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ゆでたまご
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1978年、『キン肉マン』で第9回赤塚賞準入選し、これが『週刊少年ジャンプ』1979年2号(1978年12月)に掲載されデビューとなった。編集部内では稚拙な作品と評判が良くなかったが、当時の編集長・西村繁男は、低年齢向け漫画としての資質があることを見抜いており、担当の中野和雄と大阪まで出向いてスカウトした。この時2人は既に就職が決まっていたが、「漫画が続かなかったら就職の世話をする」と西村が2人の親を説得し、東京にアパートまで用意したという。2010年代後半の日本の社会では漫画家というと家族も雑誌のパーティに一緒に出席してくれるほど理解された職業となっているが、当時は水商売扱いであり中井も嶋田も両親が猛反対していたため、西村が説得に成功するまで大変苦労したという。
1979年5月、2人の高校卒業を待って、『キン肉マン』が『週刊少年ジャンプ』で連載開始。初期はプロレスネタを交えたギャグ漫画だったが、途中からバトル重視のプロレス漫画に路線変更、大ヒットとなり、TVアニメーションも展開される。劇場用アニメーション作品も何本か作られた。また、作中に登場する「超人」をかたどった消しゴム人形「キン肉マン消しゴム(キン消し)」集めが子供達の間で流行した。
1982年に『週刊少年ジャンプ』の別冊『フレッシュジャンプ』で、『キン肉マン』に登場する人気キャラクターのラーメンマンを主人公としたスピンオフ作品『闘将!!拉麵男』を『キン肉マン』との同時進行で連載開始。TVアニメ化もされた。
1985年には吉本新喜劇(当時)の高石太とともに『必殺仕事人V』第9話「主水、キン肉オトコに会う」に仕事人志望の若者(依頼人)役でゲスト出演。ブームの最中ということもあり、中盤過ぎに殺されるまでほぼ出ずっぱりだった。劇中では必殺技を解説するための紙芝居を描いており、バッファローマンが殺される悪人役になっていた。
1985年3月、第30回(昭和59年度)小学館漫画賞受賞(『キン肉マン』)。
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ゆでたまご
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1985年には吉本新喜劇(当時)の高石太とともに『必殺仕事人V』第9話「主水、キン肉オトコに会う」に仕事人志望の若者(依頼人)役でゲスト出演。ブームの最中ということもあり、中盤過ぎに殺されるまでほぼ出ずっぱりだった。劇中では必殺技を解説するための紙芝居を描いており、バッファローマンが殺される悪人役になっていた。
1985年3月、第30回(昭和59年度)小学館漫画賞受賞(『キン肉マン』)。
『キン肉マン』終了後は、格闘漫画以外のジャンルを模索しながらもこれといったヒットが出ない冬の時代が続き、1990年代半ばになると世間からは過去の人と扱われた。『蹴撃手マモル』終了後、都合良く読み切りばかり書かされる状況に中井が飼い殺しを恐れるようになり、集英社との専属契約を解消したが、この頃嶋田は吉祥寺を歩いていたら通行人に「最近面白くねえんだよ!」と罵倒されて頭を叩かれる経験をした。
そんな中、1996年1月に『キン肉マン』の後日談となる読み切り『マッスル・リターンズ』が『格闘エース』に掲載された。角川書店は『キン肉マン』の権利関係から集英社に確認を取ったが、集英社はあっさりと許可した。ただ、ゆでたまごが作品を少年ジャンプで書きたいと申し出ると集英社はその必要はないと断った。悔しさに燃えるゆでたまごであったが『マッスル・リターンズ』への反響は大きく、『キン肉マン』シリーズの続編連載の機運が高まった。
そうして1997年に『週刊プレイボーイ』誌上に『キン肉マン』の続編にあたる『キン肉マンII世』の読切32Pが掲載され、計5回にわたるシリーズ掲載を経た後、翌1998年より連載となる。二度目のヒットとなり、リバイバル漫画ブームの先駆けとなる。
2004年、『キン肉マン』生誕25周年を迎えた。
2007年に日本記念日協会より月を問わず、29日の金曜日を『キン肉マン』の記念日と認定証が発行されている。
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ゆでたまご
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そうして1997年に『週刊プレイボーイ』誌上に『キン肉マン』の続編にあたる『キン肉マンII世』の読切32Pが掲載され、計5回にわたるシリーズ掲載を経た後、翌1998年より連載となる。二度目のヒットとなり、リバイバル漫画ブームの先駆けとなる。
2004年、『キン肉マン』生誕25周年を迎えた。
2007年に日本記念日協会より月を問わず、29日の金曜日を『キン肉マン』の記念日と認定証が発行されている。
2008年には生誕29(ニク)周年を記念し『週刊少年ジャンプ』29号に復活掲載、記念本『肉萬〜キン肉マン萬之書〜』、画集『筋肉画廊』、アニメDVD『キン肉マン コンプリート DVD-BOX』が発売され、イベントも2月に新宿バルト9で『キン肉マン映画祭』、6月に秋葉原の東京アニメセンターイベントギャラリーで『キン肉マン展』、12月にはさいたまスーパーアリーナで開催された『Dynamite!!〜勇気のチカラ2008〜』にキン肉万太郎が出場、ボブ・サップと対戦し、敗れはしたものの瞬間最高視聴率18.1%を記録した。
2009年には生誕30周年を迎え、5月29日にJCBホールでプロレス興行『キン肉マニア2009』を開催。キン肉マンや超人達が実際に試合を見せ話題となる。2010年1月29日には22年振りのジャンプ・コミックス新刊『キン肉マン』37巻が発売された。発売記念のサイン会が紀伊国屋書店で開催され、用意された整理券は30分で配布終了となるなど変わらぬ人気を見せた。
2011年5月9日より、『キン肉マンII世』の連載が『週刊プレイボーイ』誌上から『週刊プレイボーイ』のWebサイト『週プレNEWS』に移る。
2011年11月28日より、『キン肉マン』新シリーズの連載を『週プレNEWS』で開始。
ゆでたまご作品の最大の特徴として、物語や設定の整合性が取れず、数多くの矛盾点を含みながら進むストーリー展開が上げられる。
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ゆでたまご
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2011年5月9日より、『キン肉マンII世』の連載が『週刊プレイボーイ』誌上から『週刊プレイボーイ』のWebサイト『週プレNEWS』に移る。
2011年11月28日より、『キン肉マン』新シリーズの連載を『週プレNEWS』で開始。
ゆでたまご作品の最大の特徴として、物語や設定の整合性が取れず、数多くの矛盾点を含みながら進むストーリー展開が上げられる。
これは『キン肉マン』連載デビュー当時、作品作りのイロハを理解しておらず、右も左も分からない状態で執筆していたことが原因であるという。そのため周囲からは破綻が多い、いい加減な作品だと随分非難を受けて、ゆでたまご自身一時期大変落ち込んだことを明かしている。しかし読者からは高い支持を受けていたことと、当時は車田正美など同様の作風の作家がいたことなどを理由に自信を取り戻し、以後ゆでたまごの作風として定着させた。その後はストーリーの統合性などは二の次として、読者の度肝を抜く展開を心がけ、毎週締め切り過ぎまでアイディアを粘るため、原稿が完成するのが連載作家の中で1、2を争うほど遅くなったという。
嶋田はインタビューなどで「細かい設定にこだわっていると、結果としてつまらなくなってしまう」「ツッコミ所が多い方が、読者が親近感を持ってくれる」と述べている。また、誤植や作画のミスに関しても、ゆでたまご自身少年時代に読んだ漫画のあら捜しをして楽しんでいた思い出もあるので、指摘があってもあえて修正していない部分もあると語っている。後付け設定もたくさんあり、後になり整合性が取れていなかったり辻褄が合わなくなることがよくあるが、そういう整合性のない部分を読者があとで、あれこれ議論したり推理する材料になればいいと思っているから、単行本化されるときも、あえて修正したりはしていないと語っている。
これらのこと(例:7人の悪魔超人が8人いた等)をファンからは「ゆで理論」と呼ばれている。
代表作の『キン肉マン』を始め、ゆでたまごの作品では登場人物などを読者から募集するのが通例となっている。『キン肉マン』の主要キャラクターであるロビンマスクやラーメンマンなども読者応募によるものであり、中井はファンを「3人目のゆでたまご」であると語っている。
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ゆでたまご
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これらのこと(例:7人の悪魔超人が8人いた等)をファンからは「ゆで理論」と呼ばれている。
代表作の『キン肉マン』を始め、ゆでたまごの作品では登場人物などを読者から募集するのが通例となっている。『キン肉マン』の主要キャラクターであるロビンマスクやラーメンマンなども読者応募によるものであり、中井はファンを「3人目のゆでたまご」であると語っている。
ゆでたまごが『キン肉マン』でデビューして間もない頃、読者からのファンレターが来ても返事を書く余裕がなく、担当編集者の中野和雄の発案で、読者の考案した怪獣を漫画に登場させ、主人公のキン肉マンと戦わせることで読者に応えようとした。反響は大きく、のちに作品が怪獣退治からプロレス主体になると「超人募集」として企画は継続され、当初数十通だった応募は回を重ねるごとに数百通・数千通と増えていった。あまりの葉書の量に、当時の嶋田の下宿は床が抜け、引越しを余儀なくされた。
応募作品の選考にあたって、ゆでたまごは極力低年齢の子供のものを採用するようにしたという。ルービックキューブ(キューブマン)など当時の流行に基づいた超人を採用すると、以降は時事や流行を反映した超人が多く応募されるようになった。
やがて『キン肉マン』は読者参加型の流れが出来上がり、『ゆうれい小僧がやってきた!』の「妖怪募集」、『トータルファイターK』の「カオの対戦相手募集」などに続いていく。この方式はゆでたまごの作風として読者に認知され、募集告知を全くせずに新連載を始めても登場キャラクターの応募が送られてくるほどになった。『キン肉マンII世』の開始にあたって行われた超人募集には10万通以上の応募があったと嶋田は述べる。
超人募集は読者を対象としたもの以外にも、『キン肉マン 77の謎』などのムックで他の漫画家や芸能人・格闘家が新超人を考案する企画が数度行われている。テレビ番組『アメトーーク!』の「キン肉マン芸人」の回では、お笑い芸人たちが新超人を考案し、ゆでたまごに選考してもらう企画が催された。
各作品の詳細については当該記事を参照。番号は発表順、年は発表年。年の列にはソートを正しく行うため便宜的に上付き文字で数字を加えている。掲載誌および単行本については以下の略号を用いる。
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ゆでたまご
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各作品の詳細については当該記事を参照。番号は発表順、年は発表年。年の列にはソートを正しく行うため便宜的に上付き文字で数字を加えている。掲載誌および単行本については以下の略号を用いる。
番号は発表順、年は発表号・年月等。年の列にはソートを正しく行うため便宜的に上付き文字で数字を加えている。掲載誌については以下の略号を用いる。
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非線形物理学
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非線形物理学(ひせんけいぶつりがく、英: Nonlinear physics)は、非線形な系を扱う物理学の分野である。カオス理論、ソリトン、格子振動で調和近似の成り立たない場合、線形な方程式では記述できない流体力学分野などがこの学問分野の対象となる。
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横山まさみち
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横山 まさみち(よこやま まさみち、男性、1930年4月29日 - 2003年10月14日)は、日本の漫画家。代表作は『やる気まんまん』。
愛知県名古屋市出身。本名:横山正雄。愛知県立明和高等学校卒。
1950年、明治大学在学中に『ウサギのかごや』でデビューし主に貸し本漫画を多数執筆。1960年代頃からは横山プロダクションを立ち上げ、自身やアシスタントの作品を発表すると同時に、活動の場を少年週刊誌や月刊誌、少女雑誌に広げて活躍した。
1970年代に入って貸本が廃れてくると活動の場を少年誌から成年誌に変えて執筆するようになった。少年向け劇画作家から成年向けアダルトコミックに転身し成功した一人で、日刊ゲンダイに連載した、男性器をオットセイに、女性器を貝に擬したアダルトコミックで一般にもよく知られていた。主人公は、やや太めガッチリ体型で丸顔のキャラクターに固定されており、コミカルな中に美しい叙情性も織り込んだ作風で根強い人気を誇った。ヒロインの美女は、横山の絵柄とは異なる少女マンガ風のものであり、アシスタントの松尾啓子が担当したという。そうしたアダルトコミックを執筆する一方で、硬派な歴史漫画なども執筆している。
2003年10月14日、前立腺がんのため死去。73歳没。朝日新聞社の雑誌『AERA』では、オットセイの解説付きで死を悼む記事が掲載された。
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横山光輝
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横山 光輝(よこやま みつてる、1934年〈昭和9年〉6月18日 - 2004年〈平成16年〉4月15日)は、日本の漫画家。兵庫県神戸市須磨区出身。本名:横山 光照。代表作に『鉄人28号』『伊賀の影丸』『仮面の忍者 赤影』『魔法使いサリー』『コメットさん』『バビル2世』『三国志』等々多数。長年にわたり幅広いジャンルで活躍し、手塚治虫、石ノ森章太郎などと並び称された漫画界の巨匠の一人である。
1934年(昭和9年)、神戸市須磨区に生まれる。戦時中は鳥取県に疎開していた。1946年(昭和21年)、神戸市立太田中学校に入学、この頃から漫画を描き始める。1949年(昭和24年)、神戸市立須磨高等学校に入学。手塚治虫の『メトロポリス』に感銘を受け本格的に漫画を志し、『漫画少年』『探検王』などの雑誌に作品を投稿するようになる。1951年(昭和26年)には横山みつてるの筆名で10数本の作品が商業誌に掲載される。1953年(昭和28年)、高校を卒業し神戸銀行(現:三井住友銀行)に入社するが4か月で退社、その後、友達の大阪府堺市の自転車工場で働くが数か月で辞める。1955年(昭和30年)には神戸に戻り、映画会社の宣伝部員として勤務しながら漫画の投稿を続ける。
1954年(昭和29年)、貸本漫画会社、大阪東光堂の注文で貸本漫画を描いていた横山は、出版社の社長に連れられ手塚の下に赴き、横山が描いた時代物『魔剣烈剣』に目を通した手塚は「売れる漫画家」と判断した。横山は、『魔剣烈剣』の読者からの好評に自信を得て漫画家を志すようになり、この作品におけるスピード感と娯楽性は今後の漫画作りの姿勢の基本になったと言う。
1955年(昭和30年)、貸し本向け単行本『音無しの剣』で漫画家デビュー。2作目の『白百合物語』が認められ、光文社の『少女』で初の雑誌連載『白ゆり行進曲』が開始される。手塚はそのデビュー当時を「かれほど『彗星のように』という形容のあてはまる男はいない」と評している。この頃に原作手塚治虫、作画横山光輝で『黄金都市』、『ターザンの洞窟』、『海流発電』、『仮面の冒険児』で4作発表している。横山はトキワ荘の住人ではなかったが、手塚の「鉄腕アトム」のアシスタントとして活動したこともあった。
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横山光輝
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1956年(昭和31年)、映画会社を退職した後、光文社『少年』に発表した『鉄人28号』が人気を博し作家的地位を確立。『鉄人28号』は『少年』誌上で手塚の『鉄腕アトム』と人気を二分するヒット作となった。この年より上京し、以降映画会社勤務時に多くの映画を見た経験を生かして、名作を次々と生み出した。この時、鉄人28号のヒットにより本気で漫画家になろうと考えたと語っている。
1964年(昭和39年)には、神田三崎町に株式会社光プロダクションを設立する。
『魔法使いサリー』などの例外を除けば連続物語(ストーリー漫画)を多く描き、笑いの要素のほとんどない、ある意味でハードボイルドな世界の構築を得意とした。展開も絵柄も奇をてらわない正攻法でわかりやすく、後年歴史もので名を成す下地となっている。
アニメ化された作品も多く、『鉄人28号』で巨大ロボットアニメ、『魔法使いサリー』で魔法少女アニメの歴史が始まったと言われ、分野の先駆け的存在となった。
1991年(平成3年)、『三国志』により第20回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。受賞作『三国志』は、1971年(昭和46年)から1986年(昭和61年)までの15年の時間を要し、全60巻(文庫版は全30巻)というスケールで劉備登場から蜀漢の滅亡までが描かれた大作である。『水滸伝』『三国志』以降、横山は日本や中国の歴史漫画中心に力を注ぐことになる。中には毛沢東の長征を描いた『長征』のような近代中国史を描いた作品もある。
1999年(平成11年)には大病を患い療養。
2004年(平成16年)に日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞した。同年4月7日『鉄人28号』(第4作)が放送開始。4月11日に東京都古書籍協同組合が組合員を対象として14~15日に開く全古書連大市会にて横山の未発表作品が入札にかけられると報道され、これに対し「売りに出されるのは不愉快」と発言していた。
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横山光輝
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1999年(平成11年)には大病を患い療養。
2004年(平成16年)に日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞した。同年4月7日『鉄人28号』(第4作)が放送開始。4月11日に東京都古書籍協同組合が組合員を対象として14~15日に開く全古書連大市会にて横山の未発表作品が入札にかけられると報道され、これに対し「売りに出されるのは不愉快」と発言していた。
それから間もない同年4月15日朝方、東京都豊島区千早の自宅で火事に見舞われ、全身火傷を負って意識不明の重体となり、同日22時に日本大学医学部附属板橋病院にて死去した。69歳だった。出火原因は寝煙草の不始末で、約3年前に足を骨折した後遺症のため逃げ遅れたという。遺作は2001年7月に完結した『殷周伝説』。次作については、兵法書『孫子』で著名な兵法家・孫武の物語を構想していたと編集部が明かしている。
遺産は長男の横山輝利(てるとし、光プロダクション代表取締役の一人)と長女が相続したという。後に輝利は光プロのパーティで亡父の昔の単行本の再発行版決定に関してのスピーチの際に「大変読み易く、亡父が見ても納得してくれると思う」と述べている。
横山の生前時、「私の納得できる最善の出来ではない」という理由で、単行本化されない作品が多数あった。しかし横山の死後は『ジャイアントロボ』等々のこうした作品が相次いで単行本化されている。
2007年、生地である兵庫県神戸市長田区の新長田駅周辺の商店街などでは毎年夏頃に「三国志祭」が開かれ、2009年9月29日には同駅近くの若松公園内に高さ15.6m(全長18m)の実物大の鉄人28号モニュメント像が完成した。総工費は1億3,500万円で神戸市の補助金の他に寄付や協賛金などで集められた。
少年・少女向けから大人向けまで、幅広い分野で多彩な技量を見せていた。
新分野への挑戦にも意欲的であり、番長漫画が流行した当時には、自らも『あばれ天童』を描いている。その単行本の前書きにおいては「新人になったつもりで描いた」とコメントしている。
手塚は「彼の作品は、計算の上にサービス精神を横溢させている」と評している。漫画家のゆうきまさみはコラム『はてしない物語』などで「コマとコマの間を読ませるという意味で、横山氏の右に出る者はいない」と語っている。
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横山光輝
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新分野への挑戦にも意欲的であり、番長漫画が流行した当時には、自らも『あばれ天童』を描いている。その単行本の前書きにおいては「新人になったつもりで描いた」とコメントしている。
手塚は「彼の作品は、計算の上にサービス精神を横溢させている」と評している。漫画家のゆうきまさみはコラム『はてしない物語』などで「コマとコマの間を読ませるという意味で、横山氏の右に出る者はいない」と語っている。
自作品の映像化に関して、横山はその点については現実的かつ寛容で、商業作品は第一に経済的に成功させなければならないという点に対して理解を持っていた。白土三平が『ワタリ』について先に制作された映画版の表現や完成度への不満からテレビドラマ化を拒否し、手配されていたスタッフやキャスト、予算などが宙に浮いてしまった際に、代替企画の原作者として横山に急遽白羽の矢が立てられ、このために『飛騨の赤影』(仮面の忍者 赤影)の連載を開始し、こちらは正統派の忍者漫画であったのに対して、テレビドラマ版は東映スタッフが知恵を絞り原作とは大幅に毛色の異なる作品となりながらも、いずれも人気作品となった。
数多くの横山作品を原作としてテレビアニメ・特撮などの映像作品が制作され、多くのクリエイターが横山の了承を得て大いに独自の手腕を振るっている。たとえば『マーズ』では、その最初のアニメ化(『六神合体ゴッドマーズ』)に際して、漫画作品の発表からかなりの時間が経ち、内容も時代に合わせて変える必要があるからとして、「すべてお任せしますから、自由に書いてください」と言われたことをシリーズ構成の藤川桂介は述べている。一方で、自身の作品に対するポリシーやアニメ化された作品に対する観察眼も一貫したものを持っており、『鉄人28号FX』については、雑誌のコメントで「鉄人のデザイン、物語ともどもにもっとわかりやすいものがよかったのでは?」という比較的辛口のコメントを残している。
30代の時点で、横山は既に漫画業界では大御所と呼ばれる存在になっていたが、内容の保守にとらわれず、過去の代表作の続編を作成したり、「今、読者が何を求めているのか?」を研究するために頻繁に映画館に足を運ぶという進取の人物であった。
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横山光輝
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30代の時点で、横山は既に漫画業界では大御所と呼ばれる存在になっていたが、内容の保守にとらわれず、過去の代表作の続編を作成したり、「今、読者が何を求めているのか?」を研究するために頻繁に映画館に足を運ぶという進取の人物であった。
『殷周伝説』を連載していた雑誌『コミックトムプラス』の巻末で、「私が今まで感銘を受けた本は、山岡荘八さんの小説『徳川家康』全26巻でしたね」と語っており、実際に横山の手によって漫画化されている。その他にも横山は『織田信長』『豊臣秀吉(異本太閤記)』『伊達政宗』と、次々と山岡作品を漫画化している。
無類の競馬好きで、それが高じて茨城県美浦村の牧場で自分の競走馬を飼っていた。馬主としては株式会社千早クラブ名義で登録していた、勝負服の柄は緑、茶鋸歯形。また、所有馬の『ジャックボーイ』は1987年(昭和62年)の第48回菊花賞にも出走している(結果は18頭中15着)。
麻雀も強く、1981年には第12期麻雀名人(『週刊大衆』)のタイトルを獲得している。
ヘビースモーカーとしても有名だが、喫煙による火災が命取りになってしまった。
締切に関しては非常に誠実で、『三国志』連載中は当日の朝に編集者が仕事場に行くと、玄関口に完成原稿が封筒に入れられて置かれていたという。
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吉田聡
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𠮷田 聡(よしだ さとし、1960年12月8日 - )は、日本の漫画家。福岡県生まれ、神奈川県藤沢市辻堂出身。血液型B型。苗字の「吉」の正確な表記は「𠮷」(「土」の下に「口」、つちよし)である。
高校卒業後、東京デザイナー学院商業デザイン科中退。スキー事故で全治6か月の骨折入院中に漠然と漫画家になることを決意。
アイスクリーム店でアルバイト中、常連客からの情報を辿って押しかけた地元の漫画家ムッシュー・田中に師事、チーフアシスタントを務める。
師匠から「鶏口となるも牛後となるなかれ(強い勢力につき従うより、たとえ小さくてもその中で長となれという諺)」とアドバイスを受け当時の少年誌の中でも発行部数の少なかった『週刊少年キング』(少年画報社)へ作品を持ち込み。1982年(昭和57年)同誌の漫画賞である第4回まんが道大賞において『天上界Story』があすなろ賞を受賞。『週刊少年キング』は休刊するも、直後に発行された増刊号にて『天上界Story』掲載、デビューとなった。
同年『週刊少年キング』がリニューアル創刊された『少年KING』に読切作品『湘南爆走族』3本が掲載、翌年初頭に初の連載作品となる。『湘爆』は爆発的ヒット作品となり、ビデオアニメや映画、グッズなど多岐にわたって展開され社会現象を呼び起こした。
1985年(昭和60年)には『週刊少年サンデー』(小学館)に『ちょっとヨロシク!』連載開始。
1987年(昭和62年)に『湘南爆走族』を人気絶頂の中終了させるも、『ヤングサンデー』(小学館)で『純ブライド』、『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)で『スローニン』、『ヤングキング』(少年画報社)で『湘南グラフィティ』の3作品を同時連載。
1995年(平成7年)から『ヤングキング』(少年画報社)にて開始された『荒くれKNIGHT』は、掲載誌を『ヤングチャンピオン』(秋田書店)に変えつつ、現在まで25年以上も連載が続くロングランシリーズとなった。
その後も少年誌から青年誌、果ては学年誌にまで幅広く、コンスタントに作品を発表し続けている。
宮崎駿は吉田の作品のファンであり、『バードマン・ラリー 鳥人伝説』の解説で、『湘南爆走族』を「管理社会に対する異議申し立ての傑作」と絶賛している。
| 2,072 |
自己相互作用補正
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自己相互作用補正(じこそうごさようほせい、英: Self Interaction Correction, SIC)とは、電子間の相互作用を局所密度近似で取り扱う過程で、電子が自分自身と相互作用する項が完全には相殺されなくなるときに施される補正である。
電子間の相互作用を密度汎関数法で取り扱う場合には、ハートリー項を
のように表す。この項の中には電子がその電子自身と相互作用する項(自己相互作用項)が含まれるが、交換相互作用の項を足し上げていく過程でこの項は相殺されるべきものである。
しかし、局所密度近似によって交換相関項が近似されると、電子の自己相互作用項の相殺が完全ではなくなってしまう。自己相互作用項が中途半端に残るため、局所密度近似では、一例として次のような問題が生じる。空間内で孤立した系(電子と正電荷からなる系で、総電荷は中性であるとする)から電子を一個だけ十分な遠方に遠ざけた時(系には正孔が残る)、その遠ざけた電子が感じるポテンシャルは、e /r (e は素電荷、r は系からの距離)となるはずだが、局所密度近似ではそうならず、ポテンシャルの形は系から遠ざけた距離に対し指数関数的に減少してしまい、正しいポテンシャルの形を与えない。自己相互作用補正を導入すると、これを改善することができる。
局所密度近似を用いた場合の自己相互作用補正の見積もり方としてはパデューとZungerによるものが有名である。
| 2,074 |
3次元コンピュータグラフィックス
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3次元コンピュータグラフィックス(さんじげんコンピュータグラフィックス、英: three-dimensional computer graphics)は、コンピュータの演算によって3次元空間内の仮想的な立体物を2次元である平面上の情報に変換することで奥行き感(立体感)のある画像を作る手法である。3DCG()と略記されることも多い。20世紀末からのコンピュータ技術の急速な発達と性能向上によって、従来は大企業や大きな研究所でしか得られなかった高精細で高品質の3次元画像が、21世紀初頭現在ではパーソナルコンピュータ (PC) やゲーム機、スマートフォンでも実時間で得られるようになっている。
毎年夏にアメリカ合衆国で開催されるCGの祭典「SIGGRAPH」(シーグラフ)にて、世界中の多くの研究者により最新のCGの論文が発表され、技術更新がなされている。
3DCGは、ユーザーが仮想的な視点や対象物の変更を操作して直ちに更新された画像を得るCADのようなシミュレーションやコンピュータゲームのように実時間処理の動画像と、CG映画のように製作者側があらかじめ時間を掛けて動画像を製作しておくもの、そして、静止画の3種類に大別できる。十分に高い技術を用いれば、無生物では実写と見分けがつかないほど遜色のない画像が得られるが、人物画ではCG特有の無機質なものとなることが多く、ロボットでの不気味の谷現象と同じく一般に人の表情を描くのは不得手である。
ユーザーの操作や時間経過など、何らかのパラメータ観測および情報入力に対応して即座に映像を動的生成する処理を指す。
代表的な実時間処理による動画生成の用途はコンピュータゲームである。PCや据え置き型のゲーム機(家庭用ゲーム機やゲームセンターで使われる業務用のアーケードゲーム機)、携帯ゲーム機や携帯電話(スマートフォンおよび一部のフィーチャーフォン)でのゲームにまで3DCGを用いた動画像が利用されている。
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3次元コンピュータグラフィックス
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代表的な実時間処理による動画生成の用途はコンピュータゲームである。PCや据え置き型のゲーム機(家庭用ゲーム機やゲームセンターで使われる業務用のアーケードゲーム機)、携帯ゲーム機や携帯電話(スマートフォンおよび一部のフィーチャーフォン)でのゲームにまで3DCGを用いた動画像が利用されている。
工業用途では製品の設計段階でCAD/CAMによって部品同士の接続や製品の完成図を描いたり、建築でのパースを描画したりする目的で利用されている(建築パースの作成では設計図面さえあれば建築イメージを確認できるため、古代遺跡の復元モデルなどをフォトリアリスティックに描画する用途などにも用いられている。立体地図の場合は地形の起伏や大縮尺の場合の建物形状をいろいろな視点から眺められるように用いる)。また、現実世界での運動や周囲状況をコンピュータ・シミュレーションで再現することで効果的な訓練が行える、ドライブシミュレータやフライトシミュレータなども実時間処理での3DCG技術の利用例である。X線CTやMRIのように、多数の断層画像から3次元データを再構築した後、任意断面の観察をする際にもリアルタイム3DCGの技術が使用される。
動画生成における実時間処理は、そうでないものに比べて画像の精度よりも実時間内に如何にそれらしい画像を生み出すかが求められるため、簡易的な局所照明モデルを採用したり、ローポリゴンモデルにテクスチャマップで質感を表現したりするなど、できる限り事象を近似または演算処理を簡略化したり事前計算したりして、時間的・空間的コストを低減する工夫がなされている。PC用の3DCG動画を並列計算により高速生成するための専用ICとしてGPUが登場している。プログラマブルシェーダーの登場以後、リアルタイムでレイトレーシングや大域照明(グローバルイルミネーション)を実行する技術やハードウェアも開発されているが、いまだ発展途上の領域である。
ゲーム内でユーザーの操作や対話(インタラクション)を必要としないムービーシーン(デモシーン)の再生には、事前にプロダクションレンダリングソフトウェアおよび高精細モデルを使って生成された高品質な動画が使用されることもあるが、ゲーム内で使われるアセット(素材)をそのまま利用したリアルタイムレンダリングがなされることもある。
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3次元コンピュータグラフィックス
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ゲーム内でユーザーの操作や対話(インタラクション)を必要としないムービーシーン(デモシーン)の再生には、事前にプロダクションレンダリングソフトウェアおよび高精細モデルを使って生成された高品質な動画が使用されることもあるが、ゲーム内で使われるアセット(素材)をそのまま利用したリアルタイムレンダリングがなされることもある。
3DCGによる映画の制作が代表的な「実時間処理ではない」動画生成用途である。多くの映画では、写実的(フォトリアル)な画像を制作する目的や、反対にマンガ的なアニメーションのように非現実的な画像を制作する目的で利用され、実写との合成映像も含めれば大半の商業用映画に何らかの形で3DCGの技術が用いられている。VFXを多用するSF映画やアニメ映画などでは長時間の3DCG画像が必要とされることがあり、そのような場合には、3DCG演算専用の多数のコンピュータから構成される「レンダリング・ファーム」と呼ばれるサーバー施設で数ヶ月単位で動画像の生成が行われる。
広告宣伝用途での3DCG動画像も広告製作会社内やメーカー自身の内部で、映画と同じような環境で製作されている(自動車産業が3DCG動画による広告の代表であるが、他の産業でも設計過程でコンピュータ・シミュレーションを必要とする航空宇宙、軍事、船舶といった分野の企業が物理現象のシミュレーションと共に画像表示のための3DCG技術を利用している)。
広告や芸術、そしてあらゆる種類のイラストレーション用途に3DCGを用いた静止画が製作されている。
3次元CGの基本原理は、カメラの基本原理と同じであり、3次元空間内の対象物を2次元平面の仮想スクリーン上に投影することで実現される。単純な2次元コンピュータグラフィックス (2DCG) では、一般的に平面的な物体同士の重なりを考慮するだけでよく、奥行きによる尺度の違いや照明および遮蔽による陰影の違いを演算する必要はないが、3DCGでは立体物ゆえに奥行きを考慮した複雑な座標変換や画素の塗り分けを行わなければならない。コンピュータグラフィックスは計算幾何学分野における問題のひとつであり、行列やベクトルといった線型代数学が多用される。
まず[図1]のような3次元座標を考える。原点に視点があるとして、座標空間内の3次元座標を持つ点Aの見え方は、投影法によって左右される。
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3次元コンピュータグラフィックス
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まず[図1]のような3次元座標を考える。原点に視点があるとして、座標空間内の3次元座標を持つ点Aの見え方は、投影法によって左右される。
[図2]のように原点と点Aの間にスクリーンを置いた場合、スクリーン平面上に映し出される点Aの投影座標は h = x × s / z {\displaystyle h=x\times {}s/z} 、 v = y × s / z {\displaystyle v=y\times {}s/z} で求められる。 z {\displaystyle z} が大きくなれば、スクリーン上の点Aは限りなく原点に近づく。つまり遠くのものは小さく見えるわけである。スクリーンを置く座標 s {\displaystyle s} は大きくなればパース(遠近感)が緩く、小さくなればパースがきつくなるので、レンズの画角(視野角)を表現することができる。これが透視投影 (perspective projection) の原理である。
透視投影によりスクリーン上で各物体の遠近関係が表現されるが、画角によって画面上のサイズや印象が大きく変わるため、モデリングの際の正確な寸法や形状確認といった目的には適さないことがある。その場合、視点と物体の間の距離とは無関係にそのまま平行に投影する手法が使われることがあり、平行投影 (parallel projection) または正射影 (orthographic projection / orthogonal projection) と呼ばれる。平行投影の視錐台は直方体となる。
いずれにしても、3次元座標を持つ図形を2次元座標系に変換した後で、図形の各点を幾何学的なつながり情報(トポロジー)に基づいてそれぞれ結べばワイヤーフレーム画像が生成され、また結んだ点から面を作ればポリゴンによる表現が可能となる。リアルタイムコンピュータグラフィックスでは、ハードウェア的な制約から、実際にサポートされる最小の図形(プリミティブ)は点・線分・三角形のみであり、それ以上の多角形や立体図形は多数の三角形を組み合わせて表現する。
3DCGの制作は次のような行程にわけることができる。
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3次元コンピュータグラフィックス
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3DCGの制作は次のような行程にわけることができる。
モデリング(英: modeling)とは、仮想3次元空間上に個々の物体の形状をつくる作業のことである。多くの3DCGソフトウェアでは、一つの面を三角形や四角形といった多角形の集合として表現する。三角形しか扱えないソフトウェアも多い(四角形以上は、それを構成する全ての頂点が同一平面上にない可能性があるため)。これらの多角形はポリゴン(英語で多角形の意)と呼ぶ。各形状はポリゴンの集合で表現される。モデリングで作られた形状をモデルやオブジェクトと呼ぶ。
四角形が扱える場合は、ポリゴンの流れの見やすさなどからも四角形の面をメインとして構成するのが一般的であるが、同一平面上にない空間上の4点を結んで四角形を折り曲げた2つの三角形の面とする方法は2通りあるため、それを1通りに確定するためや、あるいは最後の仕上げなどに三角形の面が用いられることがある。また、3DCGにおいては五角形以上の多角形は、三角形や四角形と区別して単に「多角形」と呼ぶことがあるが、エラーや問題を引き起こしやすいため、基本的に五角形以上の多角形の面(ポリゴン)の使用はタブーとされ、制作過程でこの面が出てきた場合、最終的には全て四角形ないし三角形に分割するのが普通である。
他に面を定義する方法としては自由曲面がある。自由曲面はNURBS曲線、スプライン曲線、ベジェ曲線などで曲面を構成する方法で、ポリゴンのみでモデリングされた形状に比べ滑らかで正確な形状が得られる。ポリゴンのみでモデリングすることを、ポリゴンモデリングと呼んで、自由曲面を利用したモデリングと区別することがある。
形状が出来たら、オブジェクトに材質(マテリアル)を設定する。材質を設定しなければ、オブジェクトはただ一様に光を反射するだけの均質な物体になる。多くの3DCGソフトウェアでは、色、透明度、反射、屈折率、自己発光、バンプ、ディスプレイスメントなどの設定項目がある。
モデリングで制作したオブジェクトを、仮想3次元空間上に配置する。現実世界と同様、光源も配置しなければ何も表示されない(黒一色の画像が出力される)。また、仮想的なカメラを配置することで視点を設定する。これらを配置・設定した仮想的な舞台をシーンと呼ぶ。
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モデリングで制作したオブジェクトを、仮想3次元空間上に配置する。現実世界と同様、光源も配置しなければ何も表示されない(黒一色の画像が出力される)。また、仮想的なカメラを配置することで視点を設定する。これらを配置・設定した仮想的な舞台をシーンと呼ぶ。
レンダリング(英: rendering)は、これまでに設定したシーンから、仮想的なカメラに写されるはずの画像を生成する工程である。オブジェクトの形状や位置、光のあたり具合などをコンピュータが計算し、最終的な画像が生成される。レンダリングのアルゴリズムには、それぞれ処理速度や品質の違う多くの種類があり、用途に合わせて使い分ける。各種の設定を済ませレンダリングを開始した後は、レンダリングが終了するまで制作者がすることは特にない。一般にレンダリングには多くの時間を要する。シーン内に多くの形状があったり、高度なレンダリングアルゴリズムを利用している場合、数時間から数日かかる場合もある。ゲームなどリアルタイムにレンダリングしなければならないときは、単純で高速なレンダリングアルゴリズムを適用したり、シーンの総ポリゴン数を少なくするなど、大きな制限が加えられる。映画など大規模な制作現場では、同時に複数のコンピュータにレンダリング処理をさせて、計算時間を短縮することがある。
レンダリング手法によっては空気による遠近法・光の照り返しなども計算される。そういった複雑な計算をするレンダリング処理は専用回路(GPU)で行われることも多い。高い対話性と双方向性が得られるので、ゲームに用いられる場合はこの形態をとる。
レタッチ(英: retouch)とは、手直しする作業のことである。レンダリングで得られた画像が、完全に制作者の意図したものになるとは限らない。PhotoshopやAdobe After Effectsなどのフォトレタッチツールなどで、コントラストや色味を手直しすることもある。
3DCGのモデルに画像を貼り付けることをテクスチャマッピング(英: texture mapping)、その貼り付けられる画像をテクスチャという。テクスチャを貼ることにより、モデリングやシェーダーのみでは表現の困難な、モデル表面の細かな色彩情報や質感などを設定することができる。
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3DCGのモデルに画像を貼り付けることをテクスチャマッピング(英: texture mapping)、その貼り付けられる画像をテクスチャという。テクスチャを貼ることにより、モデリングやシェーダーのみでは表現の困難な、モデル表面の細かな色彩情報や質感などを設定することができる。
テクスチャの貼り付け方としては、単純にカメラ方向からモデルにテクスチャを投影するだけの方法や、UV座標によって切り出されたテクスチャの2次元画像領域をモデル表面に分割投影する方法などがある。
反射の強度を設定する反射マッピング、小さな凹凸を擬似的に表現するバンプマッピング/法線マッピング、透明度を設定する透明度マッピングなどがある。形状の表面に画像の情報を加えることによって、表面の模様や質感が表現されて、より現実的な画像になる。ディスプレースメントマッピングのように、画像情報をもとに実際の凹凸形状を動的に生成する手法もある。
特にコンピュータゲームにおいては、リアルタイムで3DCGキャラクターを描画する必要から、極力少ないポリゴンで作成されたモデル(ローポリゴンモデル)に、ディテールや陰影などを描き込んだテクスチャを貼り付ける手法が行われている。
モデルの表面の法線の方向を変化させることによって、擬似的に凹凸を表現する技術。グレースケール画像で元形状に対する高低を定義する。少ないポリゴンで細かな陰影をリアルに表現できる利点があるが、実際に表面に立体的な凹凸があるわけではないので、ズーム時や、面を横から見た場合などに違和感のある画像となる。
近年は法線の方向(3次元ベクトル)を直接定義する法線マッピング(ノーマルマッピング)も用いられるが、法線マップを手作業で作成するのは困難であるため、通常は高精細モデルのディティールを法線マップに変換して単純化モデルに適用する手法が採られている。
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近年は法線の方向(3次元ベクトル)を直接定義する法線マッピング(ノーマルマッピング)も用いられるが、法線マップを手作業で作成するのは困難であるため、通常は高精細モデルのディティールを法線マップに変換して単純化モデルに適用する手法が採られている。
3Dモデルの頂点を実際に表面に対して上下に移動させて凹凸を表現する技術。バンプマッピングに比べて、実際に立体的な凹凸となるため違和感のない画像が得られるが、表現する凹凸に応じてポリゴン数が増大する欠点がある。リアルタイム3DCGの分野ではDirect3D 10およびOpenGL 3.2でジオメトリシェーダーが標準化された後、Direct3D 11/OpenGL 4にてテッセレーションが標準化され、GPUによるディスプレースメントマッピングが可能となった。
バンプマッピングによる凹凸の表現はあくまで擬似的に陰影を表現し、またディスプレースメントマッピングによる凹凸は3Dモデルそのものの頂点を移動させて凹凸を表現するだけであるのに対して、3Dモデルに立体的な濃度関数を掛け合わせることにより、小さな凹凸はもとより、深い溝や貫通した穴のような大きな構造も表現することができる技術。
ポリゴンはあくまで多角形の面なので、モデルにはっきりとした表面が無かったり、モデルの数が膨大であったり、動きが不規則な煙や炎などを表現するのには不向きである。また、毛髪や草木など、ポリゴンで表現しようとするとその量から大変な人的労力やリソースが必要になるものがある。パーティクル (particle) はこれらの問題を解決するための技術である。パーティクルはこれらを微小な粒子の集合として表現し、確率モデルでその動き・形状を処理する。高度なモデリングまたはレンダリングソフトウェアで扱うことができる。これをレンダリングする際にはビルボーディングやメタボールなどの技術が使用される。
サブディビジョンサーフェス(英: subdivision surface)とは、大まかにモデリングされたポリゴンメッシュをメモリ上で細分化して、滑らかで継ぎ目の無い形状にする技術。少ないポリゴン数で形状を滑らかに表現できるため、編集や変形も容易になる。ただし、工業用CADなど形状に高い精度が要求されるときには利用できない。
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サブディビジョンサーフェス(英: subdivision surface)とは、大まかにモデリングされたポリゴンメッシュをメモリ上で細分化して、滑らかで継ぎ目の無い形状にする技術。少ないポリゴン数で形状を滑らかに表現できるため、編集や変形も容易になる。ただし、工業用CADなど形状に高い精度が要求されるときには利用できない。
複数のオブジェクトどうしを集合演算する技術。他の形状と結合する(和)、一方の形状から他方の形状を削り取る(差)、重なっている部分のみを形状として抜き出す(積)ことなどができる。
複数の3次元座標上の点を中心として濃度分布を設定し、濃度の閾値を形状の表面とする技術。球状の形状が引き付けあうようにみえる融合と、反発しあうように見える反転融合がある。正確な形状を作ることは難しいが、有機的な形状を少ない制御点で作るのに向いている。3DCG特有の概念ではなく、2Dの画像表現にも使われることもある。当初はその呼び名の通り球体を基本としていたが、その後改良が進められ、球体以外の形状も利用できるようになり、有機的な形状をモデリングする技術として活用されている。
モデリングの他に、流れる液体の表現等にも使われる。レンダリングに必要な計算量は多くともメモリの使用量が少ないのが利点だったが、現在ではそれらのリソースが充実している上、流体力学の計算法も進歩しているため、映像制作の現場では、見た目のチープなメタボールはほぼ使われることのない技術になっている。
インバースキネマティクス(英: inverse kinematics)は3次元コンピュータグラフィックスの専門用語ではない。もともと力学の一分野であり、ロボティクス等のほうが「本家」である。
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インバースキネマティクス(英: inverse kinematics)は3次元コンピュータグラフィックスの専門用語ではない。もともと力学の一分野であり、ロボティクス等のほうが「本家」である。
人間など多くの関節を持つ動物において、関節の末端部分の位置は常にその親となる部分の位置と角度に依存している。そのため、通常では関節の末端部分の位置を求める場合においてモデルの中心から末端にかけて順番に関節の角度計算をする、という向きが「順方向」である。しかし、その方向で計算したのでは、例えば「机の上を掌でなでるような動き」を実現するのは面倒なものとなる。なぜなら、関節の末端部分の位置の変化を求めるためには複雑な計算をモデルの中心から全て順方向に再計算しなおさなければならないため非常に非効率的だからである。この解決のため、末端部分の位置を先に決めてその関節の末端位置を実現するための親となる関節の角度を、一種の「逆問題」を解くようにして求めることが考えられる。
以上の説明からもわかるように、物理的な運動学に関して一般に考えることができる逆問題的な考え方のひとつである。
股-ひざ-足のような形状を想定してみると、足の裏が自転車のペダルにくっついたままペダルが回転運動をするアニメーションを作る場合に、ペダルの回転運動に合うように股・そしてひざや足の角度の変更を行なっていくのではなく、足部分の移動に追随する形で、逆に足-ひざ-股の順に各関節の動きを順次割りだして決定する方が、見た目も自然なアニメーションが作成できる。
3次元空間上に光源を設定することをライティング(英: lighting)と呼ぶ。光源によってモデルは可視物となる。光源には次のような種類がある。
3DCGソフトウェアによっては、球や円柱などの単純なオブジェクト(プリミティブ)を、ポリゴンではなく中心点や半径、高さといった数値で扱う場合がある。これらの細部を編集したりレンダリングする場合は、ポリゴンメッシュに変換する必要がある。これをtessellationと呼ぶ(tessellateはモザイク模様にするという意味)。ただし、オブジェクトが本来持っていた形状情報である球体、円錐などのような抽象的な表現は失われてしまう。
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現在の3DCGにおいて、速度面などの理由により単純化された照明モデル・反射モデルを利用する場合、多くはPhongの反射モデル (Phong reflection model) を採用している。Phong反射モデルは経験則であり、ローカルイルミネーション(局所照明)の代表例である。より写実的なシーンを描画するためには、後述するラジオシティなどのグローバルイルミネーション(大域照明)をサポートする、光学的・物理学的に正しい照明モデル・反射モデルが使われるが、現実世界をシミュレートするには非常に複雑かつ膨大な計算を伴うため、レンダリングに時間がかかるようになる。レンダリング方程式(英語版)はエネルギー保存則をもとに光の伝播を記述するものであり、物理ベースのレンダリングの基本となる理論である。
反射モデルは物体の性質にも左右される。コンピュータグラフィックスにおいて、物体の性質は材質(マテリアル)として定義・抽象化されるが、プラスチックや金属、皮膚や毛髪の質感をコンピュータグラフィックスで正確に再現するためには、それぞれの材質に応じた適切な反射モデルを使う必要がある。物体の色は光のRGB各成分の反射・吸収係数の違いによって生まれ、また鏡面ハイライトの色や形状は面の粗さや光源の特性にも左右される。金属光沢や回折模様を再現する場合は、物質の物理的・化学的特性や表面性状を考慮する必要がある。
また光の屈折現象をコンピュータグラフィックスで再現する場合、物質の特性として屈折率が重要な要素となる。多くの3DCGソフトウェアでは、屈折率 (index of refraction) を略してIORと表記する。
シェーディングとは、物体の陰影を計算することである。広義では反射モデルによる反射光の強度計算を含むが、狭義では後述の陰影補間技法を指す。
ポリゴンモデルから2次元画像を生成する過程での陰影の補間法には次のような種類がある。
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シェーディングとは、物体の陰影を計算することである。広義では反射モデルによる反射光の強度計算を含むが、狭義では後述の陰影補間技法を指す。
ポリゴンモデルから2次元画像を生成する過程での陰影の補間法には次のような種類がある。
隠面消去方法のひとつ。 ポリゴンの座標(大抵は中心点)を基準に、画面の奥(視線からもっとも遠いポリゴン)から、全てのポリゴンを順番に描画する。 後述のZバッファ法のような特殊な処理をせず、基本的に多角形を描画すればよいだけなので、実装が簡単であり、消費メモリが少なく非常に処理が高速にできる利点がある。Zバッファ法が普及するまでは古くは3DCG全般で利用され、また、最近まで家庭用ゲーム機におけるリアルタイム3DCGでは一般的に利用されていた。しかし、ポリゴン数が増えた場合は、ポリゴンをソートするコストがかかる、またフィルレートが膨大になるため、Zバッファ法と比較して速度的なメリットがなくなる。
ポリゴンが交差した場合に正しく表示することができないという欠点があるが、この解決策として、ポリゴンが互いに交差しないように静的、あるいは動的に細分化する方法がとられることがある。
Zバッファ法と異なり、半透明ポリゴンの描画に関しては、ポリゴンが交差する場合を除いて、概ね正しく扱うことができる。
隠面消去方法のひとつ。 多数のポリゴンが重なった場合、奥のポリゴンが手前に描かれてしまうような不都合が生じることがある。 これを防ぐために、各ポリゴンを描画する際、各画素について視点からの距離を全て記録し、現在記録されている深度よりも近い画素だけを描画する。 Zソート法と異なり、通常は、視点にもっとも近いポリゴンからレンダリングする(Zバッファで判定することで、奥に隠れたポリゴンのレンダリングをスキップできるため)。
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Zバッファとは、深度を記憶するメモリ領域のことであり、Zバッファ法はアルゴリズムが簡単なためハードウェア化しやすい利点があるが、Zバッファ用のメモリの分だけ、Zソート法よりもメモリは多く消費する。単純に、ピクセル単位で奥行きを判定して、ポリゴンのピクセルを塗るか塗らないかを判定しているだけなので、半透明なポリゴンは、Zバッファ法だけでは正しく処理できない(この場合、一度Zバッファ法で不透明なポリゴンだけ描画し、さらにZソート法で半透明なポリゴンを重ねて描く)。また、互いに接近した平行、あるいは低い角度で交差するポリゴンにおいて、Zバッファに記録される深度の精度によっては、隠面消去が正しく行われない、Zファイティング(Z-fighting)と呼ばれる現象が起きる。
ゲームやCADソフトウェアのプレビュー表示など、リアルタイムでの描画によく利用される。
スキャンライン(英: scanline rendering)とは、スクリーンを横一行ごとに分割して、その一行ごとに深度を計算してレンダリングする手法のことである。透過を表現したり、シェーディングと併用することで陰影も表現できる。スキャンラインとは走査線を意味する。比較的高速だが、得られる画像の品質は基本的にレイトレーシングよりも劣る。
レイトレーシング(英: ray tracing)は、視点から光源までの光を追跡することでレンダリングする手法。視点から描画する各画素の方向へ直線を伸ばし、物体と交錯する可否を数学的に判定する。照度は光源との方向ベクトルで計算する。反射と屈折は反射率および屈折率をもとに再帰的に探索を繰り返す。物体との交錯がなくなれば計算は終了する。スキャンラインでは得られない反射や屈折などの表現が可能になる。フォトリアリスティックな画像が得られる反面、大変なレンダリング時間が掛かる。そのため屈折の計算処理については、簡略化あるいは制限を設けるのが一般的である。リアルタイム3DCGの分野では、GPUの発展と共に、レイトレーシングのリアルタイム化が試みられており、Adobe After Effects CCではNVIDIA OptiX(英語版)が採用された。
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ラジオシティ(英: radiosity)は、各ポリゴンに光のエネルギー量を持たせて形状の相互反射を計算することで、間接光(やわらかい光の回り込み)などを表現する技術。大域照明(グローバルイルミネーション)の代表例である。計算に膨大な時間が必要になるが、完全拡散面で構成されるシーンでは、一旦物体相互間の光の反射を計算し終えれば、物体や光源が移動しない限り、その計算結果を保存して別のアングルからのレンダリングへ再利用することができる。照明工学の分野で発達した技術を3DCGのレンダリングに応用した。
フォトンマッピング(英: photon mapping)は、光をモデル化したフォトンを光源からばらまいてフォトンマップを作成し、次に作成されたフォトンマップに対し、光線追跡法を適用することでレンダリングする手法。計算量を抑えつつ、物体や媒質の質感や透明感を表現できる。ラジオシティと同様、計算結果の再利用が可能。
通常のレイトレーシングと同様にカメラから視線を飛ばし、オブジェクトと交わった点を始点としてさらに大量に2次視線を飛ばす。ここで得られた色や明るさを平均してその点の色とする。この手法をパストレーシング(英: path tracing)という。物体表面での光の乱反射を再現できるが、明暗差が大きいシーンではノイズが出やすい。
2次元の画像の最小単位をピクセルと呼ぶのに対し、3次元座標上に取り入れた最小単位をボクセル(voxel)と呼ぶ。多くの3DCGソフトウェアで採用されているのが、物体の表面のみを処理するサーフェスモデルであるのに対して、ボクセルは中身を持ったボリュームモデルである。液体や雲、煙といった流体計算で主に活用されている。現在では、炎、爆発、溶岩、髪の毛といった表現までも可能にしている。ボクセルモデルでは、正確な形状を作るにはボクセルの密度を上げなければならず、またメモリを大量に必要とする。
レンダリングに必要なオブジェクトを選別し、レンダリングを効率的に処理するために利用されることもある。これをボクセル分割と呼ぶ。
オープンソースプロジェクトでは、OsiriXなど有名である。
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レンダリングに必要なオブジェクトを選別し、レンダリングを効率的に処理するために利用されることもある。これをボクセル分割と呼ぶ。
オープンソースプロジェクトでは、OsiriXなど有名である。
衣服を始め、布に関する多くの表現を可能にするための技術。衣服を着たキャラクターの動きや風の影響による布の形状変化のシミュレーションを行ない、デザイナーが手付けで布のアニメーションをつける負担を軽減させる。最終的には、人間の皮膚を始め、あらゆる事象をシミュレーション可能にすることが目指されている。
クロス(英: cloth)の基本的な考え方としては、質量を持ったメッシュノードを擬似的なばねでリンクさせ、伸縮制限(拘束条件)を持たせることによって、布の伸縮・弾性を再現させる。この質感再現のために、技術者によって様々な計算方法が提案されている。
クロスシミュレーションが大々的に使用された最初の映画を挙げると、ネズミが主役のCG映画『スチュアート・リトル』がある。
キャラクターに衣服を着せる制作手法としては、「擬似的な型紙を作り、結合し、キャラクターに被せる」といったMayaに実装されているClassic Clothと呼ばれる手法と、Syflexのように「普通のモデリングと同様な衣服のモデリングをし、クロスに変換する」という2種類の方法に大別される。 現在は、MayaもSyflexと同様の方法のnClothという機能が搭載されている。
Syflexはスクウェアによる映画『ファイナルファンタジー』のプロジェクトでジェラール・バネル(Gerard Banel)が開発したクロスシミュレーションをさらに発展させたもの。非常に高速で安定しており、Mayaのように布同士が反発して暴れるようなおかしなシミュレーション結果を出すことは少ない。
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Syflexはスクウェアによる映画『ファイナルファンタジー』のプロジェクトでジェラール・バネル(Gerard Banel)が開発したクロスシミュレーションをさらに発展させたもの。非常に高速で安定しており、Mayaのように布同士が反発して暴れるようなおかしなシミュレーション結果を出すことは少ない。
リアルタイムの3DCGは科学的なシミュレーションの可視化や、シミュレーターおよび3D CADオペレーションといったインタラクティブ用途に使われる。コンピュータゲーム(テレビゲームやPCゲーム)でも3DCGが一般的になっている。3DCG専用のAPIは主にPCゲームで描画処理を高速化するためにグラフィックスハードウェア(GPU、グラフィックスチップ、ビデオカード/グラフィックスカード)を利用するとき、プログラマが抽象化レイヤーを通してグラフィックスハードウェアにアクセスする方法を提供し、プログラマの負担を軽減する。次のようなAPIはインターフェイスの汎用化が必要となるパーソナルコンピュータやスマートフォンなどのモバイル機器において特によく使われる。
ハードウェアベンダー各社が各々のグラフィックスハードウェア上でこれらの汎用化APIをサポートすることで、同一のプログラムを異なるハードウェア上で動作させることができる。なおゲーム専用機の場合は必ずしも汎用化・抽象化が必要ではないため、各機器ごとに最適化された独自のローレベルAPIが用意されることがほとんどである。
OpenGL 1.5/Direct3D 8.0以降はそれぞれプログラマブルシェーダーをサポートし、プログラマがシェーディング言語によりシェーディング処理をカスタマイズできるようになった。ハードウェア性能の向上に加え、プログラマブルシェーダーによってリアルタイム3DCGの品質は飛躍的に向上した。
そのほか、AMDによるMantleの登場以降は、AppleによるMetal、マイクロソフトによるDirect3D 12、そしてクロノス・グループによるVulkanなど、ゲーム専用機向けAPIのようにハードウェア抽象化の度合いを下げてローレベルなハードウェア制御を可能とする描画効率重視のAPIが出現している。
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そのほか、AMDによるMantleの登場以降は、AppleによるMetal、マイクロソフトによるDirect3D 12、そしてクロノス・グループによるVulkanなど、ゲーム専用機向けAPIのようにハードウェア抽象化の度合いを下げてローレベルなハードウェア制御を可能とする描画効率重視のAPIが出現している。
世界で最も3DCGの研究・実用化が進んだ国はアメリカである。ACM(国際計算機学会)におけるSIGGRAPHの主催など研究での盛んさに加え、ハリウッドの映画産業がバックボーンにあり、計算機科学の先駆研究者達を擁するピクサーなどの制作会社によって3DCGアニメが大量に制作され、実写作品にも盛んに3DCG技術が用いられている。アメリカでの特に重要な研究業績には、アイバン・サザランドによるヘッドマウントディスプレイ(1966年)、エドウィン・キャットマルによるテクスチャマッピングやZバッファ(共に1974年)、サブディビジョンサーフェス(1978年)、ジム・ブリンによる環境マッピング(1976年)やBlinn-Phongの反射モデル(英語版)(1977年)やバンプマッピング(1978年)、ジェームズ・クラークによるジオメトリエンジン(1980年)、ターナー・ウィッテッド(英語版)による再帰的レイトレーシング(1980年)、ジム・カジヤによるレンダリング方程式(英語版)やパストレーシング(英語版)(1986年)などがある。1995年には初のフル3DCGの長編映画『トイ・ストーリー』が制作された。
フランスのピエール・ベジェはベジェ曲面を考案(1970年)し、アンリ・グーロー(英語版)はグーローシェーディングを考案(1971年)した。
ベトナムのブイ・ツォン・フォン(英語版)はPhongの反射モデルやフォンシェーディングを考案(1975年)した。
カナダでは初のフル3DCGのテレビ向け30分枠アニメシリーズとして『リブート』(1994年)が制作された。 フランスでは同じくフル3DCGのテレビアニメシリーズ『インセクターズ』(1994年)が公開された。
デンマークのヘンリク・ヤンセン(英語版)はフォトンマッピングを考案(1996年)した。
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カナダでは初のフル3DCGのテレビ向け30分枠アニメシリーズとして『リブート』(1994年)が制作された。 フランスでは同じくフル3DCGのテレビアニメシリーズ『インセクターズ』(1994年)が公開された。
デンマークのヘンリク・ヤンセン(英語版)はフォトンマッピングを考案(1996年)した。
日本の大阪大学大村皓一らはメタボールを実用化(1982年)し、福山大学西田友是らはMichael F. Cohenらとほぼ同時にラジオシティを考案(1985年)した。
コンピュータゲームにおいては、アメリカではパソコンが主流のため技術革新に対応しやすく、その点では世界のビデオゲーム産業の盟主たる日本を追い越す結果となった(セガの『バーチャレーシング』、『バーチャファイター』シリーズ、PlayStationなどといった3DCGの採用は早かったものの、蓄積されたのは専用に近いアーケードゲーム基板や家庭用ゲーム機など数年間は性能が固定されるハードウェアに依存した技術が多かったとも言われている)。
日本のアニメでは、劇場版『ゴルゴ13』やテレビアニメ『子鹿物語』(共に1983年)での部分的に用いられた3DCGの導入の時期は世界的にも早かった。ゴルゴ13のCGパートはトーヨーリンクスと大阪大学大村皓一らチームの開発による3DCGシステムで制作されるなど、当時は国産システムの開発が行われていたが、こうした動向は次第に廃れている。国内でのフル3DCG作品では、写実調ではテレビ用映画『VISITOR』(1998年)、アニメ絵調では劇場版『アップルシード』(2004年)が長編作品の端緒に挙げられる。テレビ向けのフル3DCG作品は数分程度の短尺な作品が多いが、30分枠テレビシリーズも『SDガンダムフォース』(2004年)の頃から少数ずつ制作されている。
日本では漫画文化を背景として線画表現への親しみが深く、1990年代後半頃からアニメーターによる手描きアニメに3DCGを馴染ませた表現が普及している。3DCGは背景動画やロボット、群衆シーンなどの作画に労力のかかる部分に多く使われるほか、近年はトゥーンレンダリングの表現力向上により、キャラクター描写を部分的に3DCGでおこなう作品(プリキュアシリーズ〈2009年シリーズ以降〉など)も現れている。
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地球シミュレータ
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地球シミュレータ(ちきゅうシミュレータ、英: Earth Simulator)は、NEC SXシリーズベース(現行機は第4世代のSX-Aurora TSUBASA B401-8)のスーパーコンピュータシステムである。
神奈川県横浜市金沢区の海洋研究開発機構 (JAMSTEC) 横浜研究所に設置されている。
1993年~1995年にTOP500首位となった数値風洞計画(NAL、富士通)を先導した三好甫が、それに引き続き日本のスーパーコンピュータをリードするシステムとして、JAMSTECと日本電気を先導したのが本計算機計画である。また科学技術庁(1998年度当時)としては地球規模の環境変動の解明・予測といった大義の他、バブル崩壊により著しく落ち込んでいた業界の維持といった目的もあり、600億円を投じて開発が開始された。2001年下旬に三好は逝去したが、残された計画通りシステムは完成、2002年3月15日に運用を開始し、目標通りの威力を発揮した。まず、その実性能自体が「コンピュートニク」とすら呼ばれるほどの印象を高性能計算関連の(主として米国の)産官学に与えた。また科学的な成果としては、地球温暖化や地殻変動といった、文字通り地球規模でのシミュレーションに利用され、気候変動に関する政府間パネルの2007年ノーベル平和賞受賞にも大きく貢献し、他にも多くの計算科学による成果を上げた。その後も公募により、地球科学、先進・創出分野での共同利用が行われている他、2007年からは産業界による成果専有型の有償利用も可能となっている。
2009年3月に2代目のシステムへ更新、2015年3月には3代目、2021年3月には4代目のシステムに更新された。また初代以来、日本のHPCの旗艦としての役割を京・富岳と分担する他、名実共にNEC SXシリーズの旗艦という存在になっている。
SX-5ベースである。SX-5では32チップで構成されていた計算モジュールを1チップ化し、それを8個集積した1ノードが8GFLOPS、それに16GBのメモリをともなう。640ノード(5,120CPU)を単段クロスバースイッチで接続、最大理論性能は40.96TFLOPSであった。このシステムのために開発された、計算モジュールを集積したチップは、SXシリーズの次の世代のSX-6にも活用された。
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地球シミュレータ
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SX-5ベースである。SX-5では32チップで構成されていた計算モジュールを1チップ化し、それを8個集積した1ノードが8GFLOPS、それに16GBのメモリをともなう。640ノード(5,120CPU)を単段クロスバースイッチで接続、最大理論性能は40.96TFLOPSであった。このシステムのために開発された、計算モジュールを集積したチップは、SXシリーズの次の世代のSX-6にも活用された。
SX-9ベースである。102.4GFLOPSの性能を持つプロセッサ8個と128GBのメモリを持つベクトル計算機ノード(地球シミュレータではPNと呼ばれる)160台(1,280CPU,1,280コア)を2段のクロスバースイッチでファットツリー状に接続し、最大理論性能131TFLOPSを実現している。
SX-ACEベースである。256GFLOPSの性能を持つプロセッサ1個(4コア)と256GBのメモリを持つベクトルノード5,120台(20,480コア)を2段のクロスバースイッチでファットツリー状に接続し、最大理論性能1.3PFLOPSを実現している。
AMDのCPUとNVIDIA A100及び、684台のSX-Aurora TSUBASA B401-8により、5,472台のベクトルエンジン(43,776コア)を搭載し、最大理論性能19.5PFLOPSを達成する見込みで、2021年3月1日より運用開始。200Gb/s HDR InfiniBandが使われている。また、データセンター環境監視システムにiDCNaviが使われている。
単体能力を改善し、多目的に活用を図ることを目的として、スカラプロセッサからなるサーバを併用している。また、日本の学術研究のインフラストラクチャであるSINETに接続し、遠隔利用を可能にしている。AVS, Mathematica, Maple等の商用ソフトウェアやオープンソースソフトウェアも利用可能である。
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地球シミュレータ
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単体能力を改善し、多目的に活用を図ることを目的として、スカラプロセッサからなるサーバを併用している。また、日本の学術研究のインフラストラクチャであるSINETに接続し、遠隔利用を可能にしている。AVS, Mathematica, Maple等の商用ソフトウェアやオープンソースソフトウェアも利用可能である。
第3世代までのOSはSXシリーズ用のSUPER-UXをベースに特化した拡張をしたものであり、プログラミング言語処理系としてはFortran 90・C/C++コンパイラが利用できる(いずれも地球シミュレータ専用のカスマイズや調整(チューニング)が入っている)。並列化にあたっては、「ハイブリッド並列化」と「フラット並列化」の二つのプログラミングモデルがある。前者はノード間並列化をMPI、ノード内並列をマイクロタスクまたはOpenMPで記述する一方、後者はノード間・ノード内の両方の並列化をいずれもMPIで書く。一般的には前者はパフォーマンス重視、後者はプログラミング効率重視のモデルとされている。ユーザはこれらの並列化に対応したプログラムをバッチジョブとして投入する。名前が与えるイメージとは裏腹に、GRAPEのような専用計算機ではなくあくまで汎用計算機であるので、地球科学とは直接にかかわりのない分子動力学計算などにも利用されている。
2002年3月15日に運用を開始した。2002年6月にLINPACKベンチマークで実効性能35.86TFLOPSを記録し、スーパーコンピュータの計算性能の世界ランキングであるTOP500で第2位の IBM ASCI White に5倍の差をつけてトップを獲得して以来、2004年11月に IBM Blue Gene に首位を明け渡すまで、5期連続でトップを維持した。これは全640ノードの内638ノード(5,104プロセッサ)を用いて得られたもので、ピーク性能に対する実測性能比は87.2%となる。ASCI Whiteが7.226TFLOPS(ピーク性能12.288TFLOPS:ピーク性能比58.8%)であったのと比較して、理論ピーク性能に対する実効性能の比が非常に高く、ベクトル計算機特有の高速メモリシステムおよび単段クロスバーネットワーク接続によるものと分析された。
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地球シミュレータ
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初代のシステムを2009年3月に更新して、4月運用を開始した。コストを抑え、さらに性能向上を図るため、2008年度に維持費とは別に5億円を計上し、6年間185億7600万円のレンタルにより新機種のSX-9/Eに更新し、ピーク計算能力を初代の3.2倍となる131TFLOPSに引き上げた。これにより、設置面積は半分の650平方メートル、電気代は従来の7-8割程度となる。さらに、2009年6月にはLINPACKベンチマークで122.4TFLOPS(実行効率93.38%)を達成した。これは2008年11月発表のTOP500リストで実行効率世界1位、実行性能日本1位、世界ランキング16位に相当する。また、LINPACKを補完し、多面的な観点から性能を評価する目的で開発された性能指標を競うDARPA HPC Challenge Award Competitionにおいて、2009年11月には4部門(Global HPL, Global RandomAccess, EP STREAM, Global FFT)のうちEP STREAM、 Global FFT部門で3位、2010年11月にはGlobal FFT部門で1位を獲得した。
SX-ACE 5120ノードへ2015年3月に更新。このシステム更新で1.31PFLOPS、メモリ容量320TB、消費電力は約2MW以下(初代は約5MW、ES2は約3MW)となっている。
SX-Aurora TSUBASA B401-8, Vector Engine Type20B 8C 1.6GHz 5,472台へ2021年3月に更新。ピーク性能は19.5PFLOPS、前世代と比較して消費電力は同等ながら、設置面積は半減した。2021年6月のTOP500では、39位、ピーク性能13.448PFLOPSを記録している。
初代システムの維持費用は年間約50億円(内訳は電気代約5億円、ガス・水道代1億5000万円、保守費用45億円)であった。消費電力は約6MWで、実アプリケーションの性能を確保するための高速メモリとネットワークに必要な電力とされた。
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地球シミュレータ
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初代システムの維持費用は年間約50億円(内訳は電気代約5億円、ガス・水道代1億5000万円、保守費用45億円)であった。消費電力は約6MWで、実アプリケーションの性能を確保するための高速メモリとネットワークに必要な電力とされた。
地球シミュレータのような専用のベクトルプロセッサを用いた計算機は、近年主流となっているPCクラスタに比べ価格性能比が低く、性能当たりの消費電力が多いとされる。ベクトル計算機とPCクラスタは得意分野の違いもあり、単純比較することは必ずしも適切ではないが、例えば2006年から運用開始された東京工業大学のTSUBAMEは、2002年に運用開始時の地球シミュレータと比較して導入費用は20分の1、電気代は5分の1、計算速度は1.6倍(LINPACK性能比)である(導入時期が異なることに注意。現在はどちらも新システムに更新し、それぞれ性能が向上している)。
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小林源文
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小林 源文(こばやし もとふみ、1951年1月28日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。戦場劇画の第一人者。
福島県生まれ、小学校低学年から東京育ち、東京都在住。川崎市立工業高等学校(現:川崎市立川崎総合科学高等学校)卒業。中西立太に師事し、共著の『壮烈!ドイツ機甲軍団』でデビュー。主要作品に『黒騎士物語』『Cat Shit One』など。2008年に個人で『GENBUNマガジン』を創刊。出版社カンプグルッペ・ゲンブンを経営。
1951年、警察官の両親の間に生まれる。母は元看護婦で、戦後福島県警の婦人警察官第1号となった人物である。父は戦争中帝国陸軍の憲兵だったが、終戦後警察官となった。父は問題を起こして警察を辞め、その後の再就職先でもトラブルが絶えず、職を転々としていた。
イラストレーターの中西立太に影響を受けて、絵の世界を目指す。絵の勉強のために、中西に弟子入りを申し出るが断られる。しかし、中西よりいつでも仕事場に遊びにきて良いとの許可をもらっており、見様見まねと独学で絵の勉強をした。
プロデビューは師と仰ぐ中西との共同執筆の『壮烈!ドイツ機甲軍団』であり、小林が24歳のときであった。その後、一旦はプロ活動を休止するが、『月刊ホビージャパン』の連載で人気が確立すると、サラリーマンを退職しプロの漫画家としての活動を開始した。十数年間、会社で運転手をしていたが、クリスマスにバイクの自損事故を起こし、職場に戻ったらクビになっており、そのまま絵に専念するようになる。
作風としては、戦争劇画ともいえる作風で、戦争を題材とした劇画を描く漫画家としては第一人者とも呼ばれる。小林自身は元々は漫画家を志していたのではなく、挿絵画家を目指していたこともあり、緻密な画風を得意とし、スクリーントーンは使わず、薄墨による独特のタッチを用いている。
昨今才能があるイラストレーターが誰も育ってないと危惧しており、自ら本物の絵描きを育てたいという目的で、アートスクールを開講し後進の指導にも努めている。
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小林源文
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昨今才能があるイラストレーターが誰も育ってないと危惧しており、自ら本物の絵描きを育てたいという目的で、アートスクールを開講し後進の指導にも努めている。
また、萌え絵や萌えミリ嫌いでも知られており、過去に『ガールズ&パンツァー』の感想を求められた際「兵器の描写は大変良い、ストーリーには一切共感できないが」と発言している。その一方で、小学館『コロコロアニキ』では『劇画ガールズ&パンツァー』を2018年冬号から2021年春号まで連載。『ガールズ&パンツァー』と自作品のコラボ企画も続けている。
その他にも、リトルアーモリーのイラストレーターで知られるdaitoが表紙イラストを担当した内田弘樹の同人誌(第二次世界大戦時ドイツ陸軍として東部戦線に従軍した日本人義勇兵について記した本)を「同人誌レベルを越えた優れた資料なんだが、表紙がこれじゃー余りにも情けない」「増刷するときは自分が表紙イラストを描くよ」と断じ、商業誌には「内容は表紙を除いてお薦めします」という評価を下している。
趣味は小学生以来の映画鑑賞、現在の仕事のベースになっていると本人は認識している。
多数の作品でスターシステム的に登場するコメディリリーフ・佐藤中村コンビのモデルは、小説家の佐藤大輔と、作者の娘婿で元アシスタントの中村正徳である。作者本人が登場して自虐ギャグ的に理不尽な婿いびりをすることもある。
1980年代前半に小林の名を騙った人物が起こした「偽小林源文事件」が発生した。
当時タミヤニュースの読書投稿欄「声」ではシェパード・ペイン派とフランソワ・バーリンデン派のモデラーの間で激しい論争が繰り返されていた。その投稿者に「小林源文」を名乗る者から仙台中央郵便局の消印がある脅迫状が次々と送りつけられるという事件が発生した。当時は投稿者の氏名と住所が番地まで掲載されており、タミヤ模型では事件を受けて投稿者の住所を市町村名までしか掲載しなくなった。しかし、偽「小林源文」は電話帳などで同じ市町村の同姓の家を調べ、脅迫状を送りつけてきたために、投稿者の住所は都道府県名までしか掲載されなくなった。事件は飛び火し、小林が連載を担当していた『ホビージャパン』誌、『モデルグラフィックス』誌などの投稿者、出版社、小林本人にも及んだ。さらに脅迫状だけでなく、投稿者や小林の名前で勝手に通信販売に申し込むなどの行為に及んだ。
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小林源文
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偽手紙の筆跡などから犯人は以前より小林に対して抗議を繰り返していた人物と思われ、小林は彼の名前をあげて警察に相談したが「プライベートな事」として全く取り合ってもらえなかったという。事件は朝日新聞が赤報隊事件を契機に言論に対する暴力をテーマにした特集記事で紹介され、世間に広く知られるようになった。そしてその直後、脅迫文が宮内庁や首相官邸にも差し出された事で警察がやっと重い腰をあげ、偽「小林源文」が逮捕され、事件は収まった。犯人は予想通りの人物で彼は仙台市在住の軍事マニアで小林のファンでもあった。
事件の社会的影響は大きく、それまで雑誌読書投稿欄で、投稿者の住所が公開されるのは一般的だったが、以降非公開が原則となった。
また、小林とホビー・ジャパン社との関係がギクシャクしたのもこの事件が原因だと言われているが、小林は「全然違うよ。HJの社長が交代したので話しましょう。HJで最初に『黒騎士物語』大判の本が出たんだ、印税は5%。これは完売した。その後に日本出版で単行本(他社での出版の連絡は当時のHJ編集長に2回伝えた)を出した。これは印税10%だった。出版界では同じタイトルでも版形が違えば出版出来るんだ。当時のHJ社長はこれが気に入らないので、弁護士に訴状を作らせて俺に送らせたんだよ。この社長は正当性に関係なく商売敵に訴状を送って黙らせる手法で、裁判闘争はかなりやってましたね。...ミニカーとHOゲージの薄い本から初めて、一代で会社を築いた経営者なんで大したもんだと俺は思うね。...俺は著作権専門の弁護士を同行して社長に、著作権は作家そのものにあると証明して頂いて一件落着したんだ。著作権は出版社にあると間違ってる出版社はまだまだあるよ。」と語っている。
小林源文オフィシャルサイト内の著作リストに準拠。カッコ内は出版年と初出出版社を記載する。
大日本絵画から小林本人による兵器の図解イラストやエッセイを掲載する図解本が刊行されている。
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TRONプロジェクト
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TRONプロジェクト(トロンプロジェクト)は、坂村健による、リアルタイムオペレーティングシステム(RTOS) 仕様の策定を中心としたコンピュータ・アーキテクチャ構築プロジェクトである。1984年6月開始。
TRONとは、「The Real-time Operating system Nucleus」(リアルタイムオペレーティングシステム核)の頭字語である。組み込み向けのRTOSの仕様の策定をプロジェクトの中核としているが、本来は応用(アプリケーション)のユーザインタフェースのデザインやハードウェアの仕様策定など、様々なサブプロジェクトを含む。
TRONプロジェクトの中心人物である坂村健は、TRONプロジェクトが開始した1984年頃より、リアルタイムカーネル(組み込み向け)のITRONと、より大きなシステム(パソコン向け)のBTRON、それらを統合するシステムであるMTRON、といったロードマップを示していたが、1987年に発表した論文『The Objectives of the TRON Project』において、HFDS(Highly Functionally Distributed System、超機能分散システム)と言う構想を発表。未来の地球人類社会では、日常生活のあらゆる部分(電球1個、壁パネル1枚)にまでマイコンが入り込み何らかの形で人間と関わりを持つようになると予想し、それらのコンピュータをそれぞれの機器別にバラバラに扱うのではなく、標準によってうまく連携させるのだという未来像が提示され、TRONはその実現に向け準備するプロジェクトだ、と規定された。すなわち、μITRON3.0仕様書の言葉を借りれば「コンピュータ組み込み機器をネットワーク接続し、それらに積極的に環境を演出させる」という「電脳強化環境(Computer Augumented Environment)」の実現こそがTRONプロジェクトの目標であると提示され、これを一般向けに解りやすく言い換えて「どこでもコンピュータ」とも称していた。
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TRONプロジェクト
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1980年代にTRONプロジェクトの中核とされたサブプロジェクトのうち、組み込み向けオペレーティングシステム(OS)のITRON以外は2000年代を迎える前に頓挫したものの、2000年頃には身の回りのほとんどの電気/電子機器に組み込みシステムが応用されるような時代となった。TRONプロジェクトはこのような「ユビキタス社会」において、組み込みシステム用のリアルタイムカーネルのデファクト標準仕様としてのμITRONを中心として、「どこでもコンピュータ環境、ユビキタスネットワーク社会」をゴールとして掲げた。例えば任天堂が2017年に発売したゲーム機「Nintendo Switch」のコントローラー「Joy-Con」にμITRON4.0が、セイコーエプソンが2008年に発売したプリンター「カラリオ EP-901F」にeT-Kernel Multi-Core Editionが搭載されているなど、TRON系OSは2000年代以降も、主に炊飯器・洗濯機・カメラ・ゲーム機などと言った日本メーカーの家電製品に搭載されたマイコンを制御するための組み込み用OSとして、広く使われている。
坂村は2015年、身の回りのあらゆるものがローカルのネットワークでつながる「ユビキタスコンピューティング」の次の段階として、身の回りのあらゆるものがクラウドコンピューティングを通じてつながるという「アグリゲート・コンピューティング」という構想を発表。TRONは2010年代以降のIoT時代においても、IoTを実現する様々なデバイスを制御するための組み込み用リアルタイムOSの一つとなるべく、クラウドソリューションのMicrosoft Azureを提供する日本マイクロソフト社とも連携しながら、開発が行われている。
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TRONプロジェクト
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TRONプロジェクトは、1990年代後半にインターネットを通じたフリーソフトウェア運動が盛んになる以前より、OSのソースコードや仕様書などを含めた全ての成果物を一般向けに無償で公開しており、その使用に際しては実施料を要求されず、実装・商品化は誰でも自由に行える。2010年代以降にはフリーソフトウェア運動に倣って「オープンソース」「オープンデータ」「オープンAPI」を標榜している。一方で、ユーザー側で実装したアプリケーションについては、クローズでもよいということを表明しており、これが「ノウハウを公開したくない」と言う組み込みメーカーの支持に繋がっている。TRONのライセンスであるT-Licenseは、フリーソフトウェア運動で主流のライセンスであるGPLやBSDライセンスなどと比べてかなり緩く設定されており、派生物においては全てをオープンにする義務が課されず、オープンにしてもしなくても自由で、また一部をオープンにして一部をクローズドにするといったことも可能である。かつてのTRON系OSはトロンフォーラムのみが配布元であり、再配布は原則として禁止されていたが、2011年策定のT-License2.0においては時代に合わせて自由度を高め、ソースの改変履歴をトレースするための「ディストリビューションucode」を付与することを条件として、トロンフォーラムが著作権を持つオリジナルのソースをユーザー側で再配布したり、オリジナルのソースに改変を加えたものを再配布したり、オリジナルのソースを第三者が改変して再配布したものに、さらに自分で改変を加えて再配布したりすることも可能となった。TRON系OSの仕様書やT-LicenseといったTRONプロジェクトのオリジナルの成果物の著作権者はトロンフォーラムあるいは坂村健となっている。
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TRONプロジェクト
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TRONプロジェクトは1984年の開始以来、日本の坂村健が中心となって推進しているが、この活動をサポートする組織としては、2019年現在、坂村が会長を務める「トロンフォーラム」が存在する。トロンフォーラムの会員は日本企業が多いが、幹事会員を務める日本マイクロソフト社を始めとして、外資や海外の企業も存在する。なお、1980年代には「OS」という分野においてTRONプロジェクトとマイクロソフト社の対立が報道されたが、坂村によると実際には「対立していない」とのことで、2003年にはTRONプロジェクトのOSであるT-Engineの上にマイクロソフトのOSであるWindows CEを移植したり、2014年にはIoT分野においてMicrosoft Azureを利用するために日本マイクロソフトとの提携を発表したりなどしている。
2017年には、IoT時代においてTRONのさらなる世界的普及を目指して、坂村健とトロンフォーラムはTRON系の組み込み向けリアルタイムOS「μT-Kernel 2.0」の著作権を米電気電子学会IEEEに譲渡。2018年9月11日、μT-Kernelベースの「IEEE 2050-2018」が、IEEE標準として正式に成立した。これによってTRON系OSが、IEEEによって標準化されるOSの国際標準規格の一つとなった。2019年にはTRONプロジェクトにおいて初めてGitHubが採用され、μT-Kernel 3.0の仕様書やソースコードなどが世界に公開された。2023年、仕様書やサンプルソースコードをオープンかつ自由に提供し、開発者や利用者のイノベーションを促進したことや、世界中で数十億台の組み込み機器に採用されていることを評価され、IEEEによってIEEEマイルストーンに認定された。
「TRONプロジェクト」とは、OSの開発だけでなく、ハードウェアやインターフェースの開発も含めた様々なサブプロジェクトを総称するための名称であり、その下に様々なサブプロジェクトが存在する。
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TRONプロジェクト
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「TRONプロジェクト」とは、OSの開発だけでなく、ハードウェアやインターフェースの開発も含めた様々なサブプロジェクトを総称するための名称であり、その下に様々なサブプロジェクトが存在する。
1984年に坂村が開始し、1986年発足のTRON協議会(1988年に「トロン協会」に改称)が中心となって推進した初期のTRONプロジェクトにおいては、組み込み向けOSの「ITRON」、ビジネス向け(現代で言うパソコン向け)OSの「BTRON」、メインフレーム向け(現代で言うサーバー向け)OSの「CTRON」、TRONにおけるヒューマンインターフェイスをデザインする「トロン電子機器HMI研究会」、TRON構想を実現するためのハードウェアを策定する「トロンチップ」、これらを統括する(現代で言う分散コンピューティングに相当する)「MTRON」、の6つが主なプロジェクトとされていた。
「ITRON」プロジェクトの成功を受け、坂村は2000年に開かれたトロン協会の第12回通常総会において、TRONプロジェクトが第2ステージに入ったことを宣言。ITRONの標準化を進めた「μITRON4.0」を継承し、組み込みシステムの高性能化・高機能化に対応した、OSのより強い標準化を進めるため、2001年に次世代のTRONプロジェクト「T-Engineプロジェクト」が発足。2002年発足のT-Engineフォーラムが推進する初期のT-Engineプロジェクトおいては、コミュニケーションマシン(携帯情報端末、携帯電話など)向けの「BTRON3」、旧世代のOSながら依然として広く使われる「μITRON4.0」、などの従来からのサブプロジェクトに加えて、BTRON3で使われるファイル形式の「TAD(TRON Application Databus)」、TRONで16万字以上を扱える多文字環境を実現する「多言語処理環境」、次世代組み込みOSの「T-Kernel」、T-Kernelの開発環境として標準化された「T-Engine」、電子伝票システム(現代で言う公開鍵暗号方式)の「eTRON」が主なサブプロジェクトであった。
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TRONプロジェクト
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2011年、T-Kernel2.0の発表と同時にT-Engineプロジェクトの「Step2」が宣言され、それ以前のT-Engineプロジェクトが「Step1」、μITRON4.0が「Step0」と位置付けられた。2015年にT-Engineフォーラムは「トロンフォーラム」と改称され、IoT時代を見据えてTRON本来の役割に立ち返るべく、再び各種のサブプロジェクトの構想が活発化している。
なお、T-Engineプロジェクトの開始後も、レガシー向けに旧来のITRONの需要がまだ残っていたことから、ITRONを推進するトロン協会とT-Kernelを推進するT-Engineフォーラムはしばらく併存していた。トロン協会は2010年に解散したが、ITRONは未だ広く使われており、サポートはT-Engineフォーラム(2015年3月に「トロンフォーラム」と改称)が継承している。
坂村健が1984年に開始した、初期のTRONプロジェクトである。1986年発足のTRON協議会(1988年に社団法人トロン協会に改称)が中心となって推進していた。
組み込みシステム向け(を重視した)RTOS。TRONプロジェクトにおける最も古いプロジェクトであり、1984年にプロジェクトを開始した。
1982年より、日本電子工業振興協会・マイクロコンピュータ技術委員会・OS分科会において、日本の電機各社とともに日本のマイコン開発をどう進めるかを議論していた中で、主査であった坂村健(当時は東京大学理学部情報科学科助手)が構想したものが、形となったものである。「まず基盤となるリアルタイムOSを含む開発環境整備から進め、その後、そのOSが最も効率よく動くチップを作ろう」と言うことで、まず最初にITRONプロジェクトが開始された。
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マイクロコンピュータ技術委員会に参加していたメンバーのうち、門田浩(当時NECの集積回路事業部、退社後に組み込みシステム技術協会専務理事)と桑田薫(同、NEC/ルネサス退社後に東工大副学長。TRONプロジェクトの主要開発者はほとんど男性だったが、坂村がデザインしたトロンOSを最初に実装したプログラマは女性だった)を中心とする日本電気(NEC)のチームによって最初にITRONの実装が進められ、1985年春にはNEC V20/30上で動作するITRONの実装「ITRON/86」がNECによって公開された。1986年8月には68000上で動作するITRON/68K仕様OS「HI68K」が日立によって公開されるなど(日立武蔵の竹山寛らが開発)、ITRONの仕様の策定と各社による実装が同時に行われ、各社の実装がITRON仕様にフィードバックされた。
1984年当時、日本の組み込みシステムはOSを搭載しておらず、そのためITRONの当時のライバルは「他のリアルタイムOS」ではなく「OSを利用していない組み込みシステム」であった。OSを搭載しないシステムと比較して、OSを搭載することでどうしても発生してしまうオーバーヘッドを最小限に減らし、OSの導入による標準化によって生じるソフトウェアの互換性や保守性の面でのメリットが上回るように、「弱い標準化」の方針で仕様の設計が行われた。
1987年5月に16ビットプロセッサ向けの初版(ITRON1)を公開。ITRON1仕様はNEC Vシリーズやモトローラ68000を始めとして数十を超える16ビットシステムに実装が行われた。
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TRONプロジェクト
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1987年5月に16ビットプロセッサ向けの初版(ITRON1)を公開。ITRON1仕様はNEC Vシリーズやモトローラ68000を始めとして数十を超える16ビットシステムに実装が行われた。
1989年にはITRON1仕様に機能の追加やITRON2相互間の互換性強化などを施した32ビットの大規模組み込みプロセッサ(TRONCHIPを想定)向けの「ITRON2」を公開。同時に、小規模組み込みシステム(シングルチップコンピュータや8ビットプロセッサ)向けのITRON2のサブセットとして「μITRON(μITRON2)」も公開された。「ITRON1の標準化の程度を上げて仕様拡張を行ったのがITRON2であり、ITRON1の適応化の程度を上げて仕様を簡略化したのがμITRON」とのこと。システム間で共通する標準OSとしての互換性を保つことと、各システムに合わせてOSを適応化することで得られる性能の向上は、トレードオフの関係になるため、高性能な32ビットシステムと低性能な8ビットシステムの双方において、そのバランスを取れるように策定された仕様である。
ITRON2仕様においては、ITRON間の互換性やアプリケーションプログラムの移植性が高められ、またITRON仕様とBTRON・CTRONとの整合性が強化された。ただし、μITRON仕様が非常に広く普及したのに対して、ITRON2仕様はほとんど利用例が無く、失敗に終わったといえる。
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μITRON仕様の基本方針に関して、1989年当時、様々な汎用の16ビットプロセッサにおいてITRONが使われていたが、家電製品や自動車への組み込みを目的としたチップ(シングルチップコンピュータや8ビットプロセッサなど)においては、ROM容量・RAM容量の制限やコストの問題などから標準OSが使われることは少なく、アプリケーション側でOSの機能まで包含してプログラミングを行うのが一般的であった。いくらITRONは適応化によって不要な機能を削除できるといっても、元々16ビットシステム用に策定されたITRON1仕様はこれらのシステムにおいては巨大であり、オーバーヘッドが発生するため、採用できない。そのため、μITRON仕様においては、ITRONのシステムコールインタフェースやパラメータの有無などいくつかの点について、推奨仕様あるいはインプリメント依存仕様に格下げを行うなど自由度大きくし、また、OSレベルでの機能のサブセット化を許し、OSのインプリメンタがプロセッサアーキテクチャに合った機能や必要性の高い機能を自由に選択できるなど、ITRON2の仕様書の言葉を借りるなら、OSとしての標準化が「限界を超える」所まで弱められた。この点から、「μITRONは、一つのOSの仕様を指すものではなく、OSの仕様設計を行ない、システムコールの命名を行うためのガイドライン」に過ぎないと坂村は考えており、「μITRONでは、プロセッサ毎あるいはアプリケーション毎に、一つのガイドラインに沿った別々のOS仕様が存在しており、それらのOSがμITRONというOSのファミリを形成」するものと想定された。ITRONが様々なプロセッサに実装される組み込みにおいては、OSの仕様の違いによる問題よりも、プロセッサ間による違いの方がずっと影響力が大きいため、標準OSとしての互換性が取れなくても問題ない。それでも、どのITRON仕様OSにおいてもμITRON仕様で決めたシステムコール名称を使っているため、プログラマの教育がしやすく、「教育の互換性」というメリットは大きなものだと坂村は考えた。
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坂村の考えは成功し、μITRON3.0仕様が策定された1993年の時点で、ほとんどすべての日本メーカー製8ビットMCUにμITRON2が実装され、さらにはμITRON2仕様カーネルを32ビットプロセッサ用に実装するという、当初想定していなかった適用例も出てきた。そのため、1993年発表のμITRON3.0仕様においては、μITRON2における事例のフィードバックを受けて、ITRON2とμITRONの仕様が一本化され、μITRON仕様はITRON全体の新バージョンとして、ITRONのほぼ全てに相当する機能を持つようになった。μITRON3.0においては、標準化と適応化の強化に加えて、「接続機能」が追加されたことが大きな特徴で、1993年当時はコピー機やFAXなど、MCUの低価格化に従って1つの機器の制御に複数のMCUが使われるケースが増えてきていたことから、μITRON仕様カーネルを持ったノードを疎結合ネットワークによって相互接続した分散システムをサポートするための機能が追加された。また、開発環境の標準化などにも取り組んだ。
1994年よりトヨタ社が車載用OSの候補としてITRONを検討し始め、1997年にはITRON専門委員会の下にRTOS自動車応用技術委員会が設立され、1999年にはITRONを搭載した初の自動車、トヨタ・ランドクルーザープラドが発売された。この頃には、民生用機器においては、デジタル家電で広く使用されていた他、1990年代後半から2000代前半にかけて普及したフィーチャーフォンにおいても広く使われていた。
1999年にはμITRON4仕様が公開される。ソフトウェア移植性の向上、外販することを前提とするソフトウェア部品構築のための機能、自動車制御分野おけるRTOSに対する要求、プロセッサの性能向上やメモリ容量の増加への対応(従来はオーバーヘッドが大きかったために見送られた機能も入れることができるようになった)、が主な追加点である。この頃には、ネットワーク応用やインターネット・イントラネット関連機器を中心として、通信やGUI・デバッグ関連のミドルウェアがITRON上で利用される機会が増加し、これらのミドルウェアの移植性向上に対する要求を満足するため、「弱い標準化」と「強い標準化」と言う相反する要求を満たす仕様となった。
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組み込み機器の機能の高度化や複雑化・大規模化に対応するため、2001年に「より強い標準化」を目指したT-Engineプロジェクトが開始され、ITRONプロジェクトは終了した。しかし「リアルタイム性、リソースを浪費しないコンパクトさ、柔軟な仕様適合性、オープンアーキテクチャポリシー」が強く支持され、その後も小規模システムにおいてはμITRONが広く使われている。
なお、μITRON4.0の仕様策定の中心人物であり、坂村健の監修のもとでμITRON4.0の仕様書を編纂した東大坂村研究室出身の高田広章は、T-Engineプロジェクトに移行せず、μITRON4.0仕様に準拠した「TOPPERS/JSPカーネル」をベースとするTOPPERSプロジェクトを独自に立ち上げた。
「Business TRON」の略。OA機器(オフィスなどでビジネス用に使われることが想定されるコンピューターで、現代で言うパソコンに相当する)向けのOSの仕様で、1985年に開発がスタートした。ちなみに「BTRON」とはOSの名称ではなく、仕様の名称であり、BTRON仕様に準拠したOSが各社からリリースされることが想定される。
BTRONプロジェクトにおいては、BTRON仕様OSの策定だけでなく、キーボードなどのハードウェア(HMI、ヒューマン・マシン・インターフェース)やデータフォーマットの策定も含め、コンピュータのあらゆる階層が再設計された。むしろBTRONプロジェクトにおいては、OSの仕様策定よりもHMIやデータフォーマットの策定がメインであるとも坂村は考えており、「特定のアプリケーションを動かすためだけなら、アプリケーションの互換性は問題ではない」として、BTRON仕様のHMIとデータ形式をBTRON仕様ではないOSの上に実現した「μBTRON」も想定されていた。
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BTRON仕様OSは、1987年8月の時点では、パソコンやワークステーション向けのBTRON(μBTRON、後にBTRON1と呼ばれる)、1987年から1988年にかけて出る予定である専用機(ワープロなど特定の用途に使われる機械)向けのμBTRON、1990年までに完成するはずであるトロンチップ(当時TRONプロジェクトで開発中であったチップ)向けのBTRON(ピュアBTRON、後にBTRON2と呼ばれる)、の3つが構想されていた。ちなみに、BTRON2仕様OSは大澤範高(当時・パーソナルメディア社、後・千葉大学大学院教授)らによって開発されていたらしいが、実装は結局リリースされず、BTRON2の仕様書のみが1992年に出版された。
他のTRONプロジェクトのOSとは違って、BTRON仕様OSを搭載した機器は直接人間が扱うものであるという特徴があることから、坂村はBTRONマシンを「コミュニケーションマシン」と位置付け、人間工学的見地から見て使いやすいデザインや障碍者にも使いやすいデザインなど、開発当初からHMI(ヒューマン・マシン・インタフェース)に重点が置かれて開発が行われた。BTRONのHMIを定める「BTRON HMI」においては、ハードウェアも規定され、例えば入力デバイスとしてキーボードと(マウスではなく)ペンを使うことが規定された。坂村はBTRONで使われる「TRONキーボード」の制作を沖電気に、電子ペン(現代で言うスタイラスペン)の制作をワコムに依頼。TRONキーボードは1986年に完成、ワコムのワイアレス電子ペンは1987年に完成した。
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1985年、文部省は「教育方法開発特別設備補助」5か年計画において、学校へのコンピューター導入のために初めて予算を計上した(初年度は20億円。年々増加し、自治体からの補助金も入れるとかなり巨額の補助金が出る)。同じころ、通商産業省もソフトウェア危機に対応するために予算を計上し、またメーカーに働きかけを行った。1986年より、学校教育へのコンピュータの導入を目指して通商産業省と文部省が設立したCEC(セック、財団法人コンピュータ教育開発センター)によって、日本の教育用パソコンのOSの標準化を図るため、BTRON仕様OSが日本の学校教育における標準OSとして検討された。1987年当時、NEC以外のメーカーはパソコンのシェアが非常に少なかったので、CECの策定した「CECマシン」を作って当時全国に約3万5千校存在した小中学校において国費で確保された教育パソコン市場を取ることでNECの牙城を崩すべく、1987年9月までに、CECに加盟する日本の大手家電メーカーのうち、NECを除く11社がBTRONの採用に賛同した。教育用パソコンも含めて1987年当時の日本のパソコン市場をほぼ独占していたNECは、当時はPC-8801シリーズからPC-9801シリーズへの移行期にあたり、N88-BASICでの動作を前提とする8ビット機のPC-8801に代わってMS-DOSの搭載を前提とする16ビット次世代機のPC-9801シリーズの普及を推進していたので、NECだけは最後まで渋ったが、半年以上ゴネた末にBTRONとMS-DOSのダブルOSを許可することで説得に応じ、日本の教育市場で使用されるパソコン「CECマシン」においてBTRON仕様のOSを採用することで1989年3月に正式決定。'87、'88、'89、と次第に仕様が固められたCECマシン仕様においては、トロンキーボードは不採用となるなど、CECマシンは坂村が当初構想していた「コミュニケーションマシン」としてのBTRONマシンとは異なる、普通のパソコンとなっていった。
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BTRON仕様OSの開発に当たっては、BTRONプロジェクト開始当初よりNECに強力な対抗意識を燃やす松下電器産業が参画し、早川茂専務の即断で200人体制でBTRON仕様の開発に当たらせるなど、松下を中心とする反NEC陣営による強力な開発体制が敷かれた。BTRON1仕様OSは、櫛木好明(当時は松下電器産業情報システム研究所長、後に松下電器常務取締役)率いる松下電器産業中央研究所(大阪府門真市)の情報システム研究所が中心となって開発され、現場は真弓和昭(当時は松下電器産業情報システム研究所次長、退職後に大阪産業大学客員教授)が主導した。松下は1987年3月に試作機を公開(この段階ではBTRONの仕様・実装共に未完成であった)、CECマシンの仕様が固まるにつれて、1988年にはIntel 80286での動作を前提とするBTRON/286 1.1を発表(このBTRON/286仕様がBTRON1仕様となる)、松下は1989年3月にはついにCECマシンの実用機を完成させた。CECマシンのOSであるBTRON仕様OSは、松下が他の11社にライセンスする形式で(BTRON仕様OSは誰でも開発できるとの建前だったが、実際は松下1社のみが供給した。「CECへの納入品のみに搭載できる」という条件で、松下は自社で開発したOSを各社に有料で貸し出した)、同年中にはCECに加盟するAX陣営(「反NEC陣営」から「FMR陣営」の富士通と松下を除いたもの)の共同により、AX陣営の各社が製造したAXアーキテクチャのパソコンにもBTRON仕様OSが移植され、1989年10月に東京国際見本市会場で開催されたデータショウ'89では、松下の策定したBTRON1.2仕様OSを搭載した、様々なBTRONマシンの試作品が展示された(なお、データショウ'89の目玉は、PC-98シリーズの新フラッグシップPC-H98およびPC-98シリーズ初のラップトップパソコン「98NOTE」や、Mac初のラップトップパソコンMacintosh Portableであり、TRONは全く注目されなかった。TRON陣営にしても、例えば東芝は当時世界シェア1位のPC/AT互換ラップトップパソコンDynaBookの展示の方に力を入れていた)。
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しかし1988年、アメリカ合衆国通商代表部(USTR)によって「政府調達のOSを松下に限定するのは不公正である」との指摘を受け(この時は日本側は「BTRON仕様OSは誰でも開発できる」と釈明し、USTRは誤解を解いた)、さらに1989年4月、USTRが発表した「貿易障壁年次報告」においてBTRONが取り上げられ、スーパー301条に基づく制裁の候補とされるなど、日米貿易摩擦を背景とした米国からの圧力にさらされた。1989年5月にトロン協会がUSTRに対して「誤解だ」と抗議文を送り、同月中にUSTRは誤解を解いて、この時はトロンはスーパー301条対象品目から外された。なお、スーパー301条とは、市場における不公正な取引慣行に対して撤廃を求めて米国が対象国との交渉を行い、もし撤廃されなければ高額な関税などの制裁を課すというもので、「日本の教育市場における教育用パソコンについて、使用するOSを市場自身が選定するのではなく、日本の政府系機関であるCECが(マイクロソフト社のMS-DOSなどBTRON以外のOSを締め出す形で)選定するのは不公正である」と言う趣旨が協会抗議文への返書に書かれてあったとのこと。
しかしこれを機に、NECがCECに対してBTRONの不採用を要求。6月、CECはBTRON仕様による統一を断念。この経緯を『日経コンピュータ』誌(1989年8月28日号)が「BTRONベースの教育用PC、標準化は事実上不可能に」と報じるなど、「BTRON採用断念」を同時期のマスコミが盛んに報じた。ただしこの時点では、OSの仕様の統一は断念されたと言っても、ほとんどのメーカーはCECマシンのOSとしてBTRON仕様OSを採用していたが、1990年3月にアメリカ合衆国通商代表部が発表した貿易障壁年次報告においても、再びBTRONが取り上げられた。
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その結果(経緯の詳細はBTRON#通商問題を参照)、小学校への導入は当初の予定どおりには実現しなかった。BTRONプロジェクトに賛同したパソコンメーカーは、BTRONに教育用パソコンとしての目があるということだったので「ある程度の出費はしかたない」(東芝におけるBTRON仕様開発の中心人物としてNHK「トロン誕生」にも出演した元東芝基本ソフトウェア第2部主幹の小田一博の回想)と考えてBTRONプロジェクトに参加していたが、もはやBTRON採用の目がなくなったので、みなBTRONプロジェクトから手を引いた。1989年2月にはBTRON仕様OS対応ソフトウェア開発の協力のために、松下を中心としてBTRONソフトウェア懇談会が発足していたが、1990年には富士通を始めとするメーカーがBTRONソフトウェア懇談会から次々と脱会。富士通は元々は松下と並ぶBTRON陣営の中核企業として、1987年にパソコン開発において松下と提携していたが、同年中には「CECマシンの仕様を見極められない」として、MS-DOSを搭載した自社独自規格のFMRシリーズを教育市場向けに発売し、1989年時点では教育市場でそれなりのシェアを持っていたので、既に「CECマシン」を開発する意味はなかった。さらに富士通は、FMRシリーズの次世代機として1989年2月にFM-TOWNSを発売していたが、にもかかわらず「反NEC」と言うだけで1990年までBTRONソフトウェア懇談会に参画していた。つまり、CECに加盟する反NEC陣営の各社においては、CECマシンはNECへの対抗手段の一つに過ぎず、それ以外のプロジェクトを同時に進行していた。BTRON仕様OSの開発の中心メーカーであった松下電器産業も、外圧を恐れて1990年にBTRONソフトウェア懇談会を脱会。
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松下電器産業のBTRONの開発部隊は松下グループで教育機器を作っていた松下通信工業に移ってBTRONの開発を続行した。1990年9月、松下通信工業からPanacom(松下が販売していた富士通FMRシリーズの互換機)にBTRON1(BTRON/286)仕様OS「ET-Master」を搭載した「CEC仕様'90」準拠の教育用コンピュータが「PanaCAL ET」として発表されたが、「BTRON仕様」とは名乗らなかった。1990年7月に刊行された「CEC仕様'90」(『学校で利用されるコンピュータシステムの機能に関する調査報告書』)では、OSを規定せずにアプリケーションレベルでの規定の策定とし、また教育用パソコンとして教材の互換性に重きが置かれたため(例えばCEC仕様'90で策定された「CEC-BASIC」はNEC PC-8801/PC-9801標準の「N88-BASIC」互換だった)、平成元年改訂の新学習指導要領(数学A「計算とコンピュータ」数学B「算法とコンピュータ」)に合わせた教育用コンピュータとして、ほとんどの学校はマイクロソフト社のMS-DOSをOSとして採用したNEC PC-9801を選択した。1989年当時の教育市場の4割を握っていた富士通が「マルチメディアマシン」として全国の約200校の学校に貸与するなどして強力に推進した次世代機FM-TOWNSを選択した学校もそれなりにあったが、松下の「パナカル」を含め、それ以外のパソコンを選択して導入した学校は少なかった。1991年3月、松下は次こそはDOS/VでNECの牙城を崩すべく、AX陣営の残党とともに日本アイ・ビー・エムを盟主とするOADG陣営に参画。松下は1990年ごろにBTRONの開発を終了したらしい。CEC仕様の最終となる「CEC仕様'90」では、「CEC仕様'90」仕様に準拠した「CECマシン」が1994年までの5年間で全国の学校に40万台が配備される予定とされたが、松下以外のパソコンメーカーが「CECマシン」を作らず、松下もすぐに撤退したので、結局配備されなかった。
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1988年1月にNHKで放映された「コンピューターの時代」シリーズ第4話『トロン誕生』では、山中俊治がデザインしたBTRONマシンのモックアップの前に座った坂村を案内人として、BTRONマシンの入力装置である「トロンキーボード」を開発中の沖電気青梅工場、このトロンキーボードと電子ペンを使用したコマンド入力システム(トロン作法)を開発中の東芝青梅工場、BTRON仕様OSを開発中の松下電器産業中央研究所、などにカメラが入り、その未来のコンセプトデザインが当時非常に話題となったが、上記の経緯で、教育用パソコン「CECマシン」の仕様策定が頓座したことをきっかけに、一般向けのBTRONマシンが発売されないうちにBTRONプロジェクトは衰退してしまった。(この番組に出演した東芝の小田一博は、CECが各社からの出向者の寄り合い部隊で確たる信念を持たなかったこと、まずAPIの仕様作成に注力すべきなのに(4年かけて)ハードの仕様を策定したことなど、Σプロジェクトと同じ失敗をしたと後に回想している。また、2003年4月にNHKで放映された「プロジェクトX」第111回『家電革命 トロンの衝撃』において、上記の経緯の裏にあたかもマイクロソフト社の陰謀があるかのような報道がなされたが、坂村の友人で、当時TRONにWindows CEを移植していた日本マイクロソフト元会長の古川享は「悪質な印象操作」と断じ、実際にBTRONの発展を阻害したのは通産省の官僚とマスメディアによる印象操作であり、通産省・総務省・文部省が計上した総計2300億円の国家予算に対しても、技術開発よりも予算欲しさの企業ばかり集まった「国家予算のバラマキ行政」と評している。)
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そのため、BTRONの一般ユーザーへの普及を目指し、松下のBTRON仕様OSに搭載されたエディタを作成するなどBTRON仕様OS用応用ソフトウェア開発の中心であったパーソナルメディア株式会社を中心として、1991年にBTRONソフトウェア開発機構が発足。パーソナルメディア社が松下からOEMを受け、松下のパソコンにBTRON1仕様OSを搭載した一般向けパソコンの「電房具」シリーズの第1弾となるノートパソコン「1B/note」が1991年8月に発表(9月発売)された。松下が開発したBTRON1仕様OSは(CECマシンを除いて)松下以外のパソコンへの移植を許可しておらず、当初はBTRON仕様OSが他社のパソコン向けに単体で発売されることは無かったが(そのため、BTRONが普及しなかったのは、松下がBTRON仕様OSを他社ハードに移植するのを禁止したためとの指摘もある)、1994年には松下のBTRON1仕様OSをPC/AT互換機に移植した「1B/V1」がパーソナルメディア社によって発売され、PC/AT互換機を所有する一般のパソコンユーザーでもBTRON仕様のOSを利用できるようになった。当時のBTRON仕様OSは、パソコンにおいてはビデオカードのドライバが無い(ビデオカードによるグラフィック表示支援が使えない)ために、起動や動作が早くても画面表示がカクカクで、競合OS(1994年当時はWindows 3.1。Windowsがまともに動くスペックのPCは高額になるのと、ゲームなどのアプリが揃っていないので、当時はMS-DOSもまだ主流だが、1995年にWindows 95が発売されると大ブームとなり、パソコンのOSはWindowsが主流になる)とは実用面で比較にならなかったが、「実身」「仮身」モデルに代表されるBTRON独特のシステムの熱烈な支持者がいたほか、組み込み用でよく利用されるTRON系OSでありながら曲がりなりにもGUIが利用できることから、開発用OSとしてもある程度の支持者がいた。
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その後、パーソナルメディア社は、東大坂村研究室が開発したμITRON3.0仕様OS「ItIs Phase3」をベースに、独自に拡張したBTRON3仕様を策定。1995年にはトロンチップ(富士通GMicro F32/300)にBTRON3.0仕様OS「3B」を搭載した「ピュアTRONマシン」であるワークステーションの「MCUBE / BTRON3 Work Station」を発売、ITRONの開発用マシンや業務用ハードウェアの制御用などに利用された。
1998年、パーソナルメディア社は「ItIs Phase3」を「I-right/V」としてDOS/V(i386および互換CPUを搭載した32ビットシステム)に移植し、これを核とした32ビットパソコン用のBTRON3.0仕様OS「B-right/V」を発売。「B-right/V」は、1999年11月発売のバージョン2以降より、多漢字を扱えることをアピールした『超漢字』の名称で発売された。
TRONはパソコン用OSとしてあらゆる文字を扱えることを目標として、約150万字の文字を理論的には扱える文字コードのTRONコードを採用しており、BTRONは1997年発売の「1B/V3」の頃より多数の文字が扱える「多言語対応」をウリとしていた。初代『超漢字』が発売された1999年の時点では、Unicodeにはまだ2万字程度しか収録されておらず、『超漢字』は当時のUnicodeには収録されていなかった異体字、梵字、変体仮名、甲骨文字などが扱えるという点で、漢字研究者やお坊さん、人名を扱う官公庁や自治体関係者などに主な需要があった。
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1999年発売の初代『超漢字』は発売から1年間で7万本、4年で25万本を超える売り上げとなり、これをプリインストールしたパソコンも発売されたが、普及率としてはマイクロソフト社のOS(当時の競合OSはWindows 98)と競合するOSとはなりえず、2006年発売の『超漢字V』においてはWindows上で動くPCエミュレーター上で動作する前提で、事実上Windowsの1アプリケーションとして動作する前提となっている。TRON仕様OSのGUIやキーボードショートカットなどはTRON特有の「TRON作法」に従っており、Windowsに慣れた一般のPCユーザーには慣れるのが難しく、「ハードウェアのドライバが無い」などパソコンのメインOSとして動かすには様々な問題があったが、『超漢字』が事実上Windowsのアプリの1つとなったことで、WindowsのGUIやドライバが利用できるようになり、この問題は解消された。
パソコン用OSとしてのBTRONの流れは上記の通りだが、一方でBTRON3はμITRON3をベースとしているため、一般的なGUIベースのOSが動かないような極めて貧弱な環境においても、μITRON3が動いている限りはBTRON3準拠のGUIを動かすことができるという特徴があった。そのため、1995年頃、パーソナルメディア社がセイコー電子工業など数社から携帯情報端末(PDA)向けのOS制作の依頼があったことを契機として、モバイルで動くBTRONの仕様を策定するというサブプロジェクト「μBTRON」(上記のワープロ専用機向けのμBTRONとは別のプロジェクト)の仕様の策定が開始される。
(なお、パソコン以外では、1990年発売の松下のワープロ専用機Panaword 6000i(BTRON1)、1990年に稼働したJALのオンライン予約システム(メインフレームのIBM 3090とやり取りする端末にBTRON1を実装)でBTRONが採用された。)
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(なお、パソコン以外では、1990年発売の松下のワープロ専用機Panaword 6000i(BTRON1)、1990年に稼働したJALのオンライン予約システム(メインフレームのIBM 3090とやり取りする端末にBTRON1を実装)でBTRONが採用された。)
携帯情報端末(PDA)向けのBTRON。BTRONのサブプロジェクトで、BTRON3仕様をベースに、キーボード未搭載のハードウェアへの対応や、タッチペンへの対応など、モバイル向けの仕様を追加したもの。なお、μITRON4.0の仕様書ではこれを「μBTRON」と呼んでいるが、μBTRON仕様OSを開発したパーソナルメディア社では「携帯端末用BTRON」と呼んでいる。
セイコー電子工業(セイコーインスツルメント、SII)の販売する業務用PDA「TiPO」シリーズの3代目で、1996年10月発表(1997年2月リリース)の「BrainPad TiPO」への搭載を前提として策定された。SIIより依頼を受けてパーソナルメディア社がPDA用に開発したμBTRON3.0仕様OSの名称が『B-right』であり、TiPO用の「B-right」で動くマイクロスクリプト(BTRON用のスクリプト言語)はDOS/V用の「B-right/V」でも動く(つまり、「B-right/V」が搭載されたパソコンを「TiPO」の開発機として利用することができる)。
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1996年当時の一般的なモバイル端末は、GUIベースのOSは実用的ではなく、SIIの業務用端末「BrainPad」シリーズもそれまではOSとしてMS-DOSを積んでいたが、「BrainPad TiPO」ではμBTRONベースのシステムを用いることで、当時の極めて貧弱なモバイル用ハードウェアにおいても実用的な解像度と稼働時間を維持しながらGUIのマルチウィンドウシステムを動かすことができた。「BrainPad TiPO」は1997年開催のなみはや国体の競技記録システムや博物館の案内システムなどの業務用で採用されたほか、1997年2月にはパーソナルメディア社から「電房具TiPO」として、SIIのOEM版が一般向けにも市販された。TiPOは単三アルカリ乾電池1本でハーフVGA(640x240)の解像度と50時間の連続稼働時間を誇りながら、NetFront Browser(ver 1.0)を搭載してインターネットの閲覧も可能であった。
しかし、業務用としてはともかく一般消費者用の機器としては、「パソコンと同等の機能を持ったPDA」と言うμBTRONおよびTiPOのコンセプトは、ビジネスマンを中心とする当時の携帯情報端末のユーザー層に受け入れられたとはいいがたい。当時の非力なモバイル端末に、パソコン(それも一般にほとんど普及していない「TRON作法」を採用したBTRON)のGUIをほとんどそのまま載せていることから、シングルタスクとシングルウインドウシステムを採用した同時期の他のモバイル端末と比べると、表示速度が遅く、「ビジネスのための情報ツール」としての使い勝手は、当時ヒットしていたPDAのシリーズであるザウルスやPalmなどと競合するには至らなかった。また、BTRONの特徴である文書の実身・化身機能を生かそうにも、文書を編集するためのキーボードが付いておらず、ソフトウェアキーボードを起動すると画面の大半を占有して文書が見えなくなった。そのため、「文書の編集ツール」という点でも、DOSと物理キーボードの搭載によって高速かつ強力な文書編集機能を持っていたモバイルギアなどと競合するには至らなかった。
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TiPOは、このようなユーザーの声を聞きながらインターネットを通じたプログラムのアップデート(当時としては画期的)を繰り返し、1998年にはNetFront(ver 2.0)などを搭載した「TiPO Plus」にソフトウェアがバージョンアップして若干使い勝手が向上しつつも、1999年に販売を終了する。パーソナルメディア社が編纂した『マイクロスクリプト入門』によると、1998年12月の時点で、携帯端末用BTRONを搭載した機器は「TiPO」しか存在していないとのことで、PDAで広く採用されるようにBTRON仕様を拡張した物の、μBTRON仕様OSを搭載したPDAは結局「TiPO」が唯一の製品であったようだ。
携帯情報端末にBTRONのGUIをほとんどそのまま載せた「TiPO」は成功しなかったものの、1999年頃よりITRONを搭載したインターネット対応の携帯電話(2010年代においてはガラパゴスケータイと呼ばれている)が続々と登場し、家電や携帯電話にGUIを持ったTRONが搭載されるのが当然の時代になり、そのGUIの開発の大変さがTRONプロジェクトにおいて問題となった。BTRON3仕様OS「B-right」の制作に携わり、松下の手を離れてからのBTRONの開発の中心人物であった松為彰(当時はパーソナルメディア社TRON特別室室長)は、携帯電話などの小型端末からパソコンやFA機器などの大型端末までにおける、GUIの標準化を目指し、BTRON仕様をベースとするTRON-GUIプロジェクトを1999年に立ち上げた。
TRONを搭載した組み込み向けのGUIの規格。1999年より策定開始。
1990年代後半より、組み込み向けハードウェアでもGUIが動かせるほど性能が向上してきたこともあり、コピー機やVTR機と言った一般の家電にもGUIが搭載され始めたが、ハードによって仕様がバラバラで、システムごとにGUIを個別に作らないといけなかったため、プログラムを制作する技術者の負担が非常に大きかった。そのため、1999年に「TRON-GUI仕様研究会」が発足し、組み込みシステムとしての信頼性を保った上でITRONで軽いGUIを制作でき、そしてその開発期間を短縮できるように、組み込み向けGUIの標準化が試みられた。
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松為彰(トロン協会TRON-GUI仕様研究会主査)が執筆した『TRON-GUI仕様の概要』によると、「基本的にはBTRON仕様をベースに、不要な機能を除いたものがTRON-GUI」とのこと。1999年にTRON-GUI仕様のドラフトがリリースされたが、正式な仕様書は出ず、2000年にT-Engineプロジェクトが開始するとともに、T-Engineプロジェクトに吸収された模様。
「Communication and Central TRON」の略。メインフレーム向け(現在で言うサーバーに相当する)のTRON OSで、日本電信電話公社(電電公社、現在のNTT)の主導で、1985年にプロジェクトを開始した。電電公社の電話交換機での使用を前提とし、同時にCTRON上で動くアプリケーションも制作された。
当時の電電公社では、電電公社に近しい国内メーカー(いわゆる「電電ファミリー」)と共同開発した情報機DIPS(Dendenkosha Information Processing System)と交換機DEX(Dendenkosha Electronic eXchange)が稼働していたが、石野福弥(当時は日本電電公社電気通信研究所複合交換研究室長、後に早稲田大学教授)らによって、情報処理用メインフレームと電話交換機用メインフレームの2つを統合した「INSコンピュータ」を作るという「INSコンピュータ計画」が1985年に電電公社横須賀電気通信研究所においてスタートしたことが背景にある。「INSコンピュータ計画」においては、「電電公社による独自ハードを策定する」という当初の目的は早々に破棄され、ハードの設計は各々の協力会社に任せ、共通OSの採用によってDIPSとDEXの間におけるソフトウェアの共通性を高めることとなり、そのためのOSとしてTRONが選ばれた。その結果、電電公社の主導で、TRONに通信処理用のAPIを搭載したCTRON仕様を策定することとなり、1986年よりDIPSとDEXの双方で実装に向けた開発が行われた。
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CTRONの開発に当たっては、OSを下位の「基本OSインタフェース」と上位の「拡張OSインタフェース」に分離し、基本OSインタフェースでプロセッサの違いを吸収するとともに、上位の拡張OSインターフェースでソフトウェアの流通性を確保するという方針が取られた。基本OSインタフェースは1986年に完成し、拡張OSインタフェースは1986年から1988年にかけて公開され、異なるプロセッサ間における移植実験が行われた。CTRONインタフェース仕様は1988年に公開され、仕様の変更や改定などを経て、1993年にはCTRON仕様の集大成として『新版 原典CTRON大系』が出版された。
当時の電電公社で使用されるハードウェアは、電電公社が独自に策定した「電電公社仕様」ともいえる特殊なハードウェアが指定されており、「電電ファミリー」と呼ばれる電電公社に近しい電機メーカーとのハードウェア共同開発体制を取ることにより、電電ファミリー各社の技術向上に寄与すると同時に、電電公社仕様に追随できない外資系メーカーを事実上締め出すことに成功していた(ただし、1機あたり数百億の開発費によって電電公社に莫大な赤字をもたらし、電電公社がNTTとして分割・民営化される遠因ともなった)。そのため、米国より「機器納入の自由化」への圧力がかけられていたが、CTRONプロジェクトでは「CTRONが稼働する限りアーキテクチャは問わない」というオープンな仕様となり、さらに機器納入元としてNEC、富士通、沖電気、日立製作所という「電電ファミリー」4社に加え、海外メーカーとして米AT&Tと加ノーテル(ノーザンテレコムジャパン株式会社)を加えることで外圧を乗り切った。1990年4月にはNTTにノーテル製の中継局用交換機が納入されたが、海外メーカー製の交換機を導入するのは電電公社/NTTにとって初めての事であった(TRONプロジェクトの主要な協力メーカーはほとんど日本企業だが、CTRONプロジェクトにおいては外資のノーザンテレコムジャパンも主要な協力企業の一つである)。
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電電公社によるCTRONプロジェクトは成功し、1990年頃よりNTT社内において、DEXのOSである「DEX-OS」とDIPSのOSである「DIPS-OS」が、CTRON準拠の「IROS(Interface for Realtime Operating System)」に切り替わった。さらに、1996年には改D70型交換機の後継として、NTTと日本電気・富士通・日立製作所・沖電気・東芝・ノーテルの共同開発による、NS10A形ATM交換機にCTRONベースのソフトウェアを採用した「新ノードシステム」が完成した。また、NTTの交換機としての使用に耐える信頼性が評価され、1990年には全国銀行データ通信システム(全銀システム)の中継コンピューター(全銀RC)にもNTTのDIPS-CTRONが採用された。
電電公社によるCTRONプロジェクトにおいては、各社の独自OSからCTRON仕様OSに変えることで従来のアプリが使用できなくなるため、乗り気ではない企業も存在したが、沖電気がプロジェクト発足当初から積極的で、結果としてNTTへの大量納入に成功している。商用のシステムとしても、沖電気では1990年発売のOKI iOX100でCTRONのサブセットを採用し、1992年に自社独自OSのAPOLLOSを廃止し、1996年発売のOKI iOX200シリーズではCTRONが全面採用された。1990年代には日本の電話交換機のほとんどがCTRONベースのシステムとなり、同時に海外にも輸出され、1990年代後半から2000年代前半にかけてのPHSやISDN(N-ISDN)などの高速通信サービスを支えた。
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CTRONが電電公社/NTTグループおよびNTTグループに機器を納入しているメーカーの製品以外のハードで使われた例はあまりなく、もはや1990年代においてはメインフレームのダウンサイジングの流れが大きく、ちょうどインターネットの普及に伴ってUNIXサーバーが一世を風靡した時代であり、同時期のほとんどの会社はUNIXサーバーを用意して顧客に提供した。電電公社仕様コンピュータ・DIPSプロジェクトも、1992年には開発を終了した(2002年に全てのDIPSの稼働が終了)。ただし、市販の汎用のサーバー機にCTRONを載せることも可能(と言うより、NTTに納入される機器はCTRONが稼働することが必須要件となるので、世界有数の通信コングロマリットであるNTTグループに機器を納入するために、たとえ外資系メーカーであっても汎用のUNIXサーバーにCTRONを移植するメリットがある)で、NTT社内では元々UNIX系のOSを搭載しているTANDEMのサーバー機Integrity(MIPS系のアーキテクチャ)にCTRONを移植させて、社内VANとして使っていた。
そのNTTでも、2010年代より電話交換機の廃止とIP網への移行に伴って、「新ノードシステム」の撤去が始まっている。NTTでは、2015年までにD70型より以前の交換機は撤去され、全て「新ノードシステム」に巻き取られたが、2025年には「新ノードシステム」の維持限界がやってくると想定されており、2024年から2025年にかけて全て廃止される予定。電電公社/NTTとともにCTRONプロジェクトを推進した坂村は、TRONプロジェクト30周年におけるNTTドコモ社長との対談において、情報・通信処理に特化したCTRONを採用した電話交換機の時代から、インターネット時代における「汎用のもので代われるというIP化」という時代の流れを振り返っている。
μITRONのタスクと Java仮想マシンのインタフェースを定めた規格。1997年12月に発表。
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μITRONのタスクと Java仮想マシンのインタフェースを定めた規格。1997年12月に発表。
μITRONにJavaを導入することで、μITRONにおいてGUIやネットワーク機能などのリッチな機能を利用することが可能となる。また、ライブラリーが揃っており、ソフトウェアの移植性が高いJavaを利用することで、開発期間を削減し、開発コストを削減することができる。一方、リアルタイム制御やハードウェアの直接制御などと言ったJavaの不得手な部分はμITRONで行う。このように、μITRONとJavaで不得手な部分を互いに補完しあうことができる。
主な実装としては、アプリックス社の「JBlend」が挙げられる。もともと「JBlend」は、ITRONとJavaを融合するというアプリックス社の構想を元に、1997年4月に試作版、6月に正式版として発表されたOSだったが、これを受けて坂村がアプリックス社に指導を行い、トロン協会のITRON専門委員会に加盟している他の会社とともにJava対応ITRONの標準規格として策定し、1997年12月に発表したものがJTRON1.0仕様である。同時にJBlendも、JTRON仕様OS第1号として改めて発表された。また、JTRONの開発環境として、1998年にはJTRON仕様のパソコン用OS『JTRON/V』もパーソナルメディア社から発売された。
日本で2001年以降に普及した「Java対応携帯電話」においては、NTTドコモでは503iシリーズ以降において、J-フォンとauにおいては全ての製品でJBlendが採用されていた。アプリックス社は2004年に台湾iaSolution社を買収し、同社のJava環境「iaJET」をJBlendに統合。同年には台湾BenQ社の携帯電話に、台湾メーカーとしては初めてJBlendが採用され、JTRONはアジア地域にも進出した。2006年にはJBlendおよびiaJETを採用した製品の出荷台数が3億台を突破するなど、2000年代に販売された極めて多くのJava対応携帯電話で使われた。
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しかし、ITRONなどのRTOSは、複数のアプリケーションを安定して動作させる機能が乏しいことや、ツールが整備されておらず、開発に特殊な知識とスキルが要求されるという問題点があった。そのため、1999年に日本のNTTドコモがiモードのサービスを開始して以降、各社の携帯電話プラットフォームにおいて多様で高機能なサービスが提供されるようになると、次第にソフトウェアの複雑化や開発規模の増大に対処できなくなった。1990年代から2000年代前半頃までの携帯電話は、非力なCPUの力を効率的に引き出すためにこのようなRTOSを利用する必要があったが、携帯電話プラットフォーマー各社は2000年代中盤以降のハイスペックな携帯電話への対応をにらんで、μITRONなどの「RTOS」に代わり、マルチスレッドやメモリ保護といったソフトウェア管理機能を標準でサポートしている「高機能OS」の利用を推進することになる。
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例えばNTTドコモは、2004年に「MOAPプラットフォーム」を策定し、今後の3Gサービス(FOMA)向けの携帯電話の開発においてはTRONに代わり、Linuxをベースとする「MOAP(L)」か、もしくはSymbian OSベースの「MOAP(S)」のどちらかのプラットフォームを携帯電話メーカー各社に選択させることにした。例えばパナソニック製端末では、2005年2月発売のP901iで早くもMOAPに対応(この時にパナソニックの携帯電話向けOSをLinuxに一本化する決断をしたのが、1987年当時にBTRON1仕様開発の中心人物であった櫛木好明パナソニックモバイルコミュニケーションズ社長である)。2006年にはアプリックス社もNTTドコモとMOAPライセンスを締結し、MOAPプラットフォーム向けのミドルウェアをNTTドコモに提供することになった。さらに、2006年にはモトローラやNTTドコモなど世界各国の携帯電話プラットフォーマー6社により、携帯電話向け組み込みLinuxのAPIを共通化するためのLiMo Foundationが設立され、NTTドコモのMOAPプラットフォームもここに糾合され、2011年には携帯電話向け組み込みOSTizenとして結実したものの、Android(及びアップル専用のiOS)とのシェア争いに負け2010年代中ごろに事実上消滅し、サムスン電子がウェアラブル端末にしばらく使い続けたに留まった。Symbian OSも同様にAndroidに敗北した。
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なお、JBlend環境はドコモのMOAPプラットフォームやTIのOMAPプラットフォームなどで動くLinux系OSやSymbian OSなどに移植され、2008年にはJBlendおよびiaJETを採用した製品の出荷台数が5億台を突破するなど、その後もしばらく使われたが、2007年にアプリックス社はGoogle社の求めに応じてオープン・ハンドセット・アライアンスの設立メンバーとして加盟。当時Google社が開発中であった次世代OSであるAndroidの開発に参加すると同時に、アプリックス社で開発中であったJBlendの後継システムは中止された。ITRONに出自を持つJavaプラットフォームとしてのJBlendは、2008年リリースの初代Androidにも「JBlend for Android」として移植され、例えばiモード用アプリがAndroid上で利用できるシステム「iαppli Publisher」など、ガラケーからスマホへの移行期に、ゲームなどガラケー用のJavaアプリをAndroidに移植する用途でしばらく使われた。
TRONプロジェクトにおけるチップ(マイクロプロセッサ、現在で言うCPUに相当)の設計を目的とするサブプロジェクト。1986年開始。
アーキテクチャはCISC型を採用している。チップの設計においては、坂村は命令セットの設計のみを行い、実際の回路の設計は生産に当たる各社で行う、と言う形式を取った。そのため、同じアーキテクチャの製品が複数のメーカーから発売された。この方式は、後に組み込みCPU市場を寡占するARM社でも採用されることになる。
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アーキテクチャはCISC型を採用している。チップの設計においては、坂村は命令セットの設計のみを行い、実際の回路の設計は生産に当たる各社で行う、と言う形式を取った。そのため、同じアーキテクチャの製品が複数のメーカーから発売された。この方式は、後に組み込みCPU市場を寡占するARM社でも採用されることになる。
トロン仕様チップの策定は東京大学坂村研究室が行ったが、策定当初より日立製作所が積極的に関与した。1983年当時、日立はモトローラ68000のセカンドソースを製造していたが、当時のアメリカの各CPUメーカーは日本メーカーに対するCPUのライセンス供与に消極的になりつつあり、モトローラからの独立を果たそうとする日立のマイコン部門(日立製作所武蔵工場、日立製作所半導体事業部を経て、後のルネサス武蔵)は1983年頃より32ビットマイコンの自力開発を進めていた。1986年5月、日立がモトローラのセカンドソースを利用して1985年より発売して大ヒット中の「ZTATマイコン」に関して、ついにモトローラからのライセンスを得られず、牧本次生(1986年当時は日立製作所武蔵工場長)率いる日立のマイコン部隊はモトローラに「ワインドダウン」を要求されるという屈辱を受ける。そのため奮起した日立のマイコン部隊は日立独自の新アーキテクチャ「H32」の仕様策定を進めていたが、1社単独で開発を行うのはリスクが大きいと判断し、日立製作所半導体事業部長の金原取締役に働きかけ、インテルのセカンドソースを製造していた富士通と1986年7月に提携して「GMICROグループ」を結成、2社共同開発体制を取ることにする。その過程で、アーキテクチャとして坂村の提唱するトロンチップを採用することで決定。1987年には三菱もGMICROグループに加盟。その頃には他のメーカーもトロンチップに興味を示し始めた。
最終的に、トロンチップの開発・製造には、富士通、三菱電機、日立製作所、松下電器産業、東芝、沖電気工業、の6社が参加した。主な実装としては、富士通・三菱電機・日立の3社(GMICROグループ)の共同開発によるGMICROシリーズや、沖電気の通信用システムで使われたOKI O32などが挙げられ、各社の製品は1988年頃よりサンプル出荷、1989年頃より量産された。
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最終的に、トロンチップの開発・製造には、富士通、三菱電機、日立製作所、松下電器産業、東芝、沖電気工業、の6社が参加した。主な実装としては、富士通・三菱電機・日立の3社(GMICROグループ)の共同開発によるGMICROシリーズや、沖電気の通信用システムで使われたOKI O32などが挙げられ、各社の製品は1988年頃よりサンプル出荷、1989年頃より量産された。
TRONプロジェクトにおいては、OSとCPUの仕様が並行して開発されたことが大きな特徴である。『トロン仕様チップ標準ハンドブック』によると、坂村はITRONとBTRONを「目標OS」としてアーキテクチャを決定したとしている。命令セットを設計した坂村によると、「仕様策定の段階でソフトウェアとハードウェアの総合した最適化の考え方が取り入れられている」とのことで、具体的には「オペレーティングシステムの高速実行に向いた命令セット、あるいはコンパイラ開発に有利な命令セットが準備されている」とのこと。坂村は1985年当時、ワークステーション並みの性能でパソコン並みの低価格なマシンである「スーパーパーソナルコンピュータ」の概念を提唱しており、トロンチップを主にパソコン向けとして想定していた。
しかし、トロンチップにメインフレーム用のIBMのOSを載せ、「IBM互換機の下位機種を作る」つもりの日立と富士通に、坂村は押し切られた。ミニコン・オフコンにも使いたい日立や富士通の意見を入れる形で、チップは高機能化。日立でTRONチップの設計が完了した1987年7月の時点では、TRON仕様OSであるRTOS(ITRON)やビジネス用OS(BTRON)の高速処理はもちろんの事、UNIXやその他のOSでも高速処理が行える汎用プロセッサとして設計されていた、と『日立評論』では語られているが、坂村の回想によると、「個人用のパソコンにUNIXを載せる」などの当時の坂村の構想は、実際は全く理解されず、「まずIBMのOSを載せる」と言われたとのこと。
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トロン仕様チップでは、MMUなどを搭載した「L1(Level 1)」仕様と同時に、「L1」仕様から命令再実行(リラン)機能とMMUを除去した(ITRONとμBTRONの動作を想定した)「L1R(Level 1 Real)」仕様が規定された。『トロン仕様チップ標準ハンドブック』が刊行された1991年10月の時点では、将来製造されるトロンチップに実装される予定の「L2(Level 2)」も策定されていた。また、32ビット版トロンチップの設計時点で64ビットまでの上位拡張性が確保されており、64ビット版トロンチップの仕様である「LX(eXtension)」仕様も策定される予定であった。
トロンチップが各社から出そろった1990年当時、32ビットCPUはほとんど普及していなかったが、今後の普及が予想されており、例えばGMICROグループでは、組み込みやパーソナルワークステーション向けのGMICRO/100(日立の資料では「H32/100」と呼称しているが、実際の製造は三菱が担当し「M32」としてリリース)、エンジニアリングワークステーションやFAコントローラ向けのGMICRO/200(日立が「H32/200」としてリリース)、スーパーミニコンやオフィスワークステーション向けのGMICRO/300(日立の資料では「H32/300」と呼称しているが、実際の製造は富士通が担当し「F32」としてリリース)、と規模に応じて3種類を用意し、幅広い要求に応えられるようにしていた。
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しかし組み込み用としては、トロンチップは元々パソコンやワークステーション用として開発されていたこともあって、COBOLコンパイラを使うときのための十進演算命令や、MMUを搭載するなど組み込みには不相応なほど規模が大きく、コストパフォーマンスが悪すぎたため、成功しなかった(日立のGmicro/200のトランジスタ数は730K、MMUを搭載しない三菱のGmicro/100ですら340Kであり、トランジスタ数70KのHD68000はおろか273Kの68030すら上回る。ちなみに1994年発売のSH-2のトランジスタ数は450Kで、トロンチップH32シリーズと比較するとSHシリーズがどれだけ高コスパであったかが分かる)。例えば日立では、1988年12月にはトロンチップのH32/200(日立版のGMICRO/200)にITRONを載せた開発用シングルボードコンピュータをリリースしており、制御用プロセッサとしての需要を早くから見込んでいたが、組み込み用としてはITRONを搭載した8ビットのH8シリーズ(1988年6月リリース)が主力であり続けた。H8とH16がモトローラの特許侵害として訴えられ、H16は1989年1月より法廷での特許紛争が始まったために製造ができなくなったことにより、1990年頃の日立ではH16を代替する次世代組み込み用マイコンの開発が急務となっていたが、来るべきマルチメディア時代において、日立の既存の技術であるトロンチップのH32やRISC型チップのHPPA(PA-RISC)ではコストパフォーマンスの点で戦えない、と木原利昌が率いる日立のマイコン部門は1990年に判断。次世代CPUの設計は河崎俊平(日立製作所半導体事業部マイコン設計部)に一任され、H8シリーズと並行してSHマイコンの開発が開始された。ちなみにSHシリーズがMMUを搭載するのは日立がマイクロソフトと提携してWindows CEの搭載を前提として開発されたSH-3(1995年リリース)以降である。
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パソコン・オフコン・ワークステーション用としても採用例が無く、同時期にはPA-RISC(日立のHP/PA互換CPUで、マイコン部隊がいる日立武蔵より「格上」とされる、日立の中央研究所が開発)やMC68040が存在したこともあり、日立のマイコン部門が設計したH32を、日立のオフコン部門は採用しなかった。『日立評論』1990年1月号ではH32シリーズのファミリー展開に大いに期待を寄せているが、『日立評論』1991年1月号ではH8シリーズのH8/300しか取り上げられておらず、日立(のマイコン部門)は1990年内にH32シリーズの多展開を諦めたようだ。
組み込み専用のアーキテクチャとなると、敢えてCISC型で行く意味はなく、ちょうどそのころ組み込み用CPUとしてRISC型のアーキテクチャが注目されていたこともあり、各社とも1990年頃には組み込み用32ビットCPUとしてのTRONチップの継続を諦め、RISCによる独自アーキテクチャの開発が行われることとなった。日立でも、1992年11月にはH32シリーズの後継として、高性能、低消費電力、低価格を同時に満たすRISC型CPUのSH-1をリリースし、SHシリーズを32ビット版組み込み用CPUの主力としている。
一方、NTTによるCTRONプロジェクトは成功していたため、トロンチップは1990年代中頃まで電話交換機用プロセッサとして各社で開発が続けられた。例えば日立もNTTに通信機を納入しているため、CTRONを載せた通信用プラットフォームを作るためにはGMICRO/300を使った方がコストパフォーマンスが高いと日立の情報システム部門は判断し、1993年にはGMICRO/500を完成させるなど、トロンチップの開発を続けた。
1994年に三菱がリリースしたGmicro/400(40MHz)が最後のトロンチップとなる。ただし、性能自体は日立のGmicro/500(66MHz)の方が高い。
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1994年に三菱がリリースしたGmicro/400(40MHz)が最後のトロンチップとなる。ただし、性能自体は日立のGmicro/500(66MHz)の方が高い。
坂村自身の考えでは、トロンチップを制作した各電機メーカーからトロンチップを使ったパソコンが出なかった理由として、半導体部門が作ったトロンチップをコンピュータ部門は「おもちゃ」として見ておらず、半導体部門が勝手にコンピュータを作れない以上、トロンチップはソフトウェア開発装置かCPU評価基板として作られるしかなかった、としている。また、半導体部門を抱える電機メーカー以外のメーカーからトロンチップを使ったパソコンが出なかった理由としては、「周辺チップの不足」を理由に挙げており、各社がCPUを作ることを第一義としていたため周辺チップが揃わず、周辺チップが揃ったインテルのチップと比べてパソコンが作りづらかった、としている。そして、パソコンと言う応用を実現できなかったために、組み込みにも使われなかった、結果としてトロンチップは普及しなかった、と考えている。坂村は、1993年にパーソナルメディア社が制作した、日立のGmicro/300にBTRON仕様OSを載せたパソコンの試作機が、Intel iAPX486で動くWindows 3.1と比較して非常に軽快に作動したことや、1993年にリリースされた日立のGmicro/500が、同年にリリースされたインテルのPentiumと比べても遜色ない性能・技術であったことから、トロンチップがパソコンに向いてなかったわけでは無い、と考えている。
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1986年10月に「マイコン独立宣言」を発表して日立の独自マイコンHシリーズ(H8・H16・H32)の開発を指揮した牧本次生(1989年当時は「(半セ)」こと日立製作所半導体事業部半導体設計開発センター長、後に日立製作所専務取締役)の回想によると、トロンチップが失敗したのは「日米貿易摩擦のターゲットとして取り上げられた」ためとのことで、Hシリーズの後継であるSHシリーズの開発を指揮した木原利昌(当時は半導体設計開発センター・マイコン設計部長、後にSuperH,Inc.のCEO)の回想によると、トロンチップが組み込みに使えなかったのはコスパが悪かったからとのこと。なお、SHマイコンを設計した河崎俊平は、トロンチップの浮動小数点演算ユニット「GMICRO/FPU」の設計の中心人物として『TRONプロジェクト '88-'89』にも名を連ねているが、CPUの設計がしたかったのにFPUの仕事をさせられた上に、当時は既にトロンチップの市場がしぼみかけていたので仕事がイヤだったが、「ガマンして働いていた」とのこと。SHマイコンの命令セットをほぼ一人で設計した河崎は、命令セットの設計に大勢が関わり、各人が提案する命令を寄せ集めてほとんど使わない命令をたくさん搭載するような従来の日立の方式を「まるで万葉集」と批判している(編注:トロンチップが失敗した理由として、マイコンを売りたいマイコン部門と、大型機を売りたいコンピュータ部門との意識の差異を坂村は指摘しているが、トロンチップを設計した日立のマイコン部門・(半セ)の内部でも、日米貿易摩擦に巻き込まれた牧本らの世代と、SHマイコンで成功した木原らの世代では、トロンチップの評価に差異があることが分かる)。
統一規格であったものの、各社で用途に応じて様々な工夫を行い、例えば三菱のGMICRO/200は宇宙線対策が施され、技術試験衛星「きく7号」に搭載され、32ビットプロセッサとしては初めて宇宙に行った。
パーソナルメディア社が1993年に制作した、BTRONを搭載したパソコンの試作機「SIGBTRON基本ボード」でGmicro/300が採用され、1995年に発売したBTRONワークステーションMCUBEでGmicro/500が採用された。
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パーソナルメディア社が1993年に制作した、BTRONを搭載したパソコンの試作機「SIGBTRON基本ボード」でGmicro/300が採用され、1995年に発売したBTRONワークステーションMCUBEでGmicro/500が採用された。
また、日本の電機メーカーは、TRONチップの開発を通じてマイコン開発のノウハウを蓄積した。後の各社の32ビットマイコンの命令セットにいくらかの影響がみられる。特に三菱・M16シリーズはトロンチップM32の下位版として開発され、トロンチップにかなり近い設計思想であり、販売面でも組み込み用として日立のH8シリーズと並ぶほど売れたという。日立(特にSHの開発陣)におけるトロンチップの評価はとても低いが、トロンチップのコスパの悪さを反面教師として開発されたという点で、日立・SHシリーズにも影響を与えた。
TRONにおけるヒューマンインタフェース仕様の策定を行うサブプロジェクト。略称は「トロンHMI仕様」、あるいは「トロン作法」ともいう。
1990年発足の「TRON電子機器HMI研究会」が中心となって策定した。トロンアーキテクチャが考える電子機器や家電製品などのヒューマンインターフェイスの仕様を提示したもので、その成果は1993年に『トロンヒューマンインタフェース標準ハンドブック』として書籍化され市販された。
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1990年発足の「TRON電子機器HMI研究会」が中心となって策定した。トロンアーキテクチャが考える電子機器や家電製品などのヒューマンインターフェイスの仕様を提示したもので、その成果は1993年に『トロンヒューマンインタフェース標準ハンドブック』として書籍化され市販された。
1990年当時、炊飯器や扇風機など様々な電化製品がマイコンや液晶パネルを搭載するようになるなど高機能化していたが、必ずしも使いやすくなったわけでは無く、操作が複雑化するなどして、逆に使いづらくなる場合もあった。TRONプロジェクトの最終目標である「電脳社会」「どこにでもコンピュータ(ユビキタスコンピューティング)」が実現すると、人間は社会においてどこでも多くの電子機器に囲まれている環境になるが、コンピュータがいくら高度な機能やサービスを提供できたとしても、人間がそれを享受できないようでは意味がない。それぞれの機器において「理想的」なデザインを採用しているよりも、全ての機器において統一的なデザインを採用していた方が、一つの機器の使い方を覚えると他の機器でも同じように操作できるようになるので、ユーザーにとって使いやすく利点が大きい。そのような観点から、コンピュータから家電まであらゆるモノにおいて統一的な操作方法を提供する、トロンアーキテクチャにおけるインターフェイスの標準化と、ガイドラインの策定が行われた。
トロンHMI仕様においては、「一貫性のある操作体系の提供」、HMI仕様を満たした機器が誰にでも使用できるような「電子技術への平等なアクセスの提供」、その仕様がいつでもどこでも何にでも使用できるような「広い適用性」、ユーザーの誤動作や機器の誤動作を防止する「安全性の確保」、以上の目的を達成するための「最低限の品質保証」、の5つが重視された。そのために、HMI仕様を満たすために必ず守るべき「事項」と、HMI仕様をより良くするためになるべく満たすことが望ましい「指針(ガイドライン)」に分け、全てのガイドラインを満たすのが難しい状況においてどのガイドラインを採用するべきか、の判断を手助けするためにハンドブックが役立てられた。
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トロンHMI仕様においては、ディスプレイを用いたGUIと、物理的なデバイスなどを用いたSUI(ソリッド・ユーザー・インターフェイス)が規定され、双方における操作の一貫性が保証された。また、トロンHMI仕様を採用した複数の機器において操作の手順を一貫させるため、単に個別のパーツやレイアウトを標準化するのではなく、複数のパーツにおいて操作を標準化するという「抽象度の高い標準化」が行われた。例えば当時ユーザーが扱うのに特に困難なものと考えれられていた、時刻を設定する「タイマー」の設定の標準化も行われ、例えばビデオと炊飯器のタイマーの操作を一貫させるため、通電開始時刻ではなく録画開始時刻や炊き上がり時刻を設定することが規定された。
誰もが使いやすいデザインとして、身体が不自由な人や、海外の人でも使いやすいデザインとなるように、デザイナーに注意を促した。TRON仕様を満たした家電製品は、海外にも盛んに輸出され、1990年代以降の日本の家電輸出産業を支えた。
『電脳都市 : SFと未来コンピュータ』を出版した1985年当時の坂村は、「どこでもコンピュータ」の社会の実現のため、まず「トロン電脳住宅」、続いて「トロン電脳ビル」、そして「どこでもコンピュータ」環境の最大の応用として「トロン電脳都市」の建設を構想していた。バブル時代ということもあり、竹中工務店を筆頭に多くのスポンサーがついた。
「千葉TRON電脳都市」の実態はソフトウエア・パーク、「TRON電脳ビル」の実態はインテリジェントビルであった。背景としては、コンピュータに関心が無いにも関わらずイメージアップのために、当時有名だった「TRON」の名前を利用しようとする建設会社や不動産開発会社の思惑があったが、これをTRONの実証実験の場として利用しようと考える坂村との思惑の違いや、バブル崩壊などによって、「TRON電脳都市」構想は幻となった。
障害者や高齢者などのための「TRONイネーブルウェア仕様」(現代で言う「ユニバーサルデザイン」に相当)を定めるサブプロジェクト。1987年に開始。
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障害者や高齢者などのための「TRONイネーブルウェア仕様」(現代で言う「ユニバーサルデザイン」に相当)を定めるサブプロジェクト。1987年に開始。
「イネーブル(enable)」とは「可能にする」と言う意味で、「イネーブルウェア」とは、障害者や高齢者など「何か」ができなくなっている人に、その「何か」を可能にするためのハードウェア群・ソフトウェア群を指す、TRONプロジェクトによる造語である。
「Macro TRON」の略。ITRON、BTRON、CTRONなどのTRON系OSで構成される、超機能分散システム(HFDS)全体を対象とするようなOS(の構想)である。1984年に提唱された。
上記のように、HFDS(どこでもコンピュータ)な社会が実現し、身の回りに存在するあらゆるものにTRON系OSが搭載されることになると、それらを統括するネットワークシステムが必要となる。別々に設計された機器を、MTRONを介して相互に接続することが可能になる。MTRONの存在によって、開いたネットワーク(現在で言う分散コンピューティング)環境が実現すると想定された。
これがTRONプロジェクトの最終目標であるとされたが、結局ITRON以外は普及しなかったため、MTRONは構想だけで終わった。
ITRONで構成されるMTRON。1993年にリリースされたμITRON3.0の仕様書で提唱された。
1993年のμITRON3.0において、同一の機器に搭載された複数のMCUが相互に接続できるような機能が実現されたが、その次の段階として、別々に設計された機器のMCUが相互に接続できるような仕様のμITRONを策定したいと坂村は考えていた。ITRON3.0の次の世代のITRONで実現するはずであったが、μITRON4.0が策定された1999年の時点では、μITRONを搭載したインターネット端末が普及するなど、もはや「弱い標準化」を志向するμITRONでは時代に追いつかなくなってきており、すぐにT-Kernelプロジェクトが開始したため、構想だけで終わった。
坂村健が2000年に開始した、TRONプロジェクトの第2ステージであるT-Kernelプロジェクトである。2002年発足のT-Engineフォーラムが中心となって推進していた。
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坂村健が2000年に開始した、TRONプロジェクトの第2ステージであるT-Kernelプロジェクトである。2002年発足のT-Engineフォーラムが中心となって推進していた。
ICカード、特に非接触のものの通信や、認証などのセキュリティなどの規格。2000年発表。
T-Engineを搭載したチップ同士が安全に通信を行うための公開鍵基盤(PKI)である。全てのモノがネットワークで接続されるユビキタス・コンピューティング社会においてはセキュリティを守るため、利用される全てのT-EngineボードにはeTRONが搭載されることが前提となる。
ハードウェアやソフトウェアなどを含む、T-Kernelの開発環境。2001年発表。
ITRONをベースに設計された、組み込み向けRTOS。2002年公開。
ITRONでは1980年代当時のハードウェアの性能による制限から、仕様書だけ策定されており、実装はハードウェアに合わせて各自で行なう「弱い標準化」の方式となっていたため、最小のシステムから大規模システムにまで対応できるスケーラビリティを持つ一方、それぞれの実装で細かい違いがあり、ソフトの再利用などが困難だった。その反省から、T-Kernelでは2000年代のハードウェアの性能に合わせて「強い標準化」を目指し、仕様書だけでなくソースコードもオープンとなっており、それによって細かな実装上の違いをなくし、デバイスドライバやミドルウェアの再利用が促進できるようになっている。
GUIを持つことが前提となる「T-Kernel」とともに、T-Kernelと互換性を持ちつつ必ずしもGUIを持たないような小さいシステムでも利用できる「μT-Kernel」も策定された。このように、ソフトの再利用性やミドルウェアの利用による開発の容易さと言った特徴を持ちつつも、RTOSとして小規模なシステム開発から大規模なシステム構築用途にまで対応する「フルスケーラビリティ」を持つ。
旧来のμITRONのソフトウェアをT-Kernel上で再利用するため、T-Kernel上でITRON用アプリを実行できるラッパーも用意されている。
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TRONプロジェクト
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旧来のμITRONのソフトウェアをT-Kernel上で再利用するため、T-Kernel上でITRON用アプリを実行できるラッパーも用意されている。
T-Engineの標準プラットフォームで、T-Kernelが動作するハードウェア。eTRONを搭載している。ソフトウェアの移植性が高く、異なるCPUを搭載したボードでも同一のソースでソフトウェアが使用できる。
2019年現在、パーソナルメディア株式会社よりトロンフォーラム公認のT-Engineリファレンスボード(U00B0021-02-CPU)が販売されており、T-Kernelの評価ができる。標準価格 49,800円。
T-KernelおよびBTRONで多漢字・多言語を実現するための多言語処理環境。
2000年に開始した日本学術振興会未来開拓学術研究推進事業「マルチメディア通信システムにおける多国語処理の研究」プロジェクトにおいて開始され、2001年に東京大学に設置された東京大学多国語処理研究会によって引き継がれ、設計が進められている。
その成果は66,773字セットを搭載した「GT書体」として2000年にリリースされ、2001年にはGT書体を標準装備したBTRON3仕様OS『超漢字3』がパーソナルメディア社から発売され、TRONにおいて多国語言語環境が実現できることが実証された。GT書体の収録文字数は、2011年時点で78,675字。
2011年にはGT書体を収録した、Windowsなどでも利用できるTrueTypeフォント「Tフォント」として公開された。
明朝体・ゴシック体・楷書体がある。
RFIDタグ(無線ICタグ)などに付与する識別コード(ucode)の体系化を目指したプロジェクト。
T-Engineフォーラムに2003年に設置されたユビキタスIDセンター(センター長:坂村健)と、東京大学ユビキタス情報社会基盤センターの坂村健(2009年よりセンター長、2017年に定年退職)および越塚登(坂村の定年退職後にユビキタス情報社会基盤センター長)によって推進されている。
ucodeをタグだけではなく空間に埋め込む「空間コード」の実証実験が2007年より始まった。日本各所の三角点などに128ビットのucodeが埋め込まれており、ICタグリーダを使用することで情報を読み取ることができる。
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TRONプロジェクト
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ucodeをタグだけではなく空間に埋め込む「空間コード」の実証実験が2007年より始まった。日本各所の三角点などに128ビットのucodeが埋め込まれており、ICタグリーダを使用することで情報を読み取ることができる。
BTRON仕様OSにおいて使われるデータ交換形式。BTRONにおいて扱われるデータに関する情報を標準化したもので、このファイル形式を採用することで、アプリケーションのメーカーやバージョンに関係なく、BTRONを搭載した全ての機器におけるデータの完全な互換性が実現される。
2001年頃より爆発的に普及し始めた、GUIを搭載した携帯情報端末において、BTRONの採用が増えるだろうと予測されていたので、BTRON3が主要なプロジェクトと位置付けられていたが、結局1つも発売されなかった。
パーソナルメディア社がBTRON3仕様OS『超漢字』で実装した、「マイクロスクリプトで簡単にGUIが作れる」や「GUI上で17万字の多文字が扱える」と言った要素は、パーソナルメディア社が2003年に発表したT-Kernel仕様OS「PMC T-Kernel」のGUIミドルウェア「T-Shell」にそのまま引き継がれている。元々パソコン向けのOSやHMI(ヒューマン・マシン・インターフェース)を作るプロジェクトであったBTRONプロジェクトの成果は、組み込み向けの「T-Engineプロジェクト」においては、多文字を利用する国である日本・中国・韓国向けの組み込みシステムのGUIや、電子辞書のシステムの開発などで生かされている。
2006年に発売されたBTRON3仕様OS『超漢字V』は、Windows上で動くPCエミュレータ上で稼働する前提で、事実上Windowsのアプリケーションのように動作する。T-Kernelで利用されるスクリプト言語「マイクロスクリプト」が動くので、「WindowsにおけるT-Kernelの開発環境」としての利用が想定されている。
BTRON3仕様OSの設計に関わった松為彰(2008年よりパーソナルメディア社の代表取締役社長)は、T-EngineプロジェクトにおいてはT-Kernelの次世代仕様策定の中心人物として、2010年よりT-Kernel2.0 SWG(サブワーキンググループ)の座長を務めている。
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TRONプロジェクト
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BTRON3仕様OSの設計に関わった松為彰(2008年よりパーソナルメディア社の代表取締役社長)は、T-EngineプロジェクトにおいてはT-Kernelの次世代仕様策定の中心人物として、2010年よりT-Kernel2.0 SWG(サブワーキンググループ)の座長を務めている。
2006年にITRON仕様のVer. 4.03.03がリリースされた。これがμITRON仕様の最終となる。
あくまでT-Kernelへの移行がしやすくなるために改訂されたもので、μITRONからT-Kernelへの移行は不可欠であると坂村は仕様書の冒頭において語っている。
μITRON仕様において、実装定義についての記述を一覧表にまとめ、これまでわかりにくかった部分がわかり易くなった。また、μITRON3.0、μITRON4.0、T-Kernelにおいて同等の機能を持つサービスコールを規定し、将来的にT-Kernelに移行する際、μITRONからT-Kernelへの移植をより容易に行うことができるようになった。
1989年に建設されたTRON電脳住宅の第2弾として、2004年に建設された。トヨタ自動車及びトヨタホームをスポンサーとして、愛知県愛知郡長久手町のトヨタ博物館向かいに建設された。
第1弾と比べると、屋上がすべて太陽電池になっているなど、「エコ」になっているのが大きな特徴。「愛・地球博」の開催に合わせ、2005年3月25日より9月25日まで一般公開された後、非公開でトヨタの様々な実験に使われ、2014年に解体された。
2010年にはトロン協会が解散している。
YRPユビキタス・ネットワーキング研究所(所長:坂村健)とJAXAが2013年に共同開発した、宇宙航空向けのOS。
宇宙航空分野において、低消費電力とリアルタイム性などが評価され、ITRONやT-Kernelなどが多数採用されていた。そのため、東京大学が2013年に開発した惑星分光観測衛星「ひさき」を含むこれまでのノウハウの蓄積を元に、2011年リリースのT-Kernel 2.0をベースとして、高い信頼性、安全性の向上、高精度の時間管理機能などと言った、宇宙航空分野で必要な機能を追加した。
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TRONプロジェクト
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宇宙航空分野において、低消費電力とリアルタイム性などが評価され、ITRONやT-Kernelなどが多数採用されていた。そのため、東京大学が2013年に開発した惑星分光観測衛星「ひさき」を含むこれまでのノウハウの蓄積を元に、2011年リリースのT-Kernel 2.0をベースとして、高い信頼性、安全性の向上、高精度の時間管理機能などと言った、宇宙航空分野で必要な機能を追加した。
JAXAが2015年に打ち上げ予定のジオスペース探査衛星「あらせ」に搭載することを前提として開発された。「あらせ」はT-Kernel 2.0 AeroSpaceを搭載して2016年に打ち上げられた。
坂村健が2015年より提唱している「アグリゲート・コンピューティング」を実現するための、T-KernelプロジェクトのStep2である。2015年3月に「T-Engineフォーラム」から改称したトロンフォーラムが中心となって推進している。
IoTのためのオープンな標準プラットフォーム環境を構築するためのプロジェクト。2015年発表。
坂村が2015年に提唱し、2016年発売の著書『IoTとは何か 技術革新から社会革新へ』において詳細に記述された「アグリゲートコンピューティング」構想を実現させるためのもの。「アグリゲートコンピューティング」とは、モノとモノがローカルのネットワークで相互に接続される「ユビキタス・コンピューティング」の次の段階で、モノとモノがクラウドを介して相互に接続される世界である。ネットワークの通信速度が高速化した2010年代において現実化した。
プロジェクトの発足直後となる2016年の時点で、ルネサスエレクトロニクス(日本)、東芝マイクロエレクトロニクス(現・東芝デバイスソリューション、日本)、サイプレス・セミコンダクター(アメリカ)、イマジネーションテクノロジーズ(イギリス)、ヌヴォトン・テクノロジー(台湾)、NXPセミコンダクターズ(オランダ)、STマイクロエレクトロニクス(スイス)という世界6か国7社のマイコンメーカーが賛同した。
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TRONプロジェクト
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プロジェクトの発足直後となる2016年の時点で、ルネサスエレクトロニクス(日本)、東芝マイクロエレクトロニクス(現・東芝デバイスソリューション、日本)、サイプレス・セミコンダクター(アメリカ)、イマジネーションテクノロジーズ(イギリス)、ヌヴォトン・テクノロジー(台湾)、NXPセミコンダクターズ(オランダ)、STマイクロエレクトロニクス(スイス)という世界6か国7社のマイコンメーカーが賛同した。
実装は協賛企業の各社によって行われるが、OSにはμT-Kernel 2.0を搭載し、クラウドサービスに接続する機能を必須要件とする。製品のOSとして非常に低いリソースでも動くTRONを利用し、高度な処理はクラウドに任せるようにすることで、製品の低コスト化・低消費電力化を図ることができる。またTRONと言うオープンなプラットフォームを各社の製品で採用することで、各社の製品で連携を取ることができるようになる。
2017年に東京大学を定年退職し、東洋大学情報連携学部の学部長となった坂村健のコンセプトに基づいて設計された東洋大学の新キャンパス。
UR都市機構は老朽化した旧UR赤羽台団地の建て替えを2000年代より進めており、その際に余った土地を東洋大学が購入し、2017年に開校した。
キャンパス全体がIoT化されており、TRONプロジェクトを体現したものとなっている。
1989年の「TRON電脳住宅」、2004年の「トヨタ夢の住宅PAPI」に続く、TRON電脳住宅の第3弾。2018年に設置された「URにおけるIoT及びAI等活用研究会」(会長・坂村健)が推進している。
UR都市機構が「ヌーヴェル赤羽台」として再整備を進める旧UR赤羽台団地の一部区画に、坂村健が学部長を務める東洋大学赤羽台キャンパスが開校したことをきっかけとして、UR都市機構と東洋大学情報連携学部が2018年に提携したことにより実現した。
2030年の完成を目指している。
T-Kernel2.0をベースに、産業機器向けの機能安全規格であるIEC 61508 SIL3に対応したTRON。日立製作所、ルネサス エレクトロニクス、日立超LSIシステムズを中心として2017年に策定された。
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TRONプロジェクト
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2030年の完成を目指している。
T-Kernel2.0をベースに、産業機器向けの機能安全規格であるIEC 61508 SIL3に対応したTRON。日立製作所、ルネサス エレクトロニクス、日立超LSIシステムズを中心として2017年に策定された。
2000年代以降、特に欧州に産業機器を輸出する際はIEC 61508の認証が必須となり、ISO 26262(自動車)などその他の安全規格への準拠を条件とする場合も増えた。しかし、第三者機関から認証を受けるには5億円程度かかるため、組み込み業界の多くを占める中小企業が認証を得ることは難しい。そのため、トロンフォーラムが代わりにIEC 61508で安全要求レベルが最も厳しい「SIL3」の認証を得た上で無償公開される「TRON Safe Kernel」をOSとして採用することで、海外に製品の輸出がしやすくなり、またメーカーの実装ごとに独自に認証を受けた場合にかかる費用も無くすことができる。
安全水準の異なるソフトウェアを分離して実行するためのドメイン管理機能を備えており、機能安全水準を満たさないアプリケーションを動かす場合はT-Kernel2.0として動作する。
米電気電子学会IEEEによる、リアルタイムオペレーティングシステムの国際標準規格である。2018年策定。
2013年発表のμT-Kernel2.0が、2018年にIEEEによって標準化されたもの。これに準拠したOSとして、2018年発表のμT-Kernel 3.0が存在する。
μT-Kernel2.0の権利がトロンフォーラムからIEEEに譲渡され「IEEE 2050-2018」となったことにより、2018年までμT-Kernel2.0と呼ばれていたものは以後IEEEによってメンテナンスされることとなった。そのため、トロンフォーラムの開発のメインはμT-Kernel 3.0に移行した。
RTOSの国際標準規格であるIEEE 2050-2018に準拠した、μT-Kernel2.0の上位互換OS。2018年発表。
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TRONプロジェクト
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RTOSの国際標準規格であるIEEE 2050-2018に準拠した、μT-Kernel2.0の上位互換OS。2018年発表。
μT-Kernel 2.0が小規模マイコン向けであったのに対して、μT-Kernel 3.0はIoTエッジノード向けに最適化されており、μT-Kernel 2.0からプロセス管理機能や仮想記憶などが省略されている。また、ソースコードが見直され、最新のマイコンへの移植性が高められた。
2019年11月にはARM Cortex-M3マイコンを搭載したIoT-Engineで動作するカーネルのソースコードが、トロンフォーラムのホームページ及びgithubで公開された。
1989年のデザイン。「」(大漢和 5-13536、GT 17106、U+23091「𣂑」)をモチーフとしたもの。「斗」の古字で「升」の意があり、升=計器=規格に通じる、といった考えがある。中央の「十」の部分がTRONの頭文字「t」を模してもいる。
また、この字を使い、TRONを漢字で「論」と当て字したりもする。中国で篆刻してもらおうとしたところ、この字は国字であるために中国でも通用する「斗」にされてしまい、さらに篆書体のために、まるで「毛」という字のような、当初の意図とは全くかけ離れたものが出来上がってしまった、というエピソードがある。
TRONプロジェクトでは、コンピュータ用として新しくデザインし直されたキーボードも製作した。放射状の配列を採用した「TRONキーボード」と、ノートPC等での使用を考慮し、矩形内に配列した「μTRONキーボード」がある。
プロジェクトの当初の時期に設計・試作(一部製品化)されたキーボードは、英字系がDvorak配列ベース、日本語系がプロジェクトでの調査にもとづく独自配列(物理形状としては、M式等との類似もあるが中迫勝らの研究を参考・反映したもの。日本語入力方式はシフトによりひとつのキーに割り当てられた複数のかなを切り替えるという点は親指シフトに類似している)というものであった。
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TRONプロジェクト
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プロジェクトの当初の時期に設計・試作(一部製品化)されたキーボードは、英字系がDvorak配列ベース、日本語系がプロジェクトでの調査にもとづく独自配列(物理形状としては、M式等との類似もあるが中迫勝らの研究を参考・反映したもの。日本語入力方式はシフトによりひとつのキーに割り当てられた複数のかなを切り替えるという点は親指シフトに類似している)というものであった。
掌に合わせた物理形状であることから、掌の大きさに合わせないと使い辛くなることが予想でき、それに対応するためS・M・Lの複数サイズを最終的には用意することとしていたが、沖による試作品やTK1などでMサイズ以外のものは作られなかった(後述する、2017年初頭現在製造市販されているμTRONキーボードは、左右セパレート型にすることである程度のポジションの違いに対応している)。
「μTRONキーボード」という商品名で2017年初頭現在製造・市販(ユーシーテクノロジ(株)製造・パーソナルメディア(株)販売)されているものは、QWERTYとJISかな配列になっており、TRON本来の配列は添付の厚紙製トレーナーと、ドライバソフトウェアによるサポートとなっている。「TRON配列モード」に切り替えるとUSBから一瞬論理的に切り離され、USBプロダクト IDが変化して再接続する。
坂村が1982年に発表したプレゼンテーションスライド「未来のオフィス」で大枠が示され、1987年の論文『The Objectives of the TRON Project』において明確なビジョンとして示された。
未来の地球人類社会では、日常生活のあらゆる部分(電球1個、壁パネル1枚)にまでマイコンが入り込み何らかの形で人間と関わりを持つようになると予想し、それらのコンピュータをそれぞれの機器別にバラバラに扱うのではなく、標準によってうまく連携するシステムを「超機能分散システム」、Highly Functionally Distributed System(HFDS)と呼んだ。そして、TRONをその実現に向け準備するプロジェクトと位置付けるものである。
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TRONプロジェクト
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対談などではくだけた表現として「どこでもコンピュータ」などと呼ぶこともあったり、2000年ごろよりマーク・ワイザーによるユビキタスコンピューティングの概念が広まってからは、そちらを使うことが多くなった。2000年代後半以降は「IoT」と呼んでいる。
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人名一覧
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人名一覧(じんめいいちらん)は、実在する人物の一覧。
記事へのリンクの後に(△)とあるのはその記事の中に一覧のようなものがある記事である。個別の記事が書かれないような人物は加えないこと。
主なもののみを掲げる。詳しくは出身別の人名記事一覧の一覧(地域別)を参照のこと。
参考: 出身別の人名記事一覧の一覧#日本の大学(五十音順)
注意:特定の職業の従事者の一覧を削除するのは職業差別にあたります。 <職業一覧ではないので、人名一覧のない職業を載せないでください>
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PostgreSQL
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PostgreSQL(ポストグレス キューエル)は、拡張性とSQL準拠を強調するフリーでオープンソースの関係データベース管理システム(RDBMS)である。Postgresとしても知られている。もともとは、カリフォルニア大学バークレー校で開発されたIngresデータベースの後継としてその起源を根拠としたPOSTGRESという名前であった。1996年に、プロジェクトはSQLのサポートを反映してPostgreSQLに改名された。2007年の検討の結果、開発チームはPostgreSQLという名前とPostgresという別名を維持することを決定した。
PostgreSQLは、原子性、整合性、独立性、耐久性 (ACID)プロパティを持つトランザクション、自動更新可能なビュー、マテリアライズドビュー、トリガ、外部キー、ストアドプロシージャを特徴としている。単一マシンからデータウェアハウスや多数の同時使用ユーザを持つWebサービスまで、さまざまなワークロードを扱えるように設計されている。macOS Serverのデフォルトデータベースであり、Linux、FreeBSD、OpenBSD、Windowsでも利用可能である。
PostgreSQLはIllustraや、Illustraを買収しその技術を採りいれたInformixとともにオブジェクト関係データベース管理システムを実装してきた。 問い合わせ言語には SQL を用いており、SQL92, 99の大部分と、2003, 2008の一部をサポートしている。
DB-Engines.comによるマーケットシェア調査では、2018年2月現在、Oracle Database、MySQL、Microsoft SQL Server に続いて4位であり、MySQL とのシェアの差は年々縮まる傾向にある。
2012年7月当時は、クラウドサービスプロバイダの Jelastic によると、オープンソースDBの中でのPostgreSQLの世界シェアは Jelastic のユーザー内では14%程度であった(MySQL系 70%(MySQL 56%、MariaDB 14%)、MongoDB 15%)。日本の Jelastic のユーザー内では8%であり(MySQL系 66%(MySQL 50%、MariaDB 16%))、世界的なシェアとは状況が異なる。
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PostgreSQL
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関数(ストアドファンクション)によりサーバで実行される処理のまとまりを定義できる。PostgreSQL は行を返却する関数を定義することができる。関数の出力は複数の行であり、クエリの中でテーブルと同様に扱うことができる。実行するユーザまたは定義したユーザのどちらの権限で実行されるかを指定して関数を定義できる。
関数の定義には SQL の他、分岐やループをサポートする下記の言語で実装することが可能である。言語によっては関数をデータベーストリガとして実行することもできる。
PostgreSQL は組み込みで以下のインデックスをサポートしている。デフォルトはB+木。また、ユーザ定義インデックスを追加することもできる。
PostgreSQL のインデックスには以下の特徴がある。
データベーストリガは SQL データ操作言語 (SQL DML) の文 (INSERT, UPDATE / UPDATE OF, DELETE, TRUNCATE) を実行した際に呼び出される。 利用例として、INSERT 文で挿入される値が妥当かの検証がある。 トリガが実行される条件は WHEN 句で与えることができる。
トリガはテーブルに対してのみ定義できる。 ビューに対するトリガが必要な場合には、代わりにルールを使用する。 複数のトリガが定義されている場合、アルファベット順に実行される。
トリガで実行される処理は関数として定義する。 トリガ用の関数の定義には SQL 関数は使用できないが、PL/pgSQL やその他の多くの関数用言語を使うことができる。
ルールにより SQL の内部表現である「クエリ木」を書き換えることができる。 一般的なルールの用途は更新可能ビューを実現することであり、標準 SQL で規定される "INSTEAD OF" トリガ の代わりに用いられる。
多くのデータ型が利用できる。
可変長文字列と可変長バイト列には最大で 1GB を格納できる。一定のサイズを上回るデータ値は TOAST と呼ばれる機能により自動的に圧縮され別領域に配置される。そのため、ページサイズ (通常8KB) を上回るサイズの行であっても保存できる。
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PostgreSQL
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多くのデータ型が利用できる。
可変長文字列と可変長バイト列には最大で 1GB を格納できる。一定のサイズを上回るデータ値は TOAST と呼ばれる機能により自動的に圧縮され別領域に配置される。そのため、ページサイズ (通常8KB) を上回るサイズの行であっても保存できる。
さらに、ユーザがデータ型を追加することもでき、それに対してインデックスを作成することもできる。 利用例として、GIS 用の型を GiST インデックスで検索可能な PostGIS プロジェクトがある。
ユーザはほとんどのデータベース・オブジェクトを追加できる。
データベースの大きさの上限はない。テーブルのバイト数の最大は32Tbyteである。 テーブルの列は1600まで可能だが、運用上の上限はデータ型に依存する。
バキューム (VACUUM) とは、追記型アーキテクチャにおける不要領域を回収し、再利用またはOSに返却する処理である。 なお、バージョン8.3からはHeap-Only Tuples (HOT) が採用され、インデックスの変更を伴わない更新については、削除された行を直ちに再利用することが可能となり、バキュームの必要な頻度は下がった。
PostgreSQLは、MVCCの実現のため、追記型のアーキテクチャを採用している。 データを削除する際は実際のレコードは削除せず、該当行に削除マークを付けるのみである。 更新の際も内部的には削除と挿入を同時に行っている。 そのため、更新・削除が繰り返されるテーブルにおいては、たとえ理論的な行数が変わらなくとも、更新・運用を重ねるごとに物理的なファイルサイズが増加する。肥大化によるパフォーマンスの劣化を回避するため、次節に述べるバキューム作業を定期的に行う必要がある。
各バージョンによって以下の差異がある。
PostgreSQL 8.1 より、パーティショニングを組み込みでサポートしている。バージョンが上がる度に機能が追加されている。
テーブル・パーティショニングは継承を用いて実現する。 これは、Oracle Database 7 のパーティション・ビューに近い実装である。
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PostgreSQL
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各バージョンによって以下の差異がある。
PostgreSQL 8.1 より、パーティショニングを組み込みでサポートしている。バージョンが上がる度に機能が追加されている。
テーブル・パーティショニングは継承を用いて実現する。 これは、Oracle Database 7 のパーティション・ビューに近い実装である。
テーブルを作成する際、他テーブルを「親」テーブルとして指定し、継承関係を定義できる。 「子」テーブルに挿入された行は、親テーブルを参照した際にも取得される。 親テーブルに対する列の追加やCHECK制約の定義は自動的に子テーブルにも反映されるが、外部キーや一意性制約は継承をサポートしていない。
パーティショニングされたテーブルへは親テーブルを通してアクセスする。 SELECT, UPDATE, DELETE 文は子テーブルを含むよう展開されるが、クエリの条件が CHECK 制約に適合しない子テーブルは設定により自動的に除外することもできるため効率よく処理できる。
INSERT については、バージョン10以降は宣言的テーブルパーティショニングにより子テーブルに振り分けることが出来る。バージョン9.6までは、子テーブルを直接指定するか、親テーブルにトリガを作成することで挿入先を指示して振り分けることが出来る。
PostgreSQL 9.0 より、ストリーミングレプリケーションを組み込みでサポートしている。トランザクションログを転送し、全てのデータベース・ファイルの変更をコミット後に他のサーバへ非同期に転送する。単一マスタと複数スレーブを構成でき、スレーブは参照の問い合わせを受け付ける。参照処理を複数のノードで負荷分散するスケールアウトが可能である。
PostgreSQL 10 より、ロジカルレプリケーションを組み込みでサポートしている。データベース全体ではなく、指定した部分だけをレプリケーションできる。
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PostgreSQL
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PostgreSQL 10 より、ロジカルレプリケーションを組み込みでサポートしている。データベース全体ではなく、指定した部分だけをレプリケーションできる。
LIKE 述語と正規表現による文字列検索のほか、全文検索の機能を持つ。バージョン 8.3 以降は組み込みで、それ以前のバージョンでは contrib/tsearch2 として提供されている。この全文検索では文字列から単語を抽出し、転置テーブル (GIN) または単語空間を多次元木 (GiST) とするインデックスを作成できる。SQL/MM の全文検索とは異なり、「@@」演算子を使用する独自の文法で検索を行う。
標準では日本語の文字列から単語を抽出するパーサを持たないが、外部拡張である textsearch-ja を使用することで形態素解析による検索が可能となる。
また、標準の全文検索以外にも、PGroonga (Groonga を使用), Ludia, textsearch_senna (Senna を使用), pgestraier (Hyper Estraier), pgRast (Rast) などが外部拡張として存在する。
PostgreSQL 9.5 より、データの新規挿入または更新を行う「UPSERT」機能が実装された。「UPSERT」機能とは、データの新規挿入(INSERT)ができれば挿入を行い、新規挿入ができなければ更新(UPDATE)を行うもの。「ON CONFLICT」句を指定すると、データ変更の衝突を適切に処理できるという。
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Subsets and Splits
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