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江戸川乱歩
戦後も主に評論家、プロデューサーとして活動するかたわら、探偵小説誌『宝石』の編集・経営に携わった。また、日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力した。同クラブに寄付した私財100万円の使途として江戸川乱歩賞が制定され、同賞は第3回より長編推理小説の公募賞となる。 晩年は高血圧、動脈硬化、副鼻腔炎(蓄膿症)を患い、さらにパーキンソン病を患ったが、それでも家族に口述筆記させて評論・著作を行った。 1965年(昭和40年)7月28日、蜘蛛膜下出血のため東京都豊島区池袋の自宅で70歳で没した。戒名は智勝院幻城乱歩居士。31日、正五位勲三等瑞宝章を追贈される。8月1日、推理作家協会葬が行われた。墓所は多磨霊園(26区1種17側6番)。 創作活動初期は、『D坂の殺人事件』『心理試験』など、いわゆる本格派推理小説(探偵小説)の短編作品を執筆し、日本人の創作による探偵小説の基礎を築いた。トリックや題材に欧米の諸作からの影響を感じさせるが、単なる模倣でなく乱歩の独創性が活かされている。 探偵小説の王道というべき本格派を志向していたが、それらの作品は大衆からあまり支持されなかった。大衆は幻想・怪奇小説、犯罪小説に分類できる変格ものと称される作品を好んだ。『赤い部屋』『人間椅子』『鏡地獄』などが代表的な変格ものといえる。 1926年(大正15年)12月より1927年(昭和2年)2月までの約3か月間、朝日新聞に『一寸法師』を連載する。病欠の山本有三の代役だった。作品は評判がよく、映画化された。しかし乱歩は小説の出来に満足できず休筆宣言をし、各地を放浪したという(以後、戦前の乱歩は「休筆中に放浪」というパターンが多くなる)。 1928年(昭和3年)8月、14か月の休筆のあと、乱歩は自己の総決算的中篇『陰獣』を発表する。これは変態性欲を題材にした作品で、不健康とみなされた一方、横溝正史(当時の探偵小説の雑誌『新青年』の編集者)により「前代未聞のトリックを用いた探偵小説」と絶賛された。戦前の本格探偵小説の新時代を築いたといえる。『新青年』は『陰獣』を8月増刊号、9月号、10月号の三回に分けて掲載したが、初回の載った増刊号は増刷するほどで、当時の世評の高さがうかがえる。
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江戸川乱歩
1929年(昭和4年)8月より通俗長編『蜘蛛男』をかねてより執筆依頼のあった『講談倶楽部』に連載する。この作品は自身の趣向であった「エログロ・猟奇・残虐趣味」を前面に押し出したものだった。作品は大好評で、これを契機として乱歩は続けざまにヒット作を連発させる。単行本は数十版を重ねた。これは探偵小説をポピュラーな地位に押し上げたといえる(通俗長編について乱歩は、黒岩涙香やモーリス・ルブラン、ポーなどから着想をえたと言っており、事実、そのような作品が多い)。 乱歩の通俗長編が大衆に歓迎された理由は、作品自体の面白さ以外に、時代的背景が影響していたといえる。金融恐慌の影響で、世間にはいわゆる「エログロナンセンス」といわれる退廃的気風が満ちていた。これらの通俗長編は、初期作品に比べると破綻があり(乱歩自身認めている)、これがミステリーの低俗化を招いたとする批判がある。評論家の権田萬治は、著書『日本探偵作家論』において、乱歩の長編は翻案など一部を除きほとんどがプロットに破綻をきたしていると述べ、作品としての完成度を批判している。一方、乱歩と長年親交のあった評論家中島河太郎は、1974年刊の『小学館万有百科事典』(ジャンルジャポニカ)において、低俗性を認める一方で、市場拡大の貢献を言及している。 1931年(昭和6年)5月、乱歩初の『江戸川乱歩全集』全13巻が平凡社より刊行開始された。総計約24万部の売り上げを記録し、経営の行き詰まっていた平凡社を建て直すきっかけになったという。 乱歩は執筆に関して、長編小説のプロットをまとめることが苦手だったという。多くの長編連載を場当たりで執筆し、筋の展開に行き詰まってしまうことがあった。ストーリー展開の行き詰まりから休筆を繰り返すこととなった。また、長編を作り上げるにあたり、程度の低い作品を書いているという意識に苛まれていた。これも休筆の要因といえる。 とりわけ、探偵小説の本舞台である『新青年』に本格ものを書こうとして行き詰まった経緯がある。『悪霊』は1934年(昭和9年)1月号までに3回中断し、探偵文壇の不評を被った。これ以外に、木々高太郎、小栗虫太郎らの台頭により、乱歩は自分の時代が過ぎ去ったと感じ始める。
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江戸川乱歩
とりわけ、探偵小説の本舞台である『新青年』に本格ものを書こうとして行き詰まった経緯がある。『悪霊』は1934年(昭和9年)1月号までに3回中断し、探偵文壇の不評を被った。これ以外に、木々高太郎、小栗虫太郎らの台頭により、乱歩は自分の時代が過ぎ去ったと感じ始める。 1935年(昭和10年)頃より、乱歩は評論家として広く活躍し始める。評論集『鬼の言葉』は、その最初の成果である。その一方で、1936年(昭和11年)初めての少年ものを執筆する。のちにシリーズ化される『怪人二十面相』を雑誌『少年倶楽部』に連載した。この作品は少年読者の圧倒的支持を受け、乱歩のもとに多数のファンレターが来たという。以後、乱歩は創作レパートリーに少年ものを定期的に加えるようになった。 日本が戦争体制を強化していくに従い芸術への検閲が強まっていき、日中戦争に勃発した1937年(昭和12年)頃よりその度合いは強くなった。探偵小説は内務省図書検閲室によって検閲され、表現の自由を制限された。一説では、内務省のブラックリストに乱歩の名が載っていたという。 1939年(昭和14年)以降は検閲が激化し、無茶な削除訂正が頻発し、『芋虫』が発禁になっている。 1941年(昭和16年)に入ってからは原稿依頼が途絶え、旧著がほぼ絶版になった。同年12月、日本が太平洋戦争に突入すると、探偵小説は少年ものですら執筆不可能となり、乱歩は小松龍之介の名で子供向きの作品(科学読み物「知恵の一太郎」など)や内務省の検閲対象とならない海軍省の会報に論評を載せるなどしていた。 この時期、少年時代のノートから気になった近年の新聞記事など取り溜めておいた資料をスクラップブックに貼るようになった。他見させるつもりはなかったようであるが、没時までに9冊に増え、後に『貼雑年譜』(はりまぜねんぷ)として復元・刊行され、乱歩自身や日本の推理小説史の貴重な史料となっている。 太平洋戦争中、抹殺されていた探偵文壇は戦後、GHQの占領政策終了のもと復興し始める。戦後は、創作以外に活動の幅を広げ、評論や講演を行う。また、1946年から始めた愛好家の集まり「土曜会」を発展させ、1947年に探偵作家クラブ(後の日本推理作家協会)の結成を行う。雑誌『少年』1949年(昭和24年)1月号から連載の『青銅の魔人』で少年向け小説を再開する。
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江戸川乱歩
太平洋戦争中、抹殺されていた探偵文壇は戦後、GHQの占領政策終了のもと復興し始める。戦後は、創作以外に活動の幅を広げ、評論や講演を行う。また、1946年から始めた愛好家の集まり「土曜会」を発展させ、1947年に探偵作家クラブ(後の日本推理作家協会)の結成を行う。雑誌『少年』1949年(昭和24年)1月号から連載の『青銅の魔人』で少年向け小説を再開する。 評論の分野では、1947年(昭和22年)に『随筆探偵小説』を上梓。1951年(昭和26年)には『幻影城』、1954年(昭和29年)に『続・幻影城』、1958年(昭和33年)に『海外探偵小説作家と作品』が上梓される。これらの評論集は、乱歩の優れた批評眼と洞察力がうかがえる探偵小説論・探偵作家論といえる。 戦後においても、大衆は乱歩の「本格もの」よりも「変格もの」を支持し、作家としても日本・海外を問わず既出のトリックがある本格推理が軽蔑されたため、乱歩だけではなく変格ものが中心に執筆された。乱歩が本意としていた本格ものはあまり反響がなかった。同時期に多数発表された長編探偵小説の中で、戦後継続して再刊され続けた(ほとんどの作品は入手できない時期は存在しなかった)のは乱歩の作品だけである。ちなみに、文庫5000万部という空前のリバイバルとなった横溝正史ですら、戦前作品は『人形佐七捕物帳』などごく一部を除けば一時的に再刊されただけである。また、推理小説(ミステリ)の枠に留まらず、怪奇・幻想文学において存在意義がある。猟奇・異常性愛を描いた作品は後年の官能小説に多大な影響を残した。
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江戸川乱歩
また、戦後に再開した少年探偵団シリーズは子どもたちから絶大な支持を受け、昭和30年代頃から映像化された。戦後は雑誌『少年』の発行元だった光文社から『少年探偵江戸川乱歩全集』として全23巻が刊行された。乱歩最晩年の昭和39年頃から光文社は絶版となり、版権はポプラ社へ移動する。ポプラ社では、『少年探偵江戸川乱歩全集』として乱歩が児童向けとして書いた作品を全26巻で刊行した。さらに乱歩の大人向けの作品を代作者が児童向けに書き直したものを20巻刊行し、全46巻の大全集となった。シリーズのほとんどで敵役となっている怪人二十面相は、推理小説の架空キャラクターとしては、シャーロック・ホームズ、アルセーヌ・ルパン、明智小五郎、金田一耕助らと並んで、日本では広く親しまれている。なお、戦後に発表されたものについては、戦前に大人向けに書いた推理小説・怪奇小説を代作者が子供向きに翻案した結果、明智小五郎など登場人物の性格が、乱歩自身の設定と異なっていることがあった。 戦後は、新人発掘にも熱心で、高木彬光、筒井康隆、大薮春彦、星新一など、乱歩に才能を見出された作家は少なくない。『宝石』編集長時代には、多くの一般作家に推理小説発表の場を与えている。代表的な作家に、歌舞伎評論家の戸板康二がいる。また、小林信彦を宝石社にスカウトし、アルフレッド・ヒッチコックの名を冠した雑誌『ヒッチコック・マガジン』の編集長に推薦している。 日本国外の推理作家との交流にも積極的で、エラリー・クイーンと文通してアメリカ探偵作家クラブ (MWA) の会員にもなったほか、フランスのイゴール・B・マスロフスキー、オランダのロバート・ファン・ヒューリック、W・G・キエルドルフ(nl)、ソビエト連邦のロマン・キム(ru)、韓国の金来成らと文通し、彼らを介して各国の推理小説事情を日本に紹介した。 晩年には、SF小説に興味を持ち、筒井康隆、矢野徹など、黎明期の日本のSF関係者を援助し、商業出版に尽力した。1959年のインタビューでは、「推理物は一作目にいいものが多く、クリスティを例外に、一般的に年を取るにつれ筆が鈍る。自分にはすでに創意がない。60歳の誕生日会のとき再び筆を取ると宣言したが、書いてみたら納得がいかなかった。代わりに今後は探偵小説史のようなものをまとめたい」と語ったが、その夢は実現されなかった。
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江戸川乱歩
「全集」は没後刊行が一般的な時代、生前・没後に各4度 にわたり「全集」刊行した作家は分野を問わず他には存在しない。 内外から尊敬を込め大乱歩とも呼ばれた。師事した山田風太郎は、『風眼抄』で「『大乱歩』という言葉もある。ほかにも一世を風靡した作家や、大衆から敬意を表された作家や、芸術的にもっと高いものを書いた作家は多いのに、大の字を冠してこれほどおかしくない人も珍らしい。」と書いている。ちなみに、他に「大」を冠して呼ばれることの多いアレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)や谷崎潤一郎(大谷崎)には、同じ文筆家として名高い息子や弟と区別する意味合いもあるが、乱歩にはそうした区別対象はない。 1919年(大正8年)、鳥羽造船所を退職したのち、東京で三人書房を営んでいた時代に結婚。1982年9月2日、脳血栓で死去、享年85。 一部明智小五郎や二十面相が登場しない作品もある。 多数あり。「明智小五郎」も参照のこと。以下はその一部である。 乱歩作品の漫画化は、藤子不二雄による子供向けの『少年探偵団』ものが1959年(昭和34年)に発表されている。初の成人向け作品の漫画化としては、昭和45年に少年誌『週刊少年キング』が「江戸川乱歩恐怖シリーズ」と銘打ち、エログロ物を含む乱歩作品を横山光輝、桑田次郎、古賀新一、石川球太の四者に競作させている。
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PCエンジン
PCエンジン(PC Engine)は、ハドソンと日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス、以下NEC-HE)により共同開発され、1987年10月30日にNEC HEから発売されたHE-SYSTEM規格に基づく家庭用ゲーム機。当時のメーカー希望小売価格は24,800円。 任天堂のファミリーコンピュータが発売され数年が経過し、ハドソン社内におけるより高性能のハードウェアを望む声から開発が始まった。同時期に日本電気(NEC)社内において計画されていたCD-ROM機開発の思惑と合致したため、ハドソンとNEC-HEとの共同開発により市場に投入されたゲーム機である。 北米市場ではTurboGrafx-16(ターボグラフィックス16)の商品名で発売され、NECの米国法人から販売された。HE-SYSTEMの北米仕様であり、HE-SYSTEMのロゴだけは使用している。 発売当初はファミリーコンピュータやセガ・マークIIIと競合し、後にスーパーファミコンやメガドライブとも競合した。トップシェアを占めることはなかったが、世界累計販売台数1,000万台を記録している。 1987年に設立されたNECアベニューがゲームソフトの開発と販売を行っている(NEC-HEはハードウェア製造メーカーだった)。また、ハドソンが初期のラインナップを充実させている。この時期ファミコンソフトの製造での優遇措置停止で任天堂とのトラブルになっていたナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)が参入。ハドソン・NECアベニューと共に初期の三本柱に、参入社数過多により飽和状態になっていたファミコン市場から新たな市場を求めたサードパーティがPCエンジンへと参入した、タイトー・アイレム・データイースト・日本物産などが参入。一方でカプコンやコンパイルなどはソフトのOEM供給などをしていたが、参入して自社ブランドで販売することはなかった。 これらサードパーティの参加もあり、ファミコンでは実現が難しかったアーケードゲームが移植された。 1988年11月にCD-ROMを発売。CD-ROMは1989年の『天外魔境 ZIRIA』『イースI・II』、1990年の『スーパーダライアス』といったキラーソフトの登場により普及が加速していった。
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PCエンジン
これらサードパーティの参加もあり、ファミコンでは実現が難しかったアーケードゲームが移植された。 1988年11月にCD-ROMを発売。CD-ROMは1989年の『天外魔境 ZIRIA』『イースI・II』、1990年の『スーパーダライアス』といったキラーソフトの登場により普及が加速していった。 1989年末にはテレビへの出力端子を従来のRF端子からAV端子に変更して色はダークグレーになり、コントローラーのI・IIボタンに連射機能が搭載されたものに変わったPCエンジンコアグラフィックス、拡張バスを削除してCD-ROMや天の声などは繋げなくHuカードのみ専用にした廉価版 のPCエンジンシャトル、Hu6270を2個に増量しVRAMを2倍、メインメモリを4倍に強化したPCエンジンスーパーグラフィックス、本体の拡張バスから繋ぎPCエンジンを使って画面に絵を描け、アーティストツールで印刷をすることも可能なプリント&イラストブースタという4種類のハードを発売している。 1991年6月にコアグラフィックスと性能は同じだが、価格を5000円ダウンさせたコアグラフィックスIIが19800円で発売された。ハードの色はSUPER CD-ROMシステムと同色となる。12月にSUPER CD-ROMを発売している。またこの時期にコナミ(ブランド名は『KONAMI』、その後ゲーム事業はコナミデジタルエンタテインメントへ移管)も参入し、NEC HEも日本市場(それまで当社は米国市場のみでゲームソフトを発売する程度だった)でゲームソフトを販売するようになり、後期以降の主要ソフトメーカーにまで発展した。
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PCエンジン
翌1992年3月にはCD-ROMが100万台を突破し、ソフト供給はCD-ROM中心になる。この時期にPCエンジンの主力メディアはHuカードからCD-ROMへ移行が進み、本体もPCエンジンDuoシリーズが主力になっていった。しかしながらHuカードもコンパクトサイズハードであるPCエンジンGT、PCエンジンLTなどで依然として意義はあり、供給を継続していた。国内市場では1992年時点でスーパーファミコンに次ぐ24.7%のシェアを占めていたとする調査結果が雑誌に掲載された。この時期に『天外魔境II』『スナッチャー』といったSUPER CD-ROMを代表するキラーソフトが発売されている。CD-ROMの普及に伴い、日本ファルコム・アートディンク・システムソフト・リバーヒルソフト・ブレイングレイ・マイクロキャビン・コーエー(現:コーエーテクモゲームス)・日本テレネットといったPCゲームのソフトハウスが参入した。 1994年春にはアーケードカードが発売。RAMは18 Mbitへ増強され、ネオジオで人気を博していた『餓狼伝説2』『龍虎の拳』が目玉ソフトとして発売された。同年末にはPCエンジンの次世代機PC-FXが発売され、それ以降もPCエンジンの市場は継続されたが、1999年6月にメッセサンオーとソフマップ専売で発売された『デッド・オブ・ザ・ブレイン 1&2』を最後に、ソフトの供給は終了した。
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PCエンジン
1994年春にはアーケードカードが発売。RAMは18 Mbitへ増強され、ネオジオで人気を博していた『餓狼伝説2』『龍虎の拳』が目玉ソフトとして発売された。同年末にはPCエンジンの次世代機PC-FXが発売され、それ以降もPCエンジンの市場は継続されたが、1999年6月にメッセサンオーとソフマップ専売で発売された『デッド・オブ・ザ・ブレイン 1&2』を最後に、ソフトの供給は終了した。 北米ではNECホームエレクトロニクスの現地法人により「Turbografx-16」の名称で1989年5月23日に発表、同年8月29日にニューヨークとロサンゼルスでテスト販売が開始された。価格はTurboPad1個とTurboChip(HuCARDの海外名称)のソフト「Keith Courage in Alpha Zones(魔神英雄伝ワタル)」が付属して$199.99。他に「Alien Crush」「The Legendary Axe(魔境伝説)」「Victory Run」がロンチタイトルとして発売された。一方でメガドライブの北米版である「Sega Genesis」も二週間前にテスト販売を開始しており、ほぼ同時に市場投入される形になった。日本のCD-ROM2に該当する「Turbografx-CD」も同年12月に$399.99で発売された。CD-ROMドライブとインターフェースユニットのセットでとバンドルソフトは無く、ロンチタイトルとして「Fighting Street」「Monster Lair(ワンダーボーイIII モンスター・レアー)」の2本がリリースされた。
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PCエンジン
1992年4月より、取り扱いがNECテクノロジー社とハドソンの共同出資であるターボ・テクノロジー社に変更され、そのキャンペーンとして発売予定のTurboDuo(価格$299.99)に250ドル相当の特典(Ys Book I & II、Bonk's Adventure(PC原人)、Bonk's Revenge(PC原人2)、Gate of Thunder、Dungeon Explorer、専門誌『TURBO FORCE』、$5×10枚のソフト購入割引クーポン)を添付させる「Add $250 Value」を実施。また1992年のサマーCESに合わせてTurboGrafx-16の本体価格が$69.99、Turbografx-CDの価格が$149.99にそれぞれに引き下げられた。TurboDuo発売後、既存のTurboGrafx-CDユーザ向けにスーパーシステムカードと3-in-1 CD(Bonk's Adventure、Bonk's Revenge、Gate of Thunder)と$5×10枚のソフト購入割引クーポンをセットにしたバリューパックが$95で販売された。ちなみに旧来のシステムカードは起動画面がTurboGrafx-CDのロゴになっていたが、スーパーシステムカードは国内版と同じ「SUPER CD-ROM SYSTEM」の起動ロゴになっている。 TurboGrafx-16は参入業者が少なかったために、販売面で苦労した。またCD-ROMにあたるTurboGrafx-CD(HES-CDR-01 TurboGrafx-16と同時発売)やPCエンジンGTと同機能のTurboExpress(HES-EXP-01 1990年11月発売)、PCエンジンDuoと同機能のTurboDuo(HES-DUO-01 1992年10月発売)なども発売された。これらは日本ではCD-ROMのゲーム環境としてヒットしたがTurboGrafx-CD関連は1993年中には市場からほぼ淘汰された。晩年は慢性的なソフト不足を補うため国内向けのソフトを輸入販売し、PCエンジンのHuCARDのピンアサインをTurboGrafx-16向けに変換するアダプタも非公式に流通した。
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PCエンジン
また、北米においてはTurboGrafx-16を業務用ゲーム機として展開する計画も立てられていたが、こちらは業務用ゲーム機のメーカーの反発や、NECホームエレクトロニクスの北米法人内で業務用ゲーム機業界に詳しい者がいないことなどが原因で頓挫した。 欧州市場ではフランスを除いて正式販売は行われなかった。フランス版HE-SYSTEMは、当時日本で販売されていた本体をRGB仕様に改造したのみで、本体の形状や商品名称などは日本と同様PC Engineとなっていた。イギリスではNTSC出力のままの米国モデルがTelegames社より極少数販売された実績がある。 アジア市場では大韓民国でも発売され、韓国版HE-SYSTEMは、大宇電子がZemmix PC Shuttle(CPG-100)としてZemmixのラインナップの一部でPCエンジンシャトルを輸入し、その後はPCエンジンシャトル自体が生産を終了したということもあり、ヘテ電子からも『スーパーコン バイスター』の名称でハドソンとの共同開発によるオリジナルの本体で発売されていた(こちらもHE-SYSTEMのロゴだけは使用していた)。ただ、NEC-HEは一切関与していなかった。ソフトのラインナップは、基本的に日本や北米からHuカードのみを輸入し、パッケージを独自に制作したものだった。そのため、コナミのタイトル全般や、ドラえもんのゲームなど、北米で発売されていないタイトルも含まれていた。 なおTurboGrafx-16は本体の大きさが国内版に比べ横幅が倍になっているが、これは本体が小さくて価格が高いと割高感が出て敬遠されるという海外の消費者心理を考慮したためである。またCD-ROMユニットは本体後部に接続する形式を取っているが、CD-ROMユニットの大きさは国内版と同じのため、組み合わせると、さらに特異な形状(真上から見ると『凸』型)となる。 またTurboGrafx-16の名称はPCエンジンは画像処理周りなど一部の処理を16ビットで行っていたため、Sega Genesis(北米版メガドライブ)及びSuper Nintendo Entertainment System(北米版スーパーファミコン)が搭載していた16ビットCPUの話題性に対抗する意味でつけられた。
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PCエンジン
またTurboGrafx-16の名称はPCエンジンは画像処理周りなど一部の処理を16ビットで行っていたため、Sega Genesis(北米版メガドライブ)及びSuper Nintendo Entertainment System(北米版スーパーファミコン)が搭載していた16ビットCPUの話題性に対抗する意味でつけられた。 当時、ハドソンの目指す高度な表現に対してファミコンやパソコンの「性能の限界が見えてきた」という状況に直面していた。この問題に対して「自分たちが欲しいものを自分たちの手で作り上げる」という目的でハドソン社長工藤浩をはじめとしたハドソン技術者たちが動き出した(ハドソンはシステム開発も行っており、また半導体技術者も擁していた)。ハドソン技術者の山村喜美夫は「ハードを作るという発想ではなく、ソフトを作る発想で開発が始まったんです。ハードメーカーがハードを作ってくれないなら、性能を上げるためのチップを作ってみようということになったわけです。最初から新しいハードを作ろうとしていたわけではなく、あくまでチップの開発だったんです」と語っている。 この時点ではビジネスのことは考えておらず、単純に「自分たちの夢を追いかけただけ」である。 しかし、半導体メーカーではないハドソン単体ではチップを作ることができない。開発者(岡田節男・山村喜美夫、他1名)が仕様書を書き、半導体メーカーに持ち込んでも「北海道から来た訳のわからない会社」では信用されない。NECを含む国内の主な半導体メーカーには断られた。 最後に訪問したセイコーエプソン(以下エプソン)で、ようやく工藤の話をまともに聞いてくれた。ここで工藤は「別に売るつもりはないから、とにかく一個作ってほしいんだ」「自分の机にファミコンより性能のいいゲーム機があればいいんです」という話をしている。対するエプソン担当者が開発には相当な額がかかると言うと、工藤は「お金はいくらでも用意します。何なら、いまここに積みますから」と返した。この時点で相手もあきれていたと後に工藤は言っている。
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PCエンジン
こうしてチップの開発はスタートした。ハドソン、エプソン双方のメンバーがほぼ同年代で、細かい点ではよく話し合って決めた部分もあるので山村は「一緒に作ったという感覚が強い」と証言している。そして完成したのが『Hu-7(工藤の証言より。山村の証言ではHu6270と呼んでいる)』と呼ばれるチップである(山村はHu6270の開発スタートが1985年春、Hu6270の完成のめどがつき、次の段階に進んだのが1985年末から1986年初め頃と証言している)。費用は2億円、数量として「1000個だか10000個だか(工藤の証言より)」が作られた。 (出典) 完成したHu-7(Hu6270)の画像処理能力はファミコンのCPUを上回る性能を見せ、独自の新ハードの野望を抱かせるようになった。 ハドソンは、これをまずシャープに持ち込んだ(「思ったよりもいいものができたというか、画像の処理能力なんかファミコンのCPUよりも数段いい。これを使って何かできるんじゃないかと思って、とりあえずパソコンの関係でおつき合いのあったシャープさんにそれを見せたわけです。そうしたら『これは商売になる!』というんで話が一気に盛り上がって...」と工藤は証言している)。結局シャープとは話がまとまらなかった。任天堂と協力関係にあり、それがネックになったといわれている。 次に工藤が向かったのがNECである。ここで幸運なことに「ちょうどゲーム機を作りたいと思っていたんだ」という対応を受け、話がスムーズに進んでいった。 一方のNECも任天堂のファミコンの急速な普及に触発され、1983年末頃から後藤富雄を中心とした若手社員により、社内で「パソコン以外の何か」を作るための議論が続いていた。1985年に「記録メディアにCD-ROMを使ったゲーム機」という結果となった。目標価格を10万円以下に設定したが、ゲーム機用の安価なチップ(CPU)を内製化する設計力がNECには当時無かった。そのため計画が頓挫していた。NECの多部田俊雄も当時から家庭用のCD-ROMの企画書を提出していたが価格の問題があり却下されていた。 工藤が完成品のチップと一緒にNECを訪問したのはちょうどその頃で「PC-8801の後継機としてCD-ROMを搭載したマシンを作りたいNEC」と「スプライトに強いチップを売り込みたいハドソン」という二者の利害が一致した。
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PCエンジン
工藤が完成品のチップと一緒にNECを訪問したのはちょうどその頃で「PC-8801の後継機としてCD-ROMを搭載したマシンを作りたいNEC」と「スプライトに強いチップを売り込みたいハドソン」という二者の利害が一致した。 その後チップの開発とツール開発が同時進行して、チップはエプソン、製品化はNEC、Huカードは当時の三菱樹脂とハドソンが共同開発することでPCエンジンは誕生した。 (出典) 上記の通りNECからハドソンにもたらされたCD-ROM機開発計画であるが、PCエンジン発売後1年でCD-ROM本体として発売されることになった。当時パソコン用のCD-ROMドライブは本体接続用のインターフェースと合わせて25万円もしていたが、価格を5万7800円に落とすことで、家庭用ゲームへの採用を可能にした。搭載されたRAMの容量はメイン64KB、ADPCM用64KBだった。このため大きなデータを一度に取り込めず、凝った演出を行うために頻繁なロードが必要だったが、この問題点は後にスーパーCDROM、アーケードカードへとRAM容量が拡張されることで解決していった。 シークに片道で3秒、往復で最大6秒かかるため、複数のファイルをバラバラに読ませる、読み取り時にエラーが発生するなどの状況下では実用性に問題が出るほど時間がかかった。ゲームの進行などで一部のデータだけが変更される事象が起こった場合、差分をバラバラに読むのではなく「それらをひとまとめにしたファイルを進行毎に用意してシークをなるべくさせないで一度に読み込む」方式を採用した。データの二重保存と合わせてCD-ROM内でデータトラックが占める割合が大幅に増すことになったが、CD-ROM自体が大容量であったのでこのような対処が可能であった。 CD-ROMの発売以前、ハドソンの朝礼の時に中本伸一がCDを持ってきて「お前ら、この中にゲームが入るから」と発言したがハドソンの他の開発者たちは当時「CD=音楽CD」という知識しか無く、中本が何を言っているのか分からなかったという。このようにハドソン社内でも具体的な形になるまでは開発情報の公開に制限がかかっていたという話がある。 システムカードがバージョン2.0以降の物からはCD-G (CDグラフィック)に対応する様になり、カラオケ用の再生プレーヤーとしても利用が可能となった。
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PCエンジン
システムカードがバージョン2.0以降の物からはCD-G (CDグラフィック)に対応する様になり、カラオケ用の再生プレーヤーとしても利用が可能となった。 PCエンジンは「コア構想」という拡張思想を持ち、パーソナルコンピュータのようにコア(核)の役割を持たせ、様々な周辺機器を接続することでゲーム以外にも対応させる。いわば周辺機器のエンジンに見立たものであり「PCエンジン」の命名はここが由来である。そのためDUO系統を除く本体にはゲーム機としては最小限の機能しか無く、他社ゲーム機では標準装備もしくはカートリッジに内蔵されるような機能も別売りの周辺機器で補完していく必要があった。 構想の要であった拡張バスは初代PCエンジンから始まり、コアグラフィックス系統などの本体後部に標準装備されており、周辺機器の接続は主にこれを使う。多くの周辺機器が発売されたが、拡張バスを用いる機器は排他仕様であり、またLTやスーパーグラフィックスなどハードの形状が統一されておらず接続できない代物もあった。この問題を解決するために「周辺機器を接続するための周辺機器」も発売された。拡張バスは機能を追加するものであったが、性能を向上するためのものではなかったためPCエンジンをスーパーグラフィックス相当にする周辺機器は発売されず、専用ソフトをプレイするにはスーパーグラフィックス自体を別途購入する必要があった。 PCエンジン専門誌の一つ「マル勝PCエンジン」でも1989年10月号の116頁では天の声2をAV出力へ対応させるための改造記事を掲載したり、PCエンジンSGについて1989年12月でに記事を組んだものの19頁で「みんな自分のマシンが旧機種になってしまうという不安を感じているようだ。しかし価格設定や販売方針を考えると、この新機種が主流になることはまずないと言ってよさそうだ」と記載しており、ユーザーへの余計な出費をさせないような配慮も行っている。 NEC-HEとハドソンによって提唱された規格。ライセンス商品の証明としてPCエンジンに関連する本体とソフトウェアには必ずロゴが記載されている。なお、「HE-SYSTEM」(エイチイーシステム)の「HE」はHome Entertainmentの略であり、『ホーム・エンターテイメント・システム』という意味である。
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PCエンジン
NEC-HEとハドソンによって提唱された規格。ライセンス商品の証明としてPCエンジンに関連する本体とソフトウェアには必ずロゴが記載されている。なお、「HE-SYSTEM」(エイチイーシステム)の「HE」はHome Entertainmentの略であり、『ホーム・エンターテイメント・システム』という意味である。 そのPCエンジンのブランドロゴはNECが販売する日本国内向けのHE-SYSTEMのハードで用いられているため、他社製品のレーザーアクティブに関しては、NECからもOEM供給することによってPCエンジンのロゴを使用できたのに対し、X1twinに関しては、NECの製品ではないが、ハドソンが開発に関与しているため、HE-SYSTEMのロゴだけを使用しており、PCエンジンのロゴは一切使用していない。 CD-ROM用のディスクをCDプレーヤーで再生した時の警告音声に関しては、標準メッセージからではあるが、「HE-SYSTEMのCD-ROMディスクです」と言っており、PCエンジンの名称は一言も発していない。これは、登場キャラクターが担当するタイトルも同様の措置である。 PCエンジンは時期によりパソコンのように拡張を繰り返し、1つのハードに2つの媒体で計5つの規格のソフトが流通した。 HuCARDのパッケージはCDアルバムの様な大きさ、太さのケースに収納されていて、ケースの背面にはメーカーシールのみのソフトも多数あり、どのようなゲームなのかが確認し難い要素があった。 Huカードにはバックアップ機能がなかったため、初期のソフトはゲーム再開時にパスワードを手動で入力する必要があった。 やがて天の声2やバックアップブースターなど周辺機器が発売されるとセーブデータ・バックアップが可能になった。1つで複数のソフトに対応する必要からファミコンなどのカートリッジ内蔵式のものよりは容量が大きい。CD-ROMが発売されると本体の機能として統合された。DUOの登場で拡張バスが廃止され、またゲームのデータの肥大化に伴いHuCARDスロットやコントローラーポートで接続する機器も発売された。
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PCエンジン
やがて天の声2やバックアップブースターなど周辺機器が発売されるとセーブデータ・バックアップが可能になった。1つで複数のソフトに対応する必要からファミコンなどのカートリッジ内蔵式のものよりは容量が大きい。CD-ROMが発売されると本体の機能として統合された。DUOの登場で拡張バスが廃止され、またゲームのデータの肥大化に伴いHuCARDスロットやコントローラーポートで接続する機器も発売された。 標準パッドは見た目を変えているものの、ボタンの配置と大きさはファミコンのIコンと同等のものとなっている。十字ボタンのみ形状が変更されており、ボタン類は名称が異なるものの、「START→RUN」「A/Bボタン→I/IIボタン」と位置関係上それぞれ対応している。PCエンジンコアグラフィックス以降の機種ではそれぞれ色調を合わせた連射パッドが標準装備されている。その後ボタン数(3/6ボタン仕様)を変えたものが発売されている。 また「RUNボタン」を押しながら「SELECTボタン」を押すことでリセットをかける機能が基本的にソフト側に搭載されている(『妖怪道中記』など、サードパーティー製のソフトでは例外的に「SELECT」→「RUN」でもリセットを行える場合がある)。この操作はマルチタップ経由でも可能なので、1プレイヤーのみが可能な機能には留まらない。 パッドは脱着式だが本体にはコントローラー端子が1つしか無く、2人以上の同時プレイには別売りのマルチタップを購入し、端子を増設する必要がある。マルチタップは5人用の他に、3人用・2人用等、ゲームの用途に合わせて発売されている。 コア構想に基づき多くの本体・周辺機器が発売された。 NEC製 他社製 一般に多く流通したソフトを遊ぶにはSUPER CD-ROMが可動する環境があれば良いが、上記の通り本体および周辺機器共に多くのバリエーションが存在するため、システムの組み合わせパターンは数多い。分類すると下記のようになる。なお下記では、初代PCエンジン・PCエンジンコアグラフィックス・PCエンジンコアグラフィックスIIを合わせ「コアマシン」と称する。 発売された本体が多岐にわたるため、それぞれの本体に対応する周辺機器は以下のページを参照すること。
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PCエンジン
発売された本体が多岐にわたるため、それぞれの本体に対応する周辺機器は以下のページを参照すること。 映像出力方法はRF接続とRCA端子のみだが、拡張バスにはRGB出力が含まれている。電波新聞社は、ここからRGB信号を取り出すコネクターの発売を予定していたが企画倒れとなった ため、正規の方法でS端子やRGB端子への接続は出来ない。 ゲームソフトとして、HuCARDメディアのローンチタイトルは『上海』と『ビックリマンワールド』である。またHuCARDメディアでの最後のタイトルは1994年12月16日発売の『21エモン めざせホテル王』である。 またゲームソフト以外にも事典やカラオケソフトが発売された。 1987年に発売された本機は初年度で60万台を出荷し、任天堂のファミリーコンピュータが独占状態であった国内家庭用ゲーム機市場では任天堂に次ぐ2番手となった。 1987年当時の家庭用ゲーム機の常識を覆す高速・高性能であり、任天堂のシェアを崩すには至らなかったが、新規ハードとして一定の普及に成功し国内市場では1992年時点でスーパーファミコンに次ぐ24.7%のシェアを占めていた。1990年代前半の日本市場において、PCエンジンの周辺機器であるCD-ROM(シーディーロムロム)は最も普及していたCD-ROMゲーム機である。 その他ファミリーコンピュータとは異なる以下の点が評価されている。 メディア展開としてテレビの専門番組にハドソンが提供・協力、一部は日本電気ホームエレクトロニクスも提供をしている。それに加え広報の一つとしてPCエンジン発売に合わせファミコンソフトのイベントだったハドソン全国キャラバンの課題ゲームをPCエンジン用に切り替えており、『コロコロコミック』のタイアップ記事やさくまあきらが担当した『週刊少年ジャンプ』の読者コーナーなど、影響下にあるメディアでPCエンジンの話題を多く取り上げた。 また富士見ファンタジア文庫から1990年2月に刊行された『悪の江ノ島大決戦』(とまとあき・塚本裕美子著)では、当時発売直後のシャトルやスーパーグラフィックスなどが作中のアイテムとして登場し、ゲーム機本体とライトノベルという、タイアップが行われた。 本機の製造終了後には実機を使用せずにゲームを遊べる環境を各社が提供している。
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PCエンジン
また富士見ファンタジア文庫から1990年2月に刊行された『悪の江ノ島大決戦』(とまとあき・塚本裕美子著)では、当時発売直後のシャトルやスーパーグラフィックスなどが作中のアイテムとして登場し、ゲーム機本体とライトノベルという、タイアップが行われた。 本機の製造終了後には実機を使用せずにゲームを遊べる環境を各社が提供している。 2019年には、ゲームソフトを内蔵した小型復刻版「PCエンジン mini」の販売が、コナミデジタルエンタテインメント(KDE)より正式発表され、2020年3月19日に発売された。 58本のゲームがプリインストールソフトとして収録されている。また、北米市場向けに「TurboGrafx-16 mini」、欧州市場向けに「PC Engine CoreGrafx mini」がリリースされている。
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3DO
3DO(スリーディーオー)は、以下のいずれかを指す。 本項では上記の3つについて述べる。 The 3DO Companyは、1990年にエレクトロニック・アーツ(以下、EA)の創始者の一人トリップ・ホーキンスがゲーム機プラットホーム開発を目的に設立したアメリカ合衆国の企業である。元々はSMSG(San Mateo Software Group)という名前だった。「3DO」の「3D」は3次元(3 Dimension)、そして、オーディオ(Audio)やビデオ(Video)のように一般的なものになるように願って、両者に共通する最後の一文字「O」をつけられた。 1993年に32ビットマルチメディア端末の統一規格「3DO」を開発・発表し、北米のマスコミを通じて「マルチメディア」時代の到来を宣伝した。3DO社は自社ではハードを製造せず、ライセンスを提供した電機メーカーからハードをリリースし、ハードおよびソフトが売れるたびにロイヤリティを徴収するというビジネスモデルをとった。またトリップ・ホーキンスがEAの設立者でもあることから、EAが事実上のセカンドパーティとして機能した。だが、リリースされた3DOハードの高額さ、サードパーティー製のソフトの数の不足など複数の要因が重なり競合機にシェアを奪われ、会社設立からほどなくしてThe 3DO Companyの業績は悪化。任天堂の次世代機NINTENDO64の発売を目前に控えた1995年末にThe 3DO Companyは3DOと開発中だった64ビット規格の次世代機「M2」の権利を松下電器へ売却してハード事業から撤退、ゲームメーカーとしてSSやPS、PC用のソフトを開発・発売した。そして2003年5月に連邦倒産法第11章を申請し倒産した。いくつかのゲームソフトは倒産後に他の会社に買収され、続編が開発されている。 日本では1994年3月20日に、スプライトや動画再生能力を持つ32ビットゲーム機の先駆けとして、3DO規格機「3DO REAL」を松下電器がパナソニックブランドでインタラクティブ・マルチプレイヤーという家電製品の一種として発売した。当初の発表された希望小売価格は79,800円で、実際には54,800円で発売された。イメージキャラクターには3DCGで描かれ、「なんか言った?」と呟くアインシュタインが使用された。
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3DO
ライセンシーである松下電器は、1993年1月7日から開催された'93冬期コンシューマー・エレクトロニクス・ショーで、3DO本体、ゲームのデモ映像を出展した。さらにThe 3DO Companyは、当時の北米ハード業界を二分していたセガや任天堂より安いロイヤリティでゲームソフトのサードパーティーを呼び集め、松下電器が北米と日本でプロモーションを行い知名度を上げた。後に三洋電機からも「3DO TRY」が発売された。 3DO REALは発売直後は品切れが続出し、4月末までに約10万台を出荷するが5月に入ると売上は伸び悩み、7月末までに18万台を出荷するにとどまった。また、3DO REALが発売されてから約半年後の11月には「セガサターン」(以下、SS)、12月には「PlayStation」(以下、PS)などの競合機が発売され、それに対抗するため、高額だった本体も設計見直しによる改良機「3DO REAL II」を44,800円で販売するなど普及戦略を仕掛けたが、洋ゲーと国内中小のサードパーティーが開発した版権キャラクターもののタイトルで占めていた3DOは早くも抜かれてしまう。 1995年には北米および日本にてSSやPSが普及し、The 3DO Companyの業績は悪化。任天堂の次世代機NINTENDO64の発売を目前に控えた1995年末にThe 3DO Companyは3DOと開発中だった64ビット規格の次世代機「M2」の権利を松下電器へ売却してハード事業から撤退、ゲームメーカーとしてSSやPS、PC用のソフトを開発・発売した。 3DOの権利を得た松下電器は北米で1996年2月より3DO REALの価格を下げるが、ハードの高価さ、サードパーティーの支持の少なさ、ソフトの少なさ、競合機の普及などの要因が重なり、販売台数を伸ばせず、3DOは1996年中に市場から姿を消した。
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3DO
3DOの権利を得た松下電器は北米で1996年2月より3DO REALの価格を下げるが、ハードの高価さ、サードパーティーの支持の少なさ、ソフトの少なさ、競合機の普及などの要因が重なり、販売台数を伸ばせず、3DOは1996年中に市場から姿を消した。 1996年4月には松下電器のゲーム事業を担当するパナソニック・ワンダーテインメント社を設立し、同時に「Panasonic M2」と称する次世代機のプロモーションを開始した。M2端末は1997年4月から6月の発売とされており、旧来の3DO端末ユーザーにも何らかのアップグレード施策が約束された。1997年には松下電器とLG電子(旧・金星電子、現・LGエレクトロニクス)からM2端末のプロトタイプ機の発表もなされた。しかし、その頃には競合機のPSが普及しており、松下電器は次世代機の展開を断念。1997年6月にはゲーム事業からの撤退を表明し、3DOに関する全てのプロジェクトを終結させた。3DO M2のローンチタイトルとしてワープが『Dの食卓2』の開発を表明し、プロモーションビデオも公開され1996年夏に発売予定とされたが、3DOの終息により開発は中止された。結局パナソニック・ワンダーテインメント社からはソフトとハード共に発売されずに終わった。 なお、松下電器がThe 3DO Companyから買収したM2のアーキテクチャは、松下電器の業務用端末や自動販売機などの組み込み用基板として主に流用され、ゲーム用途としてはコナミのアーケードゲーム基板として一部採用された。またパナソニック・ワンダーテインメント社は他社ハード向けのソフトウェア開発に転換したが、実際に開発が行われる事が無いまま1999年に清算された。一方The 3DO Companyはその後、ゲームメーカーとしてセガサターン(SS)やPlayStation(PS)、PC用のソフトを開発・発売していた。そして2003年5月に連邦倒産法第11章を申請し倒産した。いくつかのゲームソフトは倒産後に他の会社に買収され、続編が開発されている。
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東芝やAT&Tなどかなり多くの企業が3DO端末の発売に意欲を示したが3DO端末を発売したのは、最終的には松下電器(Panasonic)、三洋電機(Sanyo)、金星社(Goldstar)の3社だけで、ほかにはクリエイティブ・テクノロジーがPCカードの形で販売を行ったに留まっている。北米市場・日本市場ともに、松下電器の機種「3DO REAL」が最もよく知られている。遅れてサムスン電子(Samsung)も3DO端末の発売を表明したが、ハードを発売する前に3DOが終息してしまったため、モックアップが公開されたのみである。 The 3DO Companyの主なゲームソフトとしては、『突撃!アーミーマン 史上最小の作戦』、マイト・アンド・マジックシリーズ、『Meridian 59』、『Cubix Robots for Everyone』などがある。 日本で発売された初期のゲームソフトの大半はエレクトロニック・アーツ・ビクター(EAV、現・エレクトロニック・アーツ日本法人)らによる「洋ゲー」の日本語版だった。 3DOはEAの他にもサードパーティーとしてコナミやクリスタル・ダイナミックス、フューチャー・パイレーツ、カプコン、ワープなどが参加した。 フューチャー・パイレーツの高城剛は1994年当時の日本のテレビ等で3DOを賞賛。『チキチキマシン猛レース』などを製作。3DO一社提供のTV番組「高城剛X」(テレビ東京)を制作・出演した。 カプコンが発売した『スーパーストリートファイターII X』は国内のコンシューマソフトとしては発売されていなかったこともありキラーソフトとなった。 1995年4月、ワープの飯野賢治が制作した『Dの食卓』や家庭用ゲーム機に初めて移植された同年9月末発売でコナミの小島秀夫が制作した『ポリスノーツ』は話題を集めた。 なお、同年中にコナミからメタルギアシリーズの第三作目として『メタルギア3(仮)』の発売計画が進められるも、阪神・淡路大震災による神戸本社の被災と3DO市場の低迷から事実上凍結となり、1998年にPSの『メタルギアソリッド』と改変のうえ発売された。
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3DO
なお、同年中にコナミからメタルギアシリーズの第三作目として『メタルギア3(仮)』の発売計画が進められるも、阪神・淡路大震災による神戸本社の被災と3DO市場の低迷から事実上凍結となり、1998年にPSの『メタルギアソリッド』と改変のうえ発売された。 3DOでは実写のアダルトゲームの発売があり、海外タイトルではポルノ女優の静止画や動画を再生するもの、国産では脱衣麻雀ものや野球拳による脱衣ゲーム類、美少女ゲームが発売されている。再生対応としていたビデオCDはLDと比べ画質が劣ることもあり、日本では専らアダルトビデオ系統の正規タイトルが多かったため、これを逆手に取り、ナイステックの「ROBO」が発売されラブホテルのサービス機器として実用化された。 3DOソフトとして製作された一部のタイトルはPSやSSで移植版が発売され、更に『テーマパーク』などのその一部はゲームアーカイブス配信タイトルとなり現在もプレイ可能である。 自主規制によるレイティングシステムが定められた。 1994年当時の北米での主な競合機である任天堂・SNESやセガ・Genesisと比べてハードウェアの性能は高く、タイム誌によって"1994 Product of the Year"に選出されている。
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自主規制によるレイティングシステムが定められた。 1994年当時の北米での主な競合機である任天堂・SNESやセガ・Genesisと比べてハードウェアの性能は高く、タイム誌によって"1994 Product of the Year"に選出されている。 しかし、ハードのプロモーションを事実上一手に担った松下電器は規格提唱社でもゲームメーカーでもないハードウェアメーカーであり、プロモーションでも「インタラクティブ」や「マルチメディア」を強調するのみで、肝心のソフトの宣伝を行わなかった。また競合ゲーム機のように「ハードを赤字覚悟で販売し、ソフトの売り上げやサードパーティーからのロイヤリティで補填する」というビジネスモデルを取れずハードのみで利益を得る必要があった。しかもゲームショップなどをメインに販売された競合ゲーム機に対し、3DO REALは松下が持つ家電としての販路を利用して主に販売された。松下電器は地域専門店、いわゆる「ナショナルショップ」での販売も行ったので、メーカーに対する発言力の強いこれらの店が儲かる施策が必要で、競合機のような積極的な値引き販売ができなかった。三洋電機の販売した「3DO TRY」の実売価格は3DO REALと比較して安価だったが、松下よりもさらに販路が弱い三洋の家電の販路を利用して販売されたため、非常に流通量が限られた。このように発売当初の3DO端末は旧来の家電製品のビジネスモデルから脱却できなかった。 そのため競合ゲーム機と比べて高価格設定となり、輸出先のアメリカでは699ドル、欧州へ輸出した時にはEUから、ゲーム機ではなく関税が高い「情報家電」として認定されたので、価格がさらに高くなった。「安価なゲーム機」ではなく「高価格なマルチメディア機」というコンセプトは、普及の大きな妨げとなった。結果としてハイエンドゲーマーしか手を出さなかった。松下電器は「3DOがこれほど高価格なのは、これが単なるゲーム機ではなくインタラクティブ・マルチプレイヤーだからである」と主張してその価格を正当化した。
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3DO
3DOはEAの他にもサードパーティとしてコナミやクリスタル・ダイナミックスなどの大手メーカーの支持を受けた。しかし、他のサードパーティの支持がそれほど集まらなかったため、ゲームの本数自体が少なかった。またメガCDのタイトルをそのまま3DOに移植した『ナイト・トラップ』など、「インタラクティブ・ムービー」と称して動画を再生するタイトルはゲーム性の低いものが多く、3DOが売りにした「マルチメディア」にしても、3DOが標準で再生できるデジタルムービーは品質が低く、ビデオCD規格の動画の再生を可能にするには周辺機器のビデオCDアダプター(MPEG1デコーダ)を追加で購入する必要があった。なお、インタラクティブ・ムービーものの一部タイトルには「3DO VIDEO」とパッケージに表記された。 上記の理由から、3DO REALはローンチに失敗。3DOは北米の大手ゲーム雑誌であるエレクトロニック・ゲーミング・マンスリーによって"Worst Console Launch of 1993"に選出されている。 このように日本発売当初の3DOはハード・ソフト共にゲーマーへのアピールが弱く、その結果、本機が本来持っていた筈の「ゲームに留まらない情報家電」というマシンへの展開がなされず、「単に高いゲーム機」「洋ゲー主流で取りつきにくいマシン」というイメージで一般層に普及しないという悪循環へ陥った。「ゲームに留まらない」という方向性のため多くのゲーム雑誌でも扱いは他のゲーム機と同格ではなく、別枠で便宜的に紹介されるだけだったのも一般への認知度の広がりを阻害した。任天堂の山内溥は、当時開発中の3DOについて、NHKの取材の中でソフトメーカー、流通関係者などから、「発売前から消されることが確定した」と言われており、ユーザーはハードを求めているのではなく、独創的な楽しさをもつソフトであり、自らの意見としても3DOは99.99%駄目だと酷評した。
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言語資源
言語資源(げんごしげん、英: Language resource)とは、自然言語を研究するさいに用いられる資源のこと。 辞書やコーパス、シソーラス、インフォーマントなどがこれにあたる。 電子化された言語資源は自然言語処理技術の研究に不可欠であるが、作成に非常に手間がかかるため、いまだにその数は少なく、一般にとても高価である。 近年WWWが普及したこともあり、これらの資源をインターネット上から自動的に獲得しようとする試みも数多くなされてはいるが、一般的なネットワーク上の文章にはノイズが多すぎて価値ある情報を収集するのは難しいとされる。 また、言語資源には著作権の問題が重くのしかかっている。それはたとえ資源を作っていても、それを公開するのは権利上の許可を得なければならないからである。 ウィキペディアはこの問題に対する解決策の一つとなるべく運営されている。
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ウェブサイト
ウェブサイト(英: website)は、World Wide Web (WWW) (ワールドワイドウェブ)上にあり、一般に特定のドメイン名の下にある複数のウェブページの集まりのこと。サイトと呼ばれることもある。企業などの団体が自身を紹介するため自ら構築したサイトをその団体の公式サイトなどと呼ぶ。 ホームページと呼ばれることもあるが、この用法は誤用とされる場合もある。また、ウェブサイトのトップページのみをさしてホームページと呼ぶ場合もある。 1990年代のWWWは実験運用の時代にあった。この時代には、WWW提案よりも前の集中型の思想を参考にして、組織の総合的な情報を掲載した、静的コンテンツによるウェブサイトを立ち上げ、手動で管理されるポータルサイトに登録を依頼する例が多かった。しかし、2000年代からロボット型検索エンジンによるウェブサイトの自動登録に移行し、 組織が複数のドメインを取得してサービス別にサイトを切り分けるなど、WWWの本来の思想である分散型のシステムに移行して行った。 イギリスのネットクラフト社(英語版)の調査によると、1995年8月にはインターネット上のサイト数は約1万8000件だった。2006年11月2日の時点でサイト数は1億件を突破した。また、インターネット統計サイトのインターネット・ライブ・スタッツのリアルタイム統計では、2014年9月16日に世界のサイト数が10億件を突破した。WWWの考察者とされるティム・バーナーズリーは、ミニブログのツイッターでこの様子を喜んでいる。 ここでは美術館の公式サイトを例示する。 中国では、Webサイトは許可制となっている。ICP(Internet Content Provider) Licenseと公安登録(Public Security Bureau、京公网安备、正式な中国語の名称:北京市计算机信息网络国际联网单位备案的简称)が必要となる。 個人が製作したウェブサイトやブログなどが、その個人の没後、どのように管理・保存されるべきかという問題がある。この問題を「関心空間」では「ネット墓守(ネットはかもり)」というキーワードとして登録した。インターネット上の個人の墓標といった、慰霊や追憶といったものとは別物である。あくまで、これは個人が生前活動していたかたちをそのままに残すというものである。
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ウェブサイト
個人が製作したウェブサイトやブログなどが、その個人の没後、どのように管理・保存されるべきかという問題がある。この問題を「関心空間」では「ネット墓守(ネットはかもり)」というキーワードとして登録した。インターネット上の個人の墓標といった、慰霊や追憶といったものとは別物である。あくまで、これは個人が生前活動していたかたちをそのままに残すというものである。 現在まだ日本国内では、直接個人のウェブサイトを本人の没後維持していくサービスのようなものは商品サービス化されていないが、難病で闘病生活をおくって亡くなった個人のウェブサイトを担当医、もしくはボランティアが故人の意図を尊重しつつ管理、維持しているものがいくつか存在する。 こうした動きの中で、例えば山形浩生のサイトにおける『遺言状』や、「まろまろ記」におけるWeb遺書など、管理者自身が急死にそなえて没後の方針をサイト上で意思表明する活動もおこなわれている。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のmixi内でのWeb 遺書コミュニティでも情報交換がおこなわれている。 この問題に対する社会的関心は徐々に高まっており、日本経済新聞2006年4月21日付の夕刊「ホームページよ永遠に」でも取り上げられている。 もっとも管理者が死去する以前に、管理者が自身のウェブサイトの管理・運営に飽きてしまい、途中で放置してしまう事例、若しくはサーバ管理会社が管理システムへのアクセス方法を変更し、管理者が切り替えに対応しなかったために管理不能となった例などは数多くある。大韓民国では2006年に韓国政府情報通信部と韓国情報保護振興院(KISA)(現:韓国インターネット振興院)により、放置されたサイトが悪用されるのを防ぐ為、長い間更新されていないサイトの大掃除が行われた。
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ホームページ
ホームページ (home page, homepage) とは、ウェブブラウザを起動した時に表示されるウェブページや各ウェブサイトのメインページのことである。 ホームページの用法には現在でも揺れが見られるが、おおよそ以下のように分類できる。 省略して、HP、ホムペなどと表現する場合もある。ホムペという略語は、個人が運営する携帯電話向けサイトのみを指している場合もある。HPという略語は英語圏でも利用されているが、同じ表記が米国のコンピュータ製品企業「ヒューレット・パッカード」やそれが分割された各社の社名、馬力(horsepower)の記号など多用途で使われるため、「HP」と記載しても「ホームページ」として認識されない場合があるので注意が必要である。 「ホームページという言葉は本来、上記用法1のようにウェブブラウザを起動した際に表示されるウェブページの事を指しており、それ以外の用法は誤用である」という主張がある。しかし実際にはホームページの意味は用法1以外の意味に多様化しているのが現状である。 代表的なウェブブラウザInternet Explorer、Google Chrome、Mozilla Firefoxなどでも、「本来の用法」とされるウェブブラウザ起動時のページは、「スタートアップ」「起動ページ」などと表現されており、用法1で使われていない。これらのブラウザでは用法2のホームボタンを押した際のページをホームページと呼んでいる。 また、ドイツや日本などの国では用法4、用法5の「ホームページ=ウェブサイト、ウェブページ」という認識が広く浸透している。日本の法令にもウェブページのアドレスの意で「ホームページアドレス」の語が用いられている。官公庁や企業でもウェブサイトの意味で使われている。なかには、用法1が正しい用語であるとしつつも、より一般にわかりやすいという判断からホームページという言葉を使用している例もある。 辞書においても、「本来の用法」とされる用法1以外の意味が記載されており、さらに用法1を採用していないものさえある。 英語圏では、主に用法1~3の用途で「homepage」という言葉を用いられる。ウェブ標準を推進するW3Cのウェブサイトでもメインページをhome pageと呼ぶ用法3で使用している。
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ホームページ
辞書においても、「本来の用法」とされる用法1以外の意味が記載されており、さらに用法1を採用していないものさえある。 英語圏では、主に用法1~3の用途で「homepage」という言葉を用いられる。ウェブ標準を推進するW3Cのウェブサイトでもメインページをhome pageと呼ぶ用法3で使用している。 英語圏の辞書においても、日本語圏と同様で、用法1と併せて他の用法を掲載しているものや、用法1を記載していないものもある。用法5の用途で「homepage」を説明したものもある。 ウェブブラウザを起動した時や、「ホーム」ボタンを押すと表示されるように設定されたウェブページなどの画面をホームページと呼ぶ。スタートページやトップページと呼ばれることもある。 ブラウザの開発元やスポンサー企業等が自社のポータルサイトにアクセスを誘導する役割もあり、例えばInternet Explorerではmsnなどマイクロソフトのポータルサイトが初期設定のホームページとなっている。またパソコンのメーカーが自社のウェブサイトをプリインストールブラウザの出荷時のホームページに設定する場合もある。 ウェブページ以外に、空白ページ(about:blank)やブラウザ自体や拡張機能によって提供されるブックマークや履歴を表示するページをホームページに設定できるブラウザも多い。 2000年代半ばまでは、ブラウザのホームページにはポータルサイトを設定する使い方が多かったが、2000年代後半以降はMicrosoft Edgeの「スタートページ」、Google Chromeの「新しいタブ」、Operaの「スピードダイヤル」などのように個人の使い方に合わせてカスタマイズされたページをホームページに設定する機能、あるいは前回終了した時に開いていたウェブサイトを再表示する機能が主流となっている。また、ホームボタンも初期設定では非表示になっているブラウザが多く、使用される機会は減っている。
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ホームページ
ソフトウェアをインストールする際に、そのソフトウェアメーカーが提供あるいは提携するポータルサイトをブラウザのホームページに設定する場合もある。多くの場合は、インストール時のオプションで拒否することもできるが、アドウェア(広告表示ソフト)やマルウェア、コンピュータウイルスの中にはブラウザのホームページを確認なく勝手に変更するものがある。ブラウザ起動時に設定した覚えのないサイトが表示されたら、不審なソフトウェアがないかチェックすることが望ましい。 ホームページという言葉はウェブサイトの表紙にあたるメインページだけを指す言葉としても使われる。トップページ、インデックスページ、フロントページとも呼ばれる。 メインページには、ほかのコンテンツへの入り口や、サイトの説明などが書かれている場合が多い。Wikipedia日本語版では「メインページ」がこれにあたる。 各ウェブページにホームページに戻るボタンが存在するサイトも多い。「○○のホームページへ」、「トップへ」、「Home」などのテキストのほか、Wikipediaのようにウェブページ上部に表示されるロゴがそのリンクになっていることも多い。 また、SNSなどにログインすることで表示される各ユーザー専用のページもホームページと呼ばれる場合がある。ユーザーへのメッセージや、登録されているプロフィールデータ等、ユーザーごとにカスタマイズされた情報が表示される。
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ウェブページ
ウェブページ (Web page, webpage) は、ウェブ上にあり、ウェブブラウザで閲覧可能な、ページ単位の文書のこと。ホームページと表記することもあるが、誤用であるという主張もある(詳しくはホームページの項を参照)。 もし、あなたがこの記事をWorld Wide Web(ウェブ)を使ってパソコンなどの画面上で見ているなら、この記事もウェブページの1つである。ウェブページのことを略して「ページ」ともいう。 書物のページとは異なり、ウェブページ同士を相互にハイパーリンクという形で指し示して移動できること(ハイパーテキスト)が特徴である。 一連のウェブページの集まりとしてできている意味のあるまとまりをウェブサイトという。ウェブサイトの最上位にあたるページをホームページ、トップページ、メインページなどと表現する場合があるが、正確にはドキュメントルートであり、ウェブサイトという表現でも通常は最上位ページを指す。 自分でウェブページを作成する場合、ソースコード (HTML) をテキストエディタで直接打ち込む他、専用のWebオーサリングツール(ウェブページ作成ソフトウェア)を用いたり、ウィキやブログ、ソーシャル・ネットワーキング・サービス (SNS) などのサービスを利用することもできる。オフィス系アプリケーションでは作成したドキュメントをHTML形式で出力する機能を持たせたものもある。 また、ネット上に存在するウェブページの数は"極めて膨大"であると言われており、2022年までにgoogleが発見したページだけでも130兆を超えている。 大半のウェブページは、HTML(またはXHTML)とスタイルシート、画像データで構成されており、ウェブブラウザを使用して閲覧されることが一般的である。HTMLではブラウザ毎の解釈が異なる場合があるため、企業などが制作しているページにはPDFが用いられていることもある。 JavaScriptなどのスクリプト言語を使ってウェブページに動作をもたせたり (DHTML)、FlashやJavaアプレットなどを付加的に用いてアプリケーションやインタフェースの機能を追加する場合がある。 電子掲示板(BBS)など、サーバサイドでウェブページやそこに含まれるコンテンツを動的に生成するための方法の、主要な例を以下に挙げる。
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ルイージ (ゲームキャラクター)
ルイージ (Luigi) は、任天堂が発売したコンピュータゲームソフトのシリーズ、マリオシリーズに登場する架空の人物で、同社の登録商標(第4997624号ほか)。 任天堂の看板キャラクター「マリオ」の双子の弟。兄のマリオより長身で痩せ型、カイゼル髭、シャツ・帽子が緑でオーバーオールが紺色、帽子のマークが「L」であるといった相違点がある。『大乱闘スマッシュブラザーズDX』で見られるフィギュアの説明を考慮すると、年齢はマリオと同じ26歳前後(ただし、厳密な設定は存在していない)。 性格はマリオより物静か。一人称は「ボク」で、基本的に柔らかい口調でしゃべる。マリオとは違い、やや気弱で臆病であり、おっちょこちょいな性格。日記を付けるマメな一面もある(『マリオストーリー』より)。お化けや怪物といった類いのものが大の苦手で、そうした存在と相対した際は激しくおびえる。 スポーツ系のゲームでは、マリオ共々、平均的な能力を持つキャラクターとして扱われているが、マリオはパワーが若干強め、ルイージはテクニックに長けているという差もある。 初期作品で2プレイヤー用キャラクターとして位置づけられて以降、マリオと比べてあまり目立たず活躍の場が限られていることから、一部のマリオシリーズや『大乱闘スマッシュブラザーズ』シリーズでは作中で「永遠の2番手」などと揶揄されることがある。 エンターブレインが企画する『ファミ通アワード2013』で「最優秀キャラクター賞」を受賞。 名前は任天堂の米国法人(Nintendo of America, NOA)の社員が付けたものである。イタリア人に多く語呂の良い名前を模索した結果「ルイージ」が選ばれたという。また、後の話によるとイタリア人デザイナーに多い名前でもあったとのこと。「生みの親である宮本茂が『マリオの類似(るいじ)やからルイージでええんちゃう』と言ったから」というのは俗説。
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ルイージ (ゲームキャラクター)
名前は任天堂の米国法人(Nintendo of America, NOA)の社員が付けたものである。イタリア人に多く語呂の良い名前を模索した結果「ルイージ」が選ばれたという。また、後の話によるとイタリア人デザイナーに多い名前でもあったとのこと。「生みの親である宮本茂が『マリオの類似(るいじ)やからルイージでええんちゃう』と言ったから」というのは俗説。 明確にマリオの弟「ルイージ」として初めて登場した作品は、1983年発売のゲーム&ウオッチ版『マリオブラザーズ』である。この中ではマリオの相棒として登場する。本体パネルに描かれたイメージイラストでは片方が赤い帽子・赤いオーバーオールに青のシャツ、もう片方は緑の帽子・緑のオーバーオールに赤のシャツとなっており、この頃から2人は「赤」「緑」として描き分けられていた。同年に稼働を開始した別内容のアーケードゲーム版『マリオブラザーズ』では、マリオが1プレイヤー用キャラ、ルイージが2プレイヤー用キャラとなり、マリオが青い帽子とオーバーオールに赤いシャツ、ルイージは緑の帽子とオーバーオールに赤褐色のシャツで描かれ、ファミコン版のゲーム中ではマリオが赤の帽子とシャツに青のオーバーオール、ルイージが白の帽子とシャツ、緑のオーバーオールの姿で描かれた。ただ、翌1984年稼働のアーケードゲーム版『VS.レッキングクルー』および1985年発売のファミリーコンピュータ(ファミコン)版『レッキングクルー』では、ルイージはピンク色の服装でマリオに近い配色だった。『スーパーマリオブラザーズ』においては、ゲーム中ではマリオが赤の帽子とオーバーオールに茶色のシャツ、ルイージが白の帽子とオーバーオールに緑のシャツの姿で、イラストではマリオが赤の帽子とオーバーオールに青のシャツ、ルイージが水色の帽子とオーバーオールに緑のシャツの姿で描かれた。
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ルイージ (ゲームキャラクター)
初めてマリオとの能力の差別化が図られた作品は1986年発売の『スーパーマリオブラザーズ2』である。この作品では「マリオに比べてジャンプ力が高いが滑りやすい」という、上級者向けの設定になった。この設定は、以降のスーパーマリオシリーズでも多く用いられるようになる。服の色以外で初めて外見的な違いが設けられた作品は、同年公開のアニメ映画『スーパーマリオブラザーズ ピーチ姫救出大作戦!』で、マリオよりも細身で長身になっている。ただし、この時の服の色はシャツが黄色、帽子・オーバーオールが青だった。その後、1988年4月発売の『ファミコングランプリII 3Dホットラリー』の説明書内でも細身・長身の姿で描かれると同時に、髭の形がマリオと異なるものに、Lマークが緑にそれぞれ変更された。同時期に日本国外で発売された『Super Mario Bros. 2』(日本における『スーパーマリオUSA』)で初めてグラフィックが差別化された他、シャツ・帽子が緑、オーバーオールが青となり、以降、このスタイルが定着することになる。日本でも『マリオオープンゴルフ』からはゲーム内でも同様に描かれるようになった。また、『ルイージマンション』からはオーバーオールがマリオよりも暗い紺色で差別化されることが多い。作品によってはジャンプ時に足をばたつかせるといった特徴がつけられることもある。
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ルイージ (ゲームキャラクター)
初期の頃は無鉄砲な性格(『スーパーマリオブラザーズ2』の説明書より)で、ファミコンからスーパーファミコン時代の漫画やゲームブック、および前述のアニメ映画では、マリオより兄貴肌の性格として描かれていた。また、ファミリーコンピュータ ディスクシステムの起動画面や『スーパーマリオブラザーズ3』のタイトル画面ではルイージがいたずらを仕掛ける様子が描かれている。しかし、吉田戦車の漫画『はまり道』や本山一城のスーパーマリオシリーズの漫画等で「二番手」「報われない」ということを皮肉って卑屈な性格として描かれて以降、そのイメージが徐々にゲーム本編でも反映されるようになり、一方で、気弱な性格(『マリオストーリー』や『ルイージマンション』など)、多少ドジ(『ペーパーマリオRPG』から)といった、マリオとは異なるルイージ特有の人物像が形成されていった。長期連載となっている沢田ユキオの漫画『スーパーマリオくん』におけるルイージも、初期は一人称が「おれ」で荒っぽい性格だったが「ペーパーマリオRPG編」以降から現在のゲームに準拠した性格に変更されている。 『マリオカート64』以降の作品からは声が付いた。初期の頃に担当していたジュリアン・バーダコフは高い声だったが、国外版『マリオカート64』、『マリオゴルフ64』から担当していたチャールズ・マーティネーはマリオよりもやや低い声で演じている。『ルイージマンション』以降の作品では控えめで気弱な性格が声でも表現されるようになった。ただし、『ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』および『大乱闘スマッシュブラザーズDX』では、チャールズ・マーティネーによるマリオの声を高い声に加工したものがルイージに用いられていた。『スーパーマリオブラザーズ ワンダー』でのケビン・アフガニの声もマリオよりやや低い声に準じたものとなっている。
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ルイージ (ゲームキャラクター)
マリオシリーズにおいて、ルイージはマリオと同様に様々な変身能力を発揮する。多くの能力はマリオと同じで、「ファイアルイージ」(マリオにおける「ファイアマリオ」に相当)のように名称と衣装等が異なるだけだが、『スーパーマリオ 3Dランド』『スーパーマリオ 3Dワールド』の「キツネルイージ」(マリオにおける「タヌキマリオ」に相当)、『New スーパーマリオブラザーズ 2』の「シルバールイージ」(マリオにおける「ゴールドマリオ」に相当)などのように、マリオと性能は共通したままで明確に異なる姿になるものもある。 変身能力の詳細は「マリオ (ゲームキャラクター)#変身能力」を参照。 ルイージの赤ん坊時代の姿。1995年発売の『スーパーマリオ ヨッシーアイランド』で初登場。この作品を含むいずれの『ヨッシーアイランド』シリーズでも敵にさらわれる。2003年発売の『マリオカート ダブルダッシュ!!』では、ベビィマリオとのペアという形で登場。公式サイトの説明では、「シャイでハニカミやさんだけど、攻撃はスゴイぞ!」と記載されている。『マリオ&ルイージRPG2』では大人マリオと共に大人ルイージが過去にタイムトラベルした際に共演する。泣き虫だが勇敢な性格。大人ルイージとすぐに仲良くなる。『マリオスポーツ スーパースターズ』ではメインキャラクターとして登場する。ベースボールは「スーパーマリオスタジアム ファミリーベースボール」以来約8年半ぶりで、テニス、サッカー、ゴルフは初参加となる。 『スーパーマリオ ヨッシーアイランド』および『ヨッシーアイランドDS』『ヨッシー New アイランド』ではおむつ姿だったが、『マリオカート ダブルダッシュ!!』以降ではオーバーオール姿で登場する。声は大人ルイージと同じくチャールズ・マーティネーが担当している。 『スーパーペーパーマリオ』に登場。敵であるノワール伯爵の部下「ザ・伯爵ズ」のナスタシアに捕まって催眠術をかけられ、洗脳されたルイージ。「ミドリ色の貴公子」「ミドリのいかずち」との異名を用いる。黒い服を着用し、首に緑色のスカーフを巻き、顔の上半分は黒い仮面で覆われている。頭に被る緑の帽子にはLのアルファベットの鏡文字が描かれている。
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ルイージ (ゲームキャラクター)
『スーパーペーパーマリオ』に登場。敵であるノワール伯爵の部下「ザ・伯爵ズ」のナスタシアに捕まって催眠術をかけられ、洗脳されたルイージ。「ミドリ色の貴公子」「ミドリのいかずち」との異名を用いる。黒い服を着用し、首に緑色のスカーフを巻き、顔の上半分は黒い仮面で覆われている。頭に被る緑の帽子にはLのアルファベットの鏡文字が描かれている。 普段のルイージの性格とは大きく変わっている。マリオへの対抗心をむき出しにし、誰彼構わず傍若無人な言動をとる。一人称は「オレ」(ただし洗脳が解けかけた際は「ボク」と言っている)。 洗脳が解けた際にはミスターLとしての記憶を失っており、マリオたちもミスターLがルイージだと気づいていない(「どこかで見たことがある」と思った程度)。 『マリオ&ルイージRPG4 ドリームアドベンチャー』に登場。夢世界のルイージ。 2Dのスーパーマリオシリーズでは、2プレイヤーキャラクターとしてマリオと共に登場する。また、マリオカートシリーズやマリオパーティシリーズなどの作品でも常連となっている。一方で、3Dのスーパーマリオシリーズ『スーパーマリオ64』『スーパーマリオサンシャイン』では出番がなく(リメイク版の『スーパーマリオ64DS』には登場する)、それ以外の作品でも出番が限られたり、ぞんざいに扱われたりすることがある。 『スーパーマリオRPG』では取扱説明書や一部の台詞、エンディングにしか顔を見せず、『マリオストーリー』では、マリオが冒険に出ている間、家でずっと留守番をしている。 『ルイージマンション』で初めて主役を務める。なお、日本国外のみで発売された地理学習ゲーム『Mario is Missing!』では主役となっているが、任天堂はライセンス供与のみで同作の開発・販売に関わっていない。 『マリオ&ルイージRPG』シリーズではマリオのパートナーとして冒険する。ただ、物語の中では、クッパから「緑のヒゲ」「頼りないヒゲ」、マメーリア城の警備員からも「ルーなんとか」と名前で呼ばれないなど、雑な扱いを受けている。
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ルイージ (ゲームキャラクター)
『マリオ&ルイージRPG』シリーズではマリオのパートナーとして冒険する。ただ、物語の中では、クッパから「緑のヒゲ」「頼りないヒゲ」、マメーリア城の警備員からも「ルーなんとか」と名前で呼ばれないなど、雑な扱いを受けている。 『ペーパーマリオRPG』では、エクレア姫を助けるために単身冒険に出ているが、その様子はゲーム本編では描かれていない。仲間の話を聞く限り、旅先で迷惑ばかりかけていたとのことだが、エクレア姫は無事に救出している。作中では、冒険の内容を記した本『スーパールイージ』シリーズが(話をかなり美化した上で)発売されベストセラーになっている。 『スーパーマリオ64DS』では操作キャラクターの一人となり、ゲーム中ではマリオの「スケスケマリオ」(透明マリオ)の能力と同様の「透明ルイージ」に変身することができる。また、短時間水面歩行できる特有の能力を持つ。ただ、ゲーム中の解説(看板)によれば、透明ルイージは「影が薄いから」、水面歩行は「水に浮くほど存在が軽いから」可能になったとのこと。作品内では味方キャラクター(キノピオ、赤ボム)からも馬鹿にされている。 『スーパーペーパーマリオ』では、ノワール一味に洗脳され、洗脳が解けた後はマリオたちの仲間となって同行し、終盤で再び洗脳される。洗脳されている間は「ミスターL」と名乗り、専用メカ「エルガンダー」(後に「エルガンダーZ」へと強化)と共にマリオたちの前に現れる。 『スーパーマリオギャラクシー』では、「ファントムギャラクシー」内の館に幽閉されている。救出後は「パワースター」探しを行うようになるが、毎回のように向かった先から帰れなくなっている。マリオが迎えに行きルイージが持つパワースターを受け取る際には、マリオの後ろでポーズを決める。また、パワースターを120個集めると、ルイージをプレイヤーキャラとして使用できるようになるが、シナリオはマリオの場合と変わらないため、場面によってはルイージが同時に2人登場する。ルイージ本人はそれを「自分によく似た人」としか思っておらず、気に留めていない。 『マリオ+ラビッツ キングダムバトル』では、キノコ王国に現れたウサギ「ラビッツ」たちとともに武器を装備して戦う。
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ルイージ (ゲームキャラクター)
『マリオ+ラビッツ キングダムバトル』では、キノコ王国に現れたウサギ「ラビッツ」たちとともに武器を装備して戦う。 『マリオテニスエース』では、ワリオとワルイージが持ち込んだ人を操る力を持つラケット「エスター」の力に取り込まれ、ルイージが行方不明になる。 その他、『New スーパーマリオブラザーズ U』の派生作品『New スーパールイージ U』や、『スーパーマリオ 3Dワールド』収録の作品『ルイージブラザーズ』などでも主役を務めている。 『大乱闘スマッシュブラザーズ』シリーズではファイターの一人として全作品に登場。 1作目の『ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』から3作目『大乱闘スマッシュブラザーズX』までは初期段階では使用できず、一定条件を満たすと使用できるようになる。戦闘時に見せる動きはコミカルなものが多い。 『大乱闘スマッシュブラザーズX』では、強力な必殺ワザ「最後の切りふだ」として、ルイージの周辺に様々なマイナス効果を及ぼす空間を発生させる強力な技「ネガティブゾーン」を用いる。また作中では、『メタルギア』シリーズのキャンベル大佐がルイージのことを「永遠の2番手」「いわゆる日陰者」「兄に勝る弟などいない」と貶し、同シリーズのスネークにたしなめられる場面がある。 同作品のアドベンチャーモード「亜空の使者」では、ストーリー上重要な役割を果たすこととなる。 4作目『大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U』以降では、ジャンプ時に『スーパーマリオUSA』などのように足をばたつかせる動作を行うようになったほか、最後の切りふだが『ルイージマンション』でルイージが使用するアイテム「オバキューム」に変更されている。 1983年発売の『マリオブラザーズ』でルイージが初登場してから2013年で30周年となったことを受け、2013年2月14日に放送された「Nintendo Direct」の中で、当時の任天堂社長・岩田聡から2013年を「ルイージの年」にすると宣言された。以降、約1年にわたって関連作品・関連グッズが製作・販売され、関連イベントも行われた。この「ルイージの年」は2014年3月18日をもって終了した。
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ルイージ (ゲームキャラクター)
1983年発売の『マリオブラザーズ』でルイージが初登場してから2013年で30周年となったことを受け、2013年2月14日に放送された「Nintendo Direct」の中で、当時の任天堂社長・岩田聡から2013年を「ルイージの年」にすると宣言された。以降、約1年にわたって関連作品・関連グッズが製作・販売され、関連イベントも行われた。この「ルイージの年」は2014年3月18日をもって終了した。 ゲーム作品では専任声優としてチャールズ・マーティネーが長年担当していた。チャールズは2022年に降板となり、2023年の『スーパーマリオブラザーズ ワンダー』からはケビン・アフガニが新たに声を担当する。
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リンクの冒険
『リンクの冒険』(リンクのぼうけん、英題: Zelda II: The Adventure of Link)は、任天堂より1987年1月14日に発売されたファミリーコンピュータ ディスクシステム用アクションロールプレイングゲーム。パッケージおよびタイトル画面では『THE LEGEND OF ZELDA 2 リンクの冒険』と表記され、テレビCMでは『ゼルダの伝説パート2 リンクの冒険』と紹介している。 1986年に発売されたアクションアドベンチャーゲーム『ゼルダの伝説』の続編。前作はほぼ全編にわたり正面見下ろし視点(トップビュー)で表示されていたが、本作ではフィールドの移動時を除き横視点(サイドビュー)で表示される。また、経験値を取得してレベルを上げ能力を強化する要素や一般のアクションゲームのような残り数の要素があるなど、後続のシリーズ作品のシステムとは大きく異なる。 ディスクライターでの累計書き換え回数は第4位を記録している。 ゲームボーイアドバンス用ソフト(ファミコンミニ)やWii、ニンテンドー3DS、Wii U用ソフト(バーチャルコンソール)として本作が移植された。また、かつて任天堂が行っていた会員サービス「クラブニンテンドー」の景品として配布されたニンテンドーゲームキューブ用ソフト『ゼルダコレクション』と、2016年11月10日に発売されたファミリーコンピュータの復刻版「ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ」に収録された他、Nintendo Switch用ゲームソフト『ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online』にも2019年1月16日に追加され、同年3月13日には『リンクの冒険 力持ちバージョン』と題した特別版も配信された。さらに、2021年11月12日にゲーム&ウオッチ 40周年記念作の第2弾として発売された「ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説」にも本作が収録されている。 少年リンクの活躍により魔王ガノンが倒され、ハイラル王国の秘宝「力のトライフォース」と「知恵のトライフォース」は王家の手に戻った。しかし、依然としてガノンの影響は消えず、残党たちがガノン復活に必要となるリンクの血を求め各地で暴れ回っていた。
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リンクの冒険
少年リンクの活躍により魔王ガノンが倒され、ハイラル王国の秘宝「力のトライフォース」と「知恵のトライフォース」は王家の手に戻った。しかし、依然としてガノンの影響は消えず、残党たちがガノン復活に必要となるリンクの血を求め各地で暴れ回っていた。 王国が荒廃を続ける中、復興に尽力していたリンクは16歳の誕生日を迎えた。すると、リンクの左手の甲にトライフォースの紋章のような痣が浮かび上がった。その痣を見た王国のゼルダ姫の乳母インパがリンクを北の城の一室に連れて行くと、そこには一人の女性が横たわっていた。インパはその女性「初代ゼルダ姫」の伝説について語り始めた。 これがシリーズ名「ゼルダの伝説」の起源である。 初代ゼルダ姫は、亡き父王よりトライフォースの秘密を伝えられていた。その秘密を聞き出そうと兄王子が問い詰めるも姫は口を閉ざし続け、耐えかねた側近の魔術師が魔法をかけたことで、姫は決して覚めぬ眠りに落ちてしまった。過ちに気付いた兄王子は、後世に遺す戒めとして代々の王女にゼルダと名付けるよう定めたのである。 インパは、リンクに6つのクリスタルと1本の巻物を手渡した。その巻物には、「力」「知恵」とは異なる「勇気のトライフォース」が「死の谷」(デス・バレー)の大神殿に隠されていること、大神殿に入るためには各地の6つの神殿の守護神を倒しその先にある石像にクリスタルをはめる必要があることが記されていた。トライフォースの力を用いて初代ゼルダ姫とハイラルを救うようインパから託されたリンクは、再び旅に出ることを決意する。 トップビューで描画されたフィールドでは一般的なRPGのようにリンクを移動させる。フィールド上には町やダンジョンのシンボルがあり、重なってそれぞれの内部に入るとサイドビューの表示に切り替わる。 また、フィールド上を移動している敵シンボルに触れた際にもサイドビューになり戦闘が開始される。戦闘が行われる地形は、戦闘直前にリンクがいた場所の地形により変化する。リンクがエリアの端に到達すると戦闘が終了し再びトップビューのフィールド画面に戻る。
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リンクの冒険
また、フィールド上を移動している敵シンボルに触れた際にもサイドビューになり戦闘が開始される。戦闘が行われる地形は、戦闘直前にリンクがいた場所の地形により変化する。リンクがエリアの端に到達すると戦闘が終了し再びトップビューのフィールド画面に戻る。 敵を倒した際やアイテムの「宝袋」の入手時に経験値を得られ、一定値に達すると、3つのステータス「ATTACK」(攻撃力)、「MAGIC」(魔法使用時に消費する数値の上限)、「LIFE」(体力の上限)のうちいずれか1つのレベルを上げることができる。MAGICとLIFEのレベルアップ時には、それぞれ、各魔法の消費魔力の減少、敵から受けるダメージの減少の追加効果が得られ、さらに全回復する。なお、ゲームオーバー後のゲーム再開時には、3つのステータスのレベルが最も数値が低いものに統一される(例えば、ATTACKがレベル1、MAGICがレベル2、LIFEがレベル3の場合は、全てレベル1になる)。また、全てのレベルが最大値の8に達した状態でレベルアップすると、リンクの残り数が1つ増える。 盾を用いて、通常の状態では上半身(上段)を、しゃがみ時には足元(下段)を防御する。ファイアボール、斧、チェーンハンマー、棍棒による敵の攻撃は盾では防御できない。 魔法は各地の町にいる魔術師から教わることで習得する。消費魔力は魔法ごとに異なる。SHIELDとJUMPの効果は重複せず、後に使った方が優先される。変身や強化の魔法は、画面が切り替わるまで有効。 一部の説明は攻略本『リンクの冒険必勝攻略法』(ファミリーコンピュータ完璧攻略シリーズ 双葉社 ISBN 978-4575150759)に基づく。 海外ではNES対応のロムカセットとして発売された。国内版からそのまま移植されているのではなく、様々な変更が加えられている。 ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Onlineでは通常のディスクシステム版のほか、『リンクの冒険 力持ちバージョン』という特別版も配信されている。
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チャンピオンシップロードランナー
『チャンピオンシップロードランナー』 (Championship Lode Runner)はコンピューターゲームで、アクションパズルゲーム『ロードランナー』(1983年)の続編である。オリジナルはアメリカ合衆国のブローダーバンド社からApple II対応ソフトとして発売された。 日本では、1985年からファミリーコンピュータ (発売元:ハドソン) やSG-1000 (発売元:セガ)、MSX (発売元ソニー)、国産パソコン各機種(発売元:システムソフト、ソフトプロ)に移植された。またWiiとWii Uのバーチャルコンソールでファミリーコンピュータ版が配信されている。 穴を掘りロボットを埋め、画面内にある全ての金塊を回収するアクションパズルゲームである。アクション性よりも、むしろ消したブロックの復活のタイミングや ロボットの動きを正確に理解した上で、難解パズルを解いていくのがメイン。画面も1画面完結でないため、隅々まで金塊を捜す必要があり、金塊を全て回収しても、別の画面へ移動してゴールを見つけなければクリアできない。ロードランナーの上級編で、システムやルール、パッケージイラストは前作と同じである。 BGMはないが、効果音でBGMに近い音を出している。 ステージ31はノーヒントによる攻略はほぼ不可能であり、別冊ファミリーコンピュータ必勝本1の攻略記事で、「こんなものはパズルなんかじゃない」と述べられる。これらのステージはロードランナーの作者であるダグ・スミスのところに全世界から投稿されてきた難易度の高いステージが採用されている。ダグ・スミスによると、全50ステージのうち、日本人からの投稿は25ステージ。さらにその中の10ステージは当時のアスキー編集部の人間の投稿だった。
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チャンピオンシップロードランナー
ファミリーコンピュータ版発売当時、早解コンテストが催され、ステージ11~ステージ50までのパスワードを全て送ると、HUDSONチャンピオンシップロードランナー審査委員会から「チャンピオンカード」というゴールドの認定証が発行された。この認定番号は、早くクリアしたほど番号が若く、当時ハドソン社員だった高橋名人の番号は39050番である(mixiにおける2008年12月5日の高橋の日記)。また、全部で50ステージがあり、最初の10ステージは好きな順番でクリアできる。それ以降は1ステージクリアするごとに次のステージのパスワードが表示され、順にクリアしていかなければならない。パスワードはブロックなどの絵で描かれており、全てのパスワードをまとめると、最終ステージ50のマップになっている(ファミコン版のみ)。 なお、チャンピオンカードは50ステージ全てをクリアしたことを証明するものとされ、各ステージのパスワードを送ることが条件だが、ステージ50をクリアしてもパスワードは表示されず審査の対象外だったため、実際はステージ49までクリアすれば貰う事が出来た。 各種PC版においても、各発売元ごとに同様の認定証キャンペーンは行われていた。 Apple版のデモ画面は作者ダグ・スミスのプレイを収録したものである。 セガ版だけのオリジナル要素である。 ステージ50をクリアした後のエンディング画面の曲はタイトル画面の曲と同じである。
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(独: Wolfgang Amadeus Mozart [ˈvɔlfɡaŋ ʔamaˈdeːʊs ˈmoːtsaʁt] ( 音声ファイル)、1756年1月27日 - 1791年12月5日)は、主に現在のオーストリアを活動拠点とした音楽家。 洗礼名はヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト [Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart]。 ハイドンやベートーヴェンと同じく古典派音楽・ウィーン古典派を代表する存在である。 1756年1月27日、ザルツブルクで誕生する。現在はオーストリアの都市であるが、当時は神聖ローマ帝国領(当時の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」に属する大司教領であり、オーストリアの前身国家である大公領には含まれていない。この点が現代にまで議論を招いている点は後述)であった。 父・レオポルト・モーツァルトは、元々は哲学や歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストであった。母はアンナ・マリーア・ペルトルで、7番目の末っ子としてヴォルフガングは生まれた。ほかの5人は幼児期に死亡し、唯一、5歳上の姉マリーア・アンナ(愛称ナンネル)だけがいた。この幼児の低い生存率は当時では普通であった。なお、祖先の姓はモッツハルト(Motzhardt)である。
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。3歳のときからチェンバロを弾き始め、5歳のときに現存する最古の作品が作曲される (アンダンテ ハ長調 K.1a)。11歳ごろの作曲譜も発見された。父とともに音楽家としてザルツブルク大司教・ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方で、モーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。1762年1月にミュンヘンへ、9月にウィーンへ旅行したのち、10月13日、シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはそのとき手を取った7歳の皇女マリア・アントーニア(のちのマリー・アントワネット)に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという逸話がある。7歳のときフランクフルトで演奏した際に作家のゲーテがたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶと思ったとのちに回想している。 1769年から1771年にかけて第1回目のイタリア旅行を行い、父とともにミラノ、ボローニャ、ローマを巡回する。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてからまもない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている。イタリア旅行は3度に及ぶが、中でも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。 1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。しかしこうした称賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K. 87は大絶賛されたが、その報酬はわずかなものであった。
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。しかしこうした称賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K. 87は大絶賛されたが、その報酬はわずかなものであった。 1777年にはザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、次いでマンハイムへ移る。同年10月、パリに行く途中にアウクスブルクに立ち寄り、彼がベーズレと呼んでいた従妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会した。マリアは父・レオポルトの弟の娘で、このとき、2人は互いに惹かれあい、モーツァルトは初めて肉体関係を持った。マンハイムでは、正確な演奏、優雅な音色、クレシェンドで有名だったマンハイム楽派の影響を受ける。モーツァルトは「気取ったマンハイム様式」とも呼んでいた。 モーツァルトはマリアに未練を残しつつも、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘、アロイジア・ヴェーバーに恋し、結婚の計画を立てるが、父・レオポルトは猛然と反対し、1778年2月にはパリ行きを命じる。3月から9月までのパリ滞在は悪夢であった。受け入れ先のシャボー公爵夫人からは冷遇され、また稼ぎもよくなかった。また自邸に招いて演奏させた人々は絶賛するが、報酬は出し惜しみした。交響曲第31番ニ長調(K297)「パリ」を作曲する。7月3日、同行した母がパリで死去した。 1781年3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教・ヒエロニュムス・コロレドの命令でミュンヘンからウィーンへ移るが、5月9日、コロレドと衝突し解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意する。以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てていた。 翌1782年、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚する。コンスタンツェはかつてモーツァルトが片思いの恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、歌劇『魔弾の射手』等の作曲で知られるカール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉であった。このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。 1783年、このころ『ピアノソナタ第11番(トルコ行進曲付き)』を作曲したといわれる(1778年説もある)。
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
1783年、このころ『ピアノソナタ第11番(トルコ行進曲付き)』を作曲したといわれる(1778年説もある)。 1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈する(「ハイドン・セット」)。2月に父・レオポルトがウィーン訪問した際には、息子の演奏会が盛況なことを喜ぶとともに、ハイドンから息子の才能について賛辞を受ける。ハイドンは2年後の1787年、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦した。ハイドンは「もし有力者が彼の才能を理解できるのなら、多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」と断言した。 1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問する。4月にはベートーヴェンがモーツァルトを訪ねたとされるが記録はない。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとる。しかしこのころから借金依頼を頻繁に行う。 1787年5月28日に父レオポルト死去。父という文通相手を喪ったため、以降のモーツァルトの書簡は激減し、晩年については不明な点が今日でも多い(現存する晩年の書簡の大半は妻コンスタンツェか、借金相手のヨハン・プフベルク宛のものである)。8月10日、ウィーンで『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を作曲。 翌1788年にはいわゆる「3大交響曲」(交響曲第39番、第40番、第41番)を作曲する。しかし、第40番を除いて演奏を聴くことはなかったと見られる。さらに、フリーメイソン仲間のヨハン・プフベルクからの借金が増えてくる。 ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトの天才に恐れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする臆説もある。
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトの天才に恐れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする臆説もある。 1790年1月、オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』 K.588を初演する。2月には皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世が即位する。モーツァルトはフランクフルトで行われた戴冠式に同行し、同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調 K.537「戴冠式」、同19番ヘ長調 K.459「第二戴冠式」などを演奏するも聴衆は不入りだった。 1791年 1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番 K.595を作曲する。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルトの最後のステージとなった。7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ 『皇帝ティートの慈悲』 K.621を初演。 9月30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール 『魔笛』 K.620を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演のときにはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。 体調は11月から悪化し、レクイエム K.626に取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分にウィーンで死去した。35歳没。死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。 この年、レオポルト・ホフマンの推挙でモーツァルトはシュテファン大聖堂の副楽長に任ぜられたが、無給であった。ホフマンは病床にあったため、彼が次期の楽長になる望みもあった。しかしモーツァルトの方が先に死去し、ホフマンが病から回復したため楽長に昇進することはなかった。ホフマンの死後に楽長を引き継いだのはアルブレヒツベルガーであった。
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この年、レオポルト・ホフマンの推挙でモーツァルトはシュテファン大聖堂の副楽長に任ぜられたが、無給であった。ホフマンは病床にあったため、彼が次期の楽長になる望みもあった。しかしモーツァルトの方が先に死去し、ホフマンが病から回復したため楽長に昇進することはなかった。ホフマンの死後に楽長を引き継いだのはアルブレヒツベルガーであった。 死去する3年前の手紙に自分自身のことを語っている。「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころから、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです」 妻・コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのは、カール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している。フランツは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗った。成人した2人の男子はどちらも子を残さなかったため、モーツァルトの子孫はいない。 モーツァルトの死後、コンスタンツェは、彼女の多大な借金を返すために予約演奏会を開いた。そして数年の間に、ウィーン、プラハ、ライプツィヒ、ベルリンなどの音楽会で、後援者たちから多額の金額を集めている。 症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。実際の死因は「リューマチ性炎症熱」であったと考えられている。リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹患したとされている。また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。
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症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。実際の死因は「リューマチ性炎症熱」であったと考えられている。リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹患したとされている。また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。 モーツァルトは1791年7月に、自分がアクア・トファーナ(別名ナポリ水とも呼ばれた亜砒酸が主要成分の水溶液で、当時の美顔、美白薬だが毒としても有名だった)で毒殺されかけていると考え、それを妻に伝えている。実際、妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。当時は遺体のむくみが毒殺の証拠だと考えられており、モーツァルトの遺体がひどくむくんでおり、それによって後述の、サリエリに関する噂が一気に広まった。 また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。1820年ごろになると、ウィーンでは「ロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。 サリエリは重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうとして、数多くの背任をまた非難されることになった。この噂にサリエリは1825年に死ぬまで悩まされた。 葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある。遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩馬車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である。この簡素でそっけない埋葬は、晩年のモーツァルトが後援者たちから軽視されていたことの表れだと考えられる。
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葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある。遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩馬車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である。この簡素でそっけない埋葬は、晩年のモーツァルトが後援者たちから軽視されていたことの表れだと考えられる。 没後100年の1891年、中央墓地(ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものである。なお、サンクト・マルクス墓地は1874年に新たな中央墓地が建設されたことをもって新規の受け入れを停止している。ヨハン・シュトラウス2世の弟ヨーゼフ・シュトラウスも最初はここに埋葬されていた(1909年に中央墓地に移設)。 現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルク)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され、遺骨は散逸し、頭蓋骨だけが保管され、以来複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋についてはその存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年にウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父・レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行った。検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったものの、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。 作品総数は断片も含め900曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、クラヴィーアソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。
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作品総数は断片も含め900曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、クラヴィーアソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。 作品を識別するには、音楽家のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。モーツァルト自身は1784年以降に自作の作品目録をつけている。1784年より前の作品やモーツァルト自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。 最初は父のレオポルト経由でヨハン・ショーベルトなどの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、チェンバロ曲を中心に学んだ。その後、ヨハン・クリスティアン・バッハの影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受けた。後期に入るとハイドンとヨハン・ゼバスティアン・バッハの影響が強い。 モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。聴衆にとっては、明るく華やかに聞こえる作品が多い。これは当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。彼がおもに使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えた。 晩年に向かうにつれて、長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。 モーツァルトの時代にはポリフォニー音楽が流行遅れになり、ホモフォニー音楽が支配的になっていた。しかし彼はJ.S.バッハやヘンデルの作品を研究し、交響曲第41番の終楽章のように対位法を活用する手腕があった。
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
モーツァルトの時代にはポリフォニー音楽が流行遅れになり、ホモフォニー音楽が支配的になっていた。しかし彼はJ.S.バッハやヘンデルの作品を研究し、交響曲第41番の終楽章のように対位法を活用する手腕があった。 「下書きをしない天才」とも言われ、モーツァルトが並外れた記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿および修正の跡が多く発見されている。人気の高いピアノ協奏曲23番については、その数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、たとえば交響曲第36番はリンツ滞在中に作曲されたが、父との手紙のやり取りから3日で書き上げたことが分かっている。交響曲第39番から41番「ジュピター」までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは、彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し、今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲したという手順を踏んでいたということが分かっている。 モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである。モーツァルトの時代に限らず、何世紀もの間、芸術家は教皇や権力者などのパトロンに仕えることで生計を立てていた。18世紀になってからはパトロンから市場に移ることが徐々に可能になっていく。幼いころから各地を巡業した理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代であった。したがって、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かったことの証でもある。実際、父の死後は依頼者のない作品が生まれている。これは、聴衆の嗜好に配慮せよとの父による規制がなくなったため、モーツァルト自身の目指す音楽に向かうことが可能になったからである。交響曲などがそれにあたる。 思想的には、フリーメイソンがパトロンであったこともあり、作品では特に魔笛、ピアノ協奏曲第20番にその影響が指摘されている。
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
思想的には、フリーメイソンがパトロンであったこともあり、作品では特に魔笛、ピアノ協奏曲第20番にその影響が指摘されている。 モーツァルトの時代、現在でいう「ピアノ曲」、ピアノ・ソナタ、ピアノ協奏曲などはドイツ語圏では通常「クラヴィーア」と書かれていた。クラヴィーアとは鍵盤楽器のことであるが、有弦鍵盤楽器を指し、フォルテピアノ、チェンバロ(ハープシコード、クラヴサン)、クラヴィコードのいずれかで演奏される選択の自由があったが、協奏曲などは編成からフォルテピアノかチェンバロで演奏された。今日ではチェンバロで演奏される機会も増えている。 モーツァルトの初期の数作品はチェンバロのために書かれており、彼はレーゲンスブルクの製作者フランツ・ヤコブ・シュペートが作ったピアノに馴染んでいた。 後にモーツァルトはアウクスブルクを訪れてシュタインピアノに感銘を受け、そのことを父親への手紙に書いている。1777年10月22日にモーツァルトは、シュタインが提供した楽器で3台のピアノのための協奏曲(K.242)を初演した。アウクスブルク大聖堂のオルガン奏者デンムラーが第1パートを演奏し、モーツァルトが第2パート、そしてシュタインが第3パートを演奏した。1783年のウィーン在住時に、彼はワルターの楽器を購入した。モーツァルトが自分のワルターのフォルテピアノに愛着していた様子は、レオポルト・モーツァルトの「この喧騒を説明するのは不可能だ。おまえの弟のピアノは、彼の家から劇場または他の誰かの家へと少なくとも12回移動されたのだ。」という記述からわかる。 モーツァルトが自身の作品でフォルテピアノのためと明記したのは、1785年に出版した作品が初めてであった。チェンバロはバロック音楽に限定されると思われることが多いが、ウィーンでは19世紀初頭までチェンバロが製作されており、ベートーベンの作品の中にもマンドリンとチェンバロのためのソナチネと言う作品が2つあるほどである。
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モーツァルトが自身の作品でフォルテピアノのためと明記したのは、1785年に出版した作品が初めてであった。チェンバロはバロック音楽に限定されると思われることが多いが、ウィーンでは19世紀初頭までチェンバロが製作されており、ベートーベンの作品の中にもマンドリンとチェンバロのためのソナチネと言う作品が2つあるほどである。 モーツァルトの洗礼名(ラテン語)は、ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト(Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart)である。当時はイタリアの音楽家がもてはやされており、モーツァルトは「テオフィルス」よりもラテン語で意訳した「アマデウス(Amadeus)」を通称として使用していた。ただしモーツァルトはAmadeusではなくイタリア語風のアマデーオ(Amadeo)をおもに使っていたともいわれ、ほかフランス語風のアマデ(Amadé)、ドイツ語風のゴットリープ(Gottlieb)も用いたことがある。
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
肖像画や銅像ではいずれも「神童」に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており子供の姿で描写されたものも多いが、実際の容姿に関しては諸説ある。最初の伝記作者ニーメチェク(英語版)によれば、身体的に見て「小柄で顔つきは楽しげだったが、情熱的な大きな目を除けば何ひとつ、その突出した才能を示すものはなかった」という。有力なのは「21歳の時にかかった天然痘の痕がいくつもあり、丸鼻で近眼」というものである。本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだったデスマスクは、彼の死後すぐに製作を依頼し、美術陳列館のシュトリテッツ伯爵に石膏で型取られたことが義妹のゾフィー・ハイブルにより証言されているが、その後は行方不明になり現在まで発見されていない。19世紀後半には、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまったと語られ、いまだに事実のように伝えられているが、実際にはそのような記録はなく憶測に過ぎない。体躯に関しても「小柄である」「肥満が著しかった」などと、様々な説があったが、検死による実際の身長は163センチ程であり、当時の西洋人としては中背程度である。左耳は奇形で、対耳輪上脚と耳垂が欠けていた。この形と類似した耳は「モーツァルト耳」と呼ばれている。また末子のフランツも同様の耳をしている事から、フランツが不義の子であることを否定する根拠にもなっている。 信頼性があるのは、義兄(アロイジアの夫)のヨーゼフ・ランゲによるスケッチである(右下)。 2006年、ドイツのテレビ局ZDFが「史上もっとも偉大なドイツ人は誰か」というアンケートにモーツァルトをノミネートしたことに在独オーストリア大使館が抗議したことから、議論が巻き起こった。
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
信頼性があるのは、義兄(アロイジアの夫)のヨーゼフ・ランゲによるスケッチである(右下)。 2006年、ドイツのテレビ局ZDFが「史上もっとも偉大なドイツ人は誰か」というアンケートにモーツァルトをノミネートしたことに在独オーストリア大使館が抗議したことから、議論が巻き起こった。 ザルツブルクに生まれ、後生はウィーン住まいであったことを現在の国家にあてはめると大使館の主張には理があるが、局側は、当時オーストリアという国家は存在しなかったと一蹴。これに対してオーストリア側は「ではドイツという名の国家も存在しなかったのだから、ゲーテはドイツ人ではない」と反論した。厳密には当時はハプスブルク家を皇帝に戴いて「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(これをドイツ帝国と略称することもある)が存続していたが、実態は統率の緩い国家連合と化しており、ナポレオン戦争以後は新しく成立したオーストリア帝国を議長国とするドイツ連邦に衣替えしている。実際の国家主権はその下に属するザルツブルク大司教領、ウィーンを含むオーストリア大公領、バイエルン公国、プロイセン王国、ザクセン選帝侯領などの大小のドイツ人諸邦が持っていた。そして、このオーストリア大公領が国号でなく、この称号も併せ持つ神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の実質支配地域という曖昧な存在であったこと、つまり当時この地域に国号は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」しか存在しなかった、という点がZDFの論拠となっている。
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モーツァルト自身は手紙の中で再三「れっきとしたドイツ人として」「ドイツ民族の栄光に寄与できればうれしい」などと繰り返しており、「われわれドイツ人が、ドイツ風に考え、ドイツ風に演技し、ドイツ語で語り、ドイツ語で歌うことを今やっと始めたのだとすると、それはドイツにとって永遠の汚点となるに違いない」という強烈なドイツオペラ宣言まで行っている。また、ショパンの生前、その生国の新聞が「モーツァルトがドイツ人の誇りならショパンはポーランド人の誇りである」と絶賛したのも有名である。また、書簡の中で自らをオーストリア人と述べる言葉がまったくない点も、上記のような国体情勢(大公領としてのエリア区分でしかなかった当時のオーストリアには国家・国民という概念は希薄だったうえに、モーツァルトは、当時はその域外であったザルツブルク出身者であり、オーストリアに在住したのは最後の10年にすぎない)からはやむをえない点である。同じ論法だとマリア・テレジアもハイドンもれっきとしたドイツ人だが、こうした、どこまでがドイツ人なのか、ドイツ民族なのか、という問題があるにもかかわらず(これは、オーストリア人ヒトラーや伊仏露など、周辺国だけでなく米国も含まれる海外ドイツ系住民地域など非常に多くの難しい課題をはらんでいる)、結果としてモーツァルトだけがノミネートされたことは議論を呼ぶことになった。現在はザルツブルクやウィーンで、モーツァルトはオーストリア人の英雄として内外に伝えられている。 音楽てんかん、トランペット恐怖症のどちらかが疑われるが、幼いころにサイレンや航空機などの大きな音を出すものを嫌う子どもは珍しくない。モーツァルトの文献を探しても、既往症であるてんかんの疑惑に対する言及や暗示は見つかっていないため、彼には持続的な恐怖心があり、それが恐怖症へ発展したと考えるのが妥当である。
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
音楽てんかん、トランペット恐怖症のどちらかが疑われるが、幼いころにサイレンや航空機などの大きな音を出すものを嫌う子どもは珍しくない。モーツァルトの文献を探しても、既往症であるてんかんの疑惑に対する言及や暗示は見つかっていないため、彼には持続的な恐怖心があり、それが恐怖症へ発展したと考えるのが妥当である。 こういった彼の異常な感覚能力についての話はほかにも数多く伝えられており、たとえばデインズ・バリントンというイギリスの法律家は「あるロンドン王立協会への手紙」にて、モーツァルトが大バッハの未完のフーガの主題と展開を完全に記憶しており、いかに即座に再現し弾き終えたかを語っている。#巡業と音楽教育の項で触れた、システィーナ礼拝堂での一件はモーツァルトの逸話として非常に有名であるが、それと併せてこういった証言の数々は彼の才能を示すひとつの証左となっている。
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ゲーム&ウオッチ
ゲーム&ウオッチ(ゲームアンドウオッチ、GAME&WATCH)は、任天堂発売の携帯型液晶ゲーム機(電子ゲーム、LSIゲーム)。CMなど一般での呼称は「ゲームウオッチ」。 同社にとって、初の携帯型ゲーム機であり、ゲームソフトが本体内のROMに書き込まれた「1ハード1ソフト」方式の機種である。そのためファミリーコンピュータなどの同社後継ゲーム機のようにカートリッジ(ロムカセット)交換で様々なソフトを実行することはできない。ゲームをしない間は時計として使え、これが商品名「ゲーム&ウオッチ」の由来となった(後にアラーム機能も付くようになった)。 第一作は1980年4月28日発売の『ボール』。手元で遊べる手軽さが受けてヒットし社会現象になった。同年6月、7月にも『フラッグマン』『バーミン』『ファイヤ』と3つの新作を発売、これもヒットし、その後もほぼ「1ヶ月に1タイトル」ほどのペースで新作を発表した。 1983年にファミリーコンピュータが発売されると人々の関心はそちらへ移り、1985年2月発売の『ブラックジャック』を最後に日本での発売は終了したが、日本国外向けとしては1991年10月発売の『マリオジャグラー』が最後の作品となった。こうして総計で59タイトルが発売された。 販売総数は日本で1287万個、日本国外で3053万個、総計4340万個を記録した。当シリーズの大ヒットとその利益により、任天堂は当時抱えていた70億円近くもの莫大な借金を完済でき、さらに40億円ほどの黒字にもなった。任天堂を高収益の優良企業へと成長させたゲーム機シリーズであり、これで得られた利益がファミリーコンピュータの開発に投資されたことでも知られ、任天堂のテレビゲーム路線のきっかけを作った製品とも言える。 また、後の「ゲームボーイ」「ニンテンドーDS」などの携帯ゲーム機の元祖としても知られる。
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ゲーム&ウオッチ
また、後の「ゲームボーイ」「ニンテンドーDS」などの携帯ゲーム機の元祖としても知られる。 横井軍平が、新幹線の中で暇潰しに電卓のボタンを押して遊んでいる人を見て、「暇つぶしのできる小さなゲーム機」として発案。その後、横井がたまたま社長車の代理運転手を引き受けたとき、運転中に雑談ながら構想を社長の山内博に話したところ、向かった会合先で、液晶生産用の新工場を立ち上げたものの電卓の需要が頭打ちとなり、新たな応用先を探していたシャープ社長の佐伯旭に伝わり、「電卓サイズのゲーム機」を作ることに意気投合して一気に具現化した。 当時の任天堂には液晶やマイコン(マイクロコントローラ)関連の技術が不足していたのでシャープと共同開発をした。当初は液晶とマイコンの製造は技術的に難しいと断わられたが、横井の置いていった試作機をシャープの技術者が遊んだ事がきっかけで製品化が実現した。 横井軍平がゲームのアイデアとゲームデザイン、岡田智が電子回路の設計とゲームプログラムを担当した。 時計機能については、もともとは入れる予定はなく、名前も「マイクロゲーム」とする予定だった。3つのボタンに3種類のゲームを入れる予定だったが、1つが面白くなかったこともあり、それを時計ボタンに変えた。時計機能をつけたのは、時計機能を加えてもコストがあまり高くならず、「時計を買うため」ということで大人にも買いやすくなると見込んだためである。 当初はサラリーマンなどが通勤途中に遊べるもの、という目的を念頭に、座った時に手を組んだまま「隠して操作できる」ワイシャツのポケットサイズでデザインされた。ゲーム内容も横井が「誰もが説明書を読まなくても遊べるゲーム」を目指し、親指でボタンを押すだけの極力シンプルな操作体系にした「ゲーム付きの時計」というコンセプトで開発した。しかし発売後は小中学生が主な購買層となったため、その後はターゲットを変更し、よりゲーム性が重視されることになった。 なお、同時期に上村雅之がほぼゲームボーイに近いスペックのゲームを構想していたが、そちらのほうはコスト面などの問題が解消できず、開発の着手に至らなかった。ゲームウォッチ発売から9年後、ゲームボーイが発売されるに至った。
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ゲーム&ウオッチ
なお、同時期に上村雅之がほぼゲームボーイに近いスペックのゲームを構想していたが、そちらのほうはコスト面などの問題が解消できず、開発の着手に至らなかった。ゲームウォッチ発売から9年後、ゲームボーイが発売されるに至った。 液晶画面は、液晶セグメント表示方式でキャラクターなどの動きを表現しており(つまりドットマトリクス方式ではなく)、モノクロ(単色)であった。 最初期のシリーズ5作品までは完全なモノクロ画面である。続く「ゴールド」シリーズでは液晶の前面に別のスクリーンが置かれ、カラーで背景やオブジェを表現。以降、画面を約1.7倍に広げた「ワイドスクリーン」、2画面の折り畳み式にした「マルチスクリーン」、カラー液晶を採用した「テーブルトップ」と「パノラマスクリーン」、4色に色分けされたカラースクリーンで疑似カラー画面を表現した「スーパーカラー」、さらに2020年の「カラースクリーン」よりフルカラードット液晶へと発展していった。 初期のゲームウオッチは、プレイヤーキャラクタの移動も含め、本体左右に装備された丸ボタンで操作していた。 マルチスクリーン『ドンキーコング』はゲーム機史上初めて十字キー(説明書での呼称は『+ボタン』)を装備した。 本機の開発にあたり採用したチップ(集積回路)は電卓で使われているものだった。電卓のディスプレイのひとつの数字は7セグメントで表示されており(7セグメントディスプレイ)、つまり0から9までの数字はいずれも、それぞれが「セグメント」と呼ばれるパーツを7個組み合わせて数字を表示している。したがって8桁の電卓用のチップなら、7セグメント×8桁=56セグメント、および数字の間の小数点や「-(マイナス)」などの記号のセグメントを制御できる能力もあった。つまり56個よりは数個ほど多い数のセグメントを制御できる能力があった。
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ゲーム&ウオッチ
そのチップを使って第一作の『ボール』をつくった。つまり、電卓のチップは72セグメントのそれぞれをON/OFFできる仕組みになっていたので、それを数字用の液晶セグメントの代わりに絵の液晶セグメントを制御するために使うことで、ゲーム&ウオッチを作った。ただし、第一作『ボール』の画面の右上には得点や時刻を表示する4桁のカウンタがついており、そのカウンタ部分だけで 7セグメント×4桁=28個 のセグメントを使ってしまうので、残りの28個(さらにプラス数個)ほどのセグメントでキャラクタやボールなどの動きを描かなければならなかった。 発売日欄「※」は日本国外のみ販売タイトル。『ドンキーコング』などのアーケードゲームやファミリーコンピュータの移植版も開発された。1990年代に入ってから、日本国外のみ発売を含むタイトルが逆輸入版として日本で発売されたことがあり、一部の量販店などでいわゆる「輸入トイ」のような扱いで売られた例もあった。 タイトルの多くは、難易度が低めのGAME Aと高めのGAME Bのどちらで遊ぶかを選択できる(一部例外あり。なおこの選択方法はファミリーコンピュータの初期タイトルにも使用されている)。 発売初期のテレビCMは、「いつでもゲームウオッチ、どこでもゲームウオッチ」というCMソングに合わせて商品で遊ぶ場面やゲーム画面が映し出され、最後に「マイクロコンピューターを使ったゲームウオッチ。ゲームをしない時はデジタル式クォーツ時計です」のナレーションが入るというものだった。 本機を共同開発したシャープとは元々光線銃SP時代からの付き合いがあったが、本機のヒット後も両社は親密な関係を続け、ファミリーコンピュータ、ゲームボーイ、スーパーファミコンなどでも技術面での提携関係にあり、ツインファミコンやファミコンテレビC1などのシャープ製ファミコンを発売、シャープ製パソコンで採用されていたクイックディスクやHu-BASICをディスクシステムやファミリーベーシックに採用した。 また『ドンキーコング』に初搭載された十字キーに関して、これまでゲーム機のコントローラは丸・角形ボタンかスティック状のレバーが主流だったが、十字キーはコンパクトながら親指だけで4方向にキーを押す感覚が伝わる操作性で、その後の同社をはじめとする国内外で発売されるゲーム機で標準採用された。
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ゲーム&ウオッチ
また『ドンキーコング』に初搭載された十字キーに関して、これまでゲーム機のコントローラは丸・角形ボタンかスティック状のレバーが主流だったが、十字キーはコンパクトながら親指だけで4方向にキーを押す感覚が伝わる操作性で、その後の同社をはじめとする国内外で発売されるゲーム機で標準採用された。 なお、後に有志により電池フタの3Dプリンター用データが公開された。 当時流行した同様の携帯ゲーム機としてカシオの「ゲーム電卓」などがある。ゲーム&ウオッチのヒットにならい、タカトクトイス、バンダイ、トミーなどから多数のLSIゲーム・電子ゲームが発売され、中には増田屋コーポレーションからは「PLAY&TIME」、原田企画からは「GAME&TIME」という名前や外観がゲーム&ウオッチに酷似した商品までもが発売された。他社製品も含めて「ゲームウオッチ」と呼ばれる場合もある。 また、ソビエト連邦ではElektronikaという海賊版が販売されていた。内容は「エッグ」とその書換えがほとんどである。なお、ソ連ではCOCOM規制のため、ゲーム&ウオッチは販売されていなかった。 日本では1985年に発売された『ブラックジャック』、日本国外では1991年に発売された『マリオジャグラー』が最後の機種となった。それ以降は同社のゲーム機向けにゲーム内容を移植したり、ゲーム内のキャラクターを登場させている。また周年記念作品も発売されている。 1998年より、複数メーカー開発によるMini Classicsシリーズが日本国外で販売されている。任天堂よりライセンスを受けたマルチスクリーンを含むゲーム&ウオッチの移植版や、オリジナルタイトルが遊べるキーチェーンサイズの携帯ゲーム機である。電源はボタン型電池(LR44)2個。 発売30周年と40周年を記念した作品が作られている。 2009年度のクラブニンテンドーのプラチナ会員特典として、本機発売30周年に、ゲーム&ウオッチ『ボール』の復刻版がプレゼントされた。型番はRGW-001。プレゼント時期は2010年4月下旬。 本機発売40周年記念作の第1弾『ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ』が2020年11月13日に、2021年3月末までの期間限定生産品として発売され、景品・非売品を除いては日本国内では35年ぶりの新モデル発売となった。
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ゲーム&ウオッチ
本機発売40周年記念作の第1弾『ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ』が2020年11月13日に、2021年3月末までの期間限定生産品として発売され、景品・非売品を除いては日本国内では35年ぶりの新モデル発売となった。 主に単色・固定の液晶表示のみだった従来機種と異なり、2.36インチのフルカラー・ドット液晶表示方式なので「COLOR SCREEN(カラースクリーン)」と命名されており、ファミリーコンピュータ版『スーパーマリオブラザーズ』とファミリーコンピュータ ディスクシステム版『スーパーマリオブラザーズ2』の完全移植版、および、ゲーム&ウオッチの第一作『ボール』の計3作を収録。なお『ボール』のキャラクターはマリオやルイージにアレンジしてある。「マリオ時計」モードでは、特定の時間やボタン操作などの条件により35種類の秘密イベントが起こる。2021年3月31日生産終了。型番はHXA-001。CERO:A(全年齢対象) 2021年11月12日には、40周年記念作の第2弾、『ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説』が発売された。ファミリーコンピュータ ディスクシステム版『ゼルダの伝説』『リンクの冒険』とゲームボーイ版『ゼルダの伝説 夢をみる島』および、ゲーム&ウオッチ第3作『バーミン』のキャラクターをリンクに差し替えたバージョンの計4作品を収録。時計機能も『ゼルダの伝説』をモチーフにした「遊べるゼルダ時計」と『リンクの冒険』をモチーフにした「遊べるショートタイマー」を搭載している。型番はHXB-001。CERO:B(12才以上対象)。 電源は従来の電池交換式ではなく、内蔵リチウムイオン電池で、給電はUSB-C端子。 なお周辺機器として以下を使用することができる。
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ル・マン24時間レース
ル・マン 24時間レース(ル・マンにじゅうよじかんレース、仏: 24 Heures du Mans )は、フランスのル・マン近郊で行われる四輪耐久レースである。24時間でのサーキット周回数を競う。 主催はフランス西部自動車クラブ(ACO)で世界耐久選手権(WEC)の1戦でもある。ル・マン24時間耐久レースと記されることもある。 1923年に「ラッジウィットワース杯24時間耐久グランプリ(Grand Prix d'Endurance de 24 Heures "Coupes Rudge-Whitworth")」として初開催された歴史あるレースのひとつで、フォーミュラ1のモナコグランプリとアメリカのインディ500と並び「世界三大レース(英: Triple Crown of Motorsport)」と呼ばれる。またデイトナ24時間レース、スパ・フランコルシャン24時間レースとともに「世界三大耐久レース」とも呼ばれる。そのため、世界中の耐久レースに大きな影響を与えており、ル・マン・シリーズ(LMS)や世界耐久選手権(WEC)の車両規定はル・マンのものに準じている。他の長時間レースと同様に、車両やその周辺環境に対する新技術は、まずレースに導入されてから一般車両等へ展開されることが多い。24時間走行、変化する天候、30回以上の給油、同一コースを300周以上走行した際の距離は約5000kmとなるなど過酷な条件の下、過去に発生した事故を教訓として安全性を向上させている。このように、技術革新の最先端を担うレースとなっている。 これまでにレースが中止されたのは、フランス自動車工業界のストライキの影響による1936年と、第二次世界大戦と戦後のフランスの疲弊と混乱による1940年から1948年にかけての間だけである。スポーツカーレースに参戦するマニュファクチャラー(自動車メーカー)と、レーシングチームにとって、ル・マンでの勝利は非常に名誉なものとされており、各チームが最重要レースとして入念な準備をして臨む。
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ル・マン24時間レース
これまでにレースが中止されたのは、フランス自動車工業界のストライキの影響による1936年と、第二次世界大戦と戦後のフランスの疲弊と混乱による1940年から1948年にかけての間だけである。スポーツカーレースに参戦するマニュファクチャラー(自動車メーカー)と、レーシングチームにとって、ル・マンでの勝利は非常に名誉なものとされており、各チームが最重要レースとして入念な準備をして臨む。 競技はフランス中部にあるル・マン市のル・マン24時間サーキット(Le circuit des 24 heures du Mans)と呼ばれる全長13kmを超える周回コースで行われる。その2/3は普段は一般道で、レースウィーク中のみ閉鎖される。スタートおよびゴール地点とその周辺は競技専用のブガッティ・サーキットの一部を使用する。なお、オートバイの24時間レースはブガッティ・サーキットのフルコースで行われる。 各コーナーには「テルトル・ルージュ」、「ミュルサンヌ」、「ポルシェカーブ」、「フォードシケイン」などの、レース業界で著名な名称がついている。サルト・サーキットの名物といえば全長6kmに及ぶロングストレート「ユノディエール」であったが、マシンの進歩により1988年には最高速が405km/hに達するなどしたため、危険性を低減させるべく1990年に2箇所のシケインが設けられた。 参加するだけでも名誉なことであり世界各国の自動車メーカーやレーシングチームからのエントリーが殺到することから、FIA 世界耐久選手権 (WEC) の1戦に加えられている現在は、主催者であるフランス西部自動車クラブ(ACO)がWECのシーズンエントリーをべースに追加のエントリーを選考し、招待状を送付する。 審査は前年大会の優勝者、FIA 世界耐久選手権(WEC)への参戦履歴、ACOの車両規定を採用するスポーツカー選手権(ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ、アジアン・ル・マン・シリーズ、ウェザーテック・スポーツカー選手権)における成績などから判断する。自動招待制度もあり、前述の各種スポーツカー選手権の成績上位チームやドライバーは自動的にエントリー権を得る事が可能。
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ル・マン24時間レース
審査は前年大会の優勝者、FIA 世界耐久選手権(WEC)への参戦履歴、ACOの車両規定を採用するスポーツカー選手権(ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ、アジアン・ル・マン・シリーズ、ウェザーテック・スポーツカー選手権)における成績などから判断する。自動招待制度もあり、前述の各種スポーツカー選手権の成績上位チームやドライバーは自動的にエントリー権を得る事が可能。 また、最大参加台数の55台に加えて、2012年より近未来の自動車技術に挑戦する車両に対してガレージ56という賞典外の特別枠が用意されている。2016年は病で四肢を失ったドライバーが選ばれた。 かつては多すぎるエントリー希望者を振るい落とすため、テストデーで予備予選が行われた時期もある。また、ル・マンに的を絞って特別に開発したマシンで、ルマンに合わせエントリーしようとするマニュファクチャラーがいたため、国際自動車連盟(FIA)がル・マンを含めた世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)全戦への参加を義務付けたこともある。 毎年6月に、1年の内で最も昼の長い夏至の頃に開催される。6月上旬にはサーキットの一般公道部分を閉鎖してテストデーが行われる。 レースウィークは日・月曜日にル・マン旧市街地のリパブリック広場で一般公開の公式車検を行い、水曜日にフリー走行と公式予選1回目、木曜日に公式予選2・3回目を行う。レース中に夜間走行があるため予選も深夜近い時間帯に行われるが、初夏のル・マンは日の入りが22時頃と遅い。日没後には気温が下がり、タイムアタックに適した時間帯となる。金曜日はル・マン市内でドライバーズパレードを行う。 土曜日の午前中にウォームアップ走行を行い、午後3時にスタートフラッグが振られレース開始となる。例年、主催者のフランス西部自動車クラブ(ACO)がスタートフラッグを振る人物を選ぶ。日没後に日曜日を迎え、午前6時に日の出、午後3時に栄光のチェッカーフラッグを受ける。 1925年大会より用いられたスタート方式は、コース幅の片側に競技車を配置し、ドライバーが車両の反対側からコースを渡るよう駆け寄って乗車する。
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ル・マン24時間レース
1925年大会より用いられたスタート方式は、コース幅の片側に競技車を配置し、ドライバーが車両の反対側からコースを渡るよう駆け寄って乗車する。 「ル・マン式スタート」と呼ばれて他のレースでも採用されたが、シートベルトをきちんと締めないままスタートするドライバーが続出するなど危険であり事故も多く、「初代ミスター・ルマン」ことジャッキー・イクスは身をもって抗議の意を表明した。 1971年は通常のグリッド式スタンディングスタートを採用し、1972年以降は耐久レースでは一般的なローリングスタートを採用している。 現行のWECになってからは、フォーメーションラップ前のセレモニー時に、ル・マン式スタートのように車をコースに対して斜めに並べるという形で擬似的に再現している。 ペースカーはその年度にEU圏内で新発売された車輌が採用される。第1回レースが開催されてから65年目となる1999年には、自国フランスの自動車ではなく、その年デビューしたばかりのベントレー・アルナージが起用された。1923年、第1回目のレースが国際レース化を謳いながら殆ど自国の車で占められていたものの、イギリスからエントリーした2台のベントレーとベルギーの"エクセルシオール"によって辛うじて国際レースとして開催できたことに対する感謝を忘れることなく形にしたものとして注目された。 日本車では、日産がエントリーしていた1990年に日産・フェアレディZ 300ZX、同じく日産がエントリーしていた1997年に日産・スカイラインGT-R(BCNR33)が採用された。 ピエール・ルヴェーは1952年にタルボ=ラーゴで出走し、23時間に渡ってステアリングを握りトップを走り続けたが、疲労のためギアを入れ間違えてエンジンを壊しリタイアとなった。現在は危険防止のためレギュレーションが変更されており、このような長時間連続運転はできない。 ルヴェーのリタイアにより優勝を果たしたメルセデス・ベンツのチーム監督であったアルフレート・ノイバウアーは、その後ルヴェーをメルセデスのチームへ招聘している(後述)。
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ル・マン24時間レース
ルヴェーのリタイアにより優勝を果たしたメルセデス・ベンツのチーム監督であったアルフレート・ノイバウアーは、その後ルヴェーをメルセデスのチームへ招聘している(後述)。 1955年6月11日18時28分、トップを走っていたジャガーのマイク・ホーソーンが周回遅れのオースチン・ヒーレーを抜いた直後に急減速してピットイン。後続のオースチン・ヒーレーのドライバー、ランス・マクリンが追突を避けようと進路変更したところへ、メルセデス・ベンツを運転するピエール・ルヴェーが避けきれずに衝突し乗り上げ、空中へ飛び上がった。 ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド側壁に衝突し、車体は分解して炎上。衝撃でエンジンとサスペンションがそのままの勢いで観客席に飛び込み、観客、スタッフ、そしてルヴェーも含めて死者86人、負傷者200人という大事故となった。当時のサーキットにはピットとコースを遮るピットウォールが存在せず、またピットロードも存在していなかった。これはサルト・サーキットも同様で、ピット前での接触事故は高頻度で起きていたとされる。 なお、レースは事故後も続行された。「たとえどんな惨事が起きようとも、戦い続けるのがスポーツのルールである」ということが理由であったほか、レースを中断すると帰路についた観客がサーキットの周りや周辺道路を塞ぎ、救急車が動けなくなるといった事態を防ぐための主催者側の判断によるものであった。優勝者は皮肉にも、大惨事の発端となったホーソーンであった。
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ル・マン24時間レース
なお、レースは事故後も続行された。「たとえどんな惨事が起きようとも、戦い続けるのがスポーツのルールである」ということが理由であったほか、レースを中断すると帰路についた観客がサーキットの周りや周辺道路を塞ぎ、救急車が動けなくなるといった事態を防ぐための主催者側の判断によるものであった。優勝者は皮肉にも、大惨事の発端となったホーソーンであった。 この事故の映像は、映画『グレート・ドライバー(原題"Fangio")』等で観ることができる。また、ルヴェーのチームメイトで当時彼の後方を走行し、コクピットからその一部始終を目撃していたファン・マヌエル・ファンジオは、この映画の中で「ホーソーンのピットインが物議を醸したが、ピット手前360 mからの減速でルール上問題はなかった。マクリンがホーソーンを左側から追い越し、さらに別の1台(カール・クリングのメルセデス)がコース左側からピットに向かって進路を右に変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇を招いた。自分は奇跡的に無傷で現場を通過出来たが、背後は地獄だった」と述べ、いわゆるレーシングアクシデント(特定のドライバーの責任に帰しないレース中のアクシデント)であったことを模型を用いて解説している。なお、事故後の調査でファンジオのメルセデスの車体にホーソーンのジャガーの塗装がこびり付いていたことでごくわずかに接触していたことが判明し、ファンジオが突然ピットインしたホーソーンのマシンを辛うじて回避できたことを証明している。 メルセデス・チームはトップを走行していたが、事故発生から7時間半後、全マシンを呼び戻して棄権した。そして事故の一部始終を目の当たりにしたファンジオはその多大な精神的ショックから、それ以来生涯ル・マンに姿を見せることはなかった。事故の10分後には大破したマシンの残骸をメルセデスのスタッフが必死になって回収していたことが確認され、これに関して後に「ニトロメタンなど特殊な添加剤を用いていたのではないか」と(事故の原因とは関係ない)レギュレーション違反を疑う声があったが、これについてファンジオは「あんな素晴らしい車にそんなものいらないよ」と笑い飛ばし、アルトゥル・ケザーは「燃料噴射システムの秘密を知られないため」という趣旨の発言をしている。
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ル・マン24時間レース
「モータースポーツの安全性」という点に大きな疑問を投げかけたこの事故の影響は非常に大きく、後に開かれる予定だったスペインと西ドイツのグランプリレースは中止、フランスとイタリアでも政府の許可が出るまでモータースポーツは開催されず、スイスに至ってはモータースポーツそのものが禁止されるなど、全世界に大きな影響を残した。F1も例外ではなく、1955年は主催者がキャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後のモータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。 この事故の詳細を記した書籍として『死のレース 1955年 ルマン』が存在する。事故から20年後、当事者の1人であるランス・マクリンが著者に電話で初めて明かした事実の他に、写真や関係者の証言を含めた事故の詳細、当事者であるマクリン、ホーソーン、ジャガーそれぞれの人物像やレース後の動向が著されている。 メルセデス自体も、1985年のル・マン24時間レースにザウバー・C8にて復帰するまで、30年にわたってモータースポーツ界から姿を消すこととなった。復帰後の1999年にも、この年に投入したばかりのCLRが3度にわたって宙を舞う事態に見舞われ、「1955年の悪夢再び」と騒がれた。これを受けてメルセデスは再びル・マンから撤退し、2023年現在も参戦していない。 マクリンは後年、モータースポーツの世界を離れてカーディーラー経営者となったが、2002年にこの世を去っている。 1960年から1963年にかけてル・マン24時間レースを3連覇するなど、1960年代初頭のスポーツカーレースで最強の座に君臨していたフェラーリは、モータースポーツへの過剰投資や、当時イタリア北部で勢力を増していたイタリア共産党などの左翼政党が後援した労使紛争とそれがもたらしたストライキ、さらには創業者エンツォ・フェラーリの妻のラウラによる現場への介入によって、1961年11月にはカルロ・キティら主要メンバーによるクーデターが勃発し、キティやジオット・ビッザリーニら役員8名が去るなどの事件が起きたことも影響し、経営が苦境に陥った。
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ル・マン24時間レース
その後、1963年にはスポーツカーレースでの活躍を望んでいたヘンリー・フォード2世率いるフォード・モーターに買収されることになり、マラネッロの本社で契約の直前まで漕ぎつけた。しかし、金銭面で最終的に折り合わなかったこと、さらにはモータースポーツ部門を引き続き統括したかったエンツォの判断により、急遽白紙撤回された。この背景には、フェラーリを他国の企業に渡したくなかったフィアット・グループのトップ、ジャンニ・アニェッリの意向も影響していたといわれる。 これに怒ったヘンリー・フォード2世は、フェラーリを破ることを目指して、当時「モータースポーツ史上最高額」とも言われるほどの多額の投資をしてGT40を開発し、アメリカ国内外の選手権で経験を積みつつ、1964年にル・マン24時間レースに参戦した。しかし、マウロ・フォルギエーリがル・マン向けに開発したフェラーリ・250LM/275Pに対して、ノウハウがないフォードは苦戦し連敗を喫した。 フォードではキャロル・シェルビー率いるシェルビー・アメリカンの助けを借りてマシンを改良し、さらにフィル・ヒルやボブ・ボンデュラント、マリオ・アンドレッティやデイビット・ホッブス、ダン・ガーニーなどの経験豊富なドライバーを擁して6台もの大量エントリーをすることで1966年に初優勝を飾った。その後はフェラーリがF1に集中したこともあって、以降数年間のル・マンはフォードが連勝することになる。 現在、フェラーリはLM-GTEに参戦するプライベートチームへのマシンの提供という形でル・マンに関わっている一方、フォードはLM-GTEにワークスとして復帰していたものの、2019年で撤退した。 ユノディエールは6kmに及ぶ直線であり、300 km/hで走っても1分以上かかった。最高速度が400 km/hに近づくにつれて54秒ほどで走り切るマシンが登場したが、非常に長い時間アクセルを全開にして猛烈なスピードで駆け抜けることになり、特に夜間は自車のヘッドライトだけが頼りとなる。 日本チームとして最初に参戦したシグマ・オートモーティブ(後のサード)の監督を務めた加藤眞は、ユノディエールを走るマシンを見て「マシンが悲鳴を上げているように思え、日本人ドライバーには事前に見せない方が無難ではないか」という印象を持った。
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日本チームとして最初に参戦したシグマ・オートモーティブ(後のサード)の監督を務めた加藤眞は、ユノディエールを走るマシンを見て「マシンが悲鳴を上げているように思え、日本人ドライバーには事前に見せない方が無難ではないか」という印象を持った。 WM・セカテバ・プジョーは、成績よりもこのユノディエールの直線における最高速度記録に注力し、1988年に407 km/hの公式記録を残している。しかし、実際には計測されていないだけで400 km/hを越えたマシンは数多くあったといわれており、1989年にはメルセデス・ベンツのザウバー・C9が決勝走行中に400 km/hを記録した。 国際自動車スポーツ連盟(FISA、後の国際自動車連盟)は、安全性の観点から2 km以上の直線を認めない旨のルールを作成し、ユノディエールを分割するよう圧力をかけた。フランス西部自動車クラブは「これこそがル・マンの特徴である」と主張し、1989年は世界スポーツプロトタイプカー選手権(英: World Sports Prototype Championship, WSPC)から外れて対抗したが、FISAは命令に従わなければ国際格式レースとして認めない旨を通告した。そのままではフランス国外からの参加ができなくなるため、急遽ユノディエールにシケインを2か所挿入するコース改修がなされたが、工事の完成は1990年のレース直前となり、2か月前にFISAのコース査察を受けなければならなかったため、1990年もWSPCからは外れることとなった。 地元でもあり第一回の1923年にシェナール&ウォルカーが総合優勝したのを含め初期には有力であった。 ル・マンに初めて日本の自動車メーカーのエンジンが登場したのは、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、アメリカなどの先進国の主要自動車生産国としては最も遅い1970年である。マシンはリーバイス・レーシングが、シェブロンB16に、マツダ製10A型、ロータリーエンジンを搭載したものだった。 1970年代は、排気ガス規制対策やオイルショックによって自動車メーカーのレース活動が停滞しており、シグマオートモーティブや童夢などのプライベーターたちの地道な活動からル・マンへの挑戦が始まった。
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ル・マン24時間レース
1970年代は、排気ガス規制対策やオイルショックによって自動車メーカーのレース活動が停滞しており、シグマオートモーティブや童夢などのプライベーターたちの地道な活動からル・マンへの挑戦が始まった。 1980年代以降はマツダや日産自動車、トヨタ自動車、本田技研工業などがワークス・準ワークスチームで参戦し、1991年にマツダが初の総合優勝を果たした。しかしマツダは1992年に撤退した。 2012年よりトヨタが再挑戦。2018年には、ついにトヨタ・ガズー・レーシングの中嶋一貴が日本チーム、日本車というオールジャパンチームで総合優勝を飾った。2019年にもトヨタが2連勝し、2020年にはLMP1規定最後となる年で3連覇を果たした。2021年にはLMH規定初年度となる年でトヨタは4連覇を果たすと共に、小林可夢偉が悲願の初優勝を飾った。2022年には平川亮が初優勝を飾っている。なお(海外メーカー車を使用する)日本チームや日本人ドライバーも優勝している。 日本では、株式会社マクランサ代表の林正史(株式会社童夢代表の林みのるの実弟)の企画により、1979年にTBSによる2時間番組「ルマン栄光への24時間」が全国放送された。同じく、林正史の企画・プロデュースにより1982年から1986年までテレビ朝日がダイジェスト版を放送し、 1987年から2003年まで中継を行っていた。2004年と2005年は、CS放送のスカイパーフェクTV!でレース前後を含めた25時間完全生中継、スポーツ・アイ ESPN(後のJ sports ESPN)でも部分的に中継を行っていた。 2006年から2008年までは、CS放送のG+でダイジェスト版が放送された。2012年以降はBSスポーツ専門チャンネルのJ SPORTSがスタートから8時間とゴールまでの6時間の計14時間 の生中継を実施。さらに2017年には念願だった完全生中継を25時間30分に渡って実施されることになった。また、J SPORTSの契約者向けにスカパー!オンデマンドでの24時間ライブ配信を実施。2012年からは、日経CNBCが現地取材もとにした特別番組を放送。現地取材へは、谷中麻里衣が出向いている。
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ル・マン24時間レース
毎年原則として、スタート直前の日本時間土曜22時59分(現地時間15時59分)フォーメーションラップがメゾンブランツェに到達する頃放送開始、放送開始直後に出場する全マシンのスターティンググリッドがテロップで紹介され、スタートから2周ほどした後オープニングと提供クレジット、そこから1時間程中継し(ここまでがパート1とされた)日曜午前0時過ぎ頃にニュース等による中断を挟み、その後午前2時過ぎまでパート2を中継し、ニュース等での中断を挟んでパート3を午前5時まで(年によっては4時までの場合もあった)放送。その後日曜午後にパート4を1時間半程放送(2003年は放送されず)。ここまでが生中継。ゴールとなるパート5は遅延録画で日本時間日曜23時に放送開始し1時間半程中継、合計約9時間にも及ぶ長時間中継であった。 なおサッカー欧州選手権開催年にはスタート/ゴールが現地時間15時と1時間早まるため、日本でのスタート時の放送は録画であった。日本時間土曜23時に放送が開始された。 それぞれの時間帯がパートで分けられており、それに沿って実況するアナウンサーは交替していた。 競合する同業社が同じ番組を提供するということは当時の広告業界では禁忌とされていたが、非常に長時間に及ぶこの番組を成立させるためには競合する自動車メーカーや、タイヤメーカーの協力が必要不可欠であった。企画者の林正史が各メーカーを説得して廻り、日本ではじめて競合社が提供する番組が誕生した。 1987 - 89年はタイアップ曲ではない(オープニングに曲名、アーティスト名の表示がない)。また1987 - 88年は提供スポンサー紹介時はテレビ朝日スポーツテーマが流れた。 また、1997年 - 99年のテーマ曲は、テレビ朝日で中継されていたインディ500中継とのダブルタイアップとなっていた。 1990年、1991年に2年間、文化放送で中継された。 映画 ドラマ レーザーディスク ビデオソフト LP VHD CD 小説 漫画 ゲーム 昼夜を通して24時間走り続ける過酷なレース現場では予期せぬトラブルが発生することから、日本では「ル・マンには魔物が棲んでいる」との格言が生まれた。2016年には、初優勝を目指してトップを快走していたトヨタのマシンが車両故障のため、残り3分でポルシェに逆転された。
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世界ラリー選手権
世界ラリー選手権(せかいラリーせんしゅけん、英語: FIA World Rally Championship、ワールドラリーチャンピオンシップ、通称:WRC〔ダブリュアールシー〕)は、国際自動車連盟(FIA)が主催するラリー競技の世界選手権である。ヨーロッパを中心としてアフリカ・中南米・アジア・オセアニアなどの地域でも開催されている。併催のWRC2、WRC3などについてもここで述べる。 1970年にそれまで世界各地で単独に開催されていたラリー競技のイベントをFIAの下に一本化して誕生した、「国際マニュファクチャラーズ選手権(英語版)」(英: International Championship for Manufacturers、通称:IMC)が前身である。1973年に世界選手権へと格上げされて、WRCとしてスタートした。FIAが主催する自動車競技の世界選手権の中ではF1世界選手権(1950年創設)の次に長い歴史を持つ。また開幕戦のラリー・モンテカルロは、F1のモナコグランプリより長い歴史を持つイベントである。選手権は元々はマニュファクチャラー部門(自動車メーカー)のみが争われたが、後にドライバー部門とコ・ドライバー部門の選手権も争われるようになった。また下位のサポート選手権であるWRC2、WRC3、JWRCが併催されている。 ラリーの種類は、公道や競技場などに設けられたコース=スペシャルステージ(SS)でタイムアタックを行い、各SSタイムの合計で順位を決める「スペシャルステージラリー」である。SSとSSの間の移動は「リエゾン」または「ロードセクション」と呼ばれ、一般車に混じり現地の交通法規に従って走行する。現行の標準的なスケジュール(アイテナリー)では、木曜日から日曜日にかけての3 - 4日間に20本前後のSSを走行する。SSの合計距離は300 - 400 km、リエゾンを加えた総走行距離は1,000 - 1,500 km程度である。SSの時間は基本的に日中で、時々早朝や夜間にも行われる。 競技車両は一定数生産された市販車をベースとして、公認範囲内で改造を加えたラリーカーである。性能別に数段階にグループ分けされているが、選手権タイトルを賭けた最高峰クラスは、マニュファクチャラーの直営組織(ワークスチーム)が開発した現在ではワールドラリーカー(WRカー)で競われる。
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世界ラリー選手権
競技車両は一定数生産された市販車をベースとして、公認範囲内で改造を加えたラリーカーである。性能別に数段階にグループ分けされているが、選手権タイトルを賭けた最高峰クラスは、マニュファクチャラーの直営組織(ワークスチーム)が開発した現在ではワールドラリーカー(WRカー)で競われる。 競技車両にはドライバーとコ・ドライバーの2名が乗車し、コ・ドライバーがコース上のコーナーや路面状況などをあらかじめ記載したペースノートを読み上げ、ドライバーはそれに従い運転操作を行う。また、基本的にはドライバーが運転操作を行い、ナビゲートするのがコ・ドライバーという形ではあるが、非常に稀なケースではあるものの両者の役割が逆転する場合もある。2011年スウェーデンラリーでは、ペター・ソルベルグ選手が一般道のリエゾン区間でスピード違反で免許停止措置(世界中で開催される世界選手権に参加するためのライセンス以外に開催国での自動車運転を認めてもらうための国際免許を停止される処分)を受け、処分の執行には48時間の猶予があったものの、最終ステージ前で執行猶予時間が経過したため最終ステージだけをコ・ドライバーのグリス・パターソンにステアリングを託し、ソルベルグ本人は助手席で運転操作を解説しながら最終ステージを完走するという場面もあった。このように、タイムアタック区間(スペシャルステージ)以外の走行区間では開催当該国の道交法に従わなければならないため苦肉の策が実行されるケースもある。また、スペシャルステージでアクシデントを起こして破損した車で走り続けるしかない場合(多くの場合はリエゾン区間前にチームの整備を受けられる)もあり、そのままリエゾン区間に入ると整備不良や危険な破損車での走行ということで警官に止められ、その場合は、その場で即刻リタイアを余儀なくされるケースもある。このようにFIA(世界選手権主管団体)が定めた規則だけではなく、開催当該国の道交法も遵守しなければならない。
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競技車両は市販車両をベースに製作することと規定されているため外観はベースモデルと大差無いが、特に最上位のWRCクラスの車両であるラリー1は、フレームやエンジンはじめとする各パーツ、駆動やサスペンションの形式の変更などが行われ、内部はほぼ完全に別物となっている。ECUにはSS用の“ステージモード”、リエゾン用で低燃費となる“リエゾンモード”の2種類が設定されており、走行状況に合わせて切り替える仕様となっている(ラリー1の車両では、ハイブリッドシステムの複数の走行モードを切り替えて運用する)。 競技ライセンス“国際C級レース除外”を取得し、規定に合致した車両を用意して抽選に通れば、一般人もプライベーターとして出場することが可能である。WRカーの後から同じコースを走りタイムを争い、時にはプライベーターがランキングの上位に食い込むということもある。なおコ・ドライバーもドライバーと同等の競技ライセンスが必要である。 サーキットで行われる周回競技と異なり、一般道路や林道などを一時的に閉鎖して行われるため、設営された観客席は少ない。観客はコースを間近で見られることもあり、熱心なファンは足繁く観戦ポイントに出向く。しかし、車両がコースオフし客席に飛び込む恐れもあるために観戦には危険も伴い、過去には死亡・負傷事故も起こっている。(特に1980年代のグループB規定時代は、ドライバー、観客の死亡事故が多発した) 観客達が大きくコースオフした車両をコースに戻したりすることも多々あるが、本来ドライバー、コ・ドライバー以外の人間が競技車両に触れることはルール違反なため、ドライバーはペナルティを受けてしまうことが多い。逆に観客が競技の妨害を行うこともあり、開催中にコース上の冊が閉められたこともある。現地の運営側が観客をコントロール出来ないと判断された場合はSSそのものがキャンセルとなり、実際にラリー・ポルトガルやラリー・ポーランドがこの理由で一時WRCから外された。 広大なエリアでは、時に観客がプロに代わるカメラマンとして活躍することがある。2005年のキプロス・ラリーでは、フランソワ・デュバルのコースオフと車両炎上のシーンにおいて、観客が撮影した映像が国際映像として放映された。また近年はドローンが撮影に投入されており、ダイナミックな映像の撮影に大きな貢献をしている。
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広大なエリアでは、時に観客がプロに代わるカメラマンとして活躍することがある。2005年のキプロス・ラリーでは、フランソワ・デュバルのコースオフと車両炎上のシーンにおいて、観客が撮影した映像が国際映像として放映された。また近年はドローンが撮影に投入されており、ダイナミックな映像の撮影に大きな貢献をしている。 WRCの統一プロモーターは2014年から現在まで、「WRCプロモーター有限会社(WRC Promoter GmbH)」が担っている。以前は1982年にバーニー・エクレストンにより設立された「ISO(International Sportsworld Communicators)」が2010年まで、これをノースワン・テレビジョンが買収した「ノースワン・スポーツ」がプロモーターを務めていた。 各々の国で開催される競技をイベントと呼ぶ。年間のイベント数は1990年代中頃まで8 - 10戦程度であったが、増加を望むFIAの意向により各ラリーの開催日数・走行距離の短縮やサービス (車両整備) 回数の制限等、イベントの簡素化が進められたことに対応するようにイベント数が徐々に増やされ、2007年には全16戦、2008年は全15戦となっていたが、2009年と2010年は2年間で24戦を隔年で開催するという年間12戦のローテーション制となり、2011年からは全13戦となっている。 F1のオフシーズンであるストーブリーグが4ヶ月-5ヶ月近くであるのに対して WRCは1ヶ月前後しかないが、シーズンオフが短い分、6月上旬から7月終わりまたは8月始めまで約2ヶ月間の休息期間となるインターバルを設けている。 現在WRCクラスのマニュファクチャラーは全イベントに参戦することが前提となっているが、かつては有効ポイント制であったことに加えて輸送の問題や参戦コスト、マシンの得意・不得意などもあったため、全イベントに参戦しない方がむしろ一般的であった。WRC黎明期に日本勢がアフリカイベントで好成績を残すことができたのは、そうした事情も関係がある。 イベントで使用されるコースの路面環境は様々だが、大きな分類では未舗装路のグラベルとアスファルト舗装路のターマックの2種類で、積雪路のスノーや凍結路のアイスは、土台となる基礎路面で分類される。ターマックとグラベルが混在するミックスサーフェイスのイベントも有る。
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イベントで使用されるコースの路面環境は様々だが、大きな分類では未舗装路のグラベルとアスファルト舗装路のターマックの2種類で、積雪路のスノーや凍結路のアイスは、土台となる基礎路面で分類される。ターマックとグラベルが混在するミックスサーフェイスのイベントも有る。 概ね、ターマックでは車高を下げて大径の18インチホイールを装着するのに対して、路面変化の大きいグラベルではサスペンションのストロークを確保するために車高を上げて小径の15インチホイールを装着する。全イベントの2/3を占めるグラベルも地質や砂利の割合などそれぞれ特性が異なり一括りに出来ない難しさがあるため、ターマック、グラベル共に路面状況や天候を読みながらのセッティング、タイヤ選択がタイムに大きな影響を与えることも少なくない。 ラリードライバーは大別するとターマックが得意か・グラベルが得意かで分けることができるが、その違いはドライバーの出身地による場合が多い。例えばグラベル路面の多いフィンランドのドライバーはグラベルが得意で、ターマック路面の多いフランスのドライバーはターマックが得意、といった具合である。これは慣れというのはもちろん、その地域で頭角を現すためにはその地域の路面に強い必要があるということでもある。また同じ「グラベル」「ターマック」でも、国によってコース環境は大きく異なるため、地元のドライバーが好成績を残す傾向にある。 かつてはタイヤの種類や使用本数に制限は無かったが、コスト低減などを目的としたコントロールタイヤ制度 (ワンメイク) の導入と同時に様々な制限を行った。タイヤの種類は、トレッドパターンがブロック状のグラベル用、ターマック用のグルーブ (溝) が少ないスリックのほか、冬期イベント用にスノーとスタッド付きスノーがある。レギュレーションにより、イベントで使用可能なトレッドはグラベル、ターマック共に1種類、コンパウンドは2種類まで認められているが、例外として、ターマックの冬期イベントで路面のコンディションが多種多様に変化するモンテカルロでは4種類まで認められている。
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車両へ搭載されるスペアタイヤの本数は2本まで、新品タイヤへの交換は“サービスパーク”への入庫時のみ、交換本数も4本までとなっている。限られたタイヤ本数で如何に早いタイムを出すことが求められるため、特に近年はタイヤマネージメントの重要性が増した。前後左右のタイヤ選択、前後のローテーション、内圧設定のほか、勝負所となる重要なSSを見極めタイヤを温存するなど様々な戦略が取られている。イベント毎に使用出来るタイヤの総本数は異なるが、2014年のラリー・イタリアではシェイクダウンに4本、競技では35本となっている。 2018年現在でFIAに認定されている公式サプライヤー (供給メーカー) は、ミシュラン、DMACK、ピレリの3社である。2008年から2011年までは独占契約を結んだ1社が全てのマシンにタイヤを供給するワンメイクとなっていたが、2011年からはタイヤメーカーの選択が自由となり、各チームがそれぞれのタイヤメーカーと契約する形となっている。尚、トップクラスのWRカークラスに関しては2021シーズンから、コントロールタイヤがミシュラン製からピレリ製に変更されている。 3日間または4日間で行われる。各日はDAY (デイ) で表し、1日目は「DAY1 (デイワン)」と呼称する。DAYは、実質的な競技区間のSS (Special Stage: スペシャルステージ、通称: エスエス) と計測地点のTC (Time Control: タイムコントロール)、公道を走行する移動区間 (ロードセクション) のリエゾンに分けられ、SSの合計タイムが最も早いドライバーが優勝となる。 競技はアイテナリーと呼ばれるタイムスケジュール表に沿って進められる。通常のスタート間隔は2分だが、グラベルで無風状態になると前車走行後の土煙が2分以内に収まらず、後にスタートしたマシンが視界を遮られて影響を受けるため、その場合は間隔を1分延長し、状況次第では更に1分延長される事も有る。このためサーキットレースとは異なり、トラブルで減速・停車した場合を除きコース上での抜きつ抜かれつはほぼ生じない。
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競技はアイテナリーと呼ばれるタイムスケジュール表に沿って進められる。通常のスタート間隔は2分だが、グラベルで無風状態になると前車走行後の土煙が2分以内に収まらず、後にスタートしたマシンが視界を遮られて影響を受けるため、その場合は間隔を1分延長し、状況次第では更に1分延長される事も有る。このためサーキットレースとは異なり、トラブルで減速・停車した場合を除きコース上での抜きつ抜かれつはほぼ生じない。 イベントが開催される週の水曜日からレッキと呼ばれる、競技で使用されるコースの下見走行を行い、ドライバーとコ・ドライバーはコース状況を把握してペースノートの製作を行うが、使用車両は競技車両ではなく一般車両となる。水曜日の夕方から木曜日に掛けてはシェイクダウンと呼ばれる、実際に競技車両を使用して最終チェックを行った後、車検を受けて規定外のパーツの装着が無いか確認が取れると、競技車両はパルクフェルメと呼ばれる車両保管所に置かれ、ドライバーを含め全ての関係者は競技開始まで触れることが出来ないようになっている。 一般道路を使用する移動区間。スタートした車両はリエゾンを通りTCへ向かう。SSと異なり閉鎖されていないため、現地の交通法規に従い一般車両に混じって走行する。そのため競技車両は開催国のナンバープレートを装着する。リエゾンを走行することも競技の一部であり、主催者から示されるコマ図に従って走行するというラリー競技当初の姿が現在も残っている。TCに入る時間は車両毎に指定され、指定時刻に遅れた場合は1分につき10秒のペナルティが総合タイムに加算される。スピード違反や一時停止義務違反で現地の警察に検挙されることもあり、ドライバーが免許停止などの処分を受けた場合、以後のリエゾン区間はコ・ドライバーがステアリングを握ってドライバーがナビをする。また、各国の法律に定められた保安基準を満たしていない場合は走行を止められることがあり、特にSS区間でのトラブルで車が破損した場合などに問題となる。
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一般道路を一時的に閉鎖して作られた区間で、スタート地点はTC内に設置され、1台ずつ一定間隔でスタートしてタイムを競う。イベントによっては一般道路を閉鎖して使用するSSとは異なり、人工的に作られたサーキットコースのような特設会場で、2台の車両が仕切りのあるコースを同時にスタートするスーパースペシャルステージ (Super Special Stage: スーパーSS、SSS) も存在する。 スピード感のある走行シーンが見所であるため、メディア中継が行われるのもSSであることが多い。SSの数はイベントにより異なるが概ね20前後で、各SSの距離は2 km前後から50 km以上まで存在し、合計距離は300 - 400 km程度となっている。2011年からはパワーステージが導入された。タイトル争いでは僅かなポイントが結果を大きく左右する場合があるため、DAYリタイアやトラブルで上位進出の可能性が無くなった場合はパワーステージでのポイント獲得に切り替える事が多い。 タイムは速いほど良いためドライバーは全力で挑むが、時にはスピンやパンクによるタイムロスも発生する。また、事故や機器のトラブルなど、車両が深刻なダメージを受けて走行不能となった場合は、リタイアしたSSと、同日に行われる全てのSSがリタイア扱いとなるDAYリタイアとなる。全損で無い場合、指定の時刻までに車両を走行可能な状態にして認定を受けた場合は翌日の出走が可能となる救済措置のラリー2規定が適用され、ペナルティとしてリタイアしたSSと走行出来なかった残りのSSのトップタイムに5分加算されるが総合成績は有効となる。ただし、最終日にリタイアした場合は同規定が適用されないため未完走扱いとなり総合成績は残らない。 DAYリタイアの時点で、優勝やポディウム争いからは脱落してしまうが、以降のイベントに向けてのテストやセッティングと割り切って走行する事が多い。2014年からは、シードドライバーがDAYリタイアし翌日出走する場合、前年のドライバーズポイント順である、ゼッケンナンバーが15番までのシードドライバーの最下位に組み入れることと規定された。これは、余りにも下位の出走順にしてしまうと、技量の高いシードドライバーがタイムの遅い前走者に追い付き、危険と判断されたものである。
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スタート順は、グラベルのイベントに於いては重要なファクターとなる。最初にスタートするドライバーは堆積する土砂を掻き分ける掃除役となり不利を被ることが多いため、これまでも様々な対策が取られてきたが根本的な解決策は定まっていない。2013年までは事前に行われる予選でタイム順に上位のドライバーから自由に決めることが出来たが、2014年からは予選が廃止された。新方式は、初日のDAY1はドライバーズポイントが高い順、DAY2以降はスーパーSSを除く前日の最終ステージを終えた時点での総合成績順となっている。 各DAY最後のSS終了後はTCに移動してリエゾンを通り、サービスパークと呼ばれる各チームの本部に戻る。サービスパークでは競技中の整備や給油などの各種作業が許されるが制限時間があり、制限時間をオーバーしたり、SSを欠場してマシンの修復を行う場合はペナルティとしてタイムが加算される。その後、車両は再びパルクフェルメに保管されて次のDAYの競技開始を待つ。サービスパーク以外で簡単な整備が出来る場所、リモートサービスを設ける場合もある。 2014年にFIAにおける地域選手権も含めたラリーカーの規定は、6つのクラスに再編された。グループRのR3D以外は全てガソリン車となる。従来は各クラスに多数の規定が混在していたが、2019年にグループA・グループNを排除して簡素化された。また2020年にはグループRのうちR3以外のすべてが「Rally〜」へと改名している。現在の車両の区分は以下の通り。 この技術区分はプライオリティ(優先順位、出走順などに関連)の基準として用いられる。 2022年現在。車両の詳細は競技クラスを参照。 その他、これらのクラスとは別枠でASN(Authority Sport Nationale、各国の自動車協会)の認める地域選手権独自の規定の車両がエントリーすることも可能である。ただし安全基準はFIAのそれに準ずる。またチャンピオンシップポイントを得ることはできず、賞典外での参加となる。
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2022年現在。車両の詳細は競技クラスを参照。 その他、これらのクラスとは別枠でASN(Authority Sport Nationale、各国の自動車協会)の認める地域選手権独自の規定の車両がエントリーすることも可能である。ただし安全基準はFIAのそれに準ずる。またチャンピオンシップポイントを得ることはできず、賞典外での参加となる。 WRCのほかにWRC2、WRC3を始めとするサポート選手権と、それに付随する各種カップが存在する。このうちWRC2とWRC3は全WRCイベントで併催される。こうしたいわゆる「下位クラス」は業界の事情に対して右往左往するような形で毎年大規模に賞典の変更が行われるため、情報を追う場合には特に注意が必要である。 タイヤは2022年現在、全クラスでピレリとなっている(ただしASN車両はこの限りではない)。 選手権の名称にもなっている最上位クラス。1973年誕生。マニュファクチャラー(製造者)として参戦するチームは、全13戦で2台以上のエントリーが義務付けられている。ポイントは全戦有効。カーナンバーは基本的に1 - 30番だが、それ以外をリクエストすることも可能。2019年よりチャンピオンドライバー以外は「2 - 99」のうちから自由選択となった。 現在の車両規定はRally1である。市販車に由来しないパイプフレームと共通のハイブリッドシステム、SDGsの観点から精製されたバイオ燃料を用いているのが特徴となる。エンジンは先代のWRカー規定からキャリーオーバーされた直列4気筒1.6 Lターボの「GRE(グローバル・レース・エンジン)」と呼ばれる規格で、最高出力は約380 PS、最大トルクは約425 Nmを発生する。ハイブリッドの最大出力と組み合わせると500PS/500Nmにも達する。コスト削減のためパドルシフトとセンターデフ、電子制御デフは禁止されている。 ベース車両は古くはクーペやセダンが主流であったが、2000年代以降は小型化が進み、現在のラリー1はBセグメントハッチバックと同様のシルエットを採用している。 2018年まで規則上ではグループN、スーパー2000、グループA、グループRGT、グループRなども参戦可能であったが、実際にこれを用いるエントラントはなく、2019年以降は規則から削除されている。
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ベース車両は古くはクーペやセダンが主流であったが、2000年代以降は小型化が進み、現在のラリー1はBセグメントハッチバックと同様のシルエットを採用している。 2018年まで規則上ではグループN、スーパー2000、グループA、グループRGT、グループRなども参戦可能であったが、実際にこれを用いるエントラントはなく、2019年以降は規則から削除されている。 WRCの直下カテゴリ。2013年誕生。参戦した7戦のうち上位6戦分のポイントが採用される有効ポイント制である。カーナンバーは2018年までは31から60番。2019年より20番以降となる。歴史は長くないが、WRC3との絡みも合わせて参加車両・参加資格などの変更が非常に多くされてきたクラスである。 使用車両は2022年現在はRally2(旧名グループR5)車両のみで選手権が争われる。2013〜14年まではグループR4、2013 - 2018年まではグループN4、スーパー2000もエントリーできた。またWRC2発足当初はグループN4が対象の「プロダクションカーカップ」が設定されていた。2020年からは、オレカ製の共通コンポーネントおよび1.6リッターターボエンジンを搭載するRally2キットカー(旧R4キットカー)も参戦可能となる。 グループRally2/R5は元々はスーパー2000に代わる規定で、最大価格18万ユーロの規制の下に多数のメーカーが開発・販売を行っている。エンジンは市販車由来の1.6 Lターボで最大馬力280 PS程度、大規模な空力パーツも無いため絶対的な速さこそRally1に劣るが、コースやドライバーなどの諸条件が揃うと稀にRally1/WRカーを上回るパフォーマンスを見せることもある。コストパフォーマンスに極めて優れているためプライベーターからの人気が高く、シュコダのようにこのクラスを主戦場とするメーカーもいるため、かつてはRally2/R5規定を次期WRカーとする構想があったほどであった。結局それは実現していないものの、ワークスチームやプロドライバーが多数いる現状を鑑みて、彼らを対象としたWRC2プロクラスが開催されていたこともあった。WRC2プロは1年間のみの開催で、2020年からはワークス向けのWRC2プロを「WRC2」、プライベーター向けのWRC2を「WRC3」へと名称を置き換えることとなった。
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2022年からは再びワークス・プライベーターともにWRC2に一本化され、高齢層のための「マスターカップ」と、WRC2/3優勝経験を持たない若年層のための「ジュニアカップ(WRC2ジュニア)」が賞典として施行される。2023年からはジュニアカップはまだRally2レベルのサポート選手権(WRC2/旧WRC3)の王者になったことのないドライバーによる「WRC2チャレンジャー選手権」に格上げされ、マスターカップは50歳以上のドライバーとRally2〜5またはR-GT車両が対象の「WRCマスターズカップ」へと変更された。 2013年誕生。運営規則はほぼWRC2とかなり近く、13戦開催・7戦中6戦の有効ポイント制を敷く。歴史は短いながら車両規定の変遷が激しく、廃止と復活も経験している。 もともとはワンメイク化されたJWRCに代わって登場した、WRCの二輪駆動車部門で、2018年までは二輪駆動のグループR車両(=R1・2・3、現在のRally4・5)で争った。またJWRCの車両はWRC3の規則と合致するため、両クラスに同時エントリーが可能となっていた。JWRCは出走イベント・参戦マシン・タイヤメーカーなどを選べないハンデはあるが、実際にはJWRCのエントラントがWRC3でも上位をほぼ占めており、両選手権でチャンピオンを獲得することの方が多かった。この頃はWRC3としてのメディア露出はほとんどなく、2018年終了を以て一旦廃止された。 2020年にRally2車両のプライベーター向けクラスとして復活したが、最終戦ラリー・モンツァにて前年までヒュンダイワークスドライバーのアンドレアス・ミケルセンがスポット参戦し優勝したことで苦情が発生。その影響で2021年以降、過去5年以内にWRCクラスでマニュファクチャラーズポイントを獲得した者又はWRC2/3チャンピオンのWRC3参戦を禁止するという一幕があった。 2022年からは新生'Rally3車両(コスト規制10万ユーロで210 PS程度の四輪駆動車)が導入され、明確にWRC2と区別される。
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2022年からは新生'Rally3車両(コスト規制10万ユーロで210 PS程度の四輪駆動車)が導入され、明確にWRC2と区別される。 WRCの育成向けクラス。2002年誕生。WRCクラスの有力マニュファクチャラーで知られるMスポーツのポーランド法人がプロモーターを務める。年間5 - 7戦で、ポイントは全戦が有効となる。カーナンバーは61から80番。2015 - 2016年と2019年以降に、1イベント中各国で最もポイントを稼いだドライバーをポイント対象とし、年間最もポイントを稼いだ国に贈られる「JWRCネイションズトロフィー」が設定されている。 参戦には29歳以下で、かつWRカーでマニュファクチャラーポイントを獲得したことが無いドライバーという制限が課されており、WRCへの登竜門的な存在となっている。以前はJWRCでチャンピオンになってすぐWRCで活躍するドライバーも多かったが、近年はWRCの出場枠が少ないことやWRカーの戦闘力が以前より上がったこともあり、一旦WRC2へステップアップするドライバーが多い。運営側でも、優秀な成績を収めたドライバーには翌年WRC3に参戦するための費用やマシンが与えられる。 2011年から車両・タイヤともにワンメイクとなっている。従来の指定車両は前輪駆動車のみであったが、2022年からは四輪駆動のフォード・フィエスタRally3が指定されている。
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2011年から車両・タイヤともにワンメイクとなっている。従来の指定車両は前輪駆動車のみであったが、2022年からは四輪駆動のフォード・フィエスタRally3が指定されている。 前身は1993 - 1999年開催の、二輪駆動+自然吸気エンジン車のF2規定車両のための「FIA 2リッターカップ」(正式名称は「FIAカップ・フォー・マニュファクチャラー・オブ・ツーリングカー」)。2001年に改めて開催された「FIAスーパー1600カップ」が翌年にJWRCと改称された。2006年以降はスーパー1600に加えて1,600cc以下のグループA3キットカー、2,000cc以下のグループN3、グループR2・R3規定など多彩なマシンのエントリーも認められるようになった。2007年のみヨーロッパ以外での開催が無かったため、“W”が取れ「JRC」となった。エントラントの減少から、2011年に車両・タイヤがワンメイク化された。2011 - 2012年の名称は「WRC アカデミー」であったが、2013年にはサポートカテゴリ再編と共に「JWRC」に戻った。2022年のみWRC2ジュニア/WRC3ジュニアへと分化しているが、Mスポーツのブランド戦略上の意向により、WRC3ジュニアについては「JWRC」の呼称が残された。WRC2ジュニアの発展解消により、2023年からは正式にも「JWRC」として開催される。 クーペをメインとした、グループR-GTを対象とするカテゴリ。WRCとの併催が多いが、他のサポート選手権と異なり世界タイトルはかけられておらず、ERC(ヨーロッパラリー選手権)などとも併催されている。 2002 - 2012年開催。市販車に安全装備など最低限の改造のみを施した、グループN規定の車両を中心に戦う。前身は1987年から開催されていたFIAプロダクションカーカップ。チームタイトルに当たるものは存在しない。
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2002 - 2012年開催。市販車に安全装備など最低限の改造のみを施した、グループN規定の車両を中心に戦う。前身は1987年から開催されていたFIAプロダクションカーカップ。チームタイトルに当たるものは存在しない。 スバル・インプレッサと三菱・ランサーエボリューションの寡占状態が長く続いたため、2007年からスーパー2000車両も許可され、2011年からはJWRCのワンメイク化に伴いR1 - R3車両のための2WDカップが創設された。2010年にスーパー2000はSWRCへ分離され、2013年にはグループN4車両はWRC2のプロダクションカーカップ、2WDカップはWRC3へと発展してPWRCは消滅した。 日本人・日本車の活躍が多く、新井敏弘が2度のドライバーズタイトル、奴田原文雄がモンテカルロで優勝を飾る活躍を見せた。前身のFIAプロダクションカーカップでも三菱・スバルの他マツダ・日産がチャンピオンマシンとなっており、日本人では西山寛が総合ランキング2位に入っている。なお2005年頃までは「PCWRC」と表記されていたが、現在は「PWRC」と表記するのが通例である。 2010年〜2012年開催。市販車を自然吸気2.0 Lエンジン・四輪駆動に換装するスーパー2000規定と、グループN4の戦闘力の乖離を鑑みて創設された。また初年度のみチームタイトルとして、選手権名の原案でもあった「WRCカップ」が掛けられた。マシンはスーパー2000の他、2011年からグループR4車両も可とされた。わずか3年のみの開催で、2013年よりWRC2へ移行した。 2020年~2021年のWRC2に相当するクラス。ワークスチームやプロドライバーが対象で、グループR5で2019年のみの1年間だけ争われた。 全クラス共通で、最終日のSS終了時の順位で1位から10位までに25, 18, 15, 12, 10, 8, 6, 4, 2, 1ポイントが与えられ、1シーズンで最も多くのポイントを獲得したドライバー/コ・ドライバーがドライバーズチャンピオン/コ・ドライバーズチャンピオンとなる。
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全クラス共通で、最終日のSS終了時の順位で1位から10位までに25, 18, 15, 12, 10, 8, 6, 4, 2, 1ポイントが与えられ、1シーズンで最も多くのポイントを獲得したドライバー/コ・ドライバーがドライバーズチャンピオン/コ・ドライバーズチャンピオンとなる。 WRC、WRC2、WRC3のエントリー車両に限り、総合成績に関係なくイベントの最終SSの1〜5位にそれぞれ5-4-3-2-1ポイントのボーナス点が与えられる(パワーステージ)。JWRCのみ、各SSで最速タイムを記録するたび1ポイントの「ステージポイント」が与えられる。 下位クラスのWRC2/WRC3/JWRCはクラス別にポイントが設けられているが、最高峰のWRCのドライバーだけはクラス順位ではなく総合順位からポイントが決定する。また下位クラスのドライバーでも総合順位次第でWRCのポイントを獲得できる(ただしASN車両では獲得できない)。 WRC2は7戦中上位6戦(そのうち1戦は欧州外イベントが絶対条件)、WRC3は最初に参戦した7戦中上位5戦の有効ポイント制となっている。2020年のJWRCは最終戦のみポイントが倍となる。 WRカーの製造者(マニュファクチャラー)が該当し、WRCで開催される。WRCの場合同選手権にエントリー出来るのはマニュファクチャラー毎に1チーム3台までで、2チーム目(4台目)以降はマニュファクチャラーズポイントは与えられない。各マニュファクチャラーの、各イベントの上位2名の順位が加点対象となる。またWRC2は2台までがエントリーでき、ポイント対象は1台のみである。 ドライバーズタイトルと異なり、下位クラスのマシン・各マニュファクチャラーの最下位者1名・リタイア者を排除した順位でポイントを決める。例えば3名×4マニュファクチャラー=12名がマニュファクチャラー参戦している状態で、仮に全車がデイリタイアを喫しつつも完走した場合、マニュファクチャラー選手権の加点対象は12名―(各メーカーの最下位者×4)=8名となるため、最低順位は8位となる。つまりこの場合どんな形でも最終日の最終SSを走りきれば、7位+8位分の6+4=10ポイントは必ず獲得できる。年間最も多くのポイントを獲得したメーカーがマニュファクチャラーズチャンピオンとなる。
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2021年よりパワーステージにてマニュファクチャラーズ選手権ポイントも加算される。ドライバーズ選手権のパワーステージ同様に各マニュファクチャラーは、パワーステージの上位5人のうち、自チームのポイント対象ドライバーの上位2名のポイントを獲得できる。 なおWRCが誕生した当初はドライバーズ選手権はなく、マニュファクチャラーズ選手権のみであった。1970年後半から~80年半ばまでは、総合順位とグループB/A/N内の順位を表で照らし合わせて、18~1ポイントまでを割り振るという少々複雑なポイント付与が行われていた。またマニュファクチャラーズポイント対象外に設定されるイベントもあった。 WRC2ではマニュファクチャラーズ選手権の代わりに「チーム選手権」が設定されている。1チームにつき最大2名が対象で、3人目以降は別チームの扱いとなる。そのイベントで最もポイントを多く獲得した1名がポイント対象。ドライバーズ選手権同様、13戦中8戦の有効ポイント制で、チームのドライバーのうち1名でも参戦すればポイント対象となる。年間通して最もポイントを獲得したチームがチームズチャンピオンとなる。 JWRCと2020年以降のWRC3にチーム選手権に該当するものは存在しないが、JWRCではイベント毎各国で最も多くポイントを稼いだ者が対象の、「JWRCネイションズトロフィー」と呼ばれる国別対抗戦が存在する。 1973年のWRC創設から1980年代初頭までは「連続する12ヶ月間で1000台以上」の生産義務があるツーリングカーのグループ2と、「連続する12ヶ月で500台」のグランドツーリングカーのグループ4規定で競技が行われた。ただしグループ2は「連続する12ヶ月で生産台数5,000台」のグループ1、グループ4は「連続する12ヶ月で1,000台」のグループ3の公認もそれぞれ取得することが前提であった。各メーカーは市販車を強化した特別仕様車であるホモロゲーションモデルを販売し、その車両をベースにグループ2・グループ4の競技用車両を開発していた。
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世界ラリー選手権
目敏いランチアはグループ3のパワートレインだけを移植したような、ミッドシップのグループ4マシン・ストラトスを生産してWRCを席巻。マニュファクチャラーズ選手権を3連覇した。しかしあまりに市販車と乖離していることから宣伝にならないと親会社のフィアットが難色を示し、ランチアの代わりにフィアット(アバルト)が前面に出ることとなった。ここにフォード、オペル、タルボなどが絡む形となっていった。 当時はピックアップトラックやクロスカントリー車を排除する目的で2WDが義務付けられていたが、アウディは4WDを乗用車に載せた上でFIAを説得し、4WDを認めさせた。そして1981年からフルタイム4WDとターボエンジンを採用したアウディ・クワトロがラリーを席巻し、その後のラリーカーの方向性を決定づけた。その後グループ1 - 8規定を廃止し、1983年から新規定に移行することが発表された。1982年は新旧両規定に基づいた車両が使える移行期間であった。 グループ1-8と複雑になっていた規定がグループN、A、B、C、D、E、F、Tに簡素化され、このうちWRCはグループB・グループA・グループNを採用した。グループBの生産義務はメーカーの参入を促すため「12ヶ月間に20台の競技用車両を含む200台」と非常に緩く設定されており、これによりさらに高性能で過激なラリー専用車両が続々登場した。グループB車両のほとんどは鋼管スペースフレームに市販車に似せたデザインのFRP若しくはC-FRP・ケブラー製のカウルを被せ、400 - 600 PSと言われた高出力の過給エンジンをミッドシップに搭載し、フルタイム4WDで駆動するといった物であり、メーカー各社は先鋭化した高性能車両を競って生み出していく。際限の無い競争の結果として開発コストが上昇したため、FIAはグループBよりも金銭的な負担が少なく、競争が激しくなるような新しいカテゴリーとしてグループS構想を発表した。
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世界ラリー選手権
グループB規定により走行スピードは劇的に向上したが、安全面がその進化に追いつかず、多くの事故と犠牲者を生み出すこととなった。1985年ツール・ド・コルスでのランチアのアッティリオ・ベッテガの事故死、同年アルゼンチンラリーでのプジョーのアリ・バタネンの事故、1986年ポルトガルラリーでフォードからワークスエントリーしていたヨアキム・サントスが多数の観客を死傷させるなど、ワークスドライバーが絡む事故が多発。そして、1986年のツール・ド・コルスで発生したランチアのヘンリ・トイヴォネン / セルジオ・クレスト組の事故死を受けて、FIAは事故の翌日に以後のグループB車両のホモロゲーション申請を却下することを発表し、その後1986年を以てグループBの廃止を決定、翌1987年からは世界選手権はそれまで下位クラスであったグループAで行われることを発表、同時にグループS構想も消滅した。 1987年の世界ラリー選手権は従来は下位カテゴリであったグループA規定に移行し、ベース車両は継続した12ヶ月間に5,000台(1993年より2,500台)以上の生産が義務づけられたほか様々な改造規制が加えられて市販車に近いものとなった。またグループBの教訓を忘れないFIAは1990年にエアリストリクターの装着を義務化し、最大出力を300馬力以下に抑えた。しかし4WD技術とタイヤの性能の進歩によりハンドリングは改良され続け、車両性能は落ちるどころか年々向上。エンジンも開発リソースがトルクの増強に回された結果、グループBに匹敵する400Nm級のトルクを発揮。こうした進歩により3年後にはグループBのマシンを凌駕する速さを身に付けた。 当初こそBMW・M3やルノー・5ターボ、日産・200SXといった後輪駆動車が総合優勝できたこともあったが、1990年代に入るとフルタイム4WDと2.0 Lのターボエンジンが必須装備となっていた。グループA導入時にスポーツ走行用の4WDを備えた市販車を製造していたメーカーはランチア・アウディ・フォード・マツダがいたが、アウディは大柄すぎるボディが環境に合わずに撤退。以降もその様な高性能な装備の市販スポーツ車両を生産・販売出来る欧州メーカーはランチア以外無く、トップカテゴリを戦えるメーカー数は大幅に減少した。
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