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日本のアナウンサー
フリーになった後の報酬の額は、一種の「運」や、自身のアナウンサーとしての実力、自身の世渡り術、そして外部の諸要因という大きな要素群など、さまざまな要因が影響する。成功できると思って退社してフリーになった途端に病気に罹ってしまい、無収入になってしまう場合もある。自分には実力があると信じ高収入を得られると期待してフリーになっても、ふたを開けてみたら収入が大幅減となってしまい、後になって自己評価と他者評価に大きな乖離があったことに気付かされる場合もある。運にも恵まれ、外部要因にも恵まれ、かつアナウンサーの実力もあり、世渡り術にもたけている場合は、フリーアナウンサーになることで局アナよりも高額の収入を得られる例もある。(ただしフリーアナウンサーは各種手当や福利厚生もなく、業務必需品は自分で揃える必要があり、実は単純に額面通りの差だけ豊かになるわけではない。正社員というのは、"見えない"形で様々な報酬を得られており、フリーになるとそれが消滅する、という面はある。)。仕事のミスに対する批判や視聴率の評価は、局アナウンサー以上にシビアであるとされる。(野球チームが雇う「助っ人外人」のように)即戦力扱いで実際に高視聴率という結果が出た場合は「便利なコマ」として扱かってもらえて高報酬を払ってもらえる可能性が高いが、一旦、何かの拍子に視聴率低迷などという現象が起きると、実力不足などと判断され、(「もはや用なし、と判断された 助っ人外人」のように)番組プロデューサーから簡単に見切られがちで、つまり一種の「使い捨てのコマ」扱いで、単純に契約解除となり、局アナ(正社員)のような「セーフティネット」は無く(他番組の仕事をあてがってもらえるわけでもなく、他部門に所属する形で給料を支払ってくれるわけもなく)、仕事も無くなり無収入になってしまう可能性もかなりある。つまり局アナからフリーアナウンサーになることは、わかりやすく言うと一種の《賭け》であり、博打(ばくち)を行うような状態、「イチかバチか」の状態になる。そんなわけで、フリーになると決め辞表を提出した時は平気だったのに、いざ退社の時期が迫って自身の境遇が変化することをひしひしと感じ始めると悪夢を見たり、辞めてしまった後になっても、辞表を出したこととか辞めたこととか全部ナシにならないかな...と思ったり、もう今さらしょうがない、と思うなどして、長期間気持が揺れ続ける人もいる。
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なお、局アナが所属局を退職してフリーアナウンサーに転身する場合、古巣局への義理立ての意味もあり、フリー転身直後は一定期間他局への出演を控えるという慣例がある。明確に一定期間他局に出演しないと古巣局と取り決めを持つ場合もある。系列局制作番組や企業のコマーシャルへの出演はフリー転身直後でも可能の場合あり。 その一方で、大塚範一、小倉智昭、露木茂、羽鳥慎一、武田真一のようにフリー転身の翌月から他局でレギュラー番組を持つという例外もある。特に羽鳥は日本テレビ退職の数日後にテレビ朝日でレギュラーでの冠番組を開始させた。この時は日本テレビ・テレビ朝日両社上層部との話し合いがあったという。羽鳥のこの離れ業でフリー転身後の身でも他局からの仕事を請けやすくなったという向きもある。また、一時期の三雲孝江、小宮悦子、高島彩、ラジオ局の元アナウンサーなどのように、フリー転身後も他局ではほとんど仕事をせず、古巣局制作番組しかほぼ出演しないという人物も存在する。なお、羽鳥は退職後にレギュラー番組を持ったテレビ朝日系と古巣局である日本テレビ系の制作番組にしかほぼ出演していない。 NHKアナウンサーがフリーとなる場合、初めのうちは民放局と専属契約を結び、軌道に乗ったら完全フリーに、という傾向が多い。羽佐間正雄、久保純子のようにNHK退職直後にNHKと専属契約した人物もいる。ただし、専属契約となる形でのフリーだけではなく、在京キー局や在阪準キー局への移籍というパターンもある。また、民放局と違い、退職後にNHKの番組に出演することはほぼない(有働由美子、武田のような例外もあるが)。
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日本のアナウンサー
新卒採用の場合、4年制大学卒業を必須としている局がほとんど(地方局では短期大学卒業者を採用対象とするところもある)で、さらに募集要領には年齢制限、留年制限を設けているところが圧倒的に多い。また、大学のコースは文系・理系は関係無く採用対象となる。また、NHKのみ毎月のNHK受信料を払っている事も条件である。また総務、制作などの部門とは採用枠が別に設けられていることも多い。前述の通り非常に人気の高い職種であるため、その競争率は非常に高くキー局アナウンサー試験の倍率は芸能オーデションの倍率をも凌駕する倍率である。居住地や出身地以外、さながら日本全国の放送局に対し応募書類を送ることも珍しくはなく、面接の度に日本全国を行脚する志望者もいる。学生時代にアルバイトでアナウンサーやリポーターの経験を積むか、アナウンススクールで指導を受けた方が有利であるとされる。 採用試験(面接試験を含む)では正しい日本語が話せるか、好印象を与える雰囲気・容姿を持つか、とっさの機転が利くかなどが重視される。語学やスポーツといった、業務に活かせる得意分野が求められる場合もある。 入社後は、数か月間の研修の後、短時間のナレーションや提供読み、スポットニュースのような難易度の低いとされる業務に就き、多くの場合、入社後半年から1年でレギュラー番組出演となる。初めての生放送出演は「初鳴き」と呼ばれることもある。稀に、研修と並行して4月の入社時からレギュラー番組を獲得する例もある。こういった例は人員の少ないローカル局がほとんどだったが、後にキー局でも見受けられるようになった。放送局などが直接運営するアナウンサースクールを実質研修の場と捉えていることがある。また災害対策基本法指定公共機関に指定されているNHKでは、深夜のニュースの放送終了後、全職員を対象にした災害発生時(特に緊急地震速報・津波警報発令時)の緊急報道訓練をほぼ毎日実施しており、アナウンス部所属局員もその訓練を受ける。 非大都市圏の放送局を中心に、コストダウンのため、新卒採用であっても正社員としてではなく、期間を区切った契約職として採用する事例が増えつつある。これらの場合、契約満了時に解雇するか、それとも契約延長または正社員転換で残留させるかは、それぞれの放送局の判断に委ねられている。
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日本のアナウンサー
非大都市圏の放送局を中心に、コストダウンのため、新卒採用であっても正社員としてではなく、期間を区切った契約職として採用する事例が増えつつある。これらの場合、契約満了時に解雇するか、それとも契約延長または正社員転換で残留させるかは、それぞれの放送局の判断に委ねられている。 2001年10月1日にTBS(現・TBSホールディングス)がラジオ部門を分社化させたのを皮切りに、認定放送持株会社移行を含むラジオ・テレビ部門の分社化が相次いでいる。分社化したテレビ・ラジオ各局のアナウンサー募集・採用は人件費削減の観点からテレビ局側が行っており、ラジオ局に「アナウンサーの派遣業務」としてアナウンス業務を行っている。さらに、ラジオ局の送信所保守管理も経費削減の観点からテレビ局に委託している。 多くの放送局では、アナウンサーは専門職とされるため、業務内容が大幅に異なる部署への異動になることは少ない。ただし、業務内容が近い報道記者への異動や解説委員就任、国内外の拠点への異動、本人の強い希望がある場合の異動もある。また、報道記者に転出しても主にワイドニュースなどニュースキャスターとして出演を継続する元アナウンサーもいる。地方局の一部ではアナウンサーの肩書きを残したままで報道記者兼任という場合もある。また、現在は少なくなったが、放送局を新規に立ち上げる際、所属予定の系列局もしくは立地地域の既存の放送局から新設局のアナウンス部門の指導員として出向する例もある。 従来は異動の少ない業種だったため、一般部署への配置転換が否定的に報じられる事もある。しかし2000年代頃より、アナウンサー個人のスキャンダルに対する一種の懲罰や、テレビ放送の完全デジタル化による負担増に伴う人件費抑制策などで人事異動を全社規模化する放送局が増えており、アナウンス業務から外される事例は珍しくなくなっている。
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従来は異動の少ない業種だったため、一般部署への配置転換が否定的に報じられる事もある。しかし2000年代頃より、アナウンサー個人のスキャンダルに対する一種の懲罰や、テレビ放送の完全デジタル化による負担増に伴う人件費抑制策などで人事異動を全社規模化する放送局が増えており、アナウンス業務から外される事例は珍しくなくなっている。 NHKの女性職員アナウンサーも以前は東京本部(渋谷)に転勤になるとほとんど動かない例が圧倒的だったが、2010年代に入ると40歳代以上は管理職として、30歳代については男性局員との格差是正を主眼として、渋谷から強制的に転勤させる例が急増している。2011年は、年度替わりに30歳前後の2人が渋谷から出されたほか、6月24日付の幹部級人事では一気に5人が地域放送局のアナウンス統括職に起用され渋谷から転出、1人が渋谷内部で配置転換となった。なお、NHKの男性局員は全国各地を転々とするのが普通で(管理職クラスでも例外はなく、2021年には武田真一が大阪局に転勤した。)、その途中、人事でアナウンス部門から離れることも珍しくない。入局以来、渋谷で働いた経験がないという事例も少なくないほか、渋谷で長く残れる人もほんの一握りである。中にはその地方の土地柄や環境などを気に入り、家まで建ててその地方局に継続的に、または職歴の大半において在籍するアナウンサーも極く僅かではあるが存在する。(一例としてNHKでは盛岡局の上原康樹(現・岩手県議会議員)、佐賀局の三上たつ次など) 鈴木史朗(当時TBS)のように別部署に異動していた元アナウンサーが復帰する例があるほか、報道記者が転身する例もある。対して、他部署から新たにアナウンサーになる例は、1980-90年代のテレビ東京などに見られる程度で少ない。また、アナウンス部以外の部署に所属していても番組出演機会がある場合、「アナウンサー」の名称を用いる例もある。
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日本のアナウンサー
鈴木史朗(当時TBS)のように別部署に異動していた元アナウンサーが復帰する例があるほか、報道記者が転身する例もある。対して、他部署から新たにアナウンサーになる例は、1980-90年代のテレビ東京などに見られる程度で少ない。また、アナウンス部以外の部署に所属していても番組出演機会がある場合、「アナウンサー」の名称を用いる例もある。 キャリアを重ねて管理職や役員待遇になると「チーフアナウンサー」や「エグゼクティブアナウンサー」の肩書きを持つ例が多い(主にNHK)。管理職もしくはベテランアナウンサーとなると、後輩の指導を行うほか、部内のアナウンサーのスケジュール管理業務や経営・企画会議の参加が増えるため、番組出演がやや少なくなる傾向にある。ただし、労働争議によるストライキで組合員である若手アナウンサーが出演を見合わせた場合、彼らの代役として主に生放送番組に出演する例もある。主にスポットニュースやワイドニュースが該当する。ただし番組によってはワールドビジネスサテライトのように、元々担当しているフリー契約のアナウンサーやナレーターのみで乗り切る例もあれば、補いきれない場合は管理職のアナウンサーが出演する。ただ局によってテレビ東京のように人員が少なく補いきれないこともあり、その場合は同じ局で出演している同種番組のフリーアナウンサーが担当することもある。 アナウンサー現職のままの役員就任は、2003年に朝日放送取締役に就任した道上洋三(2007年に退任、現:常勤顧問)などの例はあるものの稀で、アナウンサー経験者の役員の多くは他部署への異動後に就任している。 仕事を求めて別の局へ移籍する例もある。地方局は契約社員であるなど身分が不安定なこともあってとくに多く、3社以上を渡り歩く者もいる。中途採用は経験者がほとんどであるが、異業種からの転職も見られる。 地方局を中心に複数の放送局に在籍している(していた)局のアナウンサーは多く存在している。また、1つの放送局の在籍期間は放送局を移籍した2局目か2局目以降に在籍した期間が最初に在籍した放送局よりも長いと言う例も多い。 該当者はCategory:スポーツアナウンサーを参照。スポーツ中継の実況担当は男性アナウンサーが務めることが圧倒的に多い。
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地方局を中心に複数の放送局に在籍している(していた)局のアナウンサーは多く存在している。また、1つの放送局の在籍期間は放送局を移籍した2局目か2局目以降に在籍した期間が最初に在籍した放送局よりも長いと言う例も多い。 該当者はCategory:スポーツアナウンサーを参照。スポーツ中継の実況担当は男性アナウンサーが務めることが圧倒的に多い。 中立且つ冷静な放送が求められるアナウンス職にあって、自らの興奮や感動をストレートに表現することが許される分野で、野球のホームランシーンなどを大声で伝える「絶叫型」アナウンスがある。しかし、これを良しとしない意見もあり、視聴者・聴取者(リスナー)の好みによる所が大きい。また、世相や試合状況にアナウンサーが応えられるかにもよる。 1936年のベルリンオリンピックで、水泳女子の前畑秀子が金メダルを獲得した際、ラジオ中継を担当していた河西三省は、激しいデッドヒートを受けて「前畑頑張れ!前畑頑張れ!」と38回連呼し、日本中に感動と興奮を伝えた。 一方で、2000年9月14日のシドニーオリンピック、サッカー日本代表の試合で得点の際「ゴール!」を20回以上(最大29回)叫んだ日本テレビの船越雅史(現在はアナウンス職から離脱)の実況には多くの批判・抗議が寄せられた。 そもそも使用例が少ないが、特に三大都市圏以外の道県において、放送局の放送圏域内で生まれ育って、同局でアナウンサーとして活動する者を指す(ただし、単に「地元の放送局所属のアナウンサー」という使用例もある)。 NHKは全国組織であるため、基本的に一定年数同じ地域に勤務した場合は、他の地域へ転勤となる。このため、出身地で勤務できる可能性はそれほど高くない。しかし逆に地元勤務となった場合は、そのことを最大限に利用して地域社会に貢献することができる。近年各放送局の役割再強化を図っているNHKに於いては、ご当地アナウンサーは重要な戦力となる。
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NHKは全国組織であるため、基本的に一定年数同じ地域に勤務した場合は、他の地域へ転勤となる。このため、出身地で勤務できる可能性はそれほど高くない。しかし逆に地元勤務となった場合は、そのことを最大限に利用して地域社会に貢献することができる。近年各放送局の役割再強化を図っているNHKに於いては、ご当地アナウンサーは重要な戦力となる。 富山では、山田重光が福岡を一旦離れてUターンして以降、アナウンスを統括する放送部副部長が3代続けて地元富山県出身者となっている。隣の新潟では、2009年8月の時点で6人いるアナウンサーの半分が地元新潟県出身者だった(後に転勤で1人出て2人に)。拠点局ではない一般放送局でこうした事例はまれである。山形県では、柴田徹がUターン後、山形弁でふるさとを語るバラエティ番組『今夜はなまらナイト』を立ち上げ、今や全国にファンを有する。拠点局でも、名古屋は単身赴任者を含め愛知県出身者が多く在籍している。 民放はNHKと異なり、特定地域だけをエリアとする。「キー局」と呼ばれる在京局も、本来は東京都または関東のローカル局であり、NHK以上に地域に根差した活動を行っている。 民放の中には、法令改正で差別的雇用が禁じられるまで、アナウンサーの採用にあたって、その放送局が所在する都道府県の出身者に限るという条件を付ける場合があった。 サガテレビでは、少なくとも1990年代までは正社員としてのアナウンサー採用を佐賀県出身者に限っていた。県外出身者については、あくまでもニュース番組のアシスタントとしての扱いだった。現在は特に女性アナウンサーを契約職採用中心に切り替えたため、こうした制限はなくなった。正社員アナウンサーは公式サイトに全員入社年が記されており、2010年に花田百合奈が初の県外出身正社員アナウンサーとして入るまで全員が佐賀県出身者だった。 テレビ大分では、現在でもアナウンサーの採用を大分県出身者に限っている模様である。しかし、小笠原正典アナウンサーと、田辺智彦アナウンサーは、県外生まれである。そのため、アナウンサープロフィールの出生地が、その他のアナウンサーと違う。 女子アナウンサーは、通称「女子アナ」として、その「タレント化」が顕著であるとされる者を特に指し、揶揄的に用いられる場合がある。特に民放、中でも東京キー局では「タレント化」の傾向が極めて著しい。
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日本のアナウンサー
女子アナウンサーは、通称「女子アナ」として、その「タレント化」が顕著であるとされる者を特に指し、揶揄的に用いられる場合がある。特に民放、中でも東京キー局では「タレント化」の傾向が極めて著しい。 1980年代後半以降に採用された女子アナウンサーの大半が、俗に言う「ブランド大学」(東京六大学や関関同立など)の出身であり、またミス・コンテストの準グランプリやミスキャンパスに選出された経歴を持つ者も少なくない。また、業務上必要なアナウンス技術よりも、容姿を優先したり、誤読やトチリなど本来は許されないはずのミスを視聴率獲得のため珍重した結果、芸能人さながらの扱いを受ける例が多いと見る向きもある。さらに2000年代以降は平井理央、紺野あさ美、宮澤智、斎藤ちはる、市來玲奈など元アイドルが女子アナとなる事例が見られる。 「下手な芸能人を使うより、自局の女子アナを起用した方が視聴者受けがよく、しかも安価」と彼女らを「商品化」するのは、「とにかく視聴率ありき」という商業主義の民放テレビ局の姿勢も大きいと見られる。また、女子アナにコスプレをさせることも多い。 その結果、キャリアを積み、「読みの技術」が高まった中堅アナウンサーを、「若い方が良い」、「バラエティ番組で使いづらい」との理由で冷遇する傾向があり、これは「女子アナ30歳定年(限界)説」なる言葉をも生んでいる。ただ、NHKでは女性であっても入局後数年間は東京・渋谷以外の地方局に配属してアナウンサーとしての技量を磨きキャリアを積ませるという方針があり、「若さ」や「鮮度」よりもアナウンサーという「職業」として求められる技量を重視する傾向が強いので、民放とは全く事情が異なる。そのため、NHKでは逆に30歳を過ぎた中堅局員(和久田麻由子局員など)が重用される例が多い。
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民放では「売れっ子」女子アナウンサーはその多くが20歳代で、30歳前後の年齢を一つの転機と見るのは一般的なOLと同じである。さらに「見られる職業」の最たるものであるため、その「鮮度」が露骨に求められ、30歳頃までに人気や実力を確立できなかった者は、容赦なく裏方に配置替えされ、次々に姿を消していく。「女子アナ30歳定年(限界)説」はこういった事象を背景にしており、女子アナウンサー本人がこれに言及している例もある。フジテレビジョンは1969年まで、女子社員にのみ25歳定年制を敷いていた。 女子アナは男性プロデューサーやバラエティ番組で共演する男性タレントからセクシャルハラスメントを受けることが多くあるほか、局の幹部から接待の相手役に繰り出されることも多いとされる。これらの行為にも女子アナは番組キャスティング権を持つ重役からの命令であるため、否定できないという。女子アナがフリー転身を決断する背景にはこの風潮も一因であるとの見方もある。 かつて女性アナウンサーの担当する分野は、料理、育児、手芸をテーマとする番組や、インタビューの聞き手などが主だった。 今日のようにタレント並みに注目を浴びる女子アナウンサーにつながる系譜は、1975年フジテレビに入社し、同局初の女性キャスターとなった後、女子アナウンサー史上初のスキャンダルを起こした田丸美寿々や、1978年NHKに入局し「TVガイド」の表紙を飾ったり、民放への大型移籍や玉の輿婚が話題になった頼近美津子らを端緒とする見方や、1980年代前半のフジテレビアナウンサーによる当時は異例だった「コント色の強いバラエティ番組への参加」からなど、いくつかの見方がある。1977年入社の益田由美は、なるほど!ザ・ワールドで体を張ったリポートで、「ひょうきん由美」と呼ばれ親しまれた。1980年入社の山村美智子、1984年入社の寺田理恵子、1985年入社の長野智子は、オレたちひょうきん族に「ひょうきんアナウンサー」と称され司会を務めた。
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日本のアナウンサー
女子アナウンサーは「女子アナ」と略されることが多いが、この略語を誰が最初に作ったのかは定かではない。「女性アナ」という言い方ではこれ以前からあった。頼近のフジテレビ移籍を報じた1981年当時の週刊誌には「女性アナ」という表記が多く使われている。初出と見られるのは『週刊宝石』1982年10月29日号。記事の見出しに「フジテレビの女子アナの目立ちたがり戦争花盛り 再び野球拳で脱いだ田丸、連日ゲームセンター通いの頼近、フジの看板娘山村、益田......。人気女子アナの奮闘ぶりは? 」と2度も「女子アナ」という言葉を使用している。同記事は田丸美寿々、頼近美津子、山村美智子を取り上げた記事だったが、記事本文には「女子アナ」という言葉は1度も使われず、「女性アナ」が5度、「美人アナ」が2度使われている。この半年前の同じ『週刊宝石』1982年4月17日号は田丸と頼近の2人を取り上げた「第2の田丸・頼近を目指すテレビ局の新人美女を全角度品さだめ! ブラウン管に登場するフレッシュギャルを誌上紹介」というタイトルだったが、この号には「女子アナ」という言葉は使われていない。『週刊宝石』1982年10月29日号が初出か、或いは他のマスメディアが1982年春から秋にかけて使用して、それを『週刊宝石』が真似て使用したかは分からない。 1987年にフジテレビ出版から発行された同局アナウンサーを取り上げた書籍『アナ本』の中に「女子アナ」という表記が見受けられる。現在も「女性アナ」と表記することもある。「女子アナ」と「女性アナ」という表記が混在する記事もみられる。2001年には句点付きの『女子アナ。』と題するドラマまで制作された。 続編として1991年に発行された『アナ本2』では、当時「花の三人娘」と呼ばれた、有賀さつき、河野景子、八木亜希子に焦点が当てられた。1993年には、日本テレビの人気アナウンサー永井美奈子ら3人からなるユニット「DORA」が結成され、CDをリリースした。
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日本のアナウンサー
続編として1991年に発行された『アナ本2』では、当時「花の三人娘」と呼ばれた、有賀さつき、河野景子、八木亜希子に焦点が当てられた。1993年には、日本テレビの人気アナウンサー永井美奈子ら3人からなるユニット「DORA」が結成され、CDをリリースした。 女子アナウンサー路線はフジテレビ、次いで日本テレビが先行していたが、TBSには1993年に雨宮塔子が、1994年に進藤晶子が入社しそれぞれバラエティ番組とスポーツ番組で局の看板アナウンサーとなった。NHKには1994年に久保純子が入局し看板アナウンサーとなった。以後女子アナウンサー人気の定着とともに、各局とも女子アナウンサーと呼ばれるアナウンサーが増えていった。 1990年代後半から芸能事務所「セント・フォース」などは女性キャスター、リポーターに特化したマネージメント展開を行い、各局のニュース・ワイドショー番組に所属タレントを派遣。各局を退職したアナウンサーを所属タレントとして受け入れるほか、学生の所属タレントがその後、出演していた局のアナウンス職として採用される事例も存在し(本田朋子など)、さらには局との共同出資で芸能事務所(フォニックス)を設立するなど、局と事務所、相互の関係を深めている。 また、滝川クリステル(共同テレビ→フリー)、葉山エレーヌ→石田エレーヌ→葉山エレーヌ(日本テレビ)、加藤シルビアや小林悠(共にTBS)、ヒロド歩美(ABCテレビ)など、ハーフのアナウンサーが多く起用される傾向も見られる。外国人とのインタビューに際し通訳を介さず直接取材できる人材としての帰国子女や海外留学経験者と同等の理由で採用されているが、日本人のハーフに対するイメージから採用が多くなっているとも見られる。滝川、葉山(石田)などは当初は日本名で活動していたが、局のイメージ戦略のために意図的に外国名を名乗っており、タレント化の是非を巡る議論の一端となっている。
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日本のアナウンサー
バラエティ番組やクイズ番組などで、社会的常識に欠ける発言や回答をするアナウンサーが時折見られる。これは「資質低下」だと厳しい指摘がされることが一般的だが、視聴率獲得目的の「演出」や一種のやらせも入っていることがある、と内幕が暴露されることもある。元日テレアナウンサーの石川牧子が「若者の読み書きの能力は年々低下している」「入社希望の学生の漢字テストの成績が良くない」と語っている他、日本テレビOBの福澤朗も自身のブログで、「非常に憂慮している」とした上で、「テレビはもうアナウンサーを必要としていない」と苦言を呈している。有賀さつきは、出演者の瞬間的なリアクションに、自分を含めた番組製作者らは台本にはない魅力を共有しており、自分もボケの役割をある程度進んで引き受けていたことや、社会的常識があるはずの局アナのイメージを逆手に取った、演出の一面があったことを明かしている。 日本の局アナウンサーは放送局の企画で歌手デビューをしたり、ドラマや映画にチョイ役の俳優として出演するという例も存在する(劇中の情報・報道番組に出演するキャスター役に起用されることもある)。 例外的ではあるが、局アナウンサーであっても、放送局同士のコラボレーション企画等により他局の番組に出演する例もある。この影響で局アナウンサーが裏番組と重複出演となる例もある(詳細は「小林麻耶」の項を参照)。その他、放送局同士の共同制作番組を放送する際、その広告に各局アナウンサーが勢揃いで出演することもある。また、東京オリンピックに向けて様々な局同士の連携がなされた。 本名で活動する者が多いが、中には芸名を用いる者も存在する(局アナ・フリーアナウンサー双方。ラジオの場合は「マイクネーム」と呼ばれることもある)。 局アナウンサーの中には会社への報告を行う事を条件として、講演会や結婚式の司会などの副業を行う者も存在する。有名になるに連れてだんだんとアルバイトでの収入も増え、所属局から貰う給料の倍以上の額を稼ぐ程になることもあるという。 テレビ局所属のアナウンサーはかつて水着着用で番組出演をする場面が見受けられたが、1990年代後半頃からは各局男女ともに水着姿での出演を規制するようになった(ただし、例外もある)。2015年現在、日本テレビの場合、アナウンサーを極めて高度な清廉性が求められる職種と位置づけている。
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日本のアナウンサー
テレビ局所属のアナウンサーはかつて水着着用で番組出演をする場面が見受けられたが、1990年代後半頃からは各局男女ともに水着姿での出演を規制するようになった(ただし、例外もある)。2015年現在、日本テレビの場合、アナウンサーを極めて高度な清廉性が求められる職種と位置づけている。 後述のように、放送メディア以外の分野でアナウンス活動を行うものも存在する。後述以外にも「ラジオパーソナリティ」、「ディスクジョッキー」、「声優」、「ナレーター」、「朗読家」なども求められる資質が似ていることから、アナウンサー業と掛け持ちする例がある。 選挙立候補者の応援演説や、選挙カーから候補者名や政策を連呼する活動が知られる。女性の場合、その声を鳥に例え「ウグイス嬢」と呼び、むしろ正式な呼称がない状態が生じている。男性の場合「カラス君」や「カラスボーイ」の俗称があるが、女性が一般的なのであまり使われない。 アナウンスは英 announce 、announcement であるが、場内アナウンスとは、催し物の会場の中や駅の構内の人などに放送で呼びかけること。競技場やホールなどで、選手交代や演目などの案内を観客に告げる職業。 用例でみられるのは、『風ふたたび』(1951、永井龍男)に、野分かな「ざわめき立った客席へ、場内アナウンスが道原の名を呼びかけた」、『星のない街路』(1958、北社夫) 「さまざまな人種の旅人がバッグをさげて行きかっている。合間を案内を告げる場内アナウンスが縫ってゆく」など、使用されている。 女性の場合「ウグイス嬢」の俗称が、男性の場合は「スタジアムDJ」と称される場合がある。これらと意味合いの異なる場内アナウンスとして、競馬などの公営競技における場内実況(中央競馬におけるグリーンチャンネル等の他媒体向けの実況と同じ)を担当する職業もある。 プロレス、ボクシングなどの格闘技において選手コール、進行業務などをするアナウンサー。実況アナウンサーとは異なる。 商品説明や司会進行を担当するイベントコンパニオン。
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日本のアナウンサー
プロレス、ボクシングなどの格闘技において選手コール、進行業務などをするアナウンサー。実況アナウンサーとは異なる。 商品説明や司会進行を担当するイベントコンパニオン。 顔写真・生まれた月日(テレビ朝日は掲載していない。NHKに至っては生年も非公表)・大まかな出身地・血液型は掲載されている例が多く、対して放送局に入社した時期・生まれた年・出身大学・身長などは掲載されていない例も多い。なお、公式ウェブサイトの顔写真は公式プロフィール写真として、番組や放送局関連のイベントのウェブページや案内に使われる例が多い。
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ピタゴラスイッチ
『ピタゴラスイッチ』は、2002年4月9日(ミニは4月1日)からNHK教育→NHK Eテレで放送されている幼児向けの教育番組である。 国際的な放送番組のコンテストである日本賞(教育・教養番組)総理大臣賞、プリ・ジュネス(子供・青少年向けテレビ番組)最優秀賞を受賞した。 何気ない日常に隠れている不思議な構造や面白い考え方、法則があり、いろいろな事象や仕掛けなどのコーナーを通して「なるほど!」を紹介。子供たちの「考え方」を育成するテーマの番組である。 サブタイトルは前半の人形劇のテーマであり、車だん吉や井上順らが声優として出演している。内容の大部分は後半に放送するいくつかの小さなコーナーで占められる。 2006年にモバイルサイトが開設され、着信メロディなどがダウンロードできるようになった。2007年度から2010年度まで土曜日にアンコール放送が実施された(後述)。 番組名の由来は、日常生活の法則や定理を古代ギリシアの数学者「ピタゴラス」の定理に準え、発想する「スイッチ」を合わせた造語である。 通常版では、基本的に前半部では人形劇「きょうのトピック」または「地下ゴラスイッチ」、後半部では文房具などを使って、面白い道を作ってボールをゴールまで転がす「ピタゴラ装置」やその他のコーナーを数本放送する構成が取られている。 スペシャル版では、人形劇のキャラクターによる進行の下、あるいは人形劇自体を休止した上でミニコーナーの総集編や従来のコーナー・歌にちなんだ特集などを放送するケースがある。 監修(総合指導)は佐藤雅彦と内野真澄。佐藤雅彦が過去に制作した作品や、慶應義塾大学佐藤雅彦研究室(以下、佐藤研。佐藤は2005年度まで在籍)の学生がワークショップで作った作品が採用されている。 こうした作品は当番組のほか、書籍『ねっとのおやつ』(文庫版タイトル『四国はどこまで入れ替え可能か』)『任意の点P』などでも紹介されている。 また、近年は佐藤研の卒業生からなるクリエイティブ・グループ「ユーフラテス」もコーナーの企画・制作に携わっている。 各コーナーの映像には、過去にNHKで放送された番組やそれを模したもの(『NHKニュース』『NHK高校講座』やスポーツ中継など)が使用され、アテネ夏季五輪やソルトレイクシティ冬季五輪の映像などオリンピックの映像も使用されている。
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ピタゴラスイッチ
また、近年は佐藤研の卒業生からなるクリエイティブ・グループ「ユーフラテス」もコーナーの企画・制作に携わっている。 各コーナーの映像には、過去にNHKで放送された番組やそれを模したもの(『NHKニュース』『NHK高校講座』やスポーツ中継など)が使用され、アテネ夏季五輪やソルトレイクシティ冬季五輪の映像などオリンピックの映像も使用されている。 通常版のほか、ミニコーナーや歌のコーナーを5分間に再編集した『ピタゴラスイッチ ミニ』がある(最初のタイトルロゴで「ミニ」と書かれた四角い体の虫が横切る演出がある)。2015年度より通常版・ミニ共に字幕放送に対応している。 NHK国際放送のチャンネルであるNHKワールド・プレミアムでは、この番組 "PythagoraSwitch" と、ミニの "PythagoraSwitch mini" が放映されている。 2015年度より、ミニの番組を再編集し英語吹き替え・英語字幕を付与した "PythagoraSwitch mini" が、ネット配信を含む「NHK国際放送 NHKワールド」で放送されている。なお、英語吹き替え版は番組のタイトルコールが日本の物とは異なる。 番組開始時は4:3標準画質映像による製作で放送されたが、2010年度よりハイビジョン化された。従来の4:3の映像を放送する場合は、画面左右の両端にサイドパネルを入れて放送する。ただし、ミニではその後も4:3で放送される回があり、16:9HDの映像も4:3HDで放送される。 ※特記が無い限り、朝の放送は月曜日 - 金曜日。 百科おじさんがピタとゴラ(『大人のピタゴラスイッチ』では片桐仁)に世の中の仕組みを解説する人形劇。人形操演は木ぐつの木。人形が登場しない放送回も存在する。「ミニ」では放送されない。劇中BGMの作曲は栗原正己。2021年度以降の10分版では、土曜日と月曜日のみ放送している(月曜日は土曜日放送分の再放送)。
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ピタゴラスイッチ
※特記が無い限り、朝の放送は月曜日 - 金曜日。 百科おじさんがピタとゴラ(『大人のピタゴラスイッチ』では片桐仁)に世の中の仕組みを解説する人形劇。人形操演は木ぐつの木。人形が登場しない放送回も存在する。「ミニ」では放送されない。劇中BGMの作曲は栗原正己。2021年度以降の10分版では、土曜日と月曜日のみ放送している(月曜日は土曜日放送分の再放送)。 ピタとゴラ(『大人のピタゴラスイッチ』では片桐)の疑問に百科おじさんが「詳しくはわしの○○ページに書いてあーる」と答え該当するページを参照させるが、ピタとゴラは「じーっ、子供だから、読めませーん」と返し、更なる詳細の解説のためテレビのジョンが呼ばれる、というのが定番。『大人の-』では片桐が「じーっ、大人だから、読めまーす」と言うが、読んだだけでは難しくて意味が解らなかったので、更なる詳細の解説のため同様にテレビのジョンが呼ばれる。 ペンギンの「ピタ」と「ゴラ」、ネズミの「スー」の名前や百科おじさんの「イッチ」 (昔のあだ名)は番組タイトルの「ピタゴラスイッチ」に因んでいる。 2018年4月7日放送分以降、不定期に放送されているコーナー。ピタやゴラ達に代わって、モグラのキャラクターであるモグ郎やグラオ達が進行する。 番組のオープニング・エンディング・番組途中に放送される、番組を象徴するコーナーのひとつ。 「ピタゴラ装置」の愛称で親しまれているからくり装置(いわゆるルーブ・ゴールドバーグ・マシンだが、佐藤雅彦は「ピタゴラ装置=ルーブ・ゴールドバーグ・マシン」という表現を嫌っており、かつ、両者は全く違うものだと主張している。また、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンは長い名前で、幼児には理解しづらいので、「ピタゴラ装置」という愛称が理解しやすい)を利用して番組タイトルを完成させる。この装置は、紙コップや定規やクリップなど身の回りのもので組み立てられているが、非常に複雑な仕掛けがなされており、最初のきっかけを人力で与えたあとはすべての動きが連鎖的に引き起こされる(ドミノ倒しに似ており、その発展といえる)。
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ピタゴラスイッチ
15分版のオープニング・エンディングでは放送される装置が固定されており、オープニングは装置No.10「フライパン」、エンディングは装置No.9「レコードプレーヤー」であった。対照的に「ミニ」ではオープニング・エンディング共に毎回異なっており、放送回によっては「アルゴリズムたいそう・こうしん」や歌などが最後のコーナーになった場合、エンディングが省略されてそのまま番組が終了するケースもある。2021年度以降放送時間が10分に短縮されてからは毎回異なる装置が放送されるようになった。 ハイビジョン化以降、4:3放送時代の装置が流れる機会は年々減少したが、2021年度からは「名作選」と題し4:3の映像を含めた過去の装置も再び放送されるようになる。 ピタゴラ装置の部分のみをまとめたDVD付き書籍が発売された。詳細は関連映像作品・書籍を参照。 著名なプロのスポーツ選手が始動や中継・フィニッシュを行う、史上初の人力が絡んだピタゴラ装置。 2021年4月1日放送分で初登場のコーナー。ピタゴラ装置の手前にそれぞれグー・チョキ・パーのサインが付いたゴールが並べられており、装置ギミックとなるボールの軌道から視聴者がじゃんけんで出すべき手を予想する。1回目はナレーションがゴールまでの軌道を予想するが、より複雑さを増した2回目は「よそうタイム」が途中で時間切れとなるため視聴者自身で軌道を考える必要がある。時々「ちょいむず」や「かなりむず」と称し、装置の複雑化に加えてダミーのギミックも盛り込み予想をより困難にした難易度強化版が登場することもある。 いずれも出演はいつもここから(山田一成・菊地秀規)で、歌唱も2人が担当。漢字で「アルゴリズム体操」、「アルゴリズム行進」と表記される場合もある。
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ピタゴラスイッチ
いずれも出演はいつもここから(山田一成・菊地秀規)で、歌唱も2人が担当。漢字で「アルゴリズム体操」、「アルゴリズム行進」と表記される場合もある。 通常版の場合、たいそうとこうしんが続けて行われるケースもある。いつもここからの2人が、様々な人たちと体操するのが恒例となっている。また共通して複数でやる時は、他の参加者が2人目(菊池)の掛け声、「アルゴリズムたいそうー(こうしーん)」を斉唱し、同じく2人目(菊池)が「〇〇のみなさんといっしょ」と言って、たいそう・こうしんが始まる。さらに『たいそう』は本番後に、『こうしん』は練習後にサウンドロゴが表示され、このコーナーのみ彼らが歌う。「たいそう」では体操終了後に山田・菊池・他の参加者の順に「アルゴリズムたいそう、おわり」(練習版は山田・菊池のみ「アルゴリズムたいそう、練習おわり」)と言って締める。 2人1組で行う体操。アルゴリズムがテーマとなっており、1人では意味の無い動きが、2人並ぶと関連性のあるものとなる(『しゃがむ動作』が『腕を横に振る』動作と組み合わさることで『腕を避ける動作』になる、等)。体操が終わった後に、「1人で練習」をする場合があり、練習の形態は「やまだバージョン」と「きくちバージョン」がある。「○○のみなさんといっしょ」の後は、体操をした人数の半分の人数で練習する(半分以下の場合もある)。 過去に行われた体操の映像を繋ぎ合わせた「とくべつへん」も存在する。2016年3月5日に「ワシのみたい名作コーナー 第2弾〜アルゴリズムたいそう〜」として過去の放送の中から人気の回が一挙放送された。 2人で体操を行う場合は、白背景と住宅室内ロケの2種類がある。 また、ラジオの茨城放送『たかとりじゅんのビタミンJ!』ではBGMの一つとして使用されていたことがある。 これまでの参加者(人名の所属団体は撮影当時のもの)。
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ピタゴラスイッチ
2人で体操を行う場合は、白背景と住宅室内ロケの2種類がある。 また、ラジオの茨城放送『たかとりじゅんのビタミンJ!』ではBGMの一つとして使用されていたことがある。 これまでの参加者(人名の所属団体は撮影当時のもの)。 アルゴリズムたいそうを発展させた行進。2003年度から放送。出演と歌唱は同じく、いつもここからの2人。2人以上で縦一列になって輪唱のように1人ずつ動きをずらして行う。前の人の動きと後ろ人の動きが関連性を持ったものになっており、動きがかみ合うとぶつかりそうでぶつからない。外部の人達とコラボレーションをして行進するときは前から2番目の人が「〜といっしょ」、そうでないときは先頭の人が「歩幅は小さく」と号令を言うのがきまり。2010年以降の新作では、通常の1.5倍-2倍速のテンポで行進する『アルゴリズムこうしんMAX』のパターンが追加されている。 先頭から順に以下のような動きと一歩前進を繰り返す(最初のステップで先頭が1.を、次のステップで先頭が2.、次の人が1.を、その次のステップで先頭が3.、次の人が2.、その次の人が1.を、...の順)。これにより、同じ場所に誰がやってきても、その場所では全員が必ず同じ動きをすることになる。 行進の前に、山田・菊地のどちらかが「ひとりで行進」をする事もある。「ひとりで行進」は曲が1巡した所で、曲がフェードアウトして終了する。「○○のみなさんといっしょ」の前には、その場所で撮影した物が放送される。 フィリピンのとある刑務所では、囚人達の教育の一環で導入されている。 これまでの参加者(人名の所属団体は撮影当時のもの)。 この回から本番時に歌詞が表示されるようになる。 空き箱に50音のいずれかの行の文字5つが書かれた手作りの「おとうさんスイッチ」を子供が押し、そのおとうさん(2004年以降は祖父・ひいおじいちゃんのケースもある)がその文字から始まる動きをするという視聴者参加型コーナー。冒頭に出演者の自己紹介をした後、オープニングは、知久が「おとうさんスイッチ(2・おじいちゃんも可)いきますよ〜」と歌ってスタートする。香川真司が出演した「かがわスイッチ」放送時のみ、知久が「かがわスイッチ いきますよ〜」と本気モードで歌ってスタートした。
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ピタゴラスイッチ
年度最初の放送はあ行、2回目の放送はか行、という放送順となっている。わ行まで行くと次回からは濁音となり(わ行は放送されない)、濁音が終わるとその後は拗音となる(濁音のた行(だぢづでど)は放送されない)。拗音が終わるとまたあ行に戻ってくる。スイッチを押す回数は最低で一周の5回だが、6回以上押されることがあり、6回目以降は子供が任意に選んだスイッチを押し、そのスイッチで指定された同じ動作を繰り返す。 出演する親子は基本的に一般人・視聴者だが、以下の著名人が本名を名乗り親子で出演したことがある。 前述の「おとうさんスイッチ」の作り方を歌で紹介する。映像はスイッチのみが登場し、スイッチの作り方とはボタンの向きが逆になっている。 前述の「おとうさんスイッチ」の派生コーナー。2010年度から放送。おかあさん(場合によってはおとうさん。この場合は完全なる「おとうさんスイッチ」の逆バージョン)がスイッチを押し、子供が扮する「おてつだいロボ」がその文字からはじまる動き(お手伝い)をするというコーナー。スイッチの構造や作り方はおとうさんスイッチと同じ。コーナーの最後に、おてつだいロボのアニメーション(曲はフルサイズまたは1番のみ)が流れる事がある。歌は栗原が担当。 13個の四角いフレームで構成された白い犬「フレーミー」のアニメ。モチーフはテリア。他のキャラクターも単純図形で構成されているが、透明ではない。So-net「ねっとのおやつ」作品から。 フレーミーには水玉模様のスポッティーと、真っ黒のペインティーという2匹の兄弟が居る。フレーミーは骨が好物で掃除機が苦手。スポッティーは赤ちゃんの世話を任されており、チーズが好物でネコが苦手。ペインティーはドーナツが好物でネズミが苦手、昔は隣の家に祖父がいた(現在は犬小屋の前に花が挿されていることから、亡くなっている)。
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ピタゴラスイッチ
フレーミーには水玉模様のスポッティーと、真っ黒のペインティーという2匹の兄弟が居る。フレーミーは骨が好物で掃除機が苦手。スポッティーは赤ちゃんの世話を任されており、チーズが好物でネコが苦手。ペインティーはドーナツが好物でネズミが苦手、昔は隣の家に祖父がいた(現在は犬小屋の前に花が挿されていることから、亡くなっている)。 フレーミーは、驚いて飛び上がった後落ちたり、何かにぶつかったり、工事現場に入った時にブルドーザーで外に押し出された時などに胴体や足、頭、耳、尻尾がバラバラに分かれてしまう。しかし、簡単に元に戻せる。バラバラになった時に鳥などに鼻や目、尻尾をどこかへ持って行かれる事もある。スポッティーとペインティーとの喧嘩などで全身のパーツがバラバラになり、でたらめに合体したことで誰が誰だか分からなくなることがあるが、それぞれの好物、或いは苦手な物が出現することで元に戻れる。 一度、ストーリーが算数の問題出題になって終わった回があり、この時のみ番組エンディングがピタゴラ装置ではなく解答・解説のアニメーションになる。この話を放送した「ミニ」のエンディングでは解答・解説アニメーションは放映せず通常通りピタゴラ装置を放送、そこにテロップで解答を載せたのみであった。 オンエアでは「ミニ」を中心に、「フレーミーのうた」といういわばテーマソングの歌唱とその歌詞に合わせた映像で終わることもあった。 2005年度から放送。10本の棒が合体していろいろなものに変身するストーリー。佐藤研ワークショップからの派生。 2006年度から放送。 黄色いサイコロのキャラクター・ぼてじん(声 - 岩尾望)が、地面に描かれたマス目の中を前後左右に動いて、カメラに向かってぼてじんのサイコロの面に書かれたメッセージを披露するが、実はマス目から外れても移動可能である。マス目上で回転することもできる。毛虫が苦手。 同年10月に初登場した、オレンジ色の小さいサイズのいぬてん(声 - 後藤輝基)がたまに登場する。こちらには顔と「ワン」しか書いていない。いぬてんもマス目上で回転することができる。いぬてんの家としていえてん(声 - 後藤輝基)も存在する(犬小屋の形をしている関係上、歪な七面体の形である)。 2023年には久しぶりに新作が放送されている。
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ピタゴラスイッチ
同年10月に初登場した、オレンジ色の小さいサイズのいぬてん(声 - 後藤輝基)がたまに登場する。こちらには顔と「ワン」しか書いていない。いぬてんもマス目上で回転することができる。いぬてんの家としていえてん(声 - 後藤輝基)も存在する(犬小屋の形をしている関係上、歪な七面体の形である)。 2023年には久しぶりに新作が放送されている。 PlayStationのゲーム、『XI[sai]』が元ネタとなっている。 2019年1月5日の放送で初登場の『ぼてじん』からの派生コーナー。ぼてじんの前に現れる身近なモノをモチーフにしたキャラクター(声 - 後藤輝基)を軌道となるマス目の形から考える。 2020年7月25日の放送で初登場の『ぼてじん』からの派生コーナー。いぬてんが目的地に正しく到着するための道順(プログラム)を考察する。 2016年1月23日放送で初登場のアニメーションのコーナー。擬人化された巻き尺のジャックが、さまざまな日用品のキャラクター達とからむ。コーナーの最初の部分と最後の部分に歌が入る。 「ピタゴラ暗号棒」の歌に合わせてコーナーが進む。 ストーリーが存在するピタゴラ装置である。ビー玉の3兄弟が主人公で、長男は緑色のビータ、次男は赤色のビーすけ、三男は黄色のビーゴロー。この三人が、敵の黒玉軍から逃げるのがこのシリーズの内容。2018年7月28日に『ビーだま・ビーすけの大冒険スペシャル!』が放送され、これまでの3作が再放送された後に4作目である『~完結編~ 黒玉軍の野望』を初放送。これをもって、ストーリーが一旦完結した。 2003年に「第25回 みかたをかえてみる」が第30回日本賞「子ども番組の部」で最優秀賞(総務大臣賞)を受賞。 この「第25回 みかたをかえてみる」は、ミュンヘンで開催された「プリ・ジュネス2004」で「6歳までのノンフィクション部門」最優秀賞を受賞した。 2018年には「プリ・ジュネス2018」で「ビーだま・ビーすけの大冒険スペシャル! ~黒玉軍に気をつけろ~」が「6歳までのフィクション部門」最優秀賞を受賞している。 いずれもDVDの発売元は小学館、販売元はポニーキャニオン。CDの発売・販売元はワーナーミュージック・ジャパン。
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9月23日
9月23日(くがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から266日目(閏年では267日目)にあたり、年末まであと99日ある。
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気象予報士
気象予報士(きしょうよほうし)は、日本の国家資格の一つで、気象業務法第3章の2に基づき、指定試験機関(気象業務法第24条の5、一般財団法人気象業務支援センター)が実施する知識及び技能についての試験(以下、気象予報士試験という)に合格した者(同法第24条の4)であって、気象庁長官による登録(同法第24条の20)を受けた者をいう。 1993年(平成5年)の気象業務法改正によって、気象庁以外の者に対する予報業務の許可が一般向け予報業務についても実施されることになった際、その予報業務の技術水準及び信頼性を担保するための予想担当者の技能試験として創設された。第1回試験は、1994年(平成6年)8月28日に実施されている。 気象庁長官の許可を受けて予報業務を行う予報業務許可事業者は、予報業務を行う事業所ごとに気象予報士を置かなければならず(同法19条の2)、予報業務のうち現象の予想については、気象予報士に行わせなければならない(同法19条の3)。 予報業務許可事業者は、一日当たりの現象の予想を行う時間に応じて、所要の人数の専任の気象予報士を置かなければならない(気象業務法施行規則第11条の2)。ただし、気象予報士と予報業務許可事業者との間に雇用などの専属の関係は必要ではなく、気象予報士は、複数の事業者のために現象の予想を行うこともできる。 ただし、2007年(平成19年)の気象業務法の改正により新たに許可されることになった地震動(緊急地震速報)および火山現象の予報業務については、気象予報士を置く必要はなく、これとは別に所定の技術基準に適合した方法により現象の予想を行うこととされている。 この資格が新設された当初、テレビの気象解説者が試験を受けて話題になったが、現象の予想を伴わない単なる天気解説(気象庁や気象予報会社の発表した予報を解説するだけ)には、気象予報士の資格は必要ないため、以前からお天気お姉さんと通称される女性キャスターが登用されることもあった(予報は日本気象協会の職員が行う)。NHK・民間放送とも、気象予報士の資格を持つアナウンサーもみられる。 自衛隊において気象予報士は、予報官として幹部任用資格となっている他、技術曹制度の対象でもある。
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気象予報士
自衛隊において気象予報士は、予報官として幹部任用資格となっている他、技術曹制度の対象でもある。 2021年(令和3年)3月12日現在、気象予報士名簿に登録された気象予報士の数は、10,840名となっている。男女比は男性 88%、女性12%。気象予報士のうち、予報業務許可事業者に就職している者は700名程度、そのうち現象の予想を担当しているのは400 - 450名程度とみられる。 一方、予報業務許可事業以外の業界において、多くの気象予報士が、経営判断のための気象情報の分析、報道・教育等用の気象コンテンツの作成等に携わっており、制度の目的外で活用される資格ともなっている。 気象予報士の団体として日本気象予報士会があるが、これは弁護士会などと違い、任意加入団体である。気象関連業務従事者の加入割合は少なく、また、活動のほとんどが同好会のような性格であることから、加入率は、4割を下回っている(詳しくは日本気象予報士会の項目参照)。 2021年(令和3年)4月現在の史上最年少合格者は、2017年(平成29年)に11歳11か月で合格した北海道北見市の小学6年生の女子で、4度目の受験で合格した。男性最年少は2021年(令和3年)に12歳0か月で合格した福岡市の小学6年生で、同じく4度目の受験での合格だった。最年長は1998年(平成10年)に74歳10か月で合格した元・高校教諭の男性。 上記のように保有資格者に対して、実際の民間気象業界で働いている割合はかなり低く、趣味性の高い資格という一面がある(介護福祉士や看護師のように所定課程や実務経験を必要とせずだれでも受験資格を得られるのもアマチュア要素を後押ししている)。また、合格率が低く、比較的難易度の高い資格ではあるものの、純粋に予報士として食べていく場合、業界の収入としては、けして芳しくない。これに関しては雇用形態が正社員より契約社員が一般的で、数少ない正社員雇用があったとしても、一般サラリーマンと比較しても待遇面で劣りやすい。
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気象予報士
また、気象予報士資格創設当初は、気象庁の予報業務をなるべく民間気象会社(気象予報士)に譲り、気象庁は観測や調査に専念するという方向性を示していたが、依然として予報業務含めて、気象庁がほぼこの業界を独占的に扱っているため、民間気象業界の入る余地がほとんどない(民間気象会社も気象庁のデーターに頼り切りな部分がある≒気象予報士としての素養を生かしきれない。また、利用者も気象庁の情報のみで十分事足りてしまっている。)。さらに、昔から気象情報そのものが公益性が強く、テレビやラジオ(今はインターネットも)で無料で自由に情報を得て当然という背景がある。このため、わざわざ有料で気象情報を得ようとする顧客が少ない(収益化しにくい)というのも民間業界の業務・職場拡大や待遇向上しない一因となっている。以上の理由から、国家資格にもかかわらず、他の資格に比べて職業や生活の糧として結びつきづらい資格とも言われる。 前述した気象キャスターについては、気象予報士資格保有者もいるが、この資格すら保有していない者も一定数いる。気象業務法では、資格無保有者が独自で天気予報を立て、不特定多数に発表する事は禁じられているが、気象庁や民間気象会社が発表した予報を単に伝えたり解説をすることは資格がない者でもできるためである。このため、気象キャスターは気象のプロフェッショナルであるとは限らない。気象キャスターと気象予報士は、似て非なるものなので注意を要する。 気象予報士試験は8月と翌年1月の日曜日に一年度2回行われている。法律では年1回以上と定められているが、2020年(令和2年)現在、一年度2回が通例となっている。合格率は第1 - 4回頃まで現業の受験者が多かったことから高めに推移した(過去最高は第1回の18.0%)。その後は4 - 6%台で推移し、平均の合格率は約5%である。2012年(平成24年)8月の第38回(通回)試験において沖縄会場で実施予定の試験が台風15号の影響で同試験史上初の延期となった。 学科試験に合格して実技試験に不合格だった、または学科試験の一部のみ合格点を取った者は、その後1年間(試験2回)、合格点を取った試験が免除される。また、気象庁または自衛隊で予報の実務経験がある者などについても、学科試験の免除制度が用意されている。 (※ ただし、難易度により調整される場合がある)
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気象予報士
学科試験に合格して実技試験に不合格だった、または学科試験の一部のみ合格点を取った者は、その後1年間(試験2回)、合格点を取った試験が免除される。また、気象庁または自衛隊で予報の実務経験がある者などについても、学科試験の免除制度が用意されている。 (※ ただし、難易度により調整される場合がある) 北海道・宮城県・東京都・大阪府・福岡県・沖縄県の6都道府県で行われる。なお、一つの試験地で試験会場は複数ある場合がある。
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2100年代
2100年代(にせんひゃくねんだい)は、 この項目では、国際的な視点に基づいた2100年代について記載する。 現時点ではこの時代がどのようなものになるかを決定することは極めて困難である。よって確実に起こると予測される事象はごく限られたものとなっている。 21世紀初頭において、同世紀の最終年にあたる2100年頃を目安にした様々な予測が出されている。
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鮎川哲也
鮎川 哲也(あゆかわ てつや、1919年2月14日 - 2002年9月24日)は、日本の小説家。本名、中川 透(なかがわとおる)。東京府に生まれ、大連に育つ。拓殖大学商学部卒。 アリバイ崩しを得意とし、『ペトロフ事件』『黒いトランク』『人それを情死と呼ぶ』など、鬼貫警部を探偵役とする本格推理小説を発表。ほか『りら荘事件』『死者を笞打て』などの長編小説や多数の短編小説を執筆し、さらにはアンソロジーの編纂や、新人の育成などにも力を尽くした。 1919年2月14日、東京府巣鴨に生まれた。父が南満州鉄道地質調査所の測量技師となったため、小学3年生のときに一家で満州大連に移り住み、旧制中学を卒業するまでここで過ごした。東京の音楽関係の上級学校に進学するが、肋膜炎を患い退学し満州に戻る。1938年、拓殖大学予科に入り、商学部に進むが、病のため満州に戻ることが多かった。この間に推理小説を読み始め、クロフツの『ポンスン事件』に影響され、『ペトロフ事件』を書きあげたが、原稿は引き上げの際に紛失してしまった。1944年、父の定年退職に伴い東京に戻るが、戦禍に遭い九州に疎開。 戦後に上京し、GHQ勤務のかたわら、那珂川透、薔薇小路棘麿、青井久利、中河通、宇田川蘭子など多数の筆名で雑誌に投稿。1948年、『ロック』1月号に「月魄」(那珂川透名義)、8月号に「蛇と猪」(薔薇小路棘麿名義)を発表。1950年、『宝石』100万円懸賞の長篇部門に『ペトロフ事件』(本名の中川透名義)が第一席で入選し、本格デビューしたが、出版社との関係がこじれ、この作品は出版されなかった。1956年、公募で充てることになった講談社の『書下ろし長篇探偵小説全集』第13巻に、『黒いトランク』を応募し、当選。筆名を鮎川哲也に改める。この2作で探偵役を務める鬼貫警部は、主にアリバイ・トリックを主眼とした小説で活躍する。
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鮎川哲也
1959年に、星影龍三が登場する『りら荘事件』を発表。 1960年には、『憎悪の化石』と『黒い白鳥』により、第13回日本探偵作家クラブ賞を受賞。社会派推理小説が主流となる中で、松本清張の『点と線』を意識して『人それを情死と呼ぶ』(1961年)を書くなど、寡作ながらも以後も一貫して本格推理小説を書き続ける。1972年から、銀座・三番館のバーテンを探偵役としたシリーズを開始。1964年に推理作家の芦川澄子と結婚、3年後に離婚したものの、のちに復縁した。 1955年発表(中川透名義、未完)の少年物『魔人鉄仮面』では、藤巻探偵と助手のアキラ君が登場。両者は以後鮎川作品の少年物では複数回登場する。鮎川名義での再デビュー初期には、鳥羽ひろし君シリーズ、三吉少年シリーズ、一夫と豪助シリーズなど少年物の執筆量が大人向けよりも多かった時期もある。 創作以外にも、アンソロジーの編纂を通して、戦前の作家・作品を発掘。また後進の育成にも力を入れ、1988年には自らのデビューに倣い、東京創元社から「鮎川哲也と十三の謎」と題したシリーズを刊行し、若手作家に発表の場を与えた。第12巻として予告された新作『白樺荘事件』の刊行が期待されていたが、未完となった。1990年に、東京創元社主催の長編推理小説新人賞である鮎川哲也賞が創設される。1993年からは、『本格推理』の編集長として、新人作家の発掘に尽力した。クラシックを中心に音楽にも造詣が深く、唱歌の作詞・作曲者を訪ねるエッセイ集『唱歌のふるさと』がある。 2001年に、本格推理小説への多大な貢献を評価され、第1回本格ミステリ大賞特別賞を受賞。翌年9月24日に、83歳で死去した。没後、第6回日本ミステリー文学大賞を贈られた。
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21エモン
『21エモン』(にじゅういちエモン)は、藤子不二雄の藤本弘(独立後の名義は藤子・F・不二雄)による日本の少年SF漫画。 『週刊少年サンデー』(小学館)1968年1号から1969年6号まで、増刊掲載も含め全55話を連載。その後、映画化やテレビアニメ化など、各種メディアに展開された。 藤子不二雄の1人、藤本弘の単独執筆作品。 藤本は「これまで日常の舞台にオバケやスーパーマンなどの「非日常」が入り込むことで生まれるギャップの面白さを描いてきたが、ひとつその逆をやってみようと思い、この21エモンを描きました。つまり未来という「非日常」を舞台に、今に通じる日常を描くことで新たな面白さが生まれると思ったからです」と、本作のコンセプトを後日述懐している。 藤本が珍しく「楽しんで描いた」と語る作品だったが、ギャグで人気を博した当時の藤子作品とは異なり、連載当時の評価は芳しくなく、『オバケのQ太郎』から『ウメ星デンカ』までの『週刊少年サンデー』連載作品で唯一、連載中のアニメ化が実現しなかった。 『週刊少年サンデー』連載版は、1976年頃、『朝日小学生新聞』に再録連載されたが、いくつかの回の掲載順に混乱が見られる。 1977年、てんとう虫コミックスで単行本化された頃から、次第に再評価されるようになり、1981年にはアニメ映画化され、『月刊コロコロコミック』に新作漫画が読切掲載された。1991年には、連載から22年もの歳月を経てテレビアニメ化された。掲載誌の性格や連載終了で使えなかったアイデアのいくつかは、同じコンセプトの『モジャ公』へ流用されていたが、このアニメ化で逆流用されている。 2010年、小学館発行の藤子・F・不二雄大全集のラインナップとして全2巻で刊行された。 21世紀の地球は異星との交流が進み、国際連合ならぬ星間連合にも加盟して、多くの惑星からの観光客がひっきりなしに訪れる一大観光惑星となっていた。 そんな中、トウキョウシティーに居を構えるホテル「つづれ屋」は、江戸幕府の成立とほぼ同時に旅館として開業して以来、初代当主の市右衛門、二代目仁右衛門、三代目参右衛門...と二十代、四百数十年にわたって細々と続く老舗ホテルだが、利用客はサッパリで隣接する豪華なホテル・ギャラクシーやオリオンホテルなどに圧倒されて潰れる寸前であった。
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21エモン
そんな中、トウキョウシティーに居を構えるホテル「つづれ屋」は、江戸幕府の成立とほぼ同時に旅館として開業して以来、初代当主の市右衛門、二代目仁右衛門、三代目参右衛門...と二十代、四百数十年にわたって細々と続く老舗ホテルだが、利用客はサッパリで隣接する豪華なホテル・ギャラクシーやオリオンホテルなどに圧倒されて潰れる寸前であった。 現当主の20エモンは閑古鳥の経営状態を立て直そうと必死になるが、その跡取り息子21エモンはホテル経営に関心を持とうとせず、宇宙へと憧れパイロットになって大宇宙を冒険したいという夢を持っていた。家業に専念して欲しい父親に叱咤されて21エモンはしぶしぶボーイとして働くが、コツコツとチップを貯め、いつかは自分のロケットを手に入れたいという夢があったため続ける。「つづれ屋」に居候する宇宙生物モンガーやボーイとして働かされているイモ掘りロボットのゴンスケといった強烈な個性を持った家人たち、さらには宇宙からの風変わりな客が次々とホテルに押しかけて、21エモンと「つづれ屋」は毎日のように珍騒動に巻き込まれる。 外見も風俗習慣も全く異なる宇宙人の宿泊客や、進歩した宇宙文明に触れて様変わりした地球文明の様子なども描かれる。基本的に「つづれ屋」が舞台となるコメディーだが、連載中21エモンは3度宇宙への旅を決行しており、物語は宇宙を巡る冒険ものへとシフトしたこともあった。なおアニメでは、テレビ版・81年の劇場版とも、宇宙への夢とつづれ屋発展の夢を両立させる形で終了している。 アニメでの舞台は2051年→2071年。宇宙観光時代に突入したばかりの地球。 宇宙標準語として「共宙語」が使われはじめる。しかし完全に普及しているわけではなく、トウキョウシティー内でも日本語の文字、英字、共宙語の文字が混在している。宇宙では共宙語が主流だが、共宙語が使われていない星も存在するため、万能ではない。 20世紀の自動車は減少し、代わりにエアカーが主流となる。現代における自動車とは異なり、小学生であるエモンでも、ボード型、スクーター型、軽乗用車型を運転可能。個人用のほか、公共用のバス型もある。 鉄道はほとんどが廃止され、代わりにチューブトレインを開設している。トウキョウシティーからシズオカシティーまでは15分で移動することが可能である。
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21エモン
20世紀の自動車は減少し、代わりにエアカーが主流となる。現代における自動車とは異なり、小学生であるエモンでも、ボード型、スクーター型、軽乗用車型を運転可能。個人用のほか、公共用のバス型もある。 鉄道はほとんどが廃止され、代わりにチューブトレインを開設している。トウキョウシティーからシズオカシティーまでは15分で移動することが可能である。 声の項は1981年アニメ映画版 / テレビアニメ版の順。1人しか記載されていない場合は特記ない限りテレビアニメ版のキャストとし、それ以外のものは別途記載する。 1991年5月2日から1992年3月26日にテレビ朝日系列で放送。全39話。 原作発表から23年余、映画「宇宙へいらっしゃい!」から10年を経てテレビアニメ化となった。キャラクターデザインや設定の一部が変更(詳細は後述)され、エピソードは原作および『モジャ公』から流用がある。 チーフディレクターを務めた原恵一によると、原作は古いもののため「そのままアニメにするのは難しい」という思いがスタッフ内にあり、内容をかなり脚色したという。またテンポ良くとがった演出をしようとしたため、「自分で苦手な部分を無理してやったのではないか」と語っている。 第1話ではサブタイトルにもあるとおり、ドラえもんがゲスト出演しているが、セリフが一切ない背景キャラクターとして数秒間のみの出演であり、21エモンとも一切絡んでいない。なお、新番組予告では21エモンを視聴者に紹介する役割でドラえもんが台詞付きで出演している。 第29話以降、エモンとモンガーゴンスケと3人による宇宙旅が始まり、第38話で一応の終わりを迎え、第39話は総集編と後日談的な内容になっている。 この作品のメインスタッフは『エスパー魔美』(初期は『藤子不二雄ワイド』に内包)『チンプイ』と本作まで長らく藤子作品を手掛けていたが、これを機に演出の安藤敏彦と脚本スタッフ(もとひら了は除く)以外は、当枠から月曜19:00に移動した『クレヨンしんちゃん』へと移行し、『ドラえもん』シリーズを除いたテレビ朝日・シンエイ動画による藤子・F原作のテレビアニメは本作で最後となっている。 ※放送日時は個別に出典が提示されているものを除き1992年3月終了時点、放送系列は放送当時のものとする。
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※放送日時は個別に出典が提示されているものを除き1992年3月終了時点、放送系列は放送当時のものとする。 2003年よりCS放送のテレ朝チャンネルで「シンエイアニメシアター」の一作品として全話再放送が開始され、2007年頃まで断続的に再放送がリピートで行われている(現在はチャンネル内容が分割され2つになったうちのテレ朝チャンネル1)。2005年にはテレビ朝日の「アニメDEおめざめ」枠で1話から連続して再放送されたが、同年12月に打ち切られた。サイバーエージェントとテレビ朝日が運営しているインターネットテレビ局「AbemaTV」の家族アニメチャンネルにて2016年4月11日の本放送開始と同時に再放送を開始したが、オープニングとエンディングは割愛され、いきなり本編から放送している。 劇場版以外は長らく家庭用ビデオソフト発売はされていなかった。2010年6月にローソンで企画された「藤子・F・不二雄キャラクターズフェア」の一環として、ローソン店舗限定でヴィジョネアから販売されたDVD MAGIC(一部内容がPPVで収録されている)形態のDVDビデオ「藤子・F・不二雄 アニメキャラクター大集合!!(発売元:小学館)」第2巻に第17話が収録され初のソフト化となった。 2010年9月に藤子・F・不二雄ミュージアム開業記念企画として発売された「藤子・F・不二雄TVアニメアーカイブス」シリーズ(発売元:TCエンタテインメント・テレビ朝日 販売元:スーパー・ビジョン)のセレクション2と4に、それぞれ第14話、第35 - 36話が収録された。 2011年8月5日にDVD-BOX「21エモンComplete Box」(発売元:小学館・テレビ朝日 販売元:TCエンタテインメント)が発売された。放送から20年を経て初の全話パッケージソフト化となる。 2021年現在、Blu-ray版はリリースされていない。 『21エモン 宇宙へいらっしゃい!』(にじゅういちえもん うちゅうへいらっしゃい!)は、1981年8月1日に公開されたアニメ映画。上映時間は92分。同時上映は「ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ」。
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21エモン
2021年現在、Blu-ray版はリリースされていない。 『21エモン 宇宙へいらっしゃい!』(にじゅういちえもん うちゅうへいらっしゃい!)は、1981年8月1日に公開されたアニメ映画。上映時間は92分。同時上映は「ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ」。 映画ドラえもんが好評だったことから製作された藤子不二雄原作の「21エモン」の初アニメ作品。つづれ屋での騒動を描いた前半と宇宙冒険に繰り出す後半で構成され、全体的に原作の流れをコンパクトに纏めた作品である。ギャグタッチの物語が宇宙に飛び出すことで引き締まり、緊張感のある冒険物語に仕上がったことで、原作の持つ面白さがよく再現されている。本作はテレビアニメ化に対するパイロットフィルム的な意味合いも持たせてあったが、この時点では実現せず10年を要したため、独立した作品となった。併映の『ドラえもん』とリンクする場面が1カット入っている。 『21エモン 宇宙いけ!裸足のプリンセス』(にじゅういちえもん そらいけ!はだしのプリンセス)は、1992年3月7日に公開されたアニメ映画。上映時間は39分。同時上映は「ドラえもん のび太と雲の王国」。 テレビシリーズの2年後(第38話と最終回である第39話の間に位置)という設定の中編作品で、 前半は『ローマの休日』をモチーフにした物語展開が、後半は『モジャ公』の「アステロイドラリー」をベースにした宇宙レース「銀河ラリー」が繰り広げられる。アニメ作品としては最初にDVD化された。 2012年10月3日から2013年8月27日まで、藤子・F・不二雄ミュージアムのFシアターで上映。 つづれ屋再建をのび太が立て直そうとするが、うまくいかず、結局ドラえもんの道具でうまくいくという流れは、後述の「オンボロ旅館をたて直せ」(『ドラえもん』てんとう虫コミックス32巻)とも共通点がある。 『ドラえもん』と共演したのはこの作品が初めてではなく、何度か登場している。 本作の登場人物は他の藤子作品、およびアニメに出演したことがある。ドラえもんとの競演は#『ドラえもん』との関連を参照、ゴンスケのみの登場に関してはゴンスケを参照。
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21エモン
『ドラえもん』と共演したのはこの作品が初めてではなく、何度か登場している。 本作の登場人物は他の藤子作品、およびアニメに出演したことがある。ドラえもんとの競演は#『ドラえもん』との関連を参照、ゴンスケのみの登場に関してはゴンスケを参照。 連載間もない「週刊少年サンデー」1968年2・3合併号で、藤子を始め、当時「少年サンデー」に漫画を連載していた漫画家8名が紅白に分かれ、「紅組」は手塚治虫の『どろろ』、「白組」は赤塚不二夫の『もーれつア太郎』の1頁パロディ漫画を発表する企画「紅白ものまねまんが合戦」で、藤子は紅組で『どろろ』のパロディを発表。内容は百鬼丸とどろろが旅をしていると、そこへ妖怪が現れたので百鬼丸が襲いかかるが、妖怪は突然泣き崩れ、そこへ21エモンが「御客さん、こちら」と登場、実は妖怪は宇宙人というオチであった。この作品は「藤子・F不二雄大全集」版「21エモン」第1巻ラストの特集記事や、2013年3月発刊の「手塚治虫トレジャー・ボックス どろろ」に収録されている。
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ギャラガ
『ギャラガ』 (GALAGA) は、ナムコ(現・バンダイナムコアミューズメント)が1981年9月に発売したアーケードゲーム。 宇宙での戦いをイメージした固定画面型のシューティングゲームである。同社のゲーム『ギャラクシアン』(1979年)の後継として登場。ゲームデザイナーは横山茂。現在はUGSFシリーズの一作として扱われる。同社として初のスコアランキング(1位~5位、初期ハイスコア=20000)とネームエントリー(アルファベット3文字)を採用。 タイトルの「ギャラガ」とは、「ギャラクシー」+「蛾」の造語である。その名の通り、前作『ギャラクシアン』に比べ、敵キャラクターのデザインが蛾を連想させるものとなっている。 ファミリーコンピュータ等の家庭用ゲーム機や、電波新聞社により多くのパソコンにも移植された他、続編の『ギャラガ'88』(1987年)が発売されている。また、2007年3月にはTシャツブランドMARS16からオフィシャルのTシャツもリリースされた。 1981年登場以来、その人気は5年間も継続しており「『ギャラガ』ほど長く人々に愛されたシューティングゲームはないのではないか」との声もある。その人気どおり、前述のファミリーコンピュータ移植版も定番ゲームとして広く一般層に受け入れられた。 自機(ファイター)を操り、各ステージに現れる40機の敵機(ギャラガ)を倒して行く。ステージ数の表示がされてから暫く経つと、画面外(上・左下・右下)から敵の編隊が画面内に飛来し所定の位置に整列する。この時点では敵は積極的な攻撃はして来ないが、ステージ数が進むと数発の攻撃弾を自機にめがけて放って来たり、数機の編隊の余剰敵が自機にめがけて体当たりをして来たりすることがある。 全ての編隊が画面内に入ってから少しすると、自機にやや近い側の敵から順に降下攻撃を仕掛けてくる。単機で攻撃を仕掛けて来る敵も有れば、ボス・ギャラガと共に編隊を組んで向かって来る敵、分裂を起こして3機編隊で向かって来る敵も有り、編隊で向かって来る敵は順番、連続で撃破すると多めのボーナスが貰えるようになっている。このボーナスのシステムは前作『ギャラクシアン』を受け継いでいる。 また、敵機を倒した時の得点は待機時より降下攻撃中の方が点数が高くなっている。
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ギャラガ
また、敵機を倒した時の得点は待機時より降下攻撃中の方が点数が高くなっている。 以下の方法により自機がパワーアップし、デュアル・ファイターとなることができる。デュアル・ファイターとは自機を2機並列に合体させた状態のもので、1回の攻撃で弾を2発同時に発射できるようになる。結果として攻撃範囲が広くなるが、当たり判定も大きくなる。 ただし、あくまで「攻撃中」にボス・ギャラガを倒さなければならず、待機中に倒してしまうと、捕虜となった自機は敵として、ギャラガと同じ動きで攻撃してくる。しかし、それを打ち落とさずに画面外に逃がすと、そのステージでは出て来なくなり、次のステージの最後に現れ、左から2番目のボス・ギャラガの真上に整列する。その後、改めてボス・ギャラガが連れて来るので、改めて奪還可能となる。 捕虜となった自機を撃ち落としてしまうと「救出失敗」であり、1000点は獲得できるものの、結果的に自機を1機失うことになる。 自機のストックがない状態でボス・ギャラガのトラクタービームに引っかかって捕虜にされてしまうと、ゲームオーバーになる。デュアル・ファイターの時はボス・ギャラガはトラクタービームを放って来ない。 最初は2ステージをクリアした後、以降は3ステージをクリアする毎に「チャレンジングステージ」となる。いわゆる「ボーナスステージ」であり、様々な編隊飛行をする敵機を撃ち落として得点を稼ぐというものである。このステージでは敵は全く攻撃して来ず、自機と当たる位置まで降下することもないので、チャレンジングステージ自機を失うことはない。飛行の仕方は、ほぼ単純な直線を描くもの、大きな円を描くもの、階段状に動くもの、8の字に動くもの、二手に分かれるもの等がある。編隊飛行は各編隊8機ずつ5組あるが、2組目にはボス・ギャラガが含まれており、勿論2発撃ち込む必要がある。 チャレンジングステージのボーナスはパーフェクトを除き撃墜数×100点で、上手く全てを撃ち落としてパーフェクトを出すと、スペシャルボーナス10000点が得られる。他にも各編隊を全滅させた際にはボーナス点が入る。
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ギャラガ
チャレンジングステージのボーナスはパーフェクトを除き撃墜数×100点で、上手く全てを撃ち落としてパーフェクトを出すと、スペシャルボーナス10000点が得られる。他にも各編隊を全滅させた際にはボーナス点が入る。 チャレンジングステージは全部で8種類。各チャレンジングステージに登場するキャラクターやその動き方は一定なので、予めキャラクターの動きを覚えておくのがポイント。自機がデュアル・ファイターであれば、パーフェクトを目指すには有利である。 またエブリエクステンド設定であっても、100万点を超えると自機が増えなくなる。 なお1000万点超までプレイしたプレイヤーも複数存在する。マイコソBASICマガジソ別冊 ALL ABOUT ベーマガCHALLENGE HIGH SCORE! ステージ255(チャレンジングステージ)をクリアすると、次はステージ0が始まり、開始後にギャラガが1匹だけ飛来してきて強制リセットが掛かったり、フリーズして、ゲームが続行できなくなる。(ランク設定によって挙動が異なる) 神田商会によりおもちゃを指定商品に含む「ギャラガー」の商標(登録番号1258022)が1974年に申請、1977年に登録されていた。1982年発売のm5版の名称はギャラックスに変更され、1983年発売のPV-2000版では神田商会の登録商標マークがつけられてギャラガのままリリースされた。その後、登録番号1258022の「ギャラガー」の商標はバンダイナムコエンターテインメントに移転している。 ※ 下記表における社名「バンナム」は、ナムコの家庭用ゲーム事業社名が後に「バンダイナムコゲームス」→「バンダイナムコエンターテインメント」に変わった事により略記したもの。 1998年に刊行されたゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』では、「固定画面で自機が左右にしか移動できないことや、画面上に編隊を組んでいる敵を全滅させると面クリアとなるルールなどは『ギャラクシアン』からの流れであり、そのシンプルなゲーム性に新フューチャーを無理なく組み込んだのがこの『ギャラガ』である」、「一番大きな特徴としては、ボス的キャラクターが放つ『トラクタービーム』がある」、「デュアルファイターこそが自機パワーアップの起源とも言えるのではないだろうか」と紹介されている。
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ギャラガ
『ファミリーコンピュータMagazine』の1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「『ギャラクシアン』を発展させたシューティングゲームの秀作」、「(デュアルファイターは)近頃のハデなパワーアップと異なり、合体した分、敵弾にあたりやすいというハンデを背負っているのが非常にシブイ」、「今でも十分に楽しめる内容を持っており、機会があればプレイしてもらいたい」と紹介されている。
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コンパクトディスク
コンパクトディスク(Compact Disc; CD、シーディー)は、1970年代にソニーとフィリップスが共同開発し、1980年代初めに製品化された記憶媒体。金属の薄膜や有機色素材料をポリカーボネートやガラスなどの保護層で挟んだ光ディスクであり、レーザー光を使ってデータの読み出しや書き込みをする。もともとは、従来のレコードに代わり音楽を記録するための媒体として開発され、その後、コンピュータ用のデータを記録する派生規格も策定された。 光ディスクとしては最初の世代(第1世代光ディスク)に当たり、消費者向けのデジタル方式のオーディオ媒体としても最初のものである。 樹脂製の円盤に「ピット」と呼ばれる小さな凹凸が刻み込まれており、ディスクを回転させつつレーザー光を当てたときに、凹凸により反射率が異なることを利用して、データとして読み込む。直径が12 cmのものと8 cmのものがある。 1971年6月、ソニー創業者の井深大に誘われてソニーに入社した中島平太郎は、1973年にデジタルオーディオの開発を始め、1974年にソニー初のPCM音源を用いた録音機である「X-12DTC」を開発した。1974年のオーディオフェアに参考出品し、評価してくれる専門家もいたが、発売には至らなかった。1976年にはデジタルオーディオの開発に加わった土井利忠らとともに、前年に発売されたベータマックスを用いたデジタル音声の記録・再生機器である「PCM-1」を開発した。 一方「PCM-1」の開発とは別に、ソニーはフィリップスが開発した光学方式のビデオディスク(のちのレーザーディスク)の商品化に取り組んでおり、ディスクを使ったデジタルオーディオの録音・再生をする取り組みも始まっていた。土井は「PCM-1」の試作機を用いてビデオディスクにデジタル音声を記録してみるが、使用に堪えない結果となった。その結果「PCM-1」をビデオディスクのアダプターとすることは断念し、ベータマックス用のアダプターとしてオーディオフェアに出品すると、人だかりができるほど好評であり、「PCM-1」は1977年9月に商品化された。
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コンパクトディスク
また土井はディスクに関してはビデオ信号の形式を借りないで、デジタルオーディオ信号を直接光ディスクに記録することを決め、このころに誤り訂正符号を仕様に盛り込むことを決めた。こうして1977年のオーディオフェアに出品にすると、他社はビデオ信号を用いた形式を利用しているのにソニーだけは別方式をやっていると社内外から言われ、それに対して土井は「ビデオ信号で記録すると演奏時間は30分だけど、直接記録を使えば13時間20分記録できる」という内容の講演をするが、それを聞いた大賀典雄は「そんな長時間もの音楽の入ったソフトをつくるのは、コストがかかり過ぎてビジネスとして成り立たない」と苦言を呈した。 1978年6月、大賀はフィリップスを訪れると、フィリップスの幹部ルー・オッテンスは大賀にオーディオ専用の光ディスクを見せた。「オーディオ・ロング・プレイ」(ALP)とフィリップスでは呼ばれており、のちのレーザーディスクとなる光ディスクを開発している時に副産物として開発されたものだった。フィリップスからディスクの仕様を聞いた大賀はレコードからの置き換えができるものとの将来性を感じ、フィリップスと光ディスクの共同開発をすることを決断した。そしてデジタルオーディオディスクの規格統一の話し合いのために内外29社からなる「DAD(Digital Audio Disc)懇談会」に向けて両社で規格をまとめて提案することになった。 1979年8月末から共同開発が始まり、ソニー側の技術交渉に当たったのは技術研究所の中島、土井、ディスク開発部の宮岡千里らだった。 仕様について特にフィリップスとの意見が対立したのが、量子化ビット数、ディスクのサイズ、記録時間だった。 量子化ビット数に関してはフィリップスは14ビットを主張したが、土井は21世紀になっても通用するためには16ビットが必要であると主張し、ソニー側の意見が採用された。
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1979年8月末から共同開発が始まり、ソニー側の技術交渉に当たったのは技術研究所の中島、土井、ディスク開発部の宮岡千里らだった。 仕様について特にフィリップスとの意見が対立したのが、量子化ビット数、ディスクのサイズ、記録時間だった。 量子化ビット数に関してはフィリップスは14ビットを主張したが、土井は21世紀になっても通用するためには16ビットが必要であると主張し、ソニー側の意見が採用された。 ディスクのサイズに関してはフィリップスは11.5 cmを主張したが、これはコンパクトカセットの対角線の長さと同じで、 ドイツ工業規格に適合し、ヨーロッパ市場でのカー・オーディオとしての将来性を見込んでのことだった。一方でソニーは12 cmを主張したが、これは音楽家でもある大賀が「オペラ一幕分、あるいはベートーヴェンの第九が収まる収録時間がユーザーから見て合理性がある」と判断したことによる。この大賀の発言の大きな要因となったのが、かつて「PCM-1」から流れる自身の演奏の音の良さを実感した、指揮者のカラヤンである。開発当時、大賀は親交のあったカラヤンに、11.5 cm(60分)と12 cm(74分)との二つの規格で二者択一の段階に来ていることを話すと、カラヤンは「ベートーヴェンの交響曲第9番が1枚に収まったほうがいい」と提言した。それに対してフィリップスは「12 cmでは上着のポケットにも入らない」と反論したが、日・米・欧の上着のポケットのサイズを調べた結果、12 cmでも問題ないことが分かり、ソニーの主張が採用された。
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こうして規格が定まった1980年6月、DAD懇談会ではソニー・フィリップスが提案した「光学式」、ドイツのテレフンケン提案の「機械式」、日本ビクター提案の「静電式」という3方式の評価が始まり、評価では光学式と静電式に集約された。ソニーはDAD懇談会への提案の一方でCD再生第1号機の商品化にも取り組み、1982年10月の商品化に向けて、大賀はCDを世界の標準規格にするため、フィリップスとともに世界中のソフトウェアメーカー、レコード会社、音楽団体の会合に出向き、内容の説明とCDの演奏を繰り返し行った。しかし「LPレコードが世界のスタンダードであり、その音に満足しているから余計なことをしないでくれ」とレコード関係者の反発は強かった。アメリカCBSとの合弁会社CBS・ソニーレコード(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)の幹部もCDの生産に否定的であったが、大賀が説得した結果、CBS・ソニー単独資金で静岡の大井川にCDソフト工場を建設する許可を得た。 生産を始めるとCDの反りの問題が浮上したが、当時新素材であったポリカーボネートの使用を1982年8月に決定し、CD発売開始半年前の同年9月半ばにプレス生産が軌道に乗った。 1982年8月31日、ソニー、CBS・ソニー、フィリップス、ポリグラムの4社共同のCDシステム発表会が東京大手町の経団連会館で開かれ、当日の夕方から夜のテレビニュースと翌日の朝刊で一斉に報じられた。 同年10月1日、ソニーからは再生第1号機「CDP-101」およびCBS・ソニーからは世界初のCDソフト50タイトルが発売され、CDソフトの生産第1号はビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」となった。50タイトルの内訳はクラシックだけでなく、ポップスやロック、歌謡曲まで揃っており、その後年末までに100タイトル余りのソフトが発売された。 こうして1980年6月のDAD懇談会では日本ビクターの静電式も評価として残されていたが、CDが発売されたころには、ほとんどの会社がソニー・フィリップスによるCDシステムの採用を発表し、CDが事実上の世界統一規格となった。
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こうして1980年6月のDAD懇談会では日本ビクターの静電式も評価として残されていたが、CDが発売されたころには、ほとんどの会社がソニー・フィリップスによるCDシステムの採用を発表し、CDが事実上の世界統一規格となった。 1983年に入ると、他社からも次々にCDプレーヤーが発売され、CDソフトも同年末には約1000タイトルが店頭に並んだ。1984年11月になるとソニーは「CDP-101」の機能と変わらないまま本体サイズをCDジャケット4枚分の厚さにし、価格も49,800円に抑えたポータブルCDプレーヤー「D-50」を発売、これにより各社のCDプレーヤーの価格も下がり、業界全体のCDビジネスも本格的に立ち上がっていった。 デジタル音声に関しては当初、特にアナログオーディオ技術を駆使する録音スタジオのエンジニアたちによって、「アナログタイプの機器より1けた高い」「音質が硬く、音楽的でない」と評価された。その中でもアメリカのボーカリストのスティービー・ワンダーやジャズピアニストのハービー・ハンコックなどがデジタル音声を支持したことで、否定的だったミュージシャンらもデジタルオーディオに肯定的になっていった。そうしてクラシックの新譜はほとんどすべてがデジタル化され、マルチトラック録音が必要なポピュラー音楽も、次々とデジタル録音されるようになった。 CDソフトの日本国内生産枚数も1984年末頃は、 LPレコードと比べて10分の1程度の生産枚数だったが、2年後の1986年には年間4500万枚に達して、LPレコードを逆転した。そして1988年前後には、LPレコード最盛期の生産量の1億枚を超し、1992年には3億枚を突破した。中島はCDの生産枚数は「1989年ごろにLPレコードを追い越して、将来的には2億枚ぐらいにはなるだろう」と予測していたが、想定よりも早く、かつ想定以上の生産枚数に達する結果となった。 その後CDには音声・映像・文字用の「CD-ROM」(1985年規格化)、映像・音声両用の「ビデオCD」(1993年規格化)など、様々な規格が策定され「CDファミリー」を形成していった。 1990年代後半にCDと同じサイズでCDより高音質のSuper Audio CDやDVD-Audioなどの次世代オーディオメディアが登場したが、CDを置き換えるには至らなかった。
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その後CDには音声・映像・文字用の「CD-ROM」(1985年規格化)、映像・音声両用の「ビデオCD」(1993年規格化)など、様々な規格が策定され「CDファミリー」を形成していった。 1990年代後半にCDと同じサイズでCDより高音質のSuper Audio CDやDVD-Audioなどの次世代オーディオメディアが登場したが、CDを置き換えるには至らなかった。 2000年代以降はインターネットによる音楽配信やストリーミング配信が増加し、2010年代以降はハイレゾなど配信データの高音質化やレコードの再評価により、音楽媒体としてのCDの売上は減少傾向となった。 またデータ用としてもDVDやBlu-rayなどの次世代規格のメディアやインターネットなどによるデータ通信が台頭したことから下火となった。 2022年、アメリカでは1987年以来初めてレコードに売上枚数で抜かれた。 コンパクトディスクの外形は一般的には、直径12 cmまたは8 cmで厚さ1.2 mmの円盤であり、中央に直径15mmの穴が空いている。 ただし一部には、通称で「名刺型CD」や「カード型CD」と呼ばれる、8 cm CDを長方形に切り取り周囲をコーティングしたものがある。同様の形状で書き込み可能なCD-Rも市販されていたが、書き込み可能な面積が小さいので、通常の8 cm CD-Rよりも容量が小さい。また長方形型以外にも特殊な形状のものもある。 下から順に、基盤(樹脂層)、反射層(記録層)、ラッカー層(保護層)、印刷層の4層構造になっている。 一番下の基盤(樹脂層)の一般的な材質はポリカーボネートであり、厚さは1.1 mm。ほかにAPO(非晶質ポリオレフィン)やガラスを使用したものもある。 反射層(記録層)は一般的には厚さ約80 nmのアルミニウム蒸着膜であるが、劣化防止などのためにアルミニウムのかわりに金を使用したものもあり、これは「ゴールドディスク」と呼ばれる。 蒸着膜によって彫られた細かい凹凸によってデジタル情報を表現している。この読み取り面から見れば出っ張りになるくぼみをピットといい、ピットのない部分をランドという。
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反射層(記録層)は一般的には厚さ約80 nmのアルミニウム蒸着膜であるが、劣化防止などのためにアルミニウムのかわりに金を使用したものもあり、これは「ゴールドディスク」と呼ばれる。 蒸着膜によって彫られた細かい凹凸によってデジタル情報を表現している。この読み取り面から見れば出っ張りになるくぼみをピットといい、ピットのない部分をランドという。 読み取りには780 nmの赤外線レーザーが用いられ、ランドの部分に当ったレーザー光は反射してそのまま戻ってくるが、ピットがある部分に当ったレーザー光はランドからの反射波と1/2波長の位相差をもつため干渉して打ち消しあい暗くなる。この明暗によりデジタル信号を読み取り、これをアナログ信号に戻して音声として出力する。CDの虹色のような光沢は、この規則正しく並んだトラックで回折した光が、干渉することによる構造色である。 ピットの幅は0.5 μmで長さは0.83 μmから0.3 μm単位で3.56 μmまで9種類、ピットから次のピットまでの距離も同じ9種類である。またピットの列をトラックというが、このトラックは1.6 μm間隔で、内側から外側に向かって渦巻状に並んでいる。 ラッカー層(保護層)は厚さが約10 μmである。 印刷層はシルク印刷である。レーベルのデザインによるが、2012年現在では反射層と印刷層が穴の部分まで拡大されたものが主流となっている。 コンパクトディスクはセッション単位で記録され、セッションはリードイン、データ、リードアウトの3つの領域で構成される。CD-DAのセッションは1つであるが、CD-EXTRAはマルチセッションを採用している。 データ領域には1から99までのトラックを記録でき、トラックは複数のセクタで構成される。1セクタは1/75秒(約13.33ミリ秒)であり、1セクタあたりのデータは2,352バイト(24バイト×98フレーム)である。 フレームがデータの最小単位であり、1フレームは24バイトである。24バイトの内訳はビット深度が16 bit、チャンネル数が2.0 ch、サンプリングデータが6であることから、16×2×6で192ビットである。
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コンパクトディスク
フレームがデータの最小単位であり、1フレームは24バイトである。24バイトの内訳はビット深度が16 bit、チャンネル数が2.0 ch、サンプリングデータが6であることから、16×2×6で192ビットである。 コンパクトディスクは誤り訂正としてCIRCが使用されるため、訂正用に8バイト、サブコード用に1バイトが付与されて、24+8+1で合計33バイトになる。さらにデータをピット列として記録するにはEFMという変調方式が用いられるため、8ビットが14ビットに変換されることで、33×14で462ビットになる。 加えて、変換されたデータにはマージンビットと同期信号が付与される。マージンビットは3ビットであり、変換されたデータごとに付くため、33×(14+3)で561ビットとなる。そして同期信号は24ビットで同期信号にもマージンビットが付くため、最終的に1フレームは561+24+3で588ビットとなる。 CD-ROMの場合、12 cmディスクは約650から700 MiBの容量を持つ。800 MiBを超える容量のものもあるが、一部の機器では読み取れない場合がある。8 cmディスクは約155から300 MiBの容量を持つ。 セクタ数は12 cmディスクの650 MiBでは約333,000セクタ、700 MiBでは約360,000セクタになる。1セクタは2,352バイトで、1セクタあたりのデータ容量はCD-ROM MODE1およびMODE2/FORM1で2,048バイト、MODE2で2,336バイト、MODE2/FORM2で2,324バイト、CD-DAで2,352バイトである。CD-ROMはCD-DAよりも規格が後に作成され、その際にエラー訂正がより重視されたため、2,352バイトのうち304バイトをヘッダやエラー訂正などに割り当てていることからCD-DAより容量が少なくなる。これに加えて、以下のPからWまでのサブチャンネルが1セクタあたり96バイト存在するので、1セクタ当たり2,448バイトとなる。 容量は以下の計算式によって求められる。
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コンパクトディスク
容量は以下の計算式によって求められる。 CD-DAでの収録時間は12 cmディスクでは約74分から80分である。具体的には、規格上デジタルのPCM形式で最大79分57秒、99トラックの音楽が記録でき、また1トラック中には99インデックス(位置決め標識)を設けることができる。2000年頃までのプレーヤーは、インデックスサーチできるものが多数存在した。 記録トラックの幅を狭めれば容量は増やせるが、古い音楽CDプレーヤーには稀に74分記録されたCD-Rは再生できても80分以上は再生できないという互換性の問題が存在する。2003年に策定されたガイドラインHigh Capacity Recordable Disc 1.0に対応していないCDプレーヤーでは長時間CDは再生できない。MP3ファイルをデータとして書き込んだ場合、最大収録時間はファイルのサイズにもよるが概ね8時間前後となる。ただし、対応機器は限られる。 8 cmCD(CD SINGLE)の最大収録時間は約22分程度。これは、CDビデオのオーディオパートとビデオパートを分けそれぞれ開発した際に由来する。8 cmというサイズはケースに収納したときレコードのシングル盤ケースのちょうど半分のサイズとなるため、小売店でレコード用の棚を使いまわせるだろうと考えたためである。 現在の収録時間最長の音楽CDは、マーキュリー・レーベルにザンクト・フローリアン・アルトモンテ管弦楽団/レミ・バロー(指揮)が録音したブルックナー:交響曲第3番 (GRML99044)の89分03秒である。Eight-to-fourteen modulationが定めた規格上は97分まで可能であるが、YAMAHAほかのメーカーのドライブはすでに99分59秒まで対応し、100分収録を謳うCD-R商品もすでに発売されている。2019年現在までに990 MBのCD-Rまで開発されたので理論上は110分強がコンパクトディスクの最大収容量になるが、商用録音でこの収録時間はまだ出ていない。一時期にはソフトウェアにオーバーバーンモードまで設け、990 MBまで対応することを謳ったCD-Rドライブもあった。
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コンパクトディスク
現在市販されている最大の音楽用コンパクトディスクは台湾とポーランドで販売された99Min 870 MBとドイツで販売された100Min 900 MBであるが、両方とも頒布国が限定されているうえドライブ未対応といった問題が残っており、普及率は低い。CDを焼くソフトウェアはすでに90Min 800MBへ対応している。 2020年代は、90分CDがほぼ商用面で実用化しており、DECCAやNAXOSに90分CDを使用したクラシック音楽のためのコンパクトディスクがある。 音楽CD(CD-DA形式)の再生時のデータの転送速度は1倍速で約176 KB/s(150 KiB/s) であり、これを基準として最大記録時間は640 MiBのディスクで約72分強、650 MiBのディスクで約74分強、700 MiBのディスクで約80分強、最新の800 MiBのディスクで約90分強、非公式の900 MiBのディスクで約100分強、非公式の990 MiBのディスクで約110分強となる。この音楽CDの1倍速を基準として、ディスクのデータ転送速度を表すのに「○倍速」という言い方をする。 当初から音声・映像記録媒体として開発された。物理フォーマットは先に決まっており、音声記録ディスクの論理仕様が先行して策定された。少し遅れてビデオ記録用としてCDビデオが策定されたが、普及しなかった。後にデータ記録用としてCD-ROM、ビデオ記録用としてビデオCDなどの論理仕様が策定された。これらと対比して音声記録ディスクをCD-DAという。 また音声とデータを両方収録できるようにしたCD EXTRAおよびミックスモードCD、CD-ROM XAがある。 さらに記録にピットを用いずに、レーザーによる媒体の物理的変化を利用して同等なデジタルデータの書き込みを行う方式が開発された。CD-Rはエンドユーザがデータの追加記録ができる。また、記録してしまった領域を取り戻し、空き領域として記憶領域を再利用することができないCD-Rに対して、CD-RWはデータの消去を可能にし、書き換えができる。 コンパクトディスクの仕様・規格は対象とする範囲や目的によって複数の規格に分かれており、各規格基準書の表紙の色によってそれぞれが呼び分けられている。これら全てを総称してレインボーブック(英語版)と呼ぶ。
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コンパクトディスク
コンパクトディスクの仕様・規格は対象とする範囲や目的によって複数の規格に分かれており、各規格基準書の表紙の色によってそれぞれが呼び分けられている。これら全てを総称してレインボーブック(英語版)と呼ぶ。 1990年代後半からはCDよりも容量の大きいディスクが開発された。データ分野ではDDCD、オーディオ分野ではSuper Audio CDが実用化されたが、いずれもCDを代替するまでの普及には至っていない。これら光ディスクはいずれも直径12 cmでCDの大きさを踏襲している。 以下の規格はいずれもCDとの互換はなく、再生には専用の光学ドライブおよびプレーヤーが必要である。 発売当初は劣化しないと言われていた。実際には、保存方法が悪いとメディアが劣化を起こす。具体的には、基盤(樹脂層)のポリカーボネートの変化、蒸着した反射膜の変化、そしてCD-Rの場合には色素の変化が劣化の要因となる。いずれでも直射日光や高温・多湿を嫌う。 基盤(樹脂層)のポリカーボネートは湿気に晒されると加水分解し徐々に白濁する欠点がある。これにより情報を読み取るレーザーが通らなくなり、情報を読めなくなる。 なお、この性質を利用しあえて開封後数週間程度で白濁するように製造された媒体もある。これにより、音楽や映像のソフトウェアを再生できる日数を制限する。 温度や湿度変化の影響が比較的少ないガラス製のCDが開発・発売され、寿命の改善が期待されている。2008年には液晶パネル用のポリカーボネートを使用したスーパー・ハイ・マテリアルCD(SHM-CD)とハイ・クオリティCD(HQCD)が開発・発売。さらにブルーレイディスクの技術を応用したブルースペックCDも開発・発売されている。
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コンパクトディスク
温度や湿度変化の影響が比較的少ないガラス製のCDが開発・発売され、寿命の改善が期待されている。2008年には液晶パネル用のポリカーボネートを使用したスーパー・ハイ・マテリアルCD(SHM-CD)とハイ・クオリティCD(HQCD)が開発・発売。さらにブルーレイディスクの技術を応用したブルースペックCDも開発・発売されている。 現在、スパッタリング法によってアルミニウムの反射膜を形成する方法が主流となっているが、アルミニウムを用いるCDは環境にもよるが、20年から30年が限度と見積られており、現在長期的な保存を可能とした製品の開発が急務となっている。その一方で、メーカー側などでは80年前後保存が可能とする指摘もある。なお反射膜に金を用いた場合、100年前後保存が可能と見積られているが、コストの問題など解決しなければならない課題がある。安価なものは印刷・反射層が端からはがれてきたり、水分が反射膜に浸透してアルミニウムが錆びてしまい反射の機能を失うなど、短寿命のものが多い。 また記録層の部分は印刷面から10 μm (0.01 mm)、樹脂層から約1.2 mmの所にある。そのため、印刷面からの衝撃に弱く鉛筆やボールペンなど、フェルト以外の油性マーカーで記入を行うと記録層にダメージが加わり音飛びなどの症状が出ることもあり、最悪の場合読み込めなくなる可能性も考えられる。印刷層側に深い傷が入ったり湿度の高い場所に放置すると、反射層までがはがれることがある。 CD-Rでは記録面に直射日光を当て続けると色素が変化し読み込めなくなったり、質の悪い媒体の場合には蛍光灯に含まれる紫外線で変化するものもある。また高温・多湿の環境に置くと、ごく短時間でも印刷・反射層が端からはがれてくる事がある。 一部のマスメディアにおいて、コンパクトディスクを冷やすと音質が良くなると言われているが、CDに記録されている情報はデジタルであるため、ビットエラーがない限り記録内容が変質することはない。CDにおいて、ディスクの熱の影響により符号誤り率が増加することは考えにくいため、冷やしても音質には影響しない。もともと1993年にロンドンの新聞「サンデー・タイムズ」に紹介され、後に日本のテレビ番組にも紹介されそこから噂が広がってしまったのではないかとされている。
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出渕裕
出渕 裕(いづぶち ゆたか〈いずぶち ゆたか〉、1958年〈昭和33年〉12月8日 - )は、日本のアニメのメカニックデザイナー、特撮のキャラクターデザイナー、アニメ監督、イラストレーター、漫画家。東京都生まれ。 1974年放送の『宇宙戦艦ヤマト』のファンになり、アニメ業界に興味を持つようになる。「ヤマト・アソシエイション」というファンクラブの会員だった。 1978年、『闘将ダイモス』の敵ロボットデザイン担当でデビュー。同作でスタジオぬえのメンバーや東映のプロデューサー鈴木武幸とも知り合い、活動の場を拡げていった。 1980年代には、SF作家の豊田有恒が主宰した創作集団パラレル・クリエーションに所属。以後、漫画執筆、小説の挿絵など漫画家兼イラストレーターとしての活動も始める。その後、ガンダムシリーズや『機動警察パトレイバー』、スーパー戦隊シリーズなどの多くの作品でメカニックデザインを手がけ、2002年、テレビアニメ『ラーゼフォン』で初監督を務める。 アニメや特撮などの空想世界のみならず、川田工業株式会社の二足歩行ロボット、HRP-2の外形デザイン・イメージも担当した。2003年、第34回星雲賞自由部門を受賞。 特撮作品への初参加は『科学戦隊ダイナマン』だが、『大戦隊ゴーグルファイブ』のころからプロデューサーの鈴木武幸から声を掛けられており、この時は出渕がスケジュールの都合で断ったとのことである。『ダイナマン』から『超新星フラッシュマン』まで4年連続で敵側のキャラクターデザインを歴任(特に『フラッシュマン』では単独ですべての敵デザインを担当)、シリーズの降板は出渕自ら申し出たが、2012年『特命戦隊ゴーバスターズ』で25年ぶりにシリーズに参加した。 2012年、自身のファン作品である『宇宙戦艦ヤマト』のリメイク版、『宇宙戦艦ヤマト2199』の総監督を担当(他にもメカニックデザインや脚本なども兼任)している。 また、長年に亘って東放学園映画専門学校でアニメーション映像科の講師を務めており、「キャラクター表現ゼミ」を開催している。 友人のゆうきまさみが1987年に渋谷で行われた出渕の個展に寄せた漫画では、出渕は「僕は嫁さんよりも娘がほしい」と言っていたことがあるという。
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出渕裕
また、長年に亘って東放学園映画専門学校でアニメーション映像科の講師を務めており、「キャラクター表現ゼミ」を開催している。 友人のゆうきまさみが1987年に渋谷で行われた出渕の個展に寄せた漫画では、出渕は「僕は嫁さんよりも娘がほしい」と言っていたことがあるという。 デザイナーとして作品に参加する場合、自身がデザインした物の動かし方や見せ方については、その作品の作画監督や演出担当者が発言を行うべきであると考えており、デザイナーはあくまでもアニメータの手伝いとして、作品の世界観を構築する手助けをする立場であると述べている。
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井上雄彦
井上 雄彦(いのうえ たけひこ、本名:成合 雄彦(なりあい たけひこ)、1967年1月12日 - )は、日本の漫画家。鹿児島県伊佐市(旧・大口市)出身。血液型はB型。 代表作に『SLAM DUNK』・『バガボンド』・『リアル』など。スポーツや闘いを通じて青年の成長を描いた作品、現実的な人物描写やストイックな作風で知られる。 1988年、手塚賞入選の「楓パープル」でデビュー(この時は本名名義)。1990年、現在の名義である「井上雄彦」に変更して連載を開始した『SLAM DUNK』は日本におけるバスケットボールブームの火付け役となる。1998年からは宮本武蔵を題材にした『バガボンド』、1999年からは車椅子バスケットボールを題材にした『リアル』を連載。『バガボンド』による文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。2012年には平城遷都1300年記念アジアコスモポリタン賞文化賞を受賞。 小・中学校時代は剣道部に所属し、高校から当時まだマイナーだったバスケットボール部に入部し主将を務める。その一方で、子供の頃から絵を描くことを好み、高校の終わり頃より漫画家になることを意識するようになる。幼少期から特に好きだった漫画は水島新司『ドカベン』で、他にも影響を受けた漫画家に池上遼一(『男組』)、小林まこと等の名を挙げている。 鹿児島県立大口高等学校3年の時、芸大進学を前提に美術予備校の夏期講習を受けるが、「金がかかる」という理由で進路変更し、地元に近い熊本大学に進学する。20歳の時に週刊少年ジャンプに投稿した作品が編集者・中村泰造の目に止まり、本格的に漫画家の道を歩むために1987年大学を中退し上京。当時『シティーハンター』を連載中の北条司のアシスタントを10か月ほど務め、ここで漫画制作の基本的な技術を身につけた。1988年、投稿作品『楓パープル』が第35回手塚賞に入選、漫画家としてデビューする。
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井上雄彦
週刊少年ジャンプ上で原作付きの初連載『カメレオンジェイル』やバスケの読み切り作品等を経て、1990年より『SLAM DUNK』を連載開始する。当時国内でのバスケットボールの人気度はさほどでなかったが、回を重ねる毎に人気を増し、やがて空前の大ヒットとなる。1993年にはアニメ化もされた。また、連載終了後10年を経た2006年には、文化庁によるアンケート企画「日本のメディア芸術100選」においてマンガ部門1位に選出されている。 1996年、6年間続いた『SLAM DUNK』が連載終了する。いくつかの小品を経て、1998年より『モーニング』にて、吉川英治の小説『宮本武蔵』を原作とした『バガボンド』の連載を開始する。並行して1999年からは本人曰く「TVで観て興味を持った」車椅子バスケットボールを題材にした『リアル』の不定期連載を『週刊ヤングジャンプ』にて開始、2019年現在、バガボンドは休載中である。この2作品について井上は「漫画の先人が作り上げてきた『マンガ的な手法やマンガ的記号』を『バガボンド』では極力使わないようにし、逆に『リアル』ではそれらを最大限に発揮して描いている。」と語っている。 井上は中学までは剣道部で活動していたが、高校では球技を始めたかったことや剣道部に実兄がいて照れくさかったことなどからバスケットボール部に入部した。インタビューによれば当初はバスケットにそれほど興味を持っていたわけではなく、友達に誘われて「ふと入った」感じだった、と語っている。自身はそれほど背が高くなかったためガード的なポジションを務めることが多かったという。 漫画家を目指すようになってからは「とにかくバスケット」を描こうと決めており、当時バスケットを題材にした漫画はなかったため「(自分が描くまでは)誰もやらないでくれよ」と思っていたという 。『SLAM DUNK』連載時にもバスケットボールチーム「TAKECHANS」を結成しポイントガードを担った。また『SLAM DUNK』終了後はBS1放送のNBA中継にゲストとして何度か出演している。
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井上雄彦
漫画家を目指すようになってからは「とにかくバスケット」を描こうと決めており、当時バスケットを題材にした漫画はなかったため「(自分が描くまでは)誰もやらないでくれよ」と思っていたという 。『SLAM DUNK』連載時にもバスケットボールチーム「TAKECHANS」を結成しポイントガードを担った。また『SLAM DUNK』終了後はBS1放送のNBA中継にゲストとして何度か出演している。 2004年頃から井上は「バスケットボールそのものに対しての感謝の気持ちを形にしたい」との思いからスポーツ奨学金の設立を構想、2006年に「スラムダンク奨学金」を設立した。バスケットボールのプロ選手を目指す日本の高校生を対象にアメリカのプレップスクール(大学入学準備校)への留学を助け、プロスポーツ選手を目指す留学生も多い進学校での勉学の道を支えている。 ちなみに、『SLAM DUNK』において一部の登場人物の顔などは、自身の高校の部活仲間や大学のサークル仲間がモデルとなっている。 発行年順
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泡坂妻夫
泡坂 妻夫(あわさか つまお、本名:厚川 昌男(あつかわ まさお)、1933年5月9日 - 2009年2月3日)は、日本の推理作家、小説家。東京府・東京市神田区(現・東京都千代田区)出身。東京都立九段高等学校卒。 筆名の"泡"の旁は正しくは"己"ではなく"巳"。筆名は本名のアナグラムである。 東京・神田で「松葉屋」の屋号を持つ紋章上絵師(もんしょううわえし・和服に家紋を描き入れる専門の絵師)の家に生まれる。定時制で高校に通いながら約5年の会社勤めを経て、家業を継いで上絵師として働く。家業の傍ら幻影城新人賞に応募した短篇『DL2号機事件』が佳作入選して1976年に43歳で作家デビューした。なお、デビュー当初は、筆名の由来について質問されると、本名のアナグラムであることが恥ずかしくて説明できず、「家の近くは元、鈴木阿波守の下屋敷があったところで、その前の坂を阿波坂といいます、姓はその阿波坂をとり名の方は妻の姓「妻野」の一字をもらいました」という嘘の説明をしていたという。 その逆説を多用する作風から「日本のチェスタトン」と呼ばれた。また、劇中で用いられているトリックのタネを書籍自体に施した『しあわせの書』や、袋綴じされているページを切り開くと内容が変化する『生者と死者』など、紙媒体でしか成立しない仕掛けを施した、遊び心と技巧が一体となった作品がある。 文章中に繰り返し符号「々」を使用しないことが知られている。 作中で活躍する探偵役としては、亜愛一郎、曾我佳城、ヨギ ガンジー等。作品世界はすべて繋がっているらしく、ある作品の登場人物が別シリーズの作品にチラリと登場したり、時代小説にも先祖らしき人物が現れたりする。シリーズを終了させる際にパーティ場面を設定して、これまでの全主要人物が一堂に会する恒例のパターンなど、こまかな遊びがファンを喜ばせている。 また、泉鏡花文学賞を受賞した『折鶴』、直木賞を受賞した『蔭桔梗』などは、職人の世界を舞台にした「人情もの」小説である。このころになると、初期のオフビートな、ユーモラスな文体は、しっとりと情趣の濃いものに変化している。 奇術愛好家兼奇術師としても有名であり、1968年に第2回石田天海賞を受賞している。また、自身の名を冠した奇術の賞に厚川昌男賞がある。
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泡坂妻夫
また、泉鏡花文学賞を受賞した『折鶴』、直木賞を受賞した『蔭桔梗』などは、職人の世界を舞台にした「人情もの」小説である。このころになると、初期のオフビートな、ユーモラスな文体は、しっとりと情趣の濃いものに変化している。 奇術愛好家兼奇術師としても有名であり、1968年に第2回石田天海賞を受賞している。また、自身の名を冠した奇術の賞に厚川昌男賞がある。 作家活動と並行して家業の紋章上絵師の仕事も続け、その経験・知識から、家紋についての本も著している。 2009年2月3日、急性大動脈解離のため東京都内の病院で75歳で他界した。15年ぶりのシリーズ再開で、死の前日まで執筆した『ヨギ ガンジー、最後の妖術』が絶筆となった。
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ひおあきら
ひお あきら(氷魚 章、1950年〈昭和25年〉6月7日 - )は日本の漫画家、同人作家。本名は菅野 誠。 高校時代に同人作家として、三鷹市内の中学の同級生の細井雄二、田村仁、近藤雅人と同人グループ「ミュータントプロ」を結成し、同人誌『墨汁三滴』を作成。のちに、河あきら、すがやみつるが参加した。 『宇宙戦艦ヤマト』などのアニメ作品の漫画版で知られる。竹宮惠子の『地球へ...』では、メカニックデザインやメカニック関係の作画担当として協力を行っている。
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聖日出夫
聖 日出夫(ひじり ひでお、1946年12月8日 - 2016年3月10日)は、日本の漫画家。 北海道札幌市出身。本名:米浜裕暁(よねはま・ひろあき)。北海道札幌南高等学校卒業。 大学を受験するために上京するが、失敗。そのまま東京に居続け、1968年『一発野郎』で漫画家としてデビューした。 代表作に『なぜか笑介』『だから笑介』。両作品とも主人公の大原笑介の仕事ぶりを描いたサラリーマン漫画。連載のほぼ毎回、上司の高山課長が「あんたは...だからねーッ!」などと言うのに対して、「ズッ」と斜め後ろ45度の方向にコケて終わるのが特徴的で、当時は他の漫画にパロディとして使われたりした。 谷山浩子のバックバンドでベースを務めたミュージシャンの弟がいる。 2016年3月10日、胃がんのため死去。69歳没。 漫画 ビジネス書
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VHS
VHS(ブイ・エイチ・エス、Video Home System:ビデオ・ホーム・システム)は、日本ビクター(現:JVCケンウッド)が1976年(昭和51年)に開発した家庭用ビデオ規格で、同社の登録商標(日本第1399409号ほか)である。 当初は記録方式を表現したVertical Helical Scan(バーチカル・ヘリカル・スキャン)の略称だったが、後にVideo Home System(ビデオ・ホーム・システム)の略称として再定義された。 VHSの特徴として、ビデオの規格を原則として変えないことがあり、発売当初録画されたテープは現在流通している最新機種でも再生できる。テープは幅が1/2インチのカセットタイプで、標準録画時間が2時間だった。この形は現在では当たり前となったが、開発当時のVTRにはテープのリールが1つだけのカートリッジタイプがあったり、テープ幅やカセットのサイズもさまざまだったり、と互換性のない規格が氾濫していた。 技術の進歩によりテープの長尺化が進んだ結果、DF480を利用したときの現在は240分が最長となった。また、規格の範囲を大きく逸脱しないかたちでの改良を続けており、高画質化技術のHQ(High Quality)やHi-Fiオーディオ対応、ビデオカメラ規格のVHS-C、水平解像度400本以上の高画質機種S-VHSとそのビデオカメラ規格S-VHS-C、衛星放送などのPCMデジタルオーディオを劣化なく記録できるS-VHS DA(DigitalAudio)、アナログハイビジョン対応のW-VHS、デジタル放送対応のD-VHSなど幅広く展開している。全ての規格においてVHSテープの再生は基本的には対応している。なお、S-VHSの登場後は従来のVHSを識別のため「ノーマルVHS」または「コンベンショナルVHS」と呼ぶ場合がある。なお、上位規格であるデジタル記録のD-VHSでは地上デジタル放送・BSデジタル放送・CSデジタル放送などの無劣化記録が可能となっている。
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VHS
ベータ、8ミリ、LD、VHDなどさまざまなメディアとの競争の結果、家庭用ビデオ方式としてデファクトスタンダードとなった。特に、DVD-Videoの普及以前は単に「ビデオ」といえば通常はVHSのことを指すものであり、関連企業も商品説明等でVHSの意でビデオという単語を用いていた(「ビデオ版とDVD版の内容は同一です」という表記や、VHSデッキを指して「ビデオデッキ」と称するなど)。 VHSのハードの普及台数は全世界で約9億台以上、テープに至っては推定300億巻以上といわれている。このことを称え、VHS規格発表から30周年の2006年(平成18年)にはIEEEによってVHSの開発が「電気電子技術分野の発展に貢献した歴史的業績」として『IEEEマイルストーン』に認定された。 1956年(昭和31年)に開発されたアンペックス社の業務用2インチVTRはNTSC方式をそのまま録画可能であったが、巨大なシステムであった。ヘリカルスキャン技術は1955年(昭和30年)に東芝が基本特許を出願。1959年(昭和34年)に放送用1ヘッドヘリカルスキャン方式VTRを東芝が発表。回転2ヘッドヘリカルスキャンは同年に日本ビクターが開発している。それ以降、各社は比較的コンパクトなオープンリール式のVTRを発売、全てヘリカルスキャン方式であったが、各社バラバラで統一規格は制定されていなかった。 松下電器・日本ビクター・ソニーの3社は家庭用VTRも見据え、テープがカセットに収められたビデオレコーダー(VCR)の統一規格(Uマチック)に合意。発売したが高価なこともあり、オープンリール式と同様に企業の研修用途や教育機関、旅館・ホテルの館内有料放送などが主な販売先だった。 家庭用VTR機器が本格的に普及する時代を狙い、ソニーが各社に規格統一を呼びかけ先行して開発・発売されたベータマックスが、Uマチックの小型化を目指して開発された経緯から録画時間の延長よりカセットの小型化を優先し、最長60分の録画時間でU規格と同等の操作性を確保すべく開発されたのに対し、ビクターは民生用途としての実用性を重視し、カセットが若干大きくなることを承知で録画時間を最長120分として基本規格を開発。またメカ構造もU規格にとらわれずより量産化に適した構造を目指し、家庭用VTRというコンセプトを明確にして開発・発売された。
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VHS
先に発表・発売されたのはソニーのベータマックス(1号機・SL-6300)で、1975年(昭和50年)4月16日に発表、5月10日に発売されている。 ソニーは、松下電器(現在:パナソニック)にベータ方式への参加を要請したが、松下の態度は不鮮明であった。 「VHSの父」と呼ばれる高野鎭雄が松下幸之助に直訴した、という経過が流布されたり、映画のストーリーで登場するが、史実に基づく経過は、松下電器は当初からVHS採用に動いていた。1975年当時、日本ビクター社長には、松野幸吉(元松下電器東京支社長)が就任していた。1975年8月、ビクターがVHSの試作機を完成させた情報が松下電器へもたらされ、同月、松下中央研究所の菅谷部長らがビクター横浜工場を訪問し、VHS試作機を見学した。NHK総合テレビ『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の第2話では、1975年9月3日には松下幸之助がビクター横浜工場でVHS試作機を見学し、「ベータマックスは100点満点の製品だ、しかしこのVHSは150点だ」「ええもん造ってくれたな」と発言したと、試作機を覗き込む松下幸之助の写真つきで紹介されている。 1976年4月3日、ビクター横浜工場で、松下電器は松下幸之助相談役と稲井副社長、菅谷部長、ソニーは盛田会長、岩間社長、大賀副社長、木原専務、ビクターは松野社長、徳光副社長、高野事業部長が一同に会し、ベータ、VHS、VXを前にして初めて意見を交換した。VXは初めから問題にならず、VHSとベータとの長短が論じ合われた。佐藤正明著『映像メディアの世紀』によると、その後、松下幸之助相談役は「盛田さんがあまりにも熱心なので、もしかしたらベータマックスの方が良いのかと思って、ソニーの研究所も見せてもらったし、幸田の工場も見せてもらった。しかしわしの考えは変わらなかったな。」とも発言している。
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VHS
1976年5月7日、ソニーの盛田会長は木原専務を伴って松下電器東京支社を訪れ、盛田だけが相談役室に通されて、松下相談役は「規格統一は何としてもせなあかん。そこでうちのビデオ事業部にベータマックスとVHSの双方かかる機械の開発を頼んでみたんやがダメやった。そこで盛田はんの言う通り、どこかの機械に統一するしか道はない。わしの見るところ、ベータマックスは百点や......わしの見るところVHSは百五十点や。仮に百二十点やったらビクターにベータを押し付けることもできるんやが......これだけ差がある以上どうにもならん。盛田はん、率直に言います。VHSの規格を採用してもらうという訳にはいかんやろうか」と発言した。「ご迷惑をおかけしました」盛田氏は返事をしない代わりに一礼して、相談役室を後にしたとされる。通商産業省が規格分裂に対し難色を示していたこともあり、松下幸之助氏が、ソニーへVHS採用を働きかけたが、ソニーが拒否していた。幸之助がVHSを選んだ決め手になったのは前述に挙げた理由の他に、VHSデッキのほうが軽かったこともあった。「ベータだと販売店の配送を待たなければならないが、VHSはギリギリ持ち帰れる重さで、購入者が自分で自宅に持ち帰りすぐ見られる」といった幸之助らしい基準だった。 1976年(昭和51年)10月31日、日本ビクターがVHS第1号ビデオデッキ(品番:HR-3300)を発売、当時の金額で定価25万6000円。留守番録画のできる時計内蔵の専用取付式タイマーは別売1万円で、VHSの録画テープも当初は120分が6000円となっていた。また、シャープ、三菱電機も当初は日本ビクターの第1号機をOEMで発売していた。翌1977年(昭和52年)1月よりビクターが現在のロゴの使用を開始したため、VHSの1号機であるHR-3300の最初期(1976年10月 - 12月)に生産されたロットは戦前から使ってきた(書体は微妙に違う)旧ロゴ(「VICTOR」ロゴ)をつけた唯一のデッキとなった。1977年1月生産・出荷分からは「Victor」ロゴに変更された。 1977年(昭和52年)には松下電器が普及型のVHSビデオデッキ「ナショナルマックロード」を発売し、VHSヒットのきっかけにもなった。
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VHS
1977年(昭和52年)には松下電器が普及型のVHSビデオデッキ「ナショナルマックロード」を発売し、VHSヒットのきっかけにもなった。 長時間録画のユーザーのニーズにも応えるため、1977年(昭和52年)に米国市場向けの2倍モード(LP)が、日本国内向け機器にも1979年(昭和54年)に3倍モード(EP)が開発され、幅広い機種に搭載された。また規格外ではあるが標準モードで2つの番組を同時に録画できる機種も存在しており、VTR普及期にはメーカーから様々な提案がなされた。その後は5倍モードも開発され一部の機種に搭載された。 1972年(昭和47年)に松下電器のビデオ事業部長になった谷井昭雄(元社長)によると、VHS普及の最大の山場は1977年2月のRCAとの提携だった。条件が付いて8月の出荷までに録音時間を2倍の4時間にすることも求められ、村瀬通三(元松下電器副社長)などの技術陣が達成した。松下電器ではOEM供給していたアメリカのRCAより、アメリカンフットボールの録画のためさらに長い録画時間が必要という要望があり、2倍(LP)モードをつけたVHSデッキを開発。OEM供給したが日本ビクターの了承を得ないものだった。VHS標準(SP)モードより画質・音質が低下し、さらにVHS規格の互換性からも外れる事から日本ビクターは松下電器の勝手なふるまいに怒り、2倍(LP)モード録画対応機種を絶対に日本国内で発売しないよう松下電器へ強く要請していた。日本国内のVHS陣営各社も、標準(SP)モードの2時間もあれば十分で、4時間録画の2倍(LP)モード採用には、日本国内にはアメリカンフットボールのような長時間録画需要が当時は無かったため否定的で、VHS規格の互換性からも外れているために採用する動きは無かった。
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VHS
当初、VHSの音声トラックはテープの隅に固定ヘッドでモノラル録音するものだったが、その幅はコンパクトカセットより狭く、テープスピードは3/4だった。3倍モードではテープスピードが標準モードの1/3になり、S/N比の劣化(ヒスノイズの増加)および周波数特性の劣化が顕著となる。なおワウフラッターはビデオではテープ走行は同期の乱れとなるために厳格に管理されていた。上位機種では音声トラックをステレオ化していたこともあり、各メーカーでは少しでも高音質化すべくドルビーノイズリダクションシステム(ドルビーB)、dbxなどの音声信号の圧縮伸張処理技術を採用していたが、S/N比の劣化に対しては若干の改善が見られたものの周波数特性には対応できなかった。その時代のノーマル固定ヘッドでステレオ再生可能なデッキを現在、持っていないと、ノーマル音声でステレオ録音されたVHSテープをステレオで聴くことは当然だが不可能である。さらに問題なのがノーマル音声トラックに2ヶ国語の洋画を録画した場合であり、日本語と外国語が同時に再生される。当然のことながらスピーカーの左右バランスを調整しても解決はしない。 1983年(昭和58年)1983年3月、谷井昭雄と高野鎮雄、RCAのジャック・ソーター副社長の3人の写真が、当時の世界最大の国際週刊誌『タイム』の表紙を飾った。 同年4月、ソニーがステレオHi-Fi音声記録方式(ベータHi-Fi)を採用した「SL-HF77」を家庭用1/2インチビデオとしては世界で初めて発売した。ベータHi-Fiは従来ベータ機と輝度信号が4.4MHzから4.8MHzへ高域へのキャリアシフトも伴っており厳密な意味で互換性が失われたが、ベータHi-Fi録画されたテープを従来ベータ機で再生してもほとんど問題にならなかった。
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VHS
同年4月、ソニーがステレオHi-Fi音声記録方式(ベータHi-Fi)を採用した「SL-HF77」を家庭用1/2インチビデオとしては世界で初めて発売した。ベータHi-Fiは従来ベータ機と輝度信号が4.4MHzから4.8MHzへ高域へのキャリアシフトも伴っており厳密な意味で互換性が失われたが、ベータHi-Fi録画されたテープを従来ベータ機で再生してもほとんど問題にならなかった。 ベータ陣営のHi-Fi化に対抗し、同年5月には松下電器が音声専用ヘッドを搭載し、磁性体への深層帯記録を使用し、ノーマルVHSと互換性のあるHi-Fiステレオオーディオ機能を追加した「NV-800」を発売。この機能はVHS Hi-Fiステレオ標準規格として採用された。松下の独自規格によるVHS Hi-Fi機「NV-800」はHi-Fi音声トラックの信号処理にdbxを使っていた。「NV-800」が採用したHi-Fi音声の磁性体への深層帯記録を用いたHi-Fi方式をVHS規格化するにあたりdbx、ドルビー社のライセンス料回避のため、両社の特許に抵触しない信号処理技術が開発され採用された。そのため「NV-800」で録画されたビデオカセットを、ビクター「HR-D725」以降発売された正式なVHS Hi-Fi規格ビデオデッキで再生すると、厳密には正式なVHS Hi-Fi規格との互換性が無いため、音声が多少歪む可能性がある。 同年秋には、ビクターから初めて正式なVHS Hi-Fi規格に対応した「HR-D725」が発売されている。このD725などの機種は前述のノーマル音声方式での録画・再生も可能でドルビーBにも対応していた。ダイナミックレンジは当初80dB以上、1986年(昭和61年)以降の機種ではCDの音声のダイナミックレンジとほぼ同等の90dB以上に向上した。周波数特性は20 - 20,000 Hzと、こちらもCDの音声の周波数特性とほぼ同等である。
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VHS
これにともない、ノンHi-Fiのステレオ機器は1980年代には生産終了した。ノンHi-Fiのステレオ音声に対応した最末期のモデルとしては1988年発売のHi-fiおよびS-VHS対応機『HR-S10000』(ビクター)などがあった。国内メーカーによるノンHi-FiのモノラルVCRは単体機は1990年代後半に生産を終了。テレビデオはしばらくノンHi-Fi機の生産が続いたが、2000年代初頭には終了した。 1992年(平成4年)に高野鎮雄が68歳で死去したとき、VHSビデオデッキの普及台数は3.7億台であった。 2008年(平成20年)、日本ビクターの初代VHSデッキ「HR-3300」が、国立科学博物館の定めた重要科学技術史資料(通称:未来技術遺産)の第0020号に登録された。 2016年(平成28年)、船井電機(日本国内では後に「DX BROADTEC」ブランドとして展開)が7月末日をもってVHSビデオテープレコーダーの生産を終了。VHSビデオテープに関しては複数メーカーが引き続き生産・販売している。主な理由として、一般家庭での編集や再生、小売量販店などの防犯カメラに使われているケースが多く、そのような顧客のニーズに応えるためである。 2021年(令和3年)、アットアイデアは2026年(令和8年)を目処にVHSテープの非接触再生が可能なビデオデッキの開発・販売を目指していることを発表した。 VHSは、1975年(昭和50年)にソニーが開発・発売した家庭用ビデオベータマックスの対抗規格として脚光を浴びた。約10年間も続いた規格争い(ビデオ戦争)を制してVHSが生き残った。その要因としてはいくつかある。
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2021年(令和3年)、アットアイデアは2026年(令和8年)を目処にVHSテープの非接触再生が可能なビデオデッキの開発・販売を目指していることを発表した。 VHSは、1975年(昭和50年)にソニーが開発・発売した家庭用ビデオベータマックスの対抗規格として脚光を浴びた。約10年間も続いた規格争い(ビデオ戦争)を制してVHSが生き残った。その要因としてはいくつかある。 ビデオソフトのシェアは、1980年にVHSがベータを上回った。1989年(平成元年)頃まではメーカーはVHSとベータを併売していた(一部メーカーは8mmビデオソフトも供給)が、ベータファミリーが崩壊し各社がVHSへと移行した。ソニーも1988年(昭和63年)にVHS/Beta/8mmビデオデッキを併売するようになり、ベータは市場シェアを徐々に落としたことから、ビデオソフトメーカーはビデオソフトをVHSのみで発売するようになり、レンタルビデオ店でもVHSが標準となった。家電量販店などでもビデオデッキはVHSやS-VHSが主流となった。より高画質を求めたベータユーザーはベータソフト供給打ち切り前後を境にレーザーディスク(LD)へと流れて行った。 セルビデオやレンタルビデオのソフトの再生互換性を鑑みて、各社独自仕様のVHSビデオデッキの発売は基本的には許されなかったが、1996年にシャープがダブルチューナを搭載し同時二番組録画・再生対応した「VC-BF80」を発売した。同時二番組録画・再生はVHS方式には規格されておらずVHS方式とは互換性が無く、当該機種で録画されたテープはシャープ製を含め他社VHS機種での再生も当然不可能であった。S-VHS搭載機でも、VHSの録画・再生は可能である。
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ベータでは、βI・βIs(5.6 MHz Hi-Band)・βIsSHB(6.0 MHz Hi-Band)・βII(X2)・βIII各モード、Hi-BandBeta(5.6 MHz/βII・βIII)、BetaHi-Fi、ED-Betaなどの規格があったが、VHSはSP(標準)・LP(2倍/日本国内仕様では再生のみ対応)・EP(3倍)、VHSHi-Fi、S-VHSの、録画スピード2種類、映像信号2種類、Hifi信号重畳の有無、の簡素な組み合わせとなっていた。末期には S-VHS-ET、S-VHSDigitalAudio、W-VHS、D-VHSが乱立したが、初号機HR-3300以来のVHS標準モードで録画されたテープは、最終生産機でも再生できた。ベータは初期の標準モード・βIモード専用機種等では、後に開発された長時間モードや高画質・高音質規格で録画されたテープが再生できない環境にあった。VHSではテープカートリッジを小型化した VHS-C、S-VHS-C規格があったが、アダプターを介して据え置き型レコーダーで録画再生が可能であった。 ベータのビデオソフトではハイグレードテープを使用して、磁気保磁力が強い総メタルテープのマスターをスレーブのテープに超高速磁気転写プリントする方式をソニーが1980年代に開発したが、商業的には成功しなかった。VHSでは、画質劣化の少ない等速でのソフトウェア生産作業のために、幅広ヘッド搭載のダビング専用機が発売された。ベータ、VHSともにLDやVHD等のビデオディスクよりも高価なビデオソフト価格であった。1990年代に入り、OTARIがTMD高速熱転写方式による「T-710ビデオ・デュプリケーター」を開発し、VHS・SP(標準)モードで300倍速の高速プリントを実現しソフト製造の高速化が図られたが、同装置は単価の高いクロームテープを使用、販売台数はわずかであった。いずれにしてもビデオソフトの低価格化が進んだ。
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VHS対ベータ戦争の火ぶたが切られたとき、ビクターはVHSファミリーの中で技術的問題や生産能力でまだVHSデッキを製造できないメーカーにOEM供給していた。ときには自社ブランドよりOEM供給向けの生産を優先していたこともあるという。それは様々なメーカーで販売することにより他社の販売網を活用できる上、VHSが多数派であるという印象を持たせる狙いもあったと言われる。なお、ソニーもベータファミリー各社の生産体制が整わないうちには自社製品をOEM供給していた。 VHS対ベータ戦争では負けたといわれるソニーだが、VHSで使われる技術にもソニーの保有する特許が多数使われているため、少なからぬライセンス収入があった。これは1969年(昭和44年)のU規格策定時にソニー/日本ビクター/松下電器の3社が結んだクロスライセンス契約が関係している。 両方式の基本的な記録方式である、回転2ヘッドヘリカルスキャン記録は日本ビクターの特許であり、ベータ長時間化での信号処理技術は日本ビクターの特許であった。ソニーはUテープローディング技術を始めとする非常に多数のVTR特許技術を保有していたが、VHSはMローディングであり日本ビクターの特許であった。しかし色差信号漏話除去はソニーの特許のため、ソニーとクロスライセンスを契約を結んでいなかった日立製作所、三菱電機、シャープ、赤井電機などのVHS陣営各社がVHSビデオデッキを発売した際、ソニーと特許利用契約を結ぶ必要があった。また、磁性材料から含め約28,000件にも達するビデオカセットテープに関する特許技術もソニーがほぼ掌握しており、ソニーとクロスライセンス契約を結んだ松下電器、日本ビクターはVHS方式発売当初、自社によるビデオカセットテープ生産設備を保有をしていなかったため、TDK・富士フイルム・住友スリーエムなどからのOEM供給で凌いでいた。ソニーと特許利用契約を結んだ日立製作所は日立マクセルのOEM供給によりVHSビデオカセットテープを発売。1978年(昭和53年)にソニーがクロスライセンス契約を結んでいないテープメーカーに対しても有償で特許を公開する方針としたため、テープメーカーが独自でVHSおよびBetaビデオカセットテープの発売が可能となった。
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VHS
ビデオ戦争の末期には、ソニー製のVHSビデオデッキを望む声が市場から上がっていた。このことがソニーがVHS方式に参入する一つのきっかけとなっており、VHS・ベータ・8ミリのフルラインナップで「VTRの総合メーカー」を目指す方針に転換した。1988年(昭和63年)にソニーがVHS方式へ参入した際、障壁となるものは全くなかった。松下電器・日本ビクターとはクロスライセンス契約を結んでいたため、VHS参入時、松下電器・日本ビクターへVHS発売の了解を得る必要性すらなかった。実際、Uローディング準じた機構を採用したデッキでは「マッハドライブ」の愛称で出画時間の速さを売り物に宣伝するなど、自社の保有する特許を相当活用していた。 また、当時ソニーの子会社だったアイワ(初代法人)は親会社に先行してVHSに参入していた。最終的な販売台数は、VHS約9億台、ベータ約3500万台とされている。 1976年からテレビなどの録画媒体として使用されるVHSであったが、2000年代に入るとDVDやハードディスクレコーダ、パソコンの普及、高精細テレビ放送やBlu-ray Discの登場、多くの国でのデジタルテレビ放送の開始といった「デジタル時代」「ハイビジョン時代」の中で、それに対応できないVHSカセットやVHS単体機は次第に売れなくなっていった。デジタルレコーダーとの複合機も、過去のライブラリーをデジタル化することに重点が移り、テレビ番組の録画ができないタイプのものが増えた。 アナログ磁気テープはデジタルメディアに対して音・画質共に悪いうえに劣化が著しく、頭出しや巻き戻しも面倒で、再生装置も巨大になる。VHSの場合水平解像度が240本とアナログテレビ放送の330本より低い。画質面は、1987年に高画質版VHSであるS-VHS、1999年にはデジタル録画対応VHSであるD-VHSが発売されるもデッキが高価であり、同年にパイオニア(ホームAV機器事業部。現在:オンキヨーテクノロジー/ティアック)がDVDレコーダーを発表したこともありそれほど普及しなかった。また、DVDの普及に一役買ったのが、かつてのライバル・ソニーの関連会社であるソニー・コンピュータエンタテインメント(現・ソニー・インタラクティブエンタテインメント)の家庭用ビデオゲーム機であるPlayStation 2であった。
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こうした状況も重なり、日本ビクターは2007年(平成19年)5月30日、経営不振による事業再建策として、VHSビデオ事業からの撤退・清算を発表した。2008年(平成20年)1月15日にS-VHS単体機を全機種生産終了したと発表し、同年10月27日にはVHS方式単体機の生産を終了した。 ビクターの撤退により、日本国内メーカーのVHSビデオ単体機の製造は船井電機(以下、フナイ)のみとなったが、やがてフナイも完全撤退した。以降はDVD、HDDなどの複合機として展開されていたが、大幅に縮小された。 各社はテレビの完全デジタル化を考慮し、販売の主力をHDD併用のブルーレイレコーダーに移したことで、次第に商品ラインナップは縮小し、これにあわせ録画用ビデオテープから撤退する事業者も相次いだことで、現在はほぼ市場から消滅している。S-VHS用テープは既に販売終了となっており、2014年12月末で日立マクセル(現在:マクセル)も生産終了。2015年2月にはTDK(←イメーション〈現在:グラスブリッジ・エンタープライゼス〉のTDK Life on Recordブランド)も生産終了となり、2015年6月には録画用テープの在庫切れが目立ってきた。 2010年代に入っても、VHS一体型のDVDレコーダーないしBDレコーダーが製造されていたが、各社とも2011年末までに生産完了となった。2011年末までVHS一体型のDVDレコーダーを発売していたのは、フナイと当時の子会社DXアンテナ以外ではパナソニックのDIGA「DMR-XP25V」(パナソニック自社生産)と東芝「D-VDR9K」(フナイのOEM)であった。2012年2月10日、パナソニックが「VHSデッキの日本国内向け生産を2011年限りで完全終了した」旨を公式発表した。 その後もビデオ判定など一部で使われていたが、2012年5月19日には横浜スタジアムで開催された横浜DeNAベイスターズ対千葉ロッテマリーンズでは、アレックス・ラミレスの本塁打性の飛球の判定に家庭用VHSデッキが使用され、映像では本塁打であることがわからなかったためにファウルと判定されたケースがあり物議を醸した。 2016年4月時点で新品として流通していたVHSデッキ(録画再生機・再生専用機)は以下の通り。
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2016年4月時点で新品として流通していたVHSデッキ(録画再生機・再生専用機)は以下の通り。 全機種がフナイのOEM。2016年7月末には部品の調達が困難となったため、全機種生産終了となった。 VHSが普及するにつれ量産効果が上がり、テープ価格が大幅に値段を下げた。オープンリールを多用していたコンピュータ業界はテープの安さからデータカートリッジとしての利用を推し進めた。富士通などは大型コンピュータの補助記憶装置として用い、数百本のVHSテープを筐体内ラックに納め、コンピューター制御によりジュークボックスさながらのオートローディングを行わせ大型磁気ディスク装置のバックアップ装置として活用した。この際使用したテープは市販のビデオ用テープと同じ規格の物を使用した。 「PCMプロセッサー」(ソニーSONY PCM-501ESなど)を使い、音楽CD等のデジタル音声信号を75Ωのコンポジットビデオ信号に変換し、PCMオーディオレコーダー(デジタルオーディオレコーダー)として活用することができた。記録時間は通常のVHSの長さと同じで三倍モードにも対応した(ただし、後発の5倍モードへの対応に関しては不明)。 1991年(平成3年)、米ALESIS社がS-VHSテープに8トラックのデジタル録音を可能にしたMTR、ADAT(ALESIS DIGITAL AUDIO TAPE)を発売。機器ばかりでなくメディアも安価、かつ、16台までの同期動作も可能ということで、中小のスタジオやホームスタジオで急速に広まった。いくつかのメーカーから互換機も発売されるなど、この規格は一定の普及を見、adat(エーダット)として、Hi8テープに同様の録音ができるティアック社のDTRS規格とともに、ユーザーの根強い支持を得ている。
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VHS
初期の機種ではデジタルがゆえに事前にフォーマット作業が必要だった(後に録音と同時フォーマットが可能になる)。120分の録画テープに対し、約41分の録音が可能。デジタル記録はヘッドとの物理的接触などによる損耗に弱いため、ベース・フィルムを強化したADATロゴ入りの推奨S-VHSテープも存在する。当初のTypeIフォーマットでは、サンプリングレートは44.1kHzや48kHz、サンプリングビット16bitsであったが、後のTypeIIフォーマットで24bitsにも対応した。さらに、1チャンネルにつき通常の2トラック分を使って96kHzの記録・伝送を実現するS/MUXという規格もある。 一方、デジタル入出力インターフェイスは、これも普及している角型オプティカル(TOS-Link)のジャックとケーブルを用いて、8チャンネルまでの同時伝送が可能なものを搭載していた(ADAT Optical Interface:こちらも後にレコーディング機器のディジタル入出力用として一定の地位を築いた)。もちろん、民生機で広く普及しているデジタル音声インターフェイスであるS/PDIFとは、論理フォーマット上の互換性はない。
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平野仁
平野 仁(ひらの じん、本名:平野 仁(ひとし))は、日本の漫画家。福島県南会津郡出身。主に原作付きの劇画を手がけている。 21歳の時、テレビ動画の会社に入社し、2年間アニメーターとして活躍した。『がんばれ!マリンキッド』などで作画を手がけ、その傍ら小遣い稼ぎのつもりで劇画を出版社へ持ち込む。デビュー作は『漫画サンデー』増刊の原作つきの作品で、「H・ハンター」というペンネームであった(作品のタイトルは覚えていないという)。その後4ヵ月はアニメーターと劇画家の両方の仕事をしていたが、以後は劇画に専念し、主に芳文社の『週刊漫画TIMES』や『漫画パンチ』などにて作品を発表する。 1975年頃より少年誌に進出し、小学館の『週刊少年サンデー』や『ビッグコミック』などで、漫画原作者の小池一夫とのコンビにより代表作となる『青春の尻尾』、『少年の町ZF』、『サハラ 女外人部隊』などを手がけた。 1980年代前半より主な執筆の場を青年漫画誌に移し、双葉社の『漫画アクション』やリイド社の『リイドコミック』をはじめ多くの出版社で、主に漫画原作者とコンビを組み作品を発表している。
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平松伸二
平松 伸二(ひらまつ しんじ、1955年8月22日 - )は、日本の漫画家。岡山県高梁市出身、東京都葛飾区柴又在住。血液型はO型。代表作に『ドーベルマン刑事』『ブラック・エンジェルズ』『マーダーライセンス牙』など。妻は漫画原作者の安江うに。日本漫画家協会・参与。 中学生の頃から漫画を描き始める。岡山県立高梁高等学校1年生の時に描いた『勝負』(『週刊少年ジャンプ』1971年50号掲載)でデビュー。在学中に5~6本の読み切りが載り、編集者である後藤広喜にスカウトされて上京。中島徳博のアシスタントとして働いたのち、1974年『ドーベルマン刑事』で連載デビュー。 法で裁けない悪党・外道を徹底的に叩き潰す主人公たちの活躍を描いた作品が多い一方、『リッキー台風』(プロレス)や『どす恋ジゴロ』(相撲)といった格闘技漫画も少なからず描いており、両作品ともセクシー描写が多く導入されている。主人公は屈強ながらも中性的な美貌の主として描かれることが多く、『マーダーライセンス牙』ではついに両性具有ヒーローという大胆な趣向に挑んだ。 2015年、『ドーベルマン刑事』連載40周年と『ブラック・エンジェルズ』完結30周年を迎えるにあたり、ケンドーコバヤシが司会を務めるテレビ番組『漫道コバヤシ』(2015年7月21日放送、『祝!「ドーベルマン刑事」連載40周年&「ブラック・エンジェルズ」完結30周年!平松伸二SP』、フジテレビONE)に出演し、製作秘話などを多く語った。 2015年春頃から自身の代表作のイラストに書を融合させた作品を「漫書」と称して発表している。それらの作品は展示会の会場およびネット通販で購入が可能である。 現在在住している葛飾区とコラボし、葛飾区の『わたしの便利帳』表紙や、特殊詐欺警戒啓蒙ポスター・チラシ、特殊詐欺啓蒙ラッピングバスなどの仕事も手がけている。 趣味は格闘技観戦。60歳を超えてからも毎日トレーニングを欠かさず、ボランティア活動にも積極的に取り組むというストイックな一面がある。 デビュー後しばらくまで死神姿のイマジナリーフレンドがおり、外道マンと読んでいたとのこと。ただし、全く本人のためにはならず常にアシスタントや恋人(後の妻)の悪口などを言っていたらしい。
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蛭田達也
蛭田 達也(ひるた たつや、1961年(昭和36年)3月16日 - )は、日本の漫画家。福島県いわき市出身。横浜商科大学高等学校卒業。 1981年(昭和56年)、第27回少年マガジン新人漫画賞を『コータローまかりとおる!』(読切版)で受賞し、デビュー。 代表作は、空手の達人で明るく女好きの主人公が活躍する学園コメディー『コータローまかりとおる!』。単行本未収録の読み切り作品『あいつがKYOKI』を除いて、作品はこのシリーズのみである。 1986年(昭和61年)、『コータローまかりとおる!』で第10回講談社漫画賞少年部門を受賞。 2004年(平成16年)、長年患っていた腰痛が悪化したため、病気療養と発表した。長期間の休載に入って以降、一般には消息が途絶えていたが、2011年(平成23年)発行の「マイケル教えて!被災猫応援の教科書」(ISBN 978-4063761542)において作品を寄稿。この時「失業中(サボリ中)」とコメント。既に20年近く漫画家としての活動履歴が無いため、現在においては、事実上の引退状態と言える。
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美内すずえ
美内 すずえ(みうち すずえ、本名:西尾 鈴恵(にしお すずえ)、1951年〈昭和26年〉2月20日 - )は、日本の漫画家。大阪府生まれ、大阪府大阪市出身。最終学歴:大阪成蹊女子高。既婚。アカルプロジェクトのオーナー。 実家は理髪店で、幼少時代はよく映画を見に行ったという。中学時代に貸本屋で手塚治虫などの漫画に熱狂するも母親に漫画を読むことを禁じられ、それならばと自分自身で漫画を描き始めるようになる。 1967年(昭和42年)、高校時代に『別冊マーガレット』10月号に「山の月と子だぬきと」でデビューした。さらに1976年(昭和51年)には『ガラスの仮面』が『花とゆめ』にて連載開始する。この作品は、1995年(平成7年)に第24回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞するなど、作者の代表作となった。 それ以外にも1982年(昭和57年)に『妖鬼妃伝』(『なかよし』、講談社)で、第6回講談社漫画賞を受賞している 。 1991年(平成3年)、山梨県甲府市にフレンチ料理とカフェの店Cafe du Crepuscule(カフェ・ド・クレプスキュール)を開店。2010年(平成22年)に吉祥寺に姉妹店開店。 2009年(平成21年)現在も「O-EN NETWORK」という精神世界を探求する団体を主宰しており、漫画家としての活動は10年近く停止状態だった時期があった。このことについて、作者側は漫画執筆意欲が失われたわけではなく、物語を構成するエピソードに非常に時間がかかり、単行本1冊のプロットだけでノート約10冊以上を必要とすること、さらに雑誌連載と単行本では描き下ろしがあることが理由であるとしている。『ガラスの仮面』以外にも『アマテラス』『聖アリス帝国』も未完結の作品とされている。なお、書店に赴いた際、居合わせた女子学生の「ガラスの仮面」最新刊に関する否定的な会話にショックを受け、考えに考えた展開への自信が揺らいだこともある。 2004年(平成16年)12月16日、読者待望の『ガラスの仮面』コミックス42巻が発売されたが、白泉社『花とゆめ』誌上で連載されていた原稿を一切使わずに全編描き下ろしされており、作品内容は大幅に改変されている。そのため、1989年(平成元年)から1997年(平成9年)まで連載された版(全75回)における複数のエピソードが宙に浮いた形となっている。
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美内すずえ
2004年(平成16年)12月16日、読者待望の『ガラスの仮面』コミックス42巻が発売されたが、白泉社『花とゆめ』誌上で連載されていた原稿を一切使わずに全編描き下ろしされており、作品内容は大幅に改変されている。そのため、1989年(平成元年)から1997年(平成9年)まで連載された版(全75回)における複数のエピソードが宙に浮いた形となっている。 精神世界研究団体O-ENを主宰している他、2006年(平成18年)以降、『ガラスの仮面』内に登場する劇中劇「紅天女」を元にした新作能の監修も手掛けている。全国に公演回数が増加していることから、漫画制作がさらに遅れている。 2009年(平成21年)1月26日、約4年ぶりの『ガラスの仮面』コミックス43巻が発売された。これはコミックス42巻の続きとして、2008年(平成20年)7月から4ヶ月連続『別冊花とゆめ』に集中掲載された原稿が元となっているが、基本ストーリーに変更はないものの、様々な加筆修正・削除等改変がなされている。 2017年8月12日に宝島社「このマンガがすごい! Comics 妖鬼妃伝 美内すずえセレクション 黒の書」(同時収録「黒百合の系図」「ひばり鳴く朝」)、2018年1月12日に宝島社「このマンガがすごい! Comics 13月の悲劇 美内すずえセレクション 白の書」(同時収録「白い影法師」「孔雀色のカナリア」)が刊行された。
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三浦みつる
三浦 みつる(みうら みつる、1954年11月25日 - )は、日本の元漫画家。神奈川県横浜市中区本牧間門出身。本名:三浦 満(読み同じ)。男性。血液型はO型。代表作に『The・かぼちゃワイン』など。 1971年、神奈川県立磯子工業高等学校在学中に「世にも不幸な男の話」で『週刊少年ジャンプ』(集英社)のヤングジャンプ賞を受賞。高校卒業後にサラリーマンを経て、手塚プロダクションのアシスタントを経験。1973年、『さまよう箱は』で第6回手塚賞佳作。1975年、『僕は狂わない』で第9回手塚賞佳作を受賞。 1983年、『The・かぼちゃワイン』で第7回(昭和58年度)講談社漫画賞少年部門受賞。 2017年12月、クラウドファンディング自主制作本『バック・トゥ・The♡かぼちゃワイン』発売。本作品をもって漫画家引退を宣言し、デビュー時から数えて45年以上に渡った漫画家活動に終止符を打った。 現在は絵本作家を目指して勉強中とのこと。2023年4月時点で日本漫画家協会常務理事。
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水島新司
水島 新司(みずしま しんじ、1939年〈昭和14年〉4月10日 - 2022年〈令和4年〉1月10日)は、日本の漫画家。野球漫画の第一人者。代表作に『野球狂の詩』『ドカベン』『あぶさん』など。 新潟県新潟市出身。趣味は野球、将棋。血液型はB型。元タレント・俳優の水島新太郎は長男。 1939年、新潟市の魚屋の家に生まれる。父親がギャンブル好きで多額の借金を背負い、金銭的に困窮した少年時代を送る。 中学は新潟市立白新中学校に通っており、当時同校に隣接していた新潟明訓高等学校への進学を希望していたものの、家庭の経済状況を勘案して高校進学を断念した。中学卒業後、父親が借金をしていた水産問屋に丁稚奉公に出されるが、そこで漫画家になることを決意。仕事後に睡眠時間を削って漫画を執筆する。 1958年、大阪の貸本漫画出版社『日の丸文庫』の漫画短編誌『影』の新人漫画コンクールにデビュー作『深夜の客』を投稿する。評価としては次点であったが、審査員の一人だった佐藤まさあきがその才能を評価し、入選を強硬に主張。特別に特選二席として表彰される。その表彰式で社長の山田秀三に漫画家になりたい旨を直訴、「一年以内に漫画家になる」という条件で家族を説得し来阪する。 山田宅に住み込み、日の丸文庫の編集の下働きの仕事をしながら寝る間を削って漫画を執筆、人気貸本漫画家となる。日の丸文庫では主にコメディ漫画を執筆。短編集『オッス!』シリーズや『水島新司爆笑シリーズ』、大阪のTV局制作ドラマ『番頭はんと丁稚どん』や『てなもんや三度笠』の漫画化などで人気を博す。 1964年、日の丸文庫専属を経て独立、上京。 『週刊少年キング』で多くの短編作品を描くが、漫画家としての活動初期はサイクルサッカーなど野球以外のスポーツ漫画も多く手がけていた。野球漫画を描かなかった理由は、打つ・走る・投げるなど本物に近い絵を描きたかったが、絵が下手だったので、一番好きな野球のジャンルを描ける自信が付くまで10年かかったためであるという。 満を持して、本格的な野球漫画として1969年に『エースの条件』を発表。1970年からは『週刊少年サンデー』に『男どアホウ甲子園』、『週刊少年チャンピオン』に『銭っ子』を連載し、仕事の幅を広げる。特に『男どアホウ甲子園』は最初の大ヒットとなり、少年誌での人気を得る。
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水島新司
満を持して、本格的な野球漫画として1969年に『エースの条件』を発表。1970年からは『週刊少年サンデー』に『男どアホウ甲子園』、『週刊少年チャンピオン』に『銭っ子』を連載し、仕事の幅を広げる。特に『男どアホウ甲子園』は最初の大ヒットとなり、少年誌での人気を得る。 1972年からは『月刊少年マガジン』で『野球狂の詩』を読み切り不定期掲載、『週刊少年チャンピオン』で『ドカベン』を連載開始。1973年からは『ビッグコミックオリジナル』で『あぶさん』を連載開始。青年漫画にも進出する。『あぶさん』は2014年に完結するまで、41年にわたる長期連載となった。 水島自身やブレーンによる取材や資料集めの丁寧さを活かした「リアルな野球漫画」であった上記の連載作品はすべて人気を博し、野球漫画の第一人者の地位を確立する。特に柔道漫画として始まったが、『男どアホウ甲子園』終了に伴い、予定通り野球漫画へ転換した『ドカベン』は記録的大ヒットとなった。 以降、1975年に『男どアホウ甲子園』の続編『一球さん』を『週刊少年サンデー』に、1976年に『球道くん』を『マンガくん(少年ビッグコミック)』に発表。1977年には、当時、ブレーンを務めていた永谷脩と野球漫画専門誌『一球入魂』(新日本スポーツ企画)を創刊して編集長となり、『ある野球人の記録』(単行本では『白球の詩』)を連載する。 1977年ごろの、「知名人」(もしくは「著作家」)の所得番付で一位になったと、自ら語っている。 1981年、9年続いた『ドカベン』連載終了の直後に、プロ野球機構そのものをすべてオリジナルで作る壮大で野心的な作品『光の小次郎』を『週刊少年マガジン』に発表。 1983年には自身が今まで描いてきた高校野球漫画の集大成作品『大甲子園』を『週刊少年チャンピオン』に発表。『ドカベン』を中心に『野球狂の詩』『男どアホウ甲子園』『一球さん』『球道くん』『ダントツ』などの人気漫画から、それまで意識して描かなかった登場キャラクターを全員集めた高校3年の夏の大会を描いた。スター・システムを採用したクロスオーバー作品の先駆けでもあり、多くのヒット作品をもつ水島ならではの展開であった。
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水島新司
その一方で、ベテランの域に入った『あぶさん』が代打本塁打だけで落合博満と本塁打王争い(1982年)をするなど、架空の選手がプロ野球記録や日本新記録を更新する荒唐無稽な描写が目立つようになり、「リアルな野球漫画」から現実離れした作風へ変化したことを批判する読者も増えた。 以降は1984年に『極道くん』(週刊少年マガジン)、1987年に『へい!ジャンボ』のリメイク『虹を呼ぶ男』(週刊少年チャンピオン)、1988年に『野球狂の詩』の番外編的作品『ストッパー』(コミックバーガー)、1990年に高校野球漫画の総決算『おはようKジロー』(週刊少年チャンピオン)を、1993年の『平成野球草子』(ビッグゴールド)をそれぞれ連載するが、やや低迷期に入る。 清原和博の希望もあって、1995年に『ドカベン プロ野球編』(週刊少年チャンピオン)を、リメイクブームの風潮から1997年に『野球狂の詩 平成編』(ミスターマガジン)を連載開始。講談社との関係は『極道くん』連載終了前後に、たけし軍団によるフライデー襲撃事件が発生し、水島の息子である新太郎が連座していたことから、しばらく関係が途絶えていたが、本作で和解している。また、これらは2000年に『新・野球狂の詩』(モーニング)、2004年に『ドカベン スーパースターズ編』とタイトルを改め、長期連載となる。 2005年10月・11月に、8週連続(モーニングでは予告編含め9週)で『週刊少年チャンピオン』と『週刊モーニング』による、出版社を超えたコラボレーション企画として、『ドカベン スーパースターズ編』の東京スーパースターズと『新・野球狂の詩』の札幌華生堂メッツが日本シリーズで対決した。 2000年代に入ってから、連載は講談社の『野球狂の詩』、小学館の『あぶさん』、秋田書店の『ドカベン』だけになっていたが、上記の単行本化である『野球狂の詩VS.ドカベン』(2006年2月刊)を最後に、小学館と秋田書店だけになった。
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水島新司
2000年代に入ってから、連載は講談社の『野球狂の詩』、小学館の『あぶさん』、秋田書店の『ドカベン』だけになっていたが、上記の単行本化である『野球狂の詩VS.ドカベン』(2006年2月刊)を最後に、小学館と秋田書店だけになった。 2007年、漫画家生活50周年を迎え、『週刊少年チャンピオン』では漫画家生活50周年の企画として、連載中の『ドカベン』を巻頭カラーに、水島と同郷の高橋留美子の他、秋本治やさいとう・たかを、かわぐちかいじ、あだち充、井上雄彦、満田拓也、藤子不二雄A、森川ジョージ、高橋ヒロシなど沢山の漫画家からの寄せ書きとイラストが掲載された。また、王貞治、長嶋茂雄、ビートたけし、爆笑問題、松井秀喜、城島健司など野球関係者や芸能人からもメッセージが寄せられた。 2012年、『ドカベン』シリーズ40周年を記念し、最終章『ドカベン ドリームトーナメント編』連載開始。2018年に大団円を迎えた。週刊少年誌に連載する漫画家としてはあだち充を12歳も上回り、現役最長老であった。2014年2月には『あぶさん』も976回の連載を終了している。 2020年12月1日、同日付で63年間の漫画家生活から引退することを発表。最終作は2018年8月に発表した『あぶさん』の読み切り作品。 2022年1月10日、肺炎のため、東京都内の病院で死去。82歳没。喪主は妻・修子。『ドカベン』シリーズに登場した松坂大輔は水島の訃報について、「漫画『ドカベン』に自分が初めて出た時の喜びは今でも忘れません...。」とコメントした。 テレビアニメ化等のメディア展開や、CMなどのパロディといった作品の二次利用も多く見られたが、長男の新太郎がマネージャーを務めるようになった2010年代以降はそれらの利用にも消極的になっていった。また、現時点では作品の電子書籍化も行われていない。 五十音順。ただし、シリーズ物はそのシリーズ順。
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三鷹公一
三鷹 公一(みたか こういち)は、兵庫県出身の日本の漫画家。 岡山大学出身。 1990年から1995年まで東京急行電鉄の夏のスタンプラリー『すたんぷポン』の漫画を担当していた。
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見田竜介
見田 竜介(みた りゅうすけ、男性、1967年8月24日 - )は、日本の漫画家。代表作に『ドラゴンハーフ』など。本名同じ。他に花筺絢(はながたみ あや)、不敵万才の筆名もある。配偶者はマンガ家の御祇島千明。 幼少時、一年間メキシコで生活。自身の家庭を恵まれたものとは感じていなかった事を告白している。東京都立八王子北高等学校卒業後、アニメーターを志して東京アニメーター学院に進学。映画『天空の城ラピュタ』の仕上げに参加する。同校を中退後、有限会社スタジオ・ハードに就職する。不敵万才の筆名でゲーム雑誌のイラスト等を担当し、1988年、富士見書房発行の『月刊ドラゴンマガジン』創刊号にて漫画家デビュー。 作品は、韓国、タイ、イタリア、スペインなどでも翻訳されている。OVA化、ドラマCD化された作品も多数。 短期間、目を患っていたが2005年頃には全快し、作画をアナログからデジタルに移行した。2012年現在は、コミックスタジオ、イラストレーター、フォトショップなどを自在に使い、作品を発表している。 父親は社会学者の見田宗介。祖父はマルクス主義経済学者の見田石介。また、見田石介の父方の叔父が警察署長の甘粕春吉で、甘粕春吉の息子が陸軍軍人の甘粕正彦である。また、戦国時代の武将・甘粕景持は先祖にあたる。 弟は漫画家・イラストレーターでアシスタントの 見田航介。 デビュー当時はつけペンによる作画に慣れておらず、連載初期等は主人公・ミンクの尻尾の先が歪になるのをごまかす目的で黒く塗り潰していたりもしたが、アシスタント等で経験を積み、丸ペンによる繊細な描線を得意とするまでになる。 以下に示すように非常に特徴的な絵柄である(『ドラゴンハーフ』の後半に顕著になる)。極端にデフォルメを施した癖の大きい絵柄ながら、根強いファンを獲得している。 カラー画材はデビュー当初はカラーインクを使用していたが、それ以降はエアブラシ&アクリル⇒コピックへと変化。特にコピックで描かれたイラストの評価は高く、美術出版社発行のコピックイラスト教本『コピックワールド』にも取り上げられた。
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見田竜介
以下に示すように非常に特徴的な絵柄である(『ドラゴンハーフ』の後半に顕著になる)。極端にデフォルメを施した癖の大きい絵柄ながら、根強いファンを獲得している。 カラー画材はデビュー当初はカラーインクを使用していたが、それ以降はエアブラシ&アクリル⇒コピックへと変化。特にコピックで描かれたイラストの評価は高く、美術出版社発行のコピックイラスト教本『コピックワールド』にも取り上げられた。 作品は『ドラゴンハーフ』以来いわゆる娯楽活劇が中心で、異世界ものが多い。独特のギャグセンス、流麗な線によるアクション、時にハッとさせるシリアスを売りとする。作品により作風の振れ幅が大きく、救い難い悲劇へ落とし込む事もあるが、最後は概ねハッピーエンドである。 ※は不敵万才名義での参加。 いずれも富士美出版富士美コミックスより発刊 日暮里ギフト製
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道原かつみ
道原 かつみ(みちはら かつみ、1958年2月13日 - )は、日本の漫画家・イラストレーター。広島県三原市出身。 小学校の同級生で後に漫画家になる宮脇明子から、中学3年のときに漫画を描いてみないかと声をかけられたことが、漫画を描き出すきっかけになった。1979年に『花とゆめ増刊冬の号』に投稿した「かわいいジュリア」で努力賞を受賞し、掲載されたことでデビューする。しかし、その後はヒット作に恵まれず、父親から「遊んでいないで就職しろ」と叱責されたこともあって、三原市役所に勤める。 田中芳樹の同名小説を漫画化した『銀河英雄伝説』が売れ始めたことで市役所を退職し、漫画家専業となる。 漫画制作にパソコンを導入したのは早いほうで、自身のウェブページにデジタルで制作する際のノウハウを公開していた。 2009年時点では、三原市在住で福山市内の専門学校漫画コースの講師として後輩の指導にあたっている。 代表作には『銀河英雄伝説』の他、麻城ゆう原作の『ジョーカー』シリーズなど。漫画だけではなく、イラスト提供作品や版画作品もあり、1990年には第21回星雲賞アート部門を受賞した。 2009年、広島県三原市のふるさと大使に任命される。 太字はアニメ化された作品 以下の小説に挿絵を描いている。
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みつはしちかこ
みつはし ちかこ(女性、1941年1月30日 - )は、日本の漫画家。本名青木 千禾子。代表作は『小さな恋のものがたり』『ハーイあっこです』など。 茨城県石岡市生まれで、1歳の時から東京都中野区で育つ。1947年に中野区立鷺宮小学校に入学、1953年に中野区立第八中学校に入学。 1956年に東京都立武蔵丘高等学校に入学、美術部に所属後、放送劇部では脚本を書き上げるなどの活動を行った。同部における活動は、後の『小さな恋のものがたり』の原点となる。1959年に同校卒業後、皆川正インダストリアルデザイナーに1960年2月より入所。その後1961年4月よりヨーコーアニメーションに転職。同社倒産後は、日本アニメーション映画社などに勤務。 1959年12月に「イエスのカリタス修道女会」の新聞に「めいこちゃん」を連載後の1962年、代表作となる『小さな恋のものがたり』を『美しい十代』(学研)に連載開始。この間、学研を始めとした幾つかの雑誌に漫画を掲載。最初の単行本は幻余次郎との共著である『マンガ虎の巻』となった。その後1967年11月に『小さな恋のものがたり』の単行本を発売、1970年以降は毎年5月に新刊を刊行し、40集を超えるロングセラーとなっている(現在は不定期で2022年に最新46集を刊行)。1972年に日本テレビ系で実写ドラマ化(岡崎友紀主演)、1984年にはTBS系でアニメ化もされた他、1960年代後期から1970年代後期にかけて、幾つかの少女向け月刊雑誌に連載漫画や、エッセイを連載していた。 また、1980年から朝日新聞日曜版に連載された『ハーイあっこです』は『小さな恋のものがたり』と並ぶ代表作で、明るく朗らかな主婦とその家族の日常を描いた作品として、20年以上にわたる長期連載となり、1984年にフジテレビ系で実写ドラマ化(三田寛子主演)、1988年から1992年にかけてテレビ朝日系でアニメ化もされた。同時期である1982年からは、雑誌「Cobalt」にエッセイを掲載、1990年代まで連載が続いている。 その後、1999年7月から2008年3月にかけて、スーパーマーケット「サミット」の折込チラシに『アララさん』を連載。後に講談社から単行本化されている。
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みつはしちかこ
1977年、『小さな恋のものがたり』で日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。2015年、手塚治虫文化賞特別賞、日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞。 2013年の時点では町田市の玉川学園に在住。その縁で、2006年よりみつはしのイラストがラッピングされたコミュニティバス(玉ちゃんバス)が玉川学園地区内で運行されている。この他にも1998年には伊予銀行に描いたイラストの掲載、2008年には赤い羽根のボランティアコミック『アクションガイド』Vol.6に漫画を掲載が行われた。
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光原伸
光原 伸(みつはら しん、1964年(昭和39年)1月31日 - )は、日本の漫画家。広島県三原市出身。関西大学法学部卒。本名は原 伸光(はら のぶみつ)。代表作は『週刊少年ジャンプ』(集英社)に連載された『アウターゾーン』。妻は同じく漫画家であり、『週刊少年ジャンプ』に連載した『WILD HALF』などで知られる浅美裕子。 関西大学法学部を卒業。そのまま大阪に住み、アルバイトをしながら漫画の執筆・投稿を続けた。 1987年(昭和62年)、「処刑の密室」(さんげりあ名義)が第23回(1月期)ホップ☆ステップ賞で佳作に選出され、同年に「リボルバー・クイーン」(光原伸名義)が『週刊少年ジャンプ』1987年サマースペシャルに掲載されデビュー。 翌年、『週刊少年ジャンプ』1988年41号に読み切り作品「黒ヒゲクライシス」が掲載される。これが初のジャンプ本誌掲載作品となった。 その後『週刊少年ジャンプ』1989年(平成元年)サマースペシャルに読み切り作品の第5作「マジック・セラー 〜ラスト・コール〜」が掲載される。これは後の代表作『アウターゾーン』の原型ともいえる作品となる。この作品の好評を受け、担当編集者が光原の住む大阪まで来訪。この際に編集者に勧められ、上京を決めた。 上京後、『週刊少年ジャンプ』にて1991年(平成3年)14号より1994年(平成6年)15号まで代表作『アウターゾーン』を連載。全15巻に及ぶ長期連載となり、連載終了後の1995年(平成7年)には小説版(山田隆司著、全1巻)も刊行されている。また、1997年(平成9年)にはジャンプコミックスセレクション版全10巻、2005年(平成17年)には文庫版全10巻が刊行されたほか、コンビニコミックでも刊行されている。
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光原伸
『アウターゾーン』連載終了以降は、連作短編「ダークブレイカーズ」シリーズや読み切り短編を『週刊少年ジャンプ』や同誌増刊、青年誌の『スーパージャンプ』、『オースーパージャンプ』などで発表。2002年(平成14年)ごろにはある青年誌で『アウターゾーン』の新作をやっていいかと打診したが、違うものがほしいと却下され実現しなかった(『アウターゾーン』の新作は2011年(平成23年)に別の雑誌で実現する)。2002年(平成14年)の読み切り短編「絶対安全サーヴィス会社」(『オースーパージャンプ』2002年7月号)辺りが、紙原稿の最後の作品であった。 2005年(平成17年)11月には、災害小説を得意とする小説家・石黒耀の原案を元に、石黒の小説版と光原の漫画版を同時制作・同時刊行する仕事を引き受ける。石黒耀の小説は『昼は雲の柱』(後に『富士覚醒』に改題)のタイトルで2006年(平成18年)に刊行され、光原による漫画版は2008年(平成20年)に『SECTOR COLLAPSE(セクターコラプス) -富士山崩壊-』(後に『富士山崩壊』に改題)のタイトルで刊行された。ジャンプ・コミックス版『アウターゾーン』最終巻(第15巻、1994年(平成6年)9月発行)以来、約14年ぶりの新刊であり、光原の初の描き下ろし単行本であった。この作品は光原がデジタル作画ツール「コミックスタジオ」を使用してすべて1人で描いたもので、巻末のあとがきで「一人で全部描いたのは二十年ぶり位かも」、「もう永久に終わらないのかと思う事もありましたが、最終的には自分らしい漫画に仕上がったと思います」と述べている。 2010年(平成22年)には『サムケ』(竹書房)にて妻の浅美裕子との合作「めりこみおじさん」を発表。初の合作作品となる。 2011年(平成23年)10月の『コミック特盛 怖すぎて禁じられた怪談』2011年秋号(ホーム社発行・集英社発売)から新作『アウターゾーン リ:ビジテッド』の連載を開始した。『アウターゾーン』の新作を描いてほしいという編集者からの要望は2008年(平成20年)にはすでにあり、それが3年越しに実現したものであった。 樹崎聖のアシスタントを務めた経験がある。趣味はB級映画の鑑賞・収集。また、女子プロレスの大ファンでもある。
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光原伸
樹崎聖のアシスタントを務めた経験がある。趣味はB級映画の鑑賞・収集。また、女子プロレスの大ファンでもある。 10代後半のころに映画『サンゲリア』と『ゾンビ』を見て以来のゾンビ映画好き。また、自身の作風とは異なり、一番好きな漫画は小学生のころに読んでいたギャグ漫画のとりいかずよし『トイレット博士』と山上たつひこ『がきデカ』だという。 ★マーク=『サランドラの壺 光原伸短編集』に収録。
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宮下あきら
宮下 あきら(みやした あきら、1953年10月8日 - )は、日本の漫画家。血液型A型。代表作に『魁!!男塾』など。 東京都生まれ、三鷹市中原出身。小学生の頃より横山光輝の『伊賀の影丸』に影響を受け漫画を描き始める。 都立神代高校在学中にジミ・ヘンドリクスの影響を受け音楽にのめりこみ、卒業後はバンドマンとしてキャバレーなどで演奏をしていたが、音楽ではいつまで経っても食っていけないだろうと思い、自分が幼い頃に漫画家に憧れていたことを思い出し、漫画家を目指す。出版社に持ち込みを続けていたところ、編集者から高橋よしひろを紹介され、そのアシスタントになる。 第21回(78年度下期)少年マガジン新人漫画賞で『少年勝負師ケン』が佳作となり、1978年末の『少年マガジン増刊号』(1979/01/25号)に掲載され、デビューとなる。 1979年、高橋の師匠である本宮ひろ志からの紹介で集英社『週刊少年ジャンプ』に『私立極道高校』を連載開始。しかし滋賀県出身のアシスタントが、作中に無断で同県の実在する学校名などを出したことにより、滋賀県教育委員会などから抗議を受けた。宮下は監督不行届を問われる形となり、『私立極道高校』は『週刊少年ジャンプ』1980年11号で打ち切りとなった。なお、学帽政ら主要キャラクターは次作『激!!極虎一家』に引き続き登場している。 1985年より『週刊少年ジャンプ』で代表作となる『魁!!男塾』を連載開始。これが大ヒットとなり、連載は6年、単行本は34巻を刊行した。 2002年11月に発売されたヒップホップのコンピレーションアルバム『男塾伝説』のジャケット(中心人物である塾長シーモネーター(現・SEAMO)と元ネタである江田島平八が肩を組んでいる)を描いている。 2003年6月に発売された、ダンスグループ「PaniCrew」のグループ内ユニット「魁!ジョッパーズ(さきがけ!ジョッパーズ)」のデビューアルバムのジャケットに宮下が描いた、メンバーをモデルにしたキャラクターのイラストが使われている。 2012年1月20日に絶版となっていた『私立極道高校』が集英社より『復活版』として上下巻で刊行された。 いずれも『魁!!男塾』のスピンオフ作品。
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みやたけし
みや たけし(1959年1月10日 - )は、日本の漫画家。香川県琴平町出身。血液型B型。 1978年、第15回手塚賞準入選(『マラソンハっちゃん』)。 代表作に『風のフィールド』など。
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三山のぼる
三山 のぼる(みやま のぼる、1956年1月7日 - 2007年12月2日)は、日本の漫画家。熊本県八代市出身。高卒後に上京してデザイン会社に勤務したのち、村野守美に師事し、池沢さとしのアシスタントを経て、1981年に週刊少年ジャンプにて「男文太」でデビュー。代表作に『メフィスト』など。2007年に急性心不全で急逝した。 山田貴敏などの後輩らから手早い筆致と高い画力を評価されていた。控えめで物静かな人柄だったという。 師匠 アシスタント
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