年以降)が「BANDAI」名義でスポンサーについている番組についても記載する。⭐︎があるものは旧ポピー時代から続行の番組(現在終了したものも含む)。なお、2023年9月現在一部製品のCMの最後には、バンダイナムコグループの「BANDAI NAMCO」吹きだしロゴが画面右上もしくは左上に表示されている。 また、特記事項のない不定期での提供や再放送の番組は本項では省略している。 2023年4月現在。 他多数
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バンダイ
また、特記事項のない不定期での提供や再放送の番組は本項では省略している。 2023年4月現在。 他多数 1995年度から「バンダイこども電話サービス」がスタート。2009年度より「バンダイテレフォンサービス」に改称。2022年現在、男児向け特撮作品(スーパー戦隊シリーズ)や女児向けアニメ(プリキュアシリーズ)作品を中心に主人公が電話で登場している。かつては女児向けアニメとして、「美少女戦士セーラームーンシリーズ」や「夢のクレヨン王国」、「おジャ魔女どれみシリーズ」、「明日のナージャ」の主人公も電話で登場したことがある。
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書経
『書経』(しょきょう)は、中国古代の歴史書で、伝説の聖人である堯・舜から夏・殷・周王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文などが記載されている。『尚書』または単に『書』とも呼ばれ、儒教の重要な経典である五経の一つでもある。 内容に違いがある2種類の本文が伝わっており、それぞれを「古文尚書」・「今文尚書」と呼んで区別する。現代に伝わっている「古文尚書」は由来に偽りがあることが断定されているので「偽古文尚書」とも呼ばれる。もともとの「古文尚書」は失われており、現代には伝わっていない。 『書経』は、先秦時代には単に「書」と呼ばれるか、その内容の時代の名を冠して「夏書」「商書」「周書」と呼ばれるのが通例である。漢代に入って『尚書』の名が生じ、広く用いられるようになった。「尚」は「上」に通じる語であるが、その示す意味には古来以下の説がある。 『書経』の名は、南宋に生じたもので、劉欽『書経衍義』や趙若燭『書経箋註精通』といった例がある。明代以後、『書経』という呼び名が普及した。現在は、『書経』と『尚書』の名が併用されている。 『書経』は、現在の形として成立するまでに、非常に複雑な道筋を辿っている。古くから儒教の中で伝統的に唱えられてきた説がある一方で、「疑古」の風潮の中で近年の研究からも様々な説が生まれており、その成立の事情に関しては確固たる決着は見ていない。 『書経』のうち、最も古く成立したと考えられるのは、「周書」のうち西周の文王・周公の訓辞を記録した「五誥」(大誥・康誥・酒誥・召誥・洛誥)の部分である。これらは金文学・考古学の研究から、記録としての確実性も比較的高いことが示されている。但し、金文資料には見えない語句も多く、西周期の同時代資料とみなすことができるわけではない。また、「周書」以前の篇については、周代以後に創作(または脚色)されて作られたものであり、成立自体は先秦に遡るが、史実としての信頼性には欠けるとされる。この説は「加上説」と呼ばれ、顧頡剛・内藤湖南らによって唱えられた。 飯島忠夫は、「堯典」に四つの星、「鳥」「火」「虚」「昴」の記述があることに注目し、天体の位置を計算したところあてはまるのは堯の時代ではなく紀元前4世紀頃の戦国時代初期であると推測した。
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書経
飯島忠夫は、「堯典」に四つの星、「鳥」「火」「虚」「昴」の記述があることに注目し、天体の位置を計算したところあてはまるのは堯の時代ではなく紀元前4世紀頃の戦国時代初期であると推測した。 『書経』には秦の穆公の記載があるため、全体が一書として成立したのは、早くても秦の穆公が在位を開始した紀元前659年以降である。 古来の通説では、儒教の聖人である孔子が唐虞から秦の穆公までの記録を編纂し、100篇からなる『書経』を作ったとされる。近年の研究では、これは史実であるとは認められないが、『論語』に『書経』の引用が見えることや、孔子の教学として「詩・書・礼・楽」が重視されたことから、孔子の時には何らかの原初的な『書経』は存在していたと考えられる。 『書経』の引用は、先秦の成立とされる書物(『国語』『春秋左氏伝』『孟子』『墨子』『荀子』など)に広く見受けられ、どのような形のものであるかは不明であるが、多くの学者によって『書経』が読まれていたことは確実である。特に、堯・舜・禹に関わる「堯典」「皋陶謨」「禹貢」の三篇は、儒教的古代観を形作る上で大きな役割を果たした。今文二十九篇の全体が、現在と似た形で成書した時期については、『孟子』より後、紀元前3世紀ごろであると考えられる。 先秦時代までに伝えられてきた『書経』は、秦の始皇帝の焚書によって一度失われた。その後、漢代に入り、「今文尚書」と「古文尚書」の二種が再発見され、再び『書経』が世に出ることとなる。 漢代になると儒教が復興し、経書の一つである『書経』も再び重視されるようになった。そのきっかけとなったのは、秦の博士であった伏生(伏勝)が、壁中に隠されていた29篇の『書経』を発見したことである。この『書経』は、漢代の通行字体である隷書体(今文)で書かれていたため、「今文尚書」と呼称される。伏生の一派による『書経』の解釈を示した書として『尚書大伝』があり、その一部が現在に伝わっている。 「今文尚書」は、斉魯において伏生から欧陽生(中国語版)(字は和伯)・張生に伝えられ、欧陽生から兒寛、張生から夏侯都尉に伝えられた。以後も博士の間で伝授され、宣帝の時には欧陽高(中国語版)・夏侯勝(大夏侯)・夏侯建(中国語版)(小夏侯)の三家が学官として立てられた。
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書経
「今文尚書」は、斉魯において伏生から欧陽生(中国語版)(字は和伯)・張生に伝えられ、欧陽生から兒寛、張生から夏侯都尉に伝えられた。以後も博士の間で伝授され、宣帝の時には欧陽高(中国語版)・夏侯勝(大夏侯)・夏侯建(中国語版)(小夏侯)の三家が学官として立てられた。 漢代、「今文尚書」以外にも『書経』が発見されることがあったが、これらはしばしば漢代の通行字体ではなく、秦代以前の文字で書かれたものであった。これを「古文尚書」と呼ぶ。「今文尚書」は学官に立てられた公的な学問であったため、その師授系統は比較的明白であるが、「古文尚書」は漢代を通して民間で研究が進んだ書であり、歴史書の記述も錯綜している。以下の例がある: それぞれの本の関係は定かではないが、一般には孔子家伝本・中古文本・孔子壁中本が同一であるとされ、一般に前漢の「古文尚書」というと孔安国・劉向・劉歆に関わるこの本のことを指す。 前漢の宣帝のとき、劉歆が「古文尚書」を学官に立てるよう要求したが、退けられた。この要求は、新の王莽の時に実現したが、その後、後漢の光武帝のときに再度廃された。 後漢においては、「今文尚書」の三家は変わらず学官に立てられ、博士の間で授受された。そのため、代々欧陽氏の学を受けた桓栄・桓郁や鮑永・鮑昱(中国語版)のほか、数多くの学者が「今文尚書」を学んだ。 一方、「古文尚書」も徐々に普及し、学者の間で用いられるようになった。前漢と同様、その授受関係ははっきりしておらず、以下の二つの系統がある: 杜林漆書古文本は「今文尚書」と同じ篇しかなく、実際に馬融・鄭玄が作った注釈は「今文尚書」と同じ篇に対してのみ附されている。ここから、杜林本は実際には孔安国に由来する「古文尚書」そのものではなく、伏生以来の「今文尚書」を古文の字体によって書き直したものではないか、という説もある。
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書経
杜林漆書古文本は「今文尚書」と同じ篇しかなく、実際に馬融・鄭玄が作った注釈は「今文尚書」と同じ篇に対してのみ附されている。ここから、杜林本は実際には孔安国に由来する「古文尚書」そのものではなく、伏生以来の「今文尚書」を古文の字体によって書き直したものではないか、という説もある。 後漢になり、経学がますます盛んになると、今文を主として研究する博士を中心とする学者と、古文を主として研究する民間を中心とする学者に分かれた。それぞれを今文学・古文学と呼ぶ。今文・古文は、もとは字体の差異によるものであるが、学説にも大きな差異が生じるようになった。今文・古文の対立は『詩経』『春秋』などにも存在するが、「今文尚書」と「古文尚書」の対立はその象徴的なものである。こうした学説の分岐を受けて、章帝の建初4年(79年)には、白虎観会議が開催され、白虎通義が編纂されて経義の統一が図られた。また、許慎といった学者は、古文学の立場から『五経異議』を著し、今文説・古文説の学説の相違を整理した。 結局、後漢の末期には馬融・鄭玄らの学問が盛んになり、徐々に古文学が発展した。ただし、孔安国由来の逸書16篇を含んだ「古文尚書」は、いつの間にか伝来を絶ち、西晋の永嘉の乱の頃に失われてしまった。 古文尚書は失われてしまったが、東晋時代の元帝(在位317年 - 323年)の時に豫章内史の梅賾(ばいさく)という人物が、「古文尚書」を発見したとして朝廷に献上した。後に偽作であることが判明しているので、現在ではこの『書経』は「偽古文尚書」(ぎこぶんしょうしょ)と呼ばれる。 この本は「今文尚書」のうち「舜典」を除く28篇(篇を分けると33篇)と、新出の偽作部分である25篇からなるものであり、合計すると劉歆や桓譚のいう「古文尚書58篇」の篇数と合致する。また、注釈として孔安国伝が付され、孔安国の大序と百篇書序が各篇頭につけられているが、これも梅賾による偽作であり、現在では「偽孔伝」と呼ばれる。なお、梅賾本のうち「今文尚書」と重なる28篇(「舜典」を除く)に関しては、漢代から引き継がれた系統のテキストであり、新たに偽作されたものではない。
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書経
梅賾本には「舜典」が存在しなかったため、魏の王粛注の「堯典」を二つに分け、後半の「慎徽五典」以下の部分が「舜典」として用いられた。「舜典」には孔伝が存在しないため、王粛注・范寧注が代わりに用いられた。その後、南朝の斉の姚方興がその闕を補う「孔安国伝古文舜典」を献上したが、この本には「慎徽五典」の手前に二十八字が加えられていた。 この梅賾本は、東晋で学官に立てられ、その後も南朝において継続して受容された。北朝では鄭玄注の『尚書』が用いられていたが、梅賾本に注釈をつけた梁の費甝(ひかん)の義疏が隋の劉炫によって受容されると、北朝においても広まった。このとき、劉炫は梅賾本と姚方興本を合わせた本を用い、このテキストが徐々に広がるようになった。唐の『尚書正義』(『五経正義』の一つ)がこの梅賾本と姚方興本を合わせた本を用いたことで、以後はこのテキストの『尚書』が一般的なものとなる。 梅賾本は、それに付された尚書序(孔安国作とされた)によれば、古い科斗文を隸古定によって改めた字体で書かれていたと考えられる。梅賾本は唐の『尚書正義』の材料となったが、天宝3年(744年)、玄宗は古い字体が伝写に誤りが生じやすいとして楷書に改めるよう詔を発し 、これを受けて衛包が改めた 。これを天宝改字あるいは衛包改字と呼ぶ。現在通行のテキストは天宝改字以降のものである。 これ以前の偽古文尚書がうかがえる資料としては、敦煌出土の残巻や、日本に残る唐写本残巻、あるいは後述の日本で書き写された古鈔本がある。これらの資料はその字体の違いから「隷古定尚書」と呼ばれることがある。開成石経以降の刊本を比較すると、単なる文字の置き換えではなく、文章面でも違いがあることが分かっている。 小林信明は、現存する古文尚書に見える字体は説文解字や三体石経と符合する割合が少なく、むしろ郭夢星『漢書古字類』にみえる漢代の字体に似るとして、唐以前の一般通行の字体と考えた。 『書経』に対する文献学的な研究は、特に宋代以後に活発になる。例えば、程頤が金滕篇を、蘇軾が胤征篇・顧命篇を疑った例がある。梅賾によって献上された本が偽作ではないかという説は、南宋の呉棫『書稗伝』によって初めて提唱された。これを承けて、朱熹も書序・孔伝への疑問を示している。
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書経
『書経』に対する文献学的な研究は、特に宋代以後に活発になる。例えば、程頤が金滕篇を、蘇軾が胤征篇・顧命篇を疑った例がある。梅賾によって献上された本が偽作ではないかという説は、南宋の呉棫『書稗伝』によって初めて提唱された。これを承けて、朱熹も書序・孔伝への疑問を示している。 その後、梅賾本が偽作であることについては、元代の呉澄、明代の梅鷟(中国語版)が論証を行った。そして、清の閻若璩が20年の考証の結果を『尚書古文疏証』全八巻にまとめ、25篇は偽古文であると証明した 。 ただし偽作と考えられている25編についても、吉川幸次郎が 「[......]それが僞作であるといふことは、それが何等の意義ももたぬといふことではない。いかにも古代史の資料としては、これは全く無價値のものである。しかし中世以後の社會はこの二十五篇を眞のものと認めて來たのであつて、[......]これらの僞「經」は、或種の學説の根據ともなつてゐる。たとへば「大禹謨」篇の「道心惟微、人心惟危」は宋の「理學」の原理となつた。また「周官」篇は官制に、「胤征」篇は曆法に影響を與へてゐる。 」 と評するように、一定の価値を認める研究者も少なくない。 現行の『書経』は58篇からなる。この各篇は、1書かれた内容の時代によるもの、2書かれた体裁によるもの、3文献学的見地によるもの、の三つの方法による分類が可能である。 「今文尚書」には後に「太誓(泰誓)」が加えられ29篇となった。この「太誓」は漢代に作られた偽書とされる。「偽古文尚書」にある「泰誓」3篇はまたこれとは別の偽書である。 「古文尚書」の逸書16篇の篇名は1.「舜典」、2.「汨作」、3.「九共」、4.「大禹謨」、5.「益稷」、6.「五子之歌」、7.「胤征」、8.「湯誥」、9.「咸有一徳」、10.「典宝」、11.「伊訓」、12.「肆命」、13.「原命」、14.「武成」、15.「旅獒」、16.「冏命」であった。
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書経
「古文尚書」の逸書16篇の篇名は1.「舜典」、2.「汨作」、3.「九共」、4.「大禹謨」、5.「益稷」、6.「五子之歌」、7.「胤征」、8.「湯誥」、9.「咸有一徳」、10.「典宝」、11.「伊訓」、12.「肆命」、13.「原命」、14.「武成」、15.「旅獒」、16.「冏命」であった。 「偽古文尚書」の構成は複雑であるが、その最たるものが「舜典」であり、もともと梅賾本には「舜典」がなく、魏の王粛注本の「堯典」の後半部「慎徽五典...」以下が当てられ、注も王粛注が付けられたという。その後、南朝斉の姚方興が孔安国伝古文「舜典」なるものを献上したが、「慎徽五典」以前に「曰若稽古...」の十二字が多くあったという。現在のものはその後にさらに「濬哲文明...」の十六字が加えられている。他には「皋陶謨」(こうようぼ)の後半部から「益稷」が作られ、「盤庚」は三篇に分けられ、「顧命」後半部から「康王之誥」が作られた。 『書経』のうち「周書」は特に文章が難解であることで知られており、唐の韓愈や清末の王国維といった大学者でさえ、その難解さを嘆いている。このことは、逆に「周書」が『書経』の中で比較的古い姿を留めていることを示す。 『書経』に付けられた注釈としては、以下の例がある。 2008年7月、清華大学は2000枚あまりの戦国時代の竹簡を得た。これは実業家の趙偉国が海外から購入して清華大学に寄贈したもので、「清華簡」と呼ばれる。専門家の鑑定によれば、この竹簡は戦国時代中期から晩期(今から2300-2400年前)の楚のものである。清華簡には『尚書』の多くの篇が含まれており、焚書坑儒以前の写本である。その中のあるものは現行の『尚書』にも存在する篇だが(「金縢」「康誥」「顧命」など)、その文言には多くの差異があり 、篇題が異なっているものもある。さらに多いのは今まで知られなかった佚篇で、たとえば『尚書』の名篇「傅説之命」は先秦の文献が引用している「説命」と一致し、現行の偽古文「説命」とはまったく異なる 。
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書経
2009年4月現在、清華簡はその1⁄3が初歩的な解読を終えている。2009年までに内容が発表されたものは2種類で、「保訓」と周の武王の時代の楽詩である。「保訓」にはもと題がついておらず、専門家によって本文内容をもとに題がつけられた。内容は周の文王が臨終の際にその子の発(武王)に述べた遺言である。楽詩は周の武王が文王の宗廟で「飲至」の典礼を行うに際し、酒を飲むときにうたう歌で、『楽経』の原文の疑いがある。 今までに整理された清華簡のうち、古代の『尚書』の佚篇の疑いのあるものには「尹至」「尹誥」「説命」「程寤」「保訓」「金縢」「皇門」「祭公」「厚父」「封許之命」がある。うち「厚父」の中の一段である「天降下民、作之君、作之師、惟曰其助上帝寵之」は『孟子』に『書』からの引用として引かれている。しかし、『偽古文尚書』ではこの文を「周書・泰誓」に含めてしまっている。 書経が日本に伝来した年代は明らかではないが、継体天皇の時代に五経博士の段楊爾・高安茂が相次いで来朝したという記録があるため、この際伝来したものといわれる。 「昭和」や「平成」といった日本の元号は、『書経』の中の言葉に典拠がある。「昭和」は『書経』堯典「百姓昭明、協和万邦」に由来し、「平成」は『書経』大禹謨「地平天成」に由来する。但し、『書経』大禹謨は偽作の篇であり、「地平天成」の語はもともと『春秋左氏伝』に基づく言葉である。 これらは同系の写本であり、広橋家が所蔵していた広橋本の一つである。唐の太宗李世民(在位626年 - 649年)の諱を避けていないため、それ以前の伝本をもとに写本したと考えられる。 所々隷書体が使われており、前述の「隷古定尚書」と考えられている。他の唐鈔本や敦煌本に比べて隷書が使われている箇所が多く、現存する最古の鈔本とされている。なお紙背には高辻長成の『元秘抄』が室町時代に書写されている。 南宋刊本のいわゆる越州八行本。淳熙(1174年 - 1189年)前後の両浙東路茶塩司刻本。
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ババ抜き
ババ抜き(、英: Old Maid、英: Lose with the Joker)とは、複数人で行うトランプゲームのひとつ。始めに同数のカードを人数分配り、一枚ずつ他者から抜き取り同じ札があれば捨て、最後にジョーカーを持っている者が負け。 ストップ系のゲーム で、ジョーカーを1枚加えた53枚のカードを使って行うトランプゲーム。そして、ローカルルールが数少なく存在する。人数は3人以上が好ましい(2人の場合だと、互いにジョーカー含めどのカードを相手が持っているのかわかってしまうため)。 基本ルールでは、ゲームの進行のみ記載する。 元々はジョーカーを加えるのではなく、クイーンを1枚抜いて51枚のカードを使って行われていた。古い書物にはこの形で紹介されている。 「Old Maid」は、1枚のクイーンが「Match」の相手がおらず、独り売れ残ることから名付けられた。日本では1907年(明治40年)に書かれた『世界遊戯法大全』にこれの和訳として「お婆抜き」の名前で紹介されている。 派生して、クイーンではなくランダムにカードを1枚抜いてそれを確認せずに行う方法をジジ抜きという。ババ抜きと違い、1枚残るカードが誰にもわからないのでゲーム終盤まで予想できない。世界遊戯法大全ではこちらは「お爺抜き」として紹介されている。 また、ジョーカーを加え任意の1枚を抜いて行う「ジジババ抜き」という遊びもある。 最後に悪い物を持ったまま損害を被る事、運悪く損害を被る事を「ババを引く」などと、ババ抜きに例えて表現する事がある。また、掴まされた偽札を他人に回す事の隠喩としても使われる。
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ジジ抜き
ジジ抜き(、爺抜き)は、複数人で遊ぶトランプゲームである。ババ抜きのバリエーションルールのひとつ。 『遊びの大事典』で紹介されている「ジジ抜き」のルール 除かれたカードと同位のカードは3枚しかなく、1組が捨てられると残りの1枚は捨てられなくなる。この余った1枚が「ジジ」となり、これを最後まで持っていたプレイヤーが敗者となる。そのためババ抜きと違い、ある程度ゲームが進まなければどのカードが「ジジ」か分からないのがジジ抜きの特徴といえる。 また、ババ抜きの原型とも言える「Old Maid」では4枚のクイーンから1枚を除外した51枚でプレイするが、これを4枚のキングから1枚を除外して遊ぶ方法を「ジジ抜き」と呼ぶこともある。 1907年発行の『世界遊戯法大全』では「お爺抜き(英語: old bachelor)」として、このキング1枚を除外するルールが紹介されている。 ドイツでは4枚のジャックから1枚を抜いたバリエーションを「兵士抜き」「黒いピーター(ドイツ語: Schwarzer Peter)」と呼んでおり、「敗者の顔を黒く塗る」という罰則もあった。 以下に「変形ジジ抜き」のルールを示す。 どのカードが最後の1枚になるかは、ジョーカーを手札にしたプレイヤーの任意となる。 以下に「ジジババ抜き」のルールを示す。 最大の違いは、最後まで手札(ジョーカーまたは抜いた1枚に対応するカード)を持っていた者が勝ちという点にある。勝利条件となる札が2枚あるため、勝者は1人(手札2枚)のときもあれば、2人のときもある。
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ハドソン
株式会社ハドソン(英: Hudson Soft Company, Limited)はかつて存在した北海道を発祥とするゲームソフト開発・販売会社。 ゲームソフトのパッケージ裏面やその説明書の裏表紙などに正式社名ロゴを記載していないゲームソフトメーカーの一つでもあった。 2012年3月1日をもって当時親会社であったコナミデジタルエンタテインメント (KDE) に吸収され、2013年12月31日まで同社のブランドとなっていた。 1973年5月18日、工藤裕司とその弟工藤浩により札幌市豊平区に通信機器と美術写真の販売を目的とした「有限会社ハドソン」として創業。同年9月にはアマチュア無線ショップCQハドソンを開店。 1970年代後半にパソコンのソフトウェアの制作で頭角を現し、1978年には日本で初めてパソコン用のゲームソフトウェアを販売した。1980年代初頭には高い技術力でパソコンソフトメーカーの大手となる。シャープのパソコン用のHu-BASICと呼ばれるBASICインタープリタや、X68000のOSであるHuman68kやそのグラフィカルのシェルであるビジュアルシェル等を開発していた。 任天堂がファミリーコンピュータを発表した際、まだブームになっていない時点から接近を図り、任天堂初のサードパーティとなった。以降家庭用ゲーム機向けソフト開発がメインとなる。自由な社風の元、独自の企画を行っていた。特に「ハドソン全国キャラバン」や「高橋名人」は人気児童誌で積極的にタイアップされたことから、当時の子供世代にとっては抜群の知名度を誇る。 一方で自社でのハード開発にも乗り出しており、日本電気ホームエレクトロニクス株式会社(現:日本電気株式会社)と組み、1987年にはハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれるHuC62シリーズを搭載した家庭用ゲーム機『PCエンジン』を発表、ソフトメーカーながら高い技術力の片鱗を見せた。1992年には将来を担う最新テクノロジーの研究開発部門として、芸術の森アートビレッジ内に「ハドソン中央研究所」を設立。1994年12月に発売した後継機種である次世代ゲーム機『PC-FX』の音源や動画処理などのチップセットもPCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用された。
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