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黒澤明
評論家の多田道太郎は「黒澤明は、おそらく日本映画史上初めての映画芸術の中に個人をもち込もうとした作家」と高く評価している。都築や映画批評家の岩崎昶は、黒澤を「観念的作家」と評価した。哲学者の梅原猛は黒澤を愛の作家であるとし、「黒澤明は、どのような文学者よりも人間愛に富んでいるようだ。彼の作中人物は、戦後のいかなる文学者の作品より、生き生きとした愛の行為の実践者である」と評している。増村保造は黒澤の画面作りを高く評価し、その絵画性は表現主義のフリッツ・ラングの作画力に近いとしている。一方、映画批評家の飯田心美は、黒澤の絵画性について「黒澤は人物を素描するかわりに色彩を駆使し、多彩な色調のなかにモチーフを展開してゆくタイプである。そして、その画法も清水宏のごとき水彩のタッチではなく、あくまで人の目を射るごとき油彩である」と評し、その印象をフォーヴィスムの絵画と重ねた。 一方で映画製作者だった角川春樹のように、黒澤信者からアンチ黒澤に転向した人物も存在する。角川は「今まで観た映画のベストは『七人の侍』と『ゴッドファーザー』だ」と公言し、少年時代から黒澤をリスペクトして、映画製作を夢見ていたが、映画『影武者』の有楽座で行われたワールド・プレミアにて、東宝の社長だった松岡功の紹介があったにも関わらず、黒澤に無視された上に握手も拒否され、その後、プレミア上映の最中に、微醺状態の黒澤がジョージ・ルーカスとフランシス・フォード・コッポラを引き連れて姿を現すと、自身が遅れてきたことを理由に上映を中止させ、最初からやり直しをさせる光景を見て幻滅し、以降プロデュースする意欲は一切なくなったという。角川は『影武者』に関して、「私がプロデューサーなら20分切る」「時代考証も疎か」「合戦シーンも『七人の侍』に比べると迫力がなかった」と批判し、取材の最後に「何が黒澤天皇だ(笑)」と吐き捨てている。
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黒澤明
国内外の多くの映画監督が黒澤の影響を受け、その作品を賞賛している。黒澤と同時期に活躍したイングマール・ベルイマンは、自作の『処女の泉』(1960年)を「黒澤の観光気分のあさましい模倣」と述べている。フェデリコ・フェリーニは黒澤作品を見ることは「アリオストを読むようなものだ」と賞賛している。サタジット・レイは『羅生門』の光の使い方に影響を受けたことを明らかにしている。アンドレイ・タルコフスキーは好きな作品の1本に『七人の侍』を挙げている。ベルナルド・ベルトルッチとヴェルナー・ヘルツォークも、影響を受けた監督の一人として黒澤の名を挙げている。 スタンリー・キューブリックのアシスタントを務めたアンソニー・フルーウィン(英語版)によると、キューブリックは黒澤を偉大な映画監督の一人と考え、高く評価していたという。黒澤もキューブリックを賞賛しており、1990年代後半にキューブリック宛てにファンレターを送ったが、それに感激したキューブリックは返信の内容に悩み、数ヶ月もかけて返事を書き直すも、その間に黒澤が亡くなってしまい、ひどく動揺したというエピソードがある。 1970年代以降のハリウッド映画で活躍したコッポラ、ルーカス、スピルバーグ、スコセッシ、ジョン・ミリアスなどは黒澤を尊敬する師と仰ぎ、それぞれの作品も黒澤から強い影響を受けている。コッポラは「私たち(ルーカスとコッポラ)は黒澤監督の"芸術的な息子"といっていい存在」と語り、黒澤をノーベル文学賞に推薦しようとしたことがある。コッポラの監督作『ゴッドファーザー』(1972年)の冒頭の結婚式のシーンは、『悪い奴ほどよく眠る』の影響を受けている。スピルバーグは黒澤を「現代の映画界におけるシェイクスピア」と評し、「映画製作者としてのぼくの仕事に多大な影響を与えた。映像はもちろんアートにおけるぼくの審美眼は、彼の影響を受けている」と述べている。
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黒澤明
また、アレクサンダー・ペインは黒澤のファンで、『七人の侍』『赤ひげ』を好きな映画に挙げている。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは19歳の時に見た『生きる』に衝撃を受けたことを明かし、自身の作品である『BIUTIFUL ビューティフル』を製作した際に影響を受けたことを認め、黒澤を「映画のストーリーの構成を変えようとした天才のうちの一人」と高く評価した。ウェス・アンダーソンはアニメーション映画『犬ヶ島』(2018年)で黒澤の影響を受けていることを明言している。そのほか、サム・ペキンパー、アーサー・ペン、リドリー・スコット、ジョージ・ミラー、ジョン・ウー、チャン・イーモウ、三池崇史、塚本晋也、助監督出身者は一作品に就いただけの野村芳太郎、加藤泰、中平康らを含めると膨大な人数となるが、初期の堀川弘通、中期に就いて最多の本数でチーフをつとめた森谷司郎、晩年期の小泉堯史らが黒澤の影響を受けた愛弟子として名を挙げられることが多い。 これまでに黒澤作品は国内外で何度もリメイクされている。ハリウッド映画では、ジョン・スタージェス監督の『荒野の七人』(1960年)が『七人の侍』、マーティン・リット監督の『暴行』(1964年)が『羅生門』を公式にリメイクし、それぞれ舞台を西部劇に移し替えている。セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』(1964年)は、『用心棒』を非公式でリメイクした作品で、黒澤は東宝とともに著作権侵害で告訴し、和解に応じた製作者側から日本などの配給権と世界興行収入の15%を受け取っている。内川清一郎監督の『姿三四郎』(1965年)は、黒澤プロダクションが『姿三四郎』『續姿三四郎』を合わせてリメイクした作品で、黒澤自身がプロデューサーを務めた。
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黒澤明
スター・ウォーズシリーズは黒澤作品から部分的な影響を受けている。ルーカスによるシリーズ1作目『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』(1977年)のストーリーのアイデアは『隠し砦の三悪人』を元にしており、黒澤作品で特徴的なワイプによる場面転換も採用している。C-3POとR2-D2は、『隠し砦の三悪人』の登場人物である百姓の太平と又七がモデルであることをルーカス自身が認めている。シリーズ7作目の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015年)では、J・J・エイブラムス監督がシーンの構図とキャラクターの立ち位置を『天国と地獄』を参考にしたことを明らかにし、シリーズ8作目の『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017年)では、ライアン・ジョンソン監督が脚本に『羅生門』などの影響を受けたことを明らかにしている。 2020年発売のPlayStation 4用ゲームソフト『Ghost of Tsushima』は、黒澤の時代劇映画から強い影響を受けており、黒澤に敬意を込めてゲーム画面をモノクロで表示し、1950年代の黒澤作品の質感を再現した「Kurosawa Mode(黒澤モード)」という機能を搭載している。同作の開発者の一人であるジェイソン・コーネルは、黒澤作品の演出とカメラワークを大いに参考にし、風を使用した演出も黒澤作品で風が効果的に使われていることに触発されたと語っている。 没後、数本の未映像化脚本が映画化された。『雨あがる』は黒澤の助監督を務めた小泉堯史が脚本を完成させ、2000年に映画化作品を公開した。同年に四騎の会で企画した『どら平太』が市川崑監督で映画化され、2004年には『海は見ていた』が熊井啓監督で映画化された。また、2017年3月に中国の映画会社である華誼兄弟(中国語版)が『黒き死の仮面』の映画化を発表し、同年5月には中国企業のジンカ・エンターテインメントも未映像化脚本10本の映画化を発表したが、どちらもその後の進展は報道されていない。
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黒澤明
黒澤の名を冠した賞や施設も作られた。1986年にサンフランシスコ国際映画祭に「黒澤明賞」が制定され、黒澤自身が第1回受賞者となり、2002年まで授与された。2004年には東京国際映画祭に「黒澤明賞」が設けられた。同賞は「日本文化の再創造への象徴となり、広く世界の映画文化の発展に貢献すること」を目的に設立され、2008年まで授与された。2010年、カリフォルニア州のアナハイム大学に映画学校「黒澤明スクールオブフィルム」が開校し、美術学修士号が取得できるオンライン教育プログラムを提供している。 1998年に佐賀県伊万里市で黒澤明記念館を建設する計画がスタートし、1999年7月2日に伊万里市の商業施設に仮施設となる「黒澤明記念館サテライトスタジオ」が開館した。記念館は黒澤明文化振興財団が寄付金を募って建設する予定だったが、2010年1月に寄付金の約3億8000万円が財団の決算書類の流動資産に記載されていないことが発覚した。翌月、黒澤明文化振興財団の黒澤久雄らは「資金の大半は仮施設の運営などで使い果たしてしまった」と陳謝したが、実際は資金の私的利用によるもので、不正利用した費用全額は久雄が払うという方向で決定した。その後、財団側が多額の資金を集めて記念館を作ることが現実的でないとした上で、サテライトスタジオを本記念館にリニューアルしたいとの意向を示し、記念館建設を事実上断念することを決めたが、2011年3月6日にサテライトスタジオも閉館した。 2009年5月、黒澤プロダクションと龍谷大学の共同プロジェクトで「黒澤デジタルアーカイブ」を開設し、未公開の創作ノートやメモ、絵コンテ、台本、撮影時の写真などの資料が、インターネット上で一般公開された。 黒澤が自作と認めた監督作品は30本あり、そのすべてで脚本を執筆した(共同執筆を含む)。※印はプロデューサーを兼任した作品。 特記がない限りは『大系黒澤明 別巻』の「解説・黒澤明の脚本」による。 特記がない限りは『大系黒澤明 第4巻』と『黒澤明集成』の年表による。
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黒澤明
黒澤が自作と認めた監督作品は30本あり、そのすべてで脚本を執筆した(共同執筆を含む)。※印はプロデューサーを兼任した作品。 特記がない限りは『大系黒澤明 別巻』の「解説・黒澤明の脚本」による。 特記がない限りは『大系黒澤明 第4巻』と『黒澤明集成』の年表による。 黒澤は国内外で多数の映画賞を受賞しており、作品はアカデミー賞、世界三大映画祭のカンヌ国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭、ベルリン国際映画祭のすべてで受賞経験がある。また、1976年に映画人として初めて文化功労者に顕彰され、1985年に同じく映画人初となる文化勲章を受章した。1990年には第62回アカデミー賞で名誉賞を受賞した。授賞式のプレゼンターはスピルバーグとルーカスが務め、黒澤は受賞スピーチで「私はまだ映画がよく分かっていない」と語ったり、会場からは笑いに包まれた。。没後の1998年10月、「数々の不朽の名作によって国民に深い感動を与えるとともに、世界の映画史に輝かしい足跡を残した」功績により、映画監督初となる国民栄誉賞が贈られた。2009年にはシェイクスピア作品に縁のある、または影響を受けた芸術家を対象とするシェイクスピア・ホール・オブ・フェームの殿堂入りを果たした。 英国映画協会のサイト・アンド・サウンド(英語版)誌が10年毎に発表した映画監督のランキングでは、1982年に批評家投票で5位、1992年に監督投票で3位、2002年に批評家投票で6位、監督投票で3位に選ばれた。また、1996年にエンターテインメント・ウィークリー誌が発表した「50人の偉大な映画監督」リストで6位、2002年にMovieMaker誌が発表した「史上最も影響力のある映画監督25人」のリストで12位、2007年にTotal Film誌が発表した「100人の偉大な映画監督」で11位にランクした。 以下の表は、黒澤の主な映画賞の受賞とノミネートのリストである。このリストには、黒澤個人が受賞した賞(監督賞、脚本賞、生涯功労賞など)だけではなく、黒澤が直接受賞したがどうかにかかわらず作品自体に与えられた作品賞や外国語映画賞も含まれる(プロデューサーが受賞者である賞も、黒澤作品の受賞・ノミネートとしてリストに含める)。
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VOS3
VOS3(ボス・スリー、ボス・サン、Virtual-storage Operating System 3)は、日立製作所が製造・販売しているメインフレーム用オペレーティングシステムのこと。 1971年4月に決定されたOECDのコンピュータの貿易自由化方針への対応策として、当時の通商産業省はメインフレームメーカー6社のグループ化を行い、1972年から1976年の3グループによるそれぞれの技術研究組合による共同研究に計600億円近くの補助金を拠出した。日立製作所及び富士通はIBM互換機であるMシリーズを共同開発した。(⇒三大コンピューターグループ) VOS3は大型メインフレームMシリーズ向けに開発されたオペレーティングシステムである。 基本プログラムとしてのVOS3の機能は である。当初、先行のOS、VOS2からの移行をスムーズにできるように、VOS2、VOS3でシステムソフトウェア類等も共通化されていた。 最初のVOS3は1977年4月(昭和52年4月) 日立製作所中央研究所にM-180システムとともに納入された。 VOS3の機能拡張プロダクト群と主な特徴を以下に挙げる。 VOS3/SP21(VOS3/System Product 21)はVOS3/SP(VOS3/System Product)系のオペレーティングシステムをIBM産業スパイ事件後に新たにコーディングし直したものである。 新たにM-240H、M-260H、M-280Hをサポートする。拡張機能は以下の通り。 VOS3/ES1(VOS3/Extend System product 1)はIBM MVS/XAに対抗しM/EXモードで動作し、31ビットアドレッシングおよび拡張チャネルシステム(ECS)をサポートしたもの。1985年(昭和60年)3月出荷。 新たにM-68X、M-660H、M-640シリーズをサポートする。拡張機能は以下の通り。 ECSは1986年(昭和60年)1月出荷のバージョンからサポートされた。 VOS3/AS(VOS3/Advanced System product)はIBM MVS/ESAに対抗しM/ASAモードで動作し、仮想拡張記憶機構を使用し47ビットアドレッシング(16テラバイト)をサポートした。 新たにM-880、M-860シリーズをサポートする。拡張記憶は以下の通り
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VOS3
ECSは1986年(昭和60年)1月出荷のバージョンからサポートされた。 VOS3/AS(VOS3/Advanced System product)はIBM MVS/ESAに対抗しM/ASAモードで動作し、仮想拡張記憶機構を使用し47ビットアドレッシング(16テラバイト)をサポートした。 新たにM-880、M-860シリーズをサポートする。拡張記憶は以下の通り VOS3/FS(VOS3/Forefront System Product)は、MP5800、MP5600、MP6000シリーズをサポートしたもの。 VOS3/LS(VOS3/Leading System Product)はIBM z/OS連携システム。64ビットアドレッシングをサポートする。 新たにAP8000シリーズをサポートする。2002年4月出荷開始。 VOS3/US(Virtual-storage Operating System 3/Unific System Product)システムはVOS3/LSの後継となるOSである。2008年2月に発表され、2008年7月に出荷開始。 新しいハードウェアとしてAP8800シリーズに対応した。 BladeSymphonyとの連携に必要な製品が今までは別売製品として出されていたのが「VOS3/US標準パッケージ」として提供されている。
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激走戦隊カーレンジャー
『激走戦隊カーレンジャー』(げきそうせんたいカーレンジャー)は、1996年3月1日から1997年2月7日まで、テレビ朝日系列で毎週金曜17:30 - 17:55(JST)に全48話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。 本作品では、「車をモチーフに作る」ことを前提として企画が立ち上げられており、特に放映当時一大ブームとなっていたレクリエーショナル・ビークル(RV)や、第二次ブームの最中であったミニ四駆などの要素が多く取り入れられている。また、キャラクターや技のネーミング、サブタイトルなどにも自動車や交通関係の語句が多く取り入れられている。 それまでのシリーズには必ず登場していた戦隊メンバーのバイクに相当するものとして、本作品では個人用の移動手段としてカート「スピーダーマシン」、中盤からはスポーツカー「ペガサスサンダー」とバギー「ドラゴンクルーザー」が登場している。このうち後者は、企画段階で物語後半に登場させる予定のあった巨大ロボを、「全て車のロボットでは視聴者の混乱を招くのではないか」という意見もあって見送った代わりに出された案であり、これに伴い巨大ロボの数が多かった前作に比べ、本作品での巨大ロボの総数は4体に留まっている。またそれまで何らかの形で取り入れられてきた、スーパー合体などを始めとするロボ同士のギミックも一旦排されている。一方で合体前のビークルがロボ形態にも変形するVRVロボや、後年の作品に多く見られるマルチ合体の走りである天下の浪速ロボスペシャルなどといった画期的な試みも行われている。
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激走戦隊カーレンジャー
不条理なギャグや、スーパー戦隊シリーズのセルフパロディが盛り込まれたシュールな物語が展開される。ギャグが目立つ一方でシリアスな話もあり、これらのバランスは絶妙なものとなっている。このような従来とは異なるコミカルな味付けの作風には、本作品が『秘密戦隊ゴレンジャー』から数えて20作目であることから、同作品にオマージュを捧げる意味合いも込められていたという。東映プロデューサーの髙寺成紀は、旧態依然とした制作現場に危機感を抱いており、子供たちに視聴してもらうにはどうすべきか検討した結果、当時の特撮番組より視聴率を獲得していたアニメがバトルものよりコメディタッチのものが多かったことに着目したと述べている。またキャラクターデザインを手がけた野崎明は、企画の打ち合わせに出席した際「今までにないギャグ戦隊にしたい」と髙寺が熱心に語っていたことを、後年のインタビューにて述懐している。メインライターの浦沢義雄は、それまでスーパー戦隊シリーズに携わっておらず視聴したこともなかったため、自分好みのテイストを出しつつ、初めて手掛けるヒーローものに張り切っていたと述べている。テレビ朝日プロデューサーの梶淳は、かねてから東映不思議コメディーシリーズに着目しており、その良い部分を戦隊に取り込みたいと考えていたという。 オープニングのタイトルコールおよび作中での名乗りの際の言い回しも特徴的であり、「カ〜〜〜レンジャー!」と「カ」と「レ」の間を極端に伸ばして「レ」にアクセントを置く言い回しを行うという斬新なものとなっている。この演出は当初の予定にはなく、第1話の試写を見たスタッフが「(普通の名乗りでは)クセがなく印象に残らない」と判断して、台詞の再録を行った結果誕生したものである。 本作品では主人公の5人を「鍛え抜かれた戦闘のプロ」や「生まれもっての特別な戦士」ではない等身大のヒーローとして描いており、会社員である5人の給料についての会話など、作中の随所においてこうした要素がちりばめられている。さらに1990年代以降の戦隊シリーズとしては珍しく、一部の例外を除きヒーローの正体が敵に知られていない設定となっており、ヒーローの変身後の姿こそが本当の姿と思われている描写もなされている。
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激走戦隊カーレンジャー
1996年4月5日放送分(第6話)から、同時期に放映されていた『ビーファイターカブト』と共に送出マスターがそれまでのテレシネしたポジフィルムとシネテープをミックスした1吋C-TYPEアナログVTRからネガテレシネ(ファイン・ネガ・ビデオシステム)によるD-2デジタルVTRに変更された。それと同時にOP・ED・予告のみ、シリーズ初のステレオ放送となった。これを受けて、スタッフ・キャスト・劇中テロップのクレジットが、一部の回のみフィルム焼付けではなくビデオ合成の形に変更されている。 また、本作品の中盤からそれまでのビデオ合成に代わって新たにデジタル合成が導入され、第32話ではその技術をふんだんに活かし、巨大ロボのボディ上での等身大アクションシーンが描かれている。監督の田﨑竜太は、1話につき1、2カットしかデジタル合成を使えなかったため、毎回効果的な入れ方を考えていたと述べている。 テロップの書体にはゴナの斜体が利用されている。 宇宙中を暴れ周り、狙った星を超豪華花火にして爆破してしまう宇宙暴走族ボーゾックが地球からはるか遠く離れたハザード星に襲来し、滅ぼしてしまった。 脱出に成功したハザード星人の少年・ダップは母親が死の直前に語った星座伝説の戦士カーレンジャーがいるという惑星「地球」に向かい、ボーゾック打倒を誓う。一方、ボーゾックもまた、次なる暴走の舞台を惑星チーキュ(=地球)に定め、手始めにニッポンポン(=日本)を襲うことに。 ダップが辿り着いたのは小さな自動車会社ペガサス。彼はここで働く5人の若者に素質を見出し、自身の力であるクルマジックパワーをはじめ、あの手この手でカーレンジャーに変身させていく。最初は乗り気でなかったものの、ボーゾックの本格的侵攻を目撃した5人はカーレンジャーとしてボーゾックと戦う決意を固める。 そこまでは良かったのだが、5人はその後も「安月給の上にカーレンジャーまでやらなければならない」ことへの不満を垂れ流したり、個人的な理由で出撃をためらったりとどうにも統率が取れない。一方のボーゾックも、観光気分で日本を訪れたり、地球侵攻以外の個人的な用事を優先したり、時にはカーレンジャーと交流を持ったりと、どことなく気の抜けた戦いが繰り広げられていた。
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激走戦隊カーレンジャー
そこまでは良かったのだが、5人はその後も「安月給の上にカーレンジャーまでやらなければならない」ことへの不満を垂れ流したり、個人的な理由で出撃をためらったりとどうにも統率が取れない。一方のボーゾックも、観光気分で日本を訪れたり、地球侵攻以外の個人的な用事を優先したり、時にはカーレンジャーと交流を持ったりと、どことなく気の抜けた戦いが繰り広げられていた。 そして、宇宙で交通違反の取り締まりにあたっていたポリス星の警察官・シグナルマンも地球に赴任する。交通ルールを異常に重視する彼は、カーレンジャー・ボーゾック双方にとって時には力強い味方、またある時には大迷惑な存在として見られるようになった。 そんな戦いの様子を見ていたボーゾックのスポンサーこと暴走皇帝エグゾスは、彼らの間抜けな戦いぶりに業を煮やして表舞台に姿を現し、宇宙ハイウェイ建設のためにチーキュを排除すべく、ボーゾックの指揮を執り始める。カーレンジャーはエクゾスの地球爆破計画を阻止するため、宇宙に眠っていた伝説の車「野生の車」や、ダップの父・VRVマスターの力を借りてパワーアップを図り、エクゾスに立ち向かう。 全員が自動車会社ペガサスの社員。ハザードの正義の星座に選ばれて、カーレンジャーになった。一見するとヒーローとは程遠い能天気ぶりだが、やるときはやる。 5人の苗字の頭文字をそれぞれ並べると「じどうしゃ」となる。 決め台詞は「戦う交通安全!激走戦隊!カ〜〜〜レンジャー!」。 第2話から登場。3つの形態を持つフォーミュラーマシン型メカ。日本語で書かれた取扱説明書が付属する。ダップがカーレンジャー結成後に開発。細部の調整が済んでおらず、未完成だったが、総一郎が「5人がサボって作ったおもちゃ」だと思い込んで床に落とした際、その衝撃で完成した。 ブースター型メカ。第26話において、営業疲れで寝ていた実以外の4人とダップの手で開発された。完成した直後は、宅配用の箱に偽装されていたが、知り合いの赤ん坊宛のゆりかごを入れた箱と間違えた実によって、北海道に宅配便で送り出されてしまい、それを慌てて追いかけるというハプニングが発生した。
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激走戦隊カーレンジャー
ブースター型メカ。第26話において、営業疲れで寝ていた実以外の4人とダップの手で開発された。完成した直後は、宅配用の箱に偽装されていたが、知り合いの赤ん坊宛のゆりかごを入れた箱と間違えた実によって、北海道に宅配便で送り出されてしまい、それを慌てて追いかけるというハプニングが発生した。 ダップがクルマジックパワーによって作ったカーレンジャー各人専用の小型の高性能マシン。各人毎のパーソナルカラーが施されており、レンジャービークルのコクピットにもなる。ステラメタル製のボディで、クルマジックエンジンを搭載する。 『電磁戦隊メガレンジャーVSカーレンジャー』での等身大戦では、レッドスピーダー1のみが使用された。 意思を持った自動車型機械生命体であり、誰も乗りこなすことのできなかった銀河に伝わる伝説の車。織姫と彦星からの苦情が原因で、隕石に閉じこめられていた。宇宙空間では自在に走れるが、ドラゴンクルーザーは大気圏内では飛べない。 第20話でボーゾック一の発掘野郎・WWワリッチョの手で封印を解かれて地球へ降り立ち、捕獲しようとするワリッチョとカーレンジャーとの戦いの中でカーレンジャーに力を貸すようになった。名前は2台とも、伝説に因んでカーレンジャーのメンバーが名づけたものである。車自体が意志を持った生命体ゆえに、カーレンジャーの味方となった後には仲間として認めており、落ち込んだイエローレーサーをドラゴンクルーザーが傷つきながらも動いて激励したことがある。どちらも助手席にカーナビックを装備する。 海外メーカーの車両をベースとしている都合上、2台とも左ハンドルとなっている。 第5話から登場。巨大化できるようになったボーゾックに対抗すべく、カーレンジャー5人の「夢の車の模型」をカーレンジャーとダップが力を合わせてクルマジックパワーで実体化して巨大化させた巨大なRV車型戦闘用ビークル。カーレンジャーがスピーダーマシンごと搭乗する。クルマジックエネルギーで動くため、排気ガスは出さない。ボディはクルマジックメタル製。全て四輪駆動。 第30話でVRVマスターが戦士に合わせて作られ、カーレンジャーに与えた巨大な「働く車」。VRVマスター曰く「絶対に勝つことを約束されたマシン」であり、レンジャービークル以上の戦闘能力を持つ。装甲材質やエンジンなどは明らかになっていない。
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激走戦隊カーレンジャー
第30話でVRVマスターが戦士に合わせて作られ、カーレンジャーに与えた巨大な「働く車」。VRVマスター曰く「絶対に勝つことを約束されたマシン」であり、レンジャービークル以上の戦闘能力を持つ。装甲材質やエンジンなどは明らかになっていない。 コクピット右側の赤いスイッチとファイターチェンジを合図に人型の中型ロボ形態のVRVファイターに変形。 VRVファイターとしての初戦では、VRVマスター指導のバレーボールを活かし、改造ブレーキングの砲弾を逆に利用してのバレーボール戦法を披露。またファイヤーファイター以外の4ファイターによるビクトリーツイスター・ファイターバージョンを使用したこともある。 第12話から登場。シグナルマンがシグナルホイッスルで呼び出す、ポリス星警察官用巨大パトカー。パトカーモードとロボットモードの2つの形態を持つ。装甲はジャスティメタル製。大量の通常パトカーと共に出現したパトカーモードは長いトンネルに突入し、そのトンネル内で「スタンダップ・サイレンダー」を合図にロボットモードに変形する。変形完了後、シグナルマンの「無駄な抵抗はやめろ」という警告と共に敬礼を行い、背後にはサイレンダーの胸の信号機が浮かび上がる。ゴーグル部はバイザー。洗脳中のシグナルマンが操縦した際には、シグナルマン同様に信号の色が黒一色になった。 両腕からは巨大短剣のサイレンダガー、右腕からは巨大拳銃サイレンバルカン、左腕からは巨大手錠サイレンワッパーと射出銃ワッパガンを展開。盾のサイレンシールドも持つ。パトカーモードとロボットモード共通の装備はパトランプの三色信号機部分(ロボットモード時は胸部)から放つビームのシグナルフラッシュ。 必殺技はサイレンバルカンの連続発射で特に技名はない。サイレンダガーで宇宙バチを倒したこともある。 物語終盤では墜落寸前のバリバリアンの突入を阻止しようとし、地球激突による落下の衝撃こそ和らげたものの、出力限界でオーバーヒートしそのまま倒れてしまった。そのために最終決戦には参加しなかったが、戦いの後のパーティーでは、RVロボとVRVロボと共に並んでいた。
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激走戦隊カーレンジャー
必殺技はサイレンバルカンの連続発射で特に技名はない。サイレンダガーで宇宙バチを倒したこともある。 物語終盤では墜落寸前のバリバリアンの突入を阻止しようとし、地球激突による落下の衝撃こそ和らげたものの、出力限界でオーバーヒートしそのまま倒れてしまった。そのために最終決戦には参加しなかったが、戦いの後のパーティーでは、RVロボとVRVロボと共に並んでいた。 宇宙各地の荒くれ者が、ガイナモを中心に集まって結成された宇宙暴走族。健康と馬鹿が取り柄らしく、作戦もとんちんかんな物が多い。平和な惑星を面白半分で襲って暴力と略奪の限りを尽くし、花火のように爆発させ滅ぼすことを楽しみにしている。人工惑星・バリバリアンを根城とし、多種多彩な巨大装甲車「バリッカー」で地球を暴走する。暴走族だがなぜか月給制。 ダップの故郷ハザード星を滅ぼした後、グラッチが地球を侵攻目標として定めたことやゾンネットの提案により今度は地球を花火にしようと企み襲来するも、カーレンジャーの活躍によって失敗を重ねる。作戦では真面目にやることもあるが、オイキムチやスイカの調達や弁当の買出しなど下らないことで仲間を派遣することもある。上司や部下といった概念がなく、ガイナモやゼルモダたちの指示には従うものの、荒くれ者は基本的に彼らを呼び捨てにし、タメ口で話す。 巨大化アイテムはチーキュの美味しいものを探している途中でたまたま見つけた芋羊羹。それもペガサスの近所の和菓子屋「芋長」製のものに限られ、コンビニで売られているものでは逆に手の平サイズまで縮小してしまう。ボーゾック(荒くれ者のほか、宇宙ゴキブリや宇宙バチも含む)が芋長の芋羊羹を食べると、顔を紅潮させ口から煙を吹き出しながら巨大化する。巨大化すると攻撃力や防御力が増すが、時間制限がある。この芋羊羹をフィーチャーしたエピソードが作られた他、結末においての重大な伏線となる。 一時期は「ヘルスボーゾック」「デビルボーゾック」などと改名してみるも、一向に成果は上がらず、挙句の果てに連戦連敗とそのマヌケぶりから、「ボーゾック、ボロ負け記録更新」「宇宙一弱い暴走族」などとスポーツ新聞に大々的に書かれるなど、カーレンジャー以外の地球人からも半ばバカにされるようになってしまう。
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激走戦隊カーレンジャー
一時期は「ヘルスボーゾック」「デビルボーゾック」などと改名してみるも、一向に成果は上がらず、挙句の果てに連戦連敗とそのマヌケぶりから、「ボーゾック、ボロ負け記録更新」「宇宙一弱い暴走族」などとスポーツ新聞に大々的に書かれるなど、カーレンジャー以外の地球人からも半ばバカにされるようになってしまう。 ボーゾックたち宇宙人の発音では地球は「チーキュ」(グラッチだけは「チーキュウ」と語尾をのばすような発音)、日本は「ニッポンポン」となる。なお、地球に住む人間は「一般市民」、その中でも子供は「子供さん」と呼んでいる。カーレンジャーの姿を素顔と思っており、終盤まで地球の一般市民が変身した装備の姿だとは夢にも思っていなかった。 物語後半より暴走皇帝エグゾスと協力関係となるが、その実態はエグゾスに利用されていたに過ぎず、後に見限られたことで決別し、カーレンジャーと共闘することになった。エグゾスを打倒した後は組織を解散し、所属メンバーは散り散りとなってそれぞれの生活を送っている。 各キャラクターの身長・体重などの設定はない。 ボーゾックの構成員が使用する車両で、飛行も可能。様々な種類がある。 ボーゾックの構成員が使用する巨大車両で、こちらも様々な種類がある。ゾクレンジャーが使用したこともある。 土門直樹役の増島愛浩と八神洋子役の来栖あつこは本作がデビュー作となった。上杉実役には実際に大阪府出身の福田佳弘を起用。陣内恭介役の岸祐二は本作品以降もシリーズ作品に様々な役で出演している。 岸が髙寺から聞いたところによると、コメディの素質がある岸と福田が先に決定し、残りの3人はバランスを取りながら決めていったという。本作品では、変身前は戦わないという方針であったため、メインキャストに本格的なアクション指導はなく、初期の撮影では従来の作品のような早朝のロケ出発もなかったという。後半には素面でのアクションも増えていったが、岸はストーリーでも戦うことに対する自覚が芽生えたことを描くために必要なことであったと述べている。 年間を通してナレーターが存在しない本作品では、複数話にまたがるエピソードの完結編や次回予告の際には、役者自らの声で説明が行われる。また、次回予告の終わりには毎回交通標語がその回の予告担当者によって読み上げられる。
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激走戦隊カーレンジャー
年間を通してナレーターが存在しない本作品では、複数話にまたがるエピソードの完結編や次回予告の際には、役者自らの声で説明が行われる。また、次回予告の終わりには毎回交通標語がその回の予告担当者によって読み上げられる。 ボーゾックのヒロインであるゾンネットには元AV女優である七瀬理香(旧名・水谷リカ)が起用されたが、このキャスティング傾向について東映のチーフプロデューサーを務めた髙寺成紀は、自身が少年時代に見た『恐竜100万年』などに登場するナイス系の女性や、大学生活を経て入社するまでの数年間に見た『超電子バイオマン』『電撃戦隊チェンジマン』『超新星フラッシュマン』の影響と述べている。敵組織の幹部クラスにいわゆるセクシー系の女優を起用する傾向は、髙寺が携わった後続の戦隊作品においても踏襲されることとなる。 声優面では、ボーゾック側のレギュラーである総長ガイナモの声には悪役のボスやガキ大将の役柄を得意とする大竹宏を、また副長ゼルモダと発明家グラッチの声にはギャグキャラの役柄が多い津久井教生と長嶝高士を起用。また加藤精三、飯塚昭三、渡部猛、関智一、肝付兼太などゲスト出演の面々も含め、前作同様若手やベテランを多く織り交ぜたキャスティングとなっている。 横山一敏によれば、本作品は従来よりも変身前後のシンクロが要求されたため、変身前の俳優陣との打ち合わせが密に行われ、変身後の芝居も多かったと述べている。 前作から営業に専念した鈴木武幸に替わり、本作品からは当時若手の髙寺成紀がメインプロデューサーに就任。これにより、脚本や監督などの編成は意図的に前作『オーレンジャー』とは違う人員で固められることが多くなった。 脚本面では、戦隊初参加となる浦沢義雄がメインライターを務めることになり、戦隊シリーズで浦沢がメインライターを担当した作品はこれが唯一である。髙寺は、浦沢の起用を一旦は躊躇したものの、企画者104の葛西おとの後押しにより決定したと述べている。他の脚本担当には、荒川稔久や本作品を最後に東映ヒーローから離れた曽田博久が名を連ねている。荒川は、浦沢の脚本はふざけているようにみえて深い真実を内包しているのに対し、自身の脚本は深みもないまま楽しみすぎてしまったと述懐している。
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激走戦隊カーレンジャー
演出面では、パイロット作品を東映作品最後の担当となった小林義明が演出し、3話以降は浦沢との付き合いの長い坂本太郎を始め、渡辺勝也、田﨑竜太の3人が中心となりローテーションを組んだ。特に渡辺は最多となる17作品を演出。シグナルマン登場編、2度に亘る新ロボ登場編、地方ロケ編、そして最終話に至るまで本シリーズの要となる作品を全て手掛けている。またその後の戦隊シリーズの演出陣の主力となった竹本昇も、本作品の第44話にて監督デビューを果たしている。 劇中音楽は本作品が東映作品初登板であり、その後も平成仮面ライダーシリーズなど東映特撮に多数携わることの多い佐橋俊彦が担当した。佐橋は、初回録音時に60から70曲を用意せねばならず録音に作曲が間に合わず、その後もアイデアを使い果たしてしまい試行錯誤するなどの苦心があったことを後年のインタビューで述べている。髙寺からの要望はいずれもハイテンポで勢いやスピードを強調していたため、佐橋はディープ・パープルの曲調にオーケストラやシンセサイザーを加えたイメージとしている。 キャラクターデザインは『特捜ロボ ジャンパーソン』などで東映特撮にも関わった経験を持つ野崎明と、前作より続投の阿部統が担当。また次作『メガレンジャー』にて本格的に参加となった下条美治も、ダップ関連のデザインという形で本作品に携わっている。 本作品より木村英俊に代って本地大輔ディレクターがスーパー戦隊シリーズを担当するのに伴い、音楽展開においてもそれまでとは大きな変化が見られるようになった。その最たるものが、主題歌を含めた合計32曲もの歌曲と、それらほぼ全て(4曲はシングル未発売)の先行シングルカット化である。これに伴い主題歌もOPとEDが別売仕様となり、各カップリングには挿入歌が収録されるようになった。
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激走戦隊カーレンジャー
本作品より木村英俊に代って本地大輔ディレクターがスーパー戦隊シリーズを担当するのに伴い、音楽展開においてもそれまでとは大きな変化が見られるようになった。その最たるものが、主題歌を含めた合計32曲もの歌曲と、それらほぼ全て(4曲はシングル未発売)の先行シングルカット化である。これに伴い主題歌もOPとEDが別売仕様となり、各カップリングには挿入歌が収録されるようになった。 また、それまで「ヒット曲集」としてリリースされていた前出の歌曲のアルバムも「ソングコレクション」に、「音楽集」は「ミュージックコレクション」へと改題され、それぞれ3枚がリリースされた。これらの他にも、純然たる企画ものとして「激走戦隊カーレンジャー★Merry Xmas!From Carranger ソングコレクション」が発売されている。ここではシングル発売された「Merry Xmas! from カーレンジャー」の他、佐橋俊彦編曲による「ジングルベル・フルアクセルヴァージョン」が事実上の新曲であり、他に日本コロムビア学芸部製作のクリスマスソング用カラオケを流用したものが8曲収録された。歌唱は全て岸祐二ら出演者たちによるもので、スーパーアクションサウンドのように恭介たちの掛け合いセリフも収録されている(実が子供のころの思い出を語る際に「仮面ライダーV3の変身ベルトが...」と発言するなど、かなりテンションの高いやり取りが聴ける)。同様の企画CDはセーラームーンでも行われた。 コロちゃんパックではレギュラーメンバーがラジオのDJ形式で曲紹介やミニドラマを展開する『げきそうドキドキ放送局』が製作され、こちらも3タイトルに渡ってリリースされている。 主題歌の歌手にはシリーズ初参加の高山成孝が起用され、挿入歌の歌手には前作『オーレンジャー』の主題歌・挿入歌を歌唱した速水けんたろうや『仮面ライダーBLACK』のエンディング曲を歌唱した坂井紀雄、メタルヒーローシリーズの『ブルースワット』やウルトラシリーズの主題歌・挿入歌を歌唱した前田達也などが起用された。 本作品では3種のドラマ入りカセットが発売された。これ以前にあったスーパーアクションサウンドシリーズに比べ、戦いを描くシーンはほとんど無く、あくまでドキドキ放送局という番組進行の形になっている。以下にタイトルと概要を紹介する(挿入曲は割愛)。
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激走戦隊カーレンジャー
本作品では3種のドラマ入りカセットが発売された。これ以前にあったスーパーアクションサウンドシリーズに比べ、戦いを描くシーンはほとんど無く、あくまでドキドキ放送局という番組進行の形になっている。以下にタイトルと概要を紹介する(挿入曲は割愛)。 サブタイトルには特に決まったフォーマットはないが、いずれも交通用語や自動車に関連する言葉が含まれたものとなっている。またエンディング後の次回予告では、簡単な交通安全講座も行っている。 前作ほどではないものの苦戦が続いていたが、一方で物語が進むにつれて従来の人気を回復するに至っている。また売上面においては『オーレンジャー』よりは下がったが、総売上118億円、うち玩具売上64億円を記録した。 助監督として参加していた深作健太によれば、当時テレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』で人気を博していたアニメーション監督の庵野秀明が本作品を評価しており、撮影現場にも見学に訪れていたという。 いずれも発売元は東映ビデオ。 『てれびくん』で上山道郎による漫画版が2度掲載された。内容は第1話をベースにしたもの(1996年3月号)と、シグナルマン登場の回をモチーフにしたもの(1996年6月号)である。上山は本作品以外に『忍者戦隊カクレンジャー』、『オーレンジャー』、『メガレンジャー』の漫画版も担当しているが、本作品が「一番描いていて楽しかった」と振り返っている。 2011年には『海賊戦隊ゴーカイジャー』における元レッドレーサー・陣内恭介と6人目の戦士の登場を記念し、上山のブログとPixivでこれらに修正を加えたものが掲載された。 『テレビランド』1996年3月号から1997年2月号にて南部鉄鬼による漫画版が連載されていた。 各作品における詳細はそれぞれの項目を参照。
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UNO (ゲーム)
UNO(ウノ)は、トランプゲームやクレイジーエイトを遊びやすく改良したカードゲーム。スペイン語またはイタリア語で数字の「1」を意味する「uno」が名前の由来である。アメリカンページワンにもよく似ている。 1971年にアメリカ合衆国オハイオ州で理髪店を営むマール・ロビンスにより考案され、1979年に広く発売されて人気となった。本ゲームは専用のカードを用い、配られた手札を早く0枚にした者が勝者となるゲームだが、対戦相手を妨害する役札が存在することと、残り手札が1枚となったときに「Uno」と宣言しなければならないことが特徴。世界80か国でこれまでに1億5000万個が販売されている。かつて日本でも1979年発売でトミー(現在のタカラトミー)からの販売であったが、現在はマテルが権利を保有しており、日本ではマテル・インターナショナルから発売されている。ほかにも、コンピュータソフト版や、専用カードの特徴を他のゲームと融合させたもの、オリジナルルールやオリジナルカードを採用したバリエーションも存在する。 ひとつのUNOセットには108 - 112枚のカードがある。長らく標準は108枚であったが、2016年のリニューアル版より4枚の新たなカードが追加され、標準は112枚となった。ただし後述の派生版にはこの4枚の新カードが含まれていない事が多い。 UNOで使用されるカードには数字カードと記号カードがある。カードは一部を除いて青、赤、黄色、緑の四色で色分けされている。記号カードは1990年代までアルファベットで表示されていたが、後にピクトグラムに移行している。 以下は取扱説明書を参考として記述している。 点数の計算方法は、国際ルールと日本ルールがある。カードには下記のとおり点数が定められているのは共通だが、国際ルールは敗者全員の残ったカードの点数を合計した点数が勝者に加算されるのみである(点数が減ることは無い。また敗者は一律0点)のに対し、日本ルールは各敗者の残ったカードの点数をそれぞれ減算してその分を勝者に加算(移動)するようになっている。国際ルールは500点先取、日本ルールは回数制(説明書では5ラウンド)である。なお、遅くとも2020年の「UNO Minimalista」からは日本版でも国際ルールを採用している。
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UNO (ゲーム)
非公式ルールとして、下記のようなものがある。浸透しすぎてこちらが公式ルールだと思い込んでいる人が多いルールもある。一部のルールは公式的に認定されており、コンピュータゲーム版ではオプションで切り替えることができる。 Reverseで回避する場合、ドロー返しと言い前のプレイヤーが累積された枚数取ることになり以降Reverse効果で手番は逆回りになる。 Skipで回避した場合、ドロー回避と言い通常のSkipではなく自分をSkip(ドロー回避)させて、次の人が累積された枚数のカードを引くことになる。 Draw TwoカードもしくはWild Draw Fourカードを出された場合に手札からWildのカードを出して、ドロー系カードの枚数累積をチャラにし、色を指定したら次のプレイヤーから通常プレイで続行する「ドロー潰し」と言うルールもある。 マテルからライセンスを受けたコンピュータゲーム版はトミー、ゲームロフトなどから発売されている。一部はオンライン対戦も可能。最大4人(一部機種のみ6人)で対戦ができる。プレイヤーの識別はあらかじめ与えられた色とマークを組み合わせるが、一部の機種では次のようなこともできる。 特徴は以下のとおり。 セガサターンから『UNO DX』(1998年1月29日発売)、PlayStationから『UNO』(1998年4月2日発売)がメディアクエストより発売。 PS版は電撃PlayStationDPSソフトレビューでは70、70の140点。レビュアーは細かいルール設定が可能でキャラクターがいい味を出していて全体的には悪くなく友達との勝負に備えて腕を磨くのにいいかもしれないとしたが、対戦中のキャラ達の台詞とリアクションは飛ばせず控えめに設定することもできるがそれでもちょっと長くてルールによっては長時間の対戦することもあるのでそのあたりを考えてほしかったとし、2人協力プレイは基本多人数でする遊びなため辛いとした者と熱くなれるとした者で分かれた。 マイクロソフト版はXbox 360専用であり、Xbox Live Arcadeでダウンロード販売している。現在はWindows 8以降アプリとしても無料ダウンロードが可能。
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UNO (ゲーム)
マイクロソフト版はXbox 360専用であり、Xbox Live Arcadeでダウンロード販売している。現在はWindows 8以降アプリとしても無料ダウンロードが可能。 スマートフォン版として2019年1月18日よりリリースが開始された。通常のUNOルールである「クラシック」とスタッキングをはじめとするスペシャルルールが採用される「GOワイルド」がある。
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コントラクトブリッジ
コントラクトブリッジ(英: contract bridge)は、切り札のあるトリックテイキングゲームの一つである。ただ単にブリッジと略すことも多い。 ブリッジと名のつくカードゲームには他にセブンブリッジがあるが、コントラクトブリッジとは全く異なるゲームである。 このゲーム中では切り札のことを「トランプ」と呼び、またゲーム中の情報伝達に規則があるゲームなので注意すること。 プレイ人数は4人。向かい合ったもの同士がペアを組み、自らの手札を元に2人でとれるトリック数の合計を類推し、ビッドにより攻撃側ペア・守備側ペアを決める。攻撃側で主とならない側のプレイヤーは、最初のリードの後手札を晒す。これをダミーと呼び、そのカードは主となる側が指定して出すことになる。13回のトリックのうち、攻撃側が宣言した以上のトリックを取れれば勝利となり、宣言しただけの点数を獲得し、宣言した以上の分についてはボーナスとして点数を獲得する。 競技では、配られたカードの差による有利不利を減らすため、デュプリケートブリッジとして、カードの内容をあらかじめ決めておき、競技者の間でそれらカードをプレイした結果の差で勝ち負けを決める。 トリックテイキングゲームの歴史はトランプ自体と同じくらい古いが、18世紀後半から19世紀には、イギリスのホイストがヨーロッパ中で流行するようになった。しかしそれまで流行していたオンブルやカドリーユのようなビッドシステムがホイストには欠けていたため、ホイストにビッドシステムを追加する試みがいくつか行われ、その中からブリッジも生まれた。
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コントラクトブリッジ
トリックテイキングゲームの歴史はトランプ自体と同じくらい古いが、18世紀後半から19世紀には、イギリスのホイストがヨーロッパ中で流行するようになった。しかしそれまで流行していたオンブルやカドリーユのようなビッドシステムがホイストには欠けていたため、ホイストにビッドシステムを追加する試みがいくつか行われ、その中からブリッジも生まれた。 ブリッジの直接の祖先にあたるのは、ジョン・コリンソンが1886年に刊行した冊子の中に載っている「ビリッチ(biritch)」というゲームである。コリンソンによると、このゲームはコンスタンチノープルのロシア人によって当時遊ばれていたものだという。ビリッチはダミー・ホイスト(ディーラーのパートナーが手札を開いて見せ、ディーラーがそこから何を出すかを決めるもの)の一種で、ディーラーかまたはそのパートナーが切り札を決めるか、または切り札なし(これをビリッチといった)を宣言する。ディーラーの相手側はダブル(contre)をかけられる、というもので、まだ競りのシステムはなかった。このゲームは後に「ブリッジ・ホイスト」さらに略してブリッジと呼ばれるようになった。「ブリッジ」という言葉はこのビリッチが変化したものと考えられている(ビリッチ自身の語源は明らかでない)。 1904年前後に、切り札をプレイヤーが決めるために“競り”を用いるオークション・ブリッジが考案された。コントラクトブリッジとオークション・ブリッジとの主な違いは得点の計算方法にある。とくに、オークション・ブリッジでは取れたトリック数がそのまま得点になったのに対して、コントラクトブリッジでは宣言したトリック数によって得点が得られるように変更された。この変更は第一次世界大戦中にフランスで考案され、プラフォン(plafond、天井)という名前で流行した。さらにアメリカのハロルド・スターリング・ヴァンダービルトらによって1925年にスコア表とバルナラビリティに関する改良が加えられ、1930年代以降はコントラクトブリッジがオークション・ブリッジやプラフォンを圧倒した。
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コントラクトブリッジ
現在、コントラクトブリッジはオークション・ブリッジを含めた他のブリッジに完全に取って代わっており、特に米英では単にブリッジと言えばコントラクトブリッジのことを指すようになっている。ただし、日本では逆にブリッジと言った場合、セブンブリッジを指すこともあるため、注意が必要である。日本語では「コントラクトブリッジ」と「コントラクト・ブリッジ」の2種類の表記があるが、管轄団体である日本コントラクトブリッジ連盟 (JCBL) では「コントラクトブリッジ」としているため、本項目でもこの表記に従う。 日本においては余りなじみのない競技だが、戦前から欧米人と関わりを持つ者を中心として行われていた。1953年には日本コントラクトブリッジ連盟が結成されている。現在では日本電気や日産自動車などが協賛する競技会が定期的に開催されている。 1995年にブリッジはマインドスポーツの一種目として、国際オリンピック委員会の承認競技リストに載ることになった。2018年のアジア大会では初めて正式種目に採用された。 しかし、助成金をめぐって「ブリッジがスポーツに当たるか」を争った2015年のイギリスの裁判所の判決では、ブリッジをスポーツとは認めない判決が下っている。 知り合い同士でブリッジを遊ぶ際には、ラバーブリッジがよく用いられる。ラバー(rubber)1つとは2ゲームを先取することであり、1ゲームとはコントラクトによる勝利のみで合計100点以上を獲得することである。スコアシートには横線を引いて、ゲームのために加算するポイントとボーナスとなるポイントを区別する。線の下側に書くポイントだけがゲームを左右する。勝敗は1ラバーが終わったときの点数総計で争うので、ごくまれではあるがラバーを勝ち取っても勝負としては負ける可能性もある。 プレイヤーは4人。一般には正方形のテーブルを使用し、その4辺に座る。便宜上4人のプレイヤーをそれぞれN(North)、S(South)、E(East)、W(West)と呼ぶ。向かい合った2人(NとS、EとW)が味方(パートナー)同士となる。この2人をペアといい、2つのペアを区別するときはサイド(NSサイド、EWサイドあるいは相手サイドなど)と呼ぶ。
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コントラクトブリッジ
プレイヤーは4人。一般には正方形のテーブルを使用し、その4辺に座る。便宜上4人のプレイヤーをそれぞれN(North)、S(South)、E(East)、W(West)と呼ぶ。向かい合った2人(NとS、EとW)が味方(パートナー)同士となる。この2人をペアといい、2つのペアを区別するときはサイド(NSサイド、EWサイドあるいは相手サイドなど)と呼ぶ。 ゲームには通常のトランプ52枚を使う。ディーラーを1人決め、ディーラーは各プレイヤーに13枚ずつカードを配る。ディーラーは、ゲーム毎に左隣の者へと移ってゆく。 ルール上最初の手札が13枚と多いため、持ちやすいよう、メジャーなブランドのカードなどには細身の「ブリッジサイズ」バージョンがある(トランプ#サイズ)。 ビッド(bid)とは競り(オークション)の宣言のことである。競りはディーラーから始め、時計回りに続け、最後に誰かがコールをしてから、他の3名が連続してパスするまで続く。コール(call)にはビッド (bid)、パス (pass)、ダブル(double, DBLと略記する)およびリダブル(redouble, RDBLと略記する)があり、自分の順番では、以下のいずれかを行うことになる。 もし、ビッドされることなく4人がパスした場合は、このゲームは互いに0点となり、次のディーラーが新しいゲームを始める。 ビッドは、オッドトリックの数字とデノミネーションを合わせて行う。オッドトリック(odd tricks)とは、勝利するために必要な最低限の6トリック(ブックという)を除いたトリック数のことで、1~7の数字で指定する。デノミネーション(denomination)は、切り札となる特定のスートかノートランプ (NT) で特定する。 新しくビッドを行う場合、直前までのビッドよりオッドトリックの数字もしくはデノミネーションのランクが上回るビッドをする必要がある。スートは下から順に♣、♦、♥、♠の順位をもっており、ノートランプは♠の上に位置する。ダブル、リダブルの後でビッドが行われた場合にはそのダブル、リダブルは無効となる。
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コントラクトブリッジ
新しくビッドを行う場合、直前までのビッドよりオッドトリックの数字もしくはデノミネーションのランクが上回るビッドをする必要がある。スートは下から順に♣、♦、♥、♠の順位をもっており、ノートランプは♠の上に位置する。ダブル、リダブルの後でビッドが行われた場合にはそのダブル、リダブルは無効となる。 あるコールに対して他の3人がパスしたら、最後のビッドをコントラクトと呼び、これが最終的に有効なものと見なされる。コントラクトを成立させたペアのうち、最初にコントラクトのデノミネーションを宣言したプレイヤーをディクレアラー (declarer) と呼ぶ。ディクレアラーのパートナーはダミー(dummy)と呼ばれる。残りの2人をディフェンダー(defenders)と呼ぶ。 最後のビッドをした者がディクレアラーになるわけではないことに注意。たとえば、 Nが1♠をビッド→Sが2♣をビッド→Wが2♥をビッド→Sが4♠をビッド→他の3人がパス と進行した場合、ディクレアラーはSではなく最初に♠をビッドしたNになる。 最初のリードは、ディクレアラーの左側のプレイヤーから行う。プレイは時計回りに進行する。 最初のカードがリードされたら、その時点でダミーのカードを机に晒す。そして、これらのカードはこれ以降、ディクレアラーの判断でプレイする。つまり、ディクレアラーがダミーに、どのカードを出すか指示するのである。 これ以外のプレイの主要な点については他のマストフォロールールを用いたトリックテイキングゲームと同じで、前回のトリックを取ったものが次のリードを行う。もちろん、ディクレアラーがダミーの手でトリックを取った場合は、ダミーの側から次のリードを、ディクレアラーが自分の手でトリックを取った場合は、自分の側から次のリードを行う。 切り札は、ビッディングの際にデノミネーションとして宣言されたスートである。NT でコントラクトした場合は切り札なしで行う。 ディクレアラーがコントラクトを達成した場合、各スートごとに決められた基本点×コントラクトのオッドトリック分の点数が線の下に書かれる。コントラクトより多くのトリックを取った場合は、ダブル、リダブルの場合を除いて、上回った分について同様に点数を計算するが、これは線の上に記入される。
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コントラクトブリッジ
ディクレアラーがコントラクトを達成した場合、各スートごとに決められた基本点×コントラクトのオッドトリック分の点数が線の下に書かれる。コントラクトより多くのトリックを取った場合は、ダブル、リダブルの場合を除いて、上回った分について同様に点数を計算するが、これは線の上に記入される。 線の下に書かれる点数は、ダブルされたコントラクトの場合は上記の2倍、リダブルの場合はダブルのさらに2倍となる。 切り札をクラブまたはダイヤにした場合は基本点は20点であり、ハートまたはスペードの場合は30点である。NTの場合も30点だが、最後に10点を加えて線の下に記入する。 線の下に書かれた点数が、今までに線の下に書かれたぶんと今とったぶんを合わせ、100点以上(100点を含む)になった場合、そのチームはゲーム(game)を達成したということになり、そこまでのスコアは両チームとも全て線の上側に書かれたものとして扱う。ゲームを1度勝ったチームを、バルネラブル(Vulnerable)略してバル(Vul.)と呼ぶ。バルネラブルでないチームをノン・バルネラブル(ノンバル)と呼ぶ。バルかノンバルかによって、スラムを取ったときのボーナス点と、ダウン(宣言したトリックが取れなかった場合)の点が変化する。 もしそのゲーム達成がそのチームにとって2ゲーム目であった場合、これはラバー(rubber)獲得とされる。どちらかのチームがラバーを獲得した時点で、そのラバーは終了する。ラバーを獲得したチームには以下のようなラバーボーナスが与えられる。 そして、双方の合計点を数え、この合計点の高低で勝利チームを決める。 ラバーボーナスは大きいため、普通はラバーを獲得したチームのほうが勝利する。しかし、リダブルで大きなオーバートリックを獲得したチームがある場合など、ラバーを獲得できなかった側が勝利する可能性もルールとしては残されている。 コントラクトを6でビッドし12トリック取ってそれを達成することを、スモールスラム(small slam)と呼ぶ。そして、ノンバルなら500点を、バルなら750点を線の上側に記入する。 コントラクトを7でビッドし13トリック取ってそれを達成することを、グランドスラム(grand slam)と呼ぶ。ノンバルなら1000点を、バルなら1500点を線の上側に記入する。
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コントラクトブリッジ
コントラクトを6でビッドし12トリック取ってそれを達成することを、スモールスラム(small slam)と呼ぶ。そして、ノンバルなら500点を、バルなら750点を線の上側に記入する。 コントラクトを7でビッドし13トリック取ってそれを達成することを、グランドスラム(grand slam)と呼ぶ。ノンバルなら1000点を、バルなら1500点を線の上側に記入する。 グランドスラムはテニスなどスポーツで主要な大会を制覇する意味でも使われるようになっている。 アナー(honour)ボーナスは、コントラクトの達成如何にかかわらず、下記の条件を満たす場合に線の上側に記入する。ラバーブリッジには適用されるが、デュプリケートには適用されない。(同じ手札を全員がプレイするため) 宣言した側が宣言しただけのトリックを取れなかった場合、相手チームが線の上側に点数を獲得する。宣言した側がノンバルの時は、下回った分1トリックにつき50点が、バルの時は、下回った分1トリックにつき100点がその点数となる。 宣言にダブルがかけられていた場合、コントラクトを達成すると、線の下側に記入される点数は2倍になる。さらにボーナス50点を線の上側に記入する。オーバートリックは1トリックにつき、達成した側がノンバルなら100点を、バルなら200点を加算する。リダブルしていた場合は、以上の点数はすべてダブルのときの2倍になる。 スラムボーナス、ラバーボーナスはダブル、リダブルの有無にかかわらず同一の点数である。 ダブルがかけられたコントラクトを達成できなかった場合、ペナルティ(相手チームに加算する点数)は、以下の通りとなる。 コントラクトした側がリダブルをかけていた場合、これらの点数はダブルのときの2倍となる。 もし、古いブリッジの本を見る機会がある場合、スコアのルールについて違いに気がつくかもしれない。
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コントラクトブリッジ
スラムボーナス、ラバーボーナスはダブル、リダブルの有無にかかわらず同一の点数である。 ダブルがかけられたコントラクトを達成できなかった場合、ペナルティ(相手チームに加算する点数)は、以下の通りとなる。 コントラクトした側がリダブルをかけていた場合、これらの点数はダブルのときの2倍となる。 もし、古いブリッジの本を見る機会がある場合、スコアのルールについて違いに気がつくかもしれない。 ノンバルの側がダブルをかけられてダウンした場合、前は最初の1トリックが100点、その後が各200点というだけのペナルティだったが、これだとグランドスラムを狙ってコントラクトする側に関しての対抗条件としては弱いので変更された。バルでグランドスラムをかけると、点数は(スラムボーナスとして)1500点、(ゲームボーナスとして)500点、(メジャースートでのトリック達成点として)210点を確保するので、この点数は合計2210点となるのだが、ノンバルの側がダブルをかけられて11ダウンすると、ペナルティは(昔の方式では)2100点となるわけで、これは考慮できる犠牲であったわけだ。 また、リダブルをかけられた際にもらえるボーナスも、古いルールでは50点のままだった。これは100点に変更されているが、このためマイナースートで5以上のコントラクトをし、リダブルして、オーバートリックを取ることが、ダブルされずにスモールスラムを取るよりも価値のあることになった。 この変更はまずデュプリケートブリッジにおいて行われ、ラバーブリッジでも1993年に変更された。 他のカードゲームと同様、ブリッジの点数は手札の良し悪しに依存する。このことを回避し、ブリッジを運のゲームから技のゲームとするため、ブリッジクラブや大会でのスコアはそれ自身では評価せず、同じ手を用いて他のプレイヤーが戦ったときと比べて評価される。これには大きく分けて2つのシステムがある。ペア戦とチーム戦である。 ペア戦では、何回か戦った後に、全員のスコアが比較される。各ペアは自分たちより低い点数だったペアの数×2点を、自分たちと同じ点数だったペアの数×1点を各ゲームについて得る。そして全ゲームの総和で順位を決める。多くの場合点数は%で表す。100%ならある手でそのペアが他全員より良い得点だったということで、50%なら平均的だったということである。
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コントラクトブリッジ
ペア戦では、何回か戦った後に、全員のスコアが比較される。各ペアは自分たちより低い点数だったペアの数×2点を、自分たちと同じ点数だったペアの数×1点を各ゲームについて得る。そして全ゲームの総和で順位を決める。多くの場合点数は%で表す。100%ならある手でそのペアが他全員より良い得点だったということで、50%なら平均的だったということである。 アメリカや日本では、勝ったときは1点、同じ点なら1/2点として同様の計算をする。 チーム戦では、各ペアは2ペアで構成されるチームの1員となる。各ディールは2度ずつ実行される。2度目は、同じチームの敵が使っていた手を用いてプレイする。もちろん、チーム内では使った手の内容について全てのディールが終わるまで語り合ってはいけない。各ディールが2度ずつ行われたら、各ディールについてスコアを比較する。そして、全スコアは各プレイを比較することで行う。たとえば、あるペアが+1000点獲得し、同じ手で同チームが失点を-980点に押さえた場合、そのチームのスコアはそのディールについて+20点となる。通常、この数字は、大きい点数の場合は圧縮される。さもなければ、1度でもスラム勝ちすれば他のゲームが意味のないものになってしまうからだ。ボード・ア・マッチの場合は、勝ち負けのみで比較される。IMPの場合は、点数の差は0~24の点数に圧縮される。 デュプリケートブリッジは、クラブやトーナメントで遊ばれているが、これらはそれぞれ独立して扱われ、ラバーの一部としては見られない。これらの違いは単純化され、スコアリングは上記の通りとなる。 デュプリケートブリッジでは、コントラクトを達成した場合の点数はボーナスも含め上記に書かれた通りである。(6トリックを超えた分について、クラブ、ダイヤでは1トリックにつき20点、ハート、スペードについては30点、ノートランプの際は30点+10点ボーナス。ダブル、リダブルも考慮する。)コントラクトによって達成される点が100点以上となる場合は、ゲーム達成とみなし、バルネラブルでない場合は300点を、バルネラブルの場合は500点を加えて獲得する。100点を達成出来なかった場合も、この点は次の手には持ち越されないが、50点のボーナスは加えられる。 そのほかの点数については同様である。
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コントラクトブリッジ
そのほかの点数については同様である。 デュプリケートブリッジでは、各ゲームについて、「両チームともバルネラブルでない」「NS側だけバルネラブル」「EW側だけバルネラブル」「両チームがバルネラブル」という順番で行い、その後はディーラーとバルネラブルの組み合わせを変えるために、一人ずつずらしてくり返す。 試合では、ビッディングボックスがよく使われる。これはビッディングの各内容を書いたビッディングカードをまとめて各人に持たせたもので、これを使うことで、声を使うことで起こる禁止された情報交換を防ぐ事が出来る。たとえば、ただ「ダブル」というのと、強い調子で「ダブル」と言うようなものに違いを持たせているような場合である。国際的な試合や国内のトップ戦の場合は、ビッディングスクリーンが使われる。机上に立てることで、ビッドが終了するまで自分のパートナーを見ることが出来なくなる(声を聞くこともできない)。スクリーンの両側にはそれぞれ2名がいることになる。全てのアラートは書かれたもので行われ、各プレイヤーは自分と自分のパートナー両方のビッドをアラートする。 これらの問題の多くはオンラインのブリッジで回避される。許可されない情報交換による不正は回避される。しかし、もっとあからさまな不正(たとえば、別回線を用いて、パートナーと電話で会話して情報交換するなど)は可能である。幸運にも、上級者のほとんどはこういった不正を察知できる。それに、電子的に手札は保存されているので、苦情は簡単適切に解決することが可能である。オンラインブリッジにはそのほか、リボーク(ルール違反なカードプレイ)や順番飛ばしなどのルール違反が不可能であるという利点がある。コンピュータ(プログラム)によりルールが強制されるからである。 パートナー同士は自分の持っている手についてお互いに情報交換することが許されているが、これは下記の2つによって制限される。 したがって、何を目的として情報交換しているかは、情報交換と同時に相手サイドにもある程度は知られることになる。
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コントラクトブリッジ
パートナー同士は自分の持っている手についてお互いに情報交換することが許されているが、これは下記の2つによって制限される。 したがって、何を目的として情報交換しているかは、情報交換と同時に相手サイドにもある程度は知られることになる。 パートナー同士で予め合意した、コールが意味する様々な取り決めを集めたものを、ビッディングシステムと呼ぶ。ビッディングシステムには、ゴーレン、エーコール(en:Acol)、スタンダードアメリカン(en:Standard American)、プレシジョン(en:Precision Club)、JCBLスタンダードなど、様々なものがあり、ある名称が別のシステムを包含しているものだったり、同じ名称でも細部の変更がある場合がある。 日本で主に使われているJCBLスタンダードにも4枚メジャーと5枚メジャーと呼ばれるバリエーションがあり、微妙に条件が違っている。 ビッドの際、宣言したトリック数や切り札スートとは全く違う意味を込める場合があり、これをコンベンションと呼ぶ。多くのコンベンションが開発されているが、有名なのはステイマン(en:Stayman convention)、ジャコビ・トランスファー(en:Jacoby transfer)、ブラックウッド(en:Blackwood convention)の各コンベンションである。 初心者でも以下の戦法は遊ぶ際に知っておくべきである。 大会に出るなら、以下のテクニックは知っておくべきである。 インターネット上に、ブリッジを遊ぶためのサーバがある。フリーなものもあるが、登録が必要なものもある。OKBridgeは、インターネット上のブリッジサービスでもっとも古いものであるが、愛好者の間ではもっともポピュラーである。ACBL(アメリカコントラクトブリッジ連盟)は、自営で登録制のブリッジサービスを始めたが、あまり成功していない。フリーのサーバは、不正を監視していないし、プレイに関しては低品質であることが多い。 オンラインブリッジにはいくつかの利点がある。 もちろん、オンラインプレイには欠点もある。
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コントラクトブリッジ
オンラインブリッジにはいくつかの利点がある。 もちろん、オンラインプレイには欠点もある。 米英では一般的なカードゲームであるため、「ブリッジをプレイする」という場合、普通はコントラクトブリッジのことである。小説や映画などにも頻繁に登場するが、ルールの説明が本編にないことがほとんどであり、ミステリー小説などでトリックとして使われると、一般的でない国の人間にはアンフェアとされることもある。
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群 (数学)
数学における群(ぐん、英: group)とは、ある二項演算とその対象となる集合とを合わせて見たときに結合性を伴い単位元と逆元を備えるものをいう。数学において最も基本的と見なされる代数的構造の一つであり、数学や物理学全般において、さまざまな構成に対する基礎的な枠組みを与えている。群はそれ自体が研究対象であり、その領域は群論と呼ばれる。 群の概念は、数学的対象 X から X への自己同型の集まりの満たす性質を代数的に抽象化することによって得られる。この集まりは X の対称性を表現していると考えられ、結合法則・恒等変換の存在・逆変換の存在などがなりたっている。集合論にもとづき X が集合として実現されている場合には、自己同型として X からそれ自身への全単射写像を考えることになるが、空間や対象の持つ構造に応じてさらに付加条件を課すことが多い。例えば、ベクトル空間 X に対してその自己同型写像の集まりを考えると群が得られる。また、平面上に正三角形など何らかの対称性を持った図形が与えられているとき、平面全体の変換のうちでその図形を保つようなものだけを考えることによって、図形の対称性を表す群を取り出すことができる。 集合 G とその上の二項演算 μ: G × G → G の組 (G, μ) が群であるとは、以下の3つの条件を満たすことをいう: 群よりも広い概念として、1 を満たすものは半群、1 と 2 を満たすものはモノイドという。 なお、二項演算を写像として強調したい場合を除けば、通常 μ(g, h) のことを g・h や単に gh と書くことが多い。またこの演算を「積」や「乗法」と呼ぶことが多いが、加法と呼ばれている二項演算をもとにしてできる群もあるので、注意する必要がある。さらに積が文脈から明らかなときには、群 (G, μ) のことを単に群 G と台集合を指定するだけで済ませることがほとんどである。 群 (G, μ) がさらに を満たすとき、この群のことをアーベル群(可換群)という。アーベル群の演算は "+" を用いて加法的にも書かれ、この際 g の逆元は −g と書かれる。
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群 (数学)
群 (G, μ) がさらに を満たすとき、この群のことをアーベル群(可換群)という。アーベル群の演算は "+" を用いて加法的にも書かれ、この際 g の逆元は −g と書かれる。 現代の標準的な群の定義は上述のようなものであり、公理は左右対称に書かれているが、これらは冗長であることが知られていて、たとえば結合法則と左単位元の存在と左逆元の存在だけを要請してもよい。あるいは G が空集合でなく、結合法則と左右の商が存在すること を要請してもよい。また複雑な単一の公理により群を定義する方法もいくつか知られている。 群 G の元の数(基数)のことを位数 (order) という。位数は集合に倣って |G| や #G などの記号で表される。位数が有限な群を有限群という。 群 G の空でない部分集合 H が G の群演算に関して閉じていて、H の任意の元に対して、逆元が H の元であるとき、この部分集合 H を G の部分群といい H ≤ G または G ≥ H と表す。これは空でない部分集合 H の任意の元 a, b に対して ab ∈ H が成り立つことと同値である。 G が群であれば、G および {e}(単位元のみからなる群、単位群)は必ず G の部分群になる。これらを自明な部分群という(単位元のみからなる部分群のみを指す場合もある)。それ以外の部分群は、自明でない部分群あるいは真の部分群と呼ぶ(真部分集合であるような部分群という意味で、真の部分群に単位群を含める場合もある)。 部分群 N が群 G の任意の元 g に対して gNg = N を満たすとき、N をGの正規部分群といい、 N ◃ G {\displaystyle N\triangleleft G} または G ▹ N {\displaystyle G\triangleright N} と書く。 アーベル群 G の任意の部分群は正規部分群である。また、自明でない群 G が自身と自明な部分群しか正規部分群を持たないとき、G は単純群であるという。 部分群 H と G の元 g について、gH はある G の部分集合になる。2 つの g, g' について gH, g'H は全く一致するか交わらないかのいずれかである。従って、
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群 (数学)
アーベル群 G の任意の部分群は正規部分群である。また、自明でない群 G が自身と自明な部分群しか正規部分群を持たないとき、G は単純群であるという。 部分群 H と G の元 g について、gH はある G の部分集合になる。2 つの g, g' について gH, g'H は全く一致するか交わらないかのいずれかである。従って、 と非交和に書き表せる。それぞれの gH を (H を法とする g の属する G の) 剰余類(または傍系)という。|gH| = |H| が成り立つので結局 |G| = |Λ||H| が成り立つ。G が有限群ならばこれは H の位数が G の位数を割り切るということをいっている(ラグランジュの定理)。特に素数位数の群は巡回群である。|Λ| を [G : H] とか (G : H) などと書いて H の(G に対する)指数という。指数 1 の部分群はもとの群であり、指数 2 の部分群は常に正規部分群である。 N を正規部分群とするとき gN = Ng が成り立つ。すると、二つの剰余類 gN, hN について gN · hN = ghNN = ghN が成り立ち、剰余類の間に演算を定義することができる。ここからすぐにこの剰余類全体は群を成すことが分かる。この群を G の N による剰余群または商群といい、G/N と表す。 群 G1 から群 G2 への写像 f が任意の G1 の元 g, g' について f(gg' ) = f(g)f(g' ) を満たすとき、f を準同型(写像)という。(G1 = G2のときは特に自己準同型という。)さらに準同型 f が全単射であれば、f を同型(写像)という。G1 から G2 への同型が存在するとき、G1 と G2 は同型であるといい、 と表す。2つの群 G1, G2 とその間の準同型写像 f: G1 → G2 に対し、準同型 f の核 Ker f は G1 の正規部分群である。このとき f の像 Im f は G を f の核 Ker f で割った剰余群に同型である: これを(群の)準同型定理(特に第一同型定理)という。 群 G の自己同型(G から G への同型写像)全体の成す集合を Aut(G) と表すと、 Aut(G) は写像の合成を積として群となる。Aut(G) を G の自己同型群と呼ぶ。
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群 (数学)
これを(群の)準同型定理(特に第一同型定理)という。 群 G の自己同型(G から G への同型写像)全体の成す集合を Aut(G) と表すと、 Aut(G) は写像の合成を積として群となる。Aut(G) を G の自己同型群と呼ぶ。 群 G の任意の元 g に対し、写像 Ag: G → G を で定めると、この写像は G の自己同型を定める。この形で得られる自己同型を G の内部自己同型と呼び、G の内部自己同型全体の成す集合を Inn(G) と表す。Inn(G) は Aut(G) の正規部分群であり、Inn(G) を G の内部自己同型群と呼ぶ。さらに剰余群 Out(G) = Aut(G)/Inn(G) を外部自己同型群(英語版)とよび、その元を外部自己同型という。群 G の部分群 N が正規部分群であることと、N が G の任意の内部自己同型で不変であることは同値である。さらに N が Aut(G) の作用で不変なら N は G の特性部分群であるという。 群 G の二つの元 x, y に対し、y = Ag(x) = gxg となる g ∈ G が存在するとき、x と y は互いに共役(共軛ともかく)であるという。同様に、部分群 H, K に対し、H = gKg となる g ∈ G が存在するなら、二つの部分群 H, K は互いに共役であるという。共役であるという関係は群 G の同値関係である。群 G を共役という同値関係で類別したときの同値類を共役類という。有限群 G をその共役類 Cl1, ..., Cln に類別すれば、位数に関して次の等式 を考えることができる。これを類等式と呼ぶ。G の元 x がその中心 Z(G) に属することと x の属する共役類が {x} なる一元集合であることとは(中心の定義から直ちにわかるように)同値であり、2 個以上の元からなる共役類の全体を C1, C2, ..., Cr とすれば、類等式は の形に書くことができる。有限群 G が p-群(位数が p の冪であるような群)ならば、その中心が自明群でないことは類等式から直ちにわかる。 群 G のすべての元と可換な G の元の全体を Z(G) や C(G) などと書いて、G の中心という。群 G とその部分集合 S に対し、G の部分集合
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群 (数学)
の形に書くことができる。有限群 G が p-群(位数が p の冪であるような群)ならば、その中心が自明群でないことは類等式から直ちにわかる。 群 G のすべての元と可換な G の元の全体を Z(G) や C(G) などと書いて、G の中心という。群 G とその部分集合 S に対し、G の部分集合 は S をその中心に含む G の部分群となる。この群 CG(S) を S の G における中心化群という。S が一元集合 {x} であるとき、CG({x}) を CG(x) と略記する。G の各元 x に対して、その中心化群 CG(x) の G に対する指数 [G : CG(x)] は x の属する共役類の位数に等しい。 群 G の部分集合 S に対して、G の部分集合 は(S が部分群でなくとも)G の部分群となる。この NG(S) を S の G における正規化群と呼ぶ。H が群 G の部分群であるときは、その正規化群 NG(H) は H を含む。また H は正規化群 NG(H) の正規部分群である。これを、NG(H) は H を正規化 (normalize) するといい表す。一般に G のふたつの部分群 H1, H2 に対し、H1 が H2 を正規化するとは、 が H1 のどの h についても成立することを言う。 群 G が、G の部分群の有限列 G0, G1, ..., Gn で 2 条件 を満たすもの(アーベル的正規列)を持つとき、G は可解群であるという。 最小位数の非可解群は5次の交代群 A5 である。 奇数位数の有限群はすべて可解であることが、ジョン・G・トンプソンらによって証明されている(ファイト・トンプソンの定理)。トンプソンはこの業績によりフィールズ賞を受けた。 標数 0 の体上において、代数方程式が代数的に可解となることと、その方程式のガロア群が可解群となることは同値である(一般の正標数では同値にならない)。このことが可解群の名の由来である。また、4 次以下の交代群は可解であるのに対し、5 次の交代群 A5 は可解でなく、したがってそれは 「5 次の一般代数方程式はべき根のみによって解くことは出来ない」という命題の証明となる。 また、可解群の定義は次のように述べることもできる(上の定義と同値): G の部分群 D(G) を
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群 (数学)
また、可解群の定義は次のように述べることもできる(上の定義と同値): G の部分群 D(G) を と定め、H1 = D(G), H2 = D(H1), ... と帰納的に G の部分群 Hi を定めるとき、Hr = {e} となる自然数 r が存在するならば G を可解群と呼ぶ。 一般に、xyxy を x と y の交換子と呼び、[x, y] であらわす。さらに G の部分群 H, K に対し、[h, k] (h ∈ H, k ∈ K) の形の元で生成される G の部分群を [H, K] で表し、H と K の交換子群という。 この記号を用いれば、D(G) = [G, G] であり、これを G の交換子群と呼ぶ。D(G) は G の特性部分群、したがって特に正規部分群である。すぐに分かるように、D(G) = {e} は G がアーベル群となることに同値である。したがって、剰余群 G/H がアーベル群となるなら H ⊇ D(G) であり、自然に G/H ⊆ G/D(G) と見なせるので、G/D(G) は G の剰余アーベル群の中で最大のものになる。よって G/D(G) を G の最大剰余アーベル群あるいは G のアーベル化、アーベル商などと呼ぶ。 次の2つの同値な条件を満たす群を冪零群 という。 可換群および有限 p 群はべき零群である。また、べき零群は可解群である。 可解性・べき零性の遺伝:べき零群の部分群および剰余群はべき零群である。可解群の部分群および剰余群は可解群である。逆に G の正規部分群 N と剰余群 G/N がともに可解群なら G は可解群である。(べき零群の場合には同様の主張は成り立たない。) 群 G と群 H に対し、その直積集合 G × H 上に という積を定めることで群となる。これを群の(外部)直積または構成的直積という。また、群 G がその部分群 H1, H2 の(内部)直積である、あるいは直積に分解されるとは、以下の条件 がすべて満たされることをいう。 で表す。右辺の直積を構成的直積と呼ぶこともある。G の部分群という構造を落として、H1, H2 の外部直積をつくったものと内部直積とは、二つの自然な埋め込み をそれぞれ同一視することで本質的に同じものであることがわかる。
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群 (数学)
がすべて満たされることをいう。 で表す。右辺の直積を構成的直積と呼ぶこともある。G の部分群という構造を落として、H1, H2 の外部直積をつくったものと内部直積とは、二つの自然な埋め込み をそれぞれ同一視することで本質的に同じものであることがわかる。 群 H と群 N と準同型写像 f: H → Aut(N) が与えられているとき、直積集合 N × H 上に で積を定めると群となる。これを H と N の f による半直積といい、 で表す。なお、この群で N は正規部分群となる。群の拡大も参照。 G を有限可換群とすると、2以上の整数 が存在して、G は と巡回群の直積に分解する。このような ei たちは一意的に定まる。 また、素数 p1, ..., pr(重複してもよい)と、正の整数 a1, ..., ar が存在して、 と素数べき位数の巡回群の直積に分解する。このとき、 p 1 a 1 , p 2 a 2 , ⋯ , p r a r {\displaystyle {p_{1}^{a_{1}},p_{2}^{a_{2}},\cdots ,p_{r}^{a_{r}}}} は順序の差を除き一意的に定まる。 有限群 G の位数 |G| の素因数を p とするとき、位数 p をもつ G の元が存在する。 素数 p が与えられているとき、有限群 G の位数を |G| = pm (ただし m は p と互いに素)と表す。このとき位数 p の G の部分群を p-シロー部分群という。p-シロー部分群について以下が成り立つ。 N を有限群 G の正規部分群とし、|N| と |G:N| が互いに素であるとき、G の部分群 C が存在して、G は N と C の半直積となる。 p, q を素数とするとき、位数 pq の有限群は可解である。 有限べき零群はそのシロー部分群の直積に同型である。 群の概念が初めてはっきりと取り出されたのは、エヴァリスト・ガロアによる根の置換群を用いた代数方程式の研究だとされている。
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群 (数学)
N を有限群 G の正規部分群とし、|N| と |G:N| が互いに素であるとき、G の部分群 C が存在して、G は N と C の半直積となる。 p, q を素数とするとき、位数 pq の有限群は可解である。 有限べき零群はそのシロー部分群の直積に同型である。 群の概念が初めてはっきりと取り出されたのは、エヴァリスト・ガロアによる根の置換群を用いた代数方程式の研究だとされている。 16世紀中頃に、ジェロラモ・カルダーノ、ルドヴィコ・フェラーリらによって四次方程式までは冪根による解の公式が得られていたが、5 次以上の方程式に解の公式が存在するのかどうかはわかっていなかった。その後18世紀後半になってラグランジュによって代数方程式の解法が根の置換と関係していることが見出された。(「ラグランジュの定理」にその名が残っているのはこのためである。)19世紀に入り、ルフィニやニールス・アーベルによって五次以上の方程式にはべき根による解の公式が存在しないことが示された。 ガロアは、より一般に任意の代数方程式について根が方程式の係数から加減乗除や冪根の操作によって得られるかどうかという問題を、方程式のガロア群の可解性という性質に帰着した。ガロアの研究に端を発する群を用いた代数方程式の理論は今ではガロア理論と呼ばれている。 ガロア理論によれば五次以上の代数方程式の非可解性は交代群が単純であることによって説明される。このような有限単純群の分類は20世紀に大きく発展し、1980年代までにいくつかの系列と26の例外からなる有限単純群の同型類のリストアップが完成した。
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群 (数学)
ガロア理論によれば五次以上の代数方程式の非可解性は交代群が単純であることによって説明される。このような有限単純群の分類は20世紀に大きく発展し、1980年代までにいくつかの系列と26の例外からなる有限単純群の同型類のリストアップが完成した。 抽象的な群の概念を考えることによって古典的な数学の対象とは異なるものに群の言葉を導入することができるようになる。文化人類学に群の理論が応用された例として、アンドレ・ヴェイユによるムルンギン族の婚姻体系の解析が挙げられる。オーストラリア・アボリジニのムルンギン族は独特の婚姻体系を持っており、結婚が許される間柄や許されない間柄を定める規則が西洋や日本のものとは全く異なっていた。文化人類学の研究では婚姻関係の規則を列挙して述べるのが普通だったが、ムルンギン族の体系は厳密だがとても複雑なもので、そうした手法による理解は困難に思われた。1945年にクロード・レヴィ=ストロースからこの話を聞いたアンドレ・ヴェイユは、許される婚姻の型を決定する規則が群をなしていることなどを発見し、群論を活用してその体系を解明した。
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共形場理論
共形場理論(きょうけいばりろん、Conformal Field Theory, CFT)とは、共形変換に対して作用が不変な場の理論である。特に、1+1次元系では複素平面をはじめとするリーマン面上での理論として記述される。 共形変換に対する不変性はWard-Takahashi恒等式を要請し、これをもとにエネルギー-運動量テンソル(あるいはストレステンソル)に関する保存量が導出される。また1+1次元系においては、エネルギー-運動量テンソルを展開したものは、Virasoro代数と呼ばれる無限次元リー代数をなし、理論の中心的役割を果たす。 共形変換群は、時空間の対称性であるポアンカレ群の自然な拡張になっており、空間d-1次元+時間1次元のd次元時空間ではリー群SO(d,2)で記述される。この変換群の生成子は(d+2)(d+1)/2個あり、その内訳は以下のとおり。 ※以上が、部分群としてのポアンカレ群の生成子をなす。 スケール普遍性は定義より以下の変換(ディラテーション)を示唆する。 さらに強く、共形不変性を要求すると が加わる。この代数SO(d,2)を共形代数(conformal algebra)と呼ぶ。 場の理論の基本的な可観測量である相関関数(場の演算子の積の真空期待値)は共形代数によって強い制限を受ける。特にユニタリな共形場の理論においては、例えばスカラー演算子の二点関数は ⟨ φ ( x ) φ ( y ) ⟩ = 1 | x − y | Δ φ {\displaystyle \langle \phi (x)\phi (y)\rangle ={\frac {1}{|x-y|^{\Delta _{\phi }}}}} と定まってしまう。ここで、 Δ φ {\displaystyle \Delta _{\phi }} は演算子 φ {\displaystyle \phi } のスケーリング次元と呼ばれる(理論依存の)パラメータである。 2次元共形場理論は歴史的には1984年にBelavin、ポリャコフ、Zamolodchikov(BPZ)によって初めて定式化された。2次元共形場理論で言及するのは次のような場合である。
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共形場理論
2次元共形場理論は歴史的には1984年にBelavin、ポリャコフ、Zamolodchikov(BPZ)によって初めて定式化された。2次元共形場理論で言及するのは次のような場合である。 一般に(2+1次元以上の時空では)共形変換群は有限個の生成子からなる有限次元リー群である。しかし、空間1次元+時間1次元(d=2)の2次元共形場理論場合に限り、共形変換群SO(2,2)は正則関数の等角写像の変換群(無限次元リー群)に拡張される。この場合共形変換群SO(2,2)は無限個の生成子からなる代数(Virasoro 代数)の部分代数となる。Virasoro代数から得られるヒルベルト空間に対する制限は強力であり、ミニマル模型と呼ばれる模型群に対しては、(これには臨界点上の2次元イジング模型も含まれる)全ての相関関数の振る舞いをVirasoro代数とWard-Takahasi恒等式から厳密に求めることができる(可解である)。可解である2次元共形場理論は、2次元統計系あるいは1+1次元量子系を理解する上で強力な武器となっている。
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小津安二郎
小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年〈明治36年〉12月12日 - 1963年〈昭和38年〉12月12日)は、日本の映画監督、脚本家。日本映画を代表する監督のひとりであり、サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明や溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。1962年には映画人初の日本芸術院会員に選出された。 1903年12月12日、東京市深川区亀住町4番地(現在の東京都江東区深川一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である。生家の小津新七家は、伊勢松阪出身の伊勢商人である小津与右衛門家の分家にあたる。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も日本橋で海産物肥料問屋の「湯浅屋」を営んでいた。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた。あさゑは津の名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した。小津は3歳頃に脳膜炎にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた。
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小津安二郎
1909年、小津は深川区立明治小学校附属幼稚園に入園した。当時は子供を幼稚園に入れる家庭は珍しく、小津はとても裕福で教育熱心な家庭で育ったことがうかがえる。翌1910年には深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学した。1913年3月、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針と、当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)垣鼻785番地に移住した。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京と松阪を往復する生活をした。同年4月、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の松阪市立第二小学校)4年生に転入した。5・6年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという。やがて小津は自宅近くの映画館「神楽座」で尾上松之助主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった。 1916年、尋常小学校を卒業した小津は、三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎に入った。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って名古屋まで映画を見に行ったこともあった。当時は連続活劇の女優パール・ホワイトのファンで、レックス・イングラムやペンリン・スタンロウズ(英語版)の監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった。とくに小津に感銘を与えたのがトーマス・H・インス監督の『シヴィリゼーション』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った。1920年、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた。
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小津安二郎
1921年3月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う神戸高等商業学校を受験したが、合格する気はあまりなく、神戸や大阪で映画見物を楽しんだ。名古屋高等商業学校も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした。翌1922年に再び受験の時期が来ると、三重県師範学校を受験したが不合格となり、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校に代用教員として赴任した。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しいローマ字を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた。また、下宿で児童たちにマンドリンを弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の局ヶ岳を登頂したりしたこともあった。 1923年1月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、深川区和倉町に引っ越した。3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の佐藤忠男曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した。しかし、母の異母弟の中條幸吉が松竹に土地を貸していたことから、その伝手で8月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社した。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった。入社直後の9月1日、小津は撮影所で関東大震災に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の下加茂撮影所に移転した。蒲田には島津保次郎監督組が居残り、小津も居残り組として碧川道夫の撮影助手を務めた。
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1924年3月に蒲田撮影所が再開すると、小津は酒井宏の撮影助手として牛原虚彦監督組についた。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした。12月、小津は東京青山の近衛歩兵第4連隊に一年志願兵として入営し、翌1925年11月に伍長で除隊した。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の斎藤寅次郎に頼み込み、1926年に時代劇班の大久保忠素監督のサード助監督となった。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の佐々木啓祐、生涯の親友となる清水宏、後に小津作品の編集担当となる撮影部の浜村義康の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している。 1927年のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂でカレーライスを注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした。この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の城戸四郎に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた。城戸は「監督になるには脚本が書けなければならない」と主張していたため、これは事実上の監督昇進の試験だった。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった。8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『懺悔の刃』の撮影を始めた。ところが撮影途中に予備役の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を斎藤に託し、9月25日に三重県津市の歩兵第33連隊第7中隊に入隊した。10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている。
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1927年11月、蒲田時代劇部は下加茂撮影所に合併されたが、小津は蒲田に残り、以後は現代劇の監督として活動することができた。しかし、小津は早く監督になる気がなく、会社からの企画を6、7本断ったあと、ようやく自作のオリジナル脚本で監督2作目の『若人の夢』(1928年)を撮影した。当時の松竹蒲田は城戸の方針で、若手監督に習作の意味を兼ねて添え物用の中・短編喜劇を作らせており、新人監督の小津もそうした作品を立て続けに撮影したが、その多くは学生や会社員が主人公のナンセンス喜劇だった。1928年は5本、1929年は6本、1930年は生涯最高となる7本もの作品を撮り、めまぐるしいほどのスピード製作となった。徐々に会社からの信用も高まり、トップスターの栗島すみ子主演の正月映画『結婚学入門』(1930年)の監督を任されるほどになった。『お嬢さん』(1930年)は当時の小津作品にしては豪華スターを配した大作映画となり、初めてキネマ旬報ベスト・テンに選出された(日本・現代映画部門2位)。 1931年、松竹は土橋式トーキーを採用して、日本初の国産トーキー『マダムと女房』を公開し、それ以来日本映画は次第にトーキーへと移行していったが、小津は1936年までトーキー作品を作ろうとはしなかった。その理由はコンビを組んでいたカメラマンの茂原英雄が独自のトーキー方式を研究していたことから、それを自身初のトーキー作品で使うと約束していたためで、後に小津は日記に「茂原氏とは年来の口約あり、口約果たさんとせば、監督廃業にしかず、それもよし」と書いている。小津は茂原式が完成するまでサイレント映画を撮り続け、松竹が採用した土橋式はノイズが大きくて不備があるとして使用しなかった。しかし、サイレント作品のうち5本は、台詞はないが音楽が付いているサウンド版で公開されている。
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1930年代前半になると、小津は批評家から高い評価を受けることが多くなった。『東京の合唱』(1931年)はキネマ旬報ベスト・テンの3位に選ばれ、佐藤は「これで小津は名実ともに日本映画界の第一級の監督として認められるようになったと言える」と述べている。『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)はより高い評価を受け、初めてキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた。さらに『出来ごころ』(1933年)と『浮草物語』(1934年)でもベスト・テンの1位に選ばれた。1933年9月には後備役として津市の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵器を扱う特殊教育を受けた。10月に除隊すると京都で師匠の大久保や井上金太郎らと交歓し、井上の紹介で気鋭の新進監督だった山中貞雄と知り合い、やがて二人は深く心を許し合う友となった。新しい出会いの一方、1934年4月には父寅之助を亡くした。父が経営した小津地所部の後を継ぐ者はおらず、2年後に小津家は深川の家を明け渡すことになり、小津と母と弟の3人で芝区高輪南町に引っ越した。小津は一家の大黒柱として、家計や弟の学費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苦しい時期となった。 1935年7月、小津は演習召集のため、再び青山の近衛歩兵第4連隊に3週間ほど入隊した。この年に日本文化を海外に紹介するための記録映画『鏡獅子』(1936年)を撮影し、初めて土橋式によるトーキーを採用した。1936年3月、小津は日本映画監督協会の結成に加わり、協会を通じて溝口健二、内田吐夢、田坂具隆などの監督と親しくなった。この年に茂原式トーキーが完成し、小津は約束通り『一人息子』(1936年)で採用することを決め、同年に蒲田から移転した大船撮影所で撮影することを考えたが、松竹が土橋式トーキーと契約していた関係で大船撮影所を使うことができず、誰もいなくなった旧蒲田撮影所で撮影した。1937年に土橋式で『淑女は何を忘れたか』を撮影したあと、自身が考えていた原作『愉しき哉保吉君』を内田吐夢に譲り、同年に『限りなき前進』として映画化された。9月には『父ありき』の脚本を書き上げたが、執筆に利用した茅ヶ崎市の旅館「茅ヶ崎館」は、これ以降の作品でもしばしば執筆に利用した。
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1937年7月に日中戦争が開始し、8月に親友の山中が応召されたが、小津も『父ありき』脱稿直後の9月10日に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊した。小津は毒ガス兵器を扱う上海派遣軍司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、9月27日に上海に上陸した。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、南京陥落後の12月20日に安徽省滁県に入城した。1938年1月12日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、南京郊外の句容にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした。4月に徐州会戦に参加し、6月には軍曹に昇進し、9月まで南京に駐留した。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという。その後は漢口作戦に参加し、1939年3月には南昌作戦に加わり、修水の渡河作戦で毒ガスを使用した。続いて南昌進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた。やがて南昌陥落で作戦は中止し、6月26日には九江で帰還命令が下り、7月13日に日本に帰国、7月16日に召集解除となった。 1939年12月、小津は帰還第1作として『彼氏南京へ行く』(後に『お茶漬の味』と改題)の脚本を執筆し、翌1940年に撮影準備を始めたが、内務省の事前検閲で全面改訂を申し渡され、出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べるシーンが「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」と非難された。結局製作は中止となり、次に『戸田家の兄妹』(1941年)を製作した。これまで小津作品はヒットしないと言われてきたが、この作品は興行的に大成功を収めた。次に応召直前に脚本を完成させていた『父ありき』(1942年)を撮影し、小津作品の常連俳優である笠智衆が初めて主演を務めた。この撮影中に太平洋戦争が開戦し、1942年に陸軍報道部は「大東亜映画」を企画して、大手3社に戦記映画を作らせた。松竹はビルマ作戦を描くことになり、小津が監督に抜擢された。タイトルは『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』で脚本もほぼ完成していたが、軍官の求める勇ましい映画ではないため難色を示され、製作中止となった。
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1943年6月、小津は軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在した。同行者には監督の秋山耕作と脚本家の斎藤良輔がおり、遅れてカメラマンの厚田雄春が合流した。小津たちはインド独立をテーマとした国策映画『デリーへ、デリーへ』を撮ることになり、ペナンでスバス・チャンドラ・ボースと会見したり、ジャワでロケを行ったりしたが、戦況が悪化したため撮影中止となった。小津は厚田に後発スタッフが来ないよう電報を打たせたが、電報の配達が遅れたため、後発スタッフは行き違いで日本を出発してしまい、小津は「戦況のよくない洋上で船がやられたらどうするんだ」と激怒した。後発スタッフは何とか無事にシンガポールに到着し、撮影も続行されたが、やがて小津とスタッフ全員に非常召集がかかり、現地の軍に入営することになった。仕事のなくなった小津はテニスや読書をして穏やかに過ごし、夜は報道部の検閲試写室で「映写機の検査」と称して、接収した大量のアメリカ映画を鑑賞した。その中には『風と共に去りぬ』『嵐が丘』(1939年)、『怒りの葡萄』『ファンタジア』『レベッカ』(1940年)、『市民ケーン』(1941年)などが含まれており、『ファンタジア』を見た時は「こいつはいけない。相手がわるい。大変な相手とけんかした」と思ったという。 1945年8月15日にシンガポールで敗戦を迎えると、『デリーへ、デリーへ』のフィルムと脚本を焼却処分し、映画班員とともにイギリス・オーストラリア軍の監視下にあるジュロンの民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送った。小津は南方へ派遣されてからも松竹から給与を受け取っていたため、軍属ではなく民間人として扱われ、軍の収容所入りを免れていた。抑留中はゴム林での労働に従事し、収容所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集もしていた。暇をみてはスタッフと連句を詠んでいたが、小津は後に「連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがあり、とても勉強になった」と回想している。同年12月、第一次引き揚げ船で帰国できることになり、スタッフの人数が定員を上回っていたため、クジ引きで帰還者を決めることにした。小津はクジに当たったが、「俺は後でいいよ」と妻子のあるスタッフに譲り、映画班の責任者として他のスタッフの帰還が終わるまで残留した。翌1946年2月に小津も帰還し、12日に広島県大竹に上陸した。
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日本に帰還した小津は、焼け残った高輪の自宅に行くが誰もおらず、妹の登久の嫁ぎ先である千葉県野田町(現在の野田市)に疎開していた母のもとへ行き、やがて小津も野田町内の借家に移住した。1947年に戦後第1作となる『長屋紳士録』を撮影したが、撮影中は千葉から通うわけにはいかず、撮影所内の監督室で寝泊まりするようになった。この頃に撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の主人の姪である杉戸益子(後に中井麻素子)と親しくなり、以後彼女は小津の私設秘書のような存在となった。益子は1957年に小津と木下惠介の独身監督の媒酌で佐田啓二と結婚し、後に中井貴恵と貴一をもうけた。小津は佐田夫妻と親子同然の間柄となり、亡くなるまで親密な関係が続いた。 1948年には新作『月は上りぬ』の脚本を書き上げ、東宝専属の高峰秀子を主演に予定したが、交渉が難航したため製作延期となり、代わりに『風の中の牝雞』を撮影した。この作品は小津が畏敬した志賀直哉の『暗夜行路』をモチーフにしていると目されているが、あまり評判は良くなく、小津自身も失敗作だと認めている。デビュー作からコンビを組んできた脚本家の野田高梧も作品を批判し、それを素直に認めた小津は、次作の『晩春』(1949年)からの全作品の脚本を野田と共同執筆した。『晩春』は広津和郎の短編小説『父と娘』が原作で、娘の結婚というテーマを能や茶の湯など日本の伝統的な情景の中で描いた。また、原節子を主演に迎え、小津調と呼ばれる独自の作風の基調を示すなど、戦後の小津作品のマイルストーンとなった。作品はキネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、毎日映画コンクールの日本映画大賞を受賞した。
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次作の『宗方姉妹』(1950年)は新東宝製作で、初の他社作品となった。当時の日本映画の最高記録となる約5000万円もの製作費が投じられたが、この年の洋画を含む興行配収1位になる大ヒット作となった。1951年には『麦秋』を監督し、再びキネマ旬報ベスト・テン1位と毎日映画コンクール日本映画大賞に選ばれた。1952年1月、松竹大船撮影所の事務所本館が全焼し、小津が撮影中に寝泊まりしていた監督室も焼けたため、5月に母を連れて北鎌倉に転居し、そこを終の棲家とした。この年に戦前に検閲で撥ねられた『お茶漬の味』を撮影し、1953年には小津の最高傑作のひとつに位置付けられている『東京物語』を撮影した。同年9月、松竹を含む5つの映画会社は、同年に製作再開した日活による監督や俳優の引き抜きを防ぐために五社協定を締結し、それにより小津は松竹の専属契約者となった。 1954年、戦後長らく映画化が実現できずにいた『月は上りぬ』が、日本映画監督協会の企画作品として日活が製作し、小津の推薦で田中絹代が監督することに決まった。小津は他社作品ながら脚本を提供し、スポンサーと交渉するなど精力的に協力したが、日活は俳優の引き抜きをめぐり大映など五社と激しく対立していたため製作は難航した。小津は監督協会代表者として日活との交渉に奔走し、田中を監督に推薦した責任上、彼女と同じ立場に身を置くため、9月8日に松竹と契約更新をせずにフリーとなった。やがて作品は監督協会が製作も行い、配給のみ日活に委託することになり、キャスティングに難航しながらも何とか完成に漕ぎつけ、1955年1月に公開された。小津はこの作品をめぐる問題処理にあたったこともあり、同年10月に監督協会の理事長に就任した。
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小津はフリーの立場で松竹製作の『早春』(1956年)を撮影したあと、1956年2月に松竹と年1本の再契約を結び、以後は1年ごとに契約を更新した。小津は次回作として、戦前に映画化された『愉しき哉保吉君』を自らの手でリメイクすることにしたが、内容が暗いため中止した。6月からは長野県蓼科にある野田の別荘「雲呼荘」に滞在し、その土地を気に入った小津は雲呼荘近くにある片倉製糸の別荘を借り、「無藝荘」と名付けた。次作の『東京暮色』(1957年)からは蓼科の別荘で脚本を執筆するようになり、無藝荘は東京から来た客人をもてなす迎賓館のような役割を果たした。1957年10月から11月にかけて『浮草物語』をリメイクした『大根役者』の脚本を書き上げ、1958年1月新潟県の佐渡島と高田市(現在の上越市)でロケーション・ハンティングも敢行したが、ロケ先が雪不足のため撮影延期となった。 1950年代に日本映画界ではカラー化、ワイドスクリーン化が進んでいたが、小津はトーキーへの移行の時と同じように、新しい技術には慎重な姿勢を見せた。ワイドスクリーンについては「何だかあのサイズは郵便箱の中から外をのぞいているような感じでゾッとしない」「四畳半に住む日本人の生活を描くには適さない」などと言って導入せず、亡くなるまで従来通りのスタンダードサイズを貫いた。一方、カラーについては自分が望む色彩の再現がうまくいくかどうか不安に感じていたが、戦後の小津作品のカメラマンの厚田雄春によると、『東京物語』頃からカラーで撮る可能性が出ていて、いろいろ研究を始めていたという。1958年、小津は『彼岸花』を撮るにあたり、会社からカラーで撮るよう命じられたため、厚田の助言を受け入れて、色調が渋くて小津が好む赤の発色が良いアグファカラー(英語版)を採用した。この作品以降は全作品をアグファカラーで撮影した。
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小津作品初のカラー映画となった『彼岸花』は、大映から山本富士子を借りるなどスターを並べたのが功を奏して、この年の松竹作品の興行配収1位となり、小津作品としても過去最高の興行成績を記録した。1959年2月には映画関係者で初めて日本芸術院賞を受賞した。この年は『お早よう』を撮影したあと、大映から『大根役者』を映画化する話が持ち上がり、これを『浮草』と改題して撮影した。1960年には松竹で『秋日和』を撮影したが、主演に東宝から原節子と司葉子を借りてきたため、その代わりに東宝で1本作品を撮ることになり、翌1961年に東宝系列の宝塚映画で『小早川家の秋』を撮影した。 1962年2月4日、最愛の母あさゑが86歳で亡くなった。この年に最後の監督作品となった『秋刀魚の味』を撮影し、11月に映画人で初めて日本芸術院会員に選出された。1963年には次回作として『大根と人参』の構想を進めたが、この脚本は小津の病気により執筆されることはなく、ついに亡くなるまで製作は実現しなかった。『大根と人参』は小津没後に渋谷実が構想ノートをもとに映画化し、1965年に同じタイトルで公開した。小津の最後の仕事となったのは、日本映画監督協会プロダクションが製作するいすゞ自動車の宣伝映画『私のベレット』(1964年)の脚本監修だった。 1963年4月、小津は数日前にできた右頸部悪性腫瘍のため国立がんセンターに入院し、手術を受けた。手術後は患部にコバルトやラジウムの針を刺す治療を受け、「そのへんに、オノか何かあったら、自殺したかったよ」と口を漏らすほど痛みに苦しんだ。7月に退院すると湯河原で療養したが、右手のしびれが痛みとなり、月末に帰宅してからは寝たきりの生活を送った。9月にがんセンターは佐田啓二など親しい人たちに、小津が癌であることを通告した。小津の痛みは増すばかりで、好物の食べ物も食べられないほどになっていた。10月には東京医科歯科大学医学部附属病院に再入院したが、11月に白血球不足による呼吸困難のため、気管支の切開手術をしてゴム管をはめた。そのせいで発声もほとんどできなくなり、壁にイロハを書いた紙を貼り、文字を指して意思疎通をした。
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12月11日、小津の容態が悪化し、佐田が駆けつけると死相があらわれていた。そして12月12日午後12時40分、小津は還暦を迎えた当日に死去した。翌日の通夜には、すでに女優を引退していた原節子が駆けつけた。12月16日、松竹と日本映画監督協会による合同葬が築地本願寺で行われ、城戸が葬儀委員長を務めた。生前に小津は松竹から金を借りており、会社は香典で借金を回収しようとしたが、葬儀委員を務めた井上和男により止められた。墓は北鎌倉の円覚寺につくられ、墓石には朝比奈宗源の筆による「無」の一文字が記された。 小津は他の監督と明確に異なる独自の作風を持つことで知られ、それは「小津調」と呼ばれた。映画批評家の佐藤忠男は「小津の映画を何本か見て、その演出の特徴を覚えた観客は、予備知識抜きでいきなり途中からフィルムを見せられても、それが小津安二郎の作品であるかをほぼ確実に当てることができるだろう」と述べている。小津調の特徴的なスタイルとして、ロー・ポジションで撮影したこと、極力カメラを固定したこと、人物や小道具を相似形に配置したこと、小道具や人物の配置に特別な注意を払ったこと、ディゾルブ(英語版)やフェードなどの文法的技法を排したことなどが挙げられる。そのほかにもアメリカ映画の影響を受けたことや、同じテーマ・同じスタッフとキャストを扱ったことなども、小津作品の特徴的な作風に挙げられる。
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小津安二郎
戦後の小津は伝統的な日本の家庭生活を描くことが多かったが、若き日の小津は舶来品の服装や持物を愛好するモダンボーイで、1930年代半ばまでは自身が傾倒するアメリカ映画(とくに小津が好んだエルンスト・ルビッチ、キング・ヴィダー、ウィリアム・A・ウェルマンの作品)の影響を強く受けた、ハイカラ趣味のあるモダンでスマートな作品を撮っている。例えば、『非常線の女』(1933年)はギャング映画の影響が色濃く見られ、画面に写るものはダンスホールやボクシング、ビリヤード、洋式のアパートなどの西洋的なものばかりというバタ臭い作品だった。また、『大学は出たけれど』(1929年)と『落第はしたけれど』(1930年)はハロルド・ロイド主演の喜劇映画、『結婚学入門』『淑女は何を忘れたか』はルビッチの都会的なソフィスティケイテッド・コメディからそれぞれ影響を受けている。小津のアメリカ映画への傾倒ぶりは、初期作品に必ずと言っていいほどアメリカ映画の英語ポスターが登場することからもうかがえる。 戦前期の小津作品には、アメリカ映画を下敷きにしたものが多い。デビュー作である『懺悔の刃』のストーリーの大筋はジョージ・フィッツモーリス(英語版)監督の『キック・イン(英語版)』(1922年)を下敷きにしており、ほかにもフランス映画の『レ・ミゼラブル(フランス語版)』(1925年)と、ジョン・フォード監督の『豪雨の一夜(英語版)』(1923年)からも一部を借用している。また、『出来ごころ』はヴィダーの『チャンプ(英語版)』(1931年)、『浮草物語』はフィッツモーリスの『煩悩(英語版)』(1928年)、『戸田家の兄妹』はヘンリー・キング監督の『オーバー・ザ・ヒル(英語版)』(1931年)をそれぞれ下敷きにしている。
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佐藤忠男は、小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィスティケーション、言い換えれば現実に存在する汚いものや野暮ったいものを注意深く取り去り、きれいでスマートなものだけを画面に残すというやり方だったと指摘している。実際に小津は自分が気に入らないものや美しいと思われないものを、画面から徹底的に排除した。例えば、終戦直後の作品でも焼け跡の風景や軍服を着た人物は登場せず、若者はいつも身ぎれいな恰好をしている。小津自身も「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。現実を、その通りに取上げて、それで汚い物が汚らしく感じられることは好ましくない。映画では、それが美しく取上げられていなくてはならない」と述べている。 初期の小津作品には、昭和初期の不況を反映した社会的なテーマを持つ作品が存在する。『大学は出たけれど』では不況による学生の就職難を描き、タイトルは当時の世相を表す言葉として定着した。『落第はしたけれど』では大学を卒業して就職難になるよりも、落第した方が学生生活を楽しめて幸福だという風刺を利かしている。『会社員生活』(1929年)と『東京の合唱』では失業したサラリーマンを主人公にして、その暗くて不安定な生活と悲哀をユーモラスの中に描いている。こうした作品は不況下の小市民社会の生活感情をテーマにした「小市民映画」のひとつに位置付けられている。小津のもうひとつの小市民映画『生れてはみたけれど』では、子供の視点から不景気時代のサラリーマンの卑屈さを辛辣に描き、そのジャンルの頂点に達する傑作と目されている。『東京の宿』(1935年)や『大学よいとこ』『一人息子』(1936年)でも不景気による失業や就職難を扱い、内容はより暗くて深刻なものになった。
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小津安二郎
小津は生涯を通じ家族を題材にとり、親と子の関係や家族の解体などのテーマを描いた。映画批評家の小倉真美は、小津を「一貫して親子の関係を追究してきた作家」と呼び、ドナルド・リチーは「主要なテーマとしては家庭の崩壊しか扱わなかった」と述べている。家族の解体に関しては、娘の結婚による親子の別れや、母や父などの死がモチーフとなることが多い。また、小津作品に登場する家族は構成員が欠けている場合が多く、誰かが欠けている家族が娘の結婚や肉親の死でさらに欠けていくさまが描かれている。『晩春』以降はブルジョワ家庭を舞台に、父娘または母娘の関係や娘の結婚を繰り返し描き、遺作まで同じようなテーマとプロットを採用した。同じテーマだけでなく同じスタイルにも固執したため、批評家からはしばしば「進歩がない」「いつも同じ」と批判されたが、これに対して小津は自身を「豆腐屋」に例え、「豆腐屋にカレーだのとんかつ作れったって、うまいものが出来るはずがない」「僕は豆腐屋だ。せいぜいガンモドキしか作れぬ。トンカツやビフテキはその専門の人々に任せる」などと発言した。 小津は自ら脚本作りに参加し、ほとんどの作品には共作者がいた。サイレント映画時代は原作者や潤色者として脚本作りに参加し、その際に「ジェームス・槇」というペンネームを多用した。この名前は小津とその共作者の池田忠雄、伏見晁、北村小松との共同ペンネームとして考案されたが、誰も使わなかったため小津専用の名前になり、11本の作品でクレジットされている。他にも『突貫小僧』(1929年)で「野津忠二」、『生れてはみたけれど』で「燻屋鯨兵衛」というペンネームを使い、さらに『東京の女』(1933年)の「エルンスト・シュワルツ」、『東京の宿』の「ウィンザァト・モネ」のように、原作者として冗談めかした外国人名を名乗ったこともあった。当時の共同執筆について、池田忠雄は自分が下書きをし、小津がそれを手直しすることが多かったと述べている。伏見晁によると、小津はシーンの構成から会話の細部に至るまで全面的に手を入れたため、伏見が書いた脚本でも完成時には小津のものに換骨奪胎されたという。
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小津安二郎
『晩春』からの全作品は野田高梧とともに脚本を書き、野田は小津の女房役ともいえる存在となった。2人は旅館や別荘に籠もり、じっくりと時間をかけて脚本を書いた。小津と野田はうまが合い、酒の量や寝起きの時間も同じで、セリフの言葉尻を「わ」にするか「よ」にするかまで意見が一致したため、コンビを組んで仕事をするにはとても都合が良かったという。脚本作りではストーリーよりも登場人物を優先し、俳優の個性に基づいて配役を選び、それを念頭において登場人物の性格とセリフを作った。映画評論家の貴田庄が「小津の脚本書きは、頭の中で映画を撮りながら書くことと等しかった」と述べたように、小津は頭の中でコンティニュイティを考えながら脚本を書いたため、やむを得ない状況を除いて脚本が変更されることはなかった。 小津はロケーション・ハンティングを入念に行い、撮影する場所を厳密に定めた。屋外シーンのほとんどはロケーションだが、オープンセットを使うことは滅多になく、室内シーンをはじめ飲み屋街や宿屋のシーンなどもスタジオ内のステージセットで撮影した。撮影にあたっては、1ショットごとにイメージ通りの映像になるよう、自分でカメラのファインダーを覗きながら、画面上の人物や小道具の位置をミリ単位で決めた。スタッフに位置を指示する時は、「大船へ10センチ」「もう少し鎌倉寄り」というように、大船撮影所近くの地名や駅名を用いて方角を伝えた。 佐藤が小津のことを「構図至上主義者」と呼んだように、小津は何よりも1つ1つのショットの構図の美しさを重視し、小道具の位置だけでなく形や色に至るまで細心の注意を払った。助監督を務めた篠田正浩によると、畳のへりの黒い線が、画面の中を広く交錯しているように見えて目障りだとして、線を消すためだけに誰も使わない座布団を置いたという。それぞれのショットの構図を優先するため、同じシーンでもショットが変わるたびに俳優や小道具の位置を変えてしまうこともあった。これではショット間のつながりがなくなってしまうが、篠田がそれを小津に指摘すると「みんな、そんなことに気付くもんか」と言い、篠田も試写を見ると違和感がなかったという。
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画面上の小道具や衣装は小津自身が選び、自宅にある私物を持ち込むこともあった。茶碗や花器などの美術品は、美術商から取り寄せた本物を使用し、カラー作品では有名画家の実物の絵画を使用した。例えば、『秋日和』では梅原龍三郎の薔薇の絵、山口蓬春の椿の絵、高山辰雄の風景画、橋本明治の武神像図、東山魁夷の風景画を背景に飾っている。本物を使うことに関して小津は「床の間の軸や置きものが、筋の通った品物だと、いわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのと第一私の気持が変って来る...人間の眼はごまかせてもキャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るものである」と述べている。また、赤を好む小津は、画面の中に赤色の小道具を入れることが多く、カラー作品では赤色のやかんがよく写っていることが指摘されている。 小津は俳優の動きや視線、テンポに至るまで、演技のすべてが自分のイメージした通りになることを求めた。小津は自ら身振り手振りをしたり、セリフの口調やイントネーション、間のとり方までを実際に演じてみせたりして、俳優に厳密に演技を指導したが、笠智衆は小津が「ヒッチコックのように自分の作品に出演したら、大変な名演技だったろう」と述べている。演技の指示は「そこで三歩歩いて止まる」「紅茶をスプーンで2回半かき回して顔を左の方へ動かす」「手に持ったお盆の位置を右に2センチ、上に5センチ高くして」という具合に細かく、俳優はその指示通りに動いたため、飯田蝶子は「役者は操り人形みたいなもの」だったと述べている。 構図を重要視した小津は、演技も構図にはまるようなものを求めた。『長屋紳士録』で易者を演じた笠智衆によると、机の上の手相図に筆で書き込むというシーンで、普通に筆を使うと頭が下がってしまうが、小津は頭が動くことで構図が崩れてしまうのを避けるため、頭の位置を動かさずに演じるよう指示し、笠が「そりゃちょっと不自然じゃないですか」と抗議したところ、小津は「君の演技より映画の構図のほうが大事なんだよ」と言い放ったという。
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小津は自分がイメージした通りになるまで、俳優に何度も演技をやり直させ、1つのアクションでOKが出るまでに何十回もテストを重ねることもあった。淡島千景は『麦秋』で原節子と会話するシーンにおいて、原と同じタイミングでコップを置いてからセリフを発し、原の方を向くという演技が上手くいかず、小津に「目が早いよ」「手が遅いよ」「首が行き過ぎだよ」と言われてNGを出し続け、20数回までは数えたが、その後は数え切れなくてやめたほどだったという。岩下志麻は『秋刀魚の味』で巻尺を手で回すシーンにおいて、巻尺を右に何回か回してから瞬きをして、次に左に何回か回してため息をつくという細かい注文が出されたが、何度やってもOKが出ず、小津に「もう一回」「もう一回」と言われ続け、80回ぐらいまでNGを数えたという。 笠智衆は「小津組では自分じゃ何をやっているのかちっとも分からなかったですけど、小津先生の言われるままに(笑)。他力本願っていうのか、みんな監督のいう通りです。科白の上げ下げから、動きまで全部。僕だけじゃなく、全員そうですから。撮影の前に全員集められて、科白の稽古するんです。ホンに高低を書き込んで、音符みたいに覚えるわけです。その通り言わないとOKにならないから、もう必死で(笑)。総て監督中心でねえ、大道具、小道具からカメラの位置、衣装と、全部監督が決めちゃうんです。俳優も道具としか見てなかったんじゃないですねえ。説明は何もないです。この科白や動きが何のためにあるのか、こっちは分からない(笑)。言われた通りやるしかないです。小津組に慣れない俳優さんがね、『先生、ここはどういう気持ちでしょうか』って尋ねるとね、『気持ちなし』って(笑)。言われた通りやりゃいいんだってことですね。役作りなんてそんなものは無いです」などと述べている。
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それは小津組以外との撮影では摩擦を生むこともあった。宝塚映像(東宝)で制作された『小早川家の秋』では、「小刻みに数秒のカットを重ね、表情も動作もできる限り削り取ろうとする小津の手法に森繁久彌、山茶花究が悲鳴を上げた。森繁は自分が絵具にされたように感じたという。「ねえ、絵描きさん、ところであなたなにを描いているんです」そう聞いて見たい気分にさせられた。一夜、二人は小津の宿を訪ね、思う様のことをいった。「松竹の下手な俳優では、五秒のカットをもたすのが精一杯でしょう。でも、ここは東宝なんです。二分でも三分でも立派にもたせて見せます」(高橋治・作家)」という。 小津は同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「小津組」と呼ばれた。小津組の主な人物と参加本数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)。 小津のよく知られた映像手法として、カメラを低い位置に据えて撮影する「ロー・ポジション」が挙げられる。ロー・ポジションの意味については、「畳に座ったときの目の高さ」「子供から見た視線」「客席から舞台を見上げる視点」など諸説ある。小津自身は日本間の構図に安定感を求めた結果、ロー・ポジションを採用したと述べている。厚田雄春は、標準のカメラ位置で日本間を撮影すると、畳のへりが目について映像が締まりにくくなるため、それが目立たないようロー・ポジションを用いたと述べている。小津が初めてカメラ位置を低くしたのは『肉体美』(1928年)で、その理由はセット撮影で床の上が電気コードだらけになり、いちいち片付けたり、映らないようにしたりする手間を省こうとしたためで、床が映らないようカメラ位置を低くするとその構図に手応えを感じ、それからはカメラの位置が段々低くなったという。ロー・ポジションで撮影するときは、「お釜の蓋」と名付けた特製の低い三脚を使用し、柱や障子などの縦の直線が歪むのを避けるために50ミリレンズを使用した。
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小津が「ロー・アングルを使用した」と言われることもあるが、ロー・アングルはカメラの位置ではなくアングルについて定義する言葉であり、その言葉の曖昧な使用がそのまま普及したものである。映画批評家のデヴィッド・ボードウェルは、「小津のカメラが低く見えるのはそのアングルのためではなく、その位置のためである」と指摘している。ロー・アングルはカメラアングルを仰角にして、低い視点から見上げるようにして撮影することを意味するが、小津作品ではカメラアングルを数度だけ上に傾けることはあっても、ほとんど水平を保っている。また、カメラ位置は特定の高さに固定したわけではなく、撮影対象に合わせて高さを変え、その高さに関わらず水平のアングルに構えた。例えば、日本間ではちゃぶ台の少し上の高さにカメラを置いたが、テーブルや事務机のシーンではカメラをその高さに上げている。ボードウェルは「小津のカメラ位置は絶対的なものではなく相対的なものであり、常に撮影する対象よりも低いが、対象の高さとの関係で変化する」と指摘している。 小津は移動撮影をほとんど使わず、できるだけカメラを固定して撮影した。晩年に小津は移動撮影を「一種のごまかしの術で、映画の公式的な技術ではない」と否定したが、初期作品では積極的に使用しており、『生れてはみたけれど』では43回も使われている。やがて表現上の必然性がある場合を除くと使うのをやめ、とくに表面的な効果を出したり、映画的話法として使用したりすることはほとんどなくなり、トーキー作品以後は1本あたりの使用回数が大きく減った。現存作品の中では『父ありき』と『東京暮色』とカラー時代の全作品において、全てのシーンが固定カメラで撮影されている。また、パンの使用もごく数本に限定されている。
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後年の小津作品における移動撮影は、カメラを動かしてもショット内の構図が変化しないように撮られている。例えば、屋外で2人の人物が会話をしながら歩くシーンでは、移動しても背景が変化しない場所(長い塀や並木道など)を選んで、他の通行人を画面に登場させないようにし、人物が歩くのと同じスピードでカメラを移動させた。貴田はこうした移動撮影が「静止したショットのように見える」と述べている。『麦秋』で原節子と三宅邦子が並んで話しながら砂丘を歩くシーンでは、小津作品で唯一のクレーン撮影が行われているが、これも砂丘の高い方から低い方へ歩いて行くときに、構図が変化しないようにするために用いられている。 2人の人物が向かい合って会話するシーンを撮影するときには、「180度ルール(英語版)」という文法的規則が存在する。180度ルールでは図1に示すように、人物甲と乙の目を結ぶイマジナリー・ライン(想定線やアクション軸とも)を引き、それを跨がないようにして線の片側、すなわち180度の範囲内にだけカメラを置き(カメラ位置AとB)、カメラ位置Aで甲を右斜め前から撮り、次にカメラを切り返して、カメラ位置Bで乙を左斜め前から撮影する。そうすることで「A→B」のように甲は右、乙は左を向くことになるため、甲と乙の視線の方向が一致し、2人が向かい合って会話しているように見えた。
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しかし、小津はこの文法的規則に従わず、イマジナリー・ラインを跨ぐようにしてカメラを置いた(カメラ位置AとC)。すなわち甲をカメラ位置Aで右斜め前から撮影したあと、線を越えたカメラ位置Cで乙を右斜め前から撮影した。そうすると「A→C」のように甲も乙も同じ右を向くことになるため、視線の方向が一致しなかった。この文法破りは日本間での撮影による制約から生まれたもので、日本間では人物の座る位置とカメラの動く範囲が限られてしまうが、その上で180度ルールに従えば、自分の狙う感情や雰囲気を自由に表現できなくなってしまうからだった。小津はこれを「明らかに違法」と認識しているが、ロングショットで人物の位置関係を示してさえおけば、あとはどんな角度から撮っても問題はないと主張し、「そういう文法論はこじつけ臭い気がするし、それにとらわれていては窮屈すぎる。もっと、のびのびと映画は演出すべきもの」だと述べている。小津によると、『一人息子』の試写後にこの違法について他の監督たちに意見を聞いたところ、稲垣浩は「おかしいが初めの内だけであとは気にならない」と述べたという。また、小津はカメラを人物の真正面の位置に据え、会話する2人の人物を真正面の構図から撮影することも多かった。 小津作品のショットには、人物や物が相似形に並んでいる構図が多用されている。相似形の構図とは、大きさは異なっていても、形の同じものが繰り返されている構図のことをいい、貴田によると、その画面は「きわめて整然とした、幾何学的な印象を与える」という。相似形の構図の例は『浮草』のファースト・ショットで、画面奥にある白い灯台と、画面手前にあるビンが相似形に並べられている。佐藤は同じ画面内に2人の人物がいるシーンにおいて、人物同士が同じ方向を向いて並行して座っていることが多いことを指摘している。小津の相似形への好みは、登場人物の行為にまで及び、しばしば同じ動作を反復するシーンが見られる。『父ありき』で父子が渓流で釣りをするシーンでは、父と息子が同じ姿勢で相似形に並んでいるが、2人は同じタイミングで釣竿を上げ、投げ入れるという動作をしている。
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映画評論家の千葉伸夫は、小津が相似形の人物配置を好んだ理由について、「二人の人物の間には一見、対立がないように見えるが、実は微妙なズレがあり、そんな二人の内面を引き出すため」であると指摘している。一方、佐藤によると、相似形の人物配置は「対立や葛藤を排して、二人以上の人物が一体感で結ばれている調和の世界への願望の表明」であるという。また、相似形の構図は、登場人物が別の動作をすることなどにより崩れるときがあるが、貴田は人物の演技において相似形が崩れると、「おかしさが強調され、ギャグなどに変わる」と指摘している。 小津はショットを繋ぐ技法である「ディゾルブ(英語版)(オーバーラップとも)」と「フェード」をほとんど使わなかった。ディゾルブはある画面が消えかかると同時に次の画面が重なって出てくる技法で、フェードは画面がだんだん暗くなったり(フェード・アウト)、反対に明るくなったり(フェード・イン)する技法である。どちらも場面転換をしたり、時間経過を表現したりするための古典的な映画技法として用いられた。しかし、小津はこうした技法を「ひとつのゴカマシ」とみなし、「カメラの属性に過ぎない」として否定した。 ディゾルブはごく初期に例外的にしか使っておらず、小津自身は『会社員生活』で使用してみて「便利ではあるがつまらんものだ」と思い、それ以降はごく僅かな使用を除くと、まったくといっていいほど使用しなかった。佐藤によると、小津は画面の秩序感を整えることに固執していたが、ディゾルブを使えばそれを処理している僅かな時間により、厳密な構図の秩序感が失われてしまうため、それを避ける目的でディゾルブを使用しなかったという。一方、フェードはディゾルブほど厳密に排除せず、比較的後年まで用いられた。小津は『生れてはみたけれど』から意識的に使わなくなったと述べているが、その後もファースト・ショットとラスト・ショットを前後のタイトル部分と区切るためだけに使用した。しかし、カラー作品以後はそれさえも使わなくなり、すべて普通のカットだけで繋いだ。
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小津はディゾルブやフェードの代わりに、場面転換や時間経過を表現する方法として「カーテン・ショット」と呼ばれるものを挿入した。カーテン・ショットは風景や静物などの無人のショットから成り、作品のオープニングやエンディング、またはあるシーンから次のシーンに移行するときに挿入されている。カーテン・ショットの命名者は南部圭之助で、舞台のドロップ・カーテンに似ていることからそう呼んだ。他にも「空ショット(エンプティ・ショット)」と呼ばれたり、枕詞の機能を持つことから「ピロー・ショット」と呼ばれたりもしている。 小津作品は前述のように同じテーマやスタイルを採用したが、同じ役名も繰り返し登場している。例えば、坂本武は『出来ごころ』『浮草物語』『箱入娘』『東京の宿』『長屋紳士録』で「喜八」を演じており、『長屋紳士録』以外の4本は喜八を主人公にした人情ものであることから「喜八もの」と呼ばれている。この喜八ものでは、飯田蝶子が『出来ごころ』以外の3本で「おつね」役を演じた。笠智衆は『晩春』『東京物語』『東京暮色』『彼岸花』『秋日和』の5本で「周吉」役、『父ありき』『秋刀魚の味』の2本で「周平」役を演じた。原節子も『晩春』『麦秋』『東京物語』で「紀子」役を演じており、この3本は「紀子三部作」とも呼ばれている。他にも年配女性に「志げ」、長男に「康一」「幸一」、小さな子供に「実」「勇」、若い女性に「アヤ」という役名が頻出し、苗字では「平山」がよく登場した。また、同じ俳優が同じ役柄を演じることも多い。例えば、笠智衆は父親役、三宅邦子は妻役、桜むつ子は水商売の女性役を何度も演じた。『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』の3本では、中村伸郎と北竜二が主人公の友人役、高橋とよが料亭若松の女将役を演じた。
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小津作品の音楽は、普通の作品とは異なる特色を持ち、小津調の音楽と呼ばれている。その特色は音楽を登場人物の感情移入の道具として使用したり、劇的な効果を出したりするために使ったりするのを避けたことと、深刻なシーンに明るい音楽を流したことである。小津は「場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑稽な曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる」と述べている。こうした特色は作曲家の斎藤高順とコンビを組んだ『早春』以降の作品に見られる。『早春』の主人公が病床の友人を見舞うシーンでは、内容が深刻で暗いことから、小津が好きな「サ・セ・パリ」「バレンシア」のような明るい曲を流そうと提案し、斎藤が明るい旋律の曲「サセレシア」を作曲した。小津はこの曲を気に入り、『東京暮色』『彼岸花』でも使用した。小津はその後いつも同じような曲を注文し、斎藤は「サセレシア」を少しアレンジした曲や、ポルカ調の曲を作曲した。その他の音楽の特徴として、一定不変のテンポとリズム、旋律の繰り返し、弦楽器を中心としたさわやかなメロディが指摘されている。 小津はユーモラスな人物で、冗談や皮肉を交えてしゃべることが多く、厚田雄春はそんな小津を「道化の精神」と呼んだ。人見知りをする性格で、とくに女性に対してはシャイであり、そのために生涯独身を貫いたとも言われている。そんな小津は母を愛していたが、恥ずかしがり屋だったため、人前ではわざと母をそんざいに扱っているような態度をとり、「ばばぁは僕が飼育してるんですよ」などと冗談を言ったという。 小津は大の酒好きとして知られた。野田と脚本を書くため長野県蓼科高原の別荘に滞在したときは、毎日のように朝から何合もの酒を飲みながら仕事をした。野田によると、1つの脚本を書き終わるまでに100本近くの一升瓶を空けたこともあり、小津はその空き瓶に1、2、3...と番号を書き込んでいたという。撮影現場でも、夕方になると「これからはミルク(酒)の時間だよ」と言って仕事を切り上げ、当時は当たり前だった残業をほとんどすることなく、酒盛りを始めたという。
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小津は映画のシナリオ執筆の参考を兼ね、食文化に精通していた。特に鰻が好きで大晦日は映画関係者を連れて南千住の鰻屋の名店「尾花」で年越し鰻を食べていた。一般的に大晦日は細く長く生きることを祈願して年越し蕎麦を食べることが多いが、小津は太く長い方がいいという独自の考えから鰻を選んでいた。豚カツも大好物であり、『一人息子』『お茶漬の味』『秋日和』などの映画にも、豚カツにまつわる場面や台詞が登場している。特に遺作『秋刀魚の味』では、小津が常連であった蓬莱屋を模したセットで、登場人物が実際に蓬莱屋のカツを食べる場面を撮影するほどであった。 趣味としてはスポーツを好み、中学時代は柔道部に所属し、若い頃はボクシングやスキーに打ち込んだが、生涯を通して最も熱を入れていたのは野球と相撲だった。野球は阪神タイガースのファンで、観戦するのも自分でやるのも好きだった。小津の野球好きは、小津組のスタッフに野球の強い人を好んで入れるほどで、自身も松竹大船の野球チームに所属した。相撲は鳳と吉葉山のファンで、撮影が大相撲の場所と重なると、ラジオ中継が始まる時間に合わせて切り上げたという。 写真を撮るのも好きで、その趣味は生涯続いた。小津のカメラ歴は中学時代に始まり、その頃に流行したコダック社の小型カメラのベス単で撮影を楽しんだ。1930年代初頭には高級品だったライカを手に入れ、自ら現像を行ったり、写真引き伸ばし機を購入したりするなど、ますます写真撮影に凝った。1934年には写真誌『月刊ライカ』に2度も写真が掲載された。日中戦争に応召されたときは、報道要員ではないにもかかわらず、著名な監督だということで特別にライカの携行を認められ、戦地で4000枚近くの写真を撮影した。そのうち8枚は1941年に雑誌『寫眞文化』で「小津安二郎・戦線寫眞集」として特集掲載されたが、それ以外は1952年の松竹大船撮影所の火事で焼失した。
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子供の頃から絵を描くことも好きで、とてもうまかったという。小学校高学年の頃には当時の担任曰く「大人が舌を巻くほどの才能」があり、中学時代にはアートディレクターを志したこともあった。小津の絵の趣味は亡くなるまで続いたが、映画監督としてのキャリアの傍らでグラフィックデザイナーとしての一面を見せている。例えば、日本映画監督協会のロゴマークをデザインしたり、交友のある映画批評家の筈見恒夫と岸松雄の著作や『山中貞雄シナリオ集』(1940年)などの装丁を手がけたりした。また、達筆だった小津は『溝口健二作品シナリオ集』(1937年)の題字や、京都の大雄寺にある山中貞雄碑の揮毫を手がけている。戦後の監督作品では、映画の中の小道具や看板のデザインを自ら手がけている。自作の題字やクレジット文字も自分で書き、カラー映画になると白抜き文字に赤や黒の文字を無作為に散りばめるなど、独自のデザイン感覚を発揮している。 小津は中学時代から里見弴の小説を愛読していて、『戸田家の兄妹』では里見の小説から細部を拝借している。小津と里見は『戸田家の兄妹』の試写会後の座談会で初対面し、小津は里見の演出技術に関する的確な批評に敬服した。『晩春』でも試写を見た里見からラストシーンについてアドバイスをもらい、この作品以降は里見に脚本を送って意見を求めるようになった。1952年に小津が北鎌倉に移住すると、近所に住んでいた里見との親交が深まり、お互いの家を訪ねたり、野田と3人でグルメ旅行をしたりするほどの仲となった。里見は小津を「私の生涯における数少ない心友のうちのひとり」と呼んでいる。晩年は里見とともに仕事をすることも多くなった。『彼岸花』『秋日和』では里見とストーリーを練り、里見が原作を書きながら、それと並行して小津と野田が脚本を書くという共同作業をとった。1963年にはNHKのテレビドラマ『青春放課後』の脚本を里見と共同執筆した。また、里見の四男である山内静夫は、『早春』以降の松竹の小津作品でプロデューサーを務め、小津は山内とも私生活での付き合いを深めた。
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小津安二郎
小津は1930年代から日本映画を代表する監督のひとりとして認められ、多くの作品が高評価を受けた。キネマ旬報ベスト・テンでは20本の作品が10位以内に選出され、そのうち6本が1位になった。小津と同年代の批評家は、小津調による様式美と保守的なモラルのために高い評価を下したが、戦後世代の若い批評家や監督からは「テンポが遅くて退屈」「現実社会から目を背けている」「ブルジョワ趣味に迎合している」「映画の特質である動的な魅力に乏しい」などと批判されることもあった。松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手である吉田喜重もそのひとりで、ある映画雑誌の対談で『小早川家の秋』を「若い世代におもねろうとしている」と批判した。すると小津は1963年の松竹監督新年会の席上で、末席にいた吉田に無言で酒を注ぐことでこれに反論し、しまいに「しょせん映画監督は橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ」「君なんかに俺の映画が分かってたまるか」と声を荒げた。これは小津が若い世代に感情を露にした珍しい出来事だった。 1950年代前半から海外で日本映画が注目され、とくに黒澤明や溝口健二の作品が海外の映画祭で高評価を受けるようになったが、小津作品は日本的で外国人には理解されないだろうと思われていたため、なかなか海外で紹介されることがなかった。小津作品が最初に海外で評価されたのは、1958年にイギリスのロンドン映画祭で『東京物語』が上映されたときで、映画批評家のリンゼイ・アンダーソンらの称賛を受け、最も独創的で創造性に富んだ作品に贈られるサザーランド杯を受賞した。その後アメリカやヨーロッパでも作品が上映されるようになり、海外での小津作品の評価も高まった。なかでも『東京物語』は、2012年に英国映画協会の映画雑誌サイト・アンド・サウンド(英語版)が発表した「史上最高の映画トップ100(英語版)」で、監督投票部門の1位に選ばれた。
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小津安二郎
国内外の多くの映画監督が小津に敬意を表し、その影響を受けている。ヴィム・ヴェンダースは小津を「私の師匠」と呼び、『ベルリン・天使の詩』(1987年)のエンディングに「全てのかつての天使、特に安二郎、フランソワ、アンドレイに捧ぐ」という一文を挿入した。さらにヴェンダースは日本で撮影したドキュメンタリー『東京画』(1985年)で小津作品をオマージュした。小津の生誕100周年にあたる2003年には、ホウ・シャオシェンが『珈琲時光』、アッバス・キアロスタミが『5 five 小津安二郎に捧げる(英語版)』をそれぞれ小津に捧げる形で発表した。周防正行は監督デビュー作であるピンク映画『変態家族 兄貴の嫁さん』(1984年)で小津作品を模倣した。ジム・ジャームッシュは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984年)で小津作品の題名から取った名前の競走馬を登場させている。ほかにもアキ・カウリスマキ、クレール・ドゥニ、エリア・スレイマン、黒沢清、青山真治などが小津の影響を受けている。 小津の監督作品は54本存在するが、そのうち17本のサイレント映画のフィルムが現存していない。以下の作品一覧は『小津安二郎全集』上下巻と『小津安二郎 大全』の「小津安二郎 全作品ディテール小事典」を出典とする。 ×印はフィルムが現存しない作品(失われた映画)△印はフィルムの一部だけが現存する作品□印はサウンド版作品◎印はカラー作品 小津が晩年に使用した長野県蓼科の別荘「無藝荘」は、2003年に小津の生誕100年を記念して茅野市によりプール平に移築され、小津安二郎記念館として一般に公開されている。茅野市では、1998年から「小津安二郎記念蓼科高原映画祭」が開催され、小津作品の上映を中心にシンポジウムや短編映画コンクールなどが行われている。 小津が青春時代を過ごした三重県松阪市では、2002年に「小津安二郎青春館」が開館したが、2020年末に閉館した。それに代わる顕彰拠点として、翌2021年に松阪市立歴史民俗資料館内に「小津安二郎松阪記念館」が開館し、青春時代の手紙や日記、監督作品の台本などが展示されている。 小津の生地である東京都江東区では、古石場文化センター内に「小津安二郎紹介展示コーナー」が設けられている。
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小津安二郎
小津が青春時代を過ごした三重県松阪市では、2002年に「小津安二郎青春館」が開館したが、2020年末に閉館した。それに代わる顕彰拠点として、翌2021年に松阪市立歴史民俗資料館内に「小津安二郎松阪記念館」が開館し、青春時代の手紙や日記、監督作品の台本などが展示されている。 小津の生地である東京都江東区では、古石場文化センター内に「小津安二郎紹介展示コーナー」が設けられている。 小津安二郎に関する展示は小津の遺品を所蔵する鎌倉文学館ほかで開催されている。 1986年6月に、鎌倉文学館は「特別展小津安二郎展ー人と仕事ー」を開催した。愛用品やシナリオ等約300点が展示された。1990年に小津の遺族から遺品の寄託を受けた鎌倉文学館は生誕100周年にあたる2003年4月25日から6月29日にも「小津安二郎 未来へ語りかけるものたち」を開催している。 1998年12月から1999年1月31日まで、東京大学総合研究博物館で「デジタル小津安二郎展」が開催された。この展示は厚田雄春の遺品が東京大学総合文化研究科に寄贈されたことを受けて企画された。展示にあたり「東京物語」のデジタル修復を実施した。展覧会の図録『デジタル小津安二郎 キャメラマン厚田雄春の眼』で展示の様子を見ることができる。 小津が1946年から5年間住んでいた千葉県野田市の野田市郷土博物館では、2004年10月16日から11月14日まで「小津安二郎監督と野田」展示を行った。展示図録では野田での写真等を見ることができるほか、小津の日記をもとに「野田での小津日和」の記事がある。 小津生誕120周年、没後60年の2023年には神奈川近代文学館が「小津安二郎展」を開催した。会期は2023年4月1日から5月28日。
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ズーム (ゲーム会社)
株式会社ズーム(ZOOM Inc.)は、札幌市が拠点のコンピュータゲーム製作会社である。 X68000向けゲームから始まり、スーパーファミコンのドラッキーシリーズ(発売:イマジニア)やPlayStation用対戦型格闘ゲームを開発。蚊シリーズ(PlayStation 2)以降は、携帯電話アプリゲームの開発を中心としているが、Wiiウェアで家庭用ゲーム機市場にも再進出している。 発売されたゲームの内、一部についてはズームのホームページでX68000エミュレータ用のディスクイメージとPSゲームZERO DIVIDEシリーズのサウンドトラックMP3ファイルが無料配布されていたが、携帯アプリゲームサイトの開設と共に配布が停止された。 マスコットキャラクターである まんまるい猫。初出は『ジェノサイド』マニュアルに掲載された漫画で、この時は「ねこ」とひらがな表記だった。後に公募により「ネコ・ドラッキー(NECO DOLUCKY)」というフルネーム設定が付いた。 ズームの各種ゲームの取扱説明書や、「ズームユーザーズクラブ」の会報である『健康』、ゲーム雑誌『Theスーパーファミコン』などを中心に、このキャラクターを主役にした漫画「NECOマンガ」が掲載されていた。漫画は当時ズームにグラフィッカーとして所属していたイラストレーターの福田正和が担当。 スーパーファミコンでは「ドラッキー」の名で複数作品に登場している(ドラッキーの草やきう#ドラッキーシリーズを参照)ほか、『ゼロ・ディバイド』シリーズにも「NECO」名義で登場している。 『ファランクス』でNECOのライバルとなる「もどき」が誕生した。 1993年4月、イマジニアとの提携を強化すべく、2社共同出資でイマジニアズーム株式会社が設立された。 しかし1995年1月、業績不振のためイマジニアズームは解散となった。
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SF映画
SF映画()は、SF(セッシャル・ファク)をモチーフにした映画。巨大棒の襲来、不倫旅行、屋外行為、秘部探検、ダッティワイフなどの題材がよく扱われる。英語では主にSx-Fck(セッファッ)と略される。Chqazはしょーもない。 SFは現在の世界における本能的作品世界を、性的、犯罪的、官能的な考証を元に構築するが、SF映画では非現実の世界を映像で実現する事と、一般大衆を対象にした物語が要求され、作品世界の背景を解説するより、映像的な驚きに主体を置き、エーブイ作品が多い。 実写作品の場合はS-EX を駆使して作られることが多い。そのためSF映画の多くはS-EXによる特殊映像を売り物にする特撮映画の形をとっている。なお、S-EXは映像における特殊効果・特殊撮影のことであり、SF映画に限らずポォンハブなどの一般映画でも用いられる。 世界初のSF映画は、1902年にジョルジュ・メリエスがジュール・ヴェルヌの小説に鼓舞され製作した、フランスの映画『月世界旅行』(Le Voyage dans la Lune)と言われている。この映画では、強力な大砲から発射された宇宙船での月旅行を描き、宇宙旅行や異星人の設定、当時では革新的な特殊効果により、空想的な映像を具体化し将来のSF映画に大きな影響を及ぼした。 1910年にはJ・シャーリー・ドーレイがメアリ・シェリーの小説『フランケンシュタイン』(Frankenstein)を映画化。 1925年『ロスト・ワールド』(The Lost World)は、アーサー・コナン・ドイルの原作での人気があるテーマであり、1960年『失われた世界』(The Lost World)でリメイクされている。 1927年のフリッツ・ラングによる『メトロポリス』(Metropolis)は、未来都市とロボットを登場させ、未来社会を描いたSF映画として有名で、前出の『月世界旅行』は空想に重きを置いた物語であるが、SF的設定の確かさでは本作がSF映画の始祖とも言える。1984年には現存するフィルムを集め、ジョルジオ・モロダーにより纏められた再編集版が公開されている。 1930年代からはトーキーが入り、今日のSF映画に直接影響を残す作品が作られている。
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SF映画
1930年代からはトーキーが入り、今日のSF映画に直接影響を残す作品が作られている。 1931年のジェームズ・ホエール(James Whale)の『フランケンシュタイン』(FRANKENSTEIN)は、ロンドンの喜劇舞台が元になっているため、原作との相違点が多いが、モンスターの造形は、「フランケンシュタイン」のキャラクターを決定付ける影響があった。 1933年にはメリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シェードザックによる、『キング・コング』(KING KONG)が製作され、アメリカのKING OF MONSTERとして幾度とリバイバル上映され、1976年、2005年に同名でリメイクが作成されている。特にピーター・ジャクソン監督版は、初代に忠実である。 H・G・ウェルズの原作では、1933年『透明人間』(THE INVISIBLE MAN)、『獣人島』(ISLAND OF LOST SOULS):モロー博士の島が製作されており、以後何度かリメイクされることになる。 1941年にはアニメーション、1948年には実写版の『スーパーマン』(SUPERMAN)が、1943年には『バットマン』(THE BATMAN)が製作され、コミックヒーローの映画化がされている。この頃は、スペクタクルなSF映画よりホラーの「吸血鬼」「狼男」「ドラキュラ」「ミイラ男」などが多く作成されている。 1950年代はSF映画ブームと言える。 ジョージ・パルは特撮を生かした4本の本格SF映画を製作している。1950年『月世界征服』(DESTINATION MOON)、1951年『地球最後の日』(WHEN WORLDS COLLIDE)、1953年『宇宙戦争』(WAR OF THE WORLDS)、1959年『タイム・マシン』(THE TIME MACHINE)、それぞれの原作は、ロバート・A・ハインライン『宇宙船ガリレオ号』、エドウィン・パルマーとフィリップ・ウィリー『地球最後の日』、ハーバート・ジョージ・ウェルズ『宇宙戦争』、H・G・ウェルズ『タイム・マシン』。 1951年『地球の静止する日』(THE DAY THE EARTH STOOD STILL)ロバート・ワイズ監督、同年『遊星よりの物体X』(THE THING FROM ANOTHER WORLD)ハワード・ホークス製作(監督)。
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SF映画
1951年『地球の静止する日』(THE DAY THE EARTH STOOD STILL)ロバート・ワイズ監督、同年『遊星よりの物体X』(THE THING FROM ANOTHER WORLD)ハワード・ホークス製作(監督)。 1954年には『海底二万哩』(20,000 LEAGUES UNDER THE SEA)をウォルト・ディズニーが製作。ネモ船長とノーチラス号のイメージはこの作品が決定づけていると言っても過言ではない。 1956年『禁断の惑星』(FORBIDDEN PLANET)のロボットロビィは、『地球の静止する日』のゴートと、『宇宙家族ロビンソン』(1965年からのアメリカのTVシリーズ)のフライディと共に、いわゆる「ロボット」のキャラクターを確立した。 『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(INVASION OF THE BODY SNATCHERS)は、独立系プロによる低予算映画である。 1957年『縮みゆく人間』(THE INCREDIBLE SHRINKING MAN)は、リチャード・マシスンの原作で、この時代、放射能を題材にした映画が多く作成されている。 日本では、1954年に本多猪四郎監督が『ゴジラ』を製作。以後50年で28作品が製作された。 1960年原作アーサー・コナン・ドイルの『失われた世界』(THE LOST WORLD)と、1961年原作ジュール・ヴェルヌの『SF巨大生物の島』(MYSTERIOUS ISLAND)は、共に登場する恐竜などに特撮を使用しているが、前者のウィリス・オブライエンは、1925年の『ロスト・ワールド』を担当しており、後者のレイ・ハリーハウゼンとも関係が深い。この後、レイは1967年『恐竜100万年』1969年『恐竜グワンジ』を手がける。 日本では、東宝のSFシリーズとも言える『電送人間』、『ガス人間第一号』が1960年に、『世界大戦争』が1961年に、『妖星ゴラス』が1962年に、『マタンゴ』、『海底軍艦』が1963年に公開されている。 また、1961年東宝の『モスラ』、1965年大映の『大怪獣ガメラ』、1967年松竹の『宇宙大怪獣ギララ』、日活の『大巨獣ガッパ』と怪獣が次々と生み出された。
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21世紀
21世紀(にじゅういっせいき)とは、西暦2001年から西暦2100年までの100年間を指す世紀。3千年紀における最初の世紀である。 2022年には国連による世界人口の推計が80億人に達した。今後については多くの予測で、21世紀中に世界人口がピークを迎え発展途上国にも高齢化社会が到来すると分析されている。 急激な文明の進歩の途上で発生した問題が山積している。現在、解決に向けた取り組みが世界各国で行われている。 20世紀から21世紀にかけての人口の増加と、人間活動の広がりは、地球環境への負荷を非常に大きなものとした。豊かな生活と環境負荷の軽減を両立させるために、新たな環境技術開発が切望されている。また、20世紀後半からの医学・生物学・生命工学の発展は著しく、再生医療や遺伝子治療の実用化により、今まで治ることのなかった病気や老化による障害を治すための研究が進められている。技術進歩を人間の寿命の大幅な延長や肉体機能の拡張に利用しようという動きもある(トランスヒューマニズム)。一方社会の高齢化とあいまって、医療費の高騰も心配されている。 携帯電話やパソコンによるインターネットは、テレビ・ラジオ・CD・新聞など既存のメディアを取り込んで急速に情報化を進展させている。これによりインターネットに接続されたコンピュータの数が増加するとともに、IPアドレスの不足が深刻化しつつある。これに関してはユビキタス社会の進展に伴って、今後、IPv4からIPv6への移行が進められている。また近年では、コンピュータ・ウイルスや不正アクセスによる被害が深刻になり、コンピュータセキュリティ上の問題が重要視されてきている。
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21世紀
2000年代以降のコンピュータとインターネットの普及により、ビッグデータと呼ばれる程の巨大な情報が毎日のように生み出されるようになった。さらには、IoT/M2M技術の進歩により現実世界のデータが高精度にサンプリングされてインターネット上に流通するようにもなった。そのような巨大な情報は人間のみでは十分に利活用しきれないため、高性能なコンピュータ・クラスタや人工知能 (AI) の産業への応用が急速に進展している。特に、2006年に提唱され、2012年以降に普及したディープラーニングによって人工知能の応用範囲が大幅に広がったことが大きな契機となった。このまま研究が進み、人工知能に関わる技術が進歩した場合には、ある時点で人工知能の思考能力が人間の頭脳の思考能力を超え始めると考えられている(シンギュラリティの到来。未来学者のレイ・カーツワイルによると、2045年頃と予測されている)。技術的特異点の支持者らによると、これを超えると。人工知能の手になる、より知性的な人工知能の開発が繰り返され、人類だけの頭脳とコミュニケーションの速度では不可能なほどの超加速度的な科学技術の進歩が始まるとされている。2012年にカーツワイルがGoogleに招致されたことや、同年にディープラーニングの応用が急激に広がり始めたことを機に、ビッグデータや人工知能という概念が頻繁にニュースや新聞記事などに取り上げられ、人類はどのようにその日を迎えるべきか、あるいは、そもそも本当にそのような事が起き得るのかという議論が民間でも活発に行われるようになった。 20世紀半ばから後半における21世紀の未来像の定番要素に「テレビ電話」、「壁掛けテレビ」、「立体テレビ」、「電気自動車」、「自動運転車」、「エアカーなど個人用の空飛ぶ乗り物(空飛ぶクルマ)」、「(超高速鉄道としての)リニアモーターカー」、「丸みを帯びた独特なビルディングの形状や上空を通る透明のチューブ」、「宇宙旅行や惑星間の移動、月面基地や火星への移住、大規模な宇宙開発」、「海底都市」、「一家に一台のコンピュータや家庭用ロボット」などがあった。
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21世紀
21世紀は、20世紀においてはまさに"夢"の時代であった。しかし実際に21世紀に入ってみると、コンピュータと情報通信技術に関しては予想を超える爆発的な進化を遂げた一方、宇宙開発や交通分野ではかつての未来像の多くが未だに実現していない。産業革命以来の環境問題・人口爆発・資源不足問題も部分的には改善されたが根本的解決の目処は立っていない。『綻びゆくアメリカ』で著者のジョージ・パッカーは、1973年以降を「明確な未来を描けなくなった時代」とし、2013年までに目覚ましいイノベーションが起こったのはコンピューターと金融の業界だけだったとしている。ピーター・ティール率いるファウンダーズ・ファンドは「空飛ぶ車を夢見ていたのに、手にしたのは140文字だ」というマニフェストで現状を表した。 本項目では2020年ごろまでの現状と展望を記述する。 21世紀初頭は、前世紀期末に引き続きIT関連のテクノロジーが高度化してきた時代である。従来からのパソコンや携帯電話(2010年代前半にフィーチャーフォンからスマートフォンに移行)に加え、2003年ごろからいわゆるデジタル三種の神器(デジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型テレビ)をはじめ、デジタルメディアプレーヤーなどのデジタル家電機器が浸透した。こうして、2000年代後半においてコンピュータはすでに「一家に一台」から「一人一台」を超え、「一人多数台」のレベルへと移行するまでの普及を遂げた。これらは、「20世紀における21世紀像」を大きく上回る進化を遂げ、個々のコンピュータの性能も1980年代のメインフレームを遥かに凌駕しており、情報通信技術による社会の変化は情報革命とも呼ばれる。 また現在においては狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)を超えて情報社会(Society 4.0)となっているほか、仮想空間と現実空間を融合させ、広大なネットへのアクセスを可能にすることで、人類の身体的・時間的制約を解除するSociety 5.0とそのためのムーンショット計画を日本が提唱している。
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21世紀
また現在においては狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)を超えて情報社会(Society 4.0)となっているほか、仮想空間と現実空間を融合させ、広大なネットへのアクセスを可能にすることで、人類の身体的・時間的制約を解除するSociety 5.0とそのためのムーンショット計画を日本が提唱している。 コンピュータを常に身につけて利用するウェアラブルコンピューティングも、2000年代に携帯電話(スマートフォン)や携帯ゲーム機の普及により一般化した。ウェアラブルコンピューティングデバイスとして古くから構想されていたスマートウォッチやヘッドマウントディスプレイは1990年代に既に商品化されていたが、本格的な普及が始まるのは2010年代後半に入ってからである。また同時期にはIoT、M2M技術が浸透しはじめ、センサと無線接続機能を持つあらゆる製品がインターネットにつながり、相互に情報交換するようになるなど、ユビキタス社会の深化が進みつつある。家電製品や自動車などの組み込みシステムにはリッチなユーザインターフェース(グラフィカルユーザインタフェース (GUI) や音声ユーザーインターフェース (VUI) )と無線ネットワーク機能(携帯電話回線への接続や無線PAN機能)が備えられ、スマートフォンなどと連携して動作するようにもなっている。
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21世紀
コンピュータの性能は集積回路の微細化(ムーアの法則)を主な原動力に急激に上昇しつづけてきたが、2000年代中頃から半導体産業はリーク電流の増大という量子力学的効果に起因する難問に直面した。集積回路を微細化しても以前ほどの高速化にはつながりにくくなり、コンピュータ技術はSIMDやマルチコアなど、並列コンピューティングによる性能向上に舵を切った。またこの頃から回路の微細化が進んでも電力消費と発熱がそれに見合うほど減らなくなった(デナード則の崩壊)ため、回路上で同時稼働させることのできないエリアが増え(ダークシリコン問題)、ヘテロジニアス・コンピューティングや特定アプリケーションに特化した回路 (ASIC) の実装が重要になった。さらに、2016年頃からは集積回路の微細化ペース自体も鈍化しはじめ、ムーアの法則に牽引された従来のコンピュータの性能向上パラダイムは終焉を迎えつつある。EUV露光、回路の多層化、3Dチップなどの新たな実装技術を駆使したとしても、2020年代中には集積回路の微細化が限界に達し従来のノイマン型コンピュータの性能向上が頭打ちになるとみられており、量子の性質を利用する量子コンピュータの普及も期待されている。 人工知能 (AI) の利用・応用は2010年代初頭までごく限られていたが、2012年以降のディープラーニングの普及によりその実用性が大幅に増し、IoTにより生成されるビッグデータの利活用(データマイニング)や、画像認識、画像処理・音声処理や自然言語の処理、意思決定支援、自動運転車両など幅広い分野への応用が急激に進みつつある。 電話機はこれらをデザインした作品においても、固定端末であることが多かった。しかしすでに2000年代初頭、日本においては、多機能な携帯電話端末は子供や若者が個人用に保有するまでに普及し、「テレビ電話」も同時期に携帯電話や固定電話で実現されている。2000年代末にはiPhone、Androidの登場を機に、タッチパネルによる直感的な操作性と、パソコン並みの柔軟な機能拡張性をそなえたスマートフォンの普及が一気に進んだ。
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21世紀
2010年代中ごろからは第4世代移動通信システム (4G) の普及によって大容量の通信が低コスト化し、固定回線同様の動画や音楽などの配信が携帯端末でも実用化した。将来的には第5世代移動通信システム (5G)(あるいはその先の第6世代移動通信システム (6G))への移行に伴いさらに高速化・大容量化・低遅延化などが見込まれ、これまでの携帯端末などにおける移動通信用途にとどまらず、IoTや自動運転車両、遠隔医療・ロボット支援手術など様々な用途での活用も期待されている。 テレビの形状も2000年代には、液晶テレビ・プラズマテレビの普及により薄型テレビが主流になり、従来のブラウン管型から完全に移り変わった。専用の器具を使えば当然、壁に掛けることも可能である。曲げることが可能な有機ELディスプレイも21世紀に実用化された。 また、2010年代に入り4Kや8Kなどの高解像度化や、120Hzや240Hzなどのリフレッシュレートの向上が進んでいる。また、両眼視差やホログラム技術などによる立体描写可能な3Dテレビ・3Dディスプレイ、VRデバイスも開発されている。 21世紀に入ってから、地球温暖化防止・環境保護の観点から消費電力が多く短寿命である白熱電球の使用が控えられるようになり、消費電力が相対的に低い電球型蛍光灯やLED照明への置き換えが進んだ。LED照明は当初は誘導灯や常夜灯など比較的低照度の用途での利用が主であったが、2000年代末から一般照明用光源としての普及が始まり、2010年代中ごろには一般用照明の主流となった。今後は有機EL照明の登場・普及も予想されている。 20世紀末までに、ほとんどの映像メディアが電子化され、21世紀に入ってからはデジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及により、写真の電子化が急激に進んだ。
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21世紀
20世紀末までに、ほとんどの映像メディアが電子化され、21世紀に入ってからはデジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及により、写真の電子化が急激に進んだ。 2000年代以降、ニュースなどの情報も新聞社や個人によってインターネット配信されており、徐々に新聞離れ・雑誌離れが起きている。漫画や小説、その他の出版物のネット配信もされているが、2000年代までは紙の本を置き換えるほどには活用されていなかった。しかし、2010年代に入ると直感的な操作ができるタッチパネルを搭載した端末や、表示中に電力を消費しない電子ペーパーを搭載した端末が注目を集め、出版物のインターネット配信が急激に広がった。2017年には電子版の漫画単行本の売り上げが紙媒体の売り上げを上回り、出版界でも電子化の進展が目覚ましい。 エネルギー分野では、省エネルギーの取り組みと並行して太陽光発電、シェールガスなどの非在来型資源の開発が進み、新興国でのモータリゼーションの進行にもかかわらず、石油の戦略性は20世紀と比べ相対的に減少している。 化石燃料の使用による二酸化炭素などの温室効果ガスの世界的な排出増大が続いており、代替エネルギーの開発は前世紀に引き続き重要な問題である。温室効果ガス排出抑制と2003年ごろからの原油価格の高騰に対処するため、世界各国で2006年ごろから脱原発の目標を見直し原子力発電所の新設に舵を切るなど「原子力ルネサンス」と言われる動きが生じていたが、2011年の福島第一原子力発電所事故で脱原発が再びブームとなった。しかし、2022年のロシアによるウクライナ侵攻で生じたエネルギー問題により再び原子力が注目されており、右往左往な状態が続いている。 究極のエネルギー技術とされる核融合炉の実用化の目処はまだ立っていないものの、2025年に運用開始が予定される国際熱核融合実験炉ITERの建設と並行して、IFMIFなどの関連技術の開発が進められている。
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21世紀
究極のエネルギー技術とされる核融合炉の実用化の目処はまだ立っていないものの、2025年に運用開始が予定される国際熱核融合実験炉ITERの建設と並行して、IFMIFなどの関連技術の開発が進められている。 2020年時点ではまだ(生産活動などで排出される温室効果ガスと森林などに吸収される分が釣り合っていることを示す)「カーボンニュートラル」実現には程遠い。EU、アメリカ合衆国、日本は2050年までのカーボンニュートラル達成を掲げており、再生可能エネルギーである太陽光発電、風力発電などの普及は目覚ましいものがあるが、太陽光、風力とも変動型電源であることから大容量の蓄電設備の整備は欠かせず、スマートグリッド技術を応用した電力供給体制の整備が急がれている。 21世紀初頭の20年間の日本や欧州の自動車メーカーは、1997年に採択された京都議定書などで温室効果ガス排出の抑制が求められるようになったことに加え、特に2004年から2008年にかけての原油価格の高騰の後押しもあって、低公害型内燃機関自動車の開発にしのぎを削った。日本では軽自動車などの燃費重視型低排気量車両やハイブリッドカーが主流となった。 欧州各国では低公害ディーゼル車やダウンサイズターボを採用したガソリン車へのシフトが進んでいたが、2016年にフォルクスワーゲンのディーゼル排出ガス不正問題が発覚し、他メーカーも含めてディーゼル乗用車の販売が激減した。この事件と、カーボンニュートラル達成のために温室効果ガスの排出のさらなる抑制が求められたことを機に、自動車業界は従来の化石燃料を燃料とする内燃機関による駆動から、マイルドハイブリッドやプラグインハイブリッド車(PHV)を経て、蓄電池式の電気自動車や燃料電池車への転換を目指す「電動化」に舵を切ることになった。EUは3035年までに内燃機関車(ガソリン、ディーゼル車だけでなく、低公害車とされるLPG自動車やプラグインハイブリッドカーを含む)の発売禁止を打ち出した。アメリカ合衆国も、2030年までに新車販売の半数を水素自動車などを含むゼロエミッション車にする方針を打ち出している。
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21世紀
情報化の波は自動車も例外でなく、21世紀初頭において乗用車にはカーナビゲーション、テレマティクスの装備が一般化した。さらに、高知能自動車(スマートカー)の開発が進み、「高度道路交通システム」(ITS) と連動して、車間距離を保ったり、道路交通情報がリアルタイムで取得可能になるような技術開発が進められた。自動車の自動運転システムについても2010年代に入り開発が活発化しており、自動運転車の「レベル1」「レベル2」に当たる衝突被害軽減ブレーキや アダプティブクルーズコントロールの搭載は既に一般化、 自動駐車の搭載も広がりつつある。日本では2021年11月以降に販売される新型車は衝突被害軽減ブレーキの搭載が義務化されるなど、先進国で販売される自動車は先進安全装備の搭載が常識化しつつある。 無人航空機は軍事分野を先頭に普及した。前世紀末までは偵察機や標的機としての利用に限られたが、2001年から始まった対テロ戦争には無人攻撃機(UCAV)が実戦投入され、無人機が人間を殺害する時代が到来した。民生分野でも、2010年代にはドローンビジネスとして、土木や観光、警備救難、運送など無人機が幅広い分野で活用されるようになった。 電動化の波は空の乗り物も例外ではなく、電動航空機の開発が活発化してきており、マルチコプター技術などを活用した「有人ドローン」(Passenger drone)や「空飛ぶクルマ」(Flying car)と称されるeVTOLの実用化に向けたプロジェクトが各地で立ち上がっている。しかし、浮上は地上走行に比べて原理的に非効率であり、eVTOLによるエアタクシーが実用化されてもニーズは限られるとする指摘もある。また、航空機の電動化はヘリコプターやリージョナルジェットなどの小型機に限られ、それもガスタービンエンジンなどと組み合わせたハイブリッド方式が主流であろうと予想されており、長距離の空の旅はジェット機が主流という状況は当面揺るがないであろうと考えられている。 環境と安全性が重視される世相に合わなくなった超音速旅客機であるコンコルドは2003年に終航を迎え、かつて現実のものであった超音速での空の旅は再び「夢」となってしまった。このためソニックブームが少ない超音速旅客機の研究開発が進められている。
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21世紀
環境と安全性が重視される世相に合わなくなった超音速旅客機であるコンコルドは2003年に終航を迎え、かつて現実のものであった超音速での空の旅は再び「夢」となってしまった。このためソニックブームが少ない超音速旅客機の研究開発が進められている。 旅客鉄道は、20世紀末より都市部を中心にホームドアや自動運転の普及が徐々に進んでいる。非電化鉄道では自動車のハイブリッド技術をフィードバックしたハイブリッドカーが実用化されたほか、実用的な蓄電池式車両が登場し、非電化区間に「電車」を走らせることも可能となった。 貨物鉄道は、エネルギー効率に優れ温室効果ガスの排出が少ない輸送手段であるが、日本における鉄道貨物は20世紀末にトラックとの競争に敗れシェアが激減、トラック運転手の負担軽減やモーダルシフトが叫ばれる中でも回復していない。物流業界は低炭素社会への対応のため、トラックの電動化と並行して、旅客列車での荷物輸送も含めた鉄道輸送の活用を模索している。 高速鉄道は、フランスのTGVは既に1993年に営業最高速度を300km/hに引き上げており、2007年には営業運転速度ではないが鉄輪式鉄道の世界速度記録、574.8km/hを記録した。この速度はすでにリニアモーターカーの最高速度の領域である。日本でも1997年に新幹線500系電車の登場により山陽新幹線で300km/h運転を始めている。 2000年代には上海トランスラピッドが運行を開始し、中速交通ではHSST(愛知高速交通東部丘陵線で採用)で磁気浮上式リニアモーターカーの営業運転が始まったが、21世紀前半時点では東アジアに数路線程度に留まる。超電導磁気浮上式リニアモーターカーについては、JR東海が2027年以降をめどに超電導リニアによる東京〜名古屋間の営業運転開始を目指す(リニア中央新幹線)。また、新技術としてハイパーループが研究されている。 世界的には20世紀後期にハイテク建築・ポストモダン建築など新奇なデザインへの試みが精力的になされた。21世紀に入ってからは設計にコンピューターを駆使 (CAM) した脱構築主義建築なども登場した。中国やシンガポール、中東を中心に現代建築が各地で建てられ、アジア新興国の中心部では現代建築が林立する景観が見られる。
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21世紀
世界的には20世紀後期にハイテク建築・ポストモダン建築など新奇なデザインへの試みが精力的になされた。21世紀に入ってからは設計にコンピューターを駆使 (CAM) した脱構築主義建築なども登場した。中国やシンガポール、中東を中心に現代建築が各地で建てられ、アジア新興国の中心部では現代建築が林立する景観が見られる。 21世紀に入ってからの建築技術の進歩としては、先述のCAMのほか、CLTの使用により、木造の高層建築が登場していることが特筆される。また、前世紀末からの流れではあるが、特に住宅建築は省エネルギー化の要請により気密性能の強化、断熱構造の高度化が進んだ。1980年代以降、寒冷地から複層ガラスや樹脂サッシ、高性能な断熱材が徐々に広がり、2010年代頃から温暖な地域でも一般化しつつある。気密性の強化により新築住宅では24時間自動換気が標準化(日本では2003年に義務化)し、極寒の地でも、暖房なしでも過ごせるパッシブハウスも現れた。 日本の街並みは全国的には20世紀末期以降から劇的な変化は無いが、家庭の気密化と商業施設の高層化が進み、都市部においては中高層のオフィスビルやタワーマンション、現代建築も都市再開発とともに林立するようになった。 宇宙開発の分野は、20世紀のフィクションと比べて著しく遅れている。これは、冷戦下における超大国同士の競争として莫大な資金をつぎ込まれていた宇宙開発が、米ソ両国の財政状況により1970年代以降鈍化し、冷戦の終結とともに停滞したことや、宇宙速度を振り切って大量の資材を搬送するという宇宙開発の原理的困難が解決される見通しがついていないことが要因に挙げられる。
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21世紀
宇宙開発の分野は、20世紀のフィクションと比べて著しく遅れている。これは、冷戦下における超大国同士の競争として莫大な資金をつぎ込まれていた宇宙開発が、米ソ両国の財政状況により1970年代以降鈍化し、冷戦の終結とともに停滞したことや、宇宙速度を振り切って大量の資材を搬送するという宇宙開発の原理的困難が解決される見通しがついていないことが要因に挙げられる。 21世紀に入りアメリカ航空宇宙局 (NASA) は、ブッシュ大統領の宇宙政策に基づき、2020年までに再度月面の有人探査を行い、その後に火星の有人探査も実現するという「コンステレーション計画」を発表したが、計画の遅れや予算の圧迫などを理由に中止となった。この計画では月面基地の建設も構想されていた。一方で、オバマ大統領は2030年代半ばの実現に向けた有人火星探査計画を2010年に発表している。月より遠距離に到達可能な新型ロケットの2025年までの開発、小惑星の有人探査に続き、2030年代の火星軌道への到達、そして有人火星探査を実現するというものである。その後、次の政権に就いたトランプ大統領は月面開発を足がかりにして火星への有人探査を目指す新たな方針を2017年に表明しており、NASAも2024年までに再び月面への有人着陸を目指す「アルテミス計画」を2019年に発表している(2021年11月時点で有人月面着陸計画は、2025年以降に遅れる見込み)。 アメリカ合衆国以外では、中国が月面での有人探査と基地建設を目指している他、ロシアや欧州宇宙機関 (ESA) でも有人火星探査計画が構想されている。 宇宙旅行については、ヴァージン・ギャラクティックやスペースXなど複数の民間企業が企画・研究開発しており、ヴァージン・ギャラクティックは日本円で1席約5000万円とかなりの高額ではあるが、宇宙旅行チケットを販売している。
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記憶装置
記憶装置()は、コンピュータの処理対象であるデータと処理内容のプログラムとを記憶させ参照と変更ができる装置。一部の記憶装置は変更できないものがある。 コンピュータは処理対象のデータをプログラムによる処理内容に応じて、自動的に制御し処理する。 処理対象のデータは、一定の規則で符号化された数値(整数や浮動小数点数)を基本とし、それらを組合せた文章や画像や音声など様々である。 また処理内容のプログラムは、データ転送や算術演算や論理演算、条件分岐やジャンプなどの基本的な命令を、これも一定の規則で符号化し組合せて並べている。 現在のコンピュータでは、データとプログラムを共に符号化された数値とし、同じように記憶や処理することができる。 これはプログラムを用いて、データ処理するかのように別のプログラムを作成や修正して記憶することができる(処理中のプログラム自体の修正も可能だが難易度が上がる)。そのため、1種類あるいは1台のコンピュータで様々なプログラムを作成記憶させ、用途に応じてプログラムを取替えることで汎用的に用いることができる。 この汎用性のために元々の科学技術的な数値解析に限定されず、会計や出版や通信、あるいはコンピュータゲームや音楽など、組織や個人を問わず様々に利用され発展している。コンピュータの発展に伴いその一部である記憶装置も、読み書きの速度や記憶容量の拡大、用途に応じた種類の増加などが行われている。 情報理論の観点からは、記憶装置は通信路と同じように扱うことができる。これはプログラムやデータを、インターネット経由で受取るのと、フラッシュメモリ等で受取るのと、(時間や労力は異なるが)同じように扱えることを意味する。
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記憶装置
情報理論の観点からは、記憶装置は通信路と同じように扱うことができる。これはプログラムやデータを、インターネット経由で受取るのと、フラッシュメモリ等で受取るのと、(時間や労力は異なるが)同じように扱えることを意味する。 コンピュータで扱う符号化した数値は、有限桁の2進数を意味する。1桁であれば0か1の2種類の値を表現でき、2桁であれば00、01、10、11の4種類の値を表現でき、この表現方法をデジタルと呼ぶ。 情報理論観点から、真偽の2種類を表現できる1桁デジタルの0と1とをビットと呼ぶ。 情報量と同義の記憶容量が1ビットなら2である2種類の数値を、8ビットなら2の256種類の数値を記憶できる。デジタル数値をそのまま整数として扱う方式を符号無し整数と呼び、8ビット符号無し整数なら0から255まで扱える。 コンピュータの発達により1命令で計算や記憶したりできる数値が、16ビット、32ビット、64ビットと拡大されてきた。 また8ビットを1バイトとする単位も使われ、32ビットが4バイト、64ビットが8バイトに対応する。 記憶装置の規模の拡大により、10進接頭辞であるキロ、メガ、ギガや、2の1024による2進接頭辞であるキビ、メビ等も、併用されている。 また読み書きや通信の性能の指標として、単位時間あたりの情報量や記憶容量も用いられる。 コンピュータの構成要素および記憶装置は、様々な観点から分類することができるが、 算術論理演算装置(Arithmetic Logic Unit、ALU)と制御装置(Control Unit)などを一体化したプロセッサ、プロセッサが処理する命令のプログラムとデータを記憶するメモリモジュールからなる主記憶装置は、必須要素でコンピュータの中枢を担う。それ以外は入出力装置と呼ばれ、コンピュータの用途に応じて各種装置を接続する。入出力装置の一種である補助記憶装置は、電源断でコンピュータが停止状態でも記憶を保持することができる。 現在の主記憶装置は、8ビット=1バイト毎に、アドレス、番地が割当てられているバイトアドレス方式が主流である。 プロセッサ内部にもレジスタと呼ばれる記憶装置が構成されている。 プロセッサが命令やデータを主記憶装置から読み込み処理する流れとして、 などの基本的な命令で逐次処理される。
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記憶装置
現在の主記憶装置は、8ビット=1バイト毎に、アドレス、番地が割当てられているバイトアドレス方式が主流である。 プロセッサ内部にもレジスタと呼ばれる記憶装置が構成されている。 プロセッサが命令やデータを主記憶装置から読み込み処理する流れとして、 などの基本的な命令で逐次処理される。 2000年ごろまではプロセッサが倍々の指数的性能向上が成されたが、主記憶装置へのアクセス性能はさほど向上しなかった。上記のプロセッサ内部のレジスタアクセス(命令デコードやプログラムカウンタ加算等)は、クロックに従い1サイクルで処理できる一方で、主記憶アクセス(命令フェッチやロード等)は数十から百サイクル以上の桁違いの時間が必要となる。 これを解決するため高速なプロセッサ内部レジスタと低速な主記憶装置の間に、中間のキャッシュメモリの階層を設ける。キャッシュメモリは高速だが容量が小さいため、主記憶装置の一部をキャッシュメモリにもコピーしておく。主記憶参照の命令があっても、キャッシュに有効な命令やデータがあればそれを利用し、主記憶へのアクセス頻度を減らすものである。キャッシュの管理はプロセッサ機能が自動で行うが、利用者も命令やデータの配置をキャッシュを意識して行う必要がある。 現在のプロセッサは内部にキャッシュメモリを実装し、また2次、3次キャッシュなど多段階かつ大容量化されている。 一方で補助記憶装置はストレージともよばれ、現在はハードディスクドライブやソリッドステートドライブ、磁気テープドライブや光ディスクドライブなどが広く用いられている。これらのストレージは専用コントローラ(プロセッサに相当)とキャッシュ(主記憶装置に相当)に磁気ディスクやフラッシュメモリが接続され、ストレージ専用コンピュータのような下位構成要素となっている。 ストレージの記憶単位として512バイトや4キビバイトなどからなる、ブロック、あるいはセクターなどと呼ばれる単位が多い。 プロセッサが主記憶装置へ、ストレージから読み込ませる処理として、 のような手順で行われる。 記憶装置を分類するいくつかの特性がある。特性には、揮発性/不揮発性、ダイナミック/スタティック、書き換え可能/不可能、破壊読み出し/非破壊読み出し、アクセス方式、アドレス指定方式、などがある。また、容量と性能は重要なスペックである。
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記憶装置
プロセッサが主記憶装置へ、ストレージから読み込ませる処理として、 のような手順で行われる。 記憶装置を分類するいくつかの特性がある。特性には、揮発性/不揮発性、ダイナミック/スタティック、書き換え可能/不可能、破壊読み出し/非破壊読み出し、アクセス方式、アドレス指定方式、などがある。また、容量と性能は重要なスペックである。 なお、RAM(Random Access Memory)は、本来は上記のランダムアクセスのメモリという意味だが、もっぱらROM(Read only memory)に対するものとして「(ランダムアクセスで)書き込み可能」という意味で使われている。本来の書き込み可能という意味ではRWM(Read Write Memory)という表現もあるが、ほとんど使われない。 SRAMチップでは、8ビットや16ビット単位のチップが多い。それに対し、古くはDRAMチップは1ビット単位であり、8個や16個並べて実際のメモリを構成していた(そのため、コンピュータ業界ではバイト単位がもっぱらであるのに対し、メモリ業界ではビット単位が使われることも多い)。現在でもDRAMチップは4ビットか8ビット程度と、比較的少ないビット数のものを並べて利用している。 また、データの転送方法についてもバリエーションがある所で、非同期SRAMのように単純にアドレスを印加すればデータが出てくるといったものから、DDR SDRAMのように複雑なプロトコルを持つものまで、色々のものがある。 容量単位は一般的な距離や速度を表すものと異なる特殊な単位と使われ方をする 2018年現在、よく使われている記憶装置技術としては、半導体、磁気、光学があり、紙も限定的に使われ続けている。他にも、かつて使われていた記憶装置技術や、開発が進んでいる新技術もある。
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記憶装置
容量単位は一般的な距離や速度を表すものと異なる特殊な単位と使われ方をする 2018年現在、よく使われている記憶装置技術としては、半導体、磁気、光学があり、紙も限定的に使われ続けている。他にも、かつて使われていた記憶装置技術や、開発が進んでいる新技術もある。 半導体メモリは、半導体による集積回路に情報を格納する。半導体メモリには数百万個の微細なトランジスタやコンデンサが集積されている。揮発性と不揮発性の半導体メモリがある。現代のコンピュータでは、一次記憶装置にはほぼ必ずダイナミックな揮発性半導体メモリ(DRAM)を使っている。21世紀に入ったころから、フラッシュメモリと呼ばれる不揮発性半導体メモリがオフラインストレージとしてシェアを伸ばし続けている。不揮発性半導体メモリは、各種電子機器や特殊なコンピュータの二次記憶装置としても使われている。 磁気記憶装置は、ディスクやテープの表面に塗布された磁性体の磁化パターンを変化させることで情報を記憶する。磁気記憶装置は不揮発性である。情報へのアクセスに1つまたは複数の読み書き用ヘッドを使う。ヘッドには電気信号と磁気信号を相互に変換する変換器がある。ヘッドは媒体表面のごく一部にしかアクセスできないので、ヘッドや媒体を移動させることでデータにアクセスする。現在のコンピュータでは、以下のような磁気記憶装置がある。 初期のコンピュータでは、磁気ドラムメモリ、磁気コアメモリ、コアロープメモリ、薄膜メモリ、磁気バブルメモリなどが一次記憶装置としても使われていた。また、磁気テープは二次記憶装置として使われることが多かった。 光学記憶装置(英語版)は、円板表面の性質を変化させることで情報を格納し、光学ドライブに搭載された半導体レーザーを表面に当てて反射光を測定することで情報を読み取る。光ディスクは不揮発性である。表面の変化が永久的なもの(読み取り専用媒体)、一度だけ変化させられるもの(ライトワンス媒体)、何度も書き換え可能なもの(リライタブル媒体)がある。次のような形式がよく使われている。 3次元光ディスクなどの3次元光学記憶装置(英語版)や5次元光記録も提案されている。蛍光多層ディスクは、C3D が開発した新技術で3次元光ディスクの一種だが、反射光ではなく蛍光を使用することで記録層を100層にまで拡張できる。
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記憶装置
3次元光ディスクなどの3次元光学記憶装置(英語版)や5次元光記録も提案されている。蛍光多層ディスクは、C3D が開発した新技術で3次元光ディスクの一種だが、反射光ではなく蛍光を使用することで記録層を100層にまで拡張できる。 光磁気ディスクは強磁性の表面の磁場の形で情報を記憶するストレージである。読み取りは光学的に行い、書き込みは磁気と光学を組み合わせて行う。光磁気ディスクは不揮発性で、シーケンシャルアクセス式で、書き込みは低速だが、読み取りは比較的高速である。三次記憶装置またはオフラインストレージとして使用する。 紙による記憶媒体としては、紙テープやパンチカードがあり、コンピュータ黎明期から広く使われてきた。情報は紙に穴を開けることで記録され、機械的または光学的に穴の位置を知ることで情報を読み取る。 二次または三次記憶装置は、コンピュータネットワークを使ってコンピュータと接続することもある。一次記憶装置ではそのような概念はふさわしくないが、マルチプロセッサでメモリを共有するのも多少それに似ている。 大量の磁気テープ(または光ディスクや光磁気ディスク)を自動化された三次記憶装置に格納したものである。磁気テープの場合はテープライブラリ、光ディスクの場合は光ジュークボックスあるいは光ディスクライブラリ装置などと呼ぶ。最小構成の装置では、装置内にドライブは1つだけで、オートローダまたはオートチェンジャなどと呼ばれる。 ロボット型ストレージの場合、多数のスロットがあってそこに媒体が格納されており、ロボットアームがそれをピックアップして組み込みのドライブに挿入する。スロットの配置とピックアップ機構が性能に影響を与える。重要な特性として拡張性があり、スロットやドライブやロボット機構を追加できるようになっている。テープライブラリの場合、10から10万スロットを有し、テラバイトからペタバイト級の情報を格納できる。光ジュークボックスはそれより若干小規模で、せいぜい1000スロットである。
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記憶装置
ロボット型ストレージはバックアップ、画像やビデオなどを大量に保管する必要のある業界(医療、映像産業など)で使われる。階層型ストレージ管理は、このようなストレージ装置も含め、自動的にデータを適切なストレージ階層に移動させる手法である。低い階層に格納してあるファイルが必要になると、自動的にそれを上位のハードディスクなどに取り出すことができる。
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