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デジタルカメラ
デジタルカメラの全体的な構成は、大きく分けて光学系と電子系、そしてそれらを保持する筐体に分類できる。 光学系はレンズと絞り機構であり、一眼レフでは光学式ファインダー用のレフレックスミラーとプリズムがこれらに加わる。機械式のシャッター機構を備えるものもある。電子系は受光素子とメモリーを含む画像演算回路、記録装置、液晶表示器、ストロボ、操作スイッチ、電池などである。 光学信号である画像を電気に変換する撮像素子(光学センサ)は、CCDイメージセンサかCMOSイメージセンサが用いられる。この点が光化学反応を用いる銀塩フィルム式のフィルムカメラと異なる。撮像素子の受光面の大きさは、通常のフィルムカメラで用いられる35 mm判フィルムの1コマよりも小さいものが大多数である。半導体素子そのものである撮像素子は、その大きさが部品価格の主要な決定要素であるため、比較的廉価なコンパクトデジカメでは1/3インチから2/3インチが、上位価格帯を占める一眼レフタイプではより大きなAPS-Cサイズが用いられる。また、一部の高級機種や業務用機種には35 mmフルサイズや中判など、銀塩フィルムと同等サイズの撮像素子を搭載する製品もある。 撮像素子は2000年頃までCCDが主流で、画質が劣ったCMOSは一部の安価な機種に搭載されるのみだった。その後、CMOSイメージセンサの性能が向上して多くの問題点も対処が進められた。CMOSの特徴である低消費電力性や低価格なこともあり、一眼レフを中心にCMOS搭載機種が増えてきている。CMOSによるデジタル回路を同じシリコン基板上に構築しやすいので高機能な駆動回路をセンサ側に作るのに向いており、例えばA/D変換回路を内蔵するものがある。
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デジタルカメラ
一般に撮像素子が大きいほど色再現性、感度、ノイズ、ダイナミックレンジなどあらゆる点で有利である。とくに同じ時代に設計された撮像素子同士の比較ではサイズにより画質の差があり、測定値にも表れる。また、同じ画角・同じF値における被写界深度が浅くなるため、対象物だけにピントを合わせて背景から浮き上がらせるボケの効果が得られやすい。反面、撮像素子が大きいとボディが大型化し、高価になる。また画素数が多いほど描写は精細になり、大きなサイズでのDPE依頼やフォトプリントでも精細な画像が得られる。撮像素子のサイズを変えずに画素数を増やすと、1画素あたりの面積が小さくなる。ダイナミックレンジが狭くなる、電気的なノイズ・歪みが多くなることからむしろ画質を損なう場合もあるので、撮像素子や処理回路でノイズを抑える設計が必要であるため、画素数を増やすことには限界がある。コンパクトなボディに大きな撮像素子を搭載した機種も存在する。 2010年現在用いられている撮像素子の多くが、1つの画素で多様な色の識別は行えず、画素を構成するそれぞれのフォトダイオードの上に RGB(CMY) の内のいずれか1色のフィルターを配置することでそれぞれの色を検出する。このため、多様な色が検出できる最小単位は、少なくとも3画素である。続く画像処理部では、それぞれの画素には本来測光しなかった他の2色分の色情報を周囲の色から作り出すという処理が行われる場合があり、「偽色」と呼ばれる、誤った色情報を生成したり不自然なノイズが生じる原因である。このようなノイズや画素数の実質的な減少を避けて、可能な限り画素数を増やしたいプロ仕様の上級機種では、入射光を3個ほどのプリズムによって CMY(RGB) という波長帯別に分離してから、それぞれの光を1枚ごとの撮像素子で電気に変換する仕組みを備えるものもある。
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デジタルカメラ
フィルムカメラのファインダーには幾つか異なる方式があるものの、全て光学式だった。デジタルカメラの場合も同様の構造が可能だが、多くのデジタルカメラは撮像素子で得た画像データを本体背面などのカラー液晶で表示することでファインダーとしている。また、いわゆる「ミラーレス一眼カメラ」では、従来の一眼レフカメラと同等の位置にカラー液晶を使ったファインダーを配置しているものが多い。この電子式ファインダーはプリズムやミラー、光路を必要とする光学式に比べて設計上の自由度が高いが、2019年現在では撮影直後に表示が一時停止するモデルが多いといった問題もある。また単に撮影画像を表示するだけでなく、電子機器であるデジタルカメラ本体の操作画面としてや、画像編集といった付加的な機能にも利用される。 背面液晶式カメラの多くでは液晶表示部が背面に固定されているが、これを可動としたのがいわゆるバリアングル液晶であり、撮影者の視点や姿勢にあまり制約されることなく、ローアングル(低い位置からの撮影)やハイアングル(高い位置からの撮影)などの撮影が容易になった。 フィルムカメラでもデジタルカメラでも同様であるが、実際に撮影させる画像とファインダーで見える画像とが必ず同じ範囲であるとは限らない。実記録画像が100 %としたときのファインダー画像の大きさを%で示す「ファインダー視野率」という指標がある。デジタルカメラでは、比較的100 %のものが多い。 シャッターボタンを含む操作用のスイッチ類は、人間工学に基づき配慮されている。一部の機種では電子式ファインダーである液晶画面にタッチパネルを組み込むことで、ファインダーの画面が操作面となるものもある。 撮像素子からのアナログ信号はアンプによって増幅され、高速アナログ/デジタル変換器によってデジタル信号に変換された後、DRAMのような半導体記憶素子に一時記憶として蓄えられる。画像処理専用に作られたASICが、この一時記憶領域から必要なサイズの画素を読み出しては演算処理を行い、一時記憶へ書き戻す。イメージセンサの画素数の増加とそれに伴い求められる処理性能の上昇に合わせて、次々と演算処理速度の高いICが開発されている 。 画像を記録するには、一般にフラッシュメモリが使用される。ICチップによる内蔵固定式やメモリカードを差し込む内蔵交換式などの記録媒体がある。
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デジタルカメラ
画像を記録するには、一般にフラッシュメモリが使用される。ICチップによる内蔵固定式やメモリカードを差し込む内蔵交換式などの記録媒体がある。 画像をやり取りするために外部との接続端子を持つ機種では、USB端子を備えるものが多い。メモリーカードをパソコンやプリンターに差し込んで接続したり、DPE店へ預けたりする方法でも画像情報を利用することが可能である。パソコンのすべてが適切なメモリーカード用スロットと備えているわけではなく、多くの機種ではUSBのような汎用的なインタフェースを備えることで、カメラ側にメモリーカードを装着したままパソコンなどで読み書きできるようにしていることが多い。 また、USBを経由することで、戸外で多くの撮影を行う場合でも、ノートパソコンなどよりも小型軽量のUSB対応外部記憶装置へ画像情報を大量に保存するような利用法が可能である。USB経由でプリンターへの出力も可能である。 ほとんどの機種では夜間撮影などのためにストロボ発光機能を備えている。必要な電圧までコンデンサに充電することで電気エネルギーを蓄えて、シャッターボタンによる操作でストロボを発光させる。ただし、コンパクトデジカメのストロボは3 - 5 m程度の距離しか有効な光量を作れない。またコンパクトカメラでも上級機や、一眼レフカメラ・ミラーレス一眼カメラのほとんどの機種では筐体上部などにアクセサリーシューが付いており、オプションで外部ストロボが取り付けられる。
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デジタルカメラ
携帯電子機器であるデジタルカメラの電源はほとんどが、内蔵される充電式バッテリーによる。デジタルカメラはほとんどすべての機能が電子回路によって実現されているため、フィルムカメラよりも消費電力が大きい。比較的多くの枚数を記録できることもあって、大容量で大きく重いバッテリーを内蔵していることが一般的である。ほかの方式より軽量で容量の大きい専用のリチウムイオン電池を採用する機種が多い。シャッターを切ったりフラッシュメモリに書き込んだりフラッシュライトを点灯する時は特に大電流が必要であるため、このパルス放電に対応したバッテリーとしてニッケル水素電池が多くの機種で採用された。ニッケル水素電池を外出先で消費し切った場合は、入手性の高いアルカリ乾電池が使用可能であるものが多い。メーカーはカメラ本体だけでなく、消耗品、周辺機器も含めたトータルで利益が出ればよい。特に電池はメーカー、機種ごとに異なることが多いので、予備の電池が必要な場合、新しいカメラを購入したときは電池も購入する必要がある。予備電池の価格は比較的高めにつけられている場合が多い。そのため、純正品以外にも多くの互換電池が出回っている。代表的なメーカーに、台湾のロワなどがある。稀にではあるが純正以外の電池使用により異常発熱や膨張、機器破損の事故も発生しており、カメラメーカーの中には互換電池を使用できないようにカメラ本体側にプロテクトを施しているメーカーもある。 不安定な手持ちでの操作や衝撃・塵埃の多い環境で用いられることが多いカメラの本体を構成する筐体(ボディ)には、内部の脆弱な光学部品や電子部品を支え保護するために堅牢性や気密性を維持することが求められ、同時に軽量であることが求められる。筐体は、アルミ合金等の金属製の骨格に、多数のエンジニアリングプラスチックなどの合成樹脂によるフタやグリップ、緩衝材が取り付けられているのが一般的である。 基本的な静止画撮影の動作を以下に順を追って示す。
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デジタルカメラ
基本的な静止画撮影の動作を以下に順を追って示す。 静止画撮像では、カメラが電子的に捉えた画像のコントラスト情報を元に自動的にカメラ側でピントを合わせるオートフォーカス (AF) 機能を使って撮影することがアマチュアを中心に一般的である。撮影時にシャッターボタンを半押しにするとAF機能が作動するモードが中心である。撮影可能状態にすればオートフォーカスが常に働き、いつでもシャッターが切れるモードも選択できる機種がある。前者では電池の消費が抑えられ、後者ではシャッターチャンスを逃がす可能性が低くなる。ただし、AF機能は動きの早い被写体や陰影差の少ない対象には向かず、AFロックといった撮影者の工夫やマニュアル・フォーカスなどが求められる。高級機ではコントラスト情報以外でもピント合わせが可能であったり、マニュアル・フォーカス機能の操作性なども考慮されているものがある。 露光時間は機械式や電子式のシャッターで制御するが、上手に露光時間を選ばないと被写体の明暗度合いによっては撮像素子が明部と暗部のいずれかが露光過剰や露光不足によって「白とび」や「黒つぶれ」を起こす。「白とび」「黒つぶれ」を回避するために、銀塩カメラでは受光する枠内に測光素子を多数配置して最も明るいところと最も暗いところを検知する。また、コンパクトデジタルカメラでは電子的な撮像素子そのものが測光素子を兼ねて、露光を自動調整する。ただし撮像素子は読み出しに多少の時間が掛かるので、瞬間的に明るさの変化する撮影対象では正確な露光が期待できない。ほとんどのデジタル一眼レフ機では、撮像素子とは別に測光専用のセンサーで露出を決めるものが多い。 フィルムカメラの上位機種でも備えるものがあるが、オートブラケティング(Automatic Exposure Bracketing, AEB)撮影によって、露出を変えながら立て続けに2-4枚ほどの撮影を行うこともできる。また、オートブラケティングと同様に露出の異なる複数枚の撮影をすばやく行い、内部演算処理によって1枚のダイナミックレンジの広い画像を得る、ハイダイナミックレンジ(HDR)処理をカメラ単体で行う機種も登場している。
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デジタルカメラ
撮像素子から出力されたアナログデータはA/D変換された後、映像エンジン や画像エンジンなどと呼ばれる画像処理専用のICによって、暗電流補正、補間演算、色空間変換、ガンマ補正、収差の補正、ノイズリダクション、画像圧縮などの様々な画像処理が行なわれ、外部利用に適した画像形式に変換される。 たとえ同じ撮像素子を使っていても、カメラのメーカーが異なっていれば画質の傾向も違ってくる。画像処理のアルゴリズムが出力される画質を左右するため、メーカーでは様々な工夫を行っている。かつてはこの処理に時間が掛かるのがデジタルカメラの問題点の1つであったが、今ではデジタル演算能力の向上によってほぼ解決されている。 映像エンジンで画像処理が施されたり、またはRAWデータのままの静止画情報は、記録媒体に書き込まれて保存される。フラッシュメモリー素子のデータ転送速度は年々高速化しているが、一方で画像データサイズの肥大化もあって、一般に記録動作には時間が掛かる。 上記の他にも、TIFF、DPOFなどがある。 デジタルカメラが登場した当初は、性能は銀塩カメラより劣った。主に電子技術の急速な発達によって解像度や感度が銀塩カメラに追いつくほど技術開発が進み、銀塩カメラを広範囲に置き換えた。そして、単に静止画を撮影する基本機能の充実だけでなく、デジタル式にしかできない付加的な機能を付け加える方向へ技術開発がされている。 デジタル画像処理によりズームを行う方式。ズームレンズを用いた光学式ズームと同時使用可能である。 イメージセンサーの中央部の画素のみを撮影に使用し、拡大することで画像を作成するズーム方式。ズーム倍率に応じて使用可能な最高画素数は減少する。例えば、1200万画素機で2倍ズームにすると、その場合の画素数は縦横共に半分になるのでイメージセンサーの中央部の300万画素を使用する。画像を記録する際の記録フォーマットが4096×3072(1200万画素分)であれば、不足する900万画素分の情報が300万画素からの補間処理によって生成される。 2倍程度までのズームについては各社で特別な補間処理を行い、単なるデジタルズームと差別化している場合がある。 画質の劣化を抑えるため、記録する画素数に合わせてデジタルズームの最大倍率を変え、等倍以上の拡大を避ける設定が可能な機種もある。
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デジタルカメラ
保存する画像の画素数でイメージセンサーの中央部をトリミングするズーム方式。イメージセンサーの画素数よりも少ない画素数で保存する場合に使用できる。デジタルズームと異なり拡大処理を行わないため拡大に起因する画像の劣化がない。 イメージセンサーの画素数よりも少ない画素数で保存する場合、光学ズームが可能な範囲では画像を保存する際に縮小処理が行われる。光学ズームの限界を超えるとイメージセンサーの全面を使用することをやめ、中央部をトリミングして縮小率を下げた画像を保存する。この光学ズームの限界から縮小処理が不要になるまでのズームがトリミング式ズームである。トリミング式ズームの限界の後はデジタルズームを使用できる。 スマートズーム、EX光学ズーム、ファインズーム、セーフティズーム等各社が同様の機能をそれぞれ名前をつけており、共通の呼称は定まっていない。 カメラの撮影での手ぶれを、光学的や物理的に検知してそれを打ち消すようにレンズ系の光軸や受光面を動かす「手ぶれ補正機能」を備える機種が多い。 コンパクトデジタルカメラの多くが動画の撮影機能を備えており、一眼タイプにおいても一般的になりつつある。連続撮影時間は、記録解像度と記録方式、記録メディアとバッテリーの容量、製品用途の位置付けなどにより10分から1時間程度に制限される。デジタルカメラの撮像素子の画素数は一般的な動画を撮影するデジタルカムコーダのそれよりも多いため、動画の撮影時には画素情報を間引いて情報量を少なくする。
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デジタルカメラ
コンパクトデジタルカメラの多くが動画の撮影機能を備えており、一眼タイプにおいても一般的になりつつある。連続撮影時間は、記録解像度と記録方式、記録メディアとバッテリーの容量、製品用途の位置付けなどにより10分から1時間程度に制限される。デジタルカメラの撮像素子の画素数は一般的な動画を撮影するデジタルカムコーダのそれよりも多いため、動画の撮影時には画素情報を間引いて情報量を少なくする。 動画フォーマットについては機種ごとにさまざまである。以前はAVI (Motion JPEG) やQuickTimeによる動画録画とWAVE(モノラル)による音声録音が主流だった。MPEG-4 AVC/H.264とドルビーデジタル AC-3(ステレオ)、MPEG-2 TSを用いたAVCHDによるハイビジョン動画およびステレオ録音が可能な機種も増えており、デジタルカムコーダ(いわゆるデジタルビデオカメラ)との境界線があいまいになってきていたが、EUがヨーロッパにデジタルカムコーダーメーカーが無い事を理由にHD解像度以上で30分以上録画できるデジタルカメラをデジタルカムコーダーとして分類し、デジタルカムコーダーと同等の30 %の関税を設定した。その為、デジタルカメラはデジタルカムコーダーとは異なり、30分以上連続で録画できなくしてある。 カメラ本体内にGPS受信機を内蔵し、撮影地点の位置情報を画像データと共に記録することで撮影後に位置を確認できる機種が販売されている。地図データを内蔵するものでは、撮影地を地図で確認したり、現在地や移動経路を表示してナビゲーションに利用することも可能である。 カメラ本体内に無線LAN通信部を内蔵し、撮影した画像データ等をパーソナルコンピュータやスマートフォンに転送したり、ソーシャル・ネットワーキング・サービスと連携することで直接アップロードする機能を有するものもある。転送にはWi-Fi,Bluetooth,NFC等が用いられる他、SDカードスロットを利用して通信機能を追加することでTransferJetで転送を行う場合もある。 また、スマートフォンやタブレット (コンピュータ)の液晶画面を用いたリモート操作に対応する機種もある。
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デジタルカメラ
記録メディア内のデータをパソコンへ読み込ませた際、画像ファイルが壊れていたり、記録自体されていなかったりするトラブルが発生する。このような事態を防ぐためには、『データ記録中にカードを抜く』『データ記録中に電池を抜く』といった誤操作をしないこと、『データ記録中のデジタルカメラ本体への衝撃』を避ける、『メモリカードスロット用クリーナーカード等を用いて定期的に手入れをする』などが必要である。 また、誤操作で画像データを削除してしまった場合でも、データ復旧用アプリケーションを用いるか、専門業者のデータ復旧サービスを利用することで一部または全てのデータを取り戻せることがある。その際、復旧作業が終わるまではその記録メディアに一切の書き込みをしないことが重要である。書き込みをしてしまうと復旧の可能性が低下する。 パソコンへの画像データの転送については、記録したメモリーカードによる方法の他、多くの機種ではUSB接続による方法もサポートしている。この場合、付属ソフトウェアやWindowsなどのOSの機能を用いてデジタルカメラから画像データを転送するもの(PTPなど)と、カメラを外部記憶装置(マスストレージ)のように見せて自由に画像ファイルの出し入れが可能なものがある。USB普及以前は、シリアルポートやSCSIを使用するものもあった。またUSBがまだ十分な転送速度でない頃は、プロ向けの機種の中にはIEEE 1394を採用するものもあった。さらに近年は無線LANを使用するものもあるが、メーカーによりまちまちの実装である。 2003年からは、デジタルカメラ本体と対応プリンターをUSBケーブルで直接接続して印刷できる「PictBridge」などの規格も制定された。
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デジタルカメラ
2003年からは、デジタルカメラ本体と対応プリンターをUSBケーブルで直接接続して印刷できる「PictBridge」などの規格も制定された。 デジタルカメラに内蔵されている撮像素子は、有効画素数と総画素数の違いに留意する必要がある。総画素数は撮像素子が本来持っている画素の総数であるが、デジタルカメラに内蔵する場合にレンズや絞りといった光学系の制約によって撮像素子の受光部全体に入射光を厳密・均等に当てることは難しい。カメラに装着された状態で光が当たる画素の総数が有効画素数と呼ばれて、総画素数より数%程小さい。1990年代後半から2000年代にかけて、画素の数は販売戦略上の大きなアピールポイントであった。一般論としては、画素数の大きな方が、より詳細まで表現でき高画質であるが、画素数を大きくすればその分一画素あたりの受光面積は減り、ノイズが増えることにも留意する必要がある。画素数を増やすとともに、いかにノイズを控えるかが素子開発の大きなポイントであった。2010年代に入り、画素数増加とともに一画素のサイズがレンズの光学的解像度の限界に近づき、画素数競争も一段落しつつある。 CCDやCMOSの撮像素子の大きさは、テレビ画面を表すのと同様に「型」が使われることが多いが、撮像素子の受光面の対角線の長さのインチ単位の大きさよりも大きな値になる。これは昔の真空管式の撮像管の時代に、撮像面の大きさではなく管の直径を表示していた名残りである。また、面積だけでなく縦横比も撮像素子によって異なり、同一メーカーであっても機種によって違いがある。 コンパクトデジタルカメラの多くが、内部での画像処理で輪郭強調処理を行い、実体よりもシャープに見せている。こういったカメラの使用者の多くが、「シャープネス」の効いた出力のほうがピントの合った画像だと歓迎するためである。プロが使用する上級機では出力画像はシャープネスを効かせず、もしもそういった加工が必要ならば、カメラ上ではなくパソコンなどの画像処理ソフトによって精密に調整する。画像は輪郭強調やソフトフィルターを掛けるたびに劣化するので、手間を惜しまないならばカメラの外で処理するのが良い。
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デジタルカメラ
2018年の日本国内でのシェアは、1位キヤノン、2位ニコン、3位ソニーの3社によって約90 %を占め、富士フイルム、パナソニック、オリンパス、リコーなど「その他」の企業が残りの10 %の中にひしめいている。世界のデジカメ市場(金額ではなく台数ベース)では、1位キヤノン、2位ソニー、3位ニコンの3社によって約85 %を占めるが、そこに4位の富士フイルムと5位のパナソニック(それぞれ数%)を加えるとシェアが9割を超え、つまり世界デジカメ市場の9割を日本企業が占有している。2020年現在の市場規模は世界全体で約4201億円であるが、毎年数十パーセントの規模で縮退しており、先行きが不透明である。 デジタルカメラの販売は、2007年に初めて1億台を突破し2010年の1.2億台がピークであり、2010年代には特にスマートフォンの普及によりコンパクトデジタルカメラの販売が激減している。レンズ交換式デジタルカメラの販売台数は2013年をピークとして徐々に減っているが、コンデジほどの大きな変動は見られていない。2020年にはコロナウイルスによるパンデミックもあり、販売台数が前年比で40 %以上縮小した結果、ピーク時の14分の1まで市場が縮退した。 デジカメはフィルムカメラに較べると電子機器的な要素を多く含むため、2000年代には旧来のカメラメーカーに加えて、ソニー、パナソニック(経営統合前の三洋電機を含む)、カシオ計算機などの家電・電子機器メーカーも参加して激しいシェア争いを繰り広げていた。2002年頃まではオリンパスや富士フイルムがシェア1位を争っていた時代もあったが、キヤノンが2003年にデジカメ市場のシェア1位(コンデジ・一眼レフ共に)となり、ニコンが一眼レフ市場2位となった後、結局はフイルムカメラ最大手であったキヤノンとニコンがデジカメでも最大手であり続け、競合とのシェアを引き離し続ける状況が続いていた。
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デジタルカメラ
競争の激化に伴い、2005年に京セラが日本国内のデジタルカメラ事業から撤退。2006年にはコニカミノルタがカメラ事業全般から撤退し、一眼レフカメラ部門をソニーに譲渡した。また、イーストマン・コダックも消費者向けデジタルカメラの生産から撤退し、デジタルカメラ製造部門をフレクストロニクス・インターナショナルに売却している(開発・設計・販売は継続)。2009年にパナソニックに吸収された三洋電機のカメラ部門はXactiに継承された。 デジタル一眼レフカメラは、コニカミノルタの一眼レフカメラ部門を引き継いだソニーや、オリンパスと協業しフォーサーズシステムへ参入したパナソニック、ペンタックスとの提携でサムスン電子なども参入した。2008年にパナソニックが先陣を切ってミラーレス一眼カメラを発売し、2013年にソニーがフルサイズのミラーレス一眼を開発し、以降の一眼レフ市場を方向付けた。技術的な困難さと、交換レンズを始めとするオプション類も販売する必要があるため、技術の蓄積がある光学機器メーカー(具体的にはキヤノンとニコン)か、それらの事業を引き継いだメーカー(具体的にはソニー)が残り、新規参入した家電メーカーなどは、ミラーレス一眼へと移行するか、コンパクトカメラのみに規模を縮小した。 旧来のカメラメーカーはレンズの設計に一日の長があるが、電機メーカーはイメージセンサの製造に長けている。家電メーカーの場合、光学系の設計ノウハウが乏しく設備の新設にもコストがかかるため、他のレンズメーカーから光学系部品の供給を受ける場合がある。さらに、光学機器メーカーに比べて劣る知名度を補うため、「ライカ」や「カール・ツァイス」といった有名ブランドを冠したレンズを採用することもある。メーカーによってはOEMとしてレンズの供給を受けるのではなく、同ブランド名を冠するレンズを自社内やレンズメーカーでライセンス生産している場合もある。
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デジタルカメラ
逆に光学機器メーカーが、撮像素子や画像エンジンなどの電子系統を、競合の家電メーカーにOEM委託をしていることも多い。EMSの委託先としては台湾のメーカーなどがある。特に撮像素子は、ソニー、OmniVision、サムスンで世界市場の7割以上を占めている。したがって、上に書いたメーカー別販売シェアと、実際の製造メーカー(OEM製造も含む)におけるシェアとは大きく異なる。2012年当時の他社向けOEMを含めた生産台数別のシェアを見た場合、全てのデジカメを自社製造で賄うデジカメ市場1位のキヤノンが生産台数でも1位であったが、カメラ生産台数2位が佳能企業、3位が華晶科技と、実際の生産台数では日本メーカーではなく中国や台湾のメーカーが上位を占めた。2012年当時デジカメ市場2位のニコンは、一眼レフに関してはすべて自社生産だが、コンデジには力を入れておらず、コンデジに関しては全て他社製造品のOEMであった。また、上記のメーカー以外にもセイコーエプソン(R-D1など)や、ライカなどがレンジファインダー式デジタルカメラの製造を行っている。2017年の時点では、本体・レンズ・撮像素子の三要素を自社製でまかなえるのは、キヤノン、ソニー、シグマ(Foveonを子会社化)の3社となっている。特に撮像素子は、ソニー系列のソニーセミコンダクタマニュファクチャリングが、ニコン・ペンタックス・オリンパス・富士フイルム・ライカなどにも画像センサーを製造・供給している一大センサーメーカーとなっている。
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デジタルカメラ
2010年以降は、ミラーレス一眼カメラで成功したソニーがキヤノンとニコン以外の「その他」のメーカーの中から頭一つ抜けて、デジカメ市場3位となった。また、コンパクトデジタルカメラの市場はカメラ搭載のスマートフォンによる浸食が進んでおり、デジカメ市場上位3社のキヤノン・ニコン・ソニー以外のメーカーにおいては撤退が相次いでいる。こうした状況を踏まえ、2013年当時の経済産業省は日本企業の競争力強化に向けた取り組みを進めようとしていたが、その後もデジカメ市場はスマホに侵食される一方であり、各社で生産体制の縮小や撤退が続いた。2015年には、サムスンが最後となるモデルを発表した後に撤退 したほか、2017年には、ニコンが中国江蘇省無錫市の工場で行ってきたコンパクトカメラの生産を終了し、タイの工場へ生産拠点を集約、2021年には国内生産も終了した。2018年、オリンパスも深圳の工場で行ってきたデジタルカメラや交換レンズの製造を終了し、ベトナムの工場へ生産拠点を集約している。同年には、カシオのコンパクトデジタルカメラ事業からの撤退も発表されている。2021年には、オリンパスはデジカメなどの映像事業を分社化・譲渡し、OMデジタルソリューションズがオリンパスのデジカメブランドを引き継いでいる。2020年には初めてミラーレス機が一眼レフの売り上げを上回った。 こうした状況を経て、2020年にはキヤノンとソニーが入門機からハイエンドまでを押さえた二強の地位を獲得し、スマホに市場を奪われてコンデジでは採算が取れなくなった他メーカーはハイエンド機に専念する業界構造となりつつある。 機能や画質を割り切ることで低価格な「トイデジカメ」と呼ばれる分野が存在する。玩具の流通ルートで売られていることが多い。 近年(2016年現在)では携帯電話に搭載されたカメラの性能向上によりジャンルそのものが衰退しつつある。携帯電話のアプリではトイカメラ特有の歪み・ぼけ・色調等の独特の光学効果を再現している。 同ジャンルの初期に流通したトイデジカメの例としてタカラのSTICK SHOTやニチメンのChe-ez!などがあり、デジタルカメラが高価だった頃、小型軽量で1万円以下で買える手軽さが受けてガジェット好きのユーザーに広まった。
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デジタルカメラ
同ジャンルの初期に流通したトイデジカメの例としてタカラのSTICK SHOTやニチメンのChe-ez!などがあり、デジタルカメラが高価だった頃、小型軽量で1万円以下で買える手軽さが受けてガジェット好きのユーザーに広まった。 初期の大半の製品が10万画素から35万画素ほどのCMOSを搭載し、増設できない1メガバイト程度の記録メモリーを搭載する。パソコンと通信することはできても、カメラだけで直接記録した画像を確認できるようなデバイスは存在しない。画質はおしなべて低く、色の再現性が悪い。一方、これらの中にはWebカメラとして使用できるものもあり、そのためにトイデジカメを購入するパソコンユーザーもいた。 現在では日本の一流メーカーのデジカメが実売で8000円を切るまでに低価格化しているうえ、トイデジカメの高機能化が進み、それらを区別する意味もなくなってきている。このような状況から、現在では「トイデジカメ」という概念が「安い」から「アクセサリーとして楽しむ」などの方向に変わっている。例としてボールペンや腕時計にカモフラージュした製品、フィルム時代の高級カメラをミニチュア化した製品などが一定の人気を保っている。また、単に低画質な製品を「トイ」扱いしている場合もある。 2010年春現在で販売が継続しているトイデジカメは、その定義を「小型軽量低価格で、手軽ではあるが低性能」とする場合、当てはまるのはVista Questシリーズと、同シリーズのうち1005ベースとなる「NICO DIGI」(ニコデジ)程度である。 機能や価格帯は考えず遊びの要素が強い製品として、プラスティックむき出しの質感やクセのある撮影画像など、同ジャンルの基本を意識し、楽しく撮ることを目標とした「DIGITAL HARINEZUMI」(デジタルハリネズミ)シリーズ、簡易防水機能付きとしては安価な部類で、わざと撮影画像のカラーバランスを崩した撮影ができる「GIZMON Rainbowfish」(ギズモン レインボーフィッシュ)、ローライの本格的二眼レフカメラ、ローライレフレックスの外観を忠実に模して小型化した「ローライレフレックスミニデジ」(Rolleiflex MiniDigi )シリーズなどがある。
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デジタルカメラ
2012年のデジタルカメラの世界シェアは以下の通りであり、出荷台数の1位から3位までを日本メーカーが占める(数字はパーセント)。 日本国内におけるデジタルカメラ1台あたりの平均販売価格はコンデジが約2万200円、一眼タイプが約8万5,400円である(2009年12月度、BCN調べ)。 売れ筋のキーワードは2003年頃までは画素数など、2004年には動画撮影性能や多彩なシーンモードなど、2005年には大型液晶・高感度・手ブレ補正などであった。2006年は一眼レフに「ライブビュー」が搭載されるようになり、急激な低価格化と相まって一眼レフの一般への浸透が進んだ。2007年には顔認識が登場し、人の顔が綺麗に撮れる、笑顔になるとシャッターが切れる機能などが流行した。2008年は暗所撮影や防水機能など「場所を問わず綺麗に撮れる」性能や、より広い角度を写せる「広角ズーム」が売りとなった。 2009年は明暗差の激しいシーンでも白飛びや黒つぶれが発生しにくい「ダイナミックレンジ拡張機能」、そして一度ロックした被写体にピントや露出を合わせ続ける「自動追尾機能」などが登場した。また、リコーGRデジタルIIIやキヤノンパワーショットG11など、あえて操作を自動化せず画質と高級感を優先させた高級コンパクトカメラが独自の地位を築いた。家庭にハイビジョンテレビが普及したこともあり、ハイビジョン画質の動画機能が装備されたカメラが普及し始めた。また、2008年末にフォーサーズ陣営から登場したミラーレス一眼が2009年5月以降売り上げを伸ばしている。2010年にはAPS-Cサイズのミラーレス一眼が登場、2013年に35ミリフルサイズのミラーレス一眼が登場して以降は、一眼レフから乗換のユーザーでミラーレス一眼が販売シェアを拡大、2020年に販売台数が一眼レフを逆転して以降は、ミラーレス一眼カメラがレンズ交換式デジタルカメラの主流となっている。 過去のデジタルカメラ市場はほとんど日本企業のブランドで占められており、日本国外勢はコダックや一部のスタジオ用中判機種に限られていた。最近2003年 - 2004年にはおよそ80 %であったが、日本メーカーが積極的に行っている生産設備の中国への移管による技術移転や韓国メーカーの高級機参入に加え、アメリカやドイツの歴史あるブランド名を復活させた製品も出始めた。
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デジタルカメラ
過去のデジタルカメラ市場はほとんど日本企業のブランドで占められており、日本国外勢はコダックや一部のスタジオ用中判機種に限られていた。最近2003年 - 2004年にはおよそ80 %であったが、日本メーカーが積極的に行っている生産設備の中国への移管による技術移転や韓国メーカーの高級機参入に加え、アメリカやドイツの歴史あるブランド名を復活させた製品も出始めた。 メーカーからは高性能のデジタルカメラが発売される一方で、古いデジタルカメラはユーザー間で「オールドデジカメ」「オールドコンデジ」として好まれて取引されておりイギリスBBCでもその傾向が報じられている。 2000年頃から大手カメラ店のDPEコーナーなどでデジタルデータから印画紙に焼き付けるサービスが行われている。これは、デジタル処理のミニラボシステムを利用したもので、フィルムスキャナによる入力の代わりにデジタルカメラなどで得られたデジタルデータ(JPEGなど)を印画紙に焼き付けるものであり、従来の写真と同程度の画質や耐久性が期待できる。 また、店頭にキオスク端末型のプリント機を設置し、画面の案内に従ってセルフサービスで出力できるサービスも行われている。このタイプは昇華型熱転写プリンターを使用しており、画質面で若干見劣りする。 そのほか、コンビニや駅などで、デジタルコピー機の機能を利用したセルフサービスで写真印刷を行なう機械も設置されている。単に印画紙への出力だけではなく、シール印刷機能のような付加価値を持たせている物もある。しかし、これらも昇華型やインクジェット方式で印刷するため、印画紙での出力に比べて画質や耐久性に劣り、長期間の保管には向かない。 また、CD-Rを持っていないユーザーのために、画像データをCD-Rに焼くサービスもある。 出力したい画像ファイルをインターネット上の指定サイトにアップロードし、でき上がったプリントを店頭や郵送で受け取るサービスがある。一般に印画紙に出力されるので、ミニラボ機を使ったものと同等の品質が期待できる。また、写真集のような形に簡易製本して渡すサービスもある。
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デジタルカメラ
また、CD-Rを持っていないユーザーのために、画像データをCD-Rに焼くサービスもある。 出力したい画像ファイルをインターネット上の指定サイトにアップロードし、でき上がったプリントを店頭や郵送で受け取るサービスがある。一般に印画紙に出力されるので、ミニラボ機を使ったものと同等の品質が期待できる。また、写真集のような形に簡易製本して渡すサービスもある。 個人で撮影した画像を自宅のプリンターで印刷することが一般的になった。2003年頃からは、PictBridge(カメラ機器工業会)、USB DIRECT-PRINT(セイコーエプソン)、DIRECT PRINT(キヤノン)、BUBBLE JET DIRECT (キヤノン)などの名称で、デジタルカメラとプリンターを直接接続する通信規格が登場した。これらに対応したカメラとプリンターを直接接続することで、パソコンを介さずに印刷することが可能である。 デジタルカメラで撮影した写真の印刷を行うデジカメ専用のプリンターも登場している。 ハイビジョンテレビとの接続用としてカメラ本体にHDMI端子が装備されたり、テレビやレコーダー側にSDカードスロットを備えた製品も増え、リビングの大型テレビで鑑賞することができる。 カメラ本体の機能ではないが、無料で利用できるオンラインアルバム(Flickr、Google フォトなど)や動画共有サービス(YouTubeなど)が増えており、それらを通じて仲間と写真を共有したり、不特定多数に向けて写真を公開することが一般的になりつつある。無線LANを内蔵することでそれらのサイトに直接データを送信できるデジカメも登場している。
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古典力学
古典力学(、英: classical mechanics)は、量子力学が出現する以前のニュートン力学や相対論的力学を指す。物理学における力学に関する研究のうち、量子論を含むものを「量子力学」とするのに対し、量子論を含まないものを指してそう呼ぶ。 古典力学はマクロな物質の運動、例えば弾道計算や機械動作、宇宙船、星、銀河などの天体の運動に関する研究に使われている。そして、それらの領域に対して、とても精度の高い結果をもたらす、最も古く最も広範な科学、工学における領域のうちの一つである。古典力学は光速に近い場合には特殊相対性理論を用いることによってより一般な形式を与えることとなる。同様に、一般相対性理論は、より深いレベルで重力を扱うこととなる。古典力学は現代でもさかんに研究されている分野である。 17世紀初頭、ティコ・ブラーエによる精密な測定をもとに、ヨハネス・ケプラーは天体が楕円軌道を描くと結論付けた。ガリレオは地上物体の落下の加速運動を研究した。それらを基にしてアイザック・ニュートンや同時代の多数の自然哲学者が数理物理の体系を創設した。 初期の古典力学はしばしば、ニュートン力学として引用される。物理的概念や、数学的方法論がニュートンによって用いられ創られたことによる。より抽象的で一般的な方法論としてラグランジェ力学やハミルトン力学が挙げられる。古典力学における多くの事項は、18世紀から19世紀にかけて作られ、それらはニュートンの仕事からかけ離れたものとなっている(特に解析力学等は)。
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原子核
原子核(、英: atomic nucleus)は、単に核(、英: nucleus)ともいい、電子と共に原子を構成している。原子の中心に位置する核子の塊であり、正の電荷を帯びている。核子は、基本的には陽子と中性子から成っているが、通常の水素原子(軽水素)のみ、陽子1個だけである。陽子と中性子の個数、すなわち質量数によって原子核の種類(核種)が決まる。 原子核の質量を半経験的に説明する、ヴァイツゼッカー=ベーテの質量公式(原子核質量公式、他により改良された公式が存在する)がある。 原子核は原子と比べて非常に小さく、例えば最も小さい水素の原子核(陽子)の大きさはおよそ半径 0.8751(61)×10 m(直径にして約 1.75×10 m = 1.75 fm)である。水素原子核以外では、その狭い空間に正電荷を持った陽子が複数存在するため、互いに大きな斥力(電磁気力)を受ける。この斥力に打ち勝って原子核を安定に存在させているのは、中性子の作用である。陽子、中性子の核子間には中間子を媒介した核力が引力として働き、これが電磁気的反発力に打ち勝って原子核を安定化させている。 その他の原子では、原子核の半径 r はその質量数 A のほぼ 1/3 乗、すなわち3乗根に比例することが知られており、定式化すると となる。ここで、r0 は定数であり、その値は r0 = (1.3±0.1)×10 m である。 原子核の安定性は、陽子、中性子の数と深く関わっており、特に原子核を安定にさせる魔法数と呼ばれる数が存在することがメイヤーとイェンゼンによって発見され、2人はこの法則を元に殻模型(シェルモデル)などの仮説を提唱した。ただし、最近の不安定核の研究によって極端に中性子過剰な核などではこれまで知られてきた魔法数の系列が消失することが、液滴モデル、集団運動模型などの研究でわかってきている。 全ての核種の中で最も安定な原子核は、ニッケルの同位体の1つニッケル62(陽子28個、中性子34個)の原子核である。 原子核の存在が理論的に提唱されたのは、1901年のジャン・ペランおよび1903年の長岡半太郎が最初である。これらの説はあまり注目されなかったが、アーネスト・ラザフォードが1911年に実験的に原子核の存在を確認し、注目を集めることとなった。
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原子核
全ての核種の中で最も安定な原子核は、ニッケルの同位体の1つニッケル62(陽子28個、中性子34個)の原子核である。 原子核の存在が理論的に提唱されたのは、1901年のジャン・ペランおよび1903年の長岡半太郎が最初である。これらの説はあまり注目されなかったが、アーネスト・ラザフォードが1911年に実験的に原子核の存在を確認し、注目を集めることとなった。 ラザフォードは1914年に、重い原子核ではα線を接近させてもクーロン力によって弾き返されてしまうが、軽い原子核では原子核かα粒子いずれかの破壊が起こるのではないかと考え、1917年から1919年にかけて、様々な条件下で空気に対してα線を当て、ZnSのシンチレーションを利用して破壊の影響で生ずる可能性のある粒子を発見しようと試みた結果、水素の原子核、すなわち陽子を発見した。この水素の原子核は、α線が空気中の窒素の原子核に当たった際に と言う核反応によって生ずるものである。この結果を受けてラザフォードは、翌1920年にロンドン王立協会に於いて行なった講義の中で、原子核を構成する粒子には陽子の他に陽子とほとんど同じ質量で中性の粒子が存在すると予想した。 その12年後、ジェームズ・チャドウィックによってラザフォードの予想通り中性子が発見され、この事実を受けてドミトリー・イワネンコは原子核の構造についての従来の見解を改変し、「原子核の中には中性子と陽子だけが含まれており、電子は存在しない」という説を提唱した。ヴェルナー・ハイゼンベルクもこれを支持し、以後の原子核理論の方向性を決める事になったと言われる彼の3部作の論文『原子核の構造について1〜3(Über den Bau der Atomkerne I-III)』の基本仮定として採用される事となった。
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場の量子論
場の量子論(ばのりょうしろん、英:Quantum Field Theory)は、量子化された場(素粒子物理ではこれが素粒子そのものに対応する)の性質を扱う理論である。 量子論の中でも、位置や運動量などの古典力学由来の物理量と、スピンなどの量子論特有の物理量を、基本変数とする量子論を量子力学と呼ぶ。一方、基本変数として「場とその時間微分または共役運動量」を用いる量子論を場の量子論と呼ぶ。量子力学は、場の量子論を低エネルギー状態に限った時の近似形として得られる。現代では、古典的に場であったもの(電磁場など)だけでなく、古典的に粒子とみなされてきた物理系(電子など)の量子論も、場を基本変数にしたほうが良いことがわかっている。 場の量子論には相対論的場の量子論と非相対論的場の量子論がある。相対論的場の量子論は、特殊相対性理論と量子力学の統合を目指すものである。非相対論的場の量子論は、相対論的場の量子論の非相対論的極限、すなわち光速を無限大とする極限とみなされる。 場の量子論は、高エネルギーの系や、凝縮系(多体系)を記述する。相対論的な場の量子論は特殊相対論的要請を満たす形式を備え、量子力学と特殊相対性理論の両方を満足する。素粒子物理、原子核物理学や物性物理といった領域で、基礎理論として用いられる。 摂動的場の量子論では、粒子の間に働く力は、力を伝える粒子の交換により生じる。例として電子の間に働く電磁力は、光子の交換により生じる。同様に、ウィークボソンは弱い力を媒介し、グルーオンは強い力を媒介する。 力を媒介するのと同じ場の励起である光子が、塊状の波として電磁波となり、またナノスケールの現象においては粒子のように振舞う。電子も同様で、対応した場の励起として表される。このように、古典物理での粒子と場は、場の量子論により粒子と場の2重性を持つ形式に書き改められる。 場は時空間のあらゆるところで定義され、波動を引き起こす能力がある。空間全域に広がる場がエネルギーを得て振動すると、粒子のように振る舞う。現代物理学における粒子とは、エネルギーが局在化している状態(波束)、または場に付随するエネルギー量子のことである。 場の量子論ではこのように粒子を広く捉えることで、以下のような特徴を持つ粒子を場の立場から考えている。
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場の量子論
場は時空間のあらゆるところで定義され、波動を引き起こす能力がある。空間全域に広がる場がエネルギーを得て振動すると、粒子のように振る舞う。現代物理学における粒子とは、エネルギーが局在化している状態(波束)、または場に付随するエネルギー量子のことである。 場の量子論ではこのように粒子を広く捉えることで、以下のような特徴を持つ粒子を場の立場から考えている。 ジェームズ・クラーク・マクスウェルの古典電磁気学では、粒子(荷電粒子)が場(電磁場)を生み、場が粒子に力を与える。これは、場の理論の最初の定式化である。 1927年から1928年、ポール・ディラックによる古典電磁気学の量子化、オスカル・クライン、パスクアル・ヨルダン、ユージン・ウィグナーおよびウラジミール・フォックによる生成消滅演算子が形成され、場の量子論の原型をヴェルナー・ハイゼンベルクとヴォルフガング・パウリが創った。 ハイゼンベルクは、場において粒子が力を伝えるという見解を打ち出した。これが湯川の強い力(中間子)、フェルミの弱い力(電子)の元となる。しかし、湯川が提唱した強い力のモデルに対しては、ハイゼンベルクやボーアは否定的であった。 ハイゼンベルクおよびパウリらが作った原型は相対論を満たすが、相対論的共変形式を満たさなかった。1943年、朝永振一郎が超多時間理論でこれを解決する。これは1932年にポール・ディラックが提唱した多時間理論(相互作用をしている電子一つ一つに独立な時間を与える)の電子の生成・消滅を含まないという欠点を改めたものである。また、リチャード・ファインマンも経路積分を完成し、またジュリアン・シュウィンガーもこの問題を独立に解決する。 ゲージ理論の概念は、1918年のヘルマン・ワイルのアイデアに端を発する。ワイルは時空点ごとに「ゲージ」(ものさし)を与え、時空点が変わっても理論が変わらないようラグランジアンを決める(ゲージは一種の自由度で、理論不変なようにゲージ自由度を与える)ことを要求し、電磁場の導出を試みたが、実験と合わなかった。1927年、フリッツ・ロンドンは、長さを位相に変え、ゲージ理論の有効性を証明した。
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場の量子論
ゲージ理論の概念は、1918年のヘルマン・ワイルのアイデアに端を発する。ワイルは時空点ごとに「ゲージ」(ものさし)を与え、時空点が変わっても理論が変わらないようラグランジアンを決める(ゲージは一種の自由度で、理論不変なようにゲージ自由度を与える)ことを要求し、電磁場の導出を試みたが、実験と合わなかった。1927年、フリッツ・ロンドンは、長さを位相に変え、ゲージ理論の有効性を証明した。 1954年、楊振寧およびロバート・ミルズはゲージ対称性を非アーベル群に拡張した理論を定式化した(非可換ゲージ理論)。(ヴォルフガング・パウリ、内山龍雄も独立して同様の理論を発見している。発表が遅れたため、パウリや内山らは非可換ゲージ理論の発見者と見なされない。)内山龍雄は重力場を含む形に拡張した(このため、ヤン=ミルズ=内山理論と呼ぶ人もいる)。この非可換ゲージ理論は、後に量子色力学やワインバーグ=サラム理論を定式化する際に用いられた。 1964年、マレー・ゲルマン、ユヴァル・ネーマンおよびジョージ・ツワイクにより独立にクォーク模型が見出された。この原型は坂田昌一による坂田模型と、そのフレーバー変換を群論形式で記述する方法を確立した大貫義郎らによるIOO理論SU(3)である。(これはクォーク模型の原型における対称性を群論で記述した最初の事例であり、素粒子論の核で群論を使う以後の流れを決定づける。 量子力学での群論の最初は、ヘルマン・ワイル1927年である。原子スペクトルの対称性を記述。また、1939年、ユージン・ウィグナーが原子核をSU(4) で記述する。しかしこれは素粒子論の核での使用ではなかった。これらは、素粒子の基本構造に迫るものではなく、素粒子研究で注目を浴びなかった。 ゲージ理論では、ゲージ対称性を満たす場合、必然的にゲージ場の質量がゼロになる。しかし、光子を除く現実の粒子は質量を持ち、質量が力の及ぶ範囲を決める。1964年、これを救ったのが、ピーター・ヒッグスらのヒッグス機構で、南部陽一郎の自発的対称性の破れを使い解決した。 自発的対称性の破れの概念は、ハイゼンベルクが強磁性体モデルにおけるスピンのSU(2)回転対称性について論じたのが始まりとされる。1960年に南部は、超伝導のBCS理論をヒントに対称性の自発的破れの概念を場の量子論において定式化した。。
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場の量子論
自発的対称性の破れの概念は、ハイゼンベルクが強磁性体モデルにおけるスピンのSU(2)回転対称性について論じたのが始まりとされる。1960年に南部は、超伝導のBCS理論をヒントに対称性の自発的破れの概念を場の量子論において定式化した。。 量子電磁力学 (QED) は可換ゲージ理論である。一方、量子色力学 (QCD) およびワインバーグ=サラム理論は非可換ゲージ理論である。量子色力学は3つの場のからみ合いであり、ゲージも3×3の行列となり、QEDの可換ゲージから、非可換ゲージにかわる。 弱い力と電磁相互作用は、1967年、場の量子論の枠組みで非可換ゲージ形式のワインバーグ=サラム理論により統一される。 強い力は、クォーク模型の完成後、1971年にヘーラルト・トホーフトの非可換ゲージの繰り込み可能性の証明を経て、1973年に繰り込み群を使ったデイビッド・グロスらによって場の量子論の枠組みで非可換ゲージ形式の量子色力学 (QCD) が完成する。 量子力学では古典的に書き下した運動方程式を元に、位置や運動量を非可換な行列ないしは演算子と考える事で、量子論の描像を得る。これを正準量子化と呼ぶ。場の量子論では同様の方法を、場という物理量に対し適用する。これにより、時空間上の位置をパラメーターとして持つ場の演算子が得られる。 特に自由場の理論(場同士が一切相互作用しない理論)において、この方法で定義された演算子の各振動数モードは、独立した調和振動子とみなす事ができる。この系の量子的なふるまいは生成消滅演算子によって記述される。 正準量子化によって厳密な場の時間発展を記述できるのは、自由場など少数の例に限定される。量子電磁力学のような複雑な理論を扱うには通常、摂動論の考え方を用いる。これは相互作用描像などを用いて、相互作用のある場の時間発展を自由場の演算子の積に展開する方法である。 場の量子論における演算子積の計算は、仮想粒子を含む多数の項を、運動量保存や対称性などを考慮してまとめあげる、かなり煩雑なものとなる。これを視覚的に表すツールとしてファインマンダイアグラムがある。 また、摂動計算では仮想粒子の取りうる運動量すべてを積分する必要があり、これによって計算結果が無限大に発散する紫外発散の問題が起こる。この問題への処方として繰り込みが用いられる。
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場の量子論
場の量子論における演算子積の計算は、仮想粒子を含む多数の項を、運動量保存や対称性などを考慮してまとめあげる、かなり煩雑なものとなる。これを視覚的に表すツールとしてファインマンダイアグラムがある。 また、摂動計算では仮想粒子の取りうる運動量すべてを積分する必要があり、これによって計算結果が無限大に発散する紫外発散の問題が起こる。この問題への処方として繰り込みが用いられる。 摂動論は相互作用が弱い事を仮定した議論であり、結合定数の強い領域には上手く適用できない。特に量子色力学の低エネルギー領域においては、カイラル対称性の破れなどの物理について摂動論では議論する事ができない。そのため、以下に示すような非摂動論的な方法も、並行して用いられる。
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量子化学
量子化学(、英: quantum chemistry)とは理論化学(物理化学)の一分野で、量子力学の諸原理を化学の諸問題に適用し、原子と電子の振る舞いから分子構造や物性あるいは反応性を理論的に説明づける学問分野である。 量子化学はその黎明期において、分子構造と化学結合の成り立ちについて理論的解明と分子構造に起因する分光学的物性の理解に大きく寄与した。実際の分子を量子化学で理解することは、多数の電子と原子核とから構成される多体問題の波動方程式の解を求めることに相当する。計算化学が発達していない当時としては、量子化学の学問領域を展開する為に、分子構造モデルを簡素化する多種多様の近似法が模索された。また波動方程式の解を求める場面においても、摂動論と変分法による近似を利用した。したがって当時の量子化学は定性的な予測をするのにとどまっていた。量子化学によりそれまでは理論的説明付けが困難であった、分子分光学の電子スペクトル、振動スペクトル、回転スペクトル、核磁気共鳴スペクトルなどの性質と分子構造と関連付け、共有結合や分子間力の原理の解明、フロンティア軌道理論を代表とする半定性的な化学反応の理解など、他の化学分野への貢献は大きなものがあった。 1980年代以降の急速なコンピュータの処理速度の増大と計算機科学の発展とは計算化学にも波及し、変分法より発展した第一原理計算法により精密な解を求めることを可能にした。近年においては量子化学により化学結合と分子の微細構造との関連、分子間相互作用や励起状態の解明、反応のポテンシャルエネルギー面を予測することで化学反応の特性を予測するなど定量的な予測が可能になった。同時に量子化学の適用対象も簡単なモデル化した分子だけではなく、実際の有機化合物、錯体化合物、高分子・生体関連物質、固体表面での界面化学の解析など多種多様の化学分野に及んでいる。 その発展の歴史を、量子力学の発展の歴史と切り離して述べることはできない。なぜなら化学は原子・分子といったミクロな粒子を取り扱う学問であり、そのような粒子を取り扱うことができる学問として量子力学が誕生したからである。
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量子化学
その発展の歴史を、量子力学の発展の歴史と切り離して述べることはできない。なぜなら化学は原子・分子といったミクロな粒子を取り扱う学問であり、そのような粒子を取り扱うことができる学問として量子力学が誕生したからである。 1926年にエルヴィン・シュレーディンガーがシュレーディンガー方程式を発表すると、翌1927年にヴァルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンらはそれを水素分子へ適用し共有結合の説明に成功した。このハイトラー-ロンドン理論はその後ジョン・スレーターとライナス・ポーリングらによって原子価結合法(valence bond、VB法)へと発展する。 化学結合を取り扱う別の方法として、フリードリッヒ・フントとロバート・マリケンらにより分子軌道法(molecular orbital, MO法)が生み出された。 VB法とMO法を改良したものには、それぞれ一般化原子価結合法(GVB法)と配置間相互作用法(CI法)が知られている。これらの改良した形式では、VB法はMO法を、MO法はVB法を陰に含んでいる。したがって真の波動関数に対する近似として、両者はスタート地点が異なるものの、相補的といえる関係になっている。ただし計算精度と扱いの簡便さから、現在ではVB法よりもMO法がよく用いられる。 量子化学者にとっての基本的な問題は、自分が研究対象としている系を記述するハミルトニアンの固有値問題を解き、固有値と固有関数(波動関数)を求めることである。しかし、これはそのままの形では解くことが難しい。そこで考え出されたのが、ハートリー-フォック方程式であり、その後の分子軌道法は大きく発展することとなる。簡約密度関数によるアプローチも試みられている。 近年の計算機の速度の向上によって、計算化学という新しい学問分野をも生み出した。 2015年8月に理化学研究所計算科学研究機構により、初めての量子化学ハッカソンが開催された。 量子化学の分野は、化学であるが計算機を使用する分野であるため、ハッカソンが適用された。
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百人一首
百人一首(ひゃくにんいっしゅ)とは百人の和歌を一人につき一首ずつ選んで作られた秀歌撰(詞華集)。百人首(ひゃくにんしゅ)とも言われる。 藤原定家が京都小倉山の山荘で鎌倉時代初期に揮毫した小倉山荘色紙和歌に基づくものが「歌がるた」として広く用いられ、後世に定着して小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)と呼ばれている。 小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰であると考えられている。大山和哉によれば、その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生の求めに応じて、定家が作成した色紙であり、蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘(中院山荘)の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼したものとされる。天智天皇から藤原家隆、藤原(飛鳥井)雅経に至る歌人の歌を色紙に書いて送ったことが定家の日記「明月記」(文暦2年(1235)5月27日条)に記載されており、その草稿本といわれる「百人秀歌」と97首が一致していることから、これが百人一首の選定の来歴を示すものと考えられている。現代伝わる百人一首は100人の歌人の優れた和歌が一首ずつ選ばれ、年代順に配列されたものであるが、百人秀歌は歌合方式で記録され必ずしも年代別に配列されておらず、また後鳥羽院と順徳院の2首は明月記の記録や「百人秀歌」には含まれていないことから、後に藤原為家が補綴したという説がある。 小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定されており、定家の日記『明月記』の文暦2年5月27日(ユリウス暦1235年6月14日)の条には「古来の人の歌各一首」を書き送った旨の記述がある。ただし、この時に書き送った物が『百人一首』であったとする確証はなく、学術的には百人秀歌が先行したのか百人一首が先行したのかは難しい論点を含んでいる。また宇都宮蓮生が選んだという説(安藤為章)や、逆に小倉色紙は宇都宮蓮生の別荘にではなく、定家の嵯峨(小倉)山荘に用いられたとの説(冷泉為村)もある。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。
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百人一首
室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。 小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌は百人一首が歴年順で提示されるのに異なり歌合形式で配列されたものと考えられており、101人の歌人から一首ずつ101首を選んで編まれた秀歌撰である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「後鳥羽院と順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていること、2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。その他にも百人一首とテキストの異なる箇所が複数指摘されている。 いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は子孫に受け継がれ、室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。色紙は100枚あったはずであるが後世散逸しており、江戸時代には30枚程度に減じていた。定家は歌道の上で大変あがめられたのでその奇異な書も名筆として尊ばれ評判も値段も高く、なかでも小倉色紙が最高で1枚1000両を越したという。現存の色紙は後世に筆写したものがあり疑問な点が多い。 百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。( )内は漢字の読みを示す。太字は決まり字(上の句は読み基準、下の句は表記基準で判断)を示す。 小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。
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百人一首
小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。 歌の内容による内訳では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅が4首、恋が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首である。 100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。 『百人一首』は単に歌集として鑑賞する以外の用途でも広く用いられている。 たとえば中学や高校では、古典の入門として生徒に『百人一首』を紹介し、これを暗記させることがよくある。これは、それぞれが和歌(5・7・5・7・7の31文字)なので暗唱しやすく、また、後述するように正月に遊戯として触れることも多いので、生徒にとってなじみがあるからである。また、短い和歌の中に掛詞など様々な修辞技法が用いられ、副詞の呼応などの文法の例も含まれることから、古典の入門として適した教材だと言える。 『百人一首』は現在では歌集としてよりも、かるたとしての方が知名度が高く、特に正月の風物詩としてなじみが深い。『百人一首』のかるたは歌がるたとも呼ばれ、現在では一般に以下のような形態を持つ。 百人一首かるたは、百枚の読み札と同数の取り札の計二百枚から成る。読み札と取り札はともに花札のように紙を張り重ねてつくられており、大きさは74×53mm程度であることが一般的である。札の構造、材質、裏面などは読み札と取り札では区別がない。読み札の表面には大和絵ふうの歌人の肖像(これは歌仙絵巻物などを模した意匠が多い)と作者の名、和歌が記されており、取り札には全て仮名書きで下の句だけが書かれている。読み札には彩色があるが、取り札には活字が印されているだけである点が大きく異なる。 かるたを製造している会社として有名なのは、京都の企業である任天堂、大石天狗堂、田村将軍堂で、現在ではこの3社がほぼ市場を寡占している。
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百人一首
かるたを製造している会社として有名なのは、京都の企業である任天堂、大石天狗堂、田村将軍堂で、現在ではこの3社がほぼ市場を寡占している。 江戸期までの百人一首は、読み札には作者名と上の句のみが、取り札には下の句が、崩し字で書かれており、現在のように読み札に一首すべてが記されていることはなかった。これは元来歌がるたが百人一首を覚えることを目的とした遊びであったためであり、江戸中期ごろまでは歌人の絵が付されていない読み札もまま見られる。また、現在でも北海道では、「下の句かるた」というやや特殊な百人一首が行われている。この「下の句かるた」に用いられるかるたでは、上の句は読まれず下の句だけが読まれ、取り札は厚みのある木でできており、表面に古風な崩し字で下の句が書いてある。江戸期の面影を残したかるたであると言える。 21世紀においては、英語に翻訳された百人一首によるかるた大会も行われている。 歌かるたが正月の風俗となったのは格別の理由がある訳ではない。元々は様々な折に子供や若者が集まって遊ぶ際、百人一首がよく用いられたことによるものである。その中でも特に正月は、子供が遅くまで起きて遊ぶことを許されていたり、わざわざ百人一首のための会を行うことが江戸後期以降しばしば見られたりしたこともあり、現在ではこれが正月の風俗として定着しているものであろう。 首を用いたかるたの遊び方には以下のようなものがある。 古くから行われた遊びかたのひとつで、以下のようなルールに従う。 本来の百人一首は上記である散らし取りが一般的であるが、この逆さまかるたは読み札(絵札)が取り札になり、下の句札(取り札)が読み札となるもの。このゲームの目的は「下の句を聞いて上の句を知る」ための訓練ゲームでもある。もちろん、多くの札を取った人が勝ちとなるが、取り札である読み札には漢字が混じるため視覚からくる思わぬ錯覚なども加わって、思わぬところで「お手付き」があるのもこのゲームの特徴である。 源平とは源氏と平氏のこと。二チームに分かれて団体戦を行うのが源平合戦の遊び方である。 北海道で行われる下の句かるた大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。 源平合戦と同じルールだが、取る人が順次交代する点で異なる。交代のタイミングは、自分のチームの札を相手に取られた時、10枚読まれた時など。
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百人一首
源平とは源氏と平氏のこと。二チームに分かれて団体戦を行うのが源平合戦の遊び方である。 北海道で行われる下の句かるた大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。 源平合戦と同じルールだが、取る人が順次交代する点で異なる。交代のタイミングは、自分のチームの札を相手に取られた時、10枚読まれた時など。 ビンゴ系の賭博ゲームで、江戸時代中期から明治時代まで大流行した。各人へ予め取り札を均等に分配して、それぞれが五段のピラミッド状に配置する。そして、読み上げられた取り札を裏返していく。横列が全て裏返された時や、雪月花の語が入った役札が読み上げられた際には、規定した得点のやり取りが行われる。一人に配られた取り札が全て裏返されるとゲームは終了して、得点の高い者が勝ちとなる。文屋康秀の「むべ山風をあらしといふらん」が高得点の役札であることから「むべ山」と呼ばれ、専用札も製造販売されていた。 一般社団法人全日本かるた協会の定めたルールのもとに行われる本格的な競技。毎年1月の上旬に滋賀県大津市にある近江神宮で名人戦・クイーン戦が開催される。名人戦は男子の日本一決定戦であり、クイーン戦は女子の日本一決定戦である。NHK BSで毎年生中継される。また、7月下旬には全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会が行われている。そのほか、全国各地で色々な大会が開催されている。取り札を半分の五十枚しか用いないことが特徴である(ただし読み札は百首すべて読まれる)。 首を読まず、絵柄を利用した遊びもある。 使用する札は読み札のみで、取り札は使用しない。百枚の絵札を裏返して場におき、各参加者がそれを一枚ずつ取って表に向けていくことでゲームが進む。多くのローカルルールが存在するが、多くで共通しているルールは以下のようなものである。 裏向きに積まれた札の山がなくなるとゲーム終了。このとき最も多くの札を手元に持っていた参加者が勝者となる。 様々な地方ルール(ローカルルール)があり、例えば次のようなものが知られている。 坊主めくりは歌を暗記していない子供も参加できる遊びとして考案されたとみられるが、その発祥時期と考案者は明らかでない。江戸時代の文献には現われないことから、明治以降に成立したものと考えられている。
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百人一首
裏向きに積まれた札の山がなくなるとゲーム終了。このとき最も多くの札を手元に持っていた参加者が勝者となる。 様々な地方ルール(ローカルルール)があり、例えば次のようなものが知られている。 坊主めくりは歌を暗記していない子供も参加できる遊びとして考案されたとみられるが、その発祥時期と考案者は明らかでない。江戸時代の文献には現われないことから、明治以降に成立したものと考えられている。 読み札のみを使用し取り札は使用しない。4人で行い、全員に配られた札を向かい合った二人が協力して札をなくしていく。書かれた絵柄で、青冠(あおかんむり)、縦烏帽子、横烏帽子、矢五郎、坊主、姫となる。ただし、天智天皇と持統天皇は特殊で、天智天皇は全ての札に勝ち、持統天皇は天智天皇以外の全ての札には負けるが天智天皇には勝つ。その他の札はどちらにも負ける。絵の書いた人、時期によって、100枚のうちの絵柄の構成が変わるゲームである。 この手順を続け、最初に手札を無くした人のいるペアの勝ち。これを何回か行い勝敗を決める。 「銀行」は1950~60年代まで、各地方で盛んに行われた子供、あるいは大人も入れた家族の遊びである。和歌は使わず、文字札は1、冠の札は10、姫の札は50、弓持ちの札(2枚ある)は150、烏帽子の札は300、坊主は400、台付き札(天皇と皇族)は500、蝉丸の札は最高位の1,000の価値があると見なす。遊び手の一人が「銀行」となり、4・5枚の札を伏せて置いたあと、その他の遊び手はあらかじめ一定額を貰った札の一部を銀行が置いた札の前に置いて賭けて、銀行が「空(あ)きの方(かた)は」などといいながら札を開けた時に、銀行の札の点数が多ければ没収されて、点数が同じなら引き分け、点数が少なければその他の遊び手に利子として支払いをする。手持ちの札の点数が多い人の勝ちで、また銀行に点数が集まり過ぎた時には、銀行はわざと少ない点数の札を置いて、負けてやって、ゲームを続ける。 小倉百人一首の影響を受けて後世に作られた百人一首。以下に代表的なものを挙げる。 明治6年(1873年)刊。黒川真頼選。ローマ字での国語綴輯兼務を命ぜられていた黒川がローマ字綴りの百人一首を刊行。 ここでは、コンピュータを用いるゲームのみを扱う。
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花札
花札()は、日本特有のかるたの一種。花かるた、花がるたとも。今では一般に花札といえば八八花()のことで、一組48枚に、12か月折々の花が4枚ずつに書き込まれている。 48枚という構成は、一組48枚だったころのポルトガルのトランプが伝来した名残である。2人で遊ぶこいこい、3人で遊ぶ花合わせ、という遊び方が一般的である他、愛好家の中では八八という遊び方に人気がある。同じ遊び方でも地域によってルールが異なったり、地域独特の遊び方も存在したりするほか、海外にも伝播している。 日本にカードゲームが初めて上陸したのは安土桃山時代で、南蛮貿易を契機にポルトガル人によって、鉄砲やキリスト教、カステラ等と共に伝えられた。日本の「かるた(歌留多,加留多,骨牌)」の語源は、ポルトガル語でカードゲームを示す「carta」である。天正年間(1573 - 91)にはすでに国産品が作られており、当時の札が1枚だけ現存する。江戸時代には、賭博という閉鎖性と当時の物品流通の事情により、各地で様々なローカルルールが生み出され、それに相応しいように札のデザインも変化していった。それらの札を「地方札」という。 賭博に用いるかるたへの禁制は、江戸時代を通じて出されているが、安永年間(1772-81)の頃から厳しさを増し、寛政の改革ではさらに厳しく取り締まりが行われた。花札は、この禁制からの抜け道として考案されたものと考えられている。それまで12枚×4スートであったものを、花札では数字及びスートの記号を隠すために4枚×12か月とし、図案には主に教育用に用いられていた和歌カルタに偽装された。『摂陽奇観』によると、1816年には花合(= 花札)が禁止されており、この頃までに花札がかなり普及していたことが窺える。
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花札
明治維新以降も引き続き花札は政府により禁止されていたが、1886年には英米のトランプが輸入されることを契機に、花札の販売が事実上解禁され、同年に銀座の上方屋から花札とルールブックが発売された。これにより花札は大正時代にかけて大いに流行した。1892年4月に大審院児島惟謙ら裁判官の花札遊びが問題化、6月起訴され、7月12日免訴となっている(弄花事件)。その一方で、1902年に骨牌税の施行され、花札に課税されるようになると、日本各地のかるた屋は倒産して、地方札は廃れると、各地に伝わる遊び方も伝承されずに消滅していった。なお、任天堂は多くの地方札の原版を保有している。 1975年から2009年夏まで、京都の松井天狗堂が日本唯一の手摺り花札を製作販売していたが、2010年に閉店し、その後 2016年12月5日に三代目・松井重夫が死去したことで、後継者がいない等の理由により、企業が製品として製作販売する 手摺り花札は途絶えたとされている。 現在、花札を製作販売している企業としては、任天堂、田村将軍堂、大石天狗堂、エンゼルプレイングカードなどがある。 明治期に八八花の図柄は固定化され、各メーカーとも新機軸を打ち出すことは少ないが、任天堂は同社が運営しているポイントのグッズ交換用の景品として、自社のコンピューターゲームに登場する看板キャラクター「マリオ」をあしらった(通常の花札48枚のうち16枚の札がオリジナル柄)「マリオ花札(非売品)」を製造した。2015年11月から装いを新たに、全ての札がオリジナル柄(景品版とは異なる)の「マリオ花札」を商品化していた。また様々なキャラクターなどを用いたデザインの花札が、任天堂以外のメーカーからも製造販売されている。 「花札」の「花」は、花鳥がデザインされているためにこの名がつけられたとされ、花電車・花相撲などに使われている「花」の意味を持つとも考えらえている 花札・株札(10月までを使用)・トランプのいずれにも使えるもの。任天堂はじめ複数の製造業者で作られている。13月=閏(雪)は八重垣姫(光)、竹に雀(タネ)、黄短冊(タン)、黄雪の4枚、0月=ジョーカー(蓮)はカス札2枚。何も書かれていない予備の白札。業者によってはキングとジョーカー用のタネ札の絵柄(虎や龍ほか)や花種、短冊の文字(「さゝめゆき」など)が異なる。
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花札
花札・株札(10月までを使用)・トランプのいずれにも使えるもの。任天堂はじめ複数の製造業者で作られている。13月=閏(雪)は八重垣姫(光)、竹に雀(タネ)、黄短冊(タン)、黄雪の4枚、0月=ジョーカー(蓮)はカス札2枚。何も書かれていない予備の白札。業者によってはキングとジョーカー用のタネ札の絵柄(虎や龍ほか)や花種、短冊の文字(「さゝめゆき」など)が異なる。 花札の絵柄は以下の通り。札の名称や漢字はもっとも一般的なもの。「短冊・赤短・青短」は「丹札・赤丹・青丹」とも書く。 なお、札の絵は昔は手書きだったものもあるので細かい違いは多数あるが、現在よく見られる任天堂などの札と構図が大きく違うものは特筆した。 花合わせおよび八八では、札の点数は以下の通りである。 この点数がもっとも一般的だが、地域やゲームの種類によって札の点数は異なる。例えば、六百間では光および「梅に鴬」は50点、短冊と桐の黄色のカス札は10点、カス札は0点として計算する。ただし青丹3枚あるいは文字入りの赤丹3枚を揃えると加点がある。ややこしいケースでは「すだおし」というルールでは手役の時点ではカス・5・10・20点判定は八八のものを使用し、競技開始後は「短冊札=1点」、「動物や鳥の描かれているもの(桜に幕・桐に鳳凰除外)=5点」、「植物だけ+桜に幕・桐に鳳凰=10点」と計算する。また、こいこいでは役を作る時にどれがタネでどれがカスであるかの区別が必要なだけで、得点を計算するときは札の点数は無視される。 もっとも普通に行われている「めくり」系のゲームでは、植物と月名の対応に関する知識はほとんど必要ないが、おいちょかぶを花札でやる場合には月名との対応を覚えていないとプレイできない。 月名は旧暦によっている。しかし、「柳に燕」や桐のように季節に植物が一致しないものがある。 地域やゲームの種類によっては、上の表とは異なる対応になっているものがある。たとえば、ひよこでは、柳が2月、桐が6月、牡丹が11月、梅が12月である。これは名古屋地方では一般的な対応であった。 場札と手札を合わせ、さらに山札をめくって場札と合わせるもの。合わせた札は自分のものになる。取った札によって役を作ることができる。花札のゲームとしてはもっともよく行われている。
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花札
地域やゲームの種類によっては、上の表とは異なる対応になっているものがある。たとえば、ひよこでは、柳が2月、桐が6月、牡丹が11月、梅が12月である。これは名古屋地方では一般的な対応であった。 場札と手札を合わせ、さらに山札をめくって場札と合わせるもの。合わせた札は自分のものになる。取った札によって役を作ることができる。花札のゲームとしてはもっともよく行われている。 イタリアのスコパ・英語圏のカシノや、中国で牌九牌を使った釣魚・トランプを使った撿紅点というゲームに類似している。 札の月の合計の1の位を9に近づけるもの。バカラ・牌九などに似ている。株札を使う地域もあるので、株札のゲームもここに含めた。 札の月の合計を15以下で最大の数に近づけるもの。広義のかぶ系であり、かぶ系に含める場合もある。ブラックジャックに似ている。 台札に対して、1つ上の月の札を出していき、手札を早くなくした側を勝ちとするもの。トランプの「ポープ・ジョーン」などに類似する。 俗に言うイカサマやインチキ。 特定のゲームでのみ使用する用語は除く。
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DFPT法
DFPT法は、密度汎関数摂動論(英語:density functional perturbation theory、略称:DFPT)に基づく電子状態計算の方法の一つ。分子または結晶中の原子核の変位に対応するポテンシャル変化を摂動として扱い、摂動状態についても非摂動状態と同様に、拘束条件付き変分原理を満たす形式で記述できるとした理論。周期系に対するDFPTはBaroniらによって1987年に提唱された。DFPTにより、任意の波数ベクトルを持つ原子の変位に伴う全エネルギーの二階微分を高精度で効率よく計算できる(線形応答理論を使う)。これから基準振動のエネルギーまたはフォノンバンド(フォノンバンドからフォノン状態密度も求められる)を得る事ができる。同様の手法を使ってマグノンの計算をさせることも可能。 DFPT法で扱う系が超伝導体の場合、DFPT法で得られたフォノン(格子振動)に関しての情報と、同時に求めた電子状態の情報から、BCS理論の範囲内での超伝導になる転移温度を求めることができる。通常のバンド計算手法でも、フォノン等の情報が従来型の方法で求められれば上記と同様に超伝導転移温度の計算は可能。 また、フォノンの分散だけでなく誘電率、弾性定数、圧電定数などの応答係数の計算にも適用されている。
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松任谷由実
松任谷 由実(まつとうや ゆみ、1954年〈昭和29年〉1月19日 - )は、日本のシンガーソングライターである。本名同じ。旧姓名及び旧芸名は、荒井 由実(あらい ゆみ)。 1972年にシングル「返事はいらない」でデビュー。一部企画では、愛称の「ユーミン(Yuming)」名義での活動もある。紫綬褒章受章者(2013年〈平成25年〉)。公式ファンクラブは「Yuming Fan Club」。所属レコード会社はユニバーサルミュージック(旧:EMIミュージック・ジャパン)。血液型はO型。 他のアーティストへの作品提供の際には、本名のほか、グレタ・ガルボをもじったペンネームである呉田 軽穂(くれだ かるほ)を使用する場合もある。 夫はアレンジャー・松任谷正隆で、彼女の音楽プロデューサーを務める。 立教女学院高等学校、多摩美術大学美術学部絵画学科日本画専攻卒業。 雲母社取締役、苗場プリンスホテル名誉総支配人(期間限定)。1972年、荒井由実の名でEMIミュージック・ジャパンからデビューし、1976年の結婚以降は松任谷由実へ改姓。2013年、EMIJ解散に伴いユニバーサルミュージックへと自動的に転籍。 1954年1月19日、3男2女の第4子(次女)として生まれる。6歳からピアノ、11歳から三味線、14歳からベースを始めた。 1966年4月立教女学院中学校に進学。 中学時代には、当時国内外の文化人が集まるサロン的存在だった港区麻布台のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていた。またフィンガーズの追っかけもしていた。のちに同レストランに集まったアーティストからアルファレコードが生まれ、デビューのきっかけを作った。 立教女学院高校に進学し、当時「(立教女学院の)パイプオルガン、プロコル・ハルムに強い衝撃を受けた」と語っている。また高校にかけては、御茶の水美術学院に通い、年長の同窓生の影響でアルチュール・ランボー、ジャック・プレヴェールを愛唱、多大な影響を受ける。 14歳のころ、当時親しかったシー・ユー・チェンが荒井を「ユーミン」と呼び始め、これがのちに愛称として定着する。
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松任谷由実
立教女学院高校に進学し、当時「(立教女学院の)パイプオルガン、プロコル・ハルムに強い衝撃を受けた」と語っている。また高校にかけては、御茶の水美術学院に通い、年長の同窓生の影響でアルチュール・ランボー、ジャック・プレヴェールを愛唱、多大な影響を受ける。 14歳のころ、当時親しかったシー・ユー・チェンが荒井を「ユーミン」と呼び始め、これがのちに愛称として定着する。 1971年、高校3年生のときに書いたデモテープが採用され、加橋かつみに「愛は突然に...」を提供し、17歳で作曲家としてデビューした。採用した日本フォノグラムのプロデューサー・本城和治は「ユーミンの声はフランソワーズ・アルディが歌っているみたいな、日本人にはちょっといないタイプで好きになりました。それでレコーディングにも来てもらったんですが、すごくいいセンスしていると思ったのに、彼女を歌手にしようという発想はできなかった。プロデューサー人生、最大の失敗と言っていいかもしれない。彼女は当初は好きだったブリティッシュポップ系の作品が多かったんですが、マンタ(松任谷正隆)と付き合うようになってから、アメリカンポップスも聴くようになった。それで『ルージュの伝言』みたいな曲も書くようになったんです」などと述べている。 染色の専攻を志し、1972年4月に多摩美術大学に入学。 元々作曲家志望だったが、アルファレコードを設立した村井邦彦の勧めで、同年7月5日にかまやつひろしがプロデュースしたシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー。しかし同シングルは数百枚しか売れなかった。 1973年11月に、キャラメル・ママらとレコーディングしたファーストアルバム『ひこうき雲』を発売。デビュー時は特に話題になることはなく、デビューから1年半の間は、パーソナリティ・林美雄が金曜日第2部(27:00 - 29:00)を担当していたTBSラジオの深夜放送「パックインミュージック」以外にはマスメディアに取り上げられない状況が続いたが、林のプッシュもあり、徐々に知名度を上げてゆく。石川セリや山崎ハコも、同番組により知られるようになった。 1974年より本格的にステージ活動を開始する。 デビュー直後は「女拓郎」「女陽水」と呼ばれたが、「私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいもの」などと著書で述べている。
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松任谷由実
1974年より本格的にステージ活動を開始する。 デビュー直後は「女拓郎」「女陽水」と呼ばれたが、「私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいもの」などと著書で述べている。 1975年8月発売のフォークグループバンバンへの提供曲「『いちご白書』をもう一度」が1位を獲得し、また同年10月発売の自身のシングル「あの日にかえりたい」(TBSドラマ『家庭の秘密』主題歌)が、初のオリコンチャートシングル1位を獲得、1976年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなった。このヒットがきっかけとなり、自身の過去作品『ひこうき雲』や『MISSLIM』の売り上げも急激かつ長期的に上昇し、75年発表の『COBALT HOUR』は46万枚以上を売り上げるヒット、76年発表の自身初のベストアルバム『YUMING BRAND』は初となるアルバム1位を獲得、76年アルバム年間ランキングでも3位の大ヒットとなり、荒井由実期における最大の売り上げを誇るなど、1975年後半から1976年にかけて荒井由実ブーム(第一次ブーム)が到来する。
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松任谷由実
『映画ファン(eiga fan)』(愛宕書房)は、1976年4月号で『フォーク界にふきあれるウーマン・リブ旋風 女性シンガー・ソングライターたち』という特集を組み、吉見佑子は「出揃ったばかりの女性シンガー・ソングライターたち」「女性シンガー・ソングライターがあっという間に増えてしまったという感じが強いニューミュージックの世界。どうしても男のコの印象の方が強烈だけど、女のコもなかなかどうして立派な足並みが春に向かって揃いそう」と、当時抬頭が目立った女性シンガー・ソングライターたちを取り上げ、荒井由実、イルカ、吉田美奈子、五輪真弓、金子マリ、山崎ハコ、中山ラビらを紹介し、冒頭で荒井を取り上げ、「歌そのものより、歌ってるムードがチャームポイント。フォークとかロックとかそういうジャンルに見せる歌として登場して華麗にユーミンの世界をつくりあげたことはとてもすてきなお話。八王子の歌姫も今やファンタジックなポップスターとしてアイドル的存在になった。作詞・作曲の方もバンバンの『『いちご白書』をもう一度』というビッグ・ヒットを生んで以来、大忙しで着実に作りつづけていることは御立派。青春そのものの詩を書かせたら、やっぱりきれいでわくわくしまう。『ひこうき雲』の頃はあのすました笑顔のゆくえがうつろだったけど『コバルトアワー』あたりでユーミンの世界がはっきり見えたみたい。ユーミン・ファンとしては歌いつづけられる限り、こわれそうな青春を表現してもらいたい」などと評している。また番組名が書かれていないが、「1976年3月14日(日)の夜、TBSテレビの夜7:30~9:00枠で、今までも一部の放送局でミニ・コンサートを開いたことはあるが、ユーミンが初めて全国ネットのテレビに出演する」と書かれている。荒井のシングルヒットは前述のように1975年10月リリースの「あの日にかえりたい」が初めてであるが、これ以前の女性シンガー・ソングライターの大ヒットとしては、1973年12月リリースの小坂明子「あなた」、1974年3月リリースのりりィ「私は泣いています」、1975年5月リリースの小坂恭子「想い出まくら」などがあり、彼女たちは毎日のようにテレビに出て歌ったが、荒井はテレビに全く出なかったため、当時のテレビの影響力を考えれば、荒井が世間一般からどの程度の知名度があったものなのかは分からない。1970年代半ばころから、荒井らニューミュージック系歌手のアルバムがチャートを席捲してはいたが、シングルレベルでは歌謡曲・演歌・企画ものがまだまだ強い時代であった。1979年5月5日発行の『NEW MUSIC LAND』(近代映画社)での特集「NEW MUSIC HISTORY」では「1976年7月に丸山圭子の『どうぞこのまま』が発売され、女性シンガー・ソング・ライターが注目され、ブームが起こる」と書かれている。
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松任谷由実
荒井は自身の音楽性について『月刊平凡』1976年5月号のインタビューで「音楽は趣味でやってます。ブルジョアだから悪いってことない。私の音楽はイージーリスニング。BGMみたいなもの。朝起きたとき、夜寝る前に、ふっとかけてみたくなるような音楽がつくれたら」と述べている。 1976年11月29日、松任谷正隆と横浜山手教会にて結婚、その後は松任谷由実として音楽活動を続行する。結婚を機に歌手活動を辞めて曲作りに専念したいと考えていたと本人は語っている。 結婚以降、荒井由実ブームが下火になったことや改名の影響などもあり、78〜80年のアルバムの売り上げは10〜20万枚に留まるなど全盛期に比べ大幅に減退し、しばらくの間不振が続いた。但し、興業的には低迷期であったが、曲のクオリティは依然として高く、現在でもメジャーである「埠頭を渡る風」「青いエアメイル」「DESTINY」「恋人がサンタクロース」などの楽曲はこの期間に制作されたものである。 その後、1981年6月のシングル「守ってあげたい」が1981年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第二次ブームが到来。その年のアルバム『昨晩お会いしましょう』は荒井由実期の最後のアルバム『14番目の月』以来5年ぶりの1位獲得となり、それ以降のオリジナルアルバムは、1997年発売の『Cowgirl Dreamin'』まで17枚連続でオリコン1位を獲得することとなる。 ブレッド&バター、松田聖子、小林麻美などへの楽曲提供の傍ら、1978年から1983年はオリジナルアルバムを毎年2枚リリースした。前述の「埠頭を渡る風」「青いエアメイル」「DESTINY」「恋人がサンタクロース」に加え「カンナ8号線」「真珠のピアス」「ダンデライオン〜遅咲きのたんぽぽ」「時をかける少女」などもこの頃制作された。また、リゾート地でのコンサートのスタイルをこの時期に確立した。
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松任谷由実
ブレッド&バター、松田聖子、小林麻美などへの楽曲提供の傍ら、1978年から1983年はオリジナルアルバムを毎年2枚リリースした。前述の「埠頭を渡る風」「青いエアメイル」「DESTINY」「恋人がサンタクロース」に加え「カンナ8号線」「真珠のピアス」「ダンデライオン〜遅咲きのたんぽぽ」「時をかける少女」などもこの頃制作された。また、リゾート地でのコンサートのスタイルをこの時期に確立した。 1979年以降はコンサートの大規模化が始まり、本物の象を登場させた「OLIVE」、マジックを取り入れた「MAGICAL PUMPKIN」、エレベータを設置した「BROWN'S HOTEL」、噴水ショー「SURF & SNOW」、30メートルの竜に乗った「水の中のASIAへ」など年々エスカレートしていった。当時のインタビューでも「レコードで儲けた分、コンサートで夢と一緒にファンの方にお返しするのが役目」と語っていた。 1980年代頃は、他者への楽曲提供も積極的に行っており、旧知の仲である松本隆からの依頼で松田聖子の「赤いスイートピー」の作曲を引き受けている。引き受けるの際の条件として使用した変名が「呉田軽穂」である。作曲家としてではなく名前(知名度)で選ばれる事を嫌ったためであったが、夫の正隆が編曲者として実名でクレジットされており、松任谷の作曲であることはすぐに知られるようになった。以降聖子に対してシングル曲を次々と提供しヒットさせており、他者の楽曲提供の際にも呉田軽穂の変名を使うようになった。
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松任谷由実
1981年に端を発する第二次ブーム以降、アルバムの売り上げは高水準に保たれ、若干の増加傾向の中、凡そ50〜70万枚で安定的に推移していた。その中、1988年のアルバム『Delight Slight Light KISS』の売り上げが、前年発売のアルバム『ダイアモンドダストが消えぬまに』の77万枚から、158万枚と一気に約2倍のセールスへと急増し、自身初となるアルバム年間ランキング1位を獲得した。この年の音楽界は松任谷由実の独走状態となり、同アルバムは次作が発売されるまでの約一年間、オリコンチャートにランクインし続けることとなった。また翌1989年の『LOVE WARS』、1990年の『天国のドア』と 3作品連続で年間1位を獲得。特に『天国のドア』では、当時の日本のアルバム最高売上記録を約10年ぶりに更新し、史上初のアルバム200万枚出荷を記録。翌1991年発売の『DAWN PURPLE』に至ってはオリコン史上初の初動ミリオンを達成するなど、第三次ブームが到来した。以降、1995年の『KATHMANDU』までの80年代後半から90年代半ばにかけてオリジナルアルバム8作連続のミリオンセラーを獲得する。 1985年以降の「バブル景気」時代人気の高かったスキーを題材にした映画『私をスキーに連れてって』(1987年)の主題歌と挿入曲を担当し、「若者のカリスマ」、「恋愛の教祖」などと呼ばれた。 当時比較されがちであった、中流以下の地方の若者に人気のあった中島みゆきの作風とは一線を画し、「中流以上の育ちじゃないとわからない世界観」、「中産階級の手に届く夢」(当時の音楽ライターによる表現)を歌って、90%以上の日本人が「自分を中流と思っている」という、一億総中流かつ上昇志向のバブル時代に沸く時代の波に乗った。 1990年代のバブル崩壊後は精神世界や民族音楽にも着目するようになり、「満月のフォーチュン」「DAWN PURPLE」「真夏の夜の夢」「砂の惑星」「春よ、来い」「輪舞曲」などを作曲する。
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松任谷由実
1990年代のバブル崩壊後は精神世界や民族音楽にも着目するようになり、「満月のフォーチュン」「DAWN PURPLE」「真夏の夜の夢」「砂の惑星」「春よ、来い」「輪舞曲」などを作曲する。 1993年、TBS系列ドラマ『誰にも言えない』主題歌となった「真夏の夜の夢」はシングルで自身初のミリオンセラーとなり、翌1994年発売の「Hello, my friend」「春よ、来い」も続けてミリオンセラーを記録、 3作品連続でのミリオンセラーとなった。また、同年末発売のアルバム『THE DANCING SUN』はオリジナルアルバムとして自己最高の217万枚を売り上げるなど、第四次ブームと呼べる年となった。 1996年、荒井由実名義でのセルフカバーシングル「まちぶせ」を発売。また、当時の仲間のミュージシャンを集めて、『Yumi Arai The Concert with old Friends』を開催した。このライブ・アルバム発売に伴い、年末リリースのアルバムが数か月遅れた。これ以降、恒例となっていた活動サイクル(冬のアルバム発売〜夏までツアー)が若干緩やかになった。 1998年には松任谷由実時代以降のベスト・アルバム『Neue Musik』が 380万枚を売り上げ、自身が発表した全作品の中で最大の売上を記録している。 1999年にはロシアのサーカスチームとコラボレートしたコンサート『シャングリラ』を開催。同コンサートは2003年に『シャングリラII』、2007年にはシリーズ最後を飾る『シャングリラIII』として開催された。『シャングリラ』3回の総制作費は120億円以上、観客動員数は100万人。 国立国語研究所の調査によると、松任谷由実及び中島みゆきの歌詞中の外国語割合は2000年以降減っており、日本語回帰傾向となった。
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松任谷由実
国立国語研究所の調査によると、松任谷由実及び中島みゆきの歌詞中の外国語割合は2000年以降減っており、日本語回帰傾向となった。 2005年、NHK紅白歌合戦(第56回)に松任谷由実 with Friends Of Love The Earth名義で初出演。それ以前は「家でおせち料理を作るから」という理由で出場を辞退していた。2011年春には、NHK『SONGS』の企画で新たにレコーディングされた「(みんなの)春よ、来い」第1弾を5月に配信、11月には第2弾「(みんなの)春よ、来い 2011年秋編」、2012年3月には「(みんなの)春よ、来い 2012」を配信。収益のすべてが東日本大震災の被災地へ寄付された。 2012年、荒井由実時代・松任谷由実時代を通じたベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』がオリコンチャートにて初登場1位となり、累計でのCDアルバム売り上げ枚数が 3,000万枚を突破、ソロアーティストならびに女性アーティスト初の記録となった。 2012年、2014年、2017年には帝国劇場にて『ユーミン×帝劇』を開催。 2013年、デビュー以来所属していたレコード会社・(東芝音楽工業→東芝EMI→)EMIミュージック・ジャパンの吸収合併に伴い、ユニバーサルミュージックへと自動的に転籍した。 2013年春の叙勲で紫綬褒章受章。 同年、「岩谷時子賞」を受賞(岩谷時子存命中最後の受賞者となった)。 2015年、石川県観光ブランドプロデューサーに就任。 2016年には38枚目のオリジナルアルバム『宇宙図書館』がオリコンチャートにて初登場1位を獲得。 2017年、東京芸術文化評議会委員に就任。世田谷区名誉区民。 2018年にはベストアルバム『ユーミンからの、恋のうた。』がオリコンチャートにて初登場1位を獲得。また同ベストアルバムとともに、前ベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』が8位にランクインし、ランキングトップ10に2作同時ランクインすることとなった。 2018年9月には、荒井由実時代を含めたほとんどのアルバムとシングルのサブスプリクション配信が開始された。2019年8月23日、公式YouTubeチャンネルで歴代ミュージック・ビデオの内、33作品が公開された。
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松任谷由実
2018年9月には、荒井由実時代を含めたほとんどのアルバムとシングルのサブスプリクション配信が開始された。2019年8月23日、公式YouTubeチャンネルで歴代ミュージック・ビデオの内、33作品が公開された。 2020年12月1日には、4年ぶりのアルバム『深海の街』を発売し、2021年9月30日からそれに連動した全国60公演に及ぶコンサートツアー『深海の街』を開催した。 2022年10月4日には、デビュー50周年記念としてベストアルバム『ユーミン万歳!』を発売。オリコンチャートにて、 2週間連続1位を達成。これにより、自身の持つ「ソロアーティストによるアルバム1位獲得作品数」における歴代1位記録を25作に更新し、オリコン史上初となる 1970年代から2020年代の6年代連続でのアルバム1位獲得を達成。また「アルバム1位獲得最年長アーティスト」記録において、歴代で2位、女性アーティストとして歴代1位となった 。(2022年11月現在) 同年、シンガーソングライターとして史上初となる文化功労者に選出 。これに対して松任谷はコメントを発表した 。 2022年12月15日に日本テレビで放送された「世界一受けたい授業2時間SP」で、今後の大きな夢として「羽田空港の名称をユーミン空港にすること」と語っている。 近年は手嶌葵、一青窈、NOKKO、岩沢幸矢、鈴木雅之、松田聖子、Char、薬師丸ひろ子への楽曲提供も行っている。 ※順位は全てオリコンの発表に基づく。 タイアップのあった曲のみ キーボード:松任谷正隆 など ドラム:林立夫、VINNIE COLAIUTA、JOHN ROBINSON、島村英二、江口信夫、MIKE BAIRD、渡嘉敷祐一 など ベース:高水健司、細野晴臣、NEIL STUBENHAUS、美久月千晴、LELAND SKLAR など ギター:松原正樹、鈴木茂、DEAN PARKS、鳥山雄司、松任谷正隆、MICHAEL LANDAU、今剛、PAUL JACKSON, JR. など パーカッション:斉藤ノヴ、浜口茂外也、ペッカー、MICHAEL FISHER、LUIS CONTE など サックス:DAN HIGGINS、山本拓夫、JAKE H. CONCEPCION、LARRY WILLIAMS など
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松任谷由実
ギター:松原正樹、鈴木茂、DEAN PARKS、鳥山雄司、松任谷正隆、MICHAEL LANDAU、今剛、PAUL JACKSON, JR. など パーカッション:斉藤ノヴ、浜口茂外也、ペッカー、MICHAEL FISHER、LUIS CONTE など サックス:DAN HIGGINS、山本拓夫、JAKE H. CONCEPCION、LARRY WILLIAMS など トランペット:JERRY HEY、GARY GRANT、西村浩二、菅坡雅彦、数原晋、羽鳥幸次 など トロンボーン:BILL REICHENBACH、村田陽一、新井英治、平内保夫、岡田澄雄 など フルート:DAN HIGGINS、JAKE H. CONCEPCION、衛藤幸雄 など ストリングス:阿部雅士ストリングス、スージー片山ストリングス、日色ストリングス、トマト・ストリングス・アンサンブル、玉野嘉久 など コーラス:今井マサキ、佐々木詩織、OTOTACHIBANA、シュガーベイブ(山下達郎、大貫妙子、村松邦男)、吉田美奈子、ハイ・ファイ・セット、BUZZ、タイム・ファイブ、EVE(LEONA、CLARA、LILIKA)、桐ヶ谷仁、桐ヶ谷‘‘BOBBY’’俊博、白鳥英美子、杉真理、須藤薫、木戸やすひろ、比山貴咏史、広谷順子、The Waters、松任谷正隆 など ジャパンエフエムネットワーク(JFN)の系列番組では、1982年の担当開始から枠がなくなったことがない。
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伊丹十三
伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、1933年〈昭和8年〉5月15日 - 1997年〈平成9年〉12月20日)は、日本の映画監督、俳優、エッセイスト、雑誌編集長、商業デザイナー、イラストレーター、CMクリエイター、ドキュメンタリー映像作家。料理通としても知られた。本名は池内 義弘(いけうち よしひろ)。 大ヒット映画作品を連発した映画監督である。監督デビューは51歳と遅咲きだったが、それまでに表現手段を追究する職を多数経験し、その集大成として映画に挑戦し、ヒットメーカーとなった。 1984年の監督デビュー作である『お葬式』からいきなり数々の映画賞を獲得するなど絶賛を浴びた。その後、『タンポポ』『マルサの女』『マルサの女2』『あげまん』『ミンボーの女』『大病人』『スーパーの女』『マルタイの女』などを演出し、いずれも大ヒットを記録した。しかも一般観客からも映画評論家からも、ともに高く評価されていたことは特筆に値する。 俳優としての出演も数十作品に及び(#出演作品を参照)、1983年(昭和58年)公開の『家族ゲーム』『細雪』の演技でキネマ旬報助演男優賞を受賞。エッセイストとしての代表作には『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』『小説より奇なり』など。CM出演も多数(#CM)。 妻の宮本信子は、伊丹の監督デビュー後は伊丹作品の多数で主演女優として作品のヒットに貢献し、それ以前から家庭でも多面的にその成功に貢献しつづけていた。二人の間の長男の池内万作も俳優となった。 愛媛県松山市に伊丹十三記念館が開設され、多方面にわたる才能を持ち容易に語ることはできない伊丹の足跡が紹介されている。また伊丹を記念してその名を冠した「伊丹十三賞」がさまざまな表現者たちに贈られている。 周防正行は『マルサの女』のメイキング映像を撮影してくれと依頼され、それを撮影することにより伊丹の映画製作現場や監督業をつぶさに観察する機会を得たことで、自身も映画監督となるきっかけをつかみ、伊丹同様に日本映画界を盛り上げてゆく存在となった。
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伊丹十三
周防正行は『マルサの女』のメイキング映像を撮影してくれと依頼され、それを撮影することにより伊丹の映画製作現場や監督業をつぶさに観察する機会を得たことで、自身も映画監督となるきっかけをつかみ、伊丹同様に日本映画界を盛り上げてゆく存在となった。 映画監督の伊丹万作を父に、京都市右京区鳴滝泉谷町に生まれる。池内家の通字が「義」だったため、祖父の強い意向で戸籍名は義弘と命名されたが、父は岳彦と命名する予定だったため家庭では父の意向により「岳彦(たけひこ)」「タケチャン」と呼ばれて育ち、本人も岳彦だと思い育った。そのようなややこしい事情があったので、戸籍名は一応は「池内 義弘」(いけうち よしひろ)だが、むしろ「本名・池内岳彦(いけうち たけひこ) 」とも。生後7か月で京都市右京区嵯峨野神ノ木町に転居。2歳の時、妹ゆかり(長じてのち1960年に大江健三郎と結婚)が誕生。 1938年4月末、父の東宝東京撮影所移籍に伴い東京市世田谷区祖師谷に転居。1940年、世田谷区立桜第一小学校入学。 1940年末の父の東宝退社に伴い、1941年、京都市上京区(現・北区)小山北大野町に転居、京都師範男子部附属国民学校(現・京都教育大学附属京都小学校)に転校。1944年、同校の特別科学教育学級に編入される。この学級では、戦時中としては例外的な早期英語教育を受ける。級友に湯川秀樹の長男湯川春洋や、貝塚茂樹の長男で経済学者の貝塚啓明、日本画家の上村淳之がいる。1946年、京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)入学の年に父が死去。同窓に共同通信労組の林直久がいた。1947年10月、京都府立洛北高等学校併設中学校に転校。1948年10月、京都府立山城高等学校併設中学校に転校。1949年4月、京都府立山城高等学校に入学。夏より、スクリプター野上照代が「飯炊き係」として約1年同居し世話をした。1950年1月以降は休学。
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伊丹十三
1950年、愛媛県松山市小坂町の寺院・多聞院の一室に移り、母や妹と同居を開始。1950年4月14日、1学年遅れで愛媛県立松山東高等学校に転入。同校では文藝部誌「掌上」第1号に黒田匡の筆名で創作「気分」を発表。また、巻末の「編輯雑感」にも池内義弘の名で執筆。1951年、2年次から転入した大江健三郎と親交を結ぶ。同年8月1日、同校演劇部の「彦一ばなし」「夕鶴」などの公演に裏方として参加。同年10月から休学。 1952年4月、愛媛県立松山南高等学校2年次に転入。1954年3月、20歳で同校を卒業。その後に上京し、新東宝編集部に就職。 同年、新東宝での映画編集の仕事を経て商業デザイナーとなり、車内の吊り広告や目次のデザインなどを手がける。この頃山口瞳と出会い、のちに山口の小説『人殺し』のタイポグラフィを手がけるなど、生涯にわたる親交を結ぶ。デザイナーとしての手腕は晩年まで活かされ、自著をはじめとする本の装丁、ブックカバー、ポスター、宮本信子の楽屋暖簾などもデザインした。とくにレタリングには定評があり、映画監督の山本嘉次郎によれば「伊丹十三さんの明朝体は、日本一である。いや世界一である」と評するほどだった。 舞台芸術学院に学び、1960年1月、26歳の時大映に入社、父伊丹万作と小林一三の名にちなみ「伊丹 一三」という芸名を永田雅一にもらい俳優となる。 身長は180cm。当時の日本人としては、そして俳優としても、かなり背が高い方だった。 1960年5月11日にスクリプター野上照代より、日本映画界の巨人である川喜多長政・川喜多かしこの娘の川喜多和子を銀座のバーで紹介され、同年7月13日に東京・国際文化会館にて結婚。式には、結婚したばかりの作家であり友人の大江と妹ゆかりも参列した。 1961年、大映を退社する。その後『北京の55日』(1963年)『ロード・ジム』(1965年)などの外国映画に出演し、話題となる。 1962年に妻・和子と自主短編作品『ゴムデッポウ』を制作、1963年に勅使河原宏監督の「砂の女」と同時上映された。 1965年には、外国映画に出演した際のロケ道中をまとめたエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』を出版しヒット。その後も『女たちよ!』など軽妙なエッセイを次々と発表し、文筆業にも活動の場を広げた。
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伊丹十三
1962年に妻・和子と自主短編作品『ゴムデッポウ』を制作、1963年に勅使河原宏監督の「砂の女」と同時上映された。 1965年には、外国映画に出演した際のロケ道中をまとめたエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』を出版しヒット。その後も『女たちよ!』など軽妙なエッセイを次々と発表し、文筆業にも活動の場を広げた。 NHKドラマ「あしたの家族」(1965年~1967年)で、共演者の一人であった女優の宮本信子と不倫交際に発展した。1966年10月26日、川喜多和子と協議離婚。1967年4月、「マイナスをプラスに変える」意味で「伊丹 十三」と改名。1969年元日に山口瞳の媒酌で宮本と再婚。結婚式は東京都国立市にある谷保天満宮であげ、6日に婚姻届を提出。そして子供を二人もうける(長男は俳優の池内万作、次男は池内万平)。家事や子育てにも関心が深く、著書訳書もある。ちなみに長男の万作は父の筆名から名前をそのまま取って命名された。 1970年代に入るとテレビ番組制作会社テレビマンユニオンに参加し、『遠くへ行きたい』等のドキュメンタリー番組の制作に関わり、自らレポートする。この時に培ったドキュメンタリー的手法は、その後の映画制作にも反映している。また『日本世間噺大系』『小説より奇なり』に見られる、独特の聞き書き文体はこの時代の経験を反映している。また1970年代後半には『アフタヌーンショー』のレポーターを務め、緻密な画力で犯罪現場を生放送のスタジオで描いてみせた。 岸田秀の『ものぐさ精神分析』(1977年)を読み、彼の主張する唯幻論に傾倒する。1978年12月、岸田との共著『哺育器の中の大人 精神分析講義』(朝日出版社)を上梓。また、1982年に刊行された『ものぐさ精神分析』中公文庫版の解説を書く。 1981年、岸田らを中心に取り上げた現代思想の雑誌『モノンクル』(フランス語で“僕のおじさん”の意)をに創刊、編集主幹を務めた。しかし、6号で終刊となる。伊丹の関わった記事のいくつかは、『自分たちよ!』に収録されている。1982年、インタビューで編集長の仕事を問われ「あんまり向いていないというか......雑誌というのがよくわかっていなかったのかなあ。商売と結びつかないでしょう。仕事としてはおもしろい。最初の何号かは気に入っている」と語っている。
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伊丹十三
俳優活動としては、『家族ゲーム』(1983年)、『細雪』(1983年)で、キネマ旬報賞助演男優賞、報知映画賞助演男優賞を受賞した。 文化人らが伊丹の周辺に集まり、一種のサロンを形成していた。コピーライターの糸井重里、自称「ゲージツ家」の篠原勝之、作家の村松友視などである。 1984年に51歳で、『お葬式』で映画監督としてデビューし、日本国内で高い評価を受ける。この作品で受賞した映画賞は、日本アカデミー賞、芸術選奨新人賞を始めとして30を超えた。この映画は信子の父の葬式がきっかけであり、わずか一週間でシナリオを書き上げた。 なお、本作はその著作を読み漁り講演などには必ず駆けつけるほど傾倒していた蓮實重彦の「理論」を強烈に意識して制作されたものであり、主に1930年代から1940年代のハリウッド映画のシーンやショットの引用が多数ちりばめられている。しかし、試写会に訪れた蓮實に対し伊丹は歩み寄り声を掛けたが、蓮實は無下に「ダメです」と返答しただけだった。伊丹は蓮實からの予想外な酷評にひどく失望したと言われているが、その影響からか2作目以降は「引用の織物」による「芸術的」な側面は姿を消し、もっぱらエンターテインメントに徹した作風となっている。 またこの作品で、伊丹は前歴の俳優・エッセイスト・ドキュメンタリー作家・CM作家・イラストレーター・商業デザイナーとしての全ての経験が活かせることを発見し、その後も食欲と性欲の未分化な人びとを喜劇的に描いた『タンポポ』、国税局査察部(通称「マルサ」)に対する徹底した取材を元にした『マルサの女』、ヤクザの民事介入暴力と戦う女弁護士を描いた『ミンボーの女』など、日本の社会に対する強い問題意識をもちながら、かつエンターテインメント性に富み、映画史的引用や細部にこだわった映画作品を創ったことで、一躍当時の日本を代表する映画監督となり「伊丹映画」というブランドを築くことに成功する。
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伊丹十三
特に1992年の『ミンボーの女』では、ゆすりをやる暴力団は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描き、観客は大喜びした。これまで日本では、映画でヤクザ(暴力団員)をヒーローとして扱い礼賛していた(「ヤクザ映画」という一ジャンルが存在する)。公開1週間後の5月22日夜に、自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治3ヶ月の重傷を負うが、伊丹は「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した。病院に搬送された際に取材陣から「大丈夫ですか!?」と声をかけられ、声こそ出なかったもののピースサインで応えた。警察は現場の車から山口組系後藤組の犯行であることを突き止め、5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。 1993年5月には自称右翼の男が『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど、数々の被害や脅迫・嫌がらせを受けることとなったが、襲撃事件により身辺警護を受けた。身辺警護の経験は1997年の『マルタイの女』で映画化された。 また『タンポポ』は、アメリカでも配給され評判となった。 演出面での特徴は、俳優に対して一言一句のアドリブも許さず、画面に映る全ての小道具に一切の妥協を許さないという厳格なものであった。しかし、俳優がNGを出しても決して怒鳴り散らしたりしなかったため、俳優にとっては非常にやりやすかったという。また、『お葬式』以降、一貫して「死」にこだわり続け、端役が死ぬような場面でも演出には熱がこもっていた。全体が食にまつわる気楽なコメディであり生命賛歌でもある(ラストは母乳を飲む赤ちゃんの映像である)『タンポポ』にも、死のイメージは挿入され、本筋と関係なく登場し続ける白服ヤクザは最後に銃弾を浴びて落命する。 1997年12月20日、伊丹プロダクションのある東京都港区麻布台3丁目のマンション南側下の駐車場で、飛び降りたとみられる遺体となって発見された。葬儀は故人の遺志により執り行われなかった。当初からその経緯について様々な説が飛び交った。
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伊丹十三
1997年12月20日、伊丹プロダクションのある東京都港区麻布台3丁目のマンション南側下の駐車場で、飛び降りたとみられる遺体となって発見された。葬儀は故人の遺志により執り行われなかった。当初からその経緯について様々な説が飛び交った。 かつて『ミンボーの女』公開後に襲撃事件があったことから、当初から暴力団の関与を疑う声はあった。ただ、事務所にワープロ印字の遺書らしきものが残されていて、そこに「身をもって潔白を証明します。なんにもなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです。」との文言があったことから、写真週刊誌『フラッシュ』によりSMクラブ通いや不倫疑惑が取り沙汰されたことに対する抗議の投身自殺か、とも推測されるようになった。だが、伊丹はレタリングデザイナーとして日本有数と自負する存在であり、書き文字には人一倍の愛着とこだわりを持っていたことから、遺書が手書きでなくワープロで打たれていた点が不自然とされた。また死の直前に『FLASH』の記者から不倫疑惑について問われた際、伊丹は笑いながら「妻に聞いてみればいいよ」「(不倫疑惑は)いつものことだから」と軽口で答え、その様子が『FLASH』誌面に掲載されている。また死の5日前まで医療廃棄物問題の取材も続けていた。「飛び降り自殺」はまさにその直後のことであり(インタビュー、『FLASH』発売直後)、自殺直前の様子との不自然さから、その「自殺」には強い疑惑が持たれ続けている。 ジェイク・エーデルスタインの著書によれば、伊丹は当時後藤組と創価学会の関係を題材にした映画の企画を進めており、後藤組組長の後藤忠政がそれを快く思わず、後藤配下の5人が伊丹の体をつかんで銃を突きつけ屋上から飛び降りさせたと、自身が取材した人物が語ったという。また大島渚や立川談志など古くから伊丹十三を知る人物も、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と話し自殺を否定した。
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伊丹十三
伊丹映画に出演経験のある伊集院光は、1997年9月22日に行われた伊丹監督作品10作品目「マルタイの女」記者発表兼記念パーティーの席上で「OLがたくさん出るような映画を撮りたいから、また出てくれる?」と言われたという。 俳優・中尾彬はキャリアウーマン物「キャリアの女」の企画を聞いていた。また「すでに5~6本の新作の台本が出来上がっていた」とも言われている。 最後のバラエティー番組出演は、1997年9月29日放送の『SMAP×SMAP』での妻の宮本信子との共演となった。 宮本信子は、2002年12月20日の「感謝の会」における挨拶で「本人が決めたことですから仕方がないですけれども」と語っており、伊丹の死後、プロデューサーの玉置泰に伊丹の遺書が渡されている。 2005年1月、インターネットの掲示板上で、伊丹の死が創価学会によるものという風評が掲載された。創価学会は事実無根として掲示板の管理者に対し訴訟を起こす。2009年2月、東京地裁は原告創価学会の主張を認め、被告に80万円の損害賠償を命じた。 2000年、大江健三郎の小説『取り替え子』に伊丹十三を思わせる人物が描かれ、話題となった。 2007年5月、少年時代の一時期を過ごした愛媛県松山市に、妻・宮本信子が「伊丹十三記念館」をオープンさせた。晩年になって東京から移り住んだ湯河原の家などから遺品を集め、展示している。 2008年、伊丹十三記念館を運営しているITM伊丹記念財団理事長兼一六本舗代表取締役社長玉置泰が、伊丹十三賞を創設した。2009年から「言語表現を主軸としたもの」および「映像・ビジュアル表現を主軸としたもの」を毎年交互に選出し賞を贈っている。 妻は宮本信子。女優でありながら、こだわりの強い伊丹のために私生活でも柔軟に伊丹色に染まり、精神面でも家事面でもその成功を支え続け、ついには伊丹の映画作品に何度も主役出演し映画作品の成功にも寄与、監督としての伊丹とも分けて語ることができない存在となった。伊丹亡き後も女優業を続け、伊丹十三記念館の館長に就任した。 長男は池内万作(俳優)。次男は池内万平(伊丹プロダクション取締役)。 ノーベル賞作家の大江健三郎は、妹・ゆかりの夫で義弟にあたる。ギタリストの荘村清志は従弟。 ほか
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大森一樹
大森 一樹(、1952年〈昭和27年〉3月3日 - 2022年〈令和4年〉11月12日)は、日本の男性映画監督、脚本家。株式会社ファーストウッド・エンタテインメント代表取締役。日本映画監督協会理事、大阪芸術大学芸術学部映像学科学科長。血液型はAB型。文芸作品から怪獣映画まで幅広いジャンルを手掛ける。 1952年に大阪府大阪市東住吉区に医師をしている父親の家で生まれる。1961年に父親の転勤で兵庫県芦屋市に転居、芦屋市立精道中学校、六甲高等学校、京都府立医科大学医学部卒業。医師免許を持つ映画監督という希少な人物でもある。 もともと漫画少年であり、手塚治虫や真崎守の作品などに影響を受ける。六甲高等学校在学中の1968年には仲間たちと自主映画(8ミリ映画)を制作し、村上知彦と知合う。京都府立医科大学在学中は、ジャン=リュック・ゴダールに憧れながら村上・西村隆・小西均らと映画自主上映グループ「無国籍」を結成し、新開地の映画館で邦画のオールナイト上映企画を行った。一方、大森、村上らは、週刊ファイトの高橋聡記者を巻き込んで、ロマンポルノ親衛隊を結成している。また、大学在学中の1976年には高橋が撮影した16ミリ映画『暗くなるまで待てない!』が、自主映画ながらキネマ旬報ベスト10で21位に入るなど、高く評価される。 1978年、前年に第3回城戸賞を受賞したシナリオを自ら監督した『オレンジロード急行』で商業映画デビュー。前年の東宝の大林宣彦、同年の日活の石井聰亙らとともに、自主映画作家が助監督経験なしに大手撮影所でいきなり監督をつとめるムーブメントとして話題を呼ぶ。CFの分野で商業映像の経験が豊富だった大林、澤田幸弘との共同監督という形だった石井に対し、アマチュアでありながらメジャー松竹の番線作品で単独の脚本兼監督を担当した大森の事例は際立っていた。この作品は必ずしも高い評価を受けられなかったが、自身の体験を元にして大学病院を舞台にした作品『ヒポクラテスたち』で各種映画賞を受賞。 以降、中学校の先輩である村上春樹作品の映画化『風の歌を聴け』を経て、1980年に10年の在学を経て大学を卒業。同年に同大学出身の眼科医・聖子さんと結婚、一男一女をもうける。1982年6月には長谷川和彦、相米慎二らと若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」(ディレカン)を設立。
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大森一樹
以降、中学校の先輩である村上春樹作品の映画化『風の歌を聴け』を経て、1980年に10年の在学を経て大学を卒業。同年に同大学出身の眼科医・聖子さんと結婚、一男一女をもうける。1982年6月には長谷川和彦、相米慎二らと若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」(ディレカン)を設立。 1984年からの吉川晃司主演「民川裕司3部作」以降、会社企画の娯楽映画にも対応できる職人監督として東宝の信頼が厚くなり、1980年代後半は斉藤由貴主演の三部作などを担当。特に1989年の『ゴジラvsビオランテ』ではフリーランス監督としては初めてゴジラシリーズの演出を務めるなど、自主映画出身でありながらプログラム・ピクチャーも撮影可能な若手監督として評価される。ゴジラ作品はその後も『ゴジラvsキングギドラ』をはじめ、多数の作品で監督・脚本を務めた。 1990年に独立し東京都世田谷区にファーストウッド・エンタテインメントを設立したものの、デビューから一貫して関西を拠点としていた。 1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生し自宅マンションが半壊、近くの小学校で仮生活しながら復興活動に尽くす。 1998年に『日本沈没1999』の監督に起用されたが、松竹の経営不振により、製作中止になった。 2000年4月から2005年3月大阪電気通信大学総合情報学部メディア情報文化学科教授。2005年4月から大阪芸術大学芸術学部映像学科学科長・同大学院教授。 2015年、第28回東京国際映画祭のコンペティション部門審査員を務める。 2022年11月12日午前11時28分、急性骨髄性白血病のため、兵庫医科大学病院で死去。70歳没。同月20日には「第23回宝塚映画祭」で代表作を上映、舞台挨拶に立つ予定であった。
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大森一樹
2015年、第28回東京国際映画祭のコンペティション部門審査員を務める。 2022年11月12日午前11時28分、急性骨髄性白血病のため、兵庫医科大学病院で死去。70歳没。同月20日には「第23回宝塚映画祭」で代表作を上映、舞台挨拶に立つ予定であった。 大森が監督を務めた『ゴジラvsビオランテ』および『ゴジラvsキングギドラ』にて平成ゴジラVSシリーズの方向性を決定づけたとされる。当時は村上龍の『テニスボーイの憂鬱』を映画化しようとしていたが、プロデューサー補の富山省吾から突然連絡があり、田中友幸からストーリー募集の最終候補を読ませられ、細胞の話が面白いと言ったことで、『vsビオランテ』の脚本を直々に打診され、監督も担当することとなったが、ゴジラの依頼がなぜ自分にあったのか、大森自身もよくわからないという。大森自身は、『vsビオランテ』は大張り切りであったが、『vsキングギドラ』は苦し紛れの開き直りであったと述懐している。一方で、『vsキングギドラ』についてはやるだけやらせてもらったことから愛着はあるとも述べている。 森田芳光や相米慎二などの同世代の監督が作家性の強い作品を撮っていくのを横目で見ていた大森は、文学性の高い作品ではなく、エンタメ性の高い作品を撮影したいと思い、1984年の『ゴジラ』で目指したリアリティのある大人向けのゴジラに、大森は『エイリアン2』を参考にハリウッド映画調の娯楽性とスピード感を与え、リアリティのあるゴジラではなく、強いゴジラを目指したという。 『vsビオランテ』については納得いかない部分が多々あったというが、同作品がゴジラ映画の人気投票で1位となったことで、「同作品を見てゴジラを好きになった」と若い世代から言われることが増え、そういう映画であったと納得させられたという。 大森はポリティカル・フィクションを好んでおり、また自分たちの世代が軍人になったらどうなるかという想いを抱いていたことから、ゴジラは現代における戦争映画という想定で、政治的・軍事的要素を取り入れている。また、ゴジラ映画について個人や社会だけでなく、国としての日本が描けることが一番面白いとも語っている。
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大森一樹
大森はポリティカル・フィクションを好んでおり、また自分たちの世代が軍人になったらどうなるかという想いを抱いていたことから、ゴジラは現代における戦争映画という想定で、政治的・軍事的要素を取り入れている。また、ゴジラ映画について個人や社会だけでなく、国としての日本が描けることが一番面白いとも語っている。 『vsビオランテ』当時はSFXが流行していたため、大森も特撮について勉強していたが、監督と特撮監督が対等な立場であったことには驚いたという。撮影においては、特撮班と揉めるようなことはなく、互いにアイデアを取り入れるなど協調できていたと語っている。一方で、特撮シーンは特撮班の担当となるため、監督として主役のゴジラやクライマックスを撮影できないことは致命的だといい、特撮部分にも目を通したいと述べていた。 幼少期に鑑賞した『モスラ対ゴジラ』に感銘を受けたといい、モスラが登場する『モスラVSバガン』や『ゴジラvsモスラ』の脚本を手掛けたほか、『vsビオランテ』も女性的な怪獣のイメージや戦闘シーンの多さなど影響を受けているという。『vsモスラ』では、自身で監督を務める意志もあったといい、モスラに思い入れがあったことから残念であったと述べている。 また、『キングコング対ゴジラ』からも無意識に影響を受けていたといい、同作品を踏襲して「ゴジラと対戦相手がともに海に落ちる」というラストを2度用いている。第1作『ゴジラ』は幼稚園児のころに観たというが、ゴジラが山から顔を出すシーンは覚えているものの、「怖かった」という記憶しかなかったと述べている。 『vsビオランテ』制作時には、昭和期の東宝特撮を手掛けた関沢新一の脚本を読み込んだといい、その時点では「絵空事」として否定的に捉えていたが、実際に自身で制作して怪獣と現実は噛み合わないと実感し、関沢が偉大であったと思い直したといい、『vsモスラ』などではその手法を取り入れている。そのほか、第1作『ゴジラ』も観たが現代では同じことはできないと感じ、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』の方が参考になったと述べている。
1,965
大森一樹
VSシリーズを通して登場するヒロイン三枝 未希(さえぐさ みき)について、独自に「三枝未希サーガ」を思い描いており、未希の祖父が旧日本陸軍で巨大兵器を開発していたなどの設定を想定していた。大森は、未希について『モスラ対ゴジラ』の小美人に通ずるキャラクターだと述べている。 『vsビオランテ』で主演を務めた三田村邦彦は、大森についてインテリだがおおらかで、映画業界特有の緊迫感がなく、現場も和やかであったと証言している。『vsキングギドラ』に出演した中川安奈は、現場をアクティブに引っ張る熱血漢であったと評している。 ゴジラ映画については、映画のすべての要素が入った映画そのものであり、ゴジラが好きだからゴジラ映画をやっているのではなく、映画が好きだからゴジラをやっていて面白いのだと語っている。自身の映画の原点として『海底軍艦』を挙げており、後年でもやりたい映画の1つと語っていた。
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マジック:ザ・ギャザリング
マジック:ザ・ギャザリング(英: Magic: The Gathering、M:tG、MTG)は、米ウィザーズ・オブ・ザ・コースト(WotC)社製のトレーディングカードゲーム(TCG)。日本では、同社の日本事業部が窓口になっている。 1993年に発売された世界初のトレーディングカードゲームである。公式にはマジック、のように略され、他にもMTG、ギャザ、マジギャザなどと呼ばれる。このほか、「もっともよく遊ばれているTCG」などでもギネス世界記録に認定されている。 マジック:ザ・ギャザリングを初めとするTCGにおいては、一定の制限内で好きなようにカードを組み合わせたデッキ(山札)を各プレイヤーが用意する。さらに、多くのカードが原則を破る特殊ルール(極端な例として「ライフが0になっても敗北しない」「山札切れすると勝利する」など)を持っている。これにより、ほぼ無限に拡張され得るコレクション性と多彩かつダイナミックなゲーム展開とが両立された。 ウィザーズ・オブ・ザ・コースト社の創業者ピーター・アドキソンによれば、テーブルトークRPG (TRPG)のコンベンションを巡業していた経験から、その待ち時間にプレイできるファンタジー志向のゲームを意図して製作したとしている。メインデザイナーであるリチャード・ガーフィールドによれば、本作は自身が高校生の頃に考案していたゲーム"Five Magics"に原点があるという。「ルールを破るカード」というデザイン上のヒントはボードゲームの『コズミック・エンカウンター』に、土地カードのヒントは"King of the Tabletop"にあったと話している。 このゲームは発売されてから短期間の内に驚異的な人気を得て、TRPG関連の新興零細メーカーに過ぎなかったウィザーズ・オブ・ザ・コースト社を一気に成長させた。そしてその人気に触発されて多くのメーカーが次々とTCGを発売した結果、僅か数年でTCGがゲームの一ジャンルとして確立したのである。人気は他のゲームジャンル・漫画にも影響を与えた。『デュエル・マスターズ』はこのゲームのメカニクスをライセンス供与され製作された。
1,966
マジック:ザ・ギャザリング
『ゲームナイト:フリー・フォー・オール』(Game Night: Free-for-All)という構築済みデッキとプレイに必要はサプライがパッケージになった商品をボードゲームとして販売している。付属しているカードは一般的なカードと同じであるが、ボードゲームと同じようにこれだけで遊べるゲームバランスに設計されている。 マジックのカードは、大きく土地(Land)カードと呪文(Spell)カードに分けられる。呪文カードは、使用形態の違いによりさらに細分化され、また効果は色(マナ)ごとにある程度偏りがあり、その色の特色が出るようになっている。 各種類のカードに定められたルール上の原則はカードの効果によって無視されることがある。例えば、通常自分のターンごとに手札から出せる土地カードは1枚までとなっているが、この制限を破るカードもある。 呪文カードは色(属性)ごとに特徴が異なり、どの色を主体にデッキを組むかで戦法に大きな違いが出てくる。また、これに土地カードと呪文カードのバランスの問題が絡んだジレンマが発生するようにゲームはデザインされている。 最も基本的なデッキの形は一つのデッキが一つの色と対応する土地のみで構成されているもの(単色デッキという)。この場合、必要な土地がドロー出来ない、逆に土地ばかりが来るといった不利な展開(総じて「事故」と呼ばれる)はあるものの、土地と呪文カードの色がマッチしない「色事故」は起こりえない。しかし、色ごとに一長一短があるので弱点ができやすい。たとえば、黒には一度設置されたエンチャント、アーティファクトを除去する方法がない。緑には飛行を持つクリーチャーがほとんど居ないなどである。 スタンダード・フォーマットのようにカードプールが狭ければ通常は2~3色を合わせて極端な弱点がないようにデッキを作成するのがよいとされるが、全ての色を使用した5色で組むことはまずない。ただし、中には5色すべてのマナを必要とするカードや、5色デッキを推奨するようなエキスパンション、5色のマナを容易にそろえられる環境が整っているフォーマットも存在する。また、アーティファクト単(茶単)や、土地カードをメインとした土地単と呼ばれる無色メインのデッキも存在する。
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マジック:ザ・ギャザリング
どの色にも、友好色と敵対色が設定されている。マジックのカードの裏面の模様は五芒星を暗示したものとなっており、どの色がどの色と友好関係(敵対関係)にあるかを図案化している。ある色に隣り合う2色は友好的、対辺の2色は敵対的とされている。それぞれの色は友好色を支援したり、敵対色の行動を阻害する傾向にある。ただし、ルール自体には友好色や敵対色についての特別の規定はない。かつての基本セットには大抵敵対2色を阻害するカードが収録されていたが、00年代以後はこの要素は強調されず、拡張セットラヴニカ・ギルドの都以降のセットでは、特定の2色ないし3色を1グループとし、それぞれのグループごとに特徴を持たせるというパターンも多くなるなど、友好・敵対の関係はかなり曖昧になっている。 以下に、ルールの詳細に立ち入らない範囲で各色の特徴の一部を述べる。 マジックに限らずトレーディングカードゲームでは、様々な種類のカードを組み合わせて自分のデッキを構築するが、その「デッキの組み方の定石」というものがいくつか存在する。 以下に、代表的なデッキタイプの区分を示す。 一部のカードには、ゲームそのものには影響を及ぼさない、雰囲気付けのための文章(フレーバー・テキスト)が書かれていることがある。初版や黎明期には聖書やシェイクスピアなどの古典作品からの引用が多かったが、後にエキスパンションごとに小説が出版される等するようになると大部分オリジナルのものとなっていった。その一行一行に物語がこめられており、初心者プレイヤーにフレイバーテキストから物語を想像してほしいという意図がある。また、昔のセットには、アラビアンナイトや三国志演義を題材にしたものも存在する。
1,966
マジック:ザ・ギャザリング
物語の大筋は、サイエンス・ファンタジー風の英雄譚である。基本的に物語はドミニアという多元宇宙空間で繰り広げられ、その中には多くの次元と繋がる多元宇宙の(ストーリー的な意味でも)中心であり豊富なマナを持つ「ドミナリア」、邪悪な機械文明に支配され堕落と疫病の蔓延する「ファイレクシア」、ファイレクシアの前線基地として人工的に作られた次元「ラース」、生物を含めあらゆる物が金属からなる「ミラディン」、万物に宿る「神」を崇める人々が暮らす日本風の次元「神河」などの様々な世界が存在する。それらの次元を舞台として、プレインズウォーカー("次元を渡る者"の意)と呼ばれるものたちが激闘を繰り広げる。「アラーラの断片」以降は、カード化されたプレインズウォーカー達が話の中心となることが多くなった。 マジックのプレーヤー自身もプレインズ・ウォーカーという設定で、新たなエキスパンションが出るということは、新たな次元での戦いが始まるということでもある。定期的に発売される基本セットにはストーリーはなく、今までの物語のダイジェスト版といった位置づけである。 各セットの枚数は、絵違いの同カードも異なる種類としてカウントしてある。また【】内は英名/公式略称。以前は2文字であったが、レギオン発売時にレジェンドと一緒になってしまうため、3文字に拡張された。 各セットは以下の書式で解説される。 ひとつのセットに対して複数の構築済みデッキがシリーズ化されている マジックと他作品のコラボレーションセット。 DCI(ウィザーズ・オブ・ザ・コースト社が設立した、Magicをはじめとするゲームの国際公式競技組織)が認定しているトーナメントを認定トーナメントと呼ぶ。WPN(ウィザーズ・プレイ・ネットワーク)協賛店舗やイベント会場で開催される。認定トーナメントの開催情報はウィザーズの公式ページ(下記)で確認できる。初級者から上級者まで段階ごとの大会形態も確立されており、世界中でトーナメントが開かれている。
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マジック:ザ・ギャザリング
DCI(ウィザーズ・オブ・ザ・コースト社が設立した、Magicをはじめとするゲームの国際公式競技組織)が認定しているトーナメントを認定トーナメントと呼ぶ。WPN(ウィザーズ・プレイ・ネットワーク)協賛店舗やイベント会場で開催される。認定トーナメントの開催情報はウィザーズの公式ページ(下記)で確認できる。初級者から上級者まで段階ごとの大会形態も確立されており、世界中でトーナメントが開かれている。 中でも、世界中からトッププレイヤーが集結して開催されるプロツアーに出場することは多くのプレイヤーの憧れであり、生活をマジックに捧げてまで世界を相手に競う若者も多かった。90年代は日本勢は良くてベスト16前後を行ったり来たりする程度であったが、2001年のプロツアー東京にて藤田剛史が日本人初のベスト8入り(準優勝)を果たしたのを皮切りに、2004年プロツアー神戸で黒田正城が初めて日本人初のプロツアー王者に輝き、2005年には世界選手権個人戦を森勝洋が制し、日本人初の世界王者となった。同時に国別対抗トーナメントでも日本代表が優勝し、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー(年間MVP)を津村健志が獲得した。また2005年より、マジックの発展に貢献してきたプレイヤーの功績を称えることを目的とした「マジック・プロツアー殿堂」が創設され、有識者による投票で毎年3~5人が殿堂入していた。日本からはこれまでに、藤田剛史、中村修平、津村健志、大礒正嗣、三原槙仁、八十岡翔太が選出されている。以後20年代に至っても日本は強豪国の一角を占めている。 以下は、代表的な大会であり、上位の大会は特に「プレミアイベント」と呼ばれているが、10年代半ばより制度は迷走し、流動的となっていった。競技が『MTGアリーナ』主体となったデジタル時代には改名されたり行われなくなったものも多い。
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マジック:ザ・ギャザリング
以下は、代表的な大会であり、上位の大会は特に「プレミアイベント」と呼ばれているが、10年代半ばより制度は迷走し、流動的となっていった。競技が『MTGアリーナ』主体となったデジタル時代には改名されたり行われなくなったものも多い。 言葉や能力の定義を厳密に定めた総合ルール(Comprehensive Rules、CR)と呼ばれるものがある。これだけで一冊の本にできるだけの情報量があるうえ、日々ルールに矛盾や問題点などがないか検討され改定され続けている。また、そのルールの理解度や大会運営の能力に応じてレベル1~5までのジャッジ資格が設けられており、大会の規模に応じて相応のレベルを持つジャッジの監督が必要である。大会全体を統括するジャッジは特に「ヘッドジャッジ」と呼ばれ、その大会におけるルール裁定の最終的な決定権をもつ。日本国内の都道府県選手権などの規模の大会のヘッドジャッジはレベル2が普通だが、日本人にもレベル3保有者が数人おり、海外で開催される大規模な大会には多くの場合日本人ジャッジが参加している。基本的にジャッジは無給だが、参加することにより専用のプロモーションカードが配布されるのである。 マジックにはフォーマットと呼ばれる幾つかのトーナメント方式があり、使えるカードセット等が異なる。 「構築戦(コンストラクテッド: constructed)」は決められたカードセットを使い、事前にデッキ(枚数60枚以上 + サイドボード15枚)を構築するもの。 「限定戦(リミテッド: limited)」はブースターパックをあけてその場でデッキ(枚数40枚以上)を組む方式である。 これ以外にも公式では無いが一定のルールが整備され、広く親しまれているフォーマットも存在する。 『MTG』は長い歴史に膨大な種類のカードなどから、様々な研究が続けられている。その中で、「『MTG』はチューリング完全である。」という変わった研究をしていた、ボードゲームデザイナーのアレックス・チャーチルと研究グループは、コンピュータやチューリングマシンでプレイできるようにゲームを変換し、ゲームの複雑さを定量的に測定した。
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マジック:ザ・ギャザリング
『MTG』は長い歴史に膨大な種類のカードなどから、様々な研究が続けられている。その中で、「『MTG』はチューリング完全である。」という変わった研究をしていた、ボードゲームデザイナーのアレックス・チャーチルと研究グループは、コンピュータやチューリングマシンでプレイできるようにゲームを変換し、ゲームの複雑さを定量的に測定した。 研究の結果チャーチルらは、「『MTG』が、現実に存在するゲームの中でもっとも複雑なゲームの一つである」と結論づけた。ある特定の条件下では、勝利のための最善手のアルゴリズムを導き出すことができないことが証明されたという。論文では、これを現実世界に勝利戦略の決定が計算不可能なゲームが存在することを証明する最初の結果、とまとめている。 最初に報じた『MITテクノロジーレビュー』は、「全てのゲームは計算可能でなければならない」という仮定に反証した最初の現実世界のゲームだとしている。 2014年には20世紀FOXが映画化権をHasblo社から取得していた。 2019年6月には、Netflixによるアニメ化を発表。監督は『アベンジャーズ エンドゲーム』のアンソニー、ジョー・ルッソ兄弟としている。一方で、同年7月には、米国のサンディエゴ・コミコンの会場にて、ルッソ兄弟の口頭から「アニメーション企画が実写へと派生する可能性もある」と語られている。その後、2021年8月にDEADLINEが報道したところでは、制作は『トランスフォーマープライム』を手掛けたJeff Kline(英語版)による新しいチームに引き継がれたとしている。
1,966
9月22日
9月22日(くがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から265日目(閏年では266日目)にあたり、年末まであと100日ある。
1,968
結晶
結晶(、英: crystal)とは、原子、分子、またはイオンが、規則正しく配列している固体である。 結晶を構成する原子の配列は、X線や電子線など、可視光線と比べて短い波長の電磁波に対して回折格子として働き、X線回折あるいは電子回折(電子線回折)と呼ばれる現象を引き起こす。この現象は、結晶構造を同定するために利用される。 モデルとは異なり、現実の結晶は、完全な規則性を有しているわけではなく、格子欠陥と呼ばれる原子の配列の乱れが存在する。格子欠陥の存在によって、理想的な結晶の構造から予想されるものとは異なる性質を示すことがある。例えば、一般的な金属が比較的小さな力で塑性変形する事は、結晶欠陥の存在によって説明される。 準結晶と呼ばれる構造は、並進対称性を欠くにもかかわらず、X線を回折する高度に規則的な構造を持っている。数学的には高次元結晶の空間への射影として記述される。また、液晶は3次元のうちの一つ以上の方向について対称性が失われた状態である。そして、規則正しい構造をもたない物質をアモルファス(非晶質)と呼び、これは結晶の対義語である。 国際結晶学連合 (IUCr) では1992年に、結晶(Crystal) を「本質的に離散的な回折を与える固体」として、また非周期的結晶 (aperiodic crystal) を「三次元の格子の周期性を持っていない結晶」として定義し直している。 これにより、3次元の周期性は悪すぎるが非周期的結晶の解析のために開発された結晶学的方法によって 議論ができる化合物、例えば変調された構造体、ポリタイプ、不整合(インコメンシュレート)相、複合結晶、準結晶も結晶と呼ぶこととなった。 結合の種類によって結晶は次のように分類される。 食塩結晶において、それを形成する結合は一種類だけとは限らず、複数の結合が混在(共有性とイオン性両方を示す場合はよくある)している場合がある。例として2001年に39Kの超伝導を示し有名になった MgB2(二ホウ化マグネシウム)がある。MgB2 は金属(金属間化合物)でありながら、原子間の結合が主に共有結合による部分(B層のB原子間)と主にイオン結合による部分(Mg層とB層の間)からなる(電子状態は金属なので、金属結合的な部分もある)。
1,969
黒澤明
黒澤 明(または黒沢 明、くろさわ あきら、1910年〈明治43年〉3月23日 - 1998年〈平成10年〉9月6日)は、日本の映画監督・脚本家・映画プロデューサー。位階は従三位。 第二次世界大戦後の日本映画を代表する監督であり、国際的にも有名で影響力のある監督の一人とみなされている。ダイナミックな映像表現、劇的な物語構成、ヒューマニズムを基調とした主題で知られる。生涯で30本の監督作品を発表したが、そのうち16本で俳優の三船敏郎とコンビを組んだ。 青年時代は画家を志望していたが、1936年にP.C.L.映画製作所(1937年に東宝に合併)に入社し、山本嘉次郎監督の助監督や脚本家を務めたのち、1943年に『姿三四郎』で監督デビューした。『醉いどれ天使』(1948年)と『野良犬』(1949年)で日本映画の旗手として注目されたあと、『羅生門』(1950年)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、日本映画が国際的に認知されるきっかけを作った。その後『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などが高い評価を受け、海外では黒澤作品のリメイクが作られた。1960年代後半に日本映画産業が斜陽化する中、ハリウッドに進出するも失敗し、その後は日本国内で製作資金を調達するのが難しくなったが、海外資本で『デルス・ウザーラ』(1975年)、『影武者』(1980年)、『乱』(1985年)、『夢』(1990年)を作り、国内外で多くの映画賞を受けた。1985年に映画人初の文化勲章を受章し、1990年にはアカデミー名誉賞を受賞した。没後、映画監督初の国民栄誉賞が贈られた。
1,970
黒澤明
1910年3月23日、東京府荏原郡大井町(現・東京都品川区東大井三丁目)の父が勤めていた荏原中学校の職員社宅に、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれた。兄姉は茂代、昌康、忠康(既に夭折)、春代、種代、百代、丙午である。シマは大阪の商家の出身だった。勇は秋田県仙北郡豊川村(現・大仙市豊川)の士族の家の出身で、陸軍戸山学校の教官を務めたあと、1891年の日本体育会の創立とともに要職に就き、日本体育会体操学校と併設の荏原中学校に勤務していた。勇は厳格な父親だったが、当時は教育上好ましくないと思われていた映画に理解があり、進んで家族を連れて映画見物に出かけた。黒澤は連続活劇やウィリアム・S・ハート(英語版)主演の西部劇をよく観ていたという。 1915年に南高輪幼稚園に入園し、翌1916年に南高輪尋常小学校に入学した。しかし、1917年に勇が日本体育会を退職したため、職員社宅を退去して小石川区西江戸川町(現・文京区水道一丁目)に転居し、黒田尋常小学校に転入した。当時の黒澤は知能的に遅れていて、泣き虫のいじめられっ子だったという。そんな黒澤の成長を助けたのが担任の立川精治で、生徒の自由な発想を大事にするという斬新な教育方法で黒澤の才能を見出した。立川は図画の時間で好きな絵を自由に描かせ、黒澤が描いた絵が個性的すぎてみんなが笑う中、立川はその絵をとても褒めた。それ以来、黒澤は絵を描くことが好きになり、同時に学校の成績も伸び、やがて級長にもなった。小学校5年の時には剣道を習い始め、高野佐三郎の道場に通うも三日坊主で終わり、自信も失くして放棄した。
1,970
黒澤明
立川とともに黒澤の成長を助けたのが、級友の植草圭之助と4つ上の兄の丙午である。植草は黒澤よりも泣き虫で、自分を客観的に見つめさせる存在だったという。丙午は秀才だが気性が激しく、自滅的な行動や皮肉めいたところが多かったが、軟弱な黒澤をしごき、黒澤の自立心を目覚めさせた。関東大震災とそれに伴う朝鮮人虐殺事件の時には、丙午は黒澤を壊滅した街に連れて行き、無数の死骸の山を見せつけて、恐ろしさを克服することを教えた。頑迷な厭世観を持つ丙午は、黒澤にとって反面教師的な存在となり、人生の否定的な面や歩いてはならない面を身をもって教えてくれ、黒澤作品の強い人生肯定を特徴とする作風に影響を与えた。また、自伝『蝦蟇の油』のなかで「関東大震災は、私にとって、恐ろしい体験であったが、また、貴重な経験でもあった。それは、私に、自然の力と同時に、異様な人間の心について教えてくれた。」と述べ、当時をこう振り返っている。 1922年、黒田小学校を首席で卒業し、卒業式では総代として答辞を読んだ。黒澤は東京府立第四中学校を受験したが失敗し、京華中学校に入学した。中学時代は勉学よりも読書に打ち込み、ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなどのロシア文学に熱中したほか、夏目漱石、樋口一葉、国木田独歩などの日本文学もたくさん読み、黒澤の人間形成に大きな影響を与えた。黒澤は作文で才能を示すようになり、1924年に自然を描写した作文『蓮華の舞踏』が学友会誌に掲載されると、国語教育では名の知れた小原要逸先生から「京華中学創立以来の名文」と褒められた。1926年にも同誌に作文『或る手紙』が掲載された。中学時代は神楽坂にある洋画専門館の牛込館に通ってたくさんの外国映画を見ていたが、その中でもアベル・ガンス監督の『鉄路の白薔薇(フランス語版)』(1923年)は黒澤が映画監督を志すのに大きな影響を与えた。
1,970
黒澤明
黒澤は中学在学中に画家を志し、小林萬吾主宰の同舟舎洋画研究所に通った。1927年に京華中学校を卒業し、東京美術学校の受験に失敗すると川端画学校に通い、1928年に油絵『静物』が第15回二科展に入選した。1929年には造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に通い、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、洋画家の岡本唐貴(白土三平の実父)に絵を学んだ。同年12月の第2回プロレタリア美術大展覧会では5つの政治色の強い作品を出品し、1930年の第3回プロレタリア美術大展覧会では『反×ポスター』を出品して官憲に撤回された。そのうち政治的主張を未消化のまま絵にすることに疑問を感じ、絵を描く熱意を失っていった。同年に徴兵検査を受け、父の教え子である徴兵司令官の好意で兵役免除となり、終戦まで徴兵されることはなかった。 やがて非合法活動に身を投じ、日本共産党系の無産者新聞の下部組織で街頭連絡員をした。黒澤が非合法活動に参加したのは「日本の社会に漫然たる不満と嫌悪を感じ、ただそれに反抗する」ためで、自ら共産主義者を名乗ったこともなければ、マルクス主義を深く学んで実践する政治的人間になる気もなかった。やがて弾圧が激しくなり、運動費も届かない窮乏生活の中で高熱を出して倒れ、仲間との連絡が途絶えたのを機に、1932年春までに非合法活動から身を引いた。その後は丙午が住む神楽坂の長屋に居候し、映画や寄席に熱中した。丙午は須田貞明の名で活動弁士となり、若手新進の洋画説明者として人気を集めていたが、トーキーの普及で弁士の廃業が相次ぎ、弁士のストライキで争議委員長として闘うも敗北し、1933年7月に伊豆湯ヶ島温泉の旅館で愛人と服毒自殺を遂げた。その4ヶ月後には長兄の昌康も病死し、残された男子である黒澤が跡取りとなった。1934年に一家は恵比寿に転居し、黒澤は雑誌の挿絵を描くアルバイトなどをして生計を立てた。
1,970
黒澤明
1936年、どこかで就職しなければならないと思っていた黒澤は、たまたま新聞記事で見たP.C.L.映画製作所(翌年に東宝に合併)の助監督募集に応募した。最初の試験は「日本映画の根本的欠陥を例示し具体的にその矯正方法を述べよ」という小論文で、黒澤は「根本的欠陥は矯正しようがない」と回答し、それで試験を通過して最終面接まで残った。同社は原則として大学卒を採用するつもりだったが、黒澤の絵や文学に対する理解と才気に注目した山本嘉次郎の推薦により、学歴は旧制中学だけながら例外として合格となり、同年4月に入社した。助監督入社の同期には関川秀雄と丸山誠治がいた。最初の仕事は矢倉茂雄監督の『処女花園』のサード助監督だったが、この作品1本で仕事が嫌になり、退社を考えるも同僚の説得で思いとどまった。 その次に参加した『エノケンの千万長者』(1936年)から山本のサード助監督を務めた。山本組での仕事は楽しく充実したものであり、黒澤は映画監督こそが自分のやりたい仕事だと決心した。山本組の助監督仲間には谷口千吉と本多猪四郎がおり、黒澤は2人の家に居候することもあった。1937年に山本組の製作主任をしていた谷口が本社異動になり、黒澤が新たに山本組の製作主任についた。助監督育成に力を入れる山本の下で、黒澤は脚本執筆からフィルム編集、エキストラ、ロケーションの会計までも担当し、映画作りで大切なことを学んだ。面倒見のよい山本は自分の作品を犠牲にして、黒澤たちB班が撮影したフィルムを採用し、上映された完成作品を見ながらアドバイスをした。黒澤はそんな山本を「最良の師」と仰いだ。 山本監督の『馬』(1941年)ではB班監督と編集を務めた。黒澤は他の仕事で忙しい山本から演出のほとんどを任され、監督昇進への踏み台とした。この『馬』の東北地方でのロケーション撮影を通して、黒澤は主演の高峰秀子との間に恋が芽生えた。しかし、『馬』が公開されたあとに2人の結婚話が新聞沙汰になると、会社側は将来を嘱望された助監督とスターになりかけていた女優の恋を放ってはおけず、高峰の養母が強く反対していたこともあり、山本が破断役となり、恋は不実に終わった。
1,970
黒澤明
黒澤は助監督生活を送りながら、山本の「監督になるにはシナリオを書け」という助言に従い脚本を執筆した。初めてその才能が認められたのが『達磨寺のドイツ人』(1941年)で、山本の推挙で映画雑誌に掲載されることになったが、記者が受け取った原稿をなくし、黒澤は3日ほど徹夜してもう一度書き直した。この作品はドイツ人建築家ブルーノ・タウトの評伝を元にして、タウトと寄寓先の村の人たちとの交流を描き、伊丹万作に「特に視覚的に鮮明の印象を与えることを注目すべきである」と評価された。『馬』以降は実質的に助監督の仕事はしなくなり、脚本執筆に集中した。1942年に執筆した『静かなり』は情報局国民映画脚本募集で情報局賞を受賞し、『雪』は日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位に入賞した。 1942年、黒澤は監督処女作に『達磨寺のドイツ人』を企画するが、戦時中のフィルム配給制限により実現しなかった。続けて『森の千一夜』『美しき暦』『サンパギタの花』『第三波止場』などを企画するが、これらもフィルム配給制限に加え、内務省の事前検閲で却下された。『サンパギタの花』では、誕生日を祝うシーンが検閲官から米英的だと批判され、黒澤は「天皇の誕生日を祝う天長節もいけないのか」と反論するも却下された。次に山中峯太郎原作の『敵中横断三百里』を企画するが、今度は会社が新人監督にはスケールが大きすぎるとして見送った。なかなか処女作が実現しない黒澤は、生活のために脚本を書き続けた。その中には伏水修監督の『青春の気流』(1942年)、山本薩夫監督の『翼の凱歌』(1942年)などの戦意高揚映画もあり、黒澤は「意欲を傾けられるような仕事ではなかった」と述べている。
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黒澤明
黒澤の監督処女作は『姿三四郎』(1943年)となった。1942年9月、黒澤は富田常雄の同名小説の新刊書広告を見かけると、広告文だけで映画化を思い立ち、発売されるとすぐに買い求めて一気に読み、プロデューサーの森田信義を説得して映画化権を獲得させた。『姿三四郎』は当時の日本映画の中で新鮮味と面白さとを合わせ持った映画的な作品として注目され、その視覚性やアクション描写、卓越した演出技術などが高く評価された。1943年3月に国民映画賞奨励賞を受賞し、12月には優れた新人監督に贈られる山中貞雄賞を木下惠介とともに受賞するなど、黒澤は新人監督として周囲の期待を集め、東宝重役の森岩雄は「黒澤さんの監督としての地位は、この処女作一本で確立したといってもいいであろう」と述べている。 監督第2作の『一番美しく』(1944年)の完成後、黒澤は森田の勧めで主演の矢口陽子(本名は喜代)と結婚し、1945年3月頃に山本夫妻の媒酌で明治神宮で結婚式を挙げた。この頃の東京は空襲を受けており、同居していた両親たちはすでに秋田に疎開していた。黒澤が住んでいた恵比寿も空襲で危ないということで、同じく家族が疎開していた堀川弘通の祖師ヶ谷にある実家に転居した。その翌日に恵比寿の家は空襲で焼失した。それから数年間は堀川家で生活し、堀川は家主であるのに黒澤家に居候しているような気分になったという。同年に黒澤は処女作の続編『續姿三四郎』を完成させ、次に桶狭間の戦いを描く『どっこい!この槍』の製作に着手したが、馬が調達できなくて中止し、急遽能の「安宅」と歌舞伎の「勧進帳」を元にした『虎の尾を踏む男たち』を監督した。この作品は終戦を挟んで撮影され、終戦直後にGHQの検閲で封建制助長により非合法作品となり、1952年まで上映禁止にされた。
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黒澤明
終戦後の最初の仕事は、川口松太郎の依頼で執筆した戯曲『喋る』で、1945年12月に有楽座で新生新派により上演された。戦後の初監督作は『わが青春に悔なし』(1946年)であるが、当時の会社は東宝争議で組合が映画製作に強い権限を持つようになり、この作品も組合主導の企画審議会から楠田清監督の『命ある限り』と内容が類似していると言われ、改稿を余儀なくされた。1946年10月には第2次東宝争議が発生し、ストに反対した所属スターが「十人の旗の会」を率いて退社し、新東宝の設立に参加した。スター主義の新東宝に対抗するため、黒澤など東宝のスタッフたちは伊豆の旅館に集まり、組合中心で5本の監督主義作品を企画した。そのうち黒澤は『素晴らしき日曜日』(1947年)を監督し、谷口監督の『銀嶺の果て』とオムニバス映画『四つの恋の物語』(どちらも1947年)第1話「初恋」の脚本を執筆した。 1948年公開の『醉いどれ天使』は、山本監督の『新馬鹿時代』(1947年)で使われた闇市の大規模なオープンセットを活用するための企画として作られた。この作品では『銀嶺の果て』でデビューしたばかりの三船敏郎と初めてコンビを組み、主人公の結核を患う若いヤクザ役に起用した。また、『姿三四郎』から黒澤作品に出演していた志村喬をアル中医師役で初めて主役に抜擢し、以後は黒澤作品の主役を三船と志村とで分け合う時期が続いた。作曲家の早坂文雄とも初めてコンビを組んでおり、1955年に早坂が亡くなるまで二人は私生活でも親友関係となった。『醉いどれ天使』は黒澤作品で初めての傑作と目され、キネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、毎日映画コンクールで日本映画大賞を受賞した。
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黒澤明
同年3月、東宝争議で映画製作が十分にできなくなったことから、山本、谷口、成瀬巳喜男、プロデューサーの本木荘二郎と同人組織「映画芸術協会」を設立した。その翌月に第3次東宝争議が開始すると、黒澤は製作現場を守るため組合側に加わり、同協会は争議終結まで開店休業状態となった。黒澤は組合の立場を代弁する「東宝の紛争 演出家の立場から」という文章を発表し、8月に東宝の監督やプロデューサーによる芸術家グループが会社側を批判する声明文に署名した。さらに給料支払いを止められた組合員の資金カンパのため、『醉いどれ天使』を劇化して全国各地を巡業し、チェーホフの戯曲『結婚の申込み』も演出した。10月19日に第3次東宝争議は終結した。 争議終結後は東宝を離れ、映画芸術協会を足場にして他社で映画製作をすることになった。最初の他社作品は、助監督時代から脚本を執筆した縁故がある大映での『静かなる決闘』(1949年)で、菊田一夫の戯曲『堕胎医』を原作にしている。その次に新東宝と映画芸術協会が共同製作した『野良犬』(1949年)は、黒澤が好きだったジョルジュ・シムノンの犯罪小説を意識した作品で、ピストルを盗まれた新人刑事が老練刑事とともに犯人を追うという内容だが、これは実際の刑事の話を元にしている。この作品は日本で刑事映画のジャンルを決定づける古典となり、芸術祭文部大臣賞を受賞するなど好評を受けた。
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黒澤明
1950年、黒澤は松竹で『醜聞』を監督後、大映から再び映画製作を依頼されて『羅生門』を監督した。この作品は橋本忍が芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色したシナリオを元にしており、武士の殺害事件をめぐり関係者の証言が全部食い違い、その真相が杳として分からないという内容だった。しかし、その内容だけでは長編映画として短すぎるため、黒澤が同じ芥川の短編小説『羅生門』のエピソードなどを付け足して脚本を完成させた。作品はその年度の大映作品で4位の興行成績を収めたが、批評家の評価はあまり芳しいものではなかった。しかし、1951年9月にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、さらに第24回アカデミー賞で名誉賞を受賞するなど、海外で相次ぐ賞賛を受けた。黒澤は映画祭に出品されたことすら知らず、釣りの帰りに妻から連絡を受けたという。『羅生門』は欧米が日本映画に注目するきっかけとなり、日本映画が海外進出する契機にもなった。また、複数の登場人物の視点から1つの物語を描く話法は、同作で映画の物語手法の一つとなり、多くの作品で繰り返し使われることになった。 その次に松竹で監督した『白痴』(1951年)は、黒澤が学生時代から傾倒するフョードル・ドストエフスキーの同名小説が原作で、黒澤にとって長年の夢となる映画化だったが、4時間25分に及ぶ完成作品は会社側の意向で大幅短縮され、激怒した黒澤は山本宛ての手紙に「こんな切り方をする位だったら、フィルムを縦に切ってくれたらいい」と訴えた。日本の批評家には悉く酷評されたが、ドストエフスキーの本場のソ連では高く評価された。これが最後の映画芸術協会での他社作品となり、1951年に東宝は争議で疲弊していた製作部門を再建するため、黒澤など映画芸術協会の監督と専属契約を結んだ。東宝復帰第1作である『生きる』(1952年)はキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれるなど高い評価を受け、第4回ベルリン国際映画祭ではベルリン市政府特別賞を受賞した。
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黒澤明
黒澤は次に本物の時代劇を作ろうと意気込み、橋本と『侍の一日』を構想するが資料不足で断念し、盗賊から村を守るために百姓が侍を雇うという話を元にして『七人の侍』(1954年)の脚本を執筆した。撮影は1953年5月に開始したが、製作費と撮影日数は予定より大幅超過し、最終的に撮影日数は約11ヶ月に及び、通常作品の5倍以上にあたる予算を計上した。作品は興行的に大成功したが、公開当時の国内では必ずしも高評価を受けることはなかった。ヴェネツィア国際映画祭に出品されると銀獅子賞を受賞し、その後は日本国内でも国外でも映画史上の名作として高く評価されるようになり、2018年にイギリスのBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」で1位に選ばれた。 1955年2月、黒澤はカンヌ国際映画祭の審査員に要請されるも辞退した。『生きものの記録』(1955年)の完成後、黒澤は東宝と3本の契約を残していたが、それらを「時代劇三部作」として企画し、自らのプロデュースで若手監督に作らせようとした。1本目の『蜘蛛巣城』(1957年)はシェイクスピアの『マクベス』の翻案だが、大作映画になるため黒澤が監督することになった。結局、残る2本も黒澤が監督することで話が進み、2本目にゴーリキー原作の『どん底』(1957年)を監督した。この間に海外合作のオムニバス映画『嫉妬』に参加する話があり、能の「鉄輪」を題材にしたエピソードを企画するも製作中止となった。
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黒澤明
1957年10月、黒澤はロンドンのナショナル・フィルム・シアター(英語版)の開館式に招待され、初めての海外渡航を行った。10月15日の開館式では、映画芸術に貢献した映画人としてジョン・フォード、ルネ・クレール、ヴィットリオ・デ・シーカ、ローレンス・オリヴィエとともに表彰された。その翌日には第1回ロンドン映画祭の開会式に出席し、『蜘蛛巣城』がオープニング上映された。黒澤はフォードを尊敬し、彼の作品から影響を受けたことを公言していたが、ロンドン滞在中にフォードと初めて会い、『ギデオン』の撮影現場を訪問したり、昼食を共にするなどの交友を持った。その次にパリに渡り、シネマテーク・フランセーズを訪問したり、ジャン・ルノワールと夕食を共にしたりして過ごした。黒澤はこの旅行を通して映画が芸術として認知されていることを直に知り、映画人として強い自負を持つようになった。これ以後、黒澤は日本の政治が映画に無関心であることや、映画産業に対する危機感を事あるごとに言及するようになった。 時代劇三部作の3本目となる『隠し砦の三悪人』(1958年)は興行的に大ヒットし、第9回ベルリン国際映画祭で監督賞と国際映画批評家連盟賞を受賞した。しかし、撮影は予定より大幅遅延し、製作費も破格の1億9500万円を計上したため、黒澤作品にだけ高額な製作費が許されることについて社内外から批判が出た。1958年末に黒澤は東宝との契約が切れたが、東宝は黒澤を社内に抱え込むのは危険としつつも、記録的ヒット作を放つ黒澤との関係を完全に絶つことも得策ではないと考えていた。そこで1959年4月1日に黒澤と東宝が折半出資して、利益配分制による「黒澤プロダクション」を発足し、東宝本社内に事務所を設けた。黒澤は映画製作の自由を手に入れたが、同時に経済的責任を背負うことになり、興行収入にも気を配らなければならなくなった。
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黒澤明
1960年7月7日、黒澤は東京オリンピックの公式記録映画の監督依頼を正式に承諾した。準備に向けて同年開催のローマオリンピックを視察し、その公式記録映画『ローマ・オリンピック1960』の撮影に立ち会って入念に調査した。それを参考にして5億円超えとなる予算案を組織委員会に提出したが、2億5000万円の予算案を提示する組織委員会とは折り合いがつかず、1963年3月22日に「2億5000万円では理想的な作品は無理だ」として監督を辞退した。組織委員会の与謝野秀事務総長の強い慰留もあり、組織委員会内の記録映画委員会の委員として残留し、その後も与謝野からオファーを受けたが、11月5日に正式にオリンピック公式記録映画を降りた。 黒澤プロダクションの第1作『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)は興行的に失敗したが、その次に手がけた娯楽時代劇『用心棒』(1961年)とその続編『椿三十郎』(1962年)は、その年度の東宝作品で最高の興行収入を記録する成功を収めた。前者はダシール・ハメットの小説『血の収穫』が着想の元となり、後者は山本周五郎の小説『日日平安』を原作としている。どちらの作品も刀の斬殺音や血しぶきなどの残酷描写を取り入れ、従来の時代劇映画の形式を覆すリアルな表現を試みた。これが話題を呼び、その影響を受けて残酷描写を入れた時代劇が数多く作られたが、後年に黒澤は「非常に悪い影響を与えてしまった」と述べている。その次に監督した『天国と地獄』(1963年)はエド・マクベインの犯罪小説『キングの身代金』が原作のサスペンス映画で、その年度の興行成績で1位を記録した。
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黒澤明
黒澤プロダクションの設立以後は、作品を重ねるごとに興行収入記録を更新したが、その分作るたびに製作費も巨額になった。『赤ひげ』(1965年)では製作期間が2年に及び、予算は過去最高の2億6600万円を計上した。この作品は山本周五郎の『赤ひげ診療譚』が原作であるが、一部にドストエフスキーの『虐げられた人びと』を元にしたエピソードを挿入している。黒澤はこの作品を「僕の集大成」と語り、テレビ放送の普及で日本映画の観客数が減少する中、スタッフたちの能力を最大限に引き出して、映画の可能性を存分に追求しようとした。やはりその年度で最高の興行収入を記録し、キネマ旬報ベスト・テンでは1位に選出された。しかし、これが三船とコンビを組んだ最後の作品となった。 『赤ひげ』公開後、黒澤は東宝に対して巨額の借金を抱えていた。黒澤プロダクションは東宝との契約で5本の作品を作り、その配給で4億円前後の高収入をあげていたが、東宝と交わした利益配分制だと黒澤は利益を上げられず、芸術的良心に忠実な作品を目指して時間と予算をかけるほど、東宝に搾取されて損をする仕組みになっていた。1966年7月に黒澤は東宝との専属契約を解消して完全独立し、黒澤プロダクションは東京都港区の東京プリンスホテル4階に事務所を構えた。この頃の黒澤は日本で権威的とみなされ、それ故の批判や誹謗中傷を受けることが目立った。孤立心を深めた黒澤は、日本映画産業が斜陽化していたこともあり、より自由な立場で新たな自己表現の段階に挑戦するため、それだけの製作費が負担できる海外に活動の場を求めるようになった。すでに黒澤は欧米からいくつものオファーを受けていた。
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黒澤明
1966年6月、黒澤はアメリカのエンバシー・ピクチャーズ(英語版)と共同製作で『暴走機関車』を監督することを発表した。この企画はライフ誌に掲載された、ニューヨーク州北部で機関車が暴走したという実話を元にしており、出演者は全員アメリカ人にすることが決定していた。しかし、英語脚本担当のシドニー・キャロル(英語版)と意見が合わず、プロデューサーのジョーゼフ・E・レヴィーンとも製作方針をめぐり食い違いが生じた。例えば、黒澤は70ミリフィルムのカラー映画を想定していたのに対し、アメリカ側はスタンダードサイズのモノクロ映画で作ろうと考えていた。黒澤は130人ものスタッフを編成し、本物の鉄道を使用して撮影する準備をしていたが、アメリカ側との意思疎通に欠き、同年11月に黒澤から撮影延期を提案し、事実上の製作頓挫となった。この企画は1985年にアンドレイ・コンチャロフスキー監督で映画化されたが、内容は大きく改変された。 1967年4月、真珠湾攻撃が題材の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』を20世紀フォックスと共同製作し、黒澤が日本側部分を監督することが発表された。黒澤は東映京都撮影所で撮影を始めたが、軍人役に演技経験のない財界人を起用したことや、黒澤の演出方法に馴染めないスタッフとの間に軋轢が生じたことから、スケジュールは大幅に遅れた。黒澤の映画作りの方法とハリウッドの映画作りの方法はうまく合わず、ついに遅延を無視できなくなった20世紀フォックスにより事実上の解任が決定し、1968年12月に表向きは健康問題を理由に監督を降板することが発表された。
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黒澤明
1969年6月24日、三船などが発起人になり「黒澤明よ映画を作れの会」が赤坂プリンスホテルで開かれ、関係スタッフや淀川長治など黒澤を応援する人たちが集まった。その翌月には木下惠介、市川崑、小林正樹とともに「四騎の会」を結成し、日本映画の斜陽化が進む中、若手監督に負けないような映画を作ろうと狼煙を上げた。その第1作として4人の共同脚本・監督で『どら平太』を企画するが頓挫した。結局、黒澤が単独で『どですかでん』(1970年)を監督することになり、自宅を担保にして製作費を負担するが、興行的に失敗してさらなる借金を抱えた。黒澤以外の四騎の会の監督はテレビ番組を手がけていたが、黒澤もテレビと関係を持つようになり、1971年8月31日に名馬の雄姿を紹介する日本テレビのドキュメンタリー番組『馬の詩』を監修し、同局で『夏目漱石シリーズ』『山本周五郎シリーズ』を監修する計画もあった。同年12月22日早朝、黒澤は自宅風呂場でカミソリで首と手首を切って自殺を図るが、命に別状はなかった。 1973年3月14日、黒澤はソ連の映画会社モスフィルムと『デルス・ウザーラ』(1975年)の製作協定に調印した。黒澤がソ連で映画を作るという話は、自殺未遂前の1971年7月、黒澤が第7回モスクワ国際映画祭に出席したときに持ちかけれ、それから本格的な交渉が行われていた。黒澤はソ連側から芸術的創造の自由を保証され、1974年4月から約1年間にわたり撮影をしたが、シベリアの過酷な自然条件での撮影は困難を極めた。作品は第48回アカデミー賞でソ連代表作品として外国語映画賞を受賞し、黒澤の復活を印象付けた。1977年には再びソ連で作ることを画策し、エドガー・アラン・ポーの短編小説『赤死病の仮面』を元にした『黒き死の仮面』の脚本を執筆したが、映画化は実現しなかった。この頃の黒澤はメディアへの露出が増え、1976年から1979年までサントリーリザーブのテレビCMにも出演した。
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1978年7月1日、黒澤はイタリアのダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で外国監督賞を受賞し、その副賞であるファーストクラスの航空券を使ってアメリカに10日間旅行した。黒澤はジョージ・ルーカスなどと昼食を共にしたり、フランシス・フォード・コッポラの邸宅を訪ねるなどの交友を持った。アメリカ滞在中、黒澤はルーカスと次回作『影武者』(1980年)の資金援助の相談もした。武田信玄の影武者を描く『影武者』は国内の映画会社と資金交渉が難航していたが、ルーカスの働きかけで20世紀フォックスが世界配給権を引き受ける代わりに出資することが決まり、ルーカスはコッポラを誘って海外配給の共同プロデューサーについた。『影武者』はオーディションで無名俳優や素人を起用したり、主演予定だった勝新太郎の降板騒動が起きるなど、公開前からマスコミを賑わせた。当時の日本映画で過去最高となる27億円の配給収入を記録し、第33回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。 『影武者』の興行的大成功で、黒澤は次回作に『乱』(1985年)を作ることにした。同作は毛利元就の三本の矢の教えにシェイクスピアの『リア王』を組み合わせた作品で、1976年に初稿を執筆していたが、資金調達が実現しないままだった。1981年10月に黒澤は渡米し、ニューヨークで行われたジャパン・ソサエティー主催の「黒澤作品回顧上映会」に出席したあと、『乱』の資金についてルーカスとコッポラに相談した。『乱』はフランスの映画製作者セルジュ・シルベルマンの出資で製作が実現することになったが、1983年3月にフランの海外流出が制限されたため製作延期となった。黒澤は『乱』のために招集したスタッフに仕事を与えるため、急遽能をテーマにしたドキュメンタリー映画『能の美』を企画し、黒澤監修で佐伯清を監督に起用したが、製作費が高額になるため中止した。
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黒澤明
同年11月1日、神奈川県横浜市緑区に自前の映画スタジオである「黒澤フィルム・スタジオ」を開設し、同月に『乱』はヘラルド・エースの参加で製作再開した。『乱』は日本映画で最大規模となる26億円もの製作費が投じられたが、興行収入は16億円にとどまり巨額の赤字を出した。それでも国内外で多くの映画賞を受賞し、1986年3月の第58回アカデミー賞では4部門にノミネートされ、ワダ・エミが衣裳デザイン賞を受賞した。黒澤も監督賞にノミネートされたが、これはシドニー・ルメットが黒澤をノミネートさせるためのキャンペーンを行った結果である。また、黒澤は同賞でジョン・ヒューストンやビリー・ワイルダーとともに作品賞のプレゼンターも務めた。 晩年期の作品は、家族や師弟など身辺に目を向け、自伝的な要素が強くなった。『夢』(1990年)は自身が見た夢を元にしたアンソロジー的作品で、その挿話の一つには早世した姉に対する追慕が現れている。この作品もやはり国内の映画会社で資金調達ができず、スティーヴン・スピルバーグの計らいでワーナー・ブラザースが出資と世界配給を引き受けたほか、ルーカスのILMが特殊合成に協力し、マーティン・スコセッシがゴッホ役で出演するなど、海外の映画人の協力により作られた。その後は国内資本での映画製作が続き、『八月の狂詩曲』(1991年)は村田喜代子の芥川賞作品『鍋の中』が原作で、『まあだだよ』(1993年)では内田百閒をめぐる師弟愛を描いたが、これが黒澤の最後の監督作品となった。 1993年11月、山本周五郎の2つの短編小説を元にした『海は見ていた』の脚本を執筆し、映画化準備をするも資金調達が上手くいかず断念した。そこで同じ山本原作の『雨あがる』の脚本に取りかかるが、1995年3月に定宿である京都の旅館「石原」で執筆中に転倒骨折し、脚本は完成することなく終わり、それ以降は車椅子生活を強いられた。その間の1996年に日本エアシステムの機体MD-90のデザインを担当し、1997年にはカルピスのために自筆の絵コンテをCGでアニメーション化したテレビCM「初恋」を制作し、初めてのCM制作でデジタル表現に取り組んだ。同年12月には三船が死去したが、翌1998年1月24日の本葬にはリハビリのため出席することができず、長男の久雄が弔辞を代読した。
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黒澤明
1998年9月6日午後0時45分、東京都世田谷区成城の自宅で脳卒中により死去した。88歳没。9月13日に黒澤フィルム・スタジオでお別れの会が開かれ、岡本喜八、司葉子、谷口千吉、仲代達矢、香川京子、千秋実、侯孝賢など約3万5000人が参列した。ルーカス、ルメット、スコセッシ、テオ・アンゲロプロス、アッバス・キアロスタミなどからは弔電が届いた。海外でも黒澤の死去はトップ級のニュースとして報道され、フランスのジャック・シラク大統領も追悼談話を発表した。黒澤は無宗教だが、妻(1985年に死去)が眠る鎌倉市の安養院に納骨され、「映明院殿紘国慈愛大居士」の戒名が送られた。従三位に叙された。 黒澤作品は強い人間信頼と人生肯定を特徴とし、現実社会で困難な状況に追い込まれた主人公が、それを契機にして人間的に再生する姿を描くことが多い。評論家の都築政昭は、黒澤作品の主人公は強い正義感と犠牲的な精神で困難に立ち向かうが、そのような人物は現実感に乏しいため、黒澤は人間のあるべき姿を願望として描いていると指摘している。映画批評家の佐藤忠男は、黒澤は生きる意味を探求するというテーマをくり返し描いていると指摘している。終戦後に作られた『醉いどれ天使』『静かなる決闘』『野良犬』などでは、主人公は強い正義感や使命感を持って社会悪と闘い、逞しく生きる侍的な英雄として描かれており、敗戦後の混沌とした社会に対して肯定的に生きることの意義を訴えている。その作風は人生の意義、社会的献身の意義を問う『生きる』と『赤ひげ』で頂点に達したとみなされている。 黒澤は師匠と弟子の関係をテーマに扱い、人間的に未熟な青二才がすぐれた師匠の教えを受けて一人前に成長するという物語を描くことが多い。そのテーマは監督第1作の『姿三四郎』から描かれており、この作品では青年柔道家の三四郎が師匠の矢野正五郎の教えを受けながら、心身両面で成長してすぐれた柔道家になる姿を描いている。そのほかの師弟関係を描いた例として、『野良犬』の佐藤刑事と村上刑事、『七人の侍』の勘兵衛と菊千代、『椿三十郎』の三十郎と若侍たち、『赤ひげ』の新出去定と保本登が挙げられる。1950年代までは三船敏郎が弟子に相当する主人公を演じていたが、『椿三十郎』『赤ひげ』では三船は未熟な者を指導する側の役を演じた。
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黒澤明
黒澤はその時々で自身が関心を持つ社会問題をテーマに採り上げ、批判的内容の作品を作っている。例えば、『醜聞』ではイエロー・ジャーナリズム、『生きる』では官僚主義、『悪い奴ほどよく眠る』では汚職、『天国と地獄』では誘拐、『生きものの記録』『夢』『八月の狂詩曲』では原爆をテーマに扱っている。佐藤によると、黒澤作品の社会批判の姿勢は、通常の社会批判映画を作る映画作家が好むような問題の犠牲者に観客の同情を集めたり、大衆に連帯をうながすという物語の形式を極端に避けており、その代わりに黒澤作品の主人公は大衆をあてにせず、個人的な解決方法を取ることが多いという。また、佐藤は自分だけで解決する主人公の描き方について、その独特な生き方は普通の日本人には理解し難いが、そこに日本人の大勢順応的傾向に反対する黒澤の主張が込められていると指摘している。 監督作品は基本的にすべて自分でシナリオを書いているが、大抵の作品には共同執筆者がいた。黒澤は共同執筆をする理由として、「僕一人で書いていると大変一面的になるおそれがある」と語っている。共同執筆の方法は、脚本家全員で同じシーンを書き、それを比較して良いところだけを取り入れて決定稿にするというものだった。大映製作担当の市川久夫は、谷口と共作の『静かなる決闘』の共同執筆について、「毎日、話の段取りを予め決め、同じシーンを二人が別々に書き、終わったところで対照し、よい方に統一しながら書き足してゆくといった方法だった」と述べている。橋本忍と小国英雄と共作の『生きる』『七人の侍』では、黒澤と橋本が競うように同じシーンを書き、小国がそれを取捨選択して決めるという役割分担で執筆した。橋本は「黒澤組の共同脚本とは、同一シーンを複数の人間がそれぞれの眼(複眼)で書き、それらを編集し、混声合唱の質感の脚本を作り上げる―それが黒澤作品の最大の特質なのである」と述べている。
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黒澤明
黒澤は撮影に入る前に、まず被写体を本当にそれらしく作れるかどうかを重視した。リハーサルは他監督の作品よりもたくさん時間をかけ、俳優が役柄や性格をしっかりと掴み、演技が自然に見えるまで周到に稽古を重ねた。『どん底』では撮影期間が1ヶ月なのに対し、リハーサルにはそれよりも長い40日近くもかけている。また、役の雰囲気を作らせるために、本読みの段階から俳優に衣裳を着けさせたり、撮影期間中も俳優同士を役名で呼ばせたり、役で家族を演じる俳優たちを一緒に住まわせたりした。このため、制作費が莫大になる理由の一つでもあった。。 セットも実在感を追求するためリアルに作られ、巨大なセットが組まれた。美術監督の村木与四郎も、黒澤作品のセットの特長を「みんな大きなロケセットを1つデーンと建てちゃう点」と語っている。画面に写らないような細部も作り込んでおり、『羅生門』では門の屋根瓦4000枚のすべてに年号が彫られ、『赤ひげ』では撮影のために焼いた茶碗に茶渋がつけられ、薬棚の引き出しの中にまで漆が塗られた。黒澤はある程度はリアリズムを徹底したが、必ずしも史実通りにすることにとらわれず、視覚的にどう写るかを優先して大胆にイメージを広げることもあった。『用心棒』の宿場町はシネマスコープの画面に合わせて道幅を広くしており、『蜘蛛巣城』の城門も実際の寸法より大きくしている。 黒澤の撮影方法は、複数のカメラでワンシーン・ワンショットの長い芝居を同時撮影するというもので、この手法は「マルチカム撮影法」と呼ばれた。マルチカム撮影法は『七人の侍』で決戦場面など撮り直すことが難しいシーンを、数台のカメラで一度に写すことから始まったもので、次作の『生きものの記録』から本格的に導入した。黒澤はこの手法を使うと俳優がカメラを意識しなくなり、思いがけず生々しい表情や姿勢を撮ることができ、普通の構図では考えつかないような面白い画面効果が得られるとしている。撮影監督の宮川一夫によると、黒澤は芝居が止まるのを嫌ってこの手法を使用したという。大抵のシーンでは2、3台のカメラを使用したが、『赤ひげ』では5台のカメラを使って8分に及ぶシーンを長回しで撮影した。
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黒澤明
編集作業は黒澤自身が行った。黒澤は撮影を素材集めに過ぎないとし、それに最終的な生命を与えるのは編集であると考えていたため、他監督の作品のように編集担当に任せることはせず、自分で編集機を操作した。マルチカメラ撮影法を採用してからは、複数カメラで撮影した同じシーンのフィルムをシンクロナイザーにかけ、一番いいショットを選んで繋げるという方法で編集をした。複数カメラで長いシーンを撮影すると、スタッフは映像のイメージがつかみづらくなるため、黒澤は撮影したシーンのラッシュフィルムが仕上がるとすぐに編集してスタッフに見せ、ロケーションにも編集機を携行した。そのため撮影が終了する頃には、編集もほとんど済んでしまうことが多かった。 黒澤はカメラの動きを観客に意識させないようにした。カメラを勝手に動かすことはなく、俳優が動くときのみカメラを移動させ、俳優が止まればカメラも停止させた。カメラが対象物に寄るのも不自然だと考え、ズームレンズは基本的に使わず、その代わりに望遠レンズを多用した。黒澤は『野良犬』のワンシーンで初めて望遠レンズを使い、『七人の侍』から複数カメラの1つに採用した。望遠レンズだと画角が狭くなり、被写体の遠近感が失われて縦に迫るように見えるため、迫力ある画面を生んだ。また、望遠レンズを使うとカメラ位置が遠ざかり、その分俳優がカメラを意識しなくなり、自然な表情が撮れるため、黒澤はクローズアップも望遠レンズで撮影した。 黒澤は画面に写るものはすべて重要だと考え、1つの画面に人や物がたくさん詰まっているような画面構図を好んだ。そのためパンフォーカスを使用して、被写体を画面の手前から奥に立体的に配置し、奥行きのある「縦の構図」にすることが多い。パンフォーカスはレンズの焦点深度を深く絞り、画面内の被写体全部に焦点を合わせる技法である。黒澤は『わが青春に悔なし』でパンフォーカスを試みようとしたが、敗戦直後の電力不足で諦めており、『生きる』から存分に活用した。パンフォーカスでレンズを深く絞ると光量が減るため、大量の強いライトを使わなければならず、黒澤が撮影するとスタジオが電力不足になり、他の仕事が出来なくなったという逸話がある。
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黒澤明
場面転換には「ワイプ」を使用した。ワイプは画面を片側から拭き取るように消して、次の画面を表示する技法である。サイレント映画でよく使われたが、1950年代頃には映画ではほとんど使われなくなり、アメリカではテレビシリーズで採用された。黒澤はワイプをフェードやディゾルブなどの代わりに使用したが、これらの技法を全く使用しなかった訳ではなく、フェードは柔らかな印象を与えるときだけ使い、ディゾルブはかなりの時間経過を示すために用いた。ワイプの主な使用例は、『生きる』で市役所に陳情に来た主婦がたらい回しにされるシーンで、責任回避する各部署の職員を被写体にしたPOVショット(英語版)がワイプで重ねられている。 1940年代から1950年代の作品では「アキシャルカット(英語版)」という技法を使用した。アキシャルカットはディゾルブやトラッキングショットを使用せずに、角度を変えないジャンプカットで焦点距離を変化させる技法で、突然被写体が近づいたり離れたりする印象を与えた。映画批評家のデヴィッド・ボードウェルは、黒澤はアキシャルカットを頻繁に使用して、瞬間的な動作を強調したり、静止した瞬間の時間を延ばしたりしていると指摘している。『姿三四郎』では村井半助が柔道の試合で投げ飛ばされたシーンや、三四郎と小夜が階段を下りながら会話するシーンなどで、アキシャルカットが使用されている。 映画批評家のドナルド・リチーは、黒澤の色彩表現はイメージの役割に合わせて色を決め、色彩そのものに意味を持たせるというものであるとしている。『どですかでん』では内容に即してセットや地面を赤や黄の原色で染めて、奔放に色を使用している。『影武者』以降は鮮やかな色彩で細部まで描き込んだ絵コンテを用意するようになり、その絵コンテ自体が芸術作品として成立することから、作品発表のたびに画集が出版された。 太陽を映すショットは当時としは画期的で多くの映画関係者に影響を与えた。
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太陽を映すショットは当時としは画期的で多くの映画関係者に影響を与えた。 黒澤はカラー映画には慎重な態度を取り、『赤ひげ』までの全作品はモノクロで撮影した。ただし、『天国と地獄』のワンシーンでは煙突の煙に着色してパートカラーにする試みをしている。黒澤はカラーに踏み切らなかった理由について、映画の色彩が絵画的な色彩とは程遠く、自分の考える色彩を表現することができないからだとしている。照明技師の石井長四郎と森弘充は、黒澤が重視するパンフォーカス撮影はカラー映画では難しく、そのためにカラーに踏み切らなかったとしている。黒澤初の全編カラー映画は『どですかでん』で、以後の作品はすべてカラーで撮影した。 黒澤作品の画面サイズは、『どん底』まではスタンダードサイズ(画面比率は1対1.33)だったが、黒澤は画面が狭すぎるスタンダードサイズに不満があり、『隠し砦の三悪人』以降はシネマスコープ(画面比率は1対2.35)を採用した。黒澤は同作について、「最初のシネスコ・サイズで大きな画面にいろいろ入るので、おもしろくて思う存分撮った」と述べている。『デルス・ウザーラ』では初めて70ミリフィルムを使用したが、『影武者』以降の作品はすべてビスタサイズ(画面比率は1対1.66)で撮影した。撮影監督の斎藤孝雄によると、黒澤は画面全体を埋めなければ気が済まない人で、シネマスコープの広い画面を埋めるのが大変になったことからビスタサイズに変更したという。
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黒澤は映画音楽で、わざと映像と音楽の調和を崩す「音と映像の対位法」を好んで使用した。スクリプターの野上照代は「映画音楽は足し算ではなく、掛け算でなければならない」のが黒澤の持論だったとしている。黒澤とコンビを組んだ早坂文雄は、黒澤の映画音楽に対する考え方は「画面と結合することによって、ある連想作用によって、そこになにかが喚起され、その音楽自体に別な意味が附与されてくるようなものでなくてはならない」ものだったとしている。対位法を使用する時は、音源をその画面に登場する既成のレコード曲やラジオから流れる音楽、背景の歌声などの現実音にする場合が多かった。対位法の代表的な使用例は『醉いどれ天使』と『野良犬』で、前者では主人公が闇市を歩くシーンで「かっこうワルツ」を流し、後者では佐藤刑事が犯人に撃たれるシーンで「ラ・パロマ」、村上刑事が犯人と対峙するシーンでクーラウの「ソナチネ」のピアノ曲を流している。 黒澤は映画音楽を作曲家任せにせず、作曲家に自分の欲しいイメージを伝え、それに強くこだわった。普段からよく音楽を聞いていた黒澤は、イメージを伝えるために既成曲を示し、それに似た音楽にするよう指示することが多かった。『羅生門』ではラヴェルの「ボレロ」、『赤ひげ』ではブラームスの「交響曲第1番」やハイドンの「交響曲第94番」、『乱』ではマーラーの「大地の歌」に似た曲が作られている。『赤ひげ』以降はラッシュ時に自分が選んだ名曲を付けるようになり、その曲に合わせて編集することもあった。そのため注文の厳しい黒澤と作曲家との軋轢も多く、『影武者』では佐藤勝が降板し、『乱』では武満徹とダビングをめぐり対立することもあった。 黒澤は長年東宝に所属していたこともあり、同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「黒澤組」と呼ばれた。黒澤組の主な人物と参加作品数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)。 「完全主義という言葉が実際あるかどうか知らないけれど、モノを作る人間が完全なものを目指さないはずがありませんよ」と黒澤はインタビューで言うように、表現に一切の妥協を許さず、「完璧主義」と称されるエピソードが多く存在する。黒澤の映画に対する数々の拘りは『完全主義者』『天皇』という「映画監督・黒澤明」のイメージを作り上げた。
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黒澤明
「完全主義という言葉が実際あるかどうか知らないけれど、モノを作る人間が完全なものを目指さないはずがありませんよ」と黒澤はインタビューで言うように、表現に一切の妥協を許さず、「完璧主義」と称されるエピソードが多く存在する。黒澤の映画に対する数々の拘りは『完全主義者』『天皇』という「映画監督・黒澤明」のイメージを作り上げた。 サングラスは1960年代以降の黒澤のトレードマークである。黒澤は強い照明を使う撮影と、常に自ら編集作業にたずさわっていたこともあって眼を悪くしていたが、尊敬するジョン・フォードも同じく眼を傷めており、フォードと会った時に彼から「眼を大事にしろ」と忠告されたのがきっかけで、『用心棒』からサングラスを着用するようになった。黒澤はフォードを真似てサングラスだけでなく、『椿三十郎』からハンチング帽も被るようになった。それまではピケ帽を愛用し、『デルス・ウザーラ』以後はキャプテン帽を被った。 青年時代に画家を志していた黒澤は、ポール・セザンヌやフィンセント・ファン・ゴッホなど後期印象派の画家が好きだったが、富岡鉄斎や前田青邨などの日本画家も好きだと発言していた。前田からは兜の絵を貰い、その絵を大事にしていたが、黒澤家の家計が逼迫した時に売却したという。映画界に入ってからは絵コンテはじめ映画のため以外で絵を描くことはなかったが、晩年は水彩や墨で仏画を描くようになり、それらの絵に押す篆刻の制作にも熱中した。また、黒澤は自分で絵を描いたクリスマス・カードを手作りし、国内外の知人に送っていた。野上によると、黒澤は時間があれば絵を描き、机の上に絵を描く道具を置いておくと、サインペンでも絵具でも手当たり次第使って、子供のように黙って絵を描いていたという。
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私生活の黒澤はグルメで知られ、とくに肉料理を好んだ。小泉堯史によると、黒澤は晩年になっても食欲は落ちず、ステーキなどを頬張っていたという。黒澤家の食卓の代表的な料理は牛肉料理で、黒澤家に行けば美味しい牛肉が食べられると海外の映画関係者にまで知れ渡っていた。そのため牛肉代だけで食費が高くつき、1ヶ月の牛肉代が100万円を突破することもあり、税務署に疑われるという出来事もあったという。黒澤はスタッフの食事にまでうるさく、夏には撮影現場にかき氷の屋台を用意したこともあった。黒澤は酒豪としても知られ、ジョニー・ウォーカーやホワイトホースなどのウイスキーを愛飲した。 黒澤は寂しがり屋の話し好きで、気の合う人とは話が尽きないような人物だった。お酒もみんなと一緒に賑やかに飲むのが好きで、地方ロケでは毎日のように夜は宴会となり、俳優やスタッフたちと車座になり、一緒に夕食をしながら飲むことが多かった。酔いが進むと黒澤はスタッフたちに輪唱をさせ、黒澤が指揮者になりみんなを何組かに分けて歌わせたという。黒澤組の常連俳優である土屋嘉男によると、黒澤は輪唱が上手くいかないとダメ出しをし、まるで撮影の時と同じようになったと述べている。 黒澤は助監督時代から演出や脚本の力量が認められ、監督処女作でいきなり大きな注目と称賛を受けた数少ない監督だった。多くの監督作品が高評価を受けており、戦後のキネマ旬報ベスト・テンでは25作品が10位以内に選出された。批評家からは視覚的演出力、劇的で緻密な脚本構成、絵画的造形力などが高く評価される反面、強い娯楽性や独自の倫理観には賛否が分かれることもあった。1960年代の政治運動の激しい時代には、若い世代により反黒澤論も書かれたが、それらの多くは黒澤作品における武士道的ストイシズム、反庶民的ヒロイズム、家父長制的権威主義に反発している。作品が西洋的であることから日本人離れしていると見なされることもあり、海外では最も西洋的な日本人監督と考えられているが、フランスの映画研究家サッシャ・エズラッティは「彼(黒澤)はそのインスピレーションを、その生まれた国の土の中と同様に、国境の外からも得るという、非常に大きな教養を持った男である。黒澤はその国民的な性格を完全に保ちながら、日本映画に世界性を持たせたという功績を持っている」と評価している。
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