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連結リスト
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連結リスト(、英語: Linked list)は、最も基本的なデータ構造の1つであり、他のデータ構造の実装に使われる。リンクリスト、リンクトリストとも表記される。
一連のノードが、任意のデータフィールド群を持ち、1つか2つの参照(リンク)により次(および前)のノードを指している。連結リストの主な利点は、リスト上のノードを様々な順番で検索可能な点である。連結リストは自己参照型のデータ型であり、同じデータ型の別のノードへのリンク(またはポインタ)を含んでいる。連結リストは場所が分かっていれば、ノードの挿入や削除を定数時間で行うことができる(場所を探すのにかかる時間はリスト上の順番の条件などにも依存するし、後述する片方向リストなのか双方向リストなのかにも依存する)。連結リストにはいくつかの種類があり、片方向リスト、双方向リスト、線形リスト、循環リストなどがある。
連結リストは多くのプログラミング言語で実装可能である。LISP や Scheme 、Prologといった言語は組み込みでこのデータ構造を持っていて、連結リストにアクセスするための操作も組み込まれている。
線形リストは、1955年から1956年ごろ、ランド研究所にてアレン・ニューウェル、Cliff Shaw、ハーバート・サイモンが Information Processing Language (IPL) の主要データ構造として開発したのが最初である。IPL はいくつかの初期の人工知能プログラム(General Problem Solver など)で使われた。線形リストを箱と矢印で表すという今ではお馴染みの記法は、1957年2月の "Proceedings of the Western Joint Computer Conference" に掲載されたニューウェルと Shaw の "Programming the Logic Theory Machine" という論文で使われている。ニューウェルとサイモンは1975年、「人工知能、認知心理学、リスト処理の基盤を築いた」ことに対してチューリング賞を受賞した。
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マサチューセッツ工科大学 (MIT) の Victor Yngve は、自然言語処理、特に機械翻訳向けに開発した COMIT という言語学向けのプログラミング言語で線形リストをデータ構造として使っている。これに関する論文は1958年、"Mechanical Translation" に "A programming language for mechanical translation" と題して掲載された。
1958年、ジョン・マッカーシーが MIT で開発したLISPは "list processor" の略であり、1960年に "Communications of the ACM" にその設計に関する論文 "Recursive Functions of Symbolic Expressions and Their Computation by Machine, Part I" が掲載された。LISP の主要なデータ構造の一つとして線形リストが採用されている。
1960年代初期までに、線形リストやそれを基本的なデータ構造とする言語が一般化した。MIT リンカーン研究所の Bert Green は1961年3月、"IRE Transactions on Human Factors in Electronics" に "Computer languages for symbol manipulation" という論文を書き、線形リストを使った手法の利点をまとめている。同様の論文は1964年4月、Communications of the ACM に Bobrow と Raphael の "A Comparison of list-processing computer languages" が掲載されている。
Technical Systems Consultants (TSC) 社は、片方向リストをファイル構造に利用したオペレーティングシステム FLEXを開発した。ディレクトリがファイルの第一セクターを指し、その後のファイルの中身も線形リストのポインタを辿ることで得られるようになっていた。FLEX から派生したオペレーティングシステムとして Smoke Signal Broadcasting社が開発したものがあるが、こちらは双方向リストを同じ用途に使っていた。
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IBM社が System/360やSystem/370向けに開発したTSSでも、ファイルシステムに双方向リストを使っていた。そのディレクトリ構造は UNIX のものと似ており、ディレクトリはファイルや他のディレクトリを格納でき、任意の深さまで階層構造を作ることができた。システムがクラッシュしたとき、このファイルシステム構造の一部がディスクに書き戻されていない場合があり、これを修復するためのユーティリティ "flea" が開発された。これは双方リストの前方リンクと後方リンクの一貫性をチェックすることで問題を検出する。
線形リストには、片方向リストと双方向リストがあり、どちらも任意の位置でデータの追加・削除が"O(1)"時間でできるのが特長である。しかし、ソートされた配列や木構造と違い、データの検索はO(n)時間かかってしまうという欠点がある(ソートされていない配列は線形リストと同じ"O(n)"の検索時間である)。
片方向リスト(singly-linked list)は、最も単純な連結リストであり、ノード毎に1つのリンクを持つ。このリンクはリスト上の次のノードを指し、リストの最後尾ならNull値を格納するか、空のリストを指す。
双方向リスト(doubly-linked list)は、より洗練された連結リスト。各ノードには2つのリンクがあり、1つが次のノード(前方リンク)、もう1つが後ろのノード(後方リンク)を指す。リストの先頭のノードには後ろのノードがないので、後方リンクにはヌル値を格納するか、空のリストを指す。リストの最後尾のノードには次のノードがないので、前方リンクにはヌル値を格納するか、空のリストを指す。
低レベルの言語の中には、XOR連結リストを使って双方向リストの2つのリンクを1つのワードで表せるようにしたものもあるが、この技法は一般には使われない。
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連結リスト
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低レベルの言語の中には、XOR連結リストを使って双方向リストの2つのリンクを1つのワードで表せるようにしたものもあるが、この技法は一般には使われない。
循環リスト(circularly-linked list)では、先頭と最後尾のノードを相互に連結する。循環リストには片方向のものも双方向のものもある。循環リストを辿る場合、任意のノードから出発して、好きな方向にたどっていき、最初のノードに戻ってくるまで続ける。つまり、循環リストは先頭や最後尾といったものが存在しないリストと考えることもできる。循環リストはデータ格納用バッファの管理によく使われ、1つのノードを使っているスレッド(やプロセス)が他のノードを全て参照したい場合などに便利である。
リスト全体を指すポインタは、アクセスポインタと呼ばれることがある。
片方向循環リスト(singly-circularly-linked list)では、各ノードは線形の片方向リストと同じように1つのリンクを持つが、最後尾のノードは先頭のノードをリンクしている。片方向リストと同様、新たなノードを挿入する場合、既に参照を持っているノードの次の位置にのみ挿入できる。このため、片方向循環リストでは、最後尾のノードを指している参照を保持しておくことが多く、それによって、先頭位置に高速に挿入可能とするだけでなく、先頭ノードから最後尾のノードまでを順に辿ることも可能にしている。
双方向循環リスト(doubly-circularly-linked list)では、各ノードは線形の双方向リストと同じように2つのリンクを持つが、先頭ノードの後方リンクは最後尾ノードを指し、最後尾ノードの前方リンクは先頭ノードを指す。双方向リストと同様、挿入も削除もその位置に隣接するノードへの参照が1つあれば、高速に行える。構造的には双方向循環リストには先頭も最後尾もないが、一般に外部のアクセスポインタを用意して、先頭または最後尾のノードを指しておくことが多い。そして、双方向リストでの番兵ノードのように順序を把握するのに使われる。
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線形リストには「ダミーノード」または「番兵ノード; sentinel node」と呼ばれるものが、リストの先頭や最後尾に置かれることがある。番兵ノードにはデータは格納されない。その目的は、全てのノードのリンクが常にノードのデータ構造を指していることを保証して、いくつかの操作を高速化することである。LISPではそのような設計がされており、nil と呼ばれる特別な値は片方向リストの最後尾を示すと決められている。nil は CAR 操作でも CDR 操作でも nil を返すため、一部の操作を高速化できる。最後尾が nil でないリストは不適切(improper)である(不適切とは言っても使えないということではない)。
連結リストは他のデータ構造の構成要素として使われる。例えば、スタック、キューなどである。
ノードのデータ部が別の連結リスト(へのポインタ)という構成も可能である。これを応用すると様々なデータ構造をリストで構成できる。これはLISPを起源とする方法であり、LISP では連結リストは主要なデータ構造とされ、今では関数型言語で一般に使われている。
連結リストを使って連想配列を実装することもあり、これを連想リスト(association list)と呼ぶ。このような連結リストの応用にはあまり利点がない。平衡2分探索木などのデータ構造の方が、ごく小さいデータ量であっても性能的に優れている。しかし、木構造のサブセットという範囲を超えて連結リストを動的に生成することもあり、より効率的にそのような構成のデータを扱うのに使われる。
コンピュータプログラミングと設計におけるほとんどの選択と同様、あらゆる状況に適した方法は存在しない。連結リストというデータ構造も状況によってはうまく機能するが、別の状況には適さない。以下では、連結リスト構造に関するトレードオフについて説明する。一般に動的に変化するデータの集まりがあって、要素の追加・削除が頻繁に行われ、新たな要素を追加する位置が重要となる場合、連結リストが適しているといえる。
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コンピュータプログラミングと設計におけるほとんどの選択と同様、あらゆる状況に適した方法は存在しない。連結リストというデータ構造も状況によってはうまく機能するが、別の状況には適さない。以下では、連結リスト構造に関するトレードオフについて説明する。一般に動的に変化するデータの集まりがあって、要素の追加・削除が頻繁に行われ、新たな要素を追加する位置が重要となる場合、連結リストが適しているといえる。
連結リストは配列と比較したとき、いくつかの利点を持つ。リストでは要素の挿入は無制限に可能であるが、配列はサイズが決まっているために限界があり、配列を大きくしようとしても、メモリのフラグメンテーションによって不可能なこともある。同様に、配列から要素の多くを削除すると領域の無駄となったり、サイズを小さくする必要が生じる。
複数のリストが尾部を共有することで、さらにメモリを節約できる場合もある。つまり、先頭が複数あって、末尾が1つになっている構造が可能である。これを使って、何らかのデータの古いバージョンと新しいバージョンを同時に保持することが可能であり、簡単な永続データ構造の例となっている。
一方、配列はランダムアクセス性に優れており、連結リストがシーケンシャルアクセスを得意とするのと対照的である。片方向リストは一方向にしか辿れない。従って、ヒープソートのようにインデックスによって高速に要素を参照する必要がある場合、連結リストは不向きである。シーケンシャルアクセスも多くのマシン上では、連結リストよりも配列の方が高速である。これは、キャッシュメモリの効果と参照の局所性によるものである。連結リストはキャッシュメモリからはほとんど何も恩恵を受けない。
連結リストの別の欠点は、参照のための余分な領域を必要とする点である。このため、キャラクタやブーリアン型のような小さなデータ要素を連結リストで操作するのは(1文字ごとにノードを割り当てて文字列操作を実現するなど)、速度の面でもメモリ消費の面でも無駄が多く、現実的でない。
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連結リストの別の欠点は、参照のための余分な領域を必要とする点である。このため、キャラクタやブーリアン型のような小さなデータ要素を連結リストで操作するのは(1文字ごとにノードを割り当てて文字列操作を実現するなど)、速度の面でもメモリ消費の面でも無駄が多く、現実的でない。
これらの問題の一部を改善する連結リストの派生データ構造がいくつか存在する。Unrolled linked list は各ノードに複数の要素を格納するもので、キャッシュ性能を向上させ、参照時のメモリのオーバヘッドを低減させる。CDRコーディングも参照を参照すべき実データと置換することで同様の効果が得られる。
配列との比較で利点と欠点を明確にする好例として、ジョセファスの問題を解くプログラムの実装がある。ジョセファスの問題とは、人間が輪になって並んでいる状況で、そこから1人を選ぶというものである。ある人を開始点として、特定の方向に n 人を数えていく。n 番目の人に到達したら、その人を輪から外して、残りの人間で一回り小さい輪を作る。そして再び n 番目まで数えていく。これを1人だけが残るまで繰り返し、最後に残った人が選ばれた人ということになる。これを循環リストを使って表すのは直接的で分かり易いし、ノードの削除も簡単である。しかし、循環リストでは、現在のノードから n 番目のノードを見つけるには、リストを順に辿っていくしかない。配列であればインデックスの計算で即座に見つけられる。一方、配列では要素(ノード)の削除は容易ではなく、n 番目のノードを即座に見つけるという利点を生かすには、ノードを削除したときに残った要素を詰めてやる必要がある。
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双方向リストはノード毎に要するメモリ量が多くなるし、基本的な操作にかかる手間が多くなる。しかし、どちらの方向にもシーケンシャルアクセス可能であるため、扱いやすくなることが多い。特に、あるノードの削除をする場合、そのノードのアドレスさえ分かっていれば、定数時間でそれが可能である。挿入の場合も、挿入する位置(そのノードの前に新たなノードを挿入する)が判っていれば、双方向リストでは定数時間で挿入が可能である。片方向リストでは、挿入・削除の際に1つ前のノードのアドレスも知る必要がある。アルゴリズムによっては双方向のアクセスが必須な場合もある。一方、双方向リストでは尾部の共有はできないので、永続データ構造としては使えない。
循環リストは、本質的に環状の構造を表すのに適している。また、どのノードからでもリスト全体をたどることが可能である。また、(最後尾のノードを指す)ポインタを1つ保持しておけば、先頭と最後尾を同時に効率的にアクセス可能である。主な欠点は、繰り返し処理をする際に、微妙に複雑な配慮を要する点である。
番兵ノードを使えば、全てのノードに次のノードや前のノードが存在することを保証でき、特定のリスト操作を単純化できる。しかし、(特に小さなリストを多数使用する場合)余分な領域を必要とするという欠点があり、他のリスト操作は逆に複雑化する。余分な領域を消費するのを防ぐため、番兵ノードはリストの先頭あるいは最後尾のノードへの参照として再利用されることがある。
連結リストを操作する場合、無効化され使われなくなった値の扱いに注意する必要がある。そのため、連結リストでの挿入・削除のアルゴリズムはある意味で巧妙である。ここでは、片方向リスト、双方向リスト、循環リストでのノードの追加と削除に関する擬似コードを示す。リストの終端を表すマーカー(あるいは番兵)としては "null" を使うが、その実装は様々なものが考えられる。
ここでのノードのデータ構造には2つのフィールドがある。また、List の "firstNode" というフィールドがリストの先頭ノード(空のリストの場合は "null")を指すとする。
片方向リストを辿るのは単純で、先頭ノードから各ノードの "next" リンクを最後まで辿っていく。
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ここでのノードのデータ構造には2つのフィールドがある。また、List の "firstNode" というフィールドがリストの先頭ノード(空のリストの場合は "null")を指すとする。
片方向リストを辿るのは単純で、先頭ノードから各ノードの "next" リンクを最後まで辿っていく。
次のコードは片方向リスト上のあるノードの次に新たにノードを挿入する。あるノードの前にノードを挿入することはできない。その場合は挿入位置の前のノードを見つける必要がある。
リストの先頭にノードを追加する場合、別の関数が必要である。この場合、firstNode を更新しなければならない。
同様に、指定されたノードの次のノードを削除する関数と、リストの先頭のノードを削除する関数を示す。特定のノードを探して削除する場合、その前のノードを覚えておく必要がある。
removeBeginning() は、削除するノードが最後のノードだった場合、"list.firstNode" を "null" にする。
逆方向に繰り返すことができないので、"insertBefore" や "removeBefore" といった操作を効率的に実装することはできない。
2つの片方向リストを連結したい場合、リストの最後尾を常に保持していないと効率的に処理できない。2つのリストがそれぞれ長さ n {\displaystyle n} である場合、連結にかかる時間は O ( n ) {\displaystyle O(n)} となる。LISP 系言語では、リストの連結には append を使う。
片方向リストの操作は先頭ノードの扱いが特殊であるが、先頭にダミー要素を追加することでこれを排除できる。これによって、"insertBeginning()" や "removeBeginning()" が不要となる。この場合、最初のデータを持ったノードは "list.firstNode.next" で参照可能である。
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片方向リストの操作は先頭ノードの扱いが特殊であるが、先頭にダミー要素を追加することでこれを排除できる。これによって、"insertBeginning()" や "removeBeginning()" が不要となる。この場合、最初のデータを持ったノードは "list.firstNode.next" で参照可能である。
双方向リストでは更新すべきポインタが増えるが、逆方向のポインタでリスト上の前の要素を参照できるため、操作に必要な情報は少なくて済む。これにより、新たな操作が可能となり、特殊ケースの関数が不要になる。ノードには前の要素を指す "prev" フィールドが追加される。また リスト構造の "lastNode" が最後尾のノードを指す。空のリストの場合、"list.firstNode" も "list.lastNode" も "null" である。
双方向リストでは双方向に繰り返しが可能である。方向は必要に応じて何度でも変えられる。
順方向
逆方向
指定したノードの次に新たなノードを挿入する関数と、前に挿入する関数を示す。
空のリストを含むリストの先頭に新たなノードを挿入する関数が必要となる。
同様に、最後尾にノードを挿入する関数を示す。
ノードの削除は簡単で、firstNode と lastNode にだけ注意すればよい。
この手続きで、リストから1つだけ残っているノードを削除する場合、"firstNode" と "lastNode" が "null" に設定され、正しく処理が行われる。また、"removeBefore" や "removeAfter" といった手続きは不要であり、単に "remove(node.prev)" や "remove(node.next)" を呼び出せばよい。
循環リストには、片方向のものと双方向のものがある。循環リストでは環状にノードが連結されているので、"null" は使わない。キューのような前後関係のあるリストでは、リストの最後尾ノードへの参照を保持する必要がある。循環リストでは最後尾ノードの次のノードは先頭ノードである。要素の最後尾への追加や先頭からの削除は定数時間で可能である。
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循環リストには、片方向のものと双方向のものがある。循環リストでは環状にノードが連結されているので、"null" は使わない。キューのような前後関係のあるリストでは、リストの最後尾ノードへの参照を保持する必要がある。循環リストでは最後尾ノードの次のノードは先頭ノードである。要素の最後尾への追加や先頭からの削除は定数時間で可能である。
循環リストの利点は、任意のノードから開始してリスト全体をたどることができる点である。このため、"firstNode" や "lastNode" も保持する必要がないことが多いが、空のリストを表すには何らかの特別な表現が必要である。ここでは "lastNode" に "null" を格納することで空のリストを表す。これにより空でないリストでの追加・削除は大幅に単純化されるが、空のリストを特殊ケースとして扱う必要がある。
someNode は空でないリストにある何らかのノードであるとする。ここでは任意の "someNode" から繰り返しを開始するものとしている。
順方向
逆方向
ループの最後で終了条件のチェックをしている点に注意されたい。これは、リストに "someNode" という1つのノードしかない場合に重要である。
次の関数は双方向循環リスト上のノードの次に新たなノードを追加する。
"insertBefore" を実現したければ、単に "insertAfter(node.prev, newNode)" を行えばよい。空のリストへのノードの追加は次の特殊関数が必要となる。
先頭に挿入したければ、"insertAfter(list.lastNode, node)" を実行すればよい。ノードの削除では空のリストにうまく対処する必要がある。
双方向リストと同様、"removeAfter" と "removeBefore" は "remove(list, node.prev)" と "remove(list, node.next)" で実現可能である。
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先頭に挿入したければ、"insertAfter(list.lastNode, node)" を実行すればよい。ノードの削除では空のリストにうまく対処する必要がある。
双方向リストと同様、"removeAfter" と "removeBefore" は "remove(list, node.prev)" と "remove(list, node.next)" で実現可能である。
参照型をサポートしていない言語でも、ポインタの代わりに配列にインデックスを使うことでリンクを実現できる。構造体の配列を用意し、リンク用フィールドには配列のインデックスを表す整数を保持することで次(あるいは前)のノードを指すものとする。配列にある全ノードを使う必要はない。構造体がサポートされていない場合、並列配列を代替として使うことができる。
例として、次の構造体を示す。ポインタの代わりに配列にインデックスを使っている。
この構造体の配列を生成し、リストの先頭のインデックスを保持する整数変数を用意すれば、連結リストを構築できる。
要素間のリンクはリスト上の次(または前)の要素の配列インデックスを Next あるいは Prev フィールドに格納することでなされる。例えば、次のようになる。
この例で、ListHead は 2 になっており、そこがリストの先頭ノードである。3番と5から7番のエントリはリスト上に含まれていない。これらのセルはリストに新たに追加することが可能である。ListFree という整数変数を用意してフリーリストを構成しておくと扱いやすくなる。全てのエントリが使われている場合、配列の大きさを拡張するか、一部要素を削除して空きを作らないと、新たな要素をリストに追加できなくなる。
次のコードは、リストを辿って、name と balance を表示するものである。
この手法の利点は次の通りである。
ただし、この方式にはノード群のためのメモリ領域管理を独自に行わなければならないという欠点がある。このため、次のような問題が生じる。
以上のような理由から、この手法は動的メモリ確保をサポートしていない言語で主に利用される。問題の多くは、配列生成時にリストの最大サイズが分かっている場合には問題ではなくなる。
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この手法の利点は次の通りである。
ただし、この方式にはノード群のためのメモリ領域管理を独自に行わなければならないという欠点がある。このため、次のような問題が生じる。
以上のような理由から、この手法は動的メモリ確保をサポートしていない言語で主に利用される。問題の多くは、配列生成時にリストの最大サイズが分かっている場合には問題ではなくなる。
LISPやScheme、Prologといったプログラミング言語は、片方向リストを組み込みで装備している。多くの関数型言語では、リストを構成するノードを「consセル」と呼ぶ。consセルには "car" 部分と "cdr" 部分があり、"car" 部はそのノードのデータへの参照、"cdr" 部は次のノードへの参照を格納している。consセルは他のデータ構造にも使われるが、主な用途はリストを構成することである。
抽象データ型やテンプレートをサポートする言語では、連結リストの抽象データ型やテンプレートを使って、連結リストを構築できる。
オブジェクト指向プログラミング言語では、次のようなクラスが連結リスト用に用意されている。
以下に、C言語での片方向リストの例を示す。
連結リストを構築する際、データをノードそのものに格納するか、別のデータ構造への参照のみを格納するかという選択を迫られる。前者を「内部収納; internal storage」、後者を「外部収納; external storage」と呼ぶ。内部収納の方がデータアクセスが効率化され、全体としてメモリ使用量が低減され、参照の局所性が向上し、リストに関するメモリ管理も簡素化される(データはノードと共に確保・解放される)。
一方、外部収納はより汎用的だという利点がある。データの内容に依存しないデータ構造とリスト操作コードを形成可能である。また、複数のノードで同じデータを共有することも容易に実現できる。内部収納の場合も、通常のリンクとは別に、同じ内容のデータを保持するノードを連結するフィールドを持てば、同様のことが可能になるが、リスト操作にあたってそれも考慮する必要が出てくる。
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連結リスト
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一方、外部収納はより汎用的だという利点がある。データの内容に依存しないデータ構造とリスト操作コードを形成可能である。また、複数のノードで同じデータを共有することも容易に実現できる。内部収納の場合も、通常のリンクとは別に、同じ内容のデータを保持するノードを連結するフィールドを持てば、同様のことが可能になるが、リスト操作にあたってそれも考慮する必要が出てくる。
一般に、データ構造を複数の連結リストに属させる必要がある場合、外部収納が最善の手法である。データ構造が1つの連結リストにしか属さない場合、内部収納の方が若干良いが、外部収納の汎用リスト操作パッケージが利用可能なら、それを利用するほうがよい場合もある。
いくつかの言語で採用されている別の手法として、いくつかの種類のデータ構造があって、それらの先頭部分の同じ位置にリストのための "next" および "prev" のフィールドが存在する場合がある。この場合、リスト操作は汎用的なルーチンを使い、個々のノード内のデータは個別のルーチンで処理する。様々な種類のメッセージを受信する際の構文解析などでよく使われる。メッセージのキューへの追加と削除は汎用的なルーチンで行われる。メッセージの種類がメッセージの先頭にあり、それを見て適切なメッセージ処理ルーチンを呼び出す。
ここでは、家族とその構成員の連結リストを処理するコードを例として示す。内部収納の場合、構造体は次のようになる。
家族のリストと各家族のメンバーを表示するルーチンは、内部収納の場合、次のようになる。
外部収納を使うと、構造体は次のようになる。
家族のリストと各家族のメンバーを表示するルーチンは、外部収納の場合、次のようになる。
外部収納を使った場合、データ構造体を取り出して型変換するという余分なステップが必要になる。これは、2種類の連結リストが同じデータ構造(node)を使っているためである。
あるメンバーがいくつの家族に属することができるかがコンパイル時に分かっている場合、内部収納の方が適している。しかし、1人のメンバーが任意の個数の家族に属する可能性がある場合、かつその数が実行時にならないと分からない場合、外部収納にする必要がある。
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連結リスト
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あるメンバーがいくつの家族に属することができるかがコンパイル時に分かっている場合、内部収納の方が適している。しかし、1人のメンバーが任意の個数の家族に属する可能性がある場合、かつその数が実行時にならないと分からない場合、外部収納にする必要がある。
連結リストで特定の要素を探す場合、たとえそれがソート済みであっても一般に O(n) の時間を要する(線型探索)。これは連結リストの重大な欠点である。これを改善するいくつかの方法が存在する。
ソートされていないリストでは、平均検索時間を短縮する単純なヒューリスティックとして "Move To Front" と呼ばれる手法がある。これは、1度検索して見つかったノードをリストの先頭に移動させるという方式である。これは一種の簡単なキャッシュ構成法であり、最も後に検索したノードを再度検索する場合に高速化される。
もう1つの一般的な手法は、より効率的な外部のデータ構造を使ってノードにインデックスを付けるというものである。例えば、赤黒木やハッシュテーブルを構築し、その要素が連結リストの各ノードへの参照を持つようにする。1つのリストに対して、そのようなインデックスを複数構築できる。この手法の欠点は、ノードの追加や削除の度にインデックス側の更新が必要となる点である。少なくともインデックスを再利用する前に更新が必要である。
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音声多重放送
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音声多重放送(おんせいたじゅうほうそう)とは、一つの放送チャンネルに複数の音声を多重化して行う放送である。
日本では1962年からNHK放送技術研究所が開発に着手しNHKと民放6社から実験局開設の申請が行われ、1964年9月には東京オリンピックに向けて「テレビ音声多重実験協議会」を結成したが、技術的実験のみにとどまり実際の放送サービスには進展せず、1966年8月に協議会を解散し郵政省電波技術審議会の諮問事項に引き継いだ。
その後、欧州放送連合の技術委員会で音声多重放送の本格的研究が開始され、1970年の日本万国博覧会に向けて2か国語放送・ステレオ放送の実験要望が寄せられたことからNHK技研は1968年に室内実験を再開。1969年に野外実験の結果FM-FM方式を採用した。
1969年12月21日、東京・大阪両地区のNHK総合テレビで、同放送の番組に於いての実験放送が開始された。 先ず2か国語放送は、同日の番組「劇映画 『ぼくはついてる』」を皮切りに、アメリカの劇映画(「ママは太陽」等)や、前述で要望があった万博の関連番組、それが閉幕後は19時のニュース等にて行われた。 ステレオ放送は、東京の総合テレビのみで行われ、1970年8月9日の「NHKコンサートホール」を皮切りに、同番組にてその後2回(同年8月23日と翌年9月12日)、更に、NHKイタリア歌劇公演から2回分(1971年9月11日と1973年9月23日放送分)行われた。
1971年度の電波技術審議会では技術基準が採択されたものの、NHKはカラーテレビ受像機の普及を最優先方針としたために、1973年で多重放送の実験局を一旦廃局した。
その後カラーテレビの普及が一段落したことから、1978年から実用化試験放送として再開され、先ずその年の9月28日に日本テレビが開始したのを皮切りに、その3日後の10月1日にはNHKの東京・大阪の各総合テレビと大阪の讀賣テレビ放送が、更にその翌日にはフジテレビが開始。年内には全ての在京民放キー局が開始し、翌年3月までには全ての在阪民放の準キー局が開始した。又、名古屋を始めとする大都市や、地方都市でも富山県の北日本放送(1978年12月23日開始)を皮切りに相次いで開始された。
そして、1982年の郵政省令をもって、本放送となった。
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音声多重放送
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そして、1982年の郵政省令をもって、本放送となった。
アナログテレビの場合、2チャンネルステレオ放送と二重音声放送(副音声付放送、2か国語放送、解説放送)がある。音声多重放送実施放送局は、JO**-TAMというコールサインが割り当てられていた。
2チャンネルステレオ放送は、受信機の左右の2つの音声チャンネルを同時に利用して、音楽番組やスポーツ、ドラマ、アニメ番組のほとんど全ての番組と、トーク、バラエティ、ニュース番組の一部で利用される。
二重音声放送は、ニュースや海外映画などに日本語音声と外国語(現地)音声の両方を入れて放送する場合などに多く利用される。メインで流れる音声(多くは日本語)を主音声(しゅおんせい)、もう一方の音声(外国語)を副音声(ふくおんせい、英語:subchannel、サブチャンネル)という。なお、副音声に同じ言語(日本向け放送の場合なら同じ日本語)での補足的な内容が流れる番組は、解説放送(かいせつほうそう)と呼ばれている。
日本におけるアナログテレビ放送用の規格(NTSCの拡張規格)では、FM-FM方式により放送波の中の2つの搬送波チャンネル(主音声用と副音声用)を用いて音声が送信される。
ステレオ放送の場合は、主音声用チャンネルには左右(L,R)の混合音声(L+R)、副音声用チャンネルには左右の差音声(L-R)の信号を載せる和差方式にすることにより、ステレオ非対応の受信機でも不都合がない視聴が可能になる仕組みになっている。
同様にステレオ非対応の受信機で2か国語放送を視聴した場合は、主音声用チャンネルの信号しか復元されない。
一方、音声多重放送対応受信機では、ステレオ放送の場合は左右の音声が分離され、2か国語放送の場合は主音声または副音声を任意に選択(ただし、それぞれはモノラル音声で、左右に全く同じ内容を出力する)して聞くことができる。
ステレオ音声の場合は左チャンネル音声を左のスピーカからだけ、右チャンネル音声を右のスピーカーからだけ、などのように分けていずれか一方のスピーカーからのみ出力したり、片方の信号のみをモノラル音声として左右の両方から出力したり、様々な切り替えや選択が可能となっている。
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音声多重放送
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ステレオ音声の場合は左チャンネル音声を左のスピーカからだけ、右チャンネル音声を右のスピーカーからだけ、などのように分けていずれか一方のスピーカーからのみ出力したり、片方の信号のみをモノラル音声として左右の両方から出力したり、様々な切り替えや選択が可能となっている。
前述のテレビやラジオ受信機と同じ原理により、旧来のモノラル音声記録のビデオレコーダーで音声多重番組を録画すると、モノラル音声テレビで視聴した場合と同様に、ステレオ放送は左右の混ざった音声が、2か国語放送の場合は主音声のみ録音・再生される。
一方、Hi-fiビデオと称される機種の場合は、ステレオ放送の場合はステレオ2ch音声で、2か国語放送の場合は主音声と副音声の両方が記録でき、再生ではステレオ放送の場合はステレオ2ch音声が、2か国語放送の場合は主/副音声の切替選択出力が行なわれる。
アナログ放送での二重音声放送(副音声付放送、2か国語放送、解説放送)の場合、ステレオ放送と二重音声放送を区別するための識別信号は、副音声搬送波に多重させていて(音声帯域外の高い周波数帯域に識別のための信号を含ませている)、受像機側がこれを検出することで可聴音声(人間が聞いて認識できる音声)への出力を切替制御している。
デジタル放送では放送波のデジタル信号としてのID部分に音声方式(二重音声放送、マルチ音声放送、5.1chサラウンドステレオ放送など)の識別のための制御情報が載っていて、これを利用して同様の切替制御を行なっている。
過去には副音声を使い、音響カプラ用音声やパソコンのデータレコーダ用の音声を流すなど、様々な試みもされている。また、1990年代にステレオ放送を実施する番組が急激に増え始めたのは、ビデオデッキのCMカット機能対策だといわれている。ちなみにテレビ大阪制作の番組は主にアニメ番組がステレオ放送だったが、2004年4月以降すべてステレオ放送に切り替えた。
地上デジタル放送・BSデジタル放送・CSデジタル放送の各民放局ではモノラル二重音声・5.1サラウンドを実施しない限りモノラル放送の番組をステレオ信号に乗せて放送されている(モノステレオ放送)。
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音声多重放送
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地上デジタル放送・BSデジタル放送・CSデジタル放送の各民放局ではモノラル二重音声・5.1サラウンドを実施しない限りモノラル放送の番組をステレオ信号に乗せて放送されている(モノステレオ放送)。
日本の地上デジタル放送・BSデジタル放送・CSデジタル放送の場合は、放送規格にISDBを用いており、規格上では1放送チャンネルにつき8音声まで多重化することが可能である(但し、1放送チャンネル当たりの合計帯域数の制限も受けるので、必ず8多重が可能になるわけではない)。これを利用して複数音声によるステレオ放送や、5.1ch放送などを実現することが可能である。
NHKでは、高齢者向けに、BGMや効果音を通常よりも小さくして、ナレーションなどの声を聞きやすくした音声サービスが実施されている。なお、従来の二重音声放送の場合は、一度切り替えた音声設定は、再度変更するまでは、チャンネルが変わっても電源の入/切を繰り返しても変らないものが殆んどだが、デジタル放送で新たに取り入れられた多重音声(マルチ音声)の場合は、チャンネルや番組が変わると、第一音声に戻る仕様のものが多い。なお、デジタル放送での2チャンネルステレオ放送の場合、音声コーデックには「MPEG2 AAC-LC」を用いているが、音声データの符号化ではアナログ放送での場合と同様に和差方式による信号情報が載せられており、再生時にはそれらの情報から左右音の分離を行っている。
音声多重放送の初期には、既存のテレビで音声多重放送を楽しむためのアダプターも市販されていた。
音声多重放送を実施するにあたっては、マスター、送信機、ネット回線等の放送機器を、音声多重仕様にしなければできない。 地上波の場合、アナログ放送時代は、同放送開始前は音声はモノラル仕様であったため、既存局での実施は、その為に設備の変更をしなければいけない反面、新規に開局する場合は、最初から音声多重仕様の設備を導入することで実施できる。その為、アナログ放送での開始は、地域的にばらつきが出ざるを得なかった。その反面、地上デジタルテレビの場合は、規格的に最初から音声多重仕様になっている為、地域的にばらつきは出ない。
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音声多重放送
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又、衛星放送は、NHKと民放のBS・CS各局共に、アナログ・デジタル放送に関わらず、衛星1つで日本全国をカバーしており、放送設備の方も元々対応しているため、どの地域にいても受信は可能であるので、地域差は生じることはない。
最終的に、地上アナログテレビての音声多重放送は、放送大学を除くNHK・民放局共に実施された。
総合テレビは、1978年10月1日の東京・大阪の各局を皮切りに、翌年8月8日の名古屋での開始を含め、先ず、東名阪のサービスエリア(関東、近畿、東海)での実施を優先した為、それ以外の地域は、1981年8月8日に各地域の拠点局(札幌、仙台、広島、福岡、松山)に導入された以外は、1983年6月から導入が始まり、1986年8月8日に全国整備が完了した。
教育テレビは、総合テレビでの開始から12年遅れて、先ず1990年10月1日に東京・大阪・名古屋の各局で開始され、同年12月1日から四国地域(松山、高松、徳島、高知)で開始、そして1991年3月21日に残りの地域で開始され、全国整備が完了した。
先ず、新規に開局の場合、1979年7月1日に開局した静岡第一テレビ以来全て、開局時と同時に開始をしている。
既存局の場合、先ず、東京・大阪のキー局及び準キー局は、最初の日本テレビの1978年9月28日の開始から最後の朝日放送テレビの翌年3月21日のそれまで、約半年の間で、全ての放送局が開始をした。
しかし、地方局では、そのテレビ局の地域や系列等によって、開始時期に差がつくこととなった。
先ず系列的には、日本テレビ系列局の多くで早めに導入され、その地域初の実施を成し遂げている局もあった反面、テレビ朝日系列はフルネットの地方局は導入が遅れ、新規にそれで開局した局よりも実施が遅れるケースが出た。
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音声多重放送
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しかし、地方局では、そのテレビ局の地域や系列等によって、開始時期に差がつくこととなった。
先ず系列的には、日本テレビ系列局の多くで早めに導入され、その地域初の実施を成し遂げている局もあった反面、テレビ朝日系列はフルネットの地方局は導入が遅れ、新規にそれで開局した局よりも実施が遅れるケースが出た。
地域的には、早く導入する地域とそうでない地域の差が明確に出た。早い地域では、NHKよりも民放の方が先に導入開始する例が多く、中には、その地域の民放が全局一斉に開始するケースも含め、NHKが開始する以前にその地域の民放局全部が開始していたケースも多かった。その反面、そうでない地域は、NHK総合テレビの開始後に民放が初めて開始し、中には、平成時代に入ったどころか、NHK教育テレビが全国整備を終えた後に、漸く開始した地域もあった。最終的に、キー局の系列に属する既存民放は、1992年11月27日の日本海テレビ(山陰地区 日本テレビ系列)で開始したのを最後に、全局整備を完了することになった。
また、系列を持たない独立民放テレビ局は全体的に更に導入が遅れ、KBS京都、テレビ神奈川以外は全て平成時代に入ってから漸く音声多重放送を開始し、2001年4月1日のテレビ埼玉を最後に、全民放の音声多重放送の整備が完了した。
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音声多重放送
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また、系列を持たない独立民放テレビ局は全体的に更に導入が遅れ、KBS京都、テレビ神奈川以外は全て平成時代に入ってから漸く音声多重放送を開始し、2001年4月1日のテレビ埼玉を最後に、全民放の音声多重放送の整備が完了した。
但し、北海道の一部地域(旭川・函館・帯広・北見・釧路各地区全域、及び室蘭地区のうち苫小牧市及び勇払郡の大半を除いた地域)では、民放各局でアナログ方式の音声多重放送は一貫して行われなかった。理由としては、放送回線(NTT中継回線)の設備(アナログ方式=全国回線は2006年6月4日深夜にデジタル回線に変更)や回線使用料(全国回線と比べ放送区域が広大で、かつ設備の維持経費も高い北海道内での回線は倍以上の料金がかかっている。実施するにはステレオ用の放送機を設置するとともに、NTT中継回線の音声回線もステレオ用に確保する必要があるが、多額の投資がかさむ等)の都合、さらには冬季における中継施設の維持(施設へ至る道路の除雪やアンテナの雪対策等)にコストがかかるといった問題が挙げられる。その後も各放送事業者で道内全域で実施できるよう検討していたが、前述の設備投資や回線費用が多額であることは避けられず、その上で2007年10月1日以降、道内各地で地上デジタル放送が開始されたこともあって結局は33年弱の間、民放各局では1度も実施するに至らないまま2011年7月24日のアナログ放送終了を迎えた。
しかしその後、全国的な地上デジタル放送の進展で、北海道で前述に挙げた地域でも2007年9月の地上デジタル試験放送(映像・音声信号を付加した)開始から音声多重放送が受信できるようになった。これは、放送回線のデジタル化移行(その際、民放各局の道内中継回線は従来のNTTのマイクロ回線に代わって北海道総合通信網所有の光ファイバー回線が使用されている)による回線使用料などの大幅なコスト削減と、同年10月1日以降、地上デジタル放送の基幹送信所・中継局が順次開設されるようになったためである。いずれにしても札幌地区を含めた他の全国地域よりも相当遅い民放各局の音声多重放送の開始となった。2010年12月末にはほぼ道内全域の世帯でNHK・民放各局ともに地上デジタル放送での音声多重放送が受信できるようになった。
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音声多重放送
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一方、NHK(総合・教育)については開始当初はアナログ回線使用料は高額であったものの事前に予算を組んでいたことや2004年にNTT中継回線は全国回線・道内回線ともにデジタル回線に移行され、回線使用料はアナログ回線に比べ安くなっているため北海道内全域でもアナログ・デジタルとも実施されていて受信可能となっている。
*は新規開局によるもの
FMラジオではAM-FM方式、AMラジオでは両立性直交振幅変調方式によりステレオ音声が送信される。このときも、主搬送波では左右の混合音声が送られるので、ステレオ非対応の受信機でもモノラル音声の受信は可能となる。
また、FM放送開始以前には、AMラジオ放送の2波を同時に使うことで(NHKのラジオ第1・第2放送、文化放送・ニッポン放送共同など)ステレオ放送が行われたこともある。
BSアナログ放送では、WOWOWが使用していたBSアナログ5chで独立音声放送「セント・ギガ」(→CLUB COSMO→WINJ)が、PCM方式の音声で放送が行われていた。
以下に各方式の名称と使用国を記す。なお、テレビの音声多重方式において、各方式の間に互換性は無い。
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音響カプラ
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音響カプラ(、英: acoustic coupler)とは、電話機の送受話器と、モデムに接続したスピーカー及びマイクロフォンを近接させ、音声を用いたデータ通信を行うことにより、公衆交換電話網(PSTN)を利用してコンピュータ間の通信を可能にする通信機器である。
初期の製品は変復調部を内蔵し、通信用インターフェース(RS-232Cなど)を備えている。現在の製品は音響と電気信号の変換だけの機能となり、モデムを接続して使用する。
モデムとの間は専用コードで接続し、電話機の受話器を音響カプラ本体にはめ込む。発信操作は、接続した電話機のダイヤルを手動で回す方法で利用する。トーン(プッシュ)回線の場合はモデムからダイヤルできる。この構造のため周りの振動や騒音に弱く、安定度も低い。初期の通信速度は300bps程度で、1989年頃には1200bps - 2400bps、2005年時点では28.8Kbpsの製品が市販されている。
後述の通り、電話機は認証を受けた既存のものを使い、PSTNと電気的な接続が無いため製造や運用に制限が無い。
1980年代前半、PSTNへのモデムの接続には制度的な制約が多く、加入者線を利用したデータ通信にはNCUと呼ばれる網制御装置か音響カプラが利用されていた。
1985年の通信自由化で技術認定を受けた端末であれば一般加入者線に接続出来るようになった。それに加えモジュラージャックの普及により工事担任者の資格なしに端末をつなぎ替えることが可能になった。このため、安定してデータ通信のできるNCUを内蔵したモデムが音響カプラの代わりに使われる様になった。1989年頃にはあまり使用されなくなった。以降はハンドヘルドコンピュータ等から、営業担当者が出先の公衆電話を利用しての営業データを自社の業務システムに送信する等の用途に使われることが多かった。
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音響カプラ
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その後、モジュラージャックでモデムが直結できるISDN対応公衆電話の整備、PHS・携帯電話・無線アクセスによるインターネット接続対応、ホテルなどのインターネット対応、公衆無線LANなどデータ通信環境が整備され、一般にはほとんどその役目を終えた。しかし、「アナログ一般電話や公衆電話はあるがモジュラージャックは存在せず、一般の無線アクセス環境が全てサービスエリア圏外」のような状況下では衛星電話やホテル等設備での固定通信利用、または音響カプラの他には外出時のデータ通信手段は存在しないということになる。
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2009年
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2009年(2009 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。平成21年。
この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。
2月4日 高橋來、子役
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1977年
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1977年(1977 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。昭和52年。
この項目では、国際的な視点に基づいた1977年について記載する。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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1974年
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1974年(1974 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。昭和49年。
この項目では、世界の1974年の出来事について記載する。日本については1974年の日本を参照のこと。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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1972年
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1972年(1972 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。昭和47年。
協定世界時による計測では、この年は(閏年で)閏秒による秒の追加が年内に2度あり過去最も長かった年である。
この項目では、国際的な視点に基づいた1972年について記載する。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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1967年
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1967年(1967 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。昭和42年。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
世界と日本のできごと。
(※雑誌も含む)
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1966年
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1966年(1966 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。昭和41年。
以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数(周年)を記す。
世界と日本のできごと
日本ではこの年は丙午(ひのえうま)にあたり、出生数は約136万人と前年に比べ大きく落ち込んだ。
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1965年
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1965年(1965 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。昭和40年。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数(周年)を記す。
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1964年
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1964年(1964 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。昭和39年。
この項目では、国際的な視点に基づいた1964年について記載する。
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1963年
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1963年(1963 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。昭和38年。
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1962年
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1962年(1962 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。昭和37年。
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1961年
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1961年(1961 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。昭和36年。
※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、この年の年号廃止の法令を制定に伴い1962年1月1日より廃止。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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1960年
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1960年(1960 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。昭和35年。
アフリカにおいて当時西欧諸国の植民地であった地域の多数が独立を達成した年であることにちなみ、アフリカの年と呼ばれる。
※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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1959年
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1959年(1959 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。昭和34年。
※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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1958年
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1958年(1958 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。昭和33年。
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1945年
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1945年(1945 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。昭和20年。
この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。
この項目では、国際的な視点に基づいた1945年について記載する。
※満洲国は、この年の8月18日に皇帝溥儀が退位し消滅。 ※阮朝は、保大帝の退位により滅亡。
以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数(周年)を記す。
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1955年
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1955年(1955 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。昭和30年。
※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数(周年)を記す。
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1957年
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1957年(1957 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。昭和32年。
※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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中つ国 (トールキン)
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中つ国(、英語: Middle-earth)は、J・R・R・トールキンの物語作品における架空世界で、彼のほとんどの物語が起こったとされている場所である。
この「中つ国(Middle-earth、ミドルアース)」という言葉は、『ホビットの冒険(The Hobbit)』、『指輪物語(The Lord of the Rings)』そして『シルマリルの物語(The Silmarillion)』の中で描かれた全世界に非公式に適用されることもあるが、 もっと適切には、エンドール(Endor)あるいはエンノール(Ennor)とクウェンヤやシンダール語などのエルフ語で呼ばれた、その主要な大陸だけを示すのに使われた。
中つ国の設定はしばしば別世界であると思われるが、実際は地球の歴史上の架空の期間、6000 - 7000年前の設定とされる。トールキンは、中つ国が私たちの地球であるといくつかの手紙 (The Letters of J. R. R. Tolkien) の中ではっきりと主張していた。本で書かれているのは、大陸の北西が大部分であり、現代のヨーロッパに対応する。中つ国の東および南に関してほとんど知られていない。
中つ国の歴史はいくつかの時代に分割される。『ホビットの冒険』そして『指輪物語』は第三紀の終わり頃のことを扱っていて、一方『シルマリルの物語』は主に第一紀の出来事を扱っている。その世界はもとは水平だったが、第二紀終わりの近くに創造者イルーヴァタールの介入により丸くなった。
中つ国についての知識の多くは、トールキンが生前に出版しなかった著述に基づいている。著述に含まれている多くの中つ国の伝説は、トールキン・ファンの大部分によって「正典」と見なされている(何をもって正典とするかは、中つ国の正典を参照)。
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中つ国 (トールキン)
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中つ国についての知識の多くは、トールキンが生前に出版しなかった著述に基づいている。著述に含まれている多くの中つ国の伝説は、トールキン・ファンの大部分によって「正典」と見なされている(何をもって正典とするかは、中つ国の正典を参照)。
「中つ国(Middle-earth)」という言葉はトールキンの独自のものではなく、古英語でmiddanġeard、中英語でmidden-erdあるいはmiddel-erdとして存在した。古ノルド語ではミズガルズ(Miðgarðr)と呼ぶ。Mediterranean Sea(地中海)のMediterraneanという単語はmedi「中の」とterra「大地」という二つのラテン語の語幹に由来する。middanġeardは『ベーオウルフ』の詩にも複数回現れる。J・R・R・トールキンの着想および出所の議論も参照のこと。より古い用法についてはミズガルズと北欧神話を参照。
トールキンは以下の断片からも着想を得た。
キュネウルフ (Cynewulf) の詩「クリスト」 (Christ I) より。earendelの名前(それは「明けの明星」を意味することもあるが、いくつかの文脈の中ではキリストの名前だった)はトールキンの航海者エアレンディル(Eärendil)の着想を与えた。
この名前は、『ホビットの冒険』、『指輪物語』、『シルマリルの物語』および関連著作で、トールキンによって意識的に「外なる陸地」Outer Landsや「大陸」Great Landsという古い用語を徐々に置き換えていった。
トールキン自身は書簡で「中つ国(Middle-earth)」がギリシャ語のοικουμένη(oikoumenē)の特定の用法と同じであると記した。この用法では、oikoumenēはいわゆるエクメーネのように「人間の居住地」であるとトールキンはいう。
中つ国という言葉はいくつかの方法で解釈することができる。
熱心な空洞地球論者のなかには言葉を彼らなりに解釈して、トールキンが地球空洞説を参考にしたと信じているが、しかし、トールキンの著述にこれを裏付けるものはない。
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中つ国 (トールキン)
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中つ国という言葉はいくつかの方法で解釈することができる。
熱心な空洞地球論者のなかには言葉を彼らなりに解釈して、トールキンが地球空洞説を参考にしたと信じているが、しかし、トールキンの著述にこれを裏付けるものはない。
「中つ国(Middle-earth)」は一般のメディアでは、Middle EarthやMiddle-Earthなどとよく誤って綴られている。和訳では「なかつくに」と読むとしているが、「なかつこく」という誤った読みもみられる。
「中つ国」は厳密には(どちらも「中の地」を意味する、エルフ語クウェンヤのエンドール Endorやシンダール語のエンノール Ennorと呼ばれた)特定の大陸を示す。つまりユーラシアそしてアフリカであるが、この言葉は地球(アルダ)、あるいは物語が起こる全宇宙(エア)を指してしばしば使われる。
中つ国の各地域を気候学、植物学、動物学等の類似性を基に実際の地球とおおまかに対応させると、ホビット庄は温和なイングランド、ゴンドールは地中海のイタリアやギリシア、モルドールは乾燥したトルコそして中東、南ゴンドールは北アフリカの砂漠、ロヴァニオンは東ヨーロッパの森林と西と南のロシアの大草原、そしてフォロヘル氷湾はノルウェーのフィヨルドとなる。 トールキンは、仮にホビット庄と裂け谷の緯度をオックスフォードあたりだとすると、そこから600マイル南にあるゴンドールのミナス・ティリスの緯度はフィレンツェに、アンドゥインの河口とペラルギアはトロイの緯度に相当すると述べている。
『ホビットの冒険』と『指輪物語』は、ビルボ、フロドおよび他のホビットのライフワークという体裁で発表された。それらは西境の赤表紙本という架空の書物の抜粋の体裁を取った。中つ国が、遥か有史以前の想像上の時代の北西ヨーロッパと想定されていることは明らかである。そうすると地理的位置から、ホビット庄はイングランドによく似ている。シェイクスピアの『リア王』やロバート・E・ハワードの『英雄コナン』シリーズのように、物語は、歴史上の実在しない期間に設定されている。
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中つ国 (トールキン)
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トールキンは、この地の言語学、神話および歴史について広範囲に書いて、これらの物語のために背景を形作った。ほとんどのこれらの著述は、『ホビットの冒険』と『指輪物語』を例外として、彼の息子クリストファが死後に編集し出版した。それらの中で特筆すべきは『シルマリルの物語』で、ヴァリノールやヌーメノールやその他の地と同様に中つ国も含む、より広範な宇宙論を展開する。同じく注意すべきは、『終わらざりし物語』と12巻および別巻索引からなる『中つ国の歴史』シリーズで、それは彼の生涯の初期の草稿から最後の著述までトールキンの著述の発展の過程を詳述すると同時に不完全な物語や小論も含んでいる。
トールキンの宇宙の最高の神性はエル・イルーヴァタールと呼ばれる。原初、イルーヴァタールはアイヌアと呼ばれる聖霊を創造し、神の音楽に専念させた。アイヌアのメルコールはトールキンにとってサタンに対応する物であり、調和を壊した。イルーヴァタールはそれに対して、アイヌアの理解を超えた音楽を広げる新しい主題を導入した。それらの歌の本質は、まだ作られていない宇宙、およびそこに居住するべき人々の歴史を確立することだった。
その後、イルーヴァタールはエア(Eä)を創造した。この語は「存在する世界」すなわち宇宙を指し、また「存在せよ」というイルーヴァタールの言葉でもある。アイヌアはエアの内にアルダ、大地を形成し、「虚空の内側に創造した」。世界と大気は虚空(Kuma)とは別のものとされた。最も強力な15人のアイヌアが、アルダを形作り管理するためにやって来て、ヴァラールと呼ばれた。
第一紀と第二紀の中頃までの世界は、第三紀と第四紀の世界と根本的に異なる。第一紀にアルダは水平な世界で、「とり囲む海」(ヴァイア)に浮かぶ船あるいは島として表されて、「とり囲む海」はアルダの下の水および上の空気よりなる。太陽と月、そして金星を含むいくつかの星も同様にヴァイアの内の軌道をたどり、虚空から分かたれたアルダの一部であるとされる。
第二紀の終わりのヌーメノールの没落の後の宇宙の激変で、宇宙論は根本的に変更され、アルダがわれわれの世界の地球に非常に似た球状の世界に変えられた。大陸のアマンは世界から取り除かれ、新しい国は古い国の「下に」作成された。
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中つ国 (トールキン)
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第二紀の終わりのヌーメノールの没落の後の宇宙の激変で、宇宙論は根本的に変更され、アルダがわれわれの世界の地球に非常に似た球状の世界に変えられた。大陸のアマンは世界から取り除かれ、新しい国は古い国の「下に」作成された。
中つ国にはいくつかの知的な種族が住んでいる。最初にあったのはアイヌアで、イルーヴァタールによって創造された天使のような存在である。アイヌアはイルーヴァタールを助け、アイヌリンダレすなわち「アイヌアの音楽」と呼ばれた宇宙哲学的な神話の中でアルダを創造する。アイヌアのうちのいくらかはその後アルダに入り、これらの中で最も偉大な者たちはヴァラールと呼ばれる。中つ国における邪悪の具現であるメルコール(後に「モルゴス」と呼ばれた)は最初はヴァラールのうちの1人だった。
アルダに入った下位のアイヌアはマイアール(これは複数形で、単数形はマイア)と呼ばれる。第一紀に登場したマイアの主要な例はエルフの王シンゴルの妻のメリアンである。第三紀に登場するガンダルフ等の(人間に魔法使いと呼ばれた)イスタリもまたマイアールであるといわれる。バルログや冥王サウロンという邪悪な者たちもまたマイアールであった。
その後、イルーヴァタールの子らがやって来る。イルーヴァタールのみの手によって創造された知的な生物で、エルフと人間を指している。『シルマリルの物語』は第一紀そしてそれ以前を扱っているのでエルフつまり長子が主に描かれているが、人間も中盤から現れる。
ヌーメノールの没落の物語は第二紀にあったとされ、第一紀にエルフの友人だった人間の子孫について取り扱う。彼らの子孫が、『指輪物語』に現れる第三紀のアルノールそしてゴンドールの人間である。ホビットも人間からの分かれたとの説もある。
ドワーフは、イルーヴァタールによってではなく、ヴァラールのアウレによって創造され、伝説の中の特別な位置を占める。しかしアウレは生命を与える事はできなかったので、作ったドワーフをイルーヴァタールに嘉納して、イルーヴァタールはドワーフに生命と自由意志を与えた。エント(木の牧者)もまた、ヤヴァンナからドワーフとバランスを取ることを要求されたイルーヴァタールが創った。
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中つ国 (トールキン)
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ドワーフは、イルーヴァタールによってではなく、ヴァラールのアウレによって創造され、伝説の中の特別な位置を占める。しかしアウレは生命を与える事はできなかったので、作ったドワーフをイルーヴァタールに嘉納して、イルーヴァタールはドワーフに生命と自由意志を与えた。エント(木の牧者)もまた、ヤヴァンナからドワーフとバランスを取ることを要求されたイルーヴァタールが創った。
オークとトロルは、モルゴスが生じさせた邪悪な生物である。それらは独自の創造物ではなくエルフとエントの「まがい」である。それらの本当の起源は不確かであるが、少なくともそれらのうちのいくらかは堕落したエルフや人間から生じさせた。
知性のある動物も現れる。鷲やヴァリノールからやってきた大いなる猟犬フアン、巨狼、魔狼等がその例である。鷲はエントと共にイルーヴァタールが創ったが、一般にはこれらの動物の起源および性質については詳しく言及されていない。可能性としては、動物の形をとっているマイアールかもしれないし、あるいはマイアールと動物の子孫なのかもしれない。
トールキンは、元々は彼の人工言語の構成の副産物として『シルマリルの物語』を書き始めた。彼は2つの主要な言語を考案した。それらは、ヴァリノールに居住したエルフが話したクウェンヤ、そしてベレリアンドにとどまったエルフによって話されたシンダール語の2つである。これらの言語の間には関連があり、それら両方の祖形として共通エルダール語が仮定されている。
その他のこの世界の言語は次の通りである。
中つ国の歴史は3つの時代に分割され、灯火の時代、二本の木の時代 、太陽の時代と呼ばれている。太陽の時代はさらに細分され、ほとんどの中つ国の物語は、太陽の時代の最初の3つの紀に起こる。
灯火の時代はヴァラールがアルダを創生した直後に始まった。ヴァラールは世界を照らす2つの灯火を創った。ヴァラールのアウレは巨大な塔の1つを北の端に、もう1つを南の端に創った。ヴァラールはそれらの中間の島アルマレンに住んだ。メルコールが2つの灯火を破壊することで灯火の時代は終わる。
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中つ国 (トールキン)
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灯火の時代はヴァラールがアルダを創生した直後に始まった。ヴァラールは世界を照らす2つの灯火を創った。ヴァラールのアウレは巨大な塔の1つを北の端に、もう1つを南の端に創った。ヴァラールはそれらの中間の島アルマレンに住んだ。メルコールが2つの灯火を破壊することで灯火の時代は終わる。
二本の木の時代は、ヴァラールのヤヴァンナが二本の木を作ったことで始まる。木の放つ光はアマンを照らし、薄明かりの中に中つ国を残した。中つ国の東のクイヴィエーネン湖の辺りでエルフは目覚め、すぐにヴァラールが彼らを見いだした。エルフの多くは、西方のアマンへ「大いなる旅」に行くように説得されたが、彼らの全てが旅を終えるとは限らなかった(エルフの分裂参照)。ヴァラールはエルフを虐げていたメルコールを捕らえたが、三期の後、改悛したように見えたので解放した。だがメルコールはエルフの間に大きな不和の種をまき、公子フェアノールとフィンゴルフィンの間にいさかいを起した。そして、2人の父フィンウェ王を殺害し、保管庫からシルマリルを盗んだ。シルマリルは、フェアノールが巧妙に作った三個の宝石で、その中に二本の木の光を含んでいた。メルコールは木自身も破壊して、二本の木の時代は終結する。
フェアノールと彼の一族は、メルコールを「モルゴス」(黒い敵)と呼んで呪いながら、後を追って中つ国のベレリアンドに向かった。さらにもっと大きな軍勢をフィンゴルフィンが率いて続いた。彼らはテレリの港街アルクウァロンデに達したが、テレリは船の供与を拒絶した。フェアノールの軍勢は、同族を殺害してまで盗んだ船で航海し、置き去りにされたフィンゴルフィンの軍勢は、最北のヘルカラクセ海峡の氷山を踏んで海を渡ることになった。中つ国の戦いでフェアノールは殺害されたが、彼の息子たちやフィンゴルフィンは生き残り、王国を設立した。
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中つ国 (トールキン)
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ヴァラールが、枯れた二つの木の最後の果実と花から太陽と月を作り、太陽の時代の第一紀が始まった。新しい種族「人間」が目覚めたのもこの時代である。いくつかの大きな戦いの後に、1つずつエルフの王国は陥落し、ゴンドリンの隠れ王国さえ失われた。自由の民に残されたシリオンの河口の居留地にエアレンディルがいて、その妻エルウィングがシルマリルを保持していた。それは、かの女の祖父母であるベレンとルーシエンがモルゴスの王冠から奪還したものであった。しかし、フェアノール一族は力づくでシルマリルを彼らのものにしようとした。エアレンディルとエルウィングはシルマリルを持って大海を横切り、ヴァラールに赦しと援助を求めた。それらの願いは聞き入れられて、メルコールは虚空へ追放され、彼の所業の大部分は破壊された。これには恐ろしい代償が必要だった。ベレリアンド自体が破壊され、海の下へ沈み始めた。
これが中つ国の第二紀の始まりである。ヴァラールに忠実なままだった人間は、大海の西にヌーメノールという島を故郷として与えられ、一方、エルフは西方へ帰ることを赦された。ヌーメノール人は偉大な船乗りになったが、エルフの不死を羨むようにもなった。その間に、中つ国では、モルゴスの副官であったサウロンがまた活動を始めていた。彼はエレギオンのエルフの金銀細工師と指輪の技において協力し、そして全てを統べる一つの指輪を造った。エルフはこれに気づき、彼らの指輪を使うのを止めた。
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中つ国 (トールキン)
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最後のヌーメノールの王アル=ファラゾーンは強大な軍により、サウロンさえ降伏させ、人質として連れ帰った。しかしサウロンは、不死の国を攻めて永遠の命を奪い取るように王をそそのかした。ヴァラールにまだ忠実だったエレンディルと、息子のイシルドゥアとアナーリオンは中つ国を目指して東へ逃れる準備をした。王の軍勢がアマンに降りたった時、ヴァラールはイルーヴァタールに介入を要求した。世界は変更され、中つ国からアマンへの「まっすぐの道」は閉ざされ、エルフ以外には通れなくなった。ヌーメノールは完全に破壊され水没し、それと共にサウロンの身体も失われたが、彼の精神は持ちこたえ中つ国に逃れた。エレンディルと彼の息子は中つ国に逃れ、アルノールとゴンドールの両王国を設立した。サウロンは復活を遂げたが、人間とエルフは「最後の同盟」を結び、彼を打ち破った。1つの指輪はイシルドゥアが奪ったが破壊せず、後にそれは行方不明になった。そのため、サウロンは完全には滅びなかった。
第三紀にはアルノールとゴンドールの両王国の興隆と衰退があった。『指輪物語』の時代、かなりの力を回復したサウロンは、完全となるために1つの指輪を求めていた。彼は、あるホビットが所有していることを発見し、9人の指輪の幽鬼をその探索に送りだした。指輪所持者フロド・バギンズは裂け谷まで旅し、そこでの会議で、滅びの山の火に指輪を投げ込んで破壊することが決定した。フロドは8人の仲間(指輪の仲間)とそのための旅に出た。最終的に指輪は破壊され、フロドと彼の仲間のサム・ギャムジーは英雄として賞賛された。サウロンは永久に消滅し、彼の精神も消え失せた。
第三紀の終了は、エルフの時代が終わり、人間の時代の始まることを意味した。第四紀が始まると、中つ国に留まっていたほとんどのエルフはヴァリノールに去って二度と戻らなかった。残った少数は衰えて、結局消えてしまうのである。ドワーフも同様に減少した。敵の創造物はほとんど一掃され、ゴンドールの南にも東にも平和が戻った。やがて、第一紀や第二紀の物語は伝説になり、それらの背後の真実は忘れられた。
トールキンおよび彼の世界に関する本は膨大であるが、ごく一部を紹介する。
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中つ国 (トールキン)
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トールキンおよび彼の世界に関する本は膨大であるが、ごく一部を紹介する。
手紙(202)の中でクリストファ・トールキンにJ・R・R・トールキンは彼の作品の映画化に関する方針は「芸術か金か」だと述べている。1969年、突然税金の督促を受けた彼は、『ホビットの冒険』と『指輪物語』の映画化権をユナイテッド・アーティスツに売った。その権利は、現在、『シルマリルの物語』 や他の作品の映画化権を保持しているトールキン財団(英語版)とは関係のないミドルアース・エンタープライズ(英語版)にわたっている。
最初の映画化は1977年の『ホビットの冒険』で、ランキン=バス・スタジオが製作した。これは初め合衆国でテレビ放映された。
翌1978年、『指輪物語』のタイトルで映画がリリースされた。製作、監督はラルフ・バクシで、物語の前半のみのロトスコープによるアニメーション作品だった。原作に比較的忠実であったが、商業的にも成功しなかったし、批評家にも受けが悪かった。
1980年ランキン=バスは、『指輪物語』の後半をほぼ含むテレビ・スペシャルをThe Return of the Kingとして製作した。しかしながら、これは、ラルフ・バクシの映画の終わりに直接続くものではなかった。
実写版の映画化が実現するのは、1990年代になってからだった。ピーター・ジャクソン監督、そしてニュー・ライン・シネマの資金提供により製作された。 映画は興行的にも批評家の評判でも大変な成功で、併せて17のオスカーを勝ち取った(俳優以外の、英語のフィクションの実写映画に適用可能な部門全てで1つ以上)。
また、前日譚にあたる『ホビットの冒険』も上記三部作の好評を受け、同じく三部作として2012年から2014年にかけて公開された。
トールキンの作品は、ロバート・E・ハワード、フリッツ・ライバー、H・P・ラヴクラフトそしてマイケル・ムアコックらの作品と共にロールプレイングゲームに大きな影響を与えた。部分的ながら設定に影響を受けている最も有名なゲームはダンジョンズ&ドラゴンズだが、許可を受けて中つ国そのものを舞台としているゲームが2つある。Decipher社のLord of the Rings Roleplaying GameとIron Crown Enterprises社(ICE)の『指輪物語ロールプレイング』(MERP)である。
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中つ国 (トールキン)
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2007年には正式なライセンス契約の元、中つ国を舞台にした初のMMORPGとして『ロード・オブ・ザ・リングス オンライン』がサービスを開始した。これは原作の設定に基づいて制作されているが、原作の設定を拡張したオリジナル設定も採用されている。
Simulations Publicationsは、トールキンの作品に基づいた3つのウォー・シミュレーションゲームを製作した。War of the Ringは『指輪物語』のほとんどの出来事が収められている。Gondorはペレンノール野の戦いに焦点を合わせていて、Sauronはモルドールの門の前での第二紀の戦いを収めている。Games Workshop社で映画『ロード・オブ・ザ・リング』関連のウォー・シミュレーションゲームが現在製作されている。
コンピューターゲームAngbandはフリーのローグライクゲームの1つで、トールキンの作品からの多くの特徴や人物、怪物を導入している。トールキンの影響を受けたコンピューターゲーム最も完全なリストはにある。
これらのゲームとは別に、多くの商用コンピューターゲームがリリースされた。そのうちのいくつかはThe Hobbitのようにトールキン財団から許可を得ている。その他は映画の関連商品として許可されている。
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Simple Mail Transfer Protocol
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Simple Mail Transfer Protocol(シンプル メール トランスファー プロトコル、SMTP)または簡易メール転送プロトコルは、インターネットで電子メールを転送するプロトコルである。通常 ポート番号 25 を利用する。 転送先のサーバを特定するために、DNS の MXレコードが使われる。RFC 5321 で標準化されている。
SMTPはIETFにおいて標準化されたメール転送のためのプロトコルである。1980年9月にメール転送プロトコル(Mail Transfer Protocol)という名称のプロトコルが RFC 772 において提案され、2回の改訂を経て1982年8月に簡易メール転送プロトコル(SMTP)という名称で RFC 821/ STD0010 として標準になった。
その後 2001年4月に SMTPは他のRFCの内容もあわせて改訂され、RFC 2821 として提案標準(Proposed Standard)になった。RFC 821 から約20年を経て改訂版が発行されたのは、おもにインターネットの普及にともなって様々なメール拡張機能が実装され、それらをささえる部分を整理する必要があったからである。サーバ外からの攻撃や、IPv6のアドレスにも対応できるよう、またSPF(Sender Policy Framework、RFC 4408)、DKIM(DomainKeys Identified Mail、RFC 4871)などにも対応すべく 2008年10月に再度改訂(RFC 5321)された。
SMTP はメールサーバ間の転送だけでなく、電子メールクライアントからメールサーバにメールを送信するときにも使われる。この2つを元々は区別していなかったがスパムなどを防ぐために現在では配送(transfer)と提出(submission)として分けて考え、メール配送の通信ではポート番号25をそのまま使うが、メール提出ではポート番号587で認証を必須とし暗号化する場合が多い。ポート番号25に接続しようとしても、ほとんどのインターネットサービスプロバイダがブロックしている。またポート番号587やTLSで暗号化した場合のポート番号465をSubmissionポートという。
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Simple Mail Transfer Protocol
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SMTPは本来テキストベースのプロトコルであり、全ての要求/応答メッセージやメールデータが7ビットASCIIでなければならないという制限があったが、英語以外の言語やバイナリファイルを扱う需要があった。そのため、電子メールにMIMEという規格がつくられ、SMTP自体にも8ビットで伝送する拡張が標準化された。
SMTPにおいてはサーバとクライアントの役割が明確に分離されている。RFC 5321によれば、それらは下図のように記述される。
SMTPではクライアントがサーバに接続するとただちにサーバ - クライアント間に "SMTP セッション" が確立され、その後、両者の間でFTPのような対話型でコマンドやそれに対する応答やメールがやりとりされる。セッションの終了のためにはQUITコマンドが使用されるが、この点においてもFTPとの同様である。
コマンドはEHLO, HELO, MAIL, RCPT, DATA, RSET, NOOP, QUIT, VRFYなどで、空白で区切られた引数がひとつまたは複数続く場合がある。標準のコマンドでは全て4文字ASCIIである。応答は3桁の応答コードで同様に引数が続く場合がある。また、人間が読むための応答コードに対応する文字列が続く場合があるが、SMTPクライアントは応答コードのみによって動作を決定しなければならない。メールデータは<CRLF>で、1行が<CRLF>を含め1000バイトを超えないように区切られる。また、コマンドと引数はメールアドレスの@より前のローカルパートを除き大文字小文字は区別されない。
応答が複数行になる場合は以下のように最終行以外は3桁の応答コードの直後にハイフンをつけ、テキストを続ける。最終行は3桁の応答コードの直後にスペースをつけ、テキストを続ける。
各行の応答コードは同じでなければならない。
SMTPにおいてはトランスポート・プロトコルとして通常 TCP が使用されるが、それに限定されることはない。
EHLO(拡張HELLO)またはHELO(HELLO)コマンドはSMTPサーバーにSMTPクライアントのドメイン名を知らせる。クライアントはEHLOコマンドを使うべきだが、古いサーバーはEHLOコマンドに対応せずエラーを返す。その場合はHELOコマンドを使用しても良い。完全修飾ドメイン名を引数に取る。
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Simple Mail Transfer Protocol
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EHLO(拡張HELLO)またはHELO(HELLO)コマンドはSMTPサーバーにSMTPクライアントのドメイン名を知らせる。クライアントはEHLOコマンドを使うべきだが、古いサーバーはEHLOコマンドに対応せずエラーを返す。その場合はHELOコマンドを使用しても良い。完全修飾ドメイン名を引数に取る。
MAILコマンドは電子メールをSMTPサーバーへ送る一連のメールトランザクションを開始する。引数に'FROM:<エラーを報告するのに使用される送信元メールアドレス>'を取る。
RCPT(RECIPIENT)コマンドは電子メールの宛先を指定する。宛先が複数の場合は複数回コマンドを実行する。引数に'TO:<宛先メールアドレス>'を取る。
DATAコマンドはメールデータをSMTPサーバに渡す。引数は許されず、DATAコマンドの直後に改行し、メールデータを何行か続ける。'.'のみの行が現れたらメールデータの終了を示し、メールトランザクションも終了する。もとのデータにピリオドのみの行があっても正しく動作するように行の先頭がピリオドであれば追加で行頭にピリオドを付加し、SMTPサーバーは受け取ったら取り除く。また、メールトランザクションはMAIL、RCPT、DATAの順で実行されなければならない。
QUITコマンドは接続を終了する。クライアントがQUITコマンドを送信したらサーバーは応答コード221を返し接続を閉じる。引数は許されない。
RSET(RESET)コマンドは現在のメールトランザクションを中止する。引数は許されない。
NOOP(NO OPERATION)コマンドは何もしない。SMTPサーバーは必ず250 OKを返す。引数があっても無視される。
HELPコマンドはヘルプを表示する。引数に対応するかはソフトウェアによる。
その他、VRFY、EXPNコマンドがあるが、スパマーに利用されるため現在では殆どの場合利用不可とし252を返すか、認証されたユーザーのみ利用できるようにしている。VRFY, EXPN, HELP, NOOP, RSET, QUITコマンドはいつ実行されても良い。HELPとEXPNコマンドへの対応は任意であり実装されていないこともある。
200番台は成功を表す。
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その他、VRFY、EXPNコマンドがあるが、スパマーに利用されるため現在では殆どの場合利用不可とし252を返すか、認証されたユーザーのみ利用できるようにしている。VRFY, EXPN, HELP, NOOP, RSET, QUITコマンドはいつ実行されても良い。HELPとEXPNコマンドへの対応は任意であり実装されていないこともある。
200番台は成功を表す。
300番台はコマンドは受け入れられたが追加の情報を待っていることを表す。DATAコマンドへの応答に354が使われる。
400番台は一時的エラーを表す。
500番台は永続的エラーを表す。
bob@example.com から alice@foo.com へメールを送る場合。
SMTPサーバーはDATAコマンドでメールデータを渡され、メールトランザクションが終了したら必ず先頭にReceivedヘッダフィールドを追加しなければならない。すでにReceived行があっても、書き換えたり削除したり順番を替えたりしてはならない。Receivedヘッダフィールドは
の情報で構成される。ここでは改行しているが実際は改行ではなくスペースで区切られる。FROM節はEHLOコマンドで示された送信元ドメイン名とTCP接続から判明する送信元のIPアドレスとを両方含むべきである。VIA, WITH, ID, FOR節は任意である。
また、SMTPサーバーはメールの最終配送を行う場合、先頭にReturn-pathヘッダフィールドを追加しなければならない。Return-pathヘッダフィールドはMAILコマンドの<送信元メールアドレス>を挿入する。SMTP環境から出ていく時、SMTPの送信元メールアドレス情報が失われないようにするためである。この、エラーを報告するのに使用される送信元メールアドレスは実際の送信者のメールアドレスと異なることも可能である。
RFCではSMTP実装はメーリングリストとエイリアスをサポートすべきとされている。エイリアスとはメールアドレスの別名で本当のメールアドレスに置換してから処理される。メーリングリストとは複数のメールアドレスを指す擬似的なメールアドレスで、設定されている複数のメールアドレスに展開されて届けられる。
SMTP拡張としては以下のようなものがある。
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Simple Mail Transfer Protocol
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RFCではSMTP実装はメーリングリストとエイリアスをサポートすべきとされている。エイリアスとはメールアドレスの別名で本当のメールアドレスに置換してから処理される。メーリングリストとは複数のメールアドレスを指す擬似的なメールアドレスで、設定されている複数のメールアドレスに展開されて届けられる。
SMTP拡張としては以下のようなものがある。
8ビットで配送を行うことを可能にする拡張。行は<CRLF>で1000オクテットを超えないように区切られ、ドットのみの行でDATAの終わりを示す点は変わらないため、バイナリの配送を可能にするものではなく、8ビット文字コードを意図したものである。
CHUNKING拡張はDATAコマンドの代わりにBDATコマンドを使う。引数にオクテットサイズを取り、その後送られたデータをその長さだけ受け入れる。そのためドットのみの行で終わりを示す必要はない。また、複数回のBDATコマンドに分けることも可能である。その時のために、BDATコマンドの2つ目の引数に「LAST」を指定したら今回でデータの送信が終了することを示す。
BINARYMIME拡張はバイナリの配送を可能にする拡張。CHUNKING拡張と合わせて使用したときにのみ使うことが出来る。
巨大なメールデータをサーバーに送っている時、SMTPサーバー側の制限を超えてから失敗を応答されるのは回線・時間・リソースの無駄であるため、実際にデータを送る前にクライアント側がサーバーのサイズ制限を知ることが出来るようにする拡張。
宛先が複数あるときなどに毎回応答を待ってから次のコマンドを送信するのは時間がかかるため、連続してコマンドを送信するための拡張。
前述のSMTP標準にはユーザー認証機構が含まれていないが、インターネットの普及に伴ってその必要に迫られたため SASL メカニズムを利用した認証機構が RFC 2554 - SMTP Service Extension for Authentication(SMTP-AUTH)として標準化された。この標準の最新文書は RFC 4954 である。
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Simple Mail Transfer Protocol
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前述のSMTP標準にはユーザー認証機構が含まれていないが、インターネットの普及に伴ってその必要に迫られたため SASL メカニズムを利用した認証機構が RFC 2554 - SMTP Service Extension for Authentication(SMTP-AUTH)として標準化された。この標準の最新文書は RFC 4954 である。
SMTP-AUTH 標準化以前に普及したユーザー制限方法。メール送信する前にメール受信(POP3 の ログイン)を要求するため、こう呼ばれる。RFC 2476 - Message Submission において、クライアントを制限する方法の一つに挙げられたもの。
SMTPの暗号化にはFTPなどの他のテキストベースプロトコルと同様に途中から暗号化を開始するSTARTTLSと最初から暗号化するSMTPSの2種類がある。SMTPSの場合はポート番号を同じには出来ないため、465を使う。
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ワードプロセッサ
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ワードプロセッサ(英: Word processor)または文書作成編集機(ぶんしょさくせいへんしゅうき)は、コンピュータで文章を入力、編集、印刷できるシステムである。一般的な略称は「ワープロ」。ワープロ機能専用コンピュータとして商品開発された「ワープロ専用機」と、汎用的なパーソナルコンピュータで動作する「ワープロソフト」(Microsoft Word、一太郎など)がある。この記事では主に前者の「ワープロ専用機」を扱う。
文章を入力し、活字で印字するシステムとして、ローマ字を用いる地域ではタイプライターが利用されていたが、日本語ではアルファベットだけでなくかなや漢字も使うため、欧文タイプライターのように個別のキーの押下が印字ヘッドの運動に変換される機構では文字数が大幅に不足していた。日本語用の和文タイプライターも存在したが、1000以上の文字が並んだ盤面から目的の文字をひとつずつ検索して拾い上げる必要があり、操作方法が煩雑で熟練技能を必要とした。このため小規模印刷にはタイプライターではなくガリ版が多用された。
20世紀半ばにコンピュータが発明され、小型化・低価格化が進む過程で、文章の作成への応用が行われた。手書きやガリ版に対して字体が統一されており、タイプライターに比べても修正・推敲が容易であることが利点となる。ローマ字圏では使用される文字が英数字に若干の記号を加えた程度で処理が可能なため、比較的容易にワードプロセッサが作られた。世界初のワードプロセッサは、1964年(昭和39年)のIBM MT/STで、その後もワング・ラボラトリーズ社などからいくつか英文ワープロ専用機が登場した。しかしローマ字圏ではタイプライターで間に合うことから高価なワープロ専用機の必要性が少ないため、タイプライターから直にパソコンのワープロソフトへ短期間で移行したことが多く、ワープロ専用機はそれほど普及しなかった。
一方日本では、アルファベットより複雑な字形の印刷、漢字入力の方式策定という課題があったため、開発が困難であったが、登場するとたちまち受け入れられた。そのため20世紀日本では多くの場合、手書き・ガリ版→ワープロ専用機→パソコンでのワープロソフトとタイプライターを経ないで移行が行われた。
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ワードプロセッサ
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一方日本では、アルファベットより複雑な字形の印刷、漢字入力の方式策定という課題があったため、開発が困難であったが、登場するとたちまち受け入れられた。そのため20世紀日本では多くの場合、手書き・ガリ版→ワープロ専用機→パソコンでのワープロソフトとタイプライターを経ないで移行が行われた。
さらに、インターネットが普及していない時代であったために紙印刷する必要があり、印刷機の歴史もこれに追随することとなる。
1977年(昭和52年)、シャープが試作機を開発、5月のビジネスシヨウに出品した。なお、後に商品化したモデル(WD-3000)ではかな漢字変換は実装されていなかった。
1978年(昭和53年)、東芝が初の日本語ワードプロセッサJW-10を発表した。これはワープロ専用機で、発売価格は630万円であった。この発明は電気・電子技術における歴史的な業績として、2008年にIEEEマイルストーンに認定された。
日本語版の実現には、かな文字を入力し、その読みから候補となる漢字を選択する、コンピュータによるかな漢字変換の仕組みが開発されたことがあった。当初から構文解析を行い、文節単位、熟語単位の変換が可能となっており、同音語の学習機能も備えていた。かな漢字変換機構は、単に日本語ワードプロセッサ専用機の実用化だけではなく、汎用コンピュータに限らず電子手帳や携帯電話等の電子機器も含めた、広い意味でのコンピュータによる日本語利用を普及させるための核心となる技術であった。
1979年(昭和54年)3月、沖電気が OKI WORD EDITOR-200 を発表。キーボード入力を採用し、漢字入力は1字ごとに変換する方式であった。音読みでかな入力すると同じ読みの漢字がリスト表示され、その中から入力したい文字を選択するかたちである。
同年9月、シャープが書院WD-3000を発表。キーボード入力・かな漢字変換ではなく、タッチペン方式であった。キーボードの方が能率がいいのはわかっていたが、「キーボードアレルギー」対策だとのことである。
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ワードプロセッサ
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同年9月、シャープが書院WD-3000を発表。キーボード入力・かな漢字変換ではなく、タッチペン方式であった。キーボードの方が能率がいいのはわかっていたが、「キーボードアレルギー」対策だとのことである。
翌1980年(昭和55年)より電機メーカー、事務機メーカーなどが次々と日本語ワープロ市場に参入し、競争により価格も下がり、大手企業への導入が進んだ。同年に平均単価200万円だったワープロの価格は、1985年(昭和60年)には16.4万円と劇的に下がった。なお古瀬幸広によれば「ワープロ」の略称が一般に普及したのは、1982年に関取の高見山を起用した富士通のワープロ「マイオアシス」のコマーシャルとしている。同年5月6日(NEC文豪NWP-11N発表の4日前)に富士通が発表したマイオアシスの価格は75万円であった。
1985年(昭和60年)のビジネスシヨウでカシオが59,800円のカシオワードHW-100を披露し衝撃を与え、それに対してキヤノンが49,800円のPW-10Eを出して追随するなどワープロは一気に低価格化し、マスコミには「電卓戦争の再現」として取り上げられるようになった。ソニー、セイコーエプソンなどの企業も参入し、パーソナルワープロブームとなった。
1980年代後半には、ワープロ専用機は、持ち運びが可能な大きさまで小型化されたパーソナルワープロとして、中小企業や個人への導入が始まった。
この頃の個人向けパーソナルワープロは、本体にキーボードに一体化されたプリンタと数行程度の液晶表示パネルを備える専用機であり、文章の作成、校正、編集、印刷などの機能を持つだけであった。機械の性能が向上するに連れて、液晶表示パネルの表示行数が増加し文書全体のレイアウトを把握しやすくなり、また印字機能の発達により明朝体のみだった印刷フォントもゴシック体や毛筆体など種類が増え、写植に匹敵するような高精細な印字が可能となった。さらには図形の描画・絵文字・はがき印刷(表面・裏面)や、カード型データベース・住所録・表計算・パソコン通信などの付加機能も搭載されているものが増え、テキストの処理に関しては当時のパーソナルコンピュータ(パソコン)と同等以上の高機能となった。
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ワードプロセッサ
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また、1980年代にはこれら個人向け製品の流れとは別に、ビジネス用途としてワークステーションに漢字処理機能が搭載されパーソナルワープロ同様の機能に加え様々な組版機能が盛り込まれた物が登場する。これらの多くは企業内での文書作成の写植システムとして活用され、パーソナルワープロとは別の道を歩むこととなった。
その一方でパーソナルコンピュータには漢字ROMが搭載され、BASIC(当時はオペレーティングシステム (OS) も兼ねていた)でも漢字を使用することができるようになり、安価なワープロソフトやプリンタが登場するに至った。この後、パソコンの代表機種であるPC/AT互換機で漢字ROM無しに漢字処理ができるようになり、パソコンの普及は加速するに至る。
1990年代に入ると画面が白黒からカラー液晶へと進化を見せる部分があるものの、パソコンやワープロソフトの低価格化、安価なパソコン用高性能プリンターの登場などによりシェアを奪われ、普及し始めたインターネットへのアクセスも悪かったため、その売れ行きは落ちた。出荷台数は1989年(平成元年)、出荷金額は1991年(平成3年)をピークに漸減し、ワープロ専用機の世帯普及率も1998年(平成10年)をピークに急低下、1999年(平成11年)にはついにパソコンの売上がワープロ専用機の売上を逆転した。
2000年(平成12年)2月にシャープが「書院」シリーズの「WD-CP2」を発表したのを最後に新機種は出なくなり、2003年(平成15年)9月末に同機種と「WD-VP3」「WD-MF01」の3機種が生産中止となったことにより、ワープロ専用機は全社で製造を終了した。企業内での文書作成も、一般のビジネスソフトと市販プリンタで代替されていき姿を消した。
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ワードプロセッサ
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2000年(平成12年)2月にシャープが「書院」シリーズの「WD-CP2」を発表したのを最後に新機種は出なくなり、2003年(平成15年)9月末に同機種と「WD-VP3」「WD-MF01」の3機種が生産中止となったことにより、ワープロ専用機は全社で製造を終了した。企業内での文書作成も、一般のビジネスソフトと市販プリンタで代替されていき姿を消した。
ワープロ専用機で作られた多くの文書資産をどうパソコンに移行させるかは、多くの企業にとって悩みの種だった。とりわけ専用機は罫線や振り仮名などで各社独自の工夫でデータ処理していた。パソコン側のソフトウェアでも変換機能を搭載したものもあるが、罫線や各社の絵文字、記号などは変換することはできず、また同じメーカーでも機能の多様化で処理方法が変化したりしており、本文のテキスト化がせいぜいといった程度であった。このため、各社ともにワープロの終焉とともにパソコンでの再現性を高め、データを移行させるためのソフトウェアの開発が求められた。それは必ずしも完全な復元を約束したものではなかったが、それなりに再現でき、一定の役割を果たした。
「Power書院」・「Rupo Writer」・「キヤノワードJ for Windows」、またIMEとして「Rupo ACE」が発売されていたが、いずれも販売を終了している。2018年時点でも未だ「OASYS V10」のみ開発・販売が続けられていたが、2020年9月30日を以て個人向けの販売が終了し、法人向けもそれに続く。サポートは2023年まで継続される。リコーでは2009年にワープロ専用機のシステムFDコピーおよび文書コンバートサービスが、さらに 2017年にはお問い合わせ窓口の対応が終了した。
ワープロ専用機を支持する熱心なユーザーも多く、中古機市場での相場が上昇したこともある。21世紀に入ってからもオークションなどでは連日のように状態を問わず取引されている。その反面、ワープロ専用機の利用者は積極的にインターネットでの情報交換を行わない傾向が強い。レトロゲームや万年筆のような骨董品的価値を見出す動きもそれほど無いため、既に動態状態かつ付属品が全て揃っている資料的価値の高いのものが絶滅してしまったと思われる機種も出始めている。
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ワードプロセッサ
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ワープロ専用機のユーザーが根強くいる理由には、1960年代中期までに生まれた世代には慣れ親しんだワープロ専用機への愛着が強いこと、小説家、翻訳家など文筆業などで連続稼働をしてもクラッシュを起こさない作業環境の高い安定性と快適さ、キーボードの品質の高さ、ネットワーク経由での情報漏洩を懸念している現場、昭和~バブル家電の収集愛好家からの支持などである。
さらに、ワープロ専用機は必要な機能が本体ハードウエアに一体化されており電源を入れるだけですぐ使えること、パソコンのような色々な操作やパッチ(フィックス)適用などがほぼ不要なことが挙げられる(逆に言えば7桁郵便番号への対応などが殆どの機種で行えない)。
インクリボンや印字用紙の生産終了(TYPE-W型のインクリボン採用機など)、押入れや屋根裏部屋、ロフト、床下収納、車庫、物置など高温多湿下の劣悪な保管環境による液晶パネルの画面焼け(ビネガーシンドローム、システムディスクの破損)、システムディスク原本の破損や紛失(劣化やカビ、著作権法の制約による修理不能問題)、乾電池を抜かずに保管した結果として電池の液漏れによるメイン基板の破損、メーカーからの一部修理業者に対する訴訟リスクによる廃業、ベルトドライブ方式のフロッピーディスクドライブの補修部品供給終了、フロッピーディスク媒体の入手性低下、用紙送りノブの破損、プリンタのローラのゴムの劣化、修理費の高騰などにより年々維持が難しくなりつつあるのが実状である。
ワープロの製造・修理サポートが終了以後は、修理専門の業者が既存で残った製品の部品から使えるものを選び出し、壊れた製品のそれと交換するかたち(いわゆるニコイチ修理)でしのいでいる。
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ワードプロセッサ
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ワープロの製造・修理サポートが終了以後は、修理専門の業者が既存で残った製品の部品から使えるものを選び出し、壊れた製品のそれと交換するかたち(いわゆるニコイチ修理)でしのいでいる。
なお、大昔のワープロでインターネットサイトを閲覧しようとしてもその後登場した技術・規格に対応していないため、しっかり表示できるのはインターネット黎明期に誕生したサイトやテキストサイト程度である。2018年、ねとらぼが1997年のワープロでインターネットに接続したところ、Googleの通常検索と画像検索は使えるが地図検索は使用不能、ニュースサイトは閲覧できるがレイアウトが大きくずれる、さらにニコニコ動画などの動画サイトは動画ウィンドウが表示されないなど、実用に堪えず、「まともなブラウジングはできません」「無間地獄」と評している。なお当時の一般的なワープロでは、CPUが現代のものと比べると圧倒的に低性能であるため、液晶ディスプレイはモノクロ16階調で、画面解像度はVGA(640×480)以下、処理速度の問題からの動画再生には対応できず、インターネット閲覧機能を持っている機種も一部の高級機に限られていた。
21世紀に入ってからも、書いた文書をその場ですぐサーマルプリンターで印刷して利用できる、場所を選ばずに印刷して相手に手渡したり推敲ができる、ラベルシールプリンターとして手軽に使用できるなどの部分があるため、2000年代後半からスマートフォン・タブレットの技術を応用して作られた、年賀状印刷に特化した液晶・キーボード付きのフォトプリンタ(CASIO プリン写ル・EPSON 年賀状 宛名達人等)や、プレーンテキストの入力に特化したポメラなど、ワープロのコンセプトを取り入れた製品が発売された。
1980年代、デジタル文房具として急速な普及を見せたワープロは、従来の手書き、あるいは和文タイプによる文書作成にはない特長を備えていた。また、パーソナルコンピュータの普及が始まっていた時代であったが、専用機としての利点によって一定の商品性があった。以下にそれらをあげる。
これらのほか、さらに次のような機能をもつ機種もあった。
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ワードプロセッサ
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1980年代、デジタル文房具として急速な普及を見せたワープロは、従来の手書き、あるいは和文タイプによる文書作成にはない特長を備えていた。また、パーソナルコンピュータの普及が始まっていた時代であったが、専用機としての利点によって一定の商品性があった。以下にそれらをあげる。
これらのほか、さらに次のような機能をもつ機種もあった。
以上のような特長は今となってはワープロ独自の機能とはいえないが、その多くはワープロ専用機で培われた機能であり、パソコンでの文書作成が主流となった現在でも、日本語文書の編集にまつわる多くの機能は、ワープロ専用機をベースにしたものとなっている。
ワープロソフト、ワープロ専用機で作成した文書はファイルとして保存する。ワープロ専用機はファイルを2DD、2HDなどのフロッピーディスク、オーディオカセットテープ(初期のパーソナル機のみ)、ハードディスク(一部機種)、S-RAMカードに保存するが、各社のワープロ専用機のフロッピーディスクの文書フォーマットも統一されていない状態で普及した。唯一、NECのみはフロッピーディスクのフォーマットを、パソコンのPC-9800シリーズ(MS-DOS使用時)と共通化していた。
さらに文書ファイルの内部はワープロソフトによってそれぞれ独自の形式になっている。このようなことからワープロソフト間、ワープロ専用機とパソコンのワープロ間でファイルを交換するには専用の文書ファイル・コンバータが必要である。そのために、「リッチテキスト・コンバータ」などのソフトも発売されていた。また、OASYS LX-9000 など後期の機種には文章コンバータが標準搭載されているため、そちらを利用することで各社形式から一太郎形式などへ変換することも可能である。ただし、カセットテープで記録されたものに関しては当時の実機材と専用オプションが必要になる。また、リコー・マイリポート JPシリーズでは変換用のソフトが存在せず、メーカー公式のデータ変換サービスも終了しているため新たに中古で入手する場合は注意が必要である。変換方法の存在しない機種での文書変換には実機での印刷後にOCR処理でPDFまたはテキストへ変換する必要がある。
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ワードプロセッサ
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次のような裏技もある。ワープロ専用機の全盛時代には、パソコン用ワープロソフト市場は、ジャストシステムの一太郎シリーズやマイクロソフトのワードが存在感をみせていた。このため、ワープロ専用機では、一太郎形式やワード形式には対応するものも多い。そこで、たとえば、書院形式からオアシス形式に変換する場合、書院で「書院形式」→「一太郎形式」でMS-DOSフロッピーディスクに文書を保存し、このFDを今度はオアシスで「一太郎形式」→「オアシス形式」に読み込めば、ある程度書式や罫線を維持したまま、異なるワープロ専用機の間で受け渡しをできた。
利用環境が限定されるが、FAXモデム搭載機であれば、 変換ソフトが無くてもISDNターミナルアダプタなど内線接続用アダプタを間に挟むことで、内線に接続されているFAXまたは複合機経由での印刷や PDF, jpeg, png などの汎用画像形式への変換(テキスト化にはOCR処理と修正作業が必要)、さらに複合機の機種によってはePub形式による電子書籍化、メールでの送信、スマートフォンでの閲覧やネットへの公開が可能である。内線であるため通話料は掛からない。
FAXを使用する方法は内蔵プリンタの故障・修理不能や消耗品の供給終了に怯えたり、故障の度に高額な修理費を用意する必要がなく、豊富に流通している入手性の良い中古複合機やFAX専用機を安価に活用できる。欠点として、はがきなど特殊用途の印刷は対応していない、解決策としては環境構築が煩雑であり、やや特殊な機材が必要になるため、レガシー技術についての知識と経験のある技術者の支援・指導が必要である。なお、ワープロ専用機側のFAXソフトウェアによっては内線の使用は不可能であるため、事前に説明書などで確認と検証が必要である。
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レイトレーシング
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レイトレーシング(英: ray tracing, 光線追跡法)は、光線などを追跡することで、ある点において観測される像などをシミュレートする手法である。レイ・トレーシングと表記されることもある。物理学の分野では、波または粒子の経路の計算に用いられる。コンピュータグラフィックスの分野では、物理的に正確な反射・屈折・影・間接照明を描画することによってライティングを写実的にシミュレートする技術のことである。
レイトレーシングには大別して順レイトレーシング(forward ray tracing)と逆レイトレーシング(backward ray tracing)がある。順レイトレーシングは光源から物体へと光の粒子(光子、フォトン)を追跡する方法で、フォトントレーシングとも呼ばれる。しかしこの手法は、最終結果に影響を与えない光線も計算するため、計算過程で膨大な無駄が発生しうる。そのため、特にコンピュータグラフィックスの分野では視点から光源への経路を逆にたどることで効率化を図った、逆レイトレーシングが使われる。逆レイトレーシングは視線追跡法と呼ばれることもある。
光線の他、直線的に伝わる(回折などの影響が少ない)ものであれば任意の波に適用できる手法であり、たとえば光以外の波長の短い電磁波(電波)や音波など(地震波や超音波など)が挙げられる。「波線追跡法」「音線追跡法」などといった語もある。
ある点(ある人の視点・耳・電波観測装置など)に届く光線・波線(電波の仮想的な線)・音線(音波の仮想的な線)などを逆にたどることによって、その点における視像(画像)・音像などを描画する。たとえば光線であれば、物体の表面の反射率、また透明度・屈折率等々を細かく反映させた像を得られるのが特徴であり、1画素ずつ光線の経路を計算するので、光源形状に応じた光沢の反映や金属表面への周囲環境の映り込み、ガラスや水の透過屈折現象など、写実的に描画することができるという特長がある。しかしその反面、一般的に大量の光線の追跡により計算量は非常に多くなる。
この手法では反射や屈折は忠実に再現できるが、回折は近似やモデリングを必要とする。対象が異なっても伝播経路を追跡する基本的な原則は共通であるが、計算手順はそれぞれで異なる。
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レイトレーシング
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この手法では反射や屈折は忠実に再現できるが、回折は近似やモデリングを必要とする。対象が異なっても伝播経路を追跡する基本的な原則は共通であるが、計算手順はそれぞれで異なる。
レイトレーシングの基本は、レイ (英: ray) すなわち光線を扱うものであり、光の光学的振る舞いをシミュレートする。これは3次元コンピュータグラフィックス (3DCG) を描画するレンダリング技法のひとつとして応用されている。
光は反射鏡やレンズに対して反射・屈折をするが、その様子を幾何光学的に追いかけて、光がどのような振る舞いをするのかについて知ることができる。通常、反射は正反射を用い、屈折はスネルの法則に従って計算する。またレンズなどの複数の光学素子を組み合わせた場合、光線を追う計算は複雑で面倒なものになってしまうが、1930年代にThomas Smithにより行列を用いて容易に計算する方法が見出された。
レンズや反射鏡を用いる光学機器の開発に用いられ、物体の像をつくるときに発生する収差を推定することに用いられる。
コンピュータの出現以前は、手計算を用いていたため膨大な時間がかかったが、コンピュータによって高速かつ大量の計算が可能になった。コンピュータの進歩に伴い、3次元コンピュータグラフィックスで光の当たり方や物体の見え方のシミュレーションにも用いられるようになっている。この場合、乱反射や散乱といった現象も含めて計算される。
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レイトレーシング
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コンピュータの出現以前は、手計算を用いていたため膨大な時間がかかったが、コンピュータによって高速かつ大量の計算が可能になった。コンピュータの進歩に伴い、3次元コンピュータグラフィックスで光の当たり方や物体の見え方のシミュレーションにも用いられるようになっている。この場合、乱反射や散乱といった現象も含めて計算される。
この手法は、カメラや観察者に相当する受信点を中心に画角となる2次元方向内の微小な角度ごとのそれぞれの方向から受け取るはずの光線(レイ)について、算術演算処理をそれぞれ行うことで仮想的に逆方向に追跡し、その方向に何が見えるかを判定する。透明な物体では境界面ごとに複数の屈折光と反射光に分かれるが、それぞれの伝播経路を計算する。わずかな吸収を除けばほとんどが反射光となる鏡面反射では演算量があまり増えないが、透明や鏡面でない物体の表面は周囲のあらゆる方向へ光を乱反射しているため、それらをすべて演算しようとすれば演算量が指数関数的に増えてしまい有限時間内には処理できなくなる。こういった拡散反射は乱数によってランダムに選ばれた方向のみに限定することで演算量を現実的な処理量に抑えた「モンテカルロ・レイトレーシング」(Monte Carlo Ray Tracing) によってシミュレートされる。モンテカルロ・レイトレーシングの内でも「分散レイトレーシング」と呼ばれる手法では、ある程度のリアルさをシミュレートするために拡散反射する表面ごとに逆追跡が必要な経路が多数生じるため、複数の表面同士で反射する光まで再現しようとしてやはり演算処理量が爆発的に増加してしまう。拡散反射する表面での逆追跡が必要な経路をランダムに1つだけ生む手法は「パス・レイトレーシング」と呼ばれる。
レイトレーシングに似た手法、または最も広義のレイトレーシング手法の1つとも考えられるものに「フォトン・マッピング」がある。レイトレーシングが観察者やカメラ側から光線の経路を逆追跡するのに対して、フォトン・マッピングでは光源側から光線の経路を再現する。
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レイトレーシング
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レイトレーシングに似た手法、または最も広義のレイトレーシング手法の1つとも考えられるものに「フォトン・マッピング」がある。レイトレーシングが観察者やカメラ側から光線の経路を逆追跡するのに対して、フォトン・マッピングでは光源側から光線の経路を再現する。
なお、熱力学的なアプローチによって、光源が放射する光のエネルギーを解析し、物体表面の拡散反射をシミュレートする手法としてラジオシティがある。ラジオシティ法はグローバル・イルミネーションを実現する手法のひとつであり、(古典的な)レイトレーシング法が苦手とする、相互反射による柔らかな間接照明をレンダリングすることができるが、レイトレーシングよりもさらに膨大な計算が必要となる。
3DCGにおけるレイトレーシングは1979年にレンダリング手法のひとつとして考案された。この最初に考案された狭義のレイトレーシング手法は、単純な形状の透明な物体や鏡面を再現するには効果的であったが、ざらついた質感を持つ物体の表面を表現したり複雑な形状を再現するには当時のコンピュータの処理能力の制約もあって適していなかった。その後、表現力を広げるための新たな手法が「モンテカルロ・レイトレーシング」「分散レイトレーシング」「パス・レイトレーシング」として考案され、こういった広義でのレイトレーシング手法は、21世紀初頭現在、間接光を再現する大域照明技術の代表的なものとなっている。
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レイトレーシング
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20世紀末から2000年代最初の数年間までは、映画のような動画を作るにも1フレーム当たり数分や十時間ほどもその当時の最新のコンピュータで演算する必要があり、2009年現在では、大規模な高精細度の動画生成が求められる映画産業や工業デザイン産業ではレンダー・ファームと呼ばれる100-1,000台規模のクラスタ・サーバーを構築することで対応している。広義でのレイトレーシング手法だけを用いて動画を生成しようとすると、高精細で複雑な照明効果をリアルに再現した画像を短時間に生み出すにはさらに巨大なコンピュータ群を必要とする。そのため、実際の一般的なコンピュータ・グラフィックス映像では、間接光などの再現はレイトレーシングだけに頼らず、影の再現は「シャドウ・マッピング」や「アンビエント・オクルージョン」や「ライトマップ」などを使ったり、光沢面への周囲の写り込みは「環境マッピング」などを使ったり、場合によっては人が描いた2次元画像を物体表面の模様としてテクスチャマッピングしたり、オーサリングツール上で重ね合わせたりするなど、複合的・疑似的あるいは人手を介した多様な手法によって製作されている。
2009年現在、マルチコア化したプロセッサ(マルチコア・マルチソケットCPUやGPU)に代表される高性能な並列処理能力が得られるようになりつつあり、映画や工業デザイン分野では人手を介した作業が廃されてすべてをレイトレーシングベースの処理に集約することや、また映画や工業デザインのみで作られていたリアルな画像が、今後は個人所有のPC上でもゲームのような用途で短時間で製作できるようになる可能性がある。
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レイトレーシング
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2009年現在、マルチコア化したプロセッサ(マルチコア・マルチソケットCPUやGPU)に代表される高性能な並列処理能力が得られるようになりつつあり、映画や工業デザイン分野では人手を介した作業が廃されてすべてをレイトレーシングベースの処理に集約することや、また映画や工業デザインのみで作られていたリアルな画像が、今後は個人所有のPC上でもゲームのような用途で短時間で製作できるようになる可能性がある。
レイトレーシングによる物理学的に正確で現実に即した光のシミュレーションには膨大な計算が必要となるため、長らく技術デモやプロダクションレンダリング(映画やCMなど)でのみ使用されてきた。特に実時間(リアルタイム)での描画が必要なシミュレーションやコンピュータゲームでは、時間的・資源的な制約から、光源と可視ポリゴン(あるいは3次元空間のポリゴンを2次元空間にラスタライズした後のピクセル)との1対1の位置関係のみを考慮したベクトル計算と塗りつぶしだけで簡易的かつ高速に描画できるラスタライズ法が採用されることが普通であったが、ハードウェアの高性能化に伴いリアルタイムレンダリングでもレイトレーシングおよびグローバルイルミネーションを活用する道が開けつつある。
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レイトレーシング
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2020年現在、GPUベースのリアルタイムレイトレーシングを実現しているAPI(ライブラリ、レンダリングエンジン)としては、NVIDIA OptiX(英語版) 、イマジネーションテクノロジーズ(英語版)のOpenRL(英語版) 、DirectX Raytracing(英語版) (DXR)、Vulkan Ray Tracing、そしてMetal Ray Tracingが挙げられる。GPUによるリアルタイムレイトレーシングは、GPUがプログラマブルシェーダーに対応し、さらに汎用計算 (GPGPU) に対応するよう進化してきたおかげで可能となった。NVIDIA OptiXはAdobe After Effects CCやBlenderのCyclesエンジンなどに採用されている。Vulkanにおけるレイトレーシングは当初NVIDIAの拡張として実装されていたが、その後Khronosによって標準拡張として採用されており、DXRとよく似た設計になっている。2018年にリリースされたNVIDIA GeForce RTX 20シリーズは、リアルタイムレイトレーシングのハードウェアアクセラレーションに対応したRTコアを初めて搭載したGPUである。ハイエンドのAAAゲームタイトルではすでにDXRの活用が始まっている。2020年後半にリリースされたRDNA 2ベースのAMD Radeon RX 6000シリーズや、2022年登場のIntel Arcもリアルタイムレイトレーシングに対応している。
また、CPUベースのリアルタイムレイトレーシングを実現しているソフトウェアとしてはKeyShot が挙げられる。
広義のレイトレーシングは、実写では再現不可能な映画の特殊効果や、工業用・建築用のデザインで採用されている。ゲーム業界でも部分的に使用されている。
電波のレイトレーシングでは発信点からの電波を仮想的に追跡し、受信点における伝播特性、特に電界密度を得る。多くの場合、これを格子状に、通常は一定の高度の水平面上に配置された受信点に対し繰り返し行い、電界密度マップを得る。このマップは、無線設備の配置の決定などに使われる。
与えられた発信点から与えられた受信点までの波線は一意に定まらないため、次の解法がある。
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レイトレーシング
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電波のレイトレーシングでは発信点からの電波を仮想的に追跡し、受信点における伝播特性、特に電界密度を得る。多くの場合、これを格子状に、通常は一定の高度の水平面上に配置された受信点に対し繰り返し行い、電界密度マップを得る。このマップは、無線設備の配置の決定などに使われる。
与えられた発信点から与えられた受信点までの波線は一意に定まらないため、次の解法がある。
地震波や超音波での通常のレイトレーシングでは、反射・屈折などの条件から、受信点での受信波を計算するが、この場合は、実際に測定された受信波から反射・屈折などの条件(特に波速分布)を逆算し、トモグラフィー(断層画像)を得る。
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POV-Ray
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POV-Ray(ポヴレイ、Persistence of Vision Raytracer)は、多くのコンピュータプラットフォームで利用できるレイトレーシングソフトウェア。
プログラムのソースコードが一般に公開されているオープンソースの3Dレンダリングエンジン(レンダラー)の一つで、独自のC言語風の構造化ドキュメントによりデータを入力し、マクロ関数による半自動配置ができるので、シミュレータとしての利用も可能である。また、数学的モデリングに強い。
拡張版を自由に作成、配布できるという性格から、学術的な新技法の試験実装にもよく用いられる。公式版(2013年11月現在3.7.0)の他に、v3.5に対応する複数の独自拡張版が公開されている。v3.7からはライセンスがAGPLv3に変更された。
1980年代、David Kirk Buckは自身のAmigaにUnixのレイトレーシングソフトのソースコードをダウンロードし、しばらく検証した上で、独自のレイトレーシングソフトを作ることを決意した。 名前は彼自身のイニシャルを取ってDKBTraceと名づけ、需要を見込んで掲示板に投稿した。 1987年にAaron A. CollinsがDKBTraceをダウンロードし、x86用の開発を開始。David Buck本人と協力して他の機能の追加も行った。ソフトウェアが次第に評価を得て需要と期待が増える中、 彼らだけでは開発が存続できなくなったため、1991年7月にプログラマを集めてチームが結成された。同時にDavidはソフトウェアに自身のイニシャルを含めるのは適切でないと感じ、名前を変更することにした。 「STAR」(Software Taskforce on Animation and Rendering)という候補もあったが、結局「Persistence of Vision Raytracer」(省略形:POV-Ray)に決定した。
POV-Rayの機能は開発当初から充実していたが、近年のバージョンでは以下の機能を搭載している。
POV-Rayにはサードパーティーによるサポートが多いのが魅力である。多くのツール、テクスチャ、モデル、背景、チュートリアルがWeb上から使用可能である。
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NAPLPS
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NAPLPS(North American Presentation Level Protocol Syntax、ナプルプス)はビデオテックスの国際規格のひとつ。AT&Tによってカナダ政府の作ったTelidonシステム方式を基に作られたもの。ニフティサーブの天気予報で使われたり、キャプテンシステムではこれをもととした方式で情報が提供されていた。
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食事
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食事()とは、基本的には生命維持に必要な栄養素を摂取するために、日々習慣的に何かを食べること、そこから転じて、その時食べるものを指すこともある。「衣食住」の「食」にあたる。口語では「御飯()」と呼ばれる。
生命維持に欠かせない必須の栄養素を摂取するために食べ物を食べる行為を指すが、そのためだけではなく、「自身の家族や仲間と一緒の時間を和やかにすごすため」「『分かち合い』を実感・共有するため」「料理を作ってくれた人の愛を実感するため」「味を楽しむため」など様々な目的や意味を込めつつ、人は食事をする。洋の東西を問わず、食事の席に誰かを招待するのは、「歓迎」の意味がある。自ら調理した料理(手料理)を食べてもらうということは、親しい関係につながる。
鬱病の専門医、井出雅弘は自著で次のように解説している。
かむという運動は、脳の満腹中枢を刺激しますから、たくさん食べなくても満足感が得られ、肥満予防にも役立ちます。かむ回数は、食べ物の大きさや硬さにもよりますが、ひと口20~30回くらいがよいといわれています。
食事の時刻、回数、食事の種類、調理法、食べ方には、文化、宗教、個人的な好みや栄養学に基づく知識も反映される。日々の暮らしの中でも、食事に関する事柄全般を指して「食生活」と呼ばれる。
宗教と食事・食生活には大きなかかわりがある。だがひとつひとつの宗教ごとに、宗教と食事の関係は異なる。
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食事
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食事の時刻、回数、食事の種類、調理法、食べ方には、文化、宗教、個人的な好みや栄養学に基づく知識も反映される。日々の暮らしの中でも、食事に関する事柄全般を指して「食生活」と呼ばれる。
宗教と食事・食生活には大きなかかわりがある。だがひとつひとつの宗教ごとに、宗教と食事の関係は異なる。
ユダヤ教では、旧約聖書に食べてよいもの、食べていけないもの、一緒に食べてはいけないものの組み合わせ、動物の屠り方、調理法に関する規定が細かく記述されており、ユダヤ教のこの食物規定を「カシュルート」や「コーシェル」と呼ぶ(とはいえ、ユダヤ教もいくつもの教派に分かれていて、厳格な教派ではそれを厳格に守る一方、緩やかな教派ではあまり守られてはいない)。"カシュルートを守っているユダヤ教徒の場合は" の話だが、現在でもさまざまな食べ物を食べられない。たとえばヘブライ語聖書に「子ヤギの肉を、その母の乳で煮てはならない」という規定がある(出エジプト記23:18,19)ので(また、その規定の意図は「ある動物種の親と子を同時に食べてはいけない」という意味なのだと、ユダヤ教の指導者やトーラー学者などによって解釈(法解釈)されているので、結果として)チーズバーガーや親子丼も食べられない。海老や蟹のような甲殻類、貝類・タコ・イカも一切食べてはいけない、と教えている。レビ記第11章10節に『海でも川でも、水に群生するものすべて、また水の中にいる生き物のうち鰭(ひれ)や鱗のないものはすべて、あなた方にとっては忌むべきものである』と書かれているからである。
新約聖書にはイエスと弟子たちが食事をする場面がある。キリスト教における聖餐は新約聖書に「イエスが十字架に架けられる前に、弟子たちと食事し、自分の記念としてこの食事を行うよう命じた」と書かれていることにもとづいて行われている。キリスト教徒は聖餐を行うことで「そこにキリストが確かに現存している」という信仰を保持している。
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食事
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新約聖書にはイエスと弟子たちが食事をする場面がある。キリスト教における聖餐は新約聖書に「イエスが十字架に架けられる前に、弟子たちと食事し、自分の記念としてこの食事を行うよう命じた」と書かれていることにもとづいて行われている。キリスト教徒は聖餐を行うことで「そこにキリストが確かに現存している」という信仰を保持している。
イエス・キリストは、当時のユダヤ教のファリサイ派(律法学者)の者たちがこまごまとしたルールばかりを持ちだして、人生のさまざまな分野のさまざまなことをこまごまと禁止ばかりして、人々を苦しめてばかりいることを目にし、「口に入るものは人を汚すことはない。その逆で、口から出るもの(=人が言う言葉)が人を汚すのである」(『マタイによる福音書』15:11)と述べて、ユダヤ教の食物規定全体を真っ向から否定し、ファリサイ派や律法学者たちの、物質的な面ばかり重視する姿勢や、心や言葉のほうをないがしろにする姿勢、その宗教者としてのありかたを根本から批判した。キリスト教徒の多くはイエスの言葉にしたがうようになり、トーラー(モーセ五書)に書かれた食物規定は全て無効となった、と見なすようになった。キリスト教はその初期段階において、ユダヤ教における厳格な食事規定を大幅に緩めた(使徒行伝第10章)。これはユダヤ教のこまごました規定になじめない人々に歓迎され、地中海世界でキリスト教が広まる遠因にもなった。キリスト教はユダヤ教とは異なり、「(キリスト教徒として)食べてはいけない食材」は無く、牛肉・豚肉・鶏肉、魚介類、いずれも全て食べることが可能であり、飲酒も許可されている。
イスラームには、ハラールがあり、食べて良いもの/いけないもの や、調理に関する細かい規則が定められている。豚は不浄とされ、食べるのは禁じられている。
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食事
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イスラームには、ハラールがあり、食べて良いもの/いけないもの や、調理に関する細かい規則が定められている。豚は不浄とされ、食べるのは禁じられている。
ラマダーンの月には、(日が昇ってから沈むまでの間は)水や食べ物をいっさい口にしない。そうすることで、「貧しくて食べるものが無く苦労している人々の状況を体感し、そういった人々の気持ち、つらさを皆で意識的に共有する」のを目的としている。また、ラマダーンの期間には、恵まれない人々への寄付も行われる。日没後には、家族・親族が大勢集まり、にぎやかに、楽しく、一緒に食事をする。ムスリムにとってラマダーンは「食べられることの大きな喜び」や「家族・親族やコミュニティとの一体感」を共有する時期でもある。また、ラマダーンは全世界にいるムスリムたちが同時に行うものであり、(国境を越えて)全世界のイスラームとの連帯感を共有する期間でもある。
ヒンドゥー教では、牛を神聖なもの(大切なもの)として、食べるのを禁じている。
釈迦自身は肉食を禁止したことは一度も無い。原始仏教においては、「動物が殺されるところを見ていない」「自分に供するために動物を殺した、とは聞いていない」「自分に供するために動物を殺した、とは知らない」、これらを満たしていれば、それが動物の肉であっても食べてよい、ということであった(→「三種の浄肉」)。だが、釈迦の死後からおよそ500年経過してから生じた大乗仏教においては、「肉食は厳禁」となった。
日本においては、かつて仏教に熱心だった天武天皇が肉食を禁ずる勅令(675年に公布された「天武の勅令」)を出したことで、日本人は長きにわたりほとんどの動物性食品を公には食べられなくなった。
ただし修行の一環である「托鉢」(「たくはつ」、修行の一環として行う物乞い)においては、他人が取っていた食事で余ったものを物乞いし、頂いたものを食べる。あくまで余りものを食べるのであり、それが肉であったとしても問題にはならない。他人に物乞いする以上、好き嫌いを示してはならない、という教えである。相手から施されたものは、肉であれ、魚であれ、選り好みをせずに食べるのが原則であり、鉢に入れたものを日々の糧とし、僧侶による肉食は禁止されてはいなかった。
日本の仏教(の僧侶)においては、早朝の乞食行を経て午前中のみ食事し、午後には固形物を一切食べない。
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食事
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日本の仏教(の僧侶)においては、早朝の乞食行を経て午前中のみ食事し、午後には固形物を一切食べない。
西洋では、1800年ごろまで1日2食であったという。
食事の回数自体には固執せず、「空腹を感じたら食べる」ようにする場合もある。
20世紀前半、国立栄養研究所での実験と、栄養学に基づく研究から、「1日3食」が推奨された。それまでは「1日2食」であり、それぞれ「朝餉」と「夕餉」と呼んだ。
フランシスコ・ザビエルが1549年頃に書いた報告書には「日本人は1日に食事を3回する」とある。戦国期当時、戦場では1日3食であった。30日間までは、食料は自己負担だが、30日を過ぎて長期戦となると、軍=大名からの支給制へと移り、1日の消費量は、1人につき6合分(約900グラム)支給されていた。一回の食事につき、米2合分(約300グラム)ということになる(米だけで1日の摂取エネルギーが3204kcalにもなり、塩も支給されていた)。夜戦の際には増配された。
江戸時代に庶民が1日3食を取るようになったのは元禄年間(17世紀末)からとされる。牢中の囚人に対する食事の回数は身分によって違い、江戸市中小伝馬町牢屋敷では、庶民は朝夕の2回に対し、武士は朝昼夕の3回で、罪人であっても地位によって待遇に差があった。17世紀の日本において1日3食が広まった理由として、「照明が明るくなった町の商舗経営の長時間化が刺激になった」とも考えられており、身分・職種(力士)によっては2食が残った。庶民3食化のきっかけについては、「明暦の大火(17世紀中頃)後の復旧工事に駆り出された職人に昼食を出したところ、広まった」ともいわれている。他にも1日3食を記録した例として、幕末の忍藩下級藩士が記した絵日記である『石城日記』があり、朝昼夕とその日に食した内容が細かく記述されている(日付によっては、3食とも茶漬けとある)。なお『石城日記』では昼食を「午飯」と記している。
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食事
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農家においては農繁期になると、1日の食事が4 - 5回に増える(後述書 p.37.)。一例として、昭和期の埼玉県秩父地方では、朝飯前の「茶がし」、次いで「朝飯」、午前10時に「四つ飯」、「昼飯」、午後3時のお茶を「こじゅうはん」(オチャゾッペエ・ニハチとも)、「ようめし」、夜なべの後の「夜食」といった具合に、3食以上となっており、3度の食事は「ご飯、または、おまんま」と呼んで区別している(倉林正次 『11日本の民俗 埼玉』 第一法規 1972年 p.37.)。
現代では、朝食、昼食、夕食、計3回食事を摂る習慣が一般的となっている。昼間に活動し、夜間は眠るという通常の生活サイクルに合わせたものであるが、夜食を摂る場合や、朝食や昼食の間、昼食から夕食の間に間食を摂る場合もある。
柴田明夫の説明によると、食事内容(食べる食品)は所得の増加によって、地域や民族を問わず、以下の四段階のパターンをたどるという。
なお、この段階が進むにつれて、穀物の消費量が加速度的に増える。というのは、食肉の消費を増やすということは、その食肉の生産のために、家畜に食べさせるための飼料として穀物が消費されるからである。
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ソニー
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ソニー株式会社(英: Sony Corporation)は、日本の総合電機メーカーであり、テレビ・デジタルカメラ・スマホ開発事業、ネットワークサービス事業、映像制作ソリューション事業、ライフサイエンス事業を展開するエンタテインメント・テクノロジー&サービス(ET&S)事業を担うソニーグループの企業である。
2021年4月1日のグループ再編以前の法人(旧:東京通信工業株式会社、現:ソニーグループ株式会社)と、以降の法人は別の法人格であるが、商号・営業上は連続しているため、以下では特記しない限り、「ソニー」を名乗った法人について連続して扱う。
1946年に井深大、盛田昭夫、太刀川正三郎らが、日本の東京都中央区日本橋にあった百貨店・白木屋の3階の一室を借りる形で事務所兼工場を設けて創業した。創業当初は中央区・日本橋に拠点を置いていたが、その1年後の1947年には品川区・北品川(御殿山エリア)に移転した。以後約60年間にわたって同地区に分散する形で、多数の関連施設が並ぶ状況だった。このことから「ソニー村」といわれたこともあった。2007年には、港区に建設されたソニーシティに本社が移転され、分散していた施設群のほとんどもソニーシティに統合された。
社名でありブランドであるソニー(Sony)の商号は1955年より使用されており、音を意味する英語の「Sonic」、およびラテン語の「Sonus」と男の子(坊や)を意味する英語の「Sonny」に由来している。その際、日本人が「Sonny」を「ソンニー」と発音し「損」を連想させてしまうことを懸念した盛田が、そこから「n」を1つ取ったことで「Sony」となった。またブランド名を全面的に押し出したカタカナ語の社名への変更は、株主やメインバンクの三井銀行からも当初は反対され、「ソニー電子工業」や「ソニー電気」にすべきと提案されたが、盛田は断として、「我々が世界で伸びるため、断固、ソニー株式会社でいくべきだ」とこだわり、側が折れる形で「ソニー」という社名に落ち着いたともされている。
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ソニー
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かつては独立研究所として「ソニー中央研究所」「ソニー木原研究所」「ソニー中村研究所」「ソニー・インテリジェンス・ダイナミクス研究所」「ソニーコンピュータサイエンス研究所(Sony CSL)」 を擁していたが、中央研究所は1990年代後半に、2006年までにCSL以外のその他の研究所も本社に統合された。
1945年(昭和20年)9月、東京での新会社創設のため、井深大が、太刀川正三郎、樋口晃などの仲間とともに疎開先の長野県須坂から上京。
同年10月、井深らが東京・日本橋の白木屋3階の一室に「東京通信研究所」を立ち上げる。参加した20名のうち、主なメンバーは、以前に井深が設立に関与し、技術担当重役も務めていた日本測定器の若い社員7名であった。この小さな研究所兼工場が、現在のソニーを生み出す母体となった。
のちに朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が、戦時中に井深と親交のあった盛田昭夫の目に留まり、会社設立に合流する。
1946年(昭和21年)、井深、盛田、太刀川などを中心に東京通信工業株式会社(とうきょうつうしんこうぎょう、略:東通工〈とうつうこう〉、英: Tokyo Telecommunications Engineering Corporation)として創業。創業当初は真空管電圧計の製造、販売を行っていた。資本金19万円で、井深の義父である前田多門(終戦直後の東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田が取締役(営業担当)、太刀川が取締役(経理財務担当)、増谷麟が監査役、社員30名弱。東通工の設立趣意書には
と記されている。
1950年(昭和25年)には日本初のテープレコーダー(当時はテープコーダーと呼称)を開発。この頃にテープレコーダーの音質にクレームをつけにきた大賀典雄が合流している。オランダのフィリップス社のような大会社を目指して輸出に注力する方針を立てた東通工は、トランジスタの自社生産に乗り出し、1955年(昭和30年)、日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売した。
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ソニー
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と記されている。
1950年(昭和25年)には日本初のテープレコーダー(当時はテープコーダーと呼称)を開発。この頃にテープレコーダーの音質にクレームをつけにきた大賀典雄が合流している。オランダのフィリップス社のような大会社を目指して輸出に注力する方針を立てた東通工は、トランジスタの自社生産に乗り出し、1955年(昭和30年)、日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売した。
また、製品すべてに「SONY」のマークを入れることにした。「SONY」以外に考えられたブランド名には、東京通信工業の頭文字である「TTK」や、略称である東通工のローマ字表記「Totsuko」、また東京通信工業を英訳した「Tokyo Teletec」などがあった。しかし、「TTK」は東洋陶器(現・TOTO)やTTKグループ(英語版)が略称あるいは商標として用いていた事から、候補から外れた。「Totsuko」は、盛田がアメリカに出張した際、当時のアメリカ支社の社員が発音に苦労しており、英語話者にとって発音が難しいことが分かったため、候補から外れた。「Teletec」については、同じ名のブランドを持つ企業がアメリカにあることが分かり、断念した。
1957年(昭和32年)のトランジスタラジオ「TR-63」は、輸出機として大成功をおさめた。
1958年(昭和33年)1月に東京通信工業株式会社からソニー株式会社に改称。改称にあたっては、主要取引銀行である三井銀行から、すでに東京通信工業が日本国内で知名度を得ていることや、ソニー単独では何の会社か分からないことから、反対の意見が出た。銀行は、「Sony」にどういった会社なのかを示すために「Sony Electronic Industries」や「Sony Teletech」などの社名を提案した。
また社内でも、東京通信工業という社名に愛着を持っている一部の社員たちは、社名変更に反対した。しかし、盛田たちは「Tokyo Tsushin Kogyo」では世界的な認知度を得ることは難しいと考えており、また社名に「Electronic」などの電機関係の言葉をつけることについても「ソニーが将来、エレクトロニクスの会社であるとは限らない」という趣旨を伝え、「ソニー」の社名を押し切った。
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ソニー
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また社内でも、東京通信工業という社名に愛着を持っている一部の社員たちは、社名変更に反対した。しかし、盛田たちは「Tokyo Tsushin Kogyo」では世界的な認知度を得ることは難しいと考えており、また社名に「Electronic」などの電機関係の言葉をつけることについても「ソニーが将来、エレクトロニクスの会社であるとは限らない」という趣旨を伝え、「ソニー」の社名を押し切った。
同年、東京証券取引所市場第一部に上場を果たした。すでに東京通信工業傘下の国内販売会社は、この前年に「ソニー商事」に社名を変更していた。この販売会社の社名変更に大きな混乱はなく、むしろ認知度は上がり、業績が伸びていたことも銀行への説得材料となった。1954年5月、仙台工場(現・仙台テクノロジーセンター、宮城県多賀城市)を設立。
1960年(昭和35年)には、米国に現地法人を設置し自ら販売活動を始め、翌1961年(昭和36年)には日本企業として初めて株式の米国預託証券 (ADR) 発行が日本政府から認められた。また1960年にはスイスに法人を設置してヨーロッパの販売代理店の統括を行うが、1968年(昭和43年)にソニーUKを設置したのを皮切りに国ごとに現地法人を設置していく。1960年(昭和35年)11月に、ソニー厚木工場(現・厚木テクノロジーセンター)開設。
トランジスタの研究開発と応用を進め、1959年(昭和34年)に世界初の直視型ポータブル・トランジスタテレビを発売するが売れず。1961年(昭和36年)には世界初のビデオテープレコーダー(以下、VTR)「SV-201」を開発、1967年(同42)にはトランジスタ電卓を発売した。1964年(昭和39年)には世界初の家庭用オールトランジスタVTR を発表する。その一方で放送用音響機器事業からは一度撤退する。
カラーテレビの開発では出遅れ、良好な画質のカラーテレビを目指して1961年(昭和36年)にクロマトロンの開発に取り組むが量産に至らず、1967年(昭和42年)にトリニトロンカラーテレビの開発に成功した。
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カラーテレビの開発では出遅れ、良好な画質のカラーテレビを目指して1961年(昭和36年)にクロマトロンの開発に取り組むが量産に至らず、1967年(昭和42年)にトリニトロンカラーテレビの開発に成功した。
この時期はエレクトロニクス製品以外の事業にも進出。1961年(昭和36年)にはショールームの建設のため不動産管理会社ソニー企業を設立。1968年(昭和43年)には米国のCBSと合弁でレコード会社CBS・ソニーレコード(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント〈SMEJ〉)を設立し、1988年には米国コロムビア・レコードを買収した。
1970年代は家庭用VTRの普及をめざし、1970年(昭和45年)に松下電器産業・日本ビクターなどと共同してビデオカセット規格「U規格」を立ち上げる。1971年(昭和46年)に対応製品「Uマチック」を発売するが成功せず、1975年(昭和50年)に小型化・低価格化を図ったビデオカセット規格「ベータマックス」を発売する。ベータマックスは日本ビクターが開発した家庭用VTRビデオカセット規格「VHS」と、家電業界を二分する激しい規格争い(ビデオ戦争)を繰り広げたが、結局1988年(昭和63年)にVHS機を並売する形で決着した。一方でCCDを利用したカラーカメラとビデオカセットレコーダーを組み合わせた製品(いわゆるカムコーダ)の開発に取り組み、規格統一を図り1985年(昭和60年)に8ミリビデオとして発表した。
業務用VTRではテレビ放送局用の「Uマチック」を開発して放送用機材事業に再参入し、放送局のフィルム取材からビデオ取材 への移行を促した。ベータマックスをベースに開発された1981年の「ベータカム」はENG市場の95%を占めるスタンダードとなった。VTRのデジタル化、コンピュータ化にも取り組み、1980年代後半から対応製品の販売を始めた。
オーディオ製品においては1960年代からフィリップス社のコンパクトカセット規格のテープレコーダーの製造・販売を行っていたが、若者向け製品としてヘッドフォンで音楽を聴く形式の携帯型カセットテーププレイヤー「ウォークマン」を1979年に発売。1995年度に生産累計が1億5,000万台に達した。日本国立科学博物館に重要科学技術史資料として登録された際には「音楽リスニングを大きく変えた」と評価されている。
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オーディオ製品においては1960年代からフィリップス社のコンパクトカセット規格のテープレコーダーの製造・販売を行っていたが、若者向け製品としてヘッドフォンで音楽を聴く形式の携帯型カセットテーププレイヤー「ウォークマン」を1979年に発売。1995年度に生産累計が1億5,000万台に達した。日本国立科学博物館に重要科学技術史資料として登録された際には「音楽リスニングを大きく変えた」と評価されている。
1975年(昭和50年)には米国のユニオンカーバイド社と合弁で電池事業を始めたが、1986年(昭和61年)にユニオンカーバイド社の経営難から合弁を解消し、単独で事業を継続。電池の研究開発を始めリチウムイオン電池を開発、1990年(平成2年)に製品化を発表した。
1979年(昭和54年)にはソニー・プルデンシャル生命保険を設立 し保険事業に参入した。
オーディオのデジタル化にも取り組み、フィリップス社と共同してCDを開発、CBS・ソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)からのソフトとディスク生産体制の提供を受け1982年(昭和57年)に発売した。1984年(昭和59年)には携帯型CDプレイヤーを発売。
CD以降はユーザーが記録可能な光ディスクの開発にも取り組み、1988年(昭和63年)に光磁気ディスク(MO)を発売した。そして、1992年(平成4年)にMD規格を立ち上げた。映像を記録する光ディスクについてはフィリップス社との共同開発が試みられたが、最終的に規格統一に合意し、DVD規格の立ち上げに参画した。
1970年代末からコンピュータ関連機器の開発に取り組み、1980年(昭和55年)に英文ワープロとポータブル液晶ディスプレイつきタイプライターを発売。1982年(昭和57年)には「SMC-70」を発売してパソコン市場に参入、さらに1983年(昭和58年)には「HitBit」ブランドでホビーパソコン規格MSXへの参入も行った。しかし1980年代に開発されたこれらの商品群は、英文ワープロ用に開発した3.5インチフロッピーディスクこそ、のちのデファクトスタンダードとなったものの、多くは鳴かず飛ばずに終わった。この理由としては、当時メジャーなAppleやNECの言語を使わず、自社の"Sony Basic"を組み込んでいたことなどがあげられる。
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ソニー
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また、1984年(昭和59年)には第二電電(DDI、現KDDI)の設立に関与している。そのため、当時発売していた固定電話機に搭載されていたLCRはDDIの「α-LCR」であったほか、DDIセルラーグループにも1989年の開業当初から携帯電話端末を供給していた。
1989年(平成元年)にはコロンビア・ピクチャーズ・エンタテインメントを買収して映画事業に参入 している。
1991年、ソニー生命保険株式会社が発足。1993年(平成5年)、ソニー・コンピュータエンタテインメントを設立し家庭用ゲーム機事業に参入 した。1995年(平成7年)にはソニーコミュニケーションネットワーク株式会社を設立しISP事業に参入、翌年からSo-netを開始した。また、1995年には最高財務責任者(CFO)を日本の企業ではじめて導入をする。
1996年(平成8年)、「VAIO」ブランドでパソコンに再度参入する。また携帯電話会社に対して携帯電話端末の供給を行っていたが、2001年(平成13年)にはエリクソン社と合弁でソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズを設立し、携帯電話端末の開発・販売を行うことにした。
2002年(平成14年)にはフィリップス社やパナソニックなど9社共同でBlu-ray Disc規格を策定した。2004年、ソニーフィナンシャルホールディングスが発足する。
ゲーム事業を担っているソニー・コンピュータエンタテインメントは、2012年(平成24年)3月期以降3期連続の債務超過となっており、債務保証を行っていたが、2017年3月期決算で債務超過は解消している。
また2012年(平成24年)エリクソンから株式を取得してソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズを完全子会社とし、携帯電話端末事業がソニー単体の事業に戻った。
2014年(平成26年)7月にはテレビ事業を分社化し、ソニービジュアルプロダクツ設立。またテレビ事業は10年連続で赤字が続き、リストラを繰り返しており、2017年(平成29年)の売上目標は当初の見通しより低く抑えている。同年パーソナルコンピュータVAIO事業を売却。また利益重視の姿勢を打ち出し、国際サッカー連盟のスポンサーを降板。
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2014年(平成26年)7月にはテレビ事業を分社化し、ソニービジュアルプロダクツ設立。またテレビ事業は10年連続で赤字が続き、リストラを繰り返しており、2017年(平成29年)の売上目標は当初の見通しより低く抑えている。同年パーソナルコンピュータVAIO事業を売却。また利益重視の姿勢を打ち出し、国際サッカー連盟のスポンサーを降板。
2015年(平成27年)オンラインゲーム子会社ソニー・オンライン・エンタテインメントをコロンバス・ノバに売却。SOEはソニーのプラットフォーム以外にもソフトを供給できるようになる。10月にはビデオ&サウンド事業を分社化しソニービデオ&サウンドプロダクツを設立。
2016年(平成28年)4月には半導体事業を分社化し、ソニーセミコンダクタソリューションズを設立。
2017年(平成29年)4月には民生用カメラ事業や業務用製品事業を分社化し、ソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズを設立。
2018年(平成30年)10月より、日立ブランド薄型テレビ&BDレコーダー「Wooo」の国内販売終了に伴い、「ブラビア」をはじめとするソニー製品を日立系列店「日立チェーンストール」にも供給開始した。
2019年(平成31年)4月、テレビ事業を担うソニービデオ&サウンドプロダクツとビデオ及びサウンド事業を担うソニービジュアルプロダクツが統合し、ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツが発足した。
2020年(令和2年)4月1日、エレクトロニクス・プロダクツ&ソリューション分野を統括する中間持株会社である、ソニーエレクトロニクス株式会社を設立。
2021年(令和3年)4月1日に、ソニー株式会社(初代法人)がソニーグループ株式会社に商号を変更。また、ソニー株式会社(初代法人)のエレクトロニクス事業と、ソニーエレクトロニクス、ソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズ、ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ、ソニーモバイルコミュニケーションズ(存続会社)が統合し、ソニー株式会社(二代目法人)が誕生。3月には3月期連結決算(2020年度連結業績)で純利益を初めて1兆円の大台に乗せた。
オーディオ
オーディオ・ビジュアル
カメラ分野
コンピュータ
コンポーネント
番外編
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ソニー
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オーディオ
オーディオ・ビジュアル
カメラ分野
コンピュータ
コンポーネント
番外編
NHK「魔改造の夜」第5弾に「Sニー」チームとして出演。T京アールアンドデー、Aエイチ・アイらと対戦した。ちなみに、「ネコちゃん落下25m走」に投入した改造ネコ型玩具の名前は「ArukuNyan」であった。ロゴはウォークマンのものとそっくりであり、オマージュとしてネコはヘッドホンをしていた。
テレビ
ブルーレイディスクレコーダー
Ultra HD ブルーレイディスクプレーヤー
ブルーレイディスクプレーヤー
電子ブックリーダー
デジタルカメラ
ビデオカメラ
携帯電話・スマートフォン
ラジオ受信機
オーディオ
ポータブルオーディオプレーヤー
ワイヤレスステレオヘッドセット
ICレコーダー
IC記録メディア
ペットロボット
業務用映像機器
半導体
メディカル・ライフサイエンス関連機器
規格争いを目的とせず、ソニー製品のために用意されたが、しだいに他社も流用するようになり結果としてデファクトスタンダードとして普及した規格を記載する。
当社が世界あるいは日本で初めて実用化ないし製品化・商品化された製品を記載する。要素技術を発明・新開発したものではないものも含まれる。
「SONY」が商標登録された1955年に、社名の周りが四角で囲まれたロゴマークが最初に制作された。その後、1957年に四角が取り払われ、文字のデザインが変更されて以降、年を経るごとにデザインが少しずつ修正されていった。
1961年、香港に日本企業初のネオンサインを掲げる際、2代目のロゴはネオンサインに合わないという理由で修正することになる。デザイナーの黒木靖夫 は、当時ソニー副社長だった盛田から指名され、苦心を重ねて新しいロゴを制作した。こうした努力の結果、黒木のロゴはネオンサイン限定のデザインとはならず、1962年に発売したマイクロテレビの広告で、3代目のロゴとして正式に採用された。
3代目のロゴが作られて以降、さらに磨きのかかったロゴに仕上げるため、大賀典雄が室長を務める デザイン室にはロゴ専用の委員会が設置された。さらに、1962年に4代目のロゴになってからは使用規定も追加され、コーポレートデザインの実現を目指すようになった。
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ソニー
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3代目のロゴが作られて以降、さらに磨きのかかったロゴに仕上げるため、大賀典雄が室長を務める デザイン室にはロゴ専用の委員会が設置された。さらに、1962年に4代目のロゴになってからは使用規定も追加され、コーポレートデザインの実現を目指すようになった。
使用規定にはロゴマーク(コーポレートロゴ)との混同を避けるため、ソニーが発信する文書にはすべて大文字での「SONY」を使用せず、「ソニー」あるいは 「Sony」を使用するように、という記述がある(たとえば 「SONY CORPORATION」などのようにすべて大文字で表示する必要がある場合を除く)。
1973年、最初のロゴから数えて6代目のロゴが制作され、現在に至る。
なお、東通工時代を含む創立35周年を迎えた1981年に、7代目となるロゴを制作しようと全世界を対象にデザインを公募したものの、井深や盛田が「今のロゴのほうが明快でいい」と話したため、制作は中止となった。
1982年、これまでの「SONY」と刻まれたロゴに加えて、「SONY」の「S」がデザインされたイメージが新たに作られた。さらに、盛田の提案により「It's a Sony」(イッツ・ア・ソニー)と英語ナレーションが流れるサウンドロゴもテレビCM用に加えられた。これ以降、コマーシャルの最後に「絵」と「音」を使ったブランドメッセージが使用されるようになった。
2009年、世界共通のブランドメッセージとして「make.believe」(メイク・ドット・ビリーブ)を新たに導入した。グループの複数の事業に対して共通のブランドメッセージが使用されたのは初めてとなる。
2018年、コマーシャルにおけるブランドメッセージはモーションロゴ(ロゴマークとサウンドロゴ)のみとなっている。サウンドロゴはピアノの単音を使用しており、直後に「SONY」とナレーションが流れるバージョンも存在する。モーションロゴはコロンビア ピクチャーズ、トライスター ピクチャーズ、スクリーン ジェムズのオープニングロゴにも使用されている。
2021年にモーションロゴがリニューアルされ、ロゴマーク出現時にグラデーション効果が施された。
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ソニー
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2021年にモーションロゴがリニューアルされ、ロゴマーク出現時にグラデーション効果が施された。
また、テレビ放送では短縮版も存在しており、ロゴは、ソニー・ピクチャーズ テレビジョンまたは、トライスター・プロダクションズのサウンドロゴと一緒に使用されている。この場合時のみピアノの単音は流れない。
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デジタルカメラ
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デジタルカメラ (英: digital still camera、DSC) は、デジタル写真を撮影するカメラである。
一般に「デジタルカメラ」といえば静止画を撮影する「デジタルスチルカメラ」を指し、動画を撮影録画する「デジタルカムコーダ」 は含めない。現在では静止画撮影が可能なデジタルカムコーダや、動画撮影が可能なデジタルスチルカメラが一般的になっており、双方の性能の向上もあってその境界線が徐々になくなりつつあるが、デジタルカメラはその中でも静止画の撮影に重点を置いたモデルを指す。
「デジカメ」と省略されることも多かったが、当該用語は日本国内では三洋電機および他業種各社の登録商標である。なお、三洋電機が登録した商標に関しては更新がされなかったため、2019年に権利が消滅した。
本項で特に断りがない限り、一眼レフカメラはデジタル一眼レフカメラを、コンパクトカメラはデジタルコンパクトカメラを指す。
静止画をデジタルで記録する「デジタルカメラ」の前に、アナログ記録を行う「電子スチルビデオカメラ」という製品群が存在した。これは、アナログFM記録する電子カメラで、ソニーが1981年(昭和56年)に試作し後に製品化した「マビカ」を代表とする。初の販売製品としてはキヤノンのRC-701(1986年(昭和61年)発売)があり、この時に2インチのビデオフロッピーディスクを記録媒体として記録する共通規格SV規格が正式に決められた。
これに追随して、カシオはVS-101(1987年(昭和62年)6月)を発売したものの、10万円台の高価格(ちょうど同じ頃普及が進んだ8ミリビデオカメラと同額程度)のため人気が出ず、大量の不良在庫を出した。このSV規格方式を中心に、1990年代初頭に至るまでいくつかのメーカーから電子スチルカメラが発売されるも、カムコーダの人気の前に、全く普及しなかった。
なおこれらのカメラは、当時はメーカーごとに様々な名で呼ばれており、「電子スチルビデオカメラ」は、デジタルカメラ登場以降に、それと区別するために付けられた名称である。
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デジタルカメラ
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なおこれらのカメラは、当時はメーカーごとに様々な名で呼ばれており、「電子スチルビデオカメラ」は、デジタルカメラ登場以降に、それと区別するために付けられた名称である。
1960年代、NASAジェット推進研究所のユージーン・F・ラリー(英語版)は、モザイク感光体を使ってデジタル画像を撮影する方法を考えていた。また、1972年にテキサス・インスツルメンツ社の社員ウィリス・アドコックがフィルムレスカメラの特許(米国特許4,057,830)を取得した が、いずれも技術がまだコンセプトに追いついていなかった。
1975年、初の製品化されたオールデジタルカメラとしてCromemco Cyclopsが登場した。これは、『ポピュラーエレクトロニクス』1975年2月号に設計が掲載されたものを商品化したものである。画像素子として32×32画素のMOSイメージセンサを使用しており、これはMOS DRAMメモリチップを改造したものである。
イーストマン・コダック社の技術者であるスティーブン・サッソン(英語版)は、1975年にCCDイメージセンサを使用した自己完結型電子カメラを発明し、製造した。画像サイズは100×100の10,000ピクセルで、撮影した映像をテレビに映すこともできた。同じ頃、富士フイルムは1970年代にCCD技術の開発に着手した。
画像をデジタル方式で記録する初めての一般向けカメラは1988年(昭和63年)に富士写真フイルムから発表された「FUJIX DS-1P」であり、当時のノートパソコンでも使われたSRAM-ICカードに画像を記録した。しかしこれは発売されることはなく、実際に店頭に現れた世界初のデジタルカメラはDycam社が1990年(平成2年)に発売した「Dycam Model 1」である。電源がなくても記録保持ができるフラッシュメモリを初採用したのは1993年(平成5年)富士写真フイルムから発売された「FUJIX DS-200F」である。
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デジタルカメラ
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1994年(平成6年)発表・1995年(平成7年)3月発売のカシオ計算機のデジタルカメラ「QV-10」は、デジタルカメラの存在と利便性を広く一般に認知させた製品である。外部記録装置なしで96枚撮影ができ、本体定価6万5,000円を実現して好評だった。一番のメリットは、液晶パネルを搭載し、撮影画像をその場で確認できることである。また当時はWindows 95ブームで一般家庭にパソコンが普及し始めた時期であったため、パソコンに画像を取り込むことが広く認知された。この機種はNHKの番組「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」090回「男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける」において、あたかも世界初のデジタルカメラのように紹介された(ただし、撮影画像をその場で確認できる液晶パネルを搭載したデジタルカメラとしては世界初である)。
QV-10の成功を皮切りに多くの電機企業が一般消費者向けデジタルカメラの開発・製造を始めた。QV-10発売の2か月後にリコーから発売されたDC-1にはカメラとしては初めての動画記録機能がある。その記録方法としてJPEGの連続画像(後にMotion JPEGと呼ばれる方式)を採用した。
この頃の製品はまだ画質も電池寿命もそれほど良くなく、存在が認知されたとは言え購入層もその使われ方も限定的で、性能もしばらくフィルムカメラを追い越すことはないと思われていた。
1999年(平成11年)末から始まった高画素数化競争や小型化競争など、市場拡大を伴った熾烈な競争により性能は上昇、価格も下がり利便性も受けて、2002年(平成14年)にはフィルムカメラとデジタルカメラの出荷台数が逆転、フィルムカメラからデジタルカメラへと市場が置き換わった。
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デジタルカメラ
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1999年(平成11年)末から始まった高画素数化競争や小型化競争など、市場拡大を伴った熾烈な競争により性能は上昇、価格も下がり利便性も受けて、2002年(平成14年)にはフィルムカメラとデジタルカメラの出荷台数が逆転、フィルムカメラからデジタルカメラへと市場が置き換わった。
報道関係やプロカメラマンの間でもデジタルカメラは普及した。初期には高画質でも大型で可搬性のないものであったり、専用のレンズ群が必要で価格も数百万円になるなど、一部の大手報道機関などが少数保有するだけの特別なカメラだった。1999年(平成11年)にニコンが既存の同社一眼レフ用レンズを使えるデジタルカメラ「D1」を定価65万円で発売後、各社完成度の高い低価格デジタル一眼レフを相次いで投入した。以後、速報性が重視される場面を中心に広まり、翌年のシドニーオリンピックなどを契機として報道各社を中心にデジタルカメラの導入が進んだ。撮影データをネットワーク経由で一瞬で遠隔地に送る事が出来、フィルム現像にかかる費用がなくコスト的にも優れたデジタル一眼レフは、フィルムカメラを駆逐し報道カメラの中心的な存在となった。その後、高性能化とデータ編集の容易さが支持されて、質感や仕上がりなどを重視する商用写真や美術写真にも活用範囲が広まった。
2000年(平成12年)頃から国内の光学機器メーカーだけでなく、電気機器メーカーが一般向けデジタルカメラ事業に参入し、さらには台湾や中国、韓国等のメーカーが加わった。2000年代中頃にはデジカメ市場が飽和しつつある中、カメラ付携帯電話の高機能化も加わって、店頭では販売合戦が展開されており、また2005年には京セラがデジカメ市場から撤退するなどメーカーの淘汰も始まった。
2007年に初代iPhoneが発売されて以降、高性能なカメラを搭載したスマートフォンの普及に伴い、デジカメの世界販売台数は2010年の1億2146万3234台をピークに、また市場規模は2008年の2兆1,640億円をピークに 減少を続けている。特に、一般消費者を主なユーザーとするレンズ一体型デジカメ(コンパクトデジカメ、コンデジ)の出荷台数は2008年の約1億857万台をピークとして、10年で1/10になるなど急激に減少した。
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デジタルカメラ
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一方で、ハイアマチュア以上を主なユーザーとするレンズ交換式デジカメの出荷台数は2013年の約1713万台をピークとして、5年で1/2にしかならないなど減少は緩やかであり、2018年にはレンズ交換式デジカメ出荷台数1075万台に対してコンデジの出荷台数が866万台と、レンズ交換式の出荷台数がコンデジを上回った。
デジタルカメラの世界総出荷台数は、2018年は約2200万台(市場規模は約7300億円)、2019年度は1522万台(市場規模は4500億円)。2020年度は世界総出荷台数は888万台(市場規模は4201億円)となり、ついに富士フイルム社のフイルムカメラ「チェキ」の年間販売台数(2018年度は約1005万台)を下回った。
2021年現在、メーカーの淘汰が進んでおり、世界シェアはキヤノン、ソニー、ニコン、富士フイルムの4社で約9割、パナソニックを加えると約9割5分を占める。特にキヤノンは2003年に初めてシェア1位となって以降、デジカメ市場で不動の1位として2020年度には約48 %の市場シェアを占めるが、市場自体が急激な右肩下がりであるため、キヤノンは2020年4〜6月期に史上初の四半期赤字に転落した。2018年にはカシオがデジタルカメラ事業から撤退、2020年にはオリンパスがデジタルカメラ事業を投資ファンドに売却するなど苦しい状態が続いている。
実態としてはおおむね下記の通りである。分類が困難な機種もある。
デジタルカメラの全体的な構成は、大きく分けて光学系と電子系、そしてそれらを保持する筐体に分類できる。 光学系はレンズと絞り機構であり、一眼レフでは光学式ファインダー用のレフレックスミラーとプリズムがこれらに加わる。機械式のシャッター機構を備えるものもある。電子系は受光素子とメモリーを含む画像演算回路、記録装置、液晶表示器、ストロボ、操作スイッチ、電池などである。
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