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世界ラリー選手権
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ランチアはコンパクトなデルタを用いてグループA時代の覇権を握ったが、これに日本のメーカーが勝負を挑む。当時の日本の自動車市場はコンパクトな4WDスポーツ車が順調に売れる世界的に見て珍しい市場であり、また海外進出が好調で景気の良かった日本車メーカーたちはこぞって高性能な4WDスポーツ車を量産。1990年代中盤には、それまでWRCの中心を担ってきたヨーロッパの自動車メーカーに代わり、トヨタ、スバル、三菱、日産、マツダといった日本のメーカーがWRCを席巻した。またフォードもタイトルには手が届かなかったが、コスワースがエンジンを手がける4WDスポーツで日本車勢に迫った。
バブル崩壊によりマツダ・日産は志半ばで撤退するが、トヨタはセリカでランチアの厚い壁に挑み続けて遂に撃破し、日本車としては初のドライバーズおよびマニュファクチャラーズ選手権を制覇した。またスバルはインプレッサで1995年 - 1997年にマニュファクチャラーズ・タイトルを3連覇、三菱自動車のランサーエボリューションが1996年 - 1999年にドライバーズ・タイトルを4連覇、特に1998年はマニュファクチャラーズ、グループNと合わせハットトリックを達成するなどし、1990年台後半は日本車勢がタイトルを総舐めにした。この頃から高度な電子制御によるハイテク装備が普及し、各メーカーは前後中央3つのデフ全てのアクティブ化を目指すようになり、セミATやトラクションコントロール、ABSなども装備されるようになった。
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一方欧州メーカーへの参戦の門戸を広げる必要に迫られたFIAは、2WD/NAエンジンのグループA車によるF2クラスを1993年に新設。さらに1995年にはフランスメーカーたちの提案により、改造範囲を大きく広げたF2キットカー規定が導入された。この動きは将来のWRCの2WD/NA化を見越してのものであったが、既存のメーカーたちから反発を受けて、結果F2キットカーの4WDターボ版とも呼べるワールドラリーカー (WRカー) 規定が1997年よりグループAに代わって導入されることで決着した。その後F2キットカー規定は規制緩和や開発競争により戦闘力が向上し、1999年にはシトロエン・クサラがターマックでWRカーをも下して2勝を挙げる活躍を見せたが、性能調整を受けて消滅。2WD規定は低コストなスーパー1600へと発展し、後のJWRCに繋がっている。
1997年にライバルたちがWRカーに移行する中、三菱だけはグループAに留まり、1998年に初のマニュファクチャラーズタイトルを、1999年もドライバーズタイトルを勝ち取るなどの戦果を挙げ、以降も2001年半ばまでグループA車両で戦い続けた。
グループAの特例として1997年から導入されたWRカーは、継続した12ヶ月間に25,000台以上生産された車種の派生モデルに限り、直接的なベースモデルの生産台数を2,500台とするもので、ワイドボディ化、4WDへの改造、リアサスペンション形状の変更、同一メーカー車に搭載されているエンジンへの換装やターボの付加など、大幅な改造を認められたものである。この規定により高性能4WD車をベースにする必要がなくなったため、ヨーロッパの自動車メーカーが相次いでWRCに参戦し、メーカー数が増加して活況を呈し始めた。またアジア車勢でもヒュンダイやスズキといったメーカーが短期間ながら新規参入した。エンジントルクは600Nmにまで到達するマシンも現れ、ハイテク戦争も高度化してアクティブサスペンションが現れ始めた。
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WRカー導入の初期こそ、トヨタ・カローラや三菱・ランサー、インプレッサといった日本車勢が引き続き強さを見せていたものの、21世紀に入ると陰りが見え始めた。1999年に登場したプジョー・206 WRCは2000年 - 2002年までマニュファクチャラーズタイトルを3連覇。2003年には本格参戦1年目にしてシトロエンがマニュファクチャラーズタイトルを奪取し、その後2005年まで3連覇するなど、今度は一大勢力と化したフランス車勢が台頭した。
しかしF1のようなハイテク制御を用いた過激な開発競争と、90年代の倍近くに増えた年間イベント開催数がコスト高騰を招き、2005年にはプジョー、シトロエン、三菱、シュコダが一斉にワークスチームを撤退させてしまうという事態に陥った。
そこで2006年以降はトラクションコントロールやABS、前後デフの電子制御化などの禁止(センターデフのみ許可)でハイテク化に歯止めをかけた。しかしもう一つの高コストの原因であった空力は放置されたため、大きな効果を挙げたとは言いがたかった。同時に参戦台数確保のため、セミワークス向けに全戦参戦義務が無くエントリー料の安いマニュファクチャラー・チームという制度も導入され、プジョーとシュコダはこれで短期間のみ留まった。
シトロエンは2006年にプライベートチームのクロノス・レーシングをワークス支援する形で参戦を続行し、その間従来のWRカーであったクサラ WRCの後継となるC4 WRCの開発を平行して行っており、2007年に再びワークスチームとしてWRCへ復帰した。選手権はシトロエンのエースのセバスチャン・ローブ/ダニエル・エレナ組による独走が続き、実に2012年までドライバーズ/コドライバーズタイトルを9連覇、マニュファクチャラーズタイトルも同期間中7度の制覇を果たすこととなる。
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フォードはグループA規定末期から英国のMスポーツにワークス活動を委託していた。最初はコリン・マクレーを破格の契約金で引き抜くなど羽振りが良かったが、フォードグループの経営不振などにより年を追うごとに資金が先細りしていく状況にあった。2002年頃から毎年撤退が噂され、2004年には撤退寸前まで追い込まれるが、Mスポーツ代表のマルコム・ウィルソンが絶望的な状況の中でも諦めることなくフォード首脳陣に対して参戦継続へ向けた粘り強い交渉を行っていた。そして交渉期間中に開催されたカタルニア・ラリーとツール・ド・コルスで連続優勝を成し遂げて状況が好転し、フォード本社がラリー活動の継続を決断した。2005年に3年間の参戦と資金が確約されると攻勢に転じ、モデルチェンジしたフォーカスSTをベースに新型車両を開発。2006年は1979年以来となるマニュファクチャラーズタイトルを獲得し、2007年にも連覇した。
2007年にはスズキが参入するが、リーマン・ショックに端を発する世界的不況が直撃し2008年末にスズキ・スバルが電撃撤退。2009年開始時点で正式に参戦したのはシトロエン、フォードの2社のみとなってしまった。
WRカーはコスト高騰で新規ワークスの参入は困難になってしまったため、コスト削減案としてすでにPWRCやIRCで活躍していたスーパー2000 (S2000) 規定を導入しようという案が有力視された。これは大衆車を共通部品と2.0 LのNAエンジンを使用して低コストで4WD化する、いわば廉価版のWRカー規定のような存在である。
WRカーという名称は引き継いだまま、新規格のWRカーを2010年から導入することが検討され、2008年12月にFIAはS2000をベースにボルトオンキットで簡単にWRカーに出来る様にする“S2000プラス”とする方針を提案した。しかし2009年の間もFIAの中で意見が二転三転し、S2000プラスを撤回して2011年以降はS2000をそのままメインカテゴリーにするという話が浮上。際限なく続く議論に、次期車両開発をしたくてもできないシトロエンとフォードからは、結論の出ないFIAに対して不満の声が上がった。
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最終的には世界ツーリングカー選手権(WTCC)と共通のエンジン規格『GRE』(Global Race Engine、1.6L直噴ターボエンジン)を、S2000車両に搭載し改造範囲を広げたS2000 WRCに変更することを決定。GREにより市販車に由来するエンジンである必要が無くなった一方で、トルクは400Nm程度まで引き下げられた。
これにより2011年5月、フォルクスワーゲンがポロ R WRCで参戦することを発表している。フォードは2012年を以てワークス参戦を終了し、80年代以来長きに渡る挑戦の歴史を一度終えたが、Mスポーツへの車両供給と技術支援は続けた。また2011年からは新たにBMWがプロドライブに製作を委託しミニ カントリーマンをベースにした、ミニ・ジョン クーパー ワークス WRCで参戦したが、組織的な紛糾により2013年に姿を消した。
フォルクスワーゲンは2013年にWRCクラスに本格参戦を開始、デビュー年でドライバーズ/コ・ドライバーズ/マニュファクチャラーズの三冠を制覇した。2014年も好成績を継続していることを受けて、フォルクスワーゲンは当初の2013年 - 2015年までの3年計画を延長、2019年まで参戦することを決定した。また2014年からはヒュンダイがi20 WRCで復帰し、初年度で念願の初勝利を挙げるなど活躍を見せたが、シトロエン・フォードらとともにVWの三冠4連覇を阻止するには至らなかった。
下位クラスではS2000やS1600、グループNといった車両規定がグループRに取って代わられ、さらにピラミッド型にまとめられた。
WRC代表のカルロス・バルボサは近年失われつつある人気を取り戻すことを重視し、これまでの低コスト・規制強化路線とは打って変わった大規模な規制緩和を行うことを決めた。そして2017年からエアリストリクター径は33 mmから36 mmに緩められ、エンジン出力が315馬力から380馬力へアップ。最低重量は1200 kgから1175 kgに引き下げられ、アクティブセンターデフの解禁、リアディフューザーや車幅の拡大もなされた。
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新規則発表に前後して2015年1月、トヨタはかねてから噂されていたWRC復帰を発表。一方2016年11月にフォルクスワーゲンが電撃撤退を表明したため、マニュファクチャラーの総数は増加には至らなかった。この新WRカー初年度は、フォード車を用いるプライベーターのMスポーツがメーカー勢を破って三冠を獲得する快挙を達成。これにより2018年からフォードはMスポーツへの支援を厚くする形で「Mスポーツ・フォード」の名でワークス復帰した。
しかしアジア車勢が徐々に強さを見せ始め、2019年にはトヨタがマニュファクチャラーズ、ヒュンダイがドライバーズ/コドライバーズタイトルを制覇。アジア車メーカーによるタイトル独占は1999年以来、20年ぶりであり、以降もこの2社でタイトルを分け合う状態が続いた。
同年シトロエンが撤退を表明したことにより、欧州車メーカーは再びWRCの最高クラスから姿を消した。
自動車業界を取り巻く流れを受け、2022年からハイブリッドシステムが導入される事が決定した。導入から3年間(2024年まで)は各チームに共通のハードウェアとソフトウェアが提供され、全車同一のシステムを使うことになる。リエゾンの一部では電気でのみ走り、SSでは電気ブーストとして利用することが狙いとされている。エンジンはGREが維持され、ハイブリッドと合わせると最大で500馬力/500Nm以上を発生できるようになった。
しかしハイブリッド導入でコストが上がる分を補填する必要があり、他の部分ではローテク化がなされる。具体的には前後メカニカルデフでセンターデフそのものが廃止され、空力開発も制限されるなどしたため、コーナーリング面では前規定に比べると不利な部分が増えた。
新規ワークスチームの参入を促すため、鋼管パイプフレームを使ったプロトタイプのボディワークも認められる事となった。これはベース車両のスケーリングも可能であり、従来のようなBセグメントコンパクトカーのみならず、Cセグメント車やSUVも規定サイズに縮小すれば参戦が可能となった。
古くからホンダを除く主要日本メーカーのほとんどが参戦、活躍を見せた。
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新規ワークスチームの参入を促すため、鋼管パイプフレームを使ったプロトタイプのボディワークも認められる事となった。これはベース車両のスケーリングも可能であり、従来のようなBセグメントコンパクトカーのみならず、Cセグメント車やSUVも規定サイズに縮小すれば参戦が可能となった。
古くからホンダを除く主要日本メーカーのほとんどが参戦、活躍を見せた。
トヨタはWRCの前身であるIMCの1972年シーズンから、ドイツのプライベーターであったオベ・アンダーソン・モータースポーツ(後のTTE、TMG、TGR-E)を支援する形で参戦。当初は欧州イベントのみに参加していた。カローラレビン、セリカを運用して1975年の1000湖ラリーで初優勝を果たした(ただしトヨタ車としては1973年アメリカが初)。1977年にはマニュファクチャラーズ選手権で日本車勢最上位となる3位につけた。その後欧州イベント以外にも活動を広げ、82年ニュージーランドの他、1984年から1986年までサファリラリー3連覇を果たすなどの活躍を見せた。
1990年にセリカを駆るカルロス・サインツが当時、無敵の強さを誇っていたランチア勢を破って日本車で初のドライバーズタイトルに輝くと、1993年にはユハ・カンクネンのドライバーズタイトルに加えて日本車初のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。1994年もダブルタイトルを獲得し、黄金時代を築いた。しかし1995年に苦戦から違法なリストリクター製造に手を染めてしまい、発覚後にFIAより1年間の出場停止処分が科された。これを重く受け止めたトヨタは、出場停止を言い渡された1996年に加え、翌1997年まで活動を自粛した。1998年にWRカーのカローラで復帰するとすぐに三菱とタイトルを争い、1999年に3回目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得して有終の美を飾り、トヨタはF1へ転身していった。
それから18年後の2017年、ヤリスWRCで復帰。オペレーションはフィンランドを本拠とするトミ・マキネン・レーシングで、エンジン開発をTMGが行った。デビュー2戦目のラリー・スウェーデンで早くも優勝を果たし、翌2018年には5勝を挙げて19年ぶり4回目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。
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それから18年後の2017年、ヤリスWRCで復帰。オペレーションはフィンランドを本拠とするトミ・マキネン・レーシングで、エンジン開発をTMGが行った。デビュー2戦目のラリー・スウェーデンで早くも優勝を果たし、翌2018年には5勝を挙げて19年ぶり4回目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。
以降2022年終盤時点で、マニュファクチャラーズ選手権は5回、ドライバーズ選手権は8回まで記録を伸ばしている(いずれも日本メーカー1位)。
また下位クラス向けにTMG(現TGR-E)が開発したヤリスR1やGT86 CS-R3のプライベーターへの供給も行っている。
2022年現在、下位クラス含めて唯一WRCにワークス参戦している日本メーカーである。
日産は「ダットサン」ブランドを用いてIMCの初年度から参戦していたが、サファリラリーにはそれよりさらに前の1963年から参加しており、クラス優勝や総合優勝を達成するなど実績を積み重ねていた。スポーツ240Zが1973年のWRC開幕初年度から日本のワークスチームとしてWRC初優勝を果たしたのもサファリであった(サファリでは3回目の総合優勝)。1979年 - 1983年にもA10系バイオレットでサファリラリー史上初の4連覇を果たした。また1979年・1981年はマニュファクチャラーズランキングで2位に入り、グループ2・4規定時代のWRCを日本最強のメーカーとして過ごした。
しかし、グループB規定が導入されると、得意のサファリでもトヨタ・セリカなどの後塵を拝するようになった。1988年のアイボリーコーストでの200SX(日本名シルビア)の優勝が日産にとっても最後の優勝であり、WRC史上最後のFR車の優勝ともなっている。1991 - 1992年のパルサーGTI-Rを最後に、本社の業績不振からシーズン途中で撤退した。通算では9勝を記録しているが、結局タイトルには手が届かなかった。
なおGTI-Rは1992年にFIAプロダクションカーカップ(後のPWRC)でグレゴワール・ド・メビウスのドライブによりチャンピオンマシンになっている。またFIA2リッターワールドカップ(後のJWRC)にもヨーロッパ法人が開発したサニーGTI、F2キットカーのマイクラやアルメーラなどが参戦していたが、本社がフランスのルノー傘下になる直前に活動を終了した。
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なおGTI-Rは1992年にFIAプロダクションカーカップ(後のPWRC)でグレゴワール・ド・メビウスのドライブによりチャンピオンマシンになっている。またFIA2リッターワールドカップ(後のJWRC)にもヨーロッパ法人が開発したサニーGTI、F2キットカーのマイクラやアルメーラなどが参戦していたが、本社がフランスのルノー傘下になる直前に活動を終了した。
1973年のWRC開幕初年度から参戦を開始。1974年にランサーでサファリラリーで初優勝を果たした。排ガス規制対策で一時休止後、1981年にランサー2000ターボで復帰。1984年にはラリーアートを設立、ヨーロッパに拠点を移した。その後長いグループA導入とともに開花、1989 - 1992年にギャランで計5勝を挙げた。1993年にはランサー エボリューションがデビューすると、1996年から1999年までトミ・マキネンによって4年連続ドライバーズタイトル、1998年にマニュファクチャラーズタイトルを獲得し、日本車黄金時代の一翼を担った。
しかしWRカーへ移行する中で最後までグループAにこだわった結果、苦戦が続き、マキネンの離脱や人材不足もあって混迷を極め、2003年に参戦休止。2004年に新設されたMMSP(三菱モータースポーツ)がラリーアートから運営を引き継ぎ、ジル・パニッツィをエース、新たに開発したランサーWRカーで再出発したものの、トラブルの多発により母国戦のラリージャパン開催前に活動を休止。2005年はハリ・ロバンペラをエースに起用し、パニッツィとロバンペラが表彰台、ラリートルコではジジ・ガリが一時首位を走るなど躍動したものの、本社の相次ぐリコール隠し問題から経営が急速に悪化したため、2005年に三たび参戦を休止、これが事実上の撤退となった。2007年末には英国の拠点を閉鎖、2010年にラリーアートが業務の一部停止を発表した。
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しかしその後もランサーWRカーはプライベーターに用いられ、2006年にダニエル・カールソンがラリー・スウェーデンで総合3位入賞した。また同車のグループN規定車両も、2012年までのPWRCで4度のドライバーズタイトルに貢献した。現在も地元プライベーターによるランエボのスポット参戦は多く、2017年ラリー・オーストラリアでは上位勢の大量リタイヤもあり、ランサーエボリューションXの地元ドライバーネイサン・クイーンが総合ポイント圏内でフィニッシュした。またスウェーデンのプライベーターであるMパートABがグループR5相当のミラージュ(欧州名:スペーススター)を独自開発して2018年から北欧イベントにASN車としてスポット参戦しているが、正式な公認取得の予定はないとしている。
1981年にベルギーに設立されたマツダ・ラリー・チーム・ヨーロッパ(Mazda Rally Team-Europe, MRE-T)のもとにマツダのWRC活動の大半は行われた。1979年のRACラリーからグループ2規定のサバンナ・RX-7で参戦。グループB規定もRX-7で1986年まで戦い続け、最高3位の成績を収めた。グループAが導入されると、ワークス活動はそれまで下位クラスで活躍していたファミリア(323)に切り替えられた。
グループBの消滅より前から生産されていた323 4WDターボ(ファミリア4WDターボ)は、グループA導入の初年度から欧州メーカーのライバルたちと競り合い、1987・89年スウェディッシュ・ラリー、1989年ニュージーランド・ラリーで合計3度の総合優勝を記録。1989年にはマニュファクチャラーズランキングでトヨタに次ぐ3位につけた。しかし本社の業績不振のため、タイトル獲得は達成できないまま1992年をもって撤退した。
323は素性に優れており、FIAプロダクションカーカップ(後のPWRC)で3度チャンピオンマシンになっている。
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323は素性に優れており、FIAプロダクションカーカップ(後のPWRC)で3度チャンピオンマシンになっている。
1980年のサファリラリーの下位クラスにてデビュー。この時アウディより一年早く持ち込んだ4WDは、2WDが常識だった当時は画期的なもので、このレオーネは高い走破力を発揮しすぐにクラス優勝を飾った。グループA規定導入後の1990年、英国のコンストラクターのプロドライブとのジョイントでレガシィで最高クラスに挑戦を開始。1993年のニュージーランド・ラリーで初優勝し、1995年に初のドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトルを獲得。以降、1997年までマニュファクチャラーズタイトルを3連覇した。また2001年にリチャード・バーンズ、2003年にペター・ソルベルグがドライバーズタイトルに輝いた。
しかしその後は、頻発するトラブルや度重なるモデルチェンジによる仕様変更の影響もあって、上位に絡めない展開が続き、2008年にようやくトップ争いが見える位置まで復活。だが、上位のシトロエン、フォードとの差は開いており、2008年に経済状況と「当初の目的を達成した」ことを理由として撤退した。
スバルは三菱同様PWRCでも猛威を振るい、2003年から2007年まで5年連続でドライバーズタイトルに貢献。PWRCがWRC2に変わった後も、2014年までワークス支援を続けていた。
スズキは日本メーカーでは最後発にあたる。1986年に田嶋伸博のモンスタースポーツが中心となって開発したカルタスのグループA5仕様でアメリカのオリンパスラリーにスポット参戦したのが初めてであった。その後1988年までA5クラスで同ラリーを3連勝した。特に1988年は多数のワークス不在という条件はあったものの、三菱・マツダを抑えて総合でも日本勢最高位でのフィニッシュとなった。その後一旦スズキはAPRC(アジア・パシフィック・ラリー選手権)へと転身し、バレーノのF2キットカーなどで経験を積んだ。
2002年に田嶋率いるスズキスポーツが下位クラスのJWRCに参戦し、スーパー1600規定のイグニスとスイフトで3度のドライバーズタイトルを獲得している。通算勝利数はシトロエンの32勝に次ぐ24勝で歴代2位である。
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2002年に田嶋率いるスズキスポーツが下位クラスのJWRCに参戦し、スーパー1600規定のイグニスとスイフトで3度のドライバーズタイトルを獲得している。通算勝利数はシトロエンの32勝に次ぐ24勝で歴代2位である。
最高峰のWRCクラスには、当初2007年が夏季開幕となるウインターシーズン案が検討されていたため2007年からの全戦参戦を計画していたが、ウインターシーズン案が撤回されたため、2007年は3戦にスズキ・SX4 WRCでテスト参戦し、2008年からフル参戦した。シーズン前半は初期トラブルが多発し完走も難しかったが、後半へ向けて改良が行われ、2台完走することが増えていった。しかし最高位は日本とグレート・ブリテンの5位に終わり、2008年12月15日にリーマン・ショックによる業績不振を理由にスズキは2009年以降のWRC参戦休止を表明した。その後もJWRC活動は続いたが、2010年をもってマルチメイクが終了したのに伴いこちらも撤退となった。
グループ2/1(1300 cc未満)のシャレードで1979年 - 1981年にラリー・モンテカルロにスポット参戦、1981年にクラス優勝を果たした。また最高峰に向けてデ・トマソ社とともに本格的なグループBカーである926Rを開発していたものの、グループB廃止で市販化も含めて幻と消えた。 1982年からサファリラリーに参戦し始め、82・84・85 - 88・90 - 93年にクラス優勝。特に1993年のサファリでは排気量が1 L大きいライバル達を相手に健闘、総合1 - 4位を占めたトヨタ・セリカに次ぐ総合5 - 7位に食い込む活躍を見せた。
現在トラックメーカーとして知られるいすゞだが、乗用車製造から撤退する前にはRACラリー限定でWRCにスポット参戦していた。日本人で構成されたチームいすゞは1983年 - 1985年にアスカ、1986・1987年はジェミニで参戦。1984年にグループAクラスで優勝している。
メーカーのみならず、多くの日本人ドライバーがWRCに参戦した。下位クラスでは目覚ましい活躍が残されており、PWRCでは新井敏弘(スバル)が2度のドライバーズタイトル(日本人として初の四輪世界選手権王者)を獲得している。
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メーカーのみならず、多くの日本人ドライバーがWRCに参戦した。下位クラスでは目覚ましい活躍が残されており、PWRCでは新井敏弘(スバル)が2度のドライバーズタイトル(日本人として初の四輪世界選手権王者)を獲得している。
プロダクションカーカップ/グループNクラスや2リッターカップの単一イベントなどでは西山寛(日産)、藤本吉郎(トヨタ)、三好秀昌(スバル)、鎌田豊(いすゞ)らが勝利を挙げているほか、奴田原文雄(三菱)が2006年のPWRCでラリー・モンテカルロを含め3勝を挙げて年間2位の成績を収めている。またサファリの岩瀬晏弘、RACラリーの勝田照夫や神岡政夫、APRC王者の田口勝彦、ナビでテイン設立者の市野諮なども古くはよく知られた名前である。
一方で日本人のWRC総合優勝記録は2021年現在、篠塚建次郎(三菱)による1991年、1992年のコート・ジボワール・ラリーでの2回に留まっている。
2015年からはTOYOTA GAZOO Racingの育成プログラムの下、元WRCドライバーの勝田照夫を祖父にもつ勝田貴元と、新井敏弘の息子新井大輝、コ・ドライバーの足立さやかがトヨタの支援でWRC2に参戦(マシンはフォード・フィエスタ R5を使用)し、2018年のラリー・スウェーデンで勝田が日本人初のWRC2優勝を挙げている。勝田はトヨタに才能を見出されて2019年にWRカーデビューを果たし、2022年現在WRCのトップカテゴリで、地元ラリージャパンを含め3度表彰台を獲得する活躍を見せている。
今でも全日本ラリー選手権の経験を持つドライバーが下位クラスや地域規定のマシンで海外イベントにスポット参戦することは珍しくない。
開催国を中心として、ヨーロッパで絶大な人気を誇るWRCはテレビ放送も盛んに行われている。特にフィンランドは母国イベントの開催時に国民の10%が観戦するほどの人気があるという。FIAとしてもテレビ放送から得られる収入は無視出来ないものとなり、スーパーSSなどテレビ放送向けにイベントを組んでいるが、より多くの視聴者を獲得するためにはテレビ放送より規模の大きいインターネット配信が有効という意見も出ている。ラジオ放送も行われており、日本でもインターネット経由で聴くことが出来る。
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また2014年から一部のSSを有料配信する、公式ライブストリームサービスの「WRC plus」が配信開始。2018年には全SSをライブ配信する「WRC All Live」へと名称が変わった。これも日本で視聴することが可能で、またRed Bull TVでは同配信の一部を無料で配信している。
2019年現在J SPORTSが各イベントの最終SSのライブ中継や各DAY・イベントのダイジェスト、ラリージャーナリストが取材したWRCの裏側リポート等を有料放送している。
1990年代はNHKでWRCの報道がされていたほか、2003年以前は日本テレビで深夜にダイジェスト番組が放送されていた。 2004年にテレビ東京でもダイジェスト放送が開始。祝日や土日の昼頃に放送されており、時にはナビゲーターが現地リポートを行うこともあった。2005年のラリージャパンでは『報道ステーション』の松岡修造が出演するコーナーにて特集され、2006年には前述の放送局に加えて、インターネット放送GyaO、CS放送AXN、地上波放送日本テレビ系列および福井放送で行われたが、以降は地上波でWRCやラリージャパンに関する放送はされなくなった。衛星放送ではBS日テレでもダイジェストで放送していたが、スバルのWRC撤退によるスポンサー撤退で2008年12月25日で放送終了。2008年はテレビ東京系の番組『モヤモヤさまぁ〜ず2』とタイアップし、同年11月14日に21時から2時間特番を放送した。その他の放送局はWRCの報道に消極的であり、日本で開催されるラリージャパンも例外でない。同ラリーの開催時期でも、地上波では過去にWRCの放送経験があるテレビ東京系列の他は日本テレビ系列やNHKで多少触れられる程度であった。
2017年からトヨタのWRC復帰がきっかけでテレビ朝日において『地球の走り方 世界ラリー応援宣言』というダイジェスト番組や『報道ステーション』のスポーツコーナーにおいて各イベントの結果の放送がされるようになっている。2018年1月には『アメトーーク!』で「世界ラリー大好き芸人」が特集され、1時間の枠でWRCが紹介された。
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2017年からトヨタのWRC復帰がきっかけでテレビ朝日において『地球の走り方 世界ラリー応援宣言』というダイジェスト番組や『報道ステーション』のスポーツコーナーにおいて各イベントの結果の放送がされるようになっている。2018年1月には『アメトーーク!』で「世界ラリー大好き芸人」が特集され、1時間の枠でWRCが紹介された。
『地球の走り方』は芸人による現地リポートがメインの初心者向けバラエティー番組であり、モータースポーツファンからは不評であった。また、番組出演者がサービスパークで悪ふざけや、MCの渡部建がクリス・ミークのクラッシュシーンで不快な演出を行い、当シーンを視聴していたJスポーツのWRC番組MCの栗田佳織から批判されるなど不備が存在。『地球の走り方』としては2018年をもって終了。 2019年以降は『世界ラリー応援宣言2019』『ラリージャパン応援宣言』『モータースポーツ応援宣言』と5分番組に縮小し放送を続けている。また『地球の走り方』終了後の2019年以降も、『報道ステーション』では不定期にWRCの結果を報道している他、テレ朝Postもラリー記事を投稿している。この番組の影響もあり六本木ヒルズで毎年行われている「テレ朝夏祭り」でもWRCに関連したアトラクションが設営されていた。
その後、世界ラリー応援宣言と入れ替わるような形で、BS日テレが11年ぶりにラリーダイジェスト番組を4月よりラリーツール・ド・コルスからスタートさせたものの、12月をもって終了。2020年にはNHK-BSにて勝田貴元の挑戦を追いかけたドキュメンタリー番組が放送され、6月には同局にて開幕戦から第3戦までのハイライト番組を放送。同年12月には残り4戦のハイライト放送を行った。2021年以降もNHK-BSにてハイライトが不定期で放送されている。
また、ユーロピクチャーが1990年代前半からヨーロッパのラリーハイライト番組を翻訳したVHSを発売している。
その他、『カーグラフィックTV』もラリーのハイライトを放送したことがあった。
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また、ユーロピクチャーが1990年代前半からヨーロッパのラリーハイライト番組を翻訳したVHSを発売している。
その他、『カーグラフィックTV』もラリーのハイライトを放送したことがあった。
WRCの専門雑誌としては、1990年に創刊したWRC速報誌『RALLY・XPRESS』が草分け的な存在だが、2007年末の出版社の解散にともない廃刊。現在は、同誌の元スタッフが運営を引き継いだ携帯サイトラリーXモバイルとしてラリー情報を配信している。2017年現在、WRC専門誌『WRC PLUS』は廃刊、編集部が同誌を引き継ぐRALLY全般誌『RALLYPLUS』(三栄書房、編集: 株合同社サンク )として刊行されている。
新谷かおるの『ガッデム』が、『ビッグコミックスペリオール』で1988年 - 1990年まで連載され、OVAとしてアニメ化もされた。パリダカのようなモノだけをラリーと認識している人が多かった当時の日本に、WRCのルールを浸透させたエポックメイキングな作品。架空の日本車メーカー三沢自動車と日本人ドライバー轟源の活躍を描く。
なお新谷かおるは、同じくWRCを扱った作品として『NAVI』を『ヤングマガジンGT』に2000年1号 - 2002年6号まで連載、単行本全1巻をヤングマガジンコミックスから発売している。こちらはドライバーではなくナビゲーターが主人公というのが珍しい。
しんむらけーいちろーの『FLAT OUT』が、『別冊ヤングマガジン』に2005年4月 - 2006年12月まで連載された。2004年のラリージャパンとラリー・オーストラリアを舞台に日本人ドライバー剣龍也の活躍を描いている。なお、しんむらは2022年ラリージャパンを盛り上げるための公式マンガとして、勝田貴元の半生を描いた『勝田貴元物語』を描き下ろした。
2018年6月にはトヨタの全面協力の下にWRCを目指すドライバーとそれを支えるメカニックの兄弟を描いた、東出昌大/新田真剣佑主演の映画『OVER DRIVE』が公開された。また、2021年10月には再びラリーを題材にした映画『僕と彼女とラリーと』が公開された。
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世界ラリー選手権
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2018年6月にはトヨタの全面協力の下にWRCを目指すドライバーとそれを支えるメカニックの兄弟を描いた、東出昌大/新田真剣佑主演の映画『OVER DRIVE』が公開された。また、2021年10月には再びラリーを題材にした映画『僕と彼女とラリーと』が公開された。
2001年(日本では2002年)のWRC ワールドラリーチャンピオンシップ(英語版)以降、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)(2001年~2005年)、Black Bean Games(2010年~2012年)、Nacon(2013年~2022年)、エレクトロニック・アーツ(2023年)がWRC公式ゲームソフトを発売している。SCEから発売されたソフトはすべてPlayStationシリーズ限定。
日本ではスパイク(2002年~2006年)、サイバーフロント(2011年~2013年)、スクウェア・エニックス(2014年)、オーイズミ・アミュージオ(2017年~2022年)、3goo(2021年~2022年)、エレクトロニック・アーツ(2023年)がWRC公式ゲームソフトを発売している。
※2022年ラリージャパン終了時点。
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園山俊二
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園山 俊二(そのやま しゅんじ、1935年〈昭和10年〉4月23日 - 1993年〈平成5年〉1月20日)は、日本の漫画家。血液型B型。
島根県松江市外中原町生まれ。島根大学教育学部附属小学校、同附属中学校、島根県立松江高等学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て、早稲田大学商学部卒業。
早稲田大学在学中、英文科の講師三浦修や、同級生のしとうきねおらとともに早稲田大学漫画研究会を創設するも、結核の療養のため1年休学。復学後に漫研に復帰し、後輩の福地泡介、東海林さだおと出会う。園山・福地・東海林はのちに相次いでプロとなり、3人が出揃った1960年代後半当時の学生運動になぞらえて「漫画界の三派全学連」と称された。
在学中の1958年、学内での展覧会を通じて知己を得ていた毎日小学生新聞の編集長・原本秀雄にスカウトされ、同紙で『がんばれゴンベ』を連載開始し、プロデビュー。元は数か月だけ連載する予定だったが、35年にわたる長期連載となった。
新聞連載のかたわら、大学を卒業。しとうの世話で広告代理店に就職するも、入社当日の正午、食事に外出したまま会社に戻らず、そのまま辞職。「自分は勤め人にそぐわない性格だと判断した」「食うのにつらくても漫画一本で生きた方がよい」と思ったという。以降専業の漫画家として、児童漫画および大人漫画の連載作品を多数発表する。1961年、寺田ヒロオの紹介で、第2次新漫画党に参加。トキワ荘の漫画家たちと交流を深める。
1989年11月に手術のため入院(著書では「肝臓にできたコワイモノの除去」と説明)。その後入退院を繰り返す。1992年7月には、長期の入院・加療のため多くの連載を中断・終了する。『ペエスケ』を長期連載していた同年12月17日付の『朝日新聞』等では、「ぎっくり腰の治療」と公表していたが、実際は肝臓の病状の進行であった。当時の園山は見舞客に「肝硬変」あるいは「前癌症状」と説明していたが、交友のあった畑正憲は追悼コメントにおいて、実際の園山の病が肝臓癌であったことを明かしている。
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園山俊二
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1993年1月20日死去。57歳没。「メソメソシルナ 世の中グワンバレ」という文面の遺書を残したほか、病床でペエスケ、ヒロコ、平太、ガタピシなど『ペエスケ』の主要キャラクターをひとりひとり描いて別れを告げたという。翌1月21日付の『朝日新聞』朝刊には、園山が死の直前に書いた動物の絵と、東海林さだおの追悼文からなる特集が1ページ半にわたり掲載された。
いずれもコンパクト盤
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モナコグランプリ
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モナコグランプリ(モナコGP、英: Monaco Grand Prix , 仏: Grand Prix de Monaco )は、モナコ公国のモンテカルロ市街地コースで行われるF1世界選手権レースの一戦である。
F1カレンダーのなかでも最も厳しいコースのひとつと言われており、インディ500、ル・マン24時間レースと並び「世界3大レース」の1つに数えられ、F1およびモナコの象徴ともいえる名物レースとなっている。
1929年に第1回大会を開催し、第二次世界大戦前後の中断(1938年 - 1947年、1949年)、1950年代前半、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行に見舞われた2020年を除き毎年開催されている。1950年のF1世界選手権発足時よりイギリスGP、イタリアGP、ベルギーGPと並んで同シリーズに組み込まれている。この内、同じコースで開催され続けているのはモナコGPのみである。
グランプリ期間中、普段は人口3万人の小国に、およそ20万人の観客が訪れる。モナコ王室を始めとして、政財界の協力によって行われる国家的な観光イベントでもある。多くの観客を招き入れるため、キリスト昇天祭の祝日となる5月の2週目か3週目の木曜日に日程を合わせるのが慣わしである。近年はF1カレンダーの過密化により、キリスト教の復活祭と一致しないこともあるが、木曜日からスケジュールが始まるという伝統は2021年まで続き、他のグランプリでは初日となる金曜日が、モナコGPでは休息日となっていた。しかし2022年からは他のグランプリ同様のスケジュールとなる。
レースの舞台となるのは、モナコのモンテカルロ区とラ・コンダミーヌ区の公道を閉鎖して造られた1周3,340 mのモンテカルロ市街地コースである。現在のF1レースでは「305 kmを超える最低の周回数」がレースの規定周回数・総走行距離として定められているが、このコースでは例外として、総走行距離が1968年から約260 km(約78周。それまでは約318 km〔約100周〕)に減らされている。この約260 kmという距離は、このコースをF1マシンで走行し続けるとこれぐらいの距離で2時間以内に収まるから、という理由で決められている。コースの設営準備には6週間、レース後の撤去作業には2週間を要する。
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モナコグランプリ
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コース幅が非常に狭いためレース中の追い抜きは困難であり、他のコースに増して予選結果が重要視される。レース中はペースの遅いマシンの後方に数台が数珠繋ぎとなり、無理な追い抜きで接触する場面がよく見られる。ポールポジションを獲得したドライバーがそのまま優勝することが多く、2023年現在で30回ポール・トゥ・ウィンが達成されている。本グランプリ開始数年後の1933年にグリッドの決め方がくじ引きから現在の方式である予選タイムの早い順に変更されているが、これもこのコースが追い抜き困難で不公平であるからという理由による。
伝統と華やかさに加え、高い技量と集中力を要する難コースであることから、「モナコGPの優勝は3勝分の価値がある」といわれる。ここで際立って強いドライバーは「モナコ・マイスター」と賞賛されることがあり、スターリング・モス(3勝)、グラハム・ヒル(5勝)、ジャッキー・スチュワート(3勝)、アラン・プロスト(4勝)、アイルトン・セナ(6勝)、ミハエル・シューマッハ(5勝)、ニコ・ロズベルグ(3勝)といった名手が挙げられる(後述の#優勝回数(ドライバー)も参照)。
ファン・マヌエル・ファンジオは出走4戦中2勝をあげ、4戦全てでポールポジションとファステストラップを記録している。一方、ジム・クラークは出走6戦中4回ポールポジションを獲得しながら、4位が最高で1勝もできなかった。
事故の起きやすい環境や、マシンにも過酷で機械の故障が発生しやすいことから、優勝候補がリタイアするなど波乱の展開が繰り広げられることもあり、意外なチームやドライバーが優勝することもある。過去9名のドライバーがこのコースでF1初優勝を遂げており、初優勝が出やすいコースでもある。
モナコGPの主催者であるモナコ自動車クラブ (Automobile Club de Monaco, ACM) は、1890年にモナコ自転車クラブとして発足した。1925年に自動車クラブに改名し、国際自動車連盟 (FIA) の前身である国際自動車公認クラブ協会 (AIACR) に登録申請を行った。1911年よりラリー・モンテカルロを開催していたため、問題なく加盟できると考えていたが、ラリーで使用しているコースのほとんどは隣国のフランス国内で行われており、レース開催経験の無さを理由に申請を却下された。
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モナコグランプリ
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ACM会長アレクサンドル・ノゲの息子アントニー・ノゲは、モナコの街路を使用してレースを開催する計画を立てた。当時の公道レースはもっぱら郊外の田舎道で行われており、市街地でのレース運営は無謀に思われた。しかし、モナコ大公ルイ2世や、高級ホテル・カジノを経営するソシエテ・デ・バン・ド・メール社(英語版)(SBM)の理解を得て1929年の第1回開催にこぎつけ、モナコ自動車クラブはAIACRに加盟を認められた。功労者であるノゲの名は、英語読みの「アントニー・ノウズ」として最終コーナーの名称に残されている。
コースデザインにはモナコ出身のドライバールイ・シロンが協力した。シロンはインディ500出場を優先したため第1回大会は不参加だったが、第3回大会で優勝している。また、引退後は競技委員長を務め、シグナル式スタートが採用されるまでスタート/チェッカーフラッグを振った。シロンの名もプールサイドベントの入口のコーナーに残されている。
チェッカーフラッグに見られる現在の白黒市松模様は細かく指定されているが、1970年代以前のかつては今より荒い模様が使われていたことが過去のVTR映像で確認できる。シグナルも、現在はブラックアウト方式に改定された。
通例では、各国のGP主催者はF1の商業管理団体であるフォーミュラワン・マネージメント (FOM) に莫大な開催権料を支払い、コースサイドの看板広告の収入もFOMに納めねばならない。モナコGPの主催者であるACMは、特例として開催権料を免除されている上に、看板広告収入も手にしている。モナコGPは2007年まで、ヨーロッパで唯一たばこ広告規制のないレースであった。
高級リゾートという土地柄、富裕層の人々は高級ホテルや自宅アパートのバルコニーや、港に停泊する豪華なクルーザーの甲板、「Formula One Paddock Club」といった特等席からレースを観戦している。期間中、ホテルの宿泊料金は軒並み跳ね上がるが、予約の時点で満室になる上に、高級ホテルの多くは最低5日から7日以上の連続宿泊を条件とする。
一般観戦者は近隣のニースやイタリア方面の街に宿をとり、自家用車やフランス国鉄 (SNCF) に乗ってモナコ入りする。一番安い観戦ポイントは、最終コーナーを見下ろす断崖の立見席である。
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モナコグランプリ
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一般観戦者は近隣のニースやイタリア方面の街に宿をとり、自家用車やフランス国鉄 (SNCF) に乗ってモナコ入りする。一番安い観戦ポイントは、最終コーナーを見下ろす断崖の立見席である。
モナコ公国は所得税非課税のタックス・ヘイヴンとして知られる。外国人が居住するためには審査が必要となるが、F1ドライバーは名士として優遇されている。税金対策の他、治安が良い、プライバシーが守られる(有名人でも特別視されない)などの理由から、スイスと並んで居住地として人気があり、モナコGP期間中はドライバー達がマンションから「自宅通勤」する光景が見られる。2000年と2002年のウィナーであるデビッド・クルサードは、最高級ホテル「コロンバス・モンテカルロ」の共同経営者という副業を持っていた。
レースウィークの休息日となる金曜日にはモナコ大公主催のパーティが開かれ、ドライバーやチーム関係者をはじめ、世界中のセレブリティが参加する。また、モータースポーツシーズンの終了後には、FIA傘下の各カテゴリのチャンピオンを集めての表彰式がモナコで行われる(2011年はインドで開催)。
モナコGPはモナコ王室が観覧する御前レースであり、かつては大公レーニエ3世と大公妃グレース・ケリーがオープンカーでパレード走行を行っていた。レース後の表彰式もロイヤルファミリーが出席するため、他のグランプリとは手順が大きく異なる。
表彰台に関しては、大公よりも高い位置にドライバーが立つことが失礼であるとして、特別な台は設けず表彰ステージの最前列に、通常の表彰台と同じ配置でドライバーと優勝コンストラクター代表者が整列する。シャンパンに関しては、大公夫妻にシャンパンがかからないようにするため、大公の目の前での乱痴気騒ぎは失礼にあたるため、である。一国の元首から栄誉を称えられるというところも、このレースの優勝が価値あるものと見做されている理由の一つである。
1987年の優勝者アイルトン・セナは、事前にチーム側から上記の注意をされていたが、モナコ初優勝の喜びにそのことを忘れ、トロフィー授与終了直後にステージ上でシャンパンを開封した。さらに、背後にいたレーニエ3世らロイヤルファミリーに向かってシャンパンをかけてしまい、式典終了後に各方面から非難を受けた。
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モナコグランプリ
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1987年の優勝者アイルトン・セナは、事前にチーム側から上記の注意をされていたが、モナコ初優勝の喜びにそのことを忘れ、トロフィー授与終了直後にステージ上でシャンパンを開封した。さらに、背後にいたレーニエ3世らロイヤルファミリーに向かってシャンパンをかけてしまい、式典終了後に各方面から非難を受けた。
2009年の優勝者ジェンソン・バトンは手順を知らず(後にマーシャルの誘導ミスと判明)、ウィニングラップ後ピットに戻ってしまった。バトンは車両保管所でそのことを知らされ、ホームストレートを駆け足で表彰ステージに向かった。
★は初優勝。☆はその年のドライバーズチャンピオン。■はポール・トゥ・ウィン
1935年から1937年はヨーロッパ・ドライバーズ選手権の一戦として、1952年はスポーツカーレースとして開催された。
(2勝以上)
(2勝以上)
(2勝以上)
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波数
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波数(はすう、英: wavenumber)とは、波の空間周波数である。正弦波の波数は、波長の逆数、またはその 2π 倍として定義される。後者は前者と区別して、角波数(かくはすう、英: angular wavenumber)と呼ばれることがある。 直感的には、波数は単位長さの直線(または角波数の場合、単位円周上)に何波長分の波が入るかを表している。
波数を表す記号として、k, ~ν がよく用いられる。前者はもっぱら角波数に用いられ、後者は波長の逆数としての波数に用いられる。
波数の単位は、国際単位系では毎メートルが用いられる。また、CGS単位系では毎センチメートルが用いられる。波数は分光学において頻繁に現れる量であるため、カイザーがしばしば単位に用いられる。
物理化学や分光学の分野では単位長さ当たりの波の個数を指し、波数 ~ν は波長 λ の逆数
となる。
しばしば波数 ~ν は間接的に光の周波数 ν を指すこともあり、真空中の光速度 c を用いて
と関係付けられる。
歴史的にはヨハネス・リュードベリが1880年代に初めて着目し、1908年にリュードベリ・リッツの結合原理において、公式の中に波数を現した。その後、スペクトル線に関する研究が進むにつれ、量子論によってエネルギー準位の差が波数や周波数に比例することがわかった。例えば、水素スペクトル系列はリュードベリの式(英語版)によって
と表される。ここで、R∞ はリュードベリ定数、n, m (n < m) は主量子数である。
波動力学では正弦波の波数を指し、波数 k は 2π を波長 λ で割った量
となる。つまり、1 波長分の波を 1 個と数えたとき、波数 k は単位長さ当たりの波の個数を 2π 倍したものに相当する。このとき、k = 2π/λ は角波数 (angular wavenumber) と呼ばれる。
正弦波 u は振幅を A、振動数を ν、波長を λ とすると
のように表示される。ここで、t は時刻、x は位置、ω は角振動数である。
しばしばフーリエ変換において、実空間の座標の双対として波数 k が用いられる。また量子力学においては波数ベクトル k にディラック定数 ħ を掛けた ħk が運動量 p に対応する。
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波数
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正弦波 u は振幅を A、振動数を ν、波長を λ とすると
のように表示される。ここで、t は時刻、x は位置、ω は角振動数である。
しばしばフーリエ変換において、実空間の座標の双対として波数 k が用いられる。また量子力学においては波数ベクトル k にディラック定数 ħ を掛けた ħk が運動量 p に対応する。
古典的には、向きが波面の法線方向(つまり波の伝播方向)で、大きさが波数となるベクトルを、波数ベクトル(あるいは伝播ベクトル、wave vector, k-vector)と定義する。
なお、波数ベクトル k は十分大きな整数の組 (N1, N2, N3) を考えると、
で表される。b = (b1, b2, b3) は逆格子空間での基本並進ベクトル。整数 m = (m1, m2, m3) は、いろいろな範囲設定が可能だが、一例としてそれぞれ (0, ⋯, N1 − 1; 0, ⋯, N2 − 1; 0, ⋯, N3 − 1) の範囲の任意の整数と設定できる。
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仮面ノリダー
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『仮面ノリダー』(かめんノリダー)は、フジテレビ系列のテレビ番組『とんねるずのみなさんのおかげです』にて放送されたコーナードラマ、およびそれに登場するヒーロー。
木梨扮する仮面ノリダーと石橋扮する数多くの怪人が所属する悪の秘密組織『ジョッカー』との闘いを描いた、特撮番組『仮面ライダーシリーズ』のパロディドラマである。1988年(昭和63年)春の火曜ワイドスペシャル版で初回が放送され、レギュラー化した1988年(昭和63年)秋から1990年(平成2年)春まで放送された。のちに1992年(平成4年)、1993年(平成5年)、1997年(平成9年)にスペシャル版が放映されている。
『おかげです』のコーナーでも屈指の知名度を誇っており、小中学生の間では本家仮面ライダーを上回る人気を得ていた。本作は後年制作される仮面ライダー作品にも影響を与えており、木梨は劇場版仮面ライダーにゲスト出演も果たしている。
主人公は「木梨猛」(演:木梨憲武)という白いパンタロンと植物と動物を愛する青年。彼は悪の秘密結社「ジョッカー」により改造人間「ノリダー」に改造されるも、秘密特訓基地で親友となった石橋文字隼人(後に留守番電話男に改造)によって救出され、脳改造を前に脱出、正義の味方「仮面ノリダー」として、世界平和のために戦うことを決意した。普段は人間体として、人間社会で生活しているが、ジョッカーの怪人との戦闘時においては、変身ポーズをとることによりベルトの風車に風力を与え、仮面ノリダーへと変身する。
木梨猛は中目黒在住。普段はおやっさんこと「立花藤兵衛」(演:小林昭二)の経営する「喫茶Amigo」の臨時店員として働いている。また、恋人の「マリナさん」(演:渡辺満里奈)とともに、孤児院「チビッコハウス」で子供たち(演:劇団ひまわり)の教鞭をとったり、ジョッカーによって瀕死の重傷を負った人間にサイボーグ手術を行うこともあり、一定の収入を得ながら生計を立てている模様。
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仮面ノリダー
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木梨猛は中目黒在住。普段はおやっさんこと「立花藤兵衛」(演:小林昭二)の経営する「喫茶Amigo」の臨時店員として働いている。また、恋人の「マリナさん」(演:渡辺満里奈)とともに、孤児院「チビッコハウス」で子供たち(演:劇団ひまわり)の教鞭をとったり、ジョッカーによって瀕死の重傷を負った人間にサイボーグ手術を行うこともあり、一定の収入を得ながら生計を立てている模様。
ナレーターも『昭和仮面ライダーシリーズ』同様、中江真司が起用され、オープニングナレーションも再現されるなど非常に凝ったパロディー作品となった。「恐怖バレーボール女」では、元ネタとなったドラマ『サインはV』と『仮面ライダーアマゾン』でナレーターを担当した納谷悟朗が登板し、その回のナレーションのほとんどを占めた。エンディングで「行け!仮面ノリダー!戦え!仮面ノリダー!」の決めゼリフを納谷一人で終わるかというところで、「待ってください納谷さん、私にも喋らせてくださいよ」と中江が乱入し、二人の決めゼリフでしめるというダブルナレーションが行われた。また、中江本人が劇中に登場し、その場でナレーションを読む回もあった。
おやっさんは木梨猛が改造人間であることを知っているが、マリナさんは知らない。そのため、猛は改造人間である自分がマリナさんとは恋人でありながら、結ばれることはないことを苦悩する描写もあった。しかし、真の完結編・『最後の決戦』のラストで結婚し、「現在も中目黒のアミーゴで幸せに暮らしているという」(ナレーションによる。以下同じ)。また、改造人間になったことを苦悩する猛に対し、おやっさんがはっぱをかける描写も存在し、本家以上に熱いセリフも散見される。
なおピンチになるシーンでは、本家仮面ライダーではなく『人造人間キカイダー』(その後番組の『キカイダー01』含む)の劇中で使用した音楽(作曲・渡辺宙明)が流用されている。また、木梨猛がジョッカーの皆さんと怪人に出くわすシーンなどは、アニメ『重戦機エルガイム』の劇中で使用した音楽(作曲・若草恵)が、キングジョッカーのテーマソングとして、アニメ『機動警察パトレイバー』の劇中で使用した音楽(作曲・川井憲次)が使用されていた。
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仮面ノリダー
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木梨猛が変身ポーズをとることによって、ベルトの風車に風力を与えて変身した正義の戦士。巨大な耳が特徴。また仮面ライダーのマスクには、複眼の下にスーツアクターの視界確保のため覗き穴が開けられていたのに倣ってか、変身後の仮面ノリダーは自分の鼻の穴周辺を黒く塗っており、視覚的に鼻の穴がかなり大きく見える。寒い場所や暑い場所では防寒のために着膨れしていたり、半袖の状態になったりしたこともある。
番組冒頭では、手術台に拘束された猛にジョッカーの死神博士(演:石橋貴明)がノミとカナヅチで手術を施しているシーンがあった。このとき、猛が吐いたセリフは「やめろ、ジョッカー!! ぶっとばすぞー!!」であった。
また放映当時、雑誌で解剖図が掲載されたことがあるが、その内容は体の中にトランクスがある、頭脳の解説には「笑いを取ることだけを考えている」と記されているなど、かなり奇天烈なものであった。また、血の色は緑色でヘソがなく、胸には「かいぞう」、背中には「にんげん」という文字がある。
最終話(第71話)で、仮面ノリダーはジョッカー総帥の正体「キング・ジョッカー男」とともに大気圏外で爆死したかに思われたが、実は存命しており、後に戦線復帰する。1997年(平成9年)3月27日にスペシャル編で放映された『最後の決戦』では、亡くなった藤兵衛から「Amigo」のマスターを継いだとも取れる描写も登場している。また、キング・ジョッカー男も存命しており、続編「仮面ノリダーV2」では猩猩右近と共に悪の秘密組織「ゲロ・ジョッカー」を結成している。
巨大化した初代仮面ノリダーの市街戦も描かれ、本家で後年登場する「ウルトラマンとビデオ共演時の新1号」「仮面ライダーJ」「3D映画のシャドームーン」すべてに先駆けた設定でもあった。
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仮面ノリダー
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巨大化した初代仮面ノリダーの市街戦も描かれ、本家で後年登場する「ウルトラマンとビデオ共演時の新1号」「仮面ライダーJ」「3D映画のシャドームーン」すべてに先駆けた設定でもあった。
変身時においては第1話では「怒ると恐~い!仮面ノリダー!!」のコールとともに、仮面ライダー1号の変身ポーズをアレンジしたようなポーズで変身していたが、基本的には「♪か~いわれ巻き巻き、ね~ぎトロ巻き巻き、巻いて巻いて、手巻き寿司、とぉー!!」と、腕を回しながら腰を振る動作と共に唱和して変身する。また、たまにジョッカーの皆さんが脇から蹴りを入れるなどの妨害を行うことがあり、その際はやり直すこともあった。この変身コールがきっかけで、後にとんねるずの二人はミツカン酢のCMに出演するようになった。また一時期、「カルーセル麻紀麻紀、ポール牧牧、巻いて巻いてマキ上田」、他にマイク真木、栗原小巻など、名前に「マキ」とつく有名人の名をパロディで使ったり、当時話題となっていた湖池屋の「スコーン」のCMフレーズを唱和して変身したこともある。しかし、ミツカン酢のCMの依頼が来てからは元に戻している。「シャワー男」のときは、時間がないからとの理由で4倍速で流れた。
「帝都大戦男」で帝都大戦男に投げ飛ばされたのを利用して早口で「♪か~いわれ巻き巻き~」を唱和したのを皮切りに、翌週からは突然「♪か~いわれ巻き巻き~」ではなく、さまざまな変身コールで変身を行っていった(「バレーボール女」での変身の際は元の変身コール)。その中でも植木等の『スーダラ節』の1フレーズである「♪スイスイ、スーダラダッタ、スラスラ、スイスイスイ」というパターンで変身することが多く、最終話(第71話)「キング・ジョッカー男」での最後の変身のときにこれを「2番」と位置づけていた。時に更衣室に置いてあった女性の下着を見て興奮した途端に変身したり、『光速エスパー』と同じパターンで変身したりしたこともある。
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仮面ノリダー
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変身ポーズも仮面ライダー1号(いわゆる「新1号」)のものをアレンジしているが、一定のものが決まっているわけではないらしい。本家は変身時、「お約束」で一部を除き敵が攻撃しないことに対し、こちらはそのお約束を破り変身途中でも毎回のように怪人である石橋が邪魔したため、よく途中で打ち切り一瞬で変身していた。また変身のレベルも、ある程度自分で変えられるようで、弱そうな怪人(ヒヨコ男など)が相手のときは「半分だけ変身」していた。
仮面ノリダーはその技の豊富さでも群を抜いており、正確な数は本人ですら把握しきれていない。基本技はパンチ技の「ノリダー・パンチ」、飛び蹴り技の「ノリダー・キック」、頭突き技の「ノリダー・ヘッドバット」だが、同等の小打撃を「ノリダー・ハナミズ」でも行うことができる。
また、「ジョッカーのみなさん」(演:倉田プロモーション)に対しては、「ノリダー・カーニバル&フェスティバル」で全滅させるのが基本パターンである。その以外にもさまざまなパターンが存在し、「ノリダー・海」や「ノリダー・○○爆弾」といった投下・爆発攻撃で全滅させることもある。特に「ノリダー・海」は初使用の際、溺れかけた戦闘員が出たため、以後「ノリダー・海」は「ジョッカーのみなさん」に最も恐れられる必殺技となった。
怪人は、当初は「ノリダージャンプ&○○○」という技で高い所から落下していたが、後半に入ると「ノリダー○○○」と短縮された。最後に(岩場でなくても)岩石が落ちてくるのがパターン。ロケ地でとどめに使える高所がなかったり火薬の使用が認められなかった場合などでは、怪人は死なず人間や動物に戻ったりジョッカー基地に送り返されたりしている。
劇中後半では、金色のプロテクターを身につけた「すーパーNORIだー」への二段変身をすることで、さらに強力な攻撃を可能とした。すーパーNORIだーは、体色が黄金色に変化し声も約1オクターブ半高い西城秀樹風のものになる。「すーパーNORIダー参上、ボンヨヨヨ〜ン!」が決めゼリフ。ただ、実際は登場すると真面目に戦って倒すだけのパターンしかできなかったために扱い方が難しく、結局登場機会も少ないまま「北海道男」以降登場することはなかった。その後、プロテクターが「ノリダー秘密基地」に飾られているのが確認できる。
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仮面ノリダー
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なお、すーパーNORIだーのプロテクターは、初期に撮影スタントマンが使用していた通常ノリダー色のプロテクターを再塗装したものである。このスタントマン用がすーパーNORIだー色に更新される前、トナカイ男の回で『ねるとん紅鯨団』(関西テレビ)スタジオでの対戦でノリダーが使用している。また、仮面ノリダーのプロテクターは初代と2代目があり、初代はラッコ男 - 1989年(平成元年)末まで頻繁に使われていたもので、2代目は北海道男で初登場している。初登場時、ノリダー自ら「プロテクターおニューだもんね」と言及している。しかし、その後しばらく2代目の使用例はなかったが、1990年代(スペシャル含む)に入り2代目プロテクターが主流となる。1997年(平成9年)『最後の決戦』ではノリダーが2代目、分身(岡村)が初代を使用している。すーパーNORIだーのスーツは仮面ライダー新1号と同じく黒字に2本の縦ラインが入っている。このスーツは続編でもある『仮面ノリダーV2』のスーツに使用された。
ヘルメットに関しても、特別編の『ゴキブリ男』から新しいものに交換されているのが色艶から確認できる(黒から緑に変わっている)。ノリダーヘルメットは1つ7万円もするそうである(スペシャルで木梨が言及)。なお、初代ヘルメットは、木梨の小父が営む喫茶店「なごみ堂」に飾られている。
仮面ノリダーは、握り拳大のカプセルに「チビノリダー」(演:伊藤淳史)を収納・携帯しており、自身のピンチのときに呼び出して、ともに戦うこともあった。共に繰り出す必殺技は、単独時の数倍にも達する。なお、子供に関連する行事時における戦闘では、かなりの頻度で呼び出していた。石橋演じる怪人は、チビノリダーに対して、不意打ちを食らわせるなど大人気なくかつ卑怯極まりない攻撃をたびたび繰り出していた。
演じていた伊藤淳史は当時4~6歳という幼い時期の出演だったため、当時のことをよく覚えていないという。だが、木梨からは当時のことを高く評価されており、いまだに「チビノリダー」と呼ばれることも多い。
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仮面ノリダー
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演じていた伊藤淳史は当時4~6歳という幼い時期の出演だったため、当時のことをよく覚えていないという。だが、木梨からは当時のことを高く評価されており、いまだに「チビノリダー」と呼ばれることも多い。
なお、カプセル収納状態のチビノリダーは、番組エンディングで紹介されていた視聴者イラストコーナーで採用された者にプレゼントされていた、ノリダー特製キーホルダー人形を流用している。一般販売などはされなかった非売品であるため、大変レアなグッズとなっており、巷では無許可のニセモノ商品などが多数市販されていた。
元ネタは仮面ライダー2号と『ウルトラセブン』に登場するカプセル怪獣(ミクラス、ウインダム、アギラ)である。
仮面ノリダーV2終了後の特別編のエピソード(1993年(平成5年)11月4日)において、紺野美沙子演じる「女ノリダー」が登場、初代仮面ノリダーと共にジョッカー残党に改造された実兄(ゴキブリ男)と対決した。
また、最終回のエピソード(1997年(平成9年)3月27日)では13歳になったチビノリダーに加え「ノリダーの分身」としてナインティナインの岡村隆史が登場(石橋には「チビノリダーより小さい」と言われていた)。当番組自体はおろかとんねるずとしても、他のお笑いタレントとの共演がほぼ皆無だった時代でのこの組み合わせは視聴者を大変驚かせ、また注目を浴びた。なお、この際使用された衣装一式は岡村が貰い受け、大事に持ち帰ったそうである。またこの衣装は岡村が日本テレビ系の番組『ナイナイサイズ!』で「大事な宝物」として紹介したこともある。
おやっさんが経営するアミーゴは15年前(1974年ごろ)に中目黒でオープンした。年中無休だが、中盤からおやっさんが地方に行くことが多くなったため、店を閉めていることが多かった。ノリダーの顔の一つということもあり、回が進むごとに様々な変貌を遂げている。名前の由来は本家「仮面ライダー」の初期の立花の経営店から。
レギュラー放送第一回(『恐怖カルガモ男』)で喫茶アミーゴに息を切らして入ってきた猛が「おやっさん!水...、水一杯下さい...」と言い、その水をよろけながら店内にある観葉植物へかけ、「でっかくなれ観葉植物」とのアドリブを放った所スタッフに大ウケし、以後毎回このネタを披露し、回を重ねるごとに植物はどんどんでかくなっていった。
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仮面ノリダー
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レギュラー放送第一回(『恐怖カルガモ男』)で喫茶アミーゴに息を切らして入ってきた猛が「おやっさん!水...、水一杯下さい...」と言い、その水をよろけながら店内にある観葉植物へかけ、「でっかくなれ観葉植物」とのアドリブを放った所スタッフに大ウケし、以後毎回このネタを披露し、回を重ねるごとに植物はどんどんでかくなっていった。
『恐怖うま男』で、実は「うま女」だった怪人が命と引き換えに産んだ子馬をアミーゴに置いた。
『恐怖留守番電話男』では、猛が親友の石橋文字隼人の改造後である留守番電話男を間違って落っことしてしまい倒してしまうが、後に修理され大運動会男によって爆破されるまでアミーゴの固定電話として置かれた。
他にもスナックを兼業したり、メニューにそば類を追加するなど、さまざまなアイデアが登場した。
終盤、「意外とミーハーだった」おやっさんがさまざまな有名人のサインをもらっては飾っていたアミーゴも、『恐怖大運動会男』では、大運動会男である元スター・西城ひろみが置いた時限爆弾によって、4秒前なのに爆発し破壊されてしまった。その時もおやっさんはサイン色紙を気にしていた。
次週(『恐怖ミッキーキャット男』)で、大道具さんの手によってリニューアルされ、それと同時におやっさんは猛を心配して、店内にノリダー秘密基地を作ってもらっていた。『ノリダーV2』でもそのままリニューアルしたアミーゴが登場していたが、終盤(最終回(第9話)まで残り3話だった)に変わったせいか、今ひとつ世間に認知されず、のちのスペシャルでは元に戻っている。
『ウルトラマンゼアス・パロディ編』にも登場し、おやっさんが来店した朝日勝人(ウルトラマンゼアス)を猛と見間違えた。
また、最後の決戦『恐怖ラッコ男』ではおやっさんがすでに亡くなっており、猛が引き継いでオーナーとなり、改築して住み込みで働くことになったが、その際にはおやっさんの遺影がアミーゴに飾られている。
世界征服をもくろむ悪の軍団で、世界中に支部を置いている。「ジョッカー総帥」こと「キング・ジョッカー男」 (演:石橋貴明)を首領として、日本支部では「ファンファン大佐」(演:岡田眞澄)が指揮をとっている。第1話では「ジョッカー将軍」であったが、当時の雑誌では「ラッコ男」による作戦が失敗した責任で「大佐」に降格されたという設定で統一されていた。
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仮面ノリダー
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世界征服をもくろむ悪の軍団で、世界中に支部を置いている。「ジョッカー総帥」こと「キング・ジョッカー男」 (演:石橋貴明)を首領として、日本支部では「ファンファン大佐」(演:岡田眞澄)が指揮をとっている。第1話では「ジョッカー将軍」であったが、当時の雑誌では「ラッコ男」による作戦が失敗した責任で「大佐」に降格されたという設定で統一されていた。
「ジョッカーのみなさん」と呼ばれるジョッカー構成員には戦闘員のほかにも一般要員・医療要員・科学技術要員・怪人候補生がおり、中には自分の意思でジョッカーに参画している者もいる。要員は男女の区別なく活動しているが、怪人候補生はほぼ男性である。
岡田はファンファン大佐としての出演が決まった際、1980年代にCMに出演した縁で革靴メーカーのマドラスに小道具のブーツを特注で製作してもらい、愛用したという逸話がある。
後に本家平成仮面ライダーシリーズの『仮面ライダーW』や『仮面ライダーフォーゼ』の監督を手がけた坂本浩一は、倉田プロモーションでのスタントマン当時、本作にジョッカー戦闘員役で出演していた経験がある。
基本的には、「恐怖○○男」と呼ばれる怪人たちが、地球征服のための作戦を立案・実行しており、ファンファン大佐は、怪人の製造指揮、作戦の成否の監視、殉職した怪人たちの慰霊(ジョッカーの作戦室にはそれまで倒された怪人の遺影が飾られている)を主な職務とする。まれに、ファンファン大佐自身が戦う場合もあり、その際は愛刀の「5番アイアン」を振るう。また、「5番アイアン」は裏切った怪人用のためなのか、「ジョッカービーム」なる光線で怪人を一瞬にして消滅させることができる。
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仮面ノリダー
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なお、ファンファン大佐は洗脳されていただけの一般人で、最終回(第71話)で「ジョッカー基地爆破のショックで普通の人間に戻った」。しかし、「最後の決戦」ではなぜかファンファン大佐として登場し(基地にはキング・ジョッカー男の遺影も飾られており、若干パラレルワールド化している)、事実上の首領代理として活動するが、再生ラッコ男がノリダーに倒されると、世界征服作戦を放棄した。なお、ファンファン大佐はほぼすべての回で、コーナー終盤の基地の映像に切り替わると同時に、怪人がノリダーに倒された腹いせとして「ノリダーめぇ!!」のセリフで締めるというお約束事があった(ただし、セリフの言い回しは必ずしもこれで統一されていたわけではなく、回によっては「くっそー!!」「おのれー!!」などの別のセリフで締めていたこともある)。
「恐怖蚊取り線香男」では巨人ファンであることが判明。沖縄編第1話の舞台裏において将軍昇進の機会が訪れたことがあるが、その回の怪人であるハブ男が倒されて作戦が失敗したために昇進できず、沖縄編第2話でも昇進できなかったため、新しいゴルフクラブのセットを購入できなかったと嘆いていた。
なお、2003年(平成15年)の『とんねるずのみなさんのおかげでした』の15周年スペシャルのゲストの1人として岡田眞澄が呼ばれており、ほとんど出番がなかったのにもかかわらずファンファン大佐(眼帯はなし)の服装で出演していた。倉田プロも元・ジョッカーのみなさんとして出演していたので、これが最後のジョッカー軍団出演である。
また、『ウルトラマン』のアラシ役の毒蝮三太夫を洗脳し、再び科学特捜隊のコスチュームを着せて破壊活動を行ったが、同隊のコスチュームを着て登場した「おやっさん」こと立花藤兵衛に説得され、自我を取り戻した(藤兵衛役の小林昭二は『ウルトラマン』のムラマツキャップ役も演じていた)。
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仮面ノリダー
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また、『ウルトラマン』のアラシ役の毒蝮三太夫を洗脳し、再び科学特捜隊のコスチュームを着せて破壊活動を行ったが、同隊のコスチュームを着て登場した「おやっさん」こと立花藤兵衛に説得され、自我を取り戻した(藤兵衛役の小林昭二は『ウルトラマン』のムラマツキャップ役も演じていた)。
ジョッカーの怪人は、仮面ノリダーと同じく人間からの改造人間で、脳手術まで完了している。鑿と金槌が用いられ、改造にかかる時間はさまざまだが、最長でも1週間とかからない。改造手術を受けると、血液の色が「緑」に変更される。改造のモチーフは特に決まっておらず、バラエティ豊かなさまざまな怪人が登場する。技は強力なものからまったく役に立たないものまで千差万別で、自分の技を返されてダメージを受けることもしばしばあった。また、台本上で嫌がったりダメージを受けるのではなく、演じる木梨憲武本人が本気で嫌がった技もあった(例:象男のつば攻撃は、石橋貴明本人がつばを垂らすという不潔なものであり、木梨も「名場面集」でこの場面を挙げ、「恐るべし、象男」と述懐している)。
なお、怪人のほぼすべては石橋貴明が演じており、「日本一のぬいぐるみ師」の称号を自称している。大柄な怪人は転倒すると石橋だけでは立ち上がれなくなり、ジョッカーの皆さんやADの助けが入る。作戦室に登場後から作戦開始まではファンファン大佐との間で掛け合い話を行うスタイルとなっている。
戦闘パターンは本家ライダー同様に「戦闘員を倒した後に1対1の対決」となることが多かったが、着ぐるみの取り回しが難しい場合は何人かのジョッカーの皆さんが残って手伝うこともあった。また、スポーツをテーマとした怪人(ゴルフ男やプロ野球男など)との対決では、ニアピン対決やホームラン競争など、その怪人が得意とするスポーツで戦うこともあった。特殊な例ではその場に居た一般人を対決に巻き込むこともあり、おひな様男などは幼稚園を襲った挙句、ノリダーに鼓舞された大勢の幼稚園児に逆襲されるという憂き目に遭っている。
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仮面ノリダー
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前述のように、最後は高いところから転落し爆発、後から落ちてきた岩石(撮影用のプロップ)を受けて死ぬのが定番となっており、『週刊少年ジャンプ』の『ジャンプ放送局』で投稿者にネタにされたこともあった。初期はロケ地の都合(高い場所が無かったり火薬の使用許可が取れなかった等)で、転落→爆破のパターンではなく、怪人が人間や動物に戻ったりジョッカー基地に送り返されたりするケースもあった。
石橋は毎回着ぐるみを着るのが相当しんどかったらしく、最終回(第71話)「キング・ジョッカー男」によると「オランウータン男」ぐらいまで楽しかったが、「うま男」で初めてつらさを経験し、「花火男」のころはもう嫌だったそうである。しかし、冬の寒い日のロケでは着ぐるみのおかげで石橋だけが暖かく、元気だったこともあった。
ギャグパロディではあるが、真面目なパロディである面を持つ。
たとえば小林昭二、中江真司といった本家ライダー関係者の起用、また木梨猛のファッションやノリダーのデザインは、かなり極端なデフォルメがされているものの明らかに「旧1号」(第1話 - 第13話の仮面ライダー)の本郷猛と仮面ライダー1号のデザインをもとにしており、ノリダーが乗っている50ccのバイクも初期のサイクロン号によく似せてある。毎回終わりにノリダーが「全国のチビっ子諸君」に向けてメッセージ(「お風呂で身体を洗うとき、耳の後ろもしっかり洗おう!」など)を送っていたのも、本家のパロディーであった(のちに廃止されるが、完結編で復活している)。また、オープニング映像も本家と同じくノリダーがバイクで疾走するシーンが使われ、オープニング終了後の映像にも木梨猛が改造されるシーンと共に本家と同じようなナレーションが使われていた。完結編『最後の決戦』では、すでに物故していたにも関わらず「立花藤兵衛/小林昭二」のクレジットとともに、回想シーンの形で小林を登場させた。
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仮面ノリダー
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ノリダーが駆る50ccバイクは、当初はヤマハ・YSR50が使用されたが、のちに番組スポンサーでもあったスズキよりGAG50の提供を受け、急遽ノリダーの愛車として使用されるようになった。元々本家仮面ライダーもスポンサーの関係でスズキ車の使用率が高かったのだが(なお、平成仮面ライダーシリーズでは番組スポンサーも務めているホンダ車が使用されている)、ノリダーと同時期に放送されていた仮面ライダーBLACKにおいては、主人公の愛車としてスズキ・GSX-R400が使用されていた。なお、バイクが50ccだったのは当時木梨が中型自動二輪免許を持っておらず普通自動車免許(50ccは乗車可)のみだったためである。
スタート当初から1話完結のストーリーを貫いてきたが、マンネリ化し始めた1989年(平成元年)秋頃から最終回に掛けてのストーリーは、2話連続(3話連続が1度だけあった)になったり、CMを挟んでのストーリーを展開するなど、小出しにしていった。特に2話連続の手法は、終盤に入った頃の1989年(平成元年)11月放送のボウリング女からで、この場合は最後に「来週につづく」のテロップが表示された。また、CMを挟んでの場合は「CMのあとすぐつづく」と表示された。
ただ、これは当時の視聴者からの受けは全く良くなかった。
なおこの背景には、前述のマンネリ化対策のほか、以下の理由があげられる。
本作は本家『仮面ライダーシリーズ』の原作者である石ノ森章太郎(石森プロ)や、制作会社の東映、および製作局である毎日放送に正式な承諾を取らず、無断でパロディ化したため、本家側から抗議を受けた挙句、続編の『仮面ノリダーV2』も含め作品のソフト化を一切禁じられた。
本家・仮面ライダーシリーズ(昭和仮面ライダーシリーズ)後期の『仮面ライダーBLACK』『仮面ライダーBLACK RX』で主人公・南光太郎を演じた倉田てつをは、BLACK出演当時にフジテレビ側から出演オファーが届いていたものの、結局東映側から許可が下りなかった為に断念したという。また当時の撮影現場では、ノリダーに関する話題はタブーであったとのことである。
一方で、昭和ライダーシリーズ前期から中期の初代『仮面ライダー』~『仮面ライダーZX』のプロデューサーであった平山亨の息子が、平山自身も仮面ノリダー本編を笑いながら見ていたと証言している。
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仮面ノリダー
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一方で、昭和ライダーシリーズ前期から中期の初代『仮面ライダー』~『仮面ライダーZX』のプロデューサーであった平山亨の息子が、平山自身も仮面ノリダー本編を笑いながら見ていたと証言している。
当時は「バラエティ番組のソフト化」が皆無といっていい状況であり(本作もバラエティ番組の一コーナーである)、基本的に出演者とはソフト販売を前提としない放送のみの契約であった。そのため仮にこのような軋轢がなかったとしても、あらためて各出演者(故人の場合はその遺族)との再契約の必要が生じるなど、結局権利問題の面でソフト化のハードルは非常に高いものとなっている。しかしながらDVD化の署名運動まで行われるなど、現在においても人気は根強い。
同時期に放送されていた『オレたちひょうきん族』の『かまへんライダー』や、後年同じフジテレビ系で放送された『ダウンタウンのごっつええ感じ』にて行われた『秘密戦隊ゴレンジャー』のパロディコントである『世紀末戦隊ゴレンジャイ』の場合は、当初から版権元に許可を得ていたため、問題なくソフト化されている。
一方で原作者・石ノ森としては平山と同様に容認の姿勢を示していた。もともと石ノ森は、自身が関与した特撮作品を漫画化する際(石森プロ系の漫画家による代筆も含む)、原作に則ったハードな作品とは別に、『宇宙鉄人ジョーダイン』など、ギャグ漫画としてセルフパロディ化することもしており、『秘密戦隊ゴレンジャー』に至っては自らパロディの『ひみつ戦隊ゴレンジャーごっこ』を執筆していたため、もともと抵抗がなかったという。
1989年(昭和64年)に雑誌『TVガイド』にて仮面ノリダーの特集が組まれた際にもインタビューに応じ、「横澤(彪)さんに『いつも仮面ノリダーを楽しく見てます。ありがとうございます』と、先日電話をしました」と、容認を示すコメントをしていた。
その後、2007年(平成19年)9月27日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』特番において放送された「もう一度みたい仮面ノリダーベスト10」において、初めて「協力:石森プロ・東映」のクレジットが表示され、以降『おかげでした』でノリダーの映像を放送するときには必ずこのテロップが挿入されていた。
さらに、2013年には東映が正式に『仮面ノリダー』の商標登録を行った。
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仮面ノリダー
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その後、2007年(平成19年)9月27日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』特番において放送された「もう一度みたい仮面ノリダーベスト10」において、初めて「協力:石森プロ・東映」のクレジットが表示され、以降『おかげでした』でノリダーの映像を放送するときには必ずこのテロップが挿入されていた。
さらに、2013年には東映が正式に『仮面ノリダー』の商標登録を行った。
2019年に公開された『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』にて木梨猛役で木梨が出演。公開当日まで情報は伏せられていた。カメオ出演ではなく木梨の見せ場となるシーンは用意されているが、「ライダーとして認めてもらえず囚われていた」というメタフィクション的な設定での登場であり、仮面ノリダーに変身することはなかった。
2020年4月28日には木梨が倉庫の掃除中に見つけた仮面ノリダーの衣装を着て自身のInstagramに仮面ノリダーとして動画を投稿したうえ、同年5月2日には自身のラジオ番組『土曜朝6時 木梨の会。』で「仮面ノリダーから届いた手紙」を紹介し、いずれも2019新型コロナウイルスへの警戒とその感染拡大を防ぐための自宅待機を呼びかける内容と合わせて話題となった。
仮面ノリダーの登場人物を参照。
野球中継の延長により1989年10月5日は21時15分~不明、同年4月20日・4月27日は21時30分~22時30分で放送。
『意地悪ばあさん』との合体企画として、ファンファン大佐の代わりにジョッカーの一日大佐となった波多野たつ(演・青島幸男)がファンファン大佐のゴルフバッグが密室から消失した事件の犯人の濡れ衣を着せられ真犯人探しに奔走するという第3弾の企画もあったが、番組の第2シーズン終了で制作中止になっている。なお同作のオチはたつの「犯人さ~ん!ファンファン大佐のゴルフバッグを、返しなさ~い!キャディのひとみさんが悲しむよ!」がアミーゴまで届いて猛やマリナさん、おやっさんにファンファン大佐のプライベートがばれてしまうというものになっている。
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辻灯子
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辻 灯子(つじ とうこ)は、日本の漫画家。星座はみずがめ座。血液型はAB型。主に4コマ漫画を描く。芳文社の4コマ雑誌で作品を発表している。
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インディアナポリス500
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インディアナポリス500 (Indianapolis 500) は、アメリカ合衆国インディアナ州インディアナポリス市近郊のスピードウェイにあるインディアナポリス・モーター・スピードウェイで毎年5月に開催されるアメリカンモータースポーツイベントである。略称のインディ500 (Indy 500) で呼ばれることもある。
インディ500の決勝レースは毎年5月最終月曜日・メモリアルデーの前日の日曜日、すなわち5月24日から30日までの日曜日に開催される。インディアナポリス・モーター・スピードウェイのオーバルトラック1周2.5マイル (約4.023 km) を200周、走行距離500マイル (805 km)で争う。第1回開催は1911年。モナコグランプリ、ル・マン24時間レースと並び世界3大レースのひとつに数えられる。近年はモナコGPと同日に開催されることが多くなっている。
インディ500の周回平均速度は予選で362 km/h、決勝でも354 km/hを超える。これは同じマシンでレースが行われるインディカー・シリーズの中ではもちろん、世界の周回レースカテゴリーの中でも最も速い。また、最高速度は380 km/hに達する。これはF1の瞬間最高速度記録 (372.4 km/h) を上回り、これより速いカテゴリーはドラッグレース (NHRAトップフューエルクラスで 520 km/h超) のような非周回レースに限られる。また、最高速だけであれば一部のプロトタイプカーが400 km/hを超えたこともあった。33台のマシンがテール・トゥー・ノーズ、サイド・バイ・サイドで競り合い、ドラフティング(スリップストリーム)を駆使してオーバーテイクするアメリカンモータースポーツの典型とも言える展開が広がる。
1950年から1960年までは世界選手権という体裁を整えるためにF1の一戦として組み込まれていた。しかしF1ドライバーの参戦は少なく、ほとんど名目上のものであった。1996年以降はインディカー・シリーズの最大イベントレースとして組み込まれている。
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インディアナポリス500
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1950年から1960年までは世界選手権という体裁を整えるためにF1の一戦として組み込まれていた。しかしF1ドライバーの参戦は少なく、ほとんど名目上のものであった。1996年以降はインディカー・シリーズの最大イベントレースとして組み込まれている。
普段のインディカーレースが平均して50万人程度の視聴者数なのに対し、インディ500は500万人以上がTV観戦するほど注目度は高い。現地でも、普段は空席の目立つオーバルに40万人が大挙し埋め尽くす、まさに国民的ビッグイベントとして存在している。こうした注目度の差から、インディカーシリーズ全レースではなく、インディ500単体で記憶するファンも少なくない。
2014年シーズンから2022年シーズンの決勝レースでは順位に応じて通常与えられるポイントの2倍が与えられていた。
1960年代までのインディ500は、様々なエンジン形式、駆動方式が参加可能であった。1952年にポールポジションを獲得したターボディーゼルエンジン搭載のカミンズ・ディーゼル・スペシャルや1967年(英語版)と1968年(英語版)に登場したガスタービンエンジン搭載車が有名である。
CARTやインディカー・シリーズなどのオープンホイールレース選手権の1戦に組み込まれるようになると、参戦車両は選手権のレギュレーションに対応したものに変わった。インディ500では「スーパースピードウェイ・パッケージ」と呼ばれる高速オーバル用のエアロパーツが取り付けられる。これは前後共に一枚板構造(シングルエレメント)を持ち、空気抵抗を最小限に抑えることで超高速走行を実現している。
速度域の高さや接戦の多さから、レース中には事故(クラッシュ)もたびたび発生している。レーシングマシンの安全性が低かった時代には何度か死亡事故も発生しているが、2021年現在、1996年(英語版)のスコット・ブレイトンがインディ500のレーススケジュール中に起きたものでは最後の死亡事故となっている。詳細はインディアナポリス・モーター・スピードウェイでの死亡事故一覧(英語版)を参照。
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インディアナポリス500
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速度域の高さや接戦の多さから、レース中には事故(クラッシュ)もたびたび発生している。レーシングマシンの安全性が低かった時代には何度か死亡事故も発生しているが、2021年現在、1996年(英語版)のスコット・ブレイトンがインディ500のレーススケジュール中に起きたものでは最後の死亡事故となっている。詳細はインディアナポリス・モーター・スピードウェイでの死亡事故一覧(英語版)を参照。
小さなサポートイベントなどを含めると約2週間にわたって行なわれること、予選グリッドの決め方が独特であることや、レース優勝者には牛乳が与えられるなど(下述)、他のレースと異なる「伝統」を持ったレースである。また、準優勝者(二位)には「最も速かった敗者」、初参戦のドライバーで最も活躍した者(基本的には最上位を獲得した者だが、2017年のように途中何度も1位に立ったがリタイアした選手に贈られる場合もある。)には「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」の称号が与えられる。また、決勝の順位ごとに賞金が与えられるほか、「決勝1周目をトップで通過したドライバー」、「最後に予選を通過したドライバー」など、さまざまなケースのボーナス賞金がある。
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インディアナポリス500
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インディ500の優勝トロフィーとして「ボルグワーナー・トロフィー」がある。このスターリングシルバー製トロフィーのチェッカーフラッグ状の壁面にはインディ500の歴代優勝者全員の顔を立体的にかたどったレリーフが埋め込まれ、それぞれ下のブロックに優勝者の氏名・開催年・優勝者の決勝レースにおける平均速度(マイル毎時 (mph))が刻まれている。トロフィーという名称ではあるが優勝者が持ち回りで所有できるわけではなく、また約153ポンド (69.4 kg) という重さのため持ち上げることもできない。普段はIMS内のミュージアムに展示されていて、インディ500決勝日にヴィクトリーレーンに飾られるモニュメント的な存在である。インディ500優勝者にはトロフィーの壁面に自分の顔のレリーフを埋め込む権利、決勝レースの翌日にトロフィーと一緒に写真を撮る権利が与えられ、後日ボルグワーナー・トロフィーを模したミニトロフィーが授与される(こちらは永久保持が可能)。1935年に制作されてから82年間、アメリカ国外に出たことがなかったが、2017年に佐藤琢磨が優勝したことを記念した日本での凱旋ツアーのために史上初めて国外に出ることとなった。
インディ500は5月中旬に開幕し、練習走行・予選・決勝レースなどのレースプログラムと、サイン会やパレードなどの観客向けイベントが約3週間に渡って開催される。期間中にはインディカー・シリーズの公式戦である「グランプリ・オブ・インディアナポリス」やインディ・ライツの「フリーダム100」といったレースイベントも開催される。以下は例年行われるレース関連行事である。
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インディアナポリス500
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インディ500は5月中旬に開幕し、練習走行・予選・決勝レースなどのレースプログラムと、サイン会やパレードなどの観客向けイベントが約3週間に渡って開催される。期間中にはインディカー・シリーズの公式戦である「グランプリ・オブ・インディアナポリス」やインディ・ライツの「フリーダム100」といったレースイベントも開催される。以下は例年行われるレース関連行事である。
いわゆるルーキーテストのことで、4月中旬または下旬に行われるオープンテスト初日に行われるが、ここでクリアできなかった選手やオープンテスト以後にエントリーした選手向けにレーススケジュール中のプラクティス初日の最初にも行われる場合がある。初出場のドライバーや長らくオーバルでのレースに出場していないドライバー(「リフレッシャー」と呼ばれる)が対象となっていて、これに合格しないとインディ500への出走が認められない。インディ500では常に350 km/h (217 mph) 以上の巡航速度でレースが進むため、極端に遅いマシンはレースの妨げになり大変危険である。そこでコースレイアウトに慣れることと、安定したペースで周回を重ねられるようになることが主な到達目標に据えられている。細かい部分は年によって異なるが、目標となる平均速度毎にいくつかの「フェーズ」が用意され、それらを1つずつクリアしていく方式がとられる。
5月第3週の火曜日から金曜日に行われる自由練習期間。前半は概ねマシンセッティングの確認が行われる。後半は予選に向けたハイペース走行や、決勝を意識したスリップストリームを使う練習が行われる。特に最終日の金曜日は"ファストフライデー"と呼ばれ、この日のトップタイムを記録したドライバーには賞金が贈られる。
5月第3週の土曜日、及び翌日曜日の2日間で行われる(2001-2009年などは4日間)。複雑な方式によって行われるため、それについては下記の予選方式にて解説する。
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インディアナポリス500
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5月第3週の土曜日、及び翌日曜日の2日間で行われる(2001-2009年などは4日間)。複雑な方式によって行われるため、それについては下記の予選方式にて解説する。
決勝レース2日前、金曜日 (2004年までは木曜日) 午前に1時間だけ行われる最終練習。予選を通過した33台すべてが決勝レース用のセッティングを施してコースに入り、ドラフティングを利用しながらレースを想定した練習走行をする。カーブ・デイとはカーブレーション・デイの略であり、かつて決勝レースの前にカーブレーター=キャブレターを調整できる最後の時間であったためにこの名がついた。また、この日の正午過ぎにフリーダム100が開始される。午後には一部のドライバーと担当ピットクルーがピット作業の速さを競う「ピットストップ・コンテスト」が行なわれる。
インディ500の予選方式は何度か変更されているが、2022年現在はおおむね以下の方式によって行なわれている。
インディ500では、予選と決勝でドライバーを交代させることができる。これは、予選が「決勝に進出するドライバーではなくマシンを選ぶ」という理念に基づくものであることによる。1960年代までのようにヨーロッパのF1選手権シリーズとの間での人的交流が盛んだった時代には、このシステムを利用して「予選を通過したマシン」に決勝だけ乗り込むF1ドライバーも稀ではなかった。ただし、ドライバー交代が行われたシャシーはグリッドが最後尾に降格する。2台以上で交代があった場合、選手権ポイントが少ない方が最後尾につく。
予選1日目でまず30位までの決勝進出者が決定する。エントリーする全ての選手が最低1回のアテンプトを行い、その暫定順位によって以下のように振り分けられる。
1日目は予選時間中であれば、回数に制限なくアテンプトを行える。1回目は前日のくじ引きにより決まった順番にアテンプトする。2回目以降のアテンプトに臨む際は、直前に記録されたタイムを取り消すか残すかを選択できるが、取り消した選手が優先的に出走でき、取り消して再アテンプトする選手がいない場合に限り、取り消さない選手の再アテンプトが可能となる。 なお、エントリーが33台以下で予選落ちが発生しない場合は、1日目で予選13位-33位の予選順位が確定し、予選2日目の「ラストチャンス・クオリファイ」は行われない。
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インディアナポリス500
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予選2日目は、3つのセッションが行われる。予選2日目に参加する選手は前日の記録はすべてリセットされる(暫定順位は保存される)ため、再びアテンプトを行う必要がある。なお予選上位12台にはこの日確定した順位をもとに選手権ポイントが与えられる。
2連勝したドライバーが5名いる(3連勝以上したドライバーは存在しない)。
日本では、トミー(現:タカラトミー)から、1997年5月23日に、プレイステーション用ゲームソフトとして、Indy500がリリースされた。 また、セガからもアーケードゲームとしてインディ500がリリースされた。
日本以外では、インディ500にアジアの国が関わった例はほとんどないため、「日本初」としている記録はたいてい「アジア初」となる。
1991年のヒロ松下の初参戦以降、2017年までに計10名の日本人ドライバーが挑戦している。
以下、参戦ドライバーと決勝順位を記載する。
いずれも現地チームを母体とした提携ではあるものの、スーパーアグリが2004~2006年に「スーパーアグリ・フェルナンデス・レーシング」、2007年に「スーパーアグリ・パンサー・レーシング」として、チーム郷が2020年に「デイル・コイン・レーシング with チーム郷」として参戦した例がある。
日本のチーム・コンストラクターがインディ500用の車両を製作したことはない。
実現に至らなかったものとしては、1960年代のF1の一戦に含まれていた頃に、ホンダが参戦を検討していたことがある。
エンジン供給は、ホンダ(1995年、2003年以降)のほか、過去に日産自動車(1997~2002年;インフィニティ名義)とトヨタ(2003 - 2005年)が行っている。初優勝は2003年にトヨタによって記録された(ドライバーはジル・ド・フェラン/チーム・ペンスキー)。
エンジン関係では、1987年から1991年にかけてジャッドにより供給されていたエンジンは元々はホンダがインディ500を含むCART参戦用に開発していたエンジンから発展したという経緯を持つという関係がある。
タイヤ供給は、ブリヂストンがファイアストン名義で行っている(1995年以降)。
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エンジン関係では、1987年から1991年にかけてジャッドにより供給されていたエンジンは元々はホンダがインディ500を含むCART参戦用に開発していたエンジンから発展したという経緯を持つという関係がある。
タイヤ供給は、ブリヂストンがファイアストン名義で行っている(1995年以降)。
1966年10月、神彰の呼びかけにより、当時のインディ500出走ドライバーを招聘して「日本インディー200マイルレース」(通称「日本インディ」)が富士スピードウェイで開催された。
インディ500では、優勝したドライバーは牛乳を飲むという慣習がある。1933年、ルイス・メイヤーは自身二度目の優勝を飾ったが、レース終了後にバターミルクをリクエストした。ルイス・メイヤーは1936年にも自身三度目の優勝を果たし、この際もバターミルクをリクエストしたが、コップではなくボトルで手渡され、それをそのまま飲んだ。その飲んでいる写真が新聞の記事になり牛乳会社の目に止まった。それ以降優勝者には牛乳が提供されるようになった(1947年から1955年までの間を除く)。
この「ヴィクトリーレーンで牛乳を飲む」という行為にもスポンサー(2017年現在はインディアナ州酪農組合)がついており、仮に牛乳を飲まなかった場合や、飲むのが規定のスケジュールを外れた場合は該当スポンサーからの賞金は与えられない。
なお実際には、通常の成分無調整乳 (whole milk)以外に低脂肪乳 (2% fat milk)、無脂肪乳 (fat-free milk) も選択できる。このため予選通過が決まったドライバーは、優勝時にどれを飲むかを事前に選択することになっており、毎年選択の結果は「Milk List」として公表される。伝統に則りバターミルクをリクエストするドライバーも少なくないが、スポンサーのインディアナ州酪農組合では「メイヤーが飲んだのは、彼の母が作った伝統的なバターミルクだが、現代では同様のバターミルクは入手困難」「伝統的なバターミルクは非常に腐りやすい」の2点を理由として、このリクエストを断っている。
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この慣習に従わなかったドライバーもいる。ボビー・アンサーは1968年の優勝時にはこれを拒否したが、その後の2回の優勝時には従っている。エマーソン・フィッティパルディは1993年の優勝時に自身がブラジルでオレンジ農園を営んでいるという理由から、牛乳より先にオレンジジュースを飲んでいる。このため牛乳を飲むのが規定の時間を外れてしまいスポンサー賞金を受け取れなかったが、後でフィッティパルディが陳謝することで事は収まった。
1998年に優勝したエディ・チーバーは、この「Winner's Milk」を表彰台でボトル2本も飲み干した。
オープニングセレモニーの終盤、スタートコマンドの直前に「Back home again in Indiana」の独唱が行われる。セレモニーにおいてアメリカ合衆国国歌よりも後に歌われるこの曲は、インディアナ州の「州歌」と言えるほど有名な曲だが、1946年にジェームス・メルトンが、自分が代表を務める自動車クラブのパレードに合わせて歌ったものがセレモニー内で歌われた最初である。この歌が好評となり、メルトンは1947年以降は招待されてこの歌を歌うようになった。この歌が正式にスタートコマンドの直前に歌われる現在の形に決められたのは、1948年のことである。以降、現在に至るまで何人もの歌手が独唱を披露してきた。
もっとも知られている歌手は、1972年から2014年までの42年間に渡り、36回歌ったカントリー歌手のジム・ネイバースである。2014年、36回目にして最後の歌唱を終えたネイバースは、マリ・ハルマン・ジョージとともにスタートコマンドも行っている。
2017年以降はセレモニーなどでの国歌歌唱を行う歌手ジム・コーネリソン(英語版)が行っている。
レース開始前のエンジン始動の号令(スタートコマンド)「Ladies and gentlemen, start your engines!」は、代々インディアナポリス・モーター・スピードウェイにゆかりのある人物が行ってきた。
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2017年以降はセレモニーなどでの国歌歌唱を行う歌手ジム・コーネリソン(英語版)が行っている。
レース開始前のエンジン始動の号令(スタートコマンド)「Ladies and gentlemen, start your engines!」は、代々インディアナポリス・モーター・スピードウェイにゆかりのある人物が行ってきた。
もともとはIMSのオーナーだったトニー・ハルマンがアナウンスを行っていたが、トニーは1977年に死去。翌1978年からはトニーの妻のメアリー・フェンドリッチ・ハルマンが行うようになった(1982年のみ、インディアナポリス・モーター・スピードウェイの場内放送アナウンサーだったトム・カーネギーが行っている)。そのメアリーが1998年4月に死去すると、1998年から2015年までトニーとメアリーの娘のマリ・ハルマン・ジョージが引き継いだ。その後2016年はマリが嫁いだハルマン・ジョージ家の家族一同で行い、2017年から2019年まではマリの息子のトニー・ジョージが行った。そして2020年は、新たにIMSのオーナーとなったロジャー・ペンスキーが行っている。
かつてはレースに参加するドライバーは男性ばかりだったので、スタートコマンドは「Gentlemen, start your engines!(紳士諸君、エンジンを始動しなさい)」だったが、女性ドライバーが参加するようになり、「A(One) lady and gentlemen, start your engines!(淑女と紳士諸君~)」と改められ、女性が複数人参加した際にはさらに複数形に改められ、「Ladies and gentlemen, start your engines!」となる。2017年と2018年、ペンスキーが行うようになった2020年以降は性別に関係なく使用できる「Drivers, start your engines!」というスタートコマンドが使われているが、結果的にトニ・ジョージ最後のコマンドとなった2019年は「Lady and gentlemen, start your engines!」に戻された。
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1976年以降、優勝者には手作りのキルトが贈られている。これは、地元のキルターであり、自らも元女性レーサーであったジャネッタ・ホールダーが手作りしたもの。レースをこよなく愛するホールダーは、レーサーのサインを集めて刺繍(ししゅう)したオリジナルのアップリケキルトを毎年作り、優勝者に贈っている。そのため、彼女は「キルト・レディ」として、レーサーや関係者に親しまれている。 そのうちの一人、数回の優勝経験をもつボビー・アンサーはヘンリー・フォード・博物館(ミシガン州ディアボーン)にキルトを寄贈した。また、アル・アンサーは自ら設立したアンサー・レーシング博物館(ニューメキシコ州アルバカーキー)に授与されたキルトを飾っている。
他の多くのアメリカンスポーツ同様に、本レースでも優勝者にはチャンピオンリングが授与される。リングの製作は1983年から2016年までは同じインディアナポリスを本拠とする「Herff Jones」が担当していたが、2017年よりミネソタ州の「Jostens」に変更された。なおJostensは、他にもピットストップチャレンジの勝者等に渡されるリングや、主催者が同じNASCARのブリックヤード400のチャンピオンリングなどの製作も担当する。
優勝者は名誉と共に超過密日程をこなす責務を負うこととなる。レース翌日は午前9時から行われる3時間の撮影会の後に優勝者記者会見、午後は5時間に渡って行われるセレモニーイベント「インディ500ビクトリー・バンケット」に出席し、それが終わると休む間もなく 1000 km以上離れたニューヨークへ移動し、僅かな仮眠の後に翌朝はFOX5ニューヨークの「グッデイ・ニューヨーク」とCNBCの「スクワークボックス」に出演、その後はナスダックへ向かい午前9:30の取引開始のベルを鳴らす。更にこの後にはエンパイア・ステート・ビルでメディア向け撮影会をこなした後様々なテレビ、ラジオに出演、その後約 3000 km離れたテキサス州アーリントンへ移動しアメリカを象徴するスポーツチーム、NFLダラス・カウボーイズを表敬訪問し、ここでも数多くの取材をこなす。さらに2012年から2019年および2022年以降はそのまま週末にレースが行われるデトロイトに移動してレースに備えなければならない。
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バイトコード
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バイトコード (bytecode) は、バイト指向の、中間表現のコードすなわち中間コードの総称である。バイトコードという名前は命令の構成がバイト指向であること、すなわち命令長がバイト可変長であったり、命令中のフィールドの区切りがビット単位でなくバイト単位になっているといったことから来ている。特にJavaの場合オペコードが1バイトである(Javaバイトコードの記事を参照)。しかし、仮想マシンの機械語をバイトコードと呼ぶことがJavaで広く一般的になったことから、前述のようなバイト指向でなくともバイトコードと呼んでいることも多い。バイト単位でなくビット単位の場合は、ビットコードとも呼ばれる。ワード指向のためにワードコードという語を使っている例も見られる。
バイトコードを用いる方式の利点は、ソースコードを直接解釈するインタプリタと同等の移植性を確保した上での、インタプリタのパフォーマンスの高さである(これはバイトコードに限らず、なんらかの中間表現を利用する場合全ての利点でもある。以下全て同様)。人の手で読み書きされる用途のソースコードよりもバイトコードのほうが、抽象度の低さ、データサイズなどの点で優れておりコンピュータにとって扱いやすいため、パフォーマンスは上回る。このパフォーマンス上の利点から、現在の多くのインタプリタ言語は実際にはバイトコードにコンパイルされた後、バイトコードインタプリタによって実行される。またパフォーマンス以外にも、ソースコードの中身を隠蔽する目的でバイトコードが用いられる場合がある。
バイトコードを使用した初期のコンピュータにはSystem/38があり、ソフトウェアのインストール時に機械語に変換された。またJavaのプログラムは、コンパイル済みバイトコードも利用者の環境を選ばないことから、ソースコードだけではなくバイトコードにコンパイルしたものも、標準的に配布されていることが多い。
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バイトコード
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バイトコードを使用した初期のコンピュータにはSystem/38があり、ソフトウェアのインストール時に機械語に変換された。またJavaのプログラムは、コンパイル済みバイトコードも利用者の環境を選ばないことから、ソースコードだけではなくバイトコードにコンパイルしたものも、標準的に配布されていることが多い。
バイト指向でない中間コードもバイトコードも、その多くは、実ハードウェアの機械語と似た命令フォーマットや命令セットの構成をとっている。ただし、ハードウェアで実装されたプロセッサでは比較的、スタックマシンよりレジスタマシンの方が多いのに対し、ソフトウェアによる仮想機械や抽象機械ではJava仮想マシンなどスタックマシンも多いという特徴がある。なお、Luaのバージョン5やDalvik仮想マシンなど、レジスタマシンも多い。
「抽象機械」と呼ばれるような計算モデルとしての性格が強い機械の場合、理論的な扱いのためにスタックが使われているものもある。
レジスタマシン型命令セットではオペランドの位置を命令内で明示する。これに対しスタックマシン型命令セットでは、暗黙のうちにスタックトップをオペランドとして使い、オペランドの位置を明示する領域が不要である。目的のオペランドがスタックトップにない場合にはオペランド移動のための命令を追加する。大まかに言えば、スタックマシン命令一個当たりの長さと機能は、レジスタマシン一命令内の個々のオペランドフィールド一個、またはコードフィールドと同等である。
このためバイトコード全体の長さには大差はなさそうだが、スタックマシンでは命令順を並び換えることでオペランド移動命令を略せる場合がある。レジスタマシンではオペランド指定は省略できないので、オペランド移動を省略した分だけスタックマシンの方が同等のプログラムを短く記述できる場合が多い。又データキャッシュヒット率が高まるので、プログラムサイズ削減は実効速度改善にもなる。
しかしオペランド移動の省略を施しても、スタックマシンの方がレジスタマシンより命令数が多くなる。個々の命令が極めて単純な処理しか行わないバイトコードインタプリタでは、命令の種類を判定して分岐する処理が実行時間の大きな割合を占めるので、この点ではレジスタマシンの方が有利となる。
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しかしオペランド移動の省略を施しても、スタックマシンの方がレジスタマシンより命令数が多くなる。個々の命令が極めて単純な処理しか行わないバイトコードインタプリタでは、命令の種類を判定して分岐する処理が実行時間の大きな割合を占めるので、この点ではレジスタマシンの方が有利となる。
レジスタマシン型インタプリタでは番号で仮想レジスタを指定するが、多くの実機では実行時に物理レジスタを番号で参照することができないため、メモリ配列によって仮想レジスタが実装されている場合が多い。これに対しスタックマシン型インタプリタでは、ほとんどの命令のオペランドがスタックトップに決め打ちされ、参照すべき物理レジスタをコンパイル時に決定できるので、スタックトップ数個を物理レジスタで実装している。多くの実機ではレジスタ経由でのデータ受け渡しは1クロックでできるのに対し、メモリ経由でのデータ受け渡しは数クロックを要するので、直前の命令の結果を直後の命令が使う処理が連なった場合は、レジスタマシンは不利となる。
ALGOL以来、多くのプログラミング言語は文脈自由文法で記述でき、スタックマシンと類似したプッシュダウン・オートマトンで構文解析できる。このため、スタックマシン向けのコード生成器ならば、構文解析器と一体化させて省メモリ・高速なものにできる。
レジスタマシン向けの場合、有限のレジスタを使い回すレジスタ割り付けを行う必要がある。ただし、インタプリタの仮想レジスタはメモリ配列で実装されている場合が多い。このため、メモリ配列の大きさが許す限り、実機では非現実的な膨大な数の仮想レジスタを実装でき、その場合、レジスタの使い回しを省いてレジスタ割り付けを単純化することができる。レジスタ・ウィンドウも僅かなコストでレジスタ1本単位でスライドさせる柔軟なものが実装でき、スタックマシン向けと同様に構文解析器とコード生成器の一体化に役立つ。
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かき氷
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かき氷(かきごおり、欠き氷)とは、氷を細かく削るか砕いて、シロップ等をかけた氷菓。餡やコンデンスミルクをかけることもある。氷は古くは鉋(かんな)などで粒状に削ったが、現在は専用の機械を用いる。また市販品として、細かく砕いた氷と各種シロップを混ぜてカップ容器や袋に入れた製品も売られている。日本以外にも類似のものが各国にある。
日本では、かき氷を売っている店は氷旗(白地に赤い文字で「氷」と書かれた幟〈のぼり〉)を掲げていることが多い。夏季に社寺の境内で催される祭礼や縁日などでは綿菓子、たこ焼き、焼きそばとともに売られる代表的な縁日物()の一つであり、夏の風物詩、季語の一つである。
最も一般的に普及している呼び名である「かき氷」は、東京方言の「ぶっかきごおり」に由来する。他の呼称として夏氷()、氷水()など。近畿では「かちわり(ごおり)」などとも呼ばれる。かき氷以外に、飲料を冷やしたり涼をとったりするのに使われる、砕いた氷は「かち割り」を参照。
日本の喫茶店や洋風の飲食店では、かき氷をフラッペと呼んで提供していることがある。「フラッぺ」(フランス語: Frappé)は、本来はクラッシュドアイスにリキュールなどの酒類を注いだ飲料のことである。日本ではシロップをかけたかき氷を指すことが多いが、「かき氷」に対して「フラッペ」は氷の砕き方がやや大粒であるとする説もある。また大阪府付近など一部の地域では、一旦かき氷状にした氷に掌で圧力をかけて少々固めたものをフラッペと呼び、かき氷とは区別している。
史実上の記録は平安時代に清少納言の『枕草子』「あてなるもの」(上品なもの、良いもの)の段に、金属製の器に氷を刃物で削った削り氷(けずりひ、文中では「けつりひ」)に蔓草の一種である甘葛(あまかづら・あまづら、蔦の樹液または甘茶蔓の茎の汁)をかけたとして「削り氷にあまづら入れて、新しき金鋺()に入れたる」と記述されている。藤原定家の『明月記』にも登場する。製氷技術のなかった当時、夏に氷を求めるにはあらかじめ冬の雪や氷を氷室で保存する以外に方法が無く、かき氷は特権階級しか口にできないものであった。
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かき氷
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1869年(明治2年)、神奈川県横浜にある馬車道で町田房造が初めての氷水店を開店(日本においてアイスクリームを発祥させた店でもある)。また、1871年(明治4年)、中川嘉兵衛が五稜郭の外堀で生産した天然氷が「函館氷」と銘打って京浜市場に登場しそれまでのアメリカ合衆国ボストン産の輸入氷「ボストン氷」に比べて良質でかつ低廉であった。
1878年 (明治11年)、粗悪な氷が販売される事を取り締まるために内務省から「氷製造人並販売人取締規則」が公布された。これにより営業者は、衛生検査に合格した氷の生産地・販売者名を示したのぼりや看板を掲げる事が義務付けられた。この時に配られた旗が現在の氷旗のデザインの元になっている。
1882年(明治15年)頃には博物学者のエドワード・S・モースが、かき氷を食べたことを自著に記している。
1883年(明治16年)には東京製氷株式会社ができて人工氷の生産が拡大。このようなこともあり明治20年代になると、かき氷は大衆的な飲食物となるに至った。1887年(明治20年)には村上半三郎が氷削機()を発明して特許を取る。1895年夏に、氷店は、東京や横浜では「5歩に1店、10歩に1舗」といわれるほど増え、氷水は1銭、ほか氷イチゴ、氷レモン、氷しるこ等多種あった。しかし、氷削機が一般化するのは昭和期に入ってからであり、それまでは台鉋を用いて削る方法が一般的であった。
第二次世界大戦前は、削った氷に砂糖をふりかけた「雪」か、砂糖蜜をかけた「みぞれ」、小豆餡をのせた「金時」が普通のメニューであった。戦後、かき氷専用のいちごやレモン風味のシロップが販売されるようになった。
現代において夏に涼しさを得られる食べ物としてはアイスクリームもあり、ウェザーニューズが2022年8月にスマートフォンの天気アプリの位置情報を利用して実施したアンケート調査によると、アイスクリームよりかき氷を食べたいという回答は、気温に比例して増え、34度を境に過半数(52%)を占めた。
作り方の一例を示す。これらシロップのかけ方や量は地域差がある。
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現代において夏に涼しさを得られる食べ物としてはアイスクリームもあり、ウェザーニューズが2022年8月にスマートフォンの天気アプリの位置情報を利用して実施したアンケート調査によると、アイスクリームよりかき氷を食べたいという回答は、気温に比例して増え、34度を境に過半数(52%)を占めた。
作り方の一例を示す。これらシロップのかけ方や量は地域差がある。
天然氷を刃物の刃先で削ぎ落としたのが始まりとされ、この方法は現代でも日本料理で用いられている。さらに簡便な方法としては、野菜を薄切りにするスライサーを用いても同様のことができる。その後、鉋の刃を上にしたカツオブシを削る鰹箱(かつばこ)、または前述のスライサーのような状態にした大鉋の上で滑り止めとして布巾などを被せた氷を滑らせ、削り落ちてきたものをすくうようになる。1887年(明治20年)に氷商の村上半三郎が特許を取得して公に知られるようになった。
現代のかき氷器は鉋状の刃のついた台座の上で氷の塊が回転し、氷をスライス状に削りながら氷の塊を繰り下げていく仕組みをもつ。氷削機()、かき氷メーカー、フラップメーカー、アイスシェーバー、アイススライサーなどと呼ばれる。英名はIce block shaver。
かき氷器には粉雪のように細かい粒子のかき氷を削り出すことができるものと氷の薄い切片状のかき氷になるものがある。この要因として用いる氷の違いが挙げられる。近年、小型で高性能ながらアイスストッカー付きのキューブアイス用製氷機が出回ってきたことや各種電化製品の普及により、かつては氷を入手するために必須であった氷商への依存度が激減した。加えて重さ1貫(3.75キログラム)の角氷と言われるブロックアイスを扱う氷商も減少傾向にある。さらに天然氷のように冬の間に暴露で凍らせておき需要があるまで氷室()でストックできる生産者も減ってきている。ただし、インターネットや、コンビニエンスストアでの取扱があるため、角氷の入手は容易に成りつつある。各種電化製品の普及のためかき氷器の製造メーカーは家庭用はブロックアイス用からキューブアイス用に移行し、粉雪状のかき氷と薄い切片状のかき氷に二分された。
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ブロックアイスを用いる製品は「ブロックアイスシェーバー」「ブロックアイススライサー」などと、キューブアイスを用いる製品は「キューブアイスシェーバー」「キューブアイススライサー」などとも呼ばれる。
業務用は、古くは鋳物のフレームに大きな手回しハンドルが本体横に付いたものが主流であったが、後に氷を回転させるモーターが剥き出しで取り付けられているものに代わっていき、近年ではモーターを内蔵したスタイルに移行している。併せてキューブアイス用のかき氷器が製造され、粉雪状ではなく細かい氷の粒のかき氷が普及するようになった。現在でも手回し式のものはレトロ調として販売されている。
家庭用は手回しのものが多く、専用の円筒形の製氷皿で作った氷を用いる。一般的な製氷皿で作るキューブアイスを用いてもかき氷を作ることができる機種もある。主に子供向けとして需要が高いため、安全面から金属製の刃は用いられないことも多い。またペンギンや白熊など寒冷地の動物を模した形状のものも発売されている。
同一のものであっても地域によって呼び名や盛りつけ方が異なる。かき氷専用のシロップは「氷蜜()」と呼ばれる。
削った氷を食べる文化は古くから各地に存在した。古代ローマにはアルプスから氷を切り出して氷室に保存しておき、夏季にそれを削って蜂蜜をかけて食べる文化があった。
アメリカ合衆国ではshaved ice(剃り氷)、snow cone(円錐形の雪)と呼ばれる。
中国語では「刨冰」(バオビン、拼音: bàobīng)という。台湾語ではツワピン、漢字表記は剉冰と銼冰と二つがある。
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削った氷を食べる文化は古くから各地に存在した。古代ローマにはアルプスから氷を切り出して氷室に保存しておき、夏季にそれを削って蜂蜜をかけて食べる文化があった。
アメリカ合衆国ではshaved ice(剃り氷)、snow cone(円錐形の雪)と呼ばれる。
中国語では「刨冰」(バオビン、拼音: bàobīng)という。台湾語ではツワピン、漢字表記は剉冰と銼冰と二つがある。
台湾のかき氷は台湾総督府時代に日本から伝われたと言われ、専門的な漢字表記もあって、「剉冰」や「銼冰」と書く。近年中国からの影響で中国語の「刨冰」の書き方もよく使っている。「剉・銼・刨」はかき氷の「かき」に当たる漢字で、「冰」は「氷」の繁体字。台湾のかき氷の名称の前半は上に乗せる具の漢字を付け、名称の後半はかき氷のタイプに付けることが一般的である。例えば、イチゴの漢字は「草莓」であり、イチゴ味の「雪花氷」タイプのかき氷は「草莓雪花氷」と書く。中華民国の台湾では「冰館(ICE ROOM、ピングアン、注音: ㄅㄧㄥ ㄍㄨㄢˇ)」という氷菓の専門店から各地に広がり、日本にも上陸した。また、台湾のフルーツ味のかき氷の場合では基本的に本物のフルーツや果汁を乗せられていて、日本のように氷蜜は使わない。
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1ポンドの福音
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『1ポンドの福音』(いちポンドのふくいん)は、高橋留美子による日本の漫画作品。『週刊ヤングサンデー』にて、1987年9号から2007年3/4合併号にかけて不定期連載されていた。単行本は小学館:ヤングサンデーコミックスより全4巻。
『週刊ヤングサンデー』での初出は1987年9号。初回は前後編の読みきり作品だったが、その後も1話ずつ不定期に集中連載され、約20年後の2007年3/4合併号にて完結。単行本も2007年3月に最終巻である4巻が刊行され、完結した。
1988年にはOVA化され、また2008年1月期にはKAT-TUNの亀梨和也主演により日本テレビ系列でもテレビドラマ化された。
減量中なのに食欲に負ける駆け出しボクサーの青年と若い修道女を中心にした人間模様を描いた作品。ストーリーは試合ごとに区切られ、耕作が対戦相手やその周辺の人物と触れ合ったり自分と戦ったりしながら、試合が終わるまでを1ストーリーとしてそのストーリーが何度か続いていく形式である。1ストーリー毎にテーマが決まっている。
内容はラブコメともボクシングものとも取れる作品になっている。
※声の記述はOVA版、演の記述はドラマ版で表記。
テレビドラマでは、「聖エリシオ修道院」。
主要人物は#登場人物を参照。
2008年1月12日から3月8日まで毎週土曜日21:00 - 21:54に、日本テレビ系の「土曜ドラマ」枠で放送された。主演は亀梨和也。
2008年9月3日にDVD-BOXが発売されている。特典映像は「1ポンドの福イン」×メイキングムービー&「1ポンドの福イン!!サタデー」完全版が収録されている。
主要人物は#登場人物を参照。
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ロードレース世界選手権
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ロードレース世界選手権(ロードレースせかいせんしゅけん)は、オートバイによるモータースポーツ。国際モーターサイクリズム連盟(FIM)が統括し、1949年に始まった二輪ロードレースの最高峰カテゴリーである。現在はドルナ社(DORNA)が各種権利等を管理している。
かつての正式名称は『FIM Road Racing World Championship Grand Prix』で、2016年シーズンより「Road Racing」の表記が外され、『FIM Grand Prix World Championship』という正式名称を用いている。シリーズの略称は2001年まではWGP(World Grand Prixの略)や、日本では世界GPや世界グランプリなどが一般的だったが、2002年に最高峰の500ccクラスがMotoGPクラスに改編されたのを機に、現在はシリーズ全体の略称にもMotoGP(モトジーピー)が使われる場合が多い。
現在は、レース専用に開発された二輪車を用い、レース専用に建設された世界各地のサーキットを転戦し、ライダーとマシンの速さを競うという内容になっている。かつては公道用市販車を改造したマシンも出場しており、公道を封鎖したコースも数多く使用されていた。
選手権はエンジンの排気量別に3つのクラスに分かれており、2019年現在、MotoGPクラスは4ストローク1000cc(2012年~)、Moto2クラスはトライアンフのワンメイクの3気筒4ストローク765cc(2019年~)、Moto3クラスは単気筒4ストロークの250cc(2012年~)となっている。
歴代チャンピオンに関してはロードレース世界チャンピオンの一覧を参照のこと。
世界各国でのグランプリレース(GP)での順位に応じてポイントを加算していき、年間チャンピオンを決定する。
全クラスにライダー選手権とマニファクチャラー(メーカー)選手権があり、現在はMotoGPクラスのみチーム選手権も存在する。マニファクチャラー選手権はメーカー内の最上位入賞ライダーのポイントのみを加算する。チーム選手権はチーム内の全てのライダーの入賞ポイントを加算する。
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ロードレース世界選手権
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世界各国でのグランプリレース(GP)での順位に応じてポイントを加算していき、年間チャンピオンを決定する。
全クラスにライダー選手権とマニファクチャラー(メーカー)選手権があり、現在はMotoGPクラスのみチーム選手権も存在する。マニファクチャラー選手権はメーカー内の最上位入賞ライダーのポイントのみを加算する。チーム選手権はチーム内の全てのライダーの入賞ポイントを加算する。
ロードレース世界選手権は、世界各国を転戦しながら全18戦でチャンピオンを決定する。チャンピオンシップはポイント制で、1位25ポイント、2位20ポイント、3位16ポイント、4位13ポイント、5位11ポイント、以下1ポイントずつ減っていき15位1ポイントとなる。エントリーライダー数(2017年シーズン開幕時点)は、MotoGPクラス:23人、Moto2クラス:32人、Moto3クラス:30人。このほかに各大会にはそれぞれのクラスに限られたワイルドカードという特別出場枠があり、レースの主催者の推薦によりスポット参戦が認められている。
レース期間は3日、
初日:フリー走行1/2
2日目:フリー走行3 → 公式予選Q1/Q2 → (motoGPのみ)スプリントレース
3日目:(motoGPのみ)ウォームアップ走行→決勝
という流れで行う。各フリー走行は初日moto3は35分、moto2は40分、motoGPのみ1が45分、2が60分。2日目は全クラス30分となっている。
フリー走行が予選の班分けを兼ねる変則的ノックダウン方式となっている。moto3/moto2ではフリー走行1-3の上位14名がQ1を経ずにQ2に進出する。その他はQ1を走行しその上位4名がQ2に進出し、Q2の結果で上位18のグリッドが決定される。グリッド19以降はQ1のタイム3位以降がタイム順に並ぶ。
つまり、予選通過者のうち上位14名はフリー走行とQ2の結果で、4名はフリー走行とQ1とQ2の結果で、残りはフリー走行とQ1の結果でグリッドが決まることになる。
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ロードレース世界選手権
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つまり、予選通過者のうち上位14名はフリー走行とQ2の結果で、4名はフリー走行とQ1とQ2の結果で、残りはフリー走行とQ1の結果でグリッドが決まることになる。
motoGPでは2023年度から行われるようになったスプリントレースとの兼ね合いもあり、フリー走行1は完全なフリー走行枠となり、予選の班分けが行われるのはフリー走行2(セッション名は「プラクティス」)のみとなった。出走台数の違いから自動Q2進出は上位10名、Q1からQ2への進出は上位2名で、13位以下はQ1でグリッド決定となっている。
F1とは違い、スプリントレース用の予選は行われず、決勝用のグリッドがそのままスプリントでのグリッドとなる。
いわゆる107%ルール(予選まででポールポジションの周回タイムの107%を超えるものは予選不通過となる)が存在するが、F1のそれとは異なり、各フリー走行で1回でもトップから107%以内のタイムを出していれば予選通過となる。また悪天候等の影響で予選不通過者が多く出た場合は、主催者側の判断により救済措置が適用されることもある。
決勝
原則としてMoto3 → Moto2 → MotoGPの順にレースが行われ(motoGPの出走時間が一定の時間になるように調整されているため、イギリスGPやフランスGPではmotoGPの放映時間優先でmoto3→motoGP→moto2となることもある)、大会ごとの規定周回数を最も速く走ったものが勝者となる。レース走行距離は95 - 130km程度で、それぞれのクラスで45分ほどとなる。最初に搭載した燃料で走りきれるため、悪天候等の想定外のトラブルが発生しない限りピットインする事は無い。ただし、MotoGPクラスには2005年より“フラッグ・トゥ・フラッグ”と呼ばれるルールが定められ、降雨時にはスリックタイヤを履いたマシンでピットインし、ウェットタイヤを装着済みの別のマシンへの乗り換え(あるいはその逆)が見られることとなった。これはスタート前から「ウェットレース宣言」が出された場合には各自自由なタイミングで乗り換えが可能だが、「ドライレース宣言」でスタートした場合は、乗り換え可能を示す白旗が提示されるまでは乗り換えが出来ない。
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ロードレース世界選手権
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2001年まで存在していた500ccクラスが、2002年に現在の名称となり発足した選手権の最高峰クラス。かつてはイルモア、WCMといったプライベーターがオリジナルマシンで参戦していたほか、カワサキがワークス・チームを送り込んでいたが、2021年現在出場しているのはヤマハ、ホンダ、スズキ、ドゥカティ、アプリリア、KTMの6メーカーと、ワークスマシンの貸与等を受けられるサテライトチームとなっている。
使用されるシャシーおよびエンジンはプロトタイプ(レース専用)が原則であるが、2012年より実施されたクレーミング・ルール・チーム(CRT)では市販車ベースの車両が認められた。なおタイヤは、2009年から2015年までブリヂストンのワンメイクであったが2016年よりミシュランのワンメイクになっている。。
なお、レギュレーションは年とともに変化しており、細部については次項の「レギュレーションの変遷」を参照
2001年まで存在していた500ccクラスは、2ストローク・4ストローク共に排気量500ccが上限で、1970年代半ば以降は事実上2ストロークのみという状況になっていた。そこで環境問題対策へのアピールや商業上の理由(2ストローク大排気量車が市場と直結していない)によって、2002年より4ストロークが主体となるMotoGPクラスが誕生した。
2002年には「4ストロークエンジンの排気量あたりの出力効率は2ストロークエンジンの半分」とする係数計算から制定された新レギュレーションが導入され、2006年まで適用された。エンジンは2ストローク500cc以下、4ストローク990cc以下のレース専用車両という規定で、気筒数やピストン形状による最低重量制限が課せられていた。排気量は4ストロークが優遇された一方で、燃料タンク容量は2ストロークが32L、4ストロークが24L(2004年には22L)と、4ストロークの燃料タンク容量は大きく制限された。
しかし、2002年シーズンが開幕すると4ストローク車両が圧倒的に有利なことが明らかとなったため、2ストローク車両でのMotoGP参戦は2003年シーズン終了までに次第になくなり、カワサキ(2002年シーズン第13戦もてぎGPから)やドゥカティ(2003年シーズンから)など4ストロークを得意とするメーカーの新規参入を呼び込むこととなった。
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しかし、2002年シーズンが開幕すると4ストローク車両が圧倒的に有利なことが明らかとなったため、2ストローク車両でのMotoGP参戦は2003年シーズン終了までに次第になくなり、カワサキ(2002年シーズン第13戦もてぎGPから)やドゥカティ(2003年シーズンから)など4ストロークを得意とするメーカーの新規参入を呼び込むこととなった。
2ストロークから4ストローク大排気量へと変わった事でバックトルク(エンジンブレーキ)が強大になったため、初期の頃はコーナー手前のシフトダウンを伴う減速時に後輪側が激しく暴れるといったシーンがよく見られた。バックトルクの弱い2ストロークに馴染んだライダーやメーカーは対策に頭を悩まされることとなったが、エンジンの電子制御やスリッパー・クラッチ等の開発が進むにつれ問題は解消され、当時はまだ2ストロークだった250ccクラス等からのステップアップも困難ではなくなっていった。
2ストロークエンジンはその構造上電子制御を取り入れにくかったが、4ストロークへの移行に伴いハイテク化が一気に進んだ。燃料噴射装置は機械式から電子制御式に移行し、エンジン特性そのものの電子制御化、トラクションコントロール、シフターの最適化等、操縦を支援する装置が数多く搭載されるようになり、これらの電子装置の性能が車両性能を大きく左右するようになった。2ストローク時代と比べ、単に絶対速度が上がっただけでなく遥かに扱いやすいマシンとなり、ライダー達のタイムが拮抗するようになったという意見がある。
990cc時代の最高峰クラスは、直線での加速力や最高速では4輪のF1をも凌ぎ、ブレーキングポイントが明らかに手前でコーナー脱出速度が遅いにもかかわらず、鈴鹿サーキットをはじめ、各サーキットにおける最高速レコードを叩き出していた。そのため、最高速度の急激な上昇を抑えるといった安全上の理由等によりレギュレーションが改正され、2007年から最大排気量が800ccへと引き下げられた。エンジンの気筒数によって最低重量が定められ、燃料タンクは21Lに制限された。
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800ccになっても下位クラスよりも大柄でトルクも強大で、最大エンジン出力は200馬力以上、最高時速はダニ・ペドロサが349km/h以上を記録した。また990cc時代はライダーにマシンの有り余るパワーを制御する事が求められたが、800ccへの変更後は電子制御技術が一層進化し、250ccクラス等からのステップアップがスムーズになったことにより以前に比べて新人ライダーが活躍する事が多くなり、スーパーバイク世界選手権(市販車改造1000cc)出身ライダーは、ライディングスタイルを変更しないと活躍出来ない傾向になっていた。
高騰し続ける参戦費用を抑えるため、2009年よりMotoGPの主催者であるDORNAやIRTAなどで構成されるグランプリ委員会によってレギュレーション改正が行われた。
タイヤサプライヤーを一社に限定し、2009年から2011年まで3年契約でブリヂストンが供給。第11戦チェコGP以降は使用できるエンジン数が最大5基までに制限された。また、ブレーキの材料として、セラミック複合材料によるディスクとパッドの使用は禁止となった。エンジンオイルは潤滑油としてのみ使用可能であり、油圧制御システムへの使用は禁止される。電子制御サスペンションの使用も禁止された。EGR(排気ガス再循環装置)の使用も禁止。さらにこの年からルーキーライダーはサテライトチームからしかエントリーできなくなった(スズキのみサテライトチームを持たない為このルールの適応外となっている)。
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エンジン個数は、年間シーズンを通して、各ライダーは最大6基のエンジンを使用できる。カーボン製フロントディスクブレーキの直径は最大320mmとなる。MMC(金属基複合材料)とFRM(繊維強化金属)の使用は禁止となる。タイヤ温度センサーの使用も禁止される。ホイールのリム幅も制限され、ホイール直径は16.5インチのみとなる。可変排気システムの使用も禁止。可変バルブタイミングシステムと可変バルブ開閉システムでは、電子制御と油圧制御を使用するシステムは禁止される。コンロッドは、中空構造は禁止だが、オイル循環用の穴は直径2mmまで許可される。ツインクラッチシステムの使用は禁止。トランスミッションは、オートマチックは禁止されるが、マニュアルでは若干のパワーアシストが許可される。無段変速トランスミッションの使用は禁止。GPSの搭載は、DORNAがテレビ放送などを目的としたもののみ許可され、マシンの電子制御系システムとして使用することはできない。ステアリングダンパーの電子制御は禁止。
2012年シーズンから最大排気量が再び変更され、1000ccに拡大となる。シリンダー数は4気筒以下、最大ボア径は81mmとなる。最低車両重量は1000ccの場合157kg、従来の800ccエンジンを使用する場合は150kgとなる。メーカーが運営するワークスチームと、メーカーからマシンの供給を許可されたサテライトチームが使用する非量産の「プロトタイプマシン」は、年間使用エンジン数は6基、燃料タンク容量は21Lに引き続き制限される。
「クレーミング・ルール・チーム(Claiming Rule Team)」(CRT)とは、主催者・参加者による委員会で認められたチームに適用されるレギュレーションで、減少傾向にあったMotoGPクラスへの参加を容易にする目的で2012年より採用される。CRTは、フレームビルダーの製作した車体に改造した量産車エンジンを搭載した「CRTマシン」での出場が許可される。
CRTはカテゴリの1つではなく、MotoGPクラスの車両レギュレーションの1つであり、15位以内に入るとMotoGPクラスのポイントを獲得する。そのためCRTマシンの順位を比較する場合は、「CRT勢トップ」のような表現を用いる。
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CRTはカテゴリの1つではなく、MotoGPクラスの車両レギュレーションの1つであり、15位以内に入るとMotoGPクラスのポイントを獲得する。そのためCRTマシンの順位を比較する場合は、「CRT勢トップ」のような表現を用いる。
プロトタイプマシンに対して出力の劣るCRTマシンは、年間エンジン使用制限数が12基に、燃料タンクの最大容量が24Lに緩和されている。また、改造費の抑制を目的としたエンジンの買取制度も規定され、プロトタイプマシンを製造しているメーカーが要望した場合は、CRTは使用したエンジンを2万ユーロで販売しなければならない。つまり、プロトタイプマシンのエンジンに対抗しようとして、多額の費用をかけて量産エンジンを改造したとしても、ワークスメーカーはCRTが使用したエンジンを2万ユーロで買い取ることが可能である。
スイスのフレームビルダーであるスッター・レーシング・テクノロジーが、BMW社製の量産エンジンを使用し、プライベーターへのマシン供給を計画している他、イギリスのFTRも同様にシャーシ供給(エンジンはチームにより異なる)やアプリリアが自社製プロトタイプフレームにRSV4のエンジンを搭載したマシン等が参加した。
CRTは2013年シーズンまで実施され、2014年からはルールを改めエンジン使用台数制限の緩和や燃料タンクの増量などが受けられる代わりに主催者指定のECUソフトウェアを使用する「オープンクラス」に移行したが、これも2015年をもって廃止された。
オープンクラスの廃止により、ECUはハード・ソフト共に共通化。年間使用エンジン数は7基だが2013年以降参戦のメーカーは条件付きで9基。最低車体重量は157kgとなり、燃料タンク容量は22リットルに統一。タイヤはミシュランとなりサイズが16.5インチから17インチに変更される。
2009年まで存在していた250ccクラスに替わり、2010年から新たにMoto2クラスが始まった。クラス初年度は当初旧250ccマシンとの混走を認める予定であったが、エントラントは全てMoto2規格のマシンでの参戦となった。
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2009年まで存在していた250ccクラスに替わり、2010年から新たにMoto2クラスが始まった。クラス初年度は当初旧250ccマシンとの混走を認める予定であったが、エントラントは全てMoto2規格のマシンでの参戦となった。
エンジンは3年ごとにプロポーザルが行われており、2010年の入札でヤマハに勝ったホンダが、4ストローク直列4気筒600ccエンジンを独占供給していた。市販車のCBR600RR用のものをベースにしており、出力は約140馬力。この頃にはエンジン、車両ともに性能が向上し、2ストローク500ccのエンジンの時代よりも速く周回できるようになった。2013年の入札でもホンダが勝利し、契約は2015年まで延長された。さらに2014年11月に2018年までの契約延長が発表されている。ホンダのエンジン供給は2018年で終了し、2019年からはトライアンフがエンジンを供給する。トライアンフは2017年10月に直列3気筒・765ccのMoto2用新エンジンを公開した。2019年からはECUもマニエッティ・マレリ製の共通ECUとなる。
エンジンメンテナンスはドルナが契約した外部コンサルタントに委託され、イコールコンディションに保たれたエンジンが各チームに供給されている。メンテ担当は2010年 - 2012年までが後藤治率いるGEO Technology、2013年 - 2018年まではエクステンプロが指名されている。
車両最低重量は135kg、ブレーキディスクは鉄製のみ認められる。タイヤはダンロップのワンメイク。シャシーについてはプロトタイプであることが条件で、クラス開始時にはスッター、モリワキ、ビモータ等多くのシャシービルダーが参戦している。2022年現在ではカレックス、ボスコスクロ、ガスガス、MVアグスタが参戦している。
開始初年度から40台という、3クラス中最も多いエントリーを集める盛況となった。またエンジンの統一により各車のタイムが拮抗し、第3戦フランスGPの予選ではトップから1秒以内に27人ものライダーがひしめき合う事態となった。決勝でもたびたび激しいバトルが展開されることとなり、2010年シーズンは9人もの勝者を生み出した。
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開始初年度から40台という、3クラス中最も多いエントリーを集める盛況となった。またエンジンの統一により各車のタイムが拮抗し、第3戦フランスGPの予選ではトップから1秒以内に27人ものライダーがひしめき合う事態となった。決勝でもたびたび激しいバトルが展開されることとなり、2010年シーズンは9人もの勝者を生み出した。
これまでの125ccクラスに代わり、2012年からはMoto3クラスが新設された。エンジンは単気筒250cc4ストロークのみ。最大ボア径は81mm、最大回転数は14,000rpmに制限される。エンジンサプライヤーは1基あたり12,000ユーロ以下での販売、要求があれば1シーズンあたり最低15人のライダーへの同一スペックのエンジン供給が義務付けられ、特定のライダーのみエンジン改良を施すといった行為は認められない。ライダー込みの最低制限重量は148kg。タイヤは2014年まではダンロップのワンメイク。パワーが小さいので、前の選手の真後ろを走りスリップストリームを利用するのが効果的とされ、数多くのマシンが僅差で競り合う展開になることが多い。 3クラスの中で年齢制限が最も厳しく、各シーズンの1月1日時点で新規参戦は16歳から25歳まで、継続参戦は28歳以下のライダーしかできない。
2012年現在はホンダがNSF250Rを発表しているほか、KTM、マヒンドラ、イオダが参戦。ホンダ、KTMはコンプリートマシン以外にエンジン単体の供給も行っており、オリジナルフレームにそれらのエンジンを搭載して参戦しているチームも多い。他にBeOnも参戦計画があるほか、モリワキエンジニアリングもワイン・ガードナーと共にニューマシンの開発を行う方針を明らかにしている。2021年現在では、ホンダはNSF250RWに発展し、KTMと激しい開発競争を繰り広げている。2017年までにマヒンドラとその別バッジネームであるプジョーが参戦している。オリジナルフレームによる参戦はなく、全てコンプリートマシンとなっている。
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2001年までの53年間、選手権の最高峰を担ってきたクラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量500cc以下のマシンで争われた。1966年から1972年にかけて、ジャコモ・アゴスティーニがMVアグスタを駆りクラス7連覇を達成している。また、1978年から1980年はケニー・ロバーツがヤマハで3連覇、1990年から1992年はウェイン・レイニーがヤマハで3連覇、1994年から1998年にはミック・ドゥーハンがホンダで5連覇を遂げた。
排気量は500ccながら130kgの車体に200馬力近い2ストロークエンジンを積むマシンはモンスターと呼ばれる一方、2ストロークゆえにタイムを縮めるにはごく狭いパワーバンドを維持しながら走行するテクニックが必要だったため素人では到底乗りこなせない車体だった。パワーが飛躍的に向上した1988年当時のホンダNSR500を初ライドした王者エディ・ローソンが「このバイクは俺を殺す気か!?」と言った。
現在のMotoGPマシンよりもタイヤや車体が劣っていた事もあり、パワースライドのバランスを取るために繊細なテクニックが必要とされ、90年代中頃のマイルドなエンジンになるまでは、ダートトラックでテクニックを磨く事が多いアメリカンライダーとオージーライダーが活躍していた。また、各サーキットも現在と比較すると路面の状態が良い状態ではなく、彼らにとって大きなアドバンテージとなっていた。
1989年までゼッケンは、黄色ベースに黒数字。
1982年までの34シーズン開催されたクラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量350cc以下のマシンで争われた。アゴスティーニがこのクラスでも7連覇(1968年 - 1974年)を果たしている。在日韓国人の片山敬済が1977年にタイトルを獲得している。
2009年までの61年間にわたり開催された、選手権で2番目に長い歴史を持つクラス。250cc以下のレース専用車両で競われた。最終的なレギュレーションでは最低重量は100kg。エンジンは2ストローク、4ストロークのどちらでも選べたが、末期は全てのチームが軽量・ハイパワーである2ストロークを採用していた。シリンダー数は2気筒以下。
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2009年までの61年間にわたり開催された、選手権で2番目に長い歴史を持つクラス。250cc以下のレース専用車両で競われた。最終的なレギュレーションでは最低重量は100kg。エンジンは2ストローク、4ストロークのどちらでも選べたが、末期は全てのチームが軽量・ハイパワーである2ストロークを採用していた。シリンダー数は2気筒以下。
市販レース車両(レース専用車)では、ホンダ・レーシング(HRC)からRS250R、ヤマハからTZ250等が販売され、プライベーターの参加が可能なカテゴリーであった。4ストローククラス移行の関係で、市販レース車両の開発は、一旦2003年をもってストップしたが、2007年型TZ250でごく僅かな改良が施された(一部パーツに変更有)。最終年度の参戦メーカーはアプリリア、ホンダ、ジレラ、ヤマハの4社だった。
日本人では原田哲也(1993年)、加藤大治郎(2001年)、青山博一(2009年)の3人がタイトルを獲得している。1990年代前半は岡田忠之、原田哲也、青木宣篤ら日本人トリオが活躍した。
1989年までゼッケンは、緑色ベースに白数字。
1949年の選手権開始以来、唯一2011年シーズンまで63年間開催され続けたクラス。125cc以下のレース専用車両で競われる。エンジンは2ストローク、4ストロークのどちらでも選べるが、全てのチームが軽量・ハイパワーな2ストロークを採用した。最低制限重量はライダー込みで136kg。 2010年当時、参戦メーカーはアプリリア、デルビ、ホンダ、ランブレッタ。
かつてはベテランの軽量級スペシャリストが多いクラスであったが、途中から厳しい年齢制限が課され、近年では若手の登竜門的なクラスに位置付けられていた。
免許制度の都合で125cc市販車に馴染みの深い南欧諸国出身のライダーが多く活躍した。日本人では坂田和人(1994年、1998年)、青木治親(1995年、1996年)がチャンピオンを獲得している。
1989年までゼッケンは、白色ベースに黒数字。
1962年から1983年の22シーズンにわたって開催された最少排気量クラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量50cc以下のマシンで争われた。
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免許制度の都合で125cc市販車に馴染みの深い南欧諸国出身のライダーが多く活躍した。日本人では坂田和人(1994年、1998年)、青木治親(1995年、1996年)がチャンピオンを獲得している。
1989年までゼッケンは、白色ベースに黒数字。
1962年から1983年の22シーズンにわたって開催された最少排気量クラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量50cc以下のマシンで争われた。
50ccクラスを引き継ぐ形で1984年から始まったクラス。1989年までの6シーズンと短命に終わった。4ストロークまたは2ストロークの排気量80cc以下のマシンで争われた。
1996年まで選手権の1クラスとして開催されていた。現在は独立した別の選手権としてヨーロッパで開催されている。
2023年シーズン終了時
2022年開幕戦カタールGP終了時
2022年開幕戦カタールGP終了時
2022年開幕戦カタールGP終了時
現在、地上波では日本テレビがMotoGPクラスを中心に録画放送を実施。CS放送ではスカパー!の日テレG+で全クラス予選・決勝レースの完全放送が行われており(基本は巨人戦生中継最優先の為、重ならない場合は生中継実施)、2016年度は巨人戦の生中継が重なった場合BSスカパー!で放送される。またBS放送ではBS日テレがMotoGPクラスを中心に録画放送(ただし、日本GPのみ生中継)。 2018年度からは定額制動画配信サービス、Huluでも予選・決勝レースを全戦ライブ配信されている。
なおHuluストア(課金配信)ではライブ配信のほかに見逃し配信の販売も行なっている。
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ロードレース世界選手権
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なおHuluストア(課金配信)ではライブ配信のほかに見逃し配信の販売も行なっている。
テレビ中継の無かった時代は、VIDEO VISON(英)が4〜6台のENGカメラで収録したものが主であった。イギリスのDuke Marketing Ltd.がヨーロッパでの発売・販売を行ってきた。 日本では初の廉価ビデオマガジン「バイカーズ・ビジュアル・エクスプレス」(制作:ダイエーSVラボ/1987年6月創刊)が世界GPを扱い出したことをきっかけとし、「パワースポーツ・ビデオ」(発売:大陸書房)や「マンスリーモーターサイクルビデオマガジン RIDE ON」(制作/発売禅プランニング)、「ライダーズビデオステーション・バーン」(発売:ジャパン・ネットワーキング)やビデオサービスフルカワからビデオマガジン形式でシリーズ戦が発売された。 1989年の日本国内で全戦がTXN系列で放映されると同時に、「バイカーズ・ビジュアル・エクスプレス」(制作:アートスタッフ/発売:世界文化社)が全戦をリリース。以降発売元は、1991年日本ビクター、1992年東芝EMI、1993年よりウィック・ビジュアル・ビューロウとなっている。 2000年からはエキスプレスが発売元となり、2004年からは公式DVDとしてウィック・ビジュアル・ビューロウがラウンド毎に発売している。
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Human68k
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Human68kとは、1986年にシャープが自社のパソコン、X68000用として、ハドソンと共同開発したオペレーティングシステムである。
MC68000を搭載した主に欧米圏のコンピュータは、主にビジネスユースに特化した当時の86系コンピュータと比較して一般的にグラフィック機能などの表現力に優れるものが多く、これらの68系CPUを搭載したコンピュータに搭載されるOS環境もまたそれらの性質を反映したグラフィカルなものやマルチタスクに対応した製品が登場したが、当時の水準ではきわめて強力な表現力を持つX68000の標準オペレーティングシステム環境であるHuman68kは、それらの先進的な環境とは対照的に、単にインターフェイスのルック・アンド・フィールのみならず、その構造までもがマイクロソフトのMS-DOSに酷似していた。
原始的なシングルタスクのオペレーティングシステムであるが、後にバックグラウンドプロセスとしてマルチスレッドがサポートされた。ただしバックグラウンドとされている通り、コンソールまでマルチスレッドではない。
標準のシェル環境として「コマンドシェル」が存在した。マウスを標準搭載していることもあり、グラフィカルなシェル環境として当初はビジュアルシェル、のちにSX-Windowが開発され付属したが、10 - 16MHz程度のMC68000には荷が重く、対応する市販アプリケーションもシャープ製品以外はほとんど現れず、普及することは無かった。また、UNIX風のシェルとして、Human68kを製作したハドソン社員の板垣史彦が、tcshをベースに「fish.x」(Fumihiko Itagaki Shellの略、Human68k ver2.0以降対応)をフリーソフトとして公開している。
X680x0シリーズ全機種に標準付属しており、独立パッケージも発売されていたが、市販アプリケーションの起動ディスクや雑誌の付録フロッピーディスクにもプリインストールされる等の扱いがなされており、X680x0シリーズ発売終了後の2000年に正式に無償公開された。
Ver.3.02が最終である。
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Human68k
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X680x0シリーズ全機種に標準付属しており、独立パッケージも発売されていたが、市販アプリケーションの起動ディスクや雑誌の付録フロッピーディスクにもプリインストールされる等の扱いがなされており、X680x0シリーズ発売終了後の2000年に正式に無償公開された。
Ver.3.02が最終である。
Human68kは、ストレージのファイルシステムにはMS-DOSのFAT12/16を応用し(但し完全な互換性は無い)、システムコールのファンクションナンバーも概ねMS-DOSに倣うなど、バイナリ・ソースとも互換性は無いものの、その構造は明らかにMS-DOSを模倣した構造であった。
また、システムの構成も、MS-DOSと酷似していた。MS-DOSのシステムファイルは入出力サブシステムIO.SYSとカーネルMSDOS.SYSで構成されるが、単一アーキテクチャをターゲットとしたHuman68kでは異なるアーキテクチャへの移植を全く考慮する必要が無かったため、また入出力サブシステムはそのほとんどがROMで搭載されたIOCSによってまかなわれていた事もあり、IO.SYSに相当するモジュールは存在しない(IOCSのバグをパッチしたり、アクセスの遅いROM上のIOCSをメモリ上にコピーして高速化したり、アルゴリズムを改善して処理を高速化するパッチなどが、デバイスドライバの形としては存在した)。
Human68kのコマンドインタプリタはCOMMAND.Xであり、MS-DOSのCOMMAND.COMに相当する。コマンドはMS-DOSよりも改善されていた。
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Human68k
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Human68kのコマンドインタプリタはCOMMAND.Xであり、MS-DOSのCOMMAND.COMに相当する。コマンドはMS-DOSよりも改善されていた。
MS-DOS環境では、このCOMMAND.COMを含め、実行バイナリのロード時にバイナリをリロケートする必要がない(これはセグメント+相対アドレスによって実メモリ空間にアクセスする86系のアドレッシングアーキテクチャに起因し、その64kB空間の壁が大きいデメリットだった16ビット(64kB)幅のセグメント内相対アドレス空間の制約とトレードオフの関係にあるメリットであった)が、COMMAND.Xを始めとするアプリケーションやコマンド等の非リロケータブルバイナリでは実行前にリロケート処理を行う必要があるため、特にチャイルドプロセスなどでこのCOMMAND.Xが頻繁にロードされる際のオーバーヘッドは無視できないものであった。このため、後にリロケータブルバイナリ化されたCOMMAND.Rがフリーソフトとして開発された他、実行ファイルのバインド機能が対応された際にはCOMMAND.Xが常駐部とインターフェース部に別れバインドされた物に替わり、チャイルドプロセスでの起動の場合は不要部をメモリ上にロードする必要がなくなる等といった対策が取られた。
デバイスドライバの組み込みにも、MS-DOSと同様にCONFIG.SYSファイルへの記述が必要であり、その書式もMS-DOSに倣う繁雑で難解なものであるが、後のバージョンではMS-DOSに実装された選択起動などの機能を独自に拡張して実装するなど、MS-DOSの進歩に合わせた拡張も行われた。
Human68k Ver.2.0から、擬似マルチタスクやシェアロックの機能を備えており、擬似マルチタスクを応用したコマンドの製作も可能であった。 バックグラウンドタスクとして、タイムシェアリングによるマルチスレッドに対応した。
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Human68k Ver.2.0から、擬似マルチタスクやシェアロックの機能を備えており、擬似マルチタスクを応用したコマンドの製作も可能であった。 バックグラウンドタスクとして、タイムシェアリングによるマルチスレッドに対応した。
実際のところHuman68kの擬似マルチタスク機能を用いて、コマンドシェルからマルチプロセスを起動させる応用はあまり報告されなかった。Human68k上でマルチタスクが広く使われるようになったのは、SX-Windowにおいてイベントドリブン式マルチタスクが採用されてからである。また SX-Window Ver.3.0 からコンソールウィンドウによるマルチコンソールに対応し、コンソールアプリケーションならば同時にコンソールウィンドウ毎に実行が可能になった。
MC68000 CPU の16MBリニアアドレッシングを活かし、X68000のメインメモリ空間である12MBまでのメモリを一括して管理する事ができた。(X68000では12MB以上の領域はメモリマップドI/OやVRAM等のシステム領域として確保されていたため、当然ユーザーエリアとして使用することはできない) 8086の64kBセグメントに由来する、640kBのメインメモリを可能な限り残すようにバンクメモリを駆使して、ドライバーなどを部分退避させるといったメモリの遣り繰りを強いられた86系MS-DOSパソコンと違い、増設した全てのメモリがプログラム実行もデータ保存も自由用途のエリアであった。
RAMディスクなどを確保した際にはユーザーエリアの使用領域がそのまま奪われるといったデメリットも存在したが、後に自由に使用メモリを確保開放させられるRAMディスクドライバーが登場したり、一時作業用に512kBのグラフィックRAMをRAMディスクにできる物も登場した。
X68000では先頭から8kB単位で2MBまでの領域は自由にスーパーバイザーエリアとして保護が可能なので、デバイスドライバ含むオペレーティングシステム領域をアプリケーションの暴走によるアクセスから保護する事ができた。
MS-DOSの標準拡張子と比較し、以下の点が異なる。
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Human68k
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X68000では先頭から8kB単位で2MBまでの領域は自由にスーパーバイザーエリアとして保護が可能なので、デバイスドライバ含むオペレーティングシステム領域をアプリケーションの暴走によるアクセスから保護する事ができた。
MS-DOSの標準拡張子と比較し、以下の点が異なる。
MS-DOSのFAT 12/16ファイルシステムを元に独自拡張したもので、ファイル名に小文字も使用可能(Microsoft WindowsのVFATと互換性はない)。FATでは未使用の部分を使ってファイル名の長さを18文字+拡張子3文字の計21文字までユーザーによって拡張している。MS-DOSと違ってFATを二重に記録していない(第2FATの領域自体は確保されている)。
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大洋
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大洋(たいよう、英: ocean)または大海洋(だいかいよう)・独立海(どくりつかい)は、水圏の大部分を占める、それぞれが接続した地球上の海の主要領域。一般には北極海・太平洋・大西洋・インド洋・南極海の5つに区分される。これらの大洋はそれぞれ固有の海流を持ち、また潮汐を発生させる元ともなる。大洋以外の海は副洋 (独: Nebenmeere) または附属海と呼ばれ、地中海のように大陸の間にある狭い面積の海や紅海のような大陸内部に存在する海、また日本海のように大陸の沿うものまたは北海のような大陸から直角に伸びる海などが当たる。
英語 ocean の語源はギリシア語の Ὠκεανὸς, "okeanos" オーケアノスである。
全大洋面積の過半が深さ4267m程の水深にある。大洋の平均塩分濃度は3.5%程度であり、ほとんどの水域で3.0-3.8%の範囲に入る。科学者による推計では、23万の海洋種が知られており、さらにその10倍の種が存在する可能性がある。
大洋は生物圏に重要な役割を果たす。大洋の蒸発は水循環においてほとんどの降雨の元であり、大洋の温度は気候や風を決定付け、陸地の生物へ影響を与える。
一般に複数の大洋が認識されているが、それらの水域は地球規模で見ればひとつの、繋がった海水域であり、時に「世界海洋」 (World Ocean) または「球海洋・球海」 (global ocean) とも呼ばれる。このような、一部を交換する事が比較的自由に行われるような状態にある連続した水体という概念は、海洋学において重要かつ基本的な概念である。
一般的な大洋の区分は、以下のように大陸や様々な列島などの基準を以って仕切られている。(面積順)
太平洋と大西洋は赤道を境界に南北で区切られる場合もある。狭い領域は、海、入り江、湾、海峡などの呼称が用いられる。
地質学的には、大洋は海水で覆われた狭義の海洋性地殻(海底地殻、海洋地殻)域と言うことができる。海洋性地殻とは、中央海嶺で生成される厚さ約6kmの主に玄武岩質のプレートであり、平均厚さ40kmの花崗岩質である大陸性地殻(英語版)よりも密度が高い。
北極海は北極のほとんどを覆い、北アメリカとユーラシア沿岸で仕切られるが、大西洋の一部または三角江と取る場合もある。
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大洋
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地質学的には、大洋は海水で覆われた狭義の海洋性地殻(海底地殻、海洋地殻)域と言うことができる。海洋性地殻とは、中央海嶺で生成される厚さ約6kmの主に玄武岩質のプレートであり、平均厚さ40kmの花崗岩質である大陸性地殻(英語版)よりも密度が高い。
北極海は北極のほとんどを覆い、北アメリカとユーラシア沿岸で仕切られるが、大西洋の一部または三角江と取る場合もある。
国際水路機関 (IHO) 『Limits of Oceans and Seas』第3版(1953年)の定義は以下の通りである。
国際水路機関 (IHO) の定義は以下の通りである。
国際水路機関 (IHO) の定義は以下の通りである。
2000年、IHOは大西洋の南限を南緯60度線とし、これより南の海域を南極海とする大洋の再定義を行った。ただしこの新定義はオーストラリアの留保提言などにより、未だ批准されていない。
国際水路機関 (IHO) の定義は以下の通りである。
インド洋についても、IHOは2000年にその南限を南緯60度線とし、これより南の海域を南極海とする大洋の再定義を行った。しかしこれも批准には至っていない。
国際水路機関 (IHO) の定義は以下の通りである。
国際水路機関 (IHO) の定義は以下の通りである。
南太平洋についても、IHOは2000年にその南限を南緯60度線とし、これより南の海域を南極海とする大洋の再定義を行った。しかしこれも批准には至っていない。
南極海は南極大陸を取り囲む水域であり、それは太平洋・大西洋およびインド洋を拡張させた領域と受け取られる場合もある。1937年のIHO『Limits of Oceans and Seas』第2版では「南極大陸周囲の海域」と定義されていたが、1953年の第3版では「(南極海の)北限は季節的な影響もあり、境界を設定しがたい」と述べられて定義の一覧から外され、代わりに南太平洋・南大西洋・インド洋の南限を南極大陸まで広げた。
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大洋
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2000年にIHOはこの問題に関し、海洋調査の結果について聞き取りを行った。これに対し、加盟68か国中28か国から回答があり、海流を重視する海洋学者の意見が反映され、アルゼンチン以外は新しい大洋の定義設定に合意した。名称の選出では、「Southern Ocean」(南氷洋・南大洋)が18票を得て、「Antarctic Ocean」(南極海)を上回った。境界線については、投票の結果陸地で分断されない南緯60度線に半分が賛同し、他の14票のうち南緯50度線が次点、最も北側に設定された南緯35度線も若干の賛同を得た。しかし、『Limits of Oceans and Seas』第4版はオーストラリアが批准を拒否し、公表は見合わされた。このような経緯に関わらず、事実上第4版の結論は多くの組織、学者らや国家に加えIHOさえ用いている。
しかし、国によっては独自の南氷洋の定義を用いている。例えばイギリスは南緯55度線を採用している。オーストラリアの地図製作当局は、南氷洋に自国とニュージーランド南岸までを含む解釈を施している。だがニュージーランドはこの解釈に賛同していない。
大洋は、物理学的および生物学的な諸条件に応じて区分される。大洋のすべての部分である漂泳区分帯 (pelagic zone) は、水深や光の到達度合いによって分割される。有光層 (Photic zone) または表層とは生物が太陽光を感知できる限界までの層を指し、深度100-200mまでの層を指す。ただし、水深100-200mの部分は薄光層 (Dysphotic/Disphotic zone) とも呼ばれ、到達する太陽光は5%未満に過ぎず充分な光合成が難しい。ここよりも深い水深200m以上の無光層 (Aphotic zone) 部分では一部の例外を除き光合成生物が生存できない。
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大洋
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遠洋の有光層は表海水層 (epipelagic) とも呼ばれ、無光層は垂直方向に複数の層へ区分される。中深層(英語版) (mesopelagic) はその中でも上部に位置する領域で、水深1000mまでが該当する。次の漸深層 (bathypelagic) は、水深2000-3000m程度までに当たる。深海平原の上部から水深約6000m前後までは深海層 (abyssalpelagic) と呼ばれる。その下は海溝を含む最も深い領域である超深海層 (hadalpelagic) がある
漂泳区分帯は、無光層部分の水体の底辺(英語版)形状によっても区分される。これは、深海の3つの形状に対応する。漸深層 (bathyal zone) は大陸棚が4000mまで落ち込んでゆく領域を示し、深海域 (abyssal zone) は海底が4000-6000m、超深海帯 (Hadal zone) は超深海帯に対応する最下層に当たる。
漂泳区分帯はまた、沿岸地帯(英語版) (neritic zone) と海洋地帯(英語版) (oceanic zone) の2つにも分けることができる。沿岸地帯は大陸棚部分の水域に対応し、海洋地帯は開水面全域を指す。また、沿岸帯 (littoral zone) と潮間帯 (intertidal zone) という区分もある。前者は満潮と干潮の間に位置し、海と陸の境界に当たる部分である。後者は潮位が領域に影響を与える部分である。
世界海洋の面積は361億平方キロメートル(1億3900万平方マイル)である。体積は13億立方キロメートル(3億1000万立方マイル)であり、立方体に換算すると一辺は1111kmとなる。平均深度は3790メートル(12430フィート)、最大深度は10923m(6787マイル)である。世界海洋面積の半分以上は3000mを超える深さである。水深200mを上回る広大な水域は地球表面の66%を占める。これらの数字は、カスピ海など外洋と接続していない海は含まれない。
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大洋
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大洋の蒼みがかった色は、複数の要因が絡み合い作られている。特に影響を与えるものは、溶融した有機物とクロロフィルである。しかし、沿岸の海域で見られる土砂の色(黄海)、藻類の色(紅海)または植物性プランクトンの黄色が混ざり見られる碧色にはあまりならない。黒潮は見た目の色から名づけられたものだが、この海流は含有物質が少なく透明度が高いため、波長が短い青色を比較的吸収せず、青黒く見える事を由来とする。
大洋の海底は海嶺で生じ、接続する2つのプレートとなる(海洋底拡大説)。これは双方向に移動し、沈み込み帯で他の海洋または大陸プレートとぶつかり、その下へもぐりこむ。海嶺は、大西洋やインド洋においては大洋の中央部に位置し、それぞれ大西洋中央海嶺、中央インド洋海嶺と呼ばれる。太平洋のプレートはアメリカ沖の東太平洋海膨で形成される。
海洋性地殻は、生じた海嶺からゆっくり移動する。大西洋では年間約4cmの速度で東西に拡大し、太平洋プレートは大西洋の2倍程度の速度で移動する。この地殻部分は海盆または深海底・海底平原と呼ばれる。この地殻に含まれる鉄などの強磁性体は、地磁気の方向に配列されて固まる(残留磁気)。しかし地球磁場は地磁気逆転を起こすなど一定していないため、残留磁気は海嶺を中心に左右対称の縞模様として現れる。この変化から、過去の地球磁場がどのように変化したかを知ることができる。
海洋性地殻が他の地殻と衝突する際には、一方が地球内部に沈み込んで、海盆から約2kmほど深い非対称V字形状の海溝を作る場合がある。地球に存在する海溝27ヵ所のうち22ヵ所は太平洋に存在し、東側の海溝は特に深い。海洋性地殻の沈み込む部分は、太平洋西部の日本列島のように島弧を作る場合と、東部チリ側のように作らない場合がある。
陸地に近い部分は堆積物がたまり、海底には傾斜ができる。コンチネンタルライズ(英語版)は海盆から傾斜が始まる部分であり、陸地起源の堆積物が到達する端に当たる。しかし陸地側に海溝がある所では形成されない。深度3300-1500mあたりからは大陸斜面が続き、泥や砂および砂利や岩などに加えて貝殻も5%程度混ざる堆積物が積みあがりながら深度約180m程度まで急な傾斜が続く。この先には、陸地まで続く大陸棚がある。
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大洋
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これらに比べ、海盆の堆積物は陸地由来の物質は少なく、主に微生物由来の軟泥である。大洋の表層部分は栄養素が豊富にあり、発生した微生物が死滅するとゆるやかに沈殿してゆき深層部分にたまる。ただし堆積する物質は主に骨格や石灰質である。この他にも、気流に乗り到達した細かな鉱物粒子や、噴火で巻き上げられた火山灰、海底火山の噴出物や宇宙塵なども含まれる。これらは遠洋性堆積物と呼ばれる。
大洋地形の中には、海底からそびえる山や丘もある。この典型的な例が太平洋のハワイ諸島と天皇海山群(ハワイ‐天皇海山列)である。ハワイ諸島東端のハワイ島は活火山のマウナ・ロア山・キラウエア火山を持つ火山島である。この地下には、マントル層からマグマが湧き上がるホットスポットがあり、海洋性地殻上まで噴きあがり火山島を形成する。しかし太平洋プレートは西へ移動しているため、火山島はホットスポットからずれて火山活動による島形成がやがて止む。その後、侵食作用と海洋性地殻の沈み込みから島の標高は徐々に低くなり、やがて海面に没して海山となる。ハワイ‐天皇海山列は、同じホットスポットから形成された海底火山が雄略海山を境に列の方向を変えており、約4300万年前に太平洋プレートの移動方向に変化が起こった事を示している。
この火山島が侵食を受ける過程で、熱帯において島の周辺で形成されたサンゴ礁が充分に発達すれば、島が水没した後もサンゴ礁による環礁が海面上に残る。
海流を起こす力には、風または海水の密度および高低差等があり、陸地や海底の形状または水深の影響を受ける。大洋のような深い海では、これら海流を起こす作用に地球の自転から生じるコリオリの力が大きく影響し、その方向が曲げられる。恒常的に吹く風が大洋表面の水を風向きと同方向に動かそうとすると、そこにコリオリの力が加わって北半球では右に、南半球では左に振られる。この表面流の動きは直下の水も動かそうとするが、これにもコリオリの力が影響して更に振られてゆく。これが力を弱めながら深い水深まで段階的に積み重なり、海水全体では表面流以上の角度を持つ方向に流れる。沿岸など浅い海ではその角度は15度程度にとどまるが、深い海では45-90度にまで及ぶ。これはエクマン輸送と呼ばれる。
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大洋
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北半球の場合エクマン輸送によって、西風の偏西風は南向きに、東風の貿易風は北向きにそれぞれ海水を動かす。そしてこの間に水が集まり、海面が盛り上がる。すると今度は高い所から低い方への流れが生じるが、ここにもエクマン輸送の影響が及び方向が曲げられる。この結果、偏西風と貿易風の間には海面が高い場所が生じ、これを周回するように海流が生じる。この結果、北太平洋では日本列島南海上の水面が最も高くなり、逆に最も低くなるカムチャツカ半島沖とはジオイドからの高低差が1m以上になる。北大西洋ではフロリダ半島東沖合が最も高くなる。
赤道上に吹く貿易風による大洋への影響は、エクマン輸送によって南北半球で相反する作用を大洋に与える。すなわち、北半球では北に、南半球では南に海水を動かす。これは海面の水を排斥する動きであり、それを埋めるべく下層の比較的冷たい海水が上昇する。太平洋東部で顕著なこの現象は赤道湧昇と呼ばれ、結果的に赤道部分の大洋表面温度が相対的に低くなる。貿易風が弱くなることが数年に一度あり、この低温域に太平洋東部の暖かい海水が移動する現象がエルニーニョ・南方振動を起こし、地球の各所に異常気象をもたらす。
深海の水温は熱帯地方でも2°C前後と低い。その理由は太陽光が届かず温められないためと考えがちだが、これは誤りである。深海の海水は、両極に近い箇所で冷やされて沈み込み、それが大洋を地球規模の広さで流れることによって供給されている。これを海洋大循環または熱塩循環という。
大洋大循環のモデルは、グリーンランド沖で冷却され、塩分濃度が増し密度を高めた海水が一気に水深約2500mまで沈下することで始まり、大西洋底を南下して南極のウェッデル海まで流れ、そこで同じように冷やされ沈み込んだ海水と合流する。この冷たい水は南極大陸を東向きに周回しながら、インド洋や太平洋の深海に向けた支流を作る。これら支流はそれぞれの大洋で表層に湧きあがり、温められると南下して再び南へ向かう。そして南氷洋外周を通って大西洋表層を北上し、グリーンランド沖へ戻る。この循環は1000-1500年をかけてゆっくり一巡すると考えられている。
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北大西洋を南西から北東へ流れるメキシコ湾流(ガルフストリーム)は、西ヨーロッパを温暖な気候に保つ働きを担う。この海流は熱帯・亜熱帯気候で温められたフロリダ半島付近の海水を、遥か遠くのブリテン島沖まで運ぶ。これにより周辺の陸地は温暖になり、例えば北緯45度の稚内は年間平均気温が6.6°Cにとどまるのに対し、北緯51度に位置するロンドンの平均気温は10.0°Cにもなる。
海岸線で昼と夜にそれぞれ吹く海風と陸風のメカニズムと同じ現象が、大洋と大陸の間で大規模に発生してアジアのモンスーンとなる。夏の6-8月はインド亜大陸が相対的に暖かくなって上昇気流を生み、この地域の気圧は低くなる。すると低温のインド洋が高気圧状態になり、そこから南風が流れ込む。この風向きはコリオリの力の影響を受けて北東方向に振られ、中国大陸や日本列島まで吹きつけ、日本に梅雨を発生させる。12-2月にはこの関係が逆になり、大陸性高気圧が優勢となり北東から南西へ風が流れる。
発生から30億年間にわたり、生命は大洋中で進化を果たした。深度と海岸からの距離は、その生活圏ごとに植物や動物の多くの種が形成されることに影響した。大洋ではそれぞれの深さにおいて多様な生物が生息するが、水深5400m以上の深海ではその数は少なくなる。
また特に大洋の表層は、食物連鎖における生食連鎖(生きた生物を直接食べる連鎖)が成立している場所である。陸上や河口また沿岸などでは、植物や藻など光合成生物がその死後に食べられる腐食連鎖の比率が高いが、大洋表層部では植物プランクトンに始まる食物連鎖が、それぞれ上位階層生物に生きたまま捕食される体系が成り立つ。植物プランクトンは主に動物プランクトンに食われ、それを主に小型の魚やイカ類が食べる。そして、これらの生物がマグロ・カジキ・サメなど大型の肉食生物の食物となる。そして、それぞれの個体は連鎖の低位になるほど個体数が多く、典型的なピラミッド構造をつくる。
19世紀前半の海洋生物学者エドワード・フォーブスは、約540m以上の深海で生物は生息できないと考えた。しかしその後、もっと深い水域にも多くの生物が棲んでいることがわかった。水深6000mよりも深い超深海層においても、深海魚のシンカイヨロイダラやクサウオ科の一種、またヨミノアシロなどが確認された。
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19世紀前半の海洋生物学者エドワード・フォーブスは、約540m以上の深海で生物は生息できないと考えた。しかしその後、もっと深い水域にも多くの生物が棲んでいることがわかった。水深6000mよりも深い超深海層においても、深海魚のシンカイヨロイダラやクサウオ科の一種、またヨミノアシロなどが確認された。
深海底の熱水噴出孔も生物が棲む特徴的な場所である。光合成生物が生きられないこのような場所では、噴出する熱水に含まれる硫化水素をエネルギー源とするバクテリアを食べるエビ・カニやフジツボ、チューブワーム、イソギンチャクや貝類などが密集状態で生息している。
先史時代には人類は大洋に漕ぎ出していた。アフリカを起点とする人類の大移動は、ポリネシア人による粗末なカヌー等を用いた太平洋諸島やニュージーランドまで達していた。世界を包括する地理観を確立した古代ギリシアでは、地球は平面で、彼らが認識可能なヨーロッパ・西アジア・北アフリカの3大陸と地中海が世界であり、その外側はオケアノスという境界不明な塩水の大河で取り囲まれていると考えていた。ただし地球を球体と考える学者たちも存在し、プトレマイオスは天文学書『アルマゲスト』に緯度と経度が表記された曲面の地図を作成した。この地図の中では、インド洋は内海として書かれている。
中世までに、航海術の発展に伴う海上交易が行われるようになり、その主役はアラビア人たちが担った。また、陸路元へ到達したマルコ・ポーロの帰路や明の鄭和も大航海を行ったが、これらは沿岸部に沿うものだった。大航海時代初期にエンリケ航海王子が指導したアフリカ航路と、バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見しインド洋が外洋であることを知らしめた航海も、この例に漏れなかった。
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中世までに、航海術の発展に伴う海上交易が行われるようになり、その主役はアラビア人たちが担った。また、陸路元へ到達したマルコ・ポーロの帰路や明の鄭和も大航海を行ったが、これらは沿岸部に沿うものだった。大航海時代初期にエンリケ航海王子が指導したアフリカ航路と、バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見しインド洋が外洋であることを知らしめた航海も、この例に漏れなかった。
1492年に出発したクリストファー・コロンブスの航海と同様に、ヨーロッパから西へ漕ぎ出そうという試みは以前からあった。しかしそれらはヴァイキング遠征の一環であったり、伝説の地を目指すなどあやふやなもので、偏西風やガルフストリームにことごとく阻まれていた。コロンブスが画期的だった点は、結果的に小さく見積もっていたが地球の大きさを推測し、またジパングという明確な目標を定める高い計画性に裏打ちされた点である。彼は大西洋を真西に進むため、いったんカナリア諸島まで南下する航路を取り、結果的に貿易風に乗ったことで大西洋横断に成功した。以後、16世紀前半にはフェルディナンド・マゼラン一行が世界一周を果たし、人類が大洋を盛んに渡る時代が到来した。
コロンブスは大西洋を横断中に海洋生物の採集、海流や気候の記録等を残し、サルガッソ海も発見した。マゼランは太平洋の水深調査を何度も行ったが、彼が用いた綱の長さは360mでしかなかった。
18世紀には、航海に必要な系統立った海洋研究が行われた。ベンジャミン・フランクリンは北大西洋の海水温度測定を行い、ガルフストリームの詳細を明らかにした。南氷洋を航海し、ハワイ諸島を発見したジェームズ・クック(キャプテン・クック)も水温測定や1200mまでの水深調査を行った。彼はまた、航海に博物学者や天文学者らを同行させる端緒を開いた。19世紀に入るとスコットランドのジョン・ロス、ロシアのベリングスハウゼン、イギリスのジョージ・パウエルやジェイムス・ウェッデルそしてジェイムズ・クラーク・ロスらが水深や水温の調査を重ねた。エドワード・フォーブスは海洋生物学に大きな足跡を残した。近代的な海洋物理学はアメリカの海軍大尉マシュー・フォンテーン・モーリーに始まる。
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大洋
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本格的な海洋調査の嚆矢は、1872 - 1876年に行われたイギリスのチャレンジャー号による探検と言われる。362か所にわたる地球規模の水深測定や海流・生物等の調査は50巻の膨大な報告書に纏められ出版された。その後、ドイツ・スウェーデン・デンマーク・ソビエト連邦などの探検船が様々な調査を行った。1892年頃からは国際的な協力体制による調査も始まり、1902年には国際海洋探求会議(英語版) (ICES) が設立され、各方面の調査研究が行われた。
20世紀初頭、ドイツのアルフレート・ヴェーゲナーが提唱した大陸移動説はあまりに先駆的過ぎ、移動を起こす動力の説明ができなかったため賛同を得られなかった。しかし、アメリカが第二次世界大戦中から継続した、音波による海底地形の調査から、大西洋の中心に大規模な海底山脈(大西洋中央海嶺)が発見された。この地質構造を調査したモーリス・ユーイングらによって、海嶺を挟んだ対称構造と、離れるほどに堆積物が厚くなる様子が明らかになった。1960年代には、中央海嶺が火山の連なりと判明し、ハリー・ハモンド・ヘスとロバート・シンクレア・ディーツによって海洋底拡大説が提唱された。この証明を目指し立案されたモホール計画は深海掘削計画へ発展し、海洋底の拡大が確認された。海洋底調査はさらに国際深海掘削計画の段階へ進み、海洋性地殻の分布を地球規模で解き明かし、また残留磁場の縞模様から地殻が拡大した経過も知らしめた。これらの結果を踏まえ、海洋底拡大説はプレートテクトニクスへと発展した。
大洋の海底は学術的研究対象だけでなく、鉱物資源の供給元としても期待されている。大西洋と太平洋の海底にはマンガン団塊と呼ばれるマンガン・ニッケル・銅・コバルトなどの金属を含む塊が非常に広く転がっている。これがどのように形成されたのかはわかっていないが、経済的に見合う手段で引き上げることが出来れば、有効な資源となる。その他にも、燐灰石・グロビゲリナ軟泥(有孔虫軟泥等)・珪藻軟泥・赤粘土などの深海底資源が期待される。
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12月9日
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12月9日(じゅうにがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から343日目(閏年では344日目)にあたり、年末まであと22日ある。
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主記憶装置
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主記憶装置(しゅきおくそうち)は、記憶装置の分類で、「補助記憶装置」が一般に外部バスなど比較的CPUから離れていて大容量だが遅い記憶装置を指すのに対し、コンピュータのメインバスなどに直接接続されている記憶装置で、レイテンシやスループットは速いが比較すると小容量である。特に、CPUが入出力命令によって外部のインタフェースを操作するのではなく、「ロード・ストア命令」や、さらには通常の加算などの命令において直接読み書きできる対象であるものを指す。メインメモリ、一次記憶装置とも。
コンピュータの初期の頃は、水銀遅延線、ブラウン管記憶装置(ウィリアムス管)(1950年代)、磁気ドラムメモリ、あるいは磁気コアメモリ(1960年代)等を利用していたが、現在は一般的に半導体メモリを利用している。
磁気コアメモリを使った主記憶装置は、電源の供給がなくなっても内容を保持できていたが、半導体メモリを使ったRAMは、ハードディスクドライブなどの補助記憶装置と比較すると高速であるものの、記憶容量が限られており、また、電源の供給がなくなると内容が消えてしまうという特徴がある。そのため、補助記憶装置に内容を退避し、必要なときに再度読み込んで利用する形を取る。
RAMには、一定時間経つとデータが消失してしまうダイナミックRAM(DRAM)と、電気を供給している限り内容を保持しているスタティックRAM(SRAM)の2種類がある。SRAMはDRAMより高速なアクセスが可能であるが、構造上、DRAMの方が集積度を高められるため、現在の多くのコンピュータにはDRAMを主記憶装置として利用している。
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主記憶装置
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RAMには、一定時間経つとデータが消失してしまうダイナミックRAM(DRAM)と、電気を供給している限り内容を保持しているスタティックRAM(SRAM)の2種類がある。SRAMはDRAMより高速なアクセスが可能であるが、構造上、DRAMの方が集積度を高められるため、現在の多くのコンピュータにはDRAMを主記憶装置として利用している。
最近のプロセッサ(以下、特にCPUについて記述)は、CPU自体の処理速度が極めて高速化しているにもかかわらず、主記憶装置を構成するDRAMのアクセス速度の向上が追いつかないため、主記憶装置とCPUとの処理速度のアンバランスが生じている(ノイマンズ・ボトルネック参照)。そのために、両者のギャップを埋め、より高速にデータを得るため、DRAMで構成された主記憶装置へのアクセスを直接行わず、高速動作が可能なSRAMで構成されたキャッシュメモリを経由してアクセスすることが多い。「Pentium 4」や「Athlon」など、おおよそ2000年以降に出回ったCPUでは、2段階及びそれ以上の段階のキャッシュメモリを経由して主記憶装置へアクセスする構造となっている。
なお、UNIXでプログラムが異常終了したときの動作を「コアダンプ」というが、これは、主記憶装置が磁気コアメモリを利用していた時代(1960年代)の名残である。
また、パーソナルコンピュータの時代の初期(1980年代)では、8ビット、16ビットCPUを使っていたが、CPUのアドレス空間が不足したため、バンク切り換え、EMSなどの手法により、実際のCPUのアドレス空間より広い主記憶装置を利用可能にしていた。32ビットCPUになってからは、アドレス範囲が4Gバイトあったため、主記憶切り替え機能は一旦廃れたが、さらなるメモリの需要に伴い、仮想記憶機能と連動して、一部の32ビットCPUでは、32ビットのアドレス範囲以上のメモリをアクセスできるような機能が提供されている。
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主記憶装置
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現代的な多くのコンピュータシステムでは、オペレーティングシステムとメモリ管理ハードウェアの連携により、プロセスごとに保護された主記憶装置のメモリ空間を仮想的に割り当てる、仮想記憶を採用している。そのため、主記憶装置の空間を一定の単位に区切って管理しつつ利用するメモリ管理機能が利用されている。その方法には、セグメント方式やページング方式がある。
本来の主記憶装置の容量で足りない時は外部の容量を主記憶装置代わりとすることもある。これは仮想メモリとも言われる。
サーバやパーソナルコンピュータのハードウェアで、故障が最も発生し易いものの一つが主記憶装置である。従ってWindows 10などのOSでは「Windowsメモリ診断」ツールが利用できる。主記憶装置が故障すると以下のような事象が発生する。
PCに複数の主記憶装置を装填している場合、1つでも故障した主記憶装置があると他の主記憶装置が正常でも上記のような不具合が発生する。主記憶装置を1つ1つ抜いてどの主記憶装置が故障しているかを特定する必要がある。
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Mozilla Foundation
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Mozilla Foundation(モジラ・ファウンデーション)は、オープンソースのMozillaプロジェクトを支援するために設立された非営利団体である。略称はMoFoあるいはMFである。開発方針の決定、インフラの整備、商標や知的財産権の管理を行なっている。また、Mozilla FirefoxやMozilla Thunderbirdのリリースを行なうためのMozilla Corporation(以降「コーポレーション」)を子会社としている。所在地はアメリカ合衆国カリフォルニア州マウンテンビューである。
1998年2月23日、NetscapeによってMozilla Application Suiteの開発への協力を目的としたMozilla Organization(以降「オーガニゼーション」)が設立された。オーガニゼーションはNetscape社員の大部分から成るが、Netscapeからは独立して運営されることが原則とされた。オーガニゼーションは「Mozillaはテスト目的のものでありエンドユーザーが利用するものではない」と主張していた。これがBeonex Communicator(ベオネックス・コミュニケーター)と呼ばれるブラウザの開発のきっかけとなった。Beonex Communicatorはオーガニゼーションがプロジェクトを進めていた間、Mozillaの「エンドユーザー版」としてリリースしていた。しかし、大多数のエンドユーザーは「正式な」Mozillaのビルドをダウンロードしていた。
Netscapeの親会社であるAOLによるオーガニゼーションとの関係の劇的な縮小に伴い、2003年7月15日、Mozilla Foundationが設立された。これによりMozillaはNetscapeとの関係を完全に切ることと成った。AOLはファウンデーションの設立に際し、ハードウェアや知的財産権を委譲し、移行の手伝いのために3か月間、3人のチームを雇った。またAOLは2年間にわたり200万ドルの寄付を約束した。
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Mozilla Foundation
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2005年8月3日、ファウンデーションは完全子会社であるMozilla Corporationを設立した。コーポレーションは主にFirefox、Thunderbirdのリリース計画、マーケティングおよび関連活動について責任を負うこととなった。さらに企業とも関係をもち、大きな収益を上げるようになった。コーポレーションは課税対象の法人であり、ファウンデーションとは異なり収益や企業活動の面で大きな自由度を持っている。
当初、ファウンデーションが他者へ支払う金額はオーガニゼーションの頃と比較して非常に大きくなった。これはオーガニゼーションが伝統的にNetscapeや他のMozillaの技術のベンダーに残してきた業務によるものである。対象を開発者からエンドユーザーへ移すことの一部として、ファウンデーションは広告会社と契約を結んでMozillaのソフトウェアを同梱したCDの販売や電話サポートを開始した。いずれもNetscapeと同じ業者を選択した。またファウンデーションは「Mozilla」の商標やロゴの使用に関する方針のもと、自社の知的財産権に対する主張をより強めるようになった。さらにマーケティングのような新しいプロジェクトも開始した。
コーポレーションの設立によって、ファウンデーションは開発や商業関係の活動の全てを子会社であるコーポレーションに委任した。そしてファウンデーションは「製品化されていない」CaminoやSeaMonkeyなどのプロジェクトの管理を継続し、単独でのプロジェクト管理と方針整備に注力することとなった。ファウンデーションはMozillaの商標と知的財産権を所有しており、これらをコーポレーションにライセンスしている。またMozillaのソースコードリポジトリも管理しており、チェックイン権限の付与も行なっている。
ファウンデーションは資金源として寄付を受け付けている。設立時にAOLから200万ドル、ミッチ・ケイパーから30万ドルの寄付を受けている。ファウンデーションはアメリカ合衆国国税収入局規約501(c)3によって連邦所得税の免除を受けているが、子会社であるコーポレーションは課税対象である。
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Mozilla Foundation
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ファウンデーションは資金源として寄付を受け付けている。設立時にAOLから200万ドル、ミッチ・ケイパーから30万ドルの寄付を受けている。ファウンデーションはアメリカ合衆国国税収入局規約501(c)3によって連邦所得税の免除を受けているが、子会社であるコーポレーションは課税対象である。
ファウンデーションはGoogleと契約を結び、Googleでの検索をMozilla Firefoxの検索エンジンの既定の設定としている。また、Firefoxの既定のホームページはGoogleの検索サイトである。これらによる収益の総額は公式には公開されていない。
ファウンデーションの理事会は次の7人から成る。
当初はクリストファー・ブリザードが理事を務めていたが、彼がコーポレーションの設立に伴いコーポレーションの理事会へ異動となったため、それ以降は伊藤穰一が理事を務めている。ボブ・リスボンとカール・マラムードは2006年10月に理事に選任された。
ファウンデーションには有給のスタッフがおり、プロジェクトや方針に関する問題に対処している。
コーポレーションにも多数の職員がいるが、コーポレーション設立以前にはファウンデーションで働いていたものが多い。
伝統的にMozillaプロジェクトはmozilla.orgと呼ばれるコミュニティによって運営されてきたが、コミュニティのメンバーの中にはファウンデーションやコーポレーションの理事や職員となったものが多い。
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FM-X
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FM-X は富士通から発売されていたMSX。1983年発売。富士通製としては唯一のMSXである。
カートリッジスロット1つと16KiBytesのRAMを備えた、当時の廉価なMSXとしては標準的な仕様を持つ。
他に独自の拡張スロットにFM-7インターフェースを実装し、同社のパソコンFM-7と接続し協調動作を行えるのが特徴。FM-7との接続により、双方で以下の機能が使用できる。
FM-7との協調動作のために、MSX仕様機では唯一、FMシリーズ用と同じ8色しか表示できないデジタル方式のRGB映像出力 を備えている。FMシリーズと共通のディスプレイを利用できた半面、RGB出力ではMSXの本来の色表現である16色の表示が出来なかった。
ただし、MSX規格では「映像はRF・ビデオ・アナログRGBのいずれかの出力方式で表示できれば良い」とされており、本機はRF出力もあったため、この点では仕様に準拠している。また規格で定められていないハードウェア拡張に関しても制限は無く、デジタルRGB端子の存在は規格に違反していない。
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Subsets and Splits
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