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波動関数
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波動関数(はどうかんすう、英: wave function)は、量子力学において純粋状態を表す複素数値関数。量子論における状態については量子状態を参照。
ここでは量子状態を表す状態ベクトルから波動関数を定義する。ただし状態ベクトルと波動関数は等価であるため(後述)、扱う問題に応じて状態ベクトルと波動関数による表現を行き来することができる。
あるオブザーバブルを表すエルミート演算子 A ^ {\displaystyle {\hat {A}}} を考え、その固有値 a n {\displaystyle a_{n}} が離散的であるとする。エルミート演算子 A ^ {\displaystyle {\hat {A}}} の性質として、全ての固有ベクトルの集合 { | a n ⟩ } {\displaystyle \{|a_{n}\rangle \}} は完全系をなすため、任意の状態ベクトル | ψ ⟩ {\displaystyle |\psi \rangle } は { | a n ⟩ } {\displaystyle \{|a_{n}\rangle \}} の線形結合(重ね合わせ)として表すことができる。
上記の展開係数 ψ ( a n ) {\displaystyle \psi (a_{n})} を「基底 { | a n ⟩ } {\displaystyle \{|a_{n}\rangle \}} 表示での波動関数」と呼ぶ。
またエルミート演算子の固有ベクトルは互いに直交する(ように選べる)。 { | a n ⟩ } {\displaystyle \{|a_{n}\rangle \}} が正規直交基底をなすとすると、この式と | a n ⟩ {\displaystyle |a_{n}\rangle } との内積をとることで | a n ⟩ {\displaystyle |a_{n}\rangle } にかかる展開係数が得られる。
このように基底を一つに決めると、状態ベクトルと波動関数は片方が分かればもう片方を求めることができ、一対一対応の関係になっている。したがって波動関数は、その変数が決まっているときには状態ベクトルと等価である。このため波動関数は量子状態を表す関数として用いることができる。
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波動関数
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このように基底を一つに決めると、状態ベクトルと波動関数は片方が分かればもう片方を求めることができ、一対一対応の関係になっている。したがって波動関数は、その変数が決まっているときには状態ベクトルと等価である。このため波動関数は量子状態を表す関数として用いることができる。
一般的に量子状態は複素ヒルベルト空間上のベクトルで表されるため、波動関数は一般的に複素数関数である。
基底として位置を表す演算子 x ^ {\displaystyle {\hat {x}}} の固有ベクトル、つまり位置が定まった状態の全体 { | x ⟩ } {\displaystyle \{|x\rangle \}} を選んだ場合、任意の状態を { | x ⟩ } {\displaystyle \{|x\rangle \}} の重ね合わせで表現できる。この基底に対する係数 ψ ( x ) {\displaystyle \psi (x)} を座標表示での波動関数、あるいはシュレーディンガーの波動関数などと呼ぶ。 通常、位置は連続的な値を取るため、状態ベクトルの展開は形式的に積分形で表される:
波動関数 ψ ( x ) {\displaystyle \psi (x)} を定めれば | ψ ⟩ {\displaystyle |\psi \rangle } は一意的に決まるので、 | ψ ⟩ {\displaystyle |\psi \rangle } の代わりに ψ ( x ) {\displaystyle \psi (x)} を用いても状態を表すことができる。
基底として運動量を表す演算子 p ^ {\displaystyle {\hat {p}}} の固有ベクトル、つまり運動量が定まった状態の全体 { | p ⟩ } {\displaystyle \{|p\rangle \}} を選んだ場合、 ψ ( p ) {\displaystyle \psi (p)} を運動量表示での波動関数と呼ぶ。
ここでは関数のラベルとして位置表示と同じ文字 ψ {\displaystyle \psi } を用いたが、その関数形は全く異なることに注意。
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波動関数
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ここでは関数のラベルとして位置表示と同じ文字 ψ {\displaystyle \psi } を用いたが、その関数形は全く異なることに注意。
ボルンの規則によると、ある状態 | ψ ⟩ {\displaystyle |\psi \rangle \ } における物理量(オブザーバブル) A {\displaystyle A\ } の測定(理想測定)をしたとき、その測定値の確率分布は次のように、物理量 A {\displaystyle A} による表示をした波動関数 ψ ( a ) = ⟨ a | ψ ⟩ {\displaystyle \psi (a)=\langle a|\psi \rangle } の絶対値の二乗となる。このように (絶対値) 二乗が確率を与えるものを確率振幅と呼ぶ。
例えば、ある状態 | ψ ⟩ {\displaystyle |\psi \rangle \ } における運動量 p {\displaystyle p\ } の測定を数多くしたとき、測定値が「運動量を表すエルミート演算子 p ^ {\displaystyle {\hat {p}}\ } の固有値の一つ p 1 {\displaystyle p_{1}\ } 」である頻度は
に収束する。
他にも、波動関数 Ψ ( x , t ) {\displaystyle \left.\Psi (x,t)\right.} の絶対値二乗は、位置の測定を行った場合の測定値の確率分布を与える。 より正確には、位置 x ^ {\displaystyle {\hat {x}}} の固有値が離散的である場合、「状態 | Ψ ⟩ {\displaystyle |\Psi \rangle } において時刻 t {\displaystyle t\ } で位置 x ^ {\displaystyle {\hat {x}}} の理想測定をしたとき、測定値のバラつきを表す確率分布が P ( x , t ) = | Ψ ( x , t ) | 2 {\displaystyle P(x,t)=|\Psi (x,t)|^{2}\ } である」。 しかし、そのためには、全空間のどこかで観測される確率は1 (100%) であることから、
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波動関数
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のように規格化される。 位置の観測量が連続的に与えられている場合は、「測定値がある一点 x {\displaystyle x} である確率 P ( x , t ) {\displaystyle P(x,t)} 」は意味を成さない。そのような場合、 P ( x , t ) {\displaystyle P(x,t)} は、確率ではなく、「小区間 [ x , x + δ x ] {\displaystyle [x,x+\delta x]} の中に観測される確率密度」として扱われ、規格化条件も和から積分へ変わる。
積分変数が位置 x {\displaystyle x} になっていて、長さの次元を持つことからも分かる通り、物理量の固有値が連続的に存在する場合(連続スペクトル)、対応する確率分布の次元は、無次元ではなく、物理量の逆の次元、この場合は「 L − 1 {\displaystyle L^{-1}} (長さの逆数)」になる。このとき、 P ( x , t ) {\displaystyle P(x,t)} は「単位長さ当たりの確率」、すなわち確率密度として解釈される。
なお、波動関数の絶対値二乗が「存在確率」と言われることもあるが、正確ではない。確率解釈では、ボルンの規則は「理想測定を行った場合の測定結果の確率分布」であって、測定を行っていない場合の「存在」や「確率」について何かを言っているわけではない。
離散スペクトルと連続スペクトルの規格化条件を見比べてみると、それぞれの波動関数の次元は異なることがわかる。
波動関数の線形結合によって別の波動関数を作ることができる。 例えば2つの異なる波動関数 ψ 1 {\displaystyle \psi _{1}} と ψ 2 {\displaystyle \psi _{2}} の線形結合として、新たな波動関数 ψ {\displaystyle \psi } を考えることができる。
この波動関数の二乗絶対値は以下のように書ける。
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波動関数
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波動関数の線形結合によって別の波動関数を作ることができる。 例えば2つの異なる波動関数 ψ 1 {\displaystyle \psi _{1}} と ψ 2 {\displaystyle \psi _{2}} の線形結合として、新たな波動関数 ψ {\displaystyle \psi } を考えることができる。
この波動関数の二乗絶対値は以下のように書ける。
第1, 4項はそれぞれ ψ 1 {\displaystyle \psi _{1}} および ψ 2 {\displaystyle \psi _{2}} の与える確率密度に(係数を除き)一致するが、第2, 3項はどちらにも一致しない。第2, 3項は2つの波動関数 ψ 1 , ψ 2 {\displaystyle \psi _{1},\psi _{2}} の干渉を生じさせる。
逆に、ある状態をいくつかの状態の重ね合わせに分解することもできる。重ね合わせに関する有名な思考実験にシュレーディンガーの猫がある。
物理量を表すエルミート演算子の固有関数は、その物理量の固有状態と呼ばれる。固有状態は、物理量が確定した値をもつような状態である。
特に重要なのは、全エネルギーを表すハミルトニアンの固有関数であり、エネルギー固有状態と呼ばれる。ハミルトニアンの固有値方程式は時間に依存しないシュレーディンガー方程式と呼ばれる。
化学や物性物理学の分野では、エネルギー固有状態は軌道(関数)とも呼ばれる。
波動関数の時間変化は、次の式に従う。
ここで ħ {\displaystyle \hbar } は換算プランク定数、 H ^ {\displaystyle {\hat {H}}} はハミルトニアンである。 この式は時間に依存するシュレーディンガー方程式と呼ばれる。
この時間変化はユニタリー変換であり、時間変化しても確率が保存されている。
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波動関数
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波動関数の時間変化は、次の式に従う。
ここで ħ {\displaystyle \hbar } は換算プランク定数、 H ^ {\displaystyle {\hat {H}}} はハミルトニアンである。 この式は時間に依存するシュレーディンガー方程式と呼ばれる。
この時間変化はユニタリー変換であり、時間変化しても確率が保存されている。
波動関数 ψ {\displaystyle \psi } で表される量子状態に対して、物理量 A ^ {\displaystyle {\hat {A}}} の測定(理想測定)を行ったとする。ボルンの規則によれば、 A ^ {\displaystyle {\hat {A}}} の固有値のいずれかが測定値として得られる。測定値が a i {\displaystyle a_{i}} だったとすると、測定後の(測定結果を条件とした)量子状態は固有値 a i {\displaystyle a_{i}} に対応する固有状態となり(射影仮説)、 測定後の量子状態を表す波動関数は測定前の ψ {\displaystyle \psi } と大きく異なることがある。 これを「波動関数の収縮」ということがある。
このような測定に伴う波動関数の変化(ないし更新)は、前述のシュレーディンガー方程式で表されるものとは異なる。
ボルンの規則に従って、波動関数の絶対値の2乗は、その波動関数の基底となる固有状態を見出す確率ないし確率密度関数と対応付けられることが知られている。 他方、量子力学の枠組みにおいて、系の状態は波動関数によって指定される。これは古典力学において適当な物理量の値の組で系の状態を指定できたことと対照的である。 古典力学に基づくなら、物理量の値は測定せずとも定まっていると考えることができたが、量子力学に基づくなら、物理量の値そのものを決定することはできず、その確率分布しか知ることができない。 系が確率的に振る舞うことに対して、古典的な確率現象のように何らかの粗視化や系に対する知識の不足によって生じていると考えるのではなく、本質的に確率的な振る舞いをしていると考えるならば、前述の古典力学的な描像で系の状態を考えることは困難となる。
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波動関数
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また、測定に伴って被測定系へ及ぼされる影響についても古典力学と量子力学で異なる点がある。 古典論では被測定系の状態を変化させずに物理量を測定できると考えることができたが、量子論においては、例えばある物理量を正確に測定した場合、測定系にとっての被測定系の状態は、測定に伴って測定値に対応する固有状態に変化していると考えなければならない。 前述の通り、波動関数は測定値の確率分布に関連しているため、確率分布が測定に伴って変化するならば、測定に伴って波動関数もまた変化しなければならない。 特に、物理量を正確に測定した場合、波動関数は対応する固有状態へ「収縮」する。
もし波動関数が(例えば電磁場のような)物理的実体を伴うものだと考えると、この「波動関数の収縮」の解釈には困難が伴うことが知られている。例えばEPRパラドックスとして指摘されたように、(量子力学の理論上)測定に伴って光速を超えて(従って相対性理論に整合しない)「収縮」が生じているように見える系について、そのような「収縮」が起こり得ないことを説明する必要が生じる。
もう一つの波動関数の重要な性質として、波動関数の重ね合わせとそれに伴う干渉がある。例えば二重スリット実験では、単スリット実験から得られる波動関数の重ね合わせによって、二重スリット系の波動関数が得られる。二重スリット系の粒子の存在確率分布は、単スリットの波動関数同士の干渉により、単スリット系での分布の重ね合わせとは異なることが知られている。この干渉は、スリットを通過する粒子の運動を(純粋に)古典力学的に解釈する限り説明できない。
確率的な振る舞いと重ね合わせに関連して、量子系と古典系が相互作用する系では「シュレーディンガーの猫」のような微妙な状態が存在し得る。通常、「猫」のような巨視的な対象は古典力学に従った振る舞いをすると考えられるが、測定器系を通じて崩壊性原子のような系と相関している場合、量子力学に従うならば、「猫の生死」のような巨視的な事象まで被測定系の振る舞いに依存してしまうことが示唆される。特に測定前の状態においては、猫系もまた量子力学的な重ね合わせ状態として記述されなければならない。 波動関数の「実在」を認めるなら、猫の重ね合わせ状態もまた何らかの形で「実在」すると考えなければならない。
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波動関数
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「シュレーディンガーの猫」の思考実験から発展して、「ウィグナーの友人」のような系を考えることができる。「ウィグナーの友人」系では何らかの量子系に対して測定を行う系1(「友人」)と、系1に対して測定を行う系2(「ウィグナー」)が登場する。系1にとって測定結果を得た時点で対象の量子系の波動関数は「収縮」したように見えるが、系2にとっては系1の測定結果を(系1を通じて)観測するまで、量子系の波動関数は「収縮」していないように見える。このように「収縮」がいつどのように生じたかは、観測者の立場に依存しているように見える。
以上のような波動関数によって示唆される「現象」に対して、その解釈を巡って様々な提案がなされている。よく知られている例として、コペンハーゲン解釈、多世界解釈、ボーム解釈などが挙げられる。これらの解釈は波動関数がシュレーディンガー方程式に従って時間発展することは認めるが、観測に伴う干渉の消失(デコヒーレンス)や「波動関数の収縮」のメカニズムや波動関数が測定値の確率分布に対応する理由に対する説明が異なっており、そのため理論の適用範囲や検証可能性がしばしば議論の対象となっている。
典型的なコペンハーゲン解釈においては、波動関数は客観的な実体あるものではなく、観測者の主観によって定まるとされる。従ってコペンハーゲン解釈の下では、「波動関数の収縮」は非物理的な現象であり、相対論を破るものとは考えない。
多世界解釈では、「波動関数の収縮」は生じず、量子系はあくまでシュレーディンガー方程式に従って連続的に(ユニタリ)時間発展をすると考える。多世界解釈において「波動関数の収縮」に相当する過程は、観測者が辿り得た歴史の(互いに干渉することのない)分岐として表現される。
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波動関数
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多世界解釈では、「波動関数の収縮」は生じず、量子系はあくまでシュレーディンガー方程式に従って連続的に(ユニタリ)時間発展をすると考える。多世界解釈において「波動関数の収縮」に相当する過程は、観測者が辿り得た歴史の(互いに干渉することのない)分岐として表現される。
2つの波動関数の重ね合わせ(加算)が物理的に意味を持つので、波動関数は加算に関する数学である線形代数に従うと期待される。しかし、波動関数の線形代数での次数を有限な自然数Nと仮定すると、正準交換関係と両立しない。したがって線形代数を使うことにこだわるならば、いわば「無限次元」の線形代数を使用しなければならない。ノイマンはユークリッド空間の無限次元版であるヒルベルト空間を用い、質点の量子力学での波動関数の数学的定義を作成した。しかし、同じ手法は多粒子の量子論、場の量子論では十分な成功を収めておらず、波動関数・量子場の数学的定式化は未解決の問題である。
波動関数の数学的定式化に関する試みの一つとして、ノイマンとは異なる数学的定義を用い、虚数を廃した実数だけの量子力学を建設する試みが複数行われている。ある試みでは、水素原子からの光の波長についてはシュレーディンガー方程式と同じ結果になるが、多粒子系については通常の量子力学と異なる結果になり、実験値との差が大きいため、複素数を使う通常の量子力学より優位であるとは言えない。
この「実数だけの量子力学を作る」という試みは、通常の量子力学とは別の基礎方程式を出して優劣を議論する、というものであり、基礎方程式を変更しない多世界解釈とは異なる。多世界解釈は実験に対応する物理量の定義を変更しようとするものであるが、上記の実数だけの量子力学は物理量の定義を変更するものではない。
熱力学では数学的定式化の改良において、熱力学の公理系の変更と並んで物理量の定義の変更も試みられている。それと比較して、量子力学の数学的定式化の理解、すなわち、波動関数の数学的定義、量子力学の公理系、量子力学の数理論理的な性質(量子論理)についての理解は不十分である。
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並列化
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並列化(へいれつか、英: parallelization)は、コンピュータにおいて、同時に複数の演算処理を実行すること(並列計算)によって処理のスループットを上げるプログラミング手法である。対義語は逐次化(英: serialization)。ハードウェアの資源を有効活用するための最適化手法のひとつである。
コンピュータにおいて処理を実行する場合、もっとも単純な方法は、与えられたプログラムステップを最初から最後までひとつずつ順番に実行していくことである。これを逐次処理 (serial processing) と呼ぶ。一方、SIMD命令をサポートするプロセッサや、複数のプロセッサ(マルチソケットプロセッサあるいはマルチコアプロセッサ)を搭載するコンピュータでは、複数の異なるデータを同時に処理したり、複数の異なるステップを同時に実行したりすることもできる。これを並列処理 (parallel processing) と呼ぶ。逐次処理を並列処理にすることを並列化という。シングルコア性能の向上が頭打ちになるにつれ、並列化による高速化は重要性を増している手法である。
複数の異なるステップ(タスク)を並列実行できることをタスク並列性、複数の異なるデータに対して同じ処理を並列実行できることをデータ並列性という。
並列化の主な内容は、全体の問題をいくつかの独立したタスクあるいはデータストリームに分割し、タスクあるいはデータストリームを複数のプロセッサ (具体的にはCPUやGPUなどにおける各コア) に割り当て、処理を同時実行させ、最後に分割されたタスクを同調させたり、あるいはデータストリームを統合したりして最終結果を得ることである。ソフトウェアレベルでは並列化の実装単位にプロセスやスレッドが利用される。並列化は本質的に並列化可能な(主にデータ間に相互依存性のない)問題にのみ適用できる。問題の分割手法には領域分割(データ分割)、機能分割(タスク分割)があり、両方を組み合わせることもある。
並列化には主に2つのアプローチがある。
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並列化
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並列化には主に2つのアプローチがある。
多くの要因・手法が並列化のパフォーマンスに影響を及ぼす。並列化により、プロセッサの数(あるいはSIMD命令により同時処理できるデータの数)に比例してプログラムの処理速度が倍速化されるが、実際にはプログラム中に占める並列化可能な領域の割合に左右されたり、並列アルゴリズムの内容やハードウェアのキャッシュ能力に依存したりする。アムダールの法則や偽共有(英語版)も参照。
ロードバランシングは負荷の高いプロセッサから負荷の低いプロセッサへとタスクを移すことで、すべてのプロセッサをビジーに保とうとする。
単一CPUのシステムで正しく動作するプログラムでも並列環境ではそうではないこともある。これは同一のプログラムの複数のコピーが互いに干渉しあう(例えば、同時に同じメモリ領域を読み書きする)からである。そのため、並列環境では入念なプログラミング(排他制御)が必要となる。
もしコンピュータにプロセッサがひとつしかなく、なおかつSIMD命令をサポートしない場合は逐次処理しかできず、並列処理(並列計算)はできない。一方、並行処理(並行計算)は可能である場合もある。例えば汎用的なオペレーティングシステムではごく短時間で実行タスクを切り替えて複数のタスクを疑似的に同時実行することのできるマルチタスクシステムが採用されることが多い。並行処理はスループットの改善のためではなく、主にシステムの応答性の改善のために利用される。
自動並列化とは、並列化コンパイラを使用して、字面的にそのまま解釈すれば逐次的に計算を行うようなプログラムのソースコードを変換し、並列計算を行うようなオブジェクトコードを得る手法である。並列計算機の並列計算能力を活用するために行われる。自動並列化の目的はプログラマを退屈でエラーの起きやすい並列化作業から解放することである。技術的には非常に進歩したが、必要なプログラム解析の複雑さやコンパイル時には不明な要因(例えば、入力データの範囲)などのために、逐次的なプログラムの完全な自動並列化は未だ達成されていない。
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並列化
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自動並列化で主に焦点が当てられるプログラム制御構造はループである。なぜなら、一般的にプログラムの実行時間のほとんどは何らかのループの中で消費されるからである。自動並列化コンパイラはループを分解し、繰り返しが別々のプロセッサで並行に実行されるようにする。
並列プログラミングモデルとは、並列なアルゴリズムを表現し、アプリケーションを動作環境である並列システムに適合させるためのソフトウェア群である。これらのソフトウェアは並列化ツールキットなどとも呼ばれる。並列プログラミングモデルが扱う領域には、アプリケーション、言語、コンパイラ、ライブラリ、通信システム、並列入出力などがある。これは明示的な並列化の手法であり、自動並列化の適用の難しさを避けている。並列プログラムの生産性を高めるため、並列アプリケーションの開発者は適切な(単一または複数の)並列プログラミングモデルを選んで使用する。
並列プログラミングモデルの実装方法にはいくつか種類がある。既存の逐次処理言語用のライブラリ、言語の拡張仕様、またはまったく新しい実行モデルなどである。それらはさらに2種類に大まかに分類される。メモリ共有型とメモリ分散型である。しかしながら、この2つの境界は曖昧なものとなっている。
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高速フーリエ変換
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高速フーリエ変換(こうそくフーリエへんかん、英: fast Fourier transform, FFT)は、離散フーリエ変換(英: discrete Fourier transform, DFT)を計算機上で高速に計算するアルゴリズムである。高速フーリエ変換の逆変換を逆高速フーリエ変換(英: inverse fast Fourier transform, IFFT)と呼ぶ。
複素関数 f(x) の離散フーリエ変換である複素関数 F(t) は以下で定義される。
このとき、{x = 0, 1, 2, ..., N − 1} を標本点と言う。
これを直接計算したときの時間計算量は、ランダウの記号を用いて表現すると O(N) である。
高速フーリエ変換は、この結果を、次数Nが2の累乗のときに O(N log N) の計算量で得るアルゴリズムである。より一般的には、次数が N = ∏ ni と素因数分解できるとき、O(N∑ni) の計算量となる。次数が 2 の累乗のときが最も高速に計算でき、アルゴリズムも単純になるので、0 詰めで次数を調整することもある。
高速フーリエ変換を使って、畳み込み積分などの計算を高速に求めることができる。これも計算量を O(N) から O(N log N) まで落とせる。
現在は、初期の手法 をより高速化したアルゴリズムが使用されている。
逆変換は正変換と同じと考えて良いが、指数の符号が逆であり、係数 1/N が掛かる。
高速フーリエ変換のプログラム中、どの符号が逆転するかを一々分岐させると、分岐の判定に時間がかかり、パフォーマンスが落ちる。一方、正変換のプログラムと、逆変換のプログラムを両方用意しておくことも考えられるが、共通部分が多いため、無駄が多くなる。このため、複素共役を使った次のような方法が考えられる。
離散フーリエ変換を
で定義したとき、逆変換は
となる。
このため、F(t) の離散フーリエ逆変換を求めるには、
とすれば良く、正変換の高速フーリエ変換のプログラムがあれば、逆変換は容易に作ることができる。
クーリー–テューキー型アルゴリズムは、代表的な高速フーリエ変換 (FFT) アルゴリズムである。
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高速フーリエ変換
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離散フーリエ変換を
で定義したとき、逆変換は
となる。
このため、F(t) の離散フーリエ逆変換を求めるには、
とすれば良く、正変換の高速フーリエ変換のプログラムがあれば、逆変換は容易に作ることができる。
クーリー–テューキー型アルゴリズムは、代表的な高速フーリエ変換 (FFT) アルゴリズムである。
分割統治法を使ったアルゴリズムで、N = N1 N2 のサイズの変換を、より小さいサイズである N1, N2 のサイズの変換に分割していくことで高速化を図っている。
最もよく知られたクーリー–テューキー型アルゴリズムは、ステップごとに変換のサイズをサイズ N/2 の2つの変換に分割するので、2 の累乗次数に限定される。しかし、一般的には次数は 2 の累乗にはならないので、素因数が偶数と奇数とで別々のアルゴリズムに分岐する。
伝統的なFFTの処理実装の多くは、再帰的な処理を、系統だった再帰をしないアルゴリズムにより実現している。
クーリー–テューキー型アルゴリズムは変換をより小さい変換に分解していくので、後述のような他の離散フーリエ係数のアルゴリズムと任意に組み合わせることができる。とりわけ、N ≤ 8 あたりまで分解すると、固定次数の高速なアルゴリズムに切り替えることが多い。
離散フーリエ係数は、1の原始 N 乗根の1つ WN = e を使うと、次のように表せる。
例えば、N = 4 のとき、 F ( t ) = X t {\displaystyle F(t)=X_{t}} 、 f ( k ) = x k {\displaystyle f(k)=x_{k}} とすれば、離散フーリエ係数は行列を用いて表現すると(W = W4 と略記)
となる。入力列 xk を添字の偶奇で分けて、以下のように変形する。
( ∵ W k + N = W k {\displaystyle \because W^{k+N}=W^{k}} )
すると、サイズ 2 のFFTの演算結果を用いて表現でき、サイズの分割ができる。
また、この分割手順を図にすると蝶のような図になることから、バタフライ演算とも呼ばれる。
バタフライ演算は、計算機上ではビット反転で実現される。DSPの中には、このバタフライ演算のプログラムを容易にするため、ビット反転アドレッシングを備えているものがある。
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高速フーリエ変換
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すると、サイズ 2 のFFTの演算結果を用いて表現でき、サイズの分割ができる。
また、この分割手順を図にすると蝶のような図になることから、バタフライ演算とも呼ばれる。
バタフライ演算は、計算機上ではビット反転で実現される。DSPの中には、このバタフライ演算のプログラムを容易にするため、ビット反転アドレッシングを備えているものがある。
N = PQ とする。N 次離散フーリエ変換を、以下のようにP 次離散フーリエ変換とQ 次離散フーリエ変換に分解する。
N 次離散フーリエ変換:
を、n = 0, 1, ..., N − 1 について計算することを考える。n, k を次のように書き換える。ただし 0 ≤ n ≤ N − 1 また 0 ≤ k ≤ N − 1 である。
すると
ここで、
と置くと、
となる。即ち、F(n) = F(sQ + r) の計算は、次の2ステップになる。
ステップ1、2は、N = PQ 次の離散フーリエ変換を、Q 次の離散フーリエ変換と回転因子の掛け算の実行により、Q 組 (r = 0, 1, ..., Q − 1) の P 次離散フーリエ変換に分解したと見ることができる。
N = Q (P = Q) の場合には、上を繰り返せば、Q 次の離散フーリエ変換と回転因子の掛け算を繰り返すことだけで次数を下げることができ、最終的に1次離散フーリエ変換(何もしないことと同じ)にまで下げると、F(t)を求めることができる。特に、Q が2または4の場合は、Q次の離散フーリエ変換は非常に簡単な計算になる。
このため、2の累乗あるいは4の累乗次の離散フーリエ変換は簡単に計算できる。実務的に用いられるのは、Q = 2 か Q = 4 の場合のみである。なお、Q = 2 かQ = 4 の場合のこの部分のQ次の離散フーリエ変換のことを、バタフライ演算と言う。
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高速フーリエ変換
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このため、2の累乗あるいは4の累乗次の離散フーリエ変換は簡単に計算できる。実務的に用いられるのは、Q = 2 か Q = 4 の場合のみである。なお、Q = 2 かQ = 4 の場合のこの部分のQ次の離散フーリエ変換のことを、バタフライ演算と言う。
また、Q = 2かQ = 4の場合において、計算を終了するまでに何回の「掛け算」が必要かを考える。符号の逆転、実部虚部の交換は「掛け算」として数えなければ、回転因子の掛け算のみが「掛け算」である。N = Qの次数を1落とすためにN回の「掛け算」が必要であり、次数をkから0に落とすにはそれをk回繰り返す必要があるため、「掛け算」の数は Nk = N logQ N となる。高速フーリエ変換の計算において時間がかかるのは「掛け算」の部分であるため、これが「高速フーリエ変換では計算速度は O(N' log N) になる」ことの根拠になっている。
上記の説明で、 N = Q k ( P = Q k − 1 ) {\displaystyle N=Q^{k}(P=Q^{k-1})} の場合、N = Q 個のデータ f ( q Q k − 1 + p ) {\displaystyle f(qQ^{k-1}+p)} から、N = Q 個の計算結果
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上記の説明で、 N = Q k ( P = Q k − 1 ) {\displaystyle N=Q^{k}(P=Q^{k-1})} の場合、N = Q 個のデータ f ( q Q k − 1 + p ) {\displaystyle f(qQ^{k-1}+p)} から、N = Q 個の計算結果
を計算する場合に、メモリの節約のため、0 ≤ q ≤ Q − 1 と 0 ≤ r ≤ Q − 1 を利用し、計算結果 f 1 ( p , r ) {\displaystyle f_{1}(p,r)} を元データ f ( r Q k − 1 + p ) {\displaystyle f(rQ^{k-1}+p)} のあった場所に格納することが多い。これが次の次数 Q でも繰り返されるため、 p = q 2 Q k − 2 + p 2 {\displaystyle p=q_{2}Q^{k-2}+p_{2}} とすると、次の次数の計算結果 f 2 ( p 2 , q 2 , q ) {\displaystyle f_{2}(p_{2},q_{2},q)} は f ( q Q k − 1 + q 2 Q k − 2 + p 2 ) {\displaystyle f(qQ^{k-1}+q_{2}Q^{k-2}+p_{2})} のあった場所に格納される。繰り返せば、 t = q 1 Q k − 1 + q 2 Q k − 2 + ⋯ + q k {\displaystyle t=q_{1}Q^{k-1}+q_{2}Q^{k-2}+\cdots +q_{k}} とすると、計算結果 f k ( p k , q k , q k − 1 , ... , q 2 , q 1 ) {\displaystyle f_{k}(p_{k},q_{k},q_{k-1},\dots ,q_{2},q_{1})} は f ( q 1 Q k − 1 + q 2 Q k − 2 + ⋯ + q k − 1 Q + p k ) {\displaystyle f(q_{1}Q^{k-1}+q_{2}Q^{k-2}+\cdots +q_{k-1}Q+p_{k})} のあった場所に格納される。
一方、
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高速フーリエ変換
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一方、
を、r を固定し s を変数とした Q 次離散フーリエ変換と見なして、 s = s 2 Q + r 2 {\displaystyle s=s_{2}Q+r_{2}} とすると、
となる。繰り替えせば、
となるが、左辺について
より sk = 0, また右辺について
より pk = 0。このため、
これは f ( r 1 Q k − 1 + r 2 Q k − 2 + ⋯ + r k − 1 Q + r k ) {\displaystyle f(r_{1}Q^{k-1}+r_{2}Q^{k-2}+\cdots +r_{k-1}Q+r_{k})} のあった場所に格納されている。
このように、求める解 F ( r k Q k − 1 + ⋯ + r 2 Q + r 1 ) {\displaystyle F(r_{k}Q^{k-1}+\cdots +r_{2}Q+r_{1})} が f ( r 1 Q k − 1 + r 2 Q k − 2 + ⋯ + r k − 1 Q + r k ) {\displaystyle f(r_{1}Q^{k-1}+r_{2}Q^{k-2}+\cdots +r_{k-1}Q+r_{k})} のあった場所に格納されていることを、ビット反転と言う。これは、Q 進法で表示した場合、 r k Q k − 1 + ⋯ + r 2 Q + r 1 {\displaystyle r_{k}Q^{k-1}+\cdots +r_{2}Q+r_{1}} は ( r k r k − 1 ... r 2 r 1 ) Q {\displaystyle (r_{k}r_{k-1}\dots r_{2}r_{1})_{Q}} となるのに対し、 r 1 Q k − 1 + r 2 Q k − 2 + ⋯ + r k − 1 + r k {\displaystyle r_{1}Q^{k-1}+r_{2}Q^{k-2}+\cdots +r_{k-1}+r_{k}} は逆から読んだ ( r 1 r 2 ... r k − 1 r k ) Q {\displaystyle (r_{1}r_{2}\dots r_{k-1}r_{k})_{Q}} となるためである。
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高速フーリエ変換
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以下は、高速フーリエ変換のプログラムを Q = 4 の場合にMicrosoft Visual Basicの文法を用いて書いた例である。
この例では、最深部 (For k、Next k の間の部分)の繰り返し回数が Ndeg log4 Ndeg となっている。
多くの応用において、FFTに対する入力データは実数の列(実入力)であり、このとき変換された出力の列は次の対称性を満たす( は複素共役):
そこで、多くの効率的なFFTアルゴリズム は入力データが実数であることを前提に設計されている。
入力データが実数の場合の効率化の手段としては、次のようなものがある。
かつては実数の入力データに対するフーリエ係数を求めるのには、実数計算だけで行える離散ハートリー変換(英語版) (discrete Hartley transform, DHT)を用いると効率的であろうと思われていた。しかしその後に、最適化された離散フーリエ変換 (discrete Fourier transform, DFT) アルゴリズムの方が、離散ハートリー変換アルゴリズムに比べて必要な演算回数が少ないということが判明した。また当初は、実数入力に対してブルーン (Bruun) FFT アルゴリズムは有利であると云われていたが、その後そうではないことが判った。
また、偶奇の対称性を持つ実入力の場合には、DFTはDCTやDST(英語版)となるので、演算と記憶に関してほぼ2倍の効率化が得られる。よって、そのような場合にはDFTのアルゴリズムをそのまま適用するよりも、DCTやDSTを適用してフーリエ係数を求める方が効率的である。
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高速フーリエ変換
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また、偶奇の対称性を持つ実入力の場合には、DFTはDCTやDST(英語版)となるので、演算と記憶に関してほぼ2倍の効率化が得られる。よって、そのような場合にはDFTのアルゴリズムをそのまま適用するよりも、DCTやDSTを適用してフーリエ係数を求める方が効率的である。
高速フーリエ変換といえば一般的には1965年、ジェイムズ・クーリー(英語版) (J. W. Cooley) とジョン・テューキー (J. W. Tukey) が発見した とされているクーリー–テューキー型FFTアルゴリズム(英語版)を呼ぶ。同時期に高橋秀俊がクーリーとテューキーとは全く独立にフーリエ変換を高速で行うためのアルゴリズムを考案していた。しかし、1805年頃に既にガウスが同様のアルゴリズムを独自に発見していた(本ページの外部リンク先に同じ文章PDFへのリンクがある)。ガウスの論文以降、地球物理学や気候や潮位解析などの分野などで測定値に対する調和解析は行われていたので、計算上の工夫を必要とする応用分野で受け継がれていたようである(たとえば、Robart L. Nowack: "Development of the FFT and Applications in Geophysics", in Proceedings of the Cornelius Lanczos International Centenary Conference,SIAM, ISBN 978-0898713398 (1994), pp.395--397、の中では Danielson and Lanczos(1942年)などの先行例をあげている。和書でも沼倉三郎:「測定値計算法」、森北出版、(1956年)には,一般の合成数Nに対してではないが人が計算を行う場合にある程度の大きさの合成数Nに対してどのように計算すればよいかについての説明をみることができる)。 以下の書籍にも、天体観測の軌道の補間のためにガウスが高速フーリエ変換を利用したことが書かれている。
今後記述を追加の予定
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局所密度近似
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局所密度近似(きょくしょみつどきんじ、英: Local Density Approximation、略称LDA)は、密度汎関数理論(DFT)における理論に現れる交換相関(XC)エネルギー汎関数に対する近似の一部類である。空間中の各点での電子密度(英語版)の値だけに依っている(密度の導関数やコーン–シャム軌道には依存しない)。多くのアプローチによってXCエネルギーに対する局所近似を得ることができる。しかしながら、圧倒的に成功を収めている局所近似は均一電子ガス(HEG)モデルから導かれたものである。この点に関しては、LDAはHEG近似に基づく汎関数と一般的に同義である。
一般に、スピン非偏極系について、交換相関エネルギーに対する局所密度近似は次のような関数系を仮定する。
上式において、ρは電子密度、εxcは電荷密度ρを持つ均一電子ガスの粒子毎の交換相関エネルギーである。この仮定では空間の各点で(つまり局所的に)電子の交換・相関エネルギー密度 ε x c {\displaystyle \epsilon _{\rm {xc}}} が決まっており、 ε x c {\displaystyle \epsilon _{\rm {xc}}} はその場所の電子密度 n ( r ) {\displaystyle n({\boldsymbol {r}})} だけの関数になっている。この交換相関エネルギーは交換項と相関項に線形に分解される。
こうすることで、ExとEcについて別々の式を探すことができる。交換項はHEGに対して単純な解析形を取る。相関密度については限定的な式しか厳密に知られておらず、εcに対する膨大な数の異なる近似が生み出された。
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局所密度近似
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こうすることで、ExとEcについて別々の式を探すことができる。交換項はHEGに対して単純な解析形を取る。相関密度については限定的な式しか厳密に知られておらず、εcに対する膨大な数の異なる近似が生み出された。
ホーヘンベルグ・コーンの定理によれば、この E x c {\displaystyle E_{\rm {xc}}} は取り扱う系に依存しない普遍的な関数である。よって、もし局所密度近似が妥当であれば、 ε x c {\displaystyle \epsilon _{\rm {xc}}} は(計算しやすい)一様電子系について求めた値でも、実際に計算したい系の値でも同じはずである。このようにして、一様電子系についてもとめた ε x c {\displaystyle \epsilon _{\rm {xc}}} を用いることが正当化され、実際の計算に用いることができる。
実際に用いられる ε x c {\displaystyle \epsilon _{\rm {xc}}} の関数形は、厳密に求められる低密度、高密度の極限からの外挿によるものや、モンテカルロ法を使ったものなどがある。
局所密度近似は、一般化勾配近似(GGA)や混成汎関数といった交換相関エネルギーに対するより洗練された近似の構築において重要である。これは、いかなる近似交換相関汎関数も均一電子ガスの厳密な結果を再現することが望まれるためである。こういったものとして、LDAはこういった汎関数の陽な混成要素としてしばしば取り入れられている。
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局所密度近似
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局所密度近似は、一般化勾配近似(GGA)や混成汎関数といった交換相関エネルギーに対するより洗練された近似の構築において重要である。これは、いかなる近似交換相関汎関数も均一電子ガスの厳密な結果を再現することが望まれるためである。こういったものとして、LDAはこういった汎関数の陽な混成要素としてしばしば取り入れられている。
局所密度近似はGGAと同様に固体物理学者によって半導体酸化物やスピントロニクスを含む半導体素材中の電子および磁気相互作用を解釈するためのDFT研究において広範に利用されている。これらの計算研究の重要性は、第一原理に基づく解析を必要とする合成パラメータに対する高い感受性を引き起す系の複雑さに由来する。ドープされた半導体酸化物中のフェルミ準位とバンド構造の予測はCASTEPやDMol3といったシミュレーションパッケージに取り入れられたLDAを使ってしばしば行われる。しかしながら、LDAおよびGGAとしばしば関係しているバンドギャップ値の過小評価は、こういった系における不純物媒介伝導性とキャリア媒介磁性の両方またはいずれか一方の誤った予測をもたらしうる。1998年に始まった固有値についてのレイリーの定理(英語版)の応用によって、LDAポテンシャルを使って、材料のほとんど正確なバンドギャップの計算が可能となっている。DFTの第2定理に対する誤解は、LDAおよびGGA計算によるバンドギャップの過小評価の大半を説明するように思われる。
電子密度にのみ依存したεxcに対する近似は数多くのやり方で開発することができる。最も成功を収めているやり方は均一電子ガス(HEG)に基づく。これは、相互作用のあるN個の電子を、系を中性に保つ正の背景電荷を有する体積Vに置くことによって構築される。NおよびVは次に、電子密度 (ρ = N / V) を有限に保つようなやり方で無限大まで持っていかれる。これは、全エネルギーが運動エネルギーおよび交換-相関エネルギーのみからの寄与によって構成され、波動関数が平面波の観点から表現できるため有用な近似である。具体的には、一定密度ρに対して、交換エネルギー密度はρに比例する。
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局所密度近似
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HEGの交換エネルギー密度は解析的に知られている。交換に対するLDAは、密度が均一でない系における交換エネルギーがHEGの結果を各点に適用することによって得られるという近似の下でこの式を使用して、以下の式を得る。
HEGの相関エネルギーに対する解析表式は、それぞれ無限に弱い相関と無限に強い相関に対応する高密度および低密度限界で利用可能である。電子密度ρを持つHEGについて、相関エネルギー密度の高密度限界は
であり、低密度限界は
である。上式において、Wigner-Seitzパラメータ r s {\displaystyle r_{s}} は無次元である。これは、厳密に1つの電子を包含する球の半径をボーア半径で割った値として定義される。Wigner-Seitzパラメータ r s {\displaystyle r_{s}} は密度と以下の式で結び付けられる。
密度の全領域に対する解析表式は多体摂動論に基づいて提案されてきた。計算された相関エネルギーは2ミリハートリー以内で量子モンテカルロシミュレーションの結果と一致する。
HEGのエネルギーに対する精密な量子モンテカルロシミュレーションは複数の中間的値の密度について実行され、次々に相関エネルギー密度の精密な値を与えてきた。相関エネルギー密度に対する最も人気のあるLDAは、厳密に知られている漸近挙動を再現しながら、シミュレーションから得られたこれらの正確な値を内挿する。εcに対する異なる解析形式を使った様々なアプローチによって相関汎関数に対する複数のLDAが生み出されてきた。
これらや、DFTそれ自身の形式的樹立よりさえも前から存在するのがHEGモデルから摂動論的に得られるWigner相関汎関数である。
スピン偏極系への密度汎関数の拡張は、厳密なスピンスケーリングが知られている交換については明快であるが、相関についてはさらなる近似が用いられなければならない。DFTにおけるスピン偏極系は2つのスピン密度ραおよびρβ( ρ = ρα + ρβ)を用い、局所スピン密度近似(Local Spin Density Approximation, LSDA)の形式は
である。LSDAはバンド計算において磁性(強磁性、反強磁性、ハーフメタリックなど)やスピンの問題(スピン分極)を扱う時に使用される。
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局所密度近似
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である。LSDAはバンド計算において磁性(強磁性、反強磁性、ハーフメタリックなど)やスピンの問題(スピン分極)を扱う時に使用される。
交換エネルギーについては、(局所密度近似に対してのみではない)厳密な結果がスピン非偏極汎関数の観点から知られている。
相関エネルギー密度のスピン依存性は相対スピン偏極度
を導入することによってアプローチする。 ζ = 0 {\displaystyle \zeta =0\,} は等しい α {\displaystyle \alpha \,} および β {\displaystyle \beta \,} スピン密度を持つ常磁性スピン非偏極状況に対応しするが、 ζ = ± 1 {\displaystyle \zeta =\pm 1} は一方のスピン密度が消滅する強磁性状況に対応する。全密度および相対偏極度の所与の値に対するスピン相関エネルギー密度εc(ρ,ς) は極値を内挿するように構築される。いくつかの形式がLDA相関汎関数と共に開発されてきた。
LDA計算は実験値とまあまあの一致を示す。
局所密度近似に対する交換-相関エネルギーに対応する交換-相関ポテンシャルは以下の式で与えられる。
有限の系においては、LDAポテンシャルは指数関数的な形で漸近的に減衰する。これは誤りである。真の交換-相関ポテンシャルはクーロン的によりゆっくりと減衰する。人為的に急速な減衰は、ポテンシャルが束縛できるコーン・シャム軌道の数(つまり、ゼロ未満のエネルギーを持つ軌道の数)に現れる。LDAポテンシャルはリュードベリ系列を支持できず、ポテンシャルが束縛するそれらの状態はエネルギーが高過ぎる。これはエネルギー的に高過ぎるHOMOエネルギーをもたらし、クープマンズの定理に基づくイオン化ポテンシャルに対する予測は精度が低い。そのうえ、LDAは陰イオンといった電子豊富種のまずい描写を与える。こういった場合、LDAはしばしば追加の電子を束縛することができず、陰イオン種が不安定であると誤って予測する。
LDAを越える試みとは、局所密度近似 (LDA) の問題点を解消する新たな手法を見出す試みの総称である。
局所密度近似は大変成功した近似であるが、実際の系に対する様々な計算の結果、その限界もまた露わになってきた。代表的な問題点とその克服に向けたアプローチについて記述する。
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局所密度近似
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LDAを越える試みとは、局所密度近似 (LDA) の問題点を解消する新たな手法を見出す試みの総称である。
局所密度近似は大変成功した近似であるが、実際の系に対する様々な計算の結果、その限界もまた露わになってきた。代表的な問題点とその克服に向けたアプローチについて記述する。
以下のようなものが提案、試行されている。
さらに、交換項を(ハートリー-フォック法での交換項として)厳密に取り扱うアプローチ (Exact Exchange)、密度汎関数理論の有限温度への拡張や、電子の多体問題をより直接的に扱う方法(量子モンテカルロ法による)、また動的平均場法などの強相関電子系でのモデル計算で開発された手法と組み合わせ、電子相関の効果を導入する研究がされているが、まだ汎用的な計算手法とは言い難く、簡単な系でのテスト計算どまりである。
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状態密度
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固体物理学および物性物理学において、系の状態密度(じょうたいみつど、英: density of states, DOS)とは、微小なエネルギー区間内に存在する、系の占有しうる状態数を各エネルギーごとに記述する物理量である。気相中の原子や分子のような孤立系とは異なり、密度分布はスペクトル密度のような離散分布ではなく連続分布となる。あるエネルギー準位において DOS が高いことは、そこに占有しうる状態が多いことを意味する。DOS がゼロとなることは、系がそのエネルギー準位を占有しえないことを意味する。一般的に DOS とは、空間的および時間的に平均されたものを言う。局所的な変動は局所状態密度 (local density of states, LDOS) と呼ばれ区別される。
量子系において、波もしくは波動的粒子は系によって定まる波長と伝播方向をもつモードもしくは状態を占める。特定の状態のみが許容されることも多く、系によっては物質の原子間距離と原子核電荷により特定の波長の電子のみが存在を許容される場合もある。また、物質の結晶構造により波が一方向にのみ伝播を許容され、別の方向への伝播が抑制されるような系もある。したがって、特定の波長においては多くの状態が許容され、別のエネルギー準位には全く許容される状態が存在しないということがありうる。量子系により、電子や光子、フォノンの状態密度をエネルギーもしくは波数ベクトル k の関数として計算することができる。DOS を表わす記号としては、g, ρ, D, n, N などが用いられる。エネルギーの関数としての DOS と波数ベクトルの関数としての DOS の間の変換は、系ごとに決まる E と k との間の分散関係が分かっていれば行うことができる。
たとえば、半導体中の電子の状態密度は伝導帯端においては低く、電子の占有できる状態は少ない。電子のエネルギーが増えるにつれて状態密度も増加し、占有できる状態が増える。しかし、バンドギャップ中には電子の占有できる状態は存在しないため、伝導帯端の電子は別のモードへと遷移するために少くとも Eg だけのエネルギーを失う必要がある。
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状態密度
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たとえば、半導体中の電子の状態密度は伝導帯端においては低く、電子の占有できる状態は少ない。電子のエネルギーが増えるにつれて状態密度も増加し、占有できる状態が増える。しかし、バンドギャップ中には電子の占有できる状態は存在しないため、伝導帯端の電子は別のモードへと遷移するために少くとも Eg だけのエネルギーを失う必要がある。
一般的に、系の位相幾何学的性質が状態密度の主な性質を決定する。中性子星中のニュートロニウムや金属中の自由電子ガス(縮退物質とフェルミ気体の例)のような最も良く知られた系では、3次元ユークリッド空間の位相構造を持つ。より知られていない系としては、グラファイト層中の二次元電子ガスや MOSFET 型素子中の量子ホール効果系は二次元ユークリッド空間の位相構造を持つ。さらに知られていないものとしては、カーボンナノチューブや量子ワイヤ(英語版)、朝永・ラッティンジャー液体などは1次元位相幾何を持つ。1D および 2D 位相幾何を持つ系は、ナノテクノロジーと物質科学の進展につれてよりよく知られるようになると考えられる。
系が状態 i をとるときの系のエネルギーが E i {\displaystyle {\mathcal {E}}_{i}} で与えられるとき、状態密度は
で定義される。
系の状態が連続パラメータ λ で指定される場合の定義は
である。ここで μ はパラメータ λ の張る状態空間の体積を与える測度である。
古典系の状態は正準変数の組 (p, q) で指定され、系のエネルギーはハミルトン関数で与えられる。正準変数の張る位相空間の体積は、一対の dpdq ごとにプランク定数 h で割る約束で、自由度が 2f での状態密度は
となる。
状態密度をエネルギー E まで積分すれば
として、系のエネルギーが E i < E {\displaystyle {\mathcal {E}}_{i}<E} である状態の数を与える。状態数が微分可能である場合には、状態密度は
で与えられる。エネルギーが E である状態の縮退度は
で与えられる。ここで最後の等式は、積分の平均値の定理が妥当なときのみ成り立つ。
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状態密度
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となる。
状態密度をエネルギー E まで積分すれば
として、系のエネルギーが E i < E {\displaystyle {\mathcal {E}}_{i}<E} である状態の数を与える。状態数が微分可能である場合には、状態密度は
で与えられる。エネルギーが E である状態の縮退度は
で与えられる。ここで最後の等式は、積分の平均値の定理が妥当なときのみ成り立つ。
DOS 計算の行える系は多種多様である。凝縮系において重要な性質は系の微視的構造のもつ対称性である。 流体、ガラス、アモルファス固体は回転対称性のある分散関係を持つ。球対称な系では、たとえば関数の積分などは一次元となる。なぜなら、計算が分散関係の動径パラメータにのみ依存するからである。
例えば単結晶からなる系などの非等方な系においては、状態密度がある結晶学的方位と別の方位とでは異るので、角度に依存する計算および計測が必要となる。非等方な問題は計算が難しくなり、また非等方な状態密度は可視化するのも難しくなる。そのため、ある特定の点のみを計算したり、射影状態密度 (projected density of states, PDOS) を計算したりといった手法がよく用いられる。
粉末試料や多結晶試料に対する測定には、系の分散関係の定義域(一つのブリュアンゾーンとすることが多い)全体にわたる積分が必要となる。系の対称性が高い場合、系の分散関係を表わす関数の形は分散関係の定義域全体にわたって何度も繰り返し表われる。このような場合、DOS の計算は還元ゾーンのみについての計算に帰着し、相当に省力化できる。面心立方格子のブリュアンゾーンは点群 Oh の、完全八面体対称性(英語版)をもつ48重対称性を持つ。よって、ブリュアンゾーン全体にわたる積分をその48分の1の部分領域にわたる積分に帰着することができる。結晶構造の周期表(英語版)に示される通り、面心立方格子をとる元素はダイヤモンド、シリコン、白金など多く、これらのブリュアンゾーンおよび分散関係は48重対称性を持つ。
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状態密度
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良く知られている結晶構造として、体心立方格子と六方最密充填格子の二つが挙げられる。体心立方格子は点群 Th の24重黄鉄鉱型対称性(英語版)を持つ。六方最密充填格子は点群 D3h の12重プリズム二面体対称性(英語版)を持つ。点群の対称性の特性の網羅的リストについては、点群指標表(英語版)を参照のこと。
一般に、対称性が高く位相的次元の低い系ほど DOS の計算は容易である。回転対称性のある分散関係の状態密度は解析的に計算可能であることが多い。鋼やシリコンなど、実用上の興味の対象となる物質は高い対称性を持っていることが多いので、このことは幸運である。
状態密度は対象の次元に依存する。次元の果たす役割は、DOS の単位 (EnergyVolume) からも明らかである。系が二次元的になる極限において体積は面積となり、一次元的となる極限においては長さとなる。ここでいう体積とは波数空間上の、分散関係から導かれる等エネルギー面(英語版)で囲われる領域の体積であることに注意が必要である。固体中の電子の分散関係はバンド構造を成している。三次元的波数空間の例を図1に示す。系の次元そのものが系内の粒子の運動量を規定することが見てとれる。
DOS を計算するにはまずある k に対して波数空間上の領域 [k, k+dk] 内に含まれる状態数 N を数える必要がある。これは、ある k に対する n 次元波数空間全体の体積 Ωn, k を k で微分することで得られる。三次元、二次元、一次元波数空間の体積、面積、長さは次のように表わされる。
ここで、 cn は波数空間の次元 n に依存して位相幾何学的に定まる定数で、一次元、二次元、三次元ユークリッド波数空間に対してはそれぞれ以下のように定まる。
この式によれば、波数ベクトル状態密度 N は Ωn, k を k で微分することにより次のように得られる。
これを一次元、二次元、三次元の場合に明示的に書き下すと次のようになる。
一つの状態は波長 λJ の粒子を含むことができる程度に大きい。波長と波数 k との間の関係式は以下のようになる。
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状態密度
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この式によれば、波数ベクトル状態密度 N は Ωn, k を k で微分することにより次のように得られる。
これを一次元、二次元、三次元の場合に明示的に書き下すと次のようになる。
一つの状態は波長 λJ の粒子を含むことができる程度に大きい。波長と波数 k との間の関係式は以下のようになる。
長さ λ の量子系は粒子を閉じ込める系の大きさ L に依存する。最後に、状態密度 N に係数 s/Vk をかける。ここで、s はスピンや偏極などの物理現象に起因する内部自由度である。このような物理現象が無い場合は s=1 となる。Vk は波数空間上の、ある k よりも小さい波数ベクトルを全て含む体積である。
DOS の計算の最後として、あるエネルギー E {\displaystyle E} に対して 定まる区間 [E, E+dE] に含まれる体積あたりの状態数を計算する。一般的な系の DOS は次のような形式となる。
ここまでの式は、分散関係が単調増加する球対称な系に対してのみ成り立つ。 一般に、分散関係 E(k) は球対称ではなく、単調増加でもないことが多い。D を E の関数として分散関係 E(k) の逆関数を用いてここまでの式中に現われていた k の関数 Ωn(k) をエネルギーの関数 Ωn(E) に置き換える必要がある。これは分散関係が球対称でなかったり単調増加しなかったりする場合は容易ではなく、ほとんどの場合において DOS は数値的に計算される。より詳細な導出もある。
粒子の運動エネルギーは波数ベクトル k の大きさと向きに依存する。たとえばフェルミ気体中の電子の運動エネルギーは以下のように得られる。
ここで m は電子質量である。この分散関係は球対称かつ単調増加であるから、DOS を容易に計算することができる。
原子鎖の縦モードフォノンの分散関係は、図2に示すような 1 次元 k 空間上の運動エネルギーについての関数となり、数式で表わすと以下のようになる。
ここで ω 0 = k F / m {\displaystyle \omega _{0}={\sqrt {k_{F}/m}}} は振動子周波数、m は原子の質量、kF は原子間に働く力の力定数、a は原子間距離である。力定数が小さく、k ≪ π / a が満たされるような値である場合は分散関係は線形となる。
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状態密度
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ここで ω 0 = k F / m {\displaystyle \omega _{0}={\sqrt {k_{F}/m}}} は振動子周波数、m は原子の質量、kF は原子間に働く力の力定数、a は原子間距離である。力定数が小さく、k ≪ π / a が満たされるような値である場合は分散関係は線形となる。
k ≈ π / a の場合は以下のようになる。
変数変換 q = k − π/a を施して q が小さくなるとき、分散関係は以下のように書ける。
ここで言及した二つの例は次のように書ける。
この種の分散関係はエネルギーが波数ベクトルの長さのみに依存し、向きに依存しないため等方的な分散関係といえる。このとき逆に、波数ベクトルの大きさはエネルギーを用いて以下のように書ける。
また、k よりも小さい波数ベクトルを含む n 次元 k 空間上の体積は次のように書ける。
したがって、等方的分散関係から、被占有状態の体積は以下のように書ける。
この体積をエネルギーで微分すれば等方的分散関係に対する DOS を得ることができる。
フェルミ気体中の自由電子などのように分散関係が放物線を描く (p = 2) 場合、n 次元系における状態密度 D n ( E ) {\displaystyle D_{n}\left(E\right)} は以下のようになる。
ここで E > E 0 {\displaystyle E>E_{0}} とし、 D ( E ) = 0 {\displaystyle D(E)=0} と E < E 0 {\displaystyle E<E_{0}} の場合はする。
1 次元系では DOS は E が E0 に落ちる際に発散する。2 次元系では E に依存しなくなる。3 次元系では状態密度はエネルギーの平方根に比例して増加する。
係数部分を全て書き下すと、3 次元系における DOS は以下のように書ける。
ここで V は総体積であり、N(E−E0) には2重のスピン縮退を含む。
光子や音響フォノン、特定の固体中の電子バンドのように分散関係が線形 (p = 1) のとき、1、2、3 次元系におけるエネルギーに対する DOS はそれぞれ以下のようになる。
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状態密度
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係数部分を全て書き下すと、3 次元系における DOS は以下のように書ける。
ここで V は総体積であり、N(E−E0) には2重のスピン縮退を含む。
光子や音響フォノン、特定の固体中の電子バンドのように分散関係が線形 (p = 1) のとき、1、2、3 次元系におけるエネルギーに対する DOS はそれぞれ以下のようになる。
状態密度は固体中の運動エネルギー理論において重要な役割を果たす。状態密度と確率密度分布との積は熱平衡状態にある系について、あるエネルギーにおける単位体積あたりの被占有状態数を与える。この値は物質の様々な物性を調べる際に広く用いられている。ここで、確率密度分布と状態密度からどのように物性を得るかの例をいくつか挙げる。
フェルミ・ディラック統計: 図4に示すフェルミ・ディラック分布は、熱平衡状態においてフェルミオンが特定の量子状態を占有する確率を与える。フェルミオンはパウリの排他律に従う粒子であり、例えば電子、陽子、中性子などが挙げられる。この分布関数は次のように書ける。
μ は化学ポテンシャル(T = 0 の場合フェルミ準位と呼び EF と書く)、kB はボルツマン定数、T は温度である。図4に示す、フェルミ・ディラック分布関数と3次元半導体の状態密度の積がキャリア密度やエネルギーバンドギャップなどの物性についての知識を得るために用いられる。
ボース・アインシュタイン統計: ボース・アインシュタイン分布関数は熱平衡にある系においてボソンがある量子状態を占有する確率を表わす。ボソンはパウリの排他律に従わない粒子で、例えばフォノンや光子が挙げられる。この分布関数は以下のように書ける。
これら二つの分布関数から、内部エネルギー U、粒子数 n、比熱容量 C、熱伝導率 k を計算することができる。 これらの物性値と、密度関数と分布関数との関係式は、状態密度を D(E) ではなく g(E) と書くと、以下のようになる。
d は次元数、ν は音速、Λ は平均自由行程である。
状態密度は物理学の多くの分野で登場し、量子力学的現象の説明の助けとなる。
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状態密度
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これら二つの分布関数から、内部エネルギー U、粒子数 n、比熱容量 C、熱伝導率 k を計算することができる。 これらの物性値と、密度関数と分布関数との関係式は、状態密度を D(E) ではなく g(E) と書くと、以下のようになる。
d は次元数、ν は音速、Λ は平均自由行程である。
状態密度は物理学の多くの分野で登場し、量子力学的現象の説明の助けとなる。
微視的構造に対して状態密度を計算すると、次元が減るにつれて電子の分布が変化することがわかる。特定のエネルギー領域において量子ワイヤー(英語版)の DOS は、バルク半導体の DOS に比べて実際に高くなり、量子ドットの DOS は特定のエネルギーに量子化される。
光の波長スケールの繰り返し構造を用いると光子の状態密度を操作することができる。構造によっては特定の色(エネルギー)の光を完全に禁止し、DOS がゼロとなるエネルギー領域、フォトニックバンドギャップを作り出すことができる。また、別種の構造ではある方向にのみ光の伝搬を抑制し、鏡、導波管、発振器を構成することもできる。このような繰り返し構造をフォトニック結晶と呼ぶ。ナノ構造を施した媒質では状態密度よりも場所ごとに異なる局所状態密度 (LDOS) の考え方のほうがより適している。
化合物や生体分子、高分子など、興味の対象となる系は一般的に複雑である。これらの系は解析的に状態密度を計算するには複雑すぎ、ほとんどの場合それは不可能である。高精度の状態密度をコンピュータシミュレーションにより計算するアルゴリズムがいくつか知られている。その一つとしてワン・ランダウのアルゴリズムが挙げられる。
ワン・ランダウ法の枠組みの中では、状態密度に関する事前知識は一切必要がない。まず系のコスト関数(たとえばエネルギー)を離散化し、階級 i に到達するごとに状態密度のヒストグラム g(i) を次のように更新する。
ここで f は修正因子である。この階級に特定の回数 (10–15) だけ到達するごとに修正因子は何らかの基準により減少させる。例えば以下のように処理する。
ここで n は更新が n 回目であることを示す。特定の閾値に修正因子が到達したとき、たとえば fn < 10 となったときにシミュレーションを終了する。
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状態密度
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ここで f は修正因子である。この階級に特定の回数 (10–15) だけ到達するごとに修正因子は何らかの基準により減少させる。例えば以下のように処理する。
ここで n は更新が n 回目であることを示す。特定の閾値に修正因子が到達したとき、たとえば fn < 10 となったときにシミュレーションを終了する。
ワン・ランダウ法はマルチカノニカル法やレプリカ交換法などに比べていくつかの利点を持っている。たとえば、状態密度がシミュレーションの主目的として算出される。また、ワン・ランダウ法は完全に温度非依存である。この性質により、タンパク質のような非常にでこぼこしたエネルギー地形を持つ系に対しても状態密度を計算することができる。
数学的には、状態密度は被覆写像を用いて形式化することができる。
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単位胞
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単位胞(たんいほう、英語: unit cell)とは、結晶中の空間格子の格子点がつくる繰り返し単位のことである。単位格子(たんいこうし、英語: unit lattice)とも言う。
格子点の位置に物質中の原子がある必要はない。物質中のどこか一点を代表させ、この点を平行移動させて、元の点と周りの環境が同一の点を格子点と呼ぶ。結晶構造では、格子点が周期的に存在している。つまり、3次元空間における格子点は
R n = n 1 a + n 2 b + n 3 c {\displaystyle {\boldsymbol {R}}_{n}=n_{1}{\boldsymbol {a}}+n_{2}{\boldsymbol {b}}+n_{3}{\boldsymbol {c}}}
で表される(n1, n2, n3 は整数)。単位胞の頂点から伸び、単位胞の3つの稜を成す3本のベクトル〈a, b, c〉は3次元空間における基本並進ベクトルである。基本並進ベクトルの成す角、α=∠bc, β=∠ca, γ=∠ab と a, b, c は単位胞の格子定数と呼ばれる。単位胞の平行六面体はこの格子定数で規定され、結晶構造は単位胞によって隙間なく重なりなく敷き詰められる。
単位胞の取り方は無数にある。繰り返し単位の内、面積が最小になる単位胞を基本単位胞(primitive unit cell)あるいは基本単位格子(primitive unit lattice)と呼び、それ以外を慣用単位胞と呼ぶ。慣用単位胞には体心格子、面心格子、底心格子が含まれる。
基本単位胞のうち、距離 a, b, c が最短になるように選択したものは既約単位胞と呼ばれ、その場合の α、β、γ はすべて鈍角かすべて鋭角となる。
ある空間格子が存在するとき、格子点に違いがなければ一つの空間格子に対して複数種類の単位胞を設定することが可能である。イオン結晶などの実際の結晶では、格子点に異なる原子・分子等が配置されるため単位胞の選択に対して対称性・並進性に関する制約が発生する。
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断熱近似
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断熱近似(だんねつきんじ、英: Adiabatic approximation, Born-Oppenheimer approximation)とは、原子核の動きに対し電子が即座に追随できるとした近似。カー・パリネロ法においては、この近似が成り立っていることが大前提である。現実の化学反応等では、断熱近似が成り立たない場合もある(非断熱遷移)。
扱う系において、原子の原子核と周りを回る電子全体のハミルトニアンをH とし、原子核部分をHnc 、電子部分をHel とすると、
であり、全体のハミルトニアンH に対する固有関数をΦとして、
とする。Ψは電子部分の固有関数、φは原子核部分の固有関数である。r は電子の位置座標、R は原子核の位置座標である。以上から、
となる。Eel は電子部分の固有値。ここで問題となるのは、上式右辺の第二項で、ハミルトニアン Hnc は、
であり(MI は原子核の質量、I は原子核を表す指標)、ポテンシャルU はΨ、φに対して可換であるが、第一項は演算子であり、またΨは R にも依るから、∇(Ψφ)の部分に着目すると、
が得られる。ここで、∇はナブラを参照。上式で右辺第二項が非断熱項の非対角部分、第三項が非断熱項の対角部分である(第一項は原子核に関しての断熱項)。非断熱項は1/MI のオーダー(MI :原子核の質量)であり、電子部分の1/m のオーダー(m :電子の質量←陽子のおよそ1800分の1の質量)の数千から数万分の一の寄与しかない。
ボルン-オッペンハイマー近似と断熱近似は厳密には違いがある。
しかし、非断熱項の対角部分の計算も現実には大変困難であり、実際に行われることはあまりない。また、ボルン‐オッペンハイマー近似と断熱近似が、ほぼ同義のものとして扱われることも多い。
非断熱項が関係するものとして、電子格子相互作用がある。関連する用語として、ボルン‐オッペンハイマーポテンシャル曲面、断熱ポテンシャル曲面(単に断熱ポテンシャル面とも言う)がある。
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マイルス・デイヴィス
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マイルス・デイヴィス(英語: Miles Davis、本名:マイルス・デューイ・デイヴィス3世(英語: Miles Dewey Davis III)、1926年5月26日 - 1991年9月28日)は、アメリカ合衆国出身のジャズトランペット奏者、作曲家、編曲家。アルバム『ウォーキン』『カインド・オブ・ブルー』『ビッチェズ・ブリュー』など多くの作品で知られている。日本には彼を「モダン・ジャズの帝王」と呼ぶジャズ・ファンやジャズ評論家もいる。いわゆるジャズの巨人の一人。クール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、クロスオーバー、ヒップホップ・ジャズなど、時代に応じて様々な音楽性を見せ、ジャズ界を牽引した。
イリノイ州オールトン生まれ。翌年にイーストセントルイスへ転居。祖父はアーカンソー州に広い土地を持ち(マイルスの父によると「複式簿記ではアーカンソーで右に出る者はいないといわれた人で、白人たちが帳簿を直してもらいに夜陰に乗じてやってきた」という)、父は音楽家を志望していたほど音楽に造詣の深い歯科医、母はピアノとヴァイオリンをマスターし、教会でオルガンの教師をしたこともあり、姉も家でピアノを弾くという裕福かつ音楽と身近な環境で育った。13歳の誕生日に父親からトランペットをプレゼントされ、演奏を始める。高校在学中の15歳のときにユニオン・カードを手に入れ、セントルイスのクラブに出演するようになる。当時のセントルイスにはアフリカ系アメリカ人の労働者の居住区が多く、ジャズライブが定期的に行われていた。そのためマイルスは多数のジャズプレイヤーを見て学んでいた。
母にプロのミュージシャンになるのに反対されていたが、16歳のころ、アイリーン・バースという少女を妊娠させ、マイルスにとって最初の結婚をし、その生活費を稼ぐ名目で音楽活動をある程度許されるようになった。
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マイルス・デイヴィス
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母にプロのミュージシャンになるのに反対されていたが、16歳のころ、アイリーン・バースという少女を妊娠させ、マイルスにとって最初の結婚をし、その生活費を稼ぐ名目で音楽活動をある程度許されるようになった。
18歳のころ、マイルスは、セントルイスにビリー・エクスタイン楽団が来たとき、病気で休んだ第3トラッペッターの代役を務め、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーとの共演を果たした。このときのことをマイルスは「バードとディズの演奏を聴いてても何が何だかさっぱりわからなかった」と語っている。彼はその後直ぐにニューヨークに出てジュリアード音楽院に入学(後、中退)。間もなくパーカーを探し当て、1年間同じ部屋で暮らしながら演奏を共にする。
1945年、ライオネル・ハンプトンの楽団に所属していたハービー・フィールズの録音に参加。公式な初レコーディングである。1947年には、パーカーやマックス・ローチのサポートを得て、初のリーダー・セッションを行う。
パーカーの元でのビバップからキャリアは始まったが、マイルスは新たな可能性を求め、1948年に編曲家のギル・エヴァンスやジェリー・マリガンらと出会う。ギルの協力を得て、後のウェスト・コースト・ジャズの興盛に多大な影響を与えた『クールの誕生』を制作。スイング時代に意欲的な活動を繰り広げたピアニスト兼バンドリーダーのクロード・ソーンヒルの音楽から受けた影響を発展させたものだった。その後もギルとは度々共同制作を行う。
1950年代に入ると、J・J・ジョンソン、ソニー・ロリンズ、ホレス・シルヴァー、ジョン・ルイス、アート・ブレイキーなどと共演するが、麻薬の問題で一時演奏活動から遠ざかる。しかしマイルスは立ち直り、1954年プレスティッジ・レコードから発表した『ウォーキン』は高く評価され、ハード・バップのトップ・アーティストとしての地位を固める。1954年12月24日にはアルバム『マイルス・ディヴィス アンド モダン・ジャズ・ジャイアンツ』でセロニアス・モンクと共演する。両者は音楽に対する考え方が相容れなかったとされ、この共演は俗に「喧嘩セッション」と呼ばれていた。しかし実際の所、このセッションは演出上マイルスが吹くときにはモンクに演奏しないよう、マイルスが指示したというだけである。
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マイルス・デイヴィス
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1955年、ジョン・コルトレーン、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズのメンバーで、第1期クインテットを結成。同年、ニューポート・ジャズフェスティバルにおいて、チャーリー・パーカー追悼のために結成されたオールスター・バンドに参加。このときの演奏がきっかけとなりコロムビア・レコードと契約。1956年に移籍第1作『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』発表。その一方で、プレスティッジとの間に残された契約を済ませるために、アルバム4枚分のレコーディングをたった2日間で行った。24曲、すべてワンテイクであったといわれる。俗に「マラソン・セッション」と呼ばれるが、連続した2日間ではなく、2回のセッションの間には約5か月のブランクがある。これらの演奏は『ワーキン』『スティーミン』『リラクシン』『クッキン』の4枚のアルバムに収録され、プレスティッジはこの4枚を毎年1枚ずつ4年かけて発売した。また、1957年にはパリに招かれ、ルイ・マル監督の映画『死刑台のエレベーター』の音楽を制作した。映画のラッシュ・フィルムを見ながら即興演奏で録音したというのが伝説になっている。
1958年にはキャノンボール・アダレイを加えて、バンドはセクステット(6人編成)になる。同年にはキャノンボールの『サムシン・エルス』に参加。また、レッド・ガーランドが退団したため、ピアノにビル・エヴァンスを迎える。ビルはバンドにクラシック音楽(特にラヴェル、ラフマニノフ)の要素を持ち込みマイルスに影響を与えたが、7か月余りで脱退。ウィントン・ケリーが代わって参加した。
1959年代表作の一つ『カインド・オブ・ブルー』を制作。その際にはビルを特別に呼び戻した。この作品でマイルスは、これまでのコード進行に頼る楽曲ではなくスケール(音列)を指標とした手法、いわゆるモード・ジャズの方法論を示した。この作品は革新的である以上に演奏の完成度が非常に高い。
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マイルス・デイヴィス
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1959年代表作の一つ『カインド・オブ・ブルー』を制作。その際にはビルを特別に呼び戻した。この作品でマイルスは、これまでのコード進行に頼る楽曲ではなくスケール(音列)を指標とした手法、いわゆるモード・ジャズの方法論を示した。この作品は革新的である以上に演奏の完成度が非常に高い。
1960年にジョン・コルトレーンがグループを脱退、他のメンバーも随時交替する。ここからしばらくメンバーは固定されず(この時期ソニー・スティット、ソニー・ロリンズ、J・J・ジョンソンらと再び共演している)、作品的にも目立ったものは少なく、ライブレコーディングが中心となっていく。1963年ジョージ・コールマン、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスがグループに参加。サックスのコールマンがサム・リヴァースに変わって間もなくの1964年7月に初来日した。同年秋にはウェイン・ショーターを迎え、マイルス、ウェイン、ハービー、ロン、トニーという第2期クインテットが確立。1968年前半までこのメンバーで活動した。途中マイルスが健康状態の悪化で活動の休止を余儀なくされる時期もあり、録音された作品はあまり多くは無かったが『E.S.P.』『マイルス・スマイルズ』『ソーサラー』『ネフェルティティ』など優れたスタジオ・アルバムと数枚のライブ・アルバムを発表した。特に前述の4作品は60年代4部作と呼ばれ、50年代のマラソンセッション4部作と並んで人気が高い。演奏面でも作曲面でも4ビートスタイルのジャズとしては最高水準まで昇りつめた5人は、「黄金クインテット」と呼ばれる。マイルス自身もこのクインテットを「偉大なバンド」と評しており、4人から学んだことも多かったと語っている。
1968年、8ビートのリズムとエレクトリック楽器を導入した、『マイルス・イン・ザ・スカイ』を発表。この年の後半には、リズム・セクションがチック・コリア、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットに交替。このメンバーによる録音は長らく公式には発表されなかったため、ファンの間では「幻のクインテット」「ロスト・クインテット」と呼ばれていたが、マイルスの死後1993年になってようやくライブ盤『1969マイルス』が発表され、黄金クインテットに劣らない高水準の演奏がようやく日の目を見ることになった。
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マイルス・デイヴィス
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1969年、ジョー・ザヴィヌル、ジョン・マクラフリンの参加を得て、『イン・ア・サイレント・ウェイ』を制作。さらに翌年にはLP2枚組の大作『ビッチェズ・ブリュー』を発表する。3人のキーボード、ギター、ツイン・ドラムとパーカッション、という大編成バンドでの演奏で、重厚なリズムとサウンドは70年代のジャズの方向性を決定づけた。この時期、マイルスはジェームス・ブラウンやスライ・ストーン、ジミ・ヘンドリックスなどのアルバムを好んで聴いていたと伝えられており、そのファンクやロックの要素を大胆にジャズに取り入れた形となった。
1970年代に入るとマイルスはファンク色の強い、よりリズムを強調したスタイルへと発展させ、ジャズ界でブームとなりつつあったクロスオーバーとは一線を画する、ハードな音楽を展開する。マイルスのエレクトリック期とは、この時期を指すことが多い。マイルスは、次々にスタイルを変えながらスタジオ録音とライブを積極的に行ったが、公式発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く発売されることになる。1972年公式に発表した『オン・ザ・コーナー』は、ファンクを取り入れたことが話題となる問題作であった。しかし、クロスオーバー・ブームで、かつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を出す一方で、こういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえなかった。
1973年と1975年に来日。この頃から健康状態も悪化、1975年の大阪でのライブ録音『アガルタ』『パンゲア』を最後に、以降は長い休息期間となる。
1980年に活動再開。ドラムのアル・フォスター以外はビル・エヴァンス(サックス)、マイク・スターン、マーカス・ミラーなど、当時それほど有名ではなかったフュージョン系の若手がメンバーとなった。1981年に復帰作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』制作。10月には新宿西口広場(現在の東京都庁)で来日公演を行った。この模様は、後日NHKテレビで放映され、ライブ盤『ウィ・ウォント・マイルス』にはその一部が収録されている。以降、1983年、1985年、1987年、1988年、1990年と度々来日した。
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マイルス・デイヴィス
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1980年代はフュージョン、ポップ・ジャズ色を強め、1981年の『マン・ウィズ・ザ・ホーン』はフュージョン色が濃かった。1985年に制作された『ユア・アンダー・アレスト』ではマイケル・ジャクソンの「ヒューマン・ネイチャー」やシンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」などを取り上げた。
1986年、長年在籍したコロンビアからワーナー・ミュージックへ移籍。同年発表の『TUTU』は、マーカス・ミラーのプロデュース(1曲のみジョージ・デュークのプロデュース)で、バンドを従えずあらかじめ出来上がったトラックの上にトランペットをかぶせるポップス・ミュージシャンのような制作スタイルを取り入れた。また、プリンスなどにも接近し、いくつかのセッションや録音をした他、ペイズリーパークでのプリンスのライブにゲスト出演している。また、コーポレート・ロックのTOTOによるアルバム『ファーレンハイト』にも、ゲストとして参加。以降も、チャカ・カーンやスクリッティ・ポリッティなど、ジャズ以外のジャンルの作品にも多くゲスト参加した。
1990年には東京ドームにて行われたジョン・レノン追悼コンサートに出演し、ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」をカバーした。さらにヒップホップのミュージシャンであるイージー・モー・ビーをゲストに迎えた新アルバムの制作を開始。
1991年9月28日午前10時40分、肺炎と呼吸不全などの合併症のため、カリフォルニア州のサンタモニカの病院で死去、満65歳没。
そのため、この新アルバムはイージー・モー・ビーにより大きく手を加えられ、『ドゥー・バップ』(1991年)としてリリースされることとなる。ヒップホップ・ジャズとも言える本作は、黒人ラジオでオンエアされるなどリスナーの評価はよかったが、未完成ということもあり当時、評論家は批判的だった。
なお、マイルス亡き後も様々な音楽・評論・出版物などで引用・評価され、様々な賞を受賞し続けている。
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マイルス・デイヴィス
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そのため、この新アルバムはイージー・モー・ビーにより大きく手を加えられ、『ドゥー・バップ』(1991年)としてリリースされることとなる。ヒップホップ・ジャズとも言える本作は、黒人ラジオでオンエアされるなどリスナーの評価はよかったが、未完成ということもあり当時、評論家は批判的だった。
なお、マイルス亡き後も様々な音楽・評論・出版物などで引用・評価され、様々な賞を受賞し続けている。
マイルスのトランペット・プレイは、ミュートを(1940年代後半〜1950年前半に使用したミュートは「カップ・ミュート」が中心で、「ハーマン・ミュート」を頻繁に使用するのは1950年代中頃から)使用し、自身の特性を考慮し、ヴィブラートをあまりかけず、跳躍の激しい演奏などといったテクニックにはあまり頼らない面が挙げられる。また、ディジー・ガレスピーのようなハイトーンを避け、中音域がトランペットにおいて最も美しい音が出る、として多用し、音から音へ移動する場合、半音階を用いている。なお、これらの奏法が「リリシズム」に例えられることがある。
作曲としては、1950年代中頃より「楽曲全体の構成」を重視した作品が多くなり、テーマの入り方にも趣向を凝らしたものが多くなった。また時にアドリブとは思えないような、尺(空間)を大胆に持たせ丁寧なメロディーラインを有したソロ演奏も見受けられた。キャノンボール・アダレイのアルバム『サムシン・エルス』の中の一曲「枯葉」における演奏は、これらの特徴が顕著に表れている。またこういった特徴と先述のミュート奏法から、1950 - 1960年代のバラードやスローテンポナンバーは総じて評価が高い。「楽曲全体の構成」に重きを置く彼の音楽性は、無駄な音を出さないという「空間性」にも繋がっていき、特にそれは後年になると音楽プロデューサー的な役割となって彼の音楽性に強く表れていった。
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マイルス・デイヴィス
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楽曲上の主な特徴は、初期においては、テーマの後、それぞれが順にソロ演奏を行い、その間バックアップとして呼応したり煽ることはあっても、アドリブ演奏を同時に2つ以上ぶつけることはせず、その後、再びテーマに戻って終わるといった、ジャズでの典型的なスタイルである。1960年代以降は、テーマに戻らずに終了する作品も見られる。また、1970年代以降のステージでは、トランペットの他に電気オルガンやシンセサイザーといったキーボードを演奏することもあった。
クラシックなどのアレンジも研究し、クール・ジャズや後の完全にアレンジされたジャズにおいて、その成果が発揮された。特に、マイルスが導入したスタイルにモード (旋法)・ジャズ(Modal Jazz)がある。これらは、チャーリー・パーカーらが創出したビバップに限界を感じ、コードが導入される以前の古い教会旋法を積極的に採りいれたアルバム『カインド・オブ・ブルー』で、モード・ジャズの発端を開いた。
他にも、ブルースやロック、はたまたヒップホップなども採り入れ、ジャズを超えた、様々なジャンルの音楽に注目していた。1960年代後半は、マイルス自身ロックなど電気楽器を取り入れた音楽にも強い関心を持っていた(70年代のキャリアに於けるマイルスのトランペットにもエレクトリック・サウンドへ対応するための改造が施され、ワウ・ワウ・ペダルを駆使した唯一無二のサウンド・スタイルを確立させたのは有名である)。ジェームス・ブラウン、スライ・ストーン、ジミ・ヘンドリックスの音楽を評価し、ジミとは共同で録音する計画まであった。ただ、ジミとの共演は非公式なセッションだけで終わった。プリンス作曲の「ジェイルバイト」の音源は、未発表のままとなっている。ただし、ブートというかたちでプリンスと共演したもう一つの作品「キャン・アイ・プレイ・ウィズ・ユウ」は出回っている。この曲は元々、アルバム『TUTU』に入る予定であったが、曲調が他の収録曲と合わないため外れた。また、『ユア・アンダー・アレスト』では、スティングがナレーションでゲスト参加し、マイケル・ジャクソンやシンディ・ローパー(「タイム・アフター・タイム」)のカバーも収録している。
音楽的には柔軟で先進的な姿勢を貫いたマイルスも、フリー・ジャズは演奏せず、オーネット・コールマンを批判したこともあった。
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マイルス・デイヴィス
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音楽的には柔軟で先進的な姿勢を貫いたマイルスも、フリー・ジャズは演奏せず、オーネット・コールマンを批判したこともあった。
マイルスは、アメリカにおける人種差別問題には常に批判的であった。「白人によるアメリカ」を嫌悪しており「カストロはアメリカを批判するのに3日掛かると言ったが、俺なら2週間掛かる」と喧伝していた。マイルス自身も、人種差別の被害にあった経験があった。
また、「今生きている人間で最も大切な人を5人挙げてくれないか」とインタビューで聞かれ、「俺自身と弁護士のハロルド・ロベット、ギル・エヴァンスと妻のフランセス。あとの一人は50歳をこえたアメリカン・ニグロなら誰でもいい。みんな白人にひどい目に遭わされたのに我慢したからさ」と答えている。
しかし、音楽性の追求のためには人種は関係ないというスタンスを貫き通した。マイルスが一番の親友と称しているアレンジャー、ギル・エヴァンスには生涯に渡って強い影響を受けていた他、初期の名作『クールの誕生』にはリー・コニッツやジェリー・マリガンといった白人ミュージシャンを起用した。リー・コニッツを雇った際、当時主なマイルス音楽のリスナーだったアフリカ系アメリカ人層からは批判されたが、マイルスは「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色でも雇う」と発言したと伝えられている。
第1期クインテット時代に、一時的にビル・エヴァンスをバンド・メンバーに迎え入れ、ビルは音楽的には貢献をしたものの、客による白人バッシングに耐えきれず、わずか1年程度で脱退した。1960年代末のエレクトリック導入期には、ジョー・ザヴィヌルやジョン・マクラフリンの存在抜きには考えられないほど彼らの才能を評価していたし、その後もチック・コリアやキース・ジャレット、デイヴ・リーブマンなど多くの白人メンバーが在席した。唯一のアジア系人種として、ピアニストのケイ赤城が1989年から2年間レギュラー・メンバーとして活躍した。70年代後半の休養期にも、日本人ピアニスト菊地雅章が未発表セッションに参加していた。
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マイルス・デイヴィス
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速いものを好み常にフェラーリなどのスポーツカーを乗り回していた。また彼曰く最速のスポーツであることから、ボクシングをたしなんでいた。このスポーツカーへのこだわりは飛行機で移動すれば1時間のところを、クルマに乗ることに固執し、3時間かかってしまったことにも現れている。1980年の復帰以降は、絵を描くことに没頭し、『スター・ピープル』のジャケットは自分で描いている。
カムバック後
グラミー賞に通算8回受賞、32回ノミネートされている。またアルバム11枚がグラミー殿堂賞を受賞、本人には特別功労賞生涯業績賞が授与されている。その他ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム(1998年)、死後15年経った2006年にロックの殿堂入りを果たし、授賞式でのプレゼンターは、マイルスとグループを共にしていたハービー・ハンコックが務めた。
デンマークによって、音楽的に著しい成果を上げた人物に対して贈られる賞である。主にクラシック奏者が受賞するため、マイルスの受賞は異例であった。
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Standard Generalized Markup Language
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Standard Generalized Markup Language(スタンダード ジェネラライズド マークアップ ランゲージ、略:SGML)は、マニュアルなどの文書のためのマークアップ言語である。
1980年代、軍艦や軍用機などの際限のない高度化は、マニュアルの際限のない膨張という結果をもたらした。改良が加えられた時などにもマニュアルを書き直す作業が発生して業務の負担となっていた。このことから、マニュアルを電子化して容易に書き換えられるようにし、印刷用紙を大幅に削減することで、メンテナンスの簡素化をはかるための技術が必要とされた。
ただし、軍艦や軍用機などは数十年という長期間の保有が必要になるため、長期間にわたりデータが利用可能とならなければならない。電子文書は特定の企業のワープロソフトを用いるとそのソフトのバージョンが上がったり、最悪の場合そのソフトを開発している会社が開発を中止したり、倒産したりしてソフトウェアが無くなった場合は、今まで作成したデータが読めなくなるという問題が発生してしまう。そこで、プレーンテキストのみを用いて、「タグ」を使うことによってデータに意味を持たせることが考えられた。
1979年、IBMでプロジェクトマネージャをしていたチャールズ・ゴールドファーブ(英語版) は、Edward MosherおよびRaymond Lorieらとともに、「GML」(Generalized Markup Language) を発表し、それは「DCF」(Document Composition Facility) の名で商業化された。この成功でゴールドファーブは有名になり、IBMを退職してGMLの後継言語であるSGMLを開発することになったのである。
ISOのSGML規約は1986年の出版後2ヶ月も経たないうちにベストセラーとなった(その10年前に発売されたFORTRANのISO規約の部数を2ヶ月で超えた)。
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Standard Generalized Markup Language
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ISOのSGML規約は1986年の出版後2ヶ月も経たないうちにベストセラーとなった(その10年前に発売されたFORTRANのISO規約の部数を2ヶ月で超えた)。
SGMLは、ISOから正式に承認される以前から、すでに、アメリカ国防総省やECの公式出版事務局など、数々の公的機関で使用され始めていた。ゴールドファーブの古巣のIBM社でも導入され、同社の文書システムに大変革をおこした。ヨーロッパでもCERN(欧州原子核研究機構)など、広く採用され、例えばフランスを例に挙げると、エアバス社、SNECMA(フランス国営の航空機エンジンメーカー)およびフランス軍などで採用されることになった。
日本においては、厚生省への新薬申請のデータ形式としてSGMLが採用された。それに伴い製薬会社やその関連企業においても導入された。他にも特許庁などでも導入された。航空機産業・防衛産業、自動車産業においても海外との共同開発や部品供給時の情報交換やマニュアル・報告書の電子化などに利用されることとなった。
SGML文書を、人間が読めるように、レイアウトして表示することは、SGMLパーサという名のプログラムが行う。つまり構文解析およびレイアウトを行うプログラムである。SGMLパーサの最も初期の市販品としては、ブリュッセルのSOBEMAP社のものおよび、シカゴのDatalogics データロジックス社のものがあった。
SGMLは機能が満載されていたことにより、そのままでは全てを実装することは困難であった。また、タグの構造が原因で、パーサのアルゴリズムが比較的複雑になることも難点だった。そこで後に、SGMLを簡略化および改良した形のXMLが開発され、普及してゆくことになった。SGML文書はXML文書へと順次、変換・移行されることになった。
SGMLはこれら2つのマークアップ言語の源流であり、現在のインターネット利用者は皆SGMLの恩恵に浴しているのである。
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リズム・アンド・ブルース
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リズム・アンド・ブルース(英: rhythm and blues)は、ポピュラー・音楽のジャンルである。略称はR&B(アール・アンド・ビー)。
激しいビートに乗せて、ブルースやゴスペルに影響された歌を叫ぶように歌うのが特徴である。ロックンロールなどのジャンルにも影響を与えた。第二次世界大戦後、ニューヨークやデトロイト、シカゴ、メンフィ、フィラデルフィア、ニューオリンズのような都市でジャズやブルース、ゴスペルなどが混ざり合い、誕生した。
戦前にすでに存在した黒人音楽と関係の深いジャンルには、ラグタイム、ブルース、ジャズ、スウィング、ジャイブなどがあった。R&Bは戦前には、まだジャンルとしては確立されていなかったが、ビルボード誌上では1943年ごろには、早くも記事の中にリズム&ブルースの記述が見られた。正式に音楽ジャンル名としてビルボードが使用したのは、1947年にビルボード誌のジェリー・ウェクスラーの提案によるものである。ウェクスラーが名付けるまでは、アフリカ系アメリカ人の音楽を「レイス・ミュージック」と呼び、ビルボード誌でも順位をレイス・ミュージック・チャートとして発表していた。しかし1947年に、もう人種的視点で呼ぶ時代ではないだろう、という議論がビルボード誌編集部内でおこなわれた。後日ウェクスラーが「リズム・アンド・ブルースはどうか」と提案した事から、これが採用されている。
ロックンロールは白人のカントリーと黒人のブルースの融合から、1954年か55年ごろに生まれたとされているが、R&Bの影響も大きかった。その後、リズム・アンド・ブルースは、1960年代にはソウルミュージックとも呼ばれるようになる。当時、両ジャンルに明確な区別をつけるのは難しかった。1960年代のアメリカでは公民権運動による黒人たちの地位向上と共に、彼らのアイデンティティを高揚し、アフリカンアメリカンとしてのルーツを誇示する傾向があらわれた。ソウル/R&Bは彼らの音楽であるだけでなく、もっと幅広い黒人生活全般を示すキーワードにもなった。
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リズム・アンド・ブルース
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Motownは、1960年にスモーキー・ロビンソン&ミラクルズの "Shop Around"をヒットさせた。また南部では1961年にカーラ・トーマスの "Gee Whiz!がヒットした Staxレコードの次のメジャーヒットであるThe Mar-Keysの "Last Night"(1961年にリリース)によりメンフィスの純粋な南部サウンドをリリースするスタックス・レコードが知名度をあげた。 ジャマイカでは、R&Bがスカの発展に影響を与えた。R&B界には、サム・クックやジェームス・ブラウン、アレサ・フランクリン、オーティス・レディングらの大スターが誕生した。1970年代にはストリングスを使用したフィリー・ソウルも登場した。フィリー・ソウルの代表的なミュージシャンには、オージェイズ、ハロルド・メルヴィン&ブルー・ノーツ、ビリー・ポールらがいた。北部・東部のソウルだけでなく、1970年代にはアル・グリーンを擁したハイ・レコードのような南部のレーベルも活発に活動していた。
歌唱なしのR&Bインストルメンタルの音楽家には、ビル・ドゲット、ブッカーT&MGs、キング・カーティスや、ジュニア・ウォーカー&オール・スターズらがいた。他にもザ・JBズ、ハイ・リズム、マーキーズ、フェイム・ギャング、マッスルショールズ・リズム・セクションらも活躍した。ジュニア・ウォーカーのヒット曲には一部ヴォーカルも入っているが、フォリナーの曲をカバーした「アージェント」などは、完全にインスト曲になっている。
1960年代にリズム・アンド・ブルースはヨーロッパにも渡り、流行に敏感な若者たちの一部を虜にし、やがて彼らは自らリズム・アンド・ブルースを演奏するようになった。ヴァン・モリソンとゼムや、スティーヴ・ウィンウッドとスペンサー・デイヴィス・グループ、アニマルズらはR&Bを演奏し、レコードを発表した。こうして、リズム・アンド・ブルースは米国から世界へと広がっていった。
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リズム・アンド・ブルース
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1960年代にリズム・アンド・ブルースはヨーロッパにも渡り、流行に敏感な若者たちの一部を虜にし、やがて彼らは自らリズム・アンド・ブルースを演奏するようになった。ヴァン・モリソンとゼムや、スティーヴ・ウィンウッドとスペンサー・デイヴィス・グループ、アニマルズらはR&Bを演奏し、レコードを発表した。こうして、リズム・アンド・ブルースは米国から世界へと広がっていった。
日本でも1960年代には内田正人のキングトーンズ、和田アキ子、ザ・ボルテージ(桜井ユタカが歌唱指導)、安田明とビートフォークらが和製R&Bとして登場した。1970年以降は、大橋純子、宮本典子(mimi)、シャネルズ/ラッツ&スター、鈴木雅之、鈴木聖美らが和製R&Bの曲を録音した。その後、1980年代から1990年代には久保田利伸やバブルガム・ブラザーズがヒット曲を発表した。 小柳ゆきの「あなたのキスを数えましょう」は1990年代の代表的な楽曲だった。ブラザー・トムは、HUMAN SOUL 、REAL BLOODなどのR&Bグループを結成した。カンニング竹山は、左とん平の「ヘイ・ユウ・ブルース」をカバーしている。
やがてリズム・アンド・ブルースはより洗練された方向に発展していき、1980年代以降はブラック・コンテンポラリー(ブラコン)と呼ばれることもあった。代表的な歌手にはフレディ・ジャクソン、ルーサー・ヴァンドロスらがいたが、本来のR&Bの名にふさわしいのは、グレン・ジョーンズのような「ゴスペル・ルーツ」の歌手である。1990年代以降は、ソウルがブルース的位置づけで分離され、当時の若手のガイやジョディシィ、メアリー・J. ブライジなどがリズム・アンド・ブルース (R&B) と呼ばれるようになった。呼称は1960年代と同じであるものの、ヴォーカルやサウンドが洗練され、大きく変化してしまっている1950〜1970年代の黒人音楽を聴いてきた層にとっては、現在の「リズム・アンド・ブルース (R&B)」と呼ばれる音楽に違和感を覚える者も多い。
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Unicode
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Unicode(ユニコード)は、符号化文字集合や文字符号化方式などを定めた、文字コードの業界標準規格。文字集合(文字セット)が単一の大規模文字セットであること(「Uni」という名はそれに由来する)などが特徴である。
従来、各国の標準化団体あるいは各コンピュータメーカーによって独自に開発されていた個々の文字コードの間には互換性がなかった。ISO/IEC 2022のように複数の文字コードを共存させる方法も考案されたが、例えば日本語の漢字と中国語の漢字のように、文字が重複する短所がある。一方Unicodeは、微細な差異はあっても本質的に同じ文字であれば一つの番号を当てる方針で各国・各社の文字コードの統合を図った規格である。1980年代に、Starワークステーションの日本語化(J-Star)などを行ったゼロックスが提唱し、マイクロソフト、Apple、IBM、サン・マイクロシステムズ、ヒューレット・パッカード、ジャストシステムなどが参加するユニコードコンソーシアムにより作られた。国際規格のISO/IEC 10646とUnicode規格は同じ文字コード表になるように協調して策定されている。
Unicodeは世界で使われる全ての文字を共通の文字集合にて利用できるようにしようという考えで作られ、Unix、Windows、macOS、Plan 9などの様々なオペレーティングシステムでサポートされている。Javaや.NETのようなプログラミング環境でも標準的にサポートされている。現代の文字だけでなく古代の文字や歴史的な文字、数学記号、絵文字なども含む。
Unicode以前の文字コードとの相互運用性もある程度考慮されており、歴史上・実用上の識別が求められる場合には互換領域がとられ、元のコード→Unicode→元のコードというような変換(ラウンドトリップ変換)において、元通りに戻るよう配慮されている文字もある。しかし、正規のJIS X 0208の範囲内であればトラブルは少ないが、複数の文字集合が混在していたり、文字集合の亜種ごとにマッピング(対応づけ)が異なる文字(機種依存文字)を含んでいたりする場合、変換テーブルによるマッピングが不可逆変換となり文字化けを起こすことがある。
文字コードは、Unicode文字符号化モデルによると以下の4段階に分けられる:
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Unicode
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文字コードは、Unicode文字符号化モデルによると以下の4段階に分けられる:
その後、バイト列を、gzipなどで圧縮したり、7ビット伝送路に通すためにBase64やQuoted-printableなどで変換したりすることがあるが、これらは文字コードの管轄範囲外である。
Unicodeの文字集合の符号空間は0 - 10FFFF16で111万4,112の符号位置がある。Unicode 12.1(2019年5月7日公表)では13万7,929個 (12%) の文字が割り当てられ、65個を制御文字に使い、13万7,468符号位置 (12%) を私用文字として確保している。また、2,048文字分をUTF-16のための代用符号位置に使用しており、加えて66の特別な符号位置は使われない。残りの83万6,536符号位置 (75%) は未使用である。
文字を特定する場合にはUnicode符号位置や一意につけられた名前が使われる。例えば、アルファベット小文字の「a」はU+0061 (LATIN SMALL LETTER A)、八分音符「♪」はU+266A (EIGHTH NOTE) である。Unicode符号位置を文章中などに記す場合は "U+" の後に十六進法で符号位置を4桁から6桁続けることで表す。また、符号空間のうち代用符号位置を除く符号位置をUnicodeスカラ値という。
収録されている文字は、各国で標準として規定されている文字集合や実際に使用されている文字を持ち寄り、委員会により取捨選択されている。日本の文字については当初よりJIS X 0201、JIS X 0208、JIS X 0212を、Unicode 3.1からはJIS X 0213の内容も収録している。
また収録において、元の各文字集合内で分離されている文字は尊重するが、異なる文字集合に同一の文字が収録されているとみなされるものは、同じ符号位置に割り当てる方針を取っている。この際に集合が膨大であるという理由で、漢字について、中国、日本、韓国の各規格の漢字を統合しCJK統合漢字としたことは大きな議論となった。
現在では独自創作の絵文字の追加等、当初の目的である「各国・各社の文字コードの統合」から外れた動きも進んでいる。
Unicodeに収録されている文字については、「ブロックの一覧」を参照。
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Unicode
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現在では独自創作の絵文字の追加等、当初の目的である「各国・各社の文字コードの統合」から外れた動きも進んでいる。
Unicodeに収録されている文字については、「ブロックの一覧」を参照。
Unicodeでは文字符号化形式としてUTF-8、UTF-16、UTF-32の3種類が定められている。
UTF-8は1符号化文字を1〜4符号単位で表す可変幅文字符号化形式で、1符号単位は8ビットである。
UTF-16は1符号化文字を1〜2符号単位で表す可変幅文字符号化形式で、1符号単位は16ビットである。基本多言語面の文字を符号単位一つで、その他の文字をサロゲートペア(代用対)という仕組みを使い符号単位二つで表現する。
UTF-32は1符号化文字を1符号単位で表す固定幅文字符号化形式で、1符号単位は32ビットである。ただし、Unicodeの符号空間がU+10FFFFまでであるため、実際に使われるのは21ビットまでである。
Unicodeでは文字符号化方式としてUTF-8、UTF-16、UTF-16BE、UTF-16LE、UTF-32、UTF-32BE、UTF-32LEの7種類が定められている。それぞれの符号化形式に対応する符号化方式は表の通り。
文字符号化形式との違いは、文字符号化形式がプログラム内部で文字を扱う場合に符号なし整数として文字を表現する方法なのに対し、文字符号化方式は入出力時にバイト列として表現する方法である。UTF-8は符号単位が8ビットであるため区別する意味はない。
以下はエイプリルフールに公開されたジョークRFCである (RFC 4042)。UTF-9に関しては同名の規格が実際に検討されていた(ただし、内容は大きく異なる)が、ドラフト段階で破棄されているため重複にはならない。
以下はドラフト段階で破棄された規格案。
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Unicode
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以下はエイプリルフールに公開されたジョークRFCである (RFC 4042)。UTF-9に関しては同名の規格が実際に検討されていた(ただし、内容は大きく異なる)が、ドラフト段階で破棄されているため重複にはならない。
以下はドラフト段階で破棄された規格案。
1980年代の当初の構想では、Unicodeは16ビット固定長で、2 = 6万5,536 個の符号位置に必要な全ての文字を収録する、というもくろみであった。しかし、Unicode 1.0公表後、拡張可能な空き領域2万字分を巡り、各国から文字追加要求が起こった。その内容は中国、日本、台湾、ベトナム、シンガポールの追加漢字約1万5千字、古ハングル約5千字、未登録言語の文字などである。このようにしてUnicodeの、16ビットの枠内に全世界の文字を収録するという計画は早々に破綻し、1996年のUnicode 2.0の時点で既に、文字集合の空間を16ビットから広げることが決まった。この時、それまでの16ビットを前提としてすでに設計されていたシステム(たとえばJavaのchar型や、Windows NT・Windows 95のAPI)をなるべくそのままにしたまま、広げられた空間にある符号位置を表現する方法として、サロゲートペアが定義された。
サロゲートペア(代用対)は16ビットUnicodeの領域1,024文字分を2つ使い(前半 U+D800 〜 U+DBFF、後半 U+DC00 〜 U+DFFF)、各々1個ずつからなるペアで1,024 × 1,024 = 1,048,576文字を表す。これはちょうど16面分であり、第1面〜第16面(U+010000 〜 U+10FFFF)の文字をこれで表すこととした。加えて第0面(基本多言語面)も使用可能なので、Unicodeには合計で 1,048,576 + 65,536 - 2,048 = 111万2,064文字分の空間が確保されたことになる。Unicodeの符号空間が10FFFF16まで(サロゲート領域を除いて111万2,064文字)とされているのはUTF-16が表現可能な限界だからである。
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Unicode
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サロゲートはUnicodeの符号位置の U+010000 〜 U+10FFFF の範囲を16ビットユニットのペア(2つ)で表現する集合で、最初の16ビットユニットを前半サロゲートもしくはハイサロゲート、二番目を後半サロゲートもしくはローサロゲートと称する。ハイサロゲートは U+D800 〜 U+DBFF の範囲、ローサロゲートは U+DC00 〜 U+DFFF の範囲である。
サロゲートペアはUTF-16でのみ使われ、UTF-8、UTF-32ではすべての符号位置を符号化できるためこのような特別な処理は必要ない。
サロゲートのエンコーディングは、符号位置を C P {\displaystyle CP} 、ハイサロゲートを H S G {\displaystyle HSG} 、ローサロゲートを L S G {\displaystyle LSG} とすると次の通りに計算する。
デコーディングは、
である。
次の表は、この文字変換と他をまとめたものである。 色は、コードポイントからのビットがUTF-16バイトにどのように分配されるかを示した。 なお、UTF-16エンコーディングプロセスによって追加された追加ビットは黒で示されている。
一つの面は6万5536個の符号位置がある。
日本では2000年にJIS X 0208を拡張する目的でJIS X 0213(いわゆるJIS第3・第4水準)が制定されたが、この際、新たに採用された文字でUnicodeになかったものの一部は、BMPに収録できず、第2面への収録となった(Unicodeが最終的にJIS X 0213への対応を完了したのは2002年である)。このため、JIS X 0213収録文字をUnicodeで完全にサポートするには、追加漢字面をサポートしたOS、フォント、アプリケーションが必要となる。Shift_JISなど、Unicodeにて規定されるもの以外のエンコーディングを利用する場合であっても、JIS X 0213に対応するフォントやアプリケーションが必要である。
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常用漢字の2010年改定で追加された字のうち「𠮟」はU+20B9Fで、追加漢字面に含まれる。そのため、改定後の常用漢字完全サポートを謳う場合、Unicodeに対応していて更にこの拡張領域にも対応している必要があると言える。ただ、現状ではこの字は、JIS X 0208に含まれる(=当然、Unicode策定当初からBMPに収録されている)異体字の「叱」(U+53F1) で代用されることが多い。
1984年、ISOの文字コード規格委員会 (ISO/TC 97/SC2) は文字セットの切り替えを行わずに世界中の文字を単一の文字集合として扱える文字コード規格 (ISO 10646) を作成することを決定し、専門の作業グループ (ISO/TC 97/SC 2/WG 2) を設置し、作業を始めていた。1980年代後半にはこの作業グループにおいてさまざまな提案が検討されている。1990年になって出来あがったISO/TC 97/SC 2/WG 2作成のISO 10646の初版ドラフト(DIS 10646#DIS 10646第1版)では、漢字コードは32ビットで表現され、各国の漢字コードはそのまま入れることになった。しかし中国は漢字を各国でばらばらに符号化するのではなく、あくまで統一して扱うことを求めてこのドラフトには当初から反対しており、今後の漢字コードの方針を決めるため、WG 2は CJK-JRG (Joint Research Group) と呼ばれるグループを別途設置し、そこで引き続き検討することにした。
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このような公的機関の動きとは別に、1987年頃からXeroxのJoe BeckerとLee Collinsは、後にUnicodeと呼ばれるようになる、世界中の文字を統一して扱える文字コードを開発していた。1989年9月には「Unicode Draft 1」が発表された。ここではその基本方針として、2オクテット(16ビット)固定長で全ての文字を扱えることを目指しており、そのために日本・中国・韓国の漢字を統一することで2万弱の漢字コードを入れ、さらに将来の拡張用に、3万程度の漢字の空き領域が別に用意されていた。このドラフトは少しずつ改良を加えられながら1990年4月にUnicode Draft 2、同年12月Unicode Final Draftとなった。さらに1991年1月にはこのUnicode Final Draftに賛同する企業によって、ユニコードコンソーシアムが設立された。
1991年6月、ISO/IEC 10646による4オクテット固定長コードを主体としたドラフト「DIS 10646第1版」は、2オクテット固定長コードであるUnicodeとの一本化を求める各国により否決され、ISO 10646とUnicodeの一本化が図られることになった。また中国およびユニコードコンソーシアムの要請により、CJK-JRGにおいて、ISO 10646とUnicodeの一本化が図られることになった。CJK-JRGは各国の漢字コードに基づき独自の統合規準を定め、ISO 10646 / Unicode用の統合漢字コード表を作成することになった。CJK-JRGの会合は第1回が7月22日から24日にかけて東京で、第2回の会合が9月17日から19日にかけて北京で、第3回が11月25日から29日にかけて香港で開催された。これらの討議の結果、1991年末になって「ISO 10646=Unicode」用の統合漢字コード表が Unified Repertoire and Ordering (URO) の第1版として完成した。
Unicodeの最初に印刷されたドキュメントであるUnicode 1.0は、統合漢字表の完成に先行して漢字部分を除いたUnicode 1.0, Vol.1が1991年10月に出版され、後に1992年になって漢字部分だけのUnicode 1.0, Vol.2が出版された。
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Unicodeの最初に印刷されたドキュメントであるUnicode 1.0は、統合漢字表の完成に先行して漢字部分を除いたUnicode 1.0, Vol.1が1991年10月に出版され、後に1992年になって漢字部分だけのUnicode 1.0, Vol.2が出版された。
1992年、CJK統合漢字URO第二版が完成し、これを取り込んだ(ただし、UROには若干の間違いが発見されており、それらの修正が行われている。)DIS 10646第2版が、5月30日の国際投票で可決された。
1993年5月1日 「ISO/IEC 10646-1: 1993 Universal Multiple-Octet Coded Character Set (UCS) -- Part 1: Architecture and basic Multilingual Plane」が制定される。同年翌6月にUnicode 1.0は ISO/IEC 10646-1:1993にあわせた変更を行いUnicode 1.1となり、以後UnicodeとISO/IEC 10646とは歩調を合わせて改訂されていくことになる。
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Unicodeのバージョンは、メジャーバージョン (the major version)、マイナーバージョン (the minor version)、アップデートバージョン (the update version) の3つの部分から構成され、ピリオドでつなげて表示される。ただし、マイナーバージョン及びアップデートバージョンについては0の場合には省略して表示されることもある。メジャーバージョンはレパートリーの追加のような重要な変更が行われたときに改定される。Unicodeのドキュメントは書籍形態と電子版ドキュメント形態の両方で公表され、どちらもUnicodeについての正式なドキュメントであるとされている。新たなバージョンがリリースされたときは新たなドキュメントが公表されるが、書籍として刊行されるのはメジャーバージョンが改定された場合および重要なマイナーバージョンの改定があった場合のみである。書籍版のバージョン1.0は、2巻に分けて刊行され、統合漢字部分を除いた第1巻は1991年10月に、統合漢字部分の第2巻は1992年6月に刊行された。そのため第1巻のみのものをUnicode 1.0.0、第2巻を含めたものをUnicode 1.0.1と呼ぶことがある。
Unicodeのそれぞれのバージョン番号とその制定年月日、収録文字数他の特徴は以下の通りである。
Unicodeのバージョンには、上記のような「Unicodeの規格全体に付けられたバージョン」の他に「Unicodeを構成する個々の要素の規格に付けられたバージョン」が存在する。これに該当するものとしては、Unicodeを構成する各面ごとに付けられたバージョンや、Unicodeに収録されないこととされたスクリプトのリスト (NOR = Not The Roadmap) に付けられたバージョン、規格の一部を構成するUnicode Technical Note(Unicode技術ノート)、Unicode Technical Report(Unicode技術報告)、Unicode Technical Standard(Unicode技術標準)のバージョンなどが存在する。
Unicodeは同一のコードでもバージョンが変わったとき完全に異なった文字を定義し直したことがある。
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Unicodeは同一のコードでもバージョンが変わったとき完全に異なった文字を定義し直したことがある。
そのうち最大のものがUnicode 2.0での「ハングルの大移動」である。これはUnicode 1.1までで定義されていたハングルの領域を破棄し、新しいハングルの領域を別の位置に設定し、破棄された領域には別の文字の領域を割り当てることとなった。その後、Unicode 3.0では、従来ハングルが割り当てられていた領域にCJK統合漢字拡張A、ついでUnicode 4.0で六十四卦が割り当てられた。このように、Unicode 1.1以前でハングルを記述した文書とUnicode 2.0以降でCJK統合漢字拡張Aを記述した文書には互換性がない。JCS委員長の芝野耕司はUnicodeに日本語の漢字を収録させる議論の中で、ハングル大移動について「韓国のとった滅茶苦茶な行動」と述べている。
Shift JIS では JIS X 0201 における(日本や中国の通貨の)円記号 "¥" が 0x5C に置かれている。これを Unicode のマッピングに合わせると YEN SIGN (U+00A5) にマップされる。しかし、0x5C は ASCII ではバックスラッシュ "\" に相当し、C言語などでエスケープ文字として使われる事から、この文字のコードを変更すると問題が起きる。極端な例として、0x5C が円記号とエスケープ文字の両方の目的で使われているケース(たとえばC言語のprintf関数で printf("¥¥%d¥n", price); など)も考えられる。
そのため、Unicode を利用するアプリケーションでは、U+007F 以下のコードに関しては移動させないという暗黙のルールができている。
そうなると、Unicode 環境では円記号がバックスラッシュの表示に変わってしまうように思われるが、これは日本語用のフォントデータの 0x5C の位置には円記号の字形を当ててしまうことで対処している。これによって、日本語環境での表示上は 0x5C の位置で円記号を用いることができる。
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そうなると、Unicode 環境では円記号がバックスラッシュの表示に変わってしまうように思われるが、これは日本語用のフォントデータの 0x5C の位置には円記号の字形を当ててしまうことで対処している。これによって、日本語環境での表示上は 0x5C の位置で円記号を用いることができる。
この問題は日本語環境に限ったことではない。もともと ISO 646 上では、0x5C を含む数種の文字は自由領域(バリアント)として各国での定義を認めていた。そのため、日本語以外でも ASCII でバックスラッシュに相当するコードに異なる記号を当てているケースが多い。例えば、韓国では通貨のウォン記号 (WON SIGN, U+20A9, "₩")、デンマークやノルウェーではストローク付きO (LATIN CAPITAL LETTER O WITH STROKE, U+00D8, "Ø") などである。(後者は後の時代には、0x5C はバックスラッシュのままとし、ISO 8859 シリーズを用いることが一般化した。)
JIS X 0221 規定の JIS X 0208 と JIS X 0221 の対応表では、波ダッシュは WAVE DASH (U+301C, "〜") に対応させているが、マイクロソフトは Windows の Shift_JIS と Unicode の変換テーブルを作成する際に、JIS X 0208 において 1 区 33 点に割り当てられている波ダッシュ "〜" を、Unicode における全角チルダ (FULLWIDTH TILDE, U+FF5E, "~") に割り当てたため不整合が生じた。
この結果、macOS 等の JIS X 0221 準拠の Shift_JIS ⇔ Unicode 変換テーブルをもつ処理系と Windows との間で Unicode データをやり取りする場合、文字化けを起こすことになる。そこで Windows 以外の OS 上で動くアプリケーションの中には、CP932 という名前でマイクロソフト仕様の Shift_JIS コード体系を別途用意して対応しているケースが多い。この原因とされている Unicode 仕様書の例示字形の問題に関しては、波ダッシュ#Unicodeに関連する問題を参照すること。
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上記に加え、マイクロソフト仕様は変換時にも問題が起こる文字を以下に示す。
このうちセント・ポンド・否定については、IBMのメインフレームではShift_JISを拡張してこれらの半角版をコードポイント 0xFD-0xFF に割り当て、別途JIS X 0208からマップされた位置に全角版を収録していたため、WindowsをIBMメインフレームの端末として用いるケースを想定したといわれている。
なお、Windows Vista や Microsoft Office 2007 に付属する IME パッドの文字一覧における JIS X 0213 の面区点の表示は、上記の文字についても JIS で規定されているものと同じマッピングを使用している。
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ノイズ
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ノイズ (英: noise) とは、処理対象となる情報以外の不要な情報のことである。歴史的理由から雑音(ざつおん)に代表されるため、しばしば工学分野の文章などでは(あるいは日常的な慣用表現としても)音以外に関しても「雑音」と訳したり表現したりして、音以外の信号等におけるノイズの意味で扱っていることがある。映像に関連する文脈では雑像とも呼ばれる。西洋音楽では噪音(そうおん)と訳し、「騒音」や「雑音」と区別している。
情報の形態・分野によりノイズの具体的な例は様々である。
ノイズのスペクトルは様々だが、そのうち周波数とパワースペクトル密度 (PSD) とが両対数線形関係にあるいくつかの種類のノイズには、カラースペクトルからのアナロジーで、いくつかの分類する名前がある(カラードノイズ)。
信号の量を雑音の量で割った比を、SN比と呼ぶ。それぞれの「量」は分散(電力)で定義される。
SN比が高ければデータ伝送に対するノイズの影響は小さい。低ければ、ノイズの影響が大きく、通信効率が悪くなる。
物理量を測定する機器の雑音は測定値の小さな変動の原因となる。連続測定ではラインの変動として現れる。信号を増幅しても雑音も増幅されるので信号が雑音に比して十分大きくない場合には信号が分かりにくくなり、測定機器の感度を制約する要因になる(「感度」の項目の「検出限界」「機器の雑音と検出限界との関係」を参照)。
測定値との関係から次の3種類に分類できる。
独立した雑音が複数重なった場合はそれぞれをrms noiseで表した値の2乗の和の平方根で与えられる。
雑音は不規則な変動であるが、コンピューターによるフーリエ解析を経て、その中に含まれる波動の周波数とエネルギーとの関係をプロット(統計図表化)することが可能で、この関係をパワースペクトルと呼び、その雑音の特性を表す。
全ての波が同じエネルギーで重なっている雑音をホワイトノイズと呼ぶが、実際の雑音は低周波の成分の方がエネルギーが大きい傾向があり、ピンクノイズ、マルコフ過程等の低周波部分のエネルギーが大きいモデルをホワイトノイズに重ねて雑音を近似的に表すことが行われている。こうした雑音の特性は機器の設計や使用上の注意、雑音の軽減法等を考察する際に有用である。雑音の解析から測定の標準偏差を予測するソフトウェアも存在する。
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ノイズ
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最近はノイズキャンセリング・ヘッドフォンが商品化され、外部のノイズを遮断する事ができる。一般的な仕組みは、ヘッドフォンに内蔵されているマイクから外部の音を拾い、逆位相の音を出して打ち消すようになっている。低域周波数成分の除去に高い効果があり、工事現場や踏切などの近くでは特に有用とされている。同様の原理を用いたものに消音スピーカーがあり、室内の静粛性が重視される高級乗用車に採用事例がある。
メタリックケーブルを用いたアナログ伝送系における雑音は、一般に、伝送系内部で発生する雑音と外部から侵入する雑音に分けられ、さらに、伝送系内部で発生する雑音は、信号を伝送していない場合でも存在する基本雑音と信号伝送に伴って発生する準漏話雑音とに分けることができる。基本雑音は、通話の有無と無関係であることから、信号レベルの低いところで問題となり、一般に、大きな妨害になるものは増幅器で発生する雑音であり、その主な成分の一つは、周波数に対して一様に分布している熱雑音である。一方、伝送系の入力系の入力側に加えられた信号波形と出力側に現れる信号波形が異なる現象は、ひずみといわれる。このうち、位相ひずみは、伝送系の位相量が周波数に対して比例関係にないため、すなわち群伝搬時間が周波数により異なるため生ずるひずみであり、伝送品質に影響を及ぼす。また、非直線ひずみは、伝送系の入力と出力が比例関係にないために生ずるひずみである。伝送路中の増幅器などの非直線ひずみによる高調波及び混変調波の発生は、雑音の原因となる。
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ゲームアーツ
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株式会社ゲームアーツ(英: GAME ARTS Co., Ltd.) は、日本のゲームソフトウェア制作会社である。
1985年設立。アクションシューティングゲーム『テグザー』は、開発中のゲーム画面を見たNECより発売から半年前の最新機種PC-8801mkII SRを提供されるなど支援を受け、1985年4月に発売。海外のPCにも数多く移植され全世界累計で50万本を売り上げる大ヒットを記録するなど、その技術力を知らしめた。その後も『ファイアーホーク』や『シルフィード』などPC-8800シリーズを中心にプログラム技術を駆使したゲームを数多くリリースする。OPN、OPM、OPNA等に搭載されるCSMモードを利用した音声合成を使ったメーカーロゴ、演出があった。
家庭用ゲーム機ソフトはライセンス契約による移植タイトルのみで、発売は他社に一任していたが、1990年12月にメガドライブ版『ぎゅわんぶらあ自己中心派 片山まさゆきの麻雀道場』を自社で発売し、コンシューマゲーム市場への参入を果たした。以降メガCD、セガサターン、ドリームキャストといったセガのゲーム機向けにゲームソフトを積極的にリリース、有力サードパーティーとしての地位を確立し、セガハード専門誌、セガユーザーからも高く評価されていた。かつては、アルファ・システムやトレジャーなど他のゲーム開発会社と共同でパブリッシング専門の会社ESP(Entertainment Software Publishing)を設立していた。
メガドライブ参入後は『SDガンダムワールド ガチャポン戦士』シリーズなど他機種家庭用ゲーム機ソフトの開発も手掛けるようになり、『グランディア』の移植を機にプレイステーションにも参入。2005年10月17日からガンホー・オンライン・エンターテイメントの連結子会社となった。親会社となったガンホーの意向によりオンラインゲームの開発を行っている。また任天堂のWii用ソフト『大乱闘スマッシュブラザーズX』の開発には『グランディアIII』の開発を終えたゲームアーツのスタッフが多数参加した。
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シンガーソングライター
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シンガーソングライター(英: singer-songwriter)は、ポピュラー音楽において、自分で作詞・作曲をして歌う人を指す。音楽論評などで “SSW” と表記される場合もある。
ポピュラー音楽において自ら歌う曲の、作詞、作曲(編曲も自ら行う事がある)を自分自身で行う歌手を指す。作曲しかしない場合でも、一般的にはシンガーソングライターというのに対し、作詞しかしない場合にはシンガーソングライターとは言わないことが多い(後述)。また、自作をしていても、自演曲の中で自作曲の割合が小さい場合には、シンガーソングライターとはいわないことが多く、逆に 100%自作曲でなくても、自作曲の割合が大きい場合にはシンガーソングライターと呼ぶこともある。
楽曲の制作方法は、歌手により様々である。先に作曲、後に作詞(「曲先(きょくせん)」や「メロ先」、「はめ込み作詞」等と呼ばれる手法)という手法をとる者もいれば、逆に先に作詞、後に作曲(こちらは「詞先(しせん)」と呼ばれる)する者もいる。
「シンガーソングライター」という言葉は、1970年代初頭にアメリカでジェームス・テイラーが注目され、続いて英国でエルトン・ジョン、アメリカのキャロル・キングなどのめざましい活躍もあって、彼らが「シンガーソングライター」と呼ばれ、それが日本でも普及したもの。
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シンガーソングライター
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「シンガーソングライター」という言葉は、1970年代初頭にアメリカでジェームス・テイラーが注目され、続いて英国でエルトン・ジョン、アメリカのキャロル・キングなどのめざましい活躍もあって、彼らが「シンガーソングライター」と呼ばれ、それが日本でも普及したもの。
元々、ポップ・ミュージック(ポップス)の世界では、英米でも日本でも曲を作ることと歌うことは分業で行われていた。英米ではそれらを今日オールディーズなどと称しているが、日本でいえば歌謡曲と、どちらも基本的には分業であった。そこへ自作自演の流れを持ち込んだのはビートルズやボブ・ディランらである。1960年代には多くの自作自演のミュージシャンが高い人気を得ていた。にもかかわらず1970年代初頭、あえてアメリカで「シンガー・ソングライター」という呼び名が使われた要因は、「ロック的な狂熱とは縁の薄いパフォーマンスの価値を、歌やソングライティングを強調することで補う必要があったから」とレコード・コレクターズ誌は解説している。英米の「シンガー・ソングライター」は、「大きな夢や怒りではなく、身のまわりの出来事に目を向けた歌を作って歌う」「誠実な自己告白的の歌を歌う」というような意味合いがあった。ローリング・ストーン誌のロック史では、「シンガー・ソングライター」は映画『卒業』のダスティン・ホフマンのように、スターらしからぬスターが誕生したニューシネマの現象と関連づけて語られているという。本来の「シンガー・ソングライター」という言葉には「ロックのアンチテーゼ」のような意味があった。しかしこの言葉が日本に輸入された当時は、まだ日本でロックはメジャーになっておらず、日本での「シンガー・ソングライター」には歌謡曲のアンチテーゼとしての役割が最初は与えられていたものと考えられる。
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シンガーソングライター
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1960年代後半から1970年代前半にかけてのロック界やソウルでは社会的なメッセージ性の強いヒット曲が多く生まれた。1970年にジェームズ・テイラーはアルバム『スウィート・ベイビー・ジェームス』を発表したが、このアルバムはシンガーソングライターによるオリジナルバージョンがヒットしたことで当時としては珍しい例であり注目を浴びた。また、『ファイアー・アンド・レイン』はジェームズ・テイラーのごくごく私的な体験を告白した歌詞の曲だったが、『スウィート・ベイビー・ジェームス』に収録されたのちシングルカットされ、1970年秋に大ヒットとなりこれがシンガーソングライターブームの幕開けと言われている。
また、フォークブーム期であった1960年代末にはカナダのシンガーソングライターであるゴードン・ライトフット、レナード・コーエン、イアン&シルビア、トム・ラッシュらも米国に進出した。
日本においても、自作曲を自ら歌う歌手は古くからいた。作詞家&演者だった添田唖蝉坊なども広義ではシンガーソングライターといえるかも知れない。
1930年代には演歌師の石田一松が自作自演した「酋長の娘」をヒットさせた。広義における本格的なシンガーソングライターの嚆矢と言われる林伊佐緒は1930年代から「出征兵士を送る歌」など、自身の曲の大半を自ら作曲・歌唱した。1950年代には大橋節夫が自作曲を歌いヒットしハワイアンブームの先駆となった他、1958年には「ロカビリー3人男」と言われた平尾昌晃も自作曲「ミヨちゃん」をヒットさせた。
1960年代には森繁久彌、加山雄三、荒木一郎、市川染五郎、美輪明宏といった人気俳優が自作曲でヒットを出すというケースも出てきた。
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シンガーソングライター
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1960年代には森繁久彌、加山雄三、荒木一郎、市川染五郎、美輪明宏といった人気俳優が自作曲でヒットを出すというケースも出てきた。
歌謡曲には古くからレコード会社とプロダクションの主導により職業作家の作った楽曲を歌手が歌うという厳格な分業システムがあったが、彼ら歌手にも音楽的才能があるため作曲能力があり、知名度も相まって自作曲をリリースすることが出来た。加山のケースでいえば自身の主演作『ハワイの若大将』の劇中歌に自作曲が採用されてヒットした後、自作曲を多く歌うようになった。しかし加山は作曲のみ自分で行い、作詞は職業作詞家によるものだったため、そのほとんどがラブソングであり歌謡曲と変わりがない。後に現れた「フォークシンガー」や「シンガーソングライター」が、反体制歌や非歌謡曲を志向した点や、"自分たちの言葉で歌にしていく"と、自己表現した歌詞にも特徴があった点で異なる。また音楽的ベースも加山はグループ・サウンズであり、ロック寄りで、これも後の「シンガーソングライター」がボブ・ディランやPP&Mなど、アメリカのフォークソングをベースにしたものとは異なる。加山自身「俺は俳優。歌は趣味的なもの」と話しており、この点からも、その後の「シンガーソングライター」と系統的に繋がってはいないといえる。荒木一郎は「当時では、俺だけが純粋に作詞・作曲で、しかも商業的でなかった。そのまんまだったんだ」と述べている。岡林信康や吉田拓郎、小室等、井上陽水らは、加山らを先達とは考えてはいない。小室等は「平尾さんとかそういうとか人たちは歌謡曲に積極的に寄りそう形で出てきたシンガーソングライターだったけど、ぼくらはその糸を切ってある。彼らとは違う」「あの当時のフォークソングをはじめた連中というのは、アンチ商業主義だった」、吉田拓郎は「音楽の世界での僕の諸先輩方は、歌謡曲やグループ・サウンズですから。ソングライティングはしていない。日本の音楽界に関しては、僕の上の世代はいない。僕がいつも最初なんです」等と述べている。1960年代後半から現れたフォーク系シンガーソングライターの多くは、既存の歌謡曲とは、ほぼ無縁の活動から誕生した人たちである。
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シンガーソングライター
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「シンガーソングライター」という言葉が日本で認知されたのは1972年で、吉田拓郎のブレイク以降である。『ニューミュージック・マガジン』1972年5月号の記事には「いま、シンガー=ソングライターなんて騒がれてる連中のやっていることは~」という内田裕也の発言が見られ、同じく1972年7月に刊行された『爆発するロック』という本の中の富澤一誠とかまやつひろしの対談では、富澤が「今、話題になっているシンガー・ソングライターなんかどう思いますか」と、かまやつに質問する場面がある。1973年の「guts」1月号には、「1972年度、日本のフォーク界の大ニュース」として、「吉田拓郎、あがた森魚などのシングル盤ヒットにより、"シンガー・ソング・ライター"が日本の音楽界にクローズ・アップされた」「"シンガー・ソング・ライター"の大衆化~」といった記事が見られる。吉田拓郎がヒットを連発するに及んで、各レコード会社もプロダクションも競ってシンガーソングライターの売り出しにかかった。
1972年7月に荒井由実をデビューさせた村井邦彦は、「最初は荒井を作家として契約したが、シンガーソングライターの時代にだんだん変わっていくときだったので、荒井をシンガーソングライターとしてデビューさせた」と述べている。当時はまだ自作曲を歌い、さらにその曲をヒットさせることが珍しかったため、マスメディアも「シンガーソングライター」を大きく取り上げたと考えられる。「シンガーソングライター」という言葉が使われ始めたのは1972年以降で、それまでは特に定着した呼び名はなく、あえていえば「自作自演」という言い方をされた。
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シンガーソングライター
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「シンガー・ソングライター」という言葉が日本に入ってきた1970年代初めには、高石友也や岡林信康といった「自作自演」のフォークシンガーが若者の支持を得ていた。ただし彼らはマイナーレーベル所属であったため、レコード自体はあまり売れておらず、歌謡界のシステムを揺らがすまでには至らなかった。しかし、その後の吉田拓郎や小椋佳、かぐや姫、井上陽水ら、テレビへの出演を拒否しアルバム作品の制作とコンサート活動に重きを置く「自作自演」のフォークシンガーたちは、メガヒットを出し、また演歌や歌謡曲歌手に楽曲提供をおこなう等、長く話題を提供して世間の注目を集め、既存の芸能界に影響を及ぼすまでになった。小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるの 4人が自分たちのレコード会社「フォーライフ・レコード」を設立した1975年には、シンガー・ソングライターによるフォークがレコード・シェアの四割近くを占有した。こうして、借り物ではない、自分の言葉で、個性で、歌を唄う、表現する、シンガーソングライターが、若者たちの支持を勝ち得て定着していくことになった。彼らの多くが自ら作詞作曲した楽曲を、ギターを弾きながら歌う「ソロのフォークシンガー」であったため「シンガーソングライター=フォーク系のソロシンガー」のイメージが付いた。
一方で、当時は職業作詞家・作曲家が作るようなレベルの楽曲を歌手が容易に作れるとは思われていなかった。前述の内田裕也発言は(シンガー=ソングライターは)「ロカビリーがだんだん歌謡曲になったのと同じ。長く続かない」といった主旨だったし、富澤一誠とかまやつひろしの対談では、富澤が「ぼくから見ると、作詞・作曲・歌と三つのことをすべてうまくやるってことは、困難じゃないかと思えるんですがねえ。だから、三つのことをそれぞれプロフェッショナルがやった方が、いいものが生まれると思うんですけど」と話している。当事者の一人だった南こうせつ自身も「ブームが続くとは思ってなかった」と話しており、シンガーソングライターによるフォークブームは短命に終わるのではないかという見方もあった。しかし、1970年代に才能あるシンガーソングライターが多く続いたために、一過性のものではなく、日本の音楽界のメインストリームになっていった。
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シンガーソングライター
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特に1973年頃から、五輪真弓、金延幸子、りりぃ、荒井由実、吉田美奈子、小坂明子、小坂恭子、中島みゆきらが台頭した時、彼女たちの中にギターを持たずにピアノを弾いて歌うというような、フォーク臭の全くない者がいたため彼女らを「女性フォークシンガー」とも呼び辛く、適当な言い方がなく「女性シンガーソングライター」という言い方が非常に多く使われた。これも「シンガーソングライター」という言葉の認知度アップに影響があったと考えられる。勿論、多くの「シンガーソングライター」を輩出した「ヤマハポピュラーソングコンテスト」の功績も非常に大きい。なお、「女性シンガーソングライター」の原型は、1967年に小薗江圭子の詞に自分で曲をつけた「この広い野原いっぱい」でデビューした森山良子という見方もあるが、森山は職業作詞家・作曲家の作品や洋楽のカバー曲を歌うことが多く1970年代半ばまで"歌謡曲歌手"というイメージがついていた。
今日に繋がる「女性シンガーソングライター」の草分けは、1972年にアルバムデビューした金延幸子、五輪真弓、りりぃあたりで、「女性シンガーソングライター」による最初の大ヒット曲はヤマハポプコン出身の小坂明子が1973年12月に出した「あなた」である。シンガー・ソングライターの台頭は、職業作詞家・作曲家の安定を揺るがす存在になっていく。また歌謡曲歌手にも大きな影響を与えた。1970年代も半ばになると、フォークという言葉ではフォローできない音楽がたくさん出てきて、フォークはニューミュージックという呼び方に吸収されていった。歌謡曲のフィールドでも渡辺真知子のように自作曲で日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞するような者も出てきた。1980年以降には、シンガーソングライターの影響を受けた職業作詞家・作曲家が出てくるようになった。現在の音楽界は、シンガーソングライターたちが成し遂げた変革の上に成り立っている。
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シンガーソングライター
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小西良太郎は『スタア』1975年1月号の「歌は世につれ世は歌につれ 『不況の中の'74年歌謡曲やぶにらみ考」という記事で、「1974年10月最終週のLPレコードの売り上げは「1位『二色の独楽』(井上陽水)、2位『かぐや姫LIVE』(かぐや姫)、3位『氷の世界』(井上陽水)、4位『NSP III』(NSP)、5位『陽水ライヴ』(井上陽水)、6位『ゴールデン・プライズ第2集』(カーペンターズ)、7位『追憶』(沢田研二)、8位『オン・ステージ』(八代亜紀)、9位『ぼくがつくった愛のうた』(チューリップ)、10位『ライブ3』(五木ひろし)と、フォーク勢が上位を独占。シングル盤でも話題は豊富で、ガロ、かぐや姫、あのねのね、なぎらけんいち、海援隊、加藤登紀子・長谷川きよし、りりぃ、山本コータローとウィークエンド、NSP、ダ・カーポ、三輪車、チェリッシュ、よしだたくろうも健在で大にぎわい。このほとんどが、自作自演である。彼や彼女らは年齢的にも、感性の点でも、聞き手の若者たちと同じか、近いところにいる。それが自分に素直に手作りの歌を作っていくから、ファンの気分にフィットする率が高い。そんな要素がファン不在に近い歌作りに堕した歌謡曲プロデューサーの失点をうまいぐあいに挽回してしまったといえる。ダークホースが大当たりしたのが1974年一年のヒット曲の三分の一、若年寄り扱いになりかかった中堅どころのヒットが三分の一、残り三分の一がフォーク系という大ざっぱな計算が成り立つのだから、フォークは今や流行り歌世界の一大勢力にのし上がったとことになる。そこから、歌謡化したフォークへの異議が生まれる。このジャンルが芽を吹いたのは70年安保を控えての岡林信康や高石ともやあたりからだが、昨今のフォークの、精神不在を嘆く声が出るのもムリのない話ではある。しかしここで大事なのは、ファンをつかみはじめた"支流"を排斥することではなく、全員がそれぞれの立場から、フォークの意味を再確認し、よって来るところを踏まえ直すことだろう」などと論じている。5頁に及ぶこの記事内で、小西は一度も「ニューミュージック」という言葉を使用していないため、記事を書いたと見られる1974年暮れには音楽関係者の間でも、まだ「ニューミュージック」という言葉は普及していないものと考えられる。
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シンガーソングライター
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当初は「歌謡曲のアンチテーゼ」としての意味が含まれていた「シンガーソングライター」という言葉だったが、ニューミュージックが、フォーク以上に歌謡曲との区別がつき辛いこともあって、1970年代後半には、歌謡曲側の自作自演歌手も含め、自ら書いた歌を自ら歌う人はジャンルにかかわらず全員「シンガーソングライター」と呼ぶようになった。
所ジョージは1977年のデビュー時から"シンガーソング・コメディアン"と名乗り、1981年の週刊誌は、俳優・寺尾聰の大ヒットを"大人の味を持ったシンガーソングライター"、『男道』という自作曲のレコードを出したプロ野球選手・松岡弘を"プロ野球界初のシンガーソングライター誕生!"と紹介した。土田明人という本職が小学校の先生がレコードを出した時は"シンガーソングティーチャー登場"と書いている。またそれまでの「自作自演」という言い方よりも、ちょうど「シンガーソングライター」という「自作自演」そのままの意味を持つ語感のいい言葉が定着したため、単純に「歌を作って歌う人」は全員「シンガー・ソングライター」、遡って、あの人も昔、歌を作って歌っていたから「シンガー・ソングライター」と言い出したものと考えられる。こうした理由もあって現在、前述した人物の多くが、文献やネットで「シンガーソングライター第1号」「シンガーソングライターの草分け」等と紹介されている。
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シンガーソングライター
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先に挙げたように「シンガーソングライター」という言葉が使われ始めたのは1971年、1972年以降で、これ以前に活躍した前述の加山雄三や荒木一郎、1960年代後半に現れた高石友也や岡林信康といった人たちは、リアルタイムでは「シンガーソングライター」と呼ばれず、のちにそう呼ばれるようになった。高石は「フォークシンガーです。と自己紹介すると『シンガーソングライターですよね』と聞き返される。そんな大層なもんじゃないんですけど」と話している。高石にとっては「シンガーソングライター」という呼ばれ方には馴染みもなく違和感があるのか、あるいは、商業的に大きな成功を手にした1970年代以降の(一部の)「シンガーソングライター」たちは、自分たち「フォークシンガー」とは違うという意識があったのかもしれない。なぎら健壱は「(1970年代後半に出現したシンガーソングライター)と自分のやっていたフォークとの結びつきは感じられない。拓郎さんやかぐや姫には繋がりがあったかもしれないけど、それがすごくメジャーになって、商業資本と結びついて、すごく人気が出て、大きな音楽になってゆくにつれ、フォークだった部分は無くなっていったと思います。生ギターが入っていたり、曲調や歌の内容がそうだったとしても、精神そのものがフォークじゃなくなっていったと思う」などと述べている。
現在、「シンガーソングライター」を「歌手を兼ねる作曲家」と答える人はいないと思われるが、かつては違った。毎日新聞社が1978年に出した『別冊一億人の昭和史 昭和の流行歌手』という本に「ちかごろは、シンガー・ソング・ライターなどといって、自作自演する者が増えたが、戦前は大変珍しかった。とくに作曲家が、歌手を兼ねて、どちらもヒットする、などということは、まったくマレなことだった」という記述があり、ここで林伊佐緒を紹介している。林は作詞はしない作曲家兼歌手であり「シンガー・ソング・ライター」と呼ばれる以前は「自作自演歌手」は「作詞+作曲もする歌手」はもちろん「作曲だけする歌手」の両方を指していたものと考えられる。そして現在でも「作詞と作曲のうち、作曲のみしかしていない場合でも、一般的にはシンガーソングライターというのに対し、作詞のみしかしていない場合には、シンガーソングライターとは言わない」ことが多い。
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シンガーソングライター
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「ヤマハポピュラーソングコンテスト」でプロデビューしたアーティストが所属するヤマハ音楽振興会(現ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)は、ゴダイゴらが所属するABCプロモーションと共に、1979年の所属アーティスト・歌手のレコード・テープの総売上げが1969年創立以来"タレント帝国"の名をほしいままにしてきた渡辺プロダクション(ナベプロ)を抜いて1位・2位となった。これは芸能界支配構造の再編成を象徴する出来事だった。膨大な利権構造を独占する大手芸能プロを中心とする芸能共同体に反旗を翻した最も有名な事件が、先述した1975年のシンガーソングライター4人によるフォーライフ・レコードの設立であるが、これをきっかけとして芸能界の利権の仕組みを知った多くのシンガーソングライターが以降、個人事務所などを設立した。世良公則&ツイスト(のちツイスト)は最初はヤマハに所属していたが、1979年9月にヤマハから独立し、個人事務所・MRT(ミュージシャン・レヴォリューション・トレイン)を立ち上げた。出演契約の業務はヤマハに委嘱したものの原盤権や著作権を自分たちで握り、人気自体は下降していったが、利益は莫大になったといわれる。シンガーソングライターは上手くやれば、100%利益を独占することも可能といわれる。当時公表されていた長者番付の歌手部門で、ニューミュージック系のシンガーソングライターが上位を独占したのはこのような事情があった。
「シンガーソングライター」という言葉が 理由として、その答えのような阿久悠の言及が1985年の和田誠との共著の中にある。ここで阿久は「GSが流行ってきてギターが普及して、素人が曲をつくるようになりましたね。で、それからずーっとフォークの段階がきて、5年ぐらい前までは、やっぱり曲のほうが専門的で詞は誰でも書けるという意識があったわけです。字が書けますから。何となく詞らしきものはできる。その代わり、曲は専門的な知識とか才能が必要だって思い込みがあったんですけどね。近頃すっかり逆になってきちゃってね、曲の方が簡単になってきてるんですね。で、詞を書ける人がいないんですよ」と発言している。
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シンガーソングライター
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シンガーソングライターが主流となった1980年代以降はあまり見られなくなったが、かつてはラジオや歌謡誌などで一般(素人)から募集した詞に対して作曲家が曲を付けてプロの歌手が歌うということがよくあった。逆に素人から曲を募集して作詞家が詞を付けるということはなかった。こうした影響もあって、かつては作詞家は作曲家より下、「作詞だけする歌手」をシンガーソングライターとは呼べない、という感覚があったものと考えられる。
しかし2000年代頃からはむしろ作詞家が注目される機会が増えている。と言うよりも、作曲家、歌い手の功績を無視して、作詞家が時代を創ったかのような論調が増えている。また古くから存在する「作曲だけする歌手」に比べ「作詞だけする歌手」の出現は比較的最近のことで、まだ評価が定まっていないとも考えられる。この「作詞だけする歌手」は、シングルレベルでは森高千里あたりが最初と思われ、森高の歌詞を当時のマスメディアがユニーク等と好意的に紹介したことも「作詞だけする女性歌手」のその後の急増に繋がったかも知れない。金澤寿和は「重要なのは、自己表現の手段として有効に機能しているか否か。シンガーなのだから、曲を書けるのが基本。森高千里のように、作詞はするが作曲は他人任せというケースは、広義ではシンガーソングライターに当てはまるものの、敢えてそう呼びたくない。つまり、音や旋律で自分を表現する欲求を持つのが、シンガーソングライターの第一歩。更に自分自身の言葉を持っていれば、それが理想的なシンガーソングライターということになる」などと論じている。2013年『Disc Collection 日本の女性シンガー・ソングライター』という書は、「自身で作曲(作詞だけではなく)をしているシンガー」のみを掲載しており、「作詞だけするシンガー」をシンガー・ソングライターと認めていない。
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シンガーソングライター
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1980年前後に"軟弱""ネクラ"などと世間から叩かれてイメージを悪くした「ニューミュージック」という言葉に比べると、「シンガーソングライター」という言葉は好イメージが持続した。1980年に突如、漫才ブームが勃興したが、人気を集めた当時の(若手と表現された)B&B・ツービート・紳助・竜介たちは、それまでの漫才師が台本作家が書いたネタを演じていたのに比べて、自分たちでネタを書いた。これを当時のマスメディアが「彼らはそれぞれが自分たちで考えたネタで勝負。いわばシンガーソング・ライター。彼らの本音をぶつけたネタがヤングの共鳴を受けている」と、「シンガーソング・ライター」という言葉を自作自演の良い例えとして使用している。
1970年代に「シンガーソングライター」という言葉は定着したものの、1980年代以降に言われ始めた「J-POP」というカテゴリーでは、自作自演であることが強調されなくなった時期もあった。ビーイングや小室哲哉、つんく♂等のプロデューサー主導による楽曲や、バンドブーム以降のロックバンドやヒップホップグループによるグループ単位での音楽活動が目立ったため、ソロシンガーのイメージがある「シンガーソングライター」とはあまり呼ばれなかったのかも知れない。しかし現在のミュージシャンは大抵曲を自作しており、むしろ自分で曲を作らない人が少数派になっている。宇崎竜童は「ここ20年くらいは、みんながシンガーソングライターになって、演歌以外は職業作家へのオファーが少なくなりましたね。『歌謡曲』というものは一回滅びたのかなと思います」と述べている。
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シンガーソングライター
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「シンガーソングライター」という表現が使われ始めて長年が経過したが、この表現は再び誇りを持って非常に多く使われるようになった。2000年代頃よりテレビ朝日『ミュージックステーション』は、自作自演歌手をシンガーソングライターと紹介することが多く、オリコンがCDの売り上げ1位記録を「女性シンガー・ソングライターとして○○以来の快挙」等と報道したり、専門学校や音楽スクールに「シンガーソングライター科」等が置かれたりするのは、「シンガーソングライター」という言葉自体が定着しているといえる。また、モーニング娘。の市井紗耶香が「シンガーソングライターになりたい」と、モーニング娘。を卒業したり、中村あゆみのシンガーソングライターの名曲カバーアルバムの発売等は、シンガーソングライターの先人をリスペクトする事例と言える。日本経済新聞は、ポール・マッカートニーを"英シンガー・ソングライター"と紹介している。また、現在の若いシンガーは、肩書を「シンガーソングライター○○」と称したり、「○歳の時に、シンガーソングライターになろうと決めた」「生涯シンガー・ソングライター」等と話す者も多く、ベテランミュージシャンの中にも肩書を「シンガーソングライター○○」と称する人が増えてきた。2022年、松任谷由実が文化功労者に選出されたが、文部科学省は松任谷の「職名等」に「シンガーソングライター」と書いた。国からシンガーソングライターが職業として認められたと見られる。本項のシンガーソングライターの説明は"ソロ形態"と書かれているが、"職業"と置き換えてもいいのかもしれない。ホコ天上がりの元バンドマンでプロデューサーの寺岡呼人は、こうした傾向を「シンガーソングライター至上主義」と表現し「1970年代の分業制の方が結果的に後生に残るようなものを作ってる気がする」と疑問を呈している。寺岡は「シンガーソングライターという言葉の持つ意味合いがどんどん変わってきているなと感じる。もともとは『歌謡曲をぶっつぶそう』みたいな形でシンガーソングライターが出てきて、専業の作家やアレンジャーを追い払っていったと思うんです。でも今いろんな人たちと仕事していると、自分で歌う歌詞が直前までできあがっていないみたいなのって本末転倒だな(プロデューサーと最初から共同作業をしようとしている)と思う」などと話している。
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シンガーソングライター
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ライブハウスやストリートなどで活躍しているアーティストの中にも、インディーズ事務所に属するしないを問わず、多数のシンガー・ソングライターと自称する若者達もいる。自らの演奏と歌声でメッセージをダイレクトに観客に伝えるというこのムーブメントに関わる個々のアーティストの動機・年齢層は様々で、メジャーデビューを夢見る者、趣味として続けていく者など多岐にわたる。また、この背景にはかつて音源の制作やその音楽配信が膨大な資本と組織を必要としたのに対し、インターネットによる様々な技術やサービスによって音楽配信が個人もしくは小規模のレーベル等のレベルで可能になったことが大きい。これらの事が「次世代のシンガーソングライター」を産み出す要因となりつつある。
なお演歌業界では、21世紀に入ってからも作曲家・大御所歌手への弟子入りなどを経てデビューという事実上の徒弟制が残っており、吉幾三のように自分で作詞作曲できる一部の例外を除き、多くの歌手がベテランになっても師匠や外部から曲を貰えるのを待つしかない状態である。
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4月1日
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4月1日(しがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から91日目(閏年では92日目)にあたり、年末まであと274日ある。
日本や一部の国では4月1日は会計年度・学校年度の初日である。この日は政府機関、企業などで多くの制度の変更、新設、発足が行われ、異動や新入学など大きな変化が起こる日である。 運用の都合で先の変化が4月の第1週や4月1日を含む3月の最終週の月曜日に行われることもあり、また会計年度を任意に設定することが可能な民間企業では4月以外を節目にしている場合もある。
日本においては、学齢期が満6歳に達した日の翌日以後における最初の「学年の初め」から始まる。ここでいう「学年の初め」とは4月1日である。
1902年(明治35年)に公布された年齢計算ニ関スル法律により、年齢計算は誕生日前日の午後12時に加齢することになっている。
6年前の4月1日に生まれた子どもは法律上、6歳の誕生日前日の3月31日午後12時をもって6歳となる。したがって、満6歳に達した日(3月31日)の翌日(4月1日)以後の「学年の初め」は、その年の4月1日ということになり、前年生まれの者と同じ学年に組み入れられる早生まれには、4月1日生まれの者も含まれることになる。
つまり「1学年」は4月2日生まれから翌年4月1日生まれの者で構成されることになる(詳しくは、学齢#早生まれ、年齢計算ニ関スル法律#本法の適用、満年齢を参照のこと)。
同様に日本の義務教育は法律上、年度初日時点で6歳以上15歳未満(6歳から14歳まで)となっており、 6年前の4月1日に生まれた人から15年前の4月2日に生まれた人までとなる。
このため、この日に生まれた人は必ず学年の中では最年少になる。
有名なのは、1968年(昭和43年)4月1日生まれで元プロ野球選手の桑田真澄であり、PL学園高等学校在学時代に同学年で1967年(昭和42年)8月18日生まれの清原和博とのKKコンビが話題になった(桑田清原世代、KKドラフト事件を参照)。
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俳優
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俳優(はいゆう、英: actor)は、演劇・映画等において、その人物に扮して台詞・身振り・表情などで演じる人のこと。またその職業。役者(やくしゃ)とも呼ばれる。
上で「演劇・映画等において、その人物に扮して台詞・身振り・表情などで演じる人のこと」という広辞苑の定義文を挙げた。「演劇・映画 等」というのは、演劇・映画・テレビドラマ・ミュージカルなどがある。俳優は別の短い言い方をすると「役を演じる人」のことである。
ギリシア悲劇は、はじめ1人の俳優によって演じられていた。その後アイスキュロスが俳優を2人に増やし、ソポクレースが3人に増やしたと伝えられている。古代ギリシアの俳優というのはポリスから報酬を得ていた。
古代ローマやヨーロッパの中世では、俳優の数は少なかったという。だが、15世紀のフランスおよび周辺国では聖史劇(神秘劇)が流行しており、旧約聖書・新約聖書に題材を得てイエス・キリストの生誕・受難・復活の物語が演じられ、街の中心にある聖堂前の広場などで、地元の住民などが臨時の俳優となって参加する形で、数日間にわたり上演される、ということが各地で行われていた。
16世紀になると、コメディア・デラルテという仮面を用いる歌・踊りを交えた即興劇が流行するようになり、俳優が職業として成立するようになった。男性の俳優が主に活動していたのであったが、16世紀末の段階でイタリアやフランスで職業的女優も登場するようになった。ただしイギリスに目を向けると16世紀ではまだおらず、例えばエリザベス朝演劇においては女の役は少年が女装して演じていたのであり、職業的女優が登場するのは17世紀後半になってからのことであった。
俳優の社会的地位というのは概してかなり低いものだった。が、19世紀になると俳優の社会的地位は向上する傾向が生まれ、イギリスではナイトの称号を授けられる者まで現れた。
俳優という漢字表現については、『字通』(平凡社)によれば〔荀子、王覇〕に「俳優侏儒(しゆじゆ)」という表現があり、また〔韓非子、難三〕には「俳優侏儒は固(もと)より人主の與(とも)に燕(たの)しむ所なり」という表現がある(親字「俳」の項)。つまり、漢籍での表現が、日本語表現よりはるかにさかのぼる。
『話のネタ』という本では、日本語の「俳優」という語は坪内逍遥によるもの、と書かれた。
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俳優
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俳優という漢字表現については、『字通』(平凡社)によれば〔荀子、王覇〕に「俳優侏儒(しゆじゆ)」という表現があり、また〔韓非子、難三〕には「俳優侏儒は固(もと)より人主の與(とも)に燕(たの)しむ所なり」という表現がある(親字「俳」の項)。つまり、漢籍での表現が、日本語表現よりはるかにさかのぼる。
『話のネタ』という本では、日本語の「俳優」という語は坪内逍遥によるもの、と書かれた。
俳優は、それぞれの特色や得意な分野に着目してキャスティングされたり、ジャンル分けされることがある。しかし、このジャンル分けに明確な基準はなく、流動的である。
俳優をその主な活動範囲に注目して分類することがあり、「舞台俳優」「映画俳優」「テレビ俳優」「ミュージカル俳優」などといった分類が行われることがある。
欧米では主にコメディ映画・ドラマで演技を行う人はコメディアンと分類されている。
舞台演劇を中心に活動している俳優が舞台俳優である。映画俳優とは、もっぱら映画に出演している俳優のことで、米国・ハリウッドには多数存在する。「テレビ俳優」とはもっぱら劇場公開されないテレビドラマばかりに出演している俳優で、棲みわけのはっきりしている米国では舞台俳優、映画俳優のほかに「テレビ俳優」も区別され成立している。米国では他の職業同様に、俳優業も厳格な契約によって成立しており、映画やテレビの世界では細かな職業分類がなされて法的な権利の確保や職種別の労働組合活動が行われてきた歴史があり、契約書で書かれたこと以外は一切しない、それをさせたら違法とされ裁判沙汰になるのが通例である。米国の映画俳優は原則的にテレビ広告にも出演しない。
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俳優
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俳優は男性であることが当然視されていた時代があったので、例外的な女性の俳優を特に女優(じょゆう)と呼び分けていた時代もあった。そして女優が登場した時代以降に、男性の俳優をレトロニムで男優(だんゆう)と呼ぶことも行われた。現在でも俳優の性別に着目して「女優」「男優」という分類がされることもあるが、現代では性差別は良くない、という認識も広まってきているので、そういう呼び分けは避けて性差を強調しない「俳優」という呼び方で首尾一貫して通す場合もある。英語圏でも「actor」をジェンダー中立的な用語として男女問わずに使い、従来の「actor(男優) / actress(女優)」という呼び分けを廃する動きがあるほか、演劇などの分野では男女問わず舞台俳優を「player」と呼ぶ習慣がある。
男性のみの俳優で催す歌舞伎の場合は「立役」「女形」と呼び分けられる。一方、女性のみの俳優で催す宝塚歌劇団では「男役」「娘役」がある。ただし、例えばNHKの場合は、「俳優」と男女差別せずに言及される。なお、日本においては「女優」が女性俳優を指す用語として広く用いられているのに対し「男優」という語が用いられることは少ない。ただしアダルトビデオ業界ではAV女優、AV男優と呼ぶ習慣がある。
様々な分類がありうるが、たとえば二枚目俳優、性格俳優、喜劇俳優、悪役俳優、アクション俳優、老け役俳優、個性派俳優(怪優(かいゆう))、子役、脇役俳優、端役俳優(チョイ役俳優)、エキストラ俳優、スーツアクター、プライベートアクター、美人女優、脱ぎ女優、動物俳優などがある。 日本では名題役者、時代劇俳優、剣劇俳優、大部屋俳優などという分類もある。
また俳優はキャリアの長さに応じて、大御所俳優、中堅俳優、駆け出し俳優、新人などに分類されることもある。
アニメや洋画の吹き替えなどに声だけで出演する俳優は声優と称される。ただし、俳優でもナレーションなどで顔を出さない作品も存在する。逆に声優でも舞台やテレビ等で顔を出して出演することもあり、線引きが曖昧になっている。
職業俳優の業務は、観客に公開することを目的とした劇作品を製作するために、その脚本(シナリオ)に基づき、プロデューサー・演出家・映画監督などの指導・指示の下、共演者や製作スタッフなどと協力して、その上演や撮影にあたって、与えられたキャスト(配役)を演じることにある。
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俳優
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職業俳優の業務は、観客に公開することを目的とした劇作品を製作するために、その脚本(シナリオ)に基づき、プロデューサー・演出家・映画監督などの指導・指示の下、共演者や製作スタッフなどと協力して、その上演や撮影にあたって、与えられたキャスト(配役)を演じることにある。
俳優業は、まず自身の役を得ることが、ひとつの大仕事となる。ハリウッドでは一般的に、主要な役はすべてオーディションによって選ばれる。まずオーディションで選ばれないことには、俳優としての仕事が始まらない。大物俳優もオーディションに応募し、ひとつの役を巡って数倍から数十倍や数百倍におよぶ厳しい倍率の競争を勝ち抜いて役を得る。大物俳優もそうしたオーディションへの応募を年中繰り返すことでひとつひとつ自分の仕事を得ており、それを止めると仕事がパタリと無くなってしまう。
俳優の中には、ある役で高く評価されて人気が出る人も(ごく少数ではあるが)いる。大きく評価を受けた役を「当たり役」と呼ぶ。運よく類似の役が次々と出てくるようなことがあれば、その役を回してもらいやすくなり(指名してもらいやすくなり)、そうした「流れ」のようなものができて役獲得の労苦を免れる日々を人生の一時期過ごす俳優もわずかだがいる。
役を得た後の俳優の仕事の流れは、国・現場の種類・監督などによって異なっている面がある。香港映画ではしっかりした脚本が存在せず、あくまで監督の心に作品概略やアイディアだけがあり、俳優に事前に脚本が与えられず、主に撮影現場で監督が台詞を(思いつきで)与え、俳優の動作を指示しつつ撮影を進めてゆくことが多い。インド・ボリウッドでは、脚本がしばしば存在せず、撮影現場で監督の思いつきでストーリーが作られ台詞が与えられ、しかもボリウッド映画の定番である集団ダンス・シーンでは、ダンス担当監督が現場で自身の身体を使って手本を一度だけ見せ、主演俳優から多数の脇役(エキストラ・ダンサー)までが、それを見て一発で見事に模倣し撮影する、ということを次々と繰り返しつつ撮影が進む。日本では、上質の演技を行うために、通常は脚本が事前に渡され、俳優はそれを読み込み、役作りの上、打ち合わせ・稽古・リハーサルなどを繰り返すといった膨大な下準備を行い、その上で本番の演技を行う。
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俳優
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舞台や撮影は一般に、きわめて多人数の人々が携わることによって成立している。一般に俳優ひとりが欠ける(「穴をあける」)だけでも舞台や撮影が成立しなくなってしまう。したがって俳優という仕事は、病気や個人的な都合で安易に休むことができない。特に舞台は、観客と生身の俳優が一緒にいる「場」があってはじめて成立する。観客は、例えば早くからチケットを購入し、楽しみに思いつつ、さまざまな困難がある生活の中でスケジュールを調整した上で劇場に足を運んでおり、それを裏切るわけにはいかない。また休演などという事態を引き起こすと、他の俳優にも迷惑をかけ、また観客にチケット代の払い戻しをしなければならなくなり、興行主が莫大な損失を被ることが多い。俳優が舞台に穴をあけてしまうようなことをすると、次の仕事が来なくなると言われていたり、俳優を仕事に選んだら「親の死に目にも会えない」と言われていたりする。
日本では平安時代末期に田楽や猿楽という演劇があり、これを演ずる田楽法師や猿楽法師が日本での職業的俳優のはじまりだと考えられている。
その後、能を演じる能役者が現れた。また、江戸時代初期には歌舞伎を演ずる歌舞伎役者が現れた。
明治時代になると新派や新劇と呼ばれる新しい演劇ジャンルが生まれ、それぞれのジャンルの俳優が活躍するようになった。
戦前の大スター・月形龍之介や、阪東妻三郎、大河内傳次郎といった人たちは、映画監督より圧倒的に立場が上で、監督がいちいち「先生、ここでお"アップ"1枚ちょうだいします」と言っていたという。
1950年代から1960年代にかけて五社協定という取り決めがあり、映画会社と専属契約を結んだいわゆる映画俳優は、自社製作の映画以外への出演が制限されるなど、明確に活動範囲を区分されていた。そのため初期の大河ドラマは、歌舞伎界や新劇などの俳優に頼らざるを得なかった事情がある。同時期の民放のテレビドラマも同様で、海外ドラマを輸入して放送したり、テレビ局で制作するドラマには、映画俳優以外の俳優や新人を起用することで対処していた。
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俳優
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1970年代になり、邦画の斜陽化に伴って五社協定が自然崩壊し、さらには映画会社がテレビドラマの外注先になってテレビ映画を制作するなど、映画とテレビとの垣根はほぼ消滅した。既にテレビドラマの制作現場では映画俳優に頼らないシステムが確立され、別ジャンルから俳優業に参入するケースは以前より増えた。ただし、テレビドラマにおいては俳優の実力よりも、テレビ局と所属事務所、あるいは番組スポンサーとの関係や、俳優個人の人気すなわち視聴率を取れるかどうかを重視してキャスティングすることが多く、視聴者が疑問を感じるキャスティングがされる場合もある。
現在の日本国内においてもっぱら劇場用映画に出演して生活を成り立たせることができる者は皆無に近い。つまり「映画俳優」はほぼいなくなった。
1990年代以降、テレビ局主導で映画製作が行われるケースも一般的になり、テレビドラマの制作スタイル(俳優業を本業としない者が俳優を兼業するスタイル)の領域も拡大傾向にある。一方で、俳優と名乗りながらバラエティ番組などで活動している者も多数おり、職業としての俳優という区分は曖昧になりつつある。これについて、映画俳優の設定が確立しているアメリカと違い、拘束時間が長い割に金銭的に恵まれない日本の俳優の環境のちがいの指摘もあるが、俳優個人の価値観や所属事務所の方針の問題も大きい。また、それぞれの出身の職業をあくまで本業としつつ、俳優業を含めて様々な活動を行う者もおり、マルチタレントと呼ばれる場合がある。これは評価される場合もあるが、否定的な見方をされることも多い。
俳優業は華やかな一面、厳しい世界だと言われている。俳優を志望しても俳優として食べられる(それ自体で生活を維持できる程度の収入を得られる)人はごくわずかで、収入も安定していないため、俳優として食べられるようになる段階に到達する人の数よりも、中途半端な状態で挫折してしまう人の数のほうがはるかに多い。また、一旦ある程度仕事が増えても、そのままずっと俳優でいられる保証はなく、一時的には第一線で活躍していた俳優でもその後はほとんど仕事がない人もいる。
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俳優
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日本では、歌舞伎の創始者といわれる出雲阿国のように、江戸時代初期には女性が芝居に出演していたが、寛永年間(1624年 - 1643年)に遊女歌舞伎が禁止されたため、それ以降女性が芝居に出ることは原則として不可能になった。代わって男性が女形として女性の役を演じ、この伝統が明治に入っても続いていた。1899年、川上音二郎一座に所属する川上貞奴が女形の代役として、サンフランシスコ公演にて急遽出演して成功をおさめ、これによって川上貞奴は、「日本初の女優」と呼ばれるようになった。
川上貞奴は1908年、渋沢栄一などの後援を得て東京・芝に「帝国女優養成所」を開所し、本格的に女優育成の事業を開始した。一期生には森律子、村田嘉久子などがいた。
1914年、小林一三が宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)を設立し、女性が男性役も演じる、女性による歌劇・芝居の形式も誕生した。宝塚歌劇団に所属する女優(女性団員)は「タカラジェンヌ」(宝塚とパリジェンヌの合成語)と呼ばれている。
俳優のほとんどは、統計的に見ると、他の職業に比べて平均生涯年収が低い。
ほとんど俳優は、舞台俳優であれ、テレビ俳優であれ、俳優の収入だけでは生活できない。収入の大半は不定期のアルバイトで得ている。しかもほとんどは、テレビ画面などとは関係の無いアルバイトである。俳優の変則的な時間都合を優先するために、勤務の日や時刻の変更が比較的自由なアルバイトが多い。(たとえば飲食店の皿洗い・配膳・注文受け・簡単な調理。あるいは(男性だと)ちから仕事系の引っ越しの単発アルバイト、単発で入る店舗売場・オフィス・イベント会場などの什器の運搬や組み立てなどの「軽作業」など。誰からも見られていない仕事が意外に多い。)俳優の仕事を得る可能性を残すために自由度を優先するとアルバイトの種類もそれなりに限られる。必ず決まった曜日の決まった時間帯に年中しなければならないアルバイトというのは、俳優をしたい人にはやりづらい。ハリウッドの俳優や韓国の俳優、その中でも容姿が良いことが「売り」の人の場合は、それを利用して(テレビ画面には出ていないが)バーテンダーのアルバイトをして生活費を稼ぐパターンもある(これの場合は、一応は「人から見られる」仕事ではある)。
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俳優
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テレビや映画に「ある程度」出演できるようになった俳優でも、実際には収入の主たる部分は、そうしたアルバイトである。テレビや映画に出演している俳優のリストをじっくり見れば分かることだが、たいてい出演者は数十名~数百名ほどおり、そのほとんどはいわゆる「脇役」である。観客は主役級2~3名のことばかり意識して他の(脇役)俳優を忘れてしまったり、意識からほとんど消し去ってしまっているが、俳優をしている側から見ると俳優仲間のほとんどは脇役しかしていないのである。大多数の俳優(脇役しか演じていない俳優)はアルバイトで生活費の大部分を稼いでいる。
「ある程度は出演」のレベルを超えて、「(それなりに)顔が知られている」レベルになっても、俳優は他の芸能界の職業よりも収入が低い。その原因として、1時間のバラエティ番組が、2時間程度で収録できるのに対し、1時間のドラマは撮影に1週間以上かかることや、ミュージシャンや芸人のように自分で自ら企画して仕事をするのが難しいことが挙げられる。 そのため、かなり有名になった俳優ですら、日本の俳優はドラマや映画ではなくコマーシャルのギャラで生活している。 しかし、俳優が何本ものコマーシャルに出演するのは、アジア独自の文化であり、ハリウッドの俳優の多くは、コマーシャルの収入がない。そのため、ごく一部の俳優を除き、日本の俳優より遥かに収入が少なく、大作映画のメインキャストや、地上波ドラマのレギュラーキャストもアルバイトで生計を立てているのが実情である。
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インド
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インド(ヒンディー語: भारत、英語: India) またはインド共和国(インドきょうわこく、ヒンディー語: भारत गणराज्य、英語: Republic of India) は、南アジアに位置し、インド亜大陸の大半を領してインド洋に面する連邦共和制国家。首都はデリー(ニューデリー)、最大都市はムンバイ。
西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、ミャンマー、バングラデシュと国境を接する。海を挟んでインド本土がスリランカやモルディブと、インド洋東部のアンダマン・ニコバル諸島がインドネシアやタイ南部、マレーシアに近接している。
インド本土はインド洋のうち西のアラビア海と東のベンガル湾という2つの海湾に挟まれて、北東部をガンジス川が流れている。
1947年に大英帝国から独立。世界第一位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。
インドは南アジア随一の面積(世界では7位)と世界第1位の人口を持つ国である。14億人を超える国民は、多様な民族、言語、宗教によって構成されている。国際連合(UN)の予測では、総人口は2023年に中華人民共和国を抜いて世界最大になっており、2060年代には約17億人のピークを迎えると考えられている。
南にはインド洋があり、南西のアラビア海と南東のベンガル湾に挟まれている。西はパキスタン、北東は中国とネパールとブータン、東はバングラデシュとミャンマーと地境になっている。インド洋ではスリランカとモルディブが近くにあり、アンダマン・ニコバル諸島ではタイとインドネシアとの間に海上の国境がある。
インド亜大陸の歴史は紀元前3千年紀のインダス文明に遡る。その時代において数々の最古の聖典はヒンドゥー教としてまとまっていった。紀元前1千年には、カーストに基づく身分制度が現れ、仏教とジャイナ教が起こった。
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インド
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インド亜大陸の歴史は紀元前3千年紀のインダス文明に遡る。その時代において数々の最古の聖典はヒンドゥー教としてまとまっていった。紀元前1千年には、カーストに基づく身分制度が現れ、仏教とジャイナ教が起こった。
初期の統一国家はマウリヤ朝とグプタ朝において成立したが、その後は諸王朝が南アジアにおいて影響を持った。中世ではユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、イスラム教が伝わり、シク教が成立した。北の大部分はデリー・スルターン朝に、南の大部分はヴィジャヤナガル王国に支配された。17世紀のムガル帝国において経済は拡大していった。18世紀の半ば、インドはイギリス東インド会社の支配下に置かれ、19世紀半ばにはイギリス領インド帝国となった。19世紀末に独立運動が起こり、マハトマ・ガンディーの非暴力抵抗や第二次世界大戦などのあと、1947年に独立した。
2022年、インドの経済は国内総生産(GDP)で比較すると名目では世界第5位であり、購買力平価(PPP)では世界第3位である。1991年に市場を基盤とした経済改革を行って以降、急速な経済成長をしており、新興国と言われるようになった。しかし、貧困や汚職、栄養不足、不十分な医療といった問題に今もなお直面している。労働力人口の3分の2が農業に従事する一方、製造業とサービス業が急速に成長している。国民の識字率は74.04%である。
ヒンドゥー教徒が最も多く、ムスリム(イスラム教徒)、シーク教徒がこれに次ぐ。カースト制度による差別はインド憲法で禁止されているが、現在も農村部では影響は残っている。アジア開発銀行はインドの中間層(1人1日消費額:2ドル - 20ドル〈2005年PPPベース〉)が2011年から15年間で人口の7割に達するとしている。また、アジア開発銀行と定義は異なるが、中間層(年間世帯所得5000ドル以上3万5000ドル未満)は2000年の約22%から、2017年に約50%まで上昇している。
連邦公用語はヒンディー語だが、他にインド憲法で公認されている言語が21あり、主な言語だけで15を超えるため、インド・ルピーの紙幣には17の言語が印刷されている。人口規模で言えば世界最大の議会制民主主義国家であり、有権者数は約9億人である。
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インド
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連邦公用語はヒンディー語だが、他にインド憲法で公認されている言語が21あり、主な言語だけで15を超えるため、インド・ルピーの紙幣には17の言語が印刷されている。人口規模で言えば世界最大の議会制民主主義国家であり、有権者数は約9億人である。
州政府が一定の独立性を持っているため、各州に中央政府とは別に政府があり大臣がいる。核保有国そして地域大国であり、2016年以降はモンゴルの人口に匹敵する程の世界で最も人数が多い軍隊(303万1000人〈2017年〉) を保有し、軍事支出は、2018年では、665億ドルで、GDP比で約2.4%支出しており、世界で4番目であった。
インド憲法によれば正式名称はヒンディー語のभारत(ラテン文字転写: Bhārat, バーラト)であり、英語による国名は India (インディア)である。政体名を付け加えたヒンディー語の भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)、英語の Republic of India を正式名称とする資料もあるが、実際には憲法その他の法的根拠に基づくものではない。
バーラト(サンスクリットではバーラタ)の名はプラーナ文献に見え、バラタ族に由来する。
英語(ラテン語を借用)の India は、インダス川を意味する Indus(サンスクリットの Sindhu に対応する古代ペルシア語の Hindušを古代ギリシア語経由で借用)に由来し、もとはインダス川とそれ以東の全ての土地を指した。古くは非常に曖昧に用いられ、アフリカ大陸東海岸をも India と呼ぶことがあった。
「India」は外来語であり、国際的に使用されるのは植民地時代の名残と捉えるナショナリストは、「Bharat」が正式名であるべきだと考える。2023年のG20サミットでは、インド政府が名札に「Bharat」を使用し、物議を醸した。
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インド
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「India」は外来語であり、国際的に使用されるのは植民地時代の名残と捉えるナショナリストは、「Bharat」が正式名であるべきだと考える。2023年のG20サミットでは、インド政府が名札に「Bharat」を使用し、物議を醸した。
イラン語派の言語ではインドのことを、やはりインダス川に由来する Hinduka の名で呼び、古い中国ではこれを身毒(『史記』)または天竺(『後漢書』)のような漢字で音訳した。ただし水谷真成はこれらをサンスクリットの Sindhu の音訳とする。初めて印度の字をあてたのは玄奘三蔵であり、玄奘はこの語をサンスクリット indu (月)に由来するとしている。唐代以降の中国では印度の呼称が一般的になったが、日本では古代から明治にいたるまで天竺と呼ばれた。明治期以後、日本では印度または印度をカタカナ書きした「インド」が使われるようになった。
1931年にインド国民議会が定めた3色旗を基にしたデザイン。トップのサフラン(オレンジ)色はヒンドゥー教を、または勇気と犠牲を意味する。緑色はイスラム教を、白は平和と真理を意味し両宗教の和合を表している。中央には、アショカ王の記念塔になぞらえたチャクラ(法輪)がデザインされている。なお法輪の中の24本の線は1日24時間を意味する。チャクラは、仏教のシンボルであるため、上記2宗教と合わせて、世界四大宗教のうち3つが象徴されている。
紀元前2600年ごろから前1800年ごろまでの間にインダス川流域にインダス文明が栄えた。前1500年ごろにインド・アーリア人(トリツ族、バラタ族、プール族など)がパンジャーブ地方に移住。のちにガンジス川流域の先住民ドラヴィダ人を支配して定住生活に入った。
インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特にバラタ族の名称「バーラタ(भारत)」は、インドの正式名称(ヒンディー語: भारत गणराज्य, バーラト共和国)に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。
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インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特にバラタ族の名称「バーラタ(भारत)」は、インドの正式名称(ヒンディー語: भारत गणराज्य, バーラト共和国)に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。
前6世紀には十六大国が栄えたが、紀元前521年ごろに始まったアケメネス朝のダレイオス1世によるインド遠征で敗れ、パンジャブ、シンド、ガンダーラを失った。前5世紀に釈迦が仏教を説いた。紀元前330年ごろ、アレクサンドロス3世の東方遠征(英語版)では、インド北西部のパンジャーブで行われたヒュダスペス河畔の戦いでポロス率いるパウラヴァ族が敗北したものの、アレクサンドロス軍の損害も大きく、マケドニア王国は撤退していった。撤退の際も当時の現地の住民であるマッロイ人の征服が行われた(マッロイ戦役)。紀元前317年、チャンドラグプタによってパータリプトラ(サンスクリット語: पाटलिपुत्रः、現・パトナ)を都とする最初の統一国家であるマウリヤ朝マガダ国が成立し、紀元前305年ごろにディアドコイ戦争中のセレウコス朝のセレウコス1世からインダス川流域やバクトリア南部の領土を取り戻した。紀元前265年ごろ、カリンガ戦争でカリンガ国(現・オリッサ州)を併合。このころ、初期仏教の根本分裂が起こった。紀元前232年ごろ、マウリヤ朝3代目のアショーカ王が死去するとマウリヤ朝は分裂し、北インドは混乱期に入った。
ギリシア系エジプト人商人が著した『エリュトゥラー海案内記』によれば、1世紀にはデカン高原にサータヴァーハナ朝がローマ帝国との季節風交易で繁栄した(海のシルクロード)。3世紀後半にタミル系のパッラヴァ朝、4世紀にデカン高原でカダンバ朝(英語版)が興り、インドネシアのクタイ王国やタルマヌガラ王国に影響を及ぼした。
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ギリシア系エジプト人商人が著した『エリュトゥラー海案内記』によれば、1世紀にはデカン高原にサータヴァーハナ朝がローマ帝国との季節風交易で繁栄した(海のシルクロード)。3世紀後半にタミル系のパッラヴァ朝、4世紀にデカン高原でカダンバ朝(英語版)が興り、インドネシアのクタイ王国やタルマヌガラ王国に影響を及ぼした。
これらの古代王朝の後、5世紀に、グプタ朝が北インドを統一した。サンスクリット文学が盛んになる一方、アジャンター石窟やエローラ石窟群などの優れた仏教美術が生み出された。5世紀から始まったエフタルのインド北西部への侵入は、ミヒラクラ(英語版)の治世に最高潮に達した。仏教弾圧でグプタ朝は衰退し、550年ごろに滅亡した。7世紀前半ごろ、中国の唐から玄奘三蔵がヴァルダナ朝および前期チャールキヤ朝を訪れ、ナーランダ僧院で学び、657部の仏典を故国へ持ち帰った。7世紀後半にヴァルダナ朝が滅ぶと、8世紀後半からはデカンのラージプート王朝のラーシュトラクータ朝、北西インドのプラティーハーラ朝とベンガル・ビハール地方のパーラ朝が分立した。パーラ朝が仏教を保護してパハルプールの仏教寺院(現在はバングラデシュ領内)が建設され、東南アジア各地のパガン仏教寺院、アンコール仏教寺院、ボロブドゥール仏教寺院の建設に影響を与えた。日本でも同時期に東大寺が建立された。
10世紀からラージプート王朝のチャンデーラ朝がカジュラーホーを建設した。
11世紀初めより、ガズナ朝、ゴール朝などのイスラム諸王朝が北インドを支配するようになった。一方、南インドでは、10世紀後半ごろからタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄した。11世紀には中国(当時は北宋)との海洋貿易の制海権を確保する目的で東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国に2度の遠征を敢行し、衰退させた。
13世紀にゴール朝で内紛が続き、アイバクがデリー・スルターン朝(奴隷王朝)を興してデリーに都を置き、北インドを支配した。バルバンの治世から、中央アジアを制覇したモンゴル帝国の圧力が始まった。
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13世紀にゴール朝で内紛が続き、アイバクがデリー・スルターン朝(奴隷王朝)を興してデリーに都を置き、北インドを支配した。バルバンの治世から、中央アジアを制覇したモンゴル帝国の圧力が始まった。
14世紀初頭にデリー・スルターン朝(ハルジー朝)がデカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。アラー・ウッディーン・ハルジーの治世にはモンゴル帝国系のチャガタイ・ハン国が度々侵攻してきた。デリー・スルターン朝(トゥグルク朝)は、内紛と1398年のティムールによるインド北部侵攻で衰退し、独立したヴィジャヤナガル王国やバフマニー朝(その後にムスリム5王国に分裂した)へと覇権が移った。
14世紀前半から17世紀半にかけてデリー・スルターン朝から独立したヴィジャヤナガル王国が南インドで栄え、16世紀前半クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王の統治の下、王国は最盛期を迎えた。しかし、1565年にターリコータの戦いでデカン・スルターン朝に負け、ヴィジャヤナガル朝は衰退していき、王国最後の名君ヴェンカタ2世(位1586 - 1614年)の奮闘も空しく、その没後に王国は滅亡した。デカン・スルターン朝もその後はお互いに争うようになり、ムガル帝国がムスリム5王国全域を支配した。
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インド
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16世紀、ティムール帝国の末裔であったバーブルが北インドへ南下し、1526年にデリー・スルターン朝(ローディー朝)を倒して ムガル帝国を立てた。ムガルはモンゴルを意味する。ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国であった。第3代皇帝のアクバルは、インドの諸地方の統合と諸民族・諸宗教との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。しかし、第6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派のイスラム法(シャーリア)に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発した。彼は反乱を起こしたシーク教徒や、ヒンドゥー教のラージプート族(マールワール王国、メーワール王国)や、シヴァージー率いる新興のマラーター王国(のちにマラーター同盟の中心となる)を討伐し、ムスリム5王国の残る2王国すなわちビジャープル王国(1686年滅亡)とゴールコンダ王国(1687年滅亡)を滅ぼして帝国の最大版図を築いた。このころ、ダイヤモンド生産がピークを迎えた。インド産は18世紀前半まで世界シェアを維持した。
アウラングゼーブの死後、無理な膨張政策と異教・異文化に対する強硬策の反動で、諸勢力の分裂と帝国の急速な衰退を招くことになった。
ヨーロッパ諸国が大航海時代に入り、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コーリコード)へ来訪し、1509年にディーウ沖海戦でオスマン帝国からディーウを奪取した。1511年にマラッカ王国を占領してポルトガル領マラッカ(英語版)を要塞化することによって、ポルトガルはインド洋の制海権を得た。このことを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部ゴアに拠点を置くポルトガル領インド(1510年 - 1961年)を築いた。
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インド
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1620年、デンマーク東インド会社がトランケバルにデンマーク領インド(1620年 - 1869年)を獲得。1623年のオランダ領東インド(現・インドネシア)で起きたアンボイナ事件でイギリスはオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアで他の貿易先を探っていた。そのような状況で、ムガル帝国が没落してイギリス東インド会社とフランス東インド会社が南インドの東海岸に進出することになり、貿易拠点ポンディシェリをめぐるカーナティック戦争が勃発した。1757年6月のプラッシーの戦いでムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍が敗れた。同年8月にはマラーター同盟がデリーを占領し、インド北西部侵攻(英語版)(1757年 - 1758年)でインド全域を占領する勢いを見せた。1760年のヴァンデヴァッシュの戦いでフランス東インド会社がイギリス東インド会社に敗れた。
一方、翌1761年に第三次パーニーパットの戦いでマラーター同盟は、ドゥッラーニー朝アフガニスタンに敗北していた。1764年のブクサールの戦いでムガル帝国に勝利したイギリス東インド会社は、1765年にアラーハーバード条約を締結し、ベンガル地方のディーワーニー(行政徴税権、Diwani Rights)を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の植民地化を推進した。イギリス東インド会社は一連のインドを蚕食する戦争(マイソール戦争、マラーター戦争、シク戦争)を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となった。インドは1814年まで世界最大の綿製品供給国で、毎年120万ピースがイギリスへ輸出されていた。これに対して、1814年のイギリスからインドへの綿製品輸出は80万ピースであった。そこで産業革命中のイギリスは関税を吊り上げてインド産製品を駆逐する一方、イギリス製品を無税でインドへ送った。1828年には、イギリスへ輸出されたインド綿布が42万ピースに激減する一方、インドへ輸出されたイギリス製綿布は430万ピースに達した。こうしてインドの伝統的な綿織物産業は壊滅した。
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