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PostgreSQL
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PostgreSQL 9.5 より、データの新規挿入または更新を行う「UPSERT」機能が実装された。「UPSERT」機能とは、データの新規挿入(INSERT)ができれば挿入を行い、新規挿入ができなければ更新(UPDATE)を行うもの。「ON CONFLICT」句を指定すると、データ変更の衝突を適切に処理できるという。
バックアップには主に3つの方法があり、SQLダンプ、ファイルシステムレベルバックアップ、連続アーカイブである。それぞれに長所・短所がある。 SQLダンプではpg_dumpのようなクライアントアプリケーションでバックアップをとり、リモートホストからのバックアップが可能であるがデータベース 全体のバックアップをとる場合にはほぼ常にスーパーユーザー権限が必要である。ファイルシステムレベルバックアップでは、bashコマンドで データファイルのバックアップをとる。この場合はオンラインバックアップやテーブル個別のバックアップは出来ない。連続アーカイブはWALを利用するものであり アドミニストレーターにとって複雑であるが、バックアップでの内部不整合がlog replayで解決されることやWALファイルをアーカイブするだけで連続バックアップできる 利点もある。ただこの方法ではデータベースクラスター全体のバックアップとなるため要求されるストレージは大である。
バージョン 8.1 以降 CPU スケーラビリティは大幅に改善された。 以降、改善を積み重ね、中規模のハードウェアであればスケーラビリティを十分に確保できるRDBMSとなっている。
過去のバージョンの PostgreSQL は他の関係データベース管理システム (RDBMS) と比較して更新処理が遅いと言われていた。追記型アーキテクチャが採用されており、更新処理は削除と挿入の組み合わせとして実現されていた。特に挿入の際にインデックスのキーを追加する必要がある点で性能差が生じていた。
しかし、バージョン 8.3 にて Heap-Only Tuples (HOT) と呼ばれる機能が採用され、インデックスのキーとなっている列の値に変更が無い場合にはインデックスの更新を回避できるようになった。HOT により約2倍のスループット向上が確認されている。
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PostgreSQL
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しかし、バージョン 8.3 にて Heap-Only Tuples (HOT) と呼ばれる機能が採用され、インデックスのキーとなっている列の値に変更が無い場合にはインデックスの更新を回避できるようになった。HOT により約2倍のスループット向上が確認されている。
業界標準の規格に則ったベンチマーク結果として 2007年8月の サン・マイクロシステムズ (Sun) による報告がある。以下のハードウェアを使用し、813.73 SPECjAppServer2004 JOPS@Standard であった。
PostgreSQL専用もしくは各種データベース汎用のデータベース接続クライアントを利用して管理できる。
psql は PostgreSQL 付属のコマンドライン・プログラムである。 SQL を直接入力またはファイルから読み込んで実行するほか、スキーマ情報の表示などのメタコマンドを持つ。 また、SQL 構文やテーブル名などをタブキーにより入力補完できる。
pgAdmin は GUI の管理インタフェースである。 PostgreSQL License で配布される オープンソースソフトウェア (OSS) である。 多くのプラットフォームで動作し、日本語を含む多くの言語が利用できる。 また、専用の SQL エディタは psql と同様の入力補完機能を持つ。 Microsoft SQL Server Management Studio と似たインタフェースでデータベースを操作できる。
phpPgAdminはウェブベースの管理ツールである。PHPで作られており GPL で配布されている。名称はphpMyAdminと似ているが、製品同士の関連性は無く、操作性はかなり異なる。
PostgreSQL はバージョン 9.0 よりレプリケーションを標準でサポートするが、サードパーティー製のオプション・ソフトウェアも利用できる。
PostgreSQL はクライアントサーバモデルであり、データベースへの接続は主に TCP/IP ポート番号 5432 を用いて通信を行う。通信プロトコルは「フロントエンド/バックエンドプロトコル」として公開されている。
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PostgreSQL
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PostgreSQL はバージョン 9.0 よりレプリケーションを標準でサポートするが、サードパーティー製のオプション・ソフトウェアも利用できる。
PostgreSQL はクライアントサーバモデルであり、データベースへの接続は主に TCP/IP ポート番号 5432 を用いて通信を行う。通信プロトコルは「フロントエンド/バックエンドプロトコル」として公開されている。
マイケル・ストーンブレーカーは、自分が開発を主導した関係データベース管理システム (RDBMS) であるIngres の商業化事業を一段落させると、カリフォルニア大学バークリー校 (UCB) に戻り、同校で新たなプロジェクトを開始した。 プロジェクトの名称は Postgres と名づけられた。 このプロジェクト名称は、Ingres の後継を意味する Post-Ingres に由来している。 Postgresプロジェクトは、関係モデルを使ったこれまでの既存のデータベース管理システムの限界に対処することを目的として、開始された。 最も重要な課題は、これまでのDBMSではユーザが自分で新たな定義域 (ドメイン、型) を既存の単純な定義域をもとにして定義できない点であった。 Postgresでは型 (定義域) を完全にサポートするために必要な最小限の機能だけを導入した。 Postgres ではデータベースが関係を「理解」すると言われ、「規則」に従って自然な方法で関連する関係 (リレーション、表、テーブル) から情報を得ることができた。 ユーザ自身が型を定義する機能に加えて、関連を完全に記述できる機能も備えていた。 プロジェクトは他にも、追記型メディア (光ディスクなど) への対応、大容量記憶装置への対応、推論、オブジェクト指向型データモデルなどを、取り入れた。 実装においては、データベースとアプリケーションソフトウェアの間の新たなインタフェースを実験的に導入した。
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PostgreSQL
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プロジェクトチームは、1986年からPostgresシステムの基盤を説明した多数の論文を公表した。 1988年、Postgres のプロトタイプバージョンを発表した。 1989年6月、数名のユーザに対してPostgresバージョン1を公開した。 1990年6月、ルールシステム (RULE) を実装し直したバージョン2を公開した。 1991年、バージョン3を公開した。 バージョン3では、ルールシステムが再度実装し直され、複数の記憶装置を管理する機構が追加され、クエリエンジンが改良された。 1993年には、非常に多くのユーザが、プロジェクトに対して、サポートと追加機能を要望して、圧倒させるほどの状態となっていた。 1993年、主として雑然とした部分をきれいにしたことを内容とするバージョン4.2が公開された。 バージョン4.2が公開された後、Postgres プロジェクトは終了した。 Postgres は広く使われたが、保守はユーザに任されていた。
マイケル・ストーンブレーカーと Paula Hawthorn は、Postgresを商業化するために、Illustra Information Technologies 社を創業して、Illustraの製品名で開発・販売した。その技術は IBM Informix Dynamic Server (IDS) に導入されている。
一方、オープンソースの世界のソフトウェア開発者たちは、Postgres のコピーを入手してシステムのさらなる開発を進めることができた。 なぜならカリフォルニア大学バークリー校 (UCB) は、Postgres をオープンソースライセンスであるBSDライセンスのもとで公開していたからである。 1994年に、カリフォルニア大学バークリー校 (UCB) の大学院生であった Andrew Yu と Jolly Chen は、システムの問い合わせ言語のインタプリタを、Ingres を基にした QUEL のインタプリタから、SQL のインタプリタに置き換える作業を行った。 SQLインタプリタを備えたこのシステムは、Postgres95 と呼ばれた。 Postgres95 のソースコードは、ワールドワイドウェブに公開された。
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PostgreSQL
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1996年7月に Hub.Org Networking Services の Marc Fournier は、大学外の組織としては最初に、開発用サーバをオープンソースソフトウェア開発のために活動する人々に提供した。 Postgres95プロジェクトは、Bruce Momjian と Vadim B. Mikheev とともに、カリフォルニア大学バークリー校 (UCB) に由来するソースコードを堅牢にする作業を始めた。 1996年8月1日に、Postgres95の最初のオープンソースのバージョンが公開された。
1996年に Postgres95 プロジェクトは、プロジェクトの名称を、SQL のサポートをしているという意味をこめて PostgreSQLに変更した。 1997年1月に PostgreSQL プロジェクトとしての最初のバージョンである、PostgreSQL バージョン 6.0 が公開された。 このときから、インターネットを通じて世界中のデータベース開発者のグループがPostgreSQLの開発に参加し、共同作業によるプロジェクトをうまく調整する体制ができあがった。
1999年7月23日、日本PostgreSQLユーザ会が設立し、任意団体として活動を開始した。
Postgres は Illustra により商業化されていたが、Illustra は Informix に買収され、Informix は 2001年に IBM に買収された。2001年以降には PostgreSQL を商用サポートする会社が現れた。
2006年2月1日、日本PostgreSQLユーザ会は NPO として再編成された。
2011年7月、オープンソースデータベース技術者認定試験(OSS-DB Exam)において基準のRDBMSとして採用された。
PostgreSQLのバージョンは以下のように表現される。
PostgreSQLをプライマリデータベースとして使用している注目すべき組織や製品には、以下のようなものがある。
2008年の時点で、PostgreSQL は以下の受賞をしている。
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深作欣二
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深作 欣二(ふかさく きんじ、1930年〈昭和5年〉7月3日 - 2003年〈平成15年〉1月12日)は、日本の映画監督・脚本家。愛称はサクさん。茨城県緑岡村出身。
6人兄弟姉妹の次男(第5子)として生まれる。茨城大学教育学部附属中学校、水戸第一高等学校、日本大学芸術学部卒業。1953年(昭和28年)に東映へ入社。
1961年(昭和36年)、千葉真一の初主演作品となる『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。千葉とはこののち17作品でコンビを組み、ヒットを連発していく。千葉を主演に据え置き演出した映画『風来坊探偵シリーズ』『ファンキーハットの快男児シリーズ』、1966年(昭和41年)の映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は、テレビドラマ『キイハンター』(1968年 - 1973年)の土台となった作品で、『キイハンター』の企画にも関わり、第1,2,157,158,178話を演出した。日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』の日本側監督を黒澤明が降板したため、後任となった舛田利雄から懇願され共同監督を引き受けたりしていたが、当時の深作は創りたい映画を東映になかなか認めてもらえず、東映に籍を置きながらにんじんプロダクションの國光影業の共作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』を監督していた。
1973年(昭和48年)から公開された『仁義なき戦いシリーズ』は邦画史に残るヒットを記録。映画『柳生一族の陰謀』『復活の日』『魔界転生』『蒲田行進曲』『里見八犬伝』『忠臣蔵外伝 四谷怪談』『バトル・ロワイアル』など、発表した一部の映画がヒット・話題作となった。テレビドラマでは前述の『キイハンター』のほか、『傷だらけの天使』、『必殺シリーズ』、『影の軍団II』などを演出している。92年には、ハリウッド映画並みのアクション映画『いつかギラギラする日』を監督したが、大量の車、火薬、銃弾を消費したため、当初予算の3億円が11億円にまで膨張してしまった。
1997年(平成9年)、紫綬褒章受章。2002年(平成14年)にはカプコンのプレイステーション2用ゲームソフト『クロックタワー3』のイベントCGムービーの監督を務め、これが撮影終了まで関わった最後の作品となった。
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深作欣二
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1997年(平成9年)、紫綬褒章受章。2002年(平成14年)にはカプコンのプレイステーション2用ゲームソフト『クロックタワー3』のイベントCGムービーの監督を務め、これが撮影終了まで関わった最後の作品となった。
2002年9月25日、前立腺ガンの脊椎転移を公表し、『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』の製作を発表。12月16日からクランクインするが、21日にがんの骨転移の痛みから、放射線治療のため予定より2日早く入院。23日に定期の放射線治療、29日に体力の低下による風邪から肺炎を併発、31日に自力呼吸が困難になり、人工呼吸器を装着し、一時危篤状態になった。
2003年1月初頭、小康状態に回復。5日に同作のプロデューサーで長男・深作健太が監督を代行することとなった。7日、配給を担っている東映が会見を開き、健太と岡田茂が出席。「翌月早々に復帰させたい」と岡田は説明していたが、4日後の11日夕方には容態が悪化。妻・中原早苗と健太、菅原文太、健太から連絡を貰った渡瀬恒彦や藤原竜也が、臨終に立ち会った。12日の午前1時、死去。72歳没。
15日、築地本願寺で通夜が営まれ、喪主を務める深作健太が選曲した20曲が流れるなか、弔問客が献花を行った。中原早苗は終始、ハンカチを離さず悲しみの深さをうかがわせ、健太は弔問客に気丈に応対していたが。ロサンゼルスから駆けつけた千葉真一にねぎらいの言葉をかけられると、健太は涙をあふれさせていた。弔問にビートたけし・梅宮辰夫・緒形拳・津川雅彦・富司純子・三田佳子・藤真利子・渡哲也・小林稔侍・永島敏行・風間杜夫・平田満・藤原竜也・安藤政信・八名信夫・前田愛・前田亜季・竹内力・高岡早紀・薬師丸ひろ子・夏木マリ・宮本真希・柴咲コウ・加藤夏希・南果歩・渡辺えり子・松田美由紀・美輪明宏・山田洋次・崔洋一・降旗康男・沢井信一郎・奥山和由らが参列した。
翌16日の午後、同所で葬儀・告別式が執り行われた、千葉真一と菅原文太がそれぞれ弔辞を述べ、菅原が献花したときは映画『仁義なき戦い』のテーマ曲がかかった。映画『蒲田行進曲』『バトル・ロワイアル』のテーマ曲や、深作の好きな越路吹雪の『バラ色の人生』、THE BLUE HEARTSの『1001のバイオリン』が流された。深作はフリーとなっていたが、東映は葬儀を全面的にサポートした。
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深作欣二
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翌16日の午後、同所で葬儀・告別式が執り行われた、千葉真一と菅原文太がそれぞれ弔辞を述べ、菅原が献花したときは映画『仁義なき戦い』のテーマ曲がかかった。映画『蒲田行進曲』『バトル・ロワイアル』のテーマ曲や、深作の好きな越路吹雪の『バラ色の人生』、THE BLUE HEARTSの『1001のバイオリン』が流された。深作はフリーとなっていたが、東映は葬儀を全面的にサポートした。
2月7日に勲四等旭日小綬章を追贈され、1シーンしか撮れなかった遺作『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』は健太とともに監督としてクレジットされている。
アクション映画やヤクザ映画以外でも、『柳生一族の陰謀』『魔界転生』などの時代劇、『火宅の人』『おもちゃ』のような文芸、『ガンマー第3号 宇宙大作戦』『宇宙からのメッセージ』『復活の日』などのSF、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』のようなホラー映画、と幅広い作品を残している。文芸作品に取り組んでも「文芸アクション」と呼ぶ深作にとって、荒唐無稽やウソの物語をいかにリアルに仕上げるかを真骨頂にし、そのような作品では実に楽しそうに撮っていた。「いい監督にとって、役者は単なる色、絵の具でしかないという感じがするときがある。僕はそれは違うと思う。どんなに日にちがかかろうと、金が掛かろうと、芸術映画ならばいいという巨匠もいるが、僕は映画を衰退させたのは、そういう巨匠にも責任があると思う」と語っている。
日本のみならず世界でも劇場公開されており、クエンティン・タランティーノやジョン・ウーらは崇拝していることを明言している。全作品のうち『ファンキーハットの快男児』と『おもちゃ』以外のすべての作品で人の死を描いているが、戦争という巨大な暴力を体験したことで「暴力を描くことで暴力を否定しよう」という考えが根底にあり、決して暴力を肯定していた訳でなく、だからこそ様々な批判を受けても最後まで作風を変えなかった。「私も戦中派のしっぽにぶら下がっているが、今の人間のありようには、エネルギーのようなものが感じられない。平和は結構なことだが、その中で人間が衰弱してしまっているのではないか」と最後の作品でも暴力描写にこだわり、闇市の中で自ら体験した「生きることへの希望」を、再び現代社会に訴えようとした。
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深作欣二
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深作作品には欠かせない存在だった千葉真一にとって、深作はかけがえのない師匠であり盟友だった。千葉が1990年代からハリウッドに拠点を移していた際に「(千葉が)まだ独りでロサンゼルスに住んでいたころにわざわざ来てくれてね。そのころまだ自炊をしていたので、自分で作った料理を食べてもらったんです。『おい、いつの間にこんなに料理がうまくなったんだ(笑い)』って言われましたよ。滞在中は映画の話をたくさんしました」と述懐している。千葉はインタビューの際、最も尊敬する映画監督である深作を世界で活躍してほしかったこともあり、キンジ・フカサクと敬意をこめて呼んでいる。
干されていた室田日出男、大部屋でくすぶっていた川谷拓三・志賀勝らを抜擢し、ピラニア軍団として知らしめた。福本清三は「監督は大部屋俳優の名前を覚えてくれず、『そこ』、『おい』程度でしか呼ばれないが、深作監督はわしら大部屋俳優でも名前で呼んでくれた」と証言している。初めて東映京都撮影所で演出した際には殺陣師・擬斗師がいるにも関わらず、自ら殺陣や擬斗を細かく指示し、福本ら大部屋俳優のシーンにも綿密にリハーサルをしたので大部屋俳優たちに驚かれた。映画の打ち上げ時に福本は「スターさんにあまり言わないで、なぜわしら(大部屋俳優)に細かく指示するのか? 自分たちは撃たれる時も殺される時も、かっこよくできる」と思わず質問。深作は「(大部屋俳優には)台本も渡されてないから、なぜ殺されるのか、殺された後、組がどうなるか、状況や背景を説明してるんだよ。映画はスターだけじゃなく、映っているみんなが主役なんだ。スターさんがどんなに一生懸命でも、スクリーンの片隅にいる奴が遊んでいたら、その絵は死んでしまう。だから同じ子分でも、それぞれが個性を出して殺されてほしいから、うるさいだろうけど、細かく指示を出すんだよ」と諭した。福本は「この人、ただもんでないわ」と唸り、それまで大部屋俳優として幾度となく殺されてきたため、慣れ・自信・奢りがあったかもしれないと、反省したという。福本はこれ以降、与えられた役をとにかく一生懸命にやろうと転機になったと述べている。
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深作欣二
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夜型で徹夜が平気な体質を持ち、深夜になっても撮影に入らない凝り性で、スタッフが疲弊することが多く、苗字をなぞらえて「深夜作業組」と呼ばれるほどテストやリハーサルが長かった。また映画『ファンキーハットの快男児』から始めた手持ちカメラはその後の数々の作品で導入され、ストップモーションやナレーションを効果的に使った作品を生み出してきた。時に脚本を変えてしまうことから、映画『仁義なき戦い』では笠原和夫 から監督登用に拒まれたこともあった。製作者として深作と関わった角川春樹は「論理より感覚で撮る人で、凝り性」と述べている。
自主製作的なことは一切行わなず、門下の中田新一は著書『奔れ!助監督』で、監督は自分の金を映画に一銭も出してはいけないと教えられたと記している。どうしても撮りたい企画があった場合は、東映の外で出資してくれるプロダクションを探すという姿勢だった。その関係で、1970年前後に共産党系のプロダクションで何本か監督しているが、党員ではなく特にシンパ活動などは行っていない。『仁義なき戦い』などはむしろ山田和夫ら共産党系の評論家に叩かれたぐらいである。しかし、フリーとしての活動はかならずしも順調ではなく、40代で24本、50代で10本の映画を監督した深作も、60代では3本の映画しか撮れなかった。
サム・ペキンパーのファンで、『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』を好きな映画に挙げている。ペキンパーが『戦争のはらわた』のプロモーションのためにジェームズ・コバーンと共に来日し、『独占!男の時間』に出演していると、泥酔した川谷拓三が乱入してきた。川谷も深作同様にペキンパーのファンだが、ペキンパーが監督した映画「『ゲッタウェイ』!!!」と吠えながら握手をして、「ペキンパー、深作欣二と勝負せんかい!」と叫んでいた。
※は脚本兼。☆は脚本のみ。★は編集兼。*は構成兼。
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賭博
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賭博(とばく、英: gambling、独: Glücksspiel、仏: jeu d'argent)とは、金銭や品物を賭けて勝負を争う遊戯のこと。
英語ではgamblingと呼ぶのが普通であるが、カタカナでは「ギャンブル」と表記されることが多い。gambleは娯楽としての賭博も含む広い考え方であり、危険性の高い冒険や意味のある危険、潜在性のある利益に手を付けること等という意味がある。
賭博とは、金銭や品物などを賭けて勝負を争う遊戯のことである。金銭や品物などの財物を賭けて、(偶然性の要素が含まれる)勝負を行い、その勝負の結果によって、負けた方は賭けた財物を失い、勝った方は(なんらかの取り決めに基づいて)財物を得る、と言う仕組みの遊戯(ゲーム)の総称である。
日常的に賭博を行う者や、賭博を特に好む者は「賭博師」や「ギャンブラー」、「博打打ち」などと呼ばれている。賭け事の遊戯(ゲーム)を主催している者を胴元と言う。
賭博の大前提は、あらかじめ取り決め周知されている厳密なルールに従って勝負を行い、偶然もたらされた結果に従うことである。胴元(主催者)側が、自分に有利になるように、様々な詐術を用いて表向きのゲームとは違うことが起きるように細工をして行う賭博を、いかさま賭博と言う。いかさま賭博は厳密には賭博ではなく詐欺に当たる。よくある手法は、参加者に分からないようなかたちで、なんらかのトリック(技術や道具)を用い、相手を錯誤させ、表向きの確率や期待値(見掛けの確率や期待値)とは違うように、実際の確率及び期待値を改竄して行うことである。いかさま賭博を行う者を「いかさま師」や「ゴト師」などと言う。
商業賭博の配当を決定する方式としては、あらかじめブックメーカーが倍率を決定しているブックメーカー方式や、興業主が全賭け金から一定割合を差し引き、残りの全額を勝ち投票券に分配するパリミュチュエル方式、ガラ馬券などに代表されるロッタリー方式などがある。日本の公営競技はパリミュチュエル方式を採用している。
賭博とは、賭事(とじ)と博戯(ばくぎ)の二つを合わせた言葉である。
賭事と博戯の違いは、賭ける側の人間が、賭ける対象となる勝負事の結果に当事者として関与できるか否かである。
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賭博
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賭博とは、賭事(とじ)と博戯(ばくぎ)の二つを合わせた言葉である。
賭事と博戯の違いは、賭ける側の人間が、賭ける対象となる勝負事の結果に当事者として関与できるか否かである。
公営競技、「野球賭博」「ルーレット」「バカラ」などは賭事であり、「賭け麻雀」「賭けゴルフ」「賭けポーカー」などは博戯である。「クラップス」のように、一つのゲームで賭事と博戯が混在する場合もある。
「富くじ」の場合、数字が選べないタイプは購入者が結果を予測することも出来なく、結果にも関与できないため賭事である。数字選択式では、公営競技と同様に結果を予測することは可能であるが同様に結果にも関与できないため賭事である。全ての日本の「宝くじ」として売られているものについては締め切り後には追加購入を含めくじの当選に関わる関与は一切出来ない。
チェス、将棋、囲碁といった偶然の要素が無い二人零和有限確定完全情報ゲームの勝敗を予測することは賭事であるが、プレイヤー同士が自身の勝利に金銭をかけた場合は博戯となる。自身がプレイヤーとなるギャンブラーは真剣師とも呼ばれる。
先秦時代の中国では囲碁と共に六博(博)というすごろくに類似したボードゲームが流行しており、博をプレイする(打つ)ことから「博打」と言う言葉が生まれた。よって「博打を打つ」「博打打ち」という言葉は本来二重表現であるが、「博打」が「賭博」の同義語として扱われるようになると、二重表現とはみなされなくなった。
さまざまな金融商品や相場にも、その賭博性が提起されることがある。金融商品の中でも、保険は娯楽としてのギャンブルと全く同様の技術で実現されている。保険の歴史は賭博から生まれた物であり、事故に遭遇するというギャンブルに金銭を賭けるもの、とされているからである(賭博の用語ではオッズと呼ばれる物は保険用語では「等級」と呼ばれる。医療保険においては病気のリスクの少ない若年層のオッズは高いが、年配者の場合はオッズは低く、逆に自動車保険においては事故率の高い若年層の方がオッズは低くなる。保険商品では「配当金」は固定のためオッズが低い、すなわち保険給付事由が発生する可能性が高いほど保険料は高くなり、その可能性が非常に高いと判断される場合は保険の契約自体ができない)。
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賭博
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先物取引やオプション取引、外国為替相場、株式の購入など、通常であれば商品取引(相場)あるいは株式などのように、投資の範疇に含まれる行為のうち、手持ちの現金以上の金額を投じることのできる信用取引や、投機と呼ばれるハイリスク・ハイリターンな取引を、広い意味でのギャンブルに含むこともある。なお、日本では特定の株の上がり下がりを賭ける合百という直接的な賭博も行われていた。
世界的には歴史上、手品のはじまりといわれるCup and balls(カップアンドボール)が賭け事の対象としてヨーロッパ、中東、地中海地方、遠くは中国まで広がったが、行う者が手品師と同義であることから、いわゆる「いかさま賭博」とも言える。
賭博は世界で広く行われており、各地に多種多様な賭博が存在する。カジノ開設が認められている国では、カジノ内でさまざまな賭博が行われている。またイギリスやオーストラリア、ドイツ等にはブックメーカー(bookmaker)なども存在し、殆どあらゆる事をギャンブルの対象にしている。
カジノで行われるカジノゲームは、大きくテーブルゲーム・ゲームマシン・その他の3種類に分かれる。テーブルゲームはさらに、ブラックジャックやバカラ、ポーカーなどのようにトランプを用いるもの(カードゲーム)、クラップスや大小のようにサイコロ(ダイス)を用いるもの、ルーレットやファンタン、牌九のようにどちらにも属さないものに分けられる。ゲームマシンとしてはスロットマシンなどがある。キノなどのテーブルゲーム、ゲームマシンのいずれにも属さないものはその他に分類される。
ほとんどのカジノゲームは「カジノ」対「客」という形でゲームを行う。例えばルーレットでは、客が勝てばカジノ側がチップを支払う。一方でポーカーの場合は客同士で勝敗を決めるゲームで有り、テーブルでの敗者が勝者にチップを支払う。カジノ側はゲームの進行やサービスを行い、ゲーム毎の手数料を得るシステムである。
動物や人間を競わせ、その勝敗を賭博の対象とすることは古来から広く行われている。
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賭博
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ほとんどのカジノゲームは「カジノ」対「客」という形でゲームを行う。例えばルーレットでは、客が勝てばカジノ側がチップを支払う。一方でポーカーの場合は客同士で勝敗を決めるゲームで有り、テーブルでの敗者が勝者にチップを支払う。カジノ側はゲームの進行やサービスを行い、ゲーム毎の手数料を得るシステムである。
動物や人間を競わせ、その勝敗を賭博の対象とすることは古来から広く行われている。
動物を対象とした賭博としては闘犬、闘鶏、闘牛、昆虫相撲など、動物同士を戦わせ、勝敗を賭ける賭博がある。家畜化されていない動物を用いる例もあり、ニワトリが家畜化されたのは本来食用ではなく、祭祀用、または闘鶏に用いるためだったと考えられている。中国では唐の玄宗期以降、コオロギ同士を戦わせる闘蟋が盛んとなった。多数の動物をコースで走らせ、勝敗を予測する賭博として競馬、ラクダレース、ドッグレースなどがあり、その日の全レースや特定の順位まで着順を予想するなど難易度を上げた掛け方もある。特に競馬は馬の飼育や品種改良など、馬の文化に大きく関わった。またブックメーカー、競馬新聞、馬券予想会社など関連産業も発展した。
スポーツの結果を賭博の対象とすることも広く行われており、2009年には、世界の商業賭博総額の内、競馬が7%、スポーツくじが5%を占めていた。ただしスポーツ賭博に対する態度は国によってさまざまであり、さらに同じ国内においてもスポーツ賭博の対象として認められている競技と、一切禁じている競技とが存在する。日本では競馬(中央競馬と地方競馬)のほか、モーターボート(競艇)、自転車(競輪)、オートバイ(オートレース)が公営競技として認められており、また2001年からはサッカーを対象にスポーツ振興くじが発売されている。日本国外では、ハイアライなども賭博スポーツとして認可されている国が存在する。
日本古来の賭博としては手本引や丁半賭博などがある。
宝くじも賭博の一種であり、世界各国で行われている。
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賭博
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日本古来の賭博としては手本引や丁半賭博などがある。
宝くじも賭博の一種であり、世界各国で行われている。
世界のほとんどの国家において、賭博行為には何らかの規制がかかっており、完全に禁止している国家も存在する。宝くじは古くから政府や公共事業の重要な財源となる一方、道徳的な問題や絶えない不正から問題視されることも多く、19世紀には一度ヨーロッパのかなりの地域で禁止され、再び解禁されるのは主に第二次世界大戦後のことだった。カジノが開設されている国家においても、例えばネパールやカンボジアのように自国民の利用を禁止し外国人観光客のみが利用できる国家や、韓国のように1カ所を除き外国人専用としている国家、シンガポールのように高額な入場料を設定し失業者の入場を禁じている国家など、さまざまな規制を設けて利用者層を制限する国家も多い。韓国のように国民に対して外国での賭博を禁じる国もあり、マカオなどにある立地国では合法な外国人向けカジノでの賭博が罪となる。
賭博を禁止しているイスラム教の影響が大きい地域では、国民が外国で賭博を行うこと以外にも、賭博と同様の技術で実現されている保険の提供を禁止している場合があり、タカフルと呼ばれる共済のような方法で保険サービスを実現している。
日本においては刑法185条から187条において賭博及び富くじに関する罪が規定されており、違反者には刑罰が科せられる。一方で、競馬、競艇、競輪、オートレースといった公営競技や、宝くじ、スポーツ振興くじに関しては特別法によって公営でのギャンブルが認められている。
公営競技で最も早く認められたものは競馬であり、戦前から馬券発行が公認されていた。第二次世界大戦後、第二次世界大戦中には戦費調達のために政府によって「勝札」と呼ばれる宝くじの発行が開始され、敗戦後は宝くじと名を変えて大々的に行われるようになった。この後、1954年に政府の宝くじ発行は中止され、都道府県や政令指定都市が宝くじ発行の主体となった。1948年から1951年にかけて競艇、競輪、オートレースが相次いで公営競技化された。賭博と同様の技術である保険についても規定が有り保険業法で定められており、販売には制限がある。
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賭博
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日本国内において麻雀は賭け事として行われることもあるが、その場で消費可能な飲食物や食事代金の負担は「一時の娯楽に供するもの」として賭博とみなされないこともある。
賭博規制を緩和する国もある。一例として、1992年にスポーツ賭博を禁止したアメリカにおいて、2018年に最高裁でこの禁止法の違憲判決が出され、スポーツ賭博の解禁を認めたことなどがあげられる。しかしアメリカのプロスポーツ界のほとんどがこの判決に異議を唱えたように、賭博解禁には強い反対の声が上がる場合が多い。
各国において強い規制がかけられている一方で、賭博を楽しむ人々は全世界に存在し、経済的にも大きな存在となっている。2009年には全世界の合法的な商業賭博の総売上は3350億ドルに達した。このうち規模の大きなものは宝くじなどのくじ類と、カジノやゲームマシン、ビンゴ等である。2015年には、オンラインカジノも含む全世界のカジノの売り上げは1828億ドルに達していた。こうした賭博の利益の源泉は、胴元が賭博の売り上げの中から一定の割合で控除する金銭、いわゆるテラ銭である。この控除金額は賭博や地域によって異なっており、一般的にカジノゲームでは2%未満から5%、それぞれ平成20年度で日本の公営競技が25.2%、サッカーくじが50.4%、宝くじが54.3%となっている。宝くじの控除金額は世界的に見ると50%前後が多い。宝くじは古くから公共の利益のために目的税的な利用をされることが多く、国や州などの政府が主体となって販売され、その重要な財源となっている。
世界には、アメリカ・ネバダ州のラスベガスのように、賭博を合法化して観光資源の一つとすることで世界中から観光客を集めている都市もある。カジノ事業に乗り出す地域は増加しており、とくに2010年に始まったシンガポールのカジノが大成功を収めたことでこの流れはアジアにおいて加速した。日本でも2016年12月15日に統合型リゾートの設置を目的とした「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律」(IR推進法)が成立した。
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賭博
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カジノの存在する主な都市は、以下のようになっている。この中でも、古くからカジノを中心として栄えたラスベガス、2002年に外国資本にカジノ経営が開放された後に中国大陸の経済成長に伴って急成長し、2013年にはラスベガスの7倍の売り上げを誇るようになったマカオ、2010年のカジノ開設後急速に成長して2013年にはラスベガスと同程度の売り上げとなったシンガポールの3都市が特に規模としては大きい。このほかにも多くの国にカジノは存在し、約140カ国でカジノは合法化されている。
オーストラリアでは、市中のパブやクラブにスロットマシンが置かれている。店に出入りできる年齢であれば気軽にギャンブルができる環境にあったが、2020年3月23日には、新型コロナウイルスの感染拡大によりパブやクラブが一時閉鎖され、ギャンブルができる環境が失われた。ギャンブル問題を啓発する団体は、閉鎖された後一か月間に少なくとも10億豪ドル(約690億円)がスロットマシンにつぎ込まれずに済んだこと、それら金額が食卓の食べ物、医療費や光熱費、家賃、住宅ローンの支払いに充てられることが可能になったこと、ギャンブル依存症なども緩和されたことなどの効果を指摘した。
賭博・ギャンブルは、人の射倖心をくすぐり、時に中毒的な依存状態を招き、破産や人格崩壊に至り、果てには自殺、殺人に及ぶ場合もある。賭博の問題は人間の歴史が始まった頃から認識されており、「マハーバーラタ」や「千夜一夜物語」など古代の物語に、賭けに熱中するあまり、全財産を失ったりイカサマではめられるというトラブルも描かれている。
また、賭博はいくら多額の金が賭けられても、胴元と参加者、あるいは参加者同士の間でその金が行き来するに過ぎず、経済生産が生じないため、そのような非生産的な行為に人々のエネルギーが費やされてしまうと、生産的な行為を阻害する可能性があるとの主張も存在する。ただしこれに関しては、そもそも賭博はスキーやテレビなどと同じく娯楽に属しており、これらと同様に様々な効用を生み出しているため非生産的な活動とは見なせないとの反論も存在する。
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賭博
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違法賭博が暴力団や犯罪組織などの反社会的勢力の資金源になるなど、社会問題も多く内包する。ただしこれに関しては、当該賭博を合法化し法規制の下に置くことで金の流れを透明化し、反社会的集団との関係を断ち切ることが可能であり、これが賭博合法化の大義名分とされることも多い。
スポーツを賭博の対象とする場合、競技者を買収してわざと勝負に負けさせ、自らの賭けた方に勝利させる、いわゆる八百長が起きることがあり、全世界で重大な問題となっている。八百長が起きるのはスポーツ賭博の合法非合法を問わないが、プロスポーツの前提である公正性を侵害する行為であるため、実行者は厳しく処罰されるのが通例である。またこの公正性への懸念が、既存のプロスポーツへのスポーツ賭博の導入に対する反対論の有力な根拠となっている。
32 か国を対象とした 2020 年の調査では、特定の国でのギャンブル活動の量が多いほど、その国の株式市場の価格がより変動しやすいことがわかった。
ギャンブルを行わないと日常生活に支障が出る人における依存症(精神疾患)であり、世界保健機関(WHO)では「ギャンブル障害(ギャンブリング障害)」「病的賭博」と言う名称を使用している。この疾患にかかった人をギャンブル依存症者と呼ぶ。
自己の生活基盤・価値観、仕事や学業、家族や友人などの人間関係を犠牲にしてでもギャンブルを続けてしまう、と言う進行性を伴う。
この疾患を克服するためには、心理療法、適切な専門職の介入、自助グループへの参加などの方法がある。また当事者に対し、「一生ギャンブルに手を出さない」「新しい生き方を学ぶ必要がある」と言うことを認識させることが必要とされている。それは、再びギャンブルに手を出せば元の依存状態になってしまうからである。
イギリスでは大人の監督下であることやメダルゲームなど賭け対象に制限はあるものの、子供が金を賭けてギャンブルを行うことが合法となっている。子供のギャンブルはイギリス流の休日の楽しみ方のひとつであり、大人としての責任ある行動を経験させるものだという言説もあるが、ギャンブル依存症の患者の中には子供の頃のギャンブル体験を発端に挙げる者も多い。また、ギャンブルが得意な子供はギャンブルでずっと勝ち続けることは自分にとって当然で、その報酬は正当な見返りである、という間違った幻想を抱くリスクがあるとも指摘される。
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賭博
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ギャンブルには働かずに金持ちになれる(不労所得)という誘惑があり、世界宗教を始めとして多くの宗教で戒められている。
イスラム教成立以前の中東では矢を使った籤(賭矢、マイスィル)でラクダの肉を賭けるギャンブルが盛んに行われていた。このほかに競馬やポロが広場で行われ、社交の場としても機能していたとされる。千夜一夜物語には、王達による金銭や奴隷をかけたシャトランジの勝負が描かれている。カードゲームは喫茶店などで行われていた。
イスラム教のクルアーン雌牛の章において、マイスィルは人の利益となる面もあるが悪影響の方が大きいという記述がある。当時は気前の良さを競うため法外な額(に相当する分量)が賭けられることもあったとされ、ムハンマドはこれを諌めたという説もある。また食卓の章にも酒、マイスィル、偶像、占い矢は悪魔の業であるという記述がある。
イスラム教が広まった後も賭博の是非についての記述があることから、違法な賭博は行われていたと推察されている。
現代のイスラム教国では国内での賭博は禁止されているが金銭を賭けない場合は見逃されており、一部の国や地域では競馬やラクダレースが純粋な競技として行われている。勝ち馬の予想を当てた場合は、払戻金ではなく、賞品や商品の引換券がもらえる。これは「賭博ではない」と言い逃れができるようにするための主催者の知恵である。なお、世俗化が進んだ地域ではギャンブルも行われている。
ギャンブルに反対する他の教会には、エホバの証人、末日聖徒イエス・キリスト教会、イグレシア・ニ・クリスト、およびメンバーズ・チャーチ・オブ・ゴッド・インターナショナルが含まれる。
賭博の起源としては、吉凶を偶然に託す占い、正邪の判断を神に託す裁判(神判)、そして神に捧げるための競技の3つが源流であると考えられている。賭博は自らの所有物や財産を賭して勝負をし、勝てば利益を得て相手の賭けたものを自らの私有物とすることによって成立するため、個々人が私有財産を所持するようになり、原初的な私有財産制が成立してはじめて開始されたと考えられている。
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賭博
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賭博の起源としては、吉凶を偶然に託す占い、正邪の判断を神に託す裁判(神判)、そして神に捧げるための競技の3つが源流であると考えられている。賭博は自らの所有物や財産を賭して勝負をし、勝てば利益を得て相手の賭けたものを自らの私有物とすることによって成立するため、個々人が私有財産を所持するようになり、原初的な私有財産制が成立してはじめて開始されたと考えられている。
日本では、689年には持統天皇によって雙六(盤双六)賭博禁止令が出されたとの記述が日本書紀に存在し、以後頻繁に時の政権によって賭博禁止令は出されていた。『古事記』にも、秋山之下氷壮夫(あきやまのしたひおとこ)が、春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)に伊豆志八前大神(兵庫県豊岡市出石)の娘の伊豆志袁登売神(いずしおとめのかみ)との結婚の成否で賭けを申込み、兄弟の母神が賭けを申し出た秋山命を懲らしめる話がある。賭博禁止は明治政府もこれを継続した。1884年(明治17年)1月4日、賭博犯処分規則が定められた(太政官布告)。第二次世界大戦後には相次いで公営ギャンブルが認可され、隆盛を迎えた。一方でこれまで私的に行われていた伝統的な賭博は衰退し、私的賭博でもパチンコや麻雀といった新たなゲームが主流となった。
賭博、とくにサイコロ賭博の勝敗に関する考察は、どのような目がどのくらいの率で出てくるか、すなわち確率という考え方につながっていった。16世紀半ばにはイタリアのジェロラモ・カルダーノがサイコロの出目に関して初歩的な確率の計算を行い、17世紀にはサイコロ賭博に関する相談を受けたブレーズ・パスカルがピエール・ド・フェルマーと往復書簡を交わし、この中で理論としての確率論が誕生した。
ギャンブルをテーマにした映画。アクション映画の一種として扱われることがある。
ギャンブルをテーマにした漫画。福本伸行がギャンブル漫画の第一人者とされる。バトル・アクションの要素が取り込まれることがある。
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クラシック音楽の指揮者一覧
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クラシック音楽の指揮者一覧(クラシックおんがくのしきしゃいちらん)では、クラシック音楽の指揮者を列挙する。
日本国外の指揮者を、生年順に並べる。
日本国内の指揮者を、五十音順に並べる。
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ピアニスト
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ピアニスト(pianist;[pɪˈænɪst])またはピアノ奏者(ピアノそうしゃ)は、広義にはピアノの演奏を行う人のこと、狭義には職業的なピアノ奏者のこと(日本で多く見られる用法)。本記事では狭義、広義のピアニストの両方を解説する。なお、ピアノで伴奏を行う人(伴奏者)のことを、アカンパニスト(accompanist)と呼ぶ場合がある。
ピアノの直接の原型となる楽器が登場した時期は17世紀ごろであったといわれる(ピアノの項参照)が、それ以前から鍵盤楽器は作曲家にとって重要な素養のひとつであり、名オルガニスト・チェンバロ奏者であった大バッハ以降、鍵盤楽器奏者と作曲家を兼ねた人物は多い。著名な作曲家では、モーツァルト、ベートーベン、ショパン、リスト、ラフマニノフなどがその例である。職業的なピアニストの成立としては、フランツ・リストやフレデリック・ショパンを嚆矢とすることが多い。彼らはすぐれた作曲家であり、カリスマ的な人気を誇った演奏家であった他に、多くの弟子を育成し、その後の奏法や教授法に影響を与えた人物でもある。現在でもピアニストの影響関係の系譜をたどってゆくと、リストかショパンにたどり着くことが多い。
職業的ピアニストとは、もっとも厳密な意味では、ピアノの演奏やピアノ教育などを主たる職業としている者、それによって生活の資を得ている者を指す。ピアノのソリストや伴奏ピアニスト、さらには各種の音楽学校においてピアノ奏法の教授を主として活動している教育家兼ピアニストなども含まれる。クラシック、ジャズなどのジャンルが比較的数が多いが、ポップスや他の新しいジャンルのピアニストも存在する。 ピアノの演奏を通して演奏会や録音などさまざまな音楽活動を行っているが、いずれも再現芸術としての演奏に力点が置かれているところに特徴がある。
現在ではクラシックの世界の職業的ピアニストの大半は、幼年期からさまざまな音楽教育を受け、ピアノの演奏に親しみ、長じて音楽学校などに通いながら演奏技術を高め、10代から20代の時期に各地のピアノ・コンクールに出場して地歩を築いてゆく。特にクラシックの場合、競争は激烈で、真の意味での「世界的ピアニスト」の座につくのは、それを希望する者のごく一部分でしかない。また、そのなかで歴史に名をとどめる名ピアニストとなると、数はいっそう少なくなる。
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ピアニスト
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上述の演奏家はほんの少数、ごく一部であり、音楽学校や音楽大学を卒業し、初期のピアノ教育や音楽教育を行う職業的ピアニストのほうがはるかに多数存在する。また、ピアノの技術を活かして初等・中等教育の音楽教師となる人も多数存在する。
演奏活動に基をおき活動するピアニストだけではなく、他分野で活動をする者がプロのピアニストとしてコンサートを開く場合もある。
ピティナ・ピアノコンペティションや全日本学生音楽コンクールなどで数々の受賞をしている森保まどか (HKT48) や入江麻衣子(声優)、音楽大学出身である生田絵梨花(乃木坂46)、松井咲子 (AKB48) 、小林萌花 (アイドル)、コンサート活動などを行う松下奈緒(女優)、現在もコンクールを受けているまとばゆう(芸人)など、多岐にわたる。
以上のほかに、pianistという英語の原義どおり、「ピアノを弾く人(弾ける人)」としてのピアニストは各地に存在する。純粋に趣味的に演奏する者は多く、中には趣味が高じてセミプロとして演奏する者もいる。
鍵盤のサイズやピアノ全体のサイズ・構造の影響で、奏者は掌が大い方が比較的有利なので、掌が小さい場合は悩まされることも多々ある。
腱鞘炎、手根管症候群、フォーカル・ジストニアはピアニストには3大疾病と言われている。
五十音順。クラシック音楽の演奏家一覧#ピアノ奏者も参照。
あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行
わ行
あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行
ら行
わ行
あ行
か行
さ行
た行
は行
ま行
や行
生年代順。
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伊藤君子
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伊藤 君子(いとう きみこ、1946年7月11日 - )は、ジャズシンガー。香川県小豆島町生まれ。武蔵野美術大学油絵科卒業。
4歳のとき、ラジオ番組から流れる美空ひばりの歌声に魅了され、歌手を志す。19歳の時に上京後、武蔵野美術大学油絵科を卒業。その後アニメ制作会社に入社。「オバケのQ太郎」や「リボンの騎士」等の作品の下請けでトレースや色塗り等を行っていた。会社の専務の知り合いのハワイアンバンドに加入後、1969年、中原マキの芸名でポップ演歌歌手としてシングル「幸わせにふるえて」でデビューする。5枚ほどシングルを発売し、その後ジャズピアニストとの出会いをきっかけに、ジャズシンガーの道へ進み、1982年、アルバム『BIRDLAND』で伊藤君子として再デビュー。1984年4月より半年間ニューヨークに滞在しクラブ「サットンズ」に出演した。 1987年にエディ・ゴメス『Power Play』(EPIC/SONY)の録音に参加した。1989年、日米同時リリースされたアルバム『Follow Me』が米ラジオ&レコード誌のコンテンポラリー・ジャズ部門の16位にチャート・イン(日本人女性歌手で初)。 2004年、押井守監督の映画『イノセンス』主題歌を歌い話題となる。
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狩野派
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狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。
室町幕府の御用絵師となった狩野正信(狩野氏の祖・藤原南家工藤茂光の子の狩野宗茂の子孫)を始祖とし、その子孫は室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍家などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆる分野の絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。
狩野派は、親・兄弟などの血族関係を主軸とした画家集団で、約4世紀間の長期にわたって一国の画壇に君臨したという点で、世界的にも他にほとんど例を見ないものである。
狩野派の代表的な絵師としては、室町幕府8代将軍足利義政に仕えた初代狩野正信とその嫡男・狩野元信、元信の孫で安土城や大坂城の障壁画を制作した狩野永徳、永徳の孫で京都から江戸に本拠を移し、江戸城、二条城などの障壁画制作を指揮した狩野探幽、京都にとどまって「京狩野」と称された一派を代表する狩野山楽などが挙げられる。
江戸幕府の体制が安定して以後の狩野派(江戸狩野)は、幕府の御用絵師として内裏、城郭などの障壁画の大量注文をこなす必要に迫られた。膨大な量の障壁画の注文に応えるため、狩野家の当主は一門の絵師たちを率いて集団で制作にあたる必要があった。そのため、狩野派の絵師には、絵師個人の個性の表出ではなく、先祖伝来の粉本(絵手本)や筆法を忠実に学ぶことが求められた。こうした時代背景から、狩野探幽以降の狩野派は伝統の維持と御用絵師としての勢力保持にもっぱら努め、芸術的創造性を失っていったという見方もある。ただ、こうした学習方法は流派形成に必要な手法であり、葛飾北斎や写生を重んじることで知られる円山四条派や琳派など他の流派でもみられ、江戸時代では一般的な学習方法だったことは留意しておく必要があろう。
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狩野派
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芸術家の個性の表現や内面の表出を尊重する現代において、狩野派の絵画への評価は必ずしも高いとは言えない。しかしながら、狩野派が約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていったことも事実であり、良きにつけ悪しきにつけ、狩野派を抜きにして日本の絵画史を語ることはできない。近世以降の日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したことも事実であり、琳派の尾形光琳や渡辺始興・酒井抱一、写生派の円山応挙なども初期には狩野派に学んでいる。
なお、岩佐又兵衛も狩野派に学び狩野内膳の弟子になったとされるが詳細は不明。また、江戸狩野の一派で表絵師・深川水場町家の狩野一信(梅笑)は増上寺の『五百羅漢図』で知られる狩野一信とは別人である。
狩野派の祖は室町幕府の御用絵師として活動した狩野正信(1434年? - 1530年)である。正信は当時の日本人としては長寿を保ち(通説では97歳で没)、15世紀半ばから16世紀前半まで活動した。
正信の出自は上総伊北荘大野(現千葉県いすみ市大野)であり、狩野宗茂(狩野氏の祖・工藤茂光の子)の子孫とみられる。江戸時代作成の家譜・画伝類では駿河今川氏の家臣・狩野出羽二郎景信という人物を正信の父としている。20世紀後半以降の研究の進展により、狩野家は下野足利(栃木県足利市)の足利長尾氏と何らかの関係があったものと推定されており、足利市の長林寺に残る墨画の『観瀑図』は正信の比較的初期の作品と考えられている。
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狩野派
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正信の画業として記録に残る最初の事例は、応仁の乱(1467年 - 1477年)の直前の寛正4年(1463年)、30歳の時に京都の雲頂院(相国寺塔頭)に観音と羅漢図の壁画を制作したというもので(『蔭涼軒日録』所載)、この時点で正信がすでに京都において画家として活動していたことがわかる。正信が壁画を描いた雲頂院の本寺である相国寺は室町幕府3代将軍足利義満創建の禅寺で、如拙、周文、雪舟らの画僧を輩出した室町画壇の中心的存在であり、この当時は周文の弟子にあたる画僧・宗湛(小栗宗湛、1413年 - 1481年)が御用絵師として活動していた。正信がいつ上京し、誰に師事し、いつ幕府の御用絵師となったか、正確なところは不明であるが、8代将軍足利義政に重用されていたことは諸記録から明らかである。応仁の乱終結の数年後の文明13年(1481年)、御用絵師であった宗湛が死去しており、正信は宗湛の跡を継いで御用絵師に任命されたものと思われる。これ以後は、宮廷の絵所預の職にあった大和絵系の土佐光信と、漢画系の狩野正信の両者が画壇の二大勢力となった。
文明14年(1482年)、大御所(前将軍)義政は東山殿(銀閣寺の前身)の造営を始め、正信がその障壁画を担当することとなった。延徳2年(1490年)の義政の没後、正信は当時政治の実権を握っていた細川氏に仕えるようになる。正信はこのように、時の権力者との結び付きを深めつつ画壇での地位を固め、後の狩野派隆盛の基礎を築いた。記録によれば、正信は障壁画、仏画を含め、多様な形式・題材の作品を手掛けたことが知られるが、障壁画はことごとく失われ、現存する確実な作品は掛軸などの小画面に限られている。その画風は、同時代人の土佐光信の伝統的な大和絵風とは対照的に、水墨を基調とし、中国宋・元の画法を元にした「漢画」であった。正信は97歳の長寿を保ったが、晩年の約30年間の事績は明らかでなく、嫡男の狩野元信(1476年? - 1559年)に画業を継がせて引退生活を送っていた模様である。
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狩野派
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狩野派隆盛の基盤を築いた2代目・狩野元信は正信の嫡男で、文明8年(1476年)に生まれた。現存する代表作は大徳寺大仙院方丈の障壁画(方丈は永正10年(1513年)に完成)、天文12年(1543年)の妙心寺霊雲院障壁画などである(大仙院障壁画については、方丈竣工時の作品ではなく、やや後の年代の作とする見方が有力である)。大仙院方丈障壁画は相阿弥、元信と弟・狩野之信が部屋ごとに制作を分担しており、元信が担当したのは「檀那の間」の『四季花鳥図』と、「衣鉢の間」の『禅宗祖師図』などであった。このうち、『禅宗祖師図』は典型的な水墨画であるが、『四季花鳥図』は水墨を基調としつつ、草花や鳥の部分にのみ濃彩を用いて新しい感覚を示している。元信は時の権力者であった足利将軍家や細川氏との結び付きを強め、多くの門弟を抱えて、画家集団としての狩野派の基盤を確かなものにした。武家だけでなく、公家、寺社などからの注文にも応え、寺社関係では、大坂にあった石山本願寺の障壁画を元信が手掛けたことが記録から分かっているが、これは現存しない。
元信は晩年には「越前守」を名乗り、法眼の僧位を与えられたことから、後世には「古法眼」「越前法眼」などと称されている。作品のレパートリーは幅広く、障壁画のほか、寺社の縁起絵巻、絵馬、大和絵風の金屏風、肖像画なども手掛けている。元信は父の得意とした漢画、水墨画に大和絵の画法を取り入れ、襖、屏風などの装飾的な大画面を得意とし、狩野派様式の基礎を築いた。また、書道の楷書、行書、草書にならって、絵画における「真体、行体、草体」という画体の概念を確立し、近世障壁画の祖とも言われている。
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狩野派
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元信には宗信(? - 1545年)、秀頼(生没年不詳)、直信(松栄、1519年 - 1692年)の3人の男子があったが、長男の宗信は天文14年(1545年)に早世したため、宗家を継いだのは三男の直信であった。なぜ次男の秀頼でなく三男の直信に家督を継がせたのかは定かでない。直信は道名の狩野松栄の名で広く知られ、室町時代から桃山時代に至る時代に活動した。代表作としては、大徳寺に残る巨大な『涅槃図』(縦約6m)がある。また、父とともに石山本願寺障壁画制作に参加しており、大徳寺聚光院障壁画制作には息子の狩野永徳(1543年 - 1590年)とともに参加しているが、父と息子がそれぞれに高名であるために、やや地味な存在となっている。
松栄の嫡男・狩野永徳は州信とも称し、桃山時代の日本画壇を代表する人物である。織田信長、豊臣秀吉といった乱世を生き抜いた権力者の意向に敏感に応え、多くの障壁画を描いたが、これら障壁画は建物とともに消滅し、現存する永徳の作品は比較的少ない。
現存する代表作の一つである大徳寺聚光院方丈障壁画は永徳と父・松栄の分担制作であるが、松栄は方丈南側正面の主要な部屋の襖絵を永徳にまかせ、自分は脇役に回っている。封建社会の当時にあっては、家門の長が主要な部屋の襖絵を描くのが常識であり、この障壁画制作時には松栄は才能豊かな永徳に家督を譲って、自身はすでに隠居の身であったと考証されている。聚光院方丈障壁画のうち、室中(方丈正面中央の部屋)を飾る『花鳥図』は特に評価が高い。
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狩野派
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その後、永徳は天正4年から7年(1576年 - 1579年)、織田信長が建立した安土城天守の障壁画制作に携わった。信長亡き後は豊臣秀吉の大坂城や聚楽第の障壁画を制作し、晩年には内裏の障壁画制作にも携わった。これらの作品群は、当時の日記や記録類にその斬新さを高く評価されており、現存していれば永徳の代表作となったであろうが、建物とともに障壁画も消滅した。現存する永徳の代表作としては、前述の聚光院方丈障壁画のほか、旧御物の『唐獅子図屏風』、上杉氏伝来の国宝『洛中洛外図屏風』が名高く、東京国立博物館の『檜図屏風』も古来永徳筆と伝えるものである。永徳は細画と大画のいずれをも得意としたが、大量の障壁画の注文をこなすために、大画様式で描かざるをえなかったという。細画とは細部まで細かく描き込んだ絵、大画は豪放な作風の絵と解釈されている。
近世初期の狩野派には他にも重要な画家が多い。国宝の『高雄観楓図』には「秀頼」の印があり、古来、狩野秀頼の作とされているが、『高雄観楓図』の筆者の「秀頼」は別人で、元信の孫にあたる真笑秀頼という絵師だとも言われている。永徳の弟狩野宗秀(1551年 - 1601年)は元秀とも称し、安土城障壁画制作などで永徳の助手として働いた。屏風、肖像画などの現存作がある。やはり永徳の弟である狩野長信(1577年 - 1654年)は『花下遊楽図』(国宝)の筆者として名高い。狩野家直系以外の絵師としては、川越・喜多院の『職人尽図屏風』の筆者である狩野吉信(1552年 - 1640年)、京都・豊国神社の『豊国祭礼図屏風』の筆者である狩野内膳(1570年 - 1616年)らが知られる。また、関東では元信の弟子筋に当たる小田原狩野派といわれる絵師たちがおり、前島宗祐や玉楽、官南などの名が伝えられている。
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狩野派
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天正18年(1590年)、永徳は父に先立って48歳で没した。その跡を継いだのは永徳の長男・狩野光信(1565年? - 1608年)と次男・狩野孝信(1571年 - 1618年)である。光信は園城寺勧学院客殿障壁画などを残し、永徳とは対照的な大和絵風の繊細な画風を特色とした。こうした画風が制作当時の一般的な好みに合致しなかったためか、『本朝画史』などの近世の画論は一様に光信を低く評価している。叔父狩野宗秀の後見を受ける中で秀吉存命中は長谷川等伯ら長谷川派の台頭に脅かされるが、秀吉の死後は息子の豊臣秀頼ら豊臣氏からの注文が増え、園城寺勧学院客殿障壁画と都久夫須麻神社障壁画、相国寺法堂天井画『蟠龍図』などを制作する一方で徳川家康にも接近、慶長6年に死亡した宗秀の遺児で従弟の狩野甚之丞(1583年? - 1628年?)の面倒を見たり、秀頼の大坂と家康の伏見の双方へ行き来する多忙な生活を送った。かたやもう1人の叔父で宗秀の弟・狩野長信は家康の子の徳川秀忠に仕えて江戸へ移り、御用絵師を務めることになったが、後に他の狩野一族も長信に呼び寄せられ、江戸狩野を形成して江戸幕府に仕えることになる。
慶長13年(1608年)に狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の狩野貞信(1597年 - 1623年)はまだ12歳の若年であったので、叔父で光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。孝信は元和4年(1618年)に亡くなるまで内裏の御用を務め紫宸殿の賢聖障子絵を描いた一方、家康の側近金地院崇伝と書状を交わし徳川氏との結びつきを強めた。豊臣氏との繋がりも保ち、狩野内膳らが豊臣氏の御用絵師になっている。
封建制度の下では光信の長男である貞信の家系が宗家となるはずであったが、元和9年(1623年)に貞信が27歳で早世し跡継ぎがなかったため、以後、幕末に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。孝信には守信(探幽、1602年 - 1674年)、尚信(1607年 - 1650年)、安信(1613年 - 1685年)の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、木挽町狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。末子の安信は従兄の貞信の養子という扱いで狩野宗家を継ぐことになったが、絵師として最も名高いのは探幽こと守信である。
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狩野派
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守信は寛永12年(1635年)に出家して探幽斎と称し、画家としては狩野探幽の名で知られる。江戸に本拠を移し、江戸幕府の御用絵師として、画壇における狩野派の地位をますます不動のものとした。探幽は幼少時より画才を発揮し、慶長17年(1612年)、11歳の時に駿府で家康に対面、元和3年(1617年)に江戸に召されて御用絵師となり、元和7年(1621年)には江戸鍛冶橋門外に屋敷を得て、以後江戸を拠点に活動し、城郭や大寺院などの障壁画を精力的に制作した。
探幽の作品のうち、元和9年(1623年)に描いた大坂城の障壁画は慶応4年(明治元年・1868年)に火災に遭い建物とともに消滅した。内裏の障壁画は4度(1623年・1642年・1655年・1662年)、江戸城の障壁画も4度描いたが(1622年・1640年または1647年・1650年・1659年)、この2ヶ所の障壁画も火災で焼失してしまい現存していない。寛永11年(1634年)制作の名古屋城上洛殿の障壁画(水墨)は第二次世界大戦時には建物から取り外して疎開させてあったため、空襲をまぬがれて現存しており、他に寛永3年(1626年)制作の二条城二の丸御殿や寛永18年(1641年)制作の大徳寺方丈の障壁画が現存する代表作である。二条城二の丸御殿障壁画は寛永3年の25歳の頃の若描きで、永徳風の豪壮な画風を示すが、寛永18年の40歳の頃に描いた大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、余白をたっぷりと取った穏やかな画風のものである。
これら大画面のほかにも、掛軸、絵巻、屏風などあらゆるジャンルの作品を残している。絵巻や屏風には大和絵風の作品もあり、前者は寛永13年(1636年)から寛永17年(1640年)まで4年をかけて弟子達を集めた工房を動員して制作した『東照宮縁起絵巻』、後者は明暦3年(1657年)作の『桐鳳凰図屏風』、『四季松図屏風』などがある。掛軸は肖像画・富士山図がそれぞれ50点近く残っているが、山水図・花鳥図・人物図なども合わせると数倍に上るという。
探幽は写生(スケッチ)や古画の模写を重視し、写生図集や模写画集を多数残している。「探幽縮図」と称される探幽筆の古画模写は多数現存しており、各地の美術館や収集家が所蔵しているが、これらには今日では原画が失われてしまった古画の模写も多数含まれており、日本絵画史研究上、貴重な資料となっている。
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狩野派
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探幽は写生(スケッチ)や古画の模写を重視し、写生図集や模写画集を多数残している。「探幽縮図」と称される探幽筆の古画模写は多数現存しており、各地の美術館や収集家が所蔵しているが、これらには今日では原画が失われてしまった古画の模写も多数含まれており、日本絵画史研究上、貴重な資料となっている。
江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。「奥絵師」と呼ばれるもっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「表絵師」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「町狩野」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた。この時代の権力者は封建社会の安定継続を望み、江戸城のような公の場に描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本(絵手本)に則って描かれたものが良しとされた。また、大量の障壁画制作をこなすには、弟子一門を率いて集団で制作する必要があり、集団制作を容易にするためにも絵師個人の個性よりも粉本を学習することが重視された。こうした点から、狩野派の絵画は、個性や新味に乏しいものになっていったことは否めない。
奥絵師は旗本と同格で、将軍への御目見と帯刀が許されたというから、その格式の高さがうかがえる。奥絵師の4家とは探幽の系統の鍛冶橋家、尚信の系統の木挽町家(当初は「竹川町家」)、安信の系統の中橋家、それに尚信の孫の狩野岑信(1662年 - 1708年)の系統の浜町家である(岑信は尚信の長男狩野常信(1636年 - 1713年)の次男。母は安信の娘であるため安信の外孫でもある)。また奥絵師代表として狩野派の棟梁同然の立場に触頭(頭取とも呼ばれる。寺社奉行の下にある同名の役割とは別)があり、内裏や江戸城の造営で狩野派を統率、各部屋の絵様案と筆者を決める権限があった。初め探幽・安信が触頭になったが、後に木挽町家が触頭を担当していった。
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狩野派
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表絵師は探幽の養子狩野益信(1625年 - 1694年)の系統の駿河台家が筆頭で、当家のみ20人扶持である。山下家は10人扶持で狩野元俊の系統、その他は全て5人扶持で、深川水場町家は山下家分家、狩野梅栄知信の系統、稲荷橋家は山下家門人、狩野春湖元珍の系統、御徒士町家は狩野長信の系統、麻布一本松家は長信三男、狩野休円清信の系統、本所緑町家は長信門人、狩野作大夫長盛の系統、勝田家は勝田竹翁の系統、神田松永町家は狩野宗也種信子孫の系統、芝愛宕下家は松永町家分家、狩野即誉種信の系統、浅草猿屋町代地家は永徳門人、狩野祖西秀信の系統、猿屋町代地家分家は猿屋町分家、狩野洞元邦信の系統、根岸御行之松家は松栄門人、狩野内膳の系統、築地小田原町家は松栄門人、狩野宗心種永の系統、金杉片町家は小田原町分家、狩野梅雲為信の系統であった。
このほか、狩野興以(? - 1636年)は狩野家の血族ではないが、探幽ら3兄弟の師匠筋にあたる人物で、その功績によって狩野姓を与えられ、後に紀州徳川家に仕えている。
一方、京都に残って活動を続けた「京狩野」という一派もあり、永徳の弟子であった狩野山楽(1559年 - 1635年)がその中心人物である。山楽は豊臣秀吉の家臣であった近江の木村家の出で、元の名を木村光頼と言った。京都・大覚寺宸殿の障壁画『牡丹図』『紅白梅図』が代表作で、金地に色彩豊かで装飾的な画面を展開している。山楽の娘婿で養子の狩野山雪(1590年 - 1651年)は、妙心寺天球院障壁画のほか、屏風絵などの現存作がある。樹木、岩などの独特の形態、徹底した細部描写など、狩野派の絵師の中では異色の個性的な画風をもつ。山雪の残した画論を子の狩野永納(1631年 - 1697年)がまとめたものが、日本人による本格的な絵画史としては最初のものとされる『本朝画史』である。
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狩野派
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探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家の後藤立乗の息子の洞雲(狩野益信)を養子としたが、後に探幽が50歳を過ぎて実子狩野探信(守政、1653年 - 1718年)が生まれると益信は別家という形で駿河台家を興し、守政が2代目当主として跡を継いだ。ところが、知行200石のうち半分の100石を相続した弟の狩野探雪(1655年 - 1714年)および甥の狩野探牛(1696年 - 1714年)が早世したため100石は幕府に没収、守政の能力が探幽に及ばないこともあって、知行が半減した鍛冶橋家は家運を衰退させていった。それでも守政の長男の3代目当主狩野探船(1686年 - 1728年)、弟の4代目当主狩野探常(1696年 - 1756年)、探常の息子の5代目当主狩野探林(1732年 - 1777年)は朝鮮通信使へ贈る屏風を描いたことが確認され、探林の孫で2代目と同名の7代目当主狩野探信(守道、1785年 - 1835年)は大和絵に傾倒して探幽の作品や風俗画の模写などを手掛け中興の祖と称えられたが、家格は江戸時代中期に台頭した木挽町家の下風に置かれ、守道以外に見るべき画人は出なかった。
探幽には多くの弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した久隅守景が著名である。守景は何らかの事情で狩野派を破門になり、後には金沢方面で制作したが、経歴について不明な点が多い。探幽の姪に当たる国を娶り1男1女を儲けたが、息子彦十郎は悪所通いが原因で狩野家から破門された上佐渡へ配流、娘の清原雪信は女性画家となったが後に駆け落ちしたことが伝えられている。守景の破門も2人の子供達の不祥事によるとされるが、真相は分かっていない。守道にも著名な弟子がおり、沖一峨と狩野了承(表絵師の深川水場町家4代目当主)が挙げられる。
鍛冶橋家は最後の当主狩野探道(1890年 - 1948年)が明治に東京美術学校(現在の東京芸術大学)で学び画家・鑑定家として生きたことが確認されているが、死後は娘の節が遺品を守り現在に至っている。
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狩野派
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鍛冶橋家は最後の当主狩野探道(1890年 - 1948年)が明治に東京美術学校(現在の東京芸術大学)で学び画家・鑑定家として生きたことが確認されているが、死後は娘の節が遺品を守り現在に至っている。
前述のとおり、狩野家の宗家は安信の中橋家が継ぐことになった。2人の兄探幽・尚信に比べて安信は画才が無かったとされるが、彼等亡き後は触頭として狩野派の頂点に立ち、画論『画道要訣』を著した。安信の子の狩野時信(1642年 - 1678年)は父に先立って37歳で没し、その子で安信の孫の狩野主信(ゆきのぶ、号は永叔、1675年 - 1724年)が家督を継ぐが、この系統からもその後目立った画人は出ていない。都会的な画風で人気を博した英一蝶(1652年 - 1724年)と中橋家の後見役を務めた狩野昌運(1637年 - 1702年)は安信の弟子であった。
奥絵師4家の中で、幕末まで比較的高名な画人を輩出したのは、尚信の系統の竹川町家(木挽町家)である。この家系からは尚信の嫡男の狩野常信、その嫡男の狩野周信(1660年 - 1728年)と次男の狩野岑信兄弟らが出ている。常信は安信の存命中は不遇だったが、彼亡き後は法眼、法印と僧位が上がり狩野派での地位を向上させた。岑信は6代将軍徳川家宣の寵愛を受け、後に浜町家として独立し、奥絵師家の1つに数えられるようになった。周信も8代将軍徳川吉宗に寵愛されただけでなく、孫の狩野典信(栄川院、1730年 - 1790年)も吉宗と孫の10代将軍徳川家治に寵愛されたことで出世、奥医師並の待遇と新たな土地を授かり屋敷を移転、以後家名は竹川町家から木挽町家に変わった。
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狩野派
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木挽町家からは、江戸時代後期に典信と息子狩野惟信(養川院、1753年 - 1808年)、孫狩野栄信(伊川院、1775年 - 1828年)、曾孫狩野養信(晴川院、1796年 - 1846年)などが出ている。この4人はいずれも優秀で代々触頭を務め、最高の僧位である法印に任じられただけでなく、漢画と大和絵を取り入れながらも新画風に挑戦して秀作を残し、養信は天保9年(1838年)と同15年(1844年)に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として鍛冶橋家・中橋家・浜町家など狩野一族を指揮した。障壁画そのものは現存しないが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されている。養信は古画の模写や収集にも尽力した。一般に江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くないが、20世紀後半以降の研究の進展により、養信は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがある。
養信の子狩野雅信(勝川院、1823年 - 1880年)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった狩野芳崖(下関出身、1828年 - 1888年)と橋本雅邦(川越出身、1835年 - 1908年)がいた。芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身であった。雅信は祖先と同じく触頭と法印を歴任、嘉永5年(1852年)の江戸城西の丸障壁画の制作も狩野一族を率いてこなしたが、本人の画力は乏しかったらしく、芳崖から「師匠は絵を知り給わず」と非難された逸話が伝えられている。職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えた。明治時代の雅信は榎本武揚からの江戸脱走の勧誘を断り、明治3年(1870年)に平民となり、博覧会事務局に雇われたことが確認されている。
狩野派の子孫は幕府崩壊後は行方不明の家系が多く、子孫がはっきりしているのは奥絵師・表絵師共に僅かしかいない。
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狩野派
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狩野派の子孫は幕府崩壊後は行方不明の家系が多く、子孫がはっきりしているのは奥絵師・表絵師共に僅かしかいない。
狩野養信の公用日記や狩野派の資料・談話をまとめた『東洋美術大観』に御用絵師の仕事の詳細な内容が書かれており、江戸城出仕(御定日)は月に12日と少ないが、年中行事参加と合わせると20日に増え、自宅で描く作業まで加わる実態は激務だった。しかも江戸城障壁画・内裏障壁画・朝鮮国王へ贈る屏風制作、将軍子女の婚礼道具の屏風制作、将軍の家臣や奥女中などの贈り物を描く仕事、将軍子女の絵画教師、絵の鑑定もあるため、御用絵師の仕事は多大な収入を見込める反面多忙を極めた。
また、仕事で現代における多彩な各分野の才能を求められ、安村敏信は江戸城障壁画制作をインテリアデザイナー、調度・衣装などのデザインを工芸デザイナー、揮毫(席画)をパフォーマー、古画の鑑定を鑑定家に例えている。
橋本雅邦は明治22年(1889年)の『国華』3号で、彼が入門した木挽町家の画塾での教育を回顧して書き綴った。それによると、授業時間は午前7時から夜10時まで、昼は模写で夜は稽古描きと分けられた。入学は原則として武士の子かつ狩野派の弟子続きの子弟が14歳から15歳で入門。画家の子弟の場合は7歳から8歳で茄子などの簡単な形を描き、惟信が初等教育のために描いた花鳥・山水・人物の手本36枚を収めた「三巻物」を模写、ここまでは初級レベルであり、手慣らしと用筆の練習を学習する(入門者はこれ以上の力を持つ)。画塾入門後も中級レベルである粉本模写から始まり、基本形態の用筆の鍛錬を学ぶ。常信が描いた山水・人物図60枚を収めた巻物5巻「御貸画本」を1年半で模写、続いて常信が描いた花鳥図12枚を半年で模写した後は、雪舟・元信・永徳・李龍眠・顔輝・夏珪・馬遠など和漢の大家の名画「一枚物」を模写、最終段階である探幽の賢聖障子の模写で上級レベルとなるが、一枚物の修了は能力で個人差があり、10年で終える者があれば20年でも終わらない者がいたという。
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狩野派
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上級レベルは彩色ほか画の全体構成を学び、一枚物を始めて3年で師匠の彩色の手伝いを命ぜられ着色に進み、7年から8年で師家の画号から一字拝領、それから2年後(9年から10年)に師匠の名から一字拝領して卒業となる。順調に進めば入門から卒業まで11年から12年かかる計算になる。雅邦が教育を通じて強調している点は、「臨写を以て始め臨写を以て終わる」とまとめた教育は線描中心の技巧の訓練になり、用筆の熟達のためにはこの方法が得難い効用を上げると書いている。一方、粉本にこだわる余り模倣に終始して創造性に欠けたとの批判もしている。
木挽町家以外に鍛冶橋家では守道が自由な教育がしていたとされ、弟子の沖一峨と狩野了承は狩野派以外の画風を学び取り、琳派風や南蘋派風の絵を作り上げた。一方、他家の教育については明らかになっていない。
狩野派の画論を説いた書に狩野永納の『本朝画史』・狩野安信の『画道要訣』がある。前者は405人の画家小伝上・中・下巻に日本絵画の山水画・人物画・花鳥画の技法・画家を紹介した巻四の「狩野家累世所用画法」があり、彼等に連なるとした狩野派の正統性を主張した書だが、画論とは少し異なる。後者は優れた絵画には天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとする一方、質画の良さまで否定したわけではなく、「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。ただし、『画道要訣』は出版されておらず、写本で広まった形跡もなく、江戸時代の画論書でも引用されることは殆ど無い事から、中橋狩野家に秘蔵されたと見られ、他の狩野家にすら影響を与えたとは考えづらいことは注意を要する。なお、『画道要訣』の原本は現在不明だが、昭和4年(1929年)に狩野忠信が筆写した写本が現存する。
『江戸の狩野派』の系図と『狩野派絵画史』の系図、『別冊太陽 狩野派決定版』の特別付録『決定版狩野派系図』を参照。
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ビー玉
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ビー玉(ビーだま)は、玩具の一種。ガラス製の球で、主に遊戯用・観賞用に用いる。通常のサイズは1.5 - 5センチメートル程度。単色のものや、中に模様の入ったもの、大きい玉、小さい玉といろいろな種類がある。無色透明のものもある。ガラスの他に粘土、鋼、プラスチック、または瑪瑙で作られるものもある。
1897年頃に日本で販売された炭酸飲料(ラムネ)の栓として使われていたガラス玉を取り出し、玩具として使われ出したのがビー玉遊びの普及の始まりである。初期のビー玉は、クレーターのような大きなくぼみや歪みがあるなど、形がいびつなものが多かった。
1933年頃に駄菓子屋等でビー玉単体が商品として販売され始めた。朝鮮半島でも日本統治時代の1936年頃から売られるようになり、ビー玉遊びが普及した。1970年代以前に生まれた年代ではビー玉遊びをしたことのない者はいないほど普及した遊びである。
ビー玉の「ビー」はビードロ(vidro、ポルトガル語でガラスのこと)の略である。「ビー玉」の古い用例としては、大正5年(1916年)に執筆された夏目漱石の『明暗』がある。
フランス語ではbille(ビイ)と言う(ビリヤードやルーレットの球もbille)。
ビー玉の呼び方は地方によって様々で、共通語ではおおむね「ビー玉」「ラムネ玉」が主流だが、近畿地方の一部では「ビーダン」と呼んだり、山陽地方や瀬戸内海島嶼では「マーブル」「マーブロ」も聞かれる。その語源は英語のmarbleと思われ、かつてこの地方がカリフォルニアやハワイへの移民の故郷であったこととの関連が考えられる。他にも、昭和30年代の広島県三原市では、市内中央部の東町では「ビー玉」と呼ばれていたが、隣接する糸崎町以東では(ルールは同じであったが)「ビーごろ」と呼ばれていた。さらに東隣の尾道市では「ラッコー」「ラッター」と呼ばれていた。
また、玉の大きさによって呼び方を区別する者もおり、大きいビー玉を「親玉(がんだま、おやだま)」「でかだん」、小さい玉を「ツブ玉」「ちびだん」等と呼ぶこともある。
ラムネビンの栓として使用するガラス玉の等級をかつて「A玉・B玉」と呼んで区別し、このうち規格外品である「B玉」をおもちゃに転用したものという説も存在する。ただしこの説は1990年以降の書籍にしか見当たらず疑わしいとの指摘がある。
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ビー玉
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また、玉の大きさによって呼び方を区別する者もおり、大きいビー玉を「親玉(がんだま、おやだま)」「でかだん」、小さい玉を「ツブ玉」「ちびだん」等と呼ぶこともある。
ラムネビンの栓として使用するガラス玉の等級をかつて「A玉・B玉」と呼んで区別し、このうち規格外品である「B玉」をおもちゃに転用したものという説も存在する。ただしこの説は1990年以降の書籍にしか見当たらず疑わしいとの指摘がある。
2017年現在日本で唯一のビー玉製造会社である松野工業によれば、戦後大阪でビー玉を製造していた6、7軒の会社のうちどこかが「A玉・B玉」の等級で区分していたという話を聞き、そこから松野工業でも「ビー玉」と呼ぶようになったという。
一方、ラムネメーカーの倉敷鉱泉は、玉に多少のゆがみ・傷があってもビンの口ゴムで問題なく密閉されること、明治から昭和初期の技術で検品は難しいであろうことから「A玉・B玉」の等級の存在自体に否定的な立場を取っている。
ビー玉遊びには地方によって様々なルールがあるが、その基本ルールは、ビー玉の所有権のやりとりである。多くの場合、自分のビー玉を弾いて相手のビー玉にぶつけて遊ぶが、ぶつけることによって玉の所有権の移転が発生し、ぶつけられた玉はぶつけた者の所有となる。つまり、Aが自身の所有する玉aを、Bの所有する玉bにぶつけた場合、ぶつけられた玉bの所有権は、BからAに移転する。玉を取られた方は、新たな玉を出して再戦に臨む。これを繰り返して、時にBが勝ち、時にAが勝って、玉のやりとりが行われる。このやりとりにさらに数人が加わることも可能で、4〜5人で遊ぶ場合も多い。また、単にぶつけることだけを目的とし、所有権の移転が発生しない取り決めのもとに遊ぶ場合もある。
近畿地方の一部地域では、「ビーダン」はビー玉そのものを指す呼称であると同時に、ビー玉を使った屋外遊戯の総称でもあった。厳格なルールのもと数段の手順を踏み、最終的にはビー玉のやりとりを目的とした。以下にそのルールを説明する(このルールはかつて近畿地方の一部で遊ばれていたルールであり、あくまで参考資料として記述する。地方・時代により、この遊びそのものの名称・ルール細目・使用される用語等には小異がある)。
2016年にガンビアで行われた大統領選挙では、政党名などが書かれたドラム缶にビー玉を落とす方法で投票が行われた。
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だるまさんがころんだ
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だるまさんがころんだ(達磨さんが転んだ)は、鬼ごっこの変種のひとつであるこどもの遊び。もともと鬼が10拍数えるルールだったが、拍を数える代わりに10文字の文章を唱えることが行われ、関東などでは「だるまさんがころんだ」という文章が選ばれたので、(標準語としては)この遊びが「だるまさんがころんだ」と呼ばれるようになった。ただし10文字の文章は地域によりかなり異なっており、この遊びの呼び名も日本の各地域で異なっている。
『みんなのうた』(NHK)で放送された歌については#題材とした作品を参照。
なお「だるまさんがころんだ」など10文字の文章は、この遊びに限らず10拍数える代わりに使われることがある。
鬼ごっこの変種のひとつで、鬼が「だるまさんがころんだ」という掛け声を唱えることからこの名前がついた。日本では一人を鬼、その他多数を普通の人に見立てて、鬼のほうは多数の人を監視し捕えることを目的とする。一方、多数のほうは鬼に動きは見られないように鬼に近づき、何か特定のアクションをとり鬼の力を決定的に削ぐのが目的である。他の鬼ごっこに似た遊びとは違い、基本的に鬼は自陣から動かない。唱える言葉は「だるまさんが転んだ」の他にも、地域によりさまざまなバリエーションがある(「10文字の文章」参照)。
ルール上、他の遊びと異なり「動くこと」でなく「動かないこと」を求められるゲームであり、座ったままあるいは寝たままでのゲーム参加も可能なので、介護の場や特別支援教育でも活用されることが多い。その場合は鬼へのタッチが困難になるため、「既定の回数生き残った者の勝ち」「誰が最後まで残れるか競う」等、独自のルールになる場合も多い。
近頃はこれより派生した「だるまさんの一日」という少し違う遊びがある。
実は、日本の《だるまさんがころんだ》に類似した子供の遊び、つまり『子供が「一対多」に分かれて、一人のほうは一定の間(ま)をとる間は見てはならず、多数のほうは見られていない間だけに行動でき一人に近づいてゆく』という子供の遊びは、日本だけでなく世界各地に古くからある。→#世界の類似の遊び
以下、日本のだるまさんがころんだについて解説する。
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だるまさんがころんだ
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実は、日本の《だるまさんがころんだ》に類似した子供の遊び、つまり『子供が「一対多」に分かれて、一人のほうは一定の間(ま)をとる間は見てはならず、多数のほうは見られていない間だけに行動でき一人に近づいてゆく』という子供の遊びは、日本だけでなく世界各地に古くからある。→#世界の類似の遊び
以下、日本のだるまさんがころんだについて解説する。
地域や場面、コミュニティにより様々なルールがあるため一概に言うことはできないが、概ね、ひとりの"鬼"、および多数の普通の人にわかれ、『鬼は「だるまさんが転んだ」など10文字の文章を言う間は参加者に背を向けるなどして、参加者の方を見てはいけない。10文字の文章を唱え終えたら振り返って参加者の動向を見てよい』『鬼が見ている間に動いた者は鬼に捕まる』『参加者は鬼が見ていない間だけ行動を許される』『生き残った参加者が鬼に何らかのアクションを取ったところで捕まっていた者は全員解放され、1回の遊びが終了する』の4点を基本とすることが多い。
この遊びで各人が目指すこと(各人の目的)は、鬼にとっては参加者らが動いているところを発見して参加者全員を捕えることであり、一方、鬼以外の参加者が目指すことは、「鬼が見ていない間」に行動し、鬼の背にタッチするなどの決定的なアクションをとることである。
次に、時間順に具体的な進め方を説明する。
多くの鬼遊びでは次の鬼を決める場合、「最初に鬼に捕まった者」「再びじゃんけんで決め直す」「希望者を募る」など単純な手順で選定される傾向にあるが、「だるまさんが転んだ」においては1ゲームが比較的短く終わるため、次の鬼を決める手順もゲーム化されている場合が多い。以下に実例を示す。
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だるまさんがころんだ
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次に、時間順に具体的な進め方を説明する。
多くの鬼遊びでは次の鬼を決める場合、「最初に鬼に捕まった者」「再びじゃんけんで決め直す」「希望者を募る」など単純な手順で選定される傾向にあるが、「だるまさんが転んだ」においては1ゲームが比較的短く終わるため、次の鬼を決める手順もゲーム化されている場合が多い。以下に実例を示す。
上記のように、派生した遊びである「だるまさんの一日」と呼ばれるゲームも存在する。基本的なルールとしては当該グループで行われる「だるまさんが転んだ」に準じて行われることが多いが、掛け声が『だるまさんが○○(「ご飯を食べた」、「寝た」等何らかの行動が入る)』となり、参加者側は通常と異なり停止ではなく『○○』に入る行動の演技を要求される。従って、指示にもよるが必ずしも静止する必要はなく、あくまで演技であるため意に反した行動をとる必要はない。こうした違いがあるため、鬼は『動いた者』ではなく『指示した行動の演技に見えない者』を捕まえていくことになるが判断基準として難しく、どちらかと言えば如何に上手く(あるいは面白く)演技をするか、もしくは鬼が如何に意表を突いた指示を出すかという遊びになることが多い。
遊びを円滑に進めるため、いくつかの禁則を設ける場合がある。これらの禁則はそのコミュニティの性質などによってローカルルールとして設けられるものがほとんどである。これらの禁則を破ったものは通常、鬼と交代させられたり(鬼以外)、最初からやり直し(鬼)となる。指名や数の指定に関する場合は他の参加者に再考を促されるか、指定権が他者に移譲されることも多いが、場合によっては口論の原因となることがある。
もともとは10拍を「いち、にい、さん、し...」と数えていたが、面倒だから10文字の言葉に置き換えた、あるいは特に幼い子供には難しいので幼い子でも参加しやすいように10文字の文章を言うようになった、と考えられている。
地方や年代によって、10文字の文章は異なっている(なお「だるまさんがころんだ」を、後になって地域ごとに勝手に置き換えたというよりも、古くから地域ごとに10文字文章は異なっていた、と理解したほうがよい)。したがって元々、地域ごとにこの遊びの呼び名も異なっている。
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だるまさんがころんだ
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地方や年代によって、10文字の文章は異なっている(なお「だるまさんがころんだ」を、後になって地域ごとに勝手に置き換えたというよりも、古くから地域ごとに10文字文章は異なっていた、と理解したほうがよい)。したがって元々、地域ごとにこの遊びの呼び名も異なっている。
日本の《だるまさんがころんだ》に類似した子供の遊び、つまり『子供が「一対多」に分かれて、一人のほうは一定の間(ま)をとる間は見てはならず、多数のほうは見られていない間だけに行動でき一人に近づいてゆく』という子供の遊びは、日本だけでなく世界各地に古くからある。
ルールが日本のものにかなり近い国と、それなりに異なる国がある。世界的には『多数のほうは、動いているのを見られたら、スタートラインまで戻らなければならない』というルールのほうが一般的。英語圏ではレッドライト・グリーンライト(red light, green light)つまり「赤信号・青信号」と呼ばれている。
日本では一人のほうを "鬼" に見立てるが、他の国では「見立て」が異なり、アメリカなどではこの遊びを「statues 彫像」などと呼ぶことがあり、つまり多数のほうが静止した状態を彫像に見立てており、イギリスでは「Fairy Footsteps (妖精の歩み)」などと呼ぶ(つまりイギリスでは、近づく多数のほうを"妖精"に見立てている)。ドイツではOchs am Bergと呼び、「うさぎが野をよこぎる」などと唱え、多数のほうをうさぎに見立てている。
英語圏の類似の遊びに、レッドライト・グリーンライト(Red light, green light)がある。遊び方にはいろいろな変種があるが、基本的には参加者は鬼から離れたところからスタートし、最初に鬼に触った人が勝ちとなる。ただし動くことができるのは鬼が後ろを向いて「グリーンライト」(青信号)と言ったときだけで、鬼はいつでも突然振り返って「レッドライト」(赤信号)と叫ぶことができ、このときただちに静止しないと、その参加者は失格になる。
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だるまさんがころんだ
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「ある言葉を言っている間だけ動いて良いというルールで、そっと鬼に近付いていく」という点で、日本のだるまさんがころんだによく似ている。一方、顕著な違いとして、日本のだるまさんがころんだでは鬼にならないことが参加者の目的であり、参加者らは鬼でない「みんな」の中にとどまろうとし、敗者が次の鬼となるのに対し、レッドライト・グリーンライトでは鬼になることが参加者の目的であり、参加者は「みんな」と違う特権的な信号灯役になろうとし、勝者が次の鬼となる。
壁の方を向いて「だるまさんが転んだ」と唱えている間は参加者の様子が全く分からないという性質から「見ていない間に背後で何かが起きているかもしれない」という不気味さが想起されるためか怪談と結び付けられることも多い。パターンは何種類かあるが、唱え終わって振り向くと参加者が消えていた、あるいは振り向くと見知らぬ不気味な参加者が紛れ込んでいるなど、「目隠ししている間に何かが起きた」といった形で語られるケースがほとんどである。また、都市伝説においては「入浴中、目をつぶって洗髪している姿勢は『だるまさんがころんだ』に見えるため、この時に心の中ででも『だるまさんが転んだ』と唱えてしまうと遊びに参加しようとした何者かを引き寄せてしまい、顔を上げると鏡に何らかの怪異が映り込む」とする話もある。
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我孫子武丸
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我孫子 武丸(あびこ たけまる、1962年10月7日 -)は日本の小説家、推理作家。本名は鈴木 哲(すずき あきら)。ペンネームは島田荘司の命名。
兵庫県西宮市生まれ。京都大学文学部哲学科中退。大学在学中は京都大学推理小説研究会に所属。
1989年、『8の殺人』で小説家デビュー。速水三兄妹・人形シリーズなどのコミカルタッチや女性視点の作品から、腐蝕シリーズ、『殺戮にいたる病』などの重いタッチの作品まで、幅広く手がける。また、漫画作品『半熟探偵団』(絵:河内実加)の原作も手がける。推理小説以外にも『凛の弦音』のような学校を舞台にした青春小説もある。
1994年に発売されたサウンドノベルゲームソフト、『かまいたちの夜』のシナリオを担当し、ゲーム業界において高い名声を得る。本作はいくつかの選択肢があるものの、基本的に小説を読み進めるだけのゲームであるが、内容はこれまでにない本格ミステリーであり、プレイヤーに推理させ文字入力により回答させることが受け、大ヒットとなった。ゲームに詳しい我孫子は、ゲームシステム面でのアドバイスを行っている。
日本テレビの番組、『マジカル頭脳パワー!!』の「マジカルミステリー劇場」に原案ブレーンとして、またTBSで1994・1995年に放送された『超難解推理クイズ 頭脳警察(パート1・2)』にも、問題作成ブレーンとして参加したことがある。
作中で活躍する探偵役としては、速水三兄妹、鞠小路鞠夫が主なシリーズ探偵であるが、近年ではノンシリーズでの執筆が主である。2004年から2007年にかけては作家直送オンライン販売サイトe-novelsの運営を手がけ、また宮崎あおいの昔からのファンとしての一面もある。
2015年から2017年まで、本格ミステリ作家クラブの監事をつとめる。
「」内が我孫子武丸の作品
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鉄腕アトム
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『鉄腕アトム』(てつわんアトム、日本での英題はMighty Atom)は、手塚治虫のSF漫画作品及び同作を原作としたテレビアニメ、特撮テレビ番組の作品名、並びに作品内の主人公である架空のロボットの名称である。テレビアニメ版で使用された主題歌の曲名でもあり、同シリーズゲームのタイトル名にもなっている。
21世紀の未来を舞台に原子力(後に核融合)をエネルギー源として動き、人と同等の感情を持った少年ロボット・アトムが活躍する物語。米題は『ASTRO BOY(アストロ・ボーイ)』。1981年には関連書籍の発行部数が累計1億部を突破した。
本作は、1951年4月から1952年3月に連載された『アトム大使』の登場人物であったアトムを主人公として、1952年4月から1968年3月にかけて、「少年」(光文社)に連載され、1963年から1966年にかけてフジテレビ系で日本初の30分テレビアニメシリーズとしてアニメ化された。このアニメ第1作は平均視聴率27.4%を記録しその後、世界各地でも放映された。詳細は鉄腕アトム (アニメ第1作)の項目を参照。
後に『アトム大使』を『鉄腕アトム』の設定に擦り合わせて改変した『鉄腕アトム 大使の巻』として組み込まれるなど、本編がスピンオフに歩み寄る逆転現象が起きた。
1980年には日本テレビ系でカラー版の第2作目のアニメが制作され、さらに1作目と同じくフジテレビ系にて2003年に『ASTRO BOY 鉄腕アトム』として3回目のリメイクが放映、2009年にはCG映画『ATOM』が公開されている。
現在の日本のロボット工学者たちには幼少時代に『鉄腕アトム』に触れたことがロボット技術者を志すきっかけとなっている者も多く、日本のロボット技術の発展には本作が大きく貢献しているとされる。一方で、反原発派からは原子力の利用に対する現状との関係を批評・批判する書籍も出されている。なお、原作者は原子力発電を推奨する意図はないと述べている。
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鉄腕アトム
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現在の日本のロボット工学者たちには幼少時代に『鉄腕アトム』に触れたことがロボット技術者を志すきっかけとなっている者も多く、日本のロボット技術の発展には本作が大きく貢献しているとされる。一方で、反原発派からは原子力の利用に対する現状との関係を批評・批判する書籍も出されている。なお、原作者は原子力発電を推奨する意図はないと述べている。
アトムは初登場の作品である光文社の雑誌「少年」連載の漫画『アトム大使』では脇役だった。その作品自体の人気も今ひとつであったが、『少年』編集長の金井武志は「弱さや人間らしい感情のあるロボットを主人公にすれば読者に受け入れられる」と手塚に提案し、アトムを主人公として設定を少し変更した上で描かれたのが本作である。アトム大使連載最終回には、次号からは「鉄人アトム」がはじまりますと予告されていたが「鉄腕アトム」になった。
原作の公式設定では、2003年4月7日がアトムの誕生日とされる。製作者は天馬博士。交通事故死した博士の息子の「天馬飛雄」に似せて作られ、当初は「トビオ」と呼ばれていた。トビオは、人間とほぼ同等の感情と様々な能力を持つ優秀なロボットであったが、人間のように成長しないことに気づいた天馬博士はトビオをサーカスに売ってしまう。サーカスにおいて団長に「アトム」と名付けられる。やがて法律が制定されて感情を持つロボットに対して人間と同等に暮らす権利が与えられるようになると、アトムの可能性に着目していたお茶の水博士に引き取られた。そして情操教育としてロボットの家族と家を与えられ、人間の小学校に通わされるようになる。学校での生活は、同級生達と紆余曲折しながらも仲良くやっている。
性格は真面目で正義感が強く、困窮した者には自身を犠牲にしてでも手を差し伸べる優しい心を持つが、時にロボットである自分に苦悩や葛藤することも多い。また「アルプスの決闘の巻」では複雑な感情を抱けない(芸術や自然への感動や恐怖心がない)という劣等感から、お茶の水博士に人造心臓を取りつけてもらって人間と同レベルの感情を一時的に得たことがある(その後両親をさらった敵との戦闘で恐怖から体がすくんで手も足も出なくなったため、ケン一によって人造心臓を破壊された)。
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鉄腕アトム
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誕生日の4月7日は本作の連載が始まった「少年」の発売日であった。原作では、「ミーバの巻」(1966年9月号 - 12月号)での天馬博士のセリフなどに誕生日についての記述がある。連載当時と小学館ゴールデンコミックス版では2013年4月7日と記載されており、朝日ソノラマサンコミックス版以後2003年4月7日に改められた。アニメでも第1作目は誕生から約1年後に「ロボットC3号(俗称トビオ)」として売られた日が2001年11月、アニメ第2作は2030年に誕生など設定に違いがある。
アトムの赤い靴はアニメ第2作では名付け親であるロボットサーカスの女の子ロボットのキャシーから譲られ、最終回では形見代わりにニョーカの足が移植されている。
物語の中では苦労して市民権を得たが、現実の2003年4月7日、アトムはお茶の水博士を世帯主として手塚プロの所在地である埼玉県新座市の市民に登録され市役所の前でアニメキャラクターとしては初のアトムの特別住民票が配付された。
アトムの髪型は、作者である手塚のくせ毛がモデル。アトムの特徴はMighty Mouse(マイティ・マウス)を元にしており、英題もMighty Mouseに倣って「Mighty Atom」としている。また、『少年』連載時には手の指は4本で描かれることが多かった。
『アトム大使』の物語では、我々が住んでいる「地球」とは別の、もうひとつの星「地球」の人々が、その星の大爆発によりロケット団で宇宙を長く放浪して偶然に我々の「地球」を発見して着陸したが、どちらの地球人もよく似ており、はじめは友好的関係を保って生活をした。しかし、食糧問題などを心配した「もともと地球に住んでいる地球人」が「宇宙を渡ってきた地球人」と対立(反対派の頭目は天馬博士)。
「地球に住む地球人」のロボットであるアトム(天馬博士のロボット)が両側の間に入って交渉して宇宙人の代表に対して誠実さの証しを見せるための自らの頭部を差し出したことで対立は収まり(天馬博士は自分の作ったクスリでゴミのように小さくなってしまう)、地球人と宇宙人は半分ずつ金星に飛び立つという物語。
なお、最後にお礼として、アトムは「宇宙を渡ってきた」地球の人々から大人の顔を貰う。
アトムは7つの力を持っているが内容は以下の通り多少のバリエーションがある。
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鉄腕アトム
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なお、最後にお礼として、アトムは「宇宙を渡ってきた」地球の人々から大人の顔を貰う。
アトムは7つの力を持っているが内容は以下の通り多少のバリエーションがある。
その他、身長135センチ、体重30キログラム。電子頭脳は頭部ではなく胴体内上部に設置されていて、頭部は単なる飾りとされ、透視図では頭部にセンサー類が集中しているようだが、作中では頭部が外れてしまったり、頭なしでも活動可能な描写があり、胴体にもセンサー類は搭載されている模様。電子頭脳については、「アトム今昔物語」などの記述によると1970年代に開発された超小型の原子力電子計算機が基になっているとされる。胸にはメンテナンス用の蓋があって、その内側には簡易的な修理のマニュアルと交換用の真空管が備えられていた。また電源スイッチもここにあるようで、原作の「火星探検の巻」ではお茶の水博士がアトムを航空機に乗せる際、手荷物扱いにするためにこの電源スイッチを切ってトランクに収納するシーンがある。原作及びアニメ第1作ではこの蓋の内部と尻の2か所にエネルギーの補給口があり、ここに給油ホース状の物を接続して液体とおぼしきエネルギーを補給する仕組み。またアニメ第2作では胸部ハッチの内部にカセット状の小型エネルギータンクを入れるスペースがあり、タンクごと交換する形で補給を行っていた。なお動力部である原子炉については「原子力モーター」という表現もあり、現在の原子炉と同じ物かどうかは不明。作中でしょっちゅうエネルギー切れを起こす描写がある事から、現在の原子炉とは異なるメカニズムである可能性も高い。使用しているエネルギーは「エネルギーチューブ」とも称されていて作中世界では現在の電力か石油並みに普及している物であり、ほとんどのロボットや兵器などの機械に使われているようである。「アトム今昔物語」の記述によるとこのエネルギーチューブは1990年代にアメリカで開発された物で、当時は非常に高価で用途もごく限られていたという。またエネルギーチューブの成分はウラン化合物とされており、アトムが使用したエネルギーの残りカスを排出するためにトイレに行くシーンもあった。この残りカスが現在の原子炉の使用済み核燃料と同じ物かは不明だが、天馬博士は放射能汚染を心配する妻・星江に「昔の原子力船じゃない、放射能のカスなんか出さんよ」と語っている。
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鉄腕アトム
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飛行能力に関しては、大気圏内では体内に搭載された原子炉(後に核融合炉)の膨大な熱エネルギーを利用することで、吸入した大気を熱膨張させてジェットの推進力に使用し、大推力と大気中での超音速巡航が可能。宇宙空間(大気圏外)では体内の核融合炉で発生させたプラズマを噴射し、ロケットの推力を得ている。これにより自力での大気圏突破と宇宙巡航が可能である。また、核融合反応によって生成されたプラズマは超電導MHD発電によって電力にも変換されている。
アトムの身体を覆う人工皮膚は、ケブラー繊維とカーボン・ファイバーを織り込んで造られており、防水機能のほかに小火器程度の被弾では損傷しない性能を持っている。この外殻には2タイプの数千個にのぼるセンサーが埋め込まれている。一つは感覚センサーで、触覚と温度を知覚するもの。
ミュンヘン工科大学のゴードン・チャン教授師事の研究チームでは(接触・加速・近接・温度を検出できるセンサとマイクロプロセッサを搭載した)「六角形人工皮膚セル」を開発、全身に1260個の「六角形人工皮膚セル」を装備した試作型人型ロボット『H-1』を開発した。
もう一つは内蔵された小型無線受信機に接続する通信センサーである。整相列の通信センサーによって、アトムはいながらにしてパラボラ・アンテナ機能を持つ事ができ、人工衛星や他の電波源を選択して聴取できるのである。付属機能として、動物の電界を探知でき、それによって暗闇のなかの生物、もしくは隠れた生物の存在を「見る」という(鮫に似た)能力を発揮できる。「アトム今昔物語」などの記述によるとこの人工皮膚は1980年代にプラスチックを基に開発された物で、格段に優れた強度・耐熱性を持つという。ただしさすがに数千°Cレベルの高熱には耐えられないようで、「人工太陽の巻」では人工太陽の高熱で手足と体表が熔けてノッペラボウの丸太のような姿になってしまったり、「エジプト陰謀団の秘密の巻」では身体が熱せられた状態で海中に出たため体表が急冷されてヒビ割れができたりもした。
アトムの視覚映像システムは頭部に収められている。アトムは乏しい光源しかなくても、スターライト・スコープのようにその信号を増幅して見ることができる。また、このシステムは赤外線映像や紫外線映像にも切り替えられる。
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鉄腕アトム
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アトムの視覚映像システムは頭部に収められている。アトムは乏しい光源しかなくても、スターライト・スコープのようにその信号を増幅して見ることができる。また、このシステムは赤外線映像や紫外線映像にも切り替えられる。
アトムが実現するには複数のアクチュエータと関節をフレキシブルに結合し、複数のアクチュエータが必要に応じて協調し大出力や高速動作を実現する多自由度干渉駆動技術が必要。現実にこの技術は筋電義手の研究開発を行なっている電気通信大学・横井 研究室の横井浩史教授が研究している。
飛ぶときは一方の手をゲンコにして突き出し、一方をハスに構える。これは英題『Mighty Atom』の由来でもあるマイティ・マウス (アニメ)の主人公の影響。
アトムの家族の名前はパパ(エタノール)を除き、元素名に由来している。アトムはAtom(原子)、ウランはUranium(ウラン)、コバルトはCobalt(コバルト)など、基本的に原子力に深く関わる元素から取られている。
本作の世界で、人間に準じた権利と地位をロボットに保証し、かつロボットが守るべき義務を定めた法律。アトムがサーカス団からお茶の水博士に引き取られたのも、この法律の制定の結果であるとされている。ただし、最初の『アトム大使』ではこの設定は登場しておらず、その後の連載やテレビアニメ化の過程で内容が徐々に追加されていった。『少年』連載版で具体的な内容が登場するのは「海蛇島の巻」「幽霊製造器の巻」「キリストの目の巻」「青騎士の巻」である。このうち、同法にまつわるジレンマを掘り下げて描いた「青騎士の巻」で最も詳しく紹介されている。
アイザック・アシモフ作品におけるロボット工学三原則と内容的に重なる部分もあるが、手塚自身は、本作のロボット法は独自に考案したものであると説明していた。
ロボット兵器をめぐる議論の中で、この「ロボット法」が取り上げられている。
他に、メインではないがアトムの登場する番外編として「わが名は百科」や、ゲスト出演の「ブラック・ジャック『おまえが犯人だ!!』」などがある。
ISBNは判明しているもののみ表記している。
本項目では『鉄腕アトム』関連の漫画全集のみ表記している。他作品については手塚治虫漫画全集#作品を参照されたい。
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鉄腕アトム
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ロボット兵器をめぐる議論の中で、この「ロボット法」が取り上げられている。
他に、メインではないがアトムの登場する番外編として「わが名は百科」や、ゲスト出演の「ブラック・ジャック『おまえが犯人だ!!』」などがある。
ISBNは判明しているもののみ表記している。
本項目では『鉄腕アトム』関連の漫画全集のみ表記している。他作品については手塚治虫漫画全集#作品を参照されたい。
『ほるぷ版 手塚治虫選集』(全20巻)の中で1 - 6巻が『鉄腕アトム』の選集となっている。本項目では『鉄腕アトム』の選集のみ表記している。
手塚治虫のデビュー40周年を記念して出版された。『手塚治虫作品集』(全11巻)の中で9 - 11巻が『鉄腕アトム』の名作集となっている。本項目では『鉄腕アトム』の作品集のみ表記している。
手塚治虫のデビュー40周年を記念して出版された。『手塚治虫アニメ名作集』(全16巻)の中で1 - 3巻が『鉄腕アトム』の名作集となっている。本項目では『鉄腕アトム』の名作集のみ表記している。
本項目では『鉄腕アトム』関連の文庫全集のみ表記している。他作品については手塚治虫文庫全集#作品を参照されたい。
注記:「特撮秘宝vol.5」(洋泉社MOOK 別冊映画秘宝)、洋泉社、ISBN 978-4-8003-1127-6(2016年12月5日)に、この紙人形劇鉄腕アトムとテレビ実写版鉄腕アトムに関する資料が掲載されている。
原題は『Little Astro Boy』。2014年3月よりナイジェリアでの放送を主目的として、同国の民間テレビ局「チャンネルズTV(英語版)」にて1話15分で全8話を制作・放送。手塚プロダクションが海外市場の開拓を図るため、様々なリサーチからアフリカ市場に将来性を感じ同局と共同制作した。視聴層を低年齢向けに定め、アトムは原典よりも幼い外見にリ・デザイン。内容も「ロボタウン」を舞台にアトムが人間やロボットの仲間たちと悪者を退治したりカーレースをする日常風景を単純明快に描く。2015年11月には日本向けローカライズ版『ろぼっとアトム』としてDVDソフト化され、ハピネット・ピクチャーズより販売。
最晩年の石ノ森章太郎の対談では、悪書追放運動などの漫画バッシングの中、受けを狙って書いていた駄作であり、僕の好きな作品のトップ100にも入らないとしている。
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鉄腕アトム
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最晩年の石ノ森章太郎の対談では、悪書追放運動などの漫画バッシングの中、受けを狙って書いていた駄作であり、僕の好きな作品のトップ100にも入らないとしている。
イタリア技術研究所(IIT)(英語版)を中心に研究・開発がおこなわれている子供型二足歩行ロボット。 身長104cm、体重22kg、全53自由度の3歳半の子供サイズの人型ロボット。設計はオープンソースとなっており、如何様にもカスタマイズ可能。将来的にはドイツの「JETCAT」社製造の模型飛行機用ターボジェット『JETCAT P-100RX』エンジン(推力:10.9kg)および『JETCAT P220-RXi』エンジン(推力:22.4kg)を(左右腕部に各々『JETCAT P-100RX』エンジン1基ずつ2基、左右背部に各々『JETCAT P-220-RXi』1基ずつ2基の合計4基)装着することにより、(短時間ではあるが)時速30km程度での低空下での自律飛行の実現を目指している。
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形態素解析
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形態素解析(けいたいそかいせき、Morphological Analysis)とは、文法的な情報の注記の無い自然言語のテキストデータ(文)から、対象言語の文法や、辞書と呼ばれる単語の品詞等の情報にもとづき、形態素(Morpheme, おおまかにいえば、言語で意味を持つ最小単位)の列に分割し、それぞれの形態素の品詞等を判別する作業である。
自然言語処理の分野における主要なテーマのひとつであり、機械翻訳やかな漢字変換など応用も多い(もちろん、かな漢字変換の場合は入力が通常の文と異なり全てひらがなであり、その先に続く文章もその時点では存在しないなどの理由で、内容は機械翻訳の場合とは異なったものになる)。
もっぱら言語学的な観点を主として言語学で研究されている文法にもとづく解析もあれば、コンピュータ上の自然言語処理としてコンピュータでの扱いやすさに主眼を置いた解析もある。以下は後者のためのツールを用いた例で、「お待ちしております」という文を形態素解析した例である (「茶筌」を使用した)。
自然言語以外の場合では、プログラミング言語などの場合は字句解析が相当する。
英語の文は日本語とは異なり、予め単語と単語の区切りがほとんどの箇所で明確に示される。このため、単語分割の処理は日本語の場合ほど複雑である必要はなく、簡単なルールに基づく場合が多い。
例えば「It's a gift for Mr. Smith.」という文を解析することを考える。単語分割をすると以下のようになる。
it's の分割として it / 's にするか it / is にするかはしばしば議論の対象となるが、所有格末尾の 's が誤って is になることを防ぐために、 's にすることが多い。
品詞付与はルールに基づくものから統計に基づくものまで利用される(下記の例は Stanford POS Tagger による)。
英語の場合と異なり、文節を得るのが目的となることが多い。大まかに言えば文から切り出した単語が属する品詞を辞書(自然言語処理用の)を用いて調べていき、結果得られた並びから正しく文節が構成される並びであるものを正解であるとするといったような方法を取る。
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形態素解析
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品詞付与はルールに基づくものから統計に基づくものまで利用される(下記の例は Stanford POS Tagger による)。
英語の場合と異なり、文節を得るのが目的となることが多い。大まかに言えば文から切り出した単語が属する品詞を辞書(自然言語処理用の)を用いて調べていき、結果得られた並びから正しく文節が構成される並びであるものを正解であるとするといったような方法を取る。
日本語文法では、たとえば動詞のあとに格助詞がくることはできない(「ドアを開けるを」などは不可)といったように、ほとんどの付属語について「このようなものの後には付く」「このようなものの後には付かない」という規則性があり、また動詞の活用はその後に来る品詞を制限することがある(たとえば連体形の後は名詞)。このような性質を利用することによって単語の境界の判別を行う。具体的にこの性質を利用する方法には以下の2つがある:
長尾真らの1970年代後半の研究では、次のようなアルゴリズムによる形態素解析処理を構築した。
前提として、漢字で書かれた部分は基本的に切り分けず、そこが自立語(あるいは自立語の語幹)になると想定している。従って、漢字で書かれた自立語の辞書(テーブル)は持たない。このとき使われるテーブルには、次のものがある。
この中で、接続テーブルが規則に相当する。形態素解析における品詞の接続関係は必ずしも通常の文法通りではなく、解析の効率や、形態素の切り分けがなるべく100%となる(切り分け不能とならない)よう考慮して設計される。このような規則を「文節構造モデル」と呼び、首藤公昭らの研究がある。
昨今の日本語や英語などの形態素解析では統計的な手法が利用される。主な手法に「ラティス上の経路予測」と「点予測」が存在する。
ラティス上の経路予測では、事前に生成可能な単語列 (ラティス) を辞書を使って網羅的に列挙し、各単語間の連結部において両単語が連結して出現する確率に相当するスコアを付与する。文全体でこのスコアの合計がもっとも高くなるような品詞列を答えとする。スコアの計算は隠れマルコフモデル (HMM, Hidden Markov Model) や条件付き確率場 (CRF, Conditional Random Field) などによりモデル化する。
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形態素解析
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次に点予測 (Pointwise prediction) による手法がある。点予測ではすべての文字の境界に対し、分割可能かどうかをサポートベクターマシン (SVM, Support Vector Machine) 等の分類器により判定する。分割可能な場合はその点が単語区切りとなる。分割判定には、分割点の周りの文字やその種類、部分文字列が単語辞書に含まれるかどうかといった情報が与えられる。品詞推定においても、ある判定箇所について、その単語と周りの単語から SVM などにより判定する。
点予測は、辞書を使って単語ラティスを生成する必要がないというメリットがある。このため、入力文中の単語が辞書に無い場合 (未知語を含む場合) でも、周りの文字列を使って単語らしい部分を識別可能な場合があり、辞書が貧弱でも比較的高い精度で解析できる。さらに、ラティスの生成には原理的に文の長さをnとしてO(n)の時間を要するが、点予測では各文字間について判定するだけのためO(n)の時間で済む。
いずれの手法でも、ある特定の言語の全世界における全文章データを元にモデルを作成することは事実上不可能であるし、さらに、そもそも文章化されたデータからモデルを学習したとしても、それが元となる文章の解析には最適であるものの、それ以外の(たとえばモデルから見ればまったく手付かずで未知の、今から解析しようとする)文章には適しているかどうかは保証が無い事などから次の節で述べるような問題も発生する。
日本語を形態素解析する際においては、以下の4つが大きな問題となる:
単語の境界を判別することはかな漢字変換の基礎となる技術である。しかし、単語の境界判別を正しく行うためには与えられた文以外の様々な知識、情報が必要となる場合があり、そのため解決が困難である。
たとえば「うらにわにはにわとりがいる」という文には、以下の様に(意味的には解釈に失敗しようとも)文法的に正しい異なる読み方が存在する(本当はもっとある):
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形態素解析
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単語の境界を判別することはかな漢字変換の基礎となる技術である。しかし、単語の境界判別を正しく行うためには与えられた文以外の様々な知識、情報が必要となる場合があり、そのため解決が困難である。
たとえば「うらにわにはにわとりがいる」という文には、以下の様に(意味的には解釈に失敗しようとも)文法的に正しい異なる読み方が存在する(本当はもっとある):
上記最後の文の意味解釈は、"埴輪取り"と呼ばれる人あるいは物が存在したという特殊な状況下では意味的にも解釈に成功するだろうが、一般にそんな例は全くといっていいほど無い。しかしそれは"埴輪取り"なるものが実際には存在しないという経験的な知識による人間らしい判断であって、コンピューターなどの計算機を用いた解析では、文法や単語の辞書的データを超えるようなそういった知識も導入したとすると必要な知識が膨大に用意される必要があり、現実的ではない。この文の様に、完璧な正解を得るにはその文がおかれている文脈や書き手の意図等の背景をくみとらねばならないため非常に難しい。
文中の品詞が常に一意に確定できるわけではない。
たとえば名詞と形容動詞の間には「別」「イロイロ」など、形容動詞と形容詞の間にも「アタタカ」「ヤワラカ」という連続領域があるという指摘がある。 より具体的には「それとこれは話が別だよ」という文章の場合、「別だ」という形容動詞に「よ」という終助詞がついたもの、「別」という名詞に「だよ」という終助詞がついたものという2通りに解釈することができる。しかもこの場合にどちらで分けても、文章の意味は変わらない上に、形態素の区切りの位置も一定ということが保証されない。
このような品詞分類の曖昧さは他の言語でもよく見られる。たとえば英語で "It is light." という文章は、lightを「光」という名詞にも「軽い」という形容詞にも判別することができる。
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形態素解析
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このような品詞分類の曖昧さは他の言語でもよく見られる。たとえば英語で "It is light." という文章は、lightを「光」という名詞にも「軽い」という形容詞にも判別することができる。
形態素解析は普通、その言語の単語を収めた辞書を用いておこなわれる。解析対象の文中の辞書に含まれない単語を未知語と呼ぶ。日本語では漢字の列やカタカナの列はたとえ未知語であってもある程度単語として認識することができる。しかしそれが使えない場合、代表的な方法は「知っている単語が現れるまで読み飛ばす」というものだが、これは後の解析を狂わせてしまい、結果として頑健な解析(より多くの文を解析可能であること)ができなくなってしまう恐れがある。
話し言葉や電子メールなどで使われる言葉は、(たとえば小中学校で習うような)ある特定のモデル化された文法による日本語からはかけ離れたものが多い。たとえば「そんなことは知らないでしょう」が「んなこた知らんしょ」に変化しうる。また電子メールなどでは形態素解析に用いられる辞書には載っていない略語やフェイスマークが使われていることも多い(しかもそれらは一般に常用されるがために日々増えている)。
また、こういった文は校正が不十分なため、書き手の誤りが入っている場合が多くある。しかも、こういった誤りが繰り返されれば正用とみなされる場合すらある。このような文に対応した解析手法を頑健な解析と呼ぶ。このような文に対応するためには、正しい文が入力されるという前提の設計に基づく現在の形態素解析の手法を、誤りが含まれる様な文にも対処可能なように根本から見直す必要があるが、言語資源の不足のためあまり研究はされていない。
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形態素解析
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英語を含む多くの言語では、単語はふつう空白によってわかち書きされる。このため文を形態素に区切るのは日本語に比べると比較的簡単である (合成語の品詞や、形態素の品詞を見分ける問題は依然として残る)。ドイツ語では複数の単語から合成された名詞が空白による区切りのない一つの単語として表現されるため、わかち書きを行う必要がある。中国語でも単語間の空白がないため、日本語と同様にわかち書きを行う必要がある。また英語や日本語では活用する品詞の種類が少数に限られるため、単語の活用形も含んだものをすべて辞書に収めることができるが、ロシア語、フィンランド語などでは活用はほぼすべての品詞が起こすため、これらの言語では辞書に活用形を全て収めるのは非現実的である。
フリーなライセンスで、自由に入手出来る。
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4月7日
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4月7日(しがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から97日目(閏年では98日目)にあたり、年末まではあと268日ある。
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チャンプカー・ワールド・シリーズ
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チャンプカー・ワールド・シリーズ(英: Champ Car World Series)はかつて存在した、アメリカ合衆国を中心として開催されるフォーミュラカー(オープンホイール)の自動車レース選手権である。カテゴリとしても、また選手権の略称としてチャンプカー(英: Champ Car)と呼ばれることもあった。
運営団体のOWRS(英: Open Wheel Racing Series)は、2003年に経営破綻したCART(カート、英: Championship Auto Racing Teams)からCART ワールド・シリーズを引き継ぐ形で2004年に始まったが、2008年の第1戦ロングビーチGP(英語版)の開催をもって第2戦以降は全戦キャンセルとなり、シリーズを終了した。
レースによっては1イベントで20万人もの観客を集めることもあり人気が高かった。日本でも1992年から2002年まではNHK-BSで、2003年までG+ SPORTS & NEWS(現・日テレG+)で放送されていた。その後は日本でのTV放送はされていないが、公式サイトで年間契約の課金登録をする事により、英語放送のストリーミング中継や、2001年シーズン以降のアーカイブ映像を視聴する事が可能だった。
本項では前身となったインディカー・ワールド・シリーズ(1979年-1996年)及びCART ワールド・シリーズ(1997年-2003年)についても記載する。
1979年より、スポーツカークラブ・オブ・アメリカ(SCCA)に認可されたCART (Championship Auto Racing Teams) が、「インディカー・ワールド・シリーズ」と呼ばれるフォーミュラカー・レース選手権を運営していた。1990年代前半には世界的にも一時期F1と肩を並べる勢いをもった。その中でF1からCART、CARTからF1へとドライバーの移籍交流があった。
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チャンプカー・ワールド・シリーズ
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1979年より、スポーツカークラブ・オブ・アメリカ(SCCA)に認可されたCART (Championship Auto Racing Teams) が、「インディカー・ワールド・シリーズ」と呼ばれるフォーミュラカー・レース選手権を運営していた。1990年代前半には世界的にも一時期F1と肩を並べる勢いをもった。その中でF1からCART、CARTからF1へとドライバーの移籍交流があった。
ただ、そのためにCARTに参戦するアメリカ人ドライバーの減少と、何よりアメリカンレーシングそのものであるオーバルレースの減少に、世界三大レースのひとつで当時CARTの1ラウンドを構成していたインディ500の開催地であるインディアナポリス・モーター・スピードウェイ (IMS)オーナーのトニー・ジョージ(英語版) は不満を持ち、1994年にはIMSが1996年より新しいカテゴリーを発足させる旨の発表をするに至る。その後1995年までにCARTとIMSとの間で何度か交渉が持たれたが話がまとまらず、1996年から2つのシリーズに分裂することになった。
CART側はインディ500をシリーズカレンダーから除き、それまでのレギュレーションのレースを維持する一方で、IMS側は統括組織として新たにインディ・レーシング・リーグ (IRL、現IndyCar) を設立し、インディ500を中心としたオーバルレース専門の選手権インディ・レーシング・リーグを運営開催することになった。
「インディ」はIMSが持つ商標であるため、1997年よりCART側は「インディ」と称することができなくなり、選手権名称は「CART ワールド・シリーズ」に、インディカーとよばれていたマシンはチャンプカー (Champ Car) と名称変更された(チャンプカーとは1909年から続いているアメリカ国内チャンピオンシップを走るマシン、即ちチャンプカー)。ちなみにインディカーはIRL側のマシンの呼称となった。
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チャンプカー・ワールド・シリーズ
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IRLは、1996年のインディ500(英語版)に「25/8ルール」を導入した。これはIRLシリーズに参戦するドライバーに、33台中25台のスタートポジションを保証するというものだ。CARTはこれに猛反発、ミシガン・インターナショナル・スピードウェイにてU.S. 500(英語版)という大規模オーバルイベントを企画し、27台のエントリーを集めた。1997年以降もCARTはインディ500と競合するスケジュールでレースを開催した。
しかし、分裂後もメーカーの参戦、ドライバーレベルの高さ、レースの面白さもあって2001年まで盛り上がりを見せ、分裂前のブラジル・オーストラリアに加え、日本やヨーロッパにも進出したCARTだったが、2001年のポップオフバルブを巡る「ターボゲート」と呼ばれる一連の騒動や、2002年末のエンジン規定改正を巡るいざこざでトヨタ、ホンダが撤退、両社は2003年にIRL主催のインディカー・シリーズへ移籍した事でシリーズ自体の存続が危ぶまれるようになった。また名門ペンスキーをはじめ、それまでの参戦チーム、ドライバーも多数がインディカー・シリーズへと移籍、更には2002年末をもってそれまでの冠スポンサーであったフェデックスがスポンサーシップから降りてしまった事が決定打となり、2003年にCARTは破産した。
破産当時、旧CARTの株式評価額は1株当たり25セントまで暴落し、IRLのトニー・ジョージが吸収合併を見込んだ買収に意欲を見せたが、旧CARTの有力チームのオーナーであり、経営陣にも名を連ねていたジェラルド・フォーサイス(英語版)(フォーサイス・レーシング)、ポール・ジェンティーロジー(英語版)(ロケットスポーツ・レーシング(英語版))、ケビン・カルコーベン(KVレーシング・テクノロジー)およびダン・ペティ(フォーサイス・レーシングの共同オーナー)の4名が連名でOWRS (Open Wheel Racing Series)という新団体を設立、カルコーベンがチェアマンとなる形で旧CARTの存続を目指す事になった。
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チャンプカー・ワールド・シリーズ
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こうしてCARTは2004年にOWRSに全ての資産を売却し、運営団体、名称としてのCARTは消滅。その後チャンプカー・ワールドシリーズ (CCWS) として再生を図っていたが、2007年のシリーズ開幕を前に、タイトルスポンサーであるフォードが「スポンサーシップが経営目標に合致していない」ことを理由に、同年1月26日にタイトルスポンサー契約の打ち切りを決めた。これらの影響に加え、アメリカ国内でのモータースポーツ人気がNASCARに集中し観客動員等の低下傾向が見られるようになったため、トニー・ジョージとケビン・カルコーベンの間でシリーズ合併の交渉が行われ、2008年シーズンからIRLとシリーズを統合することが決定(事実上IRLによる吸収合併であった)。プロモーターとの契約の関係で、同年4月20日にロングビーチ市街地コースで行われるレースを最後にシリーズが終了した。
チャンプカーの吸収合併により、チャンプカー側が開催権を保有していたロングビーチを始めとするロードコースの大イベントの多くや、トップチームのニューマン・ハース・レーシングをはじめ、ロケットスポーツやデイル・コイン・レーシングなどほとんどのチームやドライバーがインディカーへそのまま合流したが、「トニー・ジョージの経営方針への不服従」を直接の理由として、トップチームの一角であったフォーサイス・レーシングがチャンプカーと運命を共にする形でチーム自体を解散、HVMレーシングに「ミナルディ」の名称を貸与していた元F1チームオーナーで名称権保持者のポール・ストッダートも、ジェラルド・フォーサイスと同様の理由でHVMから手を引き、アメリカのレース活動から去っていった。また、エンジンサプライヤーのコスワースとシャーシメーカーのパノスも、チャンプカーの消滅と共にそのままアメリカン・オープンホイールから撤退した。
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チャンプカー・ワールド・シリーズ
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なお、旧チャンプカーの一部の関係者が最後まで従属を拒み続けたトニー・ジョージは、インディ500の開催とIRLを運営する傍ら、(両シリーズの最大のライバルである)ストックカーのNASCARにブリックヤード400の開催を承認するなどの行動をとっており、NASCARを通じてCART/チャンプカーのオーバルレースの開催に間接的に影響力を行使できる立場であった。トニー・ジョージはまた、フォーミュラ1やロードレース世界選手権(MotoGP)をレーストラックを大幅に改修してまでインディアナポリスへ招聘、IRLにおいてはヴィジョン・レーシング(英語版)を主催し継子のエド・カーペンターをメインドライバーに起用するという露骨な縁故主義を示した。結果としてIRLは2000年代初頭のCART全盛期には、インディ500を除くほとんどのレースイベントにおいて不入りに喘ぐ状況であった。1996年シーズンの時点でNASCARとCARTの全米視聴率はほぼ拮抗していたが、CARTの弱体化に伴いNASCARは全米最大の人気を持つモータースポーツとなり、シーズン統合後も未だインディ500を含むインディカーの人気はNASCARのそれに及ぶ回復を見せていない。レースジャーナリストのゴードン・カービィ(英語版)はこうした状況を総括して、「トニー・ジョージの覇権の為ならば手段を選ばない露骨な経営方針と、CART/チャンプカーのレギュレーションやシーズン運営方針に対する主体性の無さ、その両者が繰り広げた不毛な抗争は、結果として(インディ500を含む)アメリカン・オープンホイールの人気を失墜させる原因となった。」「これらの事例は近代スポーツにおける最も自己破壊的な行為である。」と断じており、ニューヨーク・タイムズは2009年のトニー・ジョージのインディアナポリスCEO辞任に際して、「アメリカン・オープンホイールを愛する純粋な米国人ファンにとっては、彼の辞任は余りにも遅きに失した。」と報じた。
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チャンプカー・ワールド・シリーズ
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シリーズの特徴としては、常設サーキット(ロード)、公道コース(ストリート)、オーバル(末期は開催せず)の3種類のコースで行われ、満遍なくどのコースでも速さを求められるカテゴリーとなっていた。しかしIRLの台頭や、NASCARを初めとする他カテゴリー統括団体によるオーバルトラック買収の影響により、オーバルレースは減少、のち消滅を余儀なくされ、またロードレースでも独立資本のサーキットが減少している事情などもあり、末期には他団体や特定メーカーの干渉を受けにくいストリートレースが、シリーズの中心を占めるようになっている状況だった。
エンジンは2.65リッターのシングルターボで、燃料としてガソリンではなくメタノールを使用するのが特徴(なおインディカーは2007年よりエタノール燃料に転換している)。また、F1などで禁止されているウイングカー構造のシャシを使用していた。マシン、エンジン、タイヤに関してはレギュレーション上基本的にはどのメーカーでも参戦できる事になっていたが、2002年の騒動により2003年よりエンジンはフォード(コスワース)、タイヤはブリヂストンの独占供給となっていた。シャシーはマーチやレイナード、ローラ、スウィフトなどが販売・供給しており、独自シャシーを採用するチームはペンスキーやシャパラルなど、ごく一部に限られていた。2002年のレイナード倒産により、一時ローラの独占状態となった。2007年からはパノスが新シャーシを独占供給することが定められ、車幅の切り詰めなど思い切った改正が行われた。
2005年シーズンからは、レース中合計60秒間だけエンジンパワーを増大させることができる「Push-to-Pass」ボタンや、本気のアタック時に使用するサイドウォール部分が赤く塗られたソフトタイヤ(通称「レッドタイヤ」)などの新機軸が導入された。
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チャンプカー・ワールド・シリーズ
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2005年シーズンからは、レース中合計60秒間だけエンジンパワーを増大させることができる「Push-to-Pass」ボタンや、本気のアタック時に使用するサイドウォール部分が赤く塗られたソフトタイヤ(通称「レッドタイヤ」)などの新機軸が導入された。
ステップアップカテゴリーとして、過去にF3000に近いインディ・ライツ(2008年よりIRL主催の旧インディ・プロ・シリーズがこの名称に改称)、F3に近いフォーミュラ・トヨタ・アトランティックの2カテゴリーによってCARTのフォーミュラピラミッドが形成されていたが、インディ・ライツは2001年をもって廃止され、以後フォーミュラ・アトランティックのみ運営された。なお、フォーミュラ・アトランティックは2006年よりタイヤが横浜ゴム、エンジンがマツダ・コスワースの供給となり、「ヨコハマ・プレゼンツ・チャンプカー・アトランティック・パワード・バイ・マツダ」として再出発が図られている。バッジネームのみという形ではあるが、マツダにとっては久々にレース活動に復帰を果たした事になっていた。
同カテゴリーは、チャンプカーのシリーズ終了後も「アトランティック・チャンピオンシップ」の名称で引き続きOWRSによる運営が行われ、マツダ等のスポンサーも引き続きシリーズ運営に関わっていくことを表明していたが(ただしタイヤ供給はクーパーに交代した)、アメリカ国内の景気低迷の影響から2009年を最後に一時休止状態となった(その後2012年に3シーズンぶりに復活し、2013年は休止されたが2014年からは再び継続的に開催されている)。
2001年にはCARTを舞台としたシルベスター・スタローンの映画「ドリヴン」が制作されたが、本物のCARTドライバーやマシンが多数登場する一方で、ストーリーにおいて実際のCARTでは起こりえない事態が描かれている部分が多い(CARTで使用するメタノール燃料は容易に水で消火・分解が可能なため、映画の後半で起きるような雨の中での燃料漏れによる爆発は考えにくい、雨が降っているのにオーバルコースでレースを行っているなど)。これは、当初「ドリヴン」がF1をテーマとして企画された映画だったため、CARTを舞台とすることに変更された後も当初の脚本の設定が残っていたことが原因ではないかと、一部の関係者は指摘している。
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チャンプカー・ワールド・シリーズ
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一時期、日本では2007年以降のレース開催を目指して、北海道小樽市では小樽グランプリ推進協議会というNPO団体が立ち上げられ、市街地コースを利用しての『小樽グランプリ』の誘致活動を行っていた。だが、グランプリ開催を前提とするデモランに使う道路が国交省により許可が降りずデモラン自体も無期限延期となり、さらに誘致を行っていたチャンプカーも消滅。資金が集まらなかったこともありその後小樽グランプリ推進協議会の公式ウェブサイトも消えており、活動は事実上頓挫した。
東南アジア圏では小樽の他に、大韓民国もチャンプカー誘致を企画し、2004年にソウル特別市市街地コース、2005年と2006年に安山市に建設中のアンサンスピードウェイでの開催がイベントスケジュールに企画されたが、韓国側の開催計画の杜撰さからスケジュールが度々延期された果てに、いずれの年も開催中止という形で終わっている。
※イベント、開催州、決勝日(日付は現地時間)
※イベント、開催州、決勝日(日付は現地時間)
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NASCAR
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NASCAR(ナスカー、National Association for Stock Car Auto Racing, 全米自動車競走協会)はフロリダ州 デイトナビーチに本部を置くアメリカ合衆国で最大のモータースポーツ統括団体であり、同団体が統括するストックカーレースの総称でもある。
統括団体としてのNASCARは、1948年にビル・フランス・シニアとエド・オットーによって設立された。== 概要 == NASCARは、かつては四輪市販車(ストックカー)をベースに改造を施した車両で行われたが、現在は市販車に似せた純レーシングカーを使用するレースであり、主に北米大陸で行われる独自のレースカテゴリーである。
NASCARは、かつては四輪市販車(ストックカー)をベースに改造を施した車両で行われたが、現在は市販車に似せた純レーシングカーを使用するレースであり、主に北米大陸で行われる独自のレースカテゴリーである。
カテゴリーはNASCARカップ・シリーズを頂点とするピラミッド構造となっている。NASCARカップ、そしてNASCARカップの年式落ちの車を使用するエクスフィニティ・シリーズ(Xfinity Series)、(2008年-2014年はネイションワイド・シリーズ、2007年まではブッシュシリーズ)、ピックアップトラックベースの車で争われるガンダー・アウトドアーズ・トラック・シリーズ(2009年から2018年まではキャンピング・ワールド・トラック・シリーズ、2008年まではクラフツマン・トラック・シリーズ)の3カテゴリーは“三大シリーズ(Three Largest Series)”で全米のレース場を転戦し、全てのレースでテレビ中継がある。「三大カップ戦」という呼び方がファン・ジャーナリストの間で定着しているが、本来「カップ戦」というのは頂点の現モンスターエナジーカップのみに与えられる称号であり、英語でもそのような表現は存在しないので誤りである。
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NASCAR
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その下にはRegional Series(リージョナル シリーズ)として、昔のBuschシリーズマシンを使用するレギュレーションから始まったNASCAR K&N PRO SERIESがEastシリーズ(東海岸エリア)とWestシリーズ(西海岸エリア)の2つの地域に分かれて開催されており、7月のアイオワ・スピードウェイと8月のGateway Motorsports Park でEastシリーズとWestシリーズの合同レースが年に2度 開催される。Whelen Modified Tour(ウェレン モディファイド ツアー)も北シリーズと南シリーズとして開催されている。またインターナショナルシリーズとして、Pinty's Series(ピンティーズ)、PEAK MEXICO Series(ピーク・メキシコ)そしてWhelen Euro Series(ウェレン・ユーロ)までが、NASCAR Regional Seriesとして北米外で開催されている。
「Whelen All-American Series」と呼ばれるカテゴリー、Local Racing と総称される2005年現在は地域ごとの8カテゴリーが存在する。使用される車の細かいレギュレーションはカテゴリーによって異なることが多い。またARCA等NASCAR以外の競技団体が主催するストックカーレースも、その多くが実質的に3大シリーズ戦へのステップアップカテゴリーとして機能している。
通常NASCARに参戦するドライバーは各地域カテゴリーから徐々にステップアップするのが通例だが、中にはIRLやチャンプカー(旧CART)など、フォーミュラカーレースからの転身組も存在する。F1ドライバーではファン・パブロ・モントーヤ、ジャック・ヴィルヌーヴ、キミ・ライコネン、ナレイン・カーティケヤン、ネルソン・ピケJr.、インディカーからはダリオ・フランキッティ、ダニカ・パトリックが有名である。このうちモントーヤはネクステルカップ、ピケJr.はトラックシリーズのロードコースで勝利を挙げる成功を収めている。
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NASCAR
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NASCARのルーツは20世紀前半、主に広大な平地を有するアメリカ中部以南で行われていたアマチュアの自動車レースであり、さらにルーツを辿れば禁酒法時代に取り締まる警察車両から逃れるため、速い車を必要とした当時の "ならず者" に行き着くという説もある。直接の発祥となったのはフロリダ州のデイトナ・ビーチにて互いの腕とマシンを競い合うため、各地の実力者達が集って催されたストックカー・レースであった。やがて競技ルールの平定が求められるようになり、1947年に同地で全米自動車競争協会(NASCAR)が発足。翌年には早速公式レースが開催され、数日後には同協会の法人化への手続きも完了して、その後は同地域を中心に競技が行われ続けた。
1959年のデイトナ500初開催に多数の観客が詰め掛け、続く1960年代にはきわめて局所的ではあるがライブ中継が試みられていた。そして1969年 - 1970年にかけて競技車両はストックボディ(市販車)からパイプフレームへと移った。これによって軽量・高剛性になったことはもちろん、大きな安全性も得られた。1970年代初頭には煙草ブランドのウィンストンがNASCARの冠スポンサーへ付き、シリーズも近代的な形へと改編され、レース数の縮小、ショートトラックレースの排除などが行なわれた。レギュレーションの範囲内で車体も進化を重ね、よりパワフルなマシンが登場している。そして、そのモンスターマシンを駆るリチャード・ペティ達にいつしかアメリカ南部の若者は夢中となった。
1980年代へ入ってもNASCARは "カントリー" なイメージを払拭できずにいたが、それでも惹かれたファン達はデイル・アーンハートらのレースを観客席、あるいはリビングで固唾を呑み見守った。その後1979年にはウィンストン・カップ全戦のテレビ放映が開始、完全に興業の主体がテレビ放映へと移行する。それに伴って以後は都市部での視聴者拡大に対して運営側の強い意識が向けられた。ドライバー達にも幾度目かの世代交代が起こり、"都会っ子" ドライバーは伝統的な開催地にて度々熱心な親子のファンからブーイングを浴びつつも、テレビカメラを通して視聴する者達の応援を期待しながら走行を続けた。
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NASCAR
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近年は同シリーズにとって目下のライバルであったオープンホイール競技団体の分裂もあり、最高峰シリーズの看板スポンサーが通信企業(スプリント)に変わった現代でもNASCARの人気は増加傾向である。そして南部を沸かせた英雄の息子はメディアの発達もあり全米の子供達のアイドルとなって、さらには3世代のファンとドライバー達も登場した。しかし今日では数千万人の視聴者を満足させ続けるレギュレーションが必要不可欠となり、2004年からはファンの納得できるチャンピオンの誕生と、シーズン後半の消化試合をなくす目的でチェイス(2017年からプレーオフに名称変更)が導入されている。また安全面では2001年のデイトナ500以後、対策が積極的に思案されるようになった。
NASCARはインディカーと同じようにアメリカ独自のレースであり、ヨーロッパや日本のレースとは大きく異なっている。その主な理由は、多くのサーキットが、ヨーロピアンスタイルのロードコースではなく、アメリカンスタイルの楕円型をしたオーバルトラックであることに由来し、ロードコースでの開催は年間わずか2レースのみとなる。1周0.5マイル(約0.8 km)のショートオーバルから、2.66マイル(約4.3 km)のスーパースピードウェイのコースをひたすら超高速で周回する。オーバルサーキットの場合、その速度は各マシンのドラフティング効果も相まって時速300 km以上にも達する世界でも稀にみる超高速レースである。
誤解されがちであるが、NASCARマシンはマルチメイクである。メーカー・チームごと車両は組み立て・開発をするか、他チームから購入する。ただしレースの成り立ちがアマチュアによる市販車レースであったため、NASCARは車体製造のコスト高騰を極端に嫌う。そのため高価なチタンやカーボンファイバーの使用を禁止している。競技用四輪車としては非常に重く、レギュレーションによって最低重量は3,450ポンド (≒1,560 kg) と規定されており、そもそも前述のような特殊材料を使ってまで軽量化をするメリットがない。これはレースのイコールコンディション化に大きく貢献している。
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NASCAR
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しかし〝ストックカー〟という名前が付いているものの、それ以外の実態については、ワンオフのパイプフレームに金属外板を貼りつけ市販車を模した外観で、燈火類は無く、それに当たる部分はステッカーや塗装で表現、ドアも無く乗り降りはガラスは無く、乗車後保護ネットを張った窓部分から行うなど、市販車とは全く異なるレーシングマシンである。1950年代から1960年代にかけて、アメリカ車にはどの車種にも非常に高出力なエンジンを搭載したスポーツモデルが設定され、頂点のモデルとしてファストバックスタイルのマッスルカーが若者の人気を集めていた時代には、メーカーの販促の意味もあり市販車ほぼそのままの形態で参戦していたが、より高度なエアロダイナミクスを求めて大型の空力付加物の装着が試みられた1969年から1970年シーズンのエアロ・ウォーリア(英語版)と呼ばれる特殊モデルの台頭により、レース速度の高速化と車両価格の高騰が顕著となった事から、1971年シーズンからは空力付加物の制限とホモロゲーション(英語版)取得のための最低販売台数が大幅に引き上げられたため、膨大な開発費用が掛かるエアロカーは僅か2シーズンで姿を消した。同時期に発生した第一次石油危機の影響と自動車排出ガス規制の強化、若者向け自動車保険の懲罰的高騰などにより、1960年代のような有鉛ガソリンの使用を前提とするフルパワーエンジンのマッスルカーの市販が次第に難しくなった事情なども重なり、その後はパイプフレームに金属製カウルを架装し、レース専用エンジンを積む現在のような車体が主流となった。
タイヤはそれほどでもなく、アルミホイールやマグネシウムホイール等の軽量ホイールを使用せず、一般のアルミホイールよりも軽量に作られているNASCAR用スチールホイールを使用し、なおかつレーシングカーによく見られるセンターロックホイールではなく、装着を容易にするためにナットはあらかじめホイールに接着された昔ながらの5穴ホイールであったが、2022年シーズンから実装されたGen7carではセンターロックホイールが採用された。
リアサスペンションは長らく車軸式が一般的であったが、2022年以降カップ戦では独立懸架式が採用されるようになっている。
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NASCAR
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リアサスペンションは長らく車軸式が一般的であったが、2022年以降カップ戦では独立懸架式が採用されるようになっている。
車検の際には「テンプレート」を使用して空力チェックを行うユニークな場面が見られる。これはかつてスモーキー・ユニック(1923年5月25日 - 2001年5月9日)という規定違反すれすれの行為を繰り返していた悪名高いエンジニアが、他のマシンより空力的に勝る一回り小さいマシンを走らせ失格となったというエピソードから始まっている。車輌ごとに決められたテンプレートをあてがうことにより、空力的な違反が無いか細かくチェックされる。
エンジンは近年では珍しい存在となりつつあるOHVを使用している。しかし、358立方インチ (≒約5,866 cc) のOHVエンジンは軽く10,000 rpm近くまで回り、840馬力以上を搾り出す。これはDOHCエンジンを20,000 rpm近くまで回したNAエンジン時代のF1エンジンと同様に、最先端の技術によって作られたレーシングエンジンであることを窺い知ることができる。設計の自由度についてはむしろF1よりも大きいという。 ギアボックスはG-Force製Hパターン4速MTが組み合わされ、コースごとにギアレシオの変更を行う。
供給はGM、フォードに加え、2000年代に入ってトヨタが積極的な参入姿勢を示しており、2001年からNASCARマシンであるにもかかわらずDOHCエンジン搭載車であるセリカで下位カテゴリーへの参入を開始したのを皮切りに、2004年からはクラフツマン・トラック・シリーズにタンドラで参戦している。タンドラについては本来4カムSOHCのV型エンジンを、わざわざOHVに改造して参戦している。2007年からはカムリでスプリントカップ・シリーズ、ネイションワイド・シリーズの両シリーズに参戦している。
2011年までは燃料供給にキャブレターを使用していたが、環境保護アピール等の要因から、スプリントカップシリーズでは2012年よりフリースケール・セミコンダクタとF1のマクラーレンの関連会社であるマクラーレン・エレクトロニック・システムズが開発した電子制御式の燃料噴射装置が導入された。ただしレース中にエンジンマッピングを書き換えるような行為は禁止されており、ドライバーの腕による燃費制御等の余地を残している。
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NASCAR
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2012年までは米ビッグスリーの一角であるクライスラーもダッジブランドで供給を行ってきたが、有力チームのペンスキーを同年限りで失うなど近年勢力の衰退が著しく、結果的に同年限りでスプリントカップ・シリーズ及びネイションワイド・シリーズから撤退することになった。
2021年から長年の5穴仕様から変更され、次世代カップカーでセンターロックホイールが採用される。
現在ではオーバルコースの外側やトラックによっては内側にも緩衝帯が設置されている。2001年デイトナ500でのデイル・アーンハートの死亡事故の後にはHANSの着用も義務付けられた。さらに2007年からは、カー・オブ・トゥモロー(CoT)と呼ばれる新型車がスプリントカップシリーズにおいて採用され2008年より全面移行、より安全性が強化された。
平均時速が高いデイトナ、タラデガの二箇所でレースが行われる場合、リストリクタープレートが装着される。これによって馬力は500馬力前後、レブリミットは7000rpm程度までに落ちる。
屋根にルーフフラップと言う空力ブレーキの設置が義務付けられている。これはスピンの際マシンが後ろ向きになると後ろ向きの空気の流れで立ち上がる小型の板で、この板が屋根から立つことにより車体上方の空気の流れを乱流にして揚力を小さくさせ、車体が浮き上がらないようにすることで、転倒やそれ以上の大事故となることを防ぐものである。
過去から現在まで、トヨタがほぼ唯一日本メーカーとして参戦している。トヨタは2000年にV6エンジンのセリカでグッディーズダッシュシリーズからNASCARデビューし、2003年にドライバーズタイトルを獲得。2004年に日本メーカーとして初めて3大シリーズ戦の一つクラフツマン・トラックシリーズにタンドラでステップアップし、2006年には初のドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトルを獲得した。以降同シリーズでは2016年までの11年間に全メーカー中最多の9度のマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。
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NASCAR
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2007年からは最高峰のネクステルカップ・シリーズ、加えてネイションワイド・シリーズにもカムリで参戦を開始。ネイションワイド・シリーズでは2009年にドライバー・マニュファクチャラーズ、そして最高峰のスプリントカップ・シリーズでは2015年にドライバーズチャンピオン(カイル・ブッシュ)、2016年にマニュファクチャラーズタイトルを獲得している。2016年はデイトナ500優勝(デニー・ハムリン)、エクスフィニティ・シリーズ及びキャンピング・ワールド・トラック・シリーズのマニュファクチャラーズタイトルも勝ちとったため、三大シリーズ同年制覇の快挙を達成した。
2019年はカップ戦で最終戦前にマニュファクチャラーズタイトルを決める圧倒的な速さで、最終戦を制したブッシュがトヨタの3度目のドライバーズタイトルも獲得した。
カイル・ブッシュのNASCAR史上初の2度の同一週末での3大シリーズ制覇は全てトヨタ車によって成し遂げられている。また、2016年にマーティン・トゥルーレックスJr.がコカ・コーラ600で全400周中392周、588マイルに渡ってラップリードを記録して勝利した時のマシンもトヨタ・カムリであった。
エクスフィニティは2019年にベース車両をカムリからGRスープラへと切り替えた。
日本人としては過去に鈴木誠一が1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)に掛けて、スポット参戦ながらもNASCAR Grand Americanシリーズのデイトナ戦に3年連続で参戦。1995年(平成7年)には桃田健史が NASCAR SuperTruck Series(現:キャンピング・ワールド・トラック・シリーズ)のシリーズ発足年にPhoenixで1戦参戦している。2000年(平成12年)には古賀琢麻がNASCAR Weekly Racing Series に参戦、シリーズ参戦選手の中でもっともアグレッシブだったドライバーに与えられるハードチャージャーアワードを受賞している。2002年(平成14年)からNASCAR K&N Pro Series-Westに参戦し、2017年よりフルシーズン参戦をしている。
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NASCAR
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2002年(平成14年)には福山英朗がウインストン・カップ(現:モンスターエナジー Cup シリーズ)にDover戦でデビューし、翌2003年(平成15年)にはLas Vegas、Sonoma戦で決勝進出し、日本人として計4戦のNASCAR カップ シリーズ レースキャリアを持っている。
現在は2003年(平成15年)から Whelen All-American Series に参戦を開始した尾形明紀が、NASCAR K&N PRO SERIES-EASTの経験を経て、2014年(平成26年)からキャンピング・ワールド・トラック・シリーズにスポット参戦している。また2017年から、欧州で開催されるNASCAR・ウィレン・ユーロシリーズに三浦健光がカムリで参戦している。
クラフツマン・トラック・シリーズなどにドライバーとして参戦していた服部茂章が、2008年からHRE(ハットリ・レーシング・エンタープライズ)を組織してチームとして参戦。2009年にはトヨタと日本政府観光局がスポンサーになってキャンピング・ワールド・トラックシリーズにスポット参戦した。
その後HREはNASCAR K&N PRO SERIES-EASTで優勝を取ったあと、2017年からキャンピング・ワールド・トラック・シリーズにフル参戦を開始。2018年にアトランタで初優勝を挙げると、同年日本人オーナーとして初となる3大シリーズチャンピオン獲得を達成した。
1996年・1997年に鈴鹿サーキット東側コース、1998年にツインリンクもてぎのオーバルコースでエキシビション戦の「NASCARサンダースペシャル」、1999年にツインリンクもてぎのオーバルで「NASCARウィンストンウェストシリーズ(NASCAR K&Nプロシリーズの前身)・コカコーラ500」が開催された。ジェフ・ゴードンやデイル・アーンハート、ダレル・ウォルトリップ、デイル・ジャレットといったスーパースターが来日した他、日本からも土屋圭市、織戸学、福山英朗、中谷明彦、脇田一輝、中路基敬が参戦した。
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インディカー・シリーズ
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インディカー・シリーズ(IndyCar Series)は、IndyCarが主催するモータースポーツのカテゴリー。フォーミュラカー(オープンホイール)を使用したレースでは北米最高峰に位置する。
現在、アメリカ合衆国を中心に転戦しているが、2003年から2011年までは日本でも開催されていた。
1994年、インディ500を開催するインディアナポリス・モーター・スピードウェイ (IMS) の社長であったトニー・ジョージ(英語版)が、インディ500だけでなく自らが主催するシリーズを立ち上げたいために、1996年よりインディ・レーシング・リーグ (IRL)を発足させることを表明。1996年にはCART(後のチャンプカー・ワールド・シリーズ)から分離独立し、CARTやF1と同様、オープンホイールマシンでチャンピオンシップを争うレースとして発足した。
インディ500を頂点に据え、オーバルを中心にロード/ストリートコースを組み合わせたスケジュールとなっている(2004年まではオーバルコースレースのみ)。発足初年はCARTのマシンを使用していたが、1997年以降は独自のレギュレーションにより運営。当初はCARTに比べマイナーなカテゴリーであったが、2003年よりホンダ、トヨタが揃ってCARTよりIRLへ移籍表明を行ってからはそれまでの有力CART参戦ドライバー、チームも挙って移籍に追随し、一気に北米フォーミュラーレースのメジャーへと取って変わった。これも伝統のインディ500を持つ強みからである。
同年、トップカテゴリーの名称を「インディカー・シリーズ」に変更、IRLはFIAのように運営組織の名称として残された。
日本でもそれまで1998年より毎年栃木県茂木町のツインリンクもてぎで開催されてきたCARTのレースを2003年よりIRLに変更し、インディジャパン300として開催。これによりIRLの初のアメリカ以外での開催進出となった。
また、下位カテゴリーとしてインディ・ライツ(2002年 - 2005年までは「インフィニティ・プロシリーズ」、2005年以降は「インディ・プロシリーズ」)が形成され、インディカーへのステップアップカテゴリーとしてIRLの下に運営されている。
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インディカー・シリーズ
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また、下位カテゴリーとしてインディ・ライツ(2002年 - 2005年までは「インフィニティ・プロシリーズ」、2005年以降は「インディ・プロシリーズ」)が形成され、インディカーへのステップアップカテゴリーとしてIRLの下に運営されている。
2008年シーズンからCARTとシリーズを統合した。実際には旧チャンプカーのチームに無償でエンジン・シャシー等を供給する形となったため、事実上IRL側がチャンプカー側を吸収する形となった。
2010年から2013年にかけて、アパレル・ブランドのアイゾッド(IZOD)がシリーズ冠スポンサーになり、名称が「IZOD インディカー・シリーズ」となった。2014年から2018年まではベライゾンが冠スポンサーとなり、名称も「ベライゾン・インディカー・シリーズ」に変更された。2019年からはNTTが冠スポンサーとなり、「NTT・インディカー・シリーズ」となる。
近年は北米でのF1人気の高まりに合わせてインディカーも急激に成長を見せており、視聴者数が増加。2023年の平均視聴者数はデジタルストリーミングを含めて132万人で、2008年以来の高水準に回復した。
シャシーはワンメイクで、2012年より第4世代のダラーラ「DW12」が使用される。車名はこのシャーシのテストドライバーで2011年シーズンの最終戦ラスベガスで事故死したダン・ウェルドンに敬意を表したもの。全幅が78インチ(=約1,981mm,±12.7mm以内の誤差は認める)、重量がオーバル用1,545ポンド(約701kg)、ロード/ストリート用1,575ポンド(約714kg)とフォーミュラカーとしては幅広くやや重い。シャシーの基本部分は2012年以降、マイナーチェンジを繰り返しながら使用されており、マイナーチェンジのバージョンによっては「IR(西暦の下二桁)」と別名で呼ばれることもある。
エアロパーツはロード/ストリートコース及び低速オーバル用の「ロードコース・パッケージ」と高速オーバル用の「スーパースピードウェイ・パッケージ」の2種類が用意される。 ウィングの角度は設定範囲が決められているが、ガーニーフラップは自由に設定できる。
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インディカー・シリーズ
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エアロパーツはロード/ストリートコース及び低速オーバル用の「ロードコース・パッケージ」と高速オーバル用の「スーパースピードウェイ・パッケージ」の2種類が用意される。 ウィングの角度は設定範囲が決められているが、ガーニーフラップは自由に設定できる。
フロントウイング、リアウイング、サイドウイング、エンジンカバーを含むエアロキットは、2017年まではシャシーメーカー等が独自に開発、投入できた。ただし、2012年と2013年は全チームダラーラ製のエアロキットを搭載することになっている。これらはレース参戦コストを上げない為にレギュレーションで価格上限が30万9,000ドルと決められている。2018年からは再びダラーラ製のユニバーサルエアロキットを全車が使用する形に戻る。2020年からはコックピット内のドライバーを保護する目的で、F1等におけるHaloに相当する役割を持つ「エアロスクリーン」の装着が義務付けられている。
2003年よりシャーシ部門のコンストラクター、エンジン部門のマニュファクチャラーの両タイトルが制定されたが、2011年までは双方ワンメイクだったため有名無実化していた。2012年からは後述の通り複数のエンジンサプライヤーが参入するため、エンジン部門のタイトルが意味を持つことになる。
オーバルではスタッガーによって旋回性能を高めている。
タイヤはファイアストン (ブリヂストングループ) のワンメイク。チャンプカー同様1999年まではグッドイヤーも供給していた。
ロードコースではソフト(レッドタイヤ)とハード(ブラックタイヤ)の2種類のタイヤをアンダーグリーン中に装着し、かつそれぞれで2周以上走行しなければならない。
エンジンは2012年から2.2L以下 6気筒以下ツイン ターボ 直噴エンジンを採用する。サプライヤーはホンダとシボレー(実際の開発はイルモアが行う)の2社。
ECUは2012年よりマクラーレン・エレクトロニック・システムズ(MES)製の共通ECUが使用される。最高出力はオーバルで約550馬力、ロード/ストリートで約700馬力、レブリミットは12,000rpm。ロード/ストリートコースでは、エンジン回転数(+200rpm)とブースト圧(+11kPa)を一定時間引き上げる「プッシュ・トゥ・パス」を使用できる。
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インディカー・シリーズ
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ECUは2012年よりマクラーレン・エレクトロニック・システムズ(MES)製の共通ECUが使用される。最高出力はオーバルで約550馬力、ロード/ストリートで約700馬力、レブリミットは12,000rpm。ロード/ストリートコースでは、エンジン回転数(+200rpm)とブースト圧(+11kPa)を一定時間引き上げる「プッシュ・トゥ・パス」を使用できる。
シーズン中にエンジンを改良した場合、それをレースに導入するには他のメーカーの同意を得なければならない。新しいエンジンに対して抗議をすることも可能だが、その際にはIndyCarの承認が必要になる。
燃料は2012年シーズンよりエタノール(生物由来)85%・ガソリン15%の混合燃料が使用されている。この配合のおかげで爆発の心配が少なく、ドライバーやピットクルーに引火しても視覚的に確認できる。2023年シーズンからはシェル製の100%再生可能燃料がレースで使用される予定。
エンジンについては、2.4L 6気筒ツインターボに回生ブレーキを組み合わせたハイブリッド型パワーユニット(PU)が導入される予定があった。ハイブリッドユニットは独マーレ社から供給を受けるとされ、当初は2023年からの導入を予定していたが、ハイブリッドユニットの一部コンポーネントに供給遅れが発生し、導入は2024年に延期。その後も安定供給の目処が立たないため、結局2.4Lエンジン及びマーレ製ハイブリッドユニットの導入計画は撤回され、既存の2.2Lエンジンにホンダ(HPD)/シボレー/イルモアが協力して開発したハイブリッドユニットを組み合わせた新PUを導入する方針となった。
基本的に2022年シーズンで行われている方式を記す。
インディカー・シリーズでは、コースやイベントによって予選方式が異なる。
オーバルトラックでの予選では前のレースまでのエントラント・ポイント順位の下位から順に1回のみ計測を行うことが出来る。各車が2周を連続して走行し、その平均速度をもとにグリッドを決定する。
ロード/ストリートコースの予選は、セッションは以下の3つのラウンドに分けて行われ、各ラウンドの制限時間中に無制限に計測を行うことが出来る。
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インディカー・シリーズ
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インディカー・シリーズでは、コースやイベントによって予選方式が異なる。
オーバルトラックでの予選では前のレースまでのエントラント・ポイント順位の下位から順に1回のみ計測を行うことが出来る。各車が2周を連続して走行し、その平均速度をもとにグリッドを決定する。
ロード/ストリートコースの予選は、セッションは以下の3つのラウンドに分けて行われ、各ラウンドの制限時間中に無制限に計測を行うことが出来る。
インディ500の予選は、決勝レース1週間前の土曜日と日曜日に行われる。スポット参戦を含む出場枠数以上の選手によってグリッドが争われる場合、予選落ちがある。
ローリングスタートを採用し、インディ500のみ3列、それ以外は2列に並びスタートする。2013年 - 2014年は一部レースでスタンディングスタートを採用したレースがあった。
インディカー・シリーズでは、周回数を定めるための基準となる走行距離を定めていない。そのため総走行距離及び規定周回数はレース毎に異なる。また、周回数の50%が完了した時点でレースは成立する。
2011年以前はマルチメイクであり、過去にはパノスも供給していたが、ダラーラと比較して空力などで劣ることから徐々に需要が減り、2008年のインディ500にスポット参戦したチームが使ったのを最後に撤退した。また以前はライリー&スコットが参戦していたこともあり、ファルコンも参戦を表明したが使われることはなかった。
そのため2009年から2011年までは、事実上ダラーラのワンメイクとなっていた。
シリーズ発足当初はCART同様の2.65L V8 ターボエンジンを使用していたが、1997年より3.5L V8 NAエンジンに変更。2002年まではシボレー(2001年まではオールズモビル・オーロラの名で供給)とインフィニティ(日産)の2社がエンジンを供給していた。インフィニティは2002年限りで撤退するが、2003年よりトヨタ・ホンダが新規参入して3社体制となったほか、同年のシーズン途中からはシボレーエンジンの開発をコスワースが担当するようになった。その後高速化に歯止めをかける目的から、2004年の第4戦(インディ500)からはエンジン排気量の上限を3Lに改めている。
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インディカー・シリーズ
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しかし、2005年限りでシボレーが撤退したほか、トヨタも2006年限りでの撤退を発表したため、ペンスキー、チップ・ガナッシなどの有力チームが軒並みホンダ陣営への鞍替えを発表。このためトヨタも予定を1年前倒しして2005年限りで撤退し、2006年から2011年まではホンダのワンメイクとなっていた。
2012年のマニュファクチャラーズチャンピオンシップ復活に伴い、ロータスがジャッドと提携し参戦したが、1年限りで撤退した。
2005年まではシリーズ発足から一貫してCARTと同じアルコール燃料であるメタノールが使用されていたが、環境への配慮から切り替えられた。この準備段階として、2006年シーズンはメタノール90%・エタノール10%の混合燃料が使用された。メタノールからエタノール系への変更によりエンジン出力が約1割程低下するため、合わせてエンジン排気量が3.5Lへ変更された。
2010年からはシリーズチャンピオンに加え、オーバルとロードコースそれぞれに部門別チャンピオンシップを設けている。オーバル賞にはインディ500で4勝をあげたA.J.フォイト、ロードコース賞にはCARTで4度のチャンピオンを獲得したマリオ・アンドレッティの名が冠されている。
インディ500の勝者はインディ500#歴代優勝者を参照
(インディカー・シリーズとその下部カテゴリのみ、旧CART除く)
2019年インディカー・シリーズ参戦
過去参戦していたドライバー
1996年発足当初は3戦のみという少なさだったが翌1997年から拡大、さらに2005年はロードコースへ進出した。また2003年から2011年まで日本がカレンダーに組み込まれていた。また2010年からはブラジルがカレンダーに組み込まれている。現在ではオーバルレースとロードレース(市街地、特設含む)が概ね1:2の比率となっている。
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テクモ
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テクモ株式会社(英: TECMO,LTD.)は、かつて存在した日本のコンピュータゲームソフト開発会社である。家庭用ゲームソフトおよび業務用ソフトの開発、オンラインゲーム、モバイルコンテンツの開発に注力していた。2010年に同業のコーエーと合併し、コーエーテクモゲームスとなった。
社名は「Technology(技術)」「Entertainment(娯楽)」「Creation(創作)」「Man(人)」「Overseas(海外)」の頭文字を採ったもの。2010年3月設立の新会社の旧社名は株式会社テーカン(2011年に再統合)。かつてはアミューズメント施設の運営事業も行っていた。
2006年1月、みずほコーポレート銀行出身で、前年まで常務取締役だった安田善巳が社長に就任。その後、前任の社長中村純司による退職金訴訟、プロデューサー板垣伴信への元女性社員によるセクハラ訴訟、板垣による成功報奨金未払い訴訟、労働組合による従業員への未払い残業代訴訟など、テクモに対する訴訟が頻発する中、2008年8月20日、一身上の都合により8月31日をもって安田が社長を辞任することが発表される。それにより、創業者柿原彬人の次男で医師出身の柿原康晴代表取締役会長が社長を兼任することとなった。
このようにゴタゴタが続き社内が混乱し、「M&Aの絶好のチャンスでどの会社に買収を仕掛けられてもおかしくない」などと評される状況の中、8月29日、スクウェア・エニックスが、テクモ株の株式公開買い付けの提案を行う。買い付け価格は、前日の終値に30%強のプレミアムを乗せた920円。9月4日までに回答が得られない場合、もしくはテクモ取締役会の賛同を得られない場合は、提案を撤回するとした。
回答期限の9月4日、テクモ取締役会は「有能な従業員の確保、安定した開発環境の確保、ブランドの維持発展の観点から検討した結果、ほかにより企業価値向上の実現性の高い選択の可能性がある」として、株式公開買い付けへの非賛同を表明。同時にコーエーとの経営統合へ向けた協議の開始を発表した。コーエーの社長松原健二は「(創業者同士で)家族ぐるみの親交があり、将来の経営像などについても話し合いを持ったと聞いている。そういう中で、今回の話し合いが進んだ」と述べた。
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テクモ
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11月18日、両社は統合契約書を締結し、2009年4月1日に共同持株会社であるコーエーテクモホールディングスを設立。
2010年4月1日にコーエーと合併し、コーエーテクモゲームスが誕生した。合併時に開発部門が(新)コーエー、(新)テクモに分離されたが、「更に柔軟かつ機動的な開発体制へと変えていく必要がある」として、2011年4月に再度吸収合併された。
下記では家庭用ソフトで販売本数の多いソフトを記す。
また、テクモ社長が兼任して作られた子会社の『サリオ』ブランドで、セガ・マークIII時代のセガの唯一のサードパーティとして「アルゴスの十字剣」「ソロモンの鍵」を発売した。
(全て過去のもの)
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マリオブラザーズ
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『マリオブラザーズ』(MARIO BROS.)は、1983年に発売された任天堂のアクションゲーム。マリオシリーズで初めてマリオの名がタイトルに冠されると共に正式に主人公にマリオの名前が与えられた作品であり、マリオシリーズ第1作目にあたる。
タイトルは、ゲーム画面ではBrothersを省略形にした『MARIO BROS.』(マリオブロス)と表示される(『スーパーマリオブラザーズ』以降のシリーズでも共通)。
1983年3月14日にゲーム&ウオッチ版が発売、同年7月14日にアーケードゲーム版が稼働したが、両作品はゲーム内容が全く異なっている。通常『マリオブラザーズ』というと、アーケード版とその移植作を指し、本記事でも特にことわりのない限りこれに準拠して記述する。ゲーム&ウオッチ版については、本記事#ゲーム&ウオッチ版の項を参照。
配管工のマリオとルイージが、下水道から流出したカメ、カニ、ハエなどを駆除していくアクションゲーム。
『ドンキーコング』で大工と設定されていたマリオの職業が(ゲーム&ウオッチ版『マリオブラザーズ』の工場作業員を経て)配管工と呼ばれるようになった。ルイージが初登場するが、本作ではまだマリオとの違いは服装の色のみである。
ファミリーコンピュータを始めとした数々の家庭用ゲーム機に移植されている。
土管から出現する敵キャラクターを床の下から突き上げて気絶させ、蹴り落として退治する。複数の敵をまとめて蹴り落とすと、敵の数に応じて得点に倍率がかかる。敵を一匹倒すごとにコインが1枚出現し、下から突き上げる、もしくは触れることで回収でき、得点が入る。ステージの敵を全て倒すと面(フェイズ)クリア。フェイズが進むほど難易度は上昇して行く。数フェイズごとにボーナスステージ(TEST YOUR SKILL)があり、フィールド内に配置されたコインを集めるステージとなる。時間内にコインを全部集めるとボーナスポイントを獲得できる。
ゲームスタート時と次ラウンドより新敵キャラクター登場前には、敵キャラクターの名前と倒し方が画面で説明される。
エンディングはなく、ゲームオーバーになるまでひたすらゲームが続いていくループゲーム。PHASE 23以降のPHASEは98までカウントされ、その次の面以降は98で固定されるが、ゲーム内容はPHASE 16〜22の繰り返しとなる。
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マリオブラザーズ
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ゲームスタート時と次ラウンドより新敵キャラクター登場前には、敵キャラクターの名前と倒し方が画面で説明される。
エンディングはなく、ゲームオーバーになるまでひたすらゲームが続いていくループゲーム。PHASE 23以降のPHASEは98までカウントされ、その次の面以降は98で固定されるが、ゲーム内容はPHASE 16〜22の繰り返しとなる。
ステージの1段目中央にあるブロック。「パワー床」とも呼ばれる。下から突き上げることでステージの床全体を突き上げたのと同じ効果を及ぼす。使うごとにパワー床は薄くなってゆき、3回目で消滅する。パワー床は接地しているプレイヤーおよび敵キャラクター、そしてファイアーボールに対して効果が及ぶため、非常に強力な攻撃手段となりうる。なおこの方法で消した火の玉は得点されない。アーケード版をはじめとするつららのあるバージョンでは完成したつららはすべて落ち、未完成のつららは破壊される。パワー床の使用可能回数は2度目以降の ボーナス フェイズで全回復する。
本作登場時、キャッチフレーズが書かれたポップ広告の通り1コインで2人同時プレイも楽しめた。敵キャラクターだけでなくプレイヤーキャラクター同士にも衝突判定が設定されており、それがゲーム上でも大きな意味を持つ。インストラクションカードには「協力するか、それとも裏切るか」と書かれており、異なる遊び方をさりげなく提示している。
などがある。
上記の3種類は気絶させておいてしばらく放置すると自力で復活し、その際に色が変わって動きが少し速くなる。さらに同じことを繰り返すともっと素早くなる。また、敵を倒していき最後の1匹となったのがファイターフライ以外であった場合、自動的にこの一番素早い状態になる。
1983年9月9日に発売。国内売り上げ本数約163万本。かつてオリジナル版ルールでの移植作が長らく無かった時期には、プレミアソフトとして中古市場で定価よりも数段高い価格で取引されることもあったが、後述のゲームボーイアドバンスでの復刻版発売などの影響により、現在は取引価格も落ち着いている。
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マリオブラザーズ
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1983年9月9日に発売。国内売り上げ本数約163万本。かつてオリジナル版ルールでの移植作が長らく無かった時期には、プレミアソフトとして中古市場で定価よりも数段高い価格で取引されることもあったが、後述のゲームボーイアドバンスでの復刻版発売などの影響により、現在は取引価格も落ち着いている。
ROMカセットのタイトルシールには2種類あり、初期版は銀の背景にオレンジ色のタイトルの下に太い波線の物(当時のファミコンソフトに見られたタイプ)、後期版はタイトルの横に箱と同じイラストが縮小されて描かれている物(『スーパーマリオブラザーズ』と同様のタイプ)となっている。なお、中古市場では後者のほうが流通が少ない。
1988年10月23日に発売の『スーパーマリオブラザーズ3』も2人プレイ中でも同様のゲームがプレイ可能であるが、同作ではコースでゴールしたときに得たパネルを奪い合う対戦ミニゲームの色が濃いため、本作とはいささかゲーム性が異なる。従来のシェルクリーパー(カメさん)が「トゲゾー」に置き換えられており、他の敵キャラクターは「カニさん」「ファイターフライ」表記となっている。相手を踏むか突き上げることで、持っているパネルが1枚飛び出す。また、ルールの異なるオリジナルステージが2つ追加されている。
ファミリーコンピュータ発売前後のCMで『マリオブラザーズ』が紹介されていたが、ルイージの色が違う(白色ではなく緑色。アーケード版の色が緑のツナギに茶色のシャツであった)。
FC版では容量の都合から、アーケード版と比べると細かい演出がカットされていたり、シェルクリーパーとファイヤーボールの大きさがアーケード版に比べてかなり小さくなっている。
1993年には、『Mario Bros. Classic』がヨーロッパ限定で販売された。これは、『帰ってきたマリオブラザーズ』の仕様にアーケード版にあったPHASE 1,5,7,9のアトラクトデモを追加した内容となっている。なお、本作ではPHASE 24以降になると、敵がひっくり返っている時間が短くなっている。
PHASE 99をクリアするとその次はPHASE 0となりそしてPHASE 1に戻る。
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マリオブラザーズ
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1993年には、『Mario Bros. Classic』がヨーロッパ限定で販売された。これは、『帰ってきたマリオブラザーズ』の仕様にアーケード版にあったPHASE 1,5,7,9のアトラクトデモを追加した内容となっている。なお、本作ではPHASE 24以降になると、敵がひっくり返っている時間が短くなっている。
PHASE 99をクリアするとその次はPHASE 0となりそしてPHASE 1に戻る。
ルイージのほうが面開始時の立ち位置がわずかに右寄りなので、3面などのコイン取りではタイムが0.1秒多く残せるが、通常面ではPOWまでの距離がマリオより僅かに遠い。
1988年11月30日にディスクライター書き換え専用ソフト『帰ってきたマリオブラザーズ』としてリメイク発売。
当時「マリオカレー」などのキャラクター商品を発売していた永谷園がスポンサーについたため、書き換え価格が標準では500円のところ、本作については上記の広告料などの関係で400円に引き下げられた。このためゲーム中に同社の「マリオカレー」「お茶づけ海苔」などのCMが流れたことも話題になった。これにより2006年時点では、無料ソフトや同梱版を除くとマリオシリーズで最も低価格のゲームソフトとなっていた。
「ながたにえんワールド」モードではゲームオーバー時に復活チャンスがある。1988年11月30日 - 1989年5月31日にクリア時の暗号(いああなあお-など)を永谷園に送ることで、10万点でマリオ3トランプ・20万点マリオ3カセットがそれぞれプレゼントされるキャンペーンを実施。応募者全員の中からマリオ3特製キーホルダーも当たった。
容量が増えたため、敵キャラクターのグラフィックがアーケード版に近くなっていたり、ファミコンのROM版で削除されたつららが復活、ボーナスステージで床が見えなくなるなどアーケード版の仕様がそのまま移植されている。また、ジャンプ中に十字ボタン左右でジャンプの勢いをコントロールできるようになった。
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マリオブラザーズ
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容量が増えたため、敵キャラクターのグラフィックがアーケード版に近くなっていたり、ファミコンのROM版で削除されたつららが復活、ボーナスステージで床が見えなくなるなどアーケード版の仕様がそのまま移植されている。また、ジャンプ中に十字ボタン左右でジャンプの勢いをコントロールできるようになった。
1984年にウエストサイドよりPC-8001(N-BASIC)対応版が発売された。また、ハドソン開発の『マリオブラザーズスペシャル』(英: MARIO BROS. Special)(PC-8001mkII、PC-8800シリーズ、PC-6000シリーズ、PC-9800シリーズ、FM-7、MZ-2200、X1、MZ-1500、SMC-777、MB-S1)と、『パンチボールマリオブラザーズ』(英: PUNCH BALL MARIO BROS.)(PC-8001mkII、PC-8800シリーズ、PC-6000シリーズ、FM-7、MZ-1500、MB-S1、IBM JX)が発売された。ハドソン開発の2タイトルともアーケードゲーム版をベースにステージ、ルールの大幅変更など大胆なアレンジが施されており本作の名を冠するもののほとんど原形をとどめていない。三作とも任天堂の許諾を正規に受けた移植作品である。
1993年7月14日発売の『スーパーマリオコレクション』に収録されたリメイク版『スーパーマリオブラザーズ3』では、ファミコン版と同様に2人プレイ時の途中で対戦する形式のものの他、新たに前記を元にして単独のモードとして独立させた2人対戦専用の「BATTLE MODE」も実装された。「BATTLE MODE」ではスーパーマリオの状態でスタートし、一回だけ敵に当たってもミスにならない(床を叩くとランダムで出現するキノコを取ると回復もできる)。
敵キャラクターの名称は「トゲゾー」「カニキチ」「ハエまる」「ファイアーボール」となっている。加えて、バトルゲーム限定でファイアーボールが「テレサ」に置き換えられ、踏みつけると甲羅になり蹴ると武器にできる「ノコノコ」が新たに登場する。
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マリオブラザーズ
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敵キャラクターの名称は「トゲゾー」「カニキチ」「ハエまる」「ファイアーボール」となっている。加えて、バトルゲーム限定でファイアーボールが「テレサ」に置き換えられ、踏みつけると甲羅になり蹴ると武器にできる「ノコノコ」が新たに登場する。
過去のマリオシリーズを移植した2001年3月21日発売の『スーパーマリオアドバンス』およびそのシリーズ全4作と、2003年11月21日発売の『マリオ&ルイージRPG』でプレイ可能。基本的な内容は5作で共通しており、クラシックモードとバトルモードの2種類が収録されている。いずれも、ステージBGM(面により異なる)が追加されている。敵キャラクターの名称は「トゲゾー」「カニ」「フライ」「ファイアーボール」「フリーザー」表記となっている。
クラシックモードは1人から最大4人で協力プレイ可能の面クリア型タイプ。プレイヤーキャラクターは全てマリオで、1Pから順に赤・緑・黄・青の色違いとなる。音源などの基本システムはファミコン版に準拠しているが、面構成やつららの登場など、アーケード版をベースにしている部分も多い。1画面だったステージが広くなっており、マリオの移動に合わせてスクロールする。また、POWブロックが上部にも追加された。POWブロックの上に乗ってBボタンを押すと(1 - 2回叩いた状態であっても)持ち上げることができる(投げれば叩いた時と同じ効果、ただし投げると一発で消滅する)。他にも、空中の左右移動を受け付けるようになったり、下を押しつづけるとパワージャンプができるなど、操作性は『スーパーマリオUSA』に似ている。ひっくり返った敵を5匹以上連続で蹴れば1UPも可能。ゲームオーバーになった場合は一回だけコンティニューができる。
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マリオブラザーズ
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バトルモードは対戦専用で、2人から最大4人対戦が可能。コースのレベルやファイアーボールの有無、ハンディキャップとして各プレイヤー毎の初期コイン数を設定可能。全員「スーパーマリオ」の状態で開始し、1回ダメージを受けると従来の「チビマリオ」、さらにその状態でダメージを食らうとミスになる。他のプレイヤーキャラクターを持ち上げることも可能で、持ち上げられたキャラクターは十字キーやボタンの連打で拘束を免れることが可能。また、4の倍数のステージには敵キャラクターとして「クッパ」が登場するが、倒すことはできない。バトルモードの2人プレイ時に限り、POWブロックの代わりに「ゴミ箱」が最下段中央に設置される。フタが開いている時に自分で中に飛び込む、あるいは他のプレイヤーから投げ入れられると、一定時間出られない代わりにアイテムが手に入る。入手できるアイテムは、POWブロック・こうら(投げるか蹴ると床を滑って敵にダメージ)・魚の骨(効果無し)・タマゴの内のどれか1つ。タマゴは投げると割れ、コイン1枚・ハート(チビマリオの状態からスーパーマリオに戻る)・スター(一定時間無敵)のどれか1つが出てくる。
上記の他、ファミコン版の移植版が、『ファミコンミニ』第2弾の1つとして2004年5月21日に発売されている。
2006年12月12日よりバーチャルコンソールでファミコン版が配信開始。
2010年10月21日に『スーパーマリオコレクション』が『スーパーマリオコレクション スペシャルパック』としてWii版が発売された。内容はスーパーファミコン版と同じで、『スーパーマリオブラザーズ3』内のマリオブラザーズもある。
2011年12月16日よりニンテンドー3DS早期購入者を対象にしたアンバサダー・プログラムにて、マリオブラザーズを収録した『スーパーマリオアドバンス3』がバーチャルコンソールとして配信開始。内容はゲームボーイアドバンス版に準ずるが、多人数プレイが不能になったためバトルモードで遊べなくなっている。
2013年5月8日にはファミコン版がバーチャルコンソールとして配信開始。
2013年5月29日よりバーチャルコンソールとして配信。
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マリオブラザーズ
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2013年5月8日にはファミコン版がバーチャルコンソールとして配信開始。
2013年5月29日よりバーチャルコンソールとして配信。
2013年11月21日発売の『スーパーマリオ 3Dワールド』で特定の条件を満たすと『ルイージブラザーズ』というゲームがプレイ可能になる。ゲーム内容はファミコン版と同じだがマリオが登場せず、原作の1Pであったマリオが最新作準拠の配色のルイージ(緑の帽子・シャツ、青のつなぎ)に差し替わったものになっており、2Pのルイージは原作と同じまま(白い帽子・シャツ、緑のつなぎ)である。
2014年4月3日よりバーチャルコンソールとしてゲームボーイアドバンスソフトでマリオブラザーズを収録した『スーパーマリオアドバンス2』が配信開始したが、多人数プレイが不能になったため、バトルモードが遊べなくなっている。
2016年11月10日に発売したゲーム機・ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータは、本作などファミコンソフト30本を内蔵している。
2017年9月27日にハムスターが展開している『アーケードアーカイブス』のひとつとしてアーケード版が配信開始された。
任天堂のアーケードゲームが同サービスで配信されたのは本作が初めてであるが、選ばれた理由は任天堂の担当者から「どのタイトルが第1弾としてインパクトがあり、Switchに合っていて、ユーザーの皆さんに喜んでいただけるか」と語っており、おすそわけプレイの相性が良く、マリオの登場するゲームが決まった。
開発はハムスターが担当し、任天堂は監修を行う。ベースはアップライト筐体。オンラインランキングは配信当日の0時20分の時点で100位が埋まり、2日目でキャラバンモードの1位が10万点を超えた。
2018年9月19日にNintendo Switch Online加入者向けに配信された『ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online』にはファミコン版が収録されている。
2021年2月12日発売の『スーパーマリオ 3Dワールド + フューリーワールド』で特定の条件を満たすと『ルイージブラザーズ』がプレイ可能になる。ゲーム内容はWii U版と同様。
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マリオブラザーズ
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2018年9月19日にNintendo Switch Online加入者向けに配信された『ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online』にはファミコン版が収録されている。
2021年2月12日発売の『スーパーマリオ 3Dワールド + フューリーワールド』で特定の条件を満たすと『ルイージブラザーズ』がプレイ可能になる。ゲーム内容はWii U版と同様。
2023年2月9日よりNintendo Switch Online + 追加パック加入者向けに配信された『ゲームボーイアドバンス Nintendo Switch Online』にはマリオブラザーズを収録した『スーパーマリオアドバンス4』および『マリオ&ルイージRPG』が収録されている。ローカル通信およびオンライン通信にも対応しており、最大4人同時にクラシックモードとバトルモードを遊ぶことができる。
ゲーム開始時に流れる音楽はモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークの第1楽章冒頭部分である。アーケード版とファミコン版ではややサウンドが異なりリメイク作品はファミコン版を基に作られているため、サウンドもファミコン準拠である。
1998年に刊行されたゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』では、「それまでのゲームでは、テーブル筐体の手前側とその反対側にプレイヤーが1人ずつ座りプレイする形が主流だったのに対し、それを手前側に2人分の操作系を用意し、同一画面中で2人のプレイヤーが操るキャラクターが登場した」、「プレイヤーが2人並んで同じ目的を持ってプレイするこのスタイルは、孤独にプレイするものから大きく変化したものであった。このスタイルはその後の協力プレイの基本となり、さらにはアップライト型筐体の形に発展することになる」、「その他にも強制的にゲームを終わらせる演出や、1度にすべての敵の動きを止める、今でいうところのボムの存在も忘れることはできない」と紹介されている。
『ファミリーコンピュータMagazine』の1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「マリオをメジャーなスターダムにのしあげたゲーム」、「2人同時プレイの楽しさを引き出したゲームでもある」と紹介されている。
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マリオブラザーズ
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『ファミリーコンピュータMagazine』の1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「マリオをメジャーなスターダムにのしあげたゲーム」、「2人同時プレイの楽しさを引き出したゲームでもある」と紹介されている。
1983年3月14日に任天堂より発売。『マリオブラザーズ』のタイトルで最も早く発売されたバージョンであり、後のアーケード版とタイトルは同じだが、アーケード版は本作から移植されたものではなく、ゲーム内容は全く異なっている。ポッカ(現・ポッカサッポロフード&ビバレッジ)の販促用景品としても配布されていた。
左右2画面のマルチスクリーン機用ゲーム。瓶詰め工場を舞台に、兄弟はベルトコンベア上を流れてくる荷物を運ぶ仕事をしており、中央に表示されたベルトコンベアを挟んで、マリオは右画面、ルイージは左画面にいる。プレイヤーは一人で同時に、右手でマリオ、左手でルイージを上下操作して、流れてくる荷物を落とさないように、より高い位置にあるベルトコンベアにタイミングよく乗せかえて行く。最上段まで荷物を運んでトラックに積み、積載量一杯になるとトラックが発車してボーナス得点が与えられる。
荷物を落としてミスすると上司に叱られるなど、さまざまな演出も見られる。
本作がマリオの弟・ルイージの初登場作品となり、本体パネルに描かれたイメージイラストでは、それぞれ赤い帽子とつなぎに青のシャツと、緑の帽子とつなぎに赤のシャツとなっており、この時点で「赤」「緑」というイメージで描き分けられていた(ただしどちらがそのキャラクターなのかはイラストには添えられておらず、実際のゲーム上ではモノクロ液晶のため二人とも全身真っ黒)。なお、上述のアーケード版ではマリオが青い帽子とつなぎに赤のシャツ、ルイージが緑の帽子とつなぎに茶色のシャツ(ファミコン版ではマリオが赤い帽子、ルイージが白い帽子とシャツ)へと変化している。また、アーケード版ではマリオのイメージカラーは「青」であり、タイトルロゴから筐体の配色にまで反映されている。
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マリオブラザーズ
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こちらのバージョンは、1999年4月8日発売のゲームボーイ用ソフト『ゲームボーイギャラリー3』の1ゲームとして移植されており、同作にはグラフィックをリニューアルしてルールがアレンジされた「いまモード」も収録されている。同様にリメイクされたものが日本国外でゲームボーイアドバンス用ソフト『GAME&WATCH GALLERY 4』に収録され、日本では、2016年3月16日にWii Uバーチャルコンソール専用ソフト『ゲームボーイギャラリー4』として配信された。
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江戸川乱歩
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江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步、1894年〈明治27年〉10月21日 - 1965年〈昭和40年〉7月28日)は、日本の推理小説家、怪奇・恐怖小説家、アンソロジスト。本名は平井 太郎(ひらい たろう)。日本推理作家協会初代理事長。位階は正五位。勲等は勲三等。ペンネームは小説家のエドガー・アラン・ポーのもじり。
大正から昭和期にかけて活躍し、主に推理小説を得意とした。また、第二次世界大戦後は推理小説分野を中心に評論家や研究家、編集者としても活躍した。乱歩の寄付で創設された江戸川乱歩賞が推理作家の登竜門となるなど、後世にも大きな影響を与えた。自らも実際に探偵として、岩井三郎探偵事務所(ミリオン資料サービス)に勤務していた経歴を持つ。
1894年(明治27年)、三重県名賀郡名張町(現・名張市)に名賀郡役所書記の平井繁男ときくの長男として生まれる(本籍地は同県津市)。平井家は武士の家柄で、祖先は伊豆伊東の郷士だった。のちに伊勢の津藩の藤堂家に仕え、乱歩の祖父の代まで藤堂家の藩士として勤め上げた。
2歳の頃父の転勤に伴い三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)、翌年、愛知県名古屋市に移る。以降、大人になっても引越しを繰り返し、生涯で46回引っ越した。
小学生の頃に母に読み聞かされた菊池幽芳訳『秘中の秘』(ウィリアム・ル・キュー原作)が、探偵小説に接した最初であった。中学校では、押川春浪や黒岩涙香の小説を耽読した。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業後、早稲田大学の政治経済学科に進学。在学中に(メルヴィル・D・ポーストに先んじた世界初のトリックという意味で)傑作の処女作『火縄銃』を執筆。博文館の雑誌『冒険世界』に投稿するが、掲載はされなかった。卒業後は貿易会社社員、古本屋、支那そば屋など多くの仕事に勤務。
1917年(大正6年)11月、三重県鳥羽の鳥羽造船所電機部(現・シンフォニア テクノロジー)に就職。庶務課に配属されたが、技師長に気に入られ、社内誌『日和(にちわ)』の編集や子供へおとぎ話を読み聞かせる会を開くなど地域交流の仕事に回された。無断欠勤などもあったが許されていたという。『日和』では編集のみならずイラストも描いている。この会社は1年4ヶ月で退職するが、この時期の体験が『屋根裏の散歩者』『パノラマ島奇談』の参考になったという。
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江戸川乱歩
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1919年、読み聞かせ会で知り合った坂手島の小学校教師である村山隆子と結婚する。
1923年(大正12年)、森下雨村、小酒井不木に激賞され、『新青年』に掲載された『二銭銅貨』でデビューする。欧米の探偵小説に強い影響を受け、本格探偵小説を志す一方で『心理試験』『赤い部屋』といった変格とみなせるような作品も書き、黎明期の日本探偵小説界に大きな足跡を残した。『人間椅子』や『鏡地獄』に代表されるようなフェティシズムや怪奇小説の部類も初期から執筆しており、岩田準一とともに研究していた衆道の少年愛・少女愛、男装・女装、人形愛、草双紙、サディズムやグロテスク、残虐趣味などの要素を含んだ通俗探偵小説も、昭和初期から一般大衆に歓迎された。
当初は小説家として生計を立てるか悩んだと述べており、デビュー作『二銭銅貨』以降は、あくまで兼業の趣味の範疇として散発的に短編小説を執筆するに留まっていた。1925年に森下の企画で『新青年』に6ヶ月連続短編掲載するにあたってその2作目の『心理試験』が好評で踏ん切りがついたと述べている。ここで会社を辞めて小説家一本にしたが、探偵小説家としては早くも行き詰まり、連続掲載の6作目に当たる『幽霊』は自ら愚作と評し、小説家になったことを後悔したという。しかし、森下の紹介で『写真報知』や『苦楽』にも掲載を持てることとなり、探偵小説専門誌である『新青年』には載せられないような通俗的な作品の執筆で生計が安定した。
海外作品に通じ、翻案性の高い作品として『緑衣の鬼』『三角館の恐怖』『幽鬼の塔』などを残している。このほか、探偵小説に関する評論(『幻影城』など)を残している。
また、少年向けとして1936年に発表した、明智小五郎と小林少年や少年探偵団が活躍する『怪人二十面相』は、少年層からの圧倒的な人気を得てシリーズ化され、その他にも少年向けの作品が作られるようになった。
戦後も主に評論家、プロデューサーとして活動するかたわら、探偵小説誌『宝石』の編集・経営に携わった。また、日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力した。同クラブに寄付した私財100万円の使途として江戸川乱歩賞が制定され、同賞は第3回より長編推理小説の公募賞となる。 晩年は高血圧、動脈硬化、副鼻腔炎(蓄膿症)を患い、さらにパーキンソン病を患ったが、それでも家族に口述筆記させて評論・著作を行った。
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