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X68000
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これらコンピュータ製品以外にも、ちびちび-Xとして、X68030のフィギュアの付いたキーホルダーが自主制作品として販売されて居た事もあるほか、2019年にはショルダーバッグ製品が発表されている。
エミュレータとして、Microsoft Windows上ではEX68、けろぴー、WinX68k高速版、XM6、Macintosh上ではX68EMなどがフリーソフトとして公開されている。
実機の5分の2サイズで復刻された「X68000Z」がクラウドファンディング(CF)で販売され、2023年3月31日から購入者に順次届けられた。2022年12月に開始されたCFは目標金額3300万円を1時間で達成し、最終的に6627人から約3億5000万円が集まった。
2022年6月8日に、メガドライブミニなどを開発している瑞起から「X68000ミニ」が発表され、2022年9月15日から18日まで開催されていた東京ゲームショウ2022にて「X68000 Z LIMITED EDITION」名称改め、モックアップを展示された。CZ-600のデザインのミニサイズである。
当時のユーザーであった、瑞起の40歳代後半の技術者らが、前述した「無いものは作る」文化を形成したパソコンであり、「夢の続きを描きたい」と「ロクハチ」復活を訴えて事業化が決まり、シャープから許諾は得られたものの資料は現存していないとの回答を受けた。インターネットオークションで実物を入手して採寸するなどして、キーボードの打ち心地も再現したが、フロッピーディスクの代わりにSDカードを差し込むなど現代に合わせて一部は仕様変更されている。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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イエロー・マジック・オーケストラ (英: Yellow Magic Orchestra)は、日本の音楽グループ。1978年に結成。通称、Y.M.O.(ワイ・エム・オー)。
YMOは、元々はコンセプトバンドとして構想されたものであり、細野はメンバーの人員構成は流動的にする考えを持っていたが、ライヴなどでサポートメンバーを迎えることはあってもYMOのメンバー自体は結成からメンバー死去までこの3人である。
下記の担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライヴ、テレビ番組ではこれら以外のパートを担当することもあった。坂本龍一は、ライブでドラムスを披露する曲もある。
Yellow Magic Orchestra(イエロー・マジック・オーケストラ)という名称は、細野が1970年代後半に提唱していたコンセプト「イエローマジック」から来ている。これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも、黒魔術(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)でも、そのどちらでもない黄色人種独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱した「黄色魔術」(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエロー・マジック・カーニヴァル」、細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。
1980年代初頭に巻き起こったテクノ / ニュー・ウェイヴのムーブメントの中心にいたグループの一つであり、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に「散開」(=解散)するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には米国等でのレコードリリース、およびコンサートツアーも行っている。英語圏で著名な日本人ミュージシャンでもある。1993年に一時的に「再生」(再結成)しており、また2007年にも再々結成している。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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当時、シンセサイザーを駆使した音楽としては、すでにドイツのタンジェリン・ドリームやイギリスのエマーソン・レイク・アンド・パーマー、日本の冨田勲などが有名であり、1978年のディーヴォの「頽廃的美学論」やクラフトワークの「人間解体」にも、電子楽器の導入は明らかであった。よって、YMOはその路線に東洋趣味をそれと分かる形で歌詞・アレンジ・コンポジションの全てに入れ、プロモーションから黄色人種経由であることを主張し、バラエティ番組やコント番組などにも多く出演し積極的に露出を増やしていき、認知度を高めた。
クラシック、レゲエ等様々な音楽性を柔軟に取り入れている反面、ポストパンク的なシンプルさや攻撃性とは無縁である。このためテクノ御三家の一角としてムーブメントを支えたP-MODELの平沢進は後年「あれはフュージョンだと思っていた」と、自分たちの音楽性とは乖離があった旨を述べている。
YMOは、そのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライヴでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その形状が中国の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「テクノカット」(本多三記夫考案)と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげなし)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されている。
ライブにおいてヴォコーダーヴォイスで挨拶することでも有名。いくつかのライブ盤でそのヴォコーダーヴォイスによる挨拶を聞くことができる。
YMO結成以前、細野は、ドラマーの林立夫、シンガーのマナと共に自身の「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーするというユニットを構想していた。だがこれは実現せず(その後マナは、ソロで「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーしている)、続いて細野は林と佐藤博のユニットでマーティン・デニーの「ファイアークラッカー」をカヴァーすることを構想するが、これも佐藤が渡米したことにより実現しなかった。細野は当時のマネージャー(日笠雅水)にも人選を依頼し、日笠は坂本龍一を推薦した。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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1978年2月19日に行われた細野のソロアルバム『はらいそ』に収録される「ファム・ファタール」のレコーディングの際に、坂本龍一、高橋幸宏の2人と、初めて3人で顔を合わせることとなった。
それまでにも坂本と細野は1975年、大滝詠一のアルバム「NIAGARA MOON」の録音時に顔合わせをしており、1976年には細野がティン・パン・アレーのツアーでサポートメンバーとして坂本を起用するという関係だった。1976年5月、細野のアルバム『泰安洋行』発売時のライブでは坂本とともに「ファイアークラッカー」を演奏している。一方、高橋と細野は学生時代から旧知の仲であったが、ミュージシャンとしての交流はサディスティック・ミカ・バンドが1975年の「ジャパン・ロック・フェスティヴァル」に出演した際、小原礼の代役で細野が演奏したことが一度あっただけだった。
その日細野が2人を自宅に招き、3人はこたつを囲んだ状態で、おにぎりを食べながら(みかんという説もあるが、みかんはあったと三人は記憶している)会合を行った。細野が新たなグループのコンセプトを彼らに伝えたところ、2人は賛同し、ここで初めて“YMO”が結成される。このとき細野は2人に「マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る」(実際のメモには枚数は書かれていない)という自身のメモが書かれたノートを見せている。
細野はメンバーが決まった後も、結成当初は横尾忠則をYMOのメンバーに加える構想があった。記者会見の当日、細野は横尾に対し会見に来るように伝えていたが、横尾はなぜか「行きたくなかった」とキャンセルした(真相は、会見当日が締め切りとなっていた仕事に専念するため)。黎明期YMOのトレードマークである“タキシード”も横尾の分含め4着用意されていたが、結局、横尾がメンバーに加わることはなかった。
後に、結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート松武秀樹が、サポートメンバーのプログラマーとして迎え入れられ、YMOの特徴であるシンセサイザーの自動演奏を一手に引き受けることになる。
1978年7月10日、YMOはレコーディングを開始。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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後に、結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート松武秀樹が、サポートメンバーのプログラマーとして迎え入れられ、YMOの特徴であるシンセサイザーの自動演奏を一手に引き受けることになる。
1978年7月10日、YMOはレコーディングを開始。
1978年9月、松武秀樹をサポート・メンバーとしてライヴを日本楽器 池袋店東ショップ (YAMAHA) で行う。
1978年10月18日、郵便貯金ホールにおいてライヴを開催。さらに10月25日から26日にかけ六本木ピットインにおいて「千のナイフ発売記念ライヴ」を開催。
YMO結成後もしばらくは、メンバーは並行する形で別の音楽活動を行っていた。坂本は渡辺香津美とのツインバンド「KYLYN」、坂本のベーシスト2人、ドラマー2人など各パート2人体制により格闘技形式で演奏を行うコンセプト「カクトウギ・セッション」がそれである(これらには高橋、矢野顕子も参加)。また高橋は1979年6月までサディスティックスに在籍していた。初期には東京、六本木のジャズ・フュージョン系ライブハウス「六本木ピット・イン」などでYMO名義以外でも矢野顕子のライヴにゲスト出演を行ったり、KYLYN、カクトウギ・セッションなどに3人が参加し、YMOの曲も演奏していた。坂本の「千のナイフ発売記念ライヴ」にも3人が参加している。
1978年11月25日、デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をアルファレコードより発売。アルファレコードは、同年秋にアメリカのA&Mレコードと業務提携しており、12月3 - 10日に紀伊國屋ホールで行われたライヴが来日していた副社長のトミー・リピューマの目に留まり、全米でデビューが決定したと語られてきたが、後に『ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978』(12月10日分収録)のライナーノーツの中で、全米デビューはそれより前に決まっていたと明かされている。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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1979年5月30日、デビュー・アルバムをアメリカのマーケット向けにリミックスしたアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)』をA&Mレコード傘下のトミーの自己レーベル、ホライゾン・レコードから発売。リミックスは、エンジニアのアル・シュミットと細野が共同で行った。この米国盤は7月25日に日本でも発売された(日本ではオリコン・チャート最高20位)。日本盤との大きな違いとして、坂本のインスト曲「東風」が「Yellow Magic (Tong Poo)」にタイトル変更され、吉田美奈子のヴォーカルが加えられている。同時に、YMOを全世界に向けて売り出すプロジェクト「イエローオペレーション」が開始された。1979年8月2 - 4日には、ロサンゼルスのグリーク・シアター(英語版)でチューブス(英語版)の前座公演を行い(海外での初公演)、前座でありながらも観客が総立ちでアンコールを求めるなど、絶賛を浴びた。8月6日にはマダム・ウォンにて単独ライヴも行い、この頃から徐々にその存在が注目され始める。その後、チューブスが来日した時には、9月10 - 11日に中野サンプラザで、9月13 - 14日には郵便貯金ホールで前座を務めている。
同年9月25日、2枚目のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発売(この時期、アメリカではリリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった)。オリコン・チャートの最高1位にランクインし、日本国内でのセールスはトータルで100万枚を越え、その名を幅広い世代に浸透させることとなった。同アルバム収録の「テクノポリス」「ライディーン」は、YMOのパブリック・イメージとなる。また「デイ・トリッパー」「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」の2曲は海外でも評価が高く、名声を得た。なお、この2曲のみ鮎川誠(シーナ&ザ・ロケッツ)がゲスト・ギタリストで参加している。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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10月には初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー (YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR)」をイギリス・ロンドンのヴェニュー公演からスタート。ツアー中はテレビ、ラジオでも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売ることなく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な人民服風のコスチュームなど、その独特なスタイルが注目を集めた。12月には帰国し、中野サンプラザにてライブを行った。凱旋公演となったライブでは、シーナ&ザ・ロケッツがオープニング・アクトを務めた。帰国する頃には日本でもYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に逆輸入された形となった。海外でのライブツアーは、その日本人アーティストのほとんどが国内でヒットを出し、人気者になってから行うが、YMOは国内でヒットする前に行っている。これはスタッフが「YMOの音楽は国内よりも海外の方が人気になる」と予見してのことだった。この時期の大人気に伴い、デビュー以降無かった正式なマネジメント会社の設立が必要になり、ベルウッド・レコード出身の「大蔵博」(大蔵火呂死)によって音楽プロダクション会社「ヨロシタミュージック」が設立され、YMOは当該会社の所属になった。
こうしてYMOの日本国内での人気は圧倒的なものとなり、その人気は流行に敏感な若者はおろか、当時の小学生にまで広がっていった。若者がテクノカットをまね、竹の子族が「ライディーン」で踊るなど、YMOの影響は社会現象にまでなった。
1980年3月からは初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」が行われる。シングル「COMPUTER GAME (Theme From The Circus)」が、アメリカでリリースされ、3月15日付の全米シングルチャート(Billboard Hot 100)で60位を記録した。
4月には、小学館の雑誌「写楽」の創刊イベント「写楽祭」にシーナ&ザ・ロケッツやスネークマンショーらと共に出演。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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1980年3月からは初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」が行われる。シングル「COMPUTER GAME (Theme From The Circus)」が、アメリカでリリースされ、3月15日付の全米シングルチャート(Billboard Hot 100)で60位を記録した。
4月には、小学館の雑誌「写楽」の創刊イベント「写楽祭」にシーナ&ザ・ロケッツやスネークマンショーらと共に出演。
6月、スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された4枚目のアルバム『増殖』を発表。これは当初10万枚の限定盤として売り出される予定であったが、20万枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされた。同アルバムはオリコン・チャート初登場1位を記録。イギリスで発売されたシングル「COMPUTER GAME (THEME FROM THE INVADERS)」が、6月8日付の全英シングルチャートで17位を記録した。
10月には第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」が、イギリス・オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは、8か国、19公演で行われ、アメリカ・ロサンゼルスのザ・チャップリン・ステージ公演では、日本への衛星中継も行われた。ツアー中にアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たしている。ツアーは12月の日本武道館での4日連続公演で締めくくられた。
YMOは「世界に通用する(した)ジャパニーズ・バンド」と位置づけられることが多いが、当のメンバー達はむしろ、「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているようである(1993年「再生」時の坂本の発言より)。「欧米で広く受け入れられた画期的なジャパニーズ・ユニット」という評価であるかどうかは、評論家および聴衆の間でも反応は様々である。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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YMOは「世界に通用する(した)ジャパニーズ・バンド」と位置づけられることが多いが、当のメンバー達はむしろ、「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているようである(1993年「再生」時の坂本の発言より)。「欧米で広く受け入れられた画期的なジャパニーズ・ユニット」という評価であるかどうかは、評論家および聴衆の間でも反応は様々である。
1981年はYMOにとって大きな転換期となる。3月に前衛的ともいえるアルバム『BGM』を発表。当時、開発されたばかりであったデジタルのMTR(マルチトラック・レコーダー)を駆使したこのアルバムは非常に実験的なアルバムであり、それまで耳に馴染みの良いポップ指向のスタイルから一転、“暗く重い”ヨーロッパ志向かつ、ニュー・ウェーヴ色の強いエレクトリックサウンドを展開した。歌詞もそれまでのクリス・モズデルによる散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞はピーター・バラカンとの共同作業)が行われるようになった。同アルバム収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であると坂本龍一は語っており、また「U・T」が後に英国の『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されるなど、国内だけでなく世界にも影響を与えたアルバムである。
音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこのアルバムは、それまでYMOに興味を持たなかった評論家などから非常に高い評価を得ている。しかしその一方で、いわゆる「ライディーン」的なサウンドを期待していたファンからは大顰蹙を買い、「失敗作」、「駄作」などと酷評され、セールス面では大きく落ち込んでしまう結果となった。このアルバムの発表に対し、メンバーは「何をやっても売れちゃう。こんな面白い状況は二度と来ない。だったら遊んじゃおうと思った」(細野)、「期待をはぐらかす快感を味わいたかった」(坂本)、「ファンの切り捨てをしました」(高橋)と、それぞれ発言している。
同年11月には、『BGM』とはまた趣向の異なる実験的アルバム『テクノデリック』を発表。当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属音や人間の声などをサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を与えることになった。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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同年11月には、『BGM』とはまた趣向の異なる実験的アルバム『テクノデリック』を発表。当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属音や人間の声などをサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を与えることになった。
同年リリースされた上記の2枚のアルバムの発表に続いて、2度目の国内ツアー「ウィンター・ライヴ1981」が11月24日から仙台・宮城県民会館よりスタート。全国11会場で行われる。主に『BGM』 『テクノデリック』からの楽曲を中心に演奏されたこのツアーでは、楽曲の再現性に問題があったため、YMOのライヴとしては初めてMTRが使用された。演奏スタイルもそれまでのライヴとは、変化が見られる。高橋のドラムスタイルは、従来のドラムセットに加え、スタンディングでサンプリング・トリガーのLMD-649を叩くものが取り入れられた。楽曲によっては坂本がギターやドラムスを、高橋がキーボードを演奏するなど、YMOのライヴとしては非常に珍しいともいえる楽器のパート変更などが見られた。また、細野がベースギターを演奏する比重が増えるなど、変化に富んでいた。ステージのサポートメンバーも松武秀樹一人のみで構成されたライヴであった。12月27日の新宿ツバキハウス公演(この日の公演のみ立花ハジメ、梅林茂もサポートメンバーとして参加、「中国女」も演奏)を最後に、翌年はYMOとしての音楽活動は一旦休止状態となる。
グループ名を略して「イエローマジック」や「イエロー」といった呼ばれ方をされていたYMOであったが、この頃には「YMO」(ワイ・エム・オー)という記号化された略称が一般に定着した。散開後は、登録商標の問題でこの「YMO」表記が一時的にできなくなり、「イエロー・マジック・オーケストラ」(Yellow Magic Orchestra) 表記が主流である。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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グループ名を略して「イエローマジック」や「イエロー」といった呼ばれ方をされていたYMOであったが、この頃には「YMO」(ワイ・エム・オー)という記号化された略称が一般に定着した。散開後は、登録商標の問題でこの「YMO」表記が一時的にできなくなり、「イエロー・マジック・オーケストラ」(Yellow Magic Orchestra) 表記が主流である。
この時期、坂本は雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が“細野晴臣”というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」と語っており、坂本と細野の間で対立じみた不協和音が発生していた。この時期の坂本と細野の関係はかなり険悪な状態で、坂本は細野とスタジオで顔を合わせると、腹いせにスタジオの椅子を蹴飛ばしたり、互いに顔を合わせないようにわざとスタジオ入りの時間をずらしていたという。そんなこともあってか、2人の仲を取り持っていた高橋はとても神経をすり減らしていたそうである。
メンバー間では、1981年末でYMOの活動にピリオドを打つ(解散する)という考えがあったようである。しかしながら、(当時所属していたレコード会社だった)アルファレコードの意向によるビジネス面での要求から、解散はひとまず先延ばしにされた。
1981年までのYMOのレコードの世界での売上はシングルがアメリカで100万枚、イギリスで20万枚、アルバムはアメリカとイギリスを合わせて20万枚、全世界でのレコード売上は500万枚に達した(アルファレコード社長(当時)の村井邦彦による)。
翌年、1982年はYMOとしての実質的な音楽活動は行われなかった。各メンバーはソロ活動と同時に、歌謡界への曲提供に力を入れることとなる。
細野ははっぴいえんど時代の盟友松本隆と共に松田聖子への楽曲提供を行い、また高橋と共に「¥EN」(YEN) レーベルを設立、ソロアルバム『フィルハーモニー』を発表する。坂本は郷ひろみや前川清などの楽曲プロデュース、また、忌野清志郎と共にシングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリース、そして、大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の撮影に俳優(ヨノイ大尉役)として参加、また、自身としては初となる映画音楽を手がけることになる。高橋は「高橋幸宏TOUR1982」を6月から行う。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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YMOとしては「ミュージックフェア」や「オレたちひょうきん族」に出演したり、当時ブームだった漫才番組の「THE MANZAI」に「トリオ・ザ・テクノ」の名で出演し、“元YMOの”と前置きしつつ、芸を披露している。細野は“林家三平”“柳家金語楼”“大河内傳次郎”、坂本は“忌野清志郎”“矢沢永吉”、高橋は“小野田寛郎”“草刈正雄”などのものまねを披露し、ラストは坂本が高橋、高橋が細野、細野が坂本のものまねをして終えた。
翌年、1983年3月、カネボウ化粧品のCMタイアップ曲となったシングル「君に、胸キュン。」で、YMOとしての音楽活動を再開。この曲以降、1981年の前衛的なサウンド『BGM』 『テクノデリック』から一転、今度はポピュラー志向の日本語テクノ歌謡を展開した。この曲で“オリコン・チャート1位を狙う”と宣言するも、皮肉にも細野の作曲 / 編曲による松田聖子の「天国のキッス」に阻まれ、惜しくも2位に終わる(しかしYMOのシングルとしては最大の売上枚数を記録した)。引き続いて5月には、同曲を収録したアルバム『浮気なぼくら』を発表。またしても、それまでのイメージを劇的に変化させた歌謡曲アルバムであるが、楽曲そのものは、既存の歌謡曲の枠を超えた緻密なサウンドで構成された先鋭的な作品であった。しかしながら、このアルバムが「解散」を前提に制作されていたアルバムとは、この時点でメンバー以外はまだ誰も知らない。
また、同年7月には『浮気なぼくら』の楽曲のヴォーカル部分をシンセのメロディーに置き換えたリミックス盤『浮気なぼくら (インストゥルメンタル)』が発表され、このアルバムに収録された「以心電信」は、世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用された。
この時期はメンバー3人の年齢が30代を過ぎていたこともあり、TV番組やイベント等に出演する際に3人は「おじさんアイドル」を演じ、曲の演奏にもアイドルさながらの振り付けが施されるなどの徹底ぶりであった。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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この時期はメンバー3人の年齢が30代を過ぎていたこともあり、TV番組やイベント等に出演する際に3人は「おじさんアイドル」を演じ、曲の演奏にもアイドルさながらの振り付けが施されるなどの徹底ぶりであった。
当時、高橋が担当の「オールナイトニッポン」に劇団スーパー・エキセントリック・シアター (S.E.T.) がレギュラー出演していたことから、1980年6月リリースの『増殖』のような、S.E.T.によるコントを交えたアルバムを制作する案が高橋から持ちかけられ、解散記念としてギャグ色の濃いアルバム『サーヴィス』が制作されることになった。
そして10月、雑誌「GORO」のインタビューで、初めて正式に「散開」(解散)が表明された。この「散開」宣言について、雑誌「Soundall」(12月号)のインタビューで、細野は「僕は散開に関して、別に何も思い入れがないの。ファンの人は“解散”なんて聞くとショッキングだろうから、その辺を考慮して“解散”という言葉は使わなかったし、発表する気もなかった」と、淡々とした発言をしている。
旧YMOとしての最後のライブツアー(散開ライブツアー)である「1983 YMOジャパンツアー」が11月23日から札幌、道立産業共進会場よりスタート。全国6会場で行われる。ツアー最終日となる12月22日は日本武道館にて、世界コミュニケーション年(WCY)記念、国連大学協力によるチャリティー・コンサート(観客は全て無料招待)だった。
アルバム『サーヴィス』はツアー中の12月14日に発売。また、12月12日-13日の日本武道館公演を収録した2枚組アルバム『アフター・サーヴィス』は、翌年の1984年2月21日に発売。同年4月5日、昨年の12月12日、13日の日本武道館の公演を素材として制作された映画『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』のプロモーション試写会を新宿シアターアプルにて行い、メンバー3人も姿を見せプロモーション活動を行った。旧YMOとしてはこれが最後の仕事となった。同映画は4月18日、渋谷公会堂にて上映。以後、全国109か所で公開された。
このあと、1993年4月1日まで、メンバー3人が揃ってメディアに姿を見せることはなかった。
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このあと、1993年4月1日まで、メンバー3人が揃ってメディアに姿を見せることはなかった。
散開後も幾度となく再結成の噂がささやかれ、実際に周囲からのオファーもあったものの、それらは細野が全て断っていた。しかし、散開からおよそ10年を経た1993年2月、YMO「再生」(再結成)が発表され、4月1日にはメンバー3人揃っての記者会見において、新しいアルバムの発表と東京ドームでのコンサートの実施が公表された。YMO再生は、新聞が社会面で、NHKおよび民放がニュースでそれぞれ報道するなど、社会的にも大きく取り上げられ、YMOがかつて所属していたアルファはそれに便乗して過去のライブ映像や、過去のYMOの曲のリミックスアルバムなどが商品化された。
再生時の記者会見はジョン・レノンとオノ・ヨーコのベッド・インのパロディで、巨大なベッドに3人が仰向けに寝た状態で行われ、3人がベッドから出たら3人は手錠で繋がれているというものだった。口上と総合司会は当時のお笑い番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ)のキャラクターであるオジンガーZが行った。ちなみにこの会場に、当時放映されていた『進め!電波少年』(日本テレビ)の松村邦洋と松本明子が芸能レポーターとして紛れ込んでおり、「YMO再生! この機会にいろいろお願いしておきたい!」と題する企画で「YMOのバッテンのマークを電波少年と呼ばせてはいただけないですか?」と交渉していた。松村はこの時に「メリークリスマス、ミスターローレンス」とビートたけしのものまねをメンバーの前で行っており、「似ているね」と言われて嬉しかったと番組内で語っている。
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5月26日、アルバム『テクノドン』を東芝EMIから発売。ミキシングには坂本がニューヨークで知り合ったマドンナ等との仕事で知られた日本人エンジニアGOH HOTODAが参加、後述の再生公演にも4人目のメンバーとして出演した。先行シングルはエルヴィス・プレスリーのカヴァー曲「ポケットが虹でいっぱい」。6月10、11日には、東京ドームにて公演が行われた。前座はジ・オーブが務めた。このライヴでは過去の曲も数曲、斬新なアレンジが施されて演奏されたものの、昔のヒットパレードに終始することは全くなく、あくまで『テクノドン』からの曲を中心に構成された。8月25日、東京ドームでの公演を収録したCD『テクノドン・ライヴ』が発売。以降、解散などのアナウンスもないまま、YMOは再び活動を停止する。再生時の記者会見ではワールド・ツアーの実施や、もう1枚オリジナルアルバムを製作したいと発言していたが、結局YMOとしてそれらの活動が行われることはなかった(後年インタビューにて、「再生」はメンバー自身の本意ではなかったと3人とも口を揃えて語っている)。
しかし、細野・高橋・坂本の3人はソロ活動の傍ら、レコーディングやTV番組の企画、イベント等において音楽的コラボレートを続けてきた。
2001年1月23日、NHK-BS2で放送された細野晴臣デビュー30周年記念特番『細野晴臣 イエローマジックショー』にて3人が共演。3人が老人に扮して丹前(どてら)を着て演奏するというユーモラスな趣向で、同期なし、シンセサイザー、エレキベース、生ドラムのみの簡素な「ライディーン」を演奏した。この時の3人は「どてらYMO」と呼ばれる。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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2001年1月23日、NHK-BS2で放送された細野晴臣デビュー30周年記念特番『細野晴臣 イエローマジックショー』にて3人が共演。3人が老人に扮して丹前(どてら)を着て演奏するというユーモラスな趣向で、同期なし、シンセサイザー、エレキベース、生ドラムのみの簡素な「ライディーン」を演奏した。この時の3人は「どてらYMO」と呼ばれる。
同年 4月25日、TBSによる地雷撲滅キャンペーン「地雷ZERO」の一環として、坂本を中心としたスペシャルグループ「N.M.L. (NO MORE LANDMINE)」によるチャリティソング「ZERO LANDMINE」が発売された。N.M.L.は坂本の呼びかけで集まった国内外のミュージシャンで構成され、デヴィッド・シルヴィアンやクラフトワークなど、YMO時代から坂本と親交のあるミュージシャンも多数参加した上、細野がベース、高橋がドラムで参加している。4月30日には、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」が放送され、番組内でN.M.L.による「ZERO LANDMINE」の生演奏に細野と高橋も参加した。
翌2002年、細野と高橋がエレクトロニカユニット「スケッチ・ショウ」を結成。アルバムには坂本も参加したほか、ライヴ「WILD SKETCH SHOW」にて、ゲストミュージシャンとして坂本がステージに立ち、ライヴでは新たなアレンジとなった「キュー」や「中国女」、細野と高橋のみで演奏した「ジャム」と、YMOのナンバーも数曲が演奏された(スケッチ・ショウ初披露の際にも細野・高橋・坂本の3人でメディアへの露出があった)。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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スケッチ・ショウ以降、3人での音楽活動が活発化する。2004年6月18日、次世代ミュージックとマルチメディア・アートの国際フェスティバル「sonar festival 2004」がスペイン・バルセロナにて開催され、3人はYMOではなく「ヒューマン・オーディオ・スポンジ (Human Audio Sponge=HAS)」(「スケッチ・ショウ + 坂本龍一」という位置づけ)を名乗り、1993年の再生ライヴ以来11年ぶりにユニット(バンド)としてステージに立った。この「sonar」の衛星イベントとして、10月9 - 10日、「sonarsound tokyo 2004」が恵比寿ガーデンプレイスにて開催され、再びHASとしてライヴを行った。いずれも演奏スタイルはYMOとは違い、それぞれのブースにMacintoshを配置したエレクトロニカのスタイルであった。演奏された曲目もスケッチ・ショウのレパートリーが中心で、「ジャム」と「ライオット・イン・ラゴス」が演奏された以外は、YMO時代の曲は演奏されなかった。
1993年の「再生」以降、3人は長い間、もう一度YMOとして音楽活動をすることに対し、一貫して否定的な姿勢を取ってきた。HASとして活動する際も、それはあくまでYMOとは別のものであるとしてきた。
しかしながら、2007年2月3日、キリンラガービールのテレビCM企画において、ついに「YMO」名義が復活する。CMには3人が揃って出演し、さらに、CMのために「ライディーン」を新たなアレンジで録音した「RYDEEN 79/07」が使用された。同曲はCM公開とともにインターネット配信が開始され、iTunes Storeをはじめとする数々の配信サイトにおいて、ダウンロード数1位を記録した(ネット配信時の名義は「YMO」の略称ではなくカタカナ表記の「イエロー・マジック・オーケストラ」)。CM出演に伴って、3人一緒の写真がデザイン(2種類)されているラガービール6缶パックが限定発売された。
3月21日にはベストアルバム『YMO GO HOME!』とライヴアルバム『ONE MORE YMO』がソニー・ミュージックダイレクトより再発売。同時に、オリジナルアルバム10作品とベストアルバム『UC YMO』の初回盤が復刻発売された。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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3月21日にはベストアルバム『YMO GO HOME!』とライヴアルバム『ONE MORE YMO』がソニー・ミュージックダイレクトより再発売。同時に、オリジナルアルバム10作品とベストアルバム『UC YMO』の初回盤が復刻発売された。
その後5月19日、「Smile Together Project」の一環としてHAS名義でのライヴをパシフィコ横浜国立大ホールにて行った。このライヴでは「RYDEEN 79/07」をはじめ、「以心電信」、「音楽」、「キュー」といったYMOのナンバーも演奏され、さらに映画『EX MACHINA -エクスマキナ-』のテーマ曲となる3人の新曲「レスキュー」も披露された。このライヴは、チケット売り上げが全額「財団法人がんの子どもを守る会」の活動資金となるチャリティライヴであった。サポートメンバーは、高野寛、高田漣、権藤知彦。
一方でApple Japanのウェブサイトにおける Special Interviewの中で、坂本が「歳を重ねて気持ちが緩くなり、自分たちでも(HASとYMOの)境界線がわからなくなってきている」ので、「HASと書いてYMOと読んでくれ」と発言した(ただし「そう読みたい人は読んじゃっていいよ」という言葉を後に付け加えている)。
そして7月7日、世界8カ国9都市で同日開催されたコンサート「ライブ・アース」には、ついに「Yellow Magic Orchestra」名義(略称は使用されていない)で、サポートメンバーなしの3人のみで出演。会場は京都市の東寺の特設ステージで、出演5組のトリを飾る形となった。8月22日には新曲「レスキュー」と「RYDEEN 79/07」を収録したシングルCDを、エイベックス内の坂本が主宰するレーベルcommmonsから発売。名義は「レスキュー」が「Human Audio Sponge」の頭文字にYMOを付けた「HASYMO(ハシモ)」、「RYDEEN 79/07」が「Yellow Magic Orchestra」。YMO名義のCD発売は1993年の『テクノドン・ライヴ』以来。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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2008年6月15日、28年ぶりとなるロンドン公演がロイヤル・フェスティバル・ホールで行われた。また、同週の6月19日にはスペイン・ヒホンのLaboral Ciudad de la Culturaでも公演した。今回のセットリストは前年行われた横浜ライヴのものをほぼ踏襲しているが、スペインではロンドンで演奏された「SPORTS MEN」「FLY ME TO THE RIVER」が省略されたほか、各公演で若干曲順が異なっている。この公演で特筆すべきは世界初披露された新曲「The City of Light / Tokyo Town Pages」と、ダライ・ラマ14世のヴィジュアル・メッセージとともに演奏された坂本のソロ曲「TIBETAN DANCE」であった。
2009年、docomoの携帯電話端末N-04Aにオリジナルコンテンツとして「good morning,good night」フルチューンと14種の効果音を提供した(HASYMO名義)。この音源はここでしか確認ができない。
8月9日、東京・夢の島で開催された夏フェス「WORLD HAPPINESS 2009」に出演(なお、前年の同イベントにはHASYMO名義で出演している)。高橋はエレクトロニカスタイルを採らず全編ドラムを叩き、ビートルズのカバー「ハロー・グッドバイ」に始まって1980年以来の「千のナイフ」、テクノドンライブ以来の「ファイヤークラッカー」を含む全10曲を演奏した。当日のライブサポートメンバーは小山田圭吾、高田漣、権藤知彦であった。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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2010年4月発売“音楽の事典”『commmons: schola vol.5 Yukihiro Takahashi & Haruomi Hosono Selections: Drums & Bass」において、前年録音したビートルズの「ハロー・グッドバイ」と、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの「Thank You For Talkin' To Me Africa」を収録。坂本によれば、本作において紹介すべき当該の2曲が権利関係によって収録できなかったために自分たちで演奏したとのこと。レコーディングはクリックを使用しない生演奏で行われている。なお、後者のボーカルはクリスタル・ケイが担当した。これとリンクして、NHK教育テレビの番組『スコラ 坂本龍一 音楽の学校』の「ドラムス & ベース編」に三人で出演するとともに、小山田圭吾と権藤知彦と共に「千のナイフ」「ハロー・グッドバイ」「Thank You For Talkin' To Me Africa(ボーカル無し)」の演奏を披露した。
2010年も引き続き「WORLD HAPPINESS 2010」に参加。また秋からは江崎グリコ「ポッキー」のCMに出演、BGMには「ライディーン」が使用された。
2011年6月26日、アメリカ・ハリウッドの野外音楽堂「ハリウッド・ボウル」にて、1980年以来実に31年ぶりのアメリカ公演が、チボ・マットを伴って「BIG IN JAPAN」と題されて行われた。翌日には「Yellow Magic Orchestra “LIVE in California”」というタイトルでThe Warfieldで演奏を行った。
帰国後の7月31日には「フジロック・フェスティバル」に、8月7日には4回目になる「WORLD HAPPINESS 2011」に参加をし、1993年以来の新曲「Fire Bird」が発表された(HASYMO名義も含めると新曲としては2年ぶり)。また、8月5日には、初のスタジオライブをNHK放送センター101スタジオにて収録。そこでは「どてらYMO」ならぬ「ゆかた姿YMO」の出立ちも披露され、ライブの模様は11月4日にNHK総合にて放送された。
2012年2月15日、前年のThe Warfield公演が、DVD『Live in San Francisco 2011』として発売。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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2012年2月15日、前年のThe Warfield公演が、DVD『Live in San Francisco 2011』として発売。
7月7 - 8日、坂本の呼びかけで始まった脱原発音楽イベント「NO NUKES 2012」に出演。7日はトリをクラフトワークに譲り、1曲目で同グループの「Radio Activity」をカヴァーする。また7月18日には、前年のスタジオライブがDVD『YMONHK』として発売。8月1日には前年の「WORLD HAPPINESS」で初披露された「Fire Bird」が、デジタル・ダウンロード限定で販売。
8月12日には5回目の『WORLD HAPPINESS 2012』に出演し「開け心〜磁性紀のテーマ〜」をライブでは初めて披露され、散開以来29年ぶりに「TECHNOPOLIS」を演奏した。
同年10月11日には、「WORLD HAPPINESS 2012 After Party」と題するイベントが、東京都現代美術館レストランで開催。「WORLD HAPPINESS」における過去のYMO音源を、飯尾芳史がミックスし、高橋と共に鑑賞する内容で、その席で「2013年のWORLD HAPPINESSにはYMOでは出演しない」旨が高橋よりコメントされた。
2013年3月9日、2回目の開催となる「NO NUKES 2013」に、坂本(大友良英、Sachiko M、ASA-CHANGとの連名)、細野、高橋 (THE BEATNIKS) がそれぞれソロで出演。THE BEATNIKS終了後の幕間にはサプライズとして3人が「Radioactivity」「Rydeen」の2曲を演奏した。
同年12月21日、EX THEATER ROPPONGIにて細野と坂本によるライブ「細野晴臣×坂本龍一」を開催。最後に高橋がゲストで登場し、坂本の「TIBETAN DANCE」、クラフトワークの「Radio Activity」に続き、YMOの「Rydeen」をアコースティック編成で演奏。さらにアンコールで「Smile」(細野が同年のアルバム『Ho So No Va』でカヴァー)を演奏した。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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同年12月21日、EX THEATER ROPPONGIにて細野と坂本によるライブ「細野晴臣×坂本龍一」を開催。最後に高橋がゲストで登場し、坂本の「TIBETAN DANCE」、クラフトワークの「Radio Activity」に続き、YMOの「Rydeen」をアコースティック編成で演奏。さらにアンコールで「Smile」(細野が同年のアルバム『Ho So No Va』でカヴァー)を演奏した。
2016年4月には、坂本龍一をはじめとするアーティストとエイベックスグループが設立したプロジェクト、commmonsの10周年を記念したイベント「commmons10 健康音楽」の開催され、8日に前夜祭「高橋幸宏の新世界~出張特別編」が行われる。これは高橋がゲストを迎えて毎月開催していたトークイベントの特別編で、ゲストとして坂本龍一が出演、更にスペシャル・ゲストとして細野晴臣も出演。
2019年1月2日、細野の音楽活動50周年を記念し、BSプレミアムにて「細野晴臣イエローマジックショー2」を放送。前回に続き、18年ぶりに3人が「どてらYMO」として「Rydeen」を演奏、さらに共演の星野源が加わって「Firecracker」2018年6月23日、細野はロンドンのバービカン・センターで英国デビュー・ソロ・コンサートを行い、高橋と坂本もステージに加わり「Absolute Ego Dance」を披露した。を演奏した。また、同年12月1日開催の細野の音楽活動50周年記念イベント「イエローマジックショー3」において、高橋のゲスト出演に加え、事前収録の映像で坂本が出演。映像の坂本と3人で「COSMIC SURFIN'」と「ABSOLUTE EGO DANCE」を演奏。これがYMOメンバー揃って行った最後のパフォーマンスとなった。
2023年1月11日、高橋がかねてより闘病していた脳腫瘍から誤嚥性肺炎を併発し70歳で死去。そのわずか2か月半後の3月28日、がんとの闘病中であった坂本も71歳で死去した。
高橋死去が公表される1月15日の朝、坂本は追悼の意を表したような、コメントのない無地の灰色一色の画像のみのものをSNSに投稿した。そして坂本死去が公表された翌日の4月3日には、YMOで唯一存命となった細野も同じような無地の灰色の画像をInstagramへ投稿し追悼した。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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高橋死去が公表される1月15日の朝、坂本は追悼の意を表したような、コメントのない無地の灰色一色の画像のみのものをSNSに投稿した。そして坂本死去が公表された翌日の4月3日には、YMOで唯一存命となった細野も同じような無地の灰色の画像をInstagramへ投稿し追悼した。
YMOは日本においてはシンセサイザーのサウンドを大々的に商業音楽に取り入れた先駆者である。また、それまでミュージシャンの手弾きによる生演奏が常識だったライヴにおいてコンピュータプログラムによる自動演奏を取り入れた点でも東アジア圏では革新的だったのは間違いがない。
それまでのシンセサイザーは効果音製作や、既存の楽器の代用として使用されることが多かった。ウェンディ・カーロスですらクラシックからの転向者で、シンセサイザーや自動演奏でしか作れない曲を制作しようとした者は、非常に少なかった。しかし実際のレコーディングでは手弾きのパート、生のドラムの演奏が多かった。
YMO結成当時、コンピュータが刻むクリック音に合わせて演奏できるミュージシャンは数少ない時代だったが細野、坂本、高橋はクリックとの同期にまったく違和感を持たない演奏家であったうえに、音楽・音色に対する探求心も強く、新たな技術を積極的に受け入れる傾向が強かった。そのため彼らのライブは新種楽器の見本市のような様相を示していた。正確なクリック音に同期して演奏するスタイルは結成当初に掲げた「グルーヴの徹底的な排除」が背景にあったが、すぐに飽きてしまい民族音楽とクリックの研究を重ねるうち、1拍を24分割し、前拍と後拍の比率を14:10にしたところエイサーに近いビートが得られたのが「ABSOLUTE EGO DANCE」の制作に繋っている。
YMOのシンセサイザーと自動演奏は切っても切れない関係にあり、これらはプログラマーの松武秀樹の存在が大きい。レコーディングやライヴでの音楽データのシーケンサーへの打ち込み、自動演奏は松武が一手に引き受けていた。
YMOが使っていた演奏機材で代表的なものを挙げる。 極初期にはメンバーの私物の機材も使用したが、ほとんどは松武秀樹の会社である有限会社MACからのリース品であった。
技術の発展に伴い、デジタルシンセサイザーも使用された。
後期はシンセサイザーのリース元がMACから別の会社に変更された。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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YMOが使っていた演奏機材で代表的なものを挙げる。 極初期にはメンバーの私物の機材も使用したが、ほとんどは松武秀樹の会社である有限会社MACからのリース品であった。
技術の発展に伴い、デジタルシンセサイザーも使用された。
後期はシンセサイザーのリース元がMACから別の会社に変更された。
『テクノデリック』の項目を参照。
坂本は「ピアノのレッスンをほとんどまじめにやらなかった」と回想することが多いが、ピアノの生演奏をする機会は同時代のミュージシャンの中でもずば抜けて多かったため、アクションの軽い電子キーボードの操作は容易であった。自動演奏に聞こえる「テクノポリス」のシーケンスパターンや、「ライディーン」のメロディは手弾きである。
初期は、ミュージックシーケンサーMC-8を松武秀樹がコントロールしていた。コンピュータに入力するためには、演奏を一旦楽譜に直す必要があり、その作業を坂本が行ったが、その際に坂本はある程度自由にアレンジを行うことになった。そのためロック、ポップスの土台にクラシックの流れを汲む複雑で作りこまれた編曲が行われた。これは細野らメンバー自身が外部鍵盤によるリアルタイム入力ができるミュージックシーケンサーMC-4が登場する『BGM』の直前まで続いた。アルバム『浮気なぼくら』からは、YMOメンバー自らがシーケンサーを利用することとなり、それまで全面的に協力していた松武が制作から外れている。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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アルバムでは自動演奏を多用していたYMOではあるが、初期のライヴでは、メンバー+ギター+サポートキーボード(初期にはパーカッションも存在)の形式による生演奏が主体であった。当時のシーケンサー(ローランド MC-8)のフレーズの同時出力数に限界があり(同期信号など演奏に出ないものもある)、アルバム曲の再現に限界があったため(アルバム曲は多重録音である)のほか、熱に弱く動作が不安定だったこと、データの読み込みに時間がかかることなど、機材的な問題によるところが大きい。この形式は1980年の第2回ワールド・ツアー「YELLOW MAGIC ORCHSTRA WORLD TOUR '80」まで続いた。このツアーからMC-8もステージ演奏に適応するため、CPU関係にファンが追加される改良が加えられ、安定性が高くなっている(加えて演奏中には扇風機を使用)。また、当時のシンセサイザーは熱などにより音程が不安定になることが多かった。
1981年に行われた「ウィンター・ライヴ1981」では、メンバー+松武秀樹のスタイルとなった。このライヴではシーケンサーにMC-4が使われ、各メンバーがプロフェット5、イミュレーターを使用したものに代わり、構成が簡素になったことで機材数が減った。このとき、イミュレーターはMC-4に接続されておらず(シーケンサー接続のためのCV / ゲート端子がまだ付いていなかった)、いくつかのファクトリーサンプルを手で弾いただけであった。また、一部の演奏では先述の通り楽曲の再現性に問題があったことからMTRが使用されることもあった。このライヴでは坂本はギターやドラムも演奏している。
散開ライヴでは、シーケンサーは使われず、ほとんどのトラックがMTRで演奏されている。ただし、先述のようにシモンズのドラム音とリン・ドラムの音を混ぜるなど斬新な試みも引き続き行われた。
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イエロー・マジック・オーケストラ
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散開ライヴでは、シーケンサーは使われず、ほとんどのトラックがMTRで演奏されている。ただし、先述のようにシモンズのドラム音とリン・ドラムの音を混ぜるなど斬新な試みも引き続き行われた。
1993年の再生ライヴでは、細部までシーケンサーとアナログシンセを使って演奏された。1998年の高橋へのインタビューでは、高橋は「東京ドームのグラウンド下には大きな発電機があり、Macintosh(シーケンサーとして使用)が止まってしまう恐れがあった。そのため、事前に録音したシーケンサの音を予備で(シーケンサーが止まってもいいように、つまりは前述の散開ライヴと同じことができるように)同期して再生していた」と語っている。なお、「ポケットが虹でいっぱい」のみはテープ演奏であったが、ステージ上にオープンリールMTRを上げて、再生ボタンを押す前に手でテープを動かすことで音を出し、カラオケ演奏であることをわざわざ強調する演出を行った。このようなユーモアのセンスもYMOの持ち味であった。
1990年代以降に活躍する日本人ミュージシャンの中に、YMOの音楽に影響を受けたと自称するミュージシャンが数多く現れた。彼らは「YMOチルドレン世代」と呼ばれることがある。
ここでの「初期」とは、第1回ワールドツアー(ライヴ様式での区分け上、グリークシアターのチューブス前座も第1回ワールドツアーに含む)以前のライヴを指す。
レコーディング参加メンバーは各アルバムの項を参照
以下は「イエロー・マジック・オーケストラ」もしくは「YMO」名義のもので、「HASYMO」名義のものは除いている。
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細野晴臣
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細野 晴臣(ほその はるおみ、Haruomi Hosono、1947年〈昭和22年〉7月9日 - )は、日本のミュージシャン。 2008年3月、平成19年度芸術選奨の大衆芸能部門で文部科学大臣賞を受賞。
1947年(昭和22年)、東京都港区生まれ。父方の祖父は鉄道官僚で、タイタニック号処女航海唯一の日本人乗客であった細野正文。母方の祖父である中谷孝男はピアノ調律師、叔母が外資系の映画会社勤務という環境から、幼い頃からポピュラー音楽に親しんだ。
港区立白金小学校から越境で港区立青山中学校入学。バンカラな校風の青山中学時代にロックに興味を持ち、15歳あたりからギターを手に友人とバンドを組む。漫画家を志したこともあるが、立教高校(現:立教新座高校)・立教大学の同級生だった西岸良平の才能に感服し、漫画家を諦め音楽の道を進むことを決意する。
高校時代からフォークの洗礼を受け、ボーカルにも挑戦し始める。この頃、ボブ・ディランに大きな影響を受けた。
立教大学在学中にベースをはじめ、数多くのバンドを経た1969年、エイプリル・フールのベーシストとしてメジャー・デビュー。その後、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成。細野本人は当初、日本語でロックを歌うことに反対していたが、結果として日本語ロックの礎を築く。1973年のはっぴいえんど解散後、ソロ活動と並行して鈴木茂、林立夫、松任谷正隆とキャラメル・ママ(のちにティン・パン・アレーと改名)を結成。演奏・プロデュースチームとして多数のアーティストの楽曲に参加、荒井由実、矢野顕子などのプロデュースも行う。
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細野晴臣
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自身のソロ・アルバムでは、1stアルバム『HOSONO HOUSE』(1973年)は、当時埼玉県狭山市のアメリカ村にあった自宅で録音を行う。その後の『トロピカル・ダンディー』(1975年)、『泰安洋行』(1976年)、『はらいそ』(1978年)と続く「トロピカル三部作」では南国・楽園志向にアプローチした。この三部作でのニューオーリンズや沖縄、ハワイ、中国などの音楽をごった煮にしたサウンドは海外の好事家からも注目されるようになる(この作品に加えて、プロデュース作品である西岡恭蔵の『ろっかばいまいべいびい』がある。名義上はプロデュースだが、実質は共作である)。漫画家の諸星大二郎のファンであり、彼の漫画のタイトルから曲名をつけたこともある。
シンセサイザー・コンピュータを用いた音楽やディスコへの興味が高まっていた1978年、元サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏、当時スタジオ・ミュージシャンでもあった坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。当初は細野主体の企画もののバンドと捉えられていたが、1980年にはその活動がブームを巻き起こす。
YMOの成功をきっかけにメディアにも露出するようになり、アイドル・歌謡曲界への多数の楽曲提供、新人発掘のためのレーベル「¥EN」の高橋との共同による立ち上げなど、個人としても精力的に活動を行う。
また、ビデオ・ゲーム「ゼビウス」の音源をダンス・ミュージックにアレンジした『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年)をプロデュース。ゲーム・ミュージックが音楽ジャンルとして確立するきっかけを作った。
1983年のYMO散開(解散)後は、テイチクに移籍し、「Non Standard」と「Monado」の2つのレーベルを立ち上げる。Non Standardレーベルからはピチカート・ファイヴやWorld Standardを輩出。また、自身の代表作として映画『銀河鉄道の夜』のサウンド・トラックを手掛ける。Monadoレーベルからは実験的な作品を中心にいわゆる「観光音楽」と呼ばれる作品を発表。代表作として映画『パラダイスビュー』のサウンド・トラックを手掛ける。
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細野晴臣
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この時期は旧知である松本隆の依頼で松田聖子への楽曲提供を行うなど他者への楽曲提供も盛んに行っている。一方で聖子と激しいライバル関係にあった中森明菜に対しても楽曲提供を行っており、同じく松本と旧知である松任谷由実が明菜に対し楽曲提供を行っていないのとは対照的である。
その後、1989年にEPIC/SONY RECORDSに移籍し、アルバム『omni Sight Seeing』を発表。また、映画『紫式部 源氏物語』のサウンドトラックを手掛ける。その後、アルバム『メディスン・コンピレーション』を発表。その後もプロデューサーや作曲家としての活動や映画音楽の提供(『メゾン・ド・ヒミコ』他)などをこなしながらも、アルバム発表や多くの他アーティストとのユニット(別項参照)結成など自己の音楽活動も枚挙に暇がない。
YMO時代からの多忙に加えて、日本のバブル崩壊以前の消費社会に幻滅し、1980年代後期にはワールド・ミュージック、1990年代にはアンビエント・ミュージックに深くアプローチし、大量消費されない音楽を模索した。
自身のレーベル「daisyworld discs」を1996年に創設、2002年よりYMO時代の盟友、高橋幸宏とスケッチ・ショウ (SKETCH SHOW) を結成しフォーキーなエレクトロニカサウンドに取り組む。また2005年にはHISにてシングルをリリース、翌年この名義にて忌野清志郎のライブに参加するなどしている。
SKETCH SHOWは坂本龍一ともコラボレートしており、ライヴやコンピレーション・アルバムでは3人でヒューマン・オーディオ・スポンジ (HAS) として活動も行う。2007年にはHASとしてのライブ活動のほか、YMOとしても「RYDEEN 79/07」を発表、さらにはHASYMOとしても「RESCUE」を発表するなど、活発な活動を行っている。
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細野晴臣
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SKETCH SHOWは坂本龍一ともコラボレートしており、ライヴやコンピレーション・アルバムでは3人でヒューマン・オーディオ・スポンジ (HAS) として活動も行う。2007年にはHASとしてのライブ活動のほか、YMOとしても「RYDEEN 79/07」を発表、さらにはHASYMOとしても「RESCUE」を発表するなど、活発な活動を行っている。
その一方で、2005年9月に狭山稲荷山公園で行われたハイドパーク・ミュージック・フェスティバルでは久々にボーカルをとって『HOSONO HOUSE』の曲を披露。以降、東京シャイネスやハリー・ホソノ・クインテットなどのユニットを結成し、カントリー&ウェスタンスタイルのライブ活動を行う。これらの活動は2007年9月に発売されたアルバム「FLYING SAUCER 1947」として結実する。また、同年4月に坂本龍一の立ち上げたレーベル「commmons」からトリビュート・アルバムが発売され、同年7月にはトリビュート・ライブが日比谷野外音楽堂で催された。2008年にトリビュート・アルバムの続編も発表されている。
2007年2月7日に発売されたCD-BOX『Harry Hosono Crown Years 1974-1977』のDisc3で1976年5月8日に横浜市横浜中華街の中華レストラン「同發新館」に招待客を集めてディナーショー形式で行なわれた、通称「中華街ライブ」の音源が初CD化する。このライブで細野はベースではなくマリンバを担当。細野以外のバックメンバーはベース田中章弘、ギター鈴木茂、ドラム林立夫、パーカッションとフルート浜口茂外也、キーボードは後に細野とYMOを組む坂本龍一、ピアノは後にYMOのツアーにサポートキーボーディストとして参加する矢野顕子、そしてホーンセクションの人達(ライブのメンバー紹介MCで細野はホーンセクションの人達は紹介していない)。坂本龍一や矢野顕子が参加したりYMOでカバーされる「Firecraker」が披露された面、またソロライブはほぼ音源化されていない為貴重な音源である。
2008年3月、平成19年度芸術選奨の大衆芸能部門で文部科学大臣賞を受賞。
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細野晴臣
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2008年3月、平成19年度芸術選奨の大衆芸能部門で文部科学大臣賞を受賞。
2011年、『くるり×細野晴臣 東北ツアー』を開催。2013年から4年間、京都精華大学ポピュラーカルチャー学部の客員教授を務める。2015年、『キネマ旬報』に連載したコラム「映画を聴きましょう」で、第42回キネマ旬報読者賞を受賞。2020年度朝日賞受賞。
音楽家としての活動以外にも、俳優としてテレビドラマや映画に出演したり、また低音が響く声が評価され、TV番組やコマーシャルのナレーターとして起用されることも増えている。しかし、本人は自分の声が嫌いなようで、YMOのアルバム『BGM』に収録されている「ラップ現象」など、イコライザーで自身の声の低域をカットしている楽曲もある。また、声の低さ故はっぴいえんどのアルバム「風街ろまん」収録「風をあつめて」の曲作りには苦労したと言う。
一般的にはベーシストやキーボーディストとして知られているがギター、ピアノ、オルガン、ドラムス、ヴィブラフォン、シロフォン、三味線とマルチに演奏できる。実際にクラウン時代の『トロピカル・ダンディー』や『泰安洋行』では、上記した楽器を演奏しているほか、ドラマーとしては、実際に大瀧詠一の「恋の汽車ポッポ」で、別名の宇野主水で参加している。
狭山に住んでいた頃、「寝図美」という名前の猫を飼っていた。以前の飼い主であるフォークシンガーの遠藤賢司が名付けた。遠藤が自宅アパートで飼っていたが大家に見つかって飼えなくなり、細野が預かることになったという。
1970年代にはいくつかの雑誌にコラムを書いている。当時出したアルバムのことなどである。それらのコラムは、CD-BOX『HARRY HOSONO CROWN YEARS 1974-1977』のブックレットに転載されており、読むことができる。アルバム『トロピカル・ダンディー』の歌詞カードにも「島について」というコラムを寄せている。
母方の祖父、中谷孝男は、日本楽器製造(現ヤマハ)のオルガン部門勤務を経て、社団法人日本ピアノ調律師協会の前身である全国ピアノ技術者協会の創設に力尽。 文筆の才に優れ、数多くのピアノ技術書を翻訳して刊行し、国立音楽大学の音響工学科講師を務める等日本屈指のピアノ調律師として名を馳せた。
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細野晴臣
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母方の祖父、中谷孝男は、日本楽器製造(現ヤマハ)のオルガン部門勤務を経て、社団法人日本ピアノ調律師協会の前身である全国ピアノ技術者協会の創設に力尽。 文筆の才に優れ、数多くのピアノ技術書を翻訳して刊行し、国立音楽大学の音響工学科講師を務める等日本屈指のピアノ調律師として名を馳せた。
喫煙者であり、デビュー50周年記念ドキュメンタリー映画『NO SMOKING』のタイトルは、自身がヘビースモーカーであることに由来している。2021年現在は、受動喫煙対策により禁煙の場所が増えてきたことから、「もうずいぶん前から迫害を受けてる」と語っている。
YMOメンバーである高橋幸宏とはYMO結成以前から長い交流があり、2人が初めて出会ったのは、軽井沢の「三笠ホテル」(現在は国の重要文化財)で開かれたダンスパーティーで、細野が大学生、高橋が高校生のときであった。
ベーシストの細野悠太は孫。
細野の父方の祖父である細野正文は、日本人で唯一豪華客船タイタニック号に乗船し、事故から生還した人物である。映画『タイタニック』の公開に合わせ、1998年にウォルター・ロード『タイタニック号の最期』(佐藤亮一訳、ちくま文庫)が再刊され、細野は祖父のことを記した文章を寄せた。また、ギャヴィン・ブライアーズの『タイタニック号の沈没』の1994年版CDの日本盤ライナーノーツでも、本件に関する質疑に答えている。
細野が1985年に『銀河鉄道の夜』のアニメ映画の音楽を担当した時には、偶然ではなく運命的なものと捉えたとコメントしている。
細野は2012年に、事故犠牲者の共同墓地があるカナダのハリファックスを訪れており、その模様は2012年6月7日のNHK BSプレミアム『旅のチカラ』にて放送され、大西洋海洋博物館(英語版)に展示されている乗船名簿に祖父の名を見つける。事故が起きた100年前と同じ4月21日に行われた追悼式を再現した式典に参加し、犠牲者の共同墓地も訪れた。細野は、同じミュージシャンとしてタイタニック号沈没まで演奏していて犠牲になった8人の音楽家のことが気になっていたという。
細野は1970年代に多くのアーティストの作品で演奏に参加している。ここでは、はっぴいえんど、ティン・パン・アレーとして以外で演奏に参加したことのあるアーティストを記する。
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MC68000
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MC68000(エムシーろくまんはっせん)、68000は米・モトローラ(現NXPセミコンダクターズ)が開発したMPU(MPUはマイクロプロセッサを指すのにモトローラが使った語でマイクロプロセッシングユニットの略)である。略して68K(ろくはちケー)などとも。後継MPUも含めた同一アーキテクチャのシリーズを総称するときは、680x0と呼称される。モトローラ自体は周辺LSIを含めてM68000ファミリと呼称した。MC型番は量産ロットで、量産先行品はXC型番となる。M68000ファミリは、Apple Macintosh や Apollo/Domain、NeXTcube、HP 9000、Sun-3、ソニーNEWS、NEC EWS4800、シャープX68000、Uステーションなど様々なパソコンやワークステーションに採用された。オペレーティング・システムとしては、Mac OS、Domain/OS、NeXTSTEP、HP-UX、SunOS、CP/M-68K、OS-9/68000、NetBSDなどがある。
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MC68000
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68000 は1976年に開始された MACSS (Motorola Advanced Computer System on Silicon) プロジェクトから出てきたものである。従来製品との互換性を考慮するような妥協したアーキテクチャにはしないということが開発の初期に決定されていた。これは、利用者がその新システムを一から新たに学ぶ必要があることを意味しており、一種の賭けだった。最終的に、6800系の周辺デバイスとのインタフェースの互換性だけは持つこととなったが、6800のコードは実行できないものとなった。しかし、その後の拡張における互換性には最大限の注意が払われ、68000に乗り換えさえすれば今後が保証されるようにした。例えば、CPUのレジスタは32ビット幅とされたが、外部バスはより小さく設計され、アドレスバスは24ビット幅であり、データバスは16ビット幅となっている。ちなみに、アドレスバスとデータバスはマルチプレクスされておらず分離されている。MACSSチームはPDP-11やVAXシステムのようなミニコンピュータのプロセッサに影響を受けた。命令セットはハードウェアの制限よりもソフトウェア開発の観点で設計された。そこにはミニコンピュータでの開発になれた技術者がプログラミングしやすいものにしようとの考えがあった。
"68000" という名称は6800との連続性を想起させるよう選択されたが、これらの間に設計上の類似点はあまりない。集積されたトランジスタ数が68,000だったからとも言われているが、実際には70,000に近かった。
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MC68000
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"68000" という名称は6800との連続性を想起させるよう選択されたが、これらの間に設計上の類似点はあまりない。集積されたトランジスタ数が68,000だったからとも言われているが、実際には70,000に近かった。
当時、8ビットから16ビットへの移行で熾烈な競争が繰り広げられていた。ナショナル セミコンダクターは1973年から1975年にかけてIMP-16とPACEというプロセッサで一歩先んじたが、使用したプロセス技術が原因で、性能に問題を抱えていた。次にテキサス・インスツルメンツがTMS9900をリリースしたが、広く使われるには至らなかった。そして1977年にインテルが8086をリリースした。しかし、モトローラのマーケティング部門は68000をより完全な16ビット設計にすることが重要と考えた。このため、68000はハードウェアとしては複雑なものとなった。複雑さの指標としてトランジスタ数を見ると、8086は29000個であり、68000は前述のように70000近い。
68000の単純な命令は4クロックサイクルで実行できたが、複雑な命令の実行にはもっと時間がかかった。8MHzの68000で、平均性能は約1MIPS弱だった。
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68000の単純な命令は4クロックサイクルで実行できたが、複雑な命令の実行にはもっと時間がかかった。8MHzの68000で、平均性能は約1MIPS弱だった。
典型的なプログラムで平均をとると、68000のコードはインテルのプロセッサよりも一命令あたりにできることが多く、コードのサイズが小さくて済んだ。また、8086が、8080との互換性を重視した結果、汎用レジスタの不足や実行速度の低下に苦しんだ事に対して、十分な数のレジスタと、当時としては先進的な内部設計のため、実行速度の面では8086に対して優位に立っていた。さらに68000は24ビットリニアアドレッシングによって最大16MBの連続するメモリ空間をサポートし、この空間内の任意のアドレスへのダイレクトアクセスを可能としている。これは開発当時としては非常に広大なメモリ空間だった。これに対し8086は従来の8080との間でソフトウェアのアセンブリ言語レベル(注: バイナリレベルではない)での互換性のため、従来と同じ16ビットのアドレッシングを「オフセット」とし、「セグメント」と称する(詳細はセグメント方式#x86を参照)16ビットレジスタの値を4ビットシフトしてベースアドレスとする、20ビット空間のノンリニアアドレッシングだった。そのため、64Kバイトを超えるデータやコードを扱うにはセグメントレジスタの値を適宜変更する必要があり、面倒であった。32ビットアドレッシングは、x86では1986年の80386で初めて可能になった。
このような事情から68000は8086と比較して学習が容易で使いやすく、開発者に好まれた。
オリジナルのMC68000は、3.5μmルールのHMOSプロセスで製造された。技術サンプルは1979年末に出荷された。量産チップは1980年に出荷され、当初のクロック周波数は4, 6, 8MHzだった。10MHz版は1981年、12.5MHz版が1982年に登場している。HMOSでは最高速の16.67MHz版 (12F) は1980年代終盤まで生産されなかった。
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オリジナルのMC68000は、3.5μmルールのHMOSプロセスで製造された。技術サンプルは1979年末に出荷された。量産チップは1980年に出荷され、当初のクロック周波数は4, 6, 8MHzだった。10MHz版は1981年、12.5MHz版が1982年に登場している。HMOSでは最高速の16.67MHz版 (12F) は1980年代終盤まで生産されなかった。
メモリ量の少ないシステム向けの低価格版として1982年に MC68008 が登場した。これは MC68000 の8ビットデータバス版であり、アドレスバスも当初は24ビットよりも縮小され、48ピンDIP版は20ビット。後の52ピンPLCCパッケージ版では22ビットである。MC68012 は後に31ビットアドレスバスで登場した。
68HC000はモトローラと日立製作所が1985年にリリースしたオリジナルとピン配置互換のHCMOS版である。モトローラのものは MC68HC000、日立のものはHD68HC000と呼ばれた。68HC000では8MHzから20MHzまでのクロック周波数が可能となった。またCMOS化されただけでオリジナルと機能が全く変わらず、かつ電力消費が低減されている。オリジナル版は25°Cの環境で約1.35ワットを消費した(クロック周波数に依存しない)。一方、MC68HC000は8MHzで0.13ワット、20MHzで0.38ワットしか消費しない。なお、CMOSとは異なり、HMOS回路の電力消費はスイッチング時も何もしていないときも一定である。従って、クロック周波数が違っても電力消費はほとんど変化しない。ただし、周囲の気温には影響される。
モトローラは1990年、MC68HC001をリリースした。このチップは68HC000と仕様がほぼ共通であるが、データバスに16ビット幅と8ビット幅の2つのモードが用意されており、リセット時のピンへの入力でモード選択が行えるようになっていた。従って、このチップは68008の代替として 8ビットメモリを使った安価なシステムで利用できた。
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モトローラは1990年、MC68HC001をリリースした。このチップは68HC000と仕様がほぼ共通であるが、データバスに16ビット幅と8ビット幅の2つのモードが用意されており、リセット時のピンへの入力でモード選択が行えるようになっていた。従って、このチップは68008の代替として 8ビットメモリを使った安価なシステムで利用できた。
HMOS版の68000はいくつかのセカンドソース企業で製造された。日立 (HD68000)、Mostek (MK68000)、ロックウェル (R68000)、シグネティックス (SCN68000)、Thomson/SGS-Thomson (EF68000, TS68000)、東芝 (TMP68000) などである。東芝はCMOS版の68HC000のセカンドソースでもあった (TMP68HC000)。また、後にシグネティックスがアーキテクチャ互換のSCC68070を製造した。 SCC68070は現在フィリップスが版権を持つ。
68000は数々のマイクロコントローラや組み込み用プロセッサのベースにもなった。1989年、モトローラはMC68302通信プロセッサをリリースした。これが68000CPUコアを使用した最初のマイクロコントローラだった。このコアはCMOS版の68HC000をベースとしているが、8ビットの6800周辺チップとのインタフェース機能が省略されている。1991年、モトローラはここからプロセッサ部分だけを抜き出したMC68EC000をリリースした。
モトローラは68EC000コアを使ったいくつかのマイクロコントローラを開発した。MC68306とMC68307は汎用マイクロコントローラ、MC68322 "Bandit" はプリンターコントローラ、MC68356はモデム用、MC68328 DragonBallは携帯機器向けだった。他のマイクロコントローラとして683XXファミリーは、より強力なCPU32プロセッサコアを使っていた。
68EC000ベースの683XXマイクロコントローラの一部にはスタティック版の68EC000コアが使われた。この場合クロックを遅くしたり停止させたりして電力消費を抑えることができる。1996年、モトローラはこのスタティックコアをプロセッサとして独立させ、MC68SEC000としてリリースした。
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68EC000ベースの683XXマイクロコントローラの一部にはスタティック版の68EC000コアが使われた。この場合クロックを遅くしたり停止させたりして電力消費を抑えることができる。1996年、モトローラはこのスタティックコアをプロセッサとして独立させ、MC68SEC000としてリリースした。
モトローラは1996年、HMOS版MC68000とMC68008の製造を終了した。生産終了の予告は1994年末ごろなされた。モトローラの通常の手順からいけば、1995年まで注文を受け付け、最後の出荷は1996年になったということになる。その後スピンオフしたフリースケール・セミコンダクタは現在もMC68HC000、MC68HC001、MC68EC000、MC68SEC000を製造販売し続けている。また、MC68302やMC68306マイクロコントローラやその後のDragonBallファミリーも生産し続けている。68000のアーキテクチャを受け継いだ680x0、CPU32、ColdFireも生産されている。
後継のMC68020からは外部データバス、アドレスバス共に32ビットの、名実共に32ビットのCPUとなり、コプロセッサがサポートされた。ソフトウェア的には、アドレッシングモードが拡張されたほか、ユーザーモードではほぼMC68000の上位互換だった。一部互換性のない部分は、存在しない命令を実行しようとしたときに割り込みでトラップ処理することで、ソフト的に吸収することができた。このMC68020や、後継のMC68030は数多くのワークステーションで採用された。
なおRISCであるPowerPCシリーズとの互換性はなく、同プロセッサを搭載したMacintoshではMC68LC040をエミュレーションしている。
RISC技術を採用したColdFireシリーズは、68000から使用頻度の低い命令の多くを削除した下位互換の組み込み用プロセッサである。
68000は1980年代前半には比較的高価なシステムに使われた。
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なおRISCであるPowerPCシリーズとの互換性はなく、同プロセッサを搭載したMacintoshではMC68LC040をエミュレーションしている。
RISC技術を採用したColdFireシリーズは、68000から使用頻度の低い命令の多くを削除した下位互換の組み込み用プロセッサである。
68000は1980年代前半には比較的高価なシステムに使われた。
UNIXシステムではプロセッサのメモリアドレッシングの上限やMMUの制限などにより、68000そのものは長く使われることはなかったが、その後継品種は1980年代を通して UNIX市場で広く使われた。そのアーキテクチャがDECのPDP-11やVAXによく似ていて、C言語のコードを動作させるのに最適なコンピュータだったからである。
1983年から68000はパーソナルコンピュータ (PC)、特にホビーパソコンで使われるようになった。まず、Apple ComputerのLisaとMacintoshで使われ、その後コモドール Amiga、アタリ Atari ST、シャープ X68000、それにソニー PalmTopなどで1990年代中盤まで使われた。一方68008が使われたホビーパソコンとしてはシンクレアQLぐらいしかない。(ちなみに日立製作所製のMB-S1には、オプションとして68008ボードが存在した)
68000はコントローラ用として最も成功した。1981年、Imagen社のImprint-10などのレーザープリンターは68000をCPUとする外部コントローラで制御されていた。最初のHP LaserJetは8MHzの68000を使ったコントローラを内蔵していた(1984年)。同様に68000を使ったコントローラが多くのレーザープリンターで使われている。例えばAppleのLaserWriterなどである。68000は1980年代を通してレーザープリンターで使用され、1990年代に入ってもローエンドのプリンターに使われ続けた。
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また、68000は工業制御システムの分野でも成功を収めた。この種のシステムでは、68000やその派生CPUを中心としたプログラマブルロジックコントローラ (PLC) を利用する。このようなシステムは一般市場に比較して製品寿命が長く、20年前のものでもそのまま使い続けることが多い。そのため、21世紀になっても68000ベースのコントローラが数多く使われ続けている。
コンピュータゲームメーカーはアーケードゲームや家庭用ゲーム機などに68000を使った。アーケードゲームでは1983年にアタリが「Food Fight」で68000を使ったのが最初である。日本での初使用は同年のナムコ(後のバンダイナムコアミューズメント)の「 リブルラブル」である。1980年代後半から1990年代初めごろまでアーケードゲーム基板ではメインCPUとして68000がよく使われた。例えば、セガのセガ・システム16、カプコンのCPS-1とCPS-2、SNKのネオジオなどである。アーケードゲームでは68000を2個使ったり、場合によっては3個使う場合もあった。1990年代、アーケードゲームのメインCPUはもっと高性能なプロセッサが使われるようになっていったが、68000はサウンドコントローラなどとして使われ続けた。
家庭用ゲーム機で68000がメインCPUとして使われた例としては、メガドライブ、メガCD、家庭用のネオジオがある。その後のゲーム機でも、セガサターンは68EC000をサウンドコントローラとして使用し、Atari Jaguarでもグラフィックスやサウンドチップの制御に使われた。
また、クリエイティブテクノロジーのWave BLASTERやENSONIQ社のENSONIQ SoundScape DBをはじめとするPC向けサウンドカード用MIDIシンセサイザー・ドーターボードへ、制御用として68000が搭載されるケースが1990年代中盤には多数見られた。
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また、クリエイティブテクノロジーのWave BLASTERやENSONIQ社のENSONIQ SoundScape DBをはじめとするPC向けサウンドカード用MIDIシンセサイザー・ドーターボードへ、制御用として68000が搭載されるケースが1990年代中盤には多数見られた。
技術の進歩によって68000がスタンドアローンのコンピュータ市場では使われなくなると、一般消費者向けの各種機器の組み込み用途に使われるようになった。テキサス・インスツルメンツは68000をハイエンドのグラフ表示電卓、TI-89、TI-92などで使っている。これらの初期のバージョンではスタティック版68EC000コアを使った特殊なマイクロコントローラだった。後のバージョンでは標準のMC68SEC000プロセッサが使われている。
CPU32とColdFireプロセッサは自動車のエンジン制御に数百万個単位で使われた。 また、低価格で信頼性が高いことから医療機器分野でも多く使用された。 低電圧版のDragonBallは、Palm PilotシリーズやHandspring VisorなどのPDAで使われた。後にこの市場はARMプロセッサコアに奪われた。高速シリアルポートを内蔵した派生品(68302と68360)は、シスコシステムズ、3Com、Ascend、Marconiなどが通信機器に使用した。
32ビットのデータレジスタを8本、また、32ビットのアドレスレジスタを8本持つ、CISCアーキテクチャのマイクロプロセッサである。8ビットのMC6800シリーズとはアセンブラソースレベルでもバイナリレベルでも互換性を持たない。
MC68000は、DECのVAXを参考にしたと言われる、直交性の高い命令体系をもつ。
外部バス幅はアドレスバス24ビット、データバス16ビットで、発表当初のクロック周波数は4 - 16MHz。約68,000個のトランジスタからなるN-MOS集積回路であり、当初は巨大な64ピンDIPパッケージ、後にPGAパッケージでも供給された。
データーバスはダイナミックバスサイジングを採用しており8ビットまたは16ビットのバスにアクセス可能である。これはM68000ファミリ周辺チップだけではなく、M6800ファミリなど廉価な8ビット周辺チップとの接続を考慮したものである。
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データーバスはダイナミックバスサイジングを採用しており8ビットまたは16ビットのバスにアクセス可能である。これはM68000ファミリ周辺チップだけではなく、M6800ファミリなど廉価な8ビット周辺チップとの接続を考慮したものである。
MC68000自体は16ビットCPUとして取り扱われたが、内部アーキテクチャは32ビットプロセッサとして設計されており、レジスタとアドレスのデータ長は等しく32ビットとなっている。
32ビットのアドレス空間は4GBに相当するが、当時の技術では、4GB分のアドレス空間をフルに使う可能性は無いとされ、外部のアドレスバスとのデータ入出力では上位8ビットをマスクして下位24ビットを使用し、最大16MB分のメモリ領域を管理する実装とされていた。
このように最初に理想とする32ビットアーキテクチャを決めておき、その時々で利用できる技術で実現可能な機能から順に実装するという方式をとっていたため、無理なく上位互換性が確保できた。
また、ライバルであるx86系プロセッサではメモリ空間とは別にI/O空間が設けられ、専用のI/O命令が用意されていたが、MC68000シリーズではメモリ空間内にI/O用領域を割り当てるメモリマップドI/O方式を採用しているのも特徴の一つである。
MC68000ユーザズマニュアルによると、MC68000シリーズのアドレス空間はFC0 - FC2ピンのデコードによって、スーパーバイザ・プログラムアドレス空間、ユーザ・プログラムアドレス空間、スーパーバイザ・データアドレス空間、ユーザ・データアドレス空間に分離された4つの32bitアドレス空間がある。しかし実際のところ、それぞれのアドレス空間を通信する機能が不十分であったため、ユーザはハードウェア実装においてはFCピンのデコードを行わずに1つの32ビットアドレス空間とするほかはなかった。
MC68000シリーズではプログラムアドレス空間とデータアドレス空間を分離するハーバード・アーキテクチャを採用していた。しかし、アドレス空間の分離におけるメモリ管理の複雑化、またハーバード・アーキテクチャを採用したオペレーティングシステム (OS) があまり供給されなかったことから、多くの実装ではプログラムアドレス空間とデータアドレス空間を分離しない設計が採用される場合が殆どだった。
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MC68000シリーズではプログラムアドレス空間とデータアドレス空間を分離するハーバード・アーキテクチャを採用していた。しかし、アドレス空間の分離におけるメモリ管理の複雑化、またハーバード・アーキテクチャを採用したオペレーティングシステム (OS) があまり供給されなかったことから、多くの実装ではプログラムアドレス空間とデータアドレス空間を分離しない設計が採用される場合が殆どだった。
スタックがOS用とアプリケーション用に二つあり、特権モード(スーパバイザモード)と、ユーザモードの2つの特権レベルを持つなど、当初よりUNIXに代表される高度なメモリ管理機能やマルチタスク機能を備えたOSを搭載することを前提に設計されている。
ユーザーモードで動作するプログラムの互換性はMC68000からMC68060までバイナリレベルでほぼ完全に保たれているが、スーパバイザモードでの動作についてはこのモードで動作するOSが差異を吸収することを前提として、世代ごとに改良や変更が加えられている。
このため特にスタックポインタの実装とその挙動には世代間での相違が多く、アプリケーションがハードウェアリソースへ直接アクセスするためにスーパーバイザモードをアプリケーションに解放した原始的な実装のOSではMC68000用に書かれたこの種の動作を行うアプリケーションプログラムが後継各プロセッサで正常動作しないケースが存在する。
MC68000は16ビットのALUを持つ一方で、アドレスは常に32ビットで扱われ、フラットな32ビットアドレス空間を持つ。その実効アドレスの演算の為に、専用の16ビット幅のALUを2個持つ。
8086は20ビットのアドレス空間を持つが、リニアにアクセスできるのはセグメントと称された(セグメント方式#x86)16ビットの空間だけであった。これは特にグラフィックの扱いなどを面倒にした。
MC68000では実効アドレス演算の為に専用の2つの16ビットのALUを接続して用い、3つめのALUが16ビットの演算を行った。
例えば、32ビットのアドレスレジスタのポストインクリメント(そのアドレスにアクセスした後、アドレスレジスタの内容をインクリメント(増加)するアドレッシングモード)「ADD.W (An)+,Dn」はポストインクリメントをしない場合に較べても速度低下することがない。
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MC68000では実効アドレス演算の為に専用の2つの16ビットのALUを接続して用い、3つめのALUが16ビットの演算を行った。
例えば、32ビットのアドレスレジスタのポストインクリメント(そのアドレスにアクセスした後、アドレスレジスタの内容をインクリメント(増加)するアドレッシングモード)「ADD.W (An)+,Dn」はポストインクリメントをしない場合に較べても速度低下することがない。
したがって、16ビットCPUとして始まってはいるが、68000の命令セットは32ビットアーキテクチャになっている。後継のMC68020は32ビットのALUと32ビットのデータバスを持っていたが、68000用のソフトウェアをほぼ変更することなしに、データバス幅を32ビットに拡張することで速度向上を果たした。
しかし、ソフトウェアの互換性を完全に保てたわけではない。68000では(同様のテクニックは同じく32ビットマシンだがアドレスが24ビットだったSystem/360で行われていたが)使われない(無視される)上位8ビットに何らかの情報を持たせる、というテクニックが一部のシステムプログラムなどで使われた。例えば、LISPなどでポインタの指すオブジェクトの種類を区別する情報をそこに格納したり、ガベージコレクション用のフラグを格納した。そのようなコードを、後継のより広いアドレスバスを持つマシンで実行するとバスエラーが発生した(やはりSystem/360の後継機でも同様の問題が起きており、System/370-XAではMSBを互換モードのために残した31ビット化という苦肉の策がとられている)。
Macintoshでは8MB以上のRAMを搭載する際にソフトウェアのアップグレードが必要だった。
多くのアプリケーションは将来を見越して書かれており、問題は発生しなかった。
8本の汎用データレジスタ (D0 - D7)と8本のアドレスレジスタ (A0 - A7) を持つ。 アドレスレジスタ (A7) はスタックポインタ (SP) であり、スタック上位のオブジェクトをアクセスする事が容易となった。
68000ファミリでの多バイトデータのメモリ上での配置はビッグ・エンディアンである。
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多くのアプリケーションは将来を見越して書かれており、問題は発生しなかった。
8本の汎用データレジスタ (D0 - D7)と8本のアドレスレジスタ (A0 - A7) を持つ。 アドレスレジスタ (A7) はスタックポインタ (SP) であり、スタック上位のオブジェクトをアクセスする事が容易となった。
68000ファミリでの多バイトデータのメモリ上での配置はビッグ・エンディアンである。
68000の比較命令、算術演算命令、論理演算命令は実行結果をステータスレジスタに反映させ、後で条件ジャンプ命令でそれを使えるようになっている。 ステータスレジスタのビットには、"Z"ero(ゼロ)、"C"arry(キャリー)、o"V"erflow(オーバーフロー)、eXtend、そして"N"egative(ネガティブ)がある。 eXtendビットはCarryビットと分離されている。 eXtendとCarryは、シフト/算術演算/論理演算命令の桁上がり結果を保持するが、eXtendビットはより多バイトの演算を実現するために使い、Carryビットは処理の流れを制御するのに用いる。
68000の設計者はアセンブリ言語が直交性を持つよう注意を払った。つまり、命令は操作とアドレッシングモードに分けられ、多くの場合は任意の操作に任意のアドレッシングモードを使えるようになっている。
ビットレベルで見ると、命令のオペコードの値は必ずしも現状の通りである必然性はない。このことは、ある意味でよい妥協点だった。真の直交性のあるマシンと同等の利便性を得ると同時にCPU設計者はオペコード表を自由に埋めることができた。
最小命令サイズは当時としては大きい16ビットである。さらに多くの命令やアドレッシングモードは追加のワードでアドレスやアドレスモードビット等を表現する。
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ビットレベルで見ると、命令のオペコードの値は必ずしも現状の通りである必然性はない。このことは、ある意味でよい妥協点だった。真の直交性のあるマシンと同等の利便性を得ると同時にCPU設計者はオペコード表を自由に埋めることができた。
最小命令サイズは当時としては大きい16ビットである。さらに多くの命令やアドレッシングモードは追加のワードでアドレスやアドレスモードビット等を表現する。
多くの設計者はMC68000アーキテクチャはコストに見合うコンパクトなコードを実現していると信じている(特にコンパイラがコードを生成した場合)。多くの組み込み制御システムの設計者はメモリのコストに敏感であり、コードがコンパクトであるという信念がMC68000ならびに後継CPUを採用する動機に繋がり、アーキテクチャの寿命を延ばした。そして同様にコンパクトなARMアーキテクチャのThumb命令セットが登場するまで、多くの68000命令セット(のCPU)の採用をもたらし続けた。
このCPUと他の全ファミリは二段階の特権レベルを実装している。ユーザモードでは割り込みレベル制御以外はアクセス可能である。 スーパバイザ特権では全てにアクセスできる。割り込みが発生するとスーパバイザモードに移行する。 スーパバイザビットはステータスレジスタに格納され、ユーザプログラムからも見える。
68000は8つの割り込みレベルを持つ。レベル0から7まで厳密に優先順位が決まっている。 番号が大きい割り込みが番号の小さい割り込みに対して割り込むことが出来る。ステータスレジスタには現在の割り込みレベルを特権命令でセットすることができ、これにより低いレベルの割り込みをブロックする。レベル7はマスクすることができないため、NMI(英: Non-Maskable Interrupt)とも言う。レベル0は他の全てのレベルが割り込むことができる。レベル0は割り込み要求がないことを示す。レベルはステータスレジスタに格納され、ユーザレベルプログラムからも見ることが出来る。
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ハードウェア割り込みは3本の信号線によってCPUに伝えられ、この3本の値がペンディング中の最も高い割り込みレベルにエンコードされる。別途割り込みをエンコードするための割り込みコントローラが必要である。ただし、割り込み発生源が三つ以下のシステムでは、各割り込みを三本の信号線にそれぞれつなぐことで割り込みコントローラを省略できる。ただし、割り込みレベルと割り込みの対応が単純ではないためソフトウェアでの処理が複雑になる。割り込みコントローラは汎用ロジックIC74148のような単純なエンコーダでもよいし、VLSIの周辺チップでもよい。例えばMC68901は、割り込み制御だけでなくUART(シリアル)、タイマー、パラレルI/Oを備えている。
例外テーブル(割り込みベクターテーブル)はアドレス0番地から1023番地まで固定で置かれ、256個の32ビットアドレスを表す。最初のベクターは初期スタックアドレスであり、二番目のベクターは初期コードアドレスである。3番から15番のベクターは各種エラー処理ルーチンのアドレスである。エラーの種類としてはバスエラー、アドレスエラー、不正命令、ゼロによる割り算、CHK/CHK2命令ベクター、特権違反、そして予約されたベクター(後にline 1010エミュレータ、line 1111エミュレータ、ハードウェアブレークポイントに割り当てられた)がある。ベクター24から実際の割り込みに対応する。ハードウェアに対応しない擬似割り込み、レベル1から7のベクター、15個のTRAPベクター、いくつかの予約されたベクター、ユーザ定義ベクターの順番で並んでいる。
リセットされたとき、少なくともスタートコードアドレスのベクターには正しいアドレスが入っている必要がある。多くのシステムは不揮発メモリ(つまりROM)を持っていて、0番地に配置し、そのROMにベクターテーブルとブートストラップコードが入っている。しかし、汎用システムでは動作中にベクターを書き換えられるのが望ましい。これを実現するため、ROM上のベクターがRAM上のジャンプテーブルを指すようにするか、バンク切り替えで動作中に0番地付近の配置をROMからRAM変更する。
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68000はPopekとGoldbergの仮想化要件(英: virtualization requirements for full processor virtualization)を満たしていない。というのは、"MOVE from SR" 命令が特権命令でないため、ユーザモードから特権ステータスが見えてしまうからである。この問題は後述する仮想記憶サポートの問題とともに後のMC68010で改善された。"MOVE from SR" 命令は特権命令となり、ユーザモードのソフトウェア用に "MOVE from CCR" 命令を追加した。ユーザモードで "MOVE from SR" 命令を使った場合、トラップが発生してOS側でエミュレートすることも可能である。
680x0系の最初のプロセッサであるMC68000の仕様は、外部支援なしにはデマンドページングの実現が困難なものであった。
デマンドページングでは、実行中の命令のメモリアクセスがページフォールトを起こしたら、(それが正常なアクセスであれば)その実行中の命令の実行を一旦フリーズし、外部記憶と主記憶の間でスワッピングをおこなってから、実行中だった命令の実行から再開する、という処理が必要である。
しかし、MC68000がページフォールトの際に保存する内部情報は、「実行中だった命令の実行からの再開」ができないものであった。このため、MC68000の通常の割り込みの処理に従ってしまうと、デマンドページングは実現できない。これを、単にそもそもサポートするつもりが無かったものとみるむきもあれば、「仕様のバグ」とみるむきもあれば、後述のようにして実現が可能であるし、MMUも計画中に過ぎなかったのだから「将来仮想記憶をシリコン上に実装することを正当化する需要が発生するまでの暫定的な実装仕様」だったと考えるほうが自然である、とみるむきもある。
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MC68000
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そのようなMC68000で仮想記憶を実装するためには、MC68000には次のような機能があった。バスアクセス中にあるピンをアサートすることにより、命令の実行をそこで一旦フリーズし、スリーステートバスをハイインピーダンスにして解放させたままいつまででも止めておいて、そののち、元の命令の中断したバスアクセスから再実行(re-run)する機能である。これによるバスサイクルをリランサイクル(rerun cycle)という。
これを利用して、メインのCPUであるMC68000を止めた状態で、別のプロセッサでページ処理をおこなうようにして、デマンドページングを実装できる。必然性はないが、同じバスに接続する容易性から、この補助プロセッサにもMC68000が使われることが多い。
以上のようなMC68000のデュアル・プロセッサによる仮想記憶を実現したコンピュータとしてはアポロコンピュータのDomainが有名である。同社の実装ではページスワップを担うスレーブ・プロセッサは、通常時はグラフィックス・プロセッサとして動作し、必要に応じてマスターのページ・スワップ要求に応じた。
この問題は後のMC68010で解決された。MC68010では、バスエラーとアドレスエラーが発生した場合、エラーを発生させた元の命令を指すプログラムカウンタのアドレスをスーパバイザスタックに保存することにより、元の処理に復帰できるようになった。
基本的なアドレッシングモードは以下の通りである。
追加:ステータスレジスタへのアクセス。後のモデルでは他の特殊レジスタも同様。
多くの命令にはドットに続くサフィックスが付き、処理単位を8ビット (".b")、 16ビット (".w")、32ビット (".l") で指定する。
多くの命令は入力(ソース)と出力(デスティネーション)を持ち、デスティネーションに変更を加える。主な命令は以下の通りである。
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Z80
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Z80 は、米国ザイログによって製造された 8ビット・マイクロプロセッサーである。1976年に発表され、1980年代の中頃までは、パーソナルコンピューターのCPUを中心に幅広い用途を支えてきた。その後、特にセカンドソースメーカーから周辺デバイスを集積した製品も開発された。Z80は、今日(2022年)でも、同社により製造されている極めて息の長いCPUのひとつである。組み込み用途などではFPGAのIPコアとして利用されることが多い。
嶋正利らインテルを退社したIntel 8080の開発スタッフが設計を行っており、8080とはバイナリーレベルで「ほぼ」上位互換性がある。
ザイログオリジナルの製品としてクロック周波数が2.5MHzのZ80から20MHzの派生製品まで、各社からセカンドソースや互換製品が製造されている。2007年現在は実チップではなく、FPGAやASIC用のIPコアとして活用されている。パチンコの主基板向けプロセッサーに使われているNECのμPD70008 IPをはじめ、商用の互換コアは20社以上存在し、オープンソースのIPコアも5種類以上存在している。
当初、Z80とその互換CPUはより高速な8080互換CPUとして応用され、S-100バス互換機にもこぞって搭載されるなど、黎明期のパーソナルコンピューター市場を支配した。日本国内においても、1970年代の末から80年代前半頃にかけてビジネス用のオフィスコンピュータなどの他、各社のホビーパソコンにも搭載された。
また、組み込み用としては21世紀に至るまで応用され続けて来ており、多数の機器に搭載されたほか、初期のゲーム専用機などにも搭載されていた。パチンコ・パチスロの抽選を司る主基板部分のコアCPUには暗号機能を付与したZ80ベースのカスタムLSIが使われており、消費量の多い分野の一つである。このLSIはCPUとメモリの間で交換するデータを暗号化し、プローブを当ててもプログラムやデータが読み取れない様にしている。
8080がコンパニオンチップである8251 (USART)、8253 (CTC / PIT)、8255(PPI)でファミリーを構成していたのに対応して、Z80もZ80SIO、Z80CTC、Z80PIOや、Z80DMAでZ-80ファミリーを構成する。また、これらを1チップに集積したマイコンがある。
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Z80
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8080がコンパニオンチップである8251 (USART)、8253 (CTC / PIT)、8255(PPI)でファミリーを構成していたのに対応して、Z80もZ80SIO、Z80CTC、Z80PIOや、Z80DMAでZ-80ファミリーを構成する。また、これらを1チップに集積したマイコンがある。
開発者の間では、しばしば「ゼッパチ」と略して呼ばれる。同社にはZ8というマイクロコントローラーもあるが、「ゼッパチ」の呼称はもっぱらZ80に対して使われる。
Z80はインテルの 8080マイクロプロセッサの改良型といえる製品であり、他のインテル系CPUと同じくリトルエンディアンである。8080に対して若干の拡張、電源の 5V単一化、より高いクロック周波数への対応などが図られた。メモリ空間は16ビット幅のアドレスバスで示される64KiBで、それ以上のメモリ空間を操作する場合には、外部にバンク切り替え回路やMMUなどを追加する必要がある。
NMOS版の最大動作クロック周波数は品番の末尾のサフィックス(アルファベット)の有無と種類で識別できる。Z80が2.5MHz版、Z80Aが4MHz版、Z80Bが6MHz版、Z80E若しくはZ80Hが8MHz版など。トランジスター数は8,200個。CMOS版ではZ84C0006が6.17MHz、Z84C0008が8MHz、Z84C0010が10MHz、Z84C0020が20MHz動作となっている。Z80H(40ピンDIPプラスチックパッケージ)の価格は1982年当時1000個ロット時で19.95ドルであった。Z80Hに対応するZ8500周辺ファミリがサポートされ、Z8530シリアル・コミュニケーション・コントローラ、Z8531非同期シリアル・コミュニケーション・コントローラ、Z8536カウンタ/タイマ・パラレルI/Oユニット、Z8538バスコントロールI/Oインターフェイス、Z8060 FIFOエキスパンダ、Z8516 ダイレクト・メモリ・アクセス・ユニットなどがある。
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Z80
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8080に対して、8ビット汎用レジスタを2セット備え切り替え可とする、IXとIYの2つのインデックスレジスタを使用したメモリ操作を含む命令の増強、DRAMのリフレッシュ(情報を維持)する機能の内蔵とそのためのRレジスタの追加、割り込みモードの追加、相対アドレスによるジャンプ命令の追加、ワイヤードロジックによる命令の実行、などの追加や変更が行われている。
また、正式には命令表に無い未定義命令があり、多くが命令のフォーマットに準ずる動作をした。機能的に既存の命令と重複するものが多かったが、16ビット固定のインデックスレジスタを8ビットレジスタとして使うものなど一部はZ280のマニュアル中で正式にドキュメント化されている。但し、Z-80においては飽くまでも非公式の命令であるため互換プロセッサの一部では期待どおりの動作をしないケースもある。
ハードウェア上の非公開の機能として、Z80のNMOS版、CMOS版には通常のリセットの他に、特別なリセット(スペシャルリセット)が存在し、Zilog社に在籍していた嶋正利、フェデリコ・ファジン、ラルフ・アンガーマンの3氏による米国特許4486827として1984年12月4日に成立している。スペシャルリセットは通常のリセット同様、リセット入力ピンを利用するが、通常リセットより短いリセットパルス幅(2クロック以内)が与えられる必要がある。スペシャルリセットが有効になるとPC(プログラムカウンター)のみがリセットされ、他のレジスタは一切変わらない。特許や他のリソースに示されているスペシャルリセットの応用はエミュレータやマルチタスキング等である。
製造には、この頃使われ始めたイオン打ち込み技術が使用された。当時、互換品の製造にあたりライセンス契約を結んでセカンドソースとなったり、クリーンルーム設計による独立実装によるのではなく、チップの顕微鏡写真からマスクを起こしてデッドコピーを行う一部の日本企業があったため、イオン打ち込み技術はその対策のためにも使われた。イオン打ち込みにより、エンハンスメント(ノーマリーオフ)に見えるが実はディプリーション(ノーマリーオン)というトランジスタを6個ほど仕組み、素直にデッドコピーしたのでは正しく動作しなくなるようにして時間稼ぎをした。
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Z80
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8080との差別化のため、命令の1サイクル目(M1サイクル)では他のサイクルに比べて所要ステート数が少なくなっている。通常のメモリサイクルが3ステート必要なのに対しM1サイクルでは2ステートである。タイミングチャート上はM1サイクルには4ステート必要なように見えるが、後半の2ステートはリフレッシュ機能のために使用され、通常のメモリアクセスとは関係がない。
通常のリードライトサイクルが3ステート(T1/T2/T3)なのに対し、IN/OUT命令では、自動的にウェイトサイクル(TW)が挿入され、4ステート(T1/T2/TW/T3) となる。ウェイトサイクル中に、/WAIT(active low) 信号がサンプリングされ、アサートされている限りウェイトサイクルを継続することで、応答が遅いIOデバイスに対応することが可能となっている。
これは同じ命令を実行しても8080よりも高速に実行するためのZ80の売りの一つだった。反面、このM1サイクルだけのために速いメモリが必要になり、ハードウェア設計者からは不評を買っていた。
Z80には「ある処理を行う際に、特定の命令の組み合わせを用いると、普通に命令を書いた場合よりも実行にかかるクロック数や命令の総バイト数を少なくできる」というテクニックが多数存在し、これらは「最適化」「クロック削り」などと呼ばれた。例えば、Z80にて追加されたブロック転送命令やインデックスレジスタ命令は、一連の処理に必要なプログラムサイズを節約できる反面、他の命令で代用する場合よりも所要クロック数が増大するといったデメリットもあり、命令のメモリ空間上の占有量と処理速度とのトレードオフの関係にあった。
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Z80
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またZ80は、同時期に新規に開発された他社製の8ビットCPUと比較すると、相対ジャンプは可能であるもののジャンプ先の範囲が狭く、PC相対アドレッシングが無いなどリロケータブルな構成をとりづらく、バイナリ化したコードをリロケータブルに配置して動作させるドライバやデバッガ、オペレーティングシステム等の環境を作るには不向きとされた。リロケータブルでない一般的なバイナリは、配置アドレスを変更する度に再コンパイルや再リンクが必要となった。またアドレス参照時のオフセットも汎用レジスタ使用時には指定できず、インデックスレジスタ使用のオフセット指定も-128〜0〜127の範囲で制限されるため、C言語のポインタとの相性がよくない面があった。
アドレッシングモードが少ないこともあり、オペコードおよび命令フォーマットを暗記して、直接機械語を記述することも、さほど難しいものでもなかった。
A,B,C,D,E,H,Lは8080の同名レジスタと同じ機能を持つ。 Fは8080上位互換のフラグレジスタである。 これらの8ビット汎用レジスタとアキュムレータ、フラグレジスタはZ80では切り替えて使える裏レジスタが用意された。 但し、裏表どちらのレジスタであるかを判断する命令はない。 Rはリフレッシュカウンタで、オリジナルのZ80では下位7ビットが変化し、最上位ビットは初期値不定で、値を書き込むとその最上位ビットが保持される。周辺LSI統合CPU・上位互換CPUでは、リフレッシュカウンタを8ビットに拡張し、最上位ビットが保存されないものもあるほか、リフレッシュ機構をCPUから完全に切り離してRレジスタが変化せず書き込んだ値が保存されるものもある。
8080に存在する命令についてはパリティフラグを除く挙動とバイナリは同一となり、基本的には上位互換であるため非互換部分に留意すれば同一のバイナリを動作させる事も可能である。
Intelによる8080の上位互換プロセッサであるIntel 8085とは拡張部分の命令セットや挙動が違うため非互換である。
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Z80
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8080に存在する命令についてはパリティフラグを除く挙動とバイナリは同一となり、基本的には上位互換であるため非互換部分に留意すれば同一のバイナリを動作させる事も可能である。
Intelによる8080の上位互換プロセッサであるIntel 8085とは拡張部分の命令セットや挙動が違うため非互換である。
バイナリこそ互換性があるものの、ザイログ社が定義したZ80のニモニックは、インテル版と全く異なるものとなっている。記述の容易さが勘案され、より整理されたものとなった。但し、これは初心者にも判りやすいとされる反面、他のCPUのニモニックと比較して、アドレッシングモードや実際の命令がはっきりせず、単純化された結果、使えない組み合わせのオペランドの区別がしにくいなどの状況が発生している。オペランドの順番は、ディスティネーションが前でソースが後である。また、オペコードの仕様上、HLレジスタとインデックスレジスタ間での処理は組み合わせに制限がある。
ここではZ80で追加された命令のみ示す。8080からある命令についてはIntel 8080#命令セットを参照。また、IXとIYについては同等の命令が存在するが、ここではIXのみを示す。
8086のストリング命令、80186/V30のI/Oストリング命令に相当する。LDIRが最もよく使われる。
Z80には8080と同じくメモリアドレスとは別に0からFF(255)までのI/Oポートアドレスを持つ。ポートアドレスはメインメモリーのアドレスデコーダーを流用していたのか、アドレスバスの下位8ビットに出力されたが、上位8ビットにも同時に値が出力される仕様になっていた。この値にはI/OアドレスをCレジスタで指定する命令の場合はBレジスタ、それ以外の命令はAレジスタの値が用いられる。
この仕様を利用するとI/Oポート空間を16ビットアドレスで取り扱うことができ、VRAMをここに割り当てることで、メインメモリーがVRAMによって圧迫されることを防ぐことができる。そのような構成をとった日本製パソコンには、シャープのX1、ソニーのSMC-777、BUBCOM80などがある。シャープMZ-1500ではオプションのRAMファイル(MZ-1R18、容量64KB)のアクセスにこの仕様を使用している。
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Z80
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しかし、通常に16ビットアドレスをデコードしてI/Oのハードを構成してしまうと、アドレス指定にBCレジスタを指定しないOUT命令の時にアドレスバス上位8ビットにはAレジスタの内容が出力されてしまうため、アドレス指定にBCレジスタを指定しないOUT命令を用いることが出来なくなってしまう。そこで、SONYのSMC-70では、I/Oアドレスの上位8ビットを下位に、下位8ビットを上位にアドレスデコードした。こうして、多くのI/Oアドレスの割り付けが必要なところでは上位8ビット・下位8ビット両方をデコードしてBCレジスタアドレシングのOUT命令でアクセス、他のI/Oアドレスでは元の下位アドレスのみをデコードしてデバイスに割り付けることにより、通常のOUT命令を使用できるようにした。
なお、ブロック入出力命令の場合はBレジスタをデクリメントするため、16ビットアドレスとしては使用しにくい。逆にこれを利用することにより残り回数を周辺デバイスなどが知ることができる。ただし、出力の場合は処理の順番はアドレス出力よりもBレジスタのデクリメントが先のため、アドレスの上位8ビットを利用する場合は1小さい値が出力されることに留意する必要がある。なお、入力の場合はアドレス出力が先である。
セカンド・ソース契約に基づいてピンコンパチブルな互換製品が他社で生産された。こうした製品には、シャープの「LH0080」モステックの「MK3880」などがある。一方、日本電気(NEC)が独自に互換性のある「μPD780」を出荷したことに対し、ザイログはこれをチップ著作権侵害として訴訟を起こしたが、最終的には両者は和解して製造販売が継続された。
もともとはNMOSプロセスで製造されたが、一部のセカンド・ソースの製造者からは、NECのZ80A互換「μPD70008AC-4」Z80H互換「μPD70008AC-8」、シャープ「LH5080」、東芝「TMPZ84C00」など、独自にCMOSプロセス化し消費電力の低減を図った製品も出荷されている。
また、2002年にシャープがシステム液晶のデモンストレーションとしてガラス基板上にZ80を形成し、MZ-80CのCPUと交換し動作させた。
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Z80
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また、2002年にシャープがシステム液晶のデモンストレーションとしてガラス基板上にZ80を形成し、MZ-80CのCPUと交換し動作させた。
この他にも東欧諸国で、例えば東ドイツのU880、ルーマニアのMMN80CPUや、ソ連のT34など、ライセンスによらないクローン製品があった。
ナショナル・セミコンダクターからは、CMOS化とともに、Intel 8085のようにアドレスバスの下位とデータバスとをマルチプレックスさせ、Z80とソフトウェアの互換性を持つ「NSC800」が製造された。ただし8085とはピン配置が異なり、置き換えることはできない。
2003年現在でも制御、組込用として、メモリおよび周辺機器の制御用回路を単一のパッケージに集積したLSIが製造されており、ASICのIPコアとしてZ80の互換プロセッサを用意するデバイスメーカーも多い。Z80 IPコアは、本家の「ALUが4ビットのため、多くの演算で複数クロックを必要とする」「レジスタがダイナミック動作をするため、クロックを停止できない」「LDx、LDxRのような繰り返し実行する命令やインデックスレジスタを使う命令等、組み込み用途では不要な複雑な命令がある」といった欠点を解消した物も提供されている。
以下にZ80互換のCPUのうち、ザイログ以外の会社で開発された上位互換性を持つものを示す。高速化を図ったものや、周辺デバイスを集積したものである。
ザイログ自身の開発による上位互換CPUを以下に示す。
Z80は、8080とバイナリレベルで互換性があり、そのDOSであるCP/M、及びCP/M上で動作する各種のソフトウェアが利用可能である。以下はCP/M上の動作を前提に供給されたものの一部である。
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OS-9
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OS-9(オーエスナイン)は、マイクロウェアシステム(英語版)によってモトローラの8ビットMPUである6809のために開発されたリアルタイムオペレーティングシステム(以下、RTOS)である。 当時マイクロウェアシステムはモトローラの依頼により共同でプログラミング言語BASIC09(英語版)を開発していた。この言語の開発・実行環境としてマイクロウェアが開発したのが OS-9 である。
その後680x0に移植され、さらにx86、PowerPC、SH、ARMなど幅広いCPUに対応した。 2001年にラディシス社によってマイクロウェアシステムが買収されて一部門となり、2013年に販社グループに売却されてマイクロウェアLP社として独立した。
OS-9は、プリエンプティブ・マルチタスク(詳細はプリエンプションも参照のこと)をおこなうRTOSである。
多くの組み込み用RTOSでは、全ての実行コードを単一のロードイメージにリンクしてメモリに展開・実行するので、並行実行されるタスクはスレッドモデルであることが一般的だが、OS-9では各タスクは独立したプログラムイメージ(プログラムテキストは複数タスクで共有可)を実行するプロセスモデルである。
プロセスモデルでは各タスクは論理的に独立しているのでタスク間のデータの共有や通信にコストがかかりがちだが、OS-9では「データモジュール」と呼ばれる一種の共有メモリ機能で高速なプロセス間通信を提供している。ただし、タスク間通信に不可欠なセマフォが提供されたのはかなり後のことである。また後のバージョンではPOSIXに準拠したプロセス内の複数スレッドをサポートする。
OS-9/6809レベル2ではMMUを使った仮想アドレス空間をサポートしたが、その他のバージョンでは単一のアドレス空間しか持たないフラットメモリモデルである。OS-9/6809レベル2及びOS-9/68030以降のバージョンではハードウェアによるプロセス間のメモリ保護機能がある。
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OS-9
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OS-9/6809レベル2ではMMUを使った仮想アドレス空間をサポートしたが、その他のバージョンでは単一のアドレス空間しか持たないフラットメモリモデルである。OS-9/6809レベル2及びOS-9/68030以降のバージョンではハードウェアによるプロセス間のメモリ保護機能がある。
OS-9での新プロセス作成はUNIX流の現在のプロセスのコピーではなく、(仮想アドレス空間を持つOS-9/6809レベル2でさえ)実行プログラムを指定するWindowsの「spawn」に近いモデルである。これは、ベース(セグメント)レジスタを持たないCPUアーキテクチャでフラットメモリモデルを採用する限りある程度必然であり、UNIXでも多くの場合せっかくコピーした子プロセスの元の実行イメージは捨てられてexecで新しい実行イメージに置き換えられることを考えれば効率的でもある(マイクロウェアはこれを逆手にとって「OS-9のforkはUNIXよりX倍速い」と喧伝していた)。
OS-9を構成するすべての部分は、モジュールと呼ばれる統一された構造を持っており、必要な機能だけを選択して使用することができ、自由度の高い構造になっている。これにより、OS-9は以下の特徴を有する。
カーネル以外の多くのモジュールが、システムの稼動中、任意の時点で追加、削除、更新が可能である。例えばデバイスドライバは任意の時点でメモリにリンク(ロード)/アンリンク(アンロード)が可能であるため、デバッグ中もカーネルを壊さない限りシステムの再起動を必ずしも必要としない。
またモジュールをメモリにリンク(ロード)するときにリンクカウントがインクリメントされるほか、モジュールを利用(オープン)する度にリンクカウントがインクリメントされ、プロセスでモジュールの利用が終わるとリンクカウントがデクリメントされる仕組みがある。よってモジュールを利用しているプロセスがある間は、故意にアンリンクしようとしてもアンリンク(アンロード)されない。またリンクカウントがゼロになるとモジュールがメモリからアンリンク(アンロード)される。
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OS-9
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ハードウェアがMMUを持つ場合、メモリ保護機能が有効となる。システム空間とユーザ空間が分離され、また、各ユーザプロセス間も分離される。デバッグ中のユーザープロセスが他のプロセスやシステムを破壊することがない。OS-9/6809では特にLevel2と呼び、最大2MBのメモリを管理できる。
組み込み用途だけではなく、一般のコンピュータとして使用可能であり、UNIXと同様のマルチユーザの機能を備えたTSSの環境がある。ユーザ、グループ別にファイルやプロセスのアクセス権がある。なお、PC用のOSとして見た場合、8bitや16bit時代の一般的なユーザには、マルチタスク・マルチユーザのメリットが理解されなかった。
以上のようなRTOSの上で、UNIXライクな開発環境が構築されている。簡易なものであるがシェルも実装されており、ファイルシステムも階層構造を始めとしてUNIXに近い機能を実現している(ユニファイドI/O)。
OS-9には独自のLANとしてOS-9LANがある。LAN上の他のコンピュータの資源に対して、透過的にアクセスが可能な優れたものである。フルパスリストの先頭にコンピュータ名を追加するだけで、そのコンピュータのファイルやデバイスにアクセス可能で、例えばシェルからリダイレクトして、LAN上の他のコンピュータに接続されたプリンタに出力可能である。
なお、開発は当初星光電子により、OS-9/6809と富士通FM-11+ARCNetという構成でおこなわれた。
X68000用のOS-9LANは、マイクロボードより販売されていた。
OS-9/680x0には以下のようなウィンドウシステムが発売された。
OS-9は、モトローラの16ビットCPU68000に移植された。以後、6809用はOS-9/6809、68000用はOS-9/68000と呼称されるようになった。その後、68000が68020、68030とシリーズ展開されるようになると、それらに最適化したOS-9/68020、OS-9/68030が開発された。
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OS-9
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OS-9/680x0には以下のようなウィンドウシステムが発売された。
OS-9は、モトローラの16ビットCPU68000に移植された。以後、6809用はOS-9/6809、68000用はOS-9/68000と呼称されるようになった。その後、68000が68020、68030とシリーズ展開されるようになると、それらに最適化したOS-9/68020、OS-9/68030が開発された。
これらOS-9/680x0は、産業用RTOSとして高いシェアを占めていた。これは、20世紀末には、産業用システムのMPU (CPU) に680x0が広く採用されていたこと、ハードウェア資源を効率的に扱う多くの特徴を持っていること、OS-9自体の移植(ポーティング)が容易なことから必然的にそうなったのである。
例えば、ドライバ・モジュールのサンプルコードが多数提供されたことで、個別のハードウェアに対するドライバ・モジュールの移植が容易であり、ドライバモジュールの中であれば割り込み処理を通常のサブルーチンまたは関数として記述できるなど制約が少なく、安全で柔軟なシステム設計ができた。
また、アプリケーションをセルフで開発できることも評価されていた。ある程度規模の大きな産業用システムではVMEバスベースのシステムが採用されることが多かったが、これら自体によるセルフ開発が可能である。OS-9は数少ない、ターゲット上でセルフ開発が出来るRTOSであった(ただし、登場時のUNIXと同程度のCUIを利用する必要があった。その後、クロス開発環境が一般的になるにつれ、CodeWarriorが採用された時期もあった。現在ではWindowsで動作するGUIのクロス開発環境 Microware Hawk もしくはEclipse によるクロス開発のみ)。
様々な機能の追加による肥大化もあって、多機能版カーネル(デバッグ機能つき)と小型版カーネル(アトミックカーネル)の2種類に分化した。
(68000版を除いて)Ver.3からはセマフォ、マルチスレッド機能も追加され、必要な場合はPOSIXスレッドを使用することも可能となった。
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OS-9
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様々な機能の追加による肥大化もあって、多機能版カーネル(デバッグ機能つき)と小型版カーネル(アトミックカーネル)の2種類に分化した。
(68000版を除いて)Ver.3からはセマフォ、マルチスレッド機能も追加され、必要な場合はPOSIXスレッドを使用することも可能となった。
その後、OS-9は全体がC言語で書き直され、OS-9000としてIntel 80386、MIPS、SPARC、PowerPC、ARM、日立 SH-3、SH-4、SH-5等に移植された。アメリカではCで書き直されたOS-9000/68000も発売されたが、市場からは全く相手にされず短期間で販売を終了した。
現在商標は統一され、OS-9のみとなっている。6809用、680x0用OS-9の実体は従来のアセンブリ言語で書かれたOS-9、その他CPU用OS-9の実体はOS-9000である。
日本では、OS-9/6809が富士通FM-7/8シリーズ、FM-11シリーズに移植され富士通から発売、日立製作所のベーシックマスターレベル3シリーズやMB-S1にも移植された(開発はどちらも星光電子)。ベーシックマスターレベル3シリーズのうちMB-6890用OS-9 Level 1 Version 1.0は日立化成商事から発売され、画面分割型マルチウィンドウ採用、カナ文字サポート、コンカレント"BASIC09"が含まれていた。また、シャープのX68000シリーズには、独自のウインドウシステム (Personal Window) を装備したOS-9/680x0 Ver.2.4が、OS-9/X68000としてシャープから販売された(開発はマイクロウェアジャパン)。その後継製品として、マイクロウェアから、X68030用のOS-9/X68030 Ver.2.4.3も発売された。
他に、フォークスから、FM-11やFM-16β、PC-9801に68000ボードを搭載してOS-9/68000を稼動させる製品、FM-Rに68020ボードを搭載してOS-9/68020を稼動させる製品が発売されていた。
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OS-9
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他に、フォークスから、FM-11やFM-16β、PC-9801に68000ボードを搭載してOS-9/68000を稼動させる製品、FM-Rに68020ボードを搭載してOS-9/68020を稼動させる製品が発売されていた。
初期のOS-9/68000の開発環境として著名なものが、星光電子を始めとした国内のデベロッパーが広く使用していたマイクロボード(マイクロウェアジャパンの親会社)の製品である。同社のVMEバスボードを筐体に収めてセット販売したもので、いわば純正品(?)である。同社からはVMEバスの各種カードが産業用として発売されたが、それ以外にも、PC/ATマザーボードと同規格の基板に68030を載せたPCスタイルの製品も発売された。
また、マイクロボード以外にも多くのメーカーのVMEバス(VXIバス)、マルチバス、PCI/CompactPCIバスのボードがOS-9に対応していた(いる)。例えば、モトローラ(代理店:丸文)、アドバネット、アバールデータ、オムロン、シャープ、橘テクトロン、タンバック、電産、東京エレクトロン デバイス、フォークス、フォース・コンピュータ(代理店:インターニックス)、マイクロクラフトなどの製品である。(五十音順)
米国では、Apple II用の6809カード (The Mill) がOS-9/6809を標準OSとしていた他、タンディカラーコンピュータ (CoCo)、MM/1等、また、PC/ATに68020カード(アルプス電気製)を搭載してOS-9/68020を稼動させる製品が発売されていた。また、Macintosh用OS-9/68000も発売されていた。これは、すべてがスーパバイザモードで動作する当時のMacintosh OSをうまく利用し、TOOLBOXを利用可能としていた。
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OS-9
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もともとオペレーティングシステムではなくマルチメディア関連のミドルウェアが目当てでマイクロウェアを2001年に買収したRadisysのウェブサイトでOS-9は[Microware OS-9]として紹介され、ライセンスの販売(そしておそらくはサポートも)は古くからOS-9を手がけてきたシステムビルダ3社による代理販売となっていたが、Radisysは最終的に2013年3月にOS-9とMicrowareに関わるブランドを含む全権利をこの3社による共同事業体 (Microware LP) に譲渡した。 誕生から30余年を経たOS-9は2015年現在も開発が続けられており、OS-9 v6.0のリリースが予定されている。
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MZ (コンピュータ)
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MZ(エムゼット)は、1970年代から1980年代にかけてシャープが販売していたパソコンのシリーズ名。
MZシリーズの始まりは、1978年5月に発売されたマイコン博士MZ-40Kという4ビットマイコンのトレーニングキットである。MZ-40Kの名前の由来は風呂ブザー用に用意してあった登録コードを流用したものであった。
製品を発案した事業部は部品を販売する部署であり、計算機などを扱う部署との摩擦を防ぐ意味合いもあって、MZ-40Kに続いて技術者用のトレーニングキットという名目でMZ-80Kを半完成キットの形で発売した。これらとは別に、MZ-80Tというワンボードトレーニングマイコンも用意されていた。 シリーズとして以下のような特徴を持っている。
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MZ (コンピュータ)
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MZ-80Kも試作機では、BASICもROMで搭載されたコンピューターであったが、シャープがROMを外部調達する都合上、ROMに納めたプログラムにバグが発覚すればその原価から多大な損害が発生する。このリスクを回避するため実際に商品化された製品で採られた苦肉の策が、システム全体をROMとして持つのではなく、最低限の処理を収めたモニタのみを本体にROMで搭載し、基本プログラムはカセットテープなどのメディアで供給するという、後に「クリーンコンピューター」とうたわれるシステムであった。現実にはそれほど致命的なバグが露見することはなかったが、逆にマニアからすれば自分で自由にソフト開発ができる環境となっており、ハドソンソフトやキャリーラボをはじめとしてシャープ以外のさまざまなソフトハウスから言語、オペレーティングシステム等が発売されると共に、各種言語やシステムのリリースが行われたり、シャープ自身もハイスピードBASICなどのソフトウェア的なアップグレードを実施した。これらの状況から、苦肉の策の設計であったクリーンコンピューターは、ソフトウェア的にフレキシブルなシステムであることを、以降のMZシリーズの特徴的な設計として広告文句にも利用するようになった。この実装では、システムそのものを本体に持たないため、当時の標準環境であったBASICが利用可能になるまで、標準内蔵デバイスであるデータレコーダからの起動で数分を要するという欠点もあったが、FDDの利用で10秒前後に短縮できるほか、MZ-80B以降のIPL (Initial Program Loader) では、MZ-1R12等のメモリボードに予め起動するシステムを書き込むことでも改善することが出来た。同様にクリーン設計を採用したX1では、CZ-8RB01として予め拡張ボードに書き込まれたBASICも発売されていた。これらのSRAM若しくはROMボード上からの起動でも、それらは直接メモリ空間にマッピングされているわけではなく、IPLにより、メインメモリに「転送」されて起動する。
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MZ (コンピュータ)
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MZ-80Kではコマンド自体が6種しか実装されていないものの、実際にROMで実装されているモニタは現在のBIOSに相当し、文字表示や内蔵デバイスへの入出力、音の出力などのローレベルな処理が書き込まれており、最低限の物しか存在していないわけではない。MZ-80Bでは、本体基板にはIPLのみをROMで実装し、モニタも含むシステムプログラムは、全てRAMに展開されるようさらにその設計を推し進めたものになり、同社X1では更にアドレスデコードの工夫によって、IPL自身が直接読み込むことが可能な容量が増えている。これら、ソフトウェアを固定しないかたちで進められたその思想は、X1turboやMZ-2500では再度、複雑化したハードウェアをサポートするためのBIOS(IOCS)が本体に実装されるようになり、結果として先祖返りするかたちになっている。また、他の機種であっても、起動時にディスク対応のモジュールの読み込みを行ったり、ROM部分のバンク切り替えによるRAM化が可能になるなど、実質的には実装の差は、互換性を維持するために搭載されるBASIC-ROMの有無のみになっていった。
初期の同シリーズは、本体・ディスプレイ・キーボード・データレコーダーを一体とし、本体のみでシステムが最低限完結するように設計されていた。機種によって構造やパーツは異なるものの、筐体は底面のビスを外すことで背面の蝶番を支点として、車のボンネットカバーのように持ち上げることが可能になっており、内部に用意された支柱によって固定し、内部をメンテナンスできるようになっている。PCシリーズを祖とするMZ-3500、MZ-5500シリーズを除けば、MZ-2000やMZ-1200の世代まで受け継がれる外観にも現れる特徴的な設計となっていたが、ディスプレイのカラー化などの流れとコストのバランスの都合から、MZ-700以降は見られなくなった。
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MZ (コンピュータ)
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MZ-80Kの発売に合わせ、ブランドの確立のため、シリーズのシンボルマークとして勇気、未来、探求、憧れの象徴として、ギリシャ神話の物語からアルゴ号をモチーフに作られたデザインが制定された。その意匠デザインの由来については「MZ-80 SERIES BASIC解説」の冒頭に言及があり、Oh!MZ誌上でも、その一節は取り上げられた。このロゴマークは、当時家電メーカーとしてのイメージが強かったシャープでは社名のみではインパクトが弱く、多くの売れ筋製品の名前などの要素や、対象になるユーザーの嗜好などを考慮し、新しいベンチャーとしてのイメージを託すかたちで新設された。この象徴的なマークは最終機まで引き継がれ、MZ-2500、MZ-2861では特殊キーのひとつにこのロゴが描かれたキーが存在する。
MZシリーズの内蔵データレコーダは、専用に周辺回路が設計されていることもあり、競合製品のデータレコーダよりも高い信頼性を確保していた他、読み書きの速度も競合製品の平均的な速度よりも高速に設定されていた。記録されるデータはソフトウェア制御によるPWM変調で、同じデータの書き込みを繰り返し二回記録する。データの読み込みが失敗した場合は、二度目に記録したデータの読み込むを試みるようになっている。このフォーマットは速度の差はあるものの引き継がれた。また、ハードウェアでは、その機種の標準速度を基準に調整されているものの、ソフトウェアによって波形は生成されるため、ソフトウェアによってある程度の記録速度の調整を行うことが可能であった。
MZ-80Bではソフトウェアでも頭出しやデッキオープン、早送り、巻き戻し等の制御が可能になった。この電磁制御のデータレコーダは別部署からリリースされたX1でも標準の内蔵デバイスとして採用された。また、MZ-2500では録再ヘッドがステレオ仕様になり、片方にデータ、片方に音声を記録し、ロードしながら音声を再生、本体側から音声を頭出しし、再生するなどの利用も可能になった。この信頼性と高速性を持つデータレコーダに加え、他社の競合製品と比較し、純正FDDの標準価格が高価であることも手伝い、フロッピーディスクの標準搭載への対応が遅れる遠因となった。
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MZ (コンピュータ)
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FDDインターフェイスの初期回路設計において、本来、負論理のバッファを通すところを直結し、その設計を踏襲したため、直接は互換性のない機種においてもそのままディスクサイドの指定や、実記録されるデータが、標準的なディスクに対し反転している。また、初期の1Sドライブが片面35トラックであり、互換性を維持するため、純正FDDであるMZ-80BFではヘッドにストッパーが装着され、公式なトラック数が2Dでも片面35トラックとなっている。ただしコントローラーやドライブ自体はそれ以降のトラックも取り扱えるため、本来のドライブ側の仕様である80トラックを利用できるようにする改造や、仕様外のそれ以降を利用するソフトウェアも個人、雑誌レベルでは存在している。Hu-BASICでは、ソフトウェア的に反転させることにより、記録媒体レベルでのX1との互換性が実現されている。
プリンターインターフェースは初期の実装ではMZ-80K系、MZ-80B系列それぞれ異なる独自仕様になっていたが、MZ-2000以降は一般的なセントロニクス準拠仕様に変わっている。ただし、MZ-1500では互換性維持のため、本体背面にMZ専用仕様とセントロニクス準拠仕様とを切り替えるディップスイッチがあった。なお、最初に発売されたMZ-80P2は放電破壊プリンターだった。その後のMZ-80P3以降はドットマトリクスプリンターである。MZ-700には、専用内蔵プリンタが存在しており、その後継機であるMZ-1500にもそれを外付け可能にしたMZ-1P09が発売されている。このプリンタは、安価にボールペンによって本来高価であるカラーペンプロッターを実現していた。
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MZ (コンピュータ)
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元々部品事業部のトレーニングキット名目での製品であり、メモリの増設にもハードウェアに手を入れる必要があるという状況もあいまって、MZ-2200の時代まで本体の回路図、モニタのソースコード、Z80の命令表等、ハードウェア、ソフトウェアを製作するのに必要な情報が、標準添付のOwner's Manualに記載されていることも特徴であった。シャープ純正の言語や開発ツールは価格も高かったことから、これらのソースコードを使いこなしていたユーザーは多くはなかったが、シャープ社内開発担当者ではこれらの開発ツールが縦横無尽に有効活用されていたことが、前記モニタプログラムのソースコードから読み取れる。なお、MZ-1500の回路図およびROMモニタのソースコードは、工学社『MZ-1500 テクニカル・マニュアル』に掲載され、MZ-2500の回路図は、電波新聞社『Super MZ活用研究』、工学社『MZ-2500 テクニカル・マニュアル』〈Super Series 1〉、ソフトバンク『Oh!MZ』に掲載された。BIOSやBASICのソースリストは工学社から発売された。本体だけではなく、シャープ純正オプションの一部では付属マニュアルに回路図が記載されている。
系列としてはMZ-80K系(40×25文字のテキスト画面を持つ。グラフィックキャラクタを使用した80×50ドットのセミグラフィックが可能)、MZ-80B系(320×200のモノクログラフィックを最大2画面分、テキストと別プレーンで持つ)、MZ-2000系(640×200の解像度に加えカラー表示対応)、PC-3100系、MZ-5500系(MZ-3500系を16bit化)などがある。
なお、MZの名称は同社のMebiusとZaurusの頭文字に、分割して引き継がれていると宮永好道がコラムで語っている。
1982年MZ-80Kグループを開発した部品事業部から、情報システム事業部にパソコン事業を移管。
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MZ (コンピュータ)
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なお、MZの名称は同社のMebiusとZaurusの頭文字に、分割して引き継がれていると宮永好道がコラムで語っている。
1982年MZ-80Kグループを開発した部品事業部から、情報システム事業部にパソコン事業を移管。
MZ型番は、シリーズ名に下二桁に00を持つ3〜4桁の数字。PC型番は、PCからMZにシリーズ名が変更になり、全体としての命名規則が変わった。同時に周辺機器の型番もリセットされ、シリーズ全体で、カテゴリごとに末尾1からの連番で割り当てられた。ホビー用途では部品事業部由来の製品が多く広告、販売されていたこともあり、MZとしてイメージされるのは部品事業部由来のシリーズである。同一シリーズにバリエーションがある場合は、その下位二桁である00の部分にバリエーションを示す数字が割り当てられた。
以降のパソコン開発に、部品事業部でMZ-80を設計していた技術者達は参画していない。
部品事業部が展開していた主にホビー向けの流れを受けたシリーズ。代を追うごとにホビー向けの機能が充実して行き、多くの人がMZとして思い出すのはこちらの系列である。
存続する事業部となった情報システム事業部が元々展開していたシリーズの後継機。ビジネス向けの一体型PC、PC-3100S/PC-3200の、本体・キーボード分離型にした新型機の型番をMZに移行したもの。5.25インチフロッピーディスクドライブを搭載(MZ-6550のみ3.5インチ)。
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MZ (コンピュータ)
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存続する事業部となった情報システム事業部が元々展開していたシリーズの後継機。ビジネス向けの一体型PC、PC-3100S/PC-3200の、本体・キーボード分離型にした新型機の型番をMZに移行したもの。5.25インチフロッピーディスクドライブを搭載(MZ-6550のみ3.5インチ)。
SHARP BASICとして、(後にS-BASICと呼ばれる)PET由来のコマンド群を持つBASICをカセットテープ並びにフロッピーディスクで標準添付、並びにオプションとして供給していた。演算精度の高いもの、漢字表示や特定デバイスのサポート、カラー表示のサポートなど、拡張機能を実装したBASICは、別途オプションとして提供されている。それらBASIC以外にも、リロケータブルバイナリ出力でユーザー定義のマクロ命令記述も可能なマクロアセンブラ(リンカ・シンボリックデバッガ・P-ROMフォーマッタ含む)アセンブリ言語、マシンランゲージモニタ(現在でいうバイナリエディタ)等も別売されており、テープメディアゆえ使い勝手に難ありといえども極めて強力な開発ツールであった。Floppy Disk Operating System(FDOS)には前記アセンブラのほかBASICコンパイラも同梱されており、Z80のセルフ開発環境としてはコストパフォーマンスを考慮すると当時のCP/M-80をも凌駕するものであった。
シャープ純正の言語は前記のとおりバリエーションが直交している場合が多かったため、プログラマーはさまざまな言語を選択できたかわりに、アプリケーション使用者はその言語を購入する必要がある場合もあった。
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モトローラ
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モトローラ(Motorola, Inc.)は、かつて存在したアメリカ合衆国の企業である。
2011年1月4日をもって、二つの独立した公開会社であるモトローラ・モビリティ及びモトローラ・ソリューションズに分割された。本社所在地はシカゴ近郊のイリノイ州シャンバーグであり、分割以降はモトローラ・ソリューションズが引き継いでいる。 なお、モトローラ・モビリティは、レノボの100%子会社。
携帯電話やトランシーバーなどの携帯通信端末、無線通信インフラ、そしてマイクロプロセッサをはじめとする半導体チップ、などの製造が主要事業であった。日本では一般業務向け携帯無線機で著名である。企業スローガンは、"HELLOMOTO"及び"intelligence everywhere"であった。
1928年の設立初期の製品は、家庭用や車載用のラジオ(カーオーディオ)であった。
1958年の米国初の人工衛星エクスプローラー1号を端緒に、1969年の月面着陸機アポロ11号も含め、NASAの宇宙探査機の無線機器の主製造業者であった。
第二次世界大戦中に米軍が使用した「Walkie Talkie」(SCR-536)が携帯電話の前身といわれる。さらに、世界初の携帯電話による通話実演(1973年)、市販携帯電話DynaTAC(1984年)、フリップ式携帯電話MicroTAC(1989年)、折りたたみ式携帯電話StarTAC(1996年)の発売など、携帯電話端末開発のパイオニアである。RAZR(2003年)は大ヒット製品となった。
2000年頃から、携帯電話搭載のオペレーティングシステム (OS) としてSymbian OS / UIQや独自OS、Linux、Windows Mobileなど様々なOSを採用していたが、2008年のCEO交代後にプラットホーム選別を進め、オープンOSとしてGoogleのAndroidとLinuxを採用している。最新携帯電話の一部に Crystal Talk なる通話時騒音軽減システムを搭載している。
1974年、テレビ・ラジオ事業を松下電器産業(現パナソニック)に売却した。これにより松下は、北アメリカでのテレビ事業を拡大した。ブランドにQuasar があった。
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モトローラ
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1974年、テレビ・ラジオ事業を松下電器産業(現パナソニック)に売却した。これにより松下は、北アメリカでのテレビ事業を拡大した。ブランドにQuasar があった。
モトローラは66機の衛星を使って世界で初めて全地球をカバーする衛星通信ネットワークを構築した。衛星通信事業を伸ばすために1990年代後半に設立したイリジウムコミュニケーションズが製造を行っていた。顧客の獲得に失敗し、1999年に倒産した。
2001年、事業の不振によりジェネラル・ダイナミクスへ売却した。
1999年8月4日、ディスクリート・標準アナログ・標準ロジックなどの半導体部門をオン・セミコンダクターとして分社化した。これは、イリジウムコミュニケーションズ倒産の損失をカバーするために分社化された。
2003年10月16日、組み込みシステム向けのチップを主力とする半導体部門をフリースケール・セミコンダクタとして分社化した。
以降、モトローラは半導体を製造していない。
2006年7月、自動車部品事業をコンチネンタルAGに16億ドルで売却した。4500人の従業員とテレマティクスシステム、エンジン・トランスミッション制御や車体制御の電子部品、ステアリングやブレーキ用のセンサ、およびパワーウィンドウ用の電子部品などの事業が売却された。
2008年10月、カリフォルニア州アナハイムに本社のあった生体認証事業をサフランに売却した。
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モトローラ
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2006年7月、自動車部品事業をコンチネンタルAGに16億ドルで売却した。4500人の従業員とテレマティクスシステム、エンジン・トランスミッション制御や車体制御の電子部品、ステアリングやブレーキ用のセンサ、およびパワーウィンドウ用の電子部品などの事業が売却された。
2008年10月、カリフォルニア州アナハイムに本社のあった生体認証事業をサフランに売却した。
1983年に世界初の商用携帯電話 とされる「DynaTAC8000X」を開発し、1989年には当時の日米貿易摩擦により始まった日米協議で北米標準のモトローラ方式(TACS方式)が認められたことでNTTが独占していた日本の移動電話市場にも参入し、小型携帯電話「マイクロタック」の大ヒットで1990年に一時はシェアでNTTを上回り、これに対抗してNTTもmovaを開発して世界最軽量最小をめぐる競争が起きた。1998年にノキアに抜かれるまでモトローラは携帯電話端末の世界での市場占有率は世界1位だったが、2008年には第4位 (8.3%) であった(第1位はノキアで38.6%、2位はサムスン電子で16.2%)。ノキアに抜かれてからは2位が定位置であったが、RAZR以降にヒットが出ないこともあって4位に転落した。2007年第4半期以降、携帯電話事業は極度の不振に陥り、2008年3月、モバイル事業の分社化計画を発表した。
2010年11月30日、「2011年1月4日に2社の独立した株式公開企業に分割する予定である」と発表した。同社の取締役会によって承認された内容は、"Motorola" から携帯電話とセットトップボックス事業を行う "Motorola Mobility Holdings" を分社化した上で、エンタープライズおよびネットワーク事業製品を継続して担当する "Motorola" は社名を "Motorola Solutions" に改めるというものであった。
ガートナーによる2010年の世界携帯電話販売推計では、Appleとリサーチ・イン・モーション(現ブラックベリー)の躍進にともない、モトローラの販売台数は約3855万台で、2.4%の市場占有率であった。
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モトローラ
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ガートナーによる2010年の世界携帯電話販売推計では、Appleとリサーチ・イン・モーション(現ブラックベリー)の躍進にともない、モトローラの販売台数は約3855万台で、2.4%の市場占有率であった。
2011年1月4日、"Motorola Mobility" の最高経営責任者 (CEO) にはこれまでも共同CEOとしてモトローラを統括してきたSanjay Jhaが就任し、"Motorola Solutions" のCEOにはGreg Brownが就任した。ニューヨーク証券取引所での銘柄コードは、"Motorola Solutions" は "MSI" となり、"Motorola Mobility Holdings" は "MMI" となった。
分社化によって従来の株主は、"MOT" 普通株式8株に対して"MMI"の普通株式1株を得る。また、この新たな市場取引の開始までに、現有の "MOT" 普通株式7株が "MSI" 普通株式1株に変換される。
事業部門:
ここでは主な携帯電話だけを記す。Motorola の端末一覧(英語)も参照のこと。
日本のキャリアへ供給した端末は以下の通りである。
(日本国内向けのみ)
(日本国内向けのみ)
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日本レコード大賞
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『日本レコード大賞』(にほんレコードたいしょう、英: THE JAPAN RECORD AWARDS)は、スポーツ紙を含む各新聞社の記者が中心となって決定する音楽に関する賞である。
略称は「レコ大」(レコたい)。主催は公益社団法人日本作曲家協会、後援はTBSである。TBSテレビ・TBSラジオとその系列局が放送し、番組名は『輝く!日本レコード大賞』(かがやく にほんレコードたいしょう)。
1959年に創設され、1970年代から1980年代にかけて、テレビにおける歌番組の隆盛と共に最盛期を迎えた。しかし、レコード会社や事務所の力関係により受賞者が決まっているとの指摘もあり、また賞レースに左右されない音楽活動を希望することなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが1990年代から増えるようになった(福山雅治、B'z、Mr.Children、ジャニーズ事務所所属歌手など)。これにより賞の権威は大きく低下した。また、第36回(1994年)には大賞を受賞した歌手がミュージック・ビデオの撮影で渡豪していたため、授賞式に出席しないという異例の事態となった(2020年現在に至るまで、大賞を受賞した歌手が授賞式に出席しなかった唯一の例となっている)。
第56回(2014年)を例として掲載する(計23人)
戦後の日本の音楽界においては、ジャズ、ロカビリーなど米国由来の新しいジャンルが流れ込んできており、若者世代から熱狂的な支持を受けていた。一方で音楽界の主流を占めているのは戦前から続く歌謡曲で、大手のレコード会社が専属の作家に売れ筋の曲を書かせ、発売するという寡占状態が成立していた。結果、若者世代がコンサートを通じて新音楽を、年配世代がレコードを通じて歌謡曲をそれぞれ支持するという世代間の空白が生じていた。
1959年、古賀政男、服部良一らの主導で、レコード会社所属の作曲家による親睦団体『日本作曲家協会』が設立される。古賀、服部らは、世代間のギャップを超えた「新しい日本の歌」を生み出すべく、ジャンルを問わずにその年の日本を代表する歌を選出するグランプリを開催することを目指した。範としたのは、前年に米国で始まったグラミー賞であった。
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日本レコード大賞
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1959年、古賀政男、服部良一らの主導で、レコード会社所属の作曲家による親睦団体『日本作曲家協会』が設立される。古賀、服部らは、世代間のギャップを超えた「新しい日本の歌」を生み出すべく、ジャンルを問わずにその年の日本を代表する歌を選出するグランプリを開催することを目指した。範としたのは、前年に米国で始まったグラミー賞であった。
しかし古賀らの動きは音楽界の主流派の非協力という形で抵抗を受ける。共催を申し込んだ社団法人日本蓄音機レコード文化協会(現・日本レコード協会)には断られ、レコード会社はビクター以外の協力は得られなかった。大手新聞社の音楽記者会は事態を警戒して初年度の審査への参加を留保して、テレビ各社はラジオ東京テレビ(現・TBS)のみが賛意を示した(これが縁で、レコード大賞の放送はTBSで行われている)。運営委員長を引き受けた古賀は参加者の不安を抑えるために私財を投げ打ってでも必ず実施すると宣言し、実際に赤字分を個人負担した。
古賀の自腹によってどうにか開催された第1回レコード大賞で大賞を受賞したのは、ロカビリー系の「黒い花びら」、歌手は本作でデビューの水原弘、作詞は放送作家の永六輔、作曲はジャズ奏者として一世を風靡した中村八大という、主流の歌謡曲とはかけ離れた組み合わせであった。後に作詞家として大成した永は後年、第1回の大賞を権威ある作品ではなく全く無名人の作品にしたことを、「審査員の良識だったと思う」と述懐している。
以降も新ジャンルからの受賞が相次ぎ、受賞曲がヒット、受賞者が売れっ子のヒットメーカーになるにしたがって、日本の音楽界のボーダーレス化が進んでゆく。古賀らが立ち向かったレコード会社の専属作家制度は、1970年ごろには姿を消した。初めの数年は賞自体の知名度が低く、放送時間は年末の昼間、会場も神田共立講堂など小規模の会場であった。
1969年、第11回から番組の構成を一新する。大晦日の『NHK紅白歌合戦』が始まる前の19時から21時に本選『輝く!日本レコード大賞』を開催・生中継する様になり、カラーでの全国放送を開始。更に会場を帝国劇場に移し、総合司会に元NHKアナウンサーの高橋圭三を起用。格調高く、より緊張感の漂う雰囲気に様変わりした。
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日本レコード大賞
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1969年、第11回から番組の構成を一新する。大晦日の『NHK紅白歌合戦』が始まる前の19時から21時に本選『輝く!日本レコード大賞』を開催・生中継する様になり、カラーでの全国放送を開始。更に会場を帝国劇場に移し、総合司会に元NHKアナウンサーの高橋圭三を起用。格調高く、より緊張感の漂う雰囲気に様変わりした。
三賞(最優秀新人賞・最優秀歌唱賞・大賞)ノミネートの作詞者・作曲者・編曲者・歌唱者・レコード会社代表、所属プロダクション代表ら、および既に受賞が決定している歌手(大衆賞受賞者・企画賞受賞者・特別賞受賞者など)は楽屋ではなく、観客と共に客席で進行を見守っていた。三賞ノミネートの歌手がステージに現れる際は、奈落から迫りによって登場し、作品紹介と歌唱が行われた。
オープニング演奏・歌手の伴奏・発表時のファンファーレ・受賞時のBGM・クロージング演奏にはステージ後方に控える総勢72〜73名のオーケストラと合唱団が担当。その内訳は、ビッグバンド(サクソフォーン5名・トランペット4名・トロンボーン4名・ピアノ・エレキベース・ドラムス各1名:番組後半開始前にもうひとつのビッグバンドと交代)とリズム楽器(エレキギター2名・ラテンパーカッション1名)に加え、当時の音楽番組の常識ではあり得ない規模のストリング・オーケストラ(弦楽合奏団:昭和40年代では第一ヴァイオリン8名・第二ヴァイオリン6名・ヴィオラ4名・チェロ4名の計22名で、これは室内管弦楽団あるいは小規模の交響楽団に匹敵する)とハープの大々的使用、原曲のフレーズを強調・装飾的に彩る各種管打楽器(フルート、オーボエ、ホルン、ティンパニ、グロッケンシュピール、チャイムなど)、さらに混声合唱団(ソプラノ6名・アルト6名・テノール6名・バス6名の計24名)を擁する絢爛豪華なサウンドで、クラシックの指揮者のような気品あるタクトさばきが定評の長洲忠彦が永らく指揮者を務めた。番組の前半開始時とビッグバンド交代後の後半開始時には、字幕のみならず司会者高橋圭三による演奏者と指揮者の紹介が必ず盛り込まれており、人間が奏でる生の楽器演奏がいかに重要視されていたかがうかがえる。
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日本レコード大賞
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審査会場の帝国劇場内「インペリアル・ルーム」と中継を結び、審査の進捗状況がTBSアナウンサー小川哲哉によって随時レポートされた。三賞の発表は高橋圭三が行ったが、特に大賞時は作品名・受賞者名が収まった筆書きの式辞用紙を審査委員長がうやうやしく届け、観客や視聴者・聴取者の期待と緊張をより一層高めた。ドラムロールが響く中、高橋圭三自身も開封する式辞用紙の手が大きく震えるほどであった。
大賞発表直後、客席で見守っていた受賞者(作詞者・作曲者・編曲者・歌唱者・レコード会社代表、所属プロダクション代表ら)がステージへの登壇を促され、敬虔なBGMが流れる中、制定委員長・運営委員長から賞状、ブロンズ像(吉田芳夫作)、記念楯(東郷青児作)、副賞の目録が贈呈されるセレモニーが丁寧に行われた。また受賞者の身内や友人が駆けつけ花束を贈る場面も多かった。
音と演出に総力を注ぎ、さらに国民的番組であった紅白歌合戦と時間帯が連続することにより、賞のネームバリューが上昇、視聴率も紅白と肩を並べるほどになる。また、本賞の人気に刺激され、『日本歌謡大賞』をはじめ、民放各局で歌謡音楽賞が次々制定されるようになった。
賞の権威は確固たるものとなったが、賞の創設に関わった服部良一は1974年ごろ、権威の上昇と比例して賞の商業的な付加価値が高まり、レコード会社の賞とり合戦の過熱と作品の質よりも人気が先行する傾向が相乗し、さらにこれが審査の不透明さを巡る黒い噂を生じさせていることを懸念していた。
ホイチョイ・プロダクションズのテレビ解説本「OTV」ではこの件に触れており、「(当時の選考委員だった)荻昌弘さんはレコード会社やプロダクションの間できわめて評判が悪い。なぜならあの人はマジでいい曲、巧い歌手に投票してしまうからだ。」と評している。また、同著では第26回(1984年)の新人賞を辞退した菊池桃子を例に出し、乱立する賞レースが負担となりボイコットする歌手が出てきたことを指摘している。
1980年代には台頭してきたニューミュージックを中心に音楽の権威に対する考え方の変化が起こり、賞レースに左右されない音楽活動をしたいことなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが増えるようになり、賞の権威は低下し始める。
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日本レコード大賞
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1980年代には台頭してきたニューミュージックを中心に音楽の権威に対する考え方の変化が起こり、賞レースに左右されない音楽活動をしたいことなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが増えるようになり、賞の権威は低下し始める。
第27回(1985年)から会場を日本武道館に移し、授賞式の華やかさを増すことでテコ入れを図るも視聴者離れの歯止めが効かず、第28回(1986年)で視聴率が30%を割り込む。
この頃からノミネート歌手がそれぞれ専属のバンドを起用することが多くなり、オーケストラは演歌系歌手のバックと式典音楽のみを担当するようになってきた。
1989年、紅白歌合戦が放送開始時刻を19時台に引き上げることによって紅白が裏番組になり、視聴者を奪われると同時に歌手のやり繰りにも苦労するようになる。この年を境に視聴率は一気に20%を割り込む。
第32回(1990年)から大賞を「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」に分割し、視聴者による電話投票の導入するなど打開策を講じたが、大賞のジャンル分けでレコード会社の認識との食い違いが生じるなど問題が生じ、また電話投票は組織票が問題視され、第35回(1993年)で廃止された。
第36回(1994年)では、大賞を受賞したMr.Childrenが欠席するという異例の事態になる。大賞受賞者が欠席したのはこの1回のみ。この年から会場がTBS放送センターに移る。歌手の伴奏はもはや打ち込みカラオケが主流となる。
第46回(2004年)からは紅白歌合戦や『年忘れにっぽんの歌』の出演でNHKホール(渋谷区)や新宿コマ劇場(新宿区)とを移動する出演者への配慮で、会場を新国立劇場(渋谷区)に移した。
第47回(2005年)には視聴率が過去最低の10.0%を記録。常連だったスポンサーの多くが降板し、スポンサー枠自体が縮小されるに至った。第48回(2006年)から裏番組とのバッティングの弊害を解消すべく、開催日を1日繰り上げて12月30日に変更した。同時に放送時間を拡大し、過去の受賞曲で構成される事前番組が放送されるようになった。
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日本レコード大賞
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第47回(2005年)には視聴率が過去最低の10.0%を記録。常連だったスポンサーの多くが降板し、スポンサー枠自体が縮小されるに至った。第48回(2006年)から裏番組とのバッティングの弊害を解消すべく、開催日を1日繰り上げて12月30日に変更した。同時に放送時間を拡大し、過去の受賞曲で構成される事前番組が放送されるようになった。
1950年代 1959 1960年代 1960 - 1961 - 1962 - 1963 - 1964 - 1965 - 1966 - 1967 - 1968 - 1969 1970年代 1970 - 1971 - 1972 - 1973 - 1974 - 1975 - 1976 - 1977 - 1978 - 1979 1980年代 1980 - 1981 - 1982 - 1983 - 1984 - 1985 - 1986 - 1987 - 1988 - 1989 1990年代 1990 - 1991 - 1992 - 1993 - 1994 - 1995 - 1996 - 1997 - 1998 - 1999 2000年代 2000 - 2001 - 2002 - 2003 - 2004 - 2005 - 2006 - 2007 - 2008 - 2009 2010年代 2010 - 2011 - 2012 - 2013 - 2014 - 2015 - 2016 - 2017 - 2018 - 2019 2020年代 2020 - 2021 - 2022 - 2023
各賞受賞者には東郷青児作の楯が授与される(写真を参照)。
いずれも第65回(2023年)時点のもの。
レコード大賞の主要な賞である大賞、最優秀新人賞(第10回以前は新人賞)、最優秀歌唱賞(第10回以前は歌唱賞)の3賞をすべて獲得している歌手は、2013年現在以下の5人となっている(三冠達成順、新人賞・最優秀新人賞以外は初受賞回を記載)。
大賞を複数回獲得している歌手は、2022年現在以下の11組、そのうち連覇を達成した歌手は8組となっている。
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日本レコード大賞
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いずれも第65回(2023年)時点のもの。
レコード大賞の主要な賞である大賞、最優秀新人賞(第10回以前は新人賞)、最優秀歌唱賞(第10回以前は歌唱賞)の3賞をすべて獲得している歌手は、2013年現在以下の5人となっている(三冠達成順、新人賞・最優秀新人賞以外は初受賞回を記載)。
大賞を複数回獲得している歌手は、2022年現在以下の11組、そのうち連覇を達成した歌手は8組となっている。
発表の模様はテレビ(TBS系 (JNN) 地上波全国28局ネット)とラジオ(2023年はJRN全国5局ネット)で生中継されている(第42回(2000年)から第47回(2005年)まではTBS系BSデジタル放送のBS-i(現・BS-TBS)でも放送されていた)。
また、第44回(2002年)からCS放送・TBSチャンネルで過去に放送された回をその年の放送分につき1回(2008年以降2回以上)限りではあるが毎年12月に再放送を行っている。
TBSに現存する映像はモノクロ放送の最後となった第10回(1968年。開催会場は渋谷公会堂)が最古である。これ以前の本選の模様はニュース映像の一部、写真、ラジオの音声のみが現存し、第11回(1969年)以降はすべて鮮明なカラー映像の完全版VTRが現存している。
第20回(1978年)からTBSの音声多重放送の開始に伴い、テレビでのステレオ放送が始まった。以降、すべてステレオ放送となる。
TBSラジオでは、テレビがCMや過去の受賞作のVTRが流れている間はTBSラジオの放送開始時間までに披露された楽曲をディレイ放送したり、ラジオ独自のインタビュー音声を流している。
JNN系列で第47回(2005年)まで12月31日にネットして来た番組であるが、以前はクロスネット局が多く、JNN系列でも曜日によって他系列を同時ネットしている局も多くあった。その反面、JNN系列以外でも曜日によってJNNを同時ネットしている局もあり、番組をネットした局もあった。先発局でJNN系列局が以前金曜日の19:30 - 21:00枠で日本テレビを同時ネットしている局が多数あったり水曜日の20:00 - 21:30(その後19:30 - 21:00)の枠、土曜日の19:30 - 22:00枠、日曜日の19:00 - 21:00枠が日本テレビ同時枠だったりした局があった。
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日本レコード大賞
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静岡放送では、放送日が金曜日だった第13回(1971年)に番組をネットせず、日本テレビ系の番組を同時ネットした。また南海放送(愛媛県。日本テレビ系)では、木曜日にTBS系番組を同時ネットしていた年(1970年は20:00からの飛び乗りで、1981年は全編フルネットで放送)に限り同番組をネットしていた。
近畿広域圏では1974年の第16回までは朝日放送(現:朝日放送テレビ)にてネット。翌年(1975年)の第17回から毎日放送でのネットになる。
福島県では、1971年の第13回から1982年の第24回まで福島テレビ(当時TBS系とフジテレビ系のクロスネット局。現在はフジテレビ系)にネットされていたが、1983年の第25回からはTBS系新局として開局したテレビユー福島でのネットになる。
1978年・1980年はTV中継の同時ネット局のみロールスーパー方式(ネット局は略称・ロゴ出し)で紹介した。
2001-2005年の5年間は系列BSデジタル放送・BS-i(現・BS-TBS)でもサイマル放送が行われていた。
1978年(第20回)当時は20局以上ネットしていたが、2015年(第57回)は8局(うち、4局は途中飛び乗り)、さらに2023年(第65回)は5局(TBSと琉球放送がフルネット、北海道放送・北陸放送・大分放送が19:00から途中飛び乗り)に留まっている。
JNN(テレビ)とJRN(ラジオ)との兼営局の一部が、テレビとラジオで同時放送している。
青森放送(RAB)ではかつて『JRNナイター』を放送した曜日のみ途中飛び乗り放送していたが、現在は放送していない。
福井県ではテレビにJNN系列局が存在せず、JRN系列である福井放送がラジオだけで2022年まで放送。しかし2023年はネットを見送り、通常の土曜日の編成を行う。
西日本放送(RNC)では1997年のJRN加入後も含めてネットする事はなかったが、2005年に初めてネットした。前述のRABと同様、JRNナイターの絡みから実現したものと思われる。こちらも現在は放送していない。
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日本レコード大賞
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福井県ではテレビにJNN系列局が存在せず、JRN系列である福井放送がラジオだけで2022年まで放送。しかし2023年はネットを見送り、通常の土曜日の編成を行う。
西日本放送(RNC)では1997年のJRN加入後も含めてネットする事はなかったが、2005年に初めてネットした。前述のRABと同様、JRNナイターの絡みから実現したものと思われる。こちらも現在は放送していない。
毎日放送では1975年ネットチェンジからテレビとラジオで同時放送されて来たが、2006年以降についてはラジオが自社制作枠の確保による編成上の理由で放送されなくなった。第54回(2012年)は再びネットしたが、第55回(2013年)以降は自社制作枠の確保のため、再び放送されなくなった。
第6回では、この年(1964年)に流行した坂本九の「幸せなら手をたたこう」が、原曲がアメリカ民謡であることから選考の対象外となった。
第21回では、「第10回日本歌謡大賞」や「第8回FNS歌謡祭」でグランプリを受賞して社会現象になった西城秀樹の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が、外国人の作曲作品のカバーであったため審査対象から外され、「勇気があれば」でのノミネートとなった。
第24回では、「第13回日本歌謡大賞」の大賞や「第8回日本テレビ音楽祭」のグランプリを受賞するなど、大ヒットした岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」は、作曲者が木森敏之単独から木森とジョン・スコットの共作へと急遽変更されたため、外国人作家が製作した楽曲を対象外とする当時の日本レコード大賞の基準に該当しノミネートを見送られた。
第60回では、DA PUMP の「U.S.A.」が2018年最大のヒット曲として大賞受賞が本命視されていたが、外国人の作曲作品のカバーであったため受賞を逃し、ノミネートの意義について批判が殺到した。
2015年に審査委員を務める産経新聞は、「出来レースでは?」と題し、賞の存在意義に疑問を投げかける記事を同社のニュースサイトにて掲載した。また、大賞常任実行委員で音楽評論家の富澤一誠はインタビューに対し、「賞レースの盛り上がりが、ファンには音楽業界の利益優先の『腐敗』や『出来レース』のように映るようになり、大衆から支持を失っていった」と認めた。
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日本レコード大賞
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2015年に審査委員を務める産経新聞は、「出来レースでは?」と題し、賞の存在意義に疑問を投げかける記事を同社のニュースサイトにて掲載した。また、大賞常任実行委員で音楽評論家の富澤一誠はインタビューに対し、「賞レースの盛り上がりが、ファンには音楽業界の利益優先の『腐敗』や『出来レース』のように映るようになり、大衆から支持を失っていった」と認めた。
2015年、レンタルチェーン店を展開するTSUTAYAが自社のニュースサイトにて、“特定のレコード会社や芸能事務所が審査委員に対して何らかの働きかけを行っている”とする音楽関係者の声を報じた。この種の癒着は1970年代からあったとされるものの、審査委員の大半を新聞社とテレビ局の社員が占めるため、「報じない、報じられない」といった状態が続いてきたと、音楽評論家の麻生香太郎は指摘している。
『週刊文春』2016年11月3日号においては、前年に大賞を受賞した三代目J Soul Brothersが買収によるものであったとの記事が掲載され、「年末のプロモーション業務委託書として」と書かれた当時の消費税込み1億800万円の請求書が公開された。このことについての三代目J Soul Brothersサイドからの反応は無く、事実は不明となっている。
2017年、『週刊文春』でレコード大賞の最高責任者である制定委員長を務めた作曲家の叶弦大が、「大手芸能事務所バーニングプロダクション社長の周防郁雄がレコード大賞を私物化していること」を同誌に暴露し、やらせを認めるような発言をした。その中で、叶と周防が会食をした際に、周防が「叶さん、この業界はちょっと悪いくらいじゃないといけない」「レコード大賞は、新聞社13人の過半数、つまり7人の記者を押さえておけば、自分の獲らせたい歌手に決めることができるんだよ」と叶に対して吹聴したことも述べている。また過去に週刊新潮も、レコード大賞の審査委員である大手スポーツ紙記者・新聞記者・JNN系列局員等に対してバーニングが高価な品物や商品券を贈るなどの贈賄行為を働いており、中には受賞させたいタレントの曲や映像が入った高価なiPodが送られてきたり、銀座や六本木のクラブでの接待を受けた者までいると報じている。
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日本レコード大賞
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2019年7月にジャニーズ事務所の創業者だったジャニー喜多川の訃報が報じられた際、多くのマスコミはジャニーの美談ばかりを紹介していたのに対し、音楽プロデューサーの福田裕彦は『アサヒ芸能』の取材に対して「もう25年以上前、既に『××にレコ大よこさなければ今後お前の局にはうちのタレントは一切出さない』の一言でレコ大放送の数日前に局の決定事項をひっくり返せた人です。綺麗事で生きていた人ではない。」とレコード大賞においてジャニーも圧力をかけていたことを暴露している。
近年では大賞の発表が22時前に行われるため、13歳未満のアーティストは労働基準法および児童福祉法の都合上、20時までに会場から退出しなければならない(まれに大賞発表が23時前後の年もあり、18歳未満の者は22時までに退出することになる)。例として2019年に史上最年少で大賞を受賞したFoorinはメンバー全員が小中学生であり(当時の平均年齢は11.2歳)、発表時に不在だったため、代理の者が表彰を受けることとなった。さらに2006年から2009年までは最優秀新人賞の発表が21時を過ぎたことから(2008年は23時前に発表が行われた)、2007年の°C-uteも同じ理由で、プロデューサーのつんくが代理として表彰を受けている。
TBSでは、Xアカウントをレコード大賞の他、『音楽の日』や『日本有線大賞』と共有していたが、2017年に日本有線大賞が終了し、さらに2023年に『音楽の日』が新たにアカウントを取得したため、以降はレコード大賞単独のアカウントとなっている。
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ザイログ
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ザイログ(英: Zilog)は、米インテルの元社員がスピンアウトしてできた半導体製造会社である。有名な8ビットマイクロプロセッサZ80の開発と製造をした企業である。
1974年、インテルの社員だったフェデリコ・ファジンとラルフ・アンガーマン(後にアンガマン・バスを創業する)が退職し、アンガーマンアソシエイツを設立した。
それを聞きつけたエクソンの子会社エクソン・エンタープライズは150万ドルを投資し、アンガーマンアソシエイツの株式の51%を保有することになった。そして、新社名を "Zilog" とすることになった。Zはアルファベットの最後であり、「決定版」という意味を込めた。iはintegratedのi、logはlogicを意味した。つまり、Zilog(ザイログ)は「集積された論理回路の決定版」という意味であった。
ファジン達は、ザイログを設立すると、インテルで共に4004と8080の開発に従事した嶋正利らと共に、独自のマイクロプロセッサの開発を始めた。まもなく8080の上位互換であるZ80マイクロプロセッサ (=CPU) が完成した。1976年に発売されたZ80は、8080よりも高性能かつ扱いやすいこともありビジネスを軌道に乗せることに成功した。また、同時に周辺デバイスもラインナップに加えた。
Z80は、Intel 8080(1974年)、MC6800(1974年)、MOS 6502(1975年)、Intel 8085(1976年)と競合することになった。Z80はこれらの中では後発の部類であったが、1980年には8ビットマイクロプロセッサの中で最大のシェアを確保することになった。
やがて8ビットCPUからさらに処理性能の高い16ビットCPUの技術開発へと進み、デジタル半導体メーカーの新たな開発競争の舞台となった。16ビットCPUとしては、1978年4月にインテルからi8086が、1979年9月にモトローラからMC68000がそれぞれ出荷された。それらの中間の時期である1979年初め頃にザイログはZ8000シリーズの出荷を始めた。
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ザイログ
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やがて8ビットCPUからさらに処理性能の高い16ビットCPUの技術開発へと進み、デジタル半導体メーカーの新たな開発競争の舞台となった。16ビットCPUとしては、1978年4月にインテルからi8086が、1979年9月にモトローラからMC68000がそれぞれ出荷された。それらの中間の時期である1979年初め頃にザイログはZ8000シリーズの出荷を始めた。
しかし、モトローラMC68000は、命令体系全体を再設計し直したためMC6800やMC6809と互換性がなかった。同様にザイログZ8000も命令体系全体を再設計し直したためZ80と互換性がなかった。両社は過去の互換性を捨てて命令体系を綺麗にした。しかし、それが裏目に出て、モトローラとザイログの16ビットCPUの市場への普及は限定的だった。
それに対してインテルの16ビットCPUのi8086は、8ビットCPUである8080の命令コードをアセンブラレベルではそのまま実行できるように設計されていた(バイナリ互換性はなかった)。その代償として、16ビットCPUであるi8086の命令体系は、8ビット世代の8080の上にセグメント方式という方法で「屋上屋を架した」ことによってコンピュータアーキテクチャ的に不細工なものとなった。一般的にセグメント方式そのものは悪いものではない。Z8000にもセグメントはあった。しかし、i8086のセグメント方式は、セグメントレジスタを4ビット左シフトした値を従来のアドレスに加算したものを実アドレスとするという変わったものであった。マイクロソフトの技術者は、i8086のセグメント方式を「コンピューティング市場でもっとも愚かな決定」とみなしていた。ところが、結果としてインテルはこの不細工な設計によって、ビジネス的に大成功を収めた。
Z8000はi8086との競争に敗れ、それほど普及しなかった。しかしながらZ8000ファミリーのシリアル通信コントローラー Zilog SCC (Z8530) は、AppleのMacintoshやシャープのX68000でも採用された。それ以外にも各社のマイクロプロセッサと直結できる高性能な周辺デバイスをシリーズ化。これらは一時期のザイログを支える製品に成長した。
Z8000の失敗によって、ザイログは、マイクロプロセッサの開発で迷走するようになった。
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ザイログ
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Z8000の失敗によって、ザイログは、マイクロプロセッサの開発で迷走するようになった。
1985年にZ80を16ビット化したZ800を発売した。しかし、当時の組み込みシステム用途には複雑かつ過剰性能であった。
1986年にZ8000を32ビット化したZ80000を出荷したが、商業的に失敗したZ8000の互換性は売りにならなかった。Z8000と同様にZ80との互換性はなかった。しかもモトローラは1984年に32ビットのMC68020をすでに発売しており、インテルも1985年に32ビットのIntel 80386をすでに発売していた。このような状況では、Z80000の需要はなく極少数の出荷に終わった。
結局、ザイログは、日立製作所HD64180Zのセカンドソースとしてザイログが発売したZ64180を改良した8ビットマイクロプロセッサZ180を1986年に発売することになった。
1987年にZ800をCMOS化したZ280を発売した。しかし、売れなかったZ800をCMOSにしても売れることはなかった。
1994年にZ380というZ80を32ビットに拡張したCPUを発売した。メモリ保護やキャッシュメモリもなく、組み込みシステム用途を意識したものと思われる。これも普及は限定的であった。
以上のようにザイログは、商業的に恵まれず、1998年にテキサス・パシフィック・グループに買収された。
2001年にZ80互換の後継CPUであるeZ80を発売した。eZ80はZ80と同様に8ビットCPUではあったが、Z80とのバイナリ互換性と維持しながらメモリ空間を16MBまで拡張し、3ステージパイプラインと最大50MHzのクロック周波数によってZ80を大幅に強化することに成功した。eZ80は後に商業的成功を収めることになる。
ところが、ザイログは、2002年初旬に連邦倒産法第11章の適用を受けた。その後、再建の努力が続いたものの業績は回復せず、テキサス・パシフィック・グループは、ザイログを手放すこととなった。
ザイログは、2010年2月18日に米国カリフォルニア州に本社を持つIXYS Corporationに買収された。
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ザイログ
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ところが、ザイログは、2002年初旬に連邦倒産法第11章の適用を受けた。その後、再建の努力が続いたものの業績は回復せず、テキサス・パシフィック・グループは、ザイログを手放すこととなった。
ザイログは、2010年2月18日に米国カリフォルニア州に本社を持つIXYS Corporationに買収された。
2011年1月、IXYSの一部となったザイログは、モータ制御用MCUとして「Z16FMC」シリーズを発表した。この新製品は、多相AC/DCモータ制御に適した16ビットマイクロコントローラとされる。
2015年にグラフ電卓TI-84 Plus CEが発売された。グラフ電卓として独占的地位を占めるTI-84 Plus シリーズの最新機種であり、CPUとして前述のeZ80を搭載している。これによってeZ80は大量に使用されることとなった。
2017年8月、リテルヒューズは、現金と株式を合わせて7億5000万US$と引き換えにIXYS Corporationを買収することを発表した。
2018年1月、リテルヒューズによるIXYSの買収が完了し、IXYSはリテルヒューズの子会社となった。 その結果、ザイログはリテルヒューズの傘下に入ることになった。
1977年、半導体商社の日本テクセル(現在の三井物産エレクトロニクス)が代理店となり、Z80やZ8000シリーズの販売、マーケティングを行った。その後、ザイログジャパンが設立された。現在の代理店は、インターニックス、三井物産エレクトロニクス、ユニダックスほか。
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MC6809
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MC6809は、モトローラが1979年に発売した、8ビットのマイクロプロセッサ。対称性の高い命令体系を持っている点が特徴である。
MC6809は、レジスタには8ビット幅のアキュムレータを2つ(A,B。一部の命令では2つを連結して16ビット幅のアキュムレータ(D)として使用できる)、16ビットのインデックスレジスタを2つ(X,Y)、および16ビットのスタックポインタを2つ持つ(U,S)。インデックスアドレッシングモードにおいては、スタックポインタもインデックスレジスタとして指定できる。
前身となるMC6800とは、アセンブリ言語のソースコードの範囲でニーモニックの互換性は保たれていた。MC6800用アセンブラプログラムからMC6809用バイナリコードを出力するアセンブラでは、自動的に等価な命令に変換する。しかし、バイナリコードでは互換性がない。また、ピン配列に互換性はない。命令数は6800の78に対して6809は59であるが、等価な命令によってカバーできる。
8ビットCPUとしてはライバルとなるZ80よりも後発のアーキテクチャであるが、それゆえによく練られた直交性の高い命令体系が特徴である。高級言語を意識した豊富なアドレッシングモードや乗算命令を持つ、シンプルかつ高性能なプロセッサである。CPU単体でもOS-9によってプリエンプティブなマルチタスクを実現し、またオプションのMMUであるMC6829 MMUを追加することでメモリ空間を最大2MBに拡張すると共にメモリ/プロセス保護も実現可能である。この機能はOS-9 Level2でサポートされる。
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MC6809
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動作クロックは80系CPU(8080、Z80)と比較して低いが、二相クロックの利用により1クロックでメモリアクセスが可能である。また、命令の実行に必要なクロック数は、単純に6800と比べると多くなっているが、実際の命令実行では従来複数の命令を要した処理を1命令でこなせるようになり、実行クロック数は実質的に減らせる。例えば「Xレジスタで示されるメモリからAレジスタに値をロードし、その後Xレジスタをインクリメント」する処理をMC6800では、ロード命令とインクリメント命令の2命令で行っていたのに対し、MC6809ではオートインクリメント付きインデックスドアドレッシングのロード命令という1つの命令で実行可能である。 また、MC6800ではレジスタの少なさをカバーするダイレクトページアドレッシングモードを持ち、0~255番地のメモリへのアクセスを高速に行う事が出来たが、MC6809ではその機能を継承したうえで、DPレジスタを追加し、高速にアクセスできる256バイトの領域を変更することが可能である。これらの特徴により、MC6800に対し最高5倍の処理能力を持ち、当時の8ビットCPUの中では最も高速である。
MC6809は、PC相対アドレッシングモードや、64KBの全アドレス空間をカバーする相対ジャンプ命令を利用して、位置独立なプログラムを作製する事が容易である。また、スタックポインタを使ったアドレッシングモードも充実しており、ローカル変数をスタック上に確保する事で、再入可能(リエントラント)なコードの記述を容易に行える。位置独立で再入可能なプロシージャを作成すると、そのバイナリ実行形式コードをメモリ空間の空いた領域に置くことで、リンカやローダによる書き換え処理を行う事無く直ちに利用可能になる。組み込みシステムの開発において、この特徴は利便性を発揮した。MC6809の特徴を生かしたオペレーティングシステムであるOS-9を設計するにあたって、コードは位置独立で、再入可能であることが要求された。
このような背景から、登場当時の月刊アスキー誌上では「究極の8ビットCPU」と紹介された。
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MC6809
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このような背景から、登場当時の月刊アスキー誌上では「究極の8ビットCPU」と紹介された。
MC6809には、クロック周波数が1MHzの6809、1.5MHzの68A09、2MHzの68B09があり、それぞれにクロックジェネレータを内蔵した版と、外部からクロックを入力する版があり、計6つのバリエーションが存在することになる。クロックジェネレータの種類は型番の末尾で区別し。アルファベットの無い型番(例 MC6809)はクロックの4倍の周波数の水晶発振子を接続し、内蔵したジェネレータで1/4に分周して使用する。末尾にアルファベットEのある型番(例 MC6809E)は、外部で生成した2相クロックを入力する。
モトローラから発売されたオリジナル品に加え、セカンドソース品が存在する。日本では主に日立製作所と富士通によるものが流通した。
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MC6809
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モトローラから発売されたオリジナル品に加え、セカンドソース品が存在する。日本では主に日立製作所と富士通によるものが流通した。
日立によるセカンドソース品では、オリジナルと完全互換のHD6809と、CMOS構造のHD6309がある。HD6309はクロック周波数2MHzのHD63B09と3MHzのHD63C09がある。これらの製品はそれぞれに外部クロック版(末尾にEが付く)がある)が提供された。HD6309は単にクロックを高速化しただけではなく、レジスタや命令の追加が行われた。通常は割り込み時のスタック退避や命令実行のクロック数を含めMC6809互換だが、俗にネイティブモードに移行することで新設レジスタも割り込み時の退避対象になり、また命令実行に要するクロック数が減少して動作が約30%高速になる。ただしMC6809の未定義命令はよく使われたものでもサポートされず新設の命令コードが割り当てられたため、そのような命令を使ったプログラムは動作が異なった。発売当初のユーザーズマニュアルにこのネイティブモードと追加命令などの記述があったが、セカンドソース品はオリジナル品と完全互換である事を要求するモトローラからライセンス違反とのクレームがつき、版を重ねたユーザーズマニュアルからは記述が削除され、公式には封印されてしまった。しかし後年、CPU換装されたFM-11にてMC6809未定義命令を使ったソフトの不具合から新設レジスタの存在が発覚、熱心なユーザの手により資料の作成が行われた。未定義コードの動作が違うためCPU換装には注意が必要だが、OS-9/6809においては、ユーザーの手によりOS自身のHD6309ネイティブモード対応(通称osn)やアプリケーションの6309化が行われた。
日本国内で流通したパソコンでは富士通のFM-8、FM-7シリーズ、FM-77シリーズ、FM-11シリーズと日立のベーシックマスターシリーズのベーシックマスターレベル3とMB-S1シリーズが6809を搭載した。
アーケードゲーム業界では1980年代を通じて積極的に採用された。ナムコの「ドルアーガの塔」、コナミの「ハイパーオリンピック」、カプコンの「魔界村」などのヒット作品が6809を用いた。源平討魔伝では6809が2つ使用されており高レベルな表現を可能にしていた。コナミでは6309の搭載実績もある。
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MC6809
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アーケードゲーム業界では1980年代を通じて積極的に採用された。ナムコの「ドルアーガの塔」、コナミの「ハイパーオリンピック」、カプコンの「魔界村」などのヒット作品が6809を用いた。源平討魔伝では6809が2つ使用されており高レベルな表現を可能にしていた。コナミでは6309の搭載実績もある。
天体望遠鏡の業界では、ビクセンより1984年9月に発売したアマチュア向け自動導入装置の量産として世界初となる「スカイセンサー」に6809が搭載された。
アメリカ合衆国で流通したパソコンではタンディ・コーポレーションが発売したTandy TRS-80 Color Computer(英語版、ドイツ語版、フランス語版、スペイン語版)に6809Eが搭載された。
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Intel 8080
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Intel 8080(インテル 8080、i8080)は、インテルによって開発された8ビットマイクロプロセッサであり、1974年4月に発表された。同社の8008の後継に当たるが命令の互換性はない。8080の命令は、後に拡張され、ザイログのZ80や日立製作所の64180に継承された。初期のパーソナルコンピュータの多くに採用され、モトローラの6800やモステクノロジーの6502(Apple、コモドール、ファミコン、他)と覇を競った。
i8080のロジック設計の中心となったのはビジコン退社後、リコーを経てインテルに入社した嶋正利だった。開発者の特権として彼はフォトマスク余白に嶋家の家紋である引両紋(丸に三つ引)を刻んだ。
8080は、アキュムレータ1つを含む、7つの汎用レジスタ(8ビット)を持つ。これはたとえば6800と比べて本数としては多い。また、二つの8ビットレジスタを併せて、BC、DE、HLの3つの16ビットレジスタとして扱う命令もある。
(注)命令中ではHLレジスタペアをポインタとして扱うメモリ参照は「M」と表現される: 例 ADD M
以下に命令一覧を示す。
8080はグラウンドが十分に取られていないという物理設計上のミスにより、大電流が流れるTTLデバイスと使用するには問題があったため、TTL-LS用として発売された。後にグラウンド線の幅を太くして標準TTLに対応させたものが8080Aとして発売された。
これには逸話がある。8080の開発者の一人であった嶋正利は、8080のレイアウトを完成させた後、休暇を取って一時的に日本へ帰国。嶋は休暇明けに8080の特性評価を行う予定だった。しかし、嶋がインテルに戻った頃には既に営業部の判断で8080が4万個製造されていた。そのため、8080はTTL-LS用としてしばらくの間販売されるに至った。
NEC製のセカンドソース品 (μPD8080A) は減算時における10進補正フラグの扱いがオリジナルとは違っており、ここを全く同じにしたもの (μPD8080AF) が追加販売されている。TK-80には前者が、TK-80Eには後者が採用された。
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Intel 8080
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NEC製のセカンドソース品 (μPD8080A) は減算時における10進補正フラグの扱いがオリジナルとは違っており、ここを全く同じにしたもの (μPD8080AF) が追加販売されている。TK-80には前者が、TK-80Eには後者が採用された。
任天堂のゲームボーイに組み込まれたカスタムプロセッサLR35902 は、このプロセッサに対して近似した仕様を持っている。このプロセッサはカスタムZ80とも表記されるが、Z80で拡張された裏レジスタや、処理に時間のかかるインデックスレジスタなどの命令が削除されているため、命令セットとしてはi8080に近い仕様となっている。但し、一部の仕様はZ80を引き継いでいるほか、供給元であるシャープはZ80のセカンドソースではあるため、Z80の亜種と捉えることもできる。
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カセットビジョン
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カセットビジョンは、エポック社が1981年7月30日に発売したカセット式の家庭用ゲーム機。
1983年9月時点では日本で流通していた家庭用ゲーム機の中でトップの販売台数である40万台から45万台を売り上げた。
なお本項では廉価版であるカセットビジョンJr.についても述べる。
1975年からエポック社はゲームが本体に内蔵されたゲーム機を販売していた。1979年に発売したテレビ野球ゲームはそれまでハードウェアの回路でゲームを実現していたのに対してマイコン(CPU)を採用して、プログラムによって効率的にゲームを開発可能になった。そこで1978年発売のシステム10の後継機として開発に取りかかっていたスーパー10は完成しつつあったが開発が破棄されて、カセット式のゲーム機の開発に切り替えられる。それがカセットビジョンである。設計はNECが担当した。同じマイコンを使うのなら、周辺回路は同一であり、それなら本体は共通化してゲームはカセットで供給する方が低コスト・低価格化に繋がるという発想で、堀江正幸ら3人の担当者によって開発された。
本機は本体に周辺回路と電源と操作部を搭載し、カートリッジにテレビゲーム用LSI自体を1チップにした1チップマイコンを内蔵し、カートリッジを交換することで違ったゲームを楽しめるというシステムである。本体にCPUが搭載され、ゲームソフトのプログラムとデータはロムカセットに内蔵されたROMで供給するタイプの後年のカセット交換式ゲーム機とは異なる構造となっている。これはCPUとROMを分離しCPUと外部のROMとをバスで接続すると、ノイズが乗ったり誤動作の原因になるという技術的な理由でできなかったためである。後年のゲーム機の主流となったCPUとメモリのROMとRAMを分離して、本体にはCPUとメインRAMを、カートリッジ側にROMを搭載する方式と比べると、本体を安くできる、動作が安定する、それまでに発売したゲームを本体に内蔵したゲーム機の移植が容易にできるなどの長所を持つ。当時の技術ではCPUとは別にROMを置く方がコストが掛かっていた。
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Subsets and Splits
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